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一、

 夕方ともなると赤坂は賑やかになる。
 近ごろ不景気とはいえ、一つ木通り、乃木坂通り、あの界隈は華やかな人通りだ。
 だが赤坂もちょっと裏へ入ると明治、大正時代の面影さえ湛えた一帯があったりする。
「赤坂もこの辺は落ち着いていいねえ。こう言う良さをタイムオーナード、と言うんだぜ」
 と、主張するのは赤坂弁護士クラブの長老、梅田老弁護士である。
「へえ、時古りし、という意味ですかね」
 と、後輩ながら平気で冷やかすのは石野弁護士だ。
「いや、もっと良い意味だよ。オーナードだからな。名誉を得た、だ」
「ははあ。先生などがそれだ」
「馬鹿をいえ、わしはそれほど年寄りじゃあないぞ」
 
  赤坂弁護士クラブの窓の外はもう暗い。
 だが街灯は明るく、かなたのネオンの色も夜空に映え、クラブ創立当時のひそやかな情緒こそ無いが、
 現代らしい風情である。
 ただしクラブの室内は昔のとおりだ。調度もすべて古めかしい。椅子も多くは木の椅子だ。
 弁護士たちが費用を出し合って作っている仲間だけの私的なクラブである。
 室内を改めるほどの費用の出処がないのだ。
 つまり止むを得ないだけで、アンチックな室内は弁護士たちに見識があっての結果ではない。
 床も樫の木の床である。これが一頃は時代遅れとなり「絨毯ぐらいは敷こうや」という声も
 出たことがあったが、いざ絨毯を買うとなると金は出さぬ癖に趣味にはうるさいクラブ員で議論百出、
 決断力がないままフロアリング流行の今日にいたり、こりゃ案外いい床だということになった。
 もっとも今日風の合板のフロアリングと異なり、油で毎日磨く本式の床である。
 床磨きは学生がやる。これは学生たちが従業員を勤め、ただで、番人、ボーイ、ウエイトレス、コック、
 バーテンダー、皿洗い、掃除係り、受付、電話番、クローク係り、その他一切の役目をやってのけて居る
 たまものである。
 とはいえ学生達は弁護士連の会話にも法律話にも加わることができ、図書室もあり、
 元はビリヤードルームの奥の一室は今は学生達の控え室、兼研究室、兼討論室、兼談話室となっている。
 夜は図書室は女子、研究室は男子の部屋となり、メインルームで徹夜の議論をするのも自由である。
 仮眠もできる。食事もクラブ員に無料のサンドイッチを食べ放題、コーヒー、紅茶を呑み放題だ。
 だが最大のメリットは弁護士と相対で問題ごとの法律論ができ、かつ試験のヤマを掛けて
 貰えることであろう。というよりも実は学生達も楽しいのだ。
 灰色の受験時代を彩るのが赤坂弁護士クラブでもある。
 
「そういえば、ここで出る面白話も古い話が多いね」
 と、言ったのは石野弁護士だ。
「そりゃ、現在の受任事件の話はできないわよ。数年前の話だって差し障りがあるもの」
 と、言ったのはむかし女性検事として話題を撒いた曽我野弁護士である。
「梅田先生の前回のなどは、まさにタイムオーナードの話だな」
 と、石野弁護士はしつこい。
「新しい話だってあるよ」
 と、梅田老弁護士は憤然とする。
「もっとも、話して面白い話となると数が限られる。どうしても思い出話のほうに奇妙なのがあるものな」
 と、誰かが助け船を出す。
「いや、最近だがちょっと面白い事件がありましたよ。話してもかまわない事件ですがね」
 と、言ったのは若手の菱野弁護士だ。
「おや、それを聞こうじゃないか」
「いやァ、先輩の話の方がいい」
「そうはいかん。いっぺん口を切ったら話さねばならんのがクラブの規則だ」
 と、梅田老が出鱈目を言う。
「え、本当ですか。驚いたなあ」
 と、菱野弁護士も分かっている癖にこうだ。
「はい、先生」
 と、ウエイター役の学生、細川千恵子が注文の出ていたビールをつぐ。
 石野はジン、梅田老はいつものウイスキー紅茶である。ほかの弁護士達はウイスキーの水割りが多い。
「あらら、千恵ちゃんにビールを注がれちゃ、退却できないか」
「もちろんです」
 一同ヤンヤとはやす。菱野弁護士は始めからその気だ。
「原宿の裏手ですがね、不動産売買のもつれの事件を受けましてね」
「原宿とはさすが場所が派手だね」
 と、誰かが混ぜ返す。
「黙って聞こうぜ」
 と、石野弁護士が静める。
 夕方だったのが、もう夜に替わった。そろそろ会員たちが増えてきた。
 気配を察して近くへ座る者が多いが、向こうの席で話し込む連中もいる。
「そういえば、不動産の登記の対抗力の問題だから、この件を緑山君と話したことがあるな」
 と、菱野弁護士は、グラスと氷桶を持って近ずいて来た緑山学生に話しかけた。
「ああ、はい。面白い事件でしたね」
「ただし言っとくがな、俺の言った法理論を、そのまま暗記するなよ。間違っとるかも知れんからな」
「分かってます」
 と、緑山がドライな答をする。
「こりゃ、お言葉だな」
 アッハッハとなる。これがクラブでの弁護士と学生との仲だ。
 ただし学生は席に付かず立ったまま聞くのが規則だ。
「ま、話しに返りましょう。原宿の劇場に関連して殺人事件にもなったんで皆ご存知の事件ですよ」
「あ、あの。ステッキ座の事件ですか」
 と、別の女子学生、船場美奈が驚きの声を出した。
 船場美奈は自分の名前が自慢だ。(女性の名前は最後がアになるのが常識よ。男性はオ。
 マリアとマリオ、アレキサンドラとアレキサンドロ、ってね)
 ただし陰口もある。
(会場でみなさんと呼ばれると、自分のことか全員のことか分からなくって美奈さんめ、キョロキョロ
 するらしいぜ)
 しかし今日はその心配は無い。
「そうなんだ。本当は原宿小劇場と言うんだが、アングラ劇の一派の根城だった。
 メインの女優男優連中がレトロで、かつエロなステッキ・タップを踊るのが特徴で、だからステッキ座という
 アダ名がついた」
「へえ、アダ名なの」
 と、曽我野女史が言う。
「あれ、先生でもステッキ座を知ってるんですか」
「バカにしないでよ」
「それくらい有名になった劇場でしたがね、あの劇場の持ち主、むろんステッキ連中が持ち主じゃなくて、
 あの辺の金持ちでしたが、財テクに失敗して、あの劇場を売りに出した。
 ところがうまく買い主が現れて、しかも当分劇場を続けてもいいと言う。
 きわめて具合のいい話しが進行していたんです」
「あの話しはわしだって知ってるよ。団長が殺されて劇団がツブレたんろう。迷宮入りになった事件だな」
「そうですがね、不動産のトラブルの方が劇場が潰れた本当の原因です」
 
 劇場が潰れた原因は不動産の二重売買事件によるものであった。
 劇場と敷地の元の持ち主は、岩本文造といった。
 地元生え抜きの地主で、金持ちの育ちだから年は取っても坊や同然の人物だった。
 劇場の土地建物を売りに出したまではいいとして、家に出入りの男にまかしたのが悪かった。
 秋野冬助という奇態な名で、もともと小悪だったが調子が良いのと便利なのとで癖を知りつつ
 親の代から出入りを許されていた男だ。
 以前は骨董の仲介人兼便利屋だったが、この頃は潜りの不動産屋もしていたのであった。
 岩本文造は土地を売ることなど不得手だから出入りのこの男に声を掛けることになる。
「おい、冬助、あの劇場を売ることにするぞ」
「そんなら大手の業者へ出す方がいいでしょう」
 と、いい調子の出だしだったらしい。
「それがどうして二重売買なんかになったんだろう」
 と、梅田老が当然の疑問を出す。
「なに、冬助が幾つもの業者を連れて来て、はじめは一社を選んで仲介依頼をさせたんですが、
 後から別の社が割り込んで来たらしく、その方が冬助へのコミッションが良かったんで、
 乗り換えさせたらしいんです」
「で、代金を横領したんかね」
「いや、それほどの度胸のワルじゃないんですよ。後の業者にもに仲介依頼をさせただけ、
 岩本文造は事態を理解しないまま冬助が持参した書類に印を押した。
 というよりハンコを冬助に渡して勝手に押させたらしくて、その段階ではどっちでも良いと思ったらしい」
「ま、ありがちのことかな」
 と、いったのは梅田老だが、
「それだけじゃぁ二重売買は出来んぜよ。売買の実印は、なんぼなんでも冬助にゃ預けまい」
 と、坂本竜馬みたいな方言を使うのは、いつの間に来たのか稲賀弁護士だ。
「むろんですが、後の成り行きも簡単かつ出鱈目でして」
 
 まずA社の仲介による売買契約が行われ、岩本文造は手金も受け取った。
 ところが後から仲介依頼を受けたB社が別の契約を持ち込んだ。前の取引を見ているから、値が高い。
 むろん高い方がいい。岩本文造の気持ちはそっちに傾く。
 そこで冬助が調子良く「なに、A社は懇意だからワケはありません。解約して来ますからご心配なく」
 と、安請け合いをして、小切手にした手金も預かってA社へ向かった。
「この時、本当はどうすべきか分かるだろうな」
 菱野弁護士は学生時代にこの赤坂弁護士クラブでボーイをやった、まだ若い独身の先輩だから
 学生達の仲間に近く、面倒見がいい。
「はい、手付倍返し。手付の倍額を支払えば契約解除ができます。解除権の発生です」
 と、答えたのは吉田学生だ。
「そうだ、手付がある場合、倍返しをすれば権利として確実に解除できる。
 手付でなく内金なら解除権は無いがね。条文を見ときたまえ」
 学生達は一斉に六法全書を繰る。
 《条文を見ろ、条文の方が〈見ラレくたびれる〉ほど見ろ》と教えられている。
 弁護士たちも心得ていて、こういう時に急がせたりしない、というのが赤坂弁護士クラブの不文律だ。
「はい。売買の箇所にあります。民法五五七条です」
「声を…」
 吉田学生は次にどんな質問が出るか、と汗をかいている。赤坂弁護士クラブの室内も暑くなってきた。
 
 仲介A社側との契約を解除するについて、岩本文造は手付け倍返しをせず、手付け金額そのままの
 小切手を冬助に持たせた。 
 冬助がそれでいいと、主張し「なに、あたしの付き合いだ、大丈夫ですよ」と言ったからだった。
 冬助が出た後へ、B社の社員が買い主を連れてやって来た。すぐ契約したいという。
 A社の取引を出し抜くためにすぐ契約をしたいと言ったのだ。
 岩本文造の方は何をするのも平気の神様みたいな大将だ。
 この場合は特に冬助がA社側との解除を請け合って小切手まで持って行った後だ。
 「ああ、いいよ」と契約をしてしまった。契約だけでなく、こっちの手付金も受け取ってしまった。
 B社側の方が手付金も多い。
 B社の社員は抜け目なく、岩本文造を口説いて、土地建物の売買予約の仮登記の書類まで
 受け取ってしまった。
 A社との取引にそなえて岩本文造の印鑑証明書も取ってあったのだ。
 
「ところがです。冬助はスゴスゴ帰ってきた。A社側の買い主は契約を解除しないという」
「倍返しをせんのじゃぁ無理じゃ」
 と、稲賀弁護士だ。
「そうなんです。実はそれからでも遅くはない。手付倍返しによる解除権はあるし、
 B社の値は手付倍返しをしても引き合うんだから、すりゃぁいいのに、また冬助が頑張った。
〈まさか出かけた後で大将がB社の買い主と契約したとは知らなかったから、
 あたしとしたことが押しが弱かった。
 それなら、もう一度行って来る〉と言ったそうだ。
 後で分かったんだが、冬助は岩本文造から手付受領の時に謝礼を貰った上に、
 蔭でA社からもB社からもコミッションを貰っていて、すこぶる苦慮する点があったんですな」
「そうだろう。まぁ、常識的な事態だな」
 と、いったのは梅田弁護士で、
「ひどいわ」
 と、言ったのは細川千恵子だ。
「とにかくモタモタしたんです。冬助はその後も交渉中だと称して、ただし小切手を岩本文造に返しにきて、
 それで厄逃れのつもりか以後はプッツリ顔を出さない、岩本文造は平気の神様だから何もしない、
 と言う状態になっていたところ、A社側の買い主も事態をキャッチしたね」
「喧嘩になったかね」
「いえ、A社も考えました。早く残代金を支払って契約を完了させたら勝ちだってんで、
 期限前に残代金を持って来ました」
「岩本文造は両方の残代金を受取ったのかい」
「いや、さすがに岩本文造もこの代金は受け取らない。
 もっとも土地建物の権利証はB社側へ仮登記のため渡してしまって既に手元に無いから、
 引換のやりようがないわけだ。」
「どうなった」
「A社側は怒って代金を供託した。これで岩本文造のA社側買い主に対する、手付倍返しによる
 解除権は消滅した。そうなるな吉田君」
「はい。相手方が契約の履行に着手したら手付による解除は出来なくなります」
「相手方が、かい?」
「間違いました。当事者の一方が、でした」
「そう。岩本文造側が着手した場合も岩本文造の手付解除権はなくなる」
「はぁ」
「ところがB社はサッサと仮登記をした上に、すぐに残代金の支払もした。
 これでB社の契約も完全になった。A社の分とB社の分と二つの契約が平行して完了した。
 吉田君。そうなるな」
「はい。契約は二つとも完全に有効です」
「どっちが勝つ?」
「先に登記をした方が勝ちます」
「B社は抜け目がない。その時岩本文造から本登記用の書類を受取り本登記もしちまった。
 おまけに建物の占有引渡し書まで取ってしまった。B社の社員はなかなかヤリ手だった」
「A社はその前に処分禁止の仮処分は掛けなかったのかい」
 と、石野弁護士が口を出す。
「それをしなかったのがA社側の失敗です」
「じゃ、どうにもならないね。あとは刑事事件になるかだな」
「そうなんです。なるとすれば二重売買による売り主の背任罪でしょうが、
 でも犯罪の成立には故意が必要だ。
 岩本文造としては、冬助が解除を請け合って出たものだから、
 A社との契約はパーになるとばかり思って安心してB社側と契約してるんで、A社を裏切るつもりはない。
 つまり背任の故意がない」
「そうは言えんだろう。冬助がスゴスゴ帰って来て、A社との契約解除が出来なかったことが分かった後で、
 裏切ってB社に本登記の書類を渡している。
 書類を最後に渡した時が不動産の処分時で背任の成立時だ」と石野弁護士は難しいことを言い出した。
 しばらくは法律論に花が咲いてしまう。
「あの、後で勉強もしますけど、殺人はいつ起きたんですか」
 と、法律書生としては不心得な発言をしたのは細川千恵子だ。
「いや、ここが発端なんだ」
 と、菱野弁護士は釣りこまれる
「そこでステッキ座員の出番となった」
「その二重売買は結局、刑事事件になったんかい?」
「A社側買い主は告訴をしませんでしたよ。岩本文造との付き合いもあったからでしょう。でも、
 ここまで見てA社の方がなんとなく筋がいいでしょう。B社の方が悪賢い」
「そうだね」
「しかもA社側の買い主は劇場を続けてもいいと言うんだから、ステッキ座の団員は断固A社側に立った。
 それにステッキ座には権利があった。劇場はステッキ座の本拠だったから、
 ずっと続けて楽屋やら衣装部屋やら道具部屋やら、用に劇場の一部の賃貸借を受けていたんだ」
「続けてかい」
「地方へ出たときも大事な衣装や小道具など残していたから保管室を継続して借りていた。
 僅かだが金も払っていたから賃借権を主張できる余地があった。
 だいいち当時は稽古に入って劇場を一座で全部占有していたから強い。
 A社側とB社側との争いにステッキ座団員が割り込んで、劇場は明け渡さないぞってんで、
 赤毛お白粉の女優男優らがピケを張ったり大騒ぎになった」
「それも新聞に出てたね」
「その騒ぎのなかで、ある夜、ステッキ座団長の月夜星太郎が殺された」
「いまだに犯人不明だね」
「そうです」
「君の立場はなんだったんだい?」
「劇団ステッキ座の代理人です」
「じゃ事情をよく知っている筈だ。でも、よくアングラ劇団なんかの事件が来たね。」
「A社に頼まれましたよ」
  
 ステッキ座団長、主演俳優、主演ダンサー、主任脚本家、主任振り付け師、主任ダンス教師、
 そして劇団代表、月夜星太郎は、俳優たちのピケ騒ぎが続く日々のさなか、
 平成○年五月○日夜、午後八時頃から九時の間に劇場裏の空き地で殺害されていた。
 背後左側、心臓上を舞台用の大型ナイフで刺されたのが死因であったという。目撃者はいない。
 犯人不明のまま今日に至っている。
  ステッキ座の本拠、原宿小劇場は原宿とはいえ裏通りの神宮前○丁目にある。
 劇場の裏手が駐車場と荷物置き場を兼ねた空き地になっていた。夜は人通りが少ない。
 死体は九時過ぎ、団員の一人がその空き地を通りかかって発見した。
 
「殺人事件を担当したわけじゃありませんから殺人の詳細は知りません。だいいち迷宮事件ですからね。
 被疑者はいないから、弁護もない」
 と、菱野弁護士は説明した。
「刺されたナイフはむろん証拠品で領置されていますけど、でも揃いになった別のナイフが劇場にあって、
 見せて貰ましたよ。あれは曲芸用の投げナイフで本物の刀剣じゃない。
 刃は付いていないし、刃渡りに見える光る部分も近くで見ると柄になってます。鋭いのは先ッポだけ。
 でも投げるときナイフが後ろ向きにならないよう先が重くなっているんです。かなり重いですね。
 先が厚くて重いし柄は矢羽根の役割をするように軽くできて、あちこち輪になっていて普通のナイフとは
 違うから殺人用には使い憎かったでしょうな」
「片手で振るえるかな」
「うーん、変なバランスをしてますから片手で、あれだけグサリと深くは難しいでしょう。
 もっぱら投げの曲芸用の変わったナイフです」
「ステッキ座が曲芸もやっていたのかい」
「いや、ステッキダンスの間にギャグとしてパロデーをやっていただけですが、
 パロデーでもチャチなナイフではかえって危ないんでナイフは本物の曲芸用を使っていたんです。
 連中、ステッキあしらいは曲芸の域に達しているんで、ナイフのパロデーぐらい出来たんですね。
 ぼくもステッキのあしらいを一つ教わりましたよ。こんな具合ですよ」
「おいおい、なにをするんだい」
 菱野弁護士は一本のこうもり傘をどこからか取ってきて振り回し始めた。
「あ、危ない」
 と、一同は避難だ。菱野弁護士の曲芸など信用する者はいない。
「ほらね」
 菱野弁護士はこうもり傘を七三の箇所で持って、手の甲の上でクルリと後ろから回して、うまく掴んだ。
「お、うまいじゃないか」
「でも、曲芸というほどのものでもないぜ」
 調子に乗った菱野弁護士は、もう一度やってバタリと傘を落とす。
「や、失敗もあるとすりゃ、やっぱり曲芸かな」
 で、アッハッハとなる。
「でもね」
 と、菱野弁護士は抗弁を出す。
「大勢がラインに並んで一斉にこれをやると意外に見事なもんですよ。二度三度と続けるからね。
 失敗しないためにゃ簡単な方がいいんだ」
「分かったから、もう座れよ。でも、そんなナイフで人殺しをやるとなると容易じゃないな。
 月夜星太郎は大柄だったな」
「背はとても高かったですね。一メートル九〇はありましたね。
 だから舞台映えがしてアングラながらスターになった」
「傷はそれだけかい」
「いえ、額に打撲による裂傷があった。でもそれは倒れたときの衝撃によるものと判断されたようです。
 倒れた場所に十センチほどの高さの車止めがあって、そこに裂傷に対応する痕跡があった。
 立った姿勢から倒れたため出来たらしい、ひどい裂傷だったということです。
 ただしボクは民事事件の関係で警察へ行って一応のことを聞いたときの知識でして、
 死体検案書を見たわけじゃありませんよ」
「しゃがんでいて刺されたんじゃないんだな」
「らしいですね。ひどい裂傷だから。しかも貝殻骨脇を上から下向きに刺されていたそうです」
 
 A社側とB社側の劇場の売買を巡る争いは、その後も続いた。
 先に登記を得たほうが勝ち、と言うのが原則である。しかし例外もある。
 この事件では登記の効力が問題となった。B社側が義務違反を教唆した疑いがある。
 A社に対する背任の教唆という後暗い行為によって、得た登記をB社が主張するのは、
 権利濫用、信義則違反である、とA社側は主張した。
 それにステッキ座と共闘なのが強身だ。
 もっともステッキ座は単にA社側を応援しているのではない。自分の利害がある。
 自己の賃借権と占有権を主張し、明け渡しを拒んでピケを張っているのだ。
 劇の公演を続けたいし、または多額の立ち退き料の要求ができる。
〈劇場はステッキ座が借り受けていた。占有権はステッキ座に移っていた。
 占有をしていない岩本文造からの占有引き渡し書は無効だ〉というのがステッキ座の主張だ。
 菱野弁護士はその主張をする代理人であった。
 
「ちょっと聞いて置こう。ステッキ座劇場の話の前に一般論だ。
 物権、たとえば所有権の移転は何によるね?」
 と、ここで学生に質問したのは、その菱野弁護士だ。トレーニングを続ける気だ。
「意思表示によります」
「どんな意思表示だ?」
「物権行為です」
 と、受けて答えるのは細川千恵子である。愛想がいいだけではない。まじめな学生だ。
「売買契約は物権行為かね」
「いえ。まず債権行為です」
「債権行為と物権行為の関係は」
「物、例えばお人形を、明日あなたに上げる、と約束するのが債権行為です」
「物権行為は」
「明日になって、ハイどうぞ、と権利の引き渡しをするのが物権行為です。
 目の前にあっても物権行為による権利譲渡が無いと所有権は移転しません。
 しかし債権行為と物権行為を同時に兼ねることが出来ます」
「ほう、難しいことを言うじゃないか。兼ねるかね。
 債権行為と物権行為を別個に独立させる制度を知ってるかい」
「ドイツ法です」
「日本は?」
「フランス法型です。意思表示は両方を兼ねます」
 と、細川千恵子はテキパキ答える。
 しかし赤坂弁護士クラブの酒席の会話としてはこの辺が切り上げ所だ。試験ではない。
 学生が問題を意識すればボーイ役をしている甲斐があったことになる。
 梅田老が「ウイスキー紅茶をもう一杯」と注文したのがその合図だ。
 細川千恵子がホッとして紅茶を作りながら、
「子供の頃、母からこんな詩を聞きましたわ。考えてみると物権行為の詩だわ」
「いやに難しい詩を子供に聞かしたんだね、君の母君は」
 と、誰かが混ぜ返す。
「難しくないんです。こうよ。
   わたしの大事な  このお人形も
   あなたに上げれば あなたの物よ
   思えばとっても  不思議だけれど
   わたしの物とは  言えないものよ
 どう、いい詩でしょ」
 と、得意がる。
「へえ、なるほどいい詩だ。千恵ちゃんがねえ。見かけに、えぇ、よるね」
 と、梅田老だ。
「どうせ詩人じゃありませんわよ。でも誰の詩かな。無断引用だけど子供心に残った詩よ。
それに、ちゃんと物権行為を説明してるでしょ。」
赤坂弁護士クラブもひとしお混んできた。
学生達も忙しくなり、あちこちへ散る。
 

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