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ここまでのあらすじ!

 こんにちは。俺は葉佩九龍。しがない《宝探し屋》です。
 順調に天香遺跡を攻略中ですよ。茂美ちゃんと大蔵ちゃんが守る区画を終えたけれどねェ……濃いね! 濃い! 特に茂美ちゃん。
 甲太郎ちゃんじゃないけれど、本当に「あァ、もう、ごめんなさい」と言いたくなるんだよねェ……何なんだろうねェ……
 いやしかし、俺も人間だねェ。まさか風邪ひくなんて。
 季節の変わり目は辛いね。みんなも気を付けようね。
 しかし、學園はキナ臭いイベントがオンパレードだねェ。
 《隣人倶楽部》なんて、名前だけ聞くと、本当に怪しげな感じしないかい? あれ? そういう感慨を持っちゃう俺がオジサン過ぎる?
 ま、そういうことに熱中するのも青春ですよ。明日香ちゃんは純粋だからねェ。甲太郎ちゃんには望めないことだけれどもね。
 ま、そんなこんなで天香學園はいつも通りキナ臭いです。

 俺はね、お仕事したいんですよ。本当は。
 でもね、そうも出来ない理由があったりなかったりするもんだから、ダラダラと時間が過ぎてく。《秘宝》には《秘宝》の事情もあるしねェ。
 あァ、いつになったら終わるのかねェ~……
 ま、卒業式まで時間があるから、それまでには何とか片付けたいもんだね。


閑話休題(十月十五日~十月二十一日)

 十月十五日。
 教室――二時限目休み時間。
「明日の土曜日、遊びに来るかい?」
 葉佩の言葉の前半に八千穂は見事食いついたのだが、
「え?!」
「試験勉強も兼ねて」
 後半部分にガックリと首を垂れる。
「……どっかでご飯とかァ、そういうのじゃないのォ?」
「んふふッ。土曜日曜と、亮太と子供らが出かける約束してるんだって。日曜日、静かにしっかりと勉強しようよ~。……ね、明日香ちゃん」
「……九チャンが明日香のことイジメる~……!」
「い、イジメてなんていないよ~! ひ、酷いなァ……そんなつもりはないのに……」
「明日香もお出かけしたい~!」
 黙っていた皆守が「はァ……」と溜息を吐いた。
「俺は勉強する気なんざさらさらないが……八千穂にはその必要性を感じるな」
「ヒドッ!」
「勉強合宿なんてするとは思わなかったが……」
「学生だし、ね、楽しいでしょ?」
 ブツブツ言っていた八千穂だったが、流れには逆らえなかった。赤い数字が見え隠れする試験結果に泣くよりは、自分よりも遥かに出来る葉佩に出来ない部分を訊いた方が自分のためになると、熟考に熟考を重ねた末、ようやくそこに行き着いたのである。

     ***

 昼休み少し前。
 アンリと彩はピンク色の怪獣スーツに身を包み――猫スーツは洗濯待ちである――電算室にいた。PCの前に非常に印象的な真ん丸いシルエットが陣取っている。間違いなく肥後だ。
「大蔵兄ちゃん!」
「あ、アンリくんと彩くんでしゅ」
「授業は?」
「体育は苦手でしゅ。それならここで、學内コミュニティーサイトのグルメレポを書いている方がいいでしゅね~」
「へ~……」
 わかっているのかいないのか。
 恐らくはまったく理解していないアンリはそう相槌を打って、「あ」何かに気付くと彩と二人で自分のリュックを漁った。
「見て見て! 通販で買ったの! チョコポテチ!」
「彩はコンビニ新製品……ゴルゴンゾーラチーズ味のポテチ……」
「大蔵兄ちゃん、ポテチ好きって言ってたからあげるね! プリクラ交換してお友達だし、これからもずっと仲良くしてね! 僕たちからだよ!」
 肥後は殊の外嬉しそうに笑うと、ぷくぷくした手でアンリと彩の頭を撫でる。
「嬉しいでしゅ! ……アンリくんと彩くんは、とっても優しい子でしゅね」
「『汝、自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ』」
 彩は言う。アンリも頷いて、弟の言葉に続いた。
「『レンジのニンジンアイス』って何のことかわかんないけど、でも、パパが『仲良くしてくれる人にはたくさんたくさん仲良くしてあげるといい』って言ってた! だって、仲良くしてくれるってことは、僕もとっても嬉しいもん!」
「……アンリくんは……ちゃんと自分のことも好きなんでしゅか?」
 彩はアンリを見る。肥後と彩に見つめられたアンリは一瞬キョトンとした顔を見せたが、すぐにニッコリと笑った。
「自分が好き? ……ん~と……難しいことはわかんないけど、みんな楽しくて、みんな幸せだったらいいなァ。そうすれば、僕、すっごく嬉しい!」
 肥後は「そういうことでしゅか~」と大きく頷いた。
「幸せの押し付けじゃなくて、みんなで幸せを楽しめばいいんでしゅね~……。ボクもひっくるめて幸せになるように頑張ればいいんでしゅね~」
「よくわかんないけど、そうだよ!」
 アンリは無責任に大きく頷く。彩はアンリを見て、肥後へと視線を移す。年上の友人と視線が合うとコクリと頷いた。肥後は手にしたチョコポテチの封を開けつつ、
「ボクは葉佩くんにも、キミたちにも、とってもとっても助けられたでしゅ。だから、ボクはボクに出来ることで葉佩くんを助けるでしゅよ」
「……みんな、バディ」
 彩は再び頷くと、小さく微笑んだ。

     ***

「お邪魔いたしますゥ~」
 昼休みの保健室。
 暢気に弁当やら菓子パンを広げるいつもの面子が揃う中、のんびりとした声が室内に響いた。
「あれ、椎名サン?」
「こんにちはァ」
「どうした?」
 瑞麗の問いに、リカはニッコリと微笑む。
「新しい着ぐるみが出来たので、お届けにあがりましたのォ」
 そう言って、大きな紙袋からゴソゴソと取り出したのは――
「色違いのピンクの猫と、リュックに似せて作ってみたコアラと羊ですゥ」
 やり遂げた感のあるリカの微笑み。それ以上にアンリと彩の興奮といったらなかった。ガバッと立ち上がり、おもむろに怪獣スーツを脱ぐと、リカが差し出したコアラスーツと羊スーツを着込む。
「ぴったり~!」
「……羊……」
 コアラを着こんでご満悦のアンリと、幸せそうに頬を染める彩。その様子にリカは嬉しそうに手を一つ叩いて微笑む。
「喜んでいただけて、本当に嬉しいですゥ。九サマからいただいた変わった布で作ってみましたのォ~」
「……ま、また、増えた……」
 呆れ果てたような皆守の声。
「頻繁に洗濯しても大丈夫だねェ。んふふ」
 笑う葉佩。
「リカちゃん、ありがとねェ」
「あ、いえ……そんな……」
 頬を真っ赤に染め、リカは両手で顔を隠す。
「リカに出来ることはこれくらいですからァ」
「俺は、本当に仲間に恵まれてる……」
 葉佩は嬉しそうに呟くと、ポケットからキャラメルを取り出した。
「リカちゃん、今はこんなものしかないけれど」
「あ、リカ、キャラメル大好きですゥ」
「生キャラメルっていうのをお取り寄せしてるから、届いたらすぐにリカちゃんにあげるねェ」
「ありがとうございますゥ」
 一人一人の好きなものをすべて理解しているらしい葉佩は、ニッコリと微笑むとリカの小さな掌にキャラメルの箱を載せた。

     ***

 土曜日。
 葉佩九龍宅――朝。
「えーと……必要なものは……携帯は亮太が持ってるからいいでしょう? ……あとは……お泊りするのに着替えと……」
「パパ~!」
「はァい?」
「デジカメ貸して~!」
「この間買った奴?」
「そう!」
「何撮るの?」
「いろんなもの!」
「使い方がわからなくなったら亮太に訊くんだよ?」
「は~い!」
 デジカメをコアラリュックの中に詰めるアンリは、いつでも出かけられる状態の彩に訊いた。
「彩は忘れ物ない~?」
 のんびり屋の兄とは違うしっかり者の彩は頷く。葉佩は微笑んでその光景を眺めている。二人の性格の違いは愛すべき個性だ。思わず傍に寄って抱き締めてしまう。子供たちも嬉しそうに父に抱きついた。
「もうすぐ亮太が迎えに来るよ。そしたら、パパは学校に行ってきます」
「うんッ」
「初めてのお泊りだね」
 今一度、亮太に預ける子供らの着替え等の入ったバッグの中を確認して、葉佩は微笑む。
「ちゃんと、ここに帰ってきてね」

     ***

 3‐C教室――三時限目休み時間。
「じゃあじゃあ、九チャン、出がけにそんなことアンチャンたちに言ったの? アンチャンはともかくとしても、彩チャンは言葉の意味に気付きそうだよね~」
「……だって~」
「亮太だっていきなりお前から子供を取り上げるようなことはしないだろうよ」
 うだうだと、自分の席の机に額を押し付けてゴロゴロと転がる葉佩の後頭部に、「鬱陶しい!」と皆守のチョップが入る。
 八千穂は「ん~」と唸ると、後頭部を押さえて呻く葉佩に訊いた。
「じゃあ、今日明日、アンチャンたちはいないんだ」
「こないだ言っただろ。いないからお前のための勉強合宿をするってな」
「ううう……そうだった……」
 項垂れる八千穂の様子に葉佩は苦笑する。
「ま、まァ、そうなるねェ……。明日のお夕飯の前には戻ってくると思うんだけれど……」
 だが、次の瞬間、目をカッと見開いて呟いた。
「帰ってこなかったら……どうしよう……?」
 その視線は皆守を見つめていた。皆守は「はァ~……」と大きな、それはそれは大きな溜息を吐いて頭を掻く。
「お前、自分の息子を信じたらどうだ……」
「甲太郎ちゃんにお説教されたァ――……」
「少しのことで絶望するな。……って俺が説教したらいけないのか?!」
 どつき漫才状態の皆守と葉佩に笑顔を向けた八千穂は、
「ん~……何か、土日のことで悩んでるのバカらしくなってきちゃったな~……そうだ。今日は午後から何しようかな~。ね~、九チャン、皆守クンッ」
 彼女の言葉通り先程までの鬱屈した表情はなりを潜め、『すべて世はこともなし』という顔をして午後のことに頭を悩ませ始めている。

     ***

 葉佩九龍宅――夜。
 室内に干された猫スーツを見て、葉佩はぼんやりしている。
「普通は、出先でガキがホームシックにかかってピーピー泣くもんだが……何でお前が泣きそうな顔してるんだ?」
「な、泣いてないよ!」
「……必死に否定すると怪しまれるぞ」
 アロマに火をつけた皆守が「馬鹿な奴だ」とボソリと呟き、買ってきたばかりと思しきカレーレシピ集を広げる。
「亮太はあれで面倒見がいい――甘やかしすぎなきらいがあるが、まァ、子供らと上手くやってるさ。……明日、どれだけの戦利品を持ってアンリと彩が帰ってくるのか楽しみだな」
 皆守の視線が、テレビの下に詰まっているロボットアニメシリーズと緑色の蛙型宇宙人のDVDに注がれる。
「……また増えるんだろうな」
「あ、うん、たぶん、増えるねェ……」
「彩はゲームを山ほど買ってくるだろうな。……葉佩、コーヒー」
「ああ、はいはい」
 キッチンに行った葉佩の耳に、風呂に入っている八千穂の暢気な鼻歌が聞こえてくる。
「……」
 その鼻歌は第九。たぶんはJ-POPばかり鼻歌で歌っている八千穂だが、今日は珍しくクラシックの中でも超有名な曲をチョイスしてきた。
 皆守のコーヒーの支度をしながら、八千穂の鼻歌に合わせてドイツ語で歌っていく。
 葉佩の歌は音程が一切崩れることなく、皆守の耳に届いていた。間奏部分をハミングしながら、なおも歌い続けつつ、皆守のコーヒーをテーブルに運んできた。
「……何で第九……」
「素敵な歌詞だよねェ」
「いや、そうじゃなくて、だ。……どうして第九を歌いだしたのか訊いてるんだがな」
「明日香ちゃんが鼻歌歌ってたから」
「そうかよ」
 葉佩は自分の前にジンジャーエールを置き、「ふ~」と溜息を吐いた。
「歓喜よ、美しい神の閃光よ、
 楽園からの娘よ、
 我らは情熱に満ち、
 天国に、汝の聖殿に踏み入ろう。
 汝の神秘な力は、
 引き離されたものを再び結びつけ、
 汝のやさしい翼のとどまるところ、
 人々はみな兄弟となる」
「は?」
「有名な和訳だよ。『人々はみな兄弟となる』……バディみたいじゃない?」
「何言ってんだ」
「おや、お気に召さない?」
 葉佩はグラスに口をつけた。
「希望と喜びに溢れた素晴らしい歌詞だよ?」
「……」
 皆守の眉間に皺が寄るのを、葉佩はどのように見つめていたのか。
「電子ピアノ買ったから、一曲披露しようか」
 駄々っ子を宥めるように、苦笑交じりに葉佩は言う。皆守の口からは、言葉ではなく溜息が漏れた。
「は~い、聴きたい聴きたい!」
 風呂から出てきた八千穂が大きく手を上げて微笑む。黄色地にデフォルメされたパンダの顔があちこちプリントされたパジャマを着ていた。アンリと彩が見たら絶対にほしがりそうなパジャマである。
「おや、明日香ちゃん、おかえり」
「えっへへ~。ただいま、九チャン」
「……何弾くんだよ?」
「お前さん方が知っていそうな曲をね。……そうだなァ……ああ、《革命》のエチュードとかは?」
 八千穂はバスタオルで頭をワシワシ拭きながら、「あ」と声を上げた。
「聞いたことだけある。名前を」
「甲太郎ちゃんは?」
「……さァな?」
「このコは本当に音楽に興味がないねェ」
 苦笑した葉佩は、居間の隅に置かれているピアノに近付くとカバーを外す。
「なかなかのもんですよ~。俺の腕も」
 と言いつつも、葉佩はブツブツ呟いている。
「個人的には《革命》よりも《ワルトシュタイン》の方が好きなんだけどなァ……ん~……でも、知名度でいったら絶対的に《革命》……いやいやしかし……」
「九チャン、何を困ってるの? 『とりあえず《革命》!』じゃダメなの?」
「飲み屋の注文みたいだな……」
 皆守はゴロゴロしつつ、楽譜と睨み合っている葉佩の背中を見た。
「おい、オッサン」
「オッサンじゃないよ~……!」
「とりあえず、一曲弾いてみたらいいだろうが。人を待たせるな。質の悪い演奏会だな」
「はいはい……わかりました~……」
 葉佩は鍵盤に手を置く。一拍後に生み出される音は、確かに本人が「ピアノで食べていくことは出来るよ」と言うだけのことはあった。八千穂は目を真ん丸にしたまま、時折瞬きをするくらいしか動けず、皆守はいくら音楽に造詣がないといってもその音に圧倒された。時折音楽の授業の後でクラスメイトの女子が手慰みに弾くようなものとは一線を画している。
 鳥肌が立った。
 元々、《革命》自体がドラマティックな様相を呈するピアノ曲である。練習曲という区分に入るものだが、ただ練習曲というには、あまりにも惜しいほどの美しさがあった。
 最後の音の余韻が消え、「ふ~……」と溜息を吐いた葉佩の背中に、八千穂の「ブ~ラボ~!」という声と千人の観衆にも勝る拍手、そして、皆守のやる気ない拍手が贈られる。
「……何でお前、《宝探し屋》やってんだ?」
 皆守の疑問はもっともだった。葉佩は振り返ると、スッキリしない微笑みを浮かべ、「え、え~……?」と頬を掻く。
「だって、ねェ……いろいろと事情があるんですよ~。んっふふふ~」
 答える気はないのだろう、そんな笑い方だ。
「九チャン、すごいねェ! ね、ね、次は何を弾いてくれるの?!」
「気が滅入りそうなのはやめてくれよ」
「む、難しいことを言うねェ……」
 欠伸交じりの皆守の一言は、葉佩の十八番を封じる形となる。
「じゃ、じゃ……しょうがないなァ~……」
 ピアノソナタ系は諦めた。短くて派手なものがいいだろうと、葉佩は楽譜のコピーをめくる。
「え~と……う~んと……ああ、これにしよ~っと」
「何々?」
「《黒鍵》のエチュード。右手はずっと黒鍵だけ弾いていくんだよ。面白いでしょう? 短いし、ぱっと聴きは派手だし。甲太郎ちゃんも、これなら飽きずに聴ける!」
「妙なところに自信を持つな!」
 皆守の罵声に首を竦め、葉佩は苦笑して鍵盤に触れた。

     ***

「明日は朝からお勉強ですよ」
 深夜番組を見ている皆守と八千穂に葉佩は言う。
「わかってる? わかってるよね? 特に、明日香ちゃん」
「何であたしだけ……ッ!?」
「一番成績が不安だからに決まってんだろ……」
「皆守クン、早く寝たら?! いつまでも起きてないで寝なさァい!」
「俺はいいんだよ。朝寝坊しても。……八千穂みたいに勉強がすぐさま必要なわけでもないしな」
 ニヤリと笑う皆守。
「これは、八千穂のための勉強会だ」
 八千穂はプーッと膨れ、目の前の空グラスの中から氷を一つ取り出すと、悔し紛れに隣に座っていた葉佩の浴衣の襟を掴んで中に放り込む。
「ひ……ッ! 冷た……ッ!」
 アワアワとする葉佩を見て溜飲を下げたのか、八千穂はニコリと笑うとテレビの続きを見始め、皆守はニヤニヤしながら「取って~、取って~」と騒ぐ葉佩を観察した。

     ***

 窓を叩く雨の音で目が覚めた。
「う……ん……今何時……」
 七時半である。
「あ、お弁当……ん? あれ……今日は……何曜日……?」
 葉佩は自分が居間の床に寝ているという事実を普段と鑑み、ようやく、
「ああ……日曜日だ……」
 と得心いったようである。
「朝ご飯、何がいいかねェ……。ねェ、彩……あ、そっか」
 いつもなら、イヤホンをしてテレビの前に座っている彩の姿がない。
「……やっぱり、寂しいねェ……」
 溜息を吐いて、浴衣を直しながらキッチンへ向かう。
 一方、その頃の亮太の住処では――
「……おはよう」
「うむ。彩は早いな」
「……うん……」
 羊のぬいぐるみを引きずった彩は、キッチンで朝食の支度をしている亮太の服をギュッと掴んだ。
「どうした?」
「……ギューして……」
「?」
「父、してくれる……」
 羊を離し、両手を差し出した彩を見て亮太は頷く。
「そういうことか」
 亮太はしゃがむと、床に膝をついて彩の細く小さい体を抱き締め、
「おはよう」
 と頭を撫でた。彩は嬉しそうに微笑むと、少しだけ赤くなって羊を引きずりながら部屋に戻る。
「……うむ、よくあんな父親と一緒に住んでいて真っ直ぐ育つものだ……」
 小首を傾げつつ、チーズを包んだオムレツを焼く。
「教育が行き届いているわけでもないのに……? はて……難しいものだ」
 そうこうしているうちにアンリも起きたらしく、彩と同じようにコアラを引きずってキッチンにやってくると、
「ギューして~」
 と手を伸ばした。アンリも同じように抱き締めてやると、
「えへ、えへへへへへ」
 とニコニコ笑い、コアラをギュッと抱き締めて部屋に戻っていく。
「……わからん。……いや、もしかしてこれがスキンシップというものなのだろうか……」
 妙に納得しながら、亮太は朝食の続きを作る。
「……うむ、親にこんなことをしてもらった記憶がない。……うちの親では、まず考えられんな……その代わりに姉さんがいたわけか……」
 和やかな亮太たちとは打って変わり、再び葉佩宅。
「……パンは」
「買い忘れた……」
「で?」
「ホ、ホットケーキミックスがあったから……」
「わ~いわ~い! あたしホットケーキ好きだよ~!」
「朝から……ホットケーキ……」
「文句言わないの! 皆守クンは~!」
 少々元気がない葉佩は困ったように笑って食卓に着く。
「おい、ホットケーキなのは百歩譲って許してやる。が……」
 皆守の右手が、葉佩の頭をガッと掴む。
「イタ、イタタタタタタ……!」
「その面がむかつく」
「イタタタ……! し、仕方ないでしょ……! ちょ、ちょっと寂しい――」
「今まで一人だっただろうが」
「ううう……」
 葉佩の目が皆守と八千穂を交互に見て、伏せられた。
「い、いつも、そうなんだよね。わかってるんだよ」
 苦笑した葉佩を見て、皆守はその頭を解放し、八千穂はホットケーキを切っていた手を止める。
「今回みたいに潜入型の遺跡って、絶対に周りの人と仲良くなっちゃうんだよねェ……で、どうしてもそこを離れなきゃならないときって来るわけじゃない? ……一人になりたくなくって、毎回、苦しいんだよ。最近はアンリと彩もいたし、こうして甲太郎ちゃんと明日香ちゃんがいてくれるから何とかしてるけど……これ、一人になったら辛そう……」
「九チャン……」
 八千穂は「あ」と何かに気付いたように顔を上げる。
「……學園の遺跡が終わったら……九チャン……」
「んふふ、それは、ね。でも、俺は卒業までいるつもりだから。《協会》も何も言わないでしょ。言ったとしても、無視するからいいよ」
「おいおい……」
「俺は、日本の学校をちゃんと卒業したことないからねェ。高卒資格云々よりも、『仰げば尊し』を歌ってみたいんだよ」
 葉佩は真っ赤になって、「この歳でこんなこと言うなんて恥ずかしい~……!」と顔を隠している。内心、「まったくだ」と大きく頷く皆守だったが、八千穂は大いに感動した様子で「うんうん」と頷いている。
「そうだよね、さよならは寂しいもん! 卒業まで一緒にいて、それからみんなでどこかに向かって歩き出そうよ!」
「そうだねェ、明日香ちゃん……。アンリと彩も、きっと……」
 葉佩は口をつぐみ、皆守を見た。
「甲太郎ちゃん」
「んだよ」
「二人とも、元気かなァ……」
「亮太はお前よりも子供の機嫌取るのは上手いぞ」
「あ、皆守クン本当のことを」
「ヒィィィィ……! 何ですってェェェ……!」
 ボッサボサの頭を抱え、葉佩は床に倒れ伏して静かになった。
「……ほっとこうぜ。とっとと食って、八千穂の勉強を見なければ」
「う、うわ~、皆守クン……厳しいィ~……」
 放置された葉佩は凹んだまま、十分ほど動かなかった。

     ***

 頭から煙が出そうなほど勉強した――と思っている八千穂は、十一時過ぎに、甘いミルクティーを葉佩に淹れてもらって休憩していた。
「……おい」
「ん?」
「この調子で全教科終わると思ってんのか!?」
「が、頑張れば……」
「このペースじゃ無理だねェ……」
 皆守の前にもコーヒーを置いてトレーを抱える葉佩は苦笑する。
「で、でも、せめて一教科くらいは範囲終わらせたいねェ……」
「一教科くらいは出来るよ~……」
「……無理だ……絶対に無理だ……」
 皆守は溜息を吐き、自棄のようにコーヒーの入ったマグカップを掴んで呷る。
「どっかにご飯食べ行こうよ~」
「はァ……ッ?!」
 空気を読まない。むしろ、読む気など微塵も感じさせない八千穂の言葉に皆守の堪忍袋の緒が綻び始めているのがはっきりくっきり見て取れる。
「お前、自分の前に広がる絶望の海が見えてないわけじゃないだろうな!?」
「ピザでも取ろうか……?」
 素っ頓狂な声を出した皆守の顔色を伺いながら葉佩は引きつり笑いを浮かべる。
「ほ、ほら、新商品の、ドライカレーピザ! これ、美味しそう!」
 八千穂はプーと頬を膨らませ、
「遊びに行こうよ~!」
 と葉佩の服の袖を掴み、ゆさゆさ揺する。
「あ、明日香ちゃん、イイコにしてたら、オジサンが後でいいもの買ってあげるから!」
 必死に二人の機嫌を取る葉佩に安息の時はない。

     ***

「リョタ兄ちゃん! あれは何? 屋上からいつも見てるんだけど、わかんないの」
 アンリが指差した巨大な建物を見て亮太は答える。
「……あれは、都庁だ。日本が好景気を謳歌し、この世に不況などないと思っていた証……。世界を読みきれない愚か者の建てた、消えることのない暗黒のオベリスクだ」
「……オベリスク……形、違う……」
「物の譬(たと)えだ。……本来、オベリスクというものは、古代エジプトの偉大なるファラオが、己の偉業を示すために建てたもの。……都庁はバブルという幻想に惑わされた人間たちが、血迷った己の無知をさらけ出したのを後世に知らしめるためのオベリスクだ。知らしめるという意味では、間違えた造りではないな」
 アンリと彩の手を引き、歩きながら亮太は言う。
「いいか、二人とも。愚か者とは学ばん人間のことだ。人はすべてを学ぶことが出来る。学ぼうとする志は誰にも曲げられん。学ぼうとする心というものは、無知を知る心から生じる。無知の知。それこそが人類の英知を生み出してきたものだ。自分が物を知らんということを知る者は、何よりも賢い。……この世に果てはない。歩こうとすれば、どこまでも歩いていけるだろう」
「……」
 アンリはキョトンとして亮太を見つめる。まったく理解していない。
 彩はしっかりと頷き、
「……わかった」
 と答えた。亮太は二人の手を強く握り、続ける。
「……俺様は最近考えるのだ。姉さんがどうしてお前たちの父を選んだのか……」
「パパを?」
「……父を……?」
「うむ」
 頷いた亮太は、ふと足を止めた。
「カフェがあるな。……歩き通しで疲れただろう。ケーキでも食べるか?」
「食べる!」
「……チーズケーキ……」
「うむ」
 幸い席は空いており、アンリはチョコムースケーキ、彩はレアチーズケーキ、亮太はモンブランを頼んだ。ドリンクは三人とも、ホットのミルクティーだ。
「先程の話の続きだが」
 亮太の言葉に、並んで座った子供二人は顔を上げる。
「ママがパパのどこが好きかってお話?」
 アンリはクリッと小首を傾げる。
「そうだ」
「……父、優しい……彩、アンリと同じ、言った……」
「そうだよ。それに、パパはママのこと、た~くさん大事にしてるよ」
「うむ。……あの男、間が抜けているが、愛情のバケツにだけは穴が開いていないらしい。……お前たちを見ていると思う」
「? そう?」
「うむ。……あの父親でよかったと思うか?」
 アンリと彩は顔を見合わせ、コクコクと頷く。
「思うよ!」
「彩も……」
「……そうか」
 亮太はその頬に僅かな苦笑を浮かべた。

     ***

「こ、甲太郎ちゃん、何とか、何とか二教科終わったよ……!」
「……奇跡だな」
 寄ってたかって八千穂に試験範囲を叩き込んだ二人は、英語と数学が終わったことに対して驚きを隠せない。
「……」
 八千穂は疲れ果て、口からエクトプラズムを吐き出しそうな状態である。
「……今、何時だろうねェ……」
「もう四時だな。八千穂、そろそろ學園に帰るぞ」
「……ふァい……」
 ガタピシと音がしそうな動きで、八千穂は顔を葉佩に向ける。
「……イイコにしてたから、何買ってくれるの?」
「覚えてた……!」
「物に釣られてたのかよ!」
 八千穂は自分の持ってきていたバッグの中から、ゴソゴソとファッション雑誌を取り出す。
「明日香、このバッグがほしいの」
 八千穂の指差したものを見て、男二人は顔を引きつらせる。
「……十五万で書いてあるな」
「……書いてあるね。このブランド、すごく高いんだよね」
「明日香、このバッグがほしいの!」
「……わかりました。明日の午後にでも探します……」
「葉佩、お前、援助交際の弱みを握られたオヤジか!」
「これは正式な取引だよ、皆守クン!」
「だそうですよ、甲太郎ちゃん……」
 六桁程度ならばトップハンターにははした金であるが、いきなり十五万のバッグを請求されるとは思わなかった。「最近の子供は恐ろしいんだねェ……」と溜息を吐きつつ可愛い妹分の顔を眺める。
「何てね~、ウソウソ」
 八千穂はニッコリ笑うと、次のページの靴を指差した。
「これがほしいな」
「……あ、普通の値段」
「これがいいな」
「わかったよ。探してくる」
「えへへへへ」
 皆守は呆れ果てたような様子で八千穂と葉佩のやり取りを眺めつつ、アロマに火を点けた。
「あ、そろそろガキども帰って来るんじゃないか?」
「でも、亮太から連絡ないよ?」
「……亮太んちに居ついたのか?」
「え……ッ?!」
 この世の終わりのような顔をした葉佩に、皆守は「ああ、悪かった悪かった」とポンポンと肩を叩く。
「お前はまだ、愛想を尽かされるほどのポカはやってない」
「ひどい……」
 よろよろとその場に泣き崩れる葉佩のH.A.N.Tが鳴った。
「アンリ!」
 H.A.N.Tに飛びつく。
「彩!」
 メールを開ける。
『もうすぐかえるよ』
「アンチャンから?」
 後ろから覗き込んだ八千穂にコクリと葉佩は頷く。
「よかった……帰ってきた……」
「……お前、つくづく人の言葉に踊らされるんだな……」
 コツンと灰皿に皆守は灰を落とす。躍らせた本人が何を言っているんだと言いたかったが、葉佩はグッと言葉を飲み込み、
「う、うう……」
 と唸るだけに留めた。彼にしては、充分大人の対応である。
「アンリと彩の顔を見て帰るか」
「だね~」
 皆守と八千穂は學園に帰る支度を始め、葉佩は子供たちを迎えるために家の中を片付け始めた。

     ***

「ただいま~!」
「……ただいま」 元気な子供たちの声。
「お帰り!」
 玄関先まで出迎え、アンリと彩を抱き締めていた葉佩の頭上から、
「邪魔するぞ」 という、無愛想な声が響いた。
「あ、亮太、いたの」
 子供たちに頬擦りしながら亮太を見上げる葉佩に、
「……ボンクラ……殴ってもいいだろうか」
 と強く拳を握り締めつつ亮太は尋ねる。
「……んふふ? ヤだ」
 葉佩は微笑んで立ち上がると、子供たちに「手を洗って嗽をするんだよ」と言い含めて頭を撫でてから亮太に向き直った。
「どうぞ、上がって。明日香ちゃんと甲太郎ちゃんもいるし」
「うむ」
「試験勉強してたんだ」
 居間に入ると、八千穂が「やほ~」と手を上げ、皆守が「よう」と口だけで挨拶する。
「そうか。中間試験か」
 腰を落ち着けた亮太は、片付け途中だった八千穂の問題集を手に取り、「ほゥ」と一人頷く。
「大して難しくはないが」
「亮太クン……頭いいんだねェ……」
「何を言っているのだ?」
 亮太はパタンと問題集を閉じた。
「俺様は常に首席だったが」
「しゅ……!」
 ふ~……と八千穂が目眩を起こして後ろへ倒れる。
「明日香姉ちゃん! あわわわわわ……」
「お姉ちゃん……」
 アンリと彩は一緒に支えたが、「ぷきゅ」という声とともに八千穂に潰された。
「八千穂、お前が重いから、ガキが潰されてるぞ」
「……だ、だって……首席っていったら……学年トップだよ? 神鳳クンクラスだよ?」
「亮太の話聞いてなかったのかよ。こいつ、大学はスキップしたって言ってただろうが。頭はいいんだよ。たぶん、神鳳以上に」
「神鳳……? 首席なのか?」
「大体そうかなァ」
 八千穂がアンリと彩の上からどいて、「ゴメンゴメン」と笑いながら謝るのを見ながら、皆守はアロマに火を点けて「ふ~」と溜息を吐いた。
「で? 亮太は部活もせずに勉強ばかりしていたとか?」
「いや。そんなことはない。部活動もきっちりしていたが。内申書の問題があるだろう」
「……現実的な方から話が飛んできたな」
「俺様は吹奏楽部だった」
「ぶ……ッ!」
 皆守は噴き出し、八千穂はぽか~んと亮太を見た。
 ――い、意外だ……!
 吹奏楽、という雰囲気ではない。どちらかといえば、「文学部にいました」とか「バスケ部でした」という方がしっくり来る気がする。
 亮太にとったらば、甚だ失礼な話であるのだが。
「吹奏楽部で、何吹いてたの?」
「俺様はサックスを吹いていた」
「……似合いそう……」
 八千穂は頷く。アンリと彩は首を傾げ、「さっくすって何だろね?」とボソボソ言っている。
「文化祭はバンド活動もしていたぞ」
「バ……!」
 破壊力がある発言だった。
「文化祭くらいは多少羽目を外しても、《生徒会》もうるさくない」
「文化祭……楽しいもんねェ……」
「亮太がバンド……軽音部自体がないから、にわかバンドということか……」
 皆守はブツブツ言いながらアロマの灰を灰皿に落としている。
「見てみたいもんだがなァ」
「卒アルに載っているぞ」
「それだ!」
 揃って声を上げた皆守と八千穂に、アンリと彩がビクッと体を震わせる。かなり驚いたらしいアンリは、目にうるうると涙をためている。
「ビックリ……した……」
「アンリ、大丈夫……」
 兄の頭を撫でつつ、彩も左手をドキドキしているらしい胸に当てていた。
「亮太、確か二十六だとか言ってたな」
「うむ」
「八年前――九十六年の卒業アルバムだね!」
「明日、図書室に行って見てみようぜ」
 妙なところで意気投合した八千穂と皆守は頷きあう。そこに、キッチンから葉佩の声がかかった。
「明日香ちゃん、甲太郎ちゃん、ご飯食べてく~?」
「食べてく~!」
「ついでに食ってく。飯代が浮くからな」
「亮太は~?」
「食べる」
「了解~」
 亮太、皆守、八千穂がしばらくいるとわかった瞬間、アンリと彩の遊んで攻撃が始まった。

     ***

「試験の日程見た?」
「見たよ~」
「数学と英語が一緒にあるって……何これ地獄?」
「んふふふふ。ま、頑張りましょう~。中間だし、期末に比べたら科目は少ないから何とかなるでしょ」
「九チャンは出来るからそういうこというんだよ~!」
 ガンッ!
 叩かれた机の上に載っていたシャープペンシルと消しゴムが一瞬浮いた。
 皆守が留守の月曜日、二時限目休み時間。
 葉佩は「ん~……」と八千穂の顔を眺め、ニコッと笑った。
「ヤマ、張ってみる?」
「その言葉待ってた~!」
「お、そういうことなら俺も一口乗らせてもらうかな」
 葉佩と八千穂は声のした方に視線を向ける。
「おや、大和ちゃん。体はどうだい?」
「今日はなかなか調子がいいらしい。……試験のヤマを張るなら、俺もその話を聞きたいもんだな」
 皆守の席の椅子を引っ張り出し、夕薙は悠然と笑う。
「外れても責任持たないよ~?」
 悪戯っぽく笑い返した葉佩を見て、八千穂は、
「外したことないくせに、九チャンたらァ」
 彼の肩を軽く押す。
「んふふふふ」
 笑っている葉佩。夕薙は顎を撫で回し、片目を眇める。
「その勘の良さには感服するな」
「おやおや」
 微笑む葉佩の視線が、何気なく夕薙を通り越して廊下へ向かったときのことだ。
「あァ――ッ!」
 素っ頓狂な声にクラス全体が葉佩に注目していた。葉佩は「あ……」と真っ赤になって慌てて廊下に出て行く。
「……葉佩、最近落ち着きないなァ」
 苦笑する夕薙に、
「あ、はは、そ、そだね~」
 八千穂が引きつった笑いを浮かべて、出て行った葉佩の背中を見る。葉佩が振り返った。
「や、大和ちゃん!」
「ん、どうした、葉佩」
「後で、ヤマ張ったとこ、コピーして渡すね~!」
「おう、期待してるぞ」
「うん!」
 葉佩はそのままの足でどこかに行った。
「……九チャン……」
 苦笑する八千穂に、夕薙は唇の端に僅かな笑みを浮かべる。

     ***

「……葉佩さん、何をしているの?」
 ドキン! と心臓が飛び跳ねた。葉佩はゆっくりとそちらを振り返る。白岐が不思議そうに葉佩を見下ろしているではないか。チャイムが鳴った後の踊り場。屋上に通じる階段の一番下に座っていた葉佩がボソボソと喋っていたからだ。
「あ、幽花ちゃん……」
「アンリさんだけ? 彩さんはいないの?」
「へ?」
 ――何で知ってるんですか――ッ?!
 顔に描かれている。
「アンリさん、泣いているの?」
 尋ねた白岐にアンリは「うん」と小さく頷く。「知ってたんだね。それならいいや」と葉佩は白岐に事情を説明した。
「何でも、彩と喧嘩したんだって……。この間怖い思いしたのに、また廃屋街に行こうとしたアンリを彩が止めたらしいんだけど……アンリが行くって聞かなかったらしいんだよね。そしたら、彩が『知らない』ってどっか行っちゃったって。……アンリ、いきなり心細くなったらしくてね、さっき教室覗いてるのに気付いて……」
「……そう」
「彩は泣きたいことがあると一人で泣くコだから……どこか一人になれるところに行ったんだと思うんだ」
 白岐は僅かに首を傾げ、ゆるりと一つ頷いた。
「……温室……」
「温室? 彩が?」
「ええ。……行ってみましょう」
 白岐は葉佩に背を向けて階段を下り始めた。
「待って待って~!」
 葉佩はメソメソ泣いているアンリを背負い、白岐の後を追う。細い彼女の背は常に凛とした空気に包まれ、神聖だった。
 
     ***

 温室の鍵が開いていた。
 彩は温室の中に入ると、リュックを外し、猫スーツを脱いで端の方に寄せる。
「……く……ひっく……」
 泣きながら、温室の中を歩いた。
 たくさんの植物があり、彩が前に見上げたブーゲンビリアがまだ鮮やかな赤い苞を一面につけている。
「……ひっ……く……」
 アンリが危ない目に遭うからと思って、一生懸命止めたのに、アンリは聞かなかった。一生懸命な彩の気持ちを踏みにじられた気がして、泣きたくなった。
「知らない……」
 アンリを置いて校舎を出ると、めそめそと泣きながら温室に来たのである。
 白岐がいるかもしれない。そんなことを考えながら。白岐なら、何か話を聞いてくれそうな気がした。傍にいても何も言わなさそうだし、植物の話をたくさんしてくれるかもしれない。
 そんなことを考えた。
 葉の手触りがまるでビニールのようなアカンサスが時期外れの花を咲かせている。彩の背丈ほどもある花穂に見入りながら、涙はやはりポロポロと零れ落ちた。
 ラベンダーの大きな株もあった。全草から香りが漂っているが、皆守のラベンダーとは香りが違う。そして、それは彩の背丈よりもずっと大きかった。
「……!」
 音がした。
 彩は咄嗟に草むらの中に飛び込んで身を隠す。
 ――父……
 白岐と、血相を変えた父、そして、恐らく背に背負われているであろうアンリの三人が温室に来た音だったようだ。
 葉佩はぐるりと温室内を見回した。
「あ、きぐるみ……」
 彩の猫スーツが畳んで置いてあった。
「アンリ、ちょっと下りてくれる?」
「……うん」
 葉佩は猫スーツとリュックを回収し、白岐を見る。
「彩、いるねェ」
「そうでしょう?」
 白岐は一箇所を指差す。
「あそこに」
 突然指を差された彩は驚いて尻餅をついた。ガサッとラベンダーの茂みが動き、薬のようなラベンダーのような、あまりいい香りとはいえない匂いを周囲に撒き散らす。
「彩」
 葉佩はそちらに向かって手を伸ばす。
「彩、おいで」
 彩の手が茂みから伸び、葉佩の手を握る。
「……父……」
「彩……アンリを止めてくれたんだってねェ……ありがとね」
「父……!」
 彩は葉佩に抱きつくと、小さく肩を震わせる。
 白岐はアンリの頭を撫で、言う。
「よかったわね……」
「……幽花姉ちゃん……」
「心配していたのでしょう……?」
「……うん……」
「……無茶をしては、駄目よ」
「うん……」
 葉佩は彩の頭を撫でながら言う。
「ねェ、彩。……何かあれば、パパに言うんだよ。……パパはそのためにいるんだからね」
「うん……」
「ん。……ルイちゃんが心配してるといけないから、保健室に帰ろうねェ」
 アンリは一人、しょぼくれていた。
 温室に残るという白岐を残し、三人は校舎へと戻る。その道すがら。
「……パパは、僕と彩のどっちが大事なの?」
「え?」
「……僕と彩、どっちが好きなの?」
「どっちなんてないですよ。二人とも俺の息子だもの」
「……」
「アンリ、どうしたの?」
「……うェ~ん……」
 泣き出したアンリに葉佩は心底困り果てた気がして眉を曇らせる。
 彩は少し俯くと、使い慣れた言語で言った。
「僕はお父さんの本当の子供じゃないから、きっと、アンリの方が大事にされてる」
「ちょ……! 彩……ッ?!」
 彩は続ける。
「僕、甲太郎お兄ちゃんに頼んで寮にいる。……お父さんとアンリはお家に帰っていいよ」
「どうしてそうなるの? 彩? どうしたの?」
 それ以上、彩は言わなかった。

     ***

「親父は部活か」
「……うん」
「……しかし、何で俺がここにいるとわかった?」
「彩、わかる……」
 彩はボソボソと皆守の傍で呟いている。
 夕焼けに照らされる屋上。壁に背を預けて夕焼けを眺めている皆守の隣に、膝を抱えた猫スーツの彩がいる。羊リュックの中から箱ティッシュを取り出し、皆守は彩の顔中の涙と、鼻水を拭った。
「……アンリもなァ……何があったんだか……」
「……彩……アンリに嫌いになって……たら……」
「……?」
 彩の言葉に、皆守は一瞬固まる。妙な日本語だ。先程から彩が語る言葉は、時折皆守を悩ませる。前後の文脈を考えるにも、あまりにもセンテンスが短い。だが、彩の頭の中を考えれば、おのずと答えは出てくる。
「アンリはワガママだからな。……彩のことを嫌いなわけじゃない」
「……父、困ってた……」
「……だろうな。で? 俺んとこに来るのか?」
「ダメ?」
「駄目とは言っていない。……好きにすればいい。晩飯はカレーだぞ」
「……甘いの」
「……わかったよ。……ったく……」

     ***

 葉佩は確かに落ち込んでいた。
 彩に聞いてもあれ以上の言葉は返ってこなかったし、彩が皆守のところに残ったことで父を独占出来るはずのアンリもずっと泣き通しで手がつけられない。だが、そんな子供たちのことを考えると葉佩まで落ち込んでいるわけにはいかなかった。問題ないように振舞うことしか出来ない。
 ――これは、反抗期、という奴ですか……ね?
 誰に訊いているわけではないが、心の中でどこかに尋ねている。
「アンリ」
 ベッドに潜り込んでずっと泣いているアンリを布団ごと抱き締める。
「今日はパパと一緒に寝よっかねェ。どう?」
「……」
 返事は啜り泣きだけ。
「……アンリ……」
 ――俺が泣きたい……どうしたら……?
「今日は、何か食べたいものある?」
「……オ、オムラ、イ、ス……」
「ん。わかった。中のご飯は何味にする?」
「ケチャップ……」
「了解。……少し、待っててねェ。ご飯にするからねェ」
 ベッドから立ち上がった父を追うように、アンリもベッドから出てくる。
「パパ……」
「ん? どうしたの?」
「パパ……!」
「アンリ?」
「……うェ~ん……」
「アンリ……どうしたの? 何があったの?」
 困り果てた。

     ***

「……あれ、彩ちゃん……?」
 呼ばれて皆守の部屋に来た取手は、部屋の真ん中にちょこんと座っている彩に目を瞬かせた。
「……どうしてここに? はっちゃんは……?」
「よう、取手。夕飯まだだろ。カレー食ってけよ」
「あ、うん。ありがとう……」
 テーブルの上にはすでに三人分用意してある。
「……アンちゃんもいないんだ……?」
「ああ、いない。……話によると、喧嘩したみたいだな」
「ケンカ違う……」
 彩は首を横に振る。
「……明日、葉佩にでも訊けばいいさ。……彩は、日本語で上手く伝えられないからな。……汲み取ってやれないのが気の毒だ」
「……そうだね。……彩ちゃん」
 取手は微笑むと彩の頭を撫でる。
「僕でよければ、話し相手になるからね」
「……ありがと……」
 彩は小さく頭を下げる。
「明日になれば、また変わるさ」
 皆守はテーブルに着くと、彩の頬を撫でた。
「甘めにしておいた。感謝しろよ」
「甲太郎お兄ちゃんのカレー、美味しい。大好き」
 ニコッと小さく笑った彩に、取手は「そうだね」と頷き、皆守は照れ隠しなのか、そっぽを向いた。

     ***

『彩は泣いてない?』
『泣いてない。おとなしくしてる。ゲームばっかりしてるがな』
『それならいいんだけど……』
『アンリは?』
『アンリはずっと泣いてるよ……』
『そうか。彩はアンリに嫌われたと思ってるぞ』
『ウソ! ……困ったね。アンリはどう思ってるんだろう』
『俺に訊くな』
『だよねェ。ありがと。彩のことよろしく』
『昼飯と晩飯、おごれよ』
『了解』
 皆守とのメールのやり取りの一部始終だ。
 葉佩のベッドの中に、薄手の牛柄きぐるみパジャマを着たアンリがいた。父のメールの中身を覗くことなく、ただ、くっついている。
 不意に、アンリが葉佩を呼んだ。
「パパ……」
「ん? アンリ、どうしたの?」
 泣きすぎて、鼻の頭と瞼が赤くなって、全体的に腫れぼったいような顔をしている。色が白いため、とかく目立った。涙を堰き止める堤防はとうの昔に決壊しているから、アンリはまた目にいっぱいの涙をためて葉佩を見上げている。
「……僕、彩に嫌われちゃったのかな……」
「どうして、そう思うの?」
 H.A.N.Tを枕の下に押し込め、アンリの額にコツンと自分の額をつける。
「だって……パパに『僕と彩、どっちが好き?』って訊いたら、彩、すごく悲しそうな顔したの」
「……」
「パパは彩をすぐに捜しに行ったでしょ? ……僕がもし、また廃屋街に行ったら、パパ、捜してくれるのかなって……。すごく怒られて、パパにまで嫌われたらどうしようって……いっぱい考えてたらわかんなくなっちゃった……。パパは彩のこと、ギューしたけど……僕のことギューしてくれなかった……」
「アンリ……」
 葉佩は眉を八の字にしてアンリを懐にギュッと抱き締める。
「ごめん……パパが悪かったね。気付かなくてごめんねェ……」
「パパ……」
 アンリはぐじゅッと涙をこぼし、父の浴衣に顔を押し付けた。
 一方、天香學園男子寮。
「いいか、彩」
「うん」
「カレーというのは、最低四つのスパイスで出来る」
「うん」
「クミン、ターメリック、コリアンダー、チリの四種類だ。これがベースになる。これにマスタードシードが入ったり、シナモンが入ったり、ベイリーフ、カレーリーフなんかが入ったりするんだ」
「うん。……ふァ~……」
「眠いのか?」
「……甲太郎お兄ちゃんのお話、楽しい。彩、たくさんたくさん覚える。嬉しい」
「そうか。ならいいが。でな……」
 子守唄代わりに、延々とカレー薀蓄を彩に傾けていく皆守は、パジャマ代わりに借りた皆守のTシャツに袖を通した彩を見る。半分眠そうだ。
「豆カレーにはヒングという……」
 それから五分ほど喋っていたが、ヒングまで話が来たとき、彩はスヤスヤと眠りに就いた。
「……俺も寝るか」
 大きな欠伸を一つ。
 明日は一体どうするのだろうか。
 葉佩のバタバタで、見ようと思っていた九十六年度の卒業アルバムも確認出来ていない。
 アンリが元に戻っていれば、また彩と二人で手を繋いで校内をあちこち見て回るのだろうが。
 たかが子供の喧嘩に振り回される親。――いや、子供が大事だからこそ、振り回されているのかもしれない。
 そんなことを思い、隣でスヤスヤと寝息を立てている彩を見つめる。
「葉佩が親で、お前、幸せか?」
 皆守は僅かに眉間に皺を寄せるが、
「……俺だったら、あんな親は――」
 苦笑に変わっていた。
「願い下げだぜ」

     ***

「あらら? おはようございますゥ~、皆守くん」
 マミーズの店先を掃除していた舞草が顔を上げる。
「よう」
「九龍くんは一緒じゃないんですか~?」
「息子なら一緒だ」
「あ~、どっちの息子さんですか? 影があるけど、一人だけですよね?」
「彩の方だな」
 舞草はニコッと笑うと、彩がいる辺りに手を伸ばした。
「あ、フカフカしたものが!」
「声がデカイんだよ……ったく……」
 ぼやいた皆守の横から、小さな声がした。
「……おはよう」
 彩の声に、舞草は「おはようございま~す」と頭を下げ、着ぐるみの彩をギュッと抱き締める。
「フカフカ~!」
「だから、騒ぐなって……」
「あ、みっなかっみク~ン!」
 背後から聞こえてきたよく通る声に、皆守の眉間に深い深い皺が寄る。
「……うるさいのが増えた……」
「あ、八千穂さ~ん!」
「奈々子チャ~ン!」
 どうして遠くから挨拶するのだろうか……皆守にはわからない。そして、近付いてきてもそのままのテンションで話し始める。下を向くと、彩の影がなくなっていた。
「んな! あいつどこ行った!?」
「わ、ビックリした~……どしたの? 皆守クン?」
 辺りを見回しても、光学迷彩のこと、早々見つかるものではない。内心大きく舌打ちをして皆守は八千穂を見た。
「彩が、いなくなった……」
「えェ~?!」
「捜してくる」
「あ、あたしも~!」
 バッグを担ぎ直した八千穂は舞草に「じゃ、またね~!」と手を振って、走り出した皆守の後を追った。
「あ、気をつけてくださいね~! 頑張って~!」
 舞草の声援を背に受けて走り出したはいいが、皆守に当てがあるわけではない。
「彩が行きそうなところ……」
「昨日は温室にいたって、九チャンが行ってた」
「温室か……開いてるのか?」
「どうかな~……白岐さんがいれば開いてるかも……」
「白岐か……」
 中庭の向こう。ガラス張りの温室の中に、白岐の姿が見えた。独りでに温室のドアが開き、閉まる。白岐は何かに気付いたようにそちらを向くと誰かと会話しているような素振りを見せている。
「いるな」
「うん。……どうしよう、皆守クン……」
「白岐に預けておけば問題ないだろ。……彩なら、自分から危ない場所に行くこともないだろうし、何かあれば、瑞麗にでも泣きつくさ」
「……だといいけど……」
 珍しく心配顔でいる八千穂だったが、「あ」と明後日の方を指差した。
「九チャンだ」
「……葉佩だな」
 アロマに火を点け、皆守はようやく人心地ついたというように大きく溜息を吐いた。
 どうにも、この親子に振り回されている。いつかビシッと言ってやらなければ……というよりも、皆守ならば墓の下に埋めることも可能なのだが、どうしてそれをしないのか。
「八千穂」
「なァに?」
「教室に行くぞ」
「うん。わかった。……九チャ~ン! おっはよ~!」
 二人の方を振り向いた葉佩の顔はひどく疲れていた。無理矢理浮かべる笑顔がまた痛々しい。一度寮に行ったのか、すでに制服姿だ。
「……おはよう」
 葉佩は軽く手を挙げる。
「どうしたよ、オッサン」
「オッサンじゃないよ~……」
 声に張りがない葉佩は苦笑して、「はァ」と溜息を吐いた。
「アンリは?」
「寮にいるって。……彩と顔を合わせたくないみたい。……彩に嫌われたんだと思い込んでて……あのコね、思い込むと一直線なんだよね……」
 一晩中、アンリを抱きかかえ、宥めすかしていたのだろう。眠そうな目が物語っている。
「教室に行ったら……寝ます……」
「そうしろ、そうしろ。……屋上で寝るか? 俺もどうせ屋上だ」
「も~……二人とも授業受けようよ……」
 八千穂の溜息交じりの声は、葉佩と皆守の耳には届かない。
 それもまた、いつものことだった。


時をかけて攻略する少女~ただし、運動不足

 十月二十二日。
 彩とアンリは相変わらずだった。
 アンリは父と一緒におり、彩は皆守、取手、黒塚と男子寮を渡り歩いている。
「……もう、金曜日だよ……」
 げっそりした葉佩の顔。随分窶れたような印象を受ける。
 毎日誰かしらに丁重にもてなされ、様々な話を聞いている彩だけが、やたらと生き生きしているのがミソである。
 アンリはこれまた相変わらず、彩と入れ違いに男子寮に引きこもっている。
「アンリはどうしてそんなに頑ななんだ?」
 皆守の疑問ももっともである。あまりにも長い。
「あのコね、ホント、疑い出すと長いんだよ。言ったでしょ。思い込んだら一直線だって。……でもね」
 皆守と手を繋いでいるらしい彩の頭に手を置き、葉佩は言う。
「アンリは彩に会いたいんだよ。寝言で彩のこと呼ぶんだ。『彩、ごめんね』って」
 校舎に近付くにつれ、生徒の声が大きくなってくる。何か、バタバタとしている雰囲気が伝わってきていた。
「何だ?」
 皆守は斜に咥えたアロマパイプを空いている方の手で外すと、咥え直してから声のする方へと視線を向ける。
「向こうだねェ」
 葉佩も視線を巡らせ――
「え?!」
「……何だ、おい……とんでもないな……」
「二つ……」
 彩の小さな声が聞こえる。
 そう。彩の言うとおり、石が真っ二つに割れ、その傍にぐったりした男子生徒が倒れている。生徒たちは、その男子生徒の周りを十重二十重と取り囲み、じっと見下ろす。
 それだけにとどまっているのは、男子生徒がどうやら放課後に襲われたらしいということがわかっているからだ。私服姿で校舎のすぐ脇で倒れているとなれば、施錠されてから何らかの方法で校舎内に入ろうとした、校則を破ろうとした、という過程が成り立つ。
 學園内では犯罪者のようなもの。関わりたくはないが、好奇心には勝てない。
「……葉佩」
 凛とした女性の声に、葉佩は振り返った。
「ああ、ルイ先生」
「大方の予想通り、この生徒は夜間に襲撃されたらしい。夕方にはこんなところに倒れていなかったようだからな」
「だろうね。……あんな大きな石まで真っ二つ。あ~あ、至人ちゃんの嘆き悲しむ顔が見えるようだよ……」
 わざとらしく肩を竦める葉佩に瑞麗は言う。
「これは警告のようなものだ」
「うん。わかってるよ。……さて、さて……今晩辺り、お祭りかねェ」
「さァな。せいぜい気をつけることだ。何かあれば、遠慮なく保健室のドアを叩くがいい」
「そうします」
 小声でボソボソと言葉を交わした後、瑞麗は生徒たちの間を通り、倒れている生徒の傍へと歩み寄った。
「……面倒臭いことだ」
 アロマの煙が漂う。皆守の呟きに葉佩は「そう?」と首を傾げた。
「俺は手の内を見せてもらったから、面倒だってことはないけれどねェ」
 そして、「んふふ」と笑う。
「彩、保健室に行ってなさい」
「……うん」
「何かあれば、教室か、屋上に」
「……うん」
 彩の影が、ペタペタと校舎の中へ入っていくのを見送り、葉佩と皆守は揃って腕を組むと溜息を吐く。
「……すごいよねェ。《執行委員》……」
「まァなァ……あ~……眠い……」
「教室行ったら、朝寝と洒落込みたいところだよ、俺もねェ」
「そうはさせませ~ん!」
 グッと皆守と葉佩の肩の間から八千穂が顔を出し、二人の腕をギュッと掴んだ。
「おっはよ~!」
「出た……」
 うんざりしたような皆守の声。葉佩はニコッと微笑んで八千穂を見る。
「おはよう、明日香ちゃん」
「えへへッ。おっはよ~。……ね、ね、ところで何かあったの?!」
「ああ、ちょっとな。石が真っ二つになって、その傍に男子生徒が倒れてた。それだけだ」
「へ~、すごいね~」
 すごいね~、の一言で済ませた八千穂に葉佩は苦笑して、皆守と八千穂を見た。
「さ、教室に行こう」
「は~い」
「はいはい……眠い……」
 葉佩と皆守の腕にぶら下がっている八千穂は、「あ」と何かを思い出したらしく、目をキラキラさせて言った。
「あのねあのね! 来る途中でテニス部の後輩に聞いた話があるんだけどね」
「ああ、教室に行ったらな」
「も~、早く話したいのに~!」
「うるさい女だな……」
「皆守クンが年寄り臭いの!」
「……な、何を……?! 葉佩と一緒にするな!」
「ヒド! 何その言い草!」
 いつもの朝のはずだった。
 まさかあんなことになるなど、この時点では誰も何も、考えつかなかったのだ。

     ***

「……ツチノコ……」
 皆守と八千穂の絵を見て――その絵を描いた画伯二人の自信満々な顔を見て、葉佩はその場を逃げ出したくなった。
「どっちも違うよ~!」
 頭を抱えて教卓の上に額をぶつける。
「ツチノコはそんな生物じゃない~! 二人とも、わかってないよ! ツチノコって言ったら、地域によっては億単位の懸賞金も出てるUMAなの! そんな可愛らしいぬいぐるみみたいな蛇じゃないし、そんな鬼と金太郎を足して二で割ったような何かでもないの~!」
 皆守と八千穂の肘鉄が同時に葉佩の後頭部に降った。
「だッ!」
「お前、自分が何を言ってるか、わかってるのか? 当然わかってるよな。お前が間違えている」
 アロマをぷかぷかさせている皆守の目は真剣だ。
「九チャン、私が描いたの似てるよね?」
 ニッコリ笑う八千穂の頬に浮かぶ笑顔もどこか真剣だ。
「古人曰く――」
 その声に、皆守と八千穂は揃って顔を上げ、葉佩の上からようやく肘をどかした。
「『我々は、皆、真理のために闘っている』」
 この言葉に真正面から反発したのは八千穂だったが、この後の皆守の行動を鑑みるに、恐らく、八千穂よりも腹が立っていたのだろう。七瀬の理論に真っ向から対立する理論でもって彼女の言葉を叩き潰すという、何とも大人気ないことをやり遂げた。
「一時限目、音楽だったな……先、行ってるぞ」
 言うだけ言って、皆守は音楽室へと向かう。
「……甲太郎ちゃん、何であそこまで……」
 仕方ないコだよ――と葉佩はぼやく。
「随分だよね~……月魅だって、そんな風に言いたかったわけじゃないのに、揚げ足取るみたいにあんなこと言ってさ~……」
 そう言った八千穂だったが、「ふ~」と溜息を吐くと七瀬を見た。
「じゃ、あたしも音楽室行くね。……待って~、皆守ク~ン!」
「やれやれ、甲太郎ちゃんにも困ったもんだねェ」
「いえ、私は平気ですから……」
 葉佩に慰められて頬を染める七瀬は小さく頭を下げた。
「では、私はこれで……」
 教室を出ていく彼女の背中を見送り、葉佩は自分も音楽室に行こうと、席へ教科書を取りに向う一歩目を出した、そのとき。
「どけ、女」
「あ……すみません……」
 葉佩の視線が七瀬の方を見た。和服を着た男に頭を下げて、その脇を足早に通り過ぎていこうとしている。和服の男の目が葉佩に向いた。
「……おや……?」
 隻眼、眼帯の男は自分を見つめる葉佩に気付き、つかつかと教室に入ってくると、こう言った。
「お初にお目にかかる。拙者参之『びぃ』に世話になっておる真理野剣介と申す。つかぬことを訊くが、そなたの名前は?」
「葉佩九龍だよ」
 しれッとした葉佩の答え。真理野の目が眇められる。
「そうか。やはり、そなたが……」

     ***

 真理野との第一種接近遭遇は、真理野が己の正体を潔くさらしたところで雛川の出現により中断された。――が、こっちはこっちで、どうにもよくわからない方向へ進んでいる。
「学校では話せない内容なの……。今晩七時に、私の家に来てくれる?」
 真理野の告白など頭からすっ飛びそうなほどに驚いていた。葉佩の笑顔が消えたのだから、その衝撃は推して知るべしである。
「……お願いね?」
「あ、は、はは、は、はははい」
「あら、もう、こんな時間。授業に遅れちゃうわね。引き止めてごめんなさい」
「え、あ、はい……」
 教室を出て行く雛川の背中を見送り、葉佩は雛川の話というものがどんなものなのか、頭の中で描いてみる。
「う~ん……大体、そんなもんかねェ……」
 學園のことか……自分のことか。
「まさか【愛】の――!?」
「あ、九チャン、まだこんなところにいた!」
「ひィ!」
 ありえないことを考えたのを見咎められた気がして飛び上がりそうになったが、出来る限り平静を保って八千穂に向き直る。
「おや、明日香ちゃん、どうしたの」
「いつまで経っても来ないから、迎えに来たよ!」
「あ、ごめんごめん」
「……でね、ちょっと別件もあって」
「?」
「彩チャンが、音楽室に来てるの」
「はひ――ッ?!」
 八千穂は素っ頓狂な声を上げた葉佩の首根っこに腕をひっかけ、言う。
「教室の隅っこで授業受けたいんだって。ちょうど皆守クンと葉佩クンの傍だからいいかな~って」
「いいかな~……て」
 そこまで言ったとき、予鈴が鳴り響いた。
「大変大変! 時間時間!」
「ちょ! 待……ッ!」
 葉佩はそのまま音楽室に連行され、彩と一緒に音楽の授業を受けることとなった。

     ***

 昼休みに入ってすぐ、葉佩は廊下で一人の生徒と行き会った。
 夕薙大和。
 酷く現実主義の彼を見る葉佩の目は、いつもと変わらない。
「UMAなんてものは、その存在を発見されたためしがない。『明らかにならない』というのは、『明らかに出来ない』という意味もあるだろう。すべてが不明なまま。それを考えれば、奇跡だの、呪いだのと一緒で、UFOやUMAなどは存在しない、ということだ」
 制服の裾を強く引く気配。彩が明らかに夕薙の意見に反発しているが、葉佩はにこやかに頷く。
「そうだねェ」
 一言。
 夕薙は葉佩にかく語りながら、自分自身に何かを言い聞かせているように見える。『奇跡だの、呪いなどは存在しない』――口に出して言わなければならないほどの何かがあるのだろう。
 否定を並べるには、それなりの理由がある。肯定するのは簡単なのだ。ただ、首を縦に振ればいい。否定するのは理由を述べねばならないという労力が要る。だからというわけではないが、葉佩は首を縦に振った。首を横に振る理由が見当たらなかったからかもしれない。
 彩にしてみれば、「夕薙という人は、なんて面白くない人間だろう!」と声を大にして叫びたいに違いない。自分の父は、「UMA、UFO、いるに決まってる!」と言うタイプの人間だからだ。
 けれど、その父は夕薙の意見に頷き、その後も二言三言会話をしながら、夕薙を伺うように言葉を選んで話をしている。皆守や、八千穂と話すときのような快活さはなかった。どこか、何か、引っ掛かっている。そんな話し方である。
 不意に、彩の頭を誰かが撫でた。はっとして目を上げると白岐の白い指が目の前を行き過ぎていく。
「やァ、白岐」
「こんにちは、幽花ちゃん」
「こんにちは。……そこをどいてくれる?」
 彩は葉佩の制服を引っ張った。葉佩は頷いて、「どうぞ」と白岐に道を開けたが、夕薙は違った。
「!」
 彩の手が葉佩の腕を引っ掴む。ガクッと体が引っ張られかけるが、葉佩はじっと我慢して、引きつる微笑みを浮かべながら、彩の体を、「落ち着きなさい」と言いたげに、ポンポンと優しく叩く。
 葉佩は床を見た。
 窓から差し込む光に、彩の猫スーツの影がプルプルと震えている。
「……」
 夕薙と話していた白岐の視線が葉佩を見て、その後ろで震えている彩を見る。そして、小さく微笑んだ。
「……葉佩さんが一緒なら、考えてもいいわ」
 彩は白岐の笑顔を見て、父を掴む手の力を抜く。葉佩は白岐に答えた。
「俺は、いつでも、喜んで」

     ***

 屋上――昼。
 皆守の隣に座った彩は、黙々と弁当を食べている。葉佩は空を見上げる皆守を見た。
「……どうしたの?」
「……こんな牢獄から抜け出して、どっか遠いところに行ってみたくなるな……」
 彩は食事の手を止め、ぽん、と肉球付きの手で皆守の膝を叩いた。
「何だよ?」
「……彩も」
「そうか。彩もか。葉佩は?」
「俺も、だよ。……世界は広いからねェ。自分で歩ける限りは、どこまでも、どこまでも、行きたくなる。……元々、ひとところに定住出来る人間でもないから尚更だよ。……天香に卒業までいたいなんて、そこまで長くいたいなんて思うのは初めてだからねェ。けれど、そう言われちゃうと、どっか遠くに行きたくなるねェ~……」
「やっぱり、そうだよな。……風の向くまま、気の向くまま、流されていくのも悪くないよな……」
 風によって形が変わっていく雲。彩は空を見上げ、口の中の卵焼きを飲み込んで言う。
「彩、戦争で日本に来た。甲太郎お兄ちゃんたちと会えた。……よかった」
 皆守は葉佩が持ってきた小さなスコッチエッグをフォークで突きながら、彩を見ていた。
「……そう、思うか」
「……うん。……戦争、怖い……でも、今、楽しい」
「そうか……」
「だから……早く……アンリと……お弁当食べたい……」
 めそッ、と彩は目にいっぱい涙をためる。
 くしゃくしゃ、と猫スーツの上から彩の頭を撫で、皆守は自分を見つめる葉佩を見て口を曲げた。
「何だよ」
「ううん。……運命なんてものは、どっちにどう転がるかなんてわかりゃしないんだよねェ。政変で焼け出されなければ、彩もアンリも日本に来ることはなかった。俺が《秘宝》を飲まなければ、甲太郎ちゃんたちには会えなかった。……『人生万事、塞翁が馬』ですよ。楽しまなきゃもったいない。遊園地のアトラクションみたいなものなんだよねェ。怖いことも、楽しいことも、様々にある。だから、人生は投げたらいけない。……ね? もったいないでしょ?」
 言葉を切った葉佩は、彩のお茶の蓋を開ける。
「だから、アンリも一時だけ。……たまたま、今、そういうふうになっているだけ。……そう思ってる。だから、彩。大丈夫。アンリは彩のこと嫌いになってない。安心おし」
 そう言って、葉佩は溜息をつく。
「そう、俺は信じたいんだよ」
「信じたいといえば」
 皆守はカレーパンの袋をまるめ、葉佩の差し出したゴミ袋に入れてから言う。
「しかし、ここに来るまで何人にツチノコの話を聞かされたことか。そんなに信じたいのか、アレの存在を」
「願いが叶うらしいからねェ~。懸賞金かかってるし」
 葉佩は笑っている。
「それにしたって、会う人間、会う人間。ツチノコ、ツチノコ……鬱陶しいったらない」
 皆守はすっかり耳にタコ状態らしい。彩は父と友人の会話を聞きながら首を傾げていた。
「……父」
「ん?」
「ツチノコ、何?」
「あァ、彩は知らないんだねェ」
 葉佩は弁当箱を片付ける。
「ツチノコっていうのはね、こんな形の……」
 いつも持ち歩いているクロスワードパズル本の片隅に絵を描いていく。なかなかに写実的で上手い。葉佩は芸術系に特化しているようだ。
「蛇――と言われているね。まァ、ノヅチじゃないかとか、いろいろ言われてはいるけれど、実物を見た人はいないんだよ」
「……蛇……嫌い……」
 真っ青な顔をして彩は皆守の傍に寄る。
「いない。安心しろ。……曲がりなりにも新宿だぞ。東京のド真ん中にそんなもんがいるか」
 吐き捨てる皆守に、葉佩は面白そうに笑った。
「おやおや。大和ちゃんと同じこと言ってるよ」
「うるさいな」
「……まァ、いるいないは別にして、この學園は本当に娯楽に飢えてるよねェ……。上から下へのお祭り騒ぎだよ。明日香ちゃんなんて捕まえる気満々でいるからね。さっき見たら、虫網持って走り回ってたよ」
「八千穂はそういう奴だ。……ああ、そういや彩は加賀智は平気なのにツチノコは嫌なんだな」
「……嫌い……」
「ああ、わかったわかった。そんな顔するな」
 嫌悪と恐怖の入り混じった、何とも形容し難い顔をしている彩の頭を撫でた皆守は体を起こした。
「そろそろ、昼休みも終わるか?」
「おや。じゃあ、彩。保健室に戻っていてね」
「うん」
「じゃあ、行こうか、甲太郎ちゃん」
「あァ。……面倒臭い……早退するかな……彩を保健室に送りながら考えるか」
 その日、皆守が葉佩を最後に目撃したのは、階下へ向かう皆守と彩に、いつも通りの優しい微笑みを浮かべて手を振った姿だった。

     ***

 パニックを起こしていた。鏡に映った自分は見慣れた優男ではなく、文学少女だったのだ。
「お前が七瀬じゃない? ……ノイローゼか何かか? そういう話は瑞麗にでもするんだな」
「ほ、本当なんだよ! 俺は――!」
「ああ、はいはい。そろそろ五時限目が始まるぞ。お前は教室に戻った方がいいんじゃないか? 俺は早退するが。これからは不審者にせいぜい気を付けろ。……じゃあな」
 あまりにもな仕打ちだと、神を恨んだ。皆守ならば信じてくれるかもしれないと思ったのが間違いだった。
「甲太郎ちゃんのバカ……」
 去り行く皆守の背中に呟いても、その声は聞きなれた自分の声ではない。
「ル、ルイちゃんなら……ルイちゃんなら……」
 それこそ、一縷の望みを託すのは瑞麗以外にいなかった。
 体が思うように動かない。ああ、もっと早く走れるはず。走れるはず。転びそうだ。大丈夫。でも、違う。月魅ちゃんになるなんて、俺はどこに……入れ替わったのかな……
 様々なことが頭を駆け巡っていく。
 保健室の戸に手をかけ、開ける。
「……?」
 瑞麗が書類から僅かに顔を挙げ、煙管を持つ左手を軽く上げた。
「ああ、葉佩。入りたまえ」
「……」
「?」
 瑞麗は振り返り、「七瀬か」と首を傾げた。
「おかしいな。葉佩の氣を感じたのだが……」
「葉佩九龍です!」
「は?」
 ポカーンとした瑞麗の口元から煙が立ち上る。
「廊下で月魅ちゃんと正面衝突して、その衝撃でどうも入れ替わっちゃったみたいなんだよ~!」
 身振り手振りを交えて七瀬=葉佩は早口にまくし立てる。
「そうか。お前が葉佩だとすれば、私が感じた氣に間違いなかったわけだな。……興味深い現象だ」
 煙管の灰を灰皿に叩き落す瑞麗。いつも彩とアンリがいる衝立の向こうで、ゴソゴソ動いている気配がある。ひょこッと彩が顔を出した。
「……父……?」
 彩はトコトコと葉佩の傍により、頷く。
「父。……見える。父の姿、見える」
「彩……」
「彩は『見える』のだろう? 氣を読むのと同じ原理かも知れんな。まァ、とにかく座って私の話を聞け」
 気が気でないらしい葉佩は落ち着きなくあちこち視線を飛ばしている。傍らの彩をギュッと抱き締めている姿は、葉佩九龍が初めて見せる未知への恐怖に他ならない。
 瑞麗は憐れな相談者に、自らが知る限りの知識から求めうる見解を述べ、こう締めくくった。
「慌てるのは当然のことだと思うが、この事実を他者にあまり話さないに越したことはないと思う。お前を屠ろうと狙っている者もあるのだろう? ……お前の体――七瀬が心配ならば、これ以上の他言は無用だ。いいな?」
 この時点で、葉佩は雛川に謝りのメールを入れようと心に決めた。雛川の悩み相談も重要かもしれないが、《執行委員》である真理野を優先するべきだと《宝探し屋》としての職務意識が頭をもたげていた。それに真理野と雛川の時間は見事にブッキングしている。
 ならば、《執行委員》を取るだろう。
「わ、わかったよ、ルイちゃん。……俺にもいろいろと用事があるから、これで……」
「うむ。……気をつけて行けよ」
「うん。ありがとね」
 とは言っても、不安で胸がはち切れそうだ。彩はそんな父に言う。
「大丈夫。……彩、父わかる。一緒……」
「ありがとね」

     ***

 七瀬のふりをして、自分を捜す。
 何ともまァ、不思議な感覚である。
 幾人かの証言で、自分が――葉佩九龍の体が図書室にいるということを掴んだ。
 その間、何気なく葉佩を捜す月魅を演じていたわけだが、さすがに演劇部のトップスタァ。そんなことは『お茶の子さいさい』である。
「月魅ちゃん……? 月魅ちゃん……」
 トントン、と図書室の戸を叩く。
「俺だよ、葉佩だよ……」
 ついこの間、彩に読んでやった絵本に似ている。『七匹の子山羊』だったか……
「……は、葉佩、さん……?」
 図書室の中から自分の声がした。葉佩の顔が引きつる。自分が女言葉で喋っている。正直、ゾッとした。「顔が見えなくってよかった」と、心底思った。自分が目に涙を溜めて自分を見つめているなんて、考えただけでも怖気が走る。
「葉佩さんにぶつかって、目が覚めたら葉佩さんで、慌てて図書室に入って、鍵を……かけました……。ど、どうしましょう……! もし、もし戻らなかったら……!」
「そんなことお言いでないよ。大丈夫。何とかする」
 当てはないが。
 口先だけでも言っておかねば、どうにも自分が落ち着かなかった。そう信じたいことを口でいい、自分を納得させる。
 ――人間、落ち着きが大事だよねェ……
 と考えつつも、頭の中は一向にまとまらない。
「葉佩さん、励ましてくださるんですね……ありがとうございます……! 私、ここで元に戻れる方法がないか探してみます。葉佩さんも、私として頑張ってくださいね!」
「うん。……が、頑張るよ……あ、そうだ。俺のポケットの中の物、一通りもらえないかねェ。俺も月魅ちゃんの持ち物をそっちに渡すから」
 ドアが少しばかり開き、手が出る程度の隙間が出来た。そこから自分の震える手が寮の部屋の鍵やらH.A.N.Tやらを手渡してくる。少々背筋が寒くなる光景だ。差し出される手が間違いなく自分の手だと思うのがまた恐ろしい。客観的に自分の手を眺める日が来ると思わなかった。
「月魅ちゃんのポッケの中身、渡しとくねェ~」
 葉佩も七瀬に持ち物を渡し、その場を後にした。
 ――不安だ……

     ***

「アンリ?」
 皆守は帰って来るなり、葉佩の寮の部屋を覗いた。
「あ、甲太郎兄ちゃん……」
 泣きそうな顔をする。皆守は「仕方ないな……」と溜息を吐き、靴を脱いで部屋に上がると、アンリの頭をぽんぽんと撫でた。
「どうした」
「……ひ、一人……寂しい……よ……」
「そうだな。一人は寂しいな」
 静かに泣き出したアンリに、皆守は言う。
「なァ。彩も、寂しいって言ってたぞ」
「う、嘘だもん……。彩、僕のこと、もう、きっと嫌いに――」
「そんなことで嫌いになったら、俺はとっくの昔にお前の父親を蹴り殺してるぞ」
 事実だ。
 蹴り殺すどころか、《墓》の下だ。
「け、蹴り殺……!」
 アンリの目が真ん丸に見開かれる。皆守は「はァ……」と大きな溜息を吐き、アロマに火を点ける。通学バッグを置き、綺麗にメイクされた葉佩のベッドの上に容赦なく寝転がった。
「言葉のあやだ。言葉のあや」
「……」
「お前の父親は、確かにいろいろとイライラすることが多々あるが、俺の親友だからな。一回り以上も歳が違う人間に親友も何もないかもしれないが」
「友達?」
「ああ、そういうことだ」
 そう言って、大きな欠伸をする皆守。
「アンリ、ゲーム消して昼寝しようぜ。絶対にその方が有意義だ」
「お昼寝? ゆ~いぎ?」
「一番いい選択肢ってことだな」
「……うん」
 父親であり親友である人間がどういった状況に置かれているのか、この二人はまったくわかっていない。
 アロマが終わるのを待っていたかのように、皆守は制服の上だけ脱いで、ベッドに潜り込む。
「なァ、アンリ」
「なァに?」
 同じようにベッドに潜り込んできたアンリの青い目が皆守を見た。皆守は言う。
「彩は、会いたがってるぞ」
「……うん……」
「よし。寝ようぜ」
「うん」

     ***

 七瀬の姿で寮の部屋に戻り――「葉佩さんに用なんです」と適当に言い訳しながら部屋に戻ると、いると思っていたアンリがいない。
「……」
「父」
 彩が葉佩の腕を引っ張る。敏い息子が指差したベッドには、どう見ても何者かが昼寝をした跡がある。アンリの背よりも遥かに大きく乱れたベッドは、皆守もいたことを示している。
「ゲーム機ないねェ」
「隣」
「そっか。それなら、心配要らないね。彩も、甲太郎ちゃんのところにいなさい」
「……ついてく」
「彩。今日はダメだよ」
 葉佩は屈んで彩と視線を合わせると、至極真面目な顔をした。そして、彼にわかるアラビア語で伝える。
「彩、俺は七瀬ちゃんの体を預かってるんだ。……今日は無理が出来ない。自分の身を護ることだけで精一杯なんだよ。……だから、甲太郎ちゃんとアンリと待っておいで。……いいね?」
「わかった。……お父さんも、気をつけてね」
「もちろん」
 手早く身支度を整えた葉佩は、いつもよりも武器が重く感じるのに辟易しながら、彩を振り返った。
「いいかい? 俺は窓から出るから、飛び降りたらダメだよ。俺が出て行ったら、鍵を閉めて、甲太郎ちゃんの部屋に行きなさい」
「うん」
「行ってきます」
 窓の傍を縦に走る樋を伝いつつ下りた。いつものように飛び降りることなど出来ない。
 それでも、普段の七瀬に比べたらかなり軽い身のこなしで、墓へと向かって走っていく。
「……父……」
 窓を閉めて鍵を掛けると、彩はその足で部屋を出て隣室のドアを叩いた。
「……はい」
 不愉快そうな皆守の声の後、ドアが開いた。
「……? ……あ」
 影がある。
「入れよ」
 影は皆守の部屋に吸い込まれた。彩は光学迷彩を切って猫スーツを脱ぎ、黙って自分を見つめるアンリを見る。
「彩……」
 アンリの青い目がうるうると大きく揺れた。
「アンリ……彩、会いたかった」
「彩……」
 メソッと泣き出したアンリと、それを宥める彩を部屋に置き、皆守は葉佩の部屋を見に行った。部屋の主は不在で、ドアの鍵は開けっ放しである。預かっている鍵でドアをしっかりと施錠して部屋に戻ると、アンリと彩は、皆守にわからない言葉で会話している。
 どこか真剣だ。
「……えッ?!」
 叫びそうになったのか、アンリは自分の口に手を当てて、ボソボソと話している彩の声に頷く。
「こ、甲太郎兄ちゃん……」
 アンリは顔を上げ、皆守を呼ぶ。
「何だよ? 腹でも減ったのか?」
「ち、違うの。パパ……今ね、『コジンイワク』のお姉ちゃんと入れ替わってるんだって……彩が……ルイ先生もそう言ってたって……」
「な、何?!」
『甲太郎ちゃん、俺だよ、葉佩九龍だよ!』
 七瀬が葉佩の真似を出来るはずもない。あんなに真に迫った演技など七瀬には無理だ。
「は、葉佩は……七瀬に……?!」
「彩、父と帰ってきた……。月魅お姉ちゃんだったけど……」
「あ、あァ……それじゃあ……本当だったのか……」
「え?!」
 アンリと彩が皆守をジッと見る。
「あ……」
 皆守は居心地悪そうに頬を掻き、アロマに火をつけた。
「……じ、実はな……俺は……葉佩に会った……」
「で? どしたの?」
「信じなかった。冗談だと――って、七瀬が冗談言うような奴じゃないのは知ってるはずだろう、俺も……!」
「甲太郎兄ちゃん、どうしよう……! パパ、一人だよ……!」
 アンリはベソをかきながら皆守を見つめる。彩は皆守のことをじっと静かに見つめている。
「アンリ、彩」
「な、なァに?」
「飯にしようぜ。こうしててもしょうがないだろ。何かあれば、メールでも何でもしてくるさ」
 たぶん、だが。

     ***

 遺跡の広間で、入念に準備体操をした。そうでもしなければ、どうにも動けそうもなかったのだ。
「普段、本ばっかり読んでるコだから仕方ないけれどねェ……」
 前屈しながら思う。
「イタタタタタ……手、手が床につかない……」
 葉佩の体は非常に柔らかい。苦もなく前屈が出来るため、この間接と筋の痛みはしばらくぶりである。
 風呂に入った後、アンリと彩と一緒に柔軟運動をしている賜物なのだが、七瀬はそんなことはしまい。
「と、とにかく、少しでも動いてから行こう……!」
 とりあえず、葉佩は広間を二周走ってから、潜ることにした。
 真理野がH.A.N.Tに送ってきた卑劣な――少々首を傾げざるをえない挑戦状の時間には間に合うはずだ。

     ***

「お邪魔します」
 皆守の部屋にやってきた取手は、揃ってゲームをしているアンリと彩を見て、
「ああ、仲直りしたんだね」
 と微笑ましそうに頷き、皆守に訊く。
「はっちゃんは? 買い物かい?」
「遺跡だ」
「え?」
 取手はそこで、皆守から信じられない事実を耳にし、
「ああ。そういえば七瀬さん、様子がおかしかった気がする」
 と、思いつく。
「パパ、大丈夫かなァ……」
 呟くアンリに彩は頷く。
「父、大丈夫」
「とりあえず、飯にするぞ」
「カレー?」
「ああ、今日はポークカレーだ。ビネガーでマリネした……」
 皆守の説明は彩とアンリと取手がスプーンを握るまで続いた。

     ***

「……も、もう無理……!」
 広間半周で葉佩を音を上げた。
「ひ、酷いな……酷い運動不足だよ……!」
 ゼーゼーと息を吐きながら、葉佩は一端魂の井戸に向かう。
「え~と、確かあったはず……」
 《シストの弾み車》と《孔雀の羽》を調合し、《浮遊輪》を作る。
「これで、少しは楽になる……といいなァ……」
 希望的観測である。
 葉佩はそれ装備して真理野の区画に進むことにした。

     ***

「……?」
 スプーンを咥えたまま、皆守は鳴っている携帯を手にする。
「お行儀悪いよ、皆守君」
「うるさいな。わかったよ」
 取手の注意にスプーンを置いてから、皆守は携帯を開ける。
「葉佩だ」
「パパ?」
「父……何?」
 自分にしがみついて携帯を覗き込む子供二人に辟易しつつ、メールを開けた。
『酷いよ、酷い運動不足だよ……!
 月魅ちゃんには、後でそう言わないと……!
 運動不足にやられそう……(笑)』
 案外、無事らしい。
「七瀬は、やっぱり運動不足か」
「文学部だしね、体育も得意じゃないらしいよ」
「それじゃ仕方ないな。みんながみんな八千穂のはずもない」
 パチン、と携帯を閉じ、アンリと彩を座らせて食事を再開する。
「……ま、何事もないことを祈るさ」

     ***

「因幡の白兎の話かァ……」
 『大きな袋を肩に下げ』で始まる、因幡の白兎の童謡。それを口ずさみながら扉に手をかける。
「おやおや」
 水蛭子がいた。
 構えるM92FMAYAのグリップの感触が違う。感触が違うというより、握り心地が違うというべきか。手の大きさが違うのだから、握り心地に差が出てきても仕方ないことなのだろうが。
 水蛭子は蛙に近い形だが異形である。
「水蛭子――恵比寿さんねェ……。大黒さんのエリアに出てくる辺り、因縁めいた感じで考えられますねェ」
 伊邪那岐、伊邪那美の初めての子供が水蛭子である。生まれてすぐ葦舟に乗せて流されてしまったため、子供の数には入れられていない。
 水蛭子と書けば《ヒルコ》だ。水が付かないと蛭子と書いても《ヒルコ》と読むのは当然ながら、《エビス》とも読む。《エビス》といえば大国主の息子の事代主が《恵比寿》であると言われている。
 水蛭子も恵比寿も水で死んだ。その辺りから、水死体を恵比寿さんと呼ぶ地域もあるというから、日本語というのは不思議であるし、神話が根深く根付いた土地柄もあるのだろう。
「うん、それにしても気持ち悪いね」
 水蛭子の盛り上がった瞼がグリグリと蠢いている。地に付かんばかりの腹は不気味に顫動している。
「見てくれはよくないねェ。彩が見たら泣いちゃうよ」
 両手に握られたM92FMAYAが火を噴いた。

     ***

「……パパ、いつ帰って来るのかなァ……」
 アンリは彩にベッタリくっついて離れない。距離感が今一つ掴めていないのは明らかである。
「父、すぐ帰る」
 彩はぽふぽふとアンリの頭を撫で、ゲームに戻る。相変わらず、ハイテンションな歌に合わせて鼻歌を歌いながら塊を転がしていた。物の配置をすべて記憶しているのか、動きに全く無駄がない。
「そういえば、皆守君」
 取手は音楽の宿題を皆守の分まで片付けながら訊いた。
「はっちゃん、今、七瀬さんなんだよね?」
「ああ、そうなるな」
「……当の七瀬さんはどこにいるんだろう?」
「……」
 皆守の視線が一拍置いてから取手を向いた。
「何?」
「いや、だからね、『七瀬さんはどこにいるんだろうな』って」
「……」
 現在の七瀬の外見は、上背が百八十センチある葉佩九龍だ。あの、目立つ外見の葉佩九龍だ。
「……校舎に残ってるとか……?」
「下校時刻には出てると思うけど……」
「……おい、まさかとは思うんだが、女子寮に帰ってないだろうな……?」
「僕に訊かれても困るよ……」
「いらん誤解を生むだろ?」
「例えば?」
「あ~……七瀬と葉佩が付き合ってるとか? それを八千穂が誤解するとか?」
「……」
 取手の頬がヒクリと反応した。
「……怖いね……」
「……八千穂に確認取ってみるか……」
「そ、そうだね、とりあえず……」
 皆守の携帯のディスプレイを覗き込む取手。
『受信者:八千穂明日香
 送信者:皆守甲太郎
 件名:つかぬ事を訊くが
---------------------
 葉佩が女子寮に入っていったとか、
 そんな話とか、噂とか、聞いてないか?』
「た、単刀直入だね……」
「なら、他にどんな訊き方があるって言うんだよ」
「あ、うん、そ、そうだね……」
 返答はすぐに来た。
『受信者:皆守甲太郎
 送信者:八千穂明日香
 件名:何で知ってるの!?
---------------------
 そうなの!
 詳しいことはわかんないんだけど、
 そんな話が出てるんだ。
 九チャン、奥さんいるのに!
 月魅の部屋で何してるんだろ?!
 でも、見間違いかもしれないから、今は様子見です』
「当たりだ……」
「はっちゃん……どうするんだろうね。というか……いつ戻れるんだろう?」
「だから、俺に訊くな……」
 携帯を閉じ、皆守は置いてきぼりの子供二人の背中を見た。
「……葉佩の奴、七瀬の体で進めるんだろうか……」

     ***

「……こ、怖ァ~……」
 いつもなら、ひょいひょいと渡れるような隙間も怖い。
「は、半分以下……! 浮遊輪付けてこれ!?」
 残念ながら、浮遊輪では跳躍距離は伸びない。
 幸い、武器がいいということで敵を屠るのに苦労はないのだが、一歩一歩進むのが辛い。足腰が痛くなってきた。
「今どの辺りなんだろうねェ……」
 溜息が出る。
 暑くはないが湿気が多く、肌にベタッとする空気にうんざりした。
「とにかく、進まなきゃ……!」
 自分がしっかりしなければ。
 そう言い聞かせ、葉佩は前に進むことにした。

     ***

「まァ、なんだ」
 皆守はテーブルの上に取手が持ってきたリバーシを広げた。
「俺たちが気を揉んでも仕方ないということだ」
「うん。まァ、そうだね」
 子供たちは、ガタガタと何かを始めた皆守と取手が気になるのかゲームの電源を切ってテレビを消すと、取手の隣にアンリが、皆守の隣に彩が陣取って盤を眺める。
「何するの?」
 アンリは裏表を白と黒に塗り分けられた円盤を手にして首を傾げている。彩は盤の真ん中に並んだ白と黒二枚ずつの円盤が気になるらしい。
「リバーシだよ」
 取手は彩とアンリに簡単にルールを説明する。
「最終的に枚数が多い方が勝ち」
「面白そう!」
「とりあえず、皆守君と一戦交えるから、見てるといいよ」
 取手はやる気だ。皆守は「ふ……」と小さく笑った。
「……返り討ちだ」

      ***

 と、バディたちが暢気にリバーシに興じている頃、葉佩九龍は色違いの塩垂に辟易していた。
「……参ったねェ……」
 爆発物を最低限しか持って歩かないため、耐久力が上がっている塩垂が面倒で仕方ない。ただ、あからさま過ぎるほど大きな弱点が頭の上についているため二挺拳銃の葉佩の敵ではないが、これから先もこういった別バージョンの化人が出てきた場合の対処法を考えなければならない時期が来たらしい。
 仕掛けをシーリング剤で補修をしながら溜息を吐く。
 敵自体の数が少なかったのは不幸中の幸いだったが、この区画の最奥には真理野がいるのだろう。
「……あの石を真っ二つにするんだよ……? 怖いなァ……」
 人の体など、呆気なく真っ二つに違いない。
「悩んでても仕方ないよねェ」
 H.A.N.Tを確認すれば、待ち合わせまであと三十分ほどだ。
「……これで囚われてるのが彼女であれば、どんな困難にもめげずに進むんだけれどねェ……参った参った……」
 補修した仕掛けを動かして巨大なスサノオ像を消失させると、葉佩は御諸山参道に入った。

     ***

『水攻めだよ~!』
 という葉佩の泣き言をあっさりと受け流し、皆守は盤上に視線を移す。
「誰からのメールだったんだい?」
「あ? ……間違いメールだ」
 あっさりと嘘を吐く。取手の頬が僅かに引きつる。
「……あ、そう」
 嘘などお見通しだ。
 間違いなく葉佩からだろう。子供たちがいるから何も言わないのか、黙殺出来る程度の内容なのかは皆守しか知らない。
 子供たちは皆守と取手の代わりに円盤を盤上に置いている。そうしながらルールを教えているのだ。
「ほら、アンちゃん、こうなると――」
「裏返し!」
「そうだよ。こことここも、ひっくり返るんだよ」
「挟まれてる!」
「そうそう」
 彩は次々に黒くなっていく盤面を見ながら、皆守の言葉を待たずに、ぺシ、と円盤を置いた。
「ここ」
「彩、お前勝手に――」
「ここ、いっぱい」
「……あ」
 アンリの目の前で、盤面が白く変わっていく。
「鎌治兄ちゃん……!」
「……やられたね」
「彩は偉いなァ」
「彩、頑張る」
 両陣営の戦績、ただいま一勝一敗。

     ***

「……単純なトラップだったから……助かった……」
 あれよあれよという間に足首まで水に浸かるとは思わなかった。えっちらおっちらワイヤーをよじ登り、開錠のための《秘宝》を手にして一息吐く。
「もう少しかねェ」
 真理野剣介まで、あと、僅か。

     ***

 芦原中国の紀、化人創成の間――十九時。
 これほど色っぽくない待ち合わせは金輪際御免だと葉佩は思う。
「む、お主は……葉佩と共におった……」
「俺の――じゃなかった、私のことはどうでもいいんです! 雛川先生はどこですか! 葉佩君にメール送ってきたでしょう?!」
「雛川だと? 拙者は葉佩に文など送ってはおらん」
「ほへ?」
 葉佩がポカーンと真理野を見つめる。確かに、確かに文面はおかしかった。本人が否定するのだから、送ってはいないのだ。
「拙者は正々堂々と葉佩と死合いするためにここにいる。そのようなことよりも、何故、お主がここに?」
「……」
 説明しても、恐らく納得しないだろう。あれこれと考えていると、真理野は一人頷いた。
「言わずともわかる。彼奴に命じられたのであろう? 女子の色仕掛けで拙者を懐柔しようとするとは……葉佩九龍め」
「あ、いや……そんなことは……ないから……は、葉佩君は……」
 口の中でもごもご言い訳してみるが、真理野の耳に届いてはいない。
「男子の風上にも置けぬ輩よ! お主に恨みはないが、《墓》の存在を知り、この《墓》に入り込んだ以上、斬らねばならぬ。それが《生徒会執行委員》たる者の勤めだ。許せ……」
 咄嗟に、縋るような目で真理野を見つめていた。
 ――これは、七瀬ちゃんの体なんだから! 無理出来ないんだから!
 そんな意味を込めて。
 真理野はそんな葉佩を見て、あからさまに動揺した。
「か、斯様な目で拙者を見るな!」
 どうやら女性に対しての免疫がないようだ。これで、少しでも攻撃の手が緩まればしめたものである。
 ――無理出来ないんだ。無理出来ないんだから……
 葉佩はそれでも両手にM92FMAYAをぶら下げ、いつ何時攻撃を仕掛けてくるかわからない真理野に向かう。
 辺りに、化人の現れる気配があった。
「死ぬ前に教えてやろう……」
 真理野の持つ原子刀の説明を聞きながら、葉佩はどう攻略したらいいものかとそれだけを考えている。

     ***

「……七時……」
 彩は時計を見た。
「七時がどうした?」
 訊いた皆守に、彩は言う。
「父、《墓》で待ち合わせ」
「待ち合わせ?」
「うん。父、言ってた」
 アンリは早々にリバーシに飽きたらしく、ゲームをしている。取手は彩のリバーシの相手をしていた。皆守はカレーレシピ本に目を通している。
「待ち合わせ……《執行委員》が七時に来いなんて言うんだね」
「うん」
 彩は一つ頷き、パタパタと円盤を裏返していく。
「パパ、一人で平気かなァ」
 呟いたアンリに、皆守は本から目を上げた。
「問題ないだろ。今まで一人だったんだろうが」
「たぶん……」
 釈然としない、そんな感じでアンリは頷いている。
「ただ、今の葉佩は七瀬だってことだ。その辺りで話がこじれていないことを祈るんだな」
「ああ、そうだね……七瀬さんだったっけ」
 取手は困惑を顔に出す。
「何事もなければいいよね」

     ***

 結論。真理野には近付かない。
 葉佩はなるべく等距離を保ちながら銃による攻撃を行うことにした。近付けば真っ二つ。七瀬に危害が及ぶことだけは避けなければならないことを考えると、採るべき方策は『近付かない』以外にない。
「ひ、卑怯な……!」
「仕方ないでしょう!」
 悲鳴混じりの葉佩=七瀬は、逃げ回りながらも化人を倒し、真理野にダメージを与えている。
「せめて一太刀……!」
「それに当たったら、こっちがお陀仏ですから~!」
 とにかく、必死だった。
 足がもつれて尻餅をついても、這ってでも距離を開ける。その繰り返し。皆守が見たら、「無様だ」と一言で済ませそうな戦い方である。
 浮遊輪がなければ、こんなにもスムーズに戦えなかっただろう。浮遊輪があったから、まだ何とかなっている部分もあるのだ。
「ぐァ……!」
 真理野がようやく膝をつき、黒い砂を吐き出すのを見つめていた葉佩は、黒い砂が形作る化人の姿を口を開けて見つめていた。
「……いたんだっけねェ……」
 大型化人の存在を失念していたのである。
「今度、タクティカルランチャーを購入しよう……」
 緊急事態に直面して、初めて必要な物がわかるのだ。

     ***

「父、遅い……」
「そうそう戻ってこないだろう。……真理野を斃したとしても、その後でデカイ化人が襲ってくるわけだからな」
 欠伸を噛み殺しながら言う皆守の隣で、
「パパ、大丈夫かな~……」
 もそもそとパジャマに着替えるアンリと彩を見ていた取手は、
「はっちゃんなら、心配いらないよ、きっと」
 と、とりあえず安心させるように口に出してみる。葉佩が何かあるということは滅多にないであろう。怪我をしても、端から傷が塞がる。痛みだけはどうにもならないようだったが。
 だが、しかし。
 葉佩の体ではない。現在は七瀬の体なのだ。そこいらを失念している。彩は首を傾げ、くるりと皆守の方へと顔を向けた。
「父、月魅お姉ちゃん。……心配……」
「ああ、そうだったな……」
 他人の体でどこまで行けるのだろうか。どうにも不安材料は目の前に転がっているものである。蹴散らせども、二度、三度と戻ってくるのだから。

     ***

「……た、弾切れた……!」
 葉佩の悲鳴。愛銃からはもう一発も弾が出ない。「やっぱりタクティカルランチャーは必要だ!」と痛感しつつ、攻撃の手は休めない。
「え~いやァッ!」
 間延びした掛け声とは裏腹に、葉佩の手には凶悪を絵に描いたような棘付きメイスが握られ、それを思い切り振り抜いている。
「たァ~ッ!」
 メイスを持ってきてよかった。
 攻撃するたびに敵との距離を開け、少しでも休息を取ろうとする自分に驚いた。七瀬の体は、やはり運動不足だ。この程度で悲鳴を上げるのだから。
「も、もう少し……!」
 肩で息をしつつ、葉佩は「もう少し、もう少し」と呟きながら、次第にひびが入っていく卵の殻に、間欠的にだったが攻撃を繰り返した。
 後に真理野が語ったところによると、メシメシ……という音とともに月読の殻が割れたとき、葉佩=七瀬はこれ以上もないほど嬉しそうに笑っていたという。

     ***

 翌日。
 戻ってこない父親を心配していた子供たち宛てに、八千穂から皆守の携帯電話にメールが入った。
『九チャンが、月魅の部屋にいたの~! 思わずぶん殴って――』
「パパ~!?」
「……父……」
「はァ~……」
 アンリの悲鳴と彩と皆守の溜息。
 元気よく寝癖で飛び跳ねている髪もそのままに、アンリはおろおろとしている。
「パ、パパ……大丈夫かな……茂美姉ちゃんみたいになってないかな……」
「父……無事……ならいい……けど……」
 彩は皆守の携帯電話のディスプレイを見ながら小さく呟く。
「八千穂相手に、ただじゃ済まないだろうな……。はァ~……」
 皆守はボリボリと頭をかき回すと、寝起きに一服点けた。
「ふゥ~……アロマが美味いぜ……」



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