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一、

 赤坂弁護士クラブも妙に閑散とする日がある。そんな日は学生達まで出払って、留守番のボーイ役たちは

 人数が少ないから忙しくなる。

 赤坂弁護士クラブは赤坂の裏通りにある。弁護士たちが会費を出し合っている私的で旧式なクラブである。
 受付係り、バーテンダー、ボーイ、ウエイトレス、ポーターから電話番、掃除夫役までやってのけるのは法律学生
 たちだ。ただしクラブの図書室や控え室を研究室にして仲間で勉強をする。当番以外は休むのは自由で、
 灰色の受験時代を皆が楽しんでやっている。
 弁護士たちも毎日顔を出すわけではないが、ほとんど毎日現れるのは近くに事務所があり、歩いて来る
 梅田老弁護士である。
「お、まだ誰も来ていないか」
 と、言いながら今日も定位置のソファに座る。
「今日は千恵ちゃんも緑山君もお休みですよ」
 いつもは他のテーブルへ付くことが多い女子学生の夏島絹子が、ウイスキーのボトルを運ぶ。
 梅田弁護士の好みは知っているから紅茶を運び、濃いウイスキー紅茶のホットを作る。
「まだ六時か。でも、すっかり暮れたな」
「この頃は五時には暗くなるわ」
 梅田弁護士は夏島絹子を相手に喋りながらウイスキー紅茶を口にする。
「や、だれか来たな」
 次に姿を見せたのは白井弁護士だ。ポーター係りの吉田学生が案内をする。
 狭いクラブで、しかも知った仲であるから案内の必要は無いのだが、それでも頑固にしきたりを守るのが
 赤坂弁護士クラブの旧弊なところだ。
「あ、先生は水割りでしたね」
 と、気の聞く夏島絹子は白井弁護士のためにカウンターから水割り用の氷を取って戻る。
「オヤ、絹ちゃん、見る度に美人になるね」
「嘘よ。受験生をからかうもんじゃありません」言いながら夏島絹子は赤くなる。
「今日はすこし淋しいな。学生諸君も少ないね」
「千恵ちゃんも欠席よ」
「うん。石野君も来ていないからなぁ。二人でデートかも知れんぞ」と言ったのは梅田弁護士だ。
「エーッ、まさかぁ」と夏島絹子が目を光らしたとき、ノコノコと入り口へ姿を現したのは当の石野弁護士だ。一同どっと笑う。
「なんだ。ぼくのことか」
 アッハッハだ。こうして赤坂弁護士クラブは閑散な日とはいえ、少しはメンバーが集まる。遅れて来る学生もいる。大学の講義を終えて駆けつけるのや、遊び帰りも無論いる。
「なにか面白そうだな」と何も知らない石野弁護士がテーブルに付く。夏島絹子が心得て、カウンターからいつものジンを運んで注ぐ。ジンストレートが石野弁護士の好みだ。白井弁護士はウイスキーの水割りだ。
「今日は釜鞍君も来ると言ってたよ。さっき法廷で会った」と石野弁護士が言う。
「ほう。久しぶりだな」
「あ、来た来た」
 噂を追いかけて来たのはその釜鞍弁護士だ。
「ああ、今日は疲れたわい。絹ちゃん。ロックで飲むぜ」
「ジン・ロックはどうだい」
「いや、ウイスキーがええ。氷を先に入れてよけい呉れ。ウイスキーは後からや」
 と、釜鞍弁護士はこんな調子だ。
 こうしていつの間にかメンバーが揃う。ひとしきりの談笑の切れ目に、
「そうそう、今日は釜鞍先生、お話が聞けるんでしたわね」
 と、言ったのは夏島絹子だ。
「え、そんなことはないぜ。そんな予定は無いよ」
「この前、向こうのテーブルで石倉先生に約束してらしたじゃありませんか」
「ありゃぁ、石倉先生との約束や」
 と、釜鞍弁護士はグラスに手を出す。
「いや、そうはいかんぞ」
 と、話に割り込んで身を乗り出したのは梅田弁護士だ。
「赤坂弁護士クラブで話の約束をしたら、その約束は会員全員との約束だぜ。石倉君がいるとか、いないは関係無い
 のが不文律だ」
「そうだ、そうだ」
 と、一同が同調する。釜鞍弁護士もニヤニヤする。落合学生と吉田学生が寄って来た。
「あ、曽我野先生だ」
 と、吉田学生が声を出す。入り口に元検事の女丈夫、曽我野弁護士が姿を見せた。
 これなら釜鞍弁護士も聞き手に不足はない情勢だ。
「あら、なになに?」
 と、曽我野弁護士はさっそく気配を嗅ぎ付けた。
「待っててよ。あたしゃ、自分でカクテルを作るんだからね」
 と、曽我野弁護士は毎回のとおりカウンターへ行き、バーテンダー役の木村学生を押退けてガチャガチャやる。
「さて、いいわよ」
 と、言いながらピンクレディのグラスを持って帰った曽我野女史に、
「なんで、いつでも先生が、そんな可愛いものを飲むのかなぁ」
 と、言ったのは石野弁護士だ。
「あたしゃ、これしか作り方を知らないんだよ」
 と、憤然としながら曽我野弁護士はちょっと赤くなる。
  またアッハッハだ。しだいに夜の雰囲気が出来てくる。
「いいから、釜鞍先生の話よ」
 と、夏島絹子が女史に助け船を出す。これが赤坂弁護士クラブの弁護士と学生との呼吸だ。
「仕様がないなぁ」
 と、渋る振りをした釜鞍弁護士はウイスキーをグイと空けた。
 このクラブのグラスはバカラを使っているからキラキラと綺麗だ。赤坂弁護士クラブもこの程度の贅沢はあるのだ。
 
 釜鞍弁護士の事務所は銀座にある。しかし主人の気風が気風だからグッと下町界隈の依頼者も多い。
 今回はかねて知り合いの木場の社長からの紹介で、新しい依頼者が来た、と言うのが釜鞍弁護士の話の発端だ。
 
「わしゃ、だいたい洒落もんやけの。依頼者も洒落者が多いわ」
 と、釜鞍弁護士が言う。夏島絹子が急に後ろ向きになる。笑っているのに違いない。
「あら、釜鞍先生は洒落者よ。うーん。でも若い人には分からないかな。お金と銀座で磨いたラフさよ」
 と、弁護したのは曽我野弁護士だ。
「分かってます。分かってますけど、それを先生が言うとおかしいんだもん」
 と夏島絹子はヒーヒー笑う。
「しょうがないわね。それで? 釜鞍先生」
 と、曽我野弁護士は話を戻す。
「うん」
 釜鞍弁護士は洒脱だから夏島絹子の笑いなど気にする風はない。
「ところが、この時の依頼者には負けたよ」
「そんな凄いお洒落が来たんですか。男ですか」
「うん。男や」
「どんなお洒落です?」
「最上等の背広を着て、それが品のいいグレーとグリーンのチェックや。手入れが行き届いて塵ひとつない。
 靴はピカピカ光ってる。ロバート・テイラーみたいな口髭を生やしてなぁ。
 絹ちゃん、ロバート・テイラーを知っとるかい?」
「ロバート・テイラー?」
 横から曽我野弁護士がコメントする。
「ほら、哀愁って映画の。ビビアン・リーと、軍服着てロンドンブリッジで会うでしょう」
「ウォタールーブリッジでしょう」
 と、訂正したのは白井弁護士だ。
「ああ、あの髭。ハハハ」
 と、笑いが止まらない夏島絹子は、なおおかしがる。
「まあ、たしかに口髭は下手をすると滑稽だわなぁ。じゃけんど、この男のはマシじゃったぜ。ときに諸君、
 あの髭の立て方を知ってるかい」
「さあ、特には知りませんなぁ。どうするんです」
 男達には例外なく口髭に対する潜在的な願望がある。石野弁護士も疑わしげな顔ながら身を乗り出す。
「あれはな、斜めに見えるけぇど、斜め下がりに剃ったらダメや」
「へえ」
「鼻の下を水平に剃る。真ん中の縦を僅か残して、青剃りを両側へ直角、水平に剃る。ずっと下まで剃る。
 剃り下げるほど粋になるんや。下側は刈るだけで絶対に剃らんが両端だけは剃ってもええ。
 そうすると片仮名のルが両方で跳ねる形になる。それでも顔を振ると髭は斜め下がりに見えるんや」
「その依頼者はどうでした?」
「立派なもんやった。ずっと下まで剃り下げてな。見せたいぐらいや。
 髭の似合う色の白い優男でハンカチはネクタイと揃いのを胸に出して、髪はぴったり撫で付けて金縁眼鏡を
 掛けとる。朝早く散髪屋へ行って、さっき風呂から上がったみたいな男やったわ。
 まあ、油壷から出たような男やな。さすがの儂も負けたわ」
 と、釜鞍弁護士は浄瑠璃の文句を使ったが、夏島絹子はキーキー笑う。
「ところが少々奇妙なことがある」
「なんですか」
「その後もたびたび来たけれど、いつも昼飯時に来る。わしは遅く食うから構わんけどな」
「その時間が空けて来やすいんでしょう」
「それも食い始めの時間に来る。そいで、秘書の山田花子の弁当を覗くんや」
「いやーだ」といったのは夏島絹子だ。
「初めての日も覗いて、どうしたと思う」
「えー。わからない」
「唸ったんや」
 
 とはいえ実害があったわけではない。紳士はきちんと挨拶をして名乗って名刺を出した。ただし肩書きは無い。
「ははあ。坂田小十郎。役者みたいな、ええ名ですな。紹介は受けてます。ご相談の筋はなんですね」
 坂田小十郎は示された椅子へ腰を下ろすと真面目な顔で相談の話に入った。
 自分はある資産家の管理人をしていて、心配なことも多いので心得を教わりたいと言う。
 資産家と言っても先祖代々の資産が莫大なのであって、今の資産家本人は実業家でもなんでもなく、
 哲学者で大学の教授であり、財産管理など無関心な人物だという。
 坂田小十郎はその資産の管理一切を任されていたのであった。
「それが最近、主人が妙に管理に口を入れるようになって、何となく仕事が仕辛くなりまして」
「ははぁ、哲学者の癖にね。その資産家のお名前は」
「はい。根津山隣道と申しまして、先祖は家康公のお供で関東へ来た町人で」
「住まいはどこやね」
「はい。だから根津でございます。池之端に近い方で。古い西洋建築が残っておりまして、そこが住まいでもあり、
 一切の本拠でございます」
「財産というのは」
「はい。家作と貸し地がかなりありますが、これはあまり手が掛からない方で」
「家作に手が掛からんなら、何に手が掛かるんかいな」
「はあ、先代が、この方は商売人で大したやり手で、わたくしも色々と教わりましたが早く亡くなりました。
 南無阿弥陀仏。で、その先代が残された古い有限会社がありまして」
「事業内容は」
「国内の小さい取引でございます。申せば商事会社で」
「なんの取引だね」
「それが」
 と、紳士は実に嬉しそうな顔をした
「魚の干物の取引で」
 
 赤坂弁護士クラブも今日はひどく人数が少ない。人が集まったテーブルは梅田弁護士を中心の、これ一つだ。 
 しぜん学生たちも集まるから釜鞍弁護士の話も熱が入る。
「で、そのお洒落紳士の相談の具体的な内容は何ですか」
 と、白井弁護士だ。
「うん。要するに近ごろ時々主人が何も知らん癖に無理な指示をするらしいが、そう言うたときの代理人の責任に
 ついてや」
「つまり坂田小十郎は番頭というわけですな。ただの代理人ですか。会社の専務かなにかに、なっていないんですか」
「なっておらんのや。あくまでなんの地位の無い、ただの代理人の名目で使われておるちゅうんや。そうや、夏島君。
 有限会社にゃ何人の取締役が必要かね」
 と釜鞍弁護士は突然の質問をした。
 学生が質問を受けるのは赤坂弁護士クラブのルールだから仕方がないが、当てられた夏島絹子は狼狽した。
「はい。有限会社は簡略ですから、必要なのは最低一人です」
「代表取締役は」
「有限会社は要りません。えー、訂正します。取締役が二人以上のときのみ、代表取締役が必要です」
「じゃ、取締役が一人のときは、代表者なしかね」
「いえ、取締役が代表者です」
「そうやのぅ。こん時ゃ、代表者・代表取締役、や無ぅて、代表者・取締役、となる。よう覚えちょるの」
「はい」
 と、夏島絹子は放免されて赤くなる。
「この会社は主人一人が取締役で代表者。坂田小十郎は従業員でもない。法的には単なる主人の個人的代理人や。
 無理な指示に対してどうすりゃええか、ちゅう相談や」
「なるほど、代理人の責任か。落合君どうかね」と口を入れたのは白井弁護士だ。落合学生はしっかりしている。
 いちばん試験に受かりそうな力がある。
「無権代理人の責任ですか」
「いや、今の話だから、指示されて不正行為を代理でしたときのことさ」
「不法行為に荷担したことになります。共同不法行為です。代理人も責任を免れません」
 と、落合学生の応答は難しい話となる。
「まあ、ええわ」
 と、話を強引に打ち切ったのは物語の主の釜鞍弁護士だ。
「話にゃぁ先があるんじゃ」
 
 不正行為でなくても、干物の取引の際もっと見本を多く取り寄せろ、それを自分が味わって見る、などと言う奇態な
 ものがあると言う。
「それがそうは行かぬのですよ」
 と、坂田小十郎はハンカチで髭を拭いた。
「だいたい当家の商売はどれも古くからのもので、干物の取引も有限会社になる以前、いえ、それどころか旧幕時代
 からのもので、その頃お寺には禁制の、生臭干物を密かに納めていた当時からの商売で、取引先も納め先も、
 固いも固い、古くからの切っても切れない相手ばかりで、その代わり品物はそこらで手に入らぬ極上品ばかりです。
 見本なんて季節の変わり目に少々あるばかりのもので」
「ふーん。なんでご主人は急にそんなことを言い出したのかね」
「わたくしにも不思議なことですよ。嫌われる無理を言えば、見本を多く取れぬこともありませんがね。
 ところで伺いますが、もし代理人がそれをやって自分が食べたら何か罪になるでしょうか」
 と、坂田小十郎は心配そうにジッと釜鞍弁護士を見た。
 
「エーッ、釜鞍先生、それ本当の話ですかぁ」
 と、言ったのは夏島絹子だ。梅田弁護士はにやにやしてウイスキー紅茶を飲む。
「もちろん本当の話やぞ。嘘だと思うんかい。まだ先があるんや。わしも質問があんまり下らんさかい答えんかったら、〈やっぱり〉と一人で青うなってな、〈では、季節物のキャンセル品が出て返品が出来んで処分するのを代理人が食べたら何か罪になりましょうか〉と、やっぱり心配そうに聞きよるんじゃ」
「へえ、どう答えましたか」
 と、面白そうに聞いたのは白井弁護士だ。
「お主、そりゃいけんぞや、横領になるぞ、ちゅうちゃった」
「そしたら」
「そしたら、今度は、〈品違いで返品の際、目減り名目で中身を少し食べたらどうでございましょう〉ちゅうさかい、
 そりゃ業務上横領で前の横領と重なったら、法律には罪数論ちぅうのがあって罪が重うなって、無期懲役になるかも
 知れんぞや、言うちゃった」
「そりゃ先生、出鱈目過ぎやしませんか」
 と、出鱈目が嫌いでもない癖に白井弁護士が言う。
「そりゃ、そん時の調子やよ」
「ははは。学生諸君は用心して聞けよ」
「で、どうなりました」
 と、皆が口ぐちに聞く。もはや赤坂弁護士クラブは気楽な酒席の雰囲気だ。
「そしたら、また青うなりよって〈損料の負担は誰になりましょうか〉と聞きよった」
「先生、いい加減にしてよ。そんな話あるはず無いわ」と夏島絹子が言う「わたしら、からかわれてるんだわ」
「からかう? そんな人の悪い事はせんぜよ」
「絹ちゃん、いいから聞こうよ」
 と、牽制したのは白井弁護士だ。
「その先があるらしいから」
 と、この弁護士は好奇心が強い。
 
 こうした話で坂田小十郎の相談は始まったが事件らしいものも一つあった。
「主人の指示に逆らって、こっそり取引をして儲かってしまったら、何か罪になりましょうか」
「儲かった金をポケットへ入れたんかい」
「飛んでもない。会社の銀行口座にチャンと入っておりますよ。主人が気がつかないだけで」
「そんなら何の罪にもならんぜよ」
「でも主人に指示された任務に背きましたんで。背任になりませんか」
「何か利益を図って損を掛けりゃ背任罪が成立する。いったい何をしたんや」
「干し肉の取引で」
「干し肉? 主人の指示に背いたと言うのは何や」
「それが干し肉の取引は主人に禁止されましたんで。うちは家康公の御代以来、先祖代々、魚の干物しか
 扱ったことは無いという理由です。主人がこの頃うるさいんで、うっかり指示を仰いだのが失敗で」
「家康公の頃に干し肉があったかどうか知らんけどな。しかし禁止されたものを何でやったんかい。
 不正コミッションでも貰うたんかい」
 と、追求すると坂田小十郎は青くなった。
「それが、実は、の話で」
 と、急に声を落とし
「実は、卸す先へ渡すはずの見本の干し肉を食べてしまったんで。それで取引をしなきゃならなくなりまして」
 と、答えたから釜鞍弁護士も呆れた。
 
「ねえ、釜鞍先生の話を聞くの、もう止めましょうよ。出鱈目よ。下らないわ」
 と、憤慨したのは夏島絹子だ。アッハッハ、と一同が笑ったのは気持ちの半分は同感したからに違いない。
「いいじゃないか。聞こうよ」
 と、主張するのは白井弁護士だ。
「そうだ。釜鞍君のこんな話はめったに聞けないから、聞こう」
 と、石野弁護士も面白半分に同調する。曽我野弁護士はパチパチと拍手する。
「なにを言うかい。わしの話は全部ほんまや」
 と、釜鞍弁護士は本気になる。
「分かった、分かった」
 と、梅田弁護士が裁定した。それで決まって話は続く。夏島絹子は向こうへ行ってしまえばいいのに、
 一番ねばって目を光らせて聞く。
 
「なんで、そう干物の見本を食いたがるんや」
 と、尋ねると坂田小十郎は、
「いえ、少し食べて見るのは仕事の内で」
 と、至極もっともなことを言う。
「そんなら少しで止めりゃぁ良かろうに」
「でも先生、一度食べ出すと止まらないのが、わたくしの悪い癖なんで。それにヘヘヘ、極上品のしかも見本とくると
 特別の物なんで。ただの干物と思うのはオックステールの髄の炙り肉と、そこらのビフテキとを較べるようなもので」
「ふん。まぁ問題が見本を喰うぐらいなら法律的に大したことはないぞよ」
「いえ、先生。問題はまだあるんですよ」
 と、坂田小十郎は言った。
「干し肉の評判が良すぎましてね、納め先の注文が続いて断り切れなくなりまして、仕方がないので続けて商売を
 やりましたんで」
「主人に内緒でかい」
「へえ」
「また儲かったんかい」
「大変な儲けで」
「その金はどうした」
「ちゃんと会社の口座に入れてございますよ。金が増えたのが主人にバレたら大変で。その胡麻化し方がご相談で」
「使い込んだらよかろう」
「飛んでもないことで」
「ふーん。おまんも変わっとるの。禁止されたんなら会社を通さんで自分で商売したら良かったろうに。
 まあ競業禁止ゆうて、あんまりええことやないけどな。金は自分の物になるぞよ」
「へへへ。金なんぞ儲けませんでも、お手当は十分頂いておりますんで」
「ふん。そりゃまぁ、お主の格好を見りゃぁ分かるわい。えらい、ええ服を着てるなぁ。イギリス製かい」
「いえ、もっと貴重な物で」
「ふん。それに身の手入れも細こぅ行き届いてるのぅ」
「へへへ。メティキュラスと言うのが、わたしの信条で」
「お主、えらく難しい英語を知ってるな」
「川の流れを、見て暮らす、見て暮らす。と言うのもここから来た、と主人に教わりましたが。なにしろ哲学者だもので」
「まあええわい。それで金はあんまり要らんのかい」
「先生。金なんか余ってどうなります。世の中にはもっと大切なものがございますよ」
「そりゃそうや。おまん一番大切なものは何やいな」
「へえ。極上の見本を食べることで」と坂田小十郎は言った。
「ねえ。やっぱり聞くのを止めましょうよ」と夏島絹子はまた言った「ばかばかしいじゃない」
「いや」と言ったのは梅田老だ「ぼくは聞こう。絹ちゃんは休んでいいよ」
「いやですよ。皆が聞くのなら、あたしも聞きますわよ」
 アッハッハである。
「それでな」と釜鞍弁護士は勢い付く。
 しだいに夜はふけるが他の会員はまだ一人も来ない。
 学生達は手持ち無沙汰で全員が近くで釜鞍弁護士の話を聞いている。
 曽我野弁護士だけがカウンターへ行って自分のカクテルを作るが、それでも聞き耳を立てる。
「業務命令違反で利益が発生したときの対処方法、および違反者の責任回避手段、ちゅう問題やな。
 主人をうまく納得させてくれたら有り難いちゅう。主人には業務一般について弁護士に相談することは
 了解を得てあるさかい、それに乗じて胡麻化してくれと頼みよる」
「なんだか失礼な依頼ですねぇ」
「まあ困惑しての頼みや。それに紹介者の手前もあるし根津まで行くことにした」
 と、釜鞍弁護士は続ける。

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