目次
MUGA11号
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季節の詩     rita
第一回ウルトラリンパ講座
狙うは“メッシ(滅私)”効果?  那智タケシ(ライター)×松本成悟(農家)
物質的問題(material question)について J.クリシュナムルティの場合
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 「ユア、山菜採り」
編集後記
MUGA12号
目次
季節の詩     rita 
宮本武蔵に通じる「自分に勝つ」力  菊池クミユキ
狙うは“メッシ(滅私)”効果? 後編 
0円ハウスに住む新政府総理大臣~無我的生き方の実践例としての坂口恭平
アラスカ便り―北の果てに暮らす日々― 「夏至」(最終回)
編集後記
MUGA13号
目次
季節の詩     rita
例外者たちの宴1 鎮魂歌     那智タケシ
書評:『スプーン』、『オカルト』森達也著
現代女優試論
「1未満であることの大切さ」    たまちゃん×那智タケシ
編集後記
MUGA14号
目次
季節の詩     rita 
例外者たちの宴2 白竜様   那智タケシ
無我表現という言語ゲーム 
あっちゃん卒業に思う
ウルトラリンパ講座 番外編
「変身願望を直視する」     たまちゃん×那智タケシ
編集後記
MUGA15号
目次
季節の詩     rita 
例外者たちの宴3  秋      那智タケシ
アフォーダンス理論について 
原発弁護団から見える風景 
「新しい教祖を作らないために」     たまちゃん×那智タケシ
編集後記
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編集後記

★編集後記

 

 今日(7/14)は、ウルトラリンパの第三回講座がありました。茨城の山の中?で菊地氏の指導の下、基礎的な技術を5、6人でコツコツ覚えています。それぞれが実験台になるので、痛いことは痛いのですが、身も心もすっきり。日頃の垢が落ちて、自分も含め、みなの顔がすっきりと変わっていくのがわかります。肉体と心は通じているのだな、と強烈に感じるこの頃です。

 試験的に一期生で半年ほど勉強し、卒業という形になった時点で二期組の募集も考えています。月一回のスローペースですが、遠方から来る方のことを考えるとこれくらいでちょうどよいかも。技術を覚えた人たちが各地に散らばり、少しずつ良い輪が広がることを願います。

 今月号で、1年間連載していただいたアラスカのマチカさんの連載が一旦、終わります。5人のお子さんの教育や、新しい仕事、引越しなども重なり、多忙な日々を送られているとのこと。そんな中、アラスカの清涼な風を毎月吹かせていただいたことに唯々感謝です。つくづく自分は良縁に恵まれているなと感じます。一年間、目立たぬ場所に咲いている野花、MUGAを読み続けていただいた読者のみなさまにも感謝です。(那智)


目次

MUGA 第13

「私」ではなく「世界=無我」からの表現を発信する

 

無我表現研究会発行 月刊メルマガ

 

◆目次

 

◇アート

 

・詩

 

『季節の詩』     rita

 

・短編小説

 

「例外者たちの宴1」 鎮魂歌 

那智タケシ

 

 

◇評論

・書評

『スプーン』(森達也著、飛鳥新社、20013)

『オカルト』(森達也著、角川書店、20124月)

                                      高橋ヒロヤス

 

・現代女優試論           

 沢尻エリカ 綾瀬はるか 満島ひかり

 

◇対談

 

根元共鳴×無我表現①  

 

「1未満であることの大切さ」    たまちゃん×那智タケシ


季節の詩     rita

◇ア

 

★詩

季節の詩     rita 

 

  【・草いきれ・】

 

熱射に狂うモンスター

耳骨に響く彼らの猛りに

ぼくはうろたえた

 

大波ドドーッとストップモーション

頭上までうねる生命力に

ぼくは溺れそう

 

容赦ない日に射られても

生殺しの風になぶられても

厚かましい排気にむせんでも

何度人間に刈り取られても

 

それほどに何が望みか

草いきれ

 

もっと成長したくて空を目指すよ

地中は深く信念の根をめぐらして

あらゆる苦しみを踏み越える

 

無垢な息づかいは

無邪気なツルの先

いつも新しい予感を探しているんだ

 

ぼくは炎天によろめいた

お家への帰り道

真昼のこと

 

 

  【・くちなし・】

 

くちなしの香りは

どんなふうに訪れるの?

感嘆するまで時間がかかるの

 

差し当たり身を隠しておいて

挨拶はないままで

 

ゆりかごに眠る赤子は揺れてるよ

鼓動と同じリズムで

子供の頃の情景を思い出すよ

それは舌に転がるキャンディーと同じ甘さ

 

くちなしの香りはそうやって

ぼくの体と抱擁してた

 

そのあいだぼくの頭は置いてきぼり

 

感覚は滑走路の上にようやく離陸して

ついに大空へ飛び立つよ

 

それは今しがた

愛の証しをたてた二人の行く方のよう

 

夢の受諾によって

お互いのぬくもりは一部になり

全部になり一つになったの

 

とたんに時は幸せを

体の底に埋没させて忘却を目論むんだ

 

まるでくちなしの香りが

目をつむって微睡んでしまうみたい

 

うろたえてさすらって

希求して再び感嘆をする

 

潤沢な癒しは

そうしてぼくの全てに塗布された

 

くちなしの香りよ幸せよ

さまよえる愛に絆を確信させる

神の塗り薬よ

 

 

  【・夏が来て・】

 

まるで喜びの衣装とカーニバルのマスクを

それは緑の繁りゆく姿なの

 

山は肩を組んでまわっているよ

愉快な舞踏は川を伝い野を走り

この体へ繋がろうとしてる

 

雲は慌ただしく転がって

空は手の届くところまで

大きく膨らんだ

 

負けないよ足は着かないよ

ここは石けりの途中なの

 

たしかに放たれた季節を

跳ね回ろうよ遊ぼうよ

 

少年より望む行く手まで

昼下がりに憶えた未来へ

信じる軌跡に呼吸を重ねてみたら

 

石を蹴ろうよ君の順番だよ

 

 

  【・鬼百合・】

 

物見遊山に入道雲は

山の背後やらビルの狭間から

わが街を眺めては行き過ぎる

 

このアバンギャルドな夏のかたまりを

うっかり近づいたら火傷しそうな

この花の生きている姿を

見たことあるかな

 

ギラつく太陽が蒔いた焔

黒い斑点に反り返る真朱の唇

まるで溽暑に笑いがこみ上げているよう

 

魅せられて

その舌先に心拍をかき乱されないよう

しっかりぼくは心臓を握りしめているよ

 

視線をそらしても

もう影はこんなに伸びてるのに

風は吹き抜けてるはずなのに

妖気に吸い寄せられてしまうのは

 

めくるめく喜びは罪作り

花弁のめくれ上がるほど待ちわびて

命を尽くして咲き続ける

女の執念を見ているのかな

 

この暑さが後に実りをもたらすなら

肩から腰を丸め上げ

 

負ぶうているものに天より受胎した

愛のぬくもりを見ているのかな


例外者たちの宴1 鎮魂歌     那智タケシ

・短編小説

 

 例外者たちの宴1                 那智タケシ

 

  鎮魂歌

 

 土曜の夜は最悪だった。いや、正確には日曜の朝というべきか。フリー雀荘で帰るタイミングを逃し、明け方まで打ち続けた私は、そこそこの成績を上げていた。その日は午後から人と会う予定があった。当然、始発で帰って仮眠を取り、万全の状態で出かけるのがベストだった。しかし、ナチュラルハイというのは怖いものである。「まだいける」と思い込み、勝ち分をすべて吐き出して卓割れした時には、朝の8時を回っていた。

 虚しい気分になるにはなったが、止め時失敗は仕方ない。今から帰ればまだ3時間は寝ることができる。疲労で朦朧とした頭を抱え、雀荘を出て駅へ向かった。 

 西船橋の駅で武蔵野線に乗り込む。4つ先の駅まで10分。待つこともなく出発だ。と、隣の船橋法典駅で人身事故が起きたとのアナウンス。

「武蔵野線は上下線で運転を見合わせております」

 ちょっと待てよ。寝る時間がなくなるじゃないか。家は目と鼻の先だというのに、ついてないったらありやしない。しかし、人身事故ということは、人が死んだということか。その可能性はあるにはあるだろう。一つの絶望が身を投げ出し、消えることを願ったのだ。身もだえするような苦しみから逃れることを。少しばかり生々しい気もしたが、とにかく早く家に帰りたかった。今から雀荘に戻っても、客の一人もいやしない。

 総武線で津田沼まで行き、新京成線に乗り換えて4,50分の遠回りで帰ることに決めた。久々に降りた津田沼駅では、新京成の駅の場所がわからなくて、掃除のおばさんに道順を聞いた。次から次へと駅へ流れ込んでくる朝の人ごみに逆行しながら、サンダル履きで青い顔をした自分は幽霊のよう。小雨が振る中、足取りもおぼろに見慣れぬ町を歩いた。

 ようやく家にたどり着いたものの、仮眠はわずか1時間しか取れなかった。

 ああ、始発の時間に止めていれば、金も損しなかったし、たっぷりと寝る時間もあったのに、などと思っても後の祭り。結局、欲得で動くとろくなことにならない。流れを一度失うと、何をやってもちぐはぐなものだ。とにもかくにも、顔を洗ったら、ビタミン剤でも飲んで出かけるとするか。

 午後12時半、武蔵野線は動いていた。新八柱駅から電車に乗り込み、西船橋経由で西荻窪に向かう。雀荘から帰るのと逆の道のりだ。1時間半の道程だが、乗り換えは1回。総武線で1時間ばかり寝ることもできるだろう。そんな計算が頭にあった。

 一つだけ空いていた狭いスペースの座席に座り、目を閉じる。すると、ひとつの奇妙な叫び声が聞こえてきた。

「武蔵野線! 東西線! 総武線! 西船橋!」

 路線名と駅名を連呼しながら、異様なアクセントと節回しで歌うように叫び続ける。見ると、窓際に立って外の風景を見ている、30半ばくらいの痩せた男だった。ある種の知的障害者のこうした歌声は、世俗の人間の精神を不安にざわめかせる効果を持つ。しかし、誰一人として男の方を見なかったし、異様な歌の存在など認めてもいないように振舞っていた。彼らはこの男も、この歌も自分たちの世界から抹殺することで、精神の安定を得ていたのである。

 電車は今、船橋法典駅に差し掛かろうとしていた。今朝、人身事故があった駅。おそらく、この車両の中で、自分だけがその事実を知っていた。数時間前に、この列車の下で、線路の上で、一つの命が失われたことを。誰にも認められない生が、死の中に救いを求めたことを。

 すると、どこからともなく悲しみの念がやってきて、それは車両の中に入り込み、人々に理解を求めているように感じた。しかし、人々は目を閉じ、あるいは携帯やアイフォンに視線を集中していて、誰一人その感情に気づく者はいなかった。彼らは、この世界の住人ではなく、自分の小さな世界のみを実在と認めている孤独で、いびつな精神を持つ穴居人のように見えた。

 船橋法典駅に到着した。行き場のない悲しみが濃厚に充満し、救いを求めて我々の上に覆いかぶさってきた。

 瞬間、一つの歌声が高らかに響いた。

「武蔵野線! 東西線! 総武線! 西船橋!」

 前よりも強く、前よりも確かに、前よりも祈るように。

 ああ、ほとんど叫ぶように!

 彼だけは何を感じていた。今、ここにある哀訴の念を感じ取り、それらを払いのけるように、あるいは受け入れるように、昇華するように、自分なりの表現で、全身全霊の不器用な愛をもって、彼なりの鎮魂歌を歌い続けていたのであった。

「武蔵野線! 東西線! 総武線! 西船橋!」

 瞬間、世界はあまねく輝きに満ちわたり、ふと見上げると、天使の群れが、光の中に宿っていて、彼らはそのレクイエムに唱和するように、小さなラッパを吹いていた。

 天使は、実在した。

 しかし、天使の姿は、決して人に見られることはない。そのことがようやく理解できる気がした。

                                     (了) 


書評:『スプーン』、『オカルト』森達也著

◇評論 

 

書評:

『スプーン』(森達也著、飛鳥新社、20013)

『オカルト』(森達也著、角川書店、20124月)

                                                          高橋ヒロヤス

                                                          

いまや日本を代表するドキュメンタリー映像作家の一人といってよいだろう、森達也氏の新刊『オカルト』を読んだ。(以下敬称略)

 

森達也は、彼の代表作でありライフワークともなった、オウム真理教を題材する一連のドキュメンタリー(『A』、『A2』、『A3』)に象徴されるように、一般的なメディアが「タブー」とする領域に平気な顔で踏み込んでいくことをモットーにする、わが国のジャーナリズムにおける希少な存在である。

 

そんな彼の関心領域の一つに、いわゆる「超常現象」や「オカルト」がある。彼はそうした分野をテーマに『職業欄はエスパー』というドキュメンタリー作品を1997年に制作し、フジテレビの深夜に放送された。実際にはこの作品の成立までには56年の期間を要している。その間の顛末について書かれた『スプーン』という本がある。同書が発売された当時に私が読んだ感想を以下に貼り付けておく。

 

(以下貼り付け)

 

オウム真理教を内部から見つめたドキュメンタリー『A』という映画の監督である森達也が、今度は「超能力者」というテーマに取り組んだルポタージュを発表した。

 

彼のことだから、通り一遍の取り上げ方をするはずもない。タイトルの副題を見れば分かるとおり、超能力者の能力そのものよりも、「超能力者」という特殊な職業(?)を選択した人々の日常生活や、彼らと世間(とりわけメディア)との関わりにまつわるさまざまな悩み、プライベートでの煩悶、葛藤に焦点を当てている。文章の日付など追って行くと、『A』の制作と同時進行で取材していたことが分かり、森の視点と行動力に改めて感心させられた。

 

このルポタージュが追っているのは主に三人の「超能力者」だ。

 

秋山眞人。日本の「超能力業界」のフィクサー的存在で、この手の話題を扱ったテレビの論争番組に肯定派の代表として頻繁に出演している。

 

清田益章。20年ほど前、「驚異のエスパー少年」としてメディアを席巻したが、あるテレビ番組でトリックを使ったことが暴露され、いかさま師のレッテルを貼られたまま不遇の時期を過ごす。最近では、テレビ出演は原則的に断りながらも、再びセミナーや講演などさまざまな仕事を引き受けている。

 

堤裕司。日本ダウジング協会会長。水晶や振り子を用いて予知、鉱脈の発見や霊現象の測定などを行う「ダウジング」の研究家として、しばしばマスコミにも登場する。

 

森は当初、この三人を中心にしたドキュメンタリー番組を企画して、フジテレビに持ち込むのだが、超能力反対派の大槻教授の出演問題や、清田がテレビカメラの前でスプーン曲げを行うことを拒絶したことなどから、頓挫してしまう。また、1995年には超能力の獲得を喧伝したオウム真理教の事件が起こり、メディアは精神世界関連の話題に対して完全にネガティブな態度を取るようになる。

 

1997年に再び接触が始まる。三人の協力もあって、ドキュメンタリーは完成。1998年にフジテレビ深夜NON-FIXの枠で放映される。

 

森がもっとも興味を持っていたのは、超能力反対派の代表的人物、大槻教授に、一人の物理学研究者としての本音を聞き出すことだった。八年間タイミングを測り続け、秋山の紹介で声をかけたものの、取材依頼はあっさりと拒絶される。

 

当初、森達也は、三人の「超能力者」に対して、共感を寄せつつも完全には信頼しきれないという、『A』で見せたのと同じ態度をもって接近し始める。三人とも、背景や動機は各様でありながらも、「超能力」の実在を確信し、それを自らの職業(あるいは使命)として選んだ点で共通している。

 

「あなたは信じるのか、信じないのか?」

 

超能力をテーマにしたとき、必ず出るのがこの問いである。

 

森達也自身も、カメラ片手に三人の超能力者を追いかけながら、しばしばこの問いの前で立ちすくむ。

 

信じる、信じない、どちらを答えたところで、そこには何か零れ落ちるものがある。否定しきれない事実を前にしながらも、超能力の実在を信じることにためらいを持ち続ける森がただ一つ信頼できたのは、彼ら超能力者たちの持つ本質的な誠実さだった。

 

森達也の関心は、超能力の真偽ということよりも、超能力という特殊なもの、もっとはっきり言えば「超能力」という「タブー」に対する、メディアひいてはわれわれ自身の偏見や自主規制のメカニズムにあるのだと思う。『A』や『放送禁止歌』などの他の作品でも、われわれがいつのまにか常識とみなしているものがいかにまやかし、幻想、偏見に基づいているかが暴露されている。

 

ユリ・ゲラー以来、否、百年前の高橋貞子以来えんえんと続けられている不毛な超能力論争に関しては、森達也の記述を読んでいくかぎり、超能力者と(アカデミズム、メディアを含む)世間とのどちらに理があるかは明白なように思われる。

 

肯定派であれ否定派であれ、いわゆる超能力や精神世界に多少なりとも関心のある方には、是非御一読をお勧めする。(2001.3.29

 

(貼り付け終わり)

 

『スプーン』はその後文庫本になり、角川文庫から『職業欄はエスパー』という題名で発売されている。

 

『スプーン』から10年余りが経過し、たまたま深夜テレビ番組で森達也が同じテーマに取り組んだ本が発売になったのを知って、久しぶりに『スプーン』を読み返した後で、『オカルト』を購入して読んだ。この10年ほどの間に森達也がどんな活動をしていたか、どんな発言をしてきたかは折につけなんとなく知っていたが、彼の書物をきちんと読んだのは、『A』や『スプーン』を読んで以来のことになる。

 

結論からいえば、拍子抜けしてしまった。

 

『スプーン』では、秋山眞人や清田益章といった「超能力者」に対し、森達也独自の視点から、がっぷり四つの対決を挑んでいるという印象があり、読んでいて惹きつけられるものがあった(これらの超能力者について私自身がどう考えているかはとりあえず置いておく)。

 

これに対し、『オカルト』は、恐山のイタコや心霊スポットを巡るといった興味本位の話題が多く、対象に対するアプローチに深みがない。私自身の最大の関心事だった清田益章については、冒頭に少し登場するだけで、彼の「その後の人生」についての記述がほとんどないことも物足りなかった。

 

清田は2006年に大麻所持で逮捕され、実刑判決を受けている。今はメディアとは距離を置き、「おのり」(祈りと踊りを融合したアート)という活動に取り組んでいる。『スプーン』の頃の森達也なら、こうした清田の激動の人生に寄り添い、独自の視点から彼の活動を切り取って見せたことだろう。

 

しかし本書では、森達也の真骨頂である「取材対象の内部のいちばん深いところまで潜りこんで当事者と腹を割って話す」という方法論がまるで見られず、さまざまな取材対象(日本心霊科学協会の会長や、第二の江原啓之といわれる女性スピリチュアル・カウンセラー、政界のフィクサー的な占い師など)と対面した模様について表面的な報告が見られるだけだ。

 

挙句の果ては、今話題のメンタリスト、Daigoの「メンタルマジック」を体験して、「人間観を根底から揺さぶられた」などと書いてしまう始末。

 

『オカルト』を一読して私が持ったのは、森達也という「表現者」の何かが変質してしまったのではないか、というやや深刻な印象だった。

 

もちろん、この2冊については、書かれた経緯やモチベーションなどを含め、執筆環境の違いを無視することはできない。『スプーン』は、ドキュメンタリー制作者である著者が、タブーに近い題材に切り込む作品の企画をテレビ局に売り込み、局の担当者の冷徹な批判に晒されながら、一方で取材対象である超能力者にも妥協しないアプローチを見せる姿がリアルに描かれていた。何よりも、テレビ局と交渉して予算を獲得し、ときに自腹で取材費を負担したことの告白を含む、具体的な金銭を巡る記述が生々しかった。

 

これに対して、『オカルト』は、角川の雑誌に連載した記事をまとめたものであり、取材費(旅費や宿泊費含め)はすべて角川が負担していることに加え、専門の担当スタッフまでつけてもらっている、いわばおいしい仕事である。取材対象に関しては、この人でなければならないという必然性もなく、逆に言えば断られることのリスクもない。むしろ『スプーン』で名を売った著者に対しては、Daigoのように取材対象の方から擦り寄ってくる。

 

こうした条件や状況の違いが、書物の文体や内容に影響をもたらすことは避けられないだろう。

 

その一方で、超能力をテーマにしたときに必ず出る「あなたは信じるのか、信じないのか?」という問いの前で立ちすくむ、という森達也の姿勢は、10年以上前から一歩も変化していない。つまり後退もしていなければ前進もしていない。10年前には誠実な姿勢と映ったその態度が、本作ではむしろ「逃げの姿勢」に見えてしまうのは私だけだろうか。

 

もしかしたら、私は彼に対してやや辛辣になりすぎているかもしれない。

 

しかし、取材対象に誠実に向き合うことを通して自分自身に誠実に向き合うことを作品化し、それをライフワークとしてきた森達也という表現者に対して、私が抱いていた期待値があまりにも高すぎたため、こんな書き方になってしまったことをお許し願いたい。逆にいえば、森達也という表現者(ドキュメンタリー作家)には、少なくとも『オカルト』で扱った分野については、もっと素晴らしい仕事ができるはずだという思いがある。

 

ついでに書くと、今回の記事を機会に、最近の森達也について少しネットで調べてみたら、彼が監督した映画『311』が話題になっているようだが、今のところ見る気がないのでコメントは控えることにする。



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