目次
MUGA11号
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季節の詩     rita
第一回ウルトラリンパ講座
狙うは“メッシ(滅私)”効果?  那智タケシ(ライター)×松本成悟(農家)
物質的問題(material question)について J.クリシュナムルティの場合
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 「ユア、山菜採り」
編集後記
MUGA12号
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季節の詩     rita 
宮本武蔵に通じる「自分に勝つ」力  菊池クミユキ
狙うは“メッシ(滅私)”効果? 後編 
0円ハウスに住む新政府総理大臣~無我的生き方の実践例としての坂口恭平
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 「夏至」(最終回)
編集後記
MUGA13号
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季節の詩     rita
例外者たちの宴1 鎮魂歌     那智タケシ
書評:『スプーン』、『オカルト』森達也著
現代女優試論
「1未満であることの大切さ」    たまちゃん×那智タケシ
編集後記
MUGA14号
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季節の詩     rita 
例外者たちの宴2 白竜様   那智タケシ
無我表現という言語ゲーム 
あっちゃん卒業に思う
ウルトラリンパ講座 番外編
「変身願望を直視する」     たまちゃん×那智タケシ
編集後記
MUGA15号
目次
季節の詩     rita 
例外者たちの宴3  秋      那智タケシ
アフォーダンス理論について 
原発弁護団から見える風景 
「新しい教祖を作らないために」     たまちゃん×那智タケシ
編集後記
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目次

MUGA 第15

「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

 

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

 

◆目次

 

◇アート

 

・詩

 

『季節の詩』     rita

 

・短編小説

 

「例外者たちの宴3」 秋 

那智タケシ

 

 

◇評論

アフォーダンス理論について

高橋ヒロヤス

 

◇社会

 

原発弁護団から見える風景

弁護士 高橋弘泰

 

                                     

◇対談

 

根元共鳴×無我表現 3(最終回)

 

「新しい教祖を作らない」    たまちゃん×那智タケシ


季節の詩     rita 

◇ア

 

★詩

 

季節の詩     rita 

 

 

【・虫の声・】

 

ベランダに出て真っ暗なくさはらに

虫の声を聞いていた

 

虫がなくたび発光したら

パーティーみたいにごきげんだよ

しおれた夜が明るくなるの

虫がなくたび発泡したら

シャンパンみたいにとっておきだよ

いびつな夜がくすぐったいの

 

虫がなくたび発電したら

エネルギーみたいに重宝だよ

あわれな夜があたたかくなるの

 

胸の内を去来する戯言

月の光に仄白く浮かんでは

寄る辺のない夢と揺れていた

 

目を閉じていつまでも

物憂い秋の夜長を

虫の声のゆりかごに揺れていた

 

 

【・コスモス・】

 

コスモスに繕う風の衣に

風が吹くほどに

袖を通してみたら

しなやかで軽やかな肌触り

 

戯れ流れてゆく今を

十字に仰いだ空

果てしない天井を創りだして

空気の層が粛々と膝を伸ばしている

 

降り注ぐ光を追いかけて

姿をあらわす天使がところどころで

 

おもしろそうに私を見つめる

薄物の私を

 

そのほかに身に付けてるものは

首に繋いだその言葉

耳に留めたその思い

指に通したその約束

 

薄紅色の秋の衣に隠された暗号

細かく切れ込んだ葉のかたちは

ばらされず破られず

そよそよと応答を求めている

 

空をいっそう青々とかみしめた

 

 

【・金木犀・】

 

出し抜けに立っていた丸い夜

日射しを受けてぽっかり街かどにいた

それは暗闇を夢想した木

 

そこで打ち上げられた金木犀の花火

オレンジ色の星がそこはかとなく

ストップモーションで広がりを呈している

 

秋の麗らかな梯子を伝って

何食わぬ顔でぼくの胸へ降り立つ芳香たち

 

人の体は水面のように柔らかくて透明だから

安心して消えてしまってね

 

君たちの歓喜は

体温に溶けると安息をもたらしてくれる

ゆとりはほろほろと背中をゆるませる

 

翼を生成して

ぼくは黎明へと飛び立った


例外者たちの宴3  秋      那智タケシ

・短編小説

 

 例外者たちの宴3                 那智タケシ

 

  秋

 

この季節になると思い出す人物がいる。秋のメランコリーに浸るわけではないが、街路樹が風に揺れ、金色の木の葉のシャワーを降らしているのを見ると、「あんな人がいたなぁ、今、どうしているのかなぁ」などと思うのだ。もちろん、たいがいの時は忘れているし、自分の人生の中でそれほど大きなウェイトを持った存在ではないのだが、どういうわけか、決して心の片隅から出ていかない人物というのがいるのである。

 

 十二、三年ほど前のことである。定職にも就かず、博打に明け暮れる日々を送っていた私は、出会い系サイトにはまっていた。無頼を気取ってはいたものの、元来、内気な性質でナンパはおろか、キャバクラなどの夜遊びもしたことがなかった私にとって、この「出会い系」なるものの登場は、人生を変えるほどの出来事であった。私は水を得た魚になった。どういうわけか、次から次へと興味深い女性と出会い、女性というものはどんな存在か、といったことや、メロドラマから精神病的関係まで、生きた人間関係の機微というものを二十代半ばにしてようやく学ぶことができたからである。当時はサクラが少ないこともあったが、それにしても苦することなく、様々な女に出会う自分に対し、若い雀友が聞いてきたことがある。

 

「どうしてそんなに出会えるんですか? 自分はなかなかヒットしないんですが」

 

「きみは気取っているから会えないんだよ。自分を自分以上のものと見せている。どんなにうまくやっても、相手は、なぜかそういうのはわかってしまうんだよ」

 

 そんな風な知ったようなことを答えていたが、本当は、私にも理由はわからなかった。

ただ、人間は、見た目やお金よりも真実を求めていることを本能的に知っていたように思う。出会いというのは結局、そういうことなのだ。みんな生きた人間の真実と触れ合うために、もう一人の他者を求めているのだ。だから低次の欲望だけで相手を求めていた場合、その出会いは失敗に終わるか、仮に出会ってもろくでもないことにしかならないのである。私は、身をもってそれを知ったのだった。

 

 ヒロムなる人物に新宿で会ったのは、世紀も変わり、ようやく残暑も終わりかけた十月の初旬のことだったと思う。ヒロムといっても男性ではなく、もちろん女性である。本名は裕子(ひろこ)というようだったが、ヒロムは、イラストレーター志望の彼女が自ら作ったペンネームということであった。

 

「裕子って名前、嫌いなの」とヒロムは言った。

「どうして?」

「おじいちゃんがつけたんだけど、ある人物の名前から取ったから」

「ある人物って?」

「昭和天皇」

「裕仁様ね。そっち系の人だったんだ?」

「戦争には行ってないけど、そっち系だったの。でも、私はそっち系でもどっち系でもありたくないの。だから嫌いなの」

「どっち系って?」私は笑って聞いた。

「私は、何ものにもなりたくないの」とヒロムはどこか思いつめた、頑なな口調で言った。「右にも、左にも、男にも女にもなりたくない。だからヒロムにしたの」

 

 彼女は、二十歳前後に見えたが、実際は二十三歳ということであった。百五十センチにも満たない、痩せた、少年のような体型をした女性で、顔つきもまだ輪郭の定まっていない子供のようなあどけないものだった。ショートの髪は完全な金髪で、古着を上手に着こなし、外交的な話し方を心得ていて、一見、ちょっとサブカルにはまった今風の子に見えたが、話は、怪しげな方向に向かっていた。

 

「私ね、薬をやっているの」

「薬って?」

「スピードとか」

「そうなんだ、でも、やばくない?」

「だから最近はマジックマッシュルームとかやってる」

「やるとどうなるの?」

「ふわっとする」

「ふわっと?」

「うん、世界が回ったり。でもそれだけ」

「何のためにそんなことをするの?」

「私ね、頭の中に雑音がするの」

「雑音って?」

「テレビの砂嵐みたいに、ノイズがしているの。そのノイズをなくしたいのよ」

 

 それから、話は瞑想や、スピリチュアルマスターの方向へと流れていった。どうやら、ヒロムは私のことを同種の人間とみなしたらしく、安心してラジニーシやクリシュナムルティのことを語りだした。私は、モーニング娘の中にでもいそうな金髪の若い女性が、このような話題を振ってくるとは思わなかったので、楽しげに聞いていた。しかし、ヒロムの口調の中には共感者に出合った喜びというよりも、今にも切れそうな張り詰めた弦のような真剣さがあり、それが私の胸をどこか苦しくさせた。

 

「私、毎朝、井の頭公園にいるんだよ」

「何してるの?」

「座禅組んでる」

 私は、思わず笑い出してしまった。

「おかしい?」

「おかしくはないよ。でも、なんか笑えるじゃん」

 

 ヒロムは心外そうにしていたが、私は小ばかにして笑ったわけではなかった。今時のギャルのような見た目のヒロムが、まだ夜も開けきらぬ早朝、井の頭公園の木の下で必死に座禅を組んでいる姿を想像すると、そのギャップが面白く感じられたのである。しかし、そこまでやるからには、きっとヒロムの絶望は、彼女の軽やかな口調や身振りよりもはるかに深いものであることが察せられた。

 

 それから、ヒロムとは友人として二年ほど付き合った。当時、私に付き合っていた女性がいたこともあるが、彼女とは男女との関係にならなかった。実際は、粉をかけて何度か振られたこともあるし、ヒロムにも彼氏がいたりいなかったりした。それでも、私たちはお互いをそのような俗世の関係とは異なる、特殊な席を占める存在とみなしており、男女の関係を超えた深いつながりを感じていたように思う。最後は、二人で伊豆にあてもない旅行に出かけた際、その一線を越えようとした私に嫌気がさしたのか、「しばらく会えない」というメールがきて、そのままになってしまった。半年ぐらいしてメールをすると、連絡先が変わっていたので、彼女とはもう二度と会うことはできない。

 

 ヒロムには言わなかったが、知り合ってから一ヶ月ほど経ったある日、座禅する彼女の姿をこっそり見に行ったことがある。新宿で明け方まで徹マンをしていた私は、もしかしたらヒロムがいるかもしれないと思い、始発の電車に乗って井の頭公園に足を運んだ。別段、彼女がいようがいまいが、本当はどうでもよかったし、実際にいるとも思っていなかった。狭苦しい雀荘で一晩中、煙草の煙と欲得にまみれた汚い空気を吸っていたのだ。ちょうどよい朝の散歩になるのだろう。

 

 散歩道から少し離れた、奥まった林の中にある巨大な銀杏の樹の下で、ヒロムは眼を閉じて座っていた。足はしっかりと結跏趺坐で組まれ、手は仏像のそれと同じく、法界定印を形作っていた。眼は固く閉じられていて、何か口の中でぶつぶつとつぶやいているようだったが、何を言っているのかわからなかった。

 

 まだ暗い最中、金髪の少女――なぜか少女のように見えた――が必死に生きるか死ぬかの座禅をしている。その姿は美しくもあり、痛ましくもある、胸が打たれるものであった。ふと、どこからともなく大きな風の塊がやってきた。あたり一面の樹木の枝葉が、まるで危険を察した動物たちがいっせいに動き出すように、ザワザワカサカサと激しく揺れた。ヒロムの背後の銀杏の樹の枝葉も風に揉まれて激しく揺れ、黄金色の枯れ葉が頭上からシャワーのように降り注いだ。その金色のシャワーは、まるでヒロムの輝かしい未来と愛をそっと約束する恩寵のように見えた。

 

 ヒロム、眼を開けてごらん。美しい光のシャワーが見えるよ、と私は念じた。

 

 しかし、ヒロムは眼を開けなかった。眉間に皺を寄せ、苦しそうに呪文を唱えながら、まだ見ぬ光の可能性を探して、暗闇の中で煩悶していた。しかし、その姿は限りなく美しく、何ぴとたりとも彼女に近づくことは許されなかった。

 


アフォーダンス理論について 

◇評論 

 

アフォーダンス理論について   高橋ヒロヤス

 

アフォーダンス理論というのをご存じだろうか。この理論は、認知科学の分野に革命的な変化をもたらすものであり、21世紀の科学全般にも大きな影響を与えつつある。

 

ウィキペディアには、次のような説明がある。

 

(以下引用)

 

アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学、生態心理学の基底的概念である。「与える、提供する」という意味の英語 afford から造った。

 

アフォーダンスは、動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値であると定義される。

 

(引用おわり)

 

これだけでは何のことかよく分からないと思う。

 

私も十分に分かっているとは言えないが、この理論に直感した画期的な部分を述べてみたい。私が思うに、この理論はまさに「無我表現」についてのものだ。

 

300年前のデカルト以来、これまでの科学(生理学、心理学なども含む)では、人間や動物は、知覚器官を通して外部の環境から「刺激」を受けて、その刺激が、「頭脳(中枢)」を経て「情報」となり、その情報に基づいて自己という主体が判断を下し、その結果として個々の行為や行動が起こるのだ、とされてきた。

 

しかし、アフォーダンス理論では、そうは考えない。

 

「情報」は、はじめから環境に内在しており、私たちの「知覚」とは、それら環境に内在する情報を探知するためのものだという逆転の発想を取る。

 

これはつまり、「行為や行動は、頭脳を経由しなくても起こる」ということを意味する。言われてみれば当たり前のことかもしれない。しかしアフォーダンス理論の重要な部分は、「与えられた環境の中で最適な行為は、頭脳(中枢)を経由しないときに起こる」という点にある。ここでいう「頭脳」を「自我」と言い換えてもよい。

 

身近な例を挙げれば、時速150キロで向かってくる野球ボールをジャストミートする動きは、頭脳を経由して行われるものではない。そこでは途方もなく微妙な瞬時の判断と、とてつもなく複雑な肉体器官の制御が行われているが、それを行っているのは「自我」ではない。

 

グレゴリー・ベイトソンという人は、同じことを別のたとえ話で次のように語っている。

 

「きこりが、斧で木を切っている場面を考えよう。斧のそれぞれの一打ちは、前回の斧が木に刻んだ切り目によって制御されている。このプロセスの自己修正性(精神性)は、木-目-脳-筋肉-斧-打つ-木のシステム全体によってもたらされる。このトータルなシステムが内在的な精神の特性を持つのである。」

 

「ところが西洋の人間は一般に、木が倒されるシークエンスを、このようなものとは見ず、『自分が木を切った』と考える。そればかりか、“自己”という独立した行為者があって、それが独立した“対象”に独立した“目的”を持った行為をなすのだと信じさえする。」

 

「精神的特性を持つシステムで、部分が全体を一方的にコントロールすることはありえない。」「システムの精神的特性は、部分の特性ではなく、システムの全体に内在する」「調和的に働く一つの大きなアンサンブルにこそ、精神は宿るのだ」

(『精神の生態学』、佐藤良明訳、思索社、1990年)

 

ここでベイトソンが言っているのは、「主体としての<自己>が対象としての<木>を伐った」という従来の考え方が誤りであるということだ。きこりが木を伐る行為の中には一連のシステムのうねりというものがあって、そこでは自己と対象の間に分離はなく、「精神性」と「システム」も切り離して考えることなどできない。

 

私たちの「知覚」は、周囲に存在する環境と私たちの相対的な関係により獲得されるのである。だから、環境がなければ私は存在しない。つまり、環境は私である(「世界は私である」)。

 

このことは、前回のメルマガで述べた、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の考え方とつながってくる。

 

言語ゲームにおいては、「行為の原因として何らかの実体としての精神(自我)が存在する」という考え方は取らず、個々の行為それ自体が意味の実体化(意味そのもの)であるとされる。

 

行為の背後に「自我」という幽霊のようなものが存在するのではなく、行為それ自体が即世界であり即自己なのである。具体的な行為を離れたところに「意味」や「価値」があるような気がするのは言葉の誤用によって生み出された幻影に過ぎない。

 

アフォーダンス理論は、認知科学の分野に言語ゲームを持ち込んだものであるといえる。環境がアフォードする(与える)ものは、言語ゲーム的情報である。

人工知能やロボット制御の分野では、この理論が活用されて、大きな成果が上がり始めているという。

 

従来のロボットは、「刺激に反応する複雑な機械」という人間観に基づいて、できるだけ人間の頭脳に近付けるために刺激に対する処理能力を上げることが課題だった。しかし、アフォーダンス理論によって、人間や動物は刺激に反応する機械ではなく、アフォーダンスの知覚という今まで知られていなかったシステムによって行動することが明らかになった。

 

「アフォーダンスは刺激ではなく「情報」である。動物は情報に「反応」するのではなく、情報を環境に「探索」し、ピックアップしているのである。…アフォーダンスは、刺激のように「押し付けられる」のではなく、知覚者が「獲得し」、「発見する」ものなのである。」(佐々木正人『アフォーダンス 新しい認知の理論』p63

 

歩いたり跳んだり物を持ち上げたりといった単純な動作のみならず(「単純な動作」とは言っても、骨、筋肉、神経系などの系統だった運動を可能にする肉体機構そのもののメカニズムはおそろしく複雑である)、もっと「高度な」行為、例えば、今日の昼飯はどこで何を食べるかといったことに始まって、私生活上や仕事上の大きな決断をするときなど、明らかに人為的な意思決定に基づいて行われる行為についてはどうか。

 

それもまた大きく言えば、アフォーダンスの中での行動なのである。すなわち、所与の環境の中で活用可能な情報を知覚することから行われる行為であることに変わりはない。

ここでも、「生物のあらゆる行為は生物の自律的な判断の結果ではなく、環境と生物との共同作業で自然に生まれたものだ」というアフォーダンス理論が適用される。

 

だから、最初に述べたことに戻れば、いかなる環境においても、自我(頭脳)の判断を経由しなくとも、意思決定は可能であるということである。むしろ、自我の判断を経由しないときにこそ、最適解が生まれるのだといえる。

 

情報を(自我が)解釈して「意味」になる、というのは旧来的な二元論的発想である。

情報が解釈されて「意味」になるのではない。意味は環境の中にすでに内在している。そして、意味とは具体的な行為を離れたところに存在するのではない。

 

アフォーダンスの考え方では、「学習」というのは知識を蓄積し、知識に基づいた判断力を磨くことではなく、環境に内在する情報を瞬時に引き出し活用する能力を発達させることを言う。そのためには、できるだけ多くの気づきを環境から得ることのできる研ぎ澄まされた感覚が必要になる。

 

さらに、アフォーダンスは「独我論」(経験は「私」だけのものであり他者と共有することは不可能であるという見方)を否定することにもつながる。これについての詳細な説明は後の機会に譲ることにする。

 

以上、ほんのさわりの部分を述べただけだが、アフォーダンス理論が「無我表現」について語ったものであることはなんとなく伝わっただろうか。

 

アフォーダンス理論の発想は、確実に「無我表現」のパラダイムとつながっている。

ウィトゲンシュタインと並行して、今後もう少し考察を深めていきたいと思っている。

 

参考文献

佐々木正人『アフォーダンス -新しい認知の理論』1994年 岩波書店

佐々木正人『アフォーダンス入門』1996年 講談社学術文庫

グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』、佐藤良明訳、思索社、1990

川村 久美子 論文『アフォーダンス理論がもたらす革命』

 (http://www.yc.tcu.ac.jp/~cisj/02/2-3.pdf

高橋久美子 論文『心霊科学上の諸問題に関する哲学的考察』

 (http://777.littlestar.jp/sp/wet.htm


原発弁護団から見える風景 

◇社会

 

原発弁護団から見える風景      弁護士 高橋弘泰

 

2011311日以降の福島第一原発事故によって、原発付近に住んでいて避難生活を余儀なくされた被害住民たちが、日常の破壊、地域コミュニティの破壊、深刻な放射能汚染による生活全般の破壊などに対し、東京電力に損害賠償を求めている。

東京電力は、自ら決定したスキームに従って、きわめて複雑で煩雑な請求書を被害者たちに送付し、賠償手続きを進めている。しかし驚くべきことに、東電の賠償金の中には、上記のような「当たり前の日常生活が奪われたこと」に対する賠償(慰謝料)は含まれていない。東電のいう「慰謝料」というのは、「避難生活をしたことによる日常生活阻害」に対するものだから、避難生活が終われば賠償は原則として打ち切られる。しかも、いったん東電に直接請求をして賠償案に合意すれば、将来それ以上の請求はできないという清算条項が当初は設けられていた(これについては社会的に非難を浴びて今は撤回されている)。

そのような、加害者である東電が一方的に決めた方針に唯々諾々と従うことには納得できないという被害者が当然ながら大勢いる。

そういう人たちが、自力で東電に立ち向かうことは難しいので、代理人として賠償請求を行っていくため東京の弁護士たちが弁護団を結成した。私もその弁護団に入り、微力ながらお手伝いさせてもらっている。

福島から全国各地に避難した方々のうち、都内で避難生活を続けている人と、地元に残って暮らしている人の両方について手続を進めている。具体的には、この賠償に関する紛争を仲裁するために国が作った原子力紛争解決センターというところに和解仲介の申立てを行っている。

都内の人は東京で打ち合わせをするが、地元の人たちと打ち合わせをするためには、月に1回位福島に行く。先日も、南相馬市に行って、集団申立ての説明会と打ち合わせをした。

南相馬市は、福島第一原発からおよそ20キロ~30キロ圏内にある。放射能による警戒区域設定のため、常磐線が不通のまま復旧のめどが立たず、南相馬市は陸の孤島になってしまった。打ち合わせの会場に行くためには、福島駅から険しい山道を約2時間かけて車を飛ばすことになる。

会場の入り口には放射能測定器が設置されていて、今も毎時0.34マイクロシーベルト以上の値が出ていた。避難生活に疲れ、地元に戻って来る人も多いが、子供や若い人はやはり戻って来るのをためらうため、地元に暮らすのは比較的高齢者になり、多くの家族は分断されたままになっている。

賠償をもらったからといって、将来の生活への不安が消えるわけではない。放射能の心配が今の場所ほど深刻でない離れた地域に生活の本拠を移せるだけの賠償を受けることが最低限の要請だが、それが叶ったからと言って、失われた地域生活のコミュニティのつながりは戻ってこない。

単純な金銭賠償で事態が解決するものではないことは百も承知しながらも、被害者たちの声なき声を国や東電にぶつけていくためにはこのやり方も必要なプロセスではあると思っている。

賠償請求を行っていく中で、東電や国(紛争解決センター)のやり方に憤りを感じることもしばしばある。請求する金額については異常に細かい裏付け資料を用意することが要求される。避難生活のドタバタの中で集めた膨大なレシート類を整理する作業だけでも申立人である住民たちは相当な負担を強いられる。しかしそうした被害者の苦労はなかなか報道されない。

日本国土を覆う放射能汚染の被害が、終わりの見えないまま日々継続している一方で、原発を再稼働し、さらなる建設を行おうとする国の方針が、国民の反対の声を押し切って進められていこうとしている。

弁護団では、これまでは敢えて「反原発」を正面から掲げることはしていない。地道に被害者の声を訴え続けていくことで、ボディーブローのように影響を与え、やがては国家賠償へと発展していくことになるだろう。その時は近づいている。



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