閉じる


風が歌う唄


 おや、と洋(よう)はカップの水気を拭う手を止めた。
 耳を澄ますと、ぱたぱたと屋根が軽い音を立てている。
「ああ、雨かな」
 拭き終えたカップを脇に置き、天井を見上げる。途端、激しさを増した雨が、木目の天井を微かに揺らした気がした。
 ガラス扉に当たった雨が、長く細い軌跡を残していく。ガラス越しに、慌てて走り出した人々の姿が目に映った。夏の終わりは、まだ日が長いとはいえ、厚い雲が空を覆っているせいか、いつもよりも薄暗い。
 閉店まであと十五分。本日最後の客たちは、さっき帰っていったので店内に残っているのは洋だけだった。
 少し早めに切り上げて閉めてしまおうかと思っていたが、この雨の調子だと誰かが駆けこんでくるかもしれない。
 洗い終え水を切っておいたカップを、洋はもうひとつ手に取った。
「もう少しだけ様子をみるか」
 往来に向けていた視線を手元に落とす。丹念に布で水滴を拭き取ったカップを洋は次々と脇に並べていった。
 ぼぉん、ぼぉん、とちょうど七つ分。壁時計が閉店時間を告げたのは、洋が外に出していたカップとソーサー、それに皿を一つ残らず戸棚をしまい込んだ時だった。
 洋は、誰も雨宿りをする必要がなかったらしいことにほっとして、棚の戸をぱたんと閉める。
 そうして彼は、表の扉にかけてある“OPEN”の看板を“CLOSE”に変えようと、ガラス扉へ向かった。
 しかし、取っ手に伸ばすと同時に、内側へ開かれた扉に洋は驚く。
 カラン、コロリン、カラン。
 涼やかな呼び鈴が、客の来店を知らせる。
 出会わせた客側も扉を開けた正にすぐそこに洋が立っていたことにびっくりしたのだろう。
 緩やかに波打つ髪から雫をぽとりぽとりと落としながら、まあるい目をぱちりぱちりと瞬かせている。
 けれども、次の瞬間には目を緩め、彼女は「こんばんは」と朗らかに口を開いた。
「港町二丁目の喫茶店は、こちらでしょうか?」
 はい、と咄嗟に答えかけた洋は、他には喫茶店はなかったか、念の為記憶を探った。ここ最近で新しい喫茶店は見かけていないし、お客さんたちからもそんな噂は聞いてはいない。
「はい。港町二丁目の喫茶店なら、きっとここだと思いますよ」
 洋が答えると、閉店間際にやって来た客は、「よかった!」と嬉しそうに手を打ち合わせた。
 ひょいと身体を傾けて、彼女は洋越しに店内をのぞきこむ。
「ああ、やっぱり! やっぱり、町にあったものと同じものだわ!」
 ぱっ、と顔を輝かせて彼女は洋の横をすり抜けた。入口から奥まで、彼女の通った道筋にぽつぽつと丸い大きな染みが続く。それでようやく客が全身ずぶ濡れであることに気付いた洋は、慌ててタオルを取りにいった。
「一体そのピアノがどうしたのですか?」
 洋は客に尋ねる。
 すると彼女は受け取ったばかりのタオルをぎゅっと握りしめて頷いた。
「ええ、“ピアノ”。“ピアノ”なんです!」
 濡れそぼったままの衣服が気にもならないのか、彼女はピアノを熱に浮かれたように見つめ続ける。
「私、憂未(うみ)と言います」
「はぁ……」
 突如振り返った憂未と名乗る女性に、洋はのけぞりそうになった。
「憂未さん、ですか」
「はい。ぜひあなたに“ピアノ”を教えていただきたいんです。あなたに教えてもらおうと思って、今日ここまで来たんです」
 憂未はくすぐったそうにそう言った。目は無邪気な輝きに満ちている。
 洋は言葉に詰まった。
 ピアノの黒く艶めく表面には埃など一切降り積もってはいない。だが、きっちりと閉じられた蓋には鍵がかけられていた。狭い店内。大きなグランドピアノは一際存在感を放つのに、カウンターからも、テーブルからも離れ、壁際に追いやられている。
 できません、と洋は、来訪客の唐突な願いに対し断りをいれた。
「なぜ? どうしてですか?」
「なぜって」
 洋は苦笑する。
「ここはピアノ教室ではなくて、喫茶店ですよ?」
「だけど、あなたは“港町二丁目の喫茶店、洋”さん、でしょう?」
「え?」
「あなたは、風の歌を、風が運ぶ音楽を、知っていますか?」
「それは」
「あなたの音楽は風に運ばれた。私はずっとあなたの“ピアノ”を聞いていたんです」
 教えてください。どうしても“洋さん”から教わりたいんです、と憂未は洋に頼み込む。
 だが、洋は何と言ってよいのやら、一向に言葉を見つけられずにいた。
 洋を見据えたまま、つと眉根を寄せた憂未は悲しそうに目を伏せる。
「明日また来ます」
 憂未は、借りていたタオルを洋に押し付けて、お辞儀をする。
 そのままそそくさと扉の方へと歩き始めた彼女に、洋は慌てて声をかけた。
「濡れたままだと風邪をひきます。きちんと髪を拭いてください。今、温かい飲み物もお出ししますから」
「いいえ、気にしないでください。水に濡れるのは平気なんです」
 立ち止まった憂未は首を横に振ると、戸惑いを浮かべる洋に微笑する。
「ああ、そうだ。ここは喫茶店ですし、今度は私の町のとびきり美味しい茶葉を持ってきますね」
 だから次は“ピアノ”を教えてください、と言い残し、憂未は今度こそ店を出て行った。
 カラン、コロリン、カラン。
 雨音に混ざって扉が音を奏でる。
 洋はすっかり曇ってしまったガラス扉を開いた。海が傍にあるこの町は、雨の日だって潮の香りがふくよかに漂う。
 夜も近い、靄がかった視界の中、憂未の姿はもうどこにも見当たらなかった。

◇◇◇

「風が運ぶ音楽?」
 洋が問い返すと、少年の心からの驚きようが面白かったのだろう。白髪頭の店主は半ば笑いをこらえながら、「そうだ」と大きく首を縦に動かした。同時に両目尻から伸びた皺が、きゅっと柔らかさをもって深まる。
「風たちは歌うことが大好きだからね。耳を澄ましてごらん。びゅおう、びゅおうと歌っているだろう?カタカタ、カタカタと窓ガラスを鳴らしているだろう? 気に入った音楽を見つけたら、それを真似て歌うんだよ。だけれど、いっとうよい音楽ならば、そっくりそのまま風がどこへだって運んでくれる」
「本当に?」
「ああ、本当だとも。かくいう私も昔、バイオリンを風に運んでもらったのさ」
 言って、店主は腕を伸ばすと、バイオリンを弾く真似を始めた。
 信じられない、と洋は目を丸くする。それを見た白髪の店主は、いたずら気に口の両端をにやりとあげた。内緒話をするように、声の調子をひとつ落とし、洋に話し聞かせる。
「昔な、そこの海岸で巻貝を拾ったんだ。入っていたんだよ、その貝に。私の弾いたバイオリンが」
 ちょうどこの位の貝だった、と彼は握り拳を洋に示す。洋は、両手を握りしめると、自身の両の拳を一心に眺めた。
 こうして貝を耳に当てると、と店主は自分の拳を洋の左耳にそっと押し当てる。
「確かに聞こえたんだ。昔、弾いたバイオリンの音色が。今はもう壊れてしまった若い時分の我が友の声がね」
「聞きたい! その貝はどこにあるの!?」
 洋は身を乗り出した。けれど、白髪の店主は「うんや」と首を振る。
「ここにはないよ。そのまま砂浜に戻してきたからね」
「どうして?」
「あれは誰かが貝に風を吹きいれて覚えさせたものだ。せっかく大切にしてくれているものを、勝手に持って帰ってきては申し訳ない。それに、見ず知らずの誰かが今も私のバイオリンを聞いてくれているなんて、想像しただけで素敵じゃないか」
「そうだけど……」
 洋はがっかりと肩を落とす。店主はくすりと笑って、洋の肩に手を置いた。
「洋のピアノだって運ばれるかもしれないだろう」
「そうかな?」
「あぁ、きっとな。だから一生懸命練習をおし」
 店主を見上げ、口を引き結んだ洋は、ピアノに向き直って楽譜を睨みつける。「がんばるよ」と宣言する少年の頭を、乾いた薄い掌が優しく撫でた。

◇◇◇

 カラン、コロリン、カラン。
 ありがとうございました、と扉を押し開き、本日最後の客を送り出す。
 遠くなる人影。残照が薄めた夕の茜はもう淡い。白っぽい空には、気の早い星が顔を出していた。
 昼間の熱を追い出すように、辺りに涼風がまじり始める。気持ちのよい潮風だ。洋は、うんとひと伸びして、扉にかかる看板を“CLOSE”へひっくり返した。

「こんばんは」

 すぐ真横から声をかけられ、驚いた洋はそちらを向いた。
 くすくすと漏れる笑い声と共に、憂未は凭れかかっていた壁から背を離す。肩から斜めにかけている鞄は、何が入っているのか、ふっくらと膨れていた。
「よい風ですね」
 よい夕の終わりです、と宣言通り店に現れた彼女は、風に乗った髪を軽く手で押さえる。さらさらと鳴るその様は、波の音そのものだった。
「閉店時間も過ぎましたし、今日はいらっしゃらないのかと思っていました。ずっとここにいたのですか?」
「ええ。お客さんとの話が弾んでいるようでしたので、お邪魔しては悪いかなと思って。だけど、ほんの少しです」
「顔なじみの船乗りなんですよ」
 言って、洋は扉を引いた。
 カラン、コロリン、カラン。
 呼び鈴は機械的に音を立てる。
 憂未は目を輝かせて洋を見た。
「ピアノを教えてくれるんですか」
「それはちょっと……」
 憂未の勢いに困り果てながら、洋は暗がりにあるピアノに目を向ける。
「第一、あれは弾けやしませんよ。もう何年も調律していませんから」
「……“調律”、を……」
 憂未は言葉を口に含め、繰り返す。考えるように足元へ視線を俯かせた彼女に、「そういうわけなんです」と、洋は申し訳なく思い、肩をすくめた。
 憂未さん、と声をかけると、彼女はハッと顔を上げる。
「くるみとバナナのパウンドケーキが余っているのですが、おひとついかがですか?」
 洋は微笑する。
 憂未が答える間もなく彼は「用意しますね」と先に店内に入った。急いで扉を閉め、憂未は洋の後を追う。
 切り出され、白い皿に載せられたパウンドケーキ。
 憂未は、「どうぞ」とケーキが置かれたカウンターの席についた。
 ケーキの周りを彩る素朴な焼き目。とくべつ香りこそしないが、密の詰まった黄色いスポンジは見るからにしっとりとしている。
「お飲み物は何にしますか。珈琲に紅茶、緑茶、ハーブティー、ココア、ジュース、それから」
「――あぁ、待って。待ってください。約束していたお茶。ちゃんと持ってきたので、こっちを」
 言いながら、憂未は膝の上に置いた鞄から、大きな袋を取り出した。反対にぺしゃんと厚みを失くした鞄。どうやら鞄がパンパンに膨らんでいたのはこれのせいだったらしい。
「こんなにたくさん?」
「お店用にも、と思って」
「いただけません」
「だけど味、気になりません?」
 洋はたじろいだ。光を通さぬ銀の袋。その中にどんな茶葉が入っているのか、興味がないと言えば嘘になる。
 彼の葛藤をはっきりと見透かしたのだろう。憂未は、口を綻ばせた。
「お茶、入れますね。絶対に気に入ってもらえる自身があるんです。ピアノのことも、昨日はああ言いましたが、今は抜きでもいいですから。そのティーポット、お借りしてもいいですか?」
 憂未は断られる前に、と早速席を立つと、カウンターの内側に回り込んだ。
「洋さんは、お湯を沸かしてください。本当はお日様でじっくり沸かしたものが特別いいんですけど」
 憂未は戸棚からティーカップを二つ取り出すと、銀袋を開け、慣れた手つきでちょうどスプーンで二杯半、茶葉を掬ってティーポットに入れる。
 彼女のてきぱきとした動きに、洋は言われた通りに湯を沸かすことにした。
 湯を待つ傍にことりと置かれたティーポット。茶葉に気をひかれて中を覗き込んだ洋は、「おや」と声を漏らした。
 形はてんでばらばらで、色も濃い赤に、緑、透明なものまである。
「海藻みたいですね」
 憂未はにっこりと笑った。

 ぬるめの湯でじっくりと出された茶は、黄金めいた輝きをしている。
 口にすると、まろみを帯びた甘さの中、湯気と共に立ち上る磯に似た香がひきだすのか、すっきりとした後味に、微かな塩気が舌の先に残った。
 これだけでも充分おいしいが、甘いものにもよくあうだろう。どうせなら、この茶にぴったりの菓子も店に出せないだろうか。
 茶を飲みながら、あれやこれやと考えを巡らせていた洋は、ふと視線を感じて思考を止めた。見ると、憂未はすっかりパウンドケーキを食べ終えてしまっている。
「お茶。気に入りましたか?」
「ええ。飲みやすくておいしいですね」
「本当ですか? よかった!」
 町の自慢の一つなんですよ、と憂未は付け加える。まるで自分がほめられたかのように喜んでいるのが傍目からも分かって、洋は苦笑した。
「聞いてもいいですか?」
「はい」
「どうしてピアノを?」
 洋の疑問に、憂未は首を傾げる。しばらく考えるそぶりをしていた彼女は、「そうですねぇ……」と、店の隅にあるピアノへ目を向けた。
「私、あれが“ピアノ”だってことは知らなかったんですよ。だけど、音は聞いてすぐに分かりました。だって何度だって聞いていたんです。“港町二丁目の喫茶店、洋”さんの音楽」
 憂未は、じっと洋の目を見据えて言う。
「いつからあったのか……ある日、町の外れであれと同じものを見つけました。初めはなんだろう、と思って近づいたんですよ? だけど触ってみたら、ポーンと音がしたんです。同じだ、と思って私すごく嬉しくって。私もこれを使えばあの音楽と同じように奏でられるのかな、って。だから、ここに来ました」
 ふふ、と彼女は笑みを零す。
「今度、町で音楽会があるんですよ。いつもは歌で参加しているんですけど、今年は“ピアノ”がいいなと思っているんです」
「歌を?」
「ええ。これでも私、町で一番歌がうまいって言われているんですよ。歌いましょうか? 歌いますね」
 くるりと憂未は、洋の前に進み出た。そのまま話の続きをするかのように歌い出す。
 洋は息をのんだ。
 彼女の見た目からは想像もできなかった深い声。せつない響きにまじる澄んだ声は、差しこむ光と揺らめきを思わせる。何よりも彼女が歌う耳慣れぬ異国の言葉が、何とも言えぬ不思議な感慨を呼び起こした。やわらかに聞き手の音感を転がしながら、歌の調子は終息へ向かう。
 ふつりと途切れた歌。元の通り、席に腰かけた憂未を前に、洋は開いた口がふさがらなかった。
「…………これなら何もピアノで参加しなくても」
「だけど私、この曲を“ピアノ”で歌いたいんです」

◇◆◇

「さて、困ったなぁ」
 誰もいなくなった店内。
 ピアノの前に立った彼は、かちりと蓋の鍵を開けた。
 久方ぶりに目にした鍵盤は、相変わらず白と黒の対照さで順序よく並ぶ。
 もう触ることはないだろうと思っていたピアノ。
 ひとつ押してみれば簡単で、鳴ったいびつな音は指を伝って、そわそわと骨に響いた。
「うっわぁ……、やっぱり見事にずれてるな。気持ちが悪い」
 こうなると、やはりそのまま放っておくことができそうにない。そもそも鍵を閉めていたのは、こうなると分かっていたからだ。
 窓に映る外灯の中、浮かび上がった懐かしい鍵盤。洋は知らず溜息をつく。
 それに、耳から離れないあの歌。けれど離れないのは、潮騒のように不確かになっていく歌をなんとか繋ぎとめようとしているからだと洋は気付いた。
 鍵を開いてしまったのは単純な好奇心だ。
 あの歌をピアノで弾いたらどうなるのか、興味があった。
 洋は諦めてピアノの蓋を閉めると、明日調律を頼むことにして、どこか奥に仕舞い込んだはずのまっさらな楽譜を引っ張りだすことに決めたのだ。

◇◆◇

「楽譜、ですか?」
「ええ。あった方が便利かな、と思いまして。昨日、憂未さんの歌を元に起こしたんです」
 洋は譜面台に楽譜を広げた。
「楽譜は読めますか?」
「え、えー……っと」
 手製の楽譜に顔を近づけ、憂未は眉を寄せる。
 ピアノを前に、憂未と並んで座っていた洋は、彼女の真剣な様子に苦笑した。
「読めません?」
「……はい。この形のものは初めてです。この丸いのが言葉? 黒と白とありますけど」
「ああ、なるほど。そうですね、言葉とも言えるかもしれません。この一つ一つが音と長さを表しているんです。いいですか。これがミ。これが、ラ、シ、ファ」
 洋はそのまま指を進め、左手も加えると、歌の出だし部分を弾いてみせた。
 すごい! と憂未は歓声をあげる。
「歌そのままです」
「よかった。後で一度全部弾いてみるので、他の部分もあっているか確認してくれませんか。後は適宜様子を見ながら、難しいところは調整していきますから」
「はい」
 返事をする憂未の声は明るい。彼女は、楽譜と鍵盤をかわるがわる見比べながら胸を躍らせた。
「ところで、憂未さん。音楽会は、いつなんですか」
「ちょうど一カ月後です」
「一か月ですか。厳しいですね……」
「が、がんばります!」
 憂未は、口元を引き締める。それをほほえましく思いながら、洋は頷いた。
「そうですね。まずはひとつずつ、がんばりましょう」

 この日、先の二日と同じように閉店後にやって来た憂未は、洋がピアノを教える意を伝えると、喜ぶよりも先に、ひどく驚いた。聞くと、今日も断られたらピアノのことはきっぱりと諦めようと思っていたらしい。
 だが、既に蓋が開けられ準備が整っているピアノを目にした後、洋と並んでピアノの前に座ったところで、本当に教えてもらえるのだ、と確信した憂未は、みるみる笑顔になった。
 よろしくお願いします、と深々と頭を下げてきた憂未に、洋はとても気恥ずかしい気分を味わったのがついさっきのことである。

「右手と左手で別々のことをするなんて、頭がこんがらがりそうです」
 憂未は出された紅茶とケーキを挟み、机の上でゆっくり確かめつつ両手を使いながら、自分の指の動きを睨んだ。
「それにト音記号にヘ音記号、スタッカート、スラー、シャープ、フラット、二分音符だったり八分音符だったり他にもいっぱい。上の段と下の段で音の場所まで変わってしまうし。自信がなくなってきました」
「ヘ音記号からト音記号は、間を開けず繋げて書けば、音階表が繋がっていることがわかりやすいんですけどね。そのうち慣れますよ。今日は両手で弾く感じを覚えてもらうために、最後は両手にしましたけど、最初のうちは、片手ずつで結構です。むしろ、今日ここまでできたのですから上出来ですよ」
「本当ですか!?」
「後は。そうですね。右手を弾いている時は左手分を口で歌って、左手を弾いている時は右手分を口で歌って練習しておくと、両手で合わせるときに楽になると思いますよ」
「む、難しそうです!」
「ええ。たくさん練習してきてください」
 憂未は「う」と呻いた後、「がんばってきます」ともごもごと頷いた。
 何とも神妙な顔となってしまった憂未に耐えきれず、洋は吹きだす。「すみません」と謝ってくる洋に、憂未は目を瞬かせながら、彼を見上げると、はにかんだ。
「私も、ひとつお聞きしてもいいですか?」
「はい?」
 未だくすくすと笑いを止められずにいた洋は、憂未の問いに首を捻る。
「洋さんは、どうしてピアノを?」
「……ああ。それはピアノが近くにあったからですよ。もともとピアノが家にあって、適当に弾いて遊んでいたら母がピアノ教室に連れて行ってくれました。ここの喫茶店にも……前の店主と仲がよくて、学校帰りに寄ることが多かったんです。僕がピアノを弾けることを知ってからは、お客さんのいない時にはここのピアノを自由に弾いていいと言ってくれていて。家のピアノに比べてここのはグランドピアノな分、大きかったですからね。ちょうどこの時間くらいまで、よく一緒に弾いていましたね」
 ですが、と言葉を切った洋に、憂未は不思議な顔をする。
 いえ、と洋はかぶりを振った。
「てっきりピアノをやめていた理由の方を聞かれるかと思っていたので、意外だっただけです」
「不思議なことを言いますね。だって、洋さんはまだピアノを弾いています」
「ええ、おかげさまで。どうやらその通りになってしまいました」
 洋はわざとらしく肩をすくめてみせた。
 くすくすと笑いだしたのは、今度は憂未の方だった。

 それから音楽会に向けての憂未のピアノの練習は、閉店後と店休日に毎日繰り返された。
 初めはたどたどしかった指先も次第にしっかりとしたものとなり、それに伴ってピアノの響きにも自信が見え始めた。まだまだ楽譜を手放すには至らないが、譜面を読むのも、鍵盤の位置にも随分と慣れてきたらしい。指ではピアノを弾きながら、時折歌を口ずさむ余裕も出てきたようだ。
 練習するたびに形になっていくのが、憂未自身も手に取るように分かるのだろう。一日も休みのない練習に憂未は弱音を吐くどころか、いつも熱心にそして嬉しそうに取り組んでいた。
 音楽会まで残り三日に差しかかったころには、憂未のピアノは随分と様になっていた。あとはところどころ気のつく場所を丁寧に弾くよう注意を払えば、音楽会には充分間に合う。
 絶え間なく演奏されるピアノに耳を傾けながら、洋はほっと息をついた。

「なぁ最近ここからピアノの音が聞こえるって聞いたんだけど」
 とうとう本番までの練習が最後となった日。この日も普段通り店を開けていた洋は、カウンター席に腰かける常連客であり友人でもある船乗りに、あの磯の香りがする茶を出してみていた。
 いつも航海の行きと帰りに洋の店に立ち寄る友人は、一カ月近い休暇を隣町の家族と共に過ごし終え、この後、今日の夕から再び二週間ほど旅に出るらしい。
 元々、洋と同じくこの町で幼少時代を過ごした彼は、船乗り仲間の他にも知り合いが多い。恐らくそのうちの誰かに聞いたのだろう。
 洋が肯定すると、彼は「へぇー」と相槌を打ってきた。
「またピアノ始めたのか。昔、よく弾いてたもんな」
「正確には、弾いているのとは少し違うけど。少しの間、知り合いに教えることになったんだ」
「ふぅん。洋、こっちに越してきてからは、一回も弾いたことなかったろ? なら、ここで弾くのは小学生以来だな。きっと“しょうじぃ”も喜んでるだろ。洋がこっから他の町に引っ越しちまった時、一番しょげてたのは“しょうじぃ”だったからな」
 彼はサンドイッチを食べながら、前店主の名をあげる。
 そうだね、と洋は懐かしい思い出に、ふと目を細めた。
「がっかりしていないといいんだけど」
 船乗りは片眉を押し上げると、親指についたパンくずをぺろりとなめた。

 時間もないのに「せっかくだからピアノを聞いていく」と言い張る友人を、彼から出航時刻を聞き知っていた洋は「帰って来た時にな」と約束して送り出した。
 秋の空気もすっかり馴染みとなった最近。この時間帯になると、辺りはもう夜と言う方が近い。
 いつもと同じく閉店間際にひょっこりと姿を表した憂未は、「こんばんは」と店に入ってきた。
 軽やかに指が弾き出す音楽は、洋が初めに聞いた憂未の歌とはまた違った色合いがあった。ピアノに変換したことで失われたものもあるが、逆にピアノになおしたことで歌では出せなかった音の重なりがある。
 ただ一つ変わらないとするならば、憂未がこの歌を本当に大切に想って奏でているという点だろう。歌でもピアノでも、彼女の音楽からはそれがひしひしと伝わってくるので、聞いていて心地がよいと、洋は感じた。
「よし。合格です」
 洋の言葉に、憂未は満面の笑みを広げる。
 続いて、洋に向き直った彼女は椅子に座ったまま「今日までありがとうございました」と深々と頭を下げた。
 カラン、コロリン、カラン。
 店先まで見送りに出た洋は、「ひとつだけ」と帰りかけた憂未を呼びとめた。
 彼女は、洋を見上げて首を傾げる。
「気付いたんです。僕は憂未さんが来るまでこの町でピアノを弾いていません。ここでピアノを弾いたのはもう十数年も前の子どもの頃の話です。だから、憂未さんがピアノを聞いたと言うのなら、きっとそれは他の誰かのだったのじゃないかな、って」
 今更気付いて申し訳ないのですが、と洋は重ねて言う。
 けれども、憂未は「いいえ」と首を横に振った。
「前に言いませんでしたか。風が運んできたんです。私が聞いたのはちゃんと洋さんのピアノでしたよ。だって、風が音楽を聞かせてくれる前に言ってました。“港町二丁目の喫茶店、洋”さんの音楽だって。私、風が洋さんのピアノを運んで来た時、ちょうど外に出ていたんです。ええ、洋さんの言う通り、もう随分と前のことですよ。私だって、まだ小さな小さな子どもでした」
 こうやって、と憂未は夜空に両手を伸ばす。まるで星を掻き集めようとしているかのような仕草に、洋もつられて空を仰ぎ見た。
「急いで風から音楽を掴んだです。一度聞いてとっても気に入ったから、貝殻に詰め込みました。それから何度だって聞きました。聞けば聞くほど楽しくって嬉しくなるんです。今だって大切に持っていますよ」
 ほら、と憂未が鞄から取り出した巻貝を見て、洋はぽかんと口を開けた。
 風が運ぶという音楽のことも、音楽を閉じ込める巻貝も、本当にあったとは信じられなくて彼は声を失う。

『風たちは歌うことが大好きだからね。耳を澄ましてごらん。びゅおう、びゅおうと歌っているだろう?カタカタ、カタカタと窓ガラスを鳴らしているだろう? 気に入った音楽を見つけたら、それを真似て歌うんだよ。だけれど、いっとうよい音楽ならば、そくりそのまま風がどこへだって運んでくれる』

『あれは誰かが貝に風を吹きいれて覚えさせたものだ。せっかく大切にしてくれているものを、勝手に持って帰ってきては申し訳ない。それに、見ず知らずの誰かが今も私のバイオリンを聞いてくれているなんて、想像しただけで素敵じゃないか』

 にっこりと物静かに微笑む店主の顔が思い出される。
「聞いてみますか?」
 洋は、憂未に促されて手に取った貝殻を、恐る恐る耳にあてた。
 シューシューとなる微かな音の後に、ピアノの音が貝殻の中で響き出す。
 つっかかっては立ち止まり、何度も何度も同じフレーズばかりを繰り返す間違いだらけのその曲は、とても上手と言えたものではない。だが、それは紛れもなく、洋が昔弾いた幼いばっかりのピアノだった。
「ね、素敵でしょう?」
 憂未は首をすくめて得意げに問いかける。
 驚きから覚めた洋は、それには答えずただ苦笑だけを返した。
「私、明日の音楽会がんばりますね」
 憂未ははっきりと宣言して、洋の手からそっと貝殻を取りのぞくと、大切そうに鞄の中にしまいこんだ。
「きっとここまで届くように」
 洋を見上げ、彼女は楽しそうに笑む。
 洋は「はい」としっかり頷いてから、道の先に姿が隠れて見えなくなるまで、憂未を見送ったのだ。

◇◆◇

「不思議なことがあったんだよ」と、二週間ぶりに帰って来た友人の船乗りは、店に入るなり洋に言った。
 友人がこの前飲んでいたく気に入ったという磯の香りのする茶をぬるま湯でじっくりと出しながら、洋は彼の話に耳を傾ける。
 大切に使っていた茶葉は、それでも求められれば出し惜しみをしなかったせいか、あとほんの二三杯分となっていた。
「この間甲板に出ていた時、ピアノの音が聞こえたんだよ」
「ピアノの?」
 洋が聞き返すと、彼は「ああ」と首を縦に振る。
「それがどこから聞こえたと思う?」
「ラジオ、とか?」
「な訳ないだろ! だったらわざわざ話さねぇよ。海だよ、海。しかも海の底から聞こえてきたんだ」
 淹れたばかりの茶を差し出しながら、洋は目を丸くする。
「それって、いつの話?」
「んー? 海に出てすぐだったから、一日か二日目に聞いたのが初めだな。空耳かとも思ったんだが、帰ってくる時も、途中でまた聞こえたんだよ。一緒に乗ってた奴にも聞いたら、他にも聞いたのがいるって」
 不思議だろ? と彼は洋に話しかける。
 けれども、洋には思い当たることがあった。店の隅に置いてある、物言わぬピアノを洋は確かめるように眺めやる。
 洋はカウンターを離れると、ピアノの前についた。ゆっくりと開けた蓋の下、覗いた鍵盤に指を添える。一カ月の間で、すっかりと覚えてしまった曲。洋は歌に倣い、ピアノを奏で出す。
 その向こうで唖然と息を呑む友人の姿を目にして、『ああ、やっぱり』と洋は確信した。
 開け放った窓から潮風が吹きこむ。
 その中に、自分のとは別のピアノの響きを聞いた気がして、洋はひとり、微笑んだ。

この本の内容は以上です。


読者登録

ihuraさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について