目次
プロローグ
《幕間》
第一章 曖昧な輪、連鎖の始点  Ⅰ
第一章 曖昧な輪、連鎖の始点  Ⅱ
第一章 曖昧な輪、連鎖の始点  Ⅱ-ⅱ
第一章 曖昧な輪、連鎖の始点  Ⅲ
第一章 曖昧な輪、連鎖の始点  Ⅳ
第一章 曖昧な輪、連鎖の始点  Ⅴ
《幕間》
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅹ 【イリシス】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅱ
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅲ
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅰ 【ルクト】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅱ 【イリシス】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅲ 【ルクト】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅳ 【イリシス】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅴ 【ルクト】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅵ 【イリシス】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅶ 【ルクト】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅷ 【イリシス】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅸ 【ルクト】
第二章 再会は曖昧な輪の内側で  Ⅳ-ⅹ 【イリシス】
《幕間》
第三章 曖昧な輪の欠落  Ⅰ
第三章 曖昧な輪の欠落  Ⅱ-ⅰ 【イリシス】
第三章 曖昧な輪の欠落  Ⅱ-ⅱ 【ルクト】
第三章 曖昧な輪の欠落  Ⅱ-ⅲ 【イリシス】
第三章 曖昧な輪の欠落  Ⅱ-ⅳ 【ルクト】
第三章 曖昧な輪の欠落  Ⅱ-ⅴ 【イリシス】
第三章 曖昧な輪の欠落  Ⅱ-ⅵ 【ルクト】
第三章 曖昧な輪の欠落  Ⅱ-ⅶ 【イリシス】
《幕間》
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅰ
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅱ-ⅰ 【イリシス】
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅱ-ⅱ 【ルクト】
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅱ-ⅲ 【イリシス】
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅱ-ⅳ 【ルクト】
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅲ-ⅰ
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅲ-ⅱ 【イリシス】
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅲ-ⅲ 【ルクト】
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅳ-ⅰ
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅳ-ⅱ 【イリシス】
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅳ-ⅲ 【ルクト】
第四章  曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅳ-ⅳ 【イリシス】
《幕間》
第五章 世界の瑕疵-『扉』  Ⅰ-ⅰ  
第五章 世界の瑕疵-『扉』  Ⅰ-ⅱ 【ルクト】 
第五章 世界の瑕疵-『扉』  Ⅰ-ⅲ
第五章 世界の瑕疵-『扉』  Ⅰ-ⅳ 【イリシス】
第五章 世界の瑕疵-『扉』  Ⅰ-ⅴ 【ルクト】

閉じる


プロローグ

「お兄ちゃんっ!」


わたしは、冷やしておいいたはずのプディングがなくなっているのに気づいた次の瞬間には、そう叫び走り出していた。

そして、わたしのプディングを横取りした犯人の部屋の扉を、勢いよく蹴り開けた。




「お兄ちゃんっ! かってにわたしのプディングを食べたでしょ!」
 



部屋の中は、書物に溢れかえっており、まさに足の踏み場もなかった。

そして、書物の山の向こうにある机には、憎っくき犯人の姿がある。
 

わたしの兄である。


「た、食べてへんよ」と言って振り返ったお兄ちゃんの手には、しっかりとわたしの愛しのプディングがあった。



もう半分も残っていないよ……。


 
「今、手に持って食べているじゃないのよ!」

「そう、食べている途中であって、食べたわけではない」
 
お兄ちゃんは、学者口調でそう言った。


「なに屁理屈言っているのっ!」
 
わたしは、そんなお兄ちゃんの姿を見て情けなくなった。


「やっぱりあかんか……」

「ダメに決まってるよ! どうしていつもわたしのプディングを、かってに食べちゃうの?」

「おいしいから」
 
お兄ちゃんは、即答した。



 
 ぶちっ!



 
「おいしいからって、勝手に人の物を食べていいわけじゃない! お兄ちゃんのバカっ!」

わたしの怒りのボルテージは止まることなく上がり続けて行く。 

「ごめん、イリシスが作るプディングがあまりにも美味しいから、悪いと思いつつ手が出てしまうんや」


お兄ちゃんは、申し訳なさそうな顔の前で手を合わせた。


本当にもう……仕方ないんだから……わたしは、このお兄ちゃんの顔に弱い。

べつに、わたしだって本気で怒っているわけではないよ。

でも、もう二十代も後半になろうとしているのに書物馬鹿で生活能力ゼロのこの兄に対しては、ちゃんとした態度をとっておかないと、わたし達の生活が成り立たなくなってしまうのである。




本当にもう……しかたがないんだから……。




「わかったよ、許してあげるよ。でも、今度から食べるときにはちゃんと言ってね。わたしも多めに作るから」

「了解!」お兄ちゃんは、嬉しそうにそう言って、残りのプディングを口に運んだ。



  
わたし、イリシス・リヒトフォーエンは、この書物馬鹿で頼りない兄と二人で、村はずれの小さな家で暮らしている。

実は、わたしとお兄ちゃんとは血が繋がっていない。

わたしが、『お兄ちゃん』と呼んでいるのも単に習慣によるものだ。

まあ、簡単に言ってしまえば、わたしとお兄ちゃんは単なる『同居人』ということになる。

しかし、小さい頃から一緒に住んでいると、自然と『お兄ちゃん』と呼ぶようになっていた。

わたしが、この村-ストアに来たのは、五年ぐらい前のことらしい……。

”らしい”と曖昧なのは、わたしにはその頃の記憶がないからだ。

今から五年前といえば、わたしが八歳ぐらいの頃だ。

だから、”もの心つく前・というわけではないんだけど、わたしにはその頃の記憶がなかったりする。

それどころか、わたしには、八歳より前の記憶が全くなかった。

あやふやながらもわたしの記憶が始まるのは、お兄ちゃんとこの家で暮らしているところからなのだ。

もちろん、お兄ちゃんには、何度かわたしの過去について尋ねてはいる。

しかし、その度にお兄ちゃんは、「実は、ぼくもあまりよう知らへんねんな。昔お世話になった人から、イリシスを預かってくれと頼まれただけやから」と言うだけだった。


それぐらいで、年端もいかない子供を預かったりする……?




むぅー、お兄ちゃんならしそうだよ……。




でも、今では以前に比べて、あまり自分の過去については気にならなくなっていた。
 

だって、今の暮らしが楽しいんだもん。
 

頼りなくて書物馬鹿のお兄ちゃんだけど、実は結構優しいし、本当に……本当にときどきだけどかっこよくみえるときもあったりする。


ほ、本当にときどきだよっ……。


それに、何よりお兄ちゃんと一緒にいると心が安まるのだ。

これが、かっこいいおにいちゃんだと、そうはいかないよね。

一緒にいるだけでドキドキしちゃうもん♪


それに、フィナさん達村の人も親切だし。


フィナさんは、わたしがバイトしている『ダンネベルク』という、昼は普通の料理店、夜は酒場というお店の経営者兼店長さんである。

といっても、あまりお店は大きくはなく、フィナさんとわたしの二人だけで切り盛りしている。


フィナさんは、すごい美人でかっこいいというお姉さんタイプの女性だ。

年は、よくわからないけど、お兄ちゃんと同じぐらいに見えるから二十代半ばといったところかなぁ……。

とにかく、ハッとするぐらいの凄い美人なのだ。

だから、フィナさんは、男のお客さん達にとても人気がある。

お兄ちゃんも、お酒はあんまり飲めないくせに、フィナさんに会うために毎晩『ダンベベルク』へ通っている。

本人は、わたしが酔っ払いにからまれないか、心配だから毎日来ていると言っているけど……わたしが見る限りは、とてもそうは見えない。


むしろ、『ダンネベルグ』にいるときのお兄ちゃんの目には、フィナさんしか映っていないように思える。

まあ、フィナさんには、まったく相手にされていないみたいだけど……ほんと、お兄ちゃんには、もうちょっとしっかりとしてほしいよね、ふぅー。


でも……わたしもフィナさんみたいになれたら……そうしたら、お兄ちゃんだって……って、な、なに言っているのよっ! 




お兄ちゃんのバカっ!




ま、こういう感じで、わたしは、毎日楽しく過ごしているというわけなのだ。

だから、わたしの過去になにかがあるのかはわからないけど、それを知ることによって今の生活が壊れることになるくらいなら、知らない方がいい……今は、そう思うようになっていた。

そして、それと同時に、この楽しい生活がいつか終わるのではないかと、ときどきすごく不安になるときがある。

しかし、そんなときでも、結局、今日のようなお兄ちゃんとのやりとりの中で、その不安は薄らいでいった。

でも、わたしもいつかは結婚して、この家を出ていかなくちゃならないのかなぁ……わたしが、お嫁にいったら、お兄ちゃん泣いちゃうかも……。

それどころか、日々の生活もまともにできなくなりそうだよ……。


むぅー、これじゃいつまでたっても結婚なんてできないじゃないのよ……。


もうちょっと、お兄ちゃんには、しっかりしてもらわないとね。

……でも、いざとなったらわたしが、お兄ちゃんと結婚してあげてもいいかなぁ……て!


も、もちろん、いざとなったらの話よっ! 


わたしの理想は高いんだから!


あんな書物馬鹿で頼りない男なんかは、わたしの理想とは全然違うんだからね。


わたしの理想の男性は、知的でクールな雰囲気を持っているんだけど、実はとても優し
くてわたしをいつも守ってくれるという感じの人なの。




……まあ……現実には、そんな恋愛小説の主人公みたいな人がいないのは、よくわかっているんだけどね。


でも、まだまだ恋に恋するお年頃ですから、そこらへんは許していただくということで……。




「イリシス、さっきからなに独りでぶつぶつ言ってるんや?」


えっ……な、何?


いきなり声をかけられたわたしは、回想&妄想の世界から帰還した。すると、わたしの目の前には、お兄ちゃんの心配そうな顔があった。

 
……わたし、また妄想モードに入っちゃったの……恥ずかしいよ……。

 
「な、なんでもないわよ。それよりもお兄ちゃん、わたし、これから『ダンネベルグ』へ行くけど、お兄ちゃんはどこかに行く用事あるの?」

「ないで。今日は、午後にお客さんが来るからずっと家におる」

「なにそれ? わたし、お客さんが来るなんて、全然聞いてなかったよ」

「だって、言わへんかったから」

「もぉ! なんで言ってくれないのよ。お茶菓子とかなにも買ってないよ」

「そんなんいらんて。すぐに帰ってもらうつもりやから」

「そうなの……まあ、それならいいよ。じゃあ、お留守番よろしくね、お兄ちゃん」
 
わたしは、お兄ちゃんにそう言うと、勢いよく玄関の扉を開けた。





 
   ▽

 
「了解!」
 私は、彼女を見送ると自室へ戻り、本が山積みになっている机の前に座った。

 
そして、しばらく、何もせずただ天井を見つめる。
 
 
今日が約束の日か……。
 
 
これからやって来る長老達からの使者に、私のイリシスに対する判断を伝えたら、彼女は自由になる。

……いや、今後も彼女は、法王庁の監視下に置かれることには変わりはないから、自由になるとは言いすぎか……しかし、もう、彼女が異端者として断罪されることはないはずだ。
 


 
そして、イリシスの前から、”書物馬鹿で頼りないお兄ちゃん”は消える……。



 
私は、彼女が僕を評するときに好んで使う、この”書物馬鹿で頼りないお兄ちゃん”というフレーズを気に入っていた。

彼女の口からこの言葉を聞く度に、私は、とても穏やかな気分になれるのだ。

ただ、それと同時に彼女に対する罪悪感も心に広がっていった。 
 
彼女が、私に心を開いてくれているのはわかっている。

彼女は、私のことを本当の家族のように思ってくれているようだ。

しかし、彼女が見ている私は、あくまでも”書物馬鹿の頼りないお兄ちゃん・であって、本当の私ではない……。

 
本当の私は、自ら信じる秩序の正統性を証明するために、彼女を利用している酷い男だ……。

 
彼女の思っているような”お兄ちゃん・ではない……。


 正しく、理想とすべき秩序。
 正統と異端。


全ては、単なる解釈の違いにすぎなかった……誰も間違ってはいない。

ただ、それを間違っていると言わなければ、自ら信じる秩序を保つことができない……自ら信じる秩序を正統であると証明しなければ、この世界から排斥され『異端』へと陥ちてしまう。




だから、私は……

イリシスを利用した……。

騙して、利用した。

汚して、利用した。

貶めて、利用した。


しかし、こんな私に対しても、彼女は、とても心地よい笑顔を見せてくれた。

私は、その笑顔を見るたびに、全てを忘れてこのままここで過ごすことを夢想する。

しかし、それはあくまで夢想に過ぎない。それは、決して実現することはない。

このなんでもないことが当たり前の穏やかな日常は、私が作り出した幻だ。

私の欺瞞の上に成立する幻なのだ。

しかし、その欺瞞を一時でも忘れることができれば、このストアでの生活が私にとっては何ものにも代えがたい大切な時間となった。

おそらく、今後の私の人生において、これ以上の満ち足りた時間を過ごせることはもうないだろう。


それが、私にとっての必然。


しかし……イリシスは違う……。


彼女には、これからも、この穏やかな日常を享受させてあげたい。

彼女には、笑顔に溢れた人生を送らせてあげたい。

彼女は、何の罪もないのに、充分過ぎる程の苦しみを受けた。


……もうこれ以上……彼女から何を奪えるというんだ?
 

もう、彼女を苦しめたくはない。
 
もう、彼女は、充分過ぎるほど苦しんだ。
 
だから……

 
 

イリシスは、私と一緒にいるべきではない……。



 
私と一緒にいれば、私自身が彼女を苦しめ続けることになってしまうことになるだろう……。

私は、この世界の流れを、曖昧な輪の連鎖を止めなければならない。

そして、そのためには……。


 
ボーン



 
時計が正午を告げた。


……もう……長老達の使者が来る頃だった。





    ▽

 
「ただいまぁ」
 わたしは、夕ご飯の材料が入った買い物袋を、玄関に置いた。
 

 あれ? 
 

いつもだったら、「おなかがすいた~、早くメシを作ってくれや~」というお兄ちゃんの声が聞こえてくるのに……今日は、どうしたんだろう?


「……お兄ちゃん?」
 しかし、わたしの呼びかけに返事はない。

どうしたのかなぁ……今日はどこにも行かないって言っていたのに……。

お兄ちゃん、散歩にでも行っているのかなあ……でも、なんだかそんな感じじゃないし
……。

 
これじゃあ、まるで……まさかっ!

 
わたしは、買い物袋を投げ捨てると、お兄ちゃんの部屋に向かった。そして、お兄ちゃ
んの部屋の扉を勢いよく開けた。



 
部屋には、何もなかった。



 
どういうこと……?

今日、わたしが家を出るまでは、あんなにたくさんの本があったのに、今は、この部屋には一冊の本もなかった。それどころか、机や椅子等の家具類もなくなっている。


まるで、そこには、初めから誰も住んでいなかったかのように、全てがなくなっていた……。


「……何かの冗談だよね……お兄ちゃん……」
 誰もいないのはわかっているのに、わたしは声に出していた。


「どこかで見て、笑っているんでしょ? ねえ、お兄ちゃん……?」



 
 お兄ちゃんは、いなくなってしまった……。



 
「そんなに意地悪しないでよ。もう、わたしのプディング勝手に食べても怒らないから
……」



 
 お兄ちゃんは、もうここには戻ってこない……。



 
「ねえ、お兄ちゃんっ!」
 涙が何度も頬をつたって床に落ちていく。いつかこんな日が来るんじゃないかという漠然とした不安はあった……。

でも、いつまでもこの生活をしていけるという希望も……希望も確かにあったのだ。



 
「お兄ちゃんの嘘つき……わたしのことを必要だって言ったのに!」



 
これが、わたしとお兄ちゃんとの別れ。







そして、私とお兄ちゃんが再会したのは三年後のことだった。

《幕間》

法王領『エフィア』


 聖ペテル宮 『法王選出会議』

 
 元老 ラウス・ハンザ

 元老 イル・ネア

 元老 キト・ルフィダイン

 元老 オスロ・レファンダイン





「昨夜、クレメンス卿が、ファレンス王国出身の枢機卿ら5名とともに、エフィアを出たらしいですな」

「私の方にもその報告は来ている。クレメンス卿は、ファレンス王国へ向かったようだな」

「すると、今回のファレンス王による対立法王擁立を裏で糸を引いていたのは、クレメンス殿でしたか。あの方は、どうしてもレクラム君を、法王の座に就けたかったみたいですね」

「法王選出会議の元老といえども、聖座が空いていては、自らの野心を抑えることができなくなったいうところか……愚かだな」

「おそらくクレメンス卿らがエフィアから逃亡したのは、ファレンス王国軍の侵攻に合わせてだろう。ファレンス王は、我々が彼の要求を断ったことを知ると、直にエフィアに向けて進軍を開始させたようだ」

「動きが早いですね。まあ、我々の答えなどは、初めから分かっていたでしょうから、予定通りといったところでしょうが」

「レクラム……いや、今やランスダイン法王聖下でしたかな」

「おやおや、レファンダイン卿は、相変わらず皮肉がお上手ですね。ただ、皮肉も良いですが、こちらは、まだ聖座が空いている状態であることをお忘れなく」

「そうじゃな……今のままでは、いささかこちらの分が悪い。対立法王であるレクラムの下には、反教会派の諸侯達が多く集まってきているそうじゃ。しかも、聖ルゴーニュの残党や、前法王近衛騎士団からもかなりの数が向こうの陣営にいるという報告もある」

「『世俗の腕』の軍隊だけなら何ら恐れる必要はないが、律法師や修道騎士達を、相手にするとなると厄介ですな」

「さらに、レクラムは、『扉』を手にしている。こちらで確認できている『扉』は、レクラムが有しているものだけだといって油断できない。レクラム程の実力はなくとも、ある程度の魔法の心得があるものが『扉』を使えば、修道騎士団一つに匹敵する力が出せるからな」

「レクラム・クレメンスですか……もっと早くに処理しておくべきでしたね……」

「それにしても、レクラムもよくこの八年の間、逃げ続けられることができたものですな」

「まあ、あいつも、かつては聖ルゴーニュ修道騎士団の総長まで努めた男だからな。それに、あいつの手には『扉』がある」

「『扉』ですか……確かに、それがあれば八年もの間、我々から逃げ続けることができたことも頷けますね」

「『扉』を使えば、如何なる魔法も、その積極要件の『立証』を必要としなくなるのだからな」

「そうですね。そのようなことをされては、『反証』はもとより、その魔法の消極要件を『立証』しようとしても、無意味になりますからね」

「今回の件も、レクラムが、『扉』の存在とその効果を、世俗に知らしめたことが一因となっていることに疑いはないですな」

「確かに。前の大規模な異端審問を逃れた世俗の腕の多く、特にファレンス王トアスが、『扉』にただならぬ興味を示していたということは有名でしたからね。しかし、レクラム君が、トアスに与するとは……」

「しかし、レクラムがファレンス王と手を結び、法王座を欲しがっていることは事実だ」

「では、どうします?」

「教会軍を編成しファレンス軍を迎え撃つしかあるまい。問題なのは、その総司令官を誰にするかじゃが……」

「わたしは、第一審問管区長が、その任に適していると思います」

「ルクト殿か……まあ、この『扉』を含めた『聖女』問題については、彼ほどの適任者はいないと思うが……」

「レファンダイン卿は、彼に何かご不満でも?」

「いや、そうではない……そうではないが……」

「おそらく、レファンダイン卿は、ルクトさんが、オステル殿のお弟子さんだったことが気になさっているのでしょう?」

「……」

「まあ、確かにオステル殿については、我々も判断しかねることが多い。しかし、ここはルクトに任せても良いとわしは思う。今回の件は、『扉』を含めた『聖女』問題を一気に解決する好機ではないじゃろうか?」

「そうですね。この件を『聖女』問題と捉えれば、ルクトさんほどの適任者は他にはいませんしね。私も、彼が教会軍総司令官、『教会の旗手』として一番ふさわしいと思います」

「私は異議はないですぞ」

「レファンダイン卿はどうじゃな?」

「……私も異議はありません……」





「では、法王選出会議の名の下、第一審問管区長ルクト・ハンザ枢機卿に対し、教会軍総司令官に任命することを決定する」

第一章 曖昧な輪、連鎖の始点  Ⅰ

聖ライン教会における最大の禁忌の一つ。その存在自体が公的には隠されている。しかし、この大陸の者なら誰でも『ペジエの聖女』の名で知っている。

 
 『ペジエの聖女』

 
この名を大陸中に知らしたのは、一つの事件からだった。その事件は、今では『ペジエの惨劇』と呼ばれており、法王特使イリエル・ドラニアが、大陸東部の大国タウンゼルト王国の首都ベジエ近郊にて、暗殺されたことに端を発した。

結局、同事件の犯人は捕まらなかったのだが、法王庁は事件の背後に、タウンゼルト王レント三世がいると判断した。ドラニアが、レント三世を異端者庇護の廉で破門した直後のことだったからである。

ラスティア大陸に住むほとんどの者がライン教徒である現状において、教会から破門されることは死刑宣告に等しいものである(通常、破門された者の所有権は否定され、破門者の財産は教会に没収される)。しかも、破門の理由が、ライン教における最大の禁忌である『異端』に酌みしたことであるならその罪責は一層重い。

ライン教は、『魔法』を教会の独占としており、『魔法』の使用は、『教会律法師』と呼ばれる教会から秘蹟を受けた者だけに許された特権であった。律法師以外の者が『魔法』を使用することは、厳しく禁じられ、この禁を破った者は『異端者』と看做され異端審問にかけられた。

しかしそれにもかかわらず、レント三世は、その『異端者』を匿い、自軍の兵士に魔法を教えさせていたのである。

そもそも、魔法を使うことは、高い能力を要することであり、その能力がない者が魔法に触れると、精神的にも肉体的にも破綻を来す。したがって、魔法を使えるようになるためには、飛びぬけた才能がない者以外は、適切な指導者の下で長く修行することになるのが通常である。


しかし、『異端者』の多くは、その才能も努力も無しに魔法に触れるため、『魔』に取り込まれてしまう結果となる。


『魔』に取り込まれた人間は、まず精神が崩壊し、次いで肉体が崩壊する。そして、最後には、人としての形を崩し、ただ人の血と肉を求める『魔物』と呼ばれる異形の殺戮者と化す。これ程までの危険があるのに、異端者達は、安易に『魔法』を、『力』を求めてしまう。

かつて、その力と人格により尊敬を集めていた教会律法師の一人が、「力を持つ者は、その力に対して責任を負わなければならない。その責任を負う覚悟と能力がない者が力を持てば、己と周囲とを不幸にしてしまうだろう。力には、それだけの危険が伴うのである」という言葉を残している。

この言葉は、正式に魔法を学んでいる者なら誰もがそらんじることできる程有名であり、かつ核心をついたものだった。

もっとも、たいていの異端者達は、教会にとってそれほど脅威とはならなかった。

それは、教会からみれば、所詮、彼らは『魔法』を使いこなすことができない取るに足らない者達であり、教会の『魔法』の独占体制を揺るがすことには直接的にはつながらなかったからである。


しかし、レント三世が匿っていたピエト・オステルという異端者は違った。

なぜなら、オステルは、大陸における法理論の総本山、法王庁立聖ライン大学の総長まで務めたことのある教会の重鎮であり、かつては彼自身、法王特使として教会の異端審問の重要な一端を担っていたからである。

彼の弟子達の多くは、教会の高位聖職者になっており、その中には有名な教会律法師もいる。

つまり、彼自身が『正統』派の一員であり、教会が主張する『秩序』の擁護者だったのである。

そのオステルが、当時その職にあった法王特使を辞し、姿を消したのは、彼が異端審問のためにある小さな村を訪れているときだった。

そして、その後すぐにオステルは、大陸全土にその影響力を及ぼす『異端の聖人』として知られるようになる。

彼の存在によって、教会が異端者に対する態度が強行になり、大陸の地図が書き換わった。

しかし、オステルをもってしても、『異端』は『正統』に成り代わることはなかった。

それは、『魔法の解放』を求めていたのが君主・諸侯のみであり、庶民は、『魔法』の必要性を感じていなかったからである。

そして、レント三世が、オステルを自国軍に魔法騎士団を設立するために迎え入れたときには、大陸全土に及んだ熱病的な異端審問は、もうすでに収束に向かっていた。

破門宣告を受けたレント三世は、手段を選ばず、魔法騎士団の設立を急がせた。

しかし、いくら騎士として優秀であっても、魔法の修行をしたことがない者が魔法を、それも実戦に耐え得る魔法を容易く修得できるはずはない。

能力を超える『力』を持とうとすることは『破滅』へつながる。

当然のように、兵士達は、次々と『魔』に飲込まれて行った。

そして、いつしかタウンゼルト王国の王都ペジエは、『魔物』が跳梁する『魔都』と化すに至った。都市ごと『魔』に取り込まれたのである。

幸い、ベジエは城郭都市だったので、城壁に張ってあった結界により『魔』が外へ溢れ出すことはなかったが、レント三世討伐のために組織された教会軍が到着したときには、城壁の中で完全に人の形を保っている者は存在しなくなっていた。

その惨状を見た教会軍総司令官である枢機卿は、「全てを焼き払え!」と全軍に命令を発した。

教会軍によって火を放たれたペジエは、三日三晩燃え続けて廃虚となった。

当時、ペジエには、一万二千人程の人々が暮らしていたと言われており、その全員が『魔』に取り込まれたことになる。そのあまりにも悲惨な状況は、法王の命により他言することを厳しく禁じられた。
 



しかし、生存者はいた。




 
その生存者がどのような状況で保護されたかについてまでは、一般には知られていない。しかし、その生存者がまだ年端もいかない少女であったことは、直接保護した兵士から広まった。
 



『魔』の中にいて、『魔』に取り込まれなかった少女。
 




その少女は、後に『聖女』と呼ばれるようになる。

第一章 曖昧な輪、連鎖の始点  Ⅱ

森の中の街道を歩く美少女一人。



てへへ……自分で『美少女』なんて言うな! って声が聞こえてきそう。



もちろんそんな声は無視するけどねっ♪


なんと! わたし、イリシス・リヒトフォーエンは、今日、ルッツ司教さまから司祭の叙階を受け、ライン教会の一員としての第一歩を踏み出したのだ!
 

わたしの心は、これから始まる新しい人生に対する期待で膨らんでいた。
 

もう、パンパンである。
 

そう、パンパン!
 

パンパン!
 
 


パンパンだよぉー!



 
……ふうー、やっぱり、気持ちがついて行かないや……自分はやっぱり騙せないよ……。


今、わたしは、ベルグの街に向かっている。あの厳しい魔法の修行から解放され、『豊穣の都』と呼ばれている大都会へ向かっているにも関わらず、わたしの心は沈んでいた。


その原因は、司祭の叙階とともに与えられた、教会聖職者としての『務め』である。




『第一審問管区長付異端審問官』





「……」





何よそれ? 


よりにもよって、なんで、異端審問官なのよ!


しかも、審問管区長といえば検邪聖庁さまのことじゃない! 

その直属の異端審問官なんて……ああ、『夢であったらうれしいな♪症候群』に陥ってしまいそう……。

こんなことならストアで大人しくしていれば良かったよ……。
 

ダメよ、イリシス。貴方にはやるべきことがあるはずでしょ。こんなところで挫けてしまっていいの?
 

そうよね。がんばらなくっちゃ。
 

ありがとう! わたし……。
 

この”自分で自分を励ます”のって結構効果あるんだよね(寂しい奴なんて思わないでよ)。


でも、本当に、異端審問官なんてわたしにつとまるのかなぁ……。

だって、あの異端審問官なんだよぉ!

数ある教会の『務め』の中でもっとも恐れられているんだよぉ!

異端者を火あぶりにしたりするんだよぉ! 


もちろん、本で読んだだけだけど……。

まあ、実際は、想像していたものとは全然違うのかも……。

うん! その可能性もあるわよねっ!
 

……まあ……それはそれとしても……。



 
どうして検邪聖庁さま付きなのよっ!



 
検邪聖庁―十年前に、大陸を七つに分割して設立された審問区を統括する七人の枢機卿の通称。十年前から始まった大規模な異端審問は、教会最高位の律法師でもある彼らの力と権威を背景に行われていた―。

 
わたしは、修行中に読んだ何かの本に書いてあったことを思い出しながら、憂鬱さを増幅させていた。

検邪聖庁さまにお仕えするなんて、わたしにできるのかなぁ……?

だって! あの検邪聖庁さまよっ!

法王聖下さえもその前には畏まるといわれている検邪聖庁さまよっ!




……ま、まあ、なんとなるわよね……うん、なる、なると信じよう……。





 ……でも不安だよぉ……。

第一章 曖昧な輪、連鎖の始点  Ⅱ-ⅱ

 ラスティア大陸の東部メッツ山脈の麓にある山村―ストアは、500人に満たない小さな村である。しかし、そんな過疎の村でありながら一つの司教区となっていた。



 

ライン教会特別司教区『ストア』




 
他の司教区が法王の統制下にあるのに対して、ストアは、法王から独立した機関である法王選出会議の直轄司教区―特別司教区となっていた。

現在、特別司教区に指定されている教区はストアを含めて五区あり、それらの教区の司教には、聖ライン教会の中心的な要職の経験者が就いていた。

ストア司教ラル・ルッツも、二十年前までは法王庁の高官の一人だった。

しかし、当時教会が禁じていた研究―「『魔』に取り込まれた者を救済する研究」を手がけたために、ラルは教会を追われた。

ただ、それまでのラルの実績により破門されるまでには至らなかった。

そして、その後十年余りの間消息を絶っていたが、八年前、ラルは、再び教会に戻ってきた。


教会に復帰したラルがまず初めに手がけたのは、『聖ルッツ救護騎士団』の設立だった。

同騎士団は、「『魔』に取り込まれた者を救済するための実行機関と研究機関の両方の性格を持つ組織である。

ラルは、前法王ラスティアス三世の理解を得て同騎士団を設立し、初代総長として自ら先頭に立ってかかる救済事業を展開させていった。


50歳近くになったラルが、教会に戻ってきた理由、それは、かつて見失いかけた『秩序』ともう一度向かい合うためだった。

そして、彼はこの地で、当初考えていたこととは違う形で、自らの『秩序』と向かい合うこととなった。そして、ラルは、一人の少女に自らの『秩序』を託した。





その少女の名は、『イリシス・リヒトフォーエン』。





 
かつて、彼の『秩序』を崩壊させた男の『成果』だった。

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