目次

閉じる


【ミク】

 

宗ちゃんは変わっている。

黒いランドセルを背負って、いつも大きな布のバッグを持っている。大きなバッグの中身は何かが入っているときもあるし、からっぽみたいなときもある。けれど、ミクは中を見たことがない。何が入っているのか、きっと誰も知らないだろうと思う。本人に聞いてみたけれど教えてくれない。宗ちゃんは、ただ恥ずかしそうにうつむいただけだった。

宗ちゃんはしゃべらない。

話しかけるとすぐに逃げちゃうのだ。ほっぺを林檎みたいにして、とたとたと走っていなくなってしまう。ミクが全力で追いかけても追いつけないくらい、宗ちゃんは足が速い。

下校時刻、宗ちゃんはいつも一人で山の方へ帰る。校門を出て左が街へ向かう道、右が山へ向かう道。三年一組の生徒はみんな左に曲がって帰る。宗ちゃんだけいつも右曲がり。

降っていた雨が止んで、お日さまがまぶしい放課後。見上げた青い空は、夏休みが終わったばかりだけど、まだ真夏みたいだ。せっかくのいい天気なのに、今日は学校の帰りにピアノ教室へ行かなくちゃいけない日だ。

「こんな日は誰かと外で遊びたいのにな」

ミクは自分の望みを声に出してつぶやいてみる。とは言っても、習い事が毎日のようにあるから、学校から帰っても、お友達と遊べる日はたまにしかないのだけど。ピアノもバレエも、お習字も公文も、全部学校帰りに寄らなくっちゃいけないから、ミクはいつも一人で帰る。

重くなる足取りで校門へと歩いてゆくと、門の手前でぽつんと立っている宗ちゃんをみつけた。宗ちゃんは、左に曲がっていくお友達の背中をじっと見ているみたいだった。

ミクと同じでいつも一人の宗ちゃん。後ろに気付いていない様子だ。そっと足音を忍ばせて近付く。だって、見つかったら、また逃げてしまうから。

「宗ちゃん」

そばに行って声をかけると、宗ちゃんは飛び上がって、足元の水たまりに右足を突っ込んでしまった。

「うわ、水がしみてきた」

そう言って、宗ちゃんはくつを右足だけ脱いだ。ミクはおどろいた。いままで一度も宗ちゃんの声、聞いたことなかったから。

「宗ちゃん、ちゃんとしゃべれるんだね」

 うれしくなってそう言った。だって、先生に名前を呼ばれたときも、「ううっ」ってうなるか、うなずくだけなんだから。

宗ちゃんは一瞬こちらをじっと見詰めた後、みるみるうちに真っ赤になった。

「お日さまに育てられたトマトみたいな顔してる」

 ミクが笑うと、宗ちゃんは下を向いて前髪で顔を隠してしまった。男の子のくせに、サラサラのつやつやで、ミクよりずっと長い前髪はちょっとうらやましい。

 ミクは、うつむく宗ちゃんの顔をのぞきこんでたずねた。

「ねえ、宗ちゃんのお家って、どこ?」

 下からのぞきこんでいるのを、絶対見ないようにしているのかな? 宗ちゃんは目をぎゅっとつぶったままで、山頂の空を指差した。

「山の頂上ってことかな?」

 そうたずねると、宗ちゃんはかぶりを振って、小さな声で言った。

「煙……」

「けむり?」

 ミクは宗ちゃんの指さす方に目をこらした。山の中腹辺りから、一筋の煙が立ちのぼっている。まるで空から白い糸が下がっているみたいだ。

「あの煙が出ているところなの?」

 宗ちゃんはコクンとうなずいた。すごいと思った。だってその場所は、ずいぶん遠くに感じる。

 ぼうっと煙を見ていると、宗ちゃんは逃げ出した。右足を上げたまま、くつを片方手に持って、けんけんしながら山の方へと逃げてゆく。

「片足の宗ちゃんになら、わたしだって負けない」

 ミクは逃げる宗ちゃんを追いかけて、いつもと違う右曲がりで山の方へと駆け出した。

 

【宗一郎】

 

 沢本ミクは、どうしてぼくを追いかけてくるのだろう?

けんけんしている左足が限界だ。だけど、右足のくつ下を脱いでくつをはいている間に追いつかれちゃう。ぬれてしまったくつ下が泥んこになっても両足で走るか、それともあきらめて立ち止まるか。

考えていたとき、背中の方で悲鳴が聞こえた。

 振り返ると、ミクが転んでいた。ぬかるんだ道の真ん中で、白いワンピースのミクは倒れたまま動かない。赤いランドセルを背負ったままうつ伏せている姿は、まるで落し物の人形みたいだ。ひょっとして、ケガをしてしまったのだろうか?

心配になって、恐る恐る倒れているミクのすぐそばまで近付いたとき、いきなり左の足首をつかまれた。

「うわああああ!」宗一郎はおどろいて尻餅をついていた。

 うつ伏せから顔を上げて、ミクがニカッと笑った。宗一郎の足首をつかんだままで、ミクは得意げに言った。

「宗ちゃん、つかまえた!」

「だましたのか! ひきょうなこと……」

 言いかけて口をつぐんだ。起き上がったミクは泥だらけだった。白いワンピースの前が全部茶色くなっている。こちらの目線に気付いたのか、ミクは下を向くと自分の腹の辺りを手でこすった。服に付いた泥が指の形に広がった。

 じっと見ていると、ミクはポケットからハンカチを取り出した。アニメキャラのついたピンクのハンカチ。可愛らしいそれで、泥だらけの洋服を拭くつもりなのだろうか?

ところがミクはニコッと笑ってハンカチを差し出した。

「宗ちゃん、顔に泥がはねちゃったね。ごめんね」

 宗一郎は差し出されたハンカチをとっさに受け取っていた。ミクの大きな黒目に自分の顔が映っているのを不思議に思いながら、ハンカチを顔に持っていく。

「あ……」

 ハンカチからお花みたいにいい匂いがした。

 宗一郎は渡されたハンカチを使わずに、ミクに突き返すと逃げ出していた。右足がくつ下のままで足の裏が痛かったけど、一番早い走り方で走った。

 あれ? どうしちゃったのかな?

 そんなにたくさん走ってないのに、胸の中で誰かがドコドコ足踏みしているみたいだ。ちょっと苦しい。

 肩で息をしながら、清涼飲料水の赤い自動販売機のところで立ち止まって振り返る。はるか遠くでミクがまだこっちを見ていた。

 

【ミク】

 

 汚れたワンピースで帰宅すると、ママが鼻の頭にシワを寄せた。

「ころんじゃったの。でもミク、泣かなかったよ」

 ママはミクの話も聞いていない様子で、いきなり泥だらけの服を脱がせた。まだ玄関先だっていうのに、ちょっとひどいかも。文句を言ってみたけれど、ママは脱がせたワンピースを手に浴室に行ってしまった。娘よりワンピースが大事なのかしら。

 お気に入りのワンピースが茶色くなってしまったけど、ぜんぜんがっかりしていない。だって、宗ちゃんとしゃべっちゃったんだから。

 クラスの誰もきっと宗ちゃんの声がどんなだか、知らないはずだ。

 宇宙人としゃべったみたいに、なんだかとっても不思議な気分。学校に行くのが待ち遠しくなってきた。明日、学校に行って宗ちゃんに会ったら、思い切ってきいてみようかな?

「ねえ、そのバッグには、何が入っているの?」って。

今日は早くベッドに入ろう。そうすれば、早く明日になるって、ママが言ってたもの。

 自分の部屋にランドセルを置いて鼻歌を歌いながらリビングへ行くと、ママが怖い顔で待っていた。

「ミクちゃん、今からでも間に合うからピアノのおけいこ、行きなさい」

「ええ? だってもうレッスンはじまっちゃってるよ」

「大丈夫よ。電話したら先生が時間ずらしてくださったわ」

「そんなあ!」

 泥だらけのままでピアノ教室に行ったら先生が迷惑すると思って、仕方なく家に帰って来たのは本当だったが、わざとゆっくり時間かけて帰ってきたのは計算の上の行動だった。

「学校の帰りに洋服を汚してしまったから、それでピアノ教室に寄らずに帰ってきたんでしょう? それなら、着替えたんだから今すぐ行きなさい」

 ママを怒らせるととっても怖いからと、ミクはピアノの本をかかえて家を飛び出した。

 

【宗一郎】

 

 家までの近道をするためには、お地蔵さんの裏手の斜面を登っていくのが一番早いことを宗一郎は知っている。

 お地蔵さんにあいさつをして、ぬかるんだ斜面を登り始めたとき、忘れ物に気付いた。

 肩に掛けたバッグの中身を置いてくるはずだったのに。バッグの中身は拾った空き缶やペットボトルだ。山に落ちているゴミを見つけたら拾ってゴミ箱に捨てるようにと、いつもお父さんに言われている。お父さんは山の木を切って炭を焼く仕事をしているから、山の自然を大事にしているのだ。宗一郎も緑の山が大好きだから、ゴミ拾いはぜんぜん嫌じゃない。拾った缶やビンは赤い自動販売機の横にある専用のゴミ箱に捨てることにしている。

「明日また持って行くのは嫌だな」

 宗一郎は元来た道を自動販売機のある場所まで引き返すことにした。

 くるりと向きを変えると、斜面を飛ぶように駆け下りる。舗装された道路に立つと、西日をしょった足元からむくむくと影が伸びた。宗一郎の背よりも倍大きい。両手の人差し指を立てて頭の上に持っていくと、影が角の生えている強そうなモンスターになった。

「うわぁ、でっかいジンオウガだ! がおおおおお!」

 自分の影に向かってゲームに出てくるモンスターの名前を叫ぶと、頭の上からささやき声が降ってきた。

――宗一郎、楽しそうだね。

――何かいいこと、あった?

 時おり聞こえてくる「声」は、宗一郎にしか聞こえない。それは、樹木たちのささやき声。けっして空耳なんかじゃない。宗一郎には植物の声が聞こえるのだ。会話をすることだって出来る。小学校に上がるまで、宗一郎は植物と話が出来るのは普通のことだと思っていた。物心ついたときから、その「声」が聞こえていたからだろう。風に運ばれてくるシラカバのささやきや、クマザサのおしゃべりは、宗一郎にとってはすっごく重要で、不思議に満ちている。

うさぎがクマザサの茂みに何匹赤ちゃんをかくしているかとか、昨日山からタカが飛んできて、どの枝で休んだとか。それに、雨の水が最近おいしくないとか、色々な事を植物たちはしゃべる。けれど、その楽しいおしゃべりは、自分にしか聞こえていないのだと知った時、いきなり頭のてっぺんを殴られたみたいにふらふらした。そのあとしばらくして、言いようもなく悲しい気持ちになった。なぜって、宗一郎がシラカバやカラマツたちから聞いた話をするたびに、お母さんは静かに微笑んで頭をなでてくれたから、宗一郎は当然お母さんにもシラカバたちの声が聞こえているんだなと思っていたのだ。

でも、結局お母さんには何も聞こえてはいなかった。植物の声どころか、宗一郎の心の声さえも。

 小学校に上がると、宗一郎はみんなからいじめられた。

「宗一郎のうそつき!」

「シラカバがしゃべったなんて、そんなことあるもんか!」

 泣きながら家に帰ると、お母さんは言った。

「ねえ宗ちゃん。もう、小学生になったんだから、人前でおとぎ話みたいな事は言わない方がいいと思うのだけど?」

「おとぎ話ってなんだよ! それって、お母さんまでぼくがうそをついていると思っているのか?」

ショックだった。

それからある事件が起きて、お母さんはみんなの前で頭を下げてこう言った。

「近所に友達が居なかったせいで、一人遊びが想像力を大きくしたのだと思います」と。難しい言い回しだったが、言っている事は理解できた。

――この子はちょっと変わっているから、どうかみなさん、気にしないでください。

そう言っているように聞こえたのは、たぶん間違いではないだろう。

それ以来、もう誰にも植物たちの話をしないようにしようと心に決めた。でも、口を開けばうっかりしゃべってしまいそうだった。もしもみんなの前で植物のことをしゃべれば、きっとまたうそつきと言われていじめられるかもしれない。口をきいてはいけないんだ。そうするのが一番いい方法なんだと思った。

宗一郎が絶対にしゃべらないとわかると、もう誰も話しかけて来なくなった。ちょっと悲しかったけれど、うそつきと言っていじめられたときに比べれば、ずっとましに思う。

でも、今日いきなり沢本ミクが声をかけてきた。

誰も話しかけてこないはずなのに、どうしてだろう? 

さらにミクは追いかけてきて……。

赤いランドセルを背負ったミクを思い浮かべた。くせのある髪の毛を、ウサギの耳みたいに頭の上で二つに結んでいる。いつも笑っているミクは、ちょっと前歯が人より大きい。それから目も大きくて、黒目がちなところはリスみたいだ。ウサギ頭のリス。

沢本ミクとは三年生で初めて同じクラスになった。今まで気付かなかったけど、生徒数百人に満たない小学校で三年生になって初めて会うなんてことがあるのだろうか?

一年生のときも、二年生のときも一クラスしかなかったのだから、ミクは三年生から転校してきたのだろう。明るくてよくしゃべる女の子だから、ずっと前からこの学校にいたような気がするけど。一年生からこの学校にいるのに、誰ともお友達になれない宗一郎は、ミクがちょっとうらやましいと思った。

頭の中で、ぬかるみに転んだミクの映像が何度も再生された。

「きれいな白だったのに。大丈夫だったかな? ひざとか、すりむけてなかったのかな」

 せっかく親切にハンカチを差し出してくれたのに、逃げ出してしまったことを後悔した。だって、そのハンカチはすごくいい匂いがしたから、よごしちゃいけないと思ったのだ。

 赤い自動販売機まで戻ってきた。空き缶を捨てて、何気なく学校の方を振り返ると、遥か前方の道の真ん中で光るものがあった。

 走って行って、つまみ上げた。西日に照らされて光るそれは、赤いバンドのついた人気キャラクターの腕時計だった。落とし主を探して辺りを見たが、誰もいない。拾った時計をどうすればいいのかわからずしばらく突っ立っていたが、ハッとした。

 その場所はちょうどミクが転んだところだった。小学校から右に曲がって帰る子供はたぶん自分だけしかいない。きっとあの時ミクが落としたのだろう。明日、学校で返せばいい。宗一郎は赤い腕時計を布のバッグに入れると走って帰った。

 

【ミク】

 

ピアノのレッスンはきらいだ。以前はとても楽しかったのに、このごろ先生はとても難しいことを言う。

「ミクちゃん、何度言ったらわかるの? もっと心をこめて、ていねいに。この『月の光』という曲は、流れるようなメロディがきれいなのですから」

 月に照らされた夜の風景をイメージして弾きなさい、と先生はまたまた無理なことを言った。だいたい、夜は九時に寝ちゃうんだから、月の出る時間にお外に出たことなんて、ほとんどない。

 そもそも発表会の曲なのに、先生が勝手に選んだクラシックなんて、弾く気にならない。ミクはディズニーの曲集から選ぶつもりだったのだ。それなのに……

「ミクちゃんはやれば出来る子なんですから。この本を読んで、曲をイメージしてくるといいわよ」

そう言って、先生は『ドビュッシー』と書いてある薄い冊子を貸してくれた。ぱらぱらとめくったが、文字ばかりで難しそうだった。ママに読んでもらえばいいと思っているのだろう。だけど、こんなのをママに見せたら、今以上におうちで練習しなくちゃいけなくなりそうな気がする。ママはミクの勉強と習い事のことしか頭にないみたいだから。ミクはもっとお友達と遊びたいのだ。

「もっとたくさん、おうちで練習してきてね」

「……はい、わかりました」

先生の言葉に気の無い返事をすると、ピアノ教室を出た。

空が紫色になっていた。いつもより大分遅い時間になってしまったことに気付いて、時間を確認しようと腕時計を探したが、ポケットに入っていない。

「あ、ワンピースのポケットに入れたんだっけ」

 ママは洗濯するときに必ずポケットを見てくれるから、きっとうちにあるはずだ。

「早く帰らなくっちゃ。今日の宿題は漢字の書き取りプリントだもの」

 ミクは暗くなり始めた駅前商店街を駆けぬけた。

 

【宗一郎】

 

 翌朝、宗一郎はすごく早起きをした。腕時計をミクに返さなくてはならないけれど、話しかける勇気がないから、そっと机の中に入れておくつもりだった。

「宗ちゃん、今日はやけに早起きじゃない? 朝ごはん、まだ炊けてないんだけどなぁ」

 困ったように言うお母さんに、「朝ごはんなんて、何でもいいよ」と言って、ちょっとかさかさした食パンを口にくわえると宗一郎は家を飛び出した。

――そんなに急いで、どうしたの?

 玄関脇のカエデの木が話しかけてきたが、宗一郎はその幹に軽く触れただけでふもとへ続く小道を駆け下りていった。

 宗一郎の家は山の中ほどにある。お父さんの仕事の関係で、山の木を切り出すのに都合が良いのだ。お父さんは、山からシラカバやブナ、竹などを切り出しては自宅の裏庭にある大きな釜で炭を焼く。おじいさんの代からの仕事だそうだ。

 こんな山奥にある家はうちだけだ。家から学校まで、子供の足で歩いて往復三時間近くかかる。雨や雪のひどい日はお父さんが車で送迎してくれるが、普段の日はふもとの小学校までたった一人で歩いて通っていた。そんな不便で遠いところには、誰も遊びに来てはくれない。

 宗一郎は来た道を振り返った。緑の木々の上空に、炭焼きの煙が細く立ちのぼっている。一度火を入れると三日間は燃やし続けなければならない。お父さんはおとといからずっと仕事をし続けている。

 もうしばらく歩くと、宗一郎は立ち止まった。ゆるやかにカーブした道沿いから、まばらな木々の間を通して、山すそに広がる街が見渡せる。宗一郎はここからの景色が好きだ。手前に畑地がつながり、その間をおもちゃみたいな鉄道が通る。線路に沿って家が並び、やがて集まって街になる様子は、まるで絵地図みたいだ。絵地図の線路を青い電車がのろのろと走ってゆくのが見えた。

シラカバの林をぬけた辺りから、道を外れてシダの茂みに分け入った。このまま急斜面を降りていくと、お地蔵さんの裏に出られる。朝は下り坂だから、かなりの時間短縮だ。すべりやすい粘土質の岩をふまないように細心の注意を払って斜面を降りてゆくと、目の下に明るい舗装道路とお地蔵さんが見えてきた。細めの竹につかまりながら慎重に降りる。ここの斜面が一番きついのだ。前に一度転がり落ちて頭を三針ぬった。竹から竹へと伝わり歩きしていると、ダケカンバの苦しそうな声が聞こえた。

――宗一郎、また私の根元に空き缶が捨てられてるんだ。どけておくれよ。

 五メートルほど横に生えた、大きなカバノキ科の落葉樹(らくようじゅ)。その根元に空き缶が二つ転がっていた。昨日の雨で上のほうから転がったのかもしれない。宗一郎はゆっくりと横歩きをして、泥で汚れたそれを拾い上げた。肩からかけたバッグからビニール袋を取り出すと、拾った缶を入れた。

――宗一郎、ありがとう。

頭上からダケカンバの声が降ってくる。ちょっと低い声だ。

「いいよ。気にしないで、またあったら教えてね」

――そうそう、この先の大きなシラカバにあるクマゲラの巣をのぞいてごらん。

「え? どこのシラカバ?」

 ダケカンバはもう何も言わなくなった。

 植物たちは気まぐれだ。昨日たくさんおしゃべりをしたかと思うと、一年以上も沈黙してしまったりする。とくに大きな樹は、時の流れが人とは違うのだと思った。けれど、そんな木々たちの沈黙の中で過ごす時間は嫌いじゃない。

 斜面を降りて舗装道路に出ると、宗一郎はクマゲラの巣を探してのろのろと歩き出した。

 結局クマゲラの巣は見つからず、学校についた時にはいつもの時間だった。

 宗一郎は席に座ると沢本ミクを探してクラスを見渡した。ミクは仲良しの女の子二人とリコーダーを手におしゃべりをしていた。窓ぎわにいる他の生徒もそれぞれリコーダーを手にしている。

 今日は一時間目の音楽でリコーダーのテストがあるのだということをすっかり忘れていた。リコーダーは苦手だ。とくに全部の穴を押さえなければならない「ド」の音が出ない。練習をしないといけないけれど、下手くそだから人前では恥ずかしくて吹けない。机の中からたて笛を引っ張り出して両手の中で転がしているうちに、授業が始まってしまった。

 一発勝負で臨んだリコーダーのテストは散々だった。『かっこう』という曲を吹くのだが、出だしのソミソミレドレド、この時点のドの音が外れてしまいとても焦った。もう一度やり直したけれど、皆がひどくおかしそうに笑うものだから、それですっかり頭の中が真っ白になってしまった。

「宗一郎くんは、明日もう一度やり直しですよ」

 先生に言われて、自分だけがもう一回やり直しをさせられるのだと理解した。最後まで吹くことが出来なかったのは、宗一郎だけだったのだ。みんながクスクス笑った。宗一郎は恥ずかしくてずうっと下を向いていた。

 

【ミク】

 

 宗ちゃんの机の横に引っかけられてるバッグが、今日はちょっとだけふくらんでいる。何が入っているのかききたくてうずうずするけれど、さっきのテストがショックだったのか、宗ちゃんは難しい顔で自分の机の上をにらんでいる。みんなに笑われたのがきっと悲しかったのかもしれない。演奏のときの失敗を、絶対に笑っちゃいけないって、いつもピアノの先生から言われている。

 ミクはリコーダーを手に、宗ちゃんの席に近付いた。なんと言ったら、宗ちゃんは元気になってくれるかな? 

宗ちゃんが顔を上げたので、さっそく話しかけてみた。

「あのさ、こうやってリコーダーを吹きながら巻き舌するとね、おもしろい音が出るの。知ってる?」

ピロロロロ……

宗ちゃんはキョトンとした顔でこちらを見詰めている。でも、いつもみたいに逃げたりしなかった。

「ね、宗ちゃんもやってみれば?」

 ミクはもう一度ピロロロと吹いて見せた。

 おもしろい音に、まわりの皆が集まってきたので、ミクは言った。

「わたしは、宗ちゃんの吹き方は良かったと思う。フー、フーじゃなくって、トゥ、トゥっていうタンギングがちゃんと出来ていたし。ただ、パニクって途中で止めちゃったから、先生はきっと時間を置いただけなのよ」

 宗ちゃんは、小さくうなずいたけど、また恥ずかしそうに下を向いてしまった。

 給食を食べ終えて昼休みになったので、ミクはまた宗ちゃんの席に寄っていった。

「宗ちゃん」

 声をかけると、宗ちゃんは今度は素早く立ち上がって逃げ出そうとした。彼のTシャツをつかんで引き止めると、ミクは思い切って聞いてみた。

「宗ちゃんのバッグには、何が入っているの?」

 ミクの声に、前の席の健太が振り向いた。黙っている宗ちゃんの代わりに、健太は丸顔ににやにや笑いを浮かべながら言った。

「沢本さん、知らないの? これはゴミ袋だよ。汚いから触らないほうがいいよ」

「ええ?」

 ミクは意味がわからず宗ちゃんの顔を見た。宗ちゃんは口を半開きにしたまま固まってしまった。健太は面白そうにミクと宗ちゃんを見ていたが、立ち上がると宗ちゃんのバッグをいきなりつかんだ。

「俺、中身何回も見たことあるもん」

健太はそう言うと、バッグを開けようとした。

「返せ!」

 宗ちゃんが大きな声で叫んで、健太の手からそれを取り上げようとした。引っ張り合う形になった二人の間で、バッグがビリリと音を立てて裂けた。二人は同時に床に尻餅をついた。

「ほうら、やっぱりゴミじゃん!」

健太が勝ちほこったように大きな声で言う。

 バッグの中から泥だらけの空き缶が入ったビニールと、もうひとつ光るものが転がり出て来た。

 教室の床に転がった光るものを、近くの席の女の子が拾い上げた。

「かわいい時計」

 彼女の声に、ミクはそちらを見た。赤いバンドの腕時計は、自分のものにそっくりだ。何でこんなところにあるのか不思議だった。

 騒ぎに気付いた先生が、教室の前方のドアから入ってきた。

「なにしているの? 健ちゃん、宗ちゃん」

 先生が割って入るのを横目で見ながら、ミクは時計を手にしている子のほうへと近付いた。近くで見ると、それはやっぱりミクのだった。

「これ、わたしのだ。ほら、名前が書いてあるの」

 ミクは時計を手にしていた女の子にベルトの部分を見せた。『miku』と小さく書かれたアルファベットを指さすと、健太が大きな声で言った。

「宗一郎はドロボウだ! 沢本さんの時計、盗んだ!」

 先生を含めてその場にいた生徒みんなが宗ちゃんを見ていた。宗ちゃんは口をぱくぱく開け閉めしているだけで、言葉が出てこないようすだ。健太と仲の良い男の子が先生に説明した。

「宗一郎のバッグから、沢本さんの腕時計が出てきたんだ。ドロボウしたんだよ」

 宗ちゃんはふるふるとかぶりを振りながら、一歩、二歩と後ずさりをはじめた。

「健太くん、ドロボウなんて言い方してはいけないわ。宗ちゃんも、きちんと先生にお話してちょうだい」

 先生はそう言って、宗ちゃんのほうに厳しい顔を向けた。先生の背後で健太たちが声高にはやし立てた。

「宗一郎はうそつきだからな。だって、一年生のとき、シラカバと話が出来るとか言ってたし」

「そうそう、よく言ってた。ぜったいにうそだよな、そんなの!」

「うそつきはドロボウなんだ。だから宗一郎はドロボウだ!」

 先生は目をつり上げて、今度は健太たちを叱りつけた。先生の注意がそれたとたんに、宗ちゃんは教室から飛び出してどこかへ行ってしまった。

 宗ちゃんは足が速い。ミクと先生と二人で追いかけたけど、廊下にはもう姿が見えなかった。

 

【宗一郎】

 

 また、逃げ出してしまった。どうしていつもこうなのだろう?

 振り返ったけど、先生は追いかけて来なかった。きっと先生は、学校の外まで逃げていったとは思っていないのかもしれない。空き教室とか、体育倉庫とかを探しているに違いない。一年生のときは、体育倉庫に二度かくれた。体育館にも一度。

 なんだか、こんな自分が嫌になる。健太にうそつきよばわりされた事ではなく、どうして朝一番でミクに時計を返してしまわなかったのかと後悔した。朝でなくても、さっき音楽の後に話しかけられた。その時に言えばよかったのに。

 ミクも健太たちみたいに、宗一郎があの時計を盗んだのだと思っているかもしれない。そう思うと、深い穴の中に入り込んでしまったみたいに、どうしようもなく泣きたい気分になってくる。泣いたってしょうがないのに。

 気がつけばうわばきのまま家に帰る道を歩いていた。さっき五時間目の始まるチャイムが聞こえたから、きっともう先生は探しに来ないだろう。でも、ランドセルを置きっぱなしでこのまま帰るわけにはいかない。

 道端でしゃがみこんでいると、さわやかな風に乗って、木の葉のさやぎと小鳥のさえずりが聞こえてきた。木々の笑いさざめく声は、「キミも笑ってごらん」って、言ってるみたいに聞こえた。

「そうだ、クマゲラの巣、どこかな?」

 急に思い出して、宗一郎は勢い良く立ち上がった。クマゲラは天然記念物に指定されている大型のキツツキだ。ここいらへんで見られるのはとてもめずらしいので、ぜひ探そうと思った。宗一郎は手の甲で目元をぬぐうと、シラカバの木立に分け入った。

 

【ミク】

 

 先生は国語のプリントを配ると、自習するように言い置いていなくなってしまった。きっと宗ちゃんを探しにいったのだと思う。

「宗ちゃん、どうしてわたしの時計を持っていたのかな?」

 誰にも聞こえない声でつぶやいて、ポケットの中から赤いベルトの腕時計をひっぱり出した。何気なく手にとってハッとした。泥がついている。きっと昨日転んだときに落としたのだ。いや、正確には転んだあとハンカチを出したときに落ちたのだろう。宗ちゃんはたぶんあとからこれを拾ったのだ。盗んだのではない。

 ドロボウと言われたときの宗ちゃんの顔は、とても悲しそうだった。しかも、うそつきのオマケまで付いて。

「ねえ、健ちゃんはどうして宗ちゃんのことうそつきって言うの?」

 ミクはとなりでプリントに取り組んでいる亜美ちゃんにきいてみた。亜美ちゃんは一瞬きょとんとしたが、ああ……と納得したようにうなずいた。

「ミクちゃんは転校してきたから知らないんだね。宗ちゃんは一年生の頃、いつもわけのわからないことを言って、お友達とケンカしたりもめたりしてたんだよ」

 信じられなかった。あの無口で大人しい宗ちゃんが、だれかとケンカをするなんて。

「原因は、なんなの?」

 たずねるミクに、亜美ちゃんはちょっと楽しそうな顔になって、うちのママは『一種のモウソウだ』って、言ってたけどね、と断りを入れてから話してくれた。

「自分は植物と会話が出来るって信じてるのよ、あの子」

「ええ? 本当なの? もしそれが本当だったら、かなりすごいことなんじゃないかと思うけど?」

 ミクは亜美ちゃんの話にちょっとドキドキした。けれど、亜美ちゃんはこちらの反応が気に入らなかったみたいだ。

「ミクちゃんはお子さまだからね。普通に考えてよ。そんなことあるわけないじゃない」

 冷たく言われてしまい、シュンとなったところで、亜美ちゃんが「話の続きがあるんだよ」と言って、教室の窓から校庭を指差した。

 亜美ちゃんの指の先には大きなケヤキの木が見えた。校庭の片隅にある巨木は、校章にもデザインされていて、この小学校のシンボルになっている。

「一年生の夏ぐらいだったかな?」

 亜美ちゃんは思い出すように考えながらしゃべり始めた。

 健太や上級生の男子生徒がそのケヤキにボールをぶつけて遊んでいると、宗一郎が言った。

「木が嫌がってるから、やめろよ」

 健太たちはいつものことだと笑って「うそつきコール」を始めた。すると宗一郎は怒って叫んだ。

「うそじゃない! この木にリスの巣があって、生まれたばかりの赤ちゃんが居るからやめてくれって、この木がそう言ってるんだ。だから……」

「じゃあ、証拠を見せろよ。リスの巣があるところ、教えろ!」

 宗一郎が教えると、上級生のひとりが木に飛びついて登り始めた。下からでは絶対にわからない、高い位置にあるという巣穴まで登るといってきかなかったらしい。

「で、どうなったの?」わたしはハラハラしながらたずねた。亜美ちゃんはつまらなそうに言った。

「半分行くか行かないかで、登ってた子が足を滑らせて落ちたのよ」

 落ちた少年は足を骨折してしまったという。その場にいた全員の保護者が呼ばれて、大騒ぎになったということだった。

「みんな同じように怒られたんだけどね、やっぱり一番悪いのは宗ちゃんじゃなかったのかなって、陰でみんな言ってたよ」

植物の声が聞こえるという妄想とは関係ないが、どうやら、宗一郎が挑発したから悪いのだ、ということになってしまったらしい。

 亜美ちゃんは、話は終わりよ、と言って自習に戻った。ミクはもうひとつだけ気になった事をきいてみた。

「ねえ、亜美ちゃん。それで、リスの巣は、本当にあったのかな?」

「知らないわ。あったとしたって、高い所だから誰にもわからないよ」

 帰りの時間になり先生は戻って来たが、宗ちゃんは帰ってこなかった。みんなが教室を出たあと、ミクは時計のことを先生に話した。

「先生も宗ちゃんが盗ったなんて、ぜんぜん思ってなかったわよ」

 担任の村山先生は、鼻の頭の汗をふきながらにこっと笑った。

「でも、あの時の先生の顔、怒ってるみたいだったよ」

 ミクが言うと、先生は自分の顔に手をやった。それから小さく息を吐くと言った。

「先生が怒りたくなったのは、宗ちゃんが説明をしないで黙っていたからなの。もう三年生だし、自分の考えや行動の理由を、きちんと説明できないと、これからも宗ちゃんは誤解されて、辛い目にあったりするかもしれない。だからきちんとお話して、と先生は言いたかったの」

 でも、宗ちゃんは見つからなかったわ、と言って先生は、今度は大きな大きなため息をついた。

「先生、わたし宗ちゃんを探そうかな」

「いいえ、先生がもう一度探してみるから、あなたはいいわ。宗ちゃんのお母さんにも連絡したから、心配しないで」

 校門に向かって歩きながら宗ちゃんのことを考えていた。自分がバッグの中身を見せてなんて言わなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。そう思うと、どうしても宗ちゃんに会って謝らなければいけない気がした。

 今日はバレエのレッスンがあるけれど、休んでしまおう。

 ミクは校門を出ると、右に曲がって山を目指した。

 

【宗一郎】

 

 さんざん探してようやくクマゲラの巣を見つけることが出来た時には、木々の影が長くなり始めていた。それでも巣の中を確認したくて、宗一郎は巣のある木のとなりのシラカバに登り始めた。

 くつとくつ下を脱いで幹によじ登る。木の皮がむけるから足場によほど気をつけないと、ずるずると落ちてしまいそうだ。下枝を手がかりに体を引き上げながら、ようやく太い枝まで登ることができた。

 枝にまたがって休憩し、もうひとがんばりしようと思ったとき、うっそうと茂る木々の間からちらちらと動くものが見えた。目をこらすと、ちょうど真下の舗装道路を歩いて行く沢本ミクだった。彼女は山に向かって歩いている。自宅とは逆方向へ、いったい何をしに行くのだろう?

 チチチ……と鳴き声がして、となりの木にある巣穴からかわいいヒナが顔をのぞかせた。クマゲラのヒナが三羽。大きな口を開けてねだるヒナに、戻った親鳥がエサを与え始めた。そちらに気をとられ、あっという間にミクのことは頭の中から消えた。

 しばらく鳥の巣を観察したあと、ランドセルを取りに学校へ戻った。日が沈みきったあとの赤紫に染まる空を見て、宗一郎はあせった。

「こんなんじゃ、またお母さんに怒られちゃうよ」

 今の季節は、暗くなると虫や動物が出る。となりの山で熊が目撃されたという話を聞いたのは、つい二週間ほど前のことだ。キノコ採りに行ったおばあさんが見たらしい。若い熊だったそうだ。だから、宗一郎はお母さんとお父さんから、暗くなる前に家に帰って来るようにと、口を酸っぱくして言われている。

 下駄箱で汚れてしまったうわばきの泥を払うと、忍び足で職員室の前を通り過ぎた。階段を上がって二階にある三年一組の教室に入ろうとしてギョッとした。電気が点いている。

 きっと村山先生が居るのだ。勝手に飛び出したことを叱られるかもしれない。でも、ランドセルは中廊下のロッカーにある。うまくやれば気付かれないかも。

 音をたてないように後ろのドアを開けたつもりだった。

「どこに行っていたの?」

 不機嫌(ふきげん)な声がして、宗一郎は飛び上がった。ぱたぱたとスリッパを鳴らして現れたのは、村山先生ではなくてお母さんだった。

「お……かあさん、なんで?」

「なんでじゃないでしょう? 五時間目サボって、いったい今までどこで何をしていたの?」

 お母さんの剣幕に、宗一郎は耳をふさぎたくなった。

「あの、榊さん。宗ちゃんの話も聞かないと」

 お母さんの後ろから、村山先生が顔をのぞかせた。

 二人でさんざん探してとても心配していたのよ、と村山先生は言った。宗一郎は言葉が何も出てこなくなってしまった。そんな彼を見て、お母さんはいらいらしたように言った。

「宗一郎、黙ってないで謝りなさい!」

「あ……ぼくは……」

 急にのどがかわいたみたいで、声がかすれてしまった。

最近お母さんはすぐ怒る。お腹に赤ちゃんがいるせいだって、お父さんは言うけど赤ちゃんがいるとなんでこんなに怒りっぽくなるのかぜんぜん理解できなかった。

「宗一郎、心配かけたあんたが悪いのだから、早く謝りなさい!」

 どうして? わからないよ……。

 なんだか頭の中がぐるぐるする。

 何で謝らなきゃいけないんだっけ? 心配って、何でそんなに心配するのかな。勝手に心配したくせに、何でぼくが謝るの? だいたい、お母さんは、ぼくがどうして学校を飛び出したのかってこと、ぜんぜん気にしてないのかな?

「あの、お母さん。ちょっと宗ちゃんと二人でお話させていただけませんか?」

 先生の言葉で、お母さんは廊下に出て行った。ぴしゃりとドアが閉まり、村山先生と二人になると、宗一郎の脳みそはようやく昼休みのことを思い出し始めた。

「宗ちゃん、どこにかくれていたの?」

 先生は静かな声でたずねた。責めているでもなく、怒ってもいないことにとても安心した。安心と同時に、あの時の気持ちまで戻ってきた。

ああ、そうだった。逃げ出したんだっけ。

 黙っていると、先生は世間話みたいに言った。

「お母さんから聞いたわ。山のゴミ拾いをしているんですってね。とてもえらいわ。他にもお父さんが切り出した木の新芽を挿し木して増やしてるって。本当?」

 頷くと、先生はまた質問をした。

「そういうのをなんて言うか知ってる?」

 先生はどうして今、こんな話をするのかな。ぼくの普段してる事と、逃げたことに関係があるって思ってるのかな?

 別のことを考えているのに、先生は笑顔になって自分の質問に自分で答えた。

「そういうのを、エコロジーっていうのよ。環境を守るっていう意味なの」

 ああ……そうか。

 宗一郎は先生が何を言いたいのか、なんとなくわかった。ゴミ拾いの事や、木としゃべれるっていう『モウソウ』をバカにされたから、すねたと思っているのだろう。宗一郎の普段やっていることの説明として、エコロジーという言葉を使って、みんなに話をしろとでも言いたいのだ。でも、宗一郎はエコロジーなんて、そんな言葉を使うような事は考えてない。ただ、木たちが訴えかけてくるから、言われたとおりにやっているだけだ。

 お父さんは木を切って炭を焼く仕事をしている。切られた山の木は、家の裏にまとめて積まれる。宗一郎はその木からはらった枝を挿し木してるけれど、それだって木がそうしてくれって言うからやっているのだ。

――もう一度生きるために、枝を山に植えておくれ。と……。

 切られちゃう木はかわいそうだけど、お父さんが炭を焼かないと、うちは暮らせないから仕方がないのだ。今日だって、ダケカンバがかわいそうだったから缶を拾った。たったそれだけだ。けっきょくは、彼らの「声」が聞こえちゃうから、しょうがないのだ。

 でも、そんなこと先生に言ったって、きっとよくわからないと思う。

 どうして自分にだけ彼らの「声」が聞こえるのか、その理由は自分にさえわからないのだから、説明なんてできっこないのだ。

 先生は、それからしばらくエコロジーについて話をしてくれたが、最後に言った。

「宗ちゃんのやっていることは、とてもいい事なのだから、かんちがいしたお友達が何を言っても、気にしちゃいけないのよ」

 だから、宗ちゃんの気持ちを先生に聞かせて欲しいのと締めくくり、村山先生は宗一郎の顔をのぞきこんだ。

「木と話ができる」という話を健太に笑われて、うそつき扱いされたのが気に食わなかった。……とでも言えば、先生は納得するだろうな、なんて、ふと思った。

 お腹がすいてきたから、とにかく謝ってしまって、もう帰りたいなと思っていると、大きな足音がして、教室のドアが乱暴に開けられた。

「村山先生、沢本ミクさんのお母さんから電話です」

 村山先生はお母さんと宗一郎に「ちょっとだけ待ってて欲しい」と言って、呼びに来た先生と一緒に階段を降りて行った。

 宗一郎はそばに立っているお母さんにたずねた。

「どうしたのかな?」

 するとお母さんはけわしい顔で言った。

「生徒さんが一人、まだ家に帰ってきてないんですってよ」

「え……?」

 さっきの先生は、確か沢本ミクって言っていた。宗一郎は、夕方木立の中から見た光景を思い出した。山に向かって歩いていたのは、確かにミクだった。

「お母さん、あのね……」

 言いかけた時、村山先生が戻ってきた。先生は化粧の落ちた鼻の頭を、ハンカチでぬぐいながら言った。

「すみません、ちょっと急な問題が発生してしまったので、今日はお引取りください。後日改めて、ご連絡いたしますから」

 なにやらただならぬ様子に、宗一郎たちはそそくさとその場から引きあげた。職員室前を通ったとき、校長先生の大きな声が聞こえた。

「沢本さん、落ち着いてください。皆で探しますから。ええ、わかりました。ところで、警察には連絡しましたか?」

 宗一郎は前を歩くお母さんのスカートをつまむと言った。

「ぼく、見たんだ」

「え? 宗ちゃん、なに?」

 振り向いたお母さんに、ミクを見かけたことを話すと、お母さんは「外で待っていなさい」と言って、職員室に駆け込んだ。

 宗一郎は下駄箱でくつにはき替えて外に出た。お母さんを待ちながら、ミクのことを考える。誰も話しかけない自分に、昨日も今日も声を掛けてきたミク。リコーダーのテストで、みんなが下手くそと言って笑ったのに、「吹き方は悪くなかった」と言って、かばってくれたミク。

 ひょっとして、ミクはぼくに用事があったから山に向かって歩いていたのではないだろうか? 信じられないことだけど、こういうふうに考えれば説明がつく。

「でも、ぼくに会いに、わざわざ山まで来るなんてこと、あるわけないよなあ……?」

――ウサギ頭のリス少女。

 辺りは薄闇につつまれて、街路灯が点灯し始めていた。

 

 しばらくして、仕事を終えたお父さんが車で迎えに来た。ススで真っ黒なお父さんの顔から、宗一郎はわざと目をそらす。仕事場から急いできたのだとわかると、まともに顔が見れなかった。

「宗一郎、先生やお母さんに心配かけるなよ。お父さんだって、心配したんだからな」

 叩かれるかと思ったが、お父さんは宗一郎の頭をくしゃっと撫でただけだった。お母さんがそれを見て小声で文句を言うのが聞こえた。

「まったく、お父さんがそんなだから、宗ちゃんがいつまでたっても子供っぽいこと言ってるのよ。ほら、例の……」

 言いかけて、お母さんは口をつぐんだが、宗一郎はお母さんの考えていることがわかってしまった。

――きっとまた、植物がしゃべる話をして、クラスの子とケンカになったんじゃないかしら?

 誰にも信じてもらえない事を、いつまでも言っているほど自分は子供じゃないのに。

 車に乗り込んだとき、村山先生が昇降口に姿を見せた。知らない男の人と女の人が一緒だ。先生に呼ばれて、お父さんとお母さんは宗一郎を車に残して彼らの方へ行ってしまった。

 車の後部シートから空を見上げると、きれいな月が出ている。こんな夜は、きっといつも遊んでいるシラカバの広場で、月見草が咲いているにちがいない。

 そんなことを考えてぼんやりしていると、誰かがウィンドウを叩いた。見ると、お父さんと先ほどの知らないおじさんだった。

 窓を下げると、お父さんが険しい顔で言った。

「宗、お友達のミクちゃん、どこで見たか案内できるか?」

 宗一郎は緊張気味にうなずいた。やはりミクの行方がわからなくなってしまったというのは、本当らしい。知らないおじさんがたずねた。

「あの、ミクの様子はどんなでしたか?」

 ああ、このおじさん、もしかしてミクのお父さんなのかもしれない。

なんと言えばいいのかわからず考えあぐねていると、知らないおばさんがお父さんとおじさんを押し退けて叫んだ。

「ねえ、あなたミクを見たなら、なんで声をかけてくれなかったの? お友達なら、普通どこいくのとか、言うんじゃない?」

 あ……もしかして、ぼくは今、怒られているのだろうか?

 ミクのお母さんらしき人は、顔が白くなっていて幽霊みたいに見えたから、宗一郎は怖くなって顔を背けてしまった。

「ねえ、ちょっと! なんで黙ってるの?」

怒鳴るおばさんの横で、お母さんも宗一郎を叱りつけた。

「宗ちゃん、ちゃんとミクちゃんのお母さんにお話しなさい。いつ、どこで見たのか。なんで声をかけなかったのかって、聞かれてるじゃないの!」

 村山先生が、お母さんたちを押し留めて言った。

「とにかく暗くなってきましたから、宗ちゃんに案内してもらって、探しに行きましょう。榊さん、車に乗せていってもらえますか?」

 お父さんはうなずくと、ミクのお父さんと村山先生、それから宗一郎とお母さんを乗せて出発した。ミクのお母さんが一緒じゃなくてホッとした。

 しばらく走って、クマゲラの巣がある辺りで止まった。

「宗、ここで見たのか?」

 宗一郎はうなずいた。

「何時ごろだったか、わかるかい?」

 ミクのお父さんの質問に、宗一郎はゆるゆると首を横に振った。時計なんて持ってないから、何時かなんてわからない。代わりに村山先生が答えた。

「宗ちゃんが学校に戻って来たのが五時半過ぎだったから、たぶん五時くらいじゃないかしら」

 お父さんたちは、「もう少し先のほうに行ってみよう」と言ってさっさと車に乗り込んだ。

 村山先生は、真っ暗な木立を見上げながらひとり言のように呟いた。

「ミクちゃん、宗ちゃんのこと探そうかなって、言ってたんだよねぇ……」

 宗一郎はどきりとした。

やっぱりミクはぼくに会うつもりで山に来たんだ。ミクを探さなきゃ!

 

 お地蔵さんの手前で車を止めたお父さんが言った。

「あとはお父さんたちに任せて、宗はお母さんと歩いて家に帰りなさい。お母さん、足元すべりやすいから、気をつけてくれよ」

 お母さんは先生とミクのお父さんに頭を下げると家につづく山道を歩き出した。

 宗一郎はその場に立ち止まったまま、ミクのことを考えた。ミクはどこにいるんだろう?

お母さんもお父さんも、家から学校までの間にミクを見なかったと言った。だから、彼女はきっとこの道を通っていないのだ。

「宗ちゃん、早く帰りましょう」

 お母さんの声にうながされて歩き出した。家に向かうこの道にだけ、ぽつんぽつんと街路灯がある。

 車のエンジン音がして、お父さんたちはもう少し先まで行ったようだった。

 ざりざりと小石混じりの山道を登っていると、朝のダケカンバが声をかけてきた。

――よう、クマゲラの巣、見つけたかい?

 宗一郎はハッとした。もしかしたら、誰か見ているかもしれない。ひょっとしたら、ミクのいる場所がわかるかも。

 宗一郎はお地蔵さんのところに駆け寄ると、真上を見上げて叫んだ。

「誰か、女の子を見なかった? 赤いランドセルの、リスみたいな女の子だよ」

――リス? 今年はまだ、リスを見ていないなぁ。

 ブナの木が間延びしたような声で言うと、根元のクマザサがしゃらしゃらとうすい葉っぱをこすり合わせた。

――んもう、ぶなの木のじいさんったら。リスじゃなくて、女の子でしょう?

「ねえ、お願い! だれか教えて!」

 宗一郎はありったけの大声で呼びかける。

「宗ちゃん、宗ちゃん……? 誰と話をしてるの?」

 お母さんがとまどい気味にたずねるが、宗一は全神経を木たちのざわめきに集中させた。

 ごおおおおっと風が吹いて、いく枚もの葉が舞い散った。

 山の木々たちの、数えきれない葉音が、小さな声をつむぐ。

――見たよ、見た。

――知ってるよ、知ってる。

――いるよ、いる。

宗一郎の呼びかけに、山は、木はちゃんと答えてくれた。

 宗一郎は『熊よけ』の鈴をポケットから引っ張り出すと、ベルト通しに結んだ。

ミクは森の中にいる!

「宗ちゃん! どこへ行くの?」

 駆け出した背中に、お母さんの声がする。宗一郎は振り返ると大声で言った。

「お母さん、ミクちゃんの居場所がわかったよ。シラカバたちが教えてくれたんだ。ぼく、ちょっと行ってくるから!」

「宗ちゃん! 待ちなさい!」

 お母さんの止めるのを振り切って、宗一郎は木立に入って行った。

 

【ミク】

 

 どうしよう。

 辺りが薄暗くなったせいで、目印にしていた煙が見えなくなっていることに気付いた。

 それに、もう大分歩いたはずなのに、宗ちゃんの家が見つからない。

おかしいな……。

下の道路から見たときは、真っ直ぐに登っていけば良さそうだったのに。

 ミクは立ち止まって周囲を見渡した。街なかと違い、街路灯が無いことに気付く。歩いて来た道は木立にさえぎられて、闇の中にうまってしまいそうだ。

「どうしよう……」

 声に出したとたんに静けさがおおいかぶさってくる気がして、ミクは自分で自分の体を抱きしめた。

 おおおおおん

 どこからか、不気味な声がする。

 おおおおおん

 ほら、まただ。

 獣の声のようでもあり、木々の間をすりぬける風のうめきにも似ている。ミクは耳をふさいでその場から逃げ出した。でこぼこした地面に、足がもつれそうになる。ざわざわと山全体が揺れ動いているような気がしてきた。そこから何かが飛び出してくるかもしれない、そんな妄想が頭のなかでぐるぐるする。

 おばけが追いかけてきたら、どうしよう!

 胸が苦しい。立ち止まり、はあはあと荒い息をつぎながら下を向くと、足元は地面ではなくびっしりと雑草が生えていた。目の前にそびえ立つ木も、ふもとで見たものよりどれも背が高い。めちゃくちゃに走って、いつしか道を外れてしまったようだった。

 ミクは顔を上げた。青白い月明かりに照らされて、木の幹が白く浮かび上がっている。恐る恐る周囲を見回し、ミクは近くにある倒れた木の幹に腰掛けた。

「怖いよう……」

 涙が出てきてしまい、一生懸命ハンカチでぬぐっていると、かさかさと草をふむような音がした。

 風が木の葉をちぎって落としたのかな? それとも……。

 木立の奥の暗がりに、からだ全部の神経を向けると、耳が大きくなったみたいに、小さな音を聞き分けられるような気がする。

 ミクはごくりと唾をのみこんだ。カサコソいう軽い音は、ひょっとするとさっきの遠吠えみたいな音の主なのかもしれない。

 森の木々がざわめいて、ミクの耳に一瞬なにかの「声」が聞こえたような気がした。

――怖がらないで、と。

 ミクはぐるりと辺りを見回して、もう一度さっき音のした方向に顔を向けた。

「……だあれ? 森の妖精さん?」

 木立からチリリと音がした。ミクは飛び上がりそうになってしまった。

「ぼくだよ。ミクちゃん、いるの?」

「あ……」

 軽やかな鈴の音と共に、シラカバの木立から現れたのは宗ちゃんだった。急に緊張がとけて、さっきよりもたくさんの涙が頬をつたった。

 宗ちゃんは泣いているミクのところに来て、「見つかってよかった」と微笑んだ。

 宗ちゃんは黙ってミクが泣き止むのを待っててくれてるみたいだった。ミクはちょっと恥ずかしくなって、顔をかくしながら一生懸命に鼻をすすった。

「真っ暗だから、ちょっと怖かっただけだもん」

 そう言うと、宗ちゃんは珍しく答えてくれた。

「真っ暗じゃないよ。ほら、月が明るいし、森は怖くないよ。もう少し先に月見草が咲いてるの。それを見たら、きっと元気になるよ」

 草の上に放り出された赤いランドセルを肩にかけて、宗ちゃんは立ち上がった。

 ミクはまだちょっと森が怖くて、宗ちゃんの腕にぎゅっとしがみついたけど、宗ちゃんはふりほどいたりしなかった。

 ほんの数メートル歩くと開けた場所に出た。

「あ、すごい……」

 ミクは目の前の光景に、思わずため息をもらした。

 青白い月明かりに照らされて、一面に黄色い花が咲き乱れている。周囲をシラカバの青白い幹が囲んでいる様子は、まるで夢の中みたいでミクは怖さも忘れてしまった。

「すごくきれい」

 うっとりと言えば、隣で宗ちゃんは嬉しそうに胸を張った。

 風が吹き、月見草がさわさわと揺れる。ふいに、ミクの頭の中に、『月の光』の曲が流れ出した。月の光は淡く広がり、木を照らし、花を照らし、ミクと宗ちゃんを薄青く照らしている。太陽と違って、その光はすごく頼りなくて、だけどどこか優しい。ミクはとなりに立つ宗ちゃんを見やった。

「宗ちゃんは、お月さまみたいだね」

 宗ちゃんは意味がわからない様子で首をひねっていたけど、ミクは「自分だけわかっていればいいの」と、言った。

 

【宗一郎】

 

 二人は街路灯のある道まで戻ってきた。

 とりあえず宗一郎の家まで歩くことにして坂道を登り始めたとき、ミクがたずねた。

「宗ちゃん、どうしてわたしが居る所がわかったの?」

 宗一郎は言おうかどうしようか、すごく迷ったけれど、何となくミクならわかってくれそうな気がした。

「シラカバたちが、居場所を教えてくれたんだ」

 ミクの反応が気になって、ちらりと横目で見た。ミクは道の両脇にある木々に目を向けると、ニッコリ笑った。

「やっぱりそうだったんだ! 亜美ちゃんから聞いたんだけど、宗ちゃん、木と話ができるなんてすごいことだよ」

 ミクはそう言って、まっすぐに宗一郎の顔を見上げてきた。黒目の中に、宗一郎自身の顔が映っている。

「信じて……くれるの?」

 ためらいがちにたずねると、ミクはきらきらした目で大きくうなずいた。

「信じるよ。だって、わたしもさっき森の『声』を聞いたんだよ」

「え!」宗一郎は心底おどろいた。

「ほんの一瞬だったんだけどね。宗ちゃんが来てくれる前に、誰かがわたしに言ったの。『怖がらないで』って」

 ミクは興奮気味に言って、頬をいっそう紅潮させた。宗一郎も、ミクの顔を見ているうちに、なんだかワクワクしてきた。

 だって、今まで木の声が聞こえたなんて話、誰とも出来なかったから。

「本当の、本当に聞こえたの?」

 宗一郎の問いかけに、ミクはちょっと首をかしげたが、コクンとうなずいて見せた。

 宗一郎はそれだけでとても満足だったけど、ミクは眉の間にシワを寄せた。

「宗ちゃんに聞こえるんだから、ミクだって。きっとあの声は森の妖精さんだったんだよ」

『森の妖精さん』説には、ちょっと納得いかないけどな。心の声は封印して、宗一郎はにっこりと微笑む。

「熊に会わなくてよかったね」

 腰に付けた『熊よけ』の鈴に軽く触れて話題を変えると、ミクは「熊さんに会いたかったのに」と口をとがらせた。さっきまで泣いていたミクが、今度はふくれたので、宗一郎は大きな声で笑ってしまった。なんだかとっても楽しい気分だった。

 歩きながら、山の樹たちのことをたくさんミクに話した。ミクはいちいちうなずきながら、真剣に話を聞いてくれる。

「新しい木の芽は、どれでもただ挿しておくだけで育つの?」

 お父さんが切り出した木から挿し木をしているという話に、ミクは興味を示した。

「ううん、どの枝を使って欲しいのか、木にたずねるんだ。そうすると、一番元気な枝を教えてくれるんだよ」

「だから、宗ちゃんが植えた小さい木は、みんなちゃんと育つのね?」

 すぐには信じられない、そんな話をしても、ミクは決してバカにしたりせず真面目に聞いてくれた。宗一郎は本当にうれしかった。

 しばらくすると、背後からエンジン音がした。振り向いてヘッドライトのまぶしさに目を細めると、お父さんの車と、もう一台黒い車が二人を追いぬいて道の真ん中に止まった。

 ミクのお父さんと村山先生が車から飛び出してきて、代わる代わるミクを抱きしめた。

 黒い車からは、校長先生とミクのお母さんが降りてきた。辺りが一気に騒がしくなった。

 大人たちは皆ホッとした顔で、よかったよかったと言い合っている。

 宗一郎は道のはじっこでぼんやりと月を眺めていた。さっきまでミクと二人で静かな森を歩いていたのが夢だったのかもしれないと思えてきた。

 村山先生が気付いてそばに歩いて来た。

「宗ちゃんが見つけてくれたんですってね。えらかったわ。ありがとう」

 先生にも、「シラカバたちが教えてくれたから」と言おうとしたけど、やっぱり止めておいた。

 宗一郎は先生に「さよなら」とあいさつすると、お父さんの車に乗り込んだ。

「先生には、べつにわかってもらわなくってもいいや」

 車の後部シートに身を埋めて、宗一郎は誰に言うともなしにつぶやいた。

 お父さんが運転席に戻ってきたとき、ミクの声がした。ミクは運転席のドアから顔をのぞかせて、後部シートの宗一郎に言った。

「宗ちゃん、明日も、あさっても、その次も、ちゃんとミクとしゃべってね」

 明日も、あさっても、その次も……。

 そんなことを言われたのは初めてだったからすごくドキドキしたけど、宗一郎はミクの顔を見ながら大きくうなずいた。

「うん、明日も、あさっても、その次もね」

 

【宗一郎】

 

 それからしばらくして、ミクから手紙をもらった。

『宗ちゃんへ

 ピアノの発表会があるので、見に来てください。月の光という曲をひきます。月見草がきれいに咲いていた、あの森の広場を思い浮かべながらひくので、上手にひけたら、たくさん拍手してください    ミクより』

 

 秋の休日、宗一郎はお母さんと一緒に、駅の近くにある市民会館へ出かけて行った。初めて入った建物は、体育館より広くて人がたくさんいた。

 お母さんのお腹が大きくて重そうだったから、手をつないであげた。

 もう一方の手には、今朝山で摘んできたピンクのコスモスがある。宗一郎は誰にも聞かれないように、コスモスにささやいた。

「ミクちゃんに、がんばってって伝えてね」

 あの事件の翌日から、ミクはしょっちゅう話しかけてくれたけれど、なんだか恥ずかしくて、宗一郎はやっぱり学校ではあんまり話が出来ないでいた。そんなとき、ミクからの招待状が届いたので、お母さんは「きちんと控え室のミクちゃんに招待状のお礼を言って、このお花を渡しなさい」と、きれいなピンクのリボンを結んでくれたのだ。

 

 お腹の大きいお母さんを客席に待たせて、宗一郎は一人でミクを探しに行った。ロビーの階段を二階に上がると、きれいな洋服を着た子供や大人がたくさんいた。

 きょろきょろしていると、ミクのお母さんがみつけて声をかけてくれた。

「まあ、よく来てくれたわ」

 ミクのお母さんは、あのときとはまるで別人みたいにきれいで、すごく優しそうだった。どうしてあのとき、この人の事が怖いと思ったのか不思議だった。

 お母さんに案内されて、ミクのいる廊下のソファに歩いて行った。ミクはレモン色のドレスを着て、お人形みたいに可愛かった。くるくるの髪の毛を、水色のリボンでポニーテールにしている。

「ミクがね、宗ちゃんに聞いてもらうのって、今回はとっても真剣に練習していたのよ」

 ミクのお母さんがそっと宗一郎に耳打ちする。二人の姿を見つけたミクが、ドレスのすそをつまんで走ってきた。転ばないかと、ちょっとハラハラした。

 コスモスを手渡して、「がんばってね」と言おうとしたけれど、やっぱり言葉がうまく出てこなかった。それでもミクはニッコリ笑って「うん、がんばるね」と言った。

 まるでこちらの声が聞こえているみたいだと思った。

 

 何人もの演奏を聞いてから、ようやくミクの順番になった。

 拍手をしながらとなりの席でお母さんがささやいた。

「ミクちゃん、どうしても黄色いドレスが着たいって言って、お母さんにぬってもらったんですって。やっぱり女の子ねぇ」

 宗一郎はミクがどうしてあのドレスにしたのかわかる気がしたけれど、お母さんには言わないことにした。ミクと二人だけの秘密だ。

彼女があいさつしてピアノの前に座ると、明るかった舞台が薄青い光に包まれた。宗一郎はミクのピアノを聴きながら、あの月見草が咲き乱れているシラカバの広場を思い浮かべた。宗一郎にとって、あの晩の光景は忘れられない。不思議なことに、ミクと一緒に見た花畑は、ひとりで見るより何倍もきれいだったからだ。

 白いグランドピアノを奏でるミクは、黄色いドレスで、まるで月見草そのものだった。人知れず咲いている。でも、笑顔を向ければ必ず微笑み返してくれる黄色い花。

 優しい音色に、シラカバたちのささやき声が聞こえた気がして、宗一郎はふっと天井を見上げていた。

――上手にひけたら、たくさん拍手してください

 演奏が終わったとき、宗一郎は立ち上がって大きな拍手をした。

 

 発表会の後、学校でミクから手紙を渡された。あいかわらず、学校で話しかけられると、宗一郎は言葉がうまくでてこなくなってしまうので、ミクは気をつかってくれているみたいだった。

 家に帰るとさっそく手紙を読んだ。手紙には、発表会の花束のお礼と共に、信じられないことが書いてあった。

『ママが、宗ちゃんの家にお泊りに行くことをゆるしてくれたので、冬休みになったら遊びに行きます。ピアノもお習字もバレエもお休みしていいんですって。なんだか夢みたい!

今からとっても楽しみです   ミクより』

 ぼくの家に泊りに来たいなんて……。

 こんな山の中に来たいなんて、ミクはとても変わっている。

「変なの……

ぽつりとつぶやき、でも、なんでかな? すごくいい気持ちだ。

この家にミクが来る! 何をして遊ぼうか。冬休みなら、たぶん雪が降っているだろう。朝早く、白いウサギを探しに行こうか。足あとをたどって山に行けば、キツネにも会えるかもしれない。ミクはどんな顔するだろう。そう思うと、なんだかわくわくする。

開け放った窓の外に目をやると、山の木々たちの笑い声が聞こえてきた。

今の、この気持ちを誰かに聞いてもらいたい。宗一郎は色づき始めた山に向かって大声で叫んだ。

「今度、ぼくのお友達を連れて、遊びに行くからね!」(了)


この本の内容は以上です。


読者登録

harunosanagiさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について