目次
もくじ/本書について
もくじ
本書について
第1部 : 哲学って何?
はじめに/お断り
哲学って何?(1) ――名前依存症――
哲学って何?(2) ――お遊び・小細工・おふざけ――
哲学って何?(3) ――言葉という名の枠――
哲学って何?(4) ――哲学を庶民の手にー!――
哲学って何?(5) ――訳読――
哲学って何?(6) ――ニーチェを直訳・意訳・超訳する?――
哲学って何?(7) ――言語と哲学――
哲学って何?(8) ――ヒト・言語・森羅万象――
哲学って何?(8) ――ヒト・言語・森羅万象(書き直し)――
哲学って何?(9) ――言葉であるということ――
哲学って何?(10) ――哲学を学ぶ―― 【最終回】
こんなことを書きました(2012.10.14-2012.10.29) 【前半】
こんなことを書きました(2012.10.14-2012.10.29) 【後半】
第2部 : シリーズ「かわる」+迷言+テクスト
かわる(1)/言語という幻を用いているヒトは、限界で彼方を望みながら、同時に減界の深みに
かわる(2)/「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みは、誰かor何かの意思
かわる(3)/意味=進行方向を固定させたくない、つまり文=フレーズ=センテンスを停滞させたい
かわる(4)/ヒトは「与太話=フィクション=作り話」しか、こしらえることはできない。
かわる(5)/事実、真理、現実、客観性は、多数決で決まると言うより、腕力で決まる。
奥付
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もくじ

・もくじ

・本書について

第1部:哲学って何?
・哲学って何?(1) ――名前依存症――
・哲学って何?(2) ――お遊び・小細工・おふざけ――

・哲学って何?(3) ――言葉という名の枠――
・哲学って何?(4) ――哲学を庶民の手にー!――
・哲学って何?(5) ――訳読――
・哲学って何?(6) ――ニーチェを直訳・意訳・超訳する?――
・哲学って何?(7) ――言語と哲学――

・哲学って何?(8) ――ヒト・言語・森羅万象――

・哲学って何?(8) ――ヒト・言語・森羅万象(書き直し)――
・哲学って何?(9) ――言葉であるということ――
・哲学って何?(10) ――哲学を学ぶ―― 【最終回】
・こんなことを書きました(2012.10.14-2012.10.29) 【前半】
・こんなことを書きました(2012.10.14-2012.10.29) 【後半】

第2部:シリーズ「かわる」+迷言+テクスト
・かわる(1)/言語という幻を用いているヒトは、限界で彼方を望みながら、同時に減界の深みに

・かわる(2)/「何かの代わりに何かではないものを用いる」という仕組みは、誰かor何かの意思

・かわる(3)/意味=進行方向を固定させたくない、つまり文=フレーズ=センテンスを停滞させたい
・かわる(4)/ヒトは「与太話=フィクション=作り話」しか、こしらえることはできない。
・かわる(5)/事実、真理、現実、客観性は、多数決で決まると言うより、腕力で決まる。



 


本書について

*『哲学って何?』
このシリーズでは、この国において哲学を学ぶということが、どのような作業であるかを概観し、ほとんどの場合がテクストの講読であることを確認し、テクストの講読においてはテクストで用いられている、ある特定の言語という枠に、読むという行為と、考えるという行為が、とらわれざるを得ない状況を考察しています。

 

*『シリーズ「かわる」+迷言+テクスト』

この5回にわたるシリーズでは、ある特定の言語という枠のなかで、読み、考え、記述する作業の具体的な実践として、「かわる」という言葉にこだわった「方法論」的なエッセイを記載し、さらに日本語という言語の枠のなかで思考し記述しようと試みた「テクスト」として過去のエッセイを引用しています。

 

なお、以上の2つのシリーズは、電子書籍  『うつせみのあなたに』(全11巻) の延長上にあるものです。本書をお読みになって、その内容に興味をお持ちになった方で、『うつせみのあなたに』というとてつもなく長い哲学的エッセイをご存じない人がいらっしゃいましたら、ぜひ現物をご覧になってください。長いものですが、第9巻第10巻第11巻が、本書と最もかかわりがありますので、併せてその3巻を拾い読みいただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 


はじめに/お断り

2012-10-14 10:24:20

 このブログでは、日々頭に浮かんだ、たわごと、うわごとの類をつづっていくつもりです。

 したがいまして、お読みいただいている皆さまには、そのことを予めお断り申しあげます。

 ぶっちゃけた話が、本ブログに書いてあることは、すべてがでまかせであり、でたらめですので、間違ってもまともに受けとめなさらないようにと、お願いしているのです。

 この先、その時々に思ったことを、あくまでもたわむれとしてつづっていきますので、書いたことがどなたかのお気持ちを乱したり、こころを傷つけるかについては、深く考えずに書き進めていくことになります。

 皆さまのなかで、むっとされる方がいらっしゃるだろうことも少なからず書くだろうと存じますが、そのおりには、どうかお許し願います。
 
 

哲学って何?(1) ――名前依存症――

2012-10-14 16:37:29

 哲学という言葉を見たり聞いたりして、どんな思いをお持ちになりますか?

 哲学とは何か? こんな問いを目にしたり、口にすると、それだけで自分が哲学に近いことをしているような思いをいだきませんか。思うのですが、哲学というのはこけおどしの言葉になりつつあるのではないでしょうか? 

「わたし(ぼく・あたし・じぶん・おれ)は、大学で哲学をやっています(やってるんだ・やってんの・やってます・やってんだけどさ)」
「わたし(ぼく・あたし・じぶん・おれ)は、今〇〇の本を読んでいます。(読んでるんだ・読んでんの・読んでます・読んでんだけどさ)」【※〇〇には哲学者の名前が入ります。】

 このように言うヒトは(少なくとも「この国のヒトは」)、たぶん威張っているのではないかと思います。威張る――。つまり「虎の威を借りる狐」という言葉にある「威」を借りて胸を張っているのでしょうね。

 嫌ですね、そういうヒトは。苦手です――。おまえも、そうじゃないか、なんて言われれば返す言葉もありませんけど。
【※このまま、お読み続けていただければ、本ブログの「狐」ぶりがお分かりになると存じます。】

     *

 いくつかのSNSやそれもどきの集まりに入っているのですが、その集まりのなかにまた集まりがあります。その小さいほうの集まりには、当たり前ですが、名前がついています。「当たり前」と書きましたのは、ヒトは名前無しには生きることができないからです。

 あるヒトの名、あるヒトの入っていた集まりの名、あるヒトをある物差しではかり、それにふさわしいと思われるある名の付いた集まりに入れるという場合もあります。

 小さいほうの集まりの名には、上で述べた名前の他に、ところの名、病の名、心や体のある有りさまを言葉に置き換えて出来た名、あるヒトが書いたものの名、あるヒトの訴えた心や行いの有りかたを言葉にした名、さまざまな学びの名などがあり、とにかく切りがないのです。

     *

 話を戻します。

 SNSやそれもどきの集まりに入っているヒトたちのなかに、おもしろい自己紹介をする方々がいます。たくさんといると言ってもかまわないと思います。

「私がどんな人間かは、参加しているコミュニティを読めば分かります」

 というのですが、これこそ虎の威を借りて威張っている狐ではないでしょうか。恐ろしいことに、この威張りは伝染(うつ)るんです。たいていのヒトは、威張りに染まっていきます。

 なにしろ、誰もかれもが偉そうなのです。その「威」のやり取りに慣れてくると、「阿吽の呼吸」が身に付きます。

「ほう、キュービズムに関心をお持ちなのですか、ピカソですね(イッヒッヒ)」
「マーヴィン・ゲイ――。マニアックですね。あなたとの、この巡り会いに感謝します(えっへっへ)」
「ロシアフォルマリズムが出て来たのには驚きましたよおー。この人はいったい、何者だろうなんて感じでえー」
「南方熊楠をご存じなのですか? いやー、奇遇ですね、私、熊楠の『十二支考』の上下を持っています。高校生だったときの社会の先生に薦められて買ったものの、書斎のどこかで積読状態ですよ、はっはっ」
「フーコーとドゥルーズとデリダに興味を持っていらっしゃるようですね。私は学生時代に原書でフーコーだけを読んだことがあります。正直に言いますけど、難解でした。いやー、あの頃に戻りたいですねえ」
「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン――。さすが、ヴィトゲンじゃなくてウィトゲンと表記なさっていますね(ウムウム)」
「この顔ぶれのなかにニーチェのコミュがあるところを拝見し、あなたがにわかニーチェアンじゃないことが分かりました。新訳のニーチェを読んだ人たちが嬉々としているさまは見るに堪えませんもの」

     *

 このブログでは、主に哲学を扱いますので、哲学や哲学者を3つ例にとりましたが、哲学者にかぎらず、芸術、学問一般、音楽、スポーツ、ファッションなど、広くさまざまな場で、上で述べたような「虎の威を借りる」おびただしい数の「狐」を目にすることができるのです。

 とは言え、こけおどしをまともに受けたとしても、それがまともなものではなく「張子の虎」だと分かる出来事をいくつか経れば、ちょっとやそっとの「虎の威」ではだまされないようになるか、上で述べた、相手との「阿吽の呼吸」を覚えるようになるみたいです。つまり、自分も「狐」になるのです。

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*この記事に出たキーワード & キーフレーズ : 名・名前/哲学・哲学者/大学/コミュニティ/「虎の威を借りる狐」/こけおどし/SNS

*この記事に直接出てこなかったキーワード 
: 坂部恵/蓮實重彦/ギュスターヴ・フローベール(フロベール)/『紋切型辞典』/哲学学者・哲学屋/名前依存症/動物行動学/mixi/Amebaブログ/フリードリヒ・ニーチェ/『超訳 ニーチェの言葉』/吉田戦車 

――本記事からの断片/断章――

*哲学とは何か? こんな問いを目にしたり、口にすると、それだけで自分が哲学に近いことをしているような思いにならないだろうか。哲学という言葉は、こけおどしの言葉になりつつある。

*それぞれのヒトの名、ところの名、心のある有りさまを言葉に置き換えて出来た名、あるヒトが書いたものの名、あるヒトの訴えた心や行いの有りかたを言葉にした名、さまざまな学びの名などがあり、切りがない。ヒトは名前無しには生きることができない。ヒトは名前依存症になっている。

*虎の威を借りて威張っている狐――。恐ろしいことに、この威張りは伝染(うつ)るんです。たいていのヒトは、威張りに染まっていく。

*哲学者にかぎらず、芸術、学問一般、音楽、スポーツ、ファッションなど、広くさまざまな場で、名前という名である「虎の威を借りる」おびただしい数の「狐」を目にすることができる。とは言え、「狐」のこけおどしをまともに受けたとしても、それがまともなものではなく「張子の虎」だと分かる出来事をいくつか経れば、ちょっとやそっとの「虎の威」ではだまされないようになるか、相手との「阿吽の呼吸」を覚えるようになる。つまり、自分も「狐」になるのである。
 
 
 
 

哲学って何?(2) ――お遊び・小細工・おふざけ――

2012-10-15 16:28:35

 このブログの第3回目です。

 1回目はご挨拶で、2回目はヒトがいわば「名前依存症」になっているさまを、あるSNSの自己紹介を挙げて述べました。1回目はもろに、そして第2回目は頭をしぼりながら行ったある「おふざけ」というか「お遊び」をしたのですが、お気づきになりましたでしょうか?

 その「お遊び」というのは、これからこのブログを書き進めるにあたっても大きな柱となるものです。今回は、その「お遊び」についてお話しするつもりです。実は、その「お遊び」は、今も続いているのです。遊びとはいえ、とてもやっかいな作業なので、この記事の冒頭からして四苦八苦し、息切れがしている次第です。

 あっつ、もう駄目です。失敗の連続です。苦しいので、その「お遊び」はもうやめます。

 この記事をここまで読み直しましたが、その「お遊び」が完全に破たんしています。

     *
 えっつ? その「お遊び」というのは、一人称を使うのを避けて文を書いていることだろう、ですか? 

 正解です。「私・わたし」のたぐいは使っていません。と言いながら、どこかで使ったかもしれない、と心配になって、1日目からここまでの文にざっと目を通してみましたが、一人称の代名詞は見当たりませんでした。ただし、「私がどんな人間かは、参加しているコミュニティを読めば分かります」【※前回からの引用】みたいに、誰かの発言を記述する場合は別ですよ。

 はあ? 「ヒト」という言葉を使うことだろう、ですか? 

 これまた正解です。確かに意識して使っております。「ロシアフォルマリズムが出て来たのには驚きましたよおー。この人はいったい、何者だろうなんて感じでえー」」【※前回からの引用】みたいに、誰かの発言として書く場合は除いて、です。なぜ「ヒト」と表記するのかと聞かれると困るのですが、「なんとなく」とか「癖なのです」という他に言葉が出てきません。

     *

 今思い出しましたが、作家であり翻訳家であられた故田中小実昌(たなか・こみまさ)氏は、エッセイなどでは確か「ニンゲン」と表記なさっていました。翻訳家としては、抜群に自然な日本語を書くヒトでした。小説も、とぼけた文体で深いことをさらりと書く、そんなヒトでした。タイトルは忘れましたが、そのヒトが、英語の原文では一人称で語られている小説を、一人称を用いずに翻訳したというのは、翻訳家の世界では有名な話だそうです。

 小鷹信光(こたか・のぶみつ)という現役というかベテランの翻訳家・作家がいらっしゃいますが、その方がロス・マクドナルド原作の一人称で書かれた短編を、一人称を使用せずに訳したというのも、その業界ではよく知られた話だということです。日本語では、そういうことができるんですね。これが翻訳となると、名人芸です。ちなみに、東浩紀氏は小鷹氏の娘婿である。

     *

 話を戻します。

1)一人称の代名詞の使用を避けて文を書く。
2)「人・人間・人類」と書くのが妥当だと思われるところで、「ヒト」という語を使う。

 以上の2点は、確かに意識的あるいは無意識のうちに行っている作業です。「癖」や「習慣」とも言えますし、ある「信念」があって、そうしているとも言えるでしょう。そのどちらかなのかは、書く時の気分や書くものによって変わります。「ヒト」と表記する前提となる「信念」については、いつか書くつもりです。

 なお、冒頭から「お遊び」と言っている作業というか細工は、上の1)でも2)でもありません。

     *

 さて、冒頭からなぞなぞかクイズのように答えを出ししぶっている(嫌な性格ですね)、「お遊び」というか「小細工」というか「おバカなこと」というか「くだらないこと」を、なぜやっているのかが、次第に曖昧かつ不明になり始めてまいりましたので、ここで改めて考えてみます。

 どうしてでしょう? わざわざ悩み苦しみながら「遊んでいる」のですよ。Mだからでしょうか……。 

 へそまがり、偏屈者、あまのじゃく、変なやつ――。そんな一連の言葉が頭に浮かびました。そうした言葉を人さまからいただくのには、もう慣れました。今問題にしている「お遊び」にこだわっているのは、「変だから」くらいが妥当だという気持ちになってきました。そうすると、このブログで「変なお遊び」をしているのは、「変なやつ」だからなのでしょうね。

     *

 ちなみに、「あなたって変な人ですね」という言葉は、時としてほめ言葉や、相手をおだてる際に使う言葉になります。ただし、相手を選ばなければなりません。気心の知れた、友だちや知り合いや仲間になら、冗談っぽく口にして、遠慮なく使えるでしょうね。

 ところが、「変」という言葉が使いにくいはずの初対面のヒトに対して、「あなたは、変な人ですね」とか「よく変な人だって言われませんか?」などと言うと、相手がうれしそうな顔をする――。そんな経験をされたことはありませんか? または、あなた自身にそうした傾向はありませんか?

「変だ」と言われると、なんだかうれしくなってくる。そうした心理が働くとすれば、「変だ」には、「ユニーク」、「個性的」、「おもしろい」、「他人からいい意味で注目されるような資質を備えている」といったニュアンス、または辞書には載っていない意味があるような気がしてきました。

     *

 そうそう、「変な」には、大安売りのように電子辞典によく入っている大きな国語辞典や、その斜にかまえたユニークさから「新〇さん」と呼ばれる辞書にも載っていない意味がまだあるようです。たとえば、お子さんが親に対して次のように言うのです。

「きょうね、学校から、変な、これくらいの大きさの封筒をもらったんだけど、なくしちゃった」

 あるいは、会社で、ある社員が同僚に以下のように話しかけます。

「さっき、黒っぽいスーツを着た、変な、50歳くらいのお客が来たじゃない――」

 以上の2つの「変な」って「変な」感じがしませんか? もっとも、この「変な」は方言のようなものであり、他の地方や首都圏では用いられることがない「変な」なのかもしれません。

 英語の「a certain +名詞」という組み合わせにある、初めて会話に出て来たものにかぶせる帽子みたいな感じの、「とある・或る+名詞」とか、自分は知っているけど相手は知らないものについて言う場合に出てくる、まさに「変な」「変な」なのですけど、分かっていただけますか?

     *

 あら、もうこんな時間になりました。申し訳ありません。本日のブログを書く時間は終了しました。これから外出しなければなりません。帰りは、深夜になると思います。移動中に、この記事をスマホで清書するかもしれません。

 今回は、書きたかったことが書けなくて、話がそれまくりました。即興で書くという癖があるために、当ブログでは、頻繁にあるいは、ほぼ常にぶれまくるという特徴のある駄文・悪文がつづられる――。そう思っていただいて、かまわないと存じます。ただし、それは個人的な信条があってしている行為なのです。

 こんなブログでよろしければ、次回にまたお越しくださいませ。次回には、必ず「わざわざ悩み苦しみながら「遊んでいる」のですよ」の、「お遊び」についてお話しします。個人的には、言語について考える際にはきわめて大切な「お遊び・作業・小細工・おふざけ」だと思っています。

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*この記事に出たキーワード : 「お遊び・作業・小細工・おふざけ」/一人称・代名詞/田中小実昌/小鷹信光/東浩紀/ヒト・人・人類・ニンゲン/へそまがり、偏屈者、あまのじゃく、変なやつ/変・変な・変だ/辞書に書かれていない意味/辞書・国語辞典/駄文・悪文/ぶれまくる・それまくる

*この記事に直接出てこなかったキーワード : 古文/日本語/蓮實重彦/坂部恵/丸山圭三郎/翻訳/人称代名詞/柳父章/『翻訳語成立事情』/ステファヌ・マラルメ/フェルディナン・ド・ソシュール/ずれ・ずれる/コーパス・コーパス言語学/国語学/『広辞苑』/『新明解国語辞典』

――本記事からの断片/断章――

*故意に一人称の代名詞の使用を避けて文を書く。

*「人・人間・人類」と書くのが妥当だと思われるところで「ヒト」という語を使うのは、「癖」や「習慣」とも言えるし、ある「信念」があって、そうしているとも言える。

*作家であり翻訳家の田中小実昌氏と小鷹信光氏が、英語の原文では一人称で語られている小説を、それぞれ一人称を用いずに翻訳したというのは、翻訳家の世界では有名な話だという。日本語は、そうしたことができる言語なのである。

*「あなたって変な人ですね」という言葉は、時としてほめ言葉や相手をおだてる際に使う言葉になる。

*大きな国語辞典や、ユニークな視点から書かれた意義や文例で定評のある辞書にも載っていない、言葉の意味がある。

*「変な」「変な」がある。

*即興で書くという癖があるために、頻繁にあるいはほぼ常にそれまくりぶれまくる、という特徴のある駄文・悪文がつづられる。ただし、それは個人的な信条があってしている行為なのである。





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