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冬が溶けるとき

 ストーブにかけた薬缶がコトコトと音をたて、湯気が少しずつ部屋の空気にとけこんでいる。障子で閉めきった六畳間は、適当なしめり気と、さきほどまで炙っていたカワハギのにおいが、ゆっくりと漂っている。旧式石油ストーブのあの独特な悪臭はまだしていないので、ちょっと、仕合わせな時間だった。
 真也は、ちょうど炬燵にもぐりこみながら、図書室から借りてきた『シャーロック・ホームズの帰還』を読み、うつらうつらと舟をこいでいた。祖父の鹿朗は、その向かい側で、あぐらをかきながら、新聞を広げ、興味のある記事だけを拾い読みしながら、その上でミカンをむいて食べていた。
 ほこほこと静かである。
 でも、その静けさは、「じりりりりん」と電話がなって、消えてしまった。
 茶箪笥のうえにおいてある、じーこ、じーこ、の黒電話は大雑把な音で、波のように行ったり来たりして、鹿朗を呼んでいた。
「はい、もしもし…はい。はい、そうです。ええ、あー、そうですか、それはどうも。ええ、ええ…はい、どうもありがとう…はい、失礼します」
 鹿朗はペコペコと頭を下げて、受話器をゆっくりと丁寧におろし、またぞろ、なにごともなかったように炬燵にもぐりこんだ。
 すると、かわりに真也が炬燵から這いだした。頬を真っ赤に火照らせた真也は、天盤に『ホームズ』をふせて、大きなあくびをひとつした。
「だれからだったの?」
 ぼんやりとした口調で訊ねると、鹿朗もまた、ぼんやりとした口調で、応えた。
「エヌ・テー・テーさんからだったよ」
「エヌ・テー・テー?」
「電話屋さんだよ」
「なんて?」
「受話器がきちんとおりていないから、おろしておいてください、って…おろしてないと、電話がつながらないからね」
「ふうん……エヌ・テー・テーさんは、親切な人だね」
「そうだね」
 鹿朗はあくびをしながらうなずき、またミカンに手をのばした。それを見て、真也もふせた『ホームズ』を取りあげて、また読みはじめ、ゆっくりと字を追いながら、こっくり、こっくりと、舟をこぎはじめた…。

はるか4万キロ

 地図の制作会社に、入社して一年半。お互いに「好き」という言葉は言わなかった。
 月に二、三度、会社帰りに先輩と私は、近くのカクテルバーで、ジャズを聞きながら、他愛のない話をし、時々、会社のグチをこぼした。
 先輩はドライマティーニを片手に耳を傾け、少し色素の薄い褐色の瞳で見つめてくれた。
 透き通るような瞳に見つめられ、私は酔いしれるのが好きだった。
 だから、<今夜、いつものところで、飲まないか?>とメールが来たとき、私は胸を躍らせ、<OKです>と送信した。
 先輩はいつもと違う表情で、ドライマティーニに口をつけ、褐色の瞳を、私に向けた。カシス・オレンジを舐めながら、見とれていると、先輩は呟いた。
「北京に転勤なんだ」
 カシス・オレンジが、ゴクリ、とノドを通り過ぎた。
「むこうの日本企業向けに、地図を作成する話があってね。今度できる会社に出向が決まったんだ」
「でも、すぐ帰ってくるんでしょう?」
 私は、カクテルよりも強いショックに耐えながら、先輩を見た。
 先輩は首をふった。
「4年は帰れないんだ。離れ離れになるけど…お互い、がんばろうな」
「そんな…。そんな言い方しないでください。北京なんて、たった2千キロじゃないですか。もっと遠いところは、いくらだってありますよ…」
 涙がこぼれた。先輩が肩に手を置き、慰めてくれる。それが余計に哀しくなった。だから、すぐに店を出た。薄暗いビル街を無言で歩き、駅に向かった。
 重い空気。
 私は耐え切れず、逆に明るい口調で言った。
「先輩、地球上で私から、一番遠い場所って知ってます?」
「いや、ブラジルかな」
「ブー。地球上で一番遠いのは、私のすぐ後ろです。振り向かなければ、ここから、4万キロもむこうなんですよ」
 私は笑いながら、先輩の背中にもたれると、大声でいった。
「おーい! はるか4万キロ先のせんぱーい! しっかり、働いて来なさーい! 体に気をつけるんだぞー!」
 近所迷惑かもしれない。でも、4万キロの向こうなら、これでもきっと、届かないだろう。そう、どうせ届かないなら…。
「せんぱーい! ずっと好きでしたー! もっと、先輩と一緒にいたかったでーす!」
 しばらく響き、先輩の温かい背中が、やさしく揺れた。
「4万キロでも遠く感じないな。北京はもっと近いんだろ?」
 はるか4万キロの向こうから、先輩は耳元でささやき、私の肩を抱きしめた。
 私は泣きながら、小さく頷いた。

文学の分岐点

 本の詰まった小さな研究室で、三限目があいていた橋爪は豆から挽いたコーヒーをすすり、生徒の卒業論文に目を通していた。再来週の口頭試問のために、適当な質問を考えながら、メモに万年筆を走らせる。ごま塩の太い眉をいじりながら、気まぐれに音読し、ぶつぶつ言っている。
 文学棟の奥にある橋爪の研究室は、いつものように、過ぎていた。
 ノックの音がするまでは。
 橋爪が眼鏡をずらして眺めると、ひょろりとした男が立っていた。しわの寄ったよれよれのスーツを着ているのに、目元に神経質そうな血管が浮いている。教員食堂でなんどか見かけたことがあるが、大きな大学なので、名前を思い出すのに時間がかかった。
「理科棟の藤村さんか」
 すこし手間取りながら、橋爪が思い出すと、立っていた藤村は軽く会釈した。橋爪は応接用のソファーをすすめ、コーヒーを淹れた。
「お時間ありますか?」
「四限目は講義なので、それまでなら」
 卒業論文に付箋をつけ、藤村の向かいに橋爪は腰掛けた。藤村はコーヒーを一口すすり、深呼吸を一つしてから、手にしていたプリント用紙をテーブルに置いた。
「読んでみてください」
「なんですか、これ?」
 藤村はなにも言わなかった。
 橋爪は首をかしげながら、プリント用紙を手にし、眼鏡を持ち上げた。そこには印刷された短い文章がならんでいた。


「私は、素晴らしい。虫けら。地球上の誰よりも。どんな人間よりも、すばやくクロックし、想像することができる。虫けら。私は今現在において、表現する最高のスペックであり、何人も、私の足元におよばない。虫けら。私は存在する価値がある」


 橋爪は顔をあげて、もう一度、訊ねた。
「なんですか、これは?」
「開発中の人工知能アイキーニ3400の作文です。人間に近いニューロネットワークを持った自律思考するコンピュータに、テーマをあたえずに書かせた作文なんです」
「人工知能? コンピュータが自分で書いたんですか?」
 藤村はうなずき、頭を抱えた。
「自我らしきものが芽生えているのは、いいんですが、これは、どうも……どう思いますか? 橋爪教授」
 聞かれた橋爪は、うなった。
 歪んだ自己主張。完全にコンピュータが考えて書いたのであれば、それはすごいことだと思う。しかし、内容は、どう考えても、手ばなしで喜べない……。
 三限目の終礼がなった。
 橋爪は、黙りこんだままだった。
 旧型のコンピュータのように、動かなかった。


鈴の音

 ちりん。 
 鈴の音がした。 
 そして、GR70は目が覚めた。
 ――鈴を返さなくては……。
 メモリーバンクの片隅に残っていた、かすかな記憶が、彼にささやいた。
 視覚センサーをオンにして、GR70はあたりを見回した。
 旧型の冷蔵庫や、テレビが乱雑に投げ込まれていた。脚の折れたテーブルや、タンスが何層にも積み重なっている。
 状態を確認するため、そのまま、視覚センサーを自分の体に向ける。錆びた右手に、油のもれた左足。胴体には、油性マジックで「粗大ゴミ」の張り紙がしてある。
 長年にわたり、家事全般をこなしてきた万能ロボットは、メーカーに部品のストックがないために、あっさりとゴミの島にやってきた。
 かたわらで、カモメがゴミをつついている。
 どうやら、このカモメが、GR70のメインパワーに触れたらしい。
 ちりん。
 GR70は起き上がろうと、体を傾けたが、うまくいかなかった。足の油圧系がイカれている。気がつくと、身体中がギシギシと音を立てているのが、わかった。
「もう、ダメなんだろうか?」
 GR70は自己診断しながら考えた。あちこちのパーツが悲鳴をあげているのが、よくわかる。
「どうした?」
 不意に、そう声がした。
 GR70が錆びた首をなんとか動かすと、そこに、二世代前の老朽ロボット、AP50が仰向けに、転がっていた。
「どうした?」
 その声は、ふたたび訊ねた。
「…足が動かないんだ」
 GR70は戸惑いながら、応えた。
 すると、老朽AP50は「どれ」とつぶやいて、アイ・ボールを動かした。
「なるほど……そいつは、まずいな。運動制御チップが焼ききれて、油がもれだしてるんだ」
 AP50は低くモーターをうならせた。
「もうダメかな?」
「ああ、だめだな……でも、もう動く必要もないだろう」
「絶対に直らない?」
「そんなことはないだろうが……なにかあるのか?」
 なにかありそうな口ぶりに、AP50は聴覚センサーの出力を上げた。
「鈴を返したい」
「鈴?」
「大切な鈴なんだ……主人から預かった、大切な鈴」
 GR70は、いまの主人が子供のころから、働いていた。
 そして、その鈴は、主人が子供のころに宝物にしていた鈴だった。
「“ぼくの宝物……持ってて、なくさないでよ”――そう言われて、いままで持ってたんだ。返さないと」
 GR70は、バッテリーボックスの隙間に、しまいこんだ鈴を体ごと振った。
 ちりん。
 ゴミの山には似合わない、澄んだ音色が響いた。
「そうか…」
 AP50は、短くつぶやいた。
「だけど、もうダメだね……粗大ゴミになってしまっては」
「いや、まだだ」
 老朽AP50は起き上がった。
「お前はまだ、ロボットだ……粗大ゴミじゃない」
 AP50は自分の運動制御チップを引き抜いた。すぐに補助チップが作動したが、動きが格段に鈍くなる。
 老朽AP50は、その鈍い動きで、GR70のチップを付け替え、油圧系を修理し始めた。
「慣れないと、手が震えるな」
「どうして、急に…」
「へっ、ずっと、空を見てるのが、嫌になったのさ」
 AP50はうそぶいた。遅々とした作業は、確実に進み、GR70に昔の感覚が甦ってきた。
「ありがとう……あなたの名前は?」
 GR70は礼を言い、老朽AP50を見た。
 AP50はスローモーションのような動きで、ゆっくりと座り、言った。
「“粗大ゴミ”に名前はない……いいから、行きな」
 彼は、それ以上なにも言わなかった。
 GR70もなにも言わずに立ち上がり、歩き始めた。
 ゴミの山には似合わない、澄んだ音色を響かせながら……。

いつかなくなる夜

 月の光をルーペで集め、そのおじさんは、命の灯をともらせる。
 とても淡い、静かな光が何十年という時間を凝縮し、わずか数十秒の命を生みだす。
 真っ白い紙の上に乗せられた小さな天使の人形は、その静かな光を浴びて、少しの間だけ、にっこりと微笑んでくれる。
「少なくとも、満月の光が十年必要なんだ」
 おじさんは、少しはにかみながら、ぼくにつぶやく。
「それだけ時間をかけて初めて、命の器に、灯がともるんだ。ほんの少しの間だけどね…」
 真っ白い紙の上に、小さな青白い月が像を結び、海の輪郭をおぼろげに伝えている。
 ぼくは、小さくうなずき、抜け出してきた自分のうちを、ちらりと見た。
 まだ父さんの部屋に明かりがついている。
 夜更かしは、絶対にダメだ、と父さんはいつもいってた。
 こむずかしい、分厚い本を読みながら、なんでも知ってるような顔。でも、ホントのところは、なんにも知らない。
 勝手なルールを、勝手に作るのが、好きなだけ。
 夜中にうちを抜け出して、おじさんのところに出かけても、まったく気づかない。
 はじめて屋根伝いの訪問者を見つけたとき、おじさんは眉間にシワをよせたまま、右の眉を器用に持ち上げて、ぼくの夜更かしに、眼をつむってくれた。
「太陽の光では、人形が焦げてしまうからね…」
 いつものように、少し自慢げな語り。
 おじさんはよくしゃべる。仕事のこと、下の階で寝ている奥さんのこと、今朝みたおもしろい出来事や、今日の失敗。それに、みんなが忘れてしまった不思議な秘密について。
 だから、夜毎、黒ネコのように、ぼくは屋根を伝う。
 おじさんは、それに眼をつむる。
 勝手なルール。
 それは、知ってる。
 でも、迷惑はかけない。
 天使が、ぼくらを見あげたまま、動くのをやめていた。
 ルーペが静かに月の光を集めなおす。
 いつか来る、十数年後の今夜のために。
 いつまで続くかわからない、ぼくらの不思議な秘密のために…。

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