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酒の篭脱け

アンタッチャブル
~米沢藩の禁酒法に挑んだ男~

寛永、享保、天明、天保
これを江戸時代の四大飢饉と申します
飢饉といいますのは
悪天候のために農作物ができず
おなかをすかせて、
最悪飢え死にする人もでる事態
とまぁ、今では考えられないような
たいへんな時代がございました
これからお話しするのは
江戸時代も後期
天保の大飢饉のころのお話でございます
ここ置賜でも不作は例外ではなく
おとなり米沢では時の藩主 上杉斉定(なりさだ)が
この米で飢えをしのぐようにと藩の備蓄米を領民に分け与えました
このおかげで上杉藩は一人の餓死者もなく
この天保の大飢饉を乗り切ることができたそうです
どこかの国のロケットあげて喜んでいる
将軍様とはえらい違いでございます

ただ貴重な備蓄米を分け与えるわけですから
ある条件を付け加えました
お米には何か別のものを混ぜて
かさ増しして食べなさい
これを かてもの なんていいますが
わかりやすく言うとおしんの大根飯のようなものですな
このようなお殿様までおかゆをすする倹約生活の中
貴重なお米を使うお菓子やお酒を作ることは
固く禁止されていました
ま、禁酒法のようなものでございます

日本酒がなければワインを飲めばいいじゃない なんて
マリーアントワネットなら言うでしょうが
残念ながらそのころには高畠ワインはまだありません

ないといわれると余計に飲みたくなるのが
ま、人間の性というものでございまして
そこに現れましたのが
露藤のアルカポネ高橋左兵次でございます

露藤といいますと
橋一本はさんで米沢とは別の藩
酒造りが咎められることはなく 
ま、飢饉のさなかでしたからたいへんでしたでしょうが
酒は自由に飲むことができました

場所は亀岡の文殊様より西へ十五分ほど歩いたところにございます
知恵の文殊様と申しますが
左兵次はどうやら悪知恵を授かって生まれてきましたようで
さて、ここは米沢と高畠の間に設けられた関所
ここでは旅人の徳利やら竹の水筒まであらためまして
酒の御領内への持込を取り締まっておりました

「これ、これそこのお前」
「へぇ、何でございましょうお侍様」
「名をなんと申しす」
「へぇ、露藤の左兵次と申します」
「そのような赤い顔をして、
酒臭い息まで吐いて、その荷車のま新しい樽は何だ!
もしや、ご禁制の酒ではあるまいな」
「いやいやお侍様とんでもねぇ、
 ご禁制の酒を持ち込むなんて
 滅相もねぇことでございます」
「それならば改めさせてもらう、さ、その樽のふたを開けろ」
「へへぇ、少々お待ちを」
左兵がふたを開けている間に関所の侍はひしゃくを持ってきました
顔こそ険しいものの ま、彼も嫌いなほうではないんですなぁ
内心は久しぶりに酒が飲めるってなもんでこらもうウハウハですな

「お侍様、おやめんなったほうが・・・」
なんて左兵次がいいますが
「う、う、うるさい!」
といって御役人はひしゃくを樽に突っ込みます
「ほう色はだいぶ黄色いな、
 樽の色がついたか、それとも古い酒か
 どれにおいは むむ
 かもし方がうまくいかぬと
 タメスコ のような臭いになるというが
 こやつめ 酒のないのをいいことに
 このようなまずそうな酒まで売りつけようとは
 まぁ酔えればいいというやからもいるだろうからな
 さて味のほうは ズズ
 はて、ぜんぜん酔えるような気がせんぞ
 コクはあるようだがなにやら苦味が
 そのうえ塩辛いような」
「そりゃぁ塩辛いのは当然でございます
 なにせ下肥、小便でございますから」
お役人、それを聞いて
ぶーーーーーーっと噴き出します
「貴様、武士を愚弄する気か!
 小便を酒と偽り飲ませるなど言語道断
 そこへ直れ、成敗してくれる!」
「いやぁ、お侍様 そいつはちょっと筋がとおらねぇ
 あしはただの一言もこいつを酒だ
 などと申したりはしておりません
 それどころかおやめんなったほうがとも申したはずでございます
 お侍様が勘違いなさっただけのこと
 お咎めを受ける道理はございません」
確かに筋が通らない
お役人は悔しいやら情けないやら
「んんんんん えぇい 行ってしまえ
 二度と顔を見せるな!」
とまぁこんな調子でございました
左兵次もこんなことを繰り返しますと
関所の侍の間でも有名になってまいります
あいつには よるな 触れるな かかわるな
アンタッチャブルだ
とまあ、
(ここが笑うところになるんですが)
こういう具合になるんですなぁ

そうしますと今度は左平次
樽を新しいものと取り替えまして
今度はご禁制の酒を米沢に運び込み
闇で裁いて大いにもうけたというはなしでございます

ただ、悪銭身につかずといいまして
パーッと使って、
すぐにまた貧乏暮らしへ逆戻り
だったそうでございます



















時代背景

江戸時代の高畠町を書くに当たって時代背景を調べたところ

お隣上杉米沢藩との数々のトラブルが見えてきます。

 

上杉家は上杉景勝公の時代に越後から会津に国替えになります。

120万石の所領でしたが秀吉が死に家康の時代になると、

家康に因縁をつけられて討伐軍を送られます。

この際送られた討伐軍が関が原合戦の東軍で、

実際に徳川と戦闘することはなかったのですが、

この後120万石の所領が4分の1の米沢30万石に減らされます。

この30万石の中に高畠と福島市の一部も含まれていたそうです。

 

さて江戸時代になって上杉米沢藩3代目当主が若くして亡くなります。

跡継ぎなき家は御家断絶となるところですが、なんとか養子をもらい上杉家は存続します。

このもらった養子と言うのが赤穂浪士でおなじみの吉良上野介の息子。

彼の奥さんが上杉の出だそうで、そういった血縁からのこととの話です。

とはいえこのようなてんやわんやのせいで上杉家は幕府からペナルティとして、

高畠と福島の領地を取り上げられて、その領地は15万石となってしまいます。

上杉家は人は宝だと言って、家臣の召し放ち、いわゆるリストラはしませんでした。

しかしながら実際問題収入は半分ですから何とかその減った収入を穴埋めしなければなりません。

そこで目をつけたのがかつての所領「屋代郷 高畠」でした。

そのころの高畠は幕府領ではありましたが、管理はいまだ上杉家にまかされておりました。

それをいいことに高畠から重税をとることにしたのです。

もちろんそんな権限は本当はありません。

たとえるならばオーナーに内緒で店子から倍の家賃を徴収する管理人のようなものです。

世が世なら越後のちりめん問屋と名乗る天下の副将軍が現れて懲らしめてくれるような案件ですが、

彼の活躍まであと20数年を要すころのお話です。

そこで立ち上がったのが二井宿村に住む高梨利右衛門でした。

彼は福島にある代官所へ何度もこの窮状を訴えましたが取り合ってもらえませんでした。

そこで当時禁じられておりました直訴を試みます。

江戸に赴き三つ葉葵のご紋の付いた文箱を茶屋に置き去りにし、

奉行所経由で将軍様に見てもらおうと言う作戦でした。

利右衛門は磔となりますが、結果上杉家の悪事がばれて

高畠は代官所が置かれ幕府直轄の領地となったのです。

 

そんなこんなもありまして、佐兵含む当時の屋代郷の米沢藩に対する視線は

冷ややかなものであったと言うそうです。

 

なお、その後18世紀中ごろには織田信長の次男の家系の織田藩が治めることとなりますが、

左兵の時代のころには一緒に与えられた天童の方が居心地がいいと高畠藩から天童藩に移ってしまいます。

 

再び幕府直轄の屋代郷になりますが、またもや上杉藩が利権を手にしようと画策します。

利右衛門の魂を再びと屋代郷の人々は反発しますが、

幕末で体制が揺らぎ、少しでも各藩の協力がほしかった幕府は上杉藩に屋代郷を差し出す裁定をするのでした。


この本の内容は以上です。


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