閉じる


可逆的な時間、不変の空間

1

 ふと腕時計に目をやると0時過ぎ。

「さすがに終電は逃したくないなぁ……」

 心地よく酔ったせいもあり腰が重い。そうも言っていられないのでストールから腰を浮かし、マスターに指でチェックのサイン。

「今日、ラムコークは?」

「うん、時間切れ。また来るよ」

 〆はいつもラムコークと決めている。マスターの勝さんは私の所作をほぼ知り尽くしている。「何故ラムコーク?」と言われると困るのだがとにかく口に合う。ただそれだけ。

 

 店内はまだ若者達でにぎわっている。

 彼らは朝までいるんだろうか。それともこの辺りに住んでるのか。ちょっとうるさかったけど、こういう雰囲気も悪くないな。勘定を済ませて外に出ると寒い。勝さんがわざわざ店の外に出て見送ってくれる。

「じゃ、また」

「またお待ちしてます」

 いつもの決まりきった締めの挨拶。それでもこの積み重ねが勝さんと私との距離を縮めてきた。思えばこのBARを知ったのは偶然中の偶然だった。広尾にある別の店で待っている友達を訪ねる予定が天性の方向音痴っぷりを発揮し彷徨っている間に外はひどい雨。そこで緊急避難的に入ったのがこのお店。当然、私一人での入店。初対面のマスターにコトの顛末を話すうちに雨も止まないし、「今夜はこの店でいいや」と話し込んでいる間に勝さんとの意外な接点を知ることになった。まず同郷人。同じ広島出身。ここまでは百歩譲ってありうる話として、なんとタメ。同年齢。さすがに学校は違ったけれど奇跡でしょ、奇跡。今から約20年前まで同じ広島に住んでいた2人が何の申し合わせもなく今はカウンターを挟んでバーテンダーと客という関係。話は尽きず、その日は終電を優に逃がし、その店で夜を明かすことに。


 

2

 私の職業は機械メーカーのエンジニア。普段は会社でCADの図面とにらめっこしたり、機械が納入されると現場に出て試運転や完成検査に立ち会ったりとごく普通のサラリーマン生活を送っている。ただ、自分の人生、これだけで終わっていいなどとは思っていない。

 言い忘れたが、私にも一応家族がいる。同じ職場で知り合った妻と小学生の息子、娘が一人ずつ。まあ、家族構成だけ見ればありふれた平和な家族といったところ。ただ「本当の自分はこんなもんじゃない」という思いがここ数年日増しに強くなっている。

 家族にも許されている唯一の趣味が芝居。舞台俳優としての活動に力を入れている。もちろん金にもならないし、メディアに取り上げられるでもない。家族にしたって自由にさせてくれているだけで応援などしていない。

 でも私は、あの狭い舞台で一つのストーリーを演じる仲間達のことを第二の家族のように感じている。気が付けば古参メンバーになり、今は脚本、監督、舞台俳優と3足のわらじを履いている。それこそ一回りどころか2分の1にも満たない年齢の団員もいる。年齢構成から言ってもファミリーという感じ。さながら私が父親。祖父・祖母にあたる先輩方や兄弟分、そして子供達。

 四季に合わせ概ね1回ずつ開催する舞台に向け、私が脚本を書き、皆で稽古をするのだが、ほとんどのメンバーが仕事との掛け持ちなので監督としては本番が無事うまく行くか、いつも気掛かりで仕方ない。先日の舞台などは事前の稽古で全員が一堂に会した日が皆無という散々な有様。まあ、そんな状況だから誰一人として一線の舞台に挑戦することなくここに安住してくれているのだろう。私としては望みどおりの環境ではあるが、皆にとってどうであるかも今度個別に聞いてみなければ。これでも一応「父親」だから。

 

 

3

 雑踏の中、急ぎ足で職場を後にする。

「監督不在じゃシャレになんねぇよなぁ!」

 どちらが本業だよ、と突っ込まれそうだが、「私の本業は別にある」というのは社内周知の事実。あれは確か5年前の職場の忘年会。見事に芝居の日と重なり、私は当日の朝「急に風邪をこじらせて…」と休暇をとった。冷や冷やものながらここまでは作戦通りだったのだが、芝居も無事終わり、観客の皆さんを見送るべく並んでいると、

「野村さん、お疲れ様でした。舞台上の野村さん、すごく生き生きしてましたね~」

 他部署のノリちゃんからこう声をかけられ冷や汗。まさか忘年会と重なるなんて思わず、かなり前に飲み屋でうっかり口を滑らせて芝居があることを話してしまったのだ。わざわざ観に来てくれたのはとても嬉しかったのだけど、口止めをお願いしたにも関わらず、翌日には「野村、仮病して芝居に」という情報が社内に蔓延。「俺、クビかぁ?」と本気で思ったものだ。割と寛大な会社なので、その後は飲み会に誘われないかわりに、邪魔もされなくなった。という訳で、今の私にとっては芝居仲間のほうが職場の仲間以上にはるかに大事なのだ。

 

 

4

「とりあえずビールを」

「今日は会社から?稽古後?」

 勝さんはトレードマークの長髪をなびかせながら、いつもの笑顔で出迎えてくれた。舞台に上がると映えるだろうなぁ、というか、よっぽど俺よりも舞台に似合うよなぁ、と前々から思っているのだが、芝居に招いたことも、芝居の稽古に誘ったこともない。何となく彼にはこの小空間の主でいて、いつも話し相手として待っていてほしいという願望が私にあるからだ。

「もちろん芝居帰り。今日もいい汗かいたよ」

 店内は割と人口密度が高いが今日は年齢層が低い。

「今日はにぎやかだね。何かあったの」

「うん、大学のサークルのイベントの打ち上げだとか。といってもOBの社会人も混じっているみたいだけどね」

 ふと、自分の学生時代に思いを馳せる。最大で約300人規模のイベントを主宰したこともある。だからといって何をしたという訳でもないし、今になって何が残ったという訳でもないが、あの当時の熱狂的な空気を醸し出したのは自分とごく少数の熱い仲間達だった。

 そんな青い思い出を頭によぎらせると、何となく自分が今この場にいるのが場違いな気がして私は席を立った。「もう帰るの?」という表情の勝さんに「シャンパンを1本彼らに」と言い残し、支払いを済ませて外に出た。今日もラムコークを飲み損ねた。どうも最近ラムコークに嫌われているようだ。こうなったらトコトン通ってやる、と半ば自虐的に心の中でつぶやいた。外は寒い。早く帰ろう。

 

 

5

 背後に人気を感じて、声をかける前に振り返った。まだ終電を迎えるような時間帯ではないが、この辺りも決して治安万全という訳でもなく、時には警戒心も持つ。するとそこにいたのは一人の若者だった。

「あの、困ります」

「え?」

「シャンパン代です」

 どうやら勝さんからシャンパンを受け取るなり経緯を聞いて、店から飛び出してきたようだ。札束を手に、まだ息を切らしている。

「そんなの受け取れないよ。あの店の客仲間ということでいいじゃない。今日は打ち上げだったんでしょ。ささやかだけど、どうぞ」

「そう言われましても……」

 私と彼の間にしばしの静寂が続いた。そして彼が切り出した。

「じゃあ今度、客仲間ということで私から御馳走させてください。何がお好きですか」

「ありがとう。じゃあ、ラムコークを一杯いただこうかな」

 

 

6

 今日は早めの時刻に例の場所へ。家族との約束があり、時間制限付きということで、仕事帰りに急いで突撃。開店時刻を少し過ぎたときには店の前にいた。

「お、早いですね~、野村さん。今日は先約ありって言ってたじゃないですか。」

 実は今日親友との飲みを入れていたのだが、彼の家族が熱を出したというのでドタキャン。それで今日はまっすぐ帰ると家族にメールしてしまったのだ。なので深酒はできない。

「急に予定がなくなってね。でも今日はゆっくりできないんだ。とりあえずビールを」

 最近縁がないラムコークを一発目からというアイデアも頭にはあったが、やはりアレは〆がふさわしいのでまずはビール。

「野村さん、そういえばこの間振る舞ったシャンパン。彼ら、すごく喜んでましたよ。店を飛び出して行った彼に会ったでしょう。亮くんって言うんですけど、『野村さん、かっこいいなぁ……』ってずーっと。野村さんがココに来るタイミングを教えてくれって言われたんで、『金曜日の終電間近には大抵いるよ』って答えたんですが、今日は予想外でした」

 まだ開店時刻の20時を15分回ったところ。店内の客は私一人だけだ。

「『亮くん』っていうんだ。誠実そうな青年だったねぇ。御礼にラムコークを御馳走してくれるって」

 今日は勝さんとじっくり話そうと思っていた。最近はどうも邪魔が入ったりで店にゆっくりいられない。今日は短時間でも客がまばらなのでサシで話す時間はいくらでもある。勝さんは芝居こそしないものの音楽活動をしている。ボーカル兼ベーシスト。彼はルックスもよく上背もあるし、メジャーデビューすることも夢じゃないと思うのだが、敢えてチャレンジしたことがないと以前本人から聞いたことがある。

「趣味を仕事にしてしまうことは趣味を失ってしまうこと」

 確かそんなことを当時の彼は言っていた。

「勝さん、今度ウチの芝居で歌ってみない」

 ちょっとした時間の隙間に今まで口にできなかった言葉を差し挟んでみた、無意識にではあったけれど。

「お、直球ですね。ありがとうございます。考えておきますよ」

 ガタイもでかいし、パッと見は強面の勝さんだが笑顔がとても似合う。飛び切りの笑顔でこう返してくれて私はかなり安心した。はっきり言って彼がウチの芝居に出ても何の得にもならない。二人以外の人から見れば、単なるリップサービスに過ぎないと思うであろう。でも彼もしくはこの店との間には何か不思議な縁があるように私には思える。それはココを知ったときからずーっと持っている感情でもある。

「別に僕でもいいんですけど、さっき話題に出した若い彼、亮くん、音楽やってるんですよ。僕だったら彼を推薦するな」

「彼と縁があればね。なんか勝さんとはその『縁』がある気がして。まあすぐにって言う訳じゃないから気にしないで」

 今までずーっと切り出してみたかったフレーズをひょんなタイミングで口に出せたせいか私はすっかり満足して後は四方山話に明け暮れた。90年代の音楽の話であるとか、地元広島の話であるとか、今度の芝居の構想とか。ここでは仕事の話は絶対にしないのが私の信条である。

 

7

 たまには早めの時間にも顔を出してみるもんだなぁ、と思いつつ恵比須駅へ歩を進める。とにかく寒いので自然と早足になるが、ふと腕時計を見るともう少し遅くなっても大丈夫そうだ。もともと今日は飲んで遅く帰る予定だったし。直進していた身体を左に90度回転させた。

 

 ここのラーメン屋は割と有名らしい。私は単に行列に引き寄せられて入ったのが初めてだったが、そのときはそんなに美味とは思わなかった。そう言いつつ、今回でもう5回目くらいだろうか。徐々にこの店の味に洗脳されつつあるようだ。

「一人ね」

 カウンター席しかないこの店はとにかく回転が速い。この時間帯から席はほぼ埋め尽くされているが一席だけ空いていた。

「ゆずこしょうラーメン、麺固めでお願い」

 暖を取りながらぼーっとしていると、どうも左側からの視線を感じる。「うん?」と思って左に目をやると先ほど勝さんと話題にしていた亮くんが横の席にいた。

「お!びっくり。今まで勝さんと君達の話をしていたところなんだよ。この間はどうも」

「先日はありがとうございました。みんな大喜びで。あーいうのって何というか初めてで。僕も面食らっちゃって」

 彼も私が若かった頃のようにサークルでイベントの企画などをしているらしい。音楽もやっている関係でイベントの中身の練り上げなどのために勝さんからアドバイスを時々もらうことがあり、今日はその相談で一人店に立ち寄る予定だったらしい。

「野村さんは芝居をやられてるんですね。ご家族もおられるのに趣味を貫いていらして凄いですね」

「と言っても、みんな本業があっての『趣味』だから、今以上に大きくなることもないだろうし、芝居を通じて第二の家族との生活を楽しんでいるって感じかな」

「第二の家族?」

「うん、こればっかりは当事者じゃないと分からないと思うけど……」

 話は思いのほか弾み、二人のラーメンは空っぽ。店員の視線がかなり痛い。

「アソコに場所を変えようか」

「そうですね」

 もはや、家族と約束した帰宅時刻のことは頭になかった。

 

 

8

「あれ、野村さん。え、亮くんも。一体どうしたんですか!」 

 戻った店内はまだ客がまばらだ。勝さんがこんなに驚いた顔は初めて見た気がする。

「帰りの足でラーメン屋に立ち寄ったら、まさかまさかの隣り合わせ。勝さん、もしかして私達も縁があるのかも。」

「ホントにそうですよねぇ」

「なんか嬉しいっすねぇ。亮くんはビールから?野村さんは?」

「野村さんにラムコークをお願いします!」

 義理堅い彼に軽く両手を合わせる私。勝さんがダークラムのボトルを上段の棚から片手で取り出す。その姿がまた絵になる。こういう何気ない所作を見るだけでもこの店に来る価値があると私は思う。

 

 

9

 終電に向けて足早に帰路に付く。気が付けば3時間近く、音楽と芝居とのコラボや90年代の私と2010年代の亮くんを重ね合わせたり、勝さんを交えた3人で盛り上がりまくっていた。

「当時からそういう発想があったんですねぇ。目からウロコですよ」

 さすがに敬語は取れない亮くんもアルコールが入り、ようやく言葉が少しくだけてきた。打ち解けた証なのかもしれない。

 昔話とはいえ300人規模のイベントを回した経験はダテじゃない。今でも通用する要素はいくらでもある。今ほどデジタルな時代じゃなかったからこそハンドメイドの手心が当時は随所に利いていて、それが他のイベントにない動員を生んだと自己分析している。

 亮くんはラムコークを本当に御馳走してくれた。それどころか、今度ウチの芝居の稽古を見に来ると言っている。「芝居のほうはそんなに見せられたもんじゃないんだけどなぁ……」と思いつつ、虚勢を張っても仕方がないので「いつでもOKだよ」と二つ返事で受けておいた。そのうちに彼が私達の舞台に上がるのも夢じゃないかもしれない。

 

 

10

 それからちょうど10日後の舞台稽古に彼は本当にやってきた。アコースティックギター持参で。

「おぉ、ありがとう。みんな、今日見学の亮くん。ところで弾き語りでもしてくれるの?」

「みなさん、はじめまして。亮です。よろしくお願いします。ギターは何かそういうシーンがあったら、と思って」

 新顔の登場にみんな刺激されたか、この日の稽古には覇気があった。彼の登場シーンはあいにくなかったが、最後に2曲、彼の持ち歌を披露してもらった。

「一緒にやりたいねぇ」

 そう切り出したのはウチの一番の若手なっちゃん。この芝居仲間の付き合いが今後も続くようであれば、いずれは彼女に主宰を、と私が秘かに思っている才能の持ち主だ。

「そうねぇ、でも彼の意思を尊重しないと。でも君達は年齢層も合うし、じっくり相談してみてよ」

「いやぁ、僕こそどうやったらこの中に溶け込めるかなぁってずっと探っていて。芝居の世界って奥が深いですね。またお邪魔させていただきます、皆さんさえよろしければ」

 思いのほか、自然と雰囲気に馴染んでくれたようだけれども、さすがに芝居と音楽とのコラボをリハーサルなしでやるというのは難しかったようだ。彼も「即興で入ろうと狙ってたんですけど無理でした……」と苦笑いしながらこっそり私に打ち明けてくれた。でも、このノリは私にはとてもフィットする。果たして、本当にこの先も彼は私達に関わりを持ってくれるのだろうか。

 

 

11

 稽古後の食事を終え、亮くんと私は恵比須のあのBARへ。私の「隠れ家」的存在なので芝居仲間ですら連れて来ることはまずない。店に入ってきた私達2人を見て、勝さんは笑顔で迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。なんだか昔からの知り合いという感じですね」

「勝さん、何言ってんの。年齢が倍半分違うんだよ、下手したら息子に見られてもおかしくないし」

「そんなことありませんよ。野村さん、お若いじゃないですか。やっぱり夢を追ってらっしゃるからだと思うんです」

 この3人が集うと、音楽と芝居とのコラボ話に花を咲かせるのが定番になってきた。私は亮くんから若さという刺激をもらい、亮くんは私から経験という価値を得ているのかと思う。勝さんは差し詰めお目付け役だ。彼が時折挟むアイデアは凄く斬新。亮くんが助言を求めに通っていたのも分かる気がする。というか私も四方山話するばかりでなく、芝居の方向性なんかも相談に乗ってもらえばよかったのかなぁと今更ながら思う。とはいえ、亮くんのおかげで遅ればせながら滾々と新たなアイデアが生まれつつある。勝さんが本気になったら凄いことになるんだろう。ある意味、今この瞬間にも勝さんは亮くんのサークルと私の劇団の陣頭指揮を執っているとも言える。そんな彼の本気を見てみたいという思いと、彼は今のまま謎めいた存在で居続けていてほしいという複雑な思いが交錯する。

 

「二人がすっかり打ち解けたお祝いということでスペシャルなカクテルを振る舞いますよ」

 そう言って勝さんは鮮やかな赤に炭酸水の泡が立つグラスを私達の前にひとつずつ置いた。

「たまにはサービスさせていただきます」

「本当にいいんですか?」

「勝さん、気前いいなぁ」

 勝さんはとびきりの笑顔だ。彼のこんな笑顔は出会って以来初めてだと思う。

「じゃあ、遠慮なく!」

 私達は乾杯してグラスに唇を付けた。私の好きなラムベースのカクテルのようだけれども、濃厚な味わいが喉の奥まで絡み付くような味わいだ。グラス半分飲み終えたところで亮くんがカウンターにコトンと音を立てて突っ伏し眠ってしまった。「彼、そんなに弱くなかったはずだよな……」と思いつつ、私も自分の中の異変に気付き始めていた。勝さんの姿が遠く見える。どんどん遠くなる。すぐ傍にいるはずなのに表情すら分からない。そして亮くんの姿がなく、私の隣に私がいるような錯覚を感じる。

 

 

12

 腕時計を見ると時計は0時を回っていた。終電が近い。眠ってしまったようだ。

「勝さん、亮くんと私、寝てたんだね」

 亮くんをさすって起こしながら、淡々とグラスを磨いている勝さんに声をかけた。

「うん、ずいぶん気持ちよさそうに。電車が動いている間に目が覚めてよかったよ」

 

 うん……?

 

 何か勝さんの口調がいつもの私に対するものと違う気がする。よく見れば横で寝ているのは私だ。私が私を起こしている。一瞬何が起きたのか分からなかったが、どうにも信じられないことが起きているようだ。そして目を覚ました「私」も驚きの表情を隠せない。

 

 私達のほうに向き返った勝さんがこう切り出した。

「昔、南米を旅したことがあって、道すがら会った現地の老人に『今から5年後、いや10年後に特別な二人と君は会うだろう。その時にこれを彼らに。食べてもいい。飲んでもいい。』と言われ、ハーブのような香りのする草を一掴み渡されたんです。『特別な二人でなければ何も起きないし、特別な二人であっても何が起きるか誰にも分からない』と。無責任なようですが、野村さんと亮くんがその『特別な二人』だと初めて3人で会ったその瞬間から感じていたんです。こういうことだったんですね」

 

 その説明を聞いて勝さんを恨むでもなく、この一方向の変化に戸惑いつつも、私はこんなことを考えていた。私になってしまった亮くんはおそらくこの先、あの芝居に音楽を融合させて、とんでもない成功を収めるだろう。そして亮くんになり代わった私は90年代の自分さながら最高のイベントプランナーとしてやっていくのだろう。

 実は出会ったときから、亮くんに自分の影を見てきた。彼とて同じであろう。

 ふと腕時計を目にした。時刻は0時を回っている。実は今日が私の誕生日だ。正確に言うと彼と私の誕生日だ。20歳の私も、40歳の私も、私以外の何者でもない。

 

 横を見ると、一瞬驚きの表情を見せていたはずの「私」は落ち着いた感じで、既に帰り支度を始めている。

「勝さん、今日は僕のおごりで。じゃ、亮くん、また!」

 そういうと、私の姿をした亮くんは少し多めに支払いを済ませ、颯爽と店外に出て行った。店内に取り残された亮くんの姿の私、そして勝さん。

 勝さんは少し間を置いてこう囁いた。

「最初から『亮くん』なんていないんですよ。そろそろお分かりでしょ」

 20歳を迎えた私は、少し老成した感じでこう答えた。

「僕は僕です」

 

 外は凍て付く寒さ。ひらりと白い桜の花びらのようなものが頬に落ちた。

「初雪か」

 普段より軽い足取りで家路へ向かう。明日は朝から講義がある。今日はもう遅い。早く帰って寝よう。


それぞれの事情

1

「山ちゃん、頑張ってるね~!」

「いやあ、んなことないっすよ~」

 私の肩をバンバン叩いて嬉しそうに背後を通り過ぎる部長に軽口を叩いて振り返ると、部長がこちらを向いたまま歩きながらニヤリと笑っている。そんな私も腹の中でニヤリと笑っている。

 実際大した仕事はしていない。うちの会社は株式上場もしている中堅企業だが、極めて保守的でいまだに年功序列が当たり前だし、高学歴の者が重用される傾向にある。二流大学出の私がこの会社で出世できる可能性は限りなく低い。そのせいもあって20代のときには転職も考えた。しかし、思い止まったのは他の会社であれば上にあがれるという力を培っていないことに気付いたからだ。 

 そしてちょうど30代に乗ったときに私は考え方を大きく変えた。今さらこの会社の本業のスキルを必死で身に付けても先輩はもちろん同期にも後輩にも及ばないだろう。であれば他のみんなが持っていない力を身に付けようとしたのだ。幸い、ウチの会社は年功序列というところからわかるように社風も古く地味な社員が多い。そこでとにかく目立つことを心掛けた。

 何をしたかというと、かたっぱしから新聞、雑誌、マンガを読みTVを見ては雑学道を究めた。中でもお笑い番組は相当に研究した。参考としたのは笑いのツボや間の取り方だ。そうしてそれを職場で徐々に披露していった。ほどなく、「山ちゃん、ドルの相場どうよ?」とか「山ちゃん、何かおもろいネタない?」というように周囲からどんどん声をかけられるようになった。狙いはドンピシャ。気が付けばウチの職場では「一家に一台」的な扱いを受けるようになり、職場の笑顔の源となっていた。もちろん忘年会などの幹事は私の役目である。

 邪道と言われようが、コレが私なりに発掘したこの職場での生き方だ。実際問題、私の変化で困った人間はそういないはずだし、私とて別に昇格のペースが上がった訳でもなんでもない。大した業績も上げていないにも関わらずクビが繋がっているだけだ。10年間コレをやり続けて「俺って何なん?」という疑問がなくはないが、まあ食うに困らない今の生活はヨシとしなければ罰が当たるだろう。

 

 

2

 目が覚めれば4畳半のアパートの天井が目に入る。ここの天井は低いので、どうにも圧迫感があるが、都心の中でこの値段は破格といっていいので拘りのない私にはここで十分だ。もう40歳になるというのにこんな生活でいいのかと自分でも思うし、他人の目が気になることがないかと言えば嘘になる。しかし、平社員に毛が生えた程度の私の給料で、連日来る飲み会のオファーに応えたり、雑学王への道を目指すべく投資したりするには、固定費はこの程度に留めるほかない。そんな生活が幸せなのかどうなのか問われると微妙ではあるが、とりあえず10年間にわたる努力で築いてきた安定した生活だ。今のところ変えるつもりはまったくない。

 

 

3

 かくいう私も20代の頃はもうちょっと広い間取りの住まいの住人だった。風の噂では私が珍しく出動しなかった飲み会で「山ちゃんって実はゲイだったりして……」などという話題が出たやにチラっと聞いた。確かにこの年齢になっても結婚に対する焦りも見せない私にそんな噂が出ても仕方がないかとも思う。

実は30代になって生活を一変させる前には列記とした彼女がいた。同棲していたくらいだから彼女と呼んでも差し支えないだろう。「朱里」という名前で付き合い始めは「しゅりちゃん」、そのうちに「しゅり」と呼ぶようになった。当時好きだったアーティストのライブで偶然知り合い、付き合いはじめて2年にもなった頃、彼女がウチに入り浸る頻度があまりに高いので何だか悪いなと思い「しゅり、ウチに来る?」と聞いたら喜んで荷物をまとめてやってきた。実際住んでみるとそれはそれで居心地がよく、私自身は満足していたものの、程なくしゅりからこう言われた。

「太一くん、しゅりに興味なくなったの?」

 私としては彼女を迎えようが迎えまいが変わらぬ生活を続けていただけのつもりだったのだが、彼女にとっては二人暮らしにも関わらず一人ギターをいじっていたり、黙ってぼーっと考え事をしたりする私に我慢ができなくなっていたようだ。その後私も少し反省し二人の会話を増やしたりしたものの不自然な形というものは続かないものだ。そんな生活は長くは続かず彼女は荷物をまとめて出て行った。ただ彼女は決して縁を切りたかった訳ではなく、同棲する前の二人の関係にもう一度戻りたかっただけようだが、私のほうは何だか面倒くさくなり徐々に二人で会ったり連絡を取り合ったりすることが少なくなり、いつしか二人は他人になっていた。

 

 

 

4

 そんなこんなでせまい4畳半に移り一人暮らしを始めた私だったが、それから3年ほど経ったある日、「太一くん、お久しぶり。今週都合がいいときに会って」としゅりから電話があった。住まいを変えたことは連絡していなかったが携帯番号を変えていなかったせいで幸か不幸か連絡が取れてしまった。

「まさか縁りをもどそうとかそんなんじゃないようなぁ……」

 既に新しい生活に馴染みつつあった私は正直面倒ではあったが待ち合わせ場所に指定された喫茶店に足を運んだ。無精に輪がかかった私はどこかの百貨店のセールで昔買ったダボダボのTシャツにデニムという冴えない恰好だったが、しゅりは流行のデザインのワンピースを着て、化粧も以前とはずいぶん変わっていて、私と付き合っていた頃にはあまり感じなかった女性としての気品が漂っていた。正直一緒に向き合って座っているのが場違いな感じがして私は早く席を立ちたかったくらいだ。

「太一くん、その後どうしてるの?」

 やっぱりそうかぁ…、う~ん面倒くさいことになりそうだぞ…と思いながらエスプレッソを一口飲んで、

「うん、まあボチボチね……」

と中途半端な訳の分からない返事をすると、しゅりは

「実はね……」

と急に切り出した。何でも、新しい彼氏ができ、結婚も視野に入れているらしい。その話をするときの彼女は目を輝かせ、とてもいい表情をしていた。ひとしきり彼女の幸せ話を聞かされ、「わざわざ呼び出して伝える話でもないだろう、いくら『元彼』とはいっても……」とちょっと癪に障った。とはいえ、彼女が他の男の手に渡ったことについては悔しいとか残念とかそういう感情は湧き上がってこなかった。私は既に別の人生を歩み始めている。

 

 

5

 しゅりと再会して2年くらい経った後だったか、携帯に彼女からメールが送られてきた。

「太一くん、私達結婚しました♪」

 ご丁寧に写メまで付けられたそのメール。もうどうでもいいので放っておこうかとも思ったのだが、無言でいると焼いているとか思われるのが癪なので、ちゃんとお祝いの返信をしておいた。

 

 彼女はいわゆるアラサーでゴールイン。どんな相手かはよく知らないが、めでたい人生だ。一方、気付けば私は三十代半ば。社内での評判は日増しによくなっているが浮いた話はとんとない。まあ、何というか二十代でのしゅりとの同棲生活で懲りた部分がある。自分には家庭的なところがない、という致命的な欠陥に気付いてしまったのだ。

 この年齢になると時が経つのは早い。その後、瞬く間に私は不惑を迎えた。生活は何一つ変わらない。

 

 

6

 今日はあきちゃんの家にお邪魔している。あきちゃんは料理がとにかく上手。今日は手作りのキーマカレーを振る舞ってくれた。デザートに、と出してくれたチーズケーキももちろん手作りだ。

「あきちゃん、ホント全部おいしい。私がオトコだったら絶対あきちゃんみたいな女の子をお嫁さんにするなぁ」

「またまた~」

 あきちゃんは独身。いくら周りに三十代後半の独身女子が結構いるからといって、焦らない女性はいない。あきちゃんとて例外ではない。アラフォー女子がこうやって集まっていて何かが解決する訳ではないが、とりあえずほっとする。それじゃあいけないと分かってはいるのだが。

「だってさあ、あきちゃん、今までたまたま御縁がなかっただけだし、オトコのほうが見る目がないというか、綺麗だから声をかけられずにいるんじゃない?」

 あきちゃんが綺麗というのはお世辞でなく本当にそう思う。なんでも若い頃は歌舞伎町など歩こうものならスカウトの嵐で大変だったらしい。さすがにこの年齢になり、「スカウトどころか「『お姉さん、いい男いるよ。寄ってって』なんてトシは取りたくないわよね~」などとこぼしたこともあったが、まだ十分に若さを保っているように私には見える。あきちゃんに比べて、料理にしろ容姿にしろ何か取り柄がある訳でもない私のほうは、何とかしなきゃなぁとは思ってはいるもののなんともならない……。

 

 

7

 あっという間に時は過ぎ、帰り時刻に。あきちゃんは武蔵小杉駅まで見送りに来てくれた。

「じゃあ、今日はわざわざウチまで来てくれてありがとう!」

「うんう、いつも御馳走になっちゃってゴメンね。私も少しは料理の腕を磨いておくわ」

 車窓からあきちゃんの姿が見えなくなるまで今日という楽しい一日を回想していた。しかし、あきちゃんが視界から外れた瞬間から、また重い気持ちが頭をもたげてきた。面倒なのでずーっとマナーモードにしていたが、あきちゃんと一緒にいた時間だけでも携帯の着信やメールが相当たまっている。

「困っちゃうわね、ホント」

 一件一件読んでいくほど暇じゃないので片っ端からチラ見しては削除、チラ見しては削除の連続。もちろん返信などしない。

「はぁーっ、たまにはデートの誘いでも誰かから来ないかなぁ。。。」

 

 

8

 あきちゃんと別れて約45分、自宅最寄りの荻窪駅に到着。

「もうちょっと近かったら絶対あきちゃん家に入り浸ってるわねぇ、私」

などと思いながら改札でPASMOをタッチして東出口へ向かおうとすると、誰かから不意に左腕を掴まれた。

「えっ、何!?」

 痛いとか痛くないじゃなくて急なことに驚き、振り返って相手の顔を見た。最悪のシナリオだった。そこには立て続けに電話やメールをしてきた張本人が私の腕を掴んで立ちはだかっていた。

「どうして返事のひとつもよこさないのさ」

「それよりもまずその手を離しなさいよ」

 私は男の気迫にひるみながらも何とかそう言いかえした。

「理由を聞いてからじゃ遅いかい」

「警察を呼ぶわよ」

 周囲に少しずつ人だかりができてきた。大事になりかねない。どうしよう……。

 

 

9

 ちょっとした修羅場であったが、誰かが警察を呼ぶ前に駅員が仲裁に入ってくれ、男はその場を立ち去った。その駅員が「誰か家まで送ってくれる人がいたほうがいい」というので、自宅に電話し、ママに駅まで迎えに来てもらった。わずか徒歩10分ほどの道のりだがそのほうが安心だ。

帰宅後、ゆっくりと浴槽に浸かり、今日という一日を思い返す。特に先ほどの出来事のことを。

「もう最悪……」

 

「しゅり、長風呂もいい加減にしなさいよ。今日はもう寝なさい」

 ママの声がする。確かに今日はあれこれ考えずに寝たほうがいいのかもしれない。ベッドに潜り込みながら、携帯のアドレス帳をじっと見つめる。

「『山本太一』……か.......」

 

 「太一くん、元気?」とメールを打ち始めてやめた。自分が惨めに思えてきたから。太一くんはもう知ってるのかな、私が離婚したこと……。煮え切らない太一と別れ、性格が真反対の一途な雅彦と付き合い始め結婚したのが2年後。しかし、あまりにマメというか束縛がひどい雅彦との結婚生活はまったくうまく行かず、数か月後には別居し、わずか1年も持たないスピード離婚。それから既に2年が経つが最近「縁りを戻そう」という電話やメールが頻繁にくる。そろそろ携帯番号やメアドを変えたほうがいいと思い始めた矢先に今日駅で腕を掴まれた。元夫とはいえほぼストーカーに近い。

「誰か助けて……」

 枕に頭を突っ込むように無理やり眠りに就こうとするがこういう日に限ってなかなか眠れない。

 

 

10

 目が覚めると相変わらず狭く、低い天井が迫っている。

「やれやれ、朝か。新聞、新聞。」と玄関のほうに向き直る途中、新聞受けよりも先に携帯の「着信メールあり」に目が行った。

「そういえば随分夜遅くに携帯が鳴ってたような。一体誰だ?」

 少し気になるが、とりあえずルーティンをこなすほうが先だ。新聞5紙に、インターネットのニュースやゴシップ記事、TV番組のチェック。この日課をこなした後でも何とでもなるだろう。それよりも厄介ごとに巻き込まれてルーティンをこなせないうちに自分が知らない情報を社内の誰かが握ってしまうほうが今の俺には痛い。

「どうせスパムの類だろ。今は一秒でも惜しい。あー、毎日朝から忙しいぜ」

 出社時刻まであと2時間。菓子パンをかじりながら、新聞を読みつつ、テレビ番組をチェック。この人知れない努力が今の自分を支えている。この先どうなるかはともかく、今を生きる。過去も未来もない。ただ、今が大切なのだ。

 

 傍らには「着信あり」を告げる携帯のランプが申し訳なさそうに点灯している。


英才教育

あぢぃー。狭いし、うるせぇし、んだよコレ。。。

どいつもこいつも熱すぎるっつーの。たかが娯楽じゃねぇか。何そんなに一喜一憂してやがんの。こっちは久々のデートなの、デート。

 

てか、隣の誰かさんも熱いんですけど。どこの誰が「野球見に行こう!」なんて言ったんだよ!って俺なんだけどね……。東京ドームじゃなくて神宮なら解放感もあるし、いいと思ったんだけど、なんか違うし。異様だぞ、雰囲気が。

 

「ブラッド、打て~!!!」

いや、あのさ、叫んでもいいけど、つーか、今日は静かにしててくれていいんだけど。座んなよ、とりあえず。さっきからず~っと立ってるし。いい加減座れよ、って俺も立てばいいのか……。

 

「おーい、あのさぁ……」

 

全然聞こえてねぇじゃねーか。ったく、ココ内野指定だぜ。立ったら後ろの客の邪魔になるじゃんか……。こうなるんだったらバックネット裏のVIP席でも取っておけばよかった。もう知らんわ。

 

「はい、これ持って。叩いて。ほら!」

 

カンフーバットかよ。確かに周りにも叩いてる人いるけど静かに見てる人もいるし、なんつーか普通にできんのかね、君ってやつは。

 

「かっとばせ~、前田!」

「なんか気の抜けた応援ねぇ。アンタ、一応カープのファンでしょ。しっかりしなさいよ、も~。これだからニ十年も優勝できないでいるのよ。アンタだって優勝見たいんでしょ。まだ分からない位置にいるんだから、今。もう誘ってあげないよ。」

 

おーい、「アンタ」っておいおい!つーか今日誘ったの俺だし、一応。確かに俺のノリが悪いのは認めるけど。ゆっくり見たいときだってあんだろうが、ちゅーか久々に二人の時間を過ごしてるっちゅーのに、さっきから罵倒されてばっかじゃんかよ、俺。今度二人で会うときは野球はパスだな、絶対。決めた。

 

「ちょっとそこの二人座れよ!」

ほーら、怒られた。うわぁ、怖そうなオッサンやんけ。

「すみません……」

なんで俺がアホみたいにペコペコ頭を下げなきゃいけねぇんだよ。まあいいや、これで席に座れる。オマエも早く座れよ。

「代打前田で一打逆転、一番盛り上がってる時に何よ。あのオッサンこそ立てばいいじゃない!」

 

いやあ、マナー悪すぎ。参ったな、これ。球場でケンカしたくないし、今度機会があったら注意しとこう……。

あ、前田が押本のフォークで内野ゴロ。アレ、足の速い選手だったらセーフじゃねぇか?前田もホントに走れなくなったなぁ……。とか言ったらコイツ、めちゃくちゃ怒るんだろうなぁ。あ~、やれやれ……。

 

「あ~、前田様……」

 

さすがに代打の切り札が打ち取られて意気消沈しかけているようだ。「0対2」で8回裏を迎えるところ。今日のヤクルト投手陣から3点とって逆転するのはなかなか厳しそうだ。

 

8回裏に2点ビハインドながらセットアッパー今村を投入して無失点に抑えるも、9回表はヤクルトの守護神バーネットに三者凡退に斬って取られゲームセット。この大事な一戦での負けに、周囲の観客は帰り支度を始め、グラウンドを見ると選手が続々と引き上げていく。

 

「前まで見に行くわよ!」

 

おいおい荷物、席に置きっぱなしだぜ~!あ、俺にココで見てろと……。まあ別に俺は前まで行かないからいいけどなんだかなあ……。

アイツは最前列に詰めかけ、選手一人一人に声援を送っている。俺はその姿を見失わないようにしながら、後ろの座席で荷物の見張りをしている。

 

しかし、レフトスタンドは赤いなぁ……

 

あの「赤」は本当に映える。今日負けはしたが応援団はじめファンの声援は凄まじかった。優勝ねぇ、長らく見てないなぁ、確かに。

気温が下がってきたのか夜風が心地いい。この程度の人口密度になると球場はとても居心地のいい空間になる。あー、しかし尻と腰が痛い。この固くて狭苦しい座席は何とかならないものか……。

 

相手チームのヒーローインタビューが終わり、選手や監督・コーチ陣も全員引き上げ、彼女が最前列から戻ってきた。

 

「ねぇねぇ、今何時?」

「何時って、ほら9時40分。」

俺はバックスクリーン上部の時計を指差して言った。

 

「やっばーい、あやちゃんと10時に渋谷で待ち合わせしてんのよ。猛ダッシュで10分遅刻。悪いけど荷物持って帰っといて。じゃあね。あ、ネクタイ曲がってるわよ。」

 

そういって俺のネクタイを直すふりをして、ぐい~っと派手に曲げ、「きゃはは~♪」と笑いながら手を振って駆けて行った。

 

アイツ、ホンマに洒落にならんわ!と思いながら、

「金曜日の夜だからってハメ外すんじゃないぞ~!」

と大声で叫んだ。その声が届いたのかどうかは分からないが、背中を向けたまま大きく手を振る姿が小さく見えた。

そんなこんなで愛娘との20年ぶりのデートは終わった。

 

昔は「帰ろ、早く帰ろ!」という娘を「まあまあ……」となだめながら戦況を見守るのが定番だったもんだ。あの頃のカープは強かった。アイツは優勝を見てるんだよなぁ、どれくらい記憶に残っているのかは知らないが。

小学校も高学年になると誘ってもついてこなくなった娘だが、「蛙の子は蛙」。昔の私並みに熱いファンになってしまった。しかし、私もトシをとったもんだ。あの頃は娘の応援に自分がついていけなくなるなんて想像したことがなかった。

 

チームのロゴマークとマスコットキャラクターが入った赤いトートバッグを右手に、自分のビジネスバッグを左手に持ち、ゆっくりと家路へ向かう。あの頃は野球仲間と「『英才教育』頑張ろう!」と競うように球場へ親子連れで通ったものだが、果たして……。

 

苦笑いを浮かべ、外苑前駅へ向かう。ふと振り返ると球場の照明がまだ燦々と降り注いでいる。外から見たこの球場もかなり好きだ。いつから「狭い」とか「暑い」とかシケたことばかり言うようになったんだろう、俺は。

 

「しかし、重いなコレ……」

 

なんだかその重みが嬉しいのやら、悲しいのやら、よく分からず俺はトボトボと駅までの道のりを一人歩いた。


夢舞台から遠く離れて

1

 満員のオーディエンスのスタンディングオベーション。今日3度目のアンコールはデビュー曲の「夢よ急げ」。考えに考えた挙句、原点に立ち返るべくこの曲をセレクトした。

 今回の東京国際フォーラムでの公演で今回のツアーは終了。そして俺達の活動も一旦休止。そろそろ一人一人がポテンシャルを高め、引き出しを増やさなければ、これ以上高みには昇れない。うなぎ上りの人気とは裏腹に俺は危機感を募らせていた。人気と実力は比例しない。見ている側からもある程度は分かるであろうが、やっているほうは遥かにそのことを自覚している。逆に言うとそのことを自覚していない輩は、それに気付いたときにはこの世界から消えていく運命にあるのだ。俺達もこのままだと3年、いや1,2年で何らかの決断を迫られることになっただろう。俺達は敢えて自らそれを制御した。この道が好きだから、少しでも長くこの世界で自己表現し続けていくために。

 

 

2

 ステージに照明が当たり、俺達は前へ整列してオーディエンスに深々と頭を下げた。

「今日で俺達” Funky Paradise”はしばらくの間お休みをいただきます。デビューから10年、こんな華々しいステージで演奏し、歌えるなんて思ってもみなかった。本当に俺達を支えてくれた皆さんのおかげです!」

 オーディエンスは総立ちだが完全に静まり返っている。かすかに聞こえるのは涙でしゃくりあげる女の子の声だけだ。

「みんなの期待に応えるためにもパワーアップして俺達はまたこのステージに帰ってきます。その日までgood-bye!」

 バーン!という轟音がして大量の閃光とクラッカーがステージ中を埋め尽くすと俺達はさっと舞台の袖に身を隠した。オーディエンスの驚きの声と俺達が既にいないことに気付いて叫ぶ声が聞こえる。

 俺は4人のメンバーと次々ハイタッチを交わし、「みんな、お疲れ!」と声をかけた。

「出し切った?」

「おう!」

「俺も!」

 ベースのユウジは握った拳の親指を立てて無言でニヤリと笑いかけてきた。いい笑顔だ。ドラムのダイはペットボトルの水を飲み干しながらVサインを送ってきた。一応みんな今日のステージには満足しているようだ。よかった。本当によかった。

 

 

3

 思えばデビューからのこの10年は俺のわがままに4人を付き合わせたようなもんだった。デビュー以来、全てのナンバーの作詞・作曲を手掛け、ボーカル兼ギターを務めた俺は否が応にも目立った。4人はバックバンドという訳ではなかったが、元々個々のポテンシャルの高いグループであったにも関わらず、事務所の方針で敢えて俺を前面に立たせるという作戦をとることになったのだ。

 しかし10年も同じことをやっていればどうしてもマンネリ化してしまう。俺だって、それなりに他のアーティストや他分野の一線の人達から自分にはない何かを学び、自らの肥やしにしてきたつもりだったが、もう限界だった。

 今回の活動休止は売れるようになったがゆえに許されたワガママだった。それだけに失敗は許されない。何らかの形で今以上のパワーを持って戻ってこなければならない。しかし今のところ、この先どこに向かって進めばいいのかなんて何も見えていない、少なくとも俺には。

 

 

4

 会場の出待ちを避けるように地下駐車場に付けてあった事務所のワゴン車で俺達は場所を移した。ファンのみんなには申し訳なかったが、今日のステージというか走り続けてきたこの10年で疲れ切ったこの身体をアルコール消毒したかった。

「ジュンさん、今日のステージどうだった?」

「よかったと思うよ、俺は。大事なのはこの後じゃない?今日はバッチリだよ」

 事務所のジュンさんの指摘はいつも的確だ。彼のおかげで俺達はこの10年間つまづくことなく歩き続けることができた。実はこの活動休止はジュンさんの口添えでもある。

俺の危機感の最初の相談先はメンバーではなくジュンさんだった。ジュンさんが「何が何でも続けるべきだ!」と答えていたら、俺はメンバーに「ちょっと休もう」などと言わなかったかもしれない。それくらいジュンさんのことを俺は信頼している。彼は二つ返事で「うん、そろそろじゃない」とさらっと返してきた。

「もしお前が言わなかったら、俺から逆に提案していたところだよ」

 事務所側からしたらドル箱のアーティストを失うことになる。ただジュンさんはそんなケチな損得勘定では動かない。俺達がどうすれば本当に力を出し切れるか、いつも真剣に考えてくれている。だからこっちもそれに応えようと真剣に思う。だからこそやや不本意なメンバーもいたはずの形でなんとか10年間持ち応えたとも思える。ジュンさんは俺達がどういう形で帰ってくることを望んでいるんだろう。ただそれは敢えて聞かない。俺達は俺達なりの答えをきっと見つけ出す。

 

 

5

 自室のリビングでギターを一人奏でる。ただ手持無沙汰なだけだ。音楽のある空間で生きてきた俺は音楽のある空間に身を置くことが心地よい。それに何かをしようと考えれば考えるほど焦る。今は何かが頭に降りてくるまでは何をやっても同じだ。焦ることはない。

「音楽のある空間ってやっぱりいいな……」

 ふと壁に張っていたビラに目が行った。俺達のデビュー以来最初のライブとなった渋谷公会堂での公演ビラだ。

「ちょっとコレ妙案かも?」

 俺は部屋着にジャケットだけ羽織って昼時の町を歩いた。

 

「いやあ久々だなぁ……、誰にいつ、どう見られているか知らないけどすんげぇ解放感♪」

 そんなことを感じながらコンビニに入る。機械の操作方法が分からないので店員の大学生とおぼしき青年に「ちょっと」と声をかける。素性はバレバレだがこの辺のコンビニは指導が行き渡っている。

「今日の渋谷公会堂のチケットがほしいんだけど……」

 分からないことは恥ずかしがらずに聞くほうが早い。「俺ってチケット1枚買えねぇんだもんなぁ……」とその青年から渡されたチケットを片手に自宅マンションに戻る。あと3時間くらいしたら出かけてみよう。

 

 

6

 突然の思い付きだったがチケットが取れて助かった。席も狙い通り最後列。これなら多少は目立たなくて済みそうだ。開演10分後くらいを見計らって席に着く。会場は凄い熱気だ。

「おー、こんな風に盛り上がってるんだ。なんか懐かしいなぁ!」

 もちろん、音楽仲間のライブや芝居などに行くことはあるが、招待席なので5列目よりも後ろに座った記憶はもう数年間ない。何だか舞台上のバンドが小さく、小さく見え、でも轟音は会場全体に響き渡るこの感じが新鮮だった。

 このバンドはかなり熱狂的だ。ファンとの一体感が俺達とは違う。ときに会場にボーカルが飛び出し、前3列目くらいまでのファンと一緒に歌い、叫び、踊っている。

「若いなぁ、音楽が、というかコイツらのアクションすべて!」

 ボーカルの彼が今度はシャウトしながら通路を小走りして会場の後ろのほうまで迫ってきた。

「凄いファンサービスだねぇ」

 最近の俺達は公演会場も広くなってしまい、こういう芸当は物理的に難しくなっていた。ただそれは少しでも多くのファンをという興業目的が優先されたせいであって、こういうもっと小規模なところで厳選されたファンと熱く、熱く燃える形があってもいいかもしれないな、などと思い始めていた。

 ボーカルの彼が遂に最後列まで来た。ファンに取り囲まれて大変な状況だが早足で駆けてきたボーカルの彼と一瞬目が合った気がした。その瞬間、彼の歌声が止まった感じがした。気のせいだろうか。そのまま楽曲は続いていく。彼は今度は踵を返してステージに戻って行った。覆いかぶさるかのように群がっていたファンが残念そうに自分の席に戻る。

「俺も押されて結構痛かったぜ、ハハハ」

などと思いつつ、割とその場に染まっている自分が滑稽でもあった。

 

 

7

 ライブが始まって2時間。そろそろ終わりに近づいたのだろう。彼らの自信作と思われる曲でファンが大いに盛り上がっている。そして、「最後の曲に入る前に……」とボーカルの彼が満員のファンに告げた。

「今日はこのステージでご一緒したいゲストがこの中にいます!」

 場内が騒然とする。みんな少しパニックを起こしかけているようだ。

「もったいぶらないで出てきてくださいよ、ファンの皆さんが混乱しちゃうから。お願いします!」

 

「俺のことか。即興にしても強引過ぎるぜ」

 そう思いつつ、ステージにゆっくり歩き始める。ファンたちは俺のことに気付いているのかいないのか、とにかく分からない。先ほどのように覆いかぶさったりする者はまるでいない。俺はステージにゆっくりと上がった。

 ボーカルの彼が差し出してきた右手と握手すると、

「ヒロトと言います。じゃ、”Funky Paradise”の持ち歌で”夢よ急げ”。いいっすか、タクさん」

「オッケー!」

 

 初対面で業界の大先輩を「タクさん」呼ばわりするのもどうかと思うが、満員のファンをしらけさせるわけにはいかない。たとえ自分のファンじゃなかったとしても。しかし、俺の「OK!」という返事を聞くや否やファンのテンションが明らかに変わった。今の俺にとっては少し手狭なこのステージやこのホールがたった今自分の表現場所に代わった。

 

「1,2,…1,2,3,4!」

 

 

8

 型破りな形で始まったセッションは、俺のグループのデビュー曲”夢よ急げ”のカバー。ツインボーカルでステージを走り回ったり、二人背中を合わせてポーズをとったり、即興とは思えぬ息の合い方だった。ほぼ満員のオーディエンスは彼らの持ち歌でないにも関わらず大満足の様子。会場が騒然とする中、ボーカルのヒロトが「ありがとう!!」とシャウトし、俺達はステージを去った。

 

「前田さん、ありがとうございました。はじめまして、俺達は”Boys be”、そして俺は『高橋ヒロト』と言います。急にお呼び立てして大変失礼しました」

 ステージ上の強引さや彼らの楽曲の雰囲気とは真反対に律儀な挨拶を受け、俺は少し戸惑った。こうして見るとなかなか雰囲気のある彼だ。

「いや、思い付きで立ち寄っただけなんだけど、なかなか楽しかったよ。それにしても俺のことよく見付けたね」

 ヒロトは照れ臭そうにしながら、微笑してキャップのつばに手をやりペコリと頭を下げた。なんなんだろう、この充実感は。もう1,2曲一緒にやってみたい気がする。不思議な奴らだ。

 

 

9

「あのさ……」

 俺は彼らにこう語りかけた。

「もし俺が、『君たちのバンドに入れないかな?』なんて言い出したらどうする?」

 その言葉を聞いてヒロト以外のメンバーは明らかに嬉しそうな顔をしていた。ただ、ヒロトだけは視線を下に逸らし、言葉を発しない。

 

「前田さん、俺達のことをからかっているだけだと思いますが、敢えてマジメな質問だと仮定して『条件』があります」

「条件?どんな?」

 ヒロトはこう見えてなかなか思慮深い男のようだ。正直何を考えているのかよく分からない。

「ずーっと僕らと音楽をやってくださいとは言いません。ただ、”Funky Paradise”には帰らないでください。できますか?それができるなら考えます」

 またクソ面倒くさいガキだ。ただでさえ、この先どうしようかいろんな可能性を探っているというのに、若造のゲームに付き合っている訳にはいかない。

「それは無理だな。解散時のファンとの約束があるから」

と答え、踵を返した俺の背中にヒロトの声が飛んだ。

 

「今日は前田さんとの距離を測らせてもらっただけです。条件云々は関係なしに一緒にはやれません」

 最初の言葉がちょっと癇に障った。生意気にもほどがある。まだデビューしたての若造が俺に言う言葉か。100年早いぜ。

 そんな気持ちを押し殺しながら振り返り、「どういうことだい?」と聞くとヒロトはこう語り始めた。

「俺達はアナタ達を目指してようやくメジャーデビューを果たしたんです。そんな中、アナタ達は自ら歩みを止めてしまった。これでもミュージシャンの端くれだから、なぜそうなったかは察しが付きます。今俺達がアナタを受け入れてしまったら、俺達はアナタに永遠に追い付けない。逆に言うと今俺達はアアナタに追い付くチャンスなんですよ。この世界がどれだけ厳しいかアナタは俺達以上に知っていますよね。バカと言われようが、生意気と思われようが、俺達も必死なんです」

 

 ちょっとカウンターパンチを食らった感じだった。今日ココへ来たのは「原点回帰」が目的などと言いつつ、単にノスタルジーに浸りに来ただけなのか。ある意味俺は今の状況を楽観的に考え過ぎていた。何か新しいものを得ればあの世界にまたすぐ簡単に戻れると。しかし、現実は彼らのような若手をはじめ多くのアーティストが俺達のいた場所を陣取りしようと色めき立っているのだ。俺達は無謀にもその場所をフリーにした。思った以上にリスクは大きいようだ。

「で、俺に追い付けそうかい?」

 苦し紛れに言い放った俺の言葉はこんなつまらないものだった。

「今のアナタなら俺達のほうが既に上かもしれません、失礼にも程がありますが」

 

 

10

 自宅マンションの窓から木漏れ日が差す。あの日以来、なぜか昼も夜もよく眠れない。あれほど「焦るな」と自分に言い聞かせてきたにも関わらず、流行る気持ちが俺の空回りを誘う。

 ふと、普段はあまり見ることのないTVを付ける。チャンネルを回しているとCSの“music jam”という音楽番組が目に留まった。まだ売れ始める前にこの手の番組にはよく出演させてもらった。

“Boys be解散!”ということで特集を組んでいるようだ。

「何やってんだよ、アイツ!!」

 

 気が付くと俺は携帯を握っていた。

 

 

11

「タクさあ、一応調べてみたけど。なんか、メンバーの思惑相違とかそんなところみたいだぜ。ボーカルの彼が中心的支柱だったみたいだけど、その彼の気持ちが離れちまったのが大きかったとか。それ以上は立ち入ったことなんで俺も遠慮したけど」

「ジュンさん、サンキュー。やっぱりヒロトか……」

「で、どういう関係なんだい。彼らと?」

 俺はジュンさんに先日の出来事を話した。そして、ヒロトを何とか救えないか相談してみた。

「そういうやつはね、他人にご丁寧に道をつくってもらうのを嫌うもんだよ。もしウチで再デビューするとしてソイツに芽があれば自力でここに辿り着く。そんなもんだと思うよ。タクが認めるくらいのタマだったらなおさら大丈夫だろう。お前だって昔はそうだったじゃん」

 そう言われて俺は自分たちのデビューを振り返った。インディーズで売れなかった頃、片っ端からデモテープを音楽事務所に送ったり、路上ライブに明け暮れたり、果ては有名アーティストのライブ巡りをしては会場の外で歌いまくったり、めくら打ちと思われようがチャンスをつくるための努力は惜しまなかった。決め手になったのは事務所の先輩ミュージシャンのライブ会場外でのストリート演奏だった。そこで俺達はジュンさんの目に留まったのだ。

「そうですね。そんなもんなんですよね。俺、なんでこんなに熱くなってんだろ」

「うん。それよりお前のほうはどうよ。何か収穫はあった?」

 

 収穫ねぇ……。ないと言えばまるでない。あったといえばあった。

 

「高橋ヒロト」

 

 こいつが何か俺のカギを握っているような気がする。

 

 

12

 活動休止を宣言して半年。あれから心のざわめきを起こすような出来事もなく過ごしていた。その代わりにまだ新たに歩き始める道を見出すこともできていない。最近は茶道をかじったり、山に登ったり、本を読み漁ったり、何でもいいのでとにかくインプットに努めている。この10年間は自分の中に入るものをすべて吐き出す作業ばかりしてきて中身が空っぽになってしまったと思うからだ。

 

 今夜は予定がないので自宅でTVを付けるとゴールデンタイムの音楽番組に俺達と一緒に共演していた人気ミュージシャン達が勢揃いしている。その中に見覚えのある顔があった。

「ヒロトじゃねぇか!」

 司会に「若者達の憧れ」、「期待の彗星」と紹介されたヒロトはソロアーティストとして再デビューを果たしたようだ。アコースティックギターを携え、ハードロックを封印した彼はしなやかだが強いメッセージが伝わる歌詞を独特なハスキーボイスで歌い上げ、美しいメロディーと調和させていた。

 ちょうどそのとき携帯が鳴った。ジュンさんからだ。

「タク、元気か。今、テレビつけられるか」

「あぁ、ご無沙汰です。TVつけてますよ。アイツが、”Boys be”のヒロトが出演してて、それ見てたんですけど」

「ウチからデビューしたぜ、アイツ。ソロアーティストとして」

 

 マジかよ……。俺が道に彷徨っている間に、アイツは自分の道をしっかりと見付け、既に歩み始めているじゃないか。

「お前が見抜くぐらいの才能は後押しなんかしなくても自分で這い上がってくるぜ。ヤツには若さもあるし。むしろお前のほうがちょっと心配だよ、俺は」

 

 耳が痛かった。ヒロトのようなハングリーさは今の俺にはない。何か自分にフィットする音楽性が見出せればあの舞台でそれをすぐに披露することができると考えていた。しかし、半年経った今、ただ指を加えて若者の成長を見守ってばかりいた自分にようやく気付いた。

「大丈夫か、タク」

「え、えぇ」

 

 俺は電話を切ると、TVも消し、ギターを手に取ると、ストリートの頃によく歌っていた”Boys be ambitious!”という楽曲を口ずさんでみた。

 

“夢に向かって Boys be ambitious!”

そんなフレーズが空々しく感じた。俺はもはや"Boy"ではない。「夢」を「夢」と感じるピュアな心もハングリーさもない。ただ焦る気持ちばかりが増幅している。

 

 ジュンさんの「大丈夫か?」という声が頭の中をこだまする。

 

「大丈夫じゃねぇよ、ジュンさん……」

 

 小声で口に出して言ってみた。

 

「大丈夫じゃねぇよ。大丈夫じゃねぇよ!!」

 

 俺が放り投げたギターは壁に当たって落ち、ネックが折れ、頭を垂れるようにへたり込んだ。瞼の奥のほうに熱いものがこみ上げてきた。どうしてこうなっちまったのか俺にはまったく分からない。

 

 誰か俺に歩き方を教えてくれ。俺にはもう息の仕方くらいしか分からない。前に進む方法が分からない。頼む、頼むから。


頭文字

1

 僕がまっきーに出会ったのは小学3年生の終わり頃、父親の仕事の関係で東京の吉祥寺から和歌山県紀の川市へ引っ越した先の小学校で一緒のクラスになったことがきっかけだった。突然知らない土地に投げ出され、関西弁に圧倒されたりクラスメートの遊びや関心事が今一つしっくりこなかったりして、みんなに溶け込めないでいた僕に、

「何やっとんねん、お前も来いや」

と昼休みに校庭に連れ出してくれたのがまっきーとの最初の会話だった。

「お前、名前なんちゅーんやったっけ」

「え、鈴木だけど」

「ちゃうわ、苗字ちゃう。名前、名前」

「あ、ああ。拓也。鈴木拓也。よろしく」

「タクヤか。タクでえぇやん。みんな、こいつ今からタクにしとこ。俺はまっきー。よろしゅう」

 まっきーはこんな調子でいつも集団の真ん中に立って楽しそうに授業中も休憩時間も過ごしていた。僕にとって彼は友達でありながらヒーローだった。

 ちなみにまっきーは中野真樹という名前だ。最初はすぐにニックネームで呼べず「中野くん」と呼んでいたが、まっきーから「お前堅苦しいヤツやのぉ」と言われ、そのうちに他のみんなと同じように「まっきー」と呼ぶようになっていた。

 まっきーといると不思議と僕は饒舌になって、いつのまにか仲良しコンビのようになっていた気がする。血液型はまっきーがAB型で僕はO型、共通の趣味もないし、どうして気が合うのかまったく分からなかった。

 

「空が青いわ」

 二人で紀の川の河川敷の草むらに寝転んでまっきーがそう言うのが僕は大好きだった。県内でも自然が豊かで山紫水明なことで有名なところ、まあよく言えばのどか、平たく言えばド田舎だ。そういうところに引っ越してきて退屈するんじゃないかなぁ、などという嫌な予感はまっきーのおかげで完全に打ち消された。

 

 

2

 そんなまっきーとも高校受験で別々の高校になった。中学校の卒業式でハイタッチして別れたのがとっても懐かしい。お互いの両親が二人のあまりの仲のよさにまったく同じ2ショットを収めたくらいの仲のよさだった。両親どうしも僕達二人につられるかのように仲良しになっていた。僕達はもちろん、両親達も、二人に同じ高校に進学してほしかったようだが、まっきーと比べて僕は成績が悪すぎた。

 「で、お前どこ受けるんや」というまっきーに「オマエと違うとこ。すまん」と返事をすると「まぁ、しゃーない、しゃーない」とどんなときも常に笑顔でいるのがまっきーだった。

 

 高校を卒業すると僕は東京の大学に進学した。一方のまっきーは高校3年の春、身体の具合を悪くして休学することになった。母親がまっきーのお母さんからその話を聞き付け、僕は慌ててまっきーの家まで走って行ったのだが、彼は見た感じすごく元気で「どしたん、タク!?」とあっけにとられていた。

「いや、まっきーが休学したって聞いたからさ」

「あぁ、そのこと。なんか病名は分からへんけど『じたくりょーよー』やて。そう医者に言われた。せやからコレ」

 そう言ってまっきーは僕に分厚い参考書を見せた。

「学校行けへんかて置いて行かれへんで」

 僕の肩をバンと叩いてそう言ったまっきーは「心配すんなや。おおきに」と言って僕に家に帰るように促した。

 

 その後、母さんがまっきーのお母さんとまっきーが入退院を繰り返しているようなことを電話でやりとりしているのを小耳に挟み、母さんに問いただしたが「アンタは自分のことをしっかりしなさい」と言うばかりだった。詳しい話は僕のもとに何も入らなかった。

 

 

3

 大学に入学してからの僕はバイトとサークルに明け暮れていたが、盆と正月の帰省は楽しみだった。まっきーに会えるのかどうか、それは賭けみたいなものだった。大学1年生の夏は会えた。彼の家に遊びに行き、

「大学はえぇぞ、東京はえぇぞ。早く来い来い」

と冗談めかして言うと

「マジかよ。こっちは『コーニン』やで。『コーニン』」

「『コーニン』?なんじゃそりゃ」

「『高等学校卒業程度認定試験』知らへんのか。俺、学校行ったり休んだりやから卒業でけへんやん。せやからコイツに受かって大学受けるしかないんや」

「いつ?」

「今月の頭にしゅーりょー。お前が遊びほうけている間にな!」

 嫌味たっぷりにまっきーはそう言うと、「今月の終わりごろに結果が出るし、それ次第で東京に攻め入るぜ」と付け足した。もっともまっきーの具合からして大学に進学するにせよ、自宅から通えないところへ行くのは難しいんじゃないのかなとは思っていた。

 

 

4

 次にまっきーに会えたのは大学3年生の夏。まっきーは僕が大学1年生の年に、高認と大学受験に合格し、自宅から比較的近い大学への進学を決めていたが1年目はほとんど通学できなかったようだ。大学3年生の夏は病院に呼ばれた。母親から聞いた病室を訪ねるとそこは一般病棟で夏なのにニット帽をかぶったまっきーが同じく入院患者と思われる子供に勉強を教えていた。

「イサムくん、すまん。お客さんや。本日の授業はこれにて終了」

 まっきーがそういうとその「イサムくん」という子は「えーっ!」と言い、僕にあっかんべぇをしながら病室を出て行った。

「おっす、今の子は?」

「あぁ、お隣さん。頭いいんやで、アイツ。オマエと違うて『東京の大学』じゃなくて『東京大学』に行くかもしれへんぞ」

 まっきーは僕に皮肉たっぷりにそう言うと、ベッドに軽く横になった。

「具合はどうだい」

「まあ、見ての通りやわ。意外と元気そうやろ」

 確かに「会うのなら病院に」というから心配していたが、こんな軽口をたたくあたりまっきーらしさは健在のようだ。ただ、ニット帽が気になり、そこへは視線が行かないようにしていた。

 

 病室からは窓から青空が見えた。まっきーが言った。

「空が青いわ」

 二人で川べりの草むらで寝転んでいる姿がフラッシュバックした。

「そうだねぇ」

 なんだかちょっと目頭が熱くなって黙っていたら、その静寂がとても居心地が悪く、僕は無理やり話題を変えた。

「東京にさ、代官山ってとこがあって、いいカフェがあるんだ、パスタがうまくてね。冬場はカフェのくせにトマト鍋が最高にうまいんだ」

「ていうか、おまえ、トーキョーの言葉にすっかり染まっとるやんけ」

「仕方ねぇじゃねぇか。それはいいとして、その店にさ、行くと必ずいるネコがいるんだよ。ノラ猫だと思うんだけど。あまりに俺のこと見るからほら」

 僕はスマホで撮っていたその猫の写真をまっきーに見せた。

「ほう、なかなか可愛いやん。俺が名前付けたろか」

 僕は「タク」というニックネームをまっきーに付けられたときのことを思い出した。そうそう、こんな感じだったよなぁ。

「うん、付けてよ。とびっきり似合う名前」

「そー言われても俺が見た訳じゃねぇし。タクが見付けたから『タクロー』でえぇんちゃうか」

「うわっ、超テキトー。でもテキトーな割にマトモな名前じゃん。『タクロー』いただき。今度東京で会ったら、ちゃんと『おい、タクロー』って呼ぶようにするよ」

 そんな他愛のない会話をまっきーのお母さんが見ていたようで、病院からの帰り際に「かんにんな、ネコの話聞いてしもた。ホンマにおおきに」とわざわざ御礼を言ってくれた。

「あの子、ネコ好きやろ。せやけど入退院が続くようになってウチのネコちゃんの世話がでけへんようになってもうて、親戚の家に預けたよって寂しかったんかなぁ。またかわいいネコちゃん見付けたら写真でえぇから送ってやって」

 そういえばまっきーの家には小学校のときから猫がいた。名前は「のび太」。一見豪快なようで結構繊細なAB型のまっきーは「のび太みたいになりてぇ」とよく言っていたような気がする。あの頃から随分月日が経ったもんだ。

 

 

5

 それ以来、僕は「コレは!」と思うネコを見付けると、まっきーにメールで写真を送った。「とびきりの名前をよろしく」とメッセージを添えて。返事はすぐ帰ってくるときもあったが、1か月くらい待たされることもあった。さんざん待たされた挙句に「がちゃぴん」なんて名前が送られてきて拍子抜けし、「なんで『がちゃぴん』なんだよ!」と返信すると

「だって、どうみても『がちゃぴん』だろ。よく見てみろよ(笑)」

と近くにいたら一発お見舞いするぞというような返事がまた1か月後に来たり、とそんな感じだった。

 

 あまりにも他愛ないやりとりだったので、まっきーがネコの名付けを楽しんでいるように思えず、写真を送るのは数匹でやめてしまった。そんなこんなであっという間に時は過ぎ、僕は卒業を控えていた。春からは社会人。最後の学生生活を満喫している最中に、母さんから「真樹くんが大変。アンタ早く帰ってきぃや!」とまくし立てるように電話してきた。

 僕は訳も分からず簡単に荷物をまとめると、まっきーが入院している病院へ向かった。

 

 

6

おう、タクじゃねぇか。わりーな、わざわざ東京から。

でもそこに立つなや。空が見えへんやんか。

ほら見てみぃや。ごっつぅ、えぇ天気やで。

泣いとんのか、お前。泣くなや、タク。

せっかく久々に会うたのにつまらへんやん。 

空を見てみぃや、空を。

 

 

7

 僕は翌日の通夜と翌々日の告別式に出席した。

 まっきーが亡くなったその日は病院から自宅に戻って喪服代わりに着た親父の昔の背広のサイズがぴったりで家族は驚き、喜んでいた。通夜に参列した昔の友達は時間が経つに連れて思い出話に耽り、時々笑顔も見せていたが、僕はとてもそんな気分になれなかった。

 そして告別式では綺麗に死化粧を施されたまっきーの亡骸に皆が涙し、斎場ではまっきーが灰色の煙と化し青空に溶け込んで行くのを見守った。

 すべての葬儀が終わり、帰ろうとする両親と僕をまっきーの両親が呼び止め、お母さんが僕の手をとって「拓也くん、本当にありがとう」と涙ながらに言った。僕はもらい泣きしそうになるのを堪えるので必死だった。

 

 

8

 告別式の翌日、僕は両親にJR和歌山線の打田駅まで車で送ってもらい、関西国際空港に向かう電車に乗り込んだ。僕は時間を持て余し、まっきーが名付けた猫たちの写真をスマホで眺めていた。

 

「『タクロー』、お前が一番最初だったな。まともな名前付けてもらってよかったな」

 

「『食わず嫌い』、この辺からアイツふざけ始めたんだよな。受け狙いっつーか。全然おもんねぇけど。だって、キャットフードを選り好みするって伝えたらアイツそのまんま名前にするんだもん」

 

「アンガールズ、いや確かに山根に似てるけど、これまたそのまんまじゃん、そのまんま過ぎ」

 

「りんごちゃん、この時ちょうどアイツりんご食ってたんだろう、きっと。意味分からんわ」

 

「がちゃぴん、似てねぇっつーの、猫だぞ、猫。怒られるぞ!」

 

「とっちゃんぼーや、確かにまだ生後6か月でコレは老け顔かもしんねぇけど、そんな名前付ける親がいるか、普通!」

 

 僕はスマホのタッチパネルを指でなぞりながら、そんなことを頭の中でつぶやいていた。そうすることで少しずつ笑顔になれる気がして、飽きることなく何度も何度も写真を眺めていた。

「『タクロー』でしょ、『食わず嫌い』でしょ、『アンガールズ』でしょ、『りんごちゃん』に、『がちゃ・・・」

 

 そこまでつぶやいたところで僕の思考回路が止まった。

 

「た・く・あ・り・が・と」

 

 まさか……

 

「タク、ありがと」

 

 スマホの画面の中から「とっちゃんぼーや」が語りかけてきた。僕は思わぬ形で届けられたまっきーのメッセージに必死で堪えてきた涙を禁じ得なかった。 

 思わず席を立ち電車の最後尾に駆け寄って、来た方角を車窓から見渡すも、とめどなく流れる涙が邪魔をして僕の目には何も見えなかった。電車は僕の思いなどよそに、絶え間なく線路を吐き出しながら走り続けていた。

 

「タク、ありがと」

「泣くにゃあ、泣くにゃあ」

 スマホの中の6匹の猫達が口々にそう叫んでいる。僕は溢れる涙はそのままに僕に寄り添っている6匹の猫達を抱きしめた。

 

 電車の車内アナウンスが「もうすぐ終点の和歌山駅に到着」と伝えている。僕はスマホを大事に大事に胸に抱きしめ、本当に一人ぼっちになってしまった寂しさを6匹の猫達で紛らわせた。



読者登録

小杉匠さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について