閉じる


試し読みできます

一、

 赤坂は最近すっかり新しいビル街になったが、それでも、どこか古めかしい。
 すっかり様子が変わったと言っても、思いがけなく旧貌を留めた地域もあるのが赤坂だ。
 その中に赤坂弁護士クラブの建物がある。
 このあたりに昔、勝海舟がいた。
 赤坂弁護士クラブの敷地一帯とビルの所有者も昔は旗本の子孫であったと伝えられている。
 だが、相続で権利者が分裂して数多くなり、しかもアメリカやブラジルへ行った者も多く
   なって、遺産分割の協議などは行われていない。
 相続人はそれぞれが大金持ちで赤坂のビルの賃料などは、ほとんど笑殺されているため、
 放置されたビルも旧貌を留めたままという希有の古建物である。
 管理を依頼されているのが赤坂弁護士クラブの会員であるが、横着にも放置同様の処理を
   しているため、新ビルに挟まれたビルは遺憾ながら旧弊のまま、今日の有様が続いている。
 ただし新ビルと違い、敷地は広く、ビルの玄関脇には椎とも樫ともつかぬ古木が一本ある。
   赤坂弁護士クラブは二階全部を占領している。ただし安い家賃はちゃんと払っているから
 抜け目がない。
   二階の内部は古いオークの内装である。
 わざとしたものではなく昔のまま貸し手も借り手も金を掛けないだけだ。
   油で掃除した木製の広い階段を上がり、廊下から入るといきなり部屋だ。
 古いテーブルセットが幾つかあり、これが会費を負担する弁護士たちが集まるメインルーム
   である。
 ほかに木製の椅子が散らばっている。
 明治時代のような部屋である。栗色の腰板が巡らしてあり四隅には同質の飾り柱がある。
 ほかに書棚のある図書室があり健在である。ほかに、昔はビリヤードルームであったが
 今は学生たちの控え室で研究室になっている一室もある。
 選ばれた学生たちが無料会員となり、ここで司法試験をめざして昼夜、ワイワイと集まって
   いる。
 夜間はこの研究室は女子学生専用となる。広い図書室は男子が立てこもる。クラブに終業時間は
   なく、メインルームは公開の討論室となる。夜中は学生たちの天下だ。
 その代わり、学生たちは無料アルバイトとしてクラブの給仕役となり、立ったまま会員の
 弁護士たちとの会話を付き合う仕組みである。
 弁護士たちもねばって学生たちの討論に加わる。一種の夜間私設セミナーである。
 赤坂はうまい食べ物屋が多い。外から仕出しの食事も取れるが、クラブではウイスキーと
   ブランデー、紅茶、コーヒー、それに学生が作るサンドイッチは無料となる。ビールは有料だ。
 学生会員の野菜スープは大鍋に作ってあり飲み放題だ。
 だれかが豚肉などを投げ込むこともある。
 弁護士も盗み食いをする。もちろんタダ。食パンや白飯も同じである。近所から取るラーメン、
   チャーハン、野菜いため、うどん、掛けそば、丼物、カレーライスなどの安い食い物は学生に限り
   半額で、あと半分はクラブ負担だ。ただし学生は禁酒で、呑みたければ外のラーメン屋へ行く。
 学生の人数は四十人に達しているのが現状だ。大学へ行かず独学の者もいるが、赤坂は便利が
 いいから、いろんな若者が集まっている。常連は十人位か。勉強に熱中している若者たちは皆が
 熱っぽい。
 会員の弁護士たちは夜中を待たず引上げるのが常だが、中には大阪の会員で立派なホテルの
 部屋を取っているくせに、ほったらかして赤坂弁護士クラブのソファと毛布で泊まり込む
 物好きもいる。
「昔、こうやって試験に通ったんだからね」と、懐かしがる先輩組で、鮨などおごるから、
 学生たちも大喜びだ。
 クラブの創設メンバーの長老、梅田弁護士が姿をあらわした。
「まだ、だれも来ないのかね」
 と、いつもの言葉だ。
 続いて石野弁護士がやって来た。
 茶の三つボタンの背広で、手ぶらだ。
「スコッチの水割りにしようか」
 と、梅田弁護士がいうと、
「じゃあ僕もそれにしよう」
 と、石野弁護士が言う。
 女子学生の細川千恵子が二つ作る。
 ミネラルウォターを入れて、冷やした紅茶を健康のためゴマ化しに、ちょっと足す。
 このトリックに気がつかないで二人の弁護士はご機嫌でスコッチの水割りをのむ。
 学生達は、ウイスキーボトルや氷入れを傍らにおき、前記のように侍立して話だけは
 弁護士達に加わるのが、このクラブのルールだ。くたびれたら、勝手に休める。
 窓の外は、もう浅い紺の夜空になる。
 常連の弁護士達がおいおいやってきた。
「今日は、何の話をするんだっけ」
 と、梅田老弁護士が口火を切った。
「あれ、(いつも雑談まがいだから、次は民法の基本からやろう)と言ったのは梅田先生じゃ
   ありませんか」
 と、学生の横浜育ちの緑山だ。
 これが一番新入りで、司法試験の勉強も熱心にしている。
「ではいいか。基本からかかるぜ」
 と、石野弁護士が念を押した。
「はい」と学生達が、自信なさそうだが、赤坂弁護士クラブの遊びだから半笑いのままだ。
「まず、民法第一条をいってみたまえ」
「へえ?」
 と、学生達が意表を突かれて戸惑う。まさか民法の最初の条文を聞かれるとは思って
 いなかった。
「これは戦前の高等文官試験の司法科の口述試験でよく出された問題だ」
 と、梅田弁護士が古いところを披瀝する。
「私権の享有は出生に始まる、だったな」
 と、言ったのは石野弁護士だ。
「でも今はちがいます」
 と、言ったのは若い国本弁護士だ。
「覚えているかね」
 と、国本弁護士も学生たちを突き放す。
 むろん司法試験の勉強の一端である。
「はあ、第一条は、エエト、私権は公共の福祉に適合しなければならない。
 権利の行使および義務の履行は信義に従い誠実に行わなければならない。
 権利の濫用はこれを許さない。だったと思います」
 と、答えたのは細川千恵子だ。
「おや千恵ちゃんは偉いぞ」
 と、石野弁護士はそつがない。
「第一条はそれだけかね」
「だと思いますが」
 と、ここまでくると細川千恵子も自信がなくなる。
「じゃあ、第二条は?」
「うん、わかりません」
「ハ、ハ、ハ、」
「そのくらい暗記していたほうがいいよ」
「さっきの私権の享有は出生に始まる、というのは今じゃ、第三条になるのさ」
 と、国本弁護士が言う。
「私権に限らず人権というものは、人間に初めから備わっているものかね?
 それとも後から法律で与えられるものかね?」
 石野弁護士は追及した。
 学生の落合良夫が答える。
「そりゃあ人権は天賦人権だと思います。神様から与えられたものです。私権の方はどうかなあ」
「所有権は人権かね、単なる私権かね」
「所有権は自然法による絶対権だと言うのを読んだような気がしますが。
 だからと言って人権とまで言えるのかなあ」
 と、落合学生は急に気が弱くなる。
「猫だってね。魚を咥えて逃げるときに、コラッ、と言ったら慌てふためいて逃げるね。
 ところが屋根へ上がって魚を押さえて安心した段で、魚を取り上げようとしたらフーッと怒る。
 つまり猫でも所有権という感覚があるらしいぜ。つまり、そう言う自然法があるのさ」
 と、いつの間に来たのか横から平田弁護士が珍説を出した。
「ほうー。自然法と人権か。フランス革命時代みたいな議論だね」
 と、石野弁護士が、冷やかした。
「天賦人権説はルソーだったね」
「イギリスにだってあるさ。」と話は酒が入って入り組んで来る。
 あとは各人各説でワイワイだ。
「昔のギリシャにはなかったのかなあ」
「ローマ法にはあったかも知れんぞ」
「ナポレオン民法はどうだ」
 と、これは今の司法試験とは関係のないムダ話だ。これが楽しくて、本気の勉強もはかどる
 のが、赤坂弁護士クラブのいいところだ。
「おや、梅田先生、ウイスキーが二杯めかね。大丈夫か」
「バカを言え、これくらいで」
「千恵ちゃん、三杯目は水でいいぞ」
「ハハハ。ウイスキーで酔いつぶれる方が結末が早いわ」
 と、細川千恵子も 現代の学生だから、ハッキリしている。梅田弁護士はどうせ呑むのだ。
「民法第四条はなんだね」
 と、突然水を掛けたのはまじめ顔になった平田弁護士だ。
 一同虚をつかれてシンとする。誰も答えられない。
「ハハハ。年齢二〇歳をもって成年とする、だ」
「成るほど。うーん。ここから先は実務的になるな。今改正問題も出てるね」
 成人年齢は刑法と少年法にも関係するし、国民投票法など公法にも関係するし、
 選挙などにも関係してくる。
 むろん民法の基本でもある。
 話題は現実味をおびて、クラブの酒席ではまじめすぎる話題となる。
 これをテーマにし学生達を引き締めておいて、話を移すのが、赤坂弁護士クラブの洒脱な
 ところだ。
 学生たちはむろん、夜中にその議論に入るのだ。
 いつの間にか弁護士たちも増え、あちこちのテーブルで話に花が咲いている。
 向こうのテーブルで叫んでいるのは野田弁護士だ。
「これだけ振込み詐欺が有名になっているのに、まだ引っ掛かるのは本人にも責任がある。
 銀行などの金融取引全体を不自由にしてまで、問題を拡大するのは、不健全じゃないか」
「オヤ、弱者救済は弁護士の任務じゃないのかね」
「そりゃピントの置きようが違うだろう」
 と、野田弁護士は頑張っている。
「準詐欺罪の改正で十分だぜ。準詐欺罪は分かってるな」
 と、学生たちに聞く。
「はあ。でも準詐欺罪と振り込み詐欺は別問題だと思いますが」
「だから法律を改正するんだよ。第一だぜ、詐欺は寸借詐欺をはじめて世間にいくらでもあるぞ。
 それを全部防ごうと思えば世の中をガンジガラメの警察国家にするほかないぞ。
 ジャーナリズムが騒ぐからといって、じゃあ、電話を全部、警察が盗聴できるシステムに
 するのか。
 今回の騒ぎも体制の陰謀くさいと云えばいえるぞ。
 人殺しを防ぐため包丁を買うのも全部警察の監視下におくのか。
 民主主義、自由主義の崩壊もこういう新聞の空騒ぎから始まるんだ。
 なんだか昭和初年の軍人さん万歳の雰囲気に似てやせんか」
「ははあ」と、これは野田弁護士が酔っていると思うから学生は逆らわない。
 梅田弁護士らのテーブルは、他のテーブルは無視する。
「フランス革命といやぁ、弁護士はダントン裁判を思い出すな」
 と、いつの間にきたのか水下弁護士だ。
「ダントン裁判ったって、ありゃ裁判ではないね。政治劇だ」
 と、石野弁護士が逆らう。
「革命なら形式にはこだわらんから仕方なかろう。」
「国王の処刑だって国民公会の議決で決めたろう。あれも裁判の一種と言うことになるよ」
「でも、あれは全く政治的な決定だろう。ダントンのは裁判形式を踏んでいる法廷事件だからな」
「ダントンってなんですか」
 と、議論に割って入ったのは細川千恵子だ。
「フランス革命の過激派ジャコバン党で、貧民の親玉だった。
 ロベスピエールと中間割れしてギロチンで死刑になった」
「フランス革命って、わたし好きだわ。パリ祭もその記念日でしょ」
「うん。バスチーユ監獄の陥落記念日だ。あれで人民が武器を手に入れて、革命が出来たんだ」
「でも、革命が始まったのは、ヨーロッパの国王同士の相続争いで七年戦争をやって
 フランスの国庫に金が無くなったのがそもそもの発端だ、って聞きましたが」
 と、山田学生が言った。
「だれに」
「歴史の教授に」
「その教授は馬鹿だね。金が無いの、貧乏なのは人民も同じだ。
 国庫に限るものか、いつでも、どこでもだぜ。俺を見ろ」
 と、水下弁護士が妙なことで威張る。
 あっはっは、である。
「先生はみんなにおごり過ぎるからよ」
「あれ、千恵ちゃんはおごられるのが好きなような気がしたが」
「そりゃ好きですわ。また皆におごってね」
「そしたら、また俺が貧乏する」
「ひとの貧乏は、三年我慢、と聞きました」
「だれに」
「歴史の教授」
 またアッハッハである。
「そうだ、みんなでトンのモツ焼き食いにいこうか。それぐらいなら、おごるよ。
   新宿に安くて美味い店がある」
「赤坂軒のステーキの方がいいがなあ」
 と、山田学生だ。
「馬鹿あ言え」
「赤坂軒ならハンバーグでもいいわ」
「君たち、ハンバーグは肉の繋ぎに何を混ぜたら一番うまいか知ってるか」
 と、水下弁護士は強引に話を変える。
「何を混ぜるんですか」
 と、山田学生は引っかかった。自炊しているから実益がある。
「千恵ちゃん、麦ご飯は知っているだろう」
「そりゃ知っています。いくらわたしが上流育ちでも」
「じゃあね、あれに入れる平たく潰した麦も知ってる」
「まあね」
「あれを炊いて少したたいて挽肉に混ぜるんだ」
「パンと小麦粉じゃないんですか」
「パンと小麦粉だけじゃぁハンバーグが固くなってまずい」
「へへえ」と山田君はやってみる気配だ。
「ダントン裁判を聞かして下さい」
 と、これは一番真面目な緑山学生だ。
「うん。元へもどろう」
 と、こうしてすぐ法律の話へもどるのが、赤坂弁護士クラブである。
「だいたい君たちはダントンを知っているんかね」
「いえ。全く知りません」
「ロベスピェールもダントンも、いや、フランス革命そのものが、今の日本の法律制度に
 大きい影響を与えている。遡れば、ドイツ絶対主義法思想、カントを代表とするがね。
 それとイギリスの経験主義、功利主義の法思想、そうさ、ベンサムから飢死説の
 マルサスを経てミルに至る法思想。ここらで福祉主義が入り始める。そしてフランス思想。
 今の日本国憲法はその三つの混合だ。
 この大思潮の流れを理解して書けば、司法試験の憲法などはイチコロだ。
 ただし始めに、知ってるぞ、という感じでちょこっと一行ぐらい書いて、
 あとは試験委員が書いている普通の憲法論に譲るのがコツだ。生意気になるからね」
「えっ。そのコツは是非聞かして下さい」
「忘れたがね」
「え。そんな殺生な」
「ははは。刑事訴訟法に出てくる、こんな説話を知っているかい。
 ここに絶対許すことのできない死刑囚がいる」
「へえ」
「ところがある日、巨大な流星が地球に近付いて来て、明日はぶつかる。世界の滅亡は明白だ」
「怖いですね」
「怖くったって仕方がない。天文学の計算で明白な事実だ」
「逃げましょうか」
「どこへ」
「困ったなあ」
「そこでカントは言った。世界絶滅の先に、正義は貫徹されなければならない。
 死刑は直ちに執行されるべきだ」
「正しいけど怖い」
「イギリスの功利主義者、ゆてりたりあん、と言うがね。それは断言した。それが何になる。
 どうせ世界が滅びるのなら助けてやればいい。みんな明日は死ぬんだ。君達はどっちを
 取るかね」
 学生たちは絶句した。
「ドイツ流は観念論だ。イギリス流は利益主義。悪く言えば御都合主義だ。そしてフランス革命、
 いわばルソーなどの社会思想がある。どっちを取るかね。今の憲法は利益主義だ。
 明治憲法は絶対主義だ。とは言ってもいろんな思想が混じり合っているがね」
 梅田弁護士が口を出した。
「そうだ。その基本を押さえるかどうかが、司法試験の憲法に合格するかどうかの分かれ目だな」
 石野弁護士も加わる。
「司法試験てのはね。空理空論が大事なんだ。そこが司法書士試験や裁判所書記官の試験と違うところだ。
つまり法律処理技術と法律家の違いが要求される」
「うん。ドイツ観念論や英米功利主義、フランス革命や福祉主義の理論が分からんようじゃ駄目だ」
「だからダントン裁判を聞かしてくださいよ」
 と、細川千恵子も言った。
 次第に夜が更けて、赤坂弁護士クラブも満員に近く、あちこちで盛り上がっている。
 
「そうだな。ダントン裁判なんて、今残っている資料では、裁判にも法律記録にもなってや
 しないが、革命裁判だの人民裁判はこんなものか、ということが見えるから、知っている
 だけ言って見ようか」
「見えるだけですか」
「だって、今残っている記録なんて、革命時代にも、その後の反動時代にも、関係者の都合が
   いいように、めためたに改竄されて居るんだから、見える、としか言えないのさ。
   共産圏のソ連やら中国やらで、歴史が猫の目が変わるみたいに変えられたことは知って
 いるだろう」
 赤坂弁護士クラブは物好きな弁護士たちの私的なクラブである。弁護士たちが仲間との
 会話を楽しみにやって来るのは、仕事が終わってから、すなわち夕暮れ時が多い。
 サービス役の学生達も、一日中このクラブの図書室で本と取り組んで暮らした者もいないでは
 ないが、多くの顔が揃うのは、やはりこの時間だ。
 メインルームのテーブル席で、早めに来た弁護士が数人、退屈まぎれの無駄話である。
 これまで書いたのが、その見本だ。
 学生とはいえボーイ役の者は、小粋とまでは言えないがボーイの服を着て、ウイスキーや
 氷の桶をテーブルへ運ぶ。しかし早い時間にはウイスキーの呑み手でも、まずビール、
 と大抵が言う。
 赤坂弁護士クラブの規則ではコーヒー、紅茶、ウイスキー、ブランデーと氷などは会費に
 含まれていて無料。ビールは有料、現金払いとなっている。そして弁護士たちは釣り銭を
 取らず、これは学生達のためにプールされるのが不文律だ。
 そのビールを手に、
「いや、今日はくたびれたから聞き手に回ろう」
 と、言ったのは水下弁護士だ。
「稼ぎ過ぎさ」
 と、誰かが冷やかす。
「そうじゃない。ある人物を探して東京中を、葛飾を始めに大森から中野、練馬から調布ときて、
 キミ、八王子まで飛び歩いて所在を探したんだぞ。骨が折れた。
 その人物が、たまたまサラ金に追い掛けられている男だったから、大将、サラ金業者の追跡を
 誤魔化すために他人に化けて、なんと表札まで偽の名前にしているんだ。これにゃ参った。
 探し当てるのに大骨で、探し当ててから後も、オレは違う、人違いだと頑張る。
 他の用事だと納得させるのがまた大変で‥‥‥」
「他の用事と納得させる、はいいとして」
 と、妨害したのは梅田弁護士だ。
「その実やっぱり水下先生も別の金貸の代理だった、なんていうんじゃ、なかろうな?」
「ハハ、有り得るぞ。まさか遺産が転げ込んだんで、大金をお届けに来た、というわけでも
 なかろう。君の人相を見て用心したに違いないな」
 と、皆でからかう。
 からかわれた当人もニヤニヤして、最初のビールを終える。
 あとはグラスを替えてブランデイとなるのが水下弁護士の好みだ。
 赤坂にもこんな古めかしい建物があったのか、と思うような時代もののビルの一室であるが、
 土地の安かった昔の造りであるだけに広さもゆったりとしており、気の合った弁穫士仲間が
 自弁で維持しているクラブとしては、家具こそ古いが、どうして仲々りっぱな雑談室である。
 グラスだけは贅沢で、バカラが揃えてあり、キラキラ光る。
 ただしソファは年を取りすぎてバネが勝手に動くことがある。
 それが苦情で補助の木の椅子に座る者もいる。
 このアンバランスが赤坂弁護士クラブの現状だ。
 少し冷え込む秋の夜で、窓の外は雨になってきたらしい。
「それで、どうなった?」
「どうもならないよ。古い不動産名義を整理するだけの平凡な事件だ」
 と、ブランデイを飲む。水下弁護士の話はそれ以上進みそうもない。
「偽の表札といえば‥‥」
 それと見て、横にいた石倉弁護士が口を切った。
 これも赤坂弁護士クラブの創立メンバーの一人で、年以上に白髪が目立つために
 石倉老と言われることがある弁護士だ。
「ぼくも若い頃、記憶に残る事件がある」
 老と呼ばれるだけでなく、石倉弁護士には愛称がある。白髪の癖に通称をピカ先生と言う。
 名前が「石倉光」だから、光からピカとなった。
 以前、細川千恵子たちがケーキを貰った時に、まあ光源氏様と呼んだのが、
 全会員一致の反対を喰ってピカに変わったという経緯がある。しかし本人はピカを容認せず、
 君らの焼餅は不当だ。やっぱり光源氏、または光君がわしの名だぞと主張して聞かない。
 止むを得ないので最近は両者が併用されるが、ただし蔭では「ありゃ源氏名だ」と悪たれ口を
 言われているのを本人も知りながら満足して、源氏名で呼ばれればニヤニヤする。
 皆もニヤニヤする。
 そしてこれが赤坂弁護士クラブの雰囲気というものだ。
 石倉弁護士はいつもブランデーを飲む。なんとなく光源氏風だ。
「先生の若い頃。ヘェ、聞きたいわ」と女子学生の細川千恵子が新しいブランデーを入れながら
 言う。
「うん。今日はその話を聞こうじゃないか」と梅田弁護士も後押しをする。
「そう。梅田君の前だから古さの自慢もできないが、あれは戦後まもなくの頃だから、
   もうずいぶん昔だ。記憶も古くなると、覚えている風景も真白な夢のようなものになるね。
   ぼくも新米弁護士で、ある法律事務所に入っていた頃だが、若手の役目として地方行きの仕事を
   命じられたことがあるんだ。ぼくも若かった。正に光源氏そのままの頃さ」
「全く夢みたいな昔ですな」と一人が半畳を入れたが、石倉弁護士は昔を懐かしむ眼をして、
「そうだな。今日はぼくが、その思い出話をして置こうか」と話を続けた。
「行った先はY県の、ある田舎町だったよ。戦後といっても鉄道の混乱はもう収まった頃で、
 二等単に乗って……まだ三等車があった頃で、二等車というのは今のグリーン車だよ、
 それに乗ってぼくはいい気分で長時間の旅行をした。ところが駅へ降りてみると来る筈の迎えが
   いない。もう夕方近かったな。仕方がないから、その田舎町の淋しい駅前広場で、丸太材が積んで
   あるのに腰を下して待つことにした。馬の引く荷車がいてね」
「エッ、馬ですか」と言ったのは学生たちだ。
「ハハハ、君たち笑うけれど、日本もその頃はまだ、田舎へ行けば荷馬車があったんだよ。
 なにも戦争のせいではない。田畑の耕作にも馬や牛がいたし、荷馬車も普通に使われて
 いたんだ。
 むろんトラックの時代になっていたがね。馬は可愛いくて買い手がないから手放せない。
 馬を引く馬子も、自分のリンゴを半分、馬の横口から食わせる、なんてあったぜ。
 え、人の乗る馬車かい、それは無かった。そんなものは戦前から無いさ。
 それがあったのは明治時代だろう。人が乗るのは戦前からバス、タクシーだぁな。
 円タクなんてあったからね。ただし戦争の痛手で田舎ではバスは復活していない。
 駅待ちのタクシーはむろん無い。
 丸太材に腰掛けて見ていると、その荷馬車が何度も往復しているんだが、
 待っても待っても迎えは一向にやって来ない。日は暮れかかってくる。
 仕方がないから町を歩いて依頼者の家を探すことにした」
「心細いですね」
「町の中だけれど、遠くて豆腐屋の笛が鳴っている、といった風で心細いことは心細い。
 しかし子供じゃぁないんだから、まあ平気で町を探して歩いたよ。
 いけなければ宿屋を見付けて泊まろうと思いながらね。ぼくは田舎の宿屋が好きなんだ」
「そう言えば、例の光源氏も、やたら妙な所へ泊まるのが好きですなぁ」
 と、誰かが茶を入れる。
 石倉弁護士は細川千恵子が入れてくれたブランデーをグラスの中で転がしながら
 昔のことを思い出すように窓を見る。
 赤坂弁護士クラブのビルは古いから窓もやや小型で古風だが樫の木の太枠に風情がある。
 見ると窓外の雨は少し強くなった。
「その頃の田舎町のことだ。町名の表示板などは少ないけれど、そのかわり町の慣習か表札に
 住所が書き込んである家が多くて助かった。番地は飛び飛びで少し迷ったが、
 田舎町のことで探すと言っても知れている。
 依頼者の家は間もなく見付かった。後で思うと番地が少し違っていたんだが、
 その時は気がつきはしない。
 なにしろ表札がちゃんとあって、依頼者の氏名が立派な偕書ではっきり書いてあったん
 だからね。
 しかもだぜ、来意を告げると、あ、東京の先生。はて迎えの者はどうした。
   さあ、お待ちしておりました、
 と奥へ通されて大歓迎を受けたんだから……。これで君、どうなる?」
「なにもぼくらをなじることはないでしょう」
 アッハッハである。
「で、どうなりました?」
「うん、改めて迎えの手違いの詫びがあって、ひと通りの茶菓がでて、それから車で山の間の
 温泉へ連れ行かれた」
「車って、自動車ですか?」とこれは男子学生の質問だ。
「そうだとも。黒塗りのタクシーだがね。駅前にはいなかったが呼べば来たんだ。
 もう敗戦直後でもないんだから、もうそのぐらいには日本も復興していたよ。
 それで、ガタガタと一時間ぐらいかかる温泉だったよ。
 当時の事で道は悪かったね」
「温泉か。少し歓迎が過ぎるんじゃないか?」と疑問を呈したのは梅田弁護士だ。
「いや、事件というのが、ずいぶん大きい山林の権利の争いだったからね。
   その温泉は事件の現地に近くて、むしろ自然な成り行きだった、……と思ったね。
   何軒かの中で一番大きい古い宿だった。
 田舎のことで土地の者は馴染みらしい。通されたのは落ちついた次の間付きの立派な部屋だ。
 今と違って東京はまだ復興途上で、焼跡の中にはロクな家はない。
 ぼくなんか学生時代からの四畳半の借間住まいだったからね。これは豪勢だと思ったよ」
「やっぱり歓迎が過ぎませんか?」
「いや、戦災に会わなかった地方では普通の古い宿屋さ。とはいえ良い気分だ。
 部屋付きの浴室はゆったりして全部が木で出来ていて、竹の樋からあふれる白い温泉が
 硫黄の香りをたてて流れている。すぐ風呂番の年寄りが来て湯加減を見てくれる。
 ぼくも若くて風呂番には心付けを遣るもんだなんて知らないから平気で饅頭を食って依頼者と
 話をしていたがね。しかし依頼者は間もなく他に用があるとかで、丁重な挨拶をして、
 〈先生、ではゆっくり御休みください。あす十時頃お迎えに参じます〉といって引き取った
 から、旅の緊張もゆるんでホッとしたな。その成り行きに別に不思議はないんだが、
 ただ車の中でも宿へ着いてからも、依頼された事件の話が一向の出ないのが、
 まあ、不自然だったね。
 これも後から考えて、の話だよ。
 やがて夕食には豪華な御馳走が出た。新鮮な川魚料理だった。あれはよかったね」
「一体、何をしにY県くんだりまで行ったんです?」と、若い弁護士の一人が尋ねる。
「何をって、現地の状況の調査さ。当時、山林の値も上がり始めていた。
 山林の地境の現況確認や写真撮影、それに関係者からの聴取、といったものだね。
 山林の地境と言うものは君、大変なものだよ。
 広いから見通しは困難だし、イガだらけで手は引っ掻くしね、モモンガの鳴き声はするし、
 縄伸びはヤヤコしいし」
「縄伸びってなんですか。山に縄が張ってあるんですか」
 と、尋ねたのは緑山学生だ。
「そうじゃない。縄伸びってのはね、土地の実際の面積が登記簿記載の面積より大きいことさ」
 と、石倉弁護士は説明する。
「エッ、なぜ、そんな変則があるんです?」
「君は変則と言うが、そうじゃないよ。都会の、きちんと測量した土地以外はそれが普通さ。
 昔から人民は苦労してるのさ。百姓は年貢を逃れるために自分の土地を小さく申告した。
 五百年前の、豊臣秀吉がやった太閤検地は歴史で知ってるだろう。
 あれ以前から全国どこでもあることだ。
 登記面積の方が小さいんだ。実際の方が大きい。じゃ君、青地ってのは知っているかね」
「いえ」
「その縄伸びの部分のことだ。つまり伸びの面積部分を青地とも言うんだよ。
 実務に入ればよく使う言葉だ。土地争いがあれば、その点をも調べねばならないね。
 ぼくがY県まで行ったそのときの現地調査も、
 隣地との境界紛争、境界確定の訴の下調べだったんだ」
「へえ、公図どおりに境界を定めるんじゃないんですか」
 と、学生は実地のことなど分からない。
「あれ、知らないのか」
 と、横から菱野弁護士が口を出す。
 菱野弁護士は、以前この赤坂弁護士クラブでボーイをやった先輩だ。
 学生の指導には熱が入るから機会があれば法律論を差し挟む。
「公図は昔の土地台帳の付属地図だ。だから謄本もない。
 法務局の備え付けに違いないけれど古いものが多い。
 いちばん古いのは明治初年のものだ。正確なものじゃないよ。土地の境はあくまで現場の境に
   よるんだ」
「へえ、公図には謄本が無いんですか。登記簿には謄本がありますね」
「うん。そこだ」
 と、菱野弁護士は学生たちへ向きなおる。
「君に聞くが、登記の効力はなんだい?」
 と、突然矛先を吉田学生に向ける。
 折りにふれて学生の法律の問題意識を養うのが、赤坂弁護士クラブの使命の一つだ。
 油断していた吉田学生は赤くなった。
「ええと、登記は対抗要件です。その効力は対抗力です」
「対抗力ってなんだ」
「不動産の権利を取得したことを第三者に認めさせる力です。登記が無いと権利が世間に通用
 しません」
「よし。じゃ、反対に、登記があれば必ず権利が主張できるかね?」
「いえ、根本になる権利が無ければ、カラの登記だけあっても権利は生じません。
   それは無効の登記です」
「そのことを何というね」
「登記には対抗力はあるが、公信力はない、と言います」
「公図には」
「あ、そうでした。公図には勿論、公信力はありません。だから現場次第なんですね」
 と、話はいつの間にか難しくなる。
 しかし赤坂弁護士クラブは会話を楽しむ酒席であって、講義やセミナーの場所ではない。
  石倉弁護士が、
「千恵ちゃん、ブランデーの追加だ」
 と、言ったのが合図で話は元へ戻る。
 

試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

この本は有料です。閲覧するには購入する必要があります。
購入するにはしてください。
有料本の購入に関しては、こちらのマニュアルをご確認ください。
販売価格150円(税込)

読者登録

石原豊昭さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について