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一、

 廊下から入ると、まず広い部屋がある。
 栗色の腰板が廻らしてあり、部屋の四隅には同色の飾り柱が天井へ伸びている。
 窓枠も同じ栗色の樫材で、カーテンは黄色とも金色ともつかぬ古い織りのものである。
 テーブルセットが幾つかあり、その向うに会議用の長テーブル。
 さらに部屋の周辺には木製の椅子が出鱈目に置いてある。
 これが赤坂弁護士クラブのメインルームである。ほかに図書室と、かつてはビリヤードルームであったが、
 今は学生たちの控室で研究室になっている一室がある。
 壁は総じて白の漆喰壁である。白の、というのは今も白いという意味ではない。
 なにしろ会員が費用を持ち寄って維持しているクラブであるから、すべてが質素である。
 ただ床は樫の厚板張りで、わざと絨緞は敷かず、油で磨いてある。
 これは思いのほか手間が掛るもので、学生たちという人手があっての贅沢である。
 窓の外は、つい先刻まで夕焼空だったが今はもう浅い紺の夜空だ。星さえも見えている。
 その時刻、いつも真っ先に現われるのが、クラブの創設メンバーの一人、梅田老弁護士だ。
 そして、「おや、まだ誰も?」と、決まって言う。
 メインルームの奥にはバーがあって、給仕役の学生がウイスキーボトルや氷を運ぶ。
 水割りなどを作るのは会員のセルフサービスの規定だが、梅田弁護士の分は女子学生の細川千恵子が
 今日も手伝う。梅田弁護士の好みはウイスキーをうんと利かした紅茶だ。
 しばらくするうちに秋の空が全く暗くなってしまう。
 会員が一人、二人と姿を見せる。
 「やあ、やあ」と挨拶しながらも別のテーブルへ行く者が多いのは、
 梅田老が同じ話を繰り返す癖があるからだ。
 常連の一人、石野弁護士がやって来た。三つボタンの紺の背広の胸ポケットから鉛筆がのぞいている。
 仕事中に入れたのを忘れている。
 ネクタイはバラリと下がって、鞄は持たず、いつも手ぶらの弁護士である。
 これは梅田老のグループで、そのテーブルに座る。
「今日はビールは要らん。ジンのストレート」
 と、命じる。梅田弁護士が少し笑う。
「激しいな。いやな証人尋問でもあったかな?」
 ジンのボトルが運ばれてくる。ドクドクと自分で石野弁護士は注いだ。
 たあいもない話が始まる。やがて隣の席から、どっと笑い声が起る。クラブの中も次第に熱気を帯びる。
「お、水下君も来たな」
 学生の一人が入口で挨拶している。最近とみに頭が薄くなった水下弁護士が薄茶の服でやってきた。
 学生の落合良夫が好みのブランディ入りの紅茶をつくる。いつもながら水下弁護士は薄いのが好みだ。
 落合は色の白い細身の学生で温和だが気が強い。
 学生たちは司法試験を受けるために、このクラブで弟子兼給仕として働いている。
 そのなかで彼が真っ先に受かりそうな熱っぽい気配がある。
 最近少し面痩せて無口になったが、弁護士たちの話には熱心に聞き入る。
 雑談のうちに時間が流れ、八時に近い。と、よくあることだが、まるで通り魔が通ったように、
 あちこちの話が偶然一時に止んで、急に静かになる。かと思うと、また話が始まるが妙に不自然になる。
 とうとう隣のテーブルの一団は、水下弁護士の到来を機にした恰好で、こちらへ合流した。
「今日は石野君の体験談を聞くことになっていたな」
「そうかな」
 と、石野弁護士はとぼける。
「ぼくは梅田、水下両先生よりも若いからね。大した話はないよ」
「そうは言えまい。名うての冒険弁護士だからな」
 と、誰かがいう。 
 こんな風にして、いつの間にか円座のなかで物語が始まるのが、このクラブの常である。
「ぼく自身が殺されそうになった事件がある。今では昔の話になったが。それを話そうか」
「えっ! ほんとですか?」
 と、細川千恵子が驚く。
「先生が殺されそうになったって、すてき」
「最近起った暗殺事件、といっても日本の話じゃない。××での話。
 そう、三ヶ月も経っていないね。記憶にあるたろう? スー・エン・クー議員の暗殺事件」
「知っています。よく意味のわからない事件でした」
 と、答えたのは落合良夫だ。
「奇怪な事件だ。そのスー・エン・クーが日本にいたことがある。
 変名で不本意な生活を送っていたことがあるんだ。その彼も巻き込まれていた事件だ」
「やはり政治的な事件かね?」
 と、梅田老も好奇心を起こす。
「今となっては真相は分からない。当時はダイヤ取引のトラブルだと思ったんですが……」
 石野弁護士はジンのグラスに口をつけながら言った。
「諸君。日本に出廻っているダイヤ、何パーセントが密輸ものと思うかね?」
「さあ、二〇パーセントくらいかなあ?」
「ところが、実体は不明なんだ」
「なあんだ」
「当り前だね、密輸だもの」
 アッハッハ、である。グラスがキラキラ動く。
 質素なクラブとはいえ全員の好みでグラスは上質でバカラが使われているから、
 酒を口へ運ぶ動作は綺麗だ。
「しかし、思いのほか多いと思うよ。取締りも麻薬みたいな真剣勝負の取締りじゃない。
 諸君の中にも一個や二個、旅行のついでにやった経験があるお方もいやしないか。
 でも、それはアマチュアだ。もちろんプロが存在する。この連中には、ちゃんと系統があるんだ」
「暴力団ですか?」
「とも限らないよ。ぼくが手掛けた連中は決してそうじゃなかった」
「スー・エン・クー議員もその一派だったんですか?」
「そう。××系の中国人グループで法律上の国籍はいろいろだったが出身地が同じ連中だった。
 専ら宝石の密輸をやっていた。
 スー・エン・クーが××人ではあっても中国系だってことは名前から見当がつくだろ」
「それが、あんなクーデターの指導者になったんですかねえ。一種の、世界的な少数意見の代表者ですね」
「当時は日本に亡命中だったのさ。不遇時代でもあった。
 変名ではあったが、当時から地下活動をしていたんだろうね。
 それに彼等は密輸を罪悪とは感じていないよ。国境を信じていないからな。
 しかもだ、ダイヤは麻薬とは性質がちがう。ダイヤ自体は別に悪いものじゃない。
 脱税、つまり関税法違反だけの問題だ。
 密輸業者というのは地中海の昔から、既存の王権を嘲笑する見えない王国の住民だったんだからね。
 国家についての哲学の違いだ。悪びれちゃいない。それに仲間での掟もちゃんとある。
 昔だって地中海の慣習的な海商法などちゃんと守ったらしいぜ。海賊とは別だからね。
 彼等グループの弁護を引き受けたときの様子も変っていた。
 ほんの一回のつもりが尾を引いたのも、そのいきさつからだ」
 
 当時、新米弁護士だった石野は、ダイヤの密輸で逮捕されたある中国人の弁護を引き受けた。
 昔、中国軍の特務機関だったと噂のある老人の紹介だった。
 面会に行くと、逮捕された者の百人が百人いうことだが、とにかく一刻も早く保釈で出たいという。
 まず事案は割と軽く、少量のダイヤはすでに押収され、自供も終わっていて、保釈が難しい事件ではない。
 手続は出来た。
 ただ、外国人の場合、保釈金は高い。
 
「保釈を請求出来る場合は分かってるね」
 と、石野弁護士は学生に尋ねる。
 これが赤坂弁護士クラブでの重要な会話だ。学生はこれで、何げなく問題を意識するのだ。
「はい。起訴された後です」
「そりゃそうだが、必要的保釈があるだろう。どんな意味だ?」
「はい、必要的保釈とは、えー、請求があれば必ず保釈を許さなければならないのが必要的保釈です」
「なぜ、そんな制度がある?」
「強制捜査は捜査の例外で、強制、すなわち身柄拘束の必要が無くなれば、
 有罪判決があるまでは拘束すべきではないからです」
「身柄拘束の必要がないとは、法的にはどんな場合だ?」
「はあ」
「条文を見たまえ。法律の勉強は、もちろん理論が主だよ。教科書で理論を学ばなきゃならん。
 だが理論の元は条文だ。条文を見ないで理論を勉強するのは、字引を引かんで、
 訳文だけ見て英語を勉強するようなもんだよ。条文を見たまえ。必要的保釈は何条かね」
 と、石野弁護士は先輩の義務としての説教をする。
「はあ、刑事訴訟法の、えー、八九条です」
「では、保釈が許されないのは、どんな場合だ?」
「えー、証拠隠滅のおそれがある場合……。
 被害者などへの御礼参り、それから氏名、住所の不明な場合……には保釈は許されません」
「逃亡のおそれは?」
「あっ、逃亡のおそれは書いてありません。逃亡のおそれは保釈が許されない理由になっていません。
 おかしいなー」
「逃亡のおそれは保釈金で防ぐのさ。そういう立法趣旨だ。だから外国人の場合は保釈金が高い」
「はあ」
 と、学生は戸惑う。
 とはいえ今は赤坂弁護士クラブの酒席だ。石野弁護士もこれ以上の講義ををするわけではない。
 ほどほどで学生を放免して話は元へ戻る。学生はホッとする。
「ところが、だぜ、保釈の手続はしたものの、本人は金を持っていない。
 押収された宝石類はもちろん利用できない。
 しかもこの男、日本へ来たばかりで、身寄りも友人もいないという。
 それでいて保釈金の工面だ。どうしたと思う?」
 
 密輸の被疑者は奇妙なことを言いだした。
 ある人物の名をあげて、これに会ってくれという。
 人物というのがやはり中国人で、上野にオフィスを持つ貿易商だった。
 どんな関係の人か? と尋ねるとなんの関係もないという。会ったこともない。
 しかし自分の現状をいって依頼を伝えれば、保釈金ばかりでなく、弁護料も必ず出してくれるという。
 いくら若い時分でも、石野はひるんだ。そんな馬鹿げた依頼には行けない。断られるにきまっている。
 が、本人は熱心だった。唾を飛ばして熱弁する。面会室の台の向うに転り込んでお辞儀をする。
 必ずうまく行く、ぜひ行ってくれと繰り返す。金網を掴んでの頼みである。
 断るのは後めたい気にだんだんなる。石野はついに承知した。やってみよう。駄目でもともとだ。
 
「気は進まないけど上野の裏通りの貿易商を探して行ってみると、
 オフィスは汚い小さいビルの七階にあった。
 ガタガタ揺れるエレベータで上がって、さて面会を申し込んだら現われたのは、
 痩せた、疑ぐり深い眼の男でね、やっぱりやめればよかった、と思った。
 ところがどうだ、話を聞くと、即座に承諾したじゃないか。驚いたね」
「すぐ金をくれましたか?」
「いや、そうはいかない。翌日、使いの者が来てね、事務所をジロジロ眺めて、
 ま、貧弱だけど法律事務所には間違いない、それを見て上のことさ。
 保釈金と弁護料を揃えて現金で渡してくれた。でも、じつに不思議だった。
 日本人の世界にはないことだよな?」
「どういう約束ごとなんだろうね?」
「よくわからんが、なにか特別の取り引きと約束があるんでしょうな。
 とにかく、これに感心したのがきっかけで、ぼくも身が入って、
 その一派の密輸で刑事事件が起きると、全部依頼が来るようになった。
 それで何年かするうちに、いつの間にか主要メンバーの事件も担当する、子分たちの面倒も見る、
 というわけで、ぼくが彼等の中で一種の、第三者的な顔役になっていったんだ」
「顔役って、どんな風にだね?」
 と、梅田老弁護士は、かなり熱心に聞く。
 クラブの中はまた人数が増えて、向うの長テーブルにまで別のグループが集まっている。
 学生たちも忙しい。
 しばらく向うへ行っていた細川千恵子が、こちらへ帰ってきて、石野弁護士に気付かれないように、
 ジンのグラスの中へ少しミネラルウォーターを注ぐ。
 学生たちは男女の別なく給仕役で、細川千恵子といえども、席にはべる訳ではない。
 というより、学生たちは話を聞く間も必ず立っているのが、このクラブの規則である。
「顔役ったって大したことはありませんけれどもね。仲間内でのもめ事が起こる。
 たとえば彼ら、売るためには仲間にダイヤを預ける。次々に。
 ところが、返ってくるダイヤが別物に変っている。
 ほんの一例がこうで、そのうちの深刻な件はぼくの事務所へ集まって解決する。
 ぼくが書類を作って、私設の公証人の役割をする、という具合で、
 今だから言うが、密輸の現物を預かったことも無いじゃない」
「そりゃ豪儀だな。ダイヤをかね?」
「ピストルや麻薬でないことは確かです。ま、ぼくはなにも知らないで包みを預かるだけのことでね」
「そんな風なダイヤ、安いんでしょ」
 と、細川千恵子が気にする。
「玄人の取引値だ。品質にもよるけど、デパートの定価の、まず三分の一以下かな。二割ぐらいかな」
「そんな。なぜです」
「デパートで売ってる宝石の代金のうち、三割は頭からデパートの取り分だ。
 フロア借りの宝石業者が百万円で売るのは自分の売値が七十万の物だ」
「ええっ」
「業者はさらにフロアの賃料、人件費、保険料、寝かす金利、その他の経費、自分の利潤を入れれるから、
 元値はそのまた半分以下だな」
「じゃ元値は代金の三割近くに過ぎないのかぁ」
「そう。デパートの時価売りでも実質は同じだ。そういった元値の前に仕入業者がいて、その利潤もある。
 だから流通原価はもっと下だ。代金の三割以下が玄人の取引値だよ。
 中国人グループの値もそれだ。安いよ。でも安い代わり取引は真剣勝負だ。眼の利かない者は失敗する。
 宝石の真偽、カラット、色、透明度、照り、瑕、カット、産地などが一瞬に見分けられなきゃぁ落第だ」
「怖いんですね」
「素人が宝石を手離すときは流通原価のまた七掛けに下がるよ。
 どこの馬の骨の手を通ったか分からん石だ。証明書は信用しない。買い手はリスクを見る」
「そんなものですか?」
「いざと言うとき身につけて逃げて、宝石の眼が利く者が玄人値で買ったのなら、叩き売っても三割の損、
 眼の利かない素人でも七割の損で売れて再起の元手になる。
 裸の難民が七割の損で再起できるとは、べらぼうに有利な資産だ、という発想だ。
 国や政府を信用しない動乱の民族の発想さ。ま、ところで話だ。
 ある晩のことだった。四月の終りで暖かい晩だったね」
 

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