目次
MUGA11号
目次
季節の詩     rita
第一回ウルトラリンパ講座
狙うは“メッシ(滅私)”効果?  那智タケシ(ライター)×松本成悟(農家)
物質的問題(material question)について J.クリシュナムルティの場合
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 「ユア、山菜採り」
編集後記
MUGA12号
目次
季節の詩     rita 
宮本武蔵に通じる「自分に勝つ」力  菊池クミユキ
狙うは“メッシ(滅私)”効果? 後編 
0円ハウスに住む新政府総理大臣~無我的生き方の実践例としての坂口恭平
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 「夏至」(最終回)
編集後記
MUGA13号
目次
季節の詩     rita
例外者たちの宴1 鎮魂歌     那智タケシ
書評:『スプーン』、『オカルト』森達也著
現代女優試論
「1未満であることの大切さ」    たまちゃん×那智タケシ
編集後記
MUGA14号
目次
季節の詩     rita 
例外者たちの宴2 白竜様   那智タケシ
無我表現という言語ゲーム 
あっちゃん卒業に思う
ウルトラリンパ講座 番外編
「変身願望を直視する」     たまちゃん×那智タケシ
編集後記
MUGA15号
目次
季節の詩     rita 
例外者たちの宴3  秋      那智タケシ
アフォーダンス理論について 
原発弁護団から見える風景 
「新しい教祖を作らないために」     たまちゃん×那智タケシ
編集後記
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編集後記

★編集後記

 

今月はオリンピック真っ盛りで、ついつい夜更かしをしてしまいました。なでしこは相変わらず良いチームで、個人を超えたものが宿っていましたね。勝っても負けても良いものを誰もが感じ取ったのではないでしょうか。男子サッカーはおそらく勝っても負けても良くないものが残ったと思いますが、これは政治的メッセージうんぬんではなく、個人的にも国家的にもエゴ対エゴになってしまったからのような気がします。前者はライバル同士の「調和」の場がありましたが、後者は「衝突と破壊」しかありませんでした。

 7月にたまちゃんとお話した時の模様を掲載させてもらいましたが、これでもだいぶソフトにしています。おかげさまで刺激的な内容になったと思いますが、今後も様々な人との出会いと感じ合う「調和」の場を大切にしていければと思います。(那智)


目次

MUGA 第14

「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

 

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

 

◆目次

 

◇アート

 

・詩

 

『季節の詩』     rita

 

・短編小説

 

「例外者たちの宴2」 白竜様 

那智タケシ

 

 

◇評論

無我表現という言語ゲーム 

高橋ヒロヤス

 

◇エッセイ

 

あっちゃん卒業に思う

高橋ヒロヤス

 

                                     

◇セラピー

 

ウルトラリンパ講座・番外編

 

◇対談

 

根元共鳴×無我表現 2 

 

「変身願望を直視する」    たまちゃん×那智タケシ

 


季節の詩     rita 

◇ア

 

★詩

 

季節の詩     rita 

 

【・萩・】

 

夏と秋 月と下露 真相とでたらめ あなたとわたし

それらを受け渡す橋

ただちに 緩やかに

 

くいちがう骨 上の空の時間 矛盾したページ 会話とわたし

それらを繋げる岸

淡く 堅く 

 

こぼしてもこぼしても芽吹いては

無数の想いを抱く腕を

しなやかに差し伸べる

 

その腕の中で

どんな存在も自由だった

居場所はどこにでもあって 気遣うこともなかったの

 

咲くものと散るものと

わたしは、ここに来たばかりの

まだ色のない蕾

 

手にキスをして 許容して 包容の籠を編めるほどたわませて

そしていかなる心も壊さないで

 

 

【・蜩・】

 

かなかなかな

 

頭の中に反照する今日

 

蜩のねぎらい

一日おつかれさま。と

 

なぐさめられる

 

緩まりし

ぼくの影法師

 

 

【・韮・】

 

韮の花が咲いている

逆さまの国の人が

道ばたで線香花火をしているの

 

上と下

昼と夜

赤と白

 

逆さまの牡丹

逆さまの松葉

逆さまに燃える心が

 

咲いている

 

 

【・酔芙蓉・】

 

白いスカートを

青空に翻す麗しさよ陽光に透かす眩しさよ

 

陰りのない丘の稜線で太陽を見つめる乙女のすがた

高く輝ける愛し君へ馳せる想いを

 

白い雲は二人の視線を遮らないでしょう

蝉の声は二人の仲らいに干渉しないでしょう

 

芙蓉の総身には豊かな喜びが注がれているのに

 

はにかんでいるのかしらふくら面なのかしら

 

少しづつ彼が離れていく午後2時の

紅潮を滲ませた恋心は複雑に

 

弄ばれるくらいな情動を帯びた午後5時の

花唇は赤く火照っている

 

日没に今日の心模様は閉じられてひとつ、ふたつ

永久の記憶に結ばれるよう

 

深く深い眠りへ染み透りゆき

 

明日の目覚めは純白にそれは艷やかなものとなる

 


例外者たちの宴2 白竜様   那智タケシ

・短編小説

 

 例外者たちの宴2                 那智タケシ

 

  白竜様

 

 それはかの大貴族、藤原家の血を引くという家系の家だった。私はとある亡くなった人物の伝記の取材で、愛知県のO市を訪れていた。自費出版の単行本の取材で、依頼してきたのは、癌で亡くなった奥様の旦那さんだった。三年前に亡くした最愛の人物の思い出を残したい。これは誰にでもわかる人間的な心情であるだろう。形にするのにプロの手を借りるのは、別段、恥ずかしいことではない。取材の最終日、義理の娘を失った母親の話を聞くために、この古めかしくも高雅な佇まいを持つ日本家屋を訪れたのである。

 

 玄関先には、小さな祠があった。中を覗くと、直径一メートルばかりの楕円形をした大きな石が祭られていた。石には蛇が這っているような白い網の目の模様があり、「白竜様」として祭られているらしい。白竜様とは、神の使いとされている白蛇に由来する。

 

「地元だけではなくて、大阪からお参りに来たりするんですよ」と依頼主のM氏は言う。

「でも、白竜様って何ですか?」と私は聞いた。「この辺りの民間信仰か何か?」

「いや、ちょっと母親が見たもので…」

「お母さんが?」

「少し変わった人なので、驚かないでくださいね」

「変わった人?」

「何でも、いろいろ見えてしまう人ということで、白竜様の先生と呼ばれているんですよ」とM氏は皮肉っぽく言った。「まぁ、少しぼけているだけかもしれないですけどね」

 

 M氏に続いて、玄関からお邪魔すると、小さな室内犬が甲高い声で吠え立てる。知らない人間――とりわけ男性――には吠えるらしい。

 

 陰気なきしむ廊下を歩き、いくつかの畳ばかりの和室を通り過ぎた後、行き止まりの右手に小さな部屋があった。M氏に続いて中に入ると、夏だというのにコタツがあり、そこにちょこんと一人の老婆が座っていた。八十三歳になるというお母さんだった。息子が四十歳だから、相当な遅っ子である。小柄で白髪のお母さんは、きらきら光る邪心のない目で、興味深そうにこちらを見つめている。何やら、本当にうれしそうだ。

 

 挨拶を交わし、しばし義理の娘さんの思い出話をうかがった後、白竜様の先生はこう言った。

 

「手を見せてごらん?」

 手相を人に見てもらったことはなかったが、素直に両手を差し出した。

「あなた、神社で手を合わせているね?」先生はいきなりこう言った。

「はい、合わせています」と私は驚いて答えた。「近くにあるもので。別に神頼みはしませんが」

「それは良いことだ」と先生はうれしそうに言って、左手をじっと見た。

「おや、あなた、苦労してきた人だね」意外そうにつぶやく。

「そうは見られませんが」私は苦笑して言った。

「こちらの手には努力と苦労が現れている」と左手を見ながら言った。「でも、こちらの手(右手)には何もないね。努力はない。人に恵まれて、運をもらって生きている」

「そんなに恵まれていますかね?」私はシニカルに聞いた。

「この線」と右手の中指の下の方の線をなぞる。「この線がこんなに上まで延びている人は、あなたの年ではなかなかいないよ。人に引き上げられる線がある。だから今は人とぶつかってはいけないよ。何かおかしいと思うことがあっても、頭を下げていなさい」

「おかしいと思っても?」

「そう、目礼で良いんだよ。ありがとう、と言う必要はない。頭を下げるのはただなんだからね」

「なるほど」私は内心、どきりとして言った。ちょうどその時、私には他人から葛藤を与えられるような不条理な出来事があり、どう対応すべきか悩んでいたのである。

「あなたにとって敵と思える相手ほどね、強い運を持っていたりする。あなたは頭を下げることで、その人の運をもらうことができるんだよ。だから今は反発しないの」

「今は?」

「その時が来たら、言ってもいい」

「その時とは?」

「それはあなたが誰よりもわかっている。あなたはどちらにしろ、ものごとをはっきりと人だからね」

「わかりました、ありがとうございます」私は礼を言って、微笑んだ。自分の中のわだかまりがすべて氷解してゆく心地よい気持ちと、本質を射抜く老婆の慧眼に感心していた。

「手相を勉強されたのですか?」と私は聞いた。

「白竜様が教えてくださる」と老婆は答えた。

「お母ちゃん、手相を見てもらいに来たんじゃないんだよ」と犬と戯れていたM氏が口を出した。「この人は忙しい人なんだから、取材に来たんだから」

「そうか、そうか」と老婆はわがままで聞き分けのない孫に対するように言った。「でもね、この人の大事な未来がかかっているんだからね。黙ってはいられないよ。それにね、あなたの人生だってこれからじゃないの? 私はこの人を通してあなたにも聞いて欲しいの」

 

 内心、バツが悪かった。私はあくまで名もないゴーストライターである。無色透明の受け手であることが望ましいし、主役であってはならない。ましてや、M氏は現在、無職なのだ。同年代の他人を褒める母親の言葉が面白いわけがあるまい。強引に話を引き戻し、取材を続けていると、玄関から誰かが入ってくる音がした。

 

 部屋に現れたのは、五十歳くらいの冷たい顔をした美しい女と、中学生くらいのひょろりとした穏やかな雰囲気を持つ少女だった。M氏の姉と娘さんということらしい。今日は年に一度の大花火大会のため、娘を浴衣に着替えさせるため、実家に寄ったのである。

「この子はね、霊感があるんだよ」先生は孫を指差し、うれしそうに言った。

 

「ないない」と冷たそうな母親が嫌そうに言った。

「いろいろ見えるんだよ」と先生はかまわず言った。

「見えないよ」と母親は否定した。

 

 ユリと言われている少女は、来客がいることなど関係なしにコタツに入り、携帯をいじり出した。

 

「この子、良い子なんだよ、わかる?」先生は私に聞いた。

「わかります」

「毎日、私に元気かって、電話をくれるんだもんね?」先生は孫に微笑みかけた。

 ユリという娘は何も言わずに顔を上げ、にこりと笑った。

「この子が普通でないのもあなたならわかるでしょう?」

「わかりますよ」

「今はね、見ないようにさせているの」と先生は言った。「ほら、勉強があるでしょ? 気が散るからね」

「なるほど」

 

 すると、娘の母親は嫌そうに部屋から出て行って、隣の仏間で父のために線香を上げ、般若心経を唱え始めた。ちらりと見ると、空で唱えている。

 

「うちの家系は、みんな空で唱えられるんですよ」とM氏が説明した。「ユリも唱えられるもんな。全部唱えられないのは俺だけ」

「ぼくも覚えたいと思っているんですが」と私は言った。

「覚えると良い」と先生は言った。「般若心経があなたを助けてくれる」

「ユリ、金をくれ!」いきなりM氏が叫んだ。どうやら、名家では落ちこぼれにあたるM氏は道化めいた役回りを心得ているらしい。

「ない」とユリはのんびりした口調で答える。

「金を貸してくれ!」

「ないよ」とユリは言って、再び携帯をいじり出した。

「ユリちゃん、この人を見てごらん」と先生が私を指差して言った。「どう思う?」

「すごい」とユリはこちらを見て、ひとこと言った。

「事故はどう?」

「知らない」

「気を使わなくていいんだよ」と先生は優しく言った。

 ユリは、何も言わずにうつむき、携帯をいじり出した。

「白竜様って何ですか?」と私は聞いた。

「夢に出てきたの」と先生は言った。「降りて見えられてね、あの石に宿ったって。そしたらね、翌朝、石が私を見ているの。怖い、怖い。じっと見ているんだから。これは祭らなきゃいけないと思って」

「それでいろんな人が訪れるようになった?」

「でも、白竜様は気位が高いと見えてね、近づけない人は近づけないんだよ」

「近づけない?」

「そう、敷地に入って来れないって」

「今、白竜様はここにいますか?」と私はずばり聞いた。

「いるよ」と老婆は言った。「いるよね? ユリちゃん」

 少女は携帯から目を上げ、小さく頷いた。

「ほら、感じるだろう?」と老婆は左手の背後をちらりと見て言った。「そこにとぐろを巻いていらっしゃる」

 

 私は、その視線の方向に恐る恐る目をやった。確かに、何かがそこにいるのを肌で感じた。手に取れるほどリアルな何かが、そこに存在していた。それを感じているのは、先生と、ユリと、私だけであった。M氏は何も感じていなかったし(我々の会話に対して、呆れているようであった)、般若心経を唱え続ける娘の母親は、感じる力はあっても、あえて触れないように生きているようであった。おそらく、この人がこの家系では、もっとも複雑な人生を送っているのであろう。興味を引かれたが、心は、こちらに対して固く閉ざされていた。

 

 帰り際、出迎えの時に吠えた犬が、老婆と一緒に見送りに道路に出て来てくれた。私は、深々と頭を下げていた。それは一期一会の出会いに対する感謝からだけではなく、目に見えぬ巨大な存在に対する、畏敬の念からでもあった。

 別れ際に、白竜様の先生はこんな短歌を送ってくれた。

 

踏まれても 根強く忍べ 道芝の やがて花咲く 春もくるかな

 

M氏の車に乗り込み、出発する。後を見ると、いつまでも見送ってくれる先生の小さな姿が見える。

 

「すみませんね、おかしな母親で」とM氏は言った。「いつもああなんですよ。だから友達も連れて行けない」

「すばらしいお母さんじゃないですか」と私は言った。「でも、ユリちゃんもとても良い子ですね」

「ユリにはお母さんの力が全部いったみたいね」M氏は興味なさげに言う。「俺には何もないのにな」

 

瞬間、まだ明るい夕暮れの空に、一つ、花火が上がる音がした。試しの打ち上げだったのだろう。音ばかりで見えない花火に違いなかったが、どういうわけか、私の目には、確かにその美しい色と形が見えたのである。

 

 

※この小説は、実話を元にしたフィクションです。

 


無我表現という言語ゲーム 

◇評論 

 

無我表現という言語ゲーム 

高橋ヒロヤス

 

【ウィトゲンシュタインという人】

 

ウィトゲンシュタインという哲学者の名前を聞いたことのある人は多いだろうが、彼がどんな人生を歩んだかについて知っている人は少ないかもしれない。

 

富裕なユダヤ人家族の子としてウイーンに生まれた。芸術的才能に恵まれた血筋の中で、本人は機械いじりが好きで、工業高校に通う。一時はヒトラーと同級生だったらしい。第一次世界大戦には兵士として積極的に危険な任務に志願した。イギリスで哲学者バートランド・ラッセルと出会い、論理学と哲学に目覚める。その後も、小学校の教師をやったり、建築に携わったり、単なる哲学者のカテゴリーには収まらないユニークな人物である。彼の人生について語るだけでも何冊もの本が書けるほどである。

 

ウィトゲンシュタインについては、「語りえぬものについては沈黙すべきだ」という命題が有名だ。これは彼の前半生に書いた『論理哲学論考』の結論である。彼はこれを書き上げた後、哲学が言うべきことはもうないとして、哲学を離れていろいろな仕事に挑戦している。哲学を考えるのではなく、哲学を生きる時代に入ったわけだ。

 

しかし、その後、再びある考えに思い至り、コミュニケーション行為に重点を置いて自らの哲学の再構築に挑むが、結局、これは完成することはなく、この世を去ったといわれている。

 

後期のウィトゲンシュタインが提示した「言語ゲーム」という考え方は、それまでの哲学の系譜とは異質な、おそろしく斬新な視点を含んでいた。

 

哲学者の池田晶子氏はそれをこのように表現している。

 

「たとえば、<神が『光あれ』と言うと世界が生まれた>という記述について、哲学者たちは、神とは何か、世界とは何か、なぜ神はそう言ったのか、神と世界の関係は何か、『光あれ』という言葉の意味は何か、光とは何を象徴するのか、などについて考えてきた。しかし、ウィトゲンシュタインの発想は完全にぶっ飛んでいる。彼はこう問うのだ。

――神はなぜ『光あれ』と言う代わりに、背中を掻かなかったのか?」

(池田晶子著「考える人―口伝(オラクル)西洋哲学史」より要旨引用)

 

いずれにせよ特異な哲学者であったことは間違いない。ウィトゲンシュタインは、新たな哲学の学説を考案したり思想を打ち立てたりすることにはまったく興味がなかった。彼が目指したのは、従来の哲学者や哲学を志す者たちが陥っていた「哲学的困惑」から人々を解放することだった。その意味で、彼の哲学は「治癒的哲学」とも言われる。

 

【ウィトゲンシュタインの言ったこと】

 

(ウィキペディアより引用はじめ)

 

後期ウィトゲンシュタインの最もラディカルな特徴は「メタ哲学」である。プラトン以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは喝破したのである。

 

(引用おわり)

 

これは、言葉の背後には意味があり、その意味を解き明かすことが哲学の役割であるという考え方にとって、コペルニクス的転換である。

 

彼は、非常に緻密で分かりにくい言い方ではあるが、これまでの哲学者たちに対して、「君たちの哲学的営みなるものはまったくのナンセンスにすぎない」と言っているのだ。

 

彼は、言葉の意味というのは、それが具体的に用いられる場面や行為を離れては存在しないと言う。

 

(ウィキペディアより引用はじめ)

 

言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。分かりやすい例をあげるならば、道端で人から「いま何時ですか?」と聞かれても答えに戸惑うことはないだろう。しかし、その人が続けて「じゃあ、時間とは何ですか?」と尋ねてきた場合には話が別である。ここで肝要な点は、「時間とは何か」という問いは(伝統的な形而上学のコンテクストにおいてはたえず問われてきたものの)事実上答えをもたない——なぜなら言語が思考の可能性を決定するものだと見なされているから——ということである。したがって厳密にいうとそれは問題たりえていない(少なくとも哲学者がかかずらうべきほどの問題ではない)とウィトゲンシュタインはいう。

 

ウィトゲンシュタインの新しい哲学的方法論には、形而上学的な真実追究のために忘れ去られた言語の慣用法について読者に想起させることが必要だった。一般には、言語は単独ではなんら問題なく機能するということが要点である(これに関しては哲学者による訂正を必要としない)。このように、哲学者によって議論されてきた"大文字の問題"は、彼らが言語および言語と現実との関係について誤った観点にもとづいて仕事をしていたためにもたらされたのだということを彼は証明しようと試みた。歴代の西洋哲学者は人々から信じられてきたほど「賢い」わけではないのだ、彼らは本来用いられるべきコンテクストを離れて言語を用いたために言語の混乱に陥りやすかっただけなのだと。したがってウィトゲンシュタインにとって哲学者の本務は「ハエ取り壺からハエを導き出す」ようなものであった。すなわち、哲学者たちが自らを苦しめてきた問題は結局のところ「問題」ではなく、「休暇を取った言語」の例にすぎないと示してみせることである。哲学者は哲学的命題を扱う職人であるよりはむしろ苦悩や混乱を解決するセラピストのようであるべきなのだ。

 

(引用おわり)

 

ウィトゲンシュタインは、哲学のための哲学や、議論のための議論を好むタイプではまったくなかった。というよりも、無用な哲学(哲学という名の下に行われる果てしない空論)を終わらせることに心を砕いたといってよい。

 

私から見れば、彼は魂の救済を求め続け、その方法を世に示そうとした求道者以外の何者でもない。

 

【言語ゲーム】

 

いったん哲学を放棄したウィトゲンシュタインが辿りついた「言語ゲーム」とは何なのか。

言語ゲームについての解説書からしばらく引用する。

 

橋爪大三郎著「はじめての言語ゲーム」より引用始め)

 

言語ゲームとは、一言でいえば、「ある規則に従った人々の振る舞い」のことである。

 

「言葉はなぜ、意味をもつのか。
言葉はなぜ、世界のなかの事物を指し示すことができるのか。
それは、言葉が、言語ゲームのなかで、ルールによって事物と結びつけられているからである。
そのことは、どうやって保証されるか。
そのことが、それ以上、保証されることはない。人びとがルールを理解し、ルールに従ってふるまっていること。強いていえば、それだけが保証である。」

 

「「机」という言葉を使う、言語ゲームがあります。(中略)

 誰か(Aさんとする)が、机はなにか、わかっているとする。

 あなたが、机がなにか、わからなかったとする。

 そこでAさんは、いろんな机を順番にもってくる。これも机。これも机。どの机も、ちょっとずつ違っている。形が違う。脚の数が違う。大きさが違う。色が違う。材料が違う。……。でも全体として、どこか似ている。(これを「家族的類似」という。どっかの家族みたいに、なんとなく互いに似ているのだ。)それを順番に見ていくうちに、あなたはやがて、机がなにかを理解する。そして”わかった!”と叫ぶ。

 わかってしまえば、もうそれ以上、机を持ってきてもらう必要はない。

 なぜ、わかったのか。

 それはわからない。とにかくわかった。では、机とはなにか。説明できるとは限らない。定義できるとは限らない。(中略)

 有限個(ごく少数)をみるだけなのに、数えきれない場合にあてはまる規則(ルール)を理解する。こういう、なんとも不思議な能力によって、人間は言葉の意味を理解する。」

 

「ここで、社会を見渡してみよう。

 人びとは、言葉をしゃべっている。「机」も、そうした言葉のひとつ。言語は多くの言葉からなり、それぞれの言葉が意味をもっている。

 それ以外に、人びとはさまざまにふるまっている。畑をたがやす、食事をする、服を着る、子どもを育てる、葬式をする、……。それらにも、規則(ルール)がある。

 こうしたことが、みな、言語ゲームである。

 社会は、言語ゲームのうず巻きである。

 言語ゲームは、私たちが住むこの世界を成り立たせていることがらそのものである。」

 

(引用おわり)

 

私の理解では、言語ゲームとは、無我表現のことである。

 

つまり、解釈もなく、選択もない、つまり自我による分別、操作的な活動が一切なくとも為される行為、自我の動きに先だって行われる表現、あるいは生成する現象。あるがままの世界の動き一切が言語ゲームといえないか。

 

言語ゲームという場合、そこには人間の活動(言語活動)が念頭にある。もっとも、必ずしも言語を用いる必要はない。非言語的コミュニケーションも言語ゲームに含まれる。

しかし言語ゲームという言葉が当てはまるのはやはり人間活動に限られるだろう。川が流れたり風が吹いて木が倒れるような自然現象を言語ゲームと呼ぶことはできないだろう。(若干議論を先回りすると、それらの自然現象を見て「あはれ」を感じることは言語ゲームの範疇にはいるだろう)

 

解釈もなく、選択もない、分別もない。つまり行為に先立つ意思というようなものはない。正確にいえば、意思は行為と離れては存在しない。それがあるように思うのは、「自我(分離した自己、エゴ)」が実在しないのに実在すると誤解していることと同じだ。

 

言語ゲームは、集合的無意識の働きでもなければ、仏教でいう無明とも違う。これも言葉の言い換えをすれば、「真如」とでもいうべきものだろう。

 

このような読み方が正しいのかどうかわからないが、ウィトゲンシュタインの仕事(彼が目指したもの)は、自我―すなわち自我に根差す思考・概念の無化作用という気がしてならない。

 

【確実性の問題】

 

ウィトゲンシュタインが死ぬぎりぎりまで取り組んだもう一つのテーマが、「確実性の問題」である。

 

(ウィキペディアより引用はじめ)

 

確実性の問題(:On Certainty、独:Über Gewißheit)はルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが死の直前に書いた覚え書きから編纂された哲学書。いくつかの覚え書きは本書の編者であるエリザベス・アンスコムの自宅にあったものである。

 

本書で取り扱われているのは概して認識論的な問題で、主題は、人が活動することが可能であるために(つまり「疑うこと」も実際に能くするために)疑われることを免除されていなければならないものが存在するということである。本書は端緒としてジョージ・エドワード・ムーアの「ここに手がある」の問題を取り上げ、知識において知っている主張の場所を考察する。

 

もう一つの重要な点は、全ての疑いはその根底にある信念にはめ込まれており、もっとも根本的な形式の疑いは、それ自体を表現する体系が矛盾をきたすために拒絶されるというヴィトゲンシュタインの主張である。ヴィトゲンシュタインは様々な形式の哲学的懐疑主義に対する新たな論駁を与えた。本書は彼が没する前の二年間に書いた覚え書きから編纂され、没後1969年に発表された。

 

(引用おわり)

 

これは、前回紹介した『オカルト』の著者でジャーナリスト森達也氏が繰り返し問うている疑問、「オカルト現象や心霊現象をなぜ疑いの余地なく証明できないのか」ということへの回答にもつながると思う。

 

まだまだ私の理解不足で、生煮えの感想しか述べることができない。

もうしばらくウィトゲンシュタインにハマってみたいと思っている。

 

 

参考文献

「青色本」ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン(大森荘蔵訳、ちくま学芸文庫)

「はじめての言語ゲーム」橋爪大三郎(講談社現代新書)

「ウィトゲンシュタイン入門」永井均(ちくま新書)

「口伝(オラクル)西洋哲学史」池田 晶子(中公文庫)



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