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 法科大学院生。
 それは、司法制度改革の罠にはめられ、合格率八割の幻に踊らされ、学部よりもはるかに高い学費を支払いながら、三振しても終わり五年経っても終わり、下 位ローなら合格しても就職難な世界へ飛び込むために、貴重な二年乃至三年を棒にふることを選んだ、かなりギャンブラーでアホーな集団のことである。

 まあ、あたしもそのアホーの一人なんだけど。
 西園寺杏子。二十二歳。法科大学院二年次生。ただし、入学一年目。
 法科大学院制度は基本三年間で法律知識をいれることになっている。でも、学部でみっちりやってきた人を前提とする二年間の既修者コースというのがある。 入学試験で法律科目をうけることで、一年次分の必修科目が免除になる、まあ飛び級みたいなもの。学校の半分が飛び級していることになるけど。
 既修の二年生とは、入学一年目の人のことをさす。
 そんな、なんだかつかみどころのないこの制度。今となっては見直しが検討されているし、最下層、落ちこぼれぎりぎりのあたしは、素直に就職していた方が絶対に自分のためになった、と信じて疑っていない。
 大体そもそも、既修で受かったことがおかしい。学部でみっちり法律の勉強をしてきた気がしない。
 既修なのに未修で受かった人を隠れ未修とかいうらしいけど、それならあたしは隠れ既修だ。
 そんなあたしが、この中よりちょっと上ぐらいの学校に入れたのもなにかのミラクルだし、そんな人間が合格率三割とも二割ともいわれる試験をくぐりぬけられるわけがない。年々合格率下がって来ているわけだし。

「サクちゃんくらい頭が良ければ話は別だけどね」
「別にそんなに地頭がいいわけじゃないよ。ただ、どうしても検事になりたくてあきらめられないから、なだけで」
 そういって目の前のサクちゃんは笑った。設楽桜子。二十二歳。あたしと同じ法科大学院二年生。既修。ただし、彼女は学費全額免除。秀才め。
 頭がいいだけじゃない。スタイルもいいし、漆黒のショートの髪の毛は、耳元で光るダイヤのピアスと相まって、とても大人っぽい。
 あたしは少しだけため息をついて、自分の茶色い髪をひっぱった。明るい色が好きだから染めた長い髪は少し毛先が痛んで、どうしても蓮っ葉な印象になる。
 同い年で同じように法曹目指して同じ学校に通っているのに、どうしてこんなに違うんだろう。

「それよりも、相談があるんでしょう?」
 なに? とサクちゃんが首を傾げる。それすらもなんだか色っぽくて、神様って超不公平だと思う。
「うん、あのね」
 手元のサーモカップを指ではじきながら、
「ヒロ君のこと、どう思う?」
「櫻井君のこと?」
 サクちゃんの言葉に一つ頷いた。
 櫻井洋之。同じく法科大学院既修二年生、二十六歳。
「どうって? まあ、頭いいなーって思うけど」
 サクちゃんをして頭いいなんて言わせるなんて、やっぱりすごいんだなー。そうじゃなくて。
「んー、違くて!」
 思ったより大きな声がでて慌てて声を潜める。午後三時、ラウンジにはそんなに人はいないけれども、あんまり話を聞かれたくない。
「かっこ良くない?」
「あ、そういう話ね」
 言ってサクちゃんは微笑んだ。
「そうね、背も高いしね」
「でしょ? それにね!」
 それに、ヒロ君はなんだか可愛いのだ。
 例えば、すれ違い様、あたしは軽く片手を上げる。彼は、片手を勢い良く振ってくれる。
 同じクラスの子で食べた余ったお菓子をあげたら、次の日には机の上に「ありがとう、うまかったです」のメモ。おそらく熊だと思われるもののイラスト付き。
 毎日の手作りのお弁当。世界的に有名な鼠のお弁当箱、同じく黄色い熊の箸箱。
 自習室内では、みんなスリッパとかクロックスに履き替えているけれども、そこでチョイスされた昔ながらの上履き。
 なんていうか、もう可愛すぎるだろう、二十六歳の男!
「ローに来るまで、四つも年上の人と話す機会とかあんまりなかったし、もっとこう大人なのかと思ってたんだけど。思っていたよりもちょっと抜けてて、可愛い!」
 年上なのに、見た目はものすごくかっこ良くて、背も高いのに、あんなに可愛いなんてなんか反則!
 黙って話を聞いていたサクちゃんは、
「あー、なんかわかるかも」
 いって小さく頷いた。
「でしょー」
 きゃーきゃー盛り上がる。サクちゃんには彼氏がいるからライバルにはなり得ない。だからこんなに盛り上がれるのだ、と思いながら。
「杏子ちゃん、うるさくねー?」
 いいながら現れたのは、同じクラスの前田治君。二十六歳で、彼は未修。
 学校によって同じクラスになるかは異なるらしいけれども、うちの学校では既修二年生と未修二年生は同じ二十人程度のクラスで演習の授業を受ける。治君達 未修は、あたしたち既修よりも一年はやく入学している。既修七期生と未修六期生が一緒に授業をうけるといえば、わかるだろうか。

「前田君、どうしたの?」
 サクちゃんが尋ねる。
「会社法演習の発表のはなしあいー」
 彼は手頃な円形のテーブルの上に、六法などを置きながら答える。
 講義タイプの授業もあるにはあるけれども、それ以外の少人数生の演習の授業では対外、生徒が数人でグループを組んで問題の答案を作り、発表する。
「あれ、次、治君達? じゃあ、そろそろ準備しなきゃ」
 治君たちの次なのだ。あー、めんどー。民法演習の発表もあるのに。前から三人ずつ一組で順番に回しているから発表の週が被るのだ。もうちょっと、最初の班わけのときに考えるべきだったと思う。後期は気をつけよう。
「で、杏子ちゃん達はなんの話してたわけ? 声でかかったけど」
「ひみつー」
 言うと肩をすくめられた。
「邪魔がはいったから、サクちゃん帰ろー」
 いいながら立ち上がる。
「はいはい。また今度ゆっくりね」
 言いながらサクちゃんも立ち上がる。
 治君に片手をふり、ラウンジを出る。
「サクちゃんは、いつも通り自習室で勉強して行くの?」
 ロー生には一人一つずつ、自習室に机が与えられている。これも学校によっては固定席ではないらしいよく有る予備校の自習室みたいに左右をパーテションで区切られているだけの机だけど、荷物を置きっぱなしでいいというのは、ありがたいことだ。
 机はそれぞれ個性があって見ていて楽しい。サクちゃんは机の上に小さいぬいぐるみを一つ置いている。意外性があってちょっと可愛い。他には壁際の席なのをいいことにアイドルのポスターを貼っているやつとか、棚を持ち込んでいる人とかもいる。
 あと、某週刊少年漫画誌は結構見かける。
「ううん、今日は用事があるから」
「あ、デートだ!」
 言うとサクちゃんは小さく微笑んだ。大学時代からの同い年の彼氏、いいなー。
 それじゃあね、とサクちゃんが帰る後ろ姿を見送ると、カードリーダーに学生証を通して自習室のドアをあける。なんで無駄に厳重なセキュリティになっているんだろう。
 夕飯は家で食べたいし、電車が混む前に帰りたいから、あたしもそろそろ帰ろう。そう思いながらとりあえず荷物をとりに自分の机に向かうと
「おつかれ」
 ヒロ君とすれ違う。ヒロ君は自習室がしまる11時まで勉強しているらしい。えらいなー。
「おつかれさま!」
 あたしも微笑みながら返す。
 うーん、やっぱりかっこいい!!

「そんな感じでさ、さくっとあたしの心を盗んだ窃盗犯!」
 次の日、ラウンジで、民法演習の発表の話し合いの合間に、そんなことを告げる。
 向かいで同じ班のメンバーがあきれたような顔をした。
「心は財物性ないから、窃盗罪成立しないでしょ」
「キョウの心に有価値性なさそうだしねー」
「そもそも、有体物じゃないし」
「うわー、なんかうざい! 寒いって言われた方がまだマシだった!」
 かるーい冗談に真面目に刑法論持ちだされると凹む。
 っていうか、そんなに刑法の話持ち出すなら、あんたら答案に書けよ? 論文式の答案で「甲は乙と恋愛関係にあったが、かくかくしかじかな事情から乙を刺 し殺した。甲の罪責を答えよ」みたいな事例で、「この点、甲は乙の心を奪っているため、窃盗罪が成立するように思われる。しかし、心は財物ではないため、 窃盗罪の客体とはならない」って書けよ? 絶対書けよ!
「そもそもさ、」
 真面目、という言葉がぴったりの池田正秀君がさらに続けようとする。既修の二十六歳。真面目、といえば聞こえがいいけれども、正直ただ単に堅物なだけだとあたしは思っている。あと、ちょっと変。
「いいから、発表の話し合いしようよ!」
 これ以上、わけのわからないことになりたくないので、自分で話をふって置きながら軌道修正を試みる。
 話を邪魔されて池田君が不機嫌そうな顔をする。
「そうねー、正直キョウの恋愛とかどうでもいいし」
 言うのは、三人一組の最後の一人。三日月郁子。この人も既修の二十六歳。長い髪の毛を無造作に後ろで束ねている。男まさりの人。スッピンだけど美人って分かる顔立ちで、だからこそスッピンなのがもったいないと常々思っている。
 そうして皆でもう一度判例を読み直す。
 池田君と郁さんの話を聞く。この二人の議論にはとてもじゃないがあたしは参加出来ない。
 二人の話を聞き、わかっているような顔をしながら、ぱらぱらと六法をめくる。めくりすぎて民法のはずなのに一般社団法人及び一般財団法人に関する法律、とかいうのになってしまって慌てて戻る。

 世の中、色々誤解があると思う。
 よく「あの分厚い六法全書全部覚えるんでしょー」とか言われるが、全部覚えるならそもそも六法全書の存在必要ないんじゃなかろうか。
 法学部で勉強するのは、条文の使い方だ。必要なときに必要な条文を使えるように、正しい条文を使えるように勉強する。中学生の英語の授業で、英和辞典のひきかたを教わるようなものかしら。
 基本六法と呼ばれる、憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法だけではあんなに分厚いものにはならない。さっきの一般社団法人なんちゃらとか、割とメジャーなところでは道路交通法とか、そういう小さい法律もあの中には入っている。
 そして、法学部生は勿論、法科大学院生もそれら全部の法律に精通していない。恐らく、実務家である弁護士達も。
 そもそも、新司法試験の試験科目は先ほどの基本六法に+行政法。それから、各々が選ぶ選択科目。
 選択科目は知的財産法とか倒産法とかあるけど、あたしは労働法にした。理由は、学部時代の先生がかっこ良かったからっ! イギリス紳士を彷彿とさせる教授だった。イギリス紳士が何かはよくわかんないし、先生日本人だったけど。
 選択科目は論文のみだけど、他の科目は択一と論文試験がある。面倒だなー。
 当初、合格率八割! とか歌われていたこの制度も、実際のところ合格率三割程度。それでも、旧制度よりは高いんだけど。
 ただ、急な合格者の増加で、弁護士はただいま就職難。受かっても、就職する法律事務所が見つからず、すぐに独り立ちすることになる即独や、雇用という形ではなく席だけ置かせてもらう軒弁などが増えている。
 おまけに、合格後の研修制度ともいえる司法修習。身分は準公務員で、以前は給与制だったのに、今は貸与だ。奨学金もあるのに、修習時の生活費も貸与になって、借金が多くて、これ以上借りられないからと合格したけど修習に行かない人もいるらしい。
 弁護士が儲かるとか、いつの時代の幻想なのでしょうか……。
 
「杏子、聞いてる?」
 郁さんの言葉に、
「聞いてます!」
 慌てて返事を返す。
「じゃあ、どう思う?」
 ……さあ? 聞いていなかったから答えられないんじゃない。多分、聞いていても答えられなかった。
 あたしは、なんとなーく指定校推薦で法学部に進学して、親に「合格率あがるならローいけば?」とか言われてその気になって、もう少し学生でいられるならいっかーとローにきてしまったくちなので、将来についてはあまり考えていない。
 合格率はこれからまたさがるだろうから、あたしが受ける頃にはどれぐらいなのか。それで就職も厳しいとなると、まさにお手上げだ。
 あーあ、素直に就活しておけばよかった。と、高校や大学のころの友達が働いているのを見ると思う。そしたら、学生はいいなーっていわれなくてすむだろうし。
 微妙に重い空気を抱えたまま、民法の話し合い終了。
 みんなすごいよなー、としみじみ思う。サクちゃんだって、高校生のころからずっと検事になりたかったって言っているし、郁さんはそもそも社会人でSE やっていたのに法曹を目指して独学で既修に入ってくるんだもんなー。あたしは、法科大学院制度なかったら、法曹を目指そうとも思わなかったのに。

 あたしの将来の夢は小さいころから、お嫁さん、なのだ。
 それすらも遠い。
 子供の頃はお嫁さん、なんて普通に生きていればなれるものだと思っていた。
 小学生のころ思い描いていた二十二歳のあたしはもっと大人で。銀座とか丸ノ内とかのオフィスでOLやっていて。デートの約束があるのにはげ面の上司に残 業命じられて、泣く泣く約束キャンセルしたら、カレシに怒られたりして。実家じゃなくて、一人暮らしで。そういう、少し古いドラマみたいなものを思い描い ていたのに。
 二十二歳なんてちっとも大人じゃなかった。
 旦那どころか、カレシも出来ないし。
 いつもよりも重い、腕の中の、蛙色の判例六法。
 荷物を腕に抱えたまま、学生証を出してドアをあけようとすると、
「おつかれ」
 中からヒロ君があけてくれた。
「あ、ありがとう」
「いいえ」
 彼は笑うと、自分が出て行くわけでもなく立ち去る。わざわざあけてくれたなんて、優しい!
 まあ、みんな開け合って持ちつ持たれつな気もするけれども、やっぱりヒロ君は優しい。
 確かに就職しておけばよかったって思うけれども、そしたらヒロ君にも合えなかった訳で。
 やっぱり、ロー来てよかった!
 少しだけ足取りを軽くして、自分の机へともどった。


『ふーん、なかなか楽しそうじゃない、良かったね、杏子』
「んー」
 自宅のベッドの上に寝転がったまま、相槌を打つ。ケータイの向こうには、幼稚園の時からの親友、海藤こずも。
『あんたが弁護士、とか言い出した時は、どうなることかと思ったけどねー』
 こずちゃんが笑う。
「笑わないでよ」
『ごめんごめん、心配してたの。あんたマイペースだし、どっかずれてるし。偏見だろうけど、法科大学院とかに進学して弁護士目指すようなのって、冗談も聞 かない、真面目そうな堅物ばっかりで、あんた馴染めないんじゃないかなーと思って。さすがにもう、私が助けてあげるわけにはいかないし』
「こずちゃん……」
 今よりももっと、向こう見ずで猪突猛進だった昔。人間関係が上手く構築出来ていなかったあたしを、こずちゃんはいつも助けてくれていた。皆と上手く話せ るように距離を測ってくれたり、さりげなくいつも手助けしたりしてくれていた。高校を卒業するまで、そんなこと気がつかなかったけど。
 大学に入って、初めてこずちゃんと別の学校に通うことになって、そこで初めていかに自分は距離感が、空気が読めない人間なのかということに気がついた。彼女が居ないと、結構しんどかった。
「こずちゃんの優しさに涙がでそう」
 思わず告げると
『馬鹿じゃないの?』
 一蹴された。酷い。でも、それがこずちゃんだ。
『でも、楽しそうにしているから、よかった』
「うん、皆いい人だしね。変な人もいるけど」
『一学年二百人とかだっけ?』
「そう。ローって少人数制のとこ多いけど、うちは人数多いから」
 募集人数が多いからその中に入り込めたという説もあるけど。実際、今の学校よりもランクが下だと言われている学校は、ロー入試落ちたし。
『だから、特に杏子には向いているだろうね。少人数よりも。あんた、意外と人見知りするしね、無鉄砲なのに』
「無鉄砲って……」
『なんだっけ? ヒロ君、だっけ? 杏子の今の意中の人』
「うん」
『上手く行くといいねー』
「うわー、こずちゃんに恋愛関係のことで応援されたの初めてなんだけど」
 どちらかというと、こずちゃんはいつも惚れっぽいあたしのことを呆れて見ているイメージの方が強い。
『だって、杏子も二十二だし。高校の時とは事情が違うでしょう。ええっと、高校の時は確か、清水と榊原と……、あと誰を好きになったんだっけ?』
 思い出すのも恥ずかしい、自分の惚れっぽさを暴露される。学年が変わるたびに好きな人が変わっていた。小学生か、あたしは。
「もう! 昔の話はいいでしょうっ!」
『ごめんごめん。でも、本当、大人になったと思うよ、杏子』
 こずちゃんだって、同い年なのに上からものを言われる。でも、それももっともで、あたしとこずちゃんでは決定的に違うところがある。
 電話の向こうで、猫の鳴くような音が聞こえる。
『ああ、ごめん、将毅起きちゃった』
「ごめんね。また」
『うん、じゃあねー』
 言って慌ただしく電話を切られる。
 つー、という音を聞きため息を一つ。ぱたん、とケータイを折り畳む。ご当地キティが揺れる。
 幼稚園から高校まで、同じ学校に通っていたのになんていう違いなんだろう。ずっと一緒にいたのに。
 こずちゃんには、もう子供がいる。大学卒業と同時に、永久就職。高校のときから付き合っていた年上のカレと。
 最後に会った時、ぎりぎり卒論は出せたし卒業はさせてもらえたけど、卒業式は出られなかった、と大きいお腹をさすりながら言っていた。送られてきた写メにうつっていた将毅君はとっても小さくて可愛かった。
 てっきり、こずちゃんはばりばりのキャリアウーマンとかになるんだと思っていた。幼稚園のころ、お嫁さんになりたい、というあたしにこずちゃんは真面目な顔をして言ったのだ。
「男に依存する人生なんて、だめよ」
 今考えると、前日にどんな昼ドラを見たんだろう、って感じだけど。
 お嫁さんを目指していたあたしは、未だに学生で弁護士目指していて、一人で生きて行きたいと言っていたこずちゃんは、お嫁さんでお母さん。
「置いて行かれた、なー」
 小さく小さく呟いた。
「杏子、ごはーん」
 階下から母が呼ぶ声がする。
「はぁーい」
 返事をしながら起き上がる。
 あたしは、母親になったりするのだろうか。


 民法94条2項。
 それは全部で1044条ある民法の条文の中で、一、二を争うぐらい有名な条文だと思う。学部一年の最初の方でやった記憶があるし。

 94条は、相手方と通じてした虚偽の意思表示は無効とする、としている。
 つまり、あたしが土地を持っていたとして、税金対策で、本当は売るつもりがないのにサクちゃんとグルになり、サクちゃんに売り渡した事にする。二人で嘘 の売買契約をしても、それは無効。なかったことになって、あたしは税金をおさめなきゃいけない。そういうズルはゆるされない。
 でも、あたしとサクちゃんが嘘の売買をしたと知らない郁さんが、サクちゃんから土地を買ったとしたら、あたしは「だって、サクちゃんに売ったつもりとかないから、無効だもん! あたしの土地だから返せ!」とは言えない。それが、民法94条2項。
 虚偽表示の無効は善意の第三者には対抗出来ない。
 この場合の善意っていうのは、ある事柄を知らない事を指す。ちなみに、悪意とはある事柄を知っていること。なんでこう、微妙に既存の一般用語とずれた言葉を使うのかしらね、法律用語って。
 またこれを直接適用じゃなくて類推適用とかしたりして面倒だったりするんだけど。
 またペラペラと六法をめくりながら思う。

 今は民法の授業中。あたしたちが発表の当番。与えられた裁判の判例を読んで、事件の内容をまとめて、学説の対立とかをまとめて、発表する。
 戦力外のあたしは、一番簡単な事案の概要を発表して、今は池田君と先生のやりとりを聞いている。
 どうでもいいんだけど、どうして池田君はいつも、少数説をとるんだろう。
 はやく終わらないかなーと、小さくため息をついた。

「サクちゃん、そういえば最近カレシとどうなのー?」
 議論は紛糾し、紛糾し、みんながいい加減池田君にちょっと飽きたころに、ようやく時間がきて終わった。
 自習室に戻るために廊下を歩きながら尋ねる。
「んー、最近あんまり会ってないんだよねー」
 サクちゃんが困ったように笑う。
「就職して忙しいみたいだしねー」
「あー、同い年だもんね。新社会人だー」
「大変ねー、そういう時の男は、余裕ないでしょう?」
 少し後ろを歩いていた郁さんが言う。
「それは、体験談?」
「そー」
 うんざりしたような顔を郁さんはした。
「つーか、あんたが新社会人ならこっちもだっつーのって思ってた」
「はー」
「うーん、でも本当、余裕はないみたいですよねー」
 サクちゃんは、どこまでも困ったように笑う。
「学生は楽で良いな、って言われちゃったし」
 どこまでも困ったようにサクちゃんは笑う。どこかぎこちなく。
「ないわー」
 あたしがなんて言えばいいかわからないでいると、郁さんが肩をすくめた。
「それは言っちゃ駄目でしょう」
「でもまあ、仕方ないですし」
「まあねー、そうなるわなー」
 郁さんがうんざりしたように呟いた。
 なんか、あるのかな。
「だからちょっと距離置こうと思って。今、忙しいときみたいだし、それに」
 それから、サクちゃんは少し悪戯っぽくあたしの方をみて笑った。
「そろそろ中間だしね」
「うわああああ」
 思わず叫んでしまう。
 そうだ、すっかり忘れていた。
「うう、なんで中間試験とかあるの……。中間とか、高校生以来だよー」
「期末一発で成績つくよりもよくない?」
「レポートもいやねー」
「うー、それはそうだけど」
 そうだった、すっかり忘れていた。中間試験の勉強も始めないとな。
 中間テストは会社法と行政法のみだけど。あたし、会社法苦手だし、行政法とか学部の時やってないし。
 ため息をついた。
「あ、でも行政法、問題集買ったんだー!」
 言いながら、鞄の中から出してみせる。
「サクちゃんのお勧めの!」
「あ、買ったんだー」
「……杏子」
 郁さんがくらーい声で呼びかける。え、何?
「それ、来月改訂版でる」
 沈黙。
 時間をかけてその言葉を理解し、
「えーうそー! まじでー! 買ったのにぃー!」
「あと来月は刑法の百選改訂版と、法学教室の会社法連載まとめたのがでる」
「えー、会社法もっ! 必死にコピーとったのにぃぃ!」
「御愁傷様」
 郁さんが笑う。
 どうしてこうなるんだか。せっかく買ったのに新しいのがでるなんて。
 あたしはため息をついた。
 ため息ばっかりついている。

 そして、今。ため息もつけないぐらい、息も絶え絶えになって走っている。
 発車ベルが鳴り響くホーム。
 あたしは階段を駆け下り、飛び込んだ。
 直後、背後で閉まるドア。
 それから、駆け込み乗車を注意するアナウンス。すみません。
 思い立ったときから始めるべき! と行政法中間の勉強を始めたら、ちょっと楽しくなって夜更かししてしまった。はまると楽しいんだけど、普段はつまらない。
 そして、案の定、寝坊。
「杏子ちゃん」
 声をかけられて、びくっと顔をあげる。
 この声は。
 予想通り、そこに居たのは少し笑ったヒロ君だった。
「おはよう」
「お、おはようっ」
 これは、同じ電車に乗り合わせたことを喜ぶべきか、駆け込み乗車が見られたことを悔やむべきか。
 断然、前者だ。
「二限から?」
「そう」
「寝坊した?」
 いつもよりもメイクが薄めの顔を指差して言われる。
 たとえ、ばっちりメイクではなくても、同じ電車に乗り合わせたことを喜ぶべきだ。絶対。
「ばれた……」
 肩をすくめると、くすくすと笑われる。少し呆れたように。
 やばい、その顔はとっても可愛い。
 ああ、本当、電車に飛び乗ってよかったな。最近ちっとも会えてなかったし。
 こうやってゆっくり話すのなんていつぶりだろう。
 なんて浸っていると、
「ヒロ……?」
 背後からかけられる声。女の人の、どこか甘い感じの含まれた声。
 ゆっくりと、ヒロ君が振り返る。
「敬子……」
 甘い中に、苦さを放り込んだ、カカオ78%のチョコレートのような声。
「えっと、久しぶり」
 敬子と呼ばれた女の人が微笑む。
「うん、久しぶり」
 ヒロ君もそういって微笑むと、一歩あたしから距離をとった。
「今、何してるの?」
「学生」
「学生?」
「うん、ロースクール」
「ああ、ついにあきらめたのね」
 敬子さんはくすり、と笑う。とても親しげで、意味ありげな笑顔。
「俺は絶対旧司で受かる! って言ってたじゃない」
「ああ、あれは、まあ」
 視線を下に逃がし、気まずそうに笑うヒロ君。その顔はあたしが初めて見るものだ。その顔は、決してあたしには向けられることのないものだ。
 そして、恋の勝率がものすごく低いあたしには、この状況下が把握できた。
 これは元カノにうっかりであった、パターンだ。
 どうしていつもこう、あたしはタイミングが悪いんだか。
「でも、ふーん、がんばってるんだ」
 笑む。
 それは大人の笑い方で、この笑い方をする人にはあたしは勝てない、と思い、そしてものすごく嫌みな笑い方だ、と思った。
 中学のときの、高校のときの、大学のときの友達がたまにする笑い方にも似ている。少しだけ滲んで見える。「よくまあ、勉強頑張るよね、まだ学生なんて、何考えてるんだか」の感情。
「ん、まあ」
「そっか……」
 敬子さんは微笑み、少しためらってから
「あのね、ヒロ、私……」
 恋の勝率はものすごく低いくせに、恋ばかりしているあたしには何が起こるかあっさりと分かった。打率は低いのに打席に立ったことは人よりも多いんだ。
 グロスではなく、口紅が似合う唇。その唇が何を言うか、想像がついてしまう。
 出来ることなら、今すぐにヒロ君を連れてここから逃げ出したい。
 ここから先を、ヒロ君に聞かせたくない。
 それは、ヒロ君のためじゃなくて、あたしのためだけど。
「結婚、するの」
 はにかむ彼女が鞄を持ち直す。先ほどまで隠れていた、左手の薬指にはきらりと光るものがあった。
 ほら、やっぱり。
「へー、そー」
 一拍の間のあと、答えたヒロ君の声は淡々としていた。
「おめでと、よかったね」
 微笑む。微笑む彼は一歩、あたしに近づいた。
「あ、そうだ。紹介するよ。俺の今カノ。同じ学校の杏子ちゃん」
 彼はそういうと、あたしの肩にそっと手を回した。
 ぺこり、とあたしは頭を下げる。
 そこで自然と話に乗れる程度には、あたしは空気が読めた。
「あ、そうなんだー!」
 一気に敬子さんの声のテンションがあがる。多分、後ろめたさとかそういったものが消えたのだろう。
「へー、かわいいじゃーん」
「あ、ありがとうございます」
「ヒロ、よかったねー」
「まあ、ね」
 二人の会話を聞きながら、あたしは出来るだけ微笑もうとした。早く、駅に着かないかと、願った。
 早く早く、駅に着いて。あたしをここから逃がして。
 泣きそう、だ。

「ごめんね」
 敬子さんと別れてから、ヒロ君はこっちを見ずにいった。
 敬子さんを乗せた電車はホームから出て行く。
 ホームの端っこで、距離をとったまま、あたし達は立ち尽くす。他の乗客たちは、いそいそと階段を上って行く。
「見栄、はっちゃった」
 そんなこと、言われなくても知っているよ。
「ううん、ごめんねー、一緒にいたのがあたしなんかで。サクちゃんとかだったら美人さんだし丁度よかったのにねー」
 出来るだけ声を大きく、いつものように、告げる。
 ね、でも知っているでしょう? ヒロ君はあたしなんかより全然頭がいいんだから。知らないなんて言わせない。民法94条2項。虚偽表示の無効は善意の第 三者には対抗できないんだよ? 何も知らない敬子さんたちには、あたしたちはさっきのは嘘でーす、なんていえないんだよ。何も知らない善意の第三者の信頼 を保護しなければいけないから。法律行為じゃなくても、嘘はついちゃだめだよ。だから本当のことにしようよ。
 だから、ねえ、
「本当にしちゃおっか」
 思わず口走る。
 言った瞬間に自分でびっくりした。
「へ?」
 ヒロ君が振り返ったので、慌てて笑顔を作る。
「本当に付き合っちゃおうか」
 よくもまあ、ぺらぺらぺらぺら次から次へと言葉が出てくるもんだ。微笑んだまま。
「え?」
 ヒロ君が固まる。
 何も言わない。
 駅のアナウンスが響く。三番線には電車が参ります。
「ちょっとー、なんでそんな顔するわけー!」
 いつもよりも声を高くして、頬をふくらませる。
「え?」
 ぽかん、としているヒロ君の肩をばしっと叩く。近づけた、だから、大丈夫。
「そんなにあたしと付き合うのが嫌なら、嘘でもそういうの言わないでよねー! 杏子さんはナイーブなんですよー! もー」
 いいながら、ばしばしと肩を叩き、行こう? と歩き出す。
「杏子ちゃん!」
 慌ててついてくるヒロ君を振り返り
「本気にしたの?」
 笑ってやる。
 ホームに電車が入ってくる。
「え、冗談?」
「本気にされた挙げ句、どうやって断ろーみたいな顔されて、あたしかわいそうー。超可哀想ぅ。これ、不法行為かなんかにならない? 慰謝料請求したーい。精神的苦痛!」
 笑ってやる。
「いや、そっか。そうだよねー」
 そうだよねーって、なんだ。思うけれども笑ったまま、階段を上って行く。
「ごめんって! ちょっとびっくりしちゃっただけで」
 ヒロ君も駆け上がり、あたしの隣へ。
「杏子ちゃんは、可愛い、いい子だと思うよ。決して、杏子ちゃんが嫌だとかそういうんじゃなくって!」
 可愛い、いい子だと思うのならば付き合ってもいいんじゃないの? いい加減、怒るぞ?
 などと思いながらも言葉に出さない。出せない。昔のあたしなら、言っていただろうに。
「いいよー別に。嫌じゃないけど、カノジョにはできないんだよねー?」
 顔を覗き込むようにして、微笑むと、そのまま階段を駆け上がる。今ぐらいの意地悪は許されるはずだ。
「ちょっと、杏子ちゃん!」
 追いついてこないでいい。しばらく、放っておいて欲しい。と、思うけれどもそんなことは言えず、ヒロ君が走りだそうとする気配があり、
「あれー、櫻井?」
 声がする。
「砂押……」
 ちらっと振り返ってみると、ヒロ君と同じ演習クラスの人だった。今の電車で来たんだ。
「おはよー」
 砂押君だっけ? よく知らないけど、今だけは感謝する。偉い!
「先、行くよ」
 一応声だけかけて、返事を待たずに、あたしは改札を飛び出した。逃げ出した。


「かんぱーい」
 言って、皆でグラスをぶつけあった。
 行政法と会社法の中間テスト終了後、当然のように演習の皆で飲み会。こういうことには人一倍張り切る治君は既にお店を予約してくれていた。
 しかし、中間テストなんて高校以来だよ。と改めて、しみじみと。
「いやー、これでしばらくのんびりできるね」
「でも、明後日、民法レポートじゃん」
「俺、全部もう終わらせたから。今学期の分」
「やべ、さすが池田」
 わいわいいいながら、杯を重ねる。
 みんな大人だから、大学のときのような無理な飲みはなくて楽。コールとかないし。
「治君は、最近カノジョとどー?」
 外部にカノジョがいる彼に聞くと、
「あー、ぼちぼち。テスト終わったから明日会うよ」
「いいなー」
 ふくれると、どこからか「杏子ちゃんはおとなしくしてればもてるよー」というヤジがとんでくる。おとなしくしてればってどういうことよ?
「結婚とか、考えないの?」
「あー」
 誰かからの問いに、治君は困ったように笑う。
「結婚かー、遠いな」
 そういって、26歳の、付き合って7年目の彼女がいる彼は笑った。遠い目をして。
 付き合っているひとは、特に外部に恋人がいる人は、多かれ少なかれ同じ思いなのだろう、どことなく目を伏せた。
 まだ学生で、合格するかも就職できるかもわからなくて、そんな状況では結婚は夢だということは、あたしにだって分かる。
「子どもとか、はやく欲しいんだけどね」
「男の子? 女の子?」
「女の子がいいなー。大きくなって反抗期になってパパ嫌い! とか言われたら、俺立ち直れねー」
 明るく治君は続ける。
「パパ嫌いとか言われたら、俺家帰れないから池田とめろよー」
 わーわー、盛り上がる。
「サクちゃんは、カレシいるもんねー。いいなー」
 男どもが、女の子と反抗期について盛り上がっているので、隣のサクちゃんに尋ねてみる。
「ああ、うん」
 聞かれてサクちゃんは小さく頷く。
 どこかなんだか煮え切らない気がして、首を傾げる。
「ねえ、」
 詳しく突っ込もうとしたとき、
「カシスオレンジとモスコミュールおまたせしましたー」
 店員さんの声に慌てて
「はーい、あたしです!」
 手をあげてアピールする。
「モスコミュールもこっちで」
 と二つうけとり、モスコミュールをサクちゃんに手渡す。
「ありがとう」
 受け取ったサクちゃんはいつものような笑顔だから、それ以上、突っ込めなかった。
「杏子ちゃんは、その後どう?」
「ん?」
「櫻井君と」
「いや、別に」
 小さくため息。
 あの時、カノジョのふりをして以来、あんまり話していない。廊下ですれ違ったら挨拶ぐらいするけど。演習はもちろん、講義ですら一緒じゃないからあんまり会う機会がない。気まずいのも嫌だけれども、やっぱり寂しい。
「あ、でも、誕生日」
 そこで思い出した。あの後一度だけ、ちゃんと話す機会があった。
「うん?」
「誕生日にプレゼントもらった」
「ああ」
 サクちゃんは少し微笑み、
「この前だったもんね。よかったじゃん。何もらったの?」
「憲法の争点」
 沈黙。
 サクちゃんは珍しく理解出来ない、とでも言いたげな顔をして、
「ごめん……、もう一回いい?」
「憲法の争点」
「けんぽーのそうてん」
 サクちゃんは首を傾げ、
「それは、あれ? ジュリスト増刊の法律学の争点シリーズの? 憲法の理論上或いは解釈論上対立の存在する諸問題を解説している?」
「うん。薄くて高いあれ」
 っていうか、なにその説明文。某書籍のネット通販のサイト?
「新品?」
「ううん。ヒロ君が使ってたやつ。もう読まないからって」
「杏子ちゃんさ」
 サクちゃんはあたしの肩に両手をぽんっと置いた。サクちゃん、酔っているな、さては。
「それでいいの?」
 真剣に、あたしの顔を覗き込むようにして尋ねて来た。
 いいか悪いかで言われたら、
「よくはないけど」
 なんでそんな色気のないものをもらわなければならないのか、っていう気もするし。
「でも、たまたま廊下で会って、その時たまたま治君に誕生日だってアピールして飴もらってたところで、そんな不意打ちみたいな出来事なのにおめでとうって言ってもらえて、何かもらえただけで十分かなって。憲法、苦手だし」
「だからって」
「それに」
 ちょっと声をひそめて、
「好きな人の使ってたものってよくない?」
 ちょっとだけ茶目っ気たっぷりに言ってみる。
 サクちゃんは少しきょとんとした顔をしてから、
「んー、がんばれ」
 酔って少し赤くなった頬で微笑まれる。うーん、女のあたしでもころっとくるな、これ。
「すみませーん、伝票失礼します」
 言いながらお姉さんが治君に伝票を渡す。
 治君はその伝票に目を通しながら、
「あれ、これ違うな? ここにいるの十二人だよね?」
 コース×十三になっているなー、という声。
「十二で予約したんでしょ?」
「もちろん」
 彼が頷くと同時に、
「じゃあ、詐欺だ!」
 誰かが声をあげた。
「いや、詐欺にはならないだろ」
「錯誤だ、錯誤」
「動機の錯誤だ!」
 わーわー、急に盛り上がりだす。
 お姉さんを捕まえて訂正をせまる。六法もっているやつまでいるよ。
「ロースクール生って、迷惑よねー」
 普通に訂正を求められないのか普通に。気持ちだけでも他人のふりをしながら、あたしがいうと、サクちゃんは、
「あのお姉さんに同情する」
 会計は無事、十二に直してもらいました。

 ヒロ君とはやっぱりたまに廊下で会う程度で何ら劇的なことは起こらない。
 前は、廊下でヒロ君が笑顔で手を振ってくれるだけで幸せな気分になったのに、段々欲深くなっていくなー。
 そんなことを思いながら、今日も夕飯前に帰宅。
 みんなやる気がない! っていうけれども、あたしは家でも勉強できるタイプなのだ。というか、家でも自習室でも同レベルの勉強しかできないともいえるけれども。
 どんな環境でも勉強できるというのが本来受験生のあるべき姿であって、自習室でなければ勉強出来ないというのはその時点で敗者だ。という自分を擁護するための意味不明な論理を今日も振りかざし、そそくさと帰宅する。
 駅に向かっていると、こちらに向かって歩いてくる同い年ぐらいの男の人が、あたしの顔をみて首を傾げるのを視界の端に捉える。失礼な人だなー、と顔をあげて、固まった。
「榊原、くん?」
 見知った顔の彼は驚いたような顔をして、小さく口を開けたままこちらをみてくる。
「西園寺さん?」
 こくり、と頷くと、彼は驚いたー、と小さく言った。それはこっちの台詞だ。
「えっと、元気?」
「おかげさまで」
 彼が笑う。記憶にあるよりも少しだけ高い背に低い声。そして、柔らかくて屈託のない笑顔。こんな笑顔を彼があたしに向けてくれるなんて初めてだ、と思った。
 高校時代のあたしが欲しくて欲しくてたまらなかった、彼の笑顔。
「西園寺さんは?」
「元気」
 榊原龍一。微笑みながら彼の名前を舌の上で転がした。それだけで甘酸っぱい何かがあふれてくる。高三の時、あたしが大好きだった人。暴走気味な気持ちでつっこんで、逆に嫌われてしまったけれども。
 うーん、青かったな、と苦笑い。ストーカーで訴えられてもおかしくなかった。
「今は、社会人?」
「まだ学生。医学部」
「ああ、そっか。お医者さんになるんだよね」
 彼は頷いた。
「覚えててくれたんだ、ありがと」
 4年以上の歳月で、彼は知らない間に高校生の男の子から大人の男の人になっていた。少しだけ低い声と言葉に不覚にもちょっとぐっと来た。
 でもなぁ、どうせ彼女いるんだろうし。
「カノジョさんは、お元気?」
 一応、ちょっと探りを入れてみると、
「おかげさまで、一応」
 彼は本当に嬉しそうな顔をした。
 本当は、あの時あたしがその顔を彼にさせたかった。本気で。
 高校時代にした恋愛はどれもお遊びで上っ面だけで、あんたはほれっぽいんだから! とこずちゃんには注意されていた。それでも、榊原君だけは、本当に本気だったと、あのときのあたしの持てる全てで本気だったと、誓える。
 でも、きっとそのカノジョには勝てない。彼は、現代の医学じゃ完治は難しいとかいわれるよくわかんないけど難しい難しい病気のカノジョのために、文系クラスだった高三に医学部に進むことを決めたのだ。そして本当に進学してしまったのだ。
 凄すぎだ、そんなに想われているカノジョが本当に本当に羨ましい。誰が、あたしのために医者になろうとしてくれるのだろうか?
「そう、じゃあ、幸せに」
 あたしは微笑んだ。
 ありがとう、と彼は答えた。
「西園寺さんは、今は?」
「法科大学院生」
「ほうか……?」
「ロースクールって言った方がいいかな?」
「……え、弁護士?」
 一拍を置いての驚いたような声。ひどいなーと笑う。まぁ、そんなイメージじゃなかっただろうけど。
「いろいろあってね」
「ごめんごめん。まあ、西園寺さん、頭はよかったもんね」
「そーでもないけど。まあ、頑張ってるよ」
「じゃあ、何かあったら頼むよ」
 何かあることなんて願っていないくせにな、と想いながらあたしはまかせて、と笑う。
 みんな「何かあったらよろしく」なんていうけど、本当は弁護士に関わりたいなんて思っていないなんてこと、知っている。
 自分の人生で弁護士に何かを頼むことなんてありえない。そう思っているからこそ、簡単に「何かあったらよろしく」なんて言っているのだ。
 知っている。
 それなのに、なんであたしは目指しているのかな。
「じゃあ、ね」
 それでも出来るだけ微笑みながら片手を挙げる。なんだかんだいって、彼には少しだけ大人になったあたしの、出来るだけ綺麗な顔を覚えていて欲しかった。例え、すぐに忘れてしまうとしても。
「うん。元気で」
 高校生のときから変わらない笑顔で、彼は頷く。
 さよなら、とあたしは去って行く彼に呟いた。
 きっと、もう二度と会うことはないだろう。さよなら、あたしの恋。


『へー、榊原にねー』
 電話の向こうでこずちゃんが驚いたような声を上げる。
『普通に喋れたんだ? よかったねー。あんた、超嫌われてたもんねー』
 オブラートに包む事なく、こずちゃんが告げる。
「……やっぱり、嫌われてた?」
『うん、露骨に嫌がってた。気づいてなかったの?』
「卒業してから、もしかして……とは思ってた」
 電話の向こうで、あっきれたという声が聞こえる。
『しかし、あいつマジで医者になるんだー。見直した』
「こずちゃんは、榊原君のこと嫌いだったよ、ね?」
 伺う様に尋ねると、
『だってなんかうさんくさかったんだもん』
「うさんくさかったって……」
 仮にも、クラスメイトに対してその評価はどうだろう。
『俺とか僕とか一人称を人によって使い分けて。それも別に悪くはないけど、普通それを対クラスメイトにする?』
「……そういえば、あたし、榊原君が俺って言うの聞いたことないかも……」
 それって、やっぱり距離を置かれていたってことか。
『でしょう? そういうのがなんかむかついたのよねー。まあ、私も若かったし』
 苦笑。
『幼なじみのカレシには相応しくないな、って思ったの』
 そして電話の向こうで早口で付け足された言葉。
「……え、え? 何それどういうこと? こずちゃん、あたしのこと心配してくれて」
『ああっと、煮物作ってるんだったまたねー』
 あたしの言葉を遮るようにして、こずちゃんが言い、通話が切れた。煮物って、絶対嘘でしょ……。さっき今日の晩ご飯は炒飯って言っていたじゃん。
 微笑む。
 高校生のころは、こずちゃんはとってもしっかりしていると思っていた。でも、今はまた少し別のことを思う。
 こずちゃんは、少しだけ感情表現が下手で、ぶっきらぼうだ。それから、照れ屋さん。
「なーんだ、心配してくれてたんだー」
 微笑んだまま、切れた受話器に向かって呟いた。

「別れた」
 翌日、おはよ、っていつも通りに挨拶したはずなのに、何故かサクちゃんにそう言われた。
「え?」
 ぎゅって眉をひそめて、唇を堅く結んで、サクちゃんが言う。
「もうやっていけないって、言われた。浮気されてた。違うか、もう向こうが本命だったのか」
 瞳が揺れる。
「え、え、ちょっと」
 どうしたらいいのかわからなくて、わたわたと両手を動かすあたしに、サクちゃんはごめんね、と笑った。
「大丈夫」
 絶対大丈夫じゃない。それだけは、馬鹿なあたしでもわかる。それでも、サクちゃんは笑って、座席に着いた。
 先生が入ってくる。
 サクちゃんも気になるけど、今日の演習で発表のあたしは、仕方なしに黒板の前の席についた。
 いつもよそ見なんてしないサクちゃんが、今日は窓の外を眺め、机の上で堅く両手を握っていた。

「サクちゃん」
 授業が終わったと同時に、彼女のところにかけていく。
「今日、飲みいこー!」
 できるだけ明るくそういうと、彼女はそうね、と笑った。
 あたしが笑えば笑うだけ、サクちゃんに無理をさせている気もした。じゃあ、あたしはどうすればいいんだろう?
 あたしはいつも、ずっと誰かに慰めてもらう立場で、どうやって誰かを慰めたらいいのか、わからない。いつも、どうやって慰めてもらっていたんだろう?
 結局、あたしはなにも成長していない。

「浮気か、重いね」
 慰め方がわからないあたしは、一番、人当たりが良さそうな治君を誘った。もちろん、サクちゃんには許可をとって。
「ん。この前あったとき、煙草の匂いがいつもと違ったの。女の子が吸う、ちょっと甘い香りがして」
 ため息。
「なにがいやかって、それで浮気してるんじゃないかって思った自分が嫌。匂いで分かるぐらい、惚れてたなんて」
 あきれちゃう、とサクちゃんは笑うとぐっとお酒をあおる。流石にピッチが早い。
「ロースクールは忙しいからね、しょうがないよ。設楽さんならまたすぐに彼氏できるよ。浮気してた男が悪いんだし。ロー内とかどう?」
 と、こっちは別に呼んでないのに聞きつけてきた池田君。池田君と恋愛話って失礼だけど正直似合わないなー。
 とか思っていると、
「私は!」
 それまで静かに話していたサクちゃんが急に声をあらげた。
「ロースクールは忙しいから、無理、とかそういうの言い訳にしたくない。そんな理由を自分以外のところに見つけて安心したくない」
 あたしも池田君も治君もびっくりしてサクちゃんを見る。
 彼女はぎゅっと唇を噛んだ。
「そういうのずるい。私があの人とダメになったのは、ロースクール生だからじゃない。私は、そんな忙しくなったから、程度のことで別れるような人と付き合ってたわけじゃない。肩書きで壊れるような関係を、築いてきたわけじゃない」
 馬鹿にしないで、と唇だけで呟いた。
 泣かない。彼女は泣かない。
 そして、あたしにはわからない。
「ロースクール内でのお手軽な恋愛もしたくない。好きになった人がロースクール生ならいいけど、最初からロースクール内だけでどうにかしよう、なんてそんなのいや。大体、これから先同じ土俵で仕事していく人たちに必要以上に女として扱われるのはいや」
 それから急に膝に顔を埋めると泣き出した。
「サクちゃん」
 慌ててその背中を撫でる。
「あの人のこと、悪く言わないで」
 小さく小さく呟かれた言葉にこっちまで泣きそうになる。
 そんなに好きだったのに。好きなのに。
 こんなにサクちゃんは傷ついていて、あたしは今その彼氏にむかついているけれども、でもあたしは何も出来ない。
 これは、サクちゃんとその人の問題であってあたしが首をつっこんでいいことじゃない。あたしには、当事者適格がないんだ。
 それにあたしはまだ弁護士じゃないし、依頼もされていない。
 ただただ、彼女の恋人に憤り、彼女の肩を抱き、慰めることしかできない。
 大事な、友達なのに。


 隣の隣の駅に、恋愛の神様がいる。
 フリーマガジンでそれを見たあたしは、サクちゃんを誘って東京大神宮に向かった。あたしが出来そうなことは、これぐらいしか思いつかなかった。
 あの日から、三日が経ち、サクちゃんは表面上、いつもと変わらないように見えた。でもたまに、目が赤い時があるけど。

 おみくじに小さな人形をあしらった恋みくじをひく。あたしとヒロ君の仲はどうなりますか。
 サクちゃんを慰めるためだったはずが、自分のことに必死になってしまう。
 結果、
「うわ、吉って微妙」
 しかもなんら役立つ情報が書いていない。全部ふわっと、いいことあるかもよ! みたいな書き方されても。これは結んで帰ろう、と心に決める。
「あ、大吉」
 サクちゃんが少し弾んだ声を出す。
「新しい出会いがあるって」
 微笑む。
「よかったねー」
「ただ、これ謎」
 いいながら勉学の欄を指さす。恋みくじに勉学の欄があることも謎だけど。
 そこには、英語と国語をやるといい、と書いてあった。
「英語と国語、それで新司うかるならやるけど」
 そして彼女は笑った。
 国語はともかく、英語は当面関係ないな。問題文、日本語で書いてあるし。
 あたしはおみくじを結び、サクちゃんと二人でお守りを買った。
「新しい恋に期待ー!」
 サクちゃんが、彼女らしくない弾んだ言い方をするから、
「あたしの恋が叶うのに超期待ー!」
 あたしも同じように、必要以上に弾んだ声をだした。
 勉強も大事だけどそれだけじゃない。恋も叶いますように。


「はーい、そこまでー」
 先生の言葉に、慌てて答案用紙の最後に「以上」と走り書きした。
「はーい、ペンおくー。さっさと置くー。いつまでも持ってると減点するよー」
 少し暢気とも思える先生の声。万年筆のキャップをしめると、ころころと机の上を転がした。
 手首をぐるぐると回す。
 期末テスト最終日。今回は六科目。刑訴と民訴は二時間で、あとは一時間半。書いた答案の枚数は、二十二、三枚。答案用紙はA4サイズに、二十三行のもの。
 指示に従い、答案用紙を提出しながら小さくため息。
 さすがにしんどい。
 でもこれ、本試験ではもっと多いもんな。本試験では、選択科目で二問、答案用紙はそれぞれ四枚配られる。また、他の七科目はそれぞれ答案用紙は八枚配られる。
 勿論、全部埋めなくても問題はないんだけれども、少なくしか書けないという事は、何か大事な記述を抜かしている、ということだ。って、先輩が言っていた。
 腕、持つかなー。ぐるぐると手首をまわす。周りのみんなも、同じような動作をしていた。
 でも、万年筆は少し書きやすいかもしれない。今までボールペンを使っていたけれども、治君の勧めで万年筆にしてみたのだ。このまま万年筆でいようかなーとか、色々考える。ただ、難点はインクの補充が大変なことかな。
 しかし、「お勧めのボールペンはなにか?」という質問に、万年筆という回答はあっているのか間違っているのか、苦笑いする。
 とにもかくにも、これで前期期末試験は全て終わった。

「よっしゃー! 飲みに行くぞー!」
 治君のテンションの高い声に、
「おー!」
 こちらもテンションをあげて返した。
 六法を戻しに、自習室へ向かう。これが期末試験日程で本当に一番最後の試験だったので、全員試験が終わったことになる。さすがにみんな、浮き足立っていて、いつも静かな自習室が騒々しい。
 ひょいっといささか乱暴に六法を棚に戻す。教科書持って帰ろうかなとも思ったけど、どうせ夏休みもくるはずだしな、とやめる。飲み会に教科書持って行くの嫌だし。
「杏子ちゃん、お疲れ」
 廊下に出たところで、ヒロ君にあった。
「おつかれー!」
 久しぶりに見る顔に、嬉しくなって思わず大きな声がでる。いつもより少し乱れた髪と、疲れた顔。テストだったもんね、大変だったもんね。なんだか無防備で抱きしめたくなる。しないけど。できないけど。
「テストどうだったー?」
「聞くな!」
 反射的に返すと、楽しそうにヒロ君は笑った。こうやって普通に会話できるのは嬉しい。でも、少しだけ寂しい。

 本当に付き合っちゃえばいいじゃん。

 あの日のやりとりを、本当になかったことにされているようで。ってまあ、気まずくて会話出来ないのも嫌なんだけれども。あれから結構な日数経ったし、いつまでも気にされていても困るんだけれども。難しい乙女心よ。
「杏子ちゃんとこの演習もこれから飲み?」
「うん、ヒロ君のところも?」
「そー。金ないのにー」
 肩をすくめる。
「つーか、杏子ちゃんと飲みに行ったことあったっけ?」
「ええっと、ほら、ゴールデンウィークぐらいにさ、既修で集まって飲み会やったじゃん? あの時は一緒だったよ」
 そうそう、ようやく学校に慣れたぐらいのとき。親睦のために既修の有志で飲み会をやったのだ。あれは結局、30人ぐらいいたんだっけな?
 その時、ヒロ君も一緒だった。まあ、みんな移動してたし、一緒のテーブルにいたのは少しだけだったけど。あんまりしゃべったりしてなかったし、そもそもあの時のあたしは、まさかここまでヒロ君のこと好きになるとは思ってなかったんだけど。
「あー、そっか。でもあんまり、話してないよね?」
「そうだねー」
「じゃあ、今度適当に飲みに行こうー」
「お、やったー」
 思わぬお誘いに両手を叩く。
「ってか、杏子ちゃんとこの演習と民法の先生一緒だからさ、先生呼んで合同で飲みやればいいよねー」
 よくねえよ。
 喉まででかかった言葉を飲み込む。まさか二人とは思わなかったけれども、そこまで大人数になるとも思わなかった。っていうか、先生一緒だったらあんまり羽目を外せないじゃないか。
「いいねー。先生実務家だし、奢ってくれたりしてー」
 心にもないことをいう。いや、奢ってくれたりーは結構本気だけど。実務家とは、この場合、法曹職についていることを言う。民法演習の先生は、現役の弁護士で、授業中もけっこう実際にあった事件の話を面白おかしく話してくれるので好きだ。
「そう、俺もそれ狙い」
 ヒロ君が笑う。
「まあ、ともかくさ。杏子ちゃんともゆっくり話たいしさー」
 ありがとう、社交辞令でも超嬉しい。
「うん、あたしもー」
 これは超本気。
「っと、やべ、俺いい加減ラウンジ行かないと。待ち合わせが。じゃあ、また」
「うん、ばいばーい」
 笑顔を作って手をふる。ヒロ君も笑って手をふってくれた。
 ヒロ君が持っていた六法、ちらっと見たら、下側の切り口に蛍光ペンで名前が書いてあった。カタカナでサクライって。うう、可愛い。
 ヒロ君の姿が、角で消える。立ち去る背中も、好きだ。

『で、夏休みなんでしょー? 何してるの? 学校で勉強?』
「んー」
 電話の向こう、こずちゃんの言葉に渋い顔になる。
『あ、行ってないんだー』
 あっさり見抜かれた。
「違うよ? 家で勉強してるよ?」
 まあ、午前中はだらだらしちゃっているし、夕方の刑事ドラマの再放送見ちゃっているけど。
『ほんとに?』
 疑うようなこずちゃんの声。
「ほんとに」
 ちょっとだけ嘘をついた。勉強してないことがこんなに後ろめたくなる日が来るなんて、高校の時は思っても見なかった。
 後ろめたくなるっていうことは、就職しないで進学して、勉強している環境に引け目を感じているってことなのかな、ってたまにちょっと思う。周りを見てい ると、ちっとも引け目に感じることなんかじゃないって思うのに。皆一生懸命、目的をもって勉強をしているのだから。あたしは、ともかく。
「ほら暑いから外出たくなくて」
 これは本当。家の中にずっといれば、暑い思いをしなくてすむ。
『ふーん? なんでもいいけど』
 こずちゃんはちょっとだけ楽しそうに笑って、
『学校行かないと、ヒロ君だっけ? 会えないんじゃないのー?』
 あたしが感じていたとっても致命的な、この夏休みの過ごし方の欠点を突かれた。
「う、そうなんだよねー」
『暑いからって、ずっと家の中にいると太るわよー』
「うう、それもそうなんだよねー」
 溜息。受話器の向こうで、こずちゃんがちょっと笑った。
『だから、ちゃんと学校行きなさいよ。朝早く行って夜遅く帰ってくれば涼しいんじゃない?』
「それはわかってるんだけどねー」
 まず朝早く起きられないしなー。
『杏子?』
 たしなめるようなこずちゃんの声。
「うー、はーい」
 返事をすると、よろしいと笑われた。
 少しだけ、下に見られているようで不快に思った。
 こずちゃんが人生の先を行っているから。
 そんな風に思う自分が、一番嫌だ。

 だから翌日、午後からの重役出勤といえども、自習室に向かったのは、こずちゃんに言われたからじゃない。ヒロ君に会いたかったからだ。
 あたしだってやるときはやるんだから!
 そう思いながら六法を開く。それから行政法の基本書。
 何故かこの世界では、教科書代わりとして使う、基本的な事項が書いてある専門書のことを基本書と呼ぶ。基本的な事項じゃなくて超マニアックな記述ばっかりのものも基本書と呼ぶんだけれども。
 それとも、自分が勉強の基礎、基本として使うから基本書? でも、同じ科目で基本書何冊も使う人いるしなー。よくわからない。
 基本書選びに一家言持っている人もいるけれども、あたしの選び方は簡単だ。横書きで、できれば二色刷りがいい。わかりやすいから。内容もできるだけ簡単でいい。読んでいて眠くなっちゃうから。
 あたしが使っているこの行政法の基本書は、池田君なんかは「内容が薄い」って批判していたけれども、ばかなあたしには丁度いい、わかりやすい本だ。
 ……ちょっと嘘ついた。これでも、実はわからないことがたくさんある。でも、読みやすいし。
 そんなこともちょっと思いながら、基本書をラインマーカーで汚す作業に従事していると、机の上で充電していたケータイが鳴った。
 バイブ音が響く。
 慌ててそれを止めた。サイレントにしとけばよかった。
 開いてみると、サクちゃんからのメール。『ちょっと相談したいことがあるんだけど、いつなら学校にいる?』
 うーん、やっぱりあたし、学校にいない子として認識されているな。ちょっと苦笑い。「今日はいるよーん。どうしたのー? ラウンジ行くー?」と返信。
 それにしても、サクちゃんがあたしに相談なんてなんだろう? あたし、自慢じゃないけれども、相談は山ほどするけれども、相談をもちかけられたことなんてないのに。……ってこれ、弁護士としては致命的な欠陥じゃない?
 そんなことを思っていると、返事はすぐに返って来た。『今、平気? ラウンジだとちょっと……。外のカフェでもいい?』勿論オッケーだ。


 たまに行く、自習室近くのちょっとお洒落なカフェでサクちゃんと落ち合った。
「どーしたの?」
「んー。あ、何飲む? ここは私だすよ」
「それはいいんだけど。あ、ジンジャエールで」
「あと、アイスコーヒー」
「かしこまりました」
 沈黙。
 サクちゃんは珍しく、躊躇うように押し黙っている。
「おまたせしましたー」
 結局、店員さんが飲み物を運んで来るまで、サクちゃんは黙ったままだった。
 むー、あたし、こういう沈黙苦手なんだよな。と思いながらジンジャエールを一口。
 ストローを指で弾いて遊んでいると、
「あのね」
 サクちゃんが意を決したように口を開いた。
「告白、されたの」
「誰に?」
 そこまでは割と予想通りなので冷静に切り返せた。サクちゃんがあたしに相談することなんて、勉強関連なわけないし。
 ……なんだろう、言っていてちょっと悲しくなってきたけど。
「……その」
 サクちゃんは一瞬躊躇ってから、
「池田君」
「ふーんって、ええっ!? いけだぁあ?」
 思わず大きな声が出る。
「ちょ、杏子ちゃんっ」
「っと、ごめん」
 一つ深呼吸。
 それは完璧予想外だった。
「池田君ってあの池田君よね? うちのクラスで、あたしと同じ班の」
「そう」
「はー。池田君にもそういう感情あるんだねーびっくりしたわー」
「杏子ちゃん」
 サクちゃんがちょっと苦笑いした。窘めるように名前を呼ばれる。
「だって、てっきり六法が恋人なんだと思ってた」
「まあ、それは、私も思わなくもないけど」
 あ、サクちゃんも思っていたんだ。
「それで?」
「いや、まあ、お断りしたけれども……」
「でしょうね」
 付き合うことにした、って言われたらびびる。あの堅物くんと恋人同士のサクちゃんなんて想像できない。
 大体、サクちゃんが元カレ引きずっているのはわかるし。いや、ひきずっていても、忘れるためにお試しで付き合うとかもあってもいいけど、それをやるには池田君は堅過ぎる、全てにおいて。
「っていうか、そもそもなんて告ってきたの、池田君」
 思わず身を乗り出す。サクちゃんは困ったような顔をして、
「普通に、好きですって」
「どこで?」
「……ディスカッションルーム。予約してたみたいで」
「まじかよっ!」
 ありえないにも程があるだろ。
 ディスカッションルームというのは、自習室があるのと同じ建物にある部屋で、本来自主ゼミなど数人が集まって勉強する時に使う。自習室は私語厳禁だから。
 で、そこは一応90分単位で予約制なのだが、
「そのためにわざわざ?」
「うん」
「いやいやいやいや。もっと考えろよ場所を。というよりも、本来の使い方したい人達に失礼じゃん」
 何をディスカッションするつもりだったんだ。彼は。
「はー、で? サクちゃんは普通にごめんなさい?」
「うん。普通にっていうか、まあ、まだ別れたばかりだし、そういうの考えられないし、お互いしっかり勉強して検事になりましょう? って」
「あ、池田君も検事志望だったっけ?」
 これは勝手な妄想だから本人にばれたら怒られそうだけれども、なんとなく、池田君は過去いじめられるとかなんかそういうことがあって、弱気を助け悪をく じく、正義の味方検察官! に憧れているんじゃないかなーって思うときがある。あの授業中の先生との噛み合ない具合とか見ていると、なんか。そういう人、 学部時代にもいたし。
「それで、池田君は?」
 サクちゃんは形のいい眉をしかめると、
「設楽さんがロー内恋愛はないと思っているのは知ってるし、別れたばかりなのも知ってるけど。このまま言わないと俺がすっきりしないから。だから言いたかったんだ。それに、俺」
 何か、苦い物を飲み込んだような顔をして、
「待てるから」
「……何を」
「設楽さんがカレシのことを忘れるのを」
 沈黙。
 あたしはとりあえずジンジャエールを飲んで落ち着く。サクちゃんも同じようにアイスコーヒーに口をつけた。
 あたしは額に手を当てて、わざとらしく考えるポーズをとると、
「何故待つ……」
 呟いた。
 待ったら見込みがあると思ったのか。
「それをね、相談したくて」
 サクちゃんは綺麗に眉をしかめたまま、
「これってもしかして、伝わってない? 私の、ごめんなさいの気持ち」
「あのね、サクちゃん」
 相手からの遠回しの拒絶に気づかず、どんどん突っ走ってさらに嫌われるという、恋愛負のスパイラルを繰り返してきたあたしは断言出来る。
「伝わってない」
 残念なことに、あたしには池田君の考えが手に取るようにわかる。告白しました。まだ別れたばかりだからと言われました。つまり、まだ別れたばかりだから そういうことは考えられないけれども、もうちょっと時間が経てば付き合ってもいいよ、そこまでいかなくても考えてもいいよ、と彼はとったわけだ。
 まあ、そうやって受け取ってしまう気持ちも、わからなくもないけれども。嫌な現実って直視したくないし。
「……そうよね」
 サクちゃんは、ほぅっとため息をついた。
「あとね、ちょっとひかっかったことがあって。これは、私が自意識過剰なのかもしれないけれども」
 まだ、何かあるのか。
「俺はずっと男子校で、こんなに仲良く話した女子って初めてだから、告白するのも初めてで、空回ってるかもしれないけれども、って」
 サクちゃんはちょっとだけ首を傾けると、
「本当に、自意識過剰っていうか、穿って見過ぎなのかもしれないけれども、彼は私が好きなんじゃないんじゃないかって」
「え?」
「初めて仲良く話した女の子だから好きなんじゃないかって」
「……あー」
 なるほど。
「設楽桜子という一個人のこれこれこういうところが好きでっていうんじゃなくて、初めて女の子に仲良くしてもらってうっかりっていうこと?」
「そう。……違ったらとっても失礼なんだけれども」
「いや。でもまあ、その言い方ならそういうこともあるの、かも?」
 よくわからなくて言いながら首を傾げる。
「というかね、昔の私がそうだったから」
「え?」
 サクちゃんは困ったように微笑むと、
「大学の時、好きになった人は、……前の、あの人とは別の人なんだけれども。その人は、大学で初めて私に優しくしてくれた人だったの」
 あたしはただ、サクちゃんの顔をじっと見る。
「あのあと、あの人と付き合ってわかった。私が最初に好きになった人を好きになったのは、優しくしてくれたからだって。恋とはまた少し、違うものだったって」
 あたしはちょっとだけ唇を噛んだ。
 その感覚はわかる。
 好きだったことには代わりないんだけれども、その好きは恋と呼ぶにはまだ早いものだった。きっかけは優しくされたとか、顔が好きとか、今まで周りにいなかったとか、多分それでよかったんだと思う。
 ただ、そこで終わってしまう、思い。
 ただ一つの条件だけで突っ走ってしまう。他にいい部分も悪い部分もあって、それらをひっくるめて全部好き、なんじゃなくて、ただ優しいから好きだけの恋。
「……うん、ちょっとわかる」
 あたしが答えると、サクちゃんは、
「ほんと? ならよかった。優しいからだけで好きになって、優しいからずっと追い続けていた。嫌な部分は見なかったことにして。あの人のことは、嫌いな部分も全部ひっくるめて、好き、だったんだけど」
 声が少しずつ小さくなる。サクちゃんは両手で顔を覆うと、小さく息を吐いた。
「……大丈夫?」
「とりあえず」
 顔をあげる。
「それでね、今は自習室の席も遠いし平気だけど、後期がはじまったらちょっと困るなって。それまでに、普通に接するようにはするけれども、ちょっと二人で 話すのとかきついかもしれない。なんかこう、期待を持たせるようなことをしたら悪いし。だから、なにかあったら杏子ちゃん、お願いしてもいい?」
「ん。適当にサクちゃんと池田君の間に割って入ればいいんでしょう?」
 そんなことは意識しなくても普段からやっていることだ。あたし、空気読めないし。
「うん、お願い」
 サクちゃんは、やっと安心したように微笑んだ。
「まあでも。池田君が期待をしているとか、好きになった理由とか、全部私の憶測で、全然違うのかもしれないんだけれどもね」
「それなら話がはやいのにね」
「そうね、普通のクラスメイトとしてやっていけばいいから」
 サクちゃんは微笑んだ。

 結論から言ってしまうと、サクちゃんの推論の少なくとも前半部分は間違ってなかった。池田君が期待をしている、ってこと。
 あの後、当り障りのないおしゃべりを少しした。サクちゃんは、今日はもう帰るとそのまま帰宅した。一人で自習室に戻って来たあたしは、ばったり治君に出くわした。
「あ、おつかれー」
 手を振ると、
「今日、なんかあったっけ?」
 怪訝そうな顔をされた。
「なんかって?」
「補講とか」
「そんなにあたしが自習室にいるの珍しいですか」
 まあ、珍しいだろうけれども。
「うん。珍しい」
 治君は睨むあたしのことなんて無視して、非情にも素直にそう答えると、
「っていうか、池田のこと聞いた?」
 小声で尋ねて来た。
「ああ、うん」
「聞いたかー。いやさぁ、今すっごい噂になってて。池田は設楽さんと付き合ってる説とか、ふられた説とか、そもそも告白してない説とかがしばらく対立してて」
「何、その学説の争い」
「ちなみに、ふられた説が通説だった」
「そんなちょっと池田君に可哀想な報告いらない。というか、なんでみんなそんなに知ってるの?」
「ほら、池田が設楽さんのこと好きなのは周知の事実だったじゃん」
 どこの世界での話だ。
「主に喫煙所界隈で。喫煙しながら結構みんなの恋愛噂話とかしてて。あ、杏子ちゃんの話はなんにもないから安心していいよ!」
 いい笑顔で言われる。
 それは、あたしがヒロ君のことが好きなのはばれてないからよかったと受け取るべきか、あたしのことを好きな人は誰もいないからがっかりと受け取るべきなのか。
「で、まあ、俺がしゃべったんだけど。池田に相談されてたから」
「なんで喋るのぉ?」
 当たり前のように言われて、呆れて返す。
「あのねー、守秘義務ってものがあるでしょう守秘義務ってものが。弁護士になってからもそうやってほいほい依頼人の相談事話してたら、懲戒処分とかされるんじゃないの?」
 ちょっと怒ってそう言う。恋愛話を他所に回してしまう人は苦手。自分の気持ちをばかにされているみたいで。
 でも、治君には通じなかったみたいで、
「まだ弁護士じゃないし」
「そうじゃなくて」
「そう、そうじゃなくてさ。俺、昨日池田からメールをもらって」
 さらに文句を言おうと口を開いたけれども、最新情報に一度口を閉じる。
「とりあえず勉強頑張るって」
「なんだ、それならよかったじゃん」
 思わず笑顔になる。池田君真面目だから、ものすごく落ち込んでるんじゃないかって、ちょっと思ったのだ。
「いや、それだけならいいんだけどさ」
「なにかあるの?」
 ちょっと嫌な予感。
「結局、設楽さんになんて言われたの? って聞いたらさ、設楽さんは前のカレシ忘れられないから答えは保留って言われた」
 思わず、なんとも言えない顔になる。
「んだけど、その顔を見ると、やっぱり池田の勘違いってこと?」
 うんうん、と頷く。
「めっちゃ期待して待ってるよ」
 サクちゃんの推測通りだったか。
 ちょっと溜息。
「まあ、放っておいたら脈無しって気づいて諦めるだろうけれども」
 呆れたように治君が言う。
 昔、放っておいても脈無しと気づかずに、アタックをし続けた前科を持つあたしは素直に頷きかねる。
「まあ、だから設楽さんに気をつけるように言っといて。何に気をつけるのかわからないけど、一応」
「うん」
「じゃあ、俺、もうすぐ自主ゼミはじまるから」
 と、喋るだけ喋って、治君は自分の机の方に戻って行った。
 あたしも、自分の机に戻る。
 やれやれ、どうなることかしら。
 そんなことを思いながら戻ると、机の上には見慣れない紙が一枚。
 手に取る。
 男の人にしてはちょっと可愛い丸っこい字で、
『合同飲み会の話だけど、そっちの幹事は杏子ちゃんで平気? 桜井』
 と書いてあった。ヒロ君からの手紙っ!
 しかも、裏にはばっちりメアドとケー番が書いてある。思えばまだ、連絡先を手に入れていなかった。ゴールデンウィークの飲み会ではチャンスがなかったのだ。
 ええ、ええ、もちろんあたしが幹事でいいですとも! もともと、あたし、自主ゼミとかもやってないから暇だし!
 いや、やる気がないんじゃなくて、自主ゼミやるにはもうちょっと力を付けてからでいいかなーと思って。そうやって、先延ばしにしているんじゃないかっていう思いは自分でもあるけれども。
 とりあえず、椅子に座ると、ヒロ君へのメールを作成し始めた。
 池田君? もう勝手にやっていてくれればいいよ。サクちゃんに危害を加えたら承知しないけれども、思う分には自由だし。外部に表現さえされなければ、内心の自由は保障されるし。
 そう思いながら、あんまりギャルギャルしないように注意しつつ、それでもにぎやかで可愛く見える文面を作成していく。ハートをいれようとして、なんとなく恥ずかしくなってやめる。
 そうしながら、少しだけ池田君に同情する。好きになったら周りが見えなくなってしまうの、少しわかるよ。


 気づいたら、夏休みは終わってしまっていた。はやい、はやすぎる。
 結局、あたしは夏休み中自習室には行ったり行かなかったりを繰り返していた。ヒロ君とは幹事としてのやりとりだけれども何度かメールした。
 勉強は、あんまりしなかった。
「……夏休み中に、後期の予習を前倒してやっておくはずだったのにな」
 後期に入り、毎週三本に増えたレポートを回すのに苦労している。昨日慌てて仕上げたレポートを、今、事務室の提出ボックスにつっこんできたところだ。
「俺は終わっているから」
 当たり前のように池田君が言った。あらゆる意味でさすがだ。
 今は郁さんも含めた三人での話し合い。後期になり、講義は減ってゼミ形式の授業が増えた。必然的に発表の回数も増えた。
 前期の反省を活かして、今回は発表の週が被らないように名簿の前から、後ろから、さらには真ん中からと、順番の開始点をずらしている。が、結局数が多いから大変なことには変わりがない。
 まあ、うちのローは二年の後期が一番授業的に大変、って言うしなー。三年になると受験的に大変になるんだろうけれども。
 この前、今年の司法試験の結果が出ていたけれども、うちの学校の成績は芳しくなく、後期の各授業の第一声は先生による励ましなのか、絶望に突き落としたいのか、よくわからない試験結果の話から始まっている。
 がんばらないとな、とは思うんだけれども。やる気とか危機感って、生協では売ってないんだよね。
「ところでさ」
 今日の話し合いは、ただの分担決めと方向性確認だったので割とすぐ終わった。一とおりり決めた後で、郁さんが池田君に向かって、
「あんた、桜子にふられたって本当?」
 さらり、と聞いた。
「ぶっ」
 終わったと思って、のんびりとコーラに口をつけていたあたしはそれを吹いた。
「やだぁー、杏子汚い」
 郁さんは嫌そうな顔をしながらも、ラウンジにいつも置いてあるトイレットペーパーをとってくれた。
「ごめんなさい」
 慌てて拭きながら、
「いや、でも、郁さん……」
 聞き方がストレート過ぎ。
「ふられてないよ」
 池田君が淡々と、それでもちょっとだけ不満そうに言った。
「あら、そうなの? ふられたって聞いたけど。喫煙所で」
 また喫煙所。おそるべし、喫煙所の情報網。
「それに、あんたよそよそしいでしょ? 桜子に対して。今日だってなに、あれ」
 おかしそうに郁さんが唇を歪める。
 まあ、確かに池田君はサクちゃんに対して、今とってもよそよそしい。よそよそしいというか、距離感を取りかねている。「おはよう」を言うタイミングですら、ものすごく考えて、うかがっている。見ているこっちがそわそわする。
「ふられてない、保留だよ」
「保留?」
「設楽さん、まだ前のカレシ忘れられないからって。だから、忘れられるまで待ってる」
 池田君はあたりまえのように言って、あたしはちょっと郁さんに対して肩を竦めてみせた。
 郁さんはあたしの視線に気づいたのかちょっと笑って、
「あんたね、それは、ごめんなさいってことでしょ」
 あたしたちの誰もが言えなかったことをさらっと告げた。さすが。
「は?」
 池田君の怪訝そうな声。
「他に好きな人がいるって、体のいい断り文句じゃない、経験則上」
「……ですよねぇ」
 あたしも小さい声で賛同する。
「でも」
「はっきり無理駄目お断りだって言わないと伝わらないの?」
 不思議そうに郁さんが言う。何もそこまではっきり言わなくても。
「でも、設楽さんの気持ちは設楽さんにしかわからないし」
「現時点で外部に表示されている意思だけで、だいぶ推測出来ると思うけれど? 問題文に全てが記されるわけじゃないし、依頼人がすべてを正直に話すとも限らないのだから、与えられた事実から推測する能力も必要なんじゃない?」
 池田君が押し黙る。不満そうな顔。ちょっと赤い。
 この展開は予想してなくて、この空気はちょっと怖い。二人の顔を上目遣いで見比べる。
「大体、桜子はロー内恋愛ありえないっていうタイプでしょう?」
「あ、郁さんにも言ってたの、サクちゃん?」
「はっきりは言われてないけれども。桜子は、そういう子でしょう。あの子の中でロー内恋愛はないわね」
「なんで?」
「杏子は、ロー内恋愛有りでしょう? 結婚って考えてる?」
「え、別にいつかは結婚したいとは思うけど、そりゃ」
 勿論、できれば、相手はヒロ君で。とか思っていたりするけれども。
「桜子はね、あれでなかなか夢見がちで同時にしっかりしているのよ。いつか、じゃなくて出来るだけ早く結婚したい、って思ってる。杏子の結婚したいは、付 き合っている人となんの障害もなくずーっと続いていて、それなりの年月が過ぎて、条件が整ったら結婚したい、でしょう?」
「うん、普通そうじゃないの? 普通、条件が整ったら結婚しない?」
「桜子の場合は、どこかで途切れる障害も二人で乗り越えることが確実にできる人、確実に結婚出来ると思う人と付き合いたいと思ってると思うんだよね。別に 試験受かったらすぐ、ってことじゃなくても。実際に結婚するどうかは置いておいて。付き合う上の条件になるべく早く結婚出来る人が入っていると思うんだよ ね」
「うーん?」
「そうするとね、ロー内はないっていう結論になるのよ。池田には酷だけどね」
「なんで? 因果関係が見えないんだけど」
 郁さんは一つ言うたびに指を立てながら、
「受かるかどうか分からない。受かっても現状じゃ就職決まるかわからない。それに就職してすぐに結婚出来る訳じゃないでしょう? 今のところ二人には貯金がないんだから。結婚は就職して数年、が妥当じゃない?」
 郁さんはちょっとだけ痛ましそうな顔をした。
「そのときにさ、桜子はストレートできているのに、池田、あんたは自分が何年遅れをとっているか覚えている?」
 池田君は黙秘権を行使する。
「結婚するときにあんたいくつ? あんたと同い年のストレートの子はいったいいくらの年収もらってると思う?」
「それって、好きには関係ないよね?」
 さすがに池田君が可哀想になって、助け舟のつもりでそう言うと、
「うん、まあ、ただただ桜子は池田のことが好きじゃないんだろうけどね」
 さらっと酷いことを。
 結果として、さらにとどめを刺した事になってしまった。
 池田君は赤い顔のまま、何も言わない。
 そして、突然立ち上がると荷物をまとめてラウンジから出て行った。
「あ、池田君」
 慌てて声をかけるけれども、出て行ってしまった。
「郁さーん」
 ちょっとだけ恨みがましい声になる。なんで、あたしもいるところでこんな微妙な空気にしちゃうかなぁ。
「うーん、堪え性もないわねぇ」
 郁さんは腕を組んでしみじみと呟いた。
「えー、どうするんですかー」
「ほっといて平気でしょう。池田、プライドだけは高いから。明日には自分の中で消化して、普通の顔をする努力をしてくるでしょ。できるかどうかは知らないけれども。ずっと勘違いして、期待しているよりはこっちの方がいいじゃない、池田のためにも、桜子のためにも」
「まあ、それは……」
「大体、杏子は他人の恋愛に首突っ込んでる場合じゃないでしょ」
「えっ」
「勉強」
 強張ったあたしの顔を見て、つまらなさそうに郁さんが言った。
「え、ああ、そう、そうだよね! 確かにね」
「そうそう。発表の準備、がんばってね」
 そして郁さんも立ち上がる。
「他人の恋愛に首を突っ込むのも、自分の恋愛に首っ丈になるのも、対外にしといた方がいいわよ、あと二年ぐらい」
 小さく微笑まれて、そう言われた。
 ええ、わかっています。わかっていますとも。あたしみたいな落ちこぼれが、勉強そっちのけで恋愛にうつつを抜かしていちゃいけないってこと。そんな気持ちで受かるような試験じゃないってこと。
 でも。
 机の上のケータイが震える。
 ヒロ君からのメール。『飲み会は少なくとも中間終わってからがいいよね』それだけの、事務連絡だけのメール。
 でも、それだけでも差出人の名前に心が踊る。
 わかっている。勉強しなきゃいけないってこと。でも。
 抱えた蛙色の六法をぎゅっと握る。
 法律にだって止められないのだ。差し止めなんてできない。この気持ちは。


「と、いうようなことがあったのです」
『なんか、青春ねー。年齢が青春劇にはほど遠いけど』
 いつもの電話でこずちゃんに言うと、彼女は感心したんだかよくわからない相槌を打った。
『でもさ、杏子、守秘義務があるのに! って言ってた割に、私に話たじゃない? それっていいの?』
「う……」
 痛いところをつかれて、ちょっと押し黙ると、
『外部の人間にだって言ったら駄目でしょう、守秘義務があるのに』
 こずちゃんが楽しそうに言った。
「意地悪……」
『意地悪じゃないでしょ。今のうちから気をつけておかないと、あんたドジだから就職してからもほいほい喋っちゃいそう』 
「うう……」
 ないとも言いきれないところが怖い。
『でもまあ、ええっと、郁さん? だっけ? その人が言ってることは正しいね』
「え?」
『杏子、あんた結婚するとき婚姻届を出すだけで満足できる? できないでしょ?』
「……それは、結婚式をするかどうかってこと? そりゃしたいよ」
『最初は白、次はピンク、でしょう?』
 電話越しに笑われる。からかう口調。
「それは! 幼稚園の時の話でしょう?」
『そうね。でもね、杏子。その結婚式をやるのにいくらかかると思う? まあ、ピンキリだけどさ。杏子、ローの学費二百万円だって言ってたよね? それぐらいは確実にかかるよ?』
「んー」
『結婚式もやりたいなら、それなりに貯金ができてからじゃないと。そうなると、やっぱりロー生っていうのは不利だなーって思うわけ。こういうのもどうかと思うけれども、必ずしも受かるわけじゃないでしょう?』
「まあ、ねー」
 外部の人から見ても、やっぱりそこはリスキーなのか。
『ええっと、杏子がストレートで就職したら……、25歳とか?』
「うん」
『で、その池田君? とやらは』
「29、かな?」
『で、就職してちょっと落ち着くまで2年と考えても、池田君とやらは31歳でしょう? 普通の大卒の31歳がなにしてるか、って話よ。そっちは就職2年目のぺーぺーなのにっていう』
「あー」
 耳が痛い。
「……本当、ロー生ってギャンブラーでアホー」
 小さく呟く。そんなに将来のことを見通して考えたことなかった。あたしだけかもしれないけど、アホーなのは。
『まあ、でもね』
 あたしの声色が暗くなったからか、こずちゃんがいつもより少しだけ優しい声で、
『そこまでしてなりたいものがあるっていうの、いいことだと思うよ』
「こずちゃん……」
『なんとなく就職している人もいるしさ。私も、別に今の生活が不満なわけじゃないけれども。寧ろ結構幸せだと思ってるけど』
 そこで一度言葉を切り、
『たまに、たまぁにね、うらやましいと思ってる。杏子も、あと榊原も、自分の夢のためにがんばってる人』
 こずちゃんの声が暗くなる。
「……こずちゃん、あの」
 なんとか、なにか言おうとして、
『まあ、優しい旦那様と可愛い子どもに囲まれて幸せなんですけど』
 それをこずちゃんの明るい声が遮った。
『杏子がこの幸せを手にするのはいつでしょうねー』
 ちょっとバカにするような、言い方。でもそれに今は安心する。
「ふーんだ、弁護士になって素敵な旦那様見つけて、子どもも育てますよーだ」
『はいはい、がんばってー』
 そのあと、軽くくだらない応酬をして、電話を切った。
 幼稚園の時から一緒だった。大学は別だったけれども、それまでの十年近くを一緒に過ごして来た。
 同じ道を歩いて来た。
 だけど。
「……割と簡単にずれちゃうんだな、人生って」
 ほんのちょっとだけ寂しくなった。同じものを見て来たはずなのに。
 机の上においてある憲法の争点を手に取る。ヒロ君の字でされた書き込みを見る。ちょっと可愛い字。
「……がんばろう」
 勢いをつけて立ち上がると、机に向かった。
 法科大学院生は、貴重な二年乃至三年を勉強に捧げているのだ。ギャンブラーでアホーでも、ギャンブルの勝率はあげることができる。
 負けられない。



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