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ジーンズの哲学

 ジーンズの哲学

 高層ビルが建ち並ぶ街角。たまたま市街地再開発の隙間で生き残ったかのような路地裏。そこに一軒のジーンズ屋があった。
 そのジーンズ屋には、看板もなければショーウィンドウもない。外の壁にはびっしりとツタの葉が絡まり合っている。入口さえどこにあるのかよく分らない。
「あんちくしょう、どうしてもあのヴィンテージ・ジーンズ、買ってやるからな」
 ナオトは肩をいからせ、意を決したかのように古びたドアノブに手をかけた。
「頼もぉぉう」
「フッ、来よったか」
 奥まったカウンターの中から、老人がチロリとナオトを見た。
「若いのぉ、お前も」
 老人はこの店の主である。カウンターの中に座って、何か手作業をしている。
 狭い店内はこの店の外観に似合わず、意外にも綺麗に掃除がなされていた。
 おそらくジーンズマニアであれば垂涎の的であろうと思われるジーンズが、ガラスのケースの中に、大事に一枚一枚陳列されてあった。さながらジーンズの博物館に迷い込んだような錯覚を起こさせる。
「やい、おやじ、オレだってそれなりに勉強してきたんだ。今日こそはどうしてもあのジーンズ売ってもらうぜ!」
「ふん……」
 老人は小さく鼻で笑った。ゆっくりと立ち上がり、奥にある戸棚から一本の黒っぽいガラス瓶と、理科の実験で使うフラスコの様な透明なガラス器を取り出した。老人はその瓶のコルク栓を丁寧な手つきで引き抜き始める。
「何やってんだよ、ジーンズはどうなったんだよ」
「まあ、そうカッカするな。黙って見ておれ」
 言い終わると同時に、シュポッとコルク栓が抜けた。老人はボトルの中の液体をゆっくりとフラスコに注いだ。やがて、そのやや紫がかった深紅の液体から香りが漂ってきた。ナオトは何か花畑にいるかの様な錯覚を感じた。だが、その香りはあまりにも複雑に入り交じっていて、一体何の花なのかナオトにはさっぱり分らなかった。
 やがて老人は戸棚からグラスをとりだし、フラスコの様なガラス器から深紅の液体を注ぐ。香りは更に豊かな表情を見せ、ナオトの体をふんわりと包み込むようであった
「飲んでみろ」
 老人はそれだけ言うと、ナオトの前にグラスを静かに置いた。
「なんだよ、たかがワインじゃねえか」
 ナオトはそのグラスワインを一息に飲み干した。
 まだハタチになったばかりの彼には、ワインの味など分らなかったが、そのアルコール成分は確実にナオトの肉体に影響を及ぼした。
「なんだよ……たかが……たかが……ワインじゃ……ないか……」
 そこまで言って彼はふらふらとレジカウンターの前の椅子にへたり込んでしまった。酔いはますます廻ってくる。椅子は背もたれのないスツールだったので、ナオトはそのまま椅子から崩れ落ち、床にひっくり返ってしまった。
「ふっふっふ、たった一杯のワインでのう、このザマじゃ」
 老人はそう言って床の上に大の字に寝転がっているナオトに毛布をかけた。


 ……何時間経ったのだろう。
 ナオトは目を覚ました。
 薄暗い店の中。右手を見るとカウンターの中に老人が座っている。手元の灯りを頼りに、古びたジーンズをゆっくりとした手つきで修繕していた。
 ナオトは自分に毛布がかけられていた事に少し驚いた。老人はちらりとナオトを見やった。
「起きたかね、お若いの」
「寝ちまったのか、オレ」
 ナオトは二、三度、頭をぶるっと振るった。
 そうだ、自分はあのジーンズを買いにきてたんだ。彼はポケットをまさぐった。 
 バイトして貯めた何枚かの一万円札はちゃんとある。ナオトは立ち上がって怒鳴った。
「なんでだよ、オレをおちょくってるのか! ここはジーンズ屋だろ。ちゃんと金もここにあるんだ。あのヴィンテージ、なんでオレに売らないんだ」
 ポケットから出した一万円札数枚を握りしめ、彼はカウンターの上に叩き付けた。
 その何万円かの金は、彼の労働の対価だった。顎からぽたぽた汗を流しながら肉体労働をして得た金だった。そのどこか不満だというのだ、このくそオヤジめ、とナオトは思った。
 老人はゆっくりと立ち上がった。そしてナオトがカウンターに叩き付けたしわくちゃの一万円札を一枚一枚丁寧に撫で付けた。
「これはお前さんが仕事をして稼いだ金だろう。大切にする事だな」
 丁寧にシワを伸ばしながら老人は、一万円札を一枚一枚重ねてカウンターの上に置いた。
「まぁ、そこに座れ。少し待っておれ」
 老人はそう言うと、今度はひとつの茶碗を取り出してきた。老人はその茶碗に向かって静かに一礼した。やがて奥の戸棚からお茶の道具と思われるものを取り出してきて、カウンターの上に置いた。若いナオトには、それらが茶筅や茶杓、「なつめ」と呼ばれる茶入れである事はもちろん分らない。
 老人はゆったりとした手つきで茶碗に緑色の粉を入れ、湯を注ぎ、刷毛の様なもので粉と湯を混ぜ合わせた。老人はひと言も発しない。ナオトは口をへの字にしながらも、黙ってその仕草を見ていた。
 やがて老人の右手が止まった。
 老人は無言で茶碗をナオトの前に差し出した。そしてゆっくり一礼した。
「なんだよ、飲めって言うのかよ」
「酔い覚ましじゃな」
 フッと老人は笑った。
 ナオトは頭にきた。片手でその茶碗を持ち上げると、一気に緑色の液体を口に入れた。
「うへぇ〜」
 ナオトは思わずその緑色の液体を吐き出しそうになった。
「何なんだよこりゃ」
 老人は面白そうにナオトを見た。
「フフフッ、まだ分らんかの」
「何がだ」
「お前は歴史を買おうとしているんじゃよ。それがまだ分らんのか」
 老人はナオトが飲み干した茶碗をカウンターの中へゆっくりと収めた。
「……ワインには民の歴史や信仰、作り手の想いがひと瓶に詰められておる。その秘められたドラマを飲むものじゃ。茶の湯も時を経て、濾過され、洗練された日本の奥深い美意識の結晶じゃ」
「だから何だってんだよ」
 老人は楽しそうにふむふむと頷いた。
「若いときはそれぐらい無鉄砲な方がいい。どうじゃ、あのヴィンテージ、どうしても欲しいか?」
「ああ、欲しいさ」
「ならば、このワインと、茶についてお前のコトバで語れる男になってこい。そのときはわしも受けて立とうじゃないか」
 老人はカウンターの中から一本のジーンズを取り出した。
 インディゴブルーがみずみずしく、まぶしい程に真新しい新品のジーンズだった。
 老人はジーンズをナオトに渡した。
「これを履け。お前なりの歴史とやらをそこに刻み込んでこい」
 ナオトはまだ少し不満だった。
「……オヤジ、このジーンズいくらだ」
 老人はまたジーンズの修繕を始めている。
「取っておけ」
 そう言いながら老人の手元はジーンズのほつれを直している。
「じいさん」
「……なんだ…」
「また来る。それまで……」
 ナオトは少し涙ぐんだ。
「死ぬなよ」
 老人はにっこりと笑った。
「ああ、お前がやってくるまで楽しみに待っているさ」
 老人は薄暗いランプのもと、またジーンズのほつれを直し続けた。(了)

奥付



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著者 : 天見谷行人
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