目次
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A-side GreenFlash
B-side
A&M-side
C-side 佳辰
D-side
D-side 嫩葉 前編
D-side 嫩葉 後編
D-side 結葉 前編
D-side 結葉 後編
D-side 溟沐 前編
D-side 溟沐 後編
D-side 裾上げ 前編
D-side 裾上げ 後編
D-side 畢竟 前編
D-side 畢竟 後編
Trick OR・・・ D-side 前編
Trick OR・・・ D-side 後編
E-side
F-side 不磨 前編
F-side 不磨 後編
F-side GRAFFITIと落とし文 前編
F-side GRAFFITIと落とし文 後編
H-side
I-side 前編
I-side 後編
J-side
K-side
M-side Nostalgia
N-side
O-side
O-side 波の上の月 前編
O-side 波の上の月 中編
O-side 波の上の月 後編
O-side 白雨_朧雨 1/6
O-side 白雨_朧雨 2/6
O-side 白雨_朧雨 3/6
O-side 白雨_朧雨 4/6
O-side 白雨_朧雨 5/6
O-side 白雨_朧雨 6/6
P-side 前編
P-side 後編
Q-side 暁霧 1/4
Q-side 暁霧 2/4
Q-side 暁霧 3/4
Q-side 暁霧 4/4
R-side
R-side あからめ
S-side
S-side 02 月魄
S-side 03 深浅
S-side 04 紫電
S-side Trick OR・・・ 2011
S-side うくわ
S&B-side いなのめ
S-side 炎熱 前編
S-side 炎熱 後編
S-side 炎熱2013 前編
S-side 炎熱2013 中編
S-side 炎熱2013 後編
S-side Balneum Scipionis. 前編
S-side Balneum Scipionis. 後編
S-side 成ぎ
桜蘂
T-side
U-side 闇蝉 前編
U-side 闇蝉 後編
W-side
W-side Devarana 前編
W-side Devarana 後編
W-side 弄火
W-side くもり、のち
Z-side 瑞祥 前編
Z-side 瑞祥 後編

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D-side 嫩葉 前編

嫩葉01

 

・・・進学先が決まったとき。

 

真っ先に音楽活動をいつになったら再開するのか、と聞かれたので、僕は「趣味だから」と言って微笑むことに決めていた。

つまり、もう、公には姿を出すことはない、と言って、引退宣言をした。

 

人より少し早い進路の決定だった。

これまでの音楽活動が功を奏したのかもしれない。

一般入試とは違う特別枠で入ったものの、僕はその道を邁進するという選択をしなかった。

音楽活動が加点されたことは認めるが、それで入学したのではなく、僕はやりたい路に進みたいと言った。

もちろん、試験も受けたし、これまでの学生生活の評点が及第だったからこその結果であったけれども。

・・・つまり、理系のある特別な分野に進むことに決めていて、音楽の路には進まないことにした。

 

これまでの、一日のうちのほとんどを練習時間に費やすという生活からきっぱりと決別した。

短い活動だったけれども、周囲の理解と協力があってこそ続けられたのだと思う。

親はアパートの空き部屋を防音室に改築してくれたし、大変に高名な音楽家に師事してくれるように取りはからってくれた人も居た。

とても今の生活では持つことの出来ない楽器を貸与してくれた人物もいた。

友人は僕をインターネット投票で1位に押し上げてくれる運動をしてくれたし、長らくのパートナーであった音楽仲間は一緒に留学しないかと声をかけてくれたこともあった。

 

・・・僕は、大変に恵まれていると思う。

 

しかし、たくさんのコンクールに出て、部屋には数え切れないほどの賞状やトロフィーが並んでいたが、それもすべて片付けてしまった。

過去の栄光を飾っていても何にも満たされないから。

 

だから、これまでの生活を一変させて、普通の・・・まったく考えて居なかった普通の生活をするようになった時。

誰もが驚き、そしてもったいないと言った。

 

何がもったいないのかわからない。

だって、僕の一日は決まった時間しかなくて、僕は自分の進みたい路をすでに決めていたから。

音楽は好きであったけれども、僕はこのまま進んだら・・戻れなくなると思った。

好きと仕事は一緒にできない人間なのだと思っている。

まだ、好きで居られたから。

好きなままに一生を共にしたいと思ったから。

だから、留別を選んだのに。

それが間違っていると言われて、僕は大変に困惑した。

 

でも、彼女はそれで良い、と言ってくれた。

彼女は・・・僕に偉大な師を紹介し、そして希なる名器を貸与するように、彼女の恋人に取りはからってくれた人は僕の家の経営するアパートの住人だった。

そして僕が生まれた時から一緒に居る。

 

本当の名前は「大」と書いて「ヒロ」と読むのに、彼女はいつも僕を大きな声で「ダイ」と呼んだ。

そして、彼女は笑って、彼女よりずっと大きくなった僕の背中をとんとん、と軽く叩いた。

 

「決まった路ではなく決めた路を行くのが一番よ」

 

・・・重みのある言葉だった。

 

その言葉に押されて、僕は今に至る。

だから後悔していない。

 

僕が恵まれていたのは機会であって、すべてがダイの実力なのだ、とあの人は言ってくれたから、ここまで続けることが出来た。

高名な師が慰留してくれたけれども、それは丁寧に断った。

僕から始めたいと言ったことなのに。それでも皆はダイが選んだのだからと言って許してくれた。

 

僕の夢はいつの間にか、あのフランスの華の元で研究開発をすることに変わっていた。

いつか・・・彼が今でも研究を続けている、彼が救いたいと思っているあの国の土壌開発について、研究チームに加わりたいと思っていた。

どんなに彼が万能でも、彼はあらゆる方面から必要とされている逸材であり、着手した研究について、最後まで研究を進めることは難しかった。

彼の身体もひとつしかない。そして彼の時間も僕と同じだけの時間しかなかった。

そして、フランスの華は、自分の実験については大変に厳しく、信用できないデータはすべて元から廃棄してしまうという潔癖さを持っている。

そんな彼の元で一緒に研究をしていけたら。どれほど素晴らしいだろう。

そう考えていたものの、僕にはもう一つ・・・野卑な願いがあった。

もし、願いが叶えば、彼女と一緒に居られると思ったからだ。

 

彼女を泣かさないで欲しい。

彼女を笑顔にさせて欲しい。

彼女を大事にして欲しい。

そう訴えて大声を張り上げたのは、つい最近のことのように思える。

 

確かに、彼はマリナを大事にしている。

どんなときも。どんなときでも。

 

しかし僕の胸の中の秘めたる疼きは・・・彼女の幸せそうな笑顔を見る度に、渇きとうねりをもたらして、僕を悩ます。

 

マリナ、わかっているだろうか。

 

貴女は僕のすべてを知り、僕の生き方に深く影響しているのに。

 

・・・彼女は僕を見ない。

 

少し年の近い親子ほど年齢が離れているのに、彼女は年若く見えるので、少し年の離れた姉弟のように僕らは会話を交わす。

そして、フランスの華と言われている、彼女の永遠の恋人は・・・やがて彼女と永遠を誓い合う人となった。

 

それはとても嬉しいことのはずなのに。

僕はどういう訳か僅かに哀しかった。

 

だからだろうか。

音楽の路から決別するときに、あれほどあっさりとしていられたのは。

深みに入れば入るほど、彼と彼女の絆について考えが及び、それが音色に出る。

 

いつだったか・・・師であるカオル・ヒビキヤに叱咤されたことがあった。

「悲恋ばかりを表現したいのなら、よそへ行け」

僕がどういう感情の波に溺れているのか、彼女は見抜いていた。

だからこそ・・・僕にそんな言葉をかけたのだと思う。

そして彼女はふと、非常に中性的な横顔を見せて呟いた。

彼女は大変に端整な顔立ちをしているが、時々・・男女の性差を超えた表情をすることがあった。

そんなときは、誰かの遠くにいる人の事を考えて居るのだな、と思った。

彼女はいつも、そういう表情をしたときには「別れのワルツ」を弾いた。

嫩葉02

 

普通は違う楽器の奏者は弟子にしない。

せいぜい、音楽理論を教えるくらいだ。

それなのに、カオル・ヒビキヤは僕を受け入れた。

かの師は、決して弟子を取らないことで有名だった。

それなのに、たったひとりの人の言葉で、彼女は僕を受け入れた。

 

茶色の髪の茶色の瞳の、僕の家の住居人に連れられて、僕はカオル・ヒビキヤに会いに行った日の事を決して忘れない。

 

彼女は大変な美形で・・そして性別を超えるほど、年齢を推し量れないほどに綺麗な人だった。

 

そこは、天使の庭かと思った。

 

・・・最初。

 

レッスンの先生を紹介したいと言われたので、ちょっとそこまで、といった気分で僕は彼女と一緒にアパートの前で待ち合わせをして、そのまま大通りに出て・・面食らった。

細い路地が続く一方通行のアパートの前ではとても止められないくらいの、大変に立派な迎えの大きな車に乗せられて、僕は都内を走り抜けて、豪華なマンションの一室に連れて行かれた。

次からはひとりで来られるか、と聞かれて、僕は無言で頷いた。

マリナの車の乗り方が洗練されているとは思えなかったが、とても慣れていたので・・僕は言葉を発することが出来ず、ただ首を縦に振るだけだった。

彼女が知らない人のように思えた。

だから・・・隣に座って、僕の相づちの有無も関係なく喋り続けるマリナ・イケダの声の高低だけを感じながら、車の震動に身を任せているばかりだった。

決して踏み入れてはいけない領域に入っていくような感覚があった。

 

・・・そこは交通の便が良く、陸路も空路もすべてにおいてアクセスが良い場所にそこはそびえ立っていた。

いくつものセキュリティゲートを越えて、僕はそこに辿り着いた。

今度からひとりで来られる場所にその場所は在ったけれど、これではひとりで入れないじゃないか。

心の中でそう思った。

 

ペントハウスのそこは、大変に日当たりの良い場所で、エレベーターは、特殊キーを持ってIDセンサーに特定のカードを入れて暗証番号を入れないと停止しない階だった。

生体認証とIDカードと暗証番号が正しい順序で合致していないと入れない場所にあり、表示されている最上階の数字を表したパネルの数字のさらにその上の階層に位置していた。

大きな重たい扉を開いて、中に進むと、そこには・・・・僕がテレビや雑誌でしか知ることのない世界が広がっていた。

 

靴を脱がない居住空間。

何人か点在する使用人。

アパートの路地より広そうな長い廊下。

中二階になっている螺旋階段の先はプライベートルームなのだろう。

 

・・・そして次に大きな居間を通り、ソファの上に大きなスーツケースが途中まで開いてあって、その中から散らばった楽譜が床に散乱しているのを見て、マリナは顔をしかめた。

「カオルはいつになったら、掃除ができるようになるのか」

その言葉を、マリナ・イケダという人物にそっくり返してやりたかった。

そこで僕はようやく苦笑いであったけれど、笑い声を漏らすことが出来た。

車内で説明された。

カオル・ヒビキヤという音楽家と知り合いだと言う。

だから僕を引き合わせたいのだ、と彼女は言った。

どういう理由でそういう経緯になったのかと言うと、これはまた長い話になる。

けれども、僕の中に何か・・・音楽的センスがあって、それが本物かどうか、カオルに見て欲しいと思う、とマリナが橋渡しをしてくれた。

それが彼女のとの出会いだった。

 

・・・・部屋の構造について、詳細を言えば言うほど、現実離れしてくるような気がした。

 

そしてその雑然としているけれども、途方もなく生活の匂いのなく、かつ広すぎる空間を、彼女が慣れた足取りで自由に泳ぎ渡っているように歩いて、目的の部屋に僕を誘う後ろ姿を見ながら・・僕は覚束無い足取りでその後を夢中で追いかけた。

 

やがて、分厚い扉が威圧的な雰囲気で構えていて、僕とマリナは両開きのその扉を片方ずつ担当して、取っ手を横に引いた。

その時に、大変に珍しい横開きの防音扉だということに気がついたが、部屋の中はとても静かだったので、拍子抜けしたことを覚えていた。

 

・・・2室の壁を抜いたのだろう。それくらい広かった。

 

中央には漆塗りのグランドピアノが設置されており、温度も湿度も完璧に調整されていた。

シャルル・ドゥ・アルディと、カオル・ヒビキヤがそこに居た。

すぐにわかった。彼らはそれくらい特徴がありすぎる。

マリナが「扉が重い」と言って文句を言いながら、その部屋に入っていく。

僕は入り口でしばし立ったまま、その姿を眺めていた。

おいで、と彼女に言われて、僕はそっと足を踏み入れた。

 

防音室なのに、立派な天窓や出窓があって、彼らの居る場所には、燦々と陽光が射し込んでいた。

特に、シャルル・ドゥ・アルディの白金の髪が、とても強く煌めいていて、僕は一瞬目を細めたのを覚えている。

 

美術室の壁に取り付けられている絵画のような荘厳さがそこにあった。

 

・・・ヴァイオリンの弦を爪弾きながら、片膝を立てて椅子に座る男装の麗人と、白金の髪に青灰色の瞳の・・・整った顔立ちと表現するにはとても足りない顔立ちをした男性がそこに立っていた。

マリナの恋人が、大変な人物であることを知ったのはその少し前のことだった。

けれども、それよりなお・・・音楽雑誌でその名前を見かけない時はないくらいの有名人がそこに居て、写真やジャケットや動画を見る以上の存在感を持ってそこにいたので、僕はその場所に立ち尽くしてしまっていた。

マリナに背中を押されるまで、その場をしばらく動くことができなかった。

 

それからフランスの華は、これから大事な話があるからシャルルは出て行け、と言ったマリナに苦笑しながら、部屋を出て行った。

大変に小柄な彼女に近づくと、ちょっと屈んで、彼女の髪にキスをした。

その仕種が映画のワンシーンのようにあまりにも綺麗で流れるようで、僕はちょっと瞬きを繰り返してしまった。

あまりにも眩しかったから。

そして、もっと眩しかったのは・・・・その祝福の口吻を・・・マリナが嬉しそうに瞳を細めて軽く顎を上げて、シャルルのキスを受け止めている姿だった。

 

僕は・・・また目を反らした。

 

そこはカオル・ヒビキヤのレッスン室で、防音設備が完璧にされている上に、大変に高価なスピーカーが部屋の四隅に設置されていて、今は入手するのも難しいLPレコードを再生するためのレーザー読み取り装置が完備されていた。

僕の知っているマリナはいつも漫然としていて、遠くを見つめていて・・・雑然としたアパートの一室で、整頓できないことさえ、平気で生きている人だったのに。

胸が苦しくなったことだけ覚えていて、その時の彼女の様子についてあまり細かく覚えていない。もちろん、僕と彼女が車内でどんな会話をしたのかさえ、うろ覚えだった。

 

僕の脇を通り過ぎていった。

何も声をかけられなかったし、触れることもなかったけれど、すれ違う時に僕はびりっと電流が腕に走るような気がした。

彼の長身が、マリナを軽々と担ぎ上げた時のことを思い出したからだ。

・・・その時の僕にはまだそれほどの腕力も身長もなかったから。

だから僕は彼の気配と温度と空気を感じて・・・ひどく緊張した。

 

僕とすれ違った時に、とても良い香りがした。

・・・出で立ちは外国人であるのに、シャルル・ドゥ・アルディは完璧な日本語を操る。

 

隣の部屋で寛いでいるがあまり時間はない、と短いけれども要点を押さえた言葉だけを残して、シャルルは部屋を出て行った。

 

・・・シャルルは僕の顔をちらりと一瞥した。

僕の顔を覚えているようだった。

でも僕は、母さんから言われているように、大人にきちんとした挨拶をしなさいという教えを守ることが出来なかった。

ちょっと首を曲げて、ぺこりとお辞儀をしただけだった。

 

彼はそんな僕の様子を見て、「なるほどね」と言ったが、その意味がどういう意味なのか、その時にはわからなかった。

 

彼と会うのは、これが初回ではない。

2回目だ。

 

だからなのだろうか。

 

いや、そういった意味ではない、もっと違った意味での肯定の言葉を彼は残して部屋を出て行った。

しかし、カオル・ヒビキヤはシャルルのたったそれだけの言葉でシャルルが何を言いたかったのか、何を指摘したのか、わかったらしい。

端整な口元をほころばせながら、不敵に笑った。

 

「・・・昔の誰かを思い出すな」

 

彼女は僕を見て、それで決めてしまった。

最初で最後の弟子を取ろう、と言った。

 

僕の何を見て、彼女は微笑んだのだろうか。

僕の何が、シャルルを肯定させたのだろうか。

 

それ以来、僕は音の路を駆けるように抜けていった。

あっという間の日々であったが、一日たりとも無駄に過ごしたとは思わなかったし、そう思う必要もないくらいに満たされていた。

レッスンは厳しかったけれど、マリナに途中で弱音を吐いたこともあったけれども、それでも僕は続けて良かったと思う。

続けていればシャルル・ドゥ・アルディの言った言葉の意味と、カオル・ヒビキヤが呟いた言葉の意味と、なぜ師がいつも別れのワルツを奏でるのかという理由と・・・もっといろいろなことを知ることが出来るのだろうと思ったから。

嫩葉03

 

僕の音楽生活の中には、いつもシャルル・ドゥ・アルディの影がちらついていた。

 

彼と僕との間には奇妙な利害関係が成立していた。

 

マリナ・イケダが日本のアパートを不在にしているときに、僕の実家が管理を任されていることもあって、僕にいろいろと連絡を取ってきていた。

 

最初は国際電話からの一方的な指示だった。

しかも、意地の悪いことに、僕以外の人間が電話に出ると、フランス語やイタリア語やドイツ語やラテン語で話し出して、会話しようとしない。

もしくは、秘書らしきとても落ち着いた若い女性の声で呼びだして、僕が受話器に出ると交替してシャルルがいきなり話し出す。

 

彼の奇妙な行動には理由があった。

彼が、非常に知能指数が高く、数奇な運命と経験をたどり、生来の人間嫌いに起因するということを後になって知ったけれども、それでも彼の行為は奇妙を通り越して奇怪としか言いようがなかった。

マリナがどうしてあんな外国人と一緒に居たがるのか・・・最初はよくわからなかった。

 

次に、僕が彼の存在を認識するようになると、今度はマリナから聞いたのか、どこかで調べたのか、FAXや文書送付での連絡と続き、程なくしてそれは僕の個人メールアドレスに到着するようになった。

 

・・・彼ができないことはない人物だということは知っていた。

その頃になると、マリナの恋人が、シャルル・ドゥ・アルディという人物であることも知った。

そして彼が大変な有名人であることも。

 

だから、僕に関する情報をどうして知ったのだ、とか、個人情報の漏洩だとか、そう言って騒ぐつもりはなかったけれども、それでも外国籍でありながら、それほど強大な権力や権利をこの国で行使することができるのであれば、僕やこのアパートに拘る事なんて、ないじゃないかと思っていたのは確かだった。

正規の手続きを経ないで、未成年にあれこれ業務を委託するなんて、おかしいじゃないか、と最初のころ抗議したことがあった。

 

ところが、今度は、僕が遠方に住む友人との連絡にWEBチャットを使用しており、そのソフトがあまり品質の良いものではないことを知ったらしく、シャルルが開発したWEB会議システムのソフトとOSを僕に無償提供すると言って来た。

僕がそういったことに、普通の男子よりも興味を持っていることと、現状に窮していることを知ったシャルルの策略に不承不承乗っかったことが、彼とのやり取りの始まりだった。

 

確かに、彼の開発したシステムは素晴らしかった。

画期的で斬新なOSであったにも関わらず、彼はそれを市場販売にまで踏み切るまでに、だいぶ足踏みしていた。

 

・・・それがマリナとシャルルと、僕と・・・ごく限られた人間だけしか使えないということに意味があるのだ、と彼は言っていた。

 

マリナが日本に居る間も、そのシステムを使用して連絡を取っているようだった。

それなのに、シャルルは、僕と彼との連絡とマリナと彼との連絡に利用しているシステムを、決して・・・三者間通話で使用したり、マリナと僕との間の回線を開こうとしなかった。

これにもきっと理由があり、あの時・・・カオル・ヒビキヤが言っていた言葉のこたえによって、シャルルはこのような行動を取っているのだろうと思った。

 

・・・彼ほどの人物であれば、代理人を立てるとか、別の者を管理に遣らせるとか。

・・・アパートそのものを引き払ってしまって、もっと様々なサービスの行き届いた場所にマリナの居を移すことも想定していたはずなのに。

 

それなのに、どういうわけか、シャルルは僕に連絡を寄越す。

然るべき立場の大人ではなくて、大人になる前の僕に。

結局事務手続きなことは僕では荷が重すぎるので、親に委託することもあったけれど、それでもシャルルはそのシステム経由でいつも僕に連絡を寄越した。

それはマリナが日本に居る時にも続いた。

 

時差があるはずなのに。僕の行動時間に連絡を寄越す。

メールだったら受信時間の差はあるが、要件は済まされるはずなのに、メールの送信でさえ、彼は僕のログイン時間を見はからって送って寄越していた。

 

マリナ・イケダという人物が、密に連絡を取り合うことに労苦を感じない人間であれば、きっとそういったこともなかったのだろうと思う。

連絡も寄越さず、連絡もせず、マリナは突然ふらりと居なくなったり、アルディ家から出てしまったりするらしい。

 

大変な過保護ぶりだ。

マリナは大人でこどもじゃない。

そして、シャルルのように拘束してばかりだったら、マリナはさぞかし苦しいのだろうと思った。

けれどもそれは二人の問題であり、僕が口を差し挟めるものではなかった。

でも。

 

シャルルにとって、マリナが、唯一絶対なのだと思った。

 

・・・家族に恵まれなかった人だと聞いた。

 

肉親はいるけれども一緒に暮らすことが出来ないのだとマリナが少し寂しそうに、でもたくさんは語ることなくそう言ったときに、眉をひそめて、顔を曇らせたから。

 

僕はそれ以上聞くのをやめた。

 

・・・僕は両親が健在で、けんかばかりしているけれども姉が居る。

季節の行事に電話をする程度であったけれど、祖父母も仲良く元気に暮らしていた。

それがどれほど大事なことで・・・どんなに手を伸ばしてもぎ取りたくてもそうできない人が居るのだと思った。

それがシャルル・ドゥ・アルディという人物の青灰色の瞳がいつも静かで哀しそうな色をたたえている理由なのかと思うと・・・無視することができなかった。

憐れみは彼は欲していない。

同情や憐憫といった感情は彼の誇りを傷つけることは理解していた。

 

誇り高い、フランスの華と呼ばれる希なる傑人が、僕に一体どうしてそこまで関わるのだろう。僕は普通の・・・本当に普通の学生で、そして・・・たまたま、彼の恋人の住居を管理している家の息子であるだけであった。

 

時差があるのに、彼の活動時間外であろう時間帯に僕に連絡を寄越す。

忙しい時はメールや短いチャットだった。

そして彼はいつも決まった時間に、決まった長さしかやり取りしない。

まるで一日のうちの会話の回数や時間や文字数を決めてしまっているようだった。

 

「ダイに」

彼は僕のことをダイ、と言った。

流暢な日本語だった。

マリナから聞いているのだろう。

もしかしたら、カオル・ヒビキヤからも聞いているのかも知れない。

出来の悪い弟子だから。

きっと呆れているのだろうな。

ネットなどではその音源を求めて彷徨っているファンがいるという幻の演奏会では、シャルル・ドゥ・アルディとカオル・ヒビキヤが共演している演目があるらしい。

 

パソコンのスピーカーから流れてくる声は、うっとりするくらい綺麗な声だった。

 

「ダイには小さい時に逢ったことがある。

・・・まだ、あの建物が古いときに。

居室の扉にはちゃちな鍵しかなくて、それでも彼女の家に入って彼女を待つ必要があったときに。

・・・君はまだ小さくて・・・そう、とても小さくて、大きな声で泣いていた。

建物の前の細い路地を行ったり来たりしてあやす大人の声と一緒に、君は生命に輝いていた。

その声があまりにも大きくて、でも、その声を聞きながらマリナは君と一緒に時間を過ごしていたのだろうと思って・・・ただひとり、君が母の胸に抱かれて、泣き止んでは眠り、そしてまた泣き出す声を聞いていた」

そして次に、その様を見て、自分も誰かを・・・幼子を抱いたらどう対応すれば良いのか知った、と言っていた。

・・・誰のことを言っているのかは、わからなかったけれども。

彼は僕を通して、彼の経験とし、そして彼が経験するときに僕を思い出したのだと言った。

嫩葉04

 

いつしか、シャルル・ドゥ・アルディとの奇妙なやり取りが僕の日常になっていった。

人が聞けば、大変に珍しい体験であると言うだろう。

でも僕にとってはそれが「普通」だった。

生まれてからいつも一緒に居たマリナ・イケダには来訪者が多く彼女は・・・常にひとつところにじっとしていられない人物だったので、僕は小さい時から彼女の家の管理を任されていた。

 

シャルルが会話の出来る程度に成長した僕と初めて会った時。

それは、雪が降りそうなどんよりした日のことだったけれども。

「小さいナイト」と僕のことを揶揄した。

でも、僕は確かに、小さい時からマリナが戻ってくる場所を守ってやらなければならないのだ、という意識が強かったように思う。

それをシャルルが見越して僕のことをナイトと言った。

それは「騎士」という意味であったけれども、決して背中を向けて駒を置くことをしないルールのチェスの「ナイト」の意味もあったように思う。

彼はチェスの達人だった。

 

・・・だから。

 

彼女が僕の知らない面をたくさん持っていて・・・・雪の日にマリナがシャボン玉を空に飛ばしている理由を知った時や、初めて彼女の口から聞く「シャルル」という名前に酷くびっくりしたものだった。

 

彼女は自分の知人のことをあまり口にしない。

来訪者が多いが、彼らの氏素性についてはほとんど語らなかった。

 

誰かが来るのを待っているかのように決して転居を考えようとしないくせに、彼女は・・・いつも誰かを待っているように思った。

それは、シャルルが僕の目の前に現れるより前に、よく彼女の部屋に訪れていた癖の強い黒髪のあの人のことを思い出しているからなのだろか、と思ったが、結局随分と長い間、その人のことについては聞くことはしないままになってしまっていた。

その時の僕は余りにも幼くて、記憶が断片的でしかなかった。

 

・・・どこまで僕のことをシャルルが知っているのか不明であったけれども、僕を無視していれば良いのに、彼はいつも僕にちょっかいを出す。

そんな余裕も時間もないはずなのに。

 

あるとき、彼がカオル・ヒビキヤに預けものをした。

それを受け取った時。

僕は唸った。

赤茶色の、上等な革のケースに入った中身について・・・推測できたから。

僕に・・・彼は大変に高価な楽器を貸与してくれたのだ。

まだ、音楽活動を初めてそれほど年数が経っていない僕に。

僕は受け取れないと言った。

その価値を知っていたから。

どんなに高名な奏者であっても、それを目にすることはほとんどないと言われているくらいの名器だった。

それなのに。

カオル・ヒビキヤは僕に微笑んで、受け取れないと首を振るばかりの僕に、そのケースを押し戻した。

 

「あたしはメッセンジャーじゃないからね。あんたとシャルルのやり取りに付き合うつもりはない」

 

そうして彼女は笑った。

とても美しい微笑みで、彼女は時々・・・そうして少し寂しそうに笑う。

なぜ僕を見て、そういう微笑みをするのかわからないが、シャルルもカオルもマリナも、僕に対して懐かしそうな・・・それでいて切なさそうな瞳をすることがあった。

 

「楽器は使われてこそ息を吹き返す生き物だ。

だからアルディ家の陳列ケースに並んでいるより良いと思って、判断したことなのだから有り難く受け取れ」

 

僕は、それは無理だと言った。受け取れないと繰り返し言った。

 

人には分相応というものがあると思う。

僕には・・・・・梅華のように、大変貴重な楽器を受け入れてさらに努力しようという精神力は持ち合わせていない。

しかしカオル・ヒビキヤは首を振った。

 

「ダイ。

こう考えろ。

・・・おまえにくれてやるのではない。

貸与されたと思え。

だから、受け取れ。

・・・おまえが使うのならそれで良いと、本当の持ち主が願ったのだから。

・・・でも、受け取ったのなら。

おまえはその楽器に相応しい演奏と技術と功績を背負わなければならない」

 

そこで僕はカオル・ヒビキヤに尋ねてみることにした。

なぜ、彼が僕にそこまで関わろうとするのか。

すると。

彼女は、とても綺麗な瞳をちょっとだけ細めて僕を見た。

眩しいものを見るかのように。それでいて・・・とても嬉しそうであり、そして少し哀しそうだった。

 

「それを見つけて、ダイから彼に直接回答してやるのが、シャルルへの最高の報酬だと思うがね」

 

彼女はそれっきり・・・その話を一方的に打ち切った。

僕がその楽器を手にしなければ、マリナに怒られる、とカオルが肩を竦めるので、ようやくそれを「ほんのちょっと預かる」つもりで受け取ったのが、最初だった。

 

しかし、一度手にしたそれは僕のために創られたと言われたら信用してしまうくらい、大変に僕の手の中に馴染んで・・そして僕はそこから一段も二段も飛び越して、駆け足で音楽の階段を上っていくことになった。

 

けれども、シャルルへの礼に毎年バースデーにカードやメールを送ったが、彼はそれには一度も返信することはなかった。

そして、カオルは・・・僕の質問にはいつも唇の端を曲げて、面白そうに微笑むだけで決して堪えてくれはしなかった。

だから、僕は・・・この楽器を手放す時が。

この音の路からはずれて、もっと違う人生を歩むときが来た時に。

シャルル・ドゥ・アルディに何かしらのこたえを述べる準備が整うのだと確信した。

 

だから、カオル・ヒビキヤは少し哀しそうな顔をしたのだと・・・・

 

その路と決別するしかない、と思った時に。

理解した。

 

いつか、僕が・・・この路を進むことはなく、もっと別の人生を進んでいくのだろう、と彼女は予感していたのだ。

あっさりとした慰留であったことも頷けた。

 

考えてみれば、年齢的にはこれからというジュニア世代であったのに、僕はその先には進まないと宣言した。

ほぼ無償で僕にすべてを教えてくれたカオルの顔に泥を塗ることになりはしないかと思った。

でも。

 

・・・それなのに。

カオルは、僕の願いに耳を傾けてくれた。

 

勝手なことを言って弟子入りした。

文字通り、カオル・ヒビキヤにとっては・・・僕は最初で最後の弟子になった。

 

僕は矮小で狡賢いこどもだった。

彼女のコネクションを使って無理も言った。

それなのに、勝手に離別しようとした僕に、彼女は良いよ、と言った。

シャルルに・・・報告しなさいと言っただけだった。

 

「他人のために路を決めてはいけない」

 

この言葉を、カオルもマリナも僕に繰り返し言った。

だから僕はごめんなさいと謝罪しなかった。

そのかわりに、ありがとう、と言った。

 

人に謝るときには、その言葉が・・・「ありがとう」と言い換えることはできないかと考えろと、マリナはいつも言っていた。

だから、僕は、心を込めて、言った。

 

そして、シャルルに礼を言うために・・・僕は丁寧に楽器を調整し、磨き、そしてすっかり変色してしまった革のケースに専用の保護クリームを塗った。

 

僕の音色はリードの加工からくるところによるものが大きいと言われている。

確かに独特の製法で僕にぴったり合うように調整されたものだった。

しかし材料を用意してくれたのは、いるもシャルル・ドゥ・アルディだった。

そして、溜息が出るくらい高価な楽器を貸与してくれたのも、彼だった。

 

WEBメッセンジャーで僕の様子をいつも観察していた。

そして、マリナの雑事を処理している駄賃だ、と言ってこの楽器を貸与した。

まったく釣り合わない値段だよ、と言おうと思ったが、そういうときには彼はいつも青灰色の瞳を曇らせた。

 

「オレに値段の話をするなよ。

・・・価値と値段が違うという論争から始めたいのであれば、もっと根源的なところから議論を始めよう」

 

高い知能指数を誇り、フランスの華と呼ばれている彼と僕が議論という盤上で互角に渡り合える状況ではなかった。

僕が唇を噛むと、彼はいつも薄い唇を持ち上げて微笑んだ。

・・・遠回しに、遠慮はするな、と言われていると思った。

だから僕はそういう時にはきまって、ありがとう、と言った。

嫩葉05

 

確かに。

 

僕は、普通に暮らしていたのであれば。

生涯、関わり合いになることは決してないような人物たちと知り合うことが出来た。

それを声高に自慢するつもりもないし、これが僕の人生の付加価値なのだと思うこともなかった。

 

けれども。

 

彼らは・・・・僕の「これまで」に加えて「それから」に大きく影響していったことは否めない事実だった。

カオルやマリナはどこまでも限りがないと思っていた路に分岐点を設けてくれた。

シャルルは僕の路に広がりと奥行きを持たせてくれた。

 

それは、僕の選んだ路が「たった一つ」しかないと思わせるものではなく、もちろん、彼らが用意した路でもなかった。

 

そして・・・彼らは、幾通りもの違う路が存在すると教えてくれた。

乗った一直線の路の上を、出口の見えそうで見えない薄い晄に向かって走るのではなく・・・何種類もある出口と終着駅と通過駅があるのだと教えてくれた。

 

僕の心は軽くなり、そして「それから」を決めた。

 

理路整然とした音の譜の謎や解釈を考えるように・・・僕は、多くの人に共感してもらえる理論という名前の音楽を奏でたいと思った。

理系クラスに進学したことも影響していた。

音楽関係者は、解釈の豊かな感性を求められることから文系出身者が多いように思われているが、実は理系出身者が多い。

それは演奏会場の解釈の問題が幾何学の分析であることや、音符や音差や・・客観的な「差」というものを求められる業界だからなのだと思う。

 

・・・・その年がやって来る前のことだった。

 

年末にはすでに僕の進路の結論と結果が出ていて、我が家には穏やかな冬が訪れていた。

 

すでに学校は休みに入り、僕は毎日、学校の音楽室に入り浸った。

防音の個室があり、僕の原点に戻っていた。

小学校の音楽室で、たくさんの音楽家達の肖像を印刷したポスター達が整然と並んでいる壁を眺めていたことを思い出す。

僕は音楽教師が好んで聞くと言うカオル・ヒビキヤのCDを授業中に流してもらったことから始まったことを思い出していた。

僕が音楽を始めようと思ったのはその時だった。

友人がその筋の話に詳しかったこともあった。

少しでも彼の知っている世界を理解したくて・・随分とCDDVDも彼から借りて聞き込んだ。

そのうち、家でも大音量で聞くようになり、それを聞きつけたマリナ・イケダが、カオル・ヒビキヤは彼女の学生時代の同級生で、紹介してやることができると言った。

普段、彼女は友人の職業には口出ししない。

シャルル・ドゥ・アルディのことに関してもそうだった。彼女からは、彼とのいきさつや顛末や、どうして一緒に居るようになったのかと

自分が口出しされるのがいやだから、と彼女は言っていたけれども、もっと違う理由があったように思う。

だから僕は彼女の友人を紹介されるのは滅多にないことで・・・とても驚いた。

彼女曰く「カオルにはダイが必要だから」と言った。

どうして僕なのだろうか。

世の中には、ヴァイオリンの才能を持った人物が溢れており、僕がやりたいのはヴァイオリンではなく、オーボエが良いなと思っていた矢先だったから。

 

後で聞いたところによると、カオルは誰か人を教える立場に一度就いた方が良い、とシャルルに進められていたそうだ。

彼は医師でもあり、いろいろとカオルに助言をしているらしかったが、それらはすべてマリナを経由してのことで、彼らは、それまではほとんど滅多に逢うことはなかったのだと言う。

マリナはそれを僕に伝える時に、少し声を漏らして笑った。

「必要なのはシャルルの方なのかも知れないね」

そう言って微笑んだ。

 

そんなことを思い出しながら・・・僕はこれまでの6年間を思い出していた。

辛かったこともあったけれど、それは、今は良い経験だったと思えるようになった。

 

僕は、彼にこたえを出すときがやって来たのだと思った。

マリナは今は、ほとんどこちらには戻って来ない。

だから、マリナの部屋は僕のレッスン室に改築されていて、実際は僕の部屋になっているも同然だった。

時々戻って来ることがある。その時には僕はその部屋を明け渡す。

そして夜通し、彼女はその部屋の隅で、ひっそりと絵を描いたり・・・窓辺に座って、ぼんやりと外を眺めていたりする。

その時には、彼女はマリナ・イケダに戻るのだ。

僕はその時に本来の部屋に戻る。

そして、自分の部屋から見えるマリナの部屋の明かりを見て、どういうわけかほっとする。

 

彼女は、ここに戻ってくる度に、雑然とした自分の部屋と見違えるくらい綺麗になっている、と目を丸くして笑う。それでも懐かしいと言う。

 

僕は僕で、彼女が冬の雪空の下で、一生懸命シャボン玉を吹いていた姿を懐かしく思っていた。

まだ厚底の眼鏡をかけていた時代も知っている。

家賃や光熱費を滞納して、居留守を使っていたことも。

交通費を浮かせようとして、徒歩で都内に行って、帰って来られなかった時のことも。

スケッチに行くのと言って、近所の散歩に行く後ろ姿も。

今は懐かしい思い出だ。

 

その部屋は、シャルル・ドゥ・アルディが支払いを済ませて防音室に改装したこともあったが、誰にも貸し出しはしなかった。

「ここはいつ、誰が訪ねてきても良いように」ということから、今でも、マリナ・イケダの名前で表札がかかっている。

 

音楽の路には進まないと決めた時に、その部屋はこれほど狭かったのだろうか、とふと気がついたことがあった。

それまで毎日そこで過ごしていたのに。

空気の入れ換えのために、窓を開けて、雪の降りそうな空を見上げたとき。

・・・僕は、自分自身が成長して目線が変わったのだということを実感した。

そして、あの狭い部屋の中で、マリナが何を思っていたのかをよく考えた。

 

マリナにとっては、この空間はお城のような場所だったに違いない。

若くして自活を始めて、彼女はいろいろなことを経験して大人になった。

今の僕の年齢の時には・・・彼女は長らく留守にしていたときがあった。

そして、ある冬の日に、ひょっこり戻って来た。

「帰る場所があるって良いね」

彼女はそう言って、空を眺めることが、それ以来多くなったように思う。

まだ僕はその時に小さくて、彼女の言っている意味もわかっていなかったし、記憶もおぼろげである部分が多かったが。

その時に、帰りたくても帰れない人のことを思って、空を見上げていたのかもしれないと、今になって想像がついた。

 

マリナ。

僕はマリナとずっと一緒に育ってきたようなものだけれど。

僕はマリナのことをほとんど何も知らないよ。

でも、貴女は僕のことをよく知っているから。

だから、この部屋を僕に託してくれたのかな、と思うことにする。


D-side 嫩葉 後編

嫩葉06

 

・・・・・・好意だけでは済まされない様々な厚遇について。

僕はいつかきちんとシャルルに礼を言わなければならないと思っていた。

 

彼は大変に多忙を極める人物で、アポイントを取っても、三ヶ月後、半年後、といった風にかなり待たされることで有名だった。

 

その彼が、時間に余裕がないのに、些事で来日する。

僕の演奏会であったり、夏の甲府での休暇だったり・・・

この時間を捻出するのに、一体どれだけの労力をかけているのだろうかと思う。

 

だから。

僕はある計画を実行することにした。

 

年が明けて、本格的に一日中自習時間になる期間にさしかかってきたとき。

 

僕は、これまで家の手伝いをすることによって得た小遣いと、春の新しい備えのための祝いの総額に少しばかり親に借金をして足してもらった旅費で、フランスのパリに行くことにした。

卒業旅行にしては豪奢だった。

 

そしてこの先・・・僕はきっと「普通の」人生は歩まないのだろうと確信していた。

そのことについては、大変に申し訳ないと思った。

僕の家族は、自分の身内で僕のような変わり者が・・・そういう者が出ることに慣れていない、善良な人達だった。

若いうちは良いだろう。

でも、年齢を重ねるにつれて、彼らは戸惑うと思った。

大学を出て大学院に行き、そして就職して、配偶者と一緒になって孫の顔を見せに週末の時間をやりくりする。

そういう一生を贈ることが出来ないのではないのかなと思っていた。

 

だから、誰もが浮かれがちな状況ではあったけれども。

僕はただひたすら、一足先に訪れた春に浮かれていることに没頭することができなかった。

 

・・その点で言えば、僕はシャルルやカオルやマリナととても近い人間なのだと思う。

それが少し誇らしかったけれども、その一方で、家族には・・・大変に申し訳ないと思っていた。

息子が・・弟が、世間一般の人生と違う路を進んだと思い知るときが、いつか来るだろう。

たぶん、将来は・・この国で暮らすこともないのかもしれない。

 

その時に。

これは僕の選択であり、誰かに・・・特に僕の家族には、僕がそう決めたことに対して理解して欲しいと勝手なことを思う一方で、彼らに、僕がそういう価値観を持つのはマリナに感化されたからだ、と思って欲しくなかった。

 

彼女が居たから。

そしてシャルル・ドゥ・アルディが居たから。

 

僕は僕の路を決められたのだから。

 

そして、僕は、あの日の近くにパリを訪れることにした。

計算と綿密な調査の上のことだった。

未成年のひとり旅を心配する親には、カオル・ヒビキヤとパリで合流することになっていると言った。

これは本当のことだった。

彼女は心臓に持病があり、シャルルに定期的に診察してもらっている。

僕が合格の報告とともに、パリに行ってシャルルに会ってきたいと相談すると、彼女は少し考えてから・・・小さく笑って、不敵な微笑みをうかべた。

僕の偉大なる師は、大変に悪戯好きな人だった。

僕たちは、まるでこどもが親の目をくぐり抜けて廃墟を探検する算段を整えるかのように、夢中になって計画を練った。

ひとこと、彼女が僕の保護者に演奏旅行に連れて行くと言えば済むだけの話なのだけれども、それではダイのためにならない、と彼女は言って、僕が渡仏するための準備については何も口出しをしなかった。

 

僕も、彼女の財力に縋ってパリに渡ることも考えて居なかったし、治安の面も考えて、ツアーに申し込むことにした。

自由行動の時間が多く、それでいて手続きなどはしっかりしているところを選んだ。

その時期にパリのアルディ邸には、シャルルとマリナが滞在していることもきちんと確認していた。

 

僕は、彼の所有物の楽器を持っていたので、シャルルに関する情報を取得するにはなんら支障のない立場に居たことをその時に実感する。

僕が貸与されていた楽器は特殊な金属や樹脂を使っている部分があり、これは日本では代替品は手に入れることが難しかった。

けれども、定期的に・・・僕の様子を見はからっているかのように、いつもそれらは僕宛に送られてきていた。

シャルルが凄いと思うところは、そういうところだった。

一回限りの幸運や奇蹟を起こすことが出来る人はたくさん居る。

でも、それを継続させることができる人は大変に少ない。

つまり、僕に楽器を貸し与えてやろうと思いつき実行するのは簡単なことだけれど、その先にあるメンテナンスの問題について考えが及ぶのは、僕の知る大人の範囲では、シャルルぐらいしか思いつかなかった。

日本を発つ前に・・・最後の調整をする時に。

僕宛に、移動中の震動を防ぐ特殊ケースが送られて来た。

・・・カオルが手配してくれたのだろうか。いや、違っていた。

シャルルからだった。

そして、それには連絡先と、アルディ邸の受付時間と・・・何もかもを見透かしたようなシャルルの手配準備に僕は悔しくなってしまった。驚かそうと思ったのに。

それなのに、彼はいつも僕の先を行く。

 

それは知能指数が高いからだけではなく、シャルルが僕よりずっと・・・ずっと大人だからなのだと思った。

 

僕はパリに行った。

まだ卒業もしていないうちから旅行に行くというのは大変に贅沢なことだった。

姉も同行したいと言ったけれど、学校の試験があり、彼女は大変に不満を漏らしていた。

 

僕は苦笑して、家族にお土産を買ってくることを約束した。

あれこれ忘れ物はないのか、と僕のあまりの軽装に家族が世話を焼くので、とうとう、僕は防音室に籠もって支度を済ませてしまうことにした。

空港までの手続きも見送りも必要ないと断った。

ひとりで行かなければ、きっと泣きそうになるから。

 

道中は終始快適だった。

ツアーと言っても航空券を確保するための募集であるので、搭乗と降機で名前をチェックされる以外には、何も煩わしいことはなかった。

機内では退屈しのぎに音楽を聞こうとして、クラシックチャンネルを自然に選んでいた僕は指先を伸ばすのをやめて、そしてくすりと声を漏らして笑った。

身についてしまっていた習慣というものは恐ろしいなと思った。

軽く目を瞑って・・・貸し出された毛布にくるまっていると、まるで、マリナの部屋で薄い毛布に身を包んで彼女のスケッチブックをこっそり眺めたことを思い出す。

彼女はまだ・・・日本のあの部屋ではシャルルの絵を描いていないのだろうか。

パリでは描けているのだろうか。

 

そして、僕は、彼女と一緒に過ごしてきて久しいのに、マリナのパリでの生活をまったく知らないことにも少しばかり臆していた。

だから日本の土産をマリナに持っていこうと思ったけれども、それの予定は不採用にした。

不便があれば彼女は何か言ってくるだろう。

それに・・僕とマリナは家族のような付き合いをしているが、彼女には家族がちゃんと居る。

 

シャルルは、今回のことを予測しているようだった。

僕は日本を発つ際に、メールを入れておいたのを彼が読んでくれたのだろうと思った。

ケースの礼を述べてあるだけだったけれど、必要ないものだとか、どうやって使うのかといったような内容は記載していなかった。

彼女にも渡仏を伝えていないし、シャルルはおそらく・・・マリナに何も言っていないのだろうと予測していた。

 

彼女はパリでの生活について、日本ではまったく話をしなかった。

逆に、日本で何をしているのか、パリではまったく話をしないのだろうな、と予想している。

 

そして僕はこの旅から帰ってきたら・・・肌身離さず持ち歩いていた、長年一緒に過ごしてきた楽器ケースが傍にない生活に入る。

 

パリについて、ホテルでチェックインを済ませる。

交通の便が良い場所に位置している、単身旅行者でも安心して泊まれるホテルだった。

でも荷物を置いて一息つくこともなく、僕はすぐに出発した。

大変に冷え込む冬で、もっと着込んで来れば良かったかな、と思ったくらい寒かった。

 

雪になるらしい、と誰かが言っていた。

僕は外に出ると、異国の街並みに歓声を上げるより前に・・・空を見上げた。

空気が乾燥しており、日本で感じる降雪の前の湿り気を帯びた冷たい風ではなかった。

どこをどう感じて雪になるのだろうか。でも、確かに、いつ雪が降ってもおかしくないくらいの空模様で、そして大変に寒かった。

シャルルが特殊ケースを寄越してくれなかったら、寒暖の差で、足部管がいたんでしまったかもしれない。

 

マリナは、この空を見て生活しているのだろうか。

 

そして僕は、アルディ邸に初めて足を踏み入れることになった。

彼が大変な資産家であり、由緒正しい家柄の人物でありながら、親日家としても有名で、日本とフランスを結ぶ重要な人物であるということは、認識していたけれども。

 

・・・いつも運転手付きの車で来ていたし、彼が日本で宿泊しているホテルに遊びに行ったこともある。

夏には甲府のダンジョウ家で幾日かを一緒に過ごす。

着ているものだって僕の知らないブランドの高そうなものばかりを身につけていた。

でも、それがシャルル・ドゥ・アルディであると思っていたし、生活環境が違うからと言って彼と僕との間や、僕の家族の日々の生活が変化するわけでもなかった。彼は僕にとっては「ちょっと風変わりなガイジン」であった。

 

それなのに。

僕は唖然としてその建物を見つめていた。

パリの16区はそれほど広い区画ではないと聞いていた。

この広い土地は一体どういうことなのだろうか。

最新の設備に、制服を着た警備の人達。

・・まるでお城だな、と思った。

シャルルのためだけに存在するような、場所であったけれども、とても寒かった。

内邸は居住空間であるとのことなので、これほど寒々と感じることはないのだろうけれども。

今は客棟は縮小されていて、人の出入りは多くないとカオルから聞いていた。

シャルルは仕事とプライベートを完全に切り分けているようだった。

それでも寒い冬の日だというのに、これほどの人達がフロアで手続きを済ませている。

 

・・・こんな場所に長い間ひとりで・・・・シャルルは寂しくなかったのだろうか。

 

僕の年の頃では、すでに現在の総合研究所の前身である国立病理研究所の所長に就任していたという。そして彼の数奇な人生は、めまぐるしい流転と激流を終結させることもなく、シャルルをアルディ家の当主に今一度据え置いた。

 

・・・彼がシャルル・ドゥ・アルディというフランスの要人であるということをあまり僕が考えないのは、彼がこれまでに起こった彼の経験を、あまり多くは話さないからなのだろうと思った。

 

僕は溜息をついた。

僕は彼のプライベートしか知らない。

仕事でよく日本に来ているようだったけれど、何のために何をしているのか知らなかった。

マリナもシャルルの事を多く話さない。

それなのに、僕は、彼と一緒に仕事をしたいという大それた夢を持ってしまった。

こんなに凄い人の周囲にいる人達は、僕の知らない世界の人達だった。

彼が効率よく仕事ができるように、各国から優秀な人材を集めていることだろう。

 

シャルル・ドゥ・アルディは一人しか居ない。

それなのに、彼は様々な面で常人では達成できないことを次々に開発している。

彼は・・・一体どこに行き着きたいのだろうか。

 


 

嫩葉07

 

・・・・その特殊保護のケースの底には、アルディ家が独自に採番したと思われるシリアルナンバーが打刻されており、この番号と僕の氏名をアルディ家の入り口で伝えると、その他大勢の者が面会やアポイントの申し込みを求めて列を成している外客棟で順番を待つことなく、アルディ邸の本邸に入れる仕組みになっていた。

まるで僕が来訪することを待っていたかのような、そんなごく自然の手配だったので、大変に目を丸くした。

 

別世界の出来事のようであった。

十数時間前までは、僕はフランス語が話せないのに会話が通じるかどうか、どの交通手段を使ったらアルディ家まで迷わずたどり着くことが出来るだろうかなど・・・つまらないことで頭を悩めていたというのに。

唖然として大きな建物を見上げて、高い天井を見回して首を捻りそうになって・・・それでも僕は彼が大変に・・大変に住まう世界が違う人間なのだということを知った。

 

これだけの人がいるのに。そして、空調は完備されているというのに。

・・・僕は身体が冷えているのを感じた。

そうだ。彼はこれだけの人たちに頼られている。けれども。彼でなくてはならないことなのだろうか。

彼が処理するのが一番早くて的確だから。

彼なら何とかしてくれるから。

神様への願い事めいたことを面謁申請書に記入している人がほとんどなのではなかろうか。

・・・何となく、彼が孤独であることを感じていたけれども。

アルディ家の当主、とか。フランスの華、とか。

そう呼ばれているシャルル自身を、本当に必要としている人はいったいどれだけいるのだろうかと思った。

 

だからちょっと哀しくなった。

彼が・・・日本で見せる姿というのは、ここでは見ることが出来ないのだろうと思った。

そんな場所に足を踏み入れてしまって・・・僕は、本当は何をしたかったのだろうかと考え始めていた。

 

マリナがどうして・・・パリに遊びに行こうと誘うことはあっても、アルディ邸においで、と言わないのか理由が少しだけわかったような気がした。

カオルがどうして・・・僕と往路から随行しないのかがわかった。彼女たちは知っているからだ。アルディ家の当主の仕事をしているときのシャルルというのは、日本で僕と会話をしている彼とは違う面を持っているのだということに。

 

僕は日本語と僅かな英語しか使えなかったけれど、応対してくれた係の人は、とても丁寧に僕を扱ってくれた。そして僕は外客棟を通り越して、本邸に入っていく時には、幾人もの係の人が交替して僕を先導した。彼らが入ることの出来る場所というのは、厳格に管理されているらしい。

そんな中を、マリナはいつもひとりでふらりと出て行くのか。

僕は呆れてしまっていた。

 

・・・彼女の豪胆さにはいつも頭が痛いものだと思っていたけれども、これほど厳重な保守警備の中で暮らしているのだとは知らなかった。

 

おそらく、シャルルの取り計らいがなければ、僕は何時間も・・いや、ひょっとすると何日も待たされてしまったのだろうと思った。

 

僕はとても幸運で、今日は当主が在邸している、と聞いた。

日中にはほとんど姿を見せないアルディ家の当主は、今日は昼過ぎから戻っている、と言っていた。

朝が苦手なシャルルが、昼までに用事を済ませて戻ってくるということはできないと思って、僕は苦笑いをした。

僕にもシャルルにも等しい時間しか配分されていない、と良く思うけれども。

シャルルは、時間がないときには何をするのかということ、最初に睡眠を削る。

彼は脳を酷使するので、睡眠時間を多く取らなければ負荷が大きくかかってしまう。

しかし休めることを放棄する。

そして、食事時間などの生活時間を極限まで削る。

マリナと違ってきれい好きだから、シャワーぐらいは入るだろうが。

彼が来日するときはいつも決まって不機嫌そうだった。

時間を捻出するために、寝不足と過労が続くからだ。

それほど忙しいのなら来なければ良いのに、と僕が口を尖らせて不満を言った時にだけ、マリナに窘められた。

 

今になって、大きくなってから理解した。

彼がどれほど・・・日本で過ごす時間を大事にしているのか、必要としているのかということを。

 

かなり歩いたような気もしていたし、それほど遠い道のりではなかったのかもしれない。

初めて訪れる屋敷の荘厳さにただただ驚いていたが、いきなり視界が開けて・・・僕は応接室に通されたのだと知った。

そこから先は、自由に過ごすようにと言われて僕は面食らった。日本語が通じるからだ。

驚いた僕に、係の人は当然ですと言って微笑んだ。シャルルがある時期から日本語でしか話をしなくなってしまったので、日本語を話せる者を採用するか、語学を習得してもなお雇用を継続したい者だけが残った結果が現在だ、と言った。呆れてしまった。シャルルの一言で、この邸はすべての者が動くのだ。

おそらく・・・彼が今でもそれを徹底しているのであれば、それは、マリナがここに滞在しているからという理由なのだろう。

彼女はフランス語が得意ではない。いや、まったくわからないに近い。

 

彼女のためにすべてを変えたのだ。

でも彼は自分がアルディ家を捨てられないから。

シャルルに不可能はない。

やろうと思ってできないことはほとんどないだろう。

だから日本に居る時とあまり大差ないように、彼は言語を整備した。

もっと目に見えない様々なことも整えてあるのだろうと思った。

彼ならやるだろう。先まで見える人だから。

僕に貸与した楽器の消耗や摩耗を計算してメンテナンスの予定を立てることができるくらいなのだから。

 

それなのに。

 

・・・・彼はとても不器用な人だから

 

マリナが僕を窘めたときに、そう言った言葉を思い出した。

シャルルが不器用なんてことはあり得ないだろ、と僕は笑ったけれど。

マリナはそれを聞いて、そうなのだけれどもね、と哀しそうに微笑んだ。

 

ごめんよ、マリナ。

 

僕は心の中でそう呟いた。

彼女がシャルルと一緒に居るのに。

それでもシャルルはいつも何かに憂えている。

手放しの幸せというものを信頼していないようだった。

嫩葉08

 

どこまでが本邸と呼ばれているところなのかは定かではなかった。

とにかく何もかもの規模が違い、僕の住んでいるアパートや地区ではとうてい考えられない空間だった。

応接間に通されて、僕はそこに座ることすら出来なかった。

しばらく待つように言われているが、邸内は自由にして良いと言われて、庭を少し散歩してくると言った。

散歩どころではない。隅々まで歩いたら、大変な距離になるだろうと思われた。

そして、どこからどこまでが彼の発言が影響する範囲・・・つまり、アルディ邸の占有地なのだろうかと考えるだけで、背筋が寒くなる。

ここに住まうということがどれほどのことなのか、マリナだってわからないわけではない。

 

それなのに。

それなのに・・・・

 

僕は暖房でぼんやりした頭を切り換えようと思った。

硝子扉を開けて内庭を通り、白い小石を敷き詰めた小道を歩いて行くと、やがて大きな庭に出た。

寒い季節だというのに、立派な彫像を備えた噴水が勢いよく水を放出していた。

手入れの行き届いた庭からは、冬だというのに、薔薇の香りがした。

 

僕は荷物は持ったままで・・・・そして空を見上げる。

僕の知らないフランスの空だ。

雪が降りそうで降らない。

そんな天気であったけれども。

・・・なんだか視界がぼやけてきそうだった。

姉を連れて来なくて良かったと思った。きっと卒倒するだろう。

いや、それよりも。

もし姉が一緒だったら。

・・・僕のこの表情を見られるのが辛かった。

 

僕の声は掠れていた。

深い溜息を漏らす。

頬に冷たい空気があたった。

寒いと言うより痛みを感じるような冷たさだった。空気が冷え切っているからだ。

風寒を浴びて、僕は肩を竦めた。

 

僕は誰に祈りを捧げるでもないのに、ぽつりと声を漏らして言った。

この家で彼が安らげるのであればそれで良い。でも。

マリナやカオルの知らない・・・一日のうちの大半以上の時間の「職務従事中のシャルル・ドゥ・アルディ」である時間でさえも、彼が穏やかで居られるように。

 

「・・・シャルルを笑わせてやってくれ」

僕は薔薇の香りのする冷たい風に声を乗せて祈った。

 

すると。

その声に呼応するかのように、空で何かがきらりと光ったことに気がついた。

雪が降りそうな空で陽光は遮られているというのに。

僕は目を細めた。

今、僕が立っている場所から遠く離れた・・・噴水も丘も越えた本邸のひときわ大きなバルコニーから・・・・寒空に乗って、きらきらと輝く球体が見えて僕は声を漏らした。

 

「・・・シャボン玉だ!」

 

そこにはマリナが居るのだろうと確信した。

重厚な手摺りが邪魔をして、ここからでは、階上のバルコニーの人物の姿は見えなかった。

 

彼女は、ここでも鎮魂を願っているのだろうか。

シャルルの誕生日に彼女が寒い冬の空の下で何をしていたのか、僕は知っている。

家族に恵まれないシャルルのために。シャルルの両親やすでに居ない人達のために。

彼女なりの方法で、祈祷している様を見て・・・・

まだ、続けていたのか。

 

開扉の音がして、近くの庭の硝子扉が開き、邸内に外気を取り込む。

僕はそちらの方を向いて、顔を持ち上げた。

 

彼は周囲の者に、ひとことふたこと何かを指示し、そのうちのひとつの言葉によって人払いをした上で・・ゆっくりとこちらに歩いてきた。

彼に追従していた者達が彼の指示によって離れていくが、遠くからでもその人物が誰であるか、すぐにわかった。

白金の髪は、陽光の射さないこんな曇天でもなお、輝いて眩しい。

整った顔に、鍛えられた鋼のような体躯、高い腰位置から伸ばされる長い脚に、広い肩幅。

手には何も持っていなかった。

歩き方も揺るぎなく、慣れた道のりを歩いて来る彼は、この家の主だった。

両手をあけたままでごく自然に歩ける人物というのは、シャルルのような環境で生きている人達だけだろう。

僕は持っていたケースを軽く持ち直した。僕のすべてが詰まったそれは、マリナの持ち歩いている鞄よりずっと小さかったけれども、それでも僕のこれまでがぎっしりと詰まっている。

人が背負い込んだものの重さをふと感じるときには・・・きっと、自分の詰め込んだものについて、再認識するときなのだろうと思った。

 

彼は両手に何も持っていないのに。それでも、彼が背負っているものはなんて大きいのだろうと思った。

 

彼はああして・・・確か、ああして、彼女を迎えに来た日の事を思い出していた。

着ているものも違うし、その頃と少し髪型も違っているし、何より年月が経過しているのに。

シャルルは、あの頃のままの若々しい足取りで僕に近寄った。

 

「・・・ダイ」

「やあ、シャルル」

 

良く来てくれたね、とか。ひとりで来たのか、とか。

彼はそういったことを一切尋ねなかった。僕も同じようにした。

シャルルにとっては想定済みのことであり、そこに至る過程は彼には興味の無いことであったようだ。

 

「・・・・借りていたものを返しに来た」

 

僕がそう言うと、彼は青灰色の瞳をちらりと、僕の提げて居たケースに遣って、次にふわりと端正な顔を綻ばせて、綺麗な笑顔を作った。

 

どうして、彼が人払いをしたのかわかっていた。

ここでのシャルル・ドゥ・アルディを知って僕が驚くといけないと判断したからだ。

だから僕の知らない人を傍に寄せるのを避けて、彼はひとりでこちらに歩いてきたのだと知る。

 

「そうか」

シャルルは短くそう答えただけだった。

 

「それから、これまで過分な好意を当然のように享受していたけれども、いつも有り難いと思っていたよ。シャルルは・・・僕がシャルルに対して何か負い目を感じるのだと思って、わざと距離を置いていたことも知ってた。でもちゃんと言うことは出来なかった」

僕はそこで言葉を切った。

 

ごめんなさい、と謝罪するより、もっと違う言葉があるでしょう?

 

マリナにいつもそう言われていたことを思いだした。

シャボン玉の舞うアルディ邸の庭先で・・・僕は、シャルルにそっと言った。

下を向いてはいけないと思った。

顔を上げて・・・成長して、シャルルとあまり身長差がなくなった僕はシャルルの青灰色の綺麗な瞳をじっと見つめてから、やがてひとつひとつの音に心を込めて言った。

 

「シャルル・・・ありがとう」

 

 

 

嫩葉09

 

彼は薄い唇の端を持ち上げて、流暢な日本語で言った。

「我が家の保管品のうち、使用しないと価値が低減するものについて、効率よく保守しただけだ」

楽器は使っても劣化するが、使わないとさらに劣化する。

手入れをし、本来の目的である音を出すということを怠らずに行ってこそ、最高の状態に保つことが出来る。

毎日、一日のうちの大半をこの楽器に触れている僕であれば、きっと、ここで眠らせておくよりかはましな状態になるだろう、と彼が遠回しに言ったのだ。

だから、礼を言うには及ばない、と。

 

シャルル・ドゥ・アルディは本当に不器用な人だ。

マリナの言うとおりだった。

 

聞いているとは思ったけれど、僕は自分の口から彼に今後のことを報告した。

 

「・・・春から、僕は日本ではまだ数少ない分野の学部に進むことにした。

大学院にも行くことになると思う。

だから、まだ、ずっと先のことであるけれども・・・・」

 

僕の長い前置きにシャルルは冷笑した。

彼はいつも結論がすぐにわかってしまうので、長い話をすることを好まない。

 

「就職の相談は受けかねるな。縁故採用はしていないのでね。

・・・・フランス語で日常会話以上の専門用語まで話せるようになっていることと、論文をいくつか提出して学会発表をしていることが最低条件だ。

・・・研究所に欠員があれば募集がかかるだろう。

いくら所長でも・・・独断と偏見で入所させることはできないからな」

 

「日本の制度では、いろんなことを飛び越えてシャルルに追いつくことができない。

でも、僕はきっと追いつくから」

シャルルの持っているいくつもの称号と並ぶことは出来ないかもしれない。

でも、彼の傍で・・・・

 

楽器と同じように。

一日のうちの大半を彼と過ごし、彼の仕事の面もそうでない部分もすべて・・・すべて知る人物になりたかった。

マリナは彼の就業中の顔を知らない。僕は彼が日本に居る時しか知らなかった。

でも。

彼の孤独を引き受ける人がマリナだとしたら。

彼の全部を見て、彼の業務を引き受ける人のひとりに僕はなりたいと思った。

僕はシャルルよりずっと年下で、マリナとシャルルの関係を知っている。

そういう立場の人間が、仕事の面でパートナーになれるかというと、それは難しかった。シャルルの従妹が秘書をしているそうだけれども、彼女は僕とシャルルとの関係に立ち入らなかった。彼女のことについては、必要最小限の情報しか知らない。

 

でも。

 

僕の叫びにシャルルは耳を傾けた。

あの雪の日に。

彼はマリナを泣かせるなと言った僕の言葉を無視すれば良いのに、振り返って微笑んだ。

 

そしてマリナは彼の誕生日にはああしてシャボン玉を浮かせる。

彼を想って。

彼だけを想って。

 

それなら。

僕は、一体どうすれば良いのだろう。

 

カオルが言っていた、僕のこたえとは・・・どうすれば良いのだろう。

 

ダイはシャルルの希望がいっぱい詰まっている

 

マリナがそう言った。

カオルもそう言っていた。

 

意味がわからなかった。

彼に叶えられない希望があるのだろうか。

 

彼は何でもできるのに。

何でも持っているのに。

 

僕の一番欲しいものを持っているのに。

僕が出来ないことをすることができるのに。

 

・・・マリナを笑わせることが出来るのに。

 

目の前に、寒空の下なのに、僕の言葉を待っているシャルル・ドゥ・アルディに向かって、一番適切な言葉が思い浮かばなかった。

彼が僕を見守っていてくれたから、今の僕がある。

今度は、シャルルを見守る役割を僕にもちょっとだけわけてもらえないかと申し出たら、彼は否定しなかった。

 

だから、僕はシャルルに対して回答するこたえを発する準備が整っているのだと思った。解が出ているのに。

僕は、シャルルに回答することができていない。

 

どうして、彼が僕に対してそれほどまでに・・・哀しそうな顔をしたり、関わろうとしたりするのか。

どうして、日本に居る時のマリナのことを託そうとするのか。

 

それなのに、どうして・・・僕の目の前で彼女にキスをするのか。

 

シャルルは、こたえを待っている。

僕の中に詰まっているものを解放するために。

彼が僕の中に詰め込んでしまったと思っている何かについて、彼が憂えている。

 

僕は・・・さっきよりもっと小さな声で言った。

でもはっきりと言った。

僕に遺された音は、もう、これしか残っていなかった。

 

黙ったままの彼の顔を見つめながら、言った。

間違っていても良い。

この言葉を彼が嘲笑しても良い。

でも。

今、輪郭を淡くして消え入りそうなほど、美しい男性を目の前にして・・・

僕は僕とシャルルのこれまでをこの一言に託すことにした。

 

「シャルル・・・大丈夫?」

その時。

シャルルが綺麗な唇を僅かに開いて・・・そして青灰色の瞳を大きく見開いた。

息を呑む彼の呼気が、次にゆっくりと吐き出されて・・・白い衣を纏って空に浮かぶ。

まるで、マリナの浮かべている球体のように、それはすぐに淡くなり、大気に溶けていった。

これほど寒いことに加えて、風が少し出ているので、シャボン玉は長くその姿を留めておくことが出来ない。

それでも彼女は無数の魂を空に流す。

 

シャルルは僕の来邸を予定して、朝から僕を待っていた。

昼からではない。朝から。正確には前日の晩から。

・・・彼は寝ないで僕を待っていたのだ。

 

「ダイは・・・ダイは彼に良く似ているよ」

シャルルが僕の顔をじっと見つめながら、ようやく、それだけ言った。

目が潤んでいて・・彼は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

嫩葉10

 

そこで僕はようやくわかったのだ。

カオルやマリナやシャルルが・・・僕を通して誰を見ていたのか。何を見ていたのか。

あの癖の強い黒髪の人への想いを、彼らは秘めたるものにして、それを僕に詰めて託した。

 

僕の年齢は、彼とシャルルとマリナとカオルが過ごしたあの時代に到達していた。

決して彼らが僕に詳しく話をしないあの時代。

カオル・ヒビキヤが病気療養として一時期再開していた音楽活動を途中で中断してしまっていた時代。

 

彼は僕を見ると思い出すのだろうか。

僕に願いを込めているのだろうか。

あの時代を後悔していないと思うけれど・・・もっと違った路もあったのかもしれないと僕を見て思うのだろうか。

 

シャルルが、どうして僕に関わろうとしているのか少しだけ理解した。

 

・・・僕からマリナを取り上げたとシャルルが思っているから。

あの人から、マリナを取り上げたとシャルルが思っているから。

 

だから、僕に少し哀しそうな瞳を向けていたのだと、気がついた。

 

それまでは幼すぎて気がつかなかった。

みんなが・・・各々にどうしても諦めきれない、秘めたる想いを持っていて、大人になっても、それを諦めきれないのだということに。

 

でも僕は同じくらいの年齢になったから。

でも僕は同じ気持ちを持つようになったから。

 

そして僕が言った言葉はシャルルを激しく動揺させた。

彼が僕に込めた願いがとても勝手なものなのだとシャルルは思っているように感じた。

憬れとか遠い日の記憶とか。

回顧という表現では足りない様々な思いを・・・

 

「ダイは・・・彼に良く似ている。顔容ではなく、自分の気持ちより相手を優先させて尋ねるところが、特に」

 

彼は長い話を好まないのに、そっと吐き出すように一気に語った。

白い頬を紅潮させていた。

 

「君はオレにないものを持っている。そしてとても健全だ。

・・・オレが君の年齢の時には決してそうではなかった。ダイになりたいとは思わない。

けれども、ダイと一緒に居ると・・・ほんの少しだけ、オレは赦されたのかな、と思う」

彼は、最後の言葉は、全部補足しなかった。

シャルルが僕とマリナと一緒に過ごすことで・・・どんなときも彼を理解し信頼していた人を思い出しているのだとわかった。

 

あの人が居て。

マリナが居て。

シャルルが居て・・・カオルが居た時代なのだろうと思った。

 

僕があの人の代わりじゃないことはわかっている。

マリナの恋の相手でもあったあの人のかわりはできない。

マリナはそういう視線で僕を見ない。

 

・・・代わりでも良かったのに。

 

マリナとカオルから奪ってしまったあの人との時間を、再現しているのだと思った。

僕は代わりじゃない。あの人の代わりには、誰もなれない。

でも、穏やかで、平凡で、ささやかで・・・それでも相手の健康と幸せを願い、何かしてやりたいと強く思う・・・そんな気持ちをもう一度持ちたかったのだと思った。

 

「ダイはオレ達の・・オレの若葉なんだよ」

彼がぽつりとそう言った。

目線をはずして、彼は宙に遠く舞うシャボン玉を見つめて、それから、マリナは飽きないなと言って笑った。

でも、少し嬉しそうだった。

 

こんな寒い日の空の下なのに。

シャルルは若芽の話をした。

僕が若葉だという。

何もかもが凍て付くような寒い空気の中で、彼の唇だけが赤くて・・・生命の息吹を連想させた。

少し肩を竦めて空を見上げる白金の髪の人は、いつもの・・僕の知るシャルル・ドゥ・アルディだった。

広大な敷地と立派な屋敷の持ち主は、自分の睡眠時間を削ってまで日本にやって来る。

いつもの・・・不機嫌そうなシャルルの顔を見て、どうして彼はそんなに不機嫌なのだろうと思っていたことを思い出した。

そして、彼は滅多なことがない限り、彼女の部屋に入らなかった。

どうしてなのか。

あの人と過ごしたマリナがその部屋に拘り続けるからだと思っていた。

でもそれは少し違うのだと知る。

 

僕が居るから。

僕が小さい時にはマリナの部屋に入り浸っていたことを彼は知っていたから。

自分が尋ねていくことで、僕が遠慮するからと思ったのだ。

マリナがシャルル以外の人と過ごした時間を、奪ってはいけないと思っていたから。

・・・彼はあの部屋に出資をして、防音装置を備えた僕の空間を作りつつ、マリナがいつ訪れても良いようにしたのだとわかった。

 

大人なのかこどもなのか、わからないよ・・・

 

かつて、マリナに感じた言葉を反芻させた。

シャルルは不器用だ。どうして、こんなに不器用なんだ。

何でもできるのに。何でも持っているのに。

マリナも居るのに。

 

僕は唇をぎゅっと強く噛んだ。寒さで、唇の感覚がよくわからない。

けれども、唇を噛みしめて頬を持ち上げて、眉をしかめなければ・・・・泣いてしまいそうだった。姉も家族も連れてきていないのに。泣いてしまいそうになった。

 

良く通る魅惑的な声で、彼は歌うように囀るように言った。

「芽吹くのを楽しみにしている。成長するのを待ち遠しいと思う。

・・・家族でもないのに。

肉親でもないのに。

君が息災で居ることが何より嬉しい。

マリナと誰よりも長い時間を過ごした君の泣き顔がちらつくと・・・彼女を幸せにしてやりたいと強く思う」


嫩葉11

 

「シャルルが気兼ねしている限りは・・・まだまだ彼女はああやってシャルルの誕生日にシャボン玉をこっそり吹かすのをやめはしないよ」

僕は静かにそう言った。

顎を僅かに上げてアルディ邸から舞い上がる稚拙な虹色の球体を眺める。

休むことなくそれはアルディ邸のバルコニーから空に高く・・・昇って消えて行った。

 

僕とあの人はあまり似ていない。

けれどもシャルルが似ていると言うのは・・・もっと違うところなのだろうと思った。

誰かを想って自分のことより他者を優先させる人なのだろうな、と想像する。

そして、誰よりも・・・シャルルのことを理解していたのだろう。

 

もうすぐ・・・間もなく彼はひとつ年齢を重ねる。

その都度、彼は様々なことを想うのだろう。

 

「本当に、本当の意味で、マリナを幸せにしてやってくれよ。

・・・あいつは笑っている顔が一番だ」

僕がそう言うと、彼は微笑んだ。うっとりするくらい綺麗な微笑みだった。

「そうだな」

 

けれども、彼はきっと・・・ずっとそのことを考え続けるのだと思った。

 

もう、大人なのだから。

自分の幸せのことだけを考えるわけにはいかないのかも知れない。

 

でも、もう大人なのだから。

自分とマリナの幸せのことだけを、そろそろ考えても良いのではないだろうか。

 

「随分と素直だね、シャルル」

彼はちょっと瞳を見開いた。

そして白金の前髪の下から、青灰色の物憂げな瞳で僕を軽く睨んだ。

「睡眠不足と疲労が影響しているのかな」

曖昧な表現は避ける傾向にあるシャルル・ドゥ・アルディが、そう言ったので、僕は苦笑いをした。

 

僕はケースを差し出した。

「これは返却する。でも、手入れする人が必要だから、時々・・・誰かの手入れが必要だ」

「それならダイが持っていろ。これまでと同じように」

僕は首を横に振った。

「いつか、パリで暮らすようになったらそうする。それまでは・・シャルルが管理して」

 

それを聞くと、彼は不敵に笑った。

彼は僕に、随分と壮大な夢物語だね、と言った。

僕は笑った。

 

「マリナにフランス語を教える人が必要だ。・・シャルル、いつまで彼女を甘やかすんだよ」

「甘やかしているつもりはない」

シャルルが否定したが僕は言って遣った。彼に意見できる人なんて、そう多くはない。

特に、この邸内では。

 

「それに、睡眠不足だとか疲労しているとか言って・・・どうせ、ひとりで何でも解決しようとしているからだろ。

息抜きに日本に来るのは構わないが。

仏頂面のシャルルばかり見ている僕としては、ここで口うるさく言って、シャルルを少しは休息させろと言ってそれが通るくらいの権限を持って、シャルルに小言を言う役割を引き受けた方が精神衛生上良いというものだよ」

 

「煩い小姑だな」

「そうだよ」

僕はあっさりと認めた。

そしてたっぷりの皮肉を込めて言ってやる。

僕がどれだけ、マリナに口うるさくあれこれ言ってきたのか、シャルルは知らないんだ。

そんな言葉を言われても、まったく動じなかった。讃辞にさえ聞こえる。

 

「楽器の礼にしては、高くついたよ。

・・・なにせ、生涯、シャルルの友達でいてやるのだから。

僕はこれからずっと・・・・シャルルに『大丈夫か』と尋ねて過ごすのだから」

 

僕はマリナをかけがえのない存在だと思っているけれど。

それと同じくらい。

シャルルのことも大事なんだ。

でも、そう言ったら彼は僕を遠ざけるから。

だから敢えて言わなかった。

 

先ほど彼が言った言葉は・・・マリナには聞かせることはないだろう。

男同士の秘密だ。

これは秘めたる想いとして、誰に告げることもない。

シャルルのあの想いは、僕だけが知っていれば良い。

マリナはとっくに気がついているかも知れないけれど。

 

「だから僕を不採用にしたら、とても後悔することになるよ」

僕はそう言って笑った。もちろん、これから先、余程努力しないと、彼には近付けないだろう。

「・・・でも、やりがいのある仕事だと思うよ。僕は、シャルルと一緒にあの国についていろんなことを考えていきたいと思うから」

今年か来年の夏休みには、あの国に行ってみようと思った。

まだまだパリの街中や日本と同じ平穏を求めることは出来ないけれど。

シャルルが今でも気にかけている懸案事項を解決できたのなら。それは僕の夢でもある。

 

シャルルは僕を若葉だと言った。嫩葉という言葉があって・・・それは若葉を意味する。

シャルルにとって、僕は嫩葉であるのなら。

僕の夢は僕の嫩葉だった。

たくさんの夢を持っている。

 

いつか彼の片腕となって・・・彼の素晴らしい功績を一番近いところで見たかった。

そして・・・・マリナとシャルルが過ごすこの邸で静かに・・・カオルやシャルルの家族を交えてオーボエを演奏する。指が鈍らないようにするのは大変だ、と少しばかり文句を言いながら。

 

マリナが僕のことを希望の塊だと言ったけれど。

僕は、マリナやシャルルこそが夢の塊なのだと思う。

 

「あ」

僕は声を漏らした。

雪が・・・白い雪がひとひら、目の前に落ちてきたからだ。

そこで身体が冷え切っていることに気がついて、僕は身震いをした。

シャルルは黙ったまま・・・雪の中で舞うシャボン玉を見上げていた。

 

彼の憂いも、あの珠に混じって、空に還れば良いのに。

そう思った。

彼には、傍に居る人が必要だった。

だから僕はあの人と同じように彼の親友になれるとは限らないけれど。

せめて・・・彼の傍に居て彼の見つめるものを一緒に見たいと思う気持ちを、シャルルでさえ変更させることはできない。

 

「シャルル。楽器が冷える。中に入ろう」

僕がそう言って、彼の肩に手をあてた。

アルディ家の当主が失調でもしたら・・・僕はここに来た意味がなかった。

 

その時。シャルルが向き直って、僕の肩を抱いた。

ふわり、と薔薇の香りがした。

僕は面食らってしまって、しばし呆然としていたが、シャルルは一度だけ強く、僕を抱き締めた。

 

「・・・・・ありがとう」

その言葉は、僕に言ったものなのか、あの人に言ったものなのか、わからなかったけれど。

彼の声は少し震えていた。

 

ごめんよ、と謝らずに。

彼はありがとう、と言った。

 

だからこれで良かったのだと思った。

 

・・・僕は楽器ケースを持っていない方の手の平で、彼の背中を撫でた。

 

「素直なシャルルも悪くないね」

 

すると彼は少し声を漏らして笑った。

「なるほど。ダイの前ではどうも・・・オレは自分を律することができないらしい」

「いつも不機嫌そうな顔しているだろ。あれのどこが自己を抑制しているのかわからないよ」

彼はちょっと嗤った。

「ダイはまだこどもだな」

 

おとなかこどもかわからない。

 

その言葉は、僕にも当てはまるようだ。

 

でも。

僕は知っている。

 

僕に微笑むマリナの顔を見て、シャルルはいつもちょっとイヤそうな顔をしていることも。僕だけが彼女の部屋に立ち入ることが、彼は相当気に入らないけれども、他の男が立ち入るのはもっと気に入らないと思っていることも。

 

だから表札はマリナの名前のままにしてあるのに、管理を僕に任せて、僕を常駐させるように仕向けるために、あの部屋を防音室にしてしまったことも。

 

「・・・ヒビキヤも来るのであれば、グランドピアノを調律しておこう」

彼はそう言った。

カオルと僕がここで合流することを知っていたらしい。

誕生日のサプライズにするつもりであったのに、少しぐらい驚いてくれても良いのではないのかなと、彼の頭脳と抜かりのなさについて恨めしく思う。

でも。

カオルがヴァイオリンを弾いて僕がオーボエを吹き・・・ピアノは誰が演奏するのだろうか。

ふと・・・カオルとシャルルが昔、共演したことがあったということに思い出した。

彼はピアノも奏するのだということを思い出して、それから僕は唸った。

リサイタルを開くほどの腕前の持ち主達と共演は・・・とても緊張する。

 

寒いと感じていたのに、身体が緊張して熱くなり、背中に汗が流れ落ちるのを感じた。

「どうやら、オレは静かに自分の誕生日を過ごすことができないようだ」

彼が澄ましてそう言ったので、僕は吹き出してしまった。

 

その時。静かなアルディ邸で、マリナの声が響き渡った。

僕が来邸していることを聞いたのだろう。

バルコニーから身を乗り出して・・・雪の交じる空から聞こえて来た。

アルディ邸から、手摺りを乗り越えそうな勢いで、茶色の髪の人が手を大きく振っているのが見えた。

 

・・・・パリの16区で、大声を出して僕の名前を呼ぶのはマリナくらいだ。

 

僕はくすりと笑った。

パリでも相変わらずマリナは変わらなかった。

・・・それが、どういうわけかとても嬉しかった。

 

なんだ、もっと早く来れば良かった。

僕はそう思った。

 

行こう、と僕の方から促したのに。

僕は寒空の下で手を振るマリナの姿を目に焼き付けとしてそのまま立ち止まってしまった。

「楽器が冷えるのだろう?」

シャルルが可笑しそうに言うので、それでやっと邸内に入ることにした。

彼の誕生日には、彼はいつもひとりではない。それが嬉しい。

僕とシャルルは肩を並べて歩き出した。

 

硝子扉の向こう側で待機している人達が居た。誰が・・また来客があるらしい。

僕がそうされたように、先導する人が居て、その係員の人がまた、別の人に取り次ぐという手の込んだ手順を無視して、誰かが入ってきたようだった。

その人物に心当たりがあった。ありすぎた。

 

彼が大きな溜息を漏らした。

でも、少し嬉しそうだった。

僕もその横顔を見て、嬉しくなった。

 

雪がちらついているのに。

彼が腕を回して僕に触れた部分からじんわりと温かさが浸透していく。

 

「宿泊先のホテルには連絡しておいてやる。今日はこちらに泊まれ」

僕はウイ、と言った。

それから少し考えて・・・まだ明日の話であったけれども、一足早く、用意してきた言葉を言うことにした。

 

「シャルル・・・誕生日おめでとう」

 

彼はそれを聞くと・・・綺麗な微笑みをして、瞳に強い晄を宿らせて言った。

「なるほど。・・・東の果ての国の者に相応しい。

・・・それで?一日早いオレへのバースデープレゼントは?」

「シャルルに『親友』をあげるよ」

僕は笑った。

贈るとか受け取るとかいう問題ではないことは、お互いにわかっているのだが。

シャルルは黙って僕の持っていたケースを受け取った。

それまで持っていた、慣れた重さが急に軽くなって・・・そして、僕はまた泣きそうになった。

 

各々が持つ荷物の重さについて僕は憂えたけれど・・・こうして、渡したり託したりすることもできるのだと言うことに気がついた。

だから、僕は・・・誰かに何かを託されて託して生きていくことが大人になることなのだと知った。

シャルルが背負っているものは大きくて重いけれども。

彼のその重さを僕は引き受けることが出来るのだとわかった。

 

カオルが僕に託したもの。

マリナが僕に託したもの。

シャルルが僕に託したもの。

 

それはあの人の代わりという役割ではなくて・・・彼が言った嫩葉という言葉の意味、そのものなのだと思った。

春が来て芽吹いて成長し枝を伸ばして花を咲かせ、実を結ぶ。

僕は僕の決まった路ではなく、自分の決めた路を進むことで・・・彼らから託されたものを別のものに形を変えて、やがて別の誰かに還すことが出来るのだろう。

 

僕はそれまで歩いてきたひとつの路と決別した。

でも、その路と違う路に進んでも、きっとまたひとつに重なる時がくると思った。

 

「『親友』なら。まずは、マリナにあの奇行をやめさせろ」

彼はマリナと揃いの指輪を薬指に光らせながら、髪をかき上げてそう言った。

「アルディ夫人が日本にお忍びでやって来ることも十分奇行だと思うけれども」

「彼女の奇妙な行動については分析が必要だな。・・・ダイ、レポートしておけ。

・・・それが入所試験だ」

「難しいな」

「困難だからこそ為し遂げる必要があるのだろう?」

シャルルが意味深い言葉を言ったので、僕はくすりと笑って頷いた。

 

「それは大変に難しい試験というか・・・魂の試練だね、シャルル」

彼はその言葉が気に入ったようだった。

「昔、愛とは魂の試練だ、と言った男が居たな」

彼は顔を綻ばせて、そう言った。

 

行こう、と彼は言った。

 

行け、ではなかった。

一緒に、行こうと言った。

それが彼の回答だと思った。

 

僕とシャルルはほぼ同じ歩幅で歩き出した。

白金の髪の麗人は、僕を隣に並ばせて歩くことを許可した。

 

僕の出したこたえに、シャルルが及第点をつけてくれたのかどうか。

それはもっと・・・ずっと後になってわかることになる。

 

雪が、また降ってきた。

マリナの慌ただしい足音が、アルディ家の長い廊下の億から聞こえて来る。

そして反対側からは、僕の師匠が奏でるけたたましい足音が邸内に響いていた。

 

ひっそりと静かな卒業旅行になるはずであったのに。

決して忘れられない旅になりそうだった。

そして、この国に訪れるのはこれが最初で・・・やがてこの国に行くという表現ではなく、この国に帰るという表現を使うようになるのだろうなという予感がした。

 

それは予感ではなく、予想でもなく・・・シャルル・ドゥ・アルディ曰く「予定」だった。

 

今年のシャルルの誕生日は・・・一体何人分の賑やかさになるのだろう。

 

 

FIN

 


D-side 結葉 前編

01

 

眩しい光に目を細めながら、ダイは軽く腰を浮かせて、ベンチに座り直した。浅く腰掛けるのは、彼が演奏者である故に自然に身についた姿勢の良さであった。

それより前から武術を習っていたこともあり、それで背筋が発達していたこともあった。

彼の背筋の潔いと言って良いほどの美しさは、背面に座る者たちを陶然とさせた。

その彼は、急な身長の伸び具合から伴う成長痛に悩まされていたがそれもなくなり、体格が安定してきたこともあって、音に艶と丸みが出てきたと評判になっていた。自分ではそんな風に意識したことはなかったが、やはり声帯や呼吸を支える筋肉や骨格が安定しているということによるものであるのだろうと思うし、彼の師による厳しいレッスンの継続が、最近になってようやく果実となってきたのだろうと思われた。幼い頃から教育を受けている者とは、明らかに遅れている開始であったが、ダイはそれを努力で補った。そして、驕ったり飾ったりすることをせず、彼の師に言われたとおり、長い時間基礎練習に費やした。その成果が・・・今、実ろうとしている。

 

「ダイ」

彼の名前はダイという名前では無い。けれども、周囲の者は皆、彼のことをダイ、と呼ぶ。取り決めはないけれども、いつの間にかそうなってしまっている。環境が変わっても、こんな風に・・・全国から集まった選抜メンバーだけの合宿で初めて顔を合わせる者が居たとしても、いつの間にか彼はダイ、と呼ばれるようになる。

最初はかなり訂正を求めていたが、それでも彼をダイと呼ぶ者たちは彼を慕わしいと思うからこそそう呼ぶのであるのだと・・・諦めることにし、それ以来何も言わないことにした。敢えて訂正させることもない。ダイであろうと本名のヒロであろうと、彼は彼であることには変わらないからだ。

一番最初に、彼をダイ、と呼んだ人物は彼のそんな変遷を眺め続けて久しかった。茶色の髪の茶色の瞳のあの人は、ダイの人生に深く関わっている。離れて過ごしたこともあるし、彼女と一緒に過ごした時間は家族よりもずっと短い。けれども、彼には誰よりも大事な人のひとりであることには変わらない。

時間の長さではないのだ。誰かが、誰かを大事にする時には、時間の長さが非礼するのではないのだ。

 

彼は振り返らずに、ただ、膝の上に立てた楽器を陽の光に当てて丁寧にキーを磨いていた。

そんな彼の傍に、誰かが寄ってくる。

 

ここは、合宿所だ。

ダイは今夏に予定されている全国ジュニア音楽祭の選抜メンバーに選ばれていた。

ある日突然舞い込んだ招待ではなかった。

彼は個人でも受賞しているし、何より彼の師の影響が大きかった。音楽科に進学しているわけでもないし、彼の家族環境は普通の家族だ。

しかし。彼の師は、誰も弟子にしないと有名な人であった。気難しく、そして、師だけしか持ち得ない技術を保持し続けて世界を魅了し続ける。

・・・不幸な事件があったとしてもそれを乗り越えるだけの生命力と精神力を兼ね備えた人であった。

だからこそ、あの人はダイを託そうと思ったのだと思うと・・・彼はいつも自分の何が、彼らを安らがせるのだろうかと思う。

 

もう、何度か経験している、合宿所での集中レッスンであった。彼は定期的にここに招聘されることになり、幾度めかの季節を迎える。この招待を誰も断ることができない程に、充実した環境だ。

・・・ここは楽器のコンディションを保つには素晴らしい環境である。外気でさえ素晴らしいが、施設はさらに完璧であった。

完全に調整された空調、演奏棟にほど近い場所にある宿舎は湿度の管理が自分で行える。・・・奏者の持つ楽器によってそれらは微妙に違っているからだ。完全なる防音の部屋が配置されて自室でも練習できるし、もちろん、調律の完璧なピアノが設置されている個室で調整することもできる。恵まれた環境であるということは十分に理解していた。そして・・・こんな風に、尽くされた状態でなくても自分は活動することができるのだと思うのだ。雑然とした音楽室で、初心者である者たちに運指を教えつつ、自分の技術を磨く。朝夕の練習しか時間が取れないけれども、昼休みであったり自分の時間が捻出できる範囲で皆が練習する。場所がないから・・・音楽室の廊下やベランダで練習する。

しかし、ダイは、そんな時間が嫌いではなかった。

完璧な場所でないからこそ故の方法もたくさんあるのだから。

 

「もうすぐ、時間よ」

彼女の声はとても綺麗だった。すでに何度か組んだ相手であった。彼の息継ぎのタイミングやページの捲り方すら、承知している相手であった。彼のコンディションに合わせることができ、かつ自分の主張は崩さない。音程を保つことが難しい楽器を扱いながらも彼以上に精通している知識と経験と努力から生まれる彼女の音色があるからこそ、ダイはこんな風にして選ばれた奏者達と一緒に演奏できるのだ。

 

ダイは、視線を向けずに微笑む。

そして、空を見上げた。

伸びた枝葉の間から、木漏れ日が柔らかく変換されてダイに降り注ぐ。

・・・この晄を有害な紫外線だとは思わない。

彼は支えていた楽器を持ち直した。リードが乾く頃であった。

オーボエ奏者の彼の音色の秘密は、そのリードにある。フランスのパリに住む人物が調達してくる最高級の素材を、更にこの国の湿度に合わせて調整できる技術が彼に備わっているからだ。

 

「・・・それほどの名器を日光にあてる人は、後にも先にもダイだけだと思う」

梅華はそう言って、笑いながらダイの隣に座った。それが当然であるかのように。彼女のために空けておいた場所ではなかったが、彼はいつもひとり分を確保して座る。・・・小柄なあの人が座ることができる空間分だけ。

しかし、華奢な彼女には充分な幅であった。

 

今は自由時間であり、各々が好きな場所で好きなように時間を過ごして良いと許可された時間である。情操教育も音楽性の伸張を促す。だから・・・皆と集う時間にせず、彼はこうして外に出ることにしたのだから。

トップ奏者は孤独だ。特に管楽器奏者は。

厳しい競争の中で、自分の存在を主張しつつ、それを継続することは許されない。個性を煌かせてはいけないのに、個性が求められる。

・・・なぜなら。

その呼気ひとつで・・・曲が変わるからだ。息継ぎのひとつふたつで、流れが変化する。失敗も成功もその吐息ひとつなのだ。


 

02

 

他の奏者は管楽器でも弦楽器でもやって来ることのなかった場所であった。

考えられるのは、打楽器奏者のみ。練習中のスティック音が他の者の妨げにならないように離れた場所で練習するからだ。それに、彼らは定音であることを求められるので、無音の状態の中で訓練されることを必要とされるものの、時折こんな緑空の下に出たがる。これはなぜなのか、理由はわからない。

・・・そして、ダイはここに居る。

梅華は微笑む。彼が・・・何もかも他の者と違っているからだ。

梅華は彼の側にあった自分の長い黒い髪の毛を耳にかけながら、座った。

彼女の髪が、ダイの楽器に触れてはいけないと思ったからだ。彼の楽器は、人が羨むほどの名器であった。しかもコンディションは最高の状態で、定期的に国内の最高の調整師によって整えられている。

この国では存在しない材を使い、経年と丁寧な手入れによって甘い色が出ている。多くの楽器は漆黒色であったのだが、彼の持っている管は、内面はもちろんのこと、接着剤の色に至るまですべてが完全に他と違っていた。オーボエはパーツが多く、複雑に関係する精密機械と同じ物体である。

そして、些細な違いが音色に影響する。この楽器には、キーが少ない他の楽器の繊細さと違う精密さが必要とされていた。それは、管楽器のうち、フルート、オーボエ、ファゴット及びクラリネットなどキーを多く保有する楽器の持つ問題であった。

だから、ダイと梅華が各々大事にしている半身のような存在を伴って、ここに座って居るとわかるとは誰も思い至らない。紫外線や外気に晒すという行為には危険が伴うのだから、彼らがそんなことをするはずはないと誰もが思っている。

 

「ウメ。・・・戻れよ」

ダイはそう言う。

梅華のことを、彼はウメ、と言う。

昔から知っているからだ。そして、彼女のことを大事なパートナーと思っているから。

そして彼女も彼のことをダイ、と呼ぶ。

他の誰にもそんな風に呼ばせはしない。梅華は顔を上げて、夏に入る前の、僅かな・・・梅雨の気配の混じった晄を浴びながら、言った。緑の匂いが風に乗ってやって来る。

 

彼女の左手には、愛器が乗っていた。彼の学校の部活動では決して見ることの出来ない程の品であった。値段の問題ではない。世界で数台しかない品であったが、それに加えて梅華の求める仕様にカスタマイズされているから、これは世界で一台しかない楽器なのだ。

燻し銀のような光沢であったが、それはもっと重量のあるプラチナ・フルートであった。キーのひとつひとつは、梅華の指圧に合わせて作られている。管中はノンコーティング。これは音程に影響するからだ。取り扱いが簡易であることを捨てて、梅華は彼女にとって最高の状態を求める。・・・それほど年齢が変わらないのに、彼女の求めるものは常に最上でしかない。その隣に座るダイは、同じであることは必要とされなかったが、同じだけの技量は必要とされた。

彼女の高雅な音色に合わせることのできる者は少ない。

この国のジュニアと呼ばれる年齢の奏者の中で彼女はトップクラスどころか、常にトップなのだ。

それを考えると、ダイの環境は恵まれているとしか言いようがない。

 

しかし。

そんな品を手にしている者は、梅華だけではない。他にも大勢、居る。

そして他の者から見れば、ダイも同じ部類であった。・・・この楽器は、アルディ家が保有する古器であるのだという説明を受けたが、どんな手段を講じてどんな過程で作られたのかわからないほどに・・・この器は素晴らしかった。梅華でさえ感歎する。他の楽器の講師でさえ、ダイの楽器を見せて欲しいとわざわざ別の棟からやって来るのだ。彼は、それに見合った技量をつけていると感じられないうちは、それが恥ずかしかった。しかし、代用器を持っているほど彼は潤沢に音楽へ費やす資財を持っていない。皆のように、たくさんの楽器を体格や年齢に合わせて買い換えるということはしない。だから、これが彼の唯一で最後の楽器になるのだろうと考えていた。

・・ダイが他の皆が味わったような苦渋の日々を経験していないかというと、そうではなかった。

誰かに追い抜かれるおそれや屈辱、悔悟などについて無縁であったかというとそうではない。

常にこの選抜メンバーに選ばれている梅華と違い、ダイは浮沈を繰り返し、そして選ばれなかった時もある。それがここ数回は毎回招聘されるようになったというだけだ。

ダイはそこで初めて梅華を見た。彼女は、ダイでないパートナーも知っている。だから、ダイがこれから先、梅華と一緒にどれだけの回数を演奏できるかどうかという技量について、彼女は承知しているような気がしてならない。

それでも・・・今回の合宿の終盤に行われる、成果発表を兼ねたミニコンサートにはどうしても主席奏者で出たかった。

あの人が来るからだ。甲府の友人を訪問するついでに立ち寄るという連絡が入っていた。

正確には、その人本人からではなくて、その人を渋々甲府に遣らせる、この楽器の本当の持ち主からであったが。

 

 


03

 

「・・・そんなに楽器を甘やかしても、良い音色が出るとは限らないでしょう」

梅華の言葉に、彼はおや、と顔を上げる。

時折、自分が本当にここに居て良いのだろうかと思うことがあり、そうい時には、ダイはこうして外に出ることにしていた。何時間も楽器を持ったままで練習をするのも苦にならないが、ふと降りてくる疑念をそのまま合同練習に持ち込めば、たちまち梅華に知られて、叱責されるから。

彼女は普段大人しくてあまり口数が多い方ではないが、彼の様子を誰よりも客観的に観察している相手である。相手の少しでも音が良くないと、席を立つこともしばしばあった。その彼女が、ダイの隣に座り、気持ちよさそうに風に眼を細めていた。

だから。

彼女と会話したければ、練習をするに限る。男女問わず、誰もが梅華に憧れていた。

あまり自分のことを多く語らない。でも、彼女の実力が全てを物語っていた。

圧倒的に、ダイと練習量が違っているのだ。それなのに彼女は自分の基礎練習に加えて、皆と同じだけの練習量をこなし、疲れた顔は見せずに淡々とメニューをこなしていく。いったい、いつ、身体を休めているのかと思うくらいの時間を彼女は音楽に費やしているのだ。好きだからとか興味があるからというレベルではなかった。

そんな彼女が、外の空気を吸いにやって来たダイの行為を咎めないどころか、肯定したのでダイは彼女の横顔を見た。

いつもと眺めている横顔と違って見える。それは、太陽光の下だからなのかと思ったが、それだけではなかった。いつも座って居る場所と逆であったのだ。

彼女は笑う。同年代の女の子達の顔を見ても、同じにしか見えないダイであったが、彼女の顔は綺麗だな、と思う。

顔容が整っているというだけではなく、彼女には隙がない。姿勢も崩したことはないし、髪の毛もいつも綺麗に梳ってある。服装もかなり高価なものを着ているなという印象があったが、それが彼女の自信なのではないのだ。高価な品を自慢することで、自分の価値が高まるとは決して思っていない。彼女は他者にも厳しかったが、自分自身には更に厳しかった。

やはり、この選抜メンバーの定連であることが、彼女の誇りなのだろう。そして幾度もここを訪れているために施設の場所を熟知している梅華には、ダイの行き着く場所などというものはお見通しなのだ。

「何だかさ、時折・・・こうして風に触れた方が良いような気がしているんだ。根拠がないけれども」

ダイは正直に、梅華に告白した。室内の、完璧な状態での合奏は彼を昂揚させる。楽しいし、新しい技術やそれまでできなかったことができるようになった時の歓びは大きいし、何より誰かと一緒に言葉を越えてひとつのことを為し遂げる充実というものは代えがたいもので、誰にも与えられるものではなかった。コンクールに出て賞を取ることも実力を測るためのものであり、賞を取ることそのものが目標というわけではない。

彼の欲のなさは有名であった。

パートをグループ内で割り振りして良いという自由を認められた小規模のグループ練習では、彼はいつもソロを扱わない。誰かに譲ってしまうのだ。我の強さも必要とされるポジションであるのに、彼には誰かの諦めの上に立つつもりはないという気持ちの方が優先しているようだ。

先ほども、管楽器の四重奏のグループ決めの時にも、彼は一歩引いて、梅華や他のトップ奏者が全員揃っているグループではないところに入った。

それを梅華が責めに来たのではなかろうか、と思っていた。

一度だけ、彼女はダイに言ったことがあった。

「手を伸ばさないのは、いつでもそこに手が伸びるからだと思っているからなの?」

彼女が言いたいことは良くわかっていた。そうしたいと思ってもできない者がいる。ここに集うまでに、多くの選抜がされており、合宿の場所にやって来ることさえできない者も居るのだ。

そして、ここにやって来たからと言って、ソロを任せられる実力を兼ね備えた者が大勢いるとは限らない。

梅華だって最初から完璧ではなかったはずだ。今も、努力し続けている。それがわかるからこそ、その言葉の重みと痛みを、ダイは受け止めるだけで言い返すことはしなかった。

そんなこともあったので。

ダイは身構えていた。

 

彼女が怒っているのか、何を考えているのかわからない。

けれども、険しい顔つきではなかったので、本当に休憩に来たのかもしれないとさえ思う。

彼女の真意がわからなくて、ダイは座ったままで、大きく息を吸った。

澄んだ空気が入り込み、彼の中を廻っていく感覚が好きだった。

煮詰まった時にはこうするに限る。

ダイ自身がそうであるのなら、彼の楽器も同じ様に呼吸したいのかもしれないと思ったし、手近なところに置いておくほど気軽な品ではなかった。

 

「ひとつ、聞いても良い?」

梅華が、そう話を切り出した。休憩時間はそれほど長くない。けれども、彼女とこんな風に話をすることは・・・滅多にないことであった。しかも、梅華から話しかけてきた。ダイも御喋りな方であるとは思わなかったが、梅華は輪をかけて人見知りを通り越して会話が少ない。

時々・・・梅華は、自分は交流するためにここに来たのではないという悲壮なまでに思い決めた覚悟のようなものを感じる時があった。馴れ合いを禁じているような、そんな気がしてならなかった。

その梅華が、彼に問いかけをした。そして、上を向く。

楽器をぎゅっと握りしめる梅華の爪は綺麗に丸く整えられている。楽器を傷つけないためだ。そして深爪すると音程が狂うので、指先にも気を付けていなければならない生活を、彼女は何年過ごしているのだろうか、と思った。

彼も、上を見上げる。彼女が何を言いたいのか、何となくわかったから。

 

緑が濃く、爽やかな風が吹き抜ける。

空の色はダイの居住地から見える空よりずっと鮮やかだった。

 

「ダイは、なぜ、音楽を続けるの?」

「え?」

なぜ、音楽を始めたのか、そのきっかけは、と聞かれることも多くなってきた。それほど初めて出逢う人々との会話のきっかけに必要なことだろうかと思うこともあるが、彼が「ダイ」と呼ばれることと同じくらいに、彼の中では普通の質問になってしまっていた。

 


 

04

 

ダイが珍しく動揺していたので、梅華は隣でくすり、と声を漏らして笑った。

「ダイは、誰かに奨められて始めたわけではなさそうだったから」

「確かに・・・時間を決めているかもしれないね」

「それは刻限ということ?」

「そう」

彼女が他人のこれからについて興味を持つとは珍しいこともあるものだ、と彼はどこか他人事のようにそう思っていた。梅華は決して弱音を言ったりしない。彼女が相当な年月を音楽のために費やしていることもわかる。

しかし、彼女が一度も疑問に思ったことがなかったのかというと、そうではないだろうと思っていた。

誰もが考えることだ。

自分の将来と音楽はどんな風にして結びつくのだろうか。ある日突然、指が動かなくなったり、聴力が落ちていることに自分が気がつかなくなってしまった時には、どうしたら良いのだろうか、と。

 

「そうだな・・・」

彼は少し考えた。

軽率な答えは梅華に失礼だと思ったから。

確かに、自分は少し、この世界の暗黙知のようなものを知らなさすぎると思っていた。でもそれは恥じるべきことではない。しかし、知らないからと言って免責されることも望んでいない。知らないから、何をしても良いのだと思わなかった。

その一方で、咎められることは承知の上で、彼は楽器ごと外に出る。彼の師が、ヴァイオリンケースひとつで世界を廻り歩く気持ちが、少しだけわかるような気がした。

やがて、彼は言った。

「生涯つきあっていきたいとは思うけれども、片時も離さないという距離でなくてもいいのかな、と思ったりする」

彼女は黙っていた。自分の楽器に陽光が注ぎ、反射している様を見つめている。ダイの方を見ることはなかった。いつもと同じだ。・・・彼らはいつも隣合って、正面を向いている。互いを身体の僅かな動きや合図で何もかもがわかる。けれども、今、こうして座って居る彼女の質問に、ダイは狼狽していた。けれども、正直に言うことにする。誰にも言ったことがなかった。誰からも、問われなかったから。

ここに居る誰もが、永遠に音楽の世界に身を浸すのだろうと思う。どんな職業に就いたとしても、決して全部を捨てることができないことはわかっていた。

「・・・それほどの技量なら、どこに留学しても通用する」

「ああ、それでは駄目なんだ、ウメ」

ダイは笑う。

「僕の家は音楽にとても理解があるという家族ではないけれども、あの家で僕の演奏を楽しみにしてくれている人が居て、時々、聴いてもらうことが、僕の目的だから」

それから、肩を竦めてダイは唇を持ち上げた。彼女の大きな眼が開き、そしてダイに何かを言いそうになって、綺麗な唇を噤ませる。わかっている。

ここに居る誰にも理解できないことだろう。賞を取るより、留学するよりも大事なものがある。彼には、彼の理由があってここに居る。それが理解できない梅華ではないから、言う気になったのだ。

「その人のため?・・・あの人のためなの?}

梅華の言葉に、ダイは言葉に詰まった。

誰のことを言っているのか、彼女は知っているのだ。

彼がこんな風に思っていることを知らないあの人のことを。

 

小さい時から一緒だった。

だから、彼は彼女と少しでも繋がりを持っていたかった。

ダイは自分を狡いと思う。彼が音楽を本格的に始めたきっかけとなった人であった。彼に現在の師を紹介し、彼女が勧めた事である。

だから、ダイが音楽を続けている限り、彼女は日本に戻ってくるのだ。様子を見に来る。彼女しか観客がいない舞台で・・・ダイは、彼女のためだけに演奏する。賞を取って楯や賞状が増えると、彼女は目を輝かせて喜ぶ。彼女は学生時代、転校が多かった。そのために、何か作品を出品してもその結果を見ることのないまま、去って行くことが多かったのだと言っていた。だから。彼はどこにも行かない。・・・・その時だけは、彼女は、彼を見つめるからだ。彼を決して見ない人が、彼を見るのだ。

 

梅華の瞳が左右に動いていた。彼女も、返答に詰まっている。

「誰かのためだけであるのなら、こういう生活を過ごしたりはしないよ。もちろん、僕が楽しくて、そうしたいと思っているから、そうしているだけだよ」

彼は付け足した。自分の言葉に過不足があるとは思わない。けれども、他者への取り繕いではなく、今自分が発した言葉は、自分自身への説明であった。

それでも、梅華は黙っていた。想定外の返答であったようである。そして、彼女は何かをじっと考えているようであった。

・・・風が大気を揺らし、木々が動き、雲を動かしていく。

彼女の横顔は綺麗だった。ちらりと見るだけでそう思うのだから、皆が騒がしくするのも無理はない。

けれども、彼女はそういったことすらまったく無関係であると言いたそうに、禁欲的なレッスンを続ける。飽きもせず、基礎練習を繰り返し、見せ場や早いテンポの曲は最後に回す。地味な練習が、彼女の響きのある低音や繊細でありながら音程の保たれた確実な音を作り出していくのだ。

「ダイ。誰かのため、というのは十分、理由になるものよ」

やがて、彼女がそう言ったので、ダイは自分の楽器を持ち直した。手の平に汗が滲んできたからだ。

しまった、という気持ちはなかった。けれども、どうして彼女にはそんな風に素直に話してしまうのだろうかという自分への困惑があった。

うん、とダイが頷く。彼女が、隠そうとするなと彼の後押しをする。だからかもしれない。

だから、彼はあの人のことをもう少し語ることにした。彼女になら、良いのだと思った。

それほど長い時間を一緒に過ごしているわけではない。住んでいるところも違う。環境も将来の展望も違う。何もかも違うけれども、あの人を知っているようで知らない梅華にだから、言える。

そこには、彼の秘めたる思いがあった。

「その人が演奏を聴き終わった時に、幸せだね、って言う。・・・幸せだな、じゃないんだよ、ウメ。幸せを共有しているねという意味で、幸せだよね、と僕に言うから。・・・僕は、そうだねって言うことにしている。彼女の幸せな顔が見られるだけではなくて、僕に・・・僕も幸せだよね、同じ気持ちだよねって聞くからだよ」

 


 

05

 

「・・・ダイは、本当にそれで良いの?」

「それが良いんだよ」

梅華の質問はそれだけで終わってしまった。疑問ではなく、念押しだったのかもしれない。

ダイは、誰にも言うなと口止めしなかった。彼女はそんなことはしないだろうと思っていたから。

「この話はこれで終わり」

「私が、あの人に言うかもしれないって思わないの?」

怪訝な顔つきで、梅華が最後にそう言った。ダイはくすり、と小さく笑う。

「今日のウメは質問してばかりだね」

そう言うと、梅華は息を吸い込んで黙り込んだ。彼女がそんな風にして誰かに問いかけることは、あまり見かけない。音楽の解釈であったり、ブレスの位置合わせをしたりするときでさえ、彼女はいつも誰にどうしたいのかは尋ねない。皆の言葉を最後まで聞き、そして誰も意見が出なくなった時まで待ってから、最適の方策を披露する。見物をしているようで高慢だと言う者もいたが、ダイはそうは思わなかった。

彼女は、皆の意見を全部聞き取り、それで最も良い選択をしているように思う。単にソリストとしてだけではなく、彼女は皆を統べるための知恵も経験も持っていた。彼女がそう言えば従わざるを得ないけれども、決まらない事に責任を持って決断する勇気と潔さを持っている人だと思う。まるで、あの人のように。

 

ダイは、微笑んだ。質問してばかりのあの人の声や姿が、梅華に重なる。

似ても似つかないのに。ダイに会えば元気であったのか、何をして過ごしているのか、最近はレッスンに行っているのかなどと矢継ぎ早に尋ねるが、その内容はいつも同じだった。

辟易したダイが、「繰り返すなよ」と窘めると、彼女はいつも「彼のようだ」と言って笑う。彼女が言う「あの人」は誰のことなのか、わかっている。白金の髪の、青灰色の瞳を持っている、相当に性格の捻れている美形だ。だから、ますます意地悪な言い方をしてしまう。

・・・ダイが今回の合宿にいつもより更に精を出して練習に励むのは、あの人がやって来るだからだけではない。・・最後に別れた時に、ダイは繰り返し彼の様子を尋ねる彼女に向かって冷たく言い放ってしまったのだ。

 

「僕に干渉するなよ。・・・親でも姉でもないくせに」

 

そう言ってしまった。

ダイは、いつも彼女に向かって、誰にもしないような態度を取ってしまう。

それが甘えと嫉心が混じったものが、彼をそうさせているのだとわかっていたけれども。それでも、彼女がどんなときでも必ず、別れる時には「またね」と言い、次に会った時には「元気だった?」と屈託無く笑うから。だから、ダイはそれに安心しきってしまっていたのだ。そして、そのまま合宿のために出発してしまった。

後から追いかけるからね、と言われたがそれも漫ろな気持ちで聞いているばかりであった。

彼女を泣かせるな、とあの男に叫んだのに。彼女を傷つける自分が嫌だった。でも、仲直りすることも謝ることもしないで、出てきてしまった。

 

だから。

 

気まずい雰囲気のままで居たので、彼は梅華から思いもかけない質問で彼女のことを語ることになり、自分がずっと口にしていなかったことを口にしたのである。

だから、梅華の質問に、ただ、言葉少なく装飾をつけることもなく、ダイは答える。

「言っても構わないと思ったけれども、ウメはきっと、言わないんだろうな、と思ったし、もし・・・ウメが言ったのなら、それでも良いと思ったんだ」

彼の言葉に、梅華が持っていた楽器をぎゅっと握り直した。

・・・管楽器奏者の癖で、狭い場所で座っているときには、楽器本体を立てて持ってしまう。互いの楽器がぶつかり合って傷つくのを防ぐためだ。だから、彼女が自分の楽器にしがみつくように・・・額を寄せて、大きく溜息をついたので、ダイは慌てて彼女に声をかけた。

「具合でも悪いのか?暗い室内から急に外に出たから・・・」

「ううん、違うの・・・違うのよ」

梅華の声は絞り出すような掠れた声で、小さかった。さらり、と耳にかけていた彼女の髪が頬にかかったので、彼女の表情が見えない。ダイは腰を浮かせたが、それを梅華が押しとどめた。

彼女は普段、あまり表情豊かではない。その反面、音色は豊かで幅があり、喜怒哀楽を音で表現できる数少ない奏者でもある。技術も、解釈の深さも彼が知っているジュニアの中では抜群であった。その梅華が、大きく肩で息をして、何より大事にしているフルートにしがみつくような状態で身体を傾けたので、ダイは酷く狼狽した。立てたフルートの足部管が彼女の柔らかな素材のスカートに深く埋もれていた。

「本当に大丈夫か?医務室に行くか?」

ダイの言葉に、彼女は首を振った。

「必要ない。・・・・それより、ダイ。その人に、ちゃんと、伝えた方が良いよ」

「何を?」

「ダイが、思っていること」

そう言って、梅華はダイの顔を見た。

どきり、とする。

彼女は全部を言わなかった。

何を思っているのか、ダイがどんな風に思っているのか、知っているのだ。

 

誰かのために、これほど厳しいレッスンを繰り返す粋狂な者はここには居ない。

皆が、自分の限界に挑戦し、それを越えて行こうとしている。その中で、ダイだけが、飄々としている様が、梅華には気に入らないのかもしれない。

そう思った。傷つけた、と思った。

 

なぜなら。

 

彼女の瞳が、濡れたように潤んでいたからだ。

泣きそうな顔をしていた。

彼女の声も、震えていた。

 

しかし、梅華はそういう詰りの言葉を言わなかった。

その代わりに、また、切れ切れに言う。

空気を求めるように、喘ぐように・・・言った。

「私はそんなに良い人じゃない。ダイがそんな風に思い悩んでいることを言えないでいるのなら、それを聞いた私は、ダイの代わりに言うかもしれない。演奏に支障が出るくらいなら、その人に私が代わりに言うわよ」

「ウメ、君がそんなに怒らなくても・・・」

ダイが狼狽して言うと、今度は梅華の眦はきゅっと持ち上がった。

「私がダイと、あと何回、隣に座ることができると思っているの。限られた回数しかない。限られた時間しかない。それなのに、これまでもこれからも一緒に居られる人のことだけを考えているダイが、黙っていることで情けない演奏しかしなかったら、許さないから」

彼女は早口でそれだけを言うと、大きく深呼吸をした。

「・・・こんな短いフレーズの息継ぎさえ苦しい」

彼女は恨めしそうにそう言った。いつもなら、もっと長く呼吸を止めることもできるのに。

それから、そっと言う。俯いていた。しかし、彼女の背筋は伸びたままであった。

「・・・ダイ、私はいつもダイの隣に座っているけれども、ダイの演奏を独り占めできたことはない。いつも一緒に吹くけれども、ダイが私のために演奏することは・・・ない」

彼女はそれだけ言うと、眼を瞑り、日焼けを知らない白い顔を上げて、木漏れ日を受け止めた。

 


 

06

 

ダイは梅華の様子に、ただ狼狽えるばかりであった。具合が悪いのかと尋ねると、そうではないと言う。それなのに、いつもの彼女の状態とはとても言えないほど・・・彼女は激しく葛藤している様が見て取れる。ダイの前でも決してそんな顔は見せないというのに。

けれども、彼女は片方の手で楽器を支えると、もう片方の手で自分の頬を押さえた。

彼女の僅かな変化を、彼は黙って見守っていた。彼女に何かが起こっていることは知っている。けれども、それは黙っていることにしていた。ダイしか気がついていないことで、ダイはそれを梅華に告げていなかった。

彼女は時々・・・誰も見ないところでそうして顎を押さえていることがあった。痛むのだろうと思ったが、ダイは大丈夫かと声をかけることはしない。体調管理も奏者の義務のひとつであるが、誇り高い彼女の失調が誰かの耳に入れば、梅華が追いつめられることになるのだ。

「・・・ウメ、頑張りすぎるな」

「人の心配をするより、自分の心配をしたらどうなの?」

間髪入れずに彼女がそう言うので、ダイは笑い出した。

けれども、梅華は一緒に笑うことはせずに・・・じっと、ダイのことを見て、そして少しも表情を崩さずにいた。もう、いつもの彼女であった。

「・・・その言葉はまだ、必要ない」

ああ、彼女の言い方はあの気に食わない白金の髪の人によく似ているんだな、と思った。それに、甲府に住む口数の少ないあの人にも。ダイはそう思うと、そこでなぜ、梅華のことが気になるのか・・・少しだけわかったような気がした。

彼女は、似ている。

茶色の髪の茶色の瞳の・・・あの人を連れて行ってしまう白金の髪の人は、こんな風にして誰かに心配されることに慣れていないのかもしれないな、と思った。そして、ダイ自身も。

僅かなきっかけであったが、一度そう思うと、どんどん、自分の中で未消化であったものが咀嚼されて、すとん、と内に入ってくる。

ダイは自分自身のことを・・・あの人の心配ばかりをしていると思っていたが、その実、ダイは多くの者に気に懸けてもらっている事実を彼は当然のように受け止めていた部分があったことに気がついた。

だから、ダイのことを必要以上に構うのかもしれない。

だから、梅華も見かねて声をかけるのかもしれない。

梅華への気遣いの言葉は必要ない、と言う。自分の心配をしろ、と言う。

どうしてそう言うのか、ようやく、わかった。

彼がこれから進むべき路を、あやふやにしたままで梅華に余計な心配事を増やさせるわけにはいかなかった。彼女とは、年に数回しか音を重ねることができない。

そうして去って行った者たちを知っているから、梅華はダイに腹を立てているのだろうと思った。だから、音楽を続ける理由を尋ねたのだ。

 

そこまで考えると、彼は、空を見上げた。眩しい陽光が少し動いて、今度は彼の楽器のキーを輝かせる。・・・外気に触れるのは良くないと思うが、それでも、こんな葉の音や、陽の光や、優しい風が・・・・ダイにも、この楽器にも必要なのだと思う。

あの白金の髪の人が、ダイに無言で託してくれたものだから。

「ウメ。結葉って言葉があるんだ」

彼は、梅華にそう言った。彼女は黙ってそれを聞いている。だから、ダイは続けた。

「・・・葉が茂るころ、葉が重なって交わりあうように陽の光を受けることなのだけれども。・・・葉が結び合っているように見えることからそういう風に言うらしい」

「結葉・・・」

そう、とダイは頷く。

「音楽も同じ。僕にとっては、重なり合う葉だ。でも、それらがなければ、僕は、自分の道を決めることはなかっただろうし、音楽を続けようとは思わなかった。片手間に思えないくらい、好きだから」

その言葉に、梅華は僅かに身体の向きを変えた。彼が何を言い出そうとしているのか、察したからだ。少し、険しい顔をしていた。けれども、彼女は青白い顔をきゅっと引き締めて、真剣な顔をしてダイを見つめる。だから、彼は自分の中だけの考えのひとつである、それを言った。彼女になら、言っても良いと思ったからだ。

ダイは、初めて声に出して言った。

「僕は、高校までで音楽活動をやめる」

「・・・知ってる」

彼女がそう言ったので、今度はダイの方が唇をぎゅっと引き結んで緊張した顔になった。知っている、とはどういうことなのだろうか。それに梅華は回答する。質問もまだしていないのに。本当に、何もか見透かしているかのようだ。

「どうして?」

それを聞くのは自分の方なのに、と言わんばかりの顔つきで、梅華が苦笑いしたので、ダイは途方に暮れてしまう。彼女は、いつから・・・わかっていたのだろうか。

「ダイが、自分のためではなくて、誰かのために音楽を続けて居るって言ったから」

「それが、僕の活動をやめることと関係があるの?」

「十分に」

彼女はそれだけ言うと、ほっと吐息をついた。彼女の溜息は彼女の楽器の音色のひとつのように聞こえる。ひっそりとして、それでいてとても哀しそうであった。

 


 

 

07

 

彼女は軽く溜息をつくと、肩を竦めた。それを横目で見て、ダイは困ったように、しかし自分の言葉を繰り返す。

彼女を失望させてしまった。そう思ったが、それで彼の意志が翻ったり揺るいだりするような脆さしかもっていなければ、彼女はもっと失望するのだろうと思い直す。

「僕はこの道を選んで、良かったと思う。だから、次に進む道は、この道の続きなんだ」

「それで、ダイはあの人の傍に居続けることができる?」

梅華の質問は、意外なものであった。でも、彼女には隠し事はできないな、と思う。彼の心の動きを他の誰よりも知っている梅華だから。長い付き合いであった。時間は短いものであるかもしれないが、彼女の音色が・・一番好きであった。

孤独で端雅で、それでいて透明な彼女の優しさと厳しさを併せ持つ音が、彼の成長を促したのだから。

もっと、彼女に近付きたい、彼女の音色に重なりたいと思って練習を重ねてきたのだから。彼に詮索するようなことはせず、ただ、静かに・・・彼と音を合わせる梅華を誰よりも崇敬していた。彼女のように、全てを投げ打って、ただそれだけにひたすら打ち込むことが出来たのなら。

・・・・梅華の期待に添うように、梅華を残念がらせることはしないと決めて邁進することであっただろうか。

でも、ダイが望んでいるのはその道ではないのだ。皆がどれほどそうして欲しいと願っても、それはダイの願いではない。

だから、自分の考えをきちんと告げることが・・・残された時間を大事に使うことが、彼のできることなのだろうと思うし、怠惰に過ごして後悔したくなかった。失敗しても構わないが、やり直したいと思いたくなかった。

いつも、その時の選択が・・・今に繋がるのだから。だから、一度決めたら迷わなかった。振り返ってはいけないと思った。そうしなければ進めないから。

 

だから、彼は・・・青葉の匂いの風に目を細めながら、誰にも言った事がなかった言葉を、梅華に零す。

「・・・そうでありたいと思う」

「ダイがそう決めたのなら、決して振り返ってはいけない」

梅華は言う。何となく、覚悟があったのだろう。だから、彼女はここに来たのだ。

皆が彼の将来に期待しているところで、彼はこれからも成長をし続ける、最も期待される若手演奏家のひとりなのだ。

それをあっさり投げ打つというのは欲がないというより、他に目標が出来たからだと考えるのは当然であった。だから、彼女はそれを聞きに・・・ここにやって来た。

「ダイの路と・・・私の路は違うけれども、振り返ることはしないところは・・同じね」

「そうだな。ウメのことを、尊敬しているし・・・挫けそうになった時には、きっとウメのことを思い出すだろうね」

「それなら、思い出さない方が良いのかしら。・・・思い出して欲しいと言うべきかしら」

その言葉に、ダイは言葉に詰まった。彼女の泣きそうな笑顔が、緑の陽光の下で・・・白く輝いていた。彼はいつも・・・あの人も、こんな風な表情をさせる自分のことが厭わしかった。けれども、それを懼れて誰かと関わることを躊躇っていたら、自分はきっとここまでやって来られなかったと思う。

邪な気持ちで始めた路であった。でも、今度は・・・自分の意志で、この路の方角を変える。

 

いつも、思っていた。

いつも、考えていた。

 

あの人に、必要とされたい。

あの人に、気にかけてもらいたい。

 

・・・あの人に笑って居て欲しい。

 

彼のことを決して見なかったあの雪空の日から・・・ずっと考えていたことであった。

自分で幸せにしたいと思うより、幸せな彼女の顔を見ていたかった。だから、彼女を笑顔にするために遠い国から乗り込んでくるあの男に取って代わろうとは思わない。でも、その代わりに、ダイにしかできないことをしたかったのだ。

 

「結葉って良い言葉よね」

梅華がそう言ったので、ダイは頷く。

「僕には目標があって・・・緑のない場所に、緑を増やしたいと思う。水を必要としている人だけではなく、草木が・・・葉が生い茂って、こんな風に木漏れ日の中を皆が歩ける場所を作りたい」

「それはどこなの?」

「ここではない遠い場所。あの人も、それを望んでいるからだけではなくて、僕もそうしたいと思っているから」

白金の髪の、あの人の恋人が今でも技術や器材や人材提供をしている国では、まだまだ何もかもが足りなかった。そのうちのひとつが・・・水の濾過システムである。装置というより、あの国の環境構造を人為的に変更させることもなく、どうすれば改善されるのかダイは挑戦したいと思っているのだ。・・・根本的な問題を解決しなければ、あの国は未来へ続いていかない。特定の国だけではなく、すべてのものに応用できるシステムが必要であった。それには、長い年月と国際協力が必要になる。結局は、あの男のことを支える結果になるのだろうけれども。それであの人が笑顔になるのであれば、それで良かった。

 

「それに、僕は彼が嫌いじゃない。悔しいけれど」

「え?」

ぽつりと言ったダイの言葉に、梅華が首を傾げたがダイは何でも無い、と言ってまた微笑む。

「結葉の夢、ということなのかな。途方もなく、大きな夢だよ。

・・・でも、実現できると思うから、強く気持ちを持って、努力するよ。

どれほど、長い時間がかかっても。・・・・だって、今日、ウメに宣言してしまったからね」

ダイはそこでようやく自分の楽器を持ち直し、立ち上がった。彼の影が伸びて、梅華の身体に影を作る。

ふたりは、話をしている間、決して足元を見なかった。下を見るような梅華ではない。後ろを振り返らない、と言い切るに相応しい姿勢であったから、ダイはいう気になったのだ。自分の、秘めたる思いを。

 

「おかしいだろ?・・・僕の生まれた時からを知っている人を・・・」

「いいえ、少しも」

彼女の答えは簡潔だった。

「追い掛けるのよ、ダイ。どこまでも。・・・・どこまでも」

「・・・うん」

梅華の言葉に、彼は頷く。どこまでも・・・どこまでも続く結葉を、彼は創ろうと思う。

痴がましいかもしれないけれど、それが彼の夢であった。

 

それから。梅華も静かに立ち上がって、間もなく終わる休憩の刻限のために、移動しようとすると、ふたりの空気は流れていく。立ち上がったので日も葉も彼らに近付く。彼らが近付くのではなく、降り注ぐ陽光や枝葉が・・・・彼らに近付くのだ。まだ若いのに、滅多に並ぶことのない名器を持ち合わせるふたりは、それだけの才覚と努力を持って、ここに居る。

ほんの一瞬しか交わらない時間かもしれないけれども、それでも、確かに・・・ここにダイは居る。

彼は梅華に振り返ると、ウメ、と呼んだ。いつもの口調で、あっさりと。

「・・・トップ(首席奏者)は、必ず取るよ」

彼はそう言った。あまりそういうことを宣言しない彼が、初めてそう言ったので、梅華はそれを聞くと少し驚いた顔をした。

しかし、すぐに嬉しそうな顔をして、私もよ、と言った。

 

行こうか、という声も必要ではなかった。彼の動きや僅かな音が、彼女を促すから。

そして、彼女の音を隣で聞くことができる回数は、もう、限られている。

だから。

持っているものを惜しむことなく、彼はこの日々を大事に生きようと思う。

それが、あの人が彼を見続ける唯一の方法なのだから。

 



D-side 結葉 後編


08 

 

 

合宿の終盤には、ミニコンサートが終わった。

一般に公開されているコンサートで、スポンサーがついているので主催者、共催団体、後援の名義がずらりと並ぶスクリーンの中での演奏が終わると、普通はその場で奏者達は退場していくものなのだが、今回は趣が違っていた。

交流会を兼ねて、彼らは楽器を持ったまま、観客席から出口へと向かい、観客達の近くを通って、観客達が退場するのを出口で見送るのだ。

会場の防音扉を抜けた先の出口付近では既にたくさんの花が届いていて、噎せ返るような匂いであった。

また、関係者はそこで自分のこれぞと思う奏者に名刺を渡すために、すでにそこで待機していた。演奏が終わる瞬間には静寂が訪れるが、それが過ぎ去ると騒然が続く。

 

プレスリリースもあったし、撮影も入っている。けれども、それが問題ではなかった。皆、そういったことには慣れているので気にならない。彼が気にしているのは、ただひとつだ。演奏は完璧に近かったけれども、それでも章の合間などには気になった。

しかし、ダイは、演奏が終わって大きな歓声とスタンディング・オベーションの嵐の渦の中、観客席のうちのある一点を軽く睨んだ。

 

宿舎から少し離れた場所にあるコンサート・ホールでは、彼の師も演奏したことがあるという有名なホールがある。そこをジュニアでありながら使えるというのも、何とも贅沢な話であった。しかし、そこの中央に座ることができる首席奏者は限られている。特に、今季は様々な多くの曲ではなく、じっくりと聴かせる交響曲を題材にしているので小曲などは数が少ない。

決して短くはない時間を、ここにやって来ようと思う者達は、関係者ばかりではない。

無料開放であるから、面白くなければすぐに席を立ってしまうような、僅かな雑音でも集中が途切れる奏者の困点となる一般の聴者も混じっている。その中でも、今日の演奏会は成功であると言えた。

ダイも充実感が大きかった。今回は、自分からトップ奏者を希望したからだ。皆が驚いたが、それでも誰も文句を言わなかった。それだけの実力を、ダイが持っているからだ。今回、演目と彼の持つ音色の特色が合致していたこともあった。加えて、木管の首席奏者のメンバーが、皆、ダイと相性の良い楽器や音色の持ち主ばかりであったこともある。

だから、これは自分ひとりの力ではなく、いろんな作用が働いたものなのだと思っていた。

 

梅華はいつも通りであった。

でも、メンバーが発表された時。僅かに、微笑んでいた。それは、彼女の名前のところではなくダイの名前が読み上げられた時のことであった。ぴんと張った姿勢を保ちながら、それでも嬉しそうであった。彼女は目立った言動はないのだが、どうにも視線がそこに行くのはダイだけではなかった。多くの者が、彼女を目標にしている。彼女は長い間・・・首席奏者のリストから名前を消したことはない。才能だけではここまで維持することはできない。彼女の見えない努力がどれほどのものなのか、ダイは知っている。

そんな、いつもと変わらない梅華がいるから、ダイは何も配慮することなくいられる。梅華だけではない。他の者たちだって、同じであった。こんな優しい空間を、自分から捨ててしまうというのは、相当におかしな話だと思うけれども。

でも、彼にはやりたいことがある。そして、ずっと、傍に居たいと思う人がいて、その人の傍にいる人のことも・・・嫌いではない。

 

これから先。自分ひとりだと思い、孤独に苛まれることもあるだろう。音楽の路も同じであった。

でも、こんな風にして・・・結葉のように、皆の路が重なりあって、こんな風に出会いと別れを繰り返して・・・そして、少しずつだけれども、行き着きたい場所に近付くのだろうと思った。

 

葉が結ぶ夢というのは、どんなものなのだろう。

自分の夢だけではなく、皆の夢が重なり合ってできる夢。それが、彼の望みであった。

 

・・・その人はとても小柄であったので、観客席に座る者たちの頭半分程度、顔の位置が低い。それに茶色の髪の人は落ち着きがないので、演奏中でも頭がふらふらしているのがよく見えた。だから、指定席でなかったにも関わらず、すぐに彼女の姿を見つけることができた。

ダイは、その人の傍に居たいがために、音楽と違う路に行く。

捨てるのではないが、諦めなければならないものも、それまで日常であったのにそうでなくなるものも・・・多くあるだろう。

愚かだな、と思うし、他の路もあるのではないのかと思うこともある。でも、そうしない。結局、自分のしたいことというものはいつも、考え及ぶ限り考え尽くしても・・・最後に行き着く考えはいつも同じであるから。

 

それほど大きなコンサートではないのに、盛況であった。人の入りというものは、どれだけ宣伝したかにもよるが、どれほど興味を持たれているかというところも大きかった。こういう活動は、花を咲かせるのと同じだ。地道に地を均し、水や肥料をやり、種を撒き・・・そして花が咲くまで長い時間をかける。一度限りの催事にしてしまわないように、どれほどの人々の努力があったのだろうかと思うと、単に遊びに来て演奏しているという気持ちには決してなれなかったし、メンバーも皆、同じ気持ちであったはずだった。

ダイは、少し明るくなった会場の観客席の階段をゆっくりと上る。その間、観客はみな立ち上がって拍手し続けたので、折々で、ぺこりぺこりと不器用に頭を下げた。新調したばかりの服に、タイがきつかった。

・・・こういうことは、いつになっても慣れない。

早く楽屋に戻って、タイを緩めて一息つきたいというのが正直な感想であった。この時ばかりは、彼の師のことを少しばかり偉大だと思う。

人々の賞賛が彼の糧ではない。でも、誰かに聞いて欲しいという面もあるから音楽とは音を出しているのだろうと思う。

しかし、一番見て欲しい相手が、彼の演奏をろくに聴いていないというのは、なかなかに不機嫌になっても仕方の無いことであるように思えた。しかし、それを顔に出すことはしない。

皆が、笑顔でこの会場を後にして欲しいから。

もちろん、あの人にも同じであって欲しいと思う。

道すがらと言っても、ここに来るまでにはバスを乗り継ぎ、本数の少ない電車を乗り継いで来なければならない。

・・・そんな遠い場所に足を運んで来るのだから、彼女にも、同じ気持ちで会場を後にして欲しかった。

 

 


 

 

 

09

 

演奏会終了後の会場というものは、如実に結果が出る。

演奏の出来が悪ければ、会場から出て行き誰も居なくなるまでの時間は、閉場時間よりもずっと前になる。

奏者の知り合い達はここで待ち合わせをすることはせず、直接楽屋に向かったり、裏口で待ち伏せしているから、一般の聴者だけの動きが続く。・・・だから、ここの空間は演奏の出来そのものを表す。

ダイは舞台から降りた後は、こっそり、こうして会場の風景を除くことがあった。

手応えがこうだとはっきりわからないときには、よくそうしたものだった。

でも、今日は少し違っている。今日は・・・皆と整然と並び、皆が見送るのだ。変わった趣向に、来場者達がわっと歓声を上げた。ここのところ、若手の演奏家に対する理解が深まった。ダイの師の時代には、もっと閉鎖的であったが、今は聴かせてやるという高慢さはなく、もっと観客と奏者が近い場所にあることを求められる空気に変わりつつある。

・・・コンサート・ミストレスは今季参加したばかりのまだ幼い顔立ちの少女であったけれども、どこかカオル・ヒビキヤを思わせる演奏をすることで注目を浴びていたし、ヴィオラの少年はこれでジュニアの世代から抜けてしまい来月からは留学の準備に入るのだと聞いた。だから、こうして・・・このメンバーでもう一度同じ曲を奏すことはもう、二度とないのだろうと彼は思った。

幾度演奏しても、この音を同じ様に再現することはもうできない。

人々のざわめきの中、彼らは決められた位置に立ち並び始める。会場の高い天井の下で、ダイの楽器は光を受けて淡く甘い色に輝いていた。演奏もアンコールも終わり、その後のこういった計らいについて、普通ならばすぐにでも楽器をケースにしまい込み、今日自分に課せられた練習の続きを行うために会場を後にしたいと言い出す者がいてもおかしくないのだが、今回は誰もそんな希望は言わなかった。皆が集い、人が犇めく空間を見て、ダイは、梅華と見上げた結葉の空を思い返していた。

ここは室内であるが、どこか空を思わせる。ああ、そうか、と思った。壁紙が、深い空天色だったからだ。

近寄ると表面は平らではなく、その中で、無数の影が重なり合っている。

彼は、そこで胸が詰まった。これで最後ではない。幾度か、こういう風景を目にすることになるだろう。でも、それはあと何回もあることではない。梅華が歎いても、誰かに引き止められても・・・彼は、これらが永遠に続かないとわかっているから、投げ出さずにひとつひとつを大事にしていく。それを教えてくれたのは、茶色の髪の、あの人だから。

 

全員で見送り、と言っても帰りを急ぐ退場者も少なくはない。まだ整列しきれない、彼らの慌ただしい見送りに微笑みながら、退場していく人々が幾人か見えた。また次回も来ますという声が聞こえてきたり、目礼だけしていく者も居る。そんな各々の反応の違う背中を見送りながら、ダイはあの人の姿を捜している自分の視線に気がつく。

彼女は非常に小柄なので、皆が静止している会場で姿を追う時と同じ様にして捜し出すことはとても難しい。先ほど、会場の中を通った時には、あの人の座っている側と逆の通路を上ったのですれっきり姿を見失ってしまい、外で待っていて欲しいと声をかけることもできずにいた。

彼女は、ひとりでふりとやって来る時にはいつもこうしてダイに声をかけないで帰ってしまう。楽屋に立ち寄ることができるように、関係者パスの登録もしてあるというのに、彼女は必要ない、と言うのだ。

「だって、ダイの演奏を聴きたいだけだから」

彼女はいつも、そう言って笑う。特別扱いして欲しいから、ダイの演奏会に行くのではないと言いたいのだろうな、とダイは考えていた。けれども、単に、純粋に、彼女はダイの演奏風景を見て、それで満足してしまっているらしい。

 

「ダイ」

その時、後ろから彼の名前を呼ぶ声がして振り返ると、梅華がそこに立っていた。

「あちらに居る。・・・ここは良いから、はやく行って」

梅華は場慣れしていることもあり、落ち着いた表情で静かにダイを促す。ちらりと梅華が視線を別の方向に流すと、そこに・・・見覚えのある人の後ろ姿が見えた。

オーケストラは構成人数が多いので、会場扉からホールの出口まで、両側にずらりと人が並ぶ。そして年齢も様々だが、彼らは無言でいられるほど、老成していない。演奏会が終わった後の昂揚感で落ち着かない空気が渦巻いている。

ようやく整列が終わり、会場内で準備が整った旨を知らせるアナウンスが流れ始めていた。

「今のタイミングしか、ない」

梅華は彼の隣で囁くように言った。ダイにしか聞こえないような、小さな声だった。そして彼女は軽く彼の肘をとん、と押し出す。

その間に、あの人の姿はどんどん、小さくなっていく。それほど長い距離があるわけではない。ホールそのものを出てしまえばもう、声をかけることもできない。それに人の声が段々大きくなり、高い天井であるのにそれらが響き渡って本来の騒がしさよりもっと大きな音がする。だから。・・・今、行かなければ、すぐに、また見失ってしまう。

「ウメ。ここを・・・少し抜ける」

返事を待つより先に、身体が動く。

同じパートの者に少し抜けると声をかけると、そのままダイは歩き始めた。

 

彼はいつも優等生で、これほど大人数の中で短い期間であるけれども生活するに必要な規定されたものを破ることはしない。

でも、今度ばかりは・・・ダイは、彼女に後を託すと、大股でその茶色の髪の人に近付いて行った。

何人かがダイに気がついて声をかけるが、まったく無視して、観客の通り道を歩く。

彼は音楽家の多くのように耳が良く、自分の靴がホールの床に響く音さえ聞こえる。

それなのに、彼女の気配を感じるために集中しても拾うことが出来ないなんて、と少し苛立った。

パンフレットを片手に、大きな鞄を肩に提げてどこか楽しそうに歩く彼女の後ろ姿に向かって、歩く。

 

彼女に、伝えたい事がある。そして、それは今でなければ、これから先には言おうと思っても、また、躊躇ってしまうだろうから。

彼がどうしたいのか、どうしていきたいのか・・・悩んでいることを、彼女は知っているから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

10

 

ダイが声をかけても、しばらくその人は気がつかなかったので、幾度か彼女の名前を呼んだ。

 通り過ぎる時、両脇に居た仲間達がダイの姿を見て、彼の決められた立ち位置と違うところを歩いているので、皆がおや、という顔をしたけれども、会場の騒ぎに紛れて彼はそれらをすべて無視して遣り過ごした。

彼は、もう、彼女を見送るだけではなくなった。

 

あの雪空の日。ただ、見送るだけしかできなかった。ついて行ってはいけないのだと、わかっていたから。・・・彼女は迎えに来たあの男と一緒に行ってしまった。でも、今は違う。・・・違うのだ。

 

片手に楽器を持ち、慣れない服装であったので、彼はいつものように走って彼女に向かうことが出来なかったが十分だった。

茶色の髪の人は、空を仰ぎながら歩くことさえ楽しんでいる。

 

そうだ。

この人は、そうなのだ。

 

たとえ、どんな時であったとしても、空を見ることを忘れはしない。空の向こうの・・・白金の髪のあの人に、報告するために。彼女は自分のみた風景をうまく彼に伝えることができないで悩んでいるから。だから、ダイを連れて散歩に出ても、どんなに寒い雪の日でも、彼女は空を見ることを忘れたりしない。

 

彼女を振り向かせるために発した彼の声から漏れる彼女の名前が・・・それが幾度目なのか、数えるのはやめた。

彼女の名前を呼ぶ度に、周囲が振り返る。でも、それでも良かった。違う意味で注目されても、まったく気にならなかった。目の前の人を振り向かせるために呼ぶ声というのは、音に似ている。でも、一連の長いフレーズではないから、人は振り返る。

そうではない。

合図や気を引くための音楽ではない。彼は、彼女の名前を呼び続けていたい。

それが世間一般的な絆でなかったとしても、それでも良い。

ただ、・・・彼は、彼女の心を揺さぶりたいのだ。

それが、音楽を続けている理由だ。

 

「やっと追いついた」

ダイがそう言うと、振り向きながら驚いた顔をして、目を瞠る茶色の髪の人は、どうしてダイがそこに居るのかわからない、と言った。

彼女は間もなくやって来る周回バスに乗り込んで、次の移動先に向かうところであった。でも、まだ、大丈夫だ。ダイは少し離れたバス停に入庫の気配がないことを確認すると、ほっと大きく深呼吸する。

そんな彼を見上げながら、彼女は嗤った。

「ダイ・・・まだ、会場に居るはずだと思ったけれど」

「抜けてきた。少しの時間なら、大丈夫だから」

それだけ言うと、彼はそれほど長い距離を走ったり歩き続けたりしているわけでもないのに、自分の声が震えて途切れがちになっていることに気がついた。

彼女もそれに気がついたらしく、立ち止まって自分の肩に提げている鞄の取っ手に手を掛けていた手を、ダイの腕に置いた。

「そんなに、急がなくても良いのに。この後、甲府に立ち寄るのでしょう?そこで会えるのに」

「そこじゃ、駄目だから」

彼の言い方が切羽詰まった感じがして、彼女はふと、微笑みを閉じる。

改まって、彼はぺこりと頭を下げた。

「今日は、ありがとうございました」

その様子に、彼女が慌てる。

「何?畏まって言うことではないでしょう・・・・」

「いいや、こういうのは、畏まって言わなければならないから」

彼はあらかじめ、言おうと思っていたことの順番をきちんと決めていたはずなのに、彼女の前ではそうならないことにひとり、苦笑する。

ありがとう、と最後に言おうと思ったのに。これでは、ずっと考えていたことの通りにならないではないか。

 

・・・彼女はいつも、誰かの予定の通りにはならない。

・・・そして、彼女自身の予定のとおりにもならない。

だから、彼女だ・・・

だからこそ、彼女だけなのだ・・・

 

白金の髪の人は、彼女のことをそんな風に言ったことがあった。

確かにそうだ。その通りだ。

 

「花束を持って来る余裕もなくて。ごめんね」

「謝るなよ。花が欲しいだけなら、誘わない。来てくれただけで・・・嬉しいよ」

彼の背後が騒がしくなった。会場の退場時間になり、皆が一斉に会場から出てくる頃合いになったのだ。それまで、直接花束を渡したいと思っている者たちが、各々の目当ての者たちに渡したあと、会場から出口までのエントランスホールにまで続く人の路を通って出てくるのも間もなくのことであった。

ダイはそこで、彼女に言った。順序が乱れていると思ったし、唐突に何を言うのかと怒られるのも承知の上だった。でも、言いたいことから言った。

「僕、大学に進んだら、この楽器をあの人に返しに行こうと思う」

それだけで、何を言わんとしているのか、彼女は悟ったらしい。

はっと顔を上げる。

そして、ダイの顔をしげしげと見つめた。食い入るように、じっと。周囲の喧騒などまったく耳に入っていないようであった。

彼女の瞬きはとてもゆっくりだ。だから、時間の経過が自分のそれと違うのだろうと思わせる。でも、今、ここでこうして対面している彼女の中で、ダイの言葉が呑み込まれて・・・そして彼女に、言いたいことが・・・伝わると良いのにというダイの願いを含めてそれらを受け止めて欲しいとダイは強く、思った。

 

「それで、いつか・・・別のことで、僕だけしかできないことをしてみたいと思う」「捨てる必要はないと思うけれども」

「音楽を捨てるとは思わない。・・ただ、音楽をしていたからわかったことも、あるんだ」

ダイの言葉に、彼女はじっと耳を傾けていた。彼は昂揚して大きな声を上げるということはしない。だから、自分でかなり動揺して支離滅裂だと思っている今のこの状態であっても、彼女にはきちんと伝わった。

「そう」

彼女は言った。彼が決めたことだから関与しないということではなく、彼の決断に彼女の言葉が大きく影響していることを承知しているから、何も言わなかったのだろうと思う。

思いつくままに喋っていたあの頃と、明らかに違う彼女の反応であった。変化することは簡単だが、元も戻せない変化もある。それを知っているものの、助言を求められていないのに自分の考えを押し付けるようなことはしない、と彼女は考えているらしい。それほど、ダイを信頼しているのだと思うことにしている。冷たいとは思わない。それなら、彼女はこうしてここにやって来ない。

 


11 

 

言葉だけを受け止めると、彼女の返事はとても素っ気なかった。

でも、ダイは知っている。

梅華も同じ様に返答をした。

彼女達はいつも、肯定も否定もしない返事で、ダイの決めたことについて反対はしない。

もっと驚かれるかと思ったのに、詰られるかと思ったのに。だからダイは思わず、尋ねた。

「どうして、何も言わないの?」

「どうして?何か言って欲しい?」

彼女が微笑む。

若いというより幼い笑いだ。

でもそれがいつも通りであったので安堵する。

 

彼女はとても小柄であったが、彼にとってはとても大きな存在である。

だから、今、言おうと思ったのだ。

彼は震える声で言った。自分が、緊張しているのがわかる。先ほどの舞台の上ではまったくそんなことはなかったのに。手先が震えて、うまく声にならなかった。

 

「ついでの立ち寄りでも良いんだ。できるだけ、多く・・・来て欲しい。無理は言わない。でも、あと少しだから、僕が皆の前で見せる姿を、見守って欲しい」

自分の望みだけを押し付けるような言い方しかできなかった。もっと練習していたのに。何を言うべきなのか、きちんと整理して言うことにしようと決めていたのに。

・・・そうできなかった。

すると、彼女はくすりと声を漏らして笑う。そして、彼の方に一歩近づき、踵を上げて彼の貌を覗き込んだ。

そして、腕を伸ばすと、彼の顎を指で突いた。

「いつの間にか・・・見上げないと顔が見えないね」

目の前に、茶色の瞳があって、彼は言葉を失う。こんな風に覗き込まれたことがなかったから。

彼女の身長を追い抜いたのはもう、ずっと前のことであった。だから、今になって気がついたことではないはずなのに、彼女は笑って言った。

「もう、私だけのための演奏は、必要ないよ」

「うん」

彼は頷いた。

本当は・・・彼女のためだけに演奏したかった。まだ、これからも。

でも、彼女は彼のこれからを見ていてくれるだろう。どんなに、遠くに居ても、彼女はいつもダイのことを忘れないでいてくれるだろう。

それだけは確信できる。

きょうだいでも親でもないけれども、彼女は彼のことを、自分の心に入れてくれたのだから。

「ダイが、お願いするなんて珍しいね」

彼女がそう言ったので、彼は淡く微笑む。

「たまには・・・ね」

ダイの返事に、彼女は笑う。そして、そろそろ行くね、と付け加えた。

「またね」

彼女はいつもの通りに、そう言い残す。誰かを見送るのは苦手だ、と彼女はよく言った。それは、彼女がそれまでの日々の中で哀しい思いを幾度かしたからだ。これからも、決して経験しないとは言い切れない。でも、そうやって、彼女も大人になった。そして、ダイも・・・彼女を見送った時に、少しだけ、大人になったことを自覚している。無邪気に見送ることができなかった、あの日のことがなければこんな風に彼女との繋がりである音楽を断つ、と彼女に言い出すことはできなかっただろう。

この絆だけしか、彼と彼女の間に存在しないというわけではないから。だから、もう、不安に思ったり心配したりすることはしなくて良いのだ。

 

「まだ、もうひとつお願い事がある」

ちょっとそこまで、というような気軽さで背中を向けた彼女に、ダイは声をかけた。

彼女が立ち止まって、振り返る。茶色の髪が翻って、茶色の瞳がダイを見た。

彼は、楽器をぎゅっと握った。これだけはちゃんと言わなければならない、と心に決めたことの殆どをきちんと言う事が出来なかったけれども。でも、これだけは言って彼女を見送りたいと強く想っていたから。

「なに?」

彼女が笑う。ダイのお願い事なら、仕方が無いわね、と言った。

肩にかけていた鞄を持ち直す。踵を浮かせて勢いをつけなければそれは持ち上がらないほどたくさんのものが入っている。彼女のすべてだ。夢も希望も未来も過去も、その鞄の中にすべてを詰め込んで、彼女は今でも様々な場所に軽やかに出歩く。そして行く先々で、その鞄に何かを詰めて帰ってくる。

そういう、人なのだ。

彼女が本当に帰る所は・・・ダイもいるあのアパートではないのだ。

 

彼女だけが叶えられる願い事であるとわかっているのに、ダイの目の前で屈託無く笑う彼女の輪郭に晄があたって、彼女の輪郭が淡く発光しているような錯覚を覚える。

そんな彼女を眩しそうに見つめながら、ダイは少し大きな声で言った。

もう、叫ぶことはしない。

彼は大きな声で周囲を憚らず叫ぶことのない少年になった。

こどもから、少しだけ・・大人になった。

 

彼は大きく息を吸い込んで、言った。

「・・・・あの人に、泣かされたら、いつでも戻って来るんだぞ。だから、それまでは笑って・・・あの人を、笑わせてやってくれ」

彼はそれだけ言うと、彼女の驚いたような顔を見ながら、笑った。

 

彼女にとって、ダイは結葉のひとつでしかないかもしれない。多く出会ってきた人々のうちの、ひとりなのかもしれない。でも、その多くの出会いと別れの中で・・・彼女はたった一枚の葉を見つけた。

そして、ダイという葉が・・・結葉の中できらきらと日を受けて輝いていても、雨に濡れたり枯れたりしそうになったとしても、彼女はダイのことを忘れたりその他大勢という括りにしない。

どんなに他の葉に埋もれたり隠れていたとしても、彼女はダイのことを忘れたりしない。だから・・・もう、ふたりだけの時間を彼が持たなくても、もっと違う夢を抱いても、彼女はそれで良いと言うのだ。

 

しばらく、彼女は無言でいた。

呆然としているようにも思えるし、どこか嬉しそうな顔にも見えた。でも、それはすぐに見えなくなってしまう。

会場は散り散りになった来場者達が、主催者の粋な計らいに驚き喜んで良い演奏会だったね、と言い交わしながら出入口から出てき始めていたからだ。

人の波が溢れ寄せてきた。

すると、あっという間に・・・彼女は非常に小柄であるので、姿が見えなくなってしまう。

周囲はすぐに、騒がしくなる。

もう、ダイも戻らなければならない。それほど長い時間を空けられない。

彼女のために演奏をしていた彼ではなくなった。

務めとは思わないが、演奏会は楽屋口を出るまで演奏会なのだ。途中で放棄することはできないし、したくなかった。たとえ、彼女のためでなくても。

・・・そういう風に自分を戒めることが嫌ではなかった。

 

一応、挨拶は済ませていたし、そのまま彼女が出立しても構わないと思った。

この人の流れに逆らって戻ってくることはしないだろう。

 

すると。

「ダイ」

強く叫ぶ声が聞こえた。会場に戻ろうとした彼を呼ぶ彼女の声が聞こえる。

でも、姿は見えなかった。

はっとして足を止める。そして、彼は思い切り踵を上げて背伸びをした。

明らかに観客ではない彼の格好と楽器を交互の眺めながら、周囲の人々がちらちらと彼の様子を窺い見たが、彼はまったく気にしなかった。

そして、彼が顎を上げて彼女の姿を探そうとした時。

声が、聞こえた。

「ダイ!・・・私・・・あんたのことが、大好きなのよ!」

彼女の声が、涙声だった。

張り裂けんばかりの声で、ホールの出入口に居た人達は、驚いて彼女を見たが、彼女は全く気にしていなかった。

人の波が・・・僅かに開いて、彼女の顔がちらりと見えた。ダイと目が合う。

ダイは、彼女の名前を呟いた。

 

年の離れた、彼の大好きな人は、ダイに向かって満面の笑顔を浮かべる。

彼は無言で、頷いた。

それから、彼女はにっこりと今一度微笑むと、勢いよく向きを変えて、ダイに背中を向けて走って行った。

人にぶつかりながら、先を急いで走って行く。

彼女は彼の結葉だ。彼女の結葉にダイが混じっているのと同じ様に。葉が重なり合い、木漏れ日を感じ、多くの葉が茂って重なる。

 

あっという間に、また、彼女の姿が見えなくなってしまったが、ダイはすぐに自分も人混みに背を向けて歩き出した。

少し先には、梅華が居て、こちらに視線を向けていた。

彼はその場所に急ぐ。

もう、彼女の姿は探さなかった。

 

また、すぐに会えるから。

・・・彼の結葉に。

だから、それ以上見送らなかった。

彼女もわかっていた。

 

彼は、彼女に近付くために努力しなければならない。これからも。これまで以上に。彼女がダイに叫んだ言葉を胸にしまい込んで、ダイはこれからも、彼女の結葉になりたいと思う。

 

自分は声を上げることができなくなってしまったのに、彼女は叫んで彼に伝えてくれた。

 

彼女の声を、忘れない。

決して、忘れない。

 

大好きなあの人が、大好きな人の傍で笑っていられるように、彼は彼女の背中を押し出し、見送る。

それがダイの夢だ。

結葉の夢なのだ。

小さくても葉が重なれば・・・大きな、憩いの葉陰を創り出すことが出来る。

 

「まったく、どっちが大人かこどもか、わからないじゃないか」

ダイはそれだけ言うと・・・会場のエントランスをくぐり抜けて、元来た道を今度は小走りで戻った。

 

FIN

 

 

 

 


D-side 溟沐 前編

●Note  01

その日は、ダイは自分の星回りは悪い日なのだ、と思った。
彼も人間であるから、調子の良くない日がある。
通年を高気圧の中で過ごすことはできない。
集中出来ない時期もあれば、憤りで不本意な結果を出してしまうこともある。
しかし。
それを言い訳にするつもりはなかったので、彼の師であるカオルに叱責されても・・・ただ、黙ってそれを受け止めるだけであった。

彼の師であるカオル・ヒビキヤは世界を巡る音楽を奏でる者である。
それが、旧友に頼まれたからという理由で、ダイというまったくの初心者を弟子に迎えた。
誰も弟子にしない彼女が、ダイを引き受けたのだ。
遅い開始であった。
だから、この世界では大成しないともわかっていた。
この世界しか知らないというわけではない年齢から開始してしまった。
それ故に、目移りするのだ。他の世界がどれほど素晴らしいか、ダイは知っている。
視野が狭いということではない。でも、ダイは、音楽だけしかできない人間になりたくなかった。それでいて、片手間にするものでもないと思っていた。
ある意味、決心が必要だった。
高校を卒業する時期になるまで、進路を決める頃になるまでに・・・音楽を続けることについて決断をすることになるのだろうと予感していた。
音楽を専門とする学校に進学するつもりはなかった。

だから。
ダイは、本当に、マリナという人物はカオルにとって大事な存在なのだと思った。
断れない相手であったのだろう。
付き合いというものは笧になることがある。
マリナがカオルに、ダイのことを何と言って紹介したのか、詳細は知らない。けれども、彼が与えられた彼女からの恵みを自分から手放すようなことはしたくなかった。

カオルは厳しかった。

少しでも練習を怠るとたちどころに「今日は帰れ」と言って無表情になってしまう。
姿勢が悪いと叩かれた。挨拶などの礼節を欠けばレッスンもしないで追い出された。
そして、彼女の聡い耳では、ダイの練習成果の過不足を察知するまでの時間を多く必要としなかった。

日々の練習のうち、基礎練習がどれほど退屈であったとしても、それを怠るのであれば上達はしないと、常々言っていた。
それは、彼女が、幾度か・・・楽器を手にして華やかな舞台に立ち続けることはできないと思うような状況を経験してきたからなのだろうと思う。
この世界は、派手やかな曲を奏することができるようになるのが良いこととされているわけではない。
その曲の構成、歴史、作曲者や多くの奏者の解釈など、ひとつの曲を完成させるときには自分のすべてを捧げるような覚悟でのめり込むことを求められる。
片手間にはできないものだ。
だから、ダイは独奏者ではなくてオーケストラ奏者であり続けた。

ひとつのことに、のめり込むのが、怖かったのかもしれない。
ダイは、マリナにすまないな、と思った。
彼女が良かれと思い用意してくれた舞台の上で、ダイはその役割を十分に発揮することができないのだと思うと。ただ、申し訳ないな、と思った。

両親も姉も、自分のことを応援してくれている。
演奏会があると、チラシを経営しているアパートの隅に貼り付け、本当は有償のチケットも、必ず来てくれることを念押ししながら、無償で近所に配る。
ダイの演奏会の時には、様々な名前で花束が贈られるが、それらは皆、家族からでであったり・・友人が名前を分割して、花束を数多く用意してくれたりしているからなのだ。

今日は、朝からあまり気分の良い状態ではなかった。
姉と些細なことで諍いになった。
ダイは特別だから、と言われてかっとなった。
彼の努力や忍耐を否定されたと思った。
もし、彼が特別であるなら、特別になりたい相手を選ぶことが出来ない今の状態にはならないはずである。

彼が今の状態を続けるには、理由がある。
しかし、それは姉には言えなかった。

怒鳴ることはしなかったが、自分の家族でありながら無神経だと憤った。
血族であるから、一緒に暮らしているから何でもわかり合えるというのは違うとわかった。
・・・でも、そんなときも、取っ組みあいの争になることはない。
彼はどこか・・・自分の家族の間にでも一線を引いているように感じる。
自分のことなのに、どこか冷静になっている自分がいる。
それは寂しい。彼は、いつの間にか・・・大人になってしまっていたのだ。親友と別れた時から。それより前に・・・マリナをあの雪の日に見送ってしまってから。
 

●Note 02

占い事を信奉しているような、クラスの女子とは違うけれども。
自分の努力の至らなさを何かのせいにしているわけではないけれども。

なぜ、彼は星回りが悪い・・・つまり、タイミングが悪かったと思うのか。
その理由が、目の前に座っていた。

今日は、ダイのレッスンが早々に終了してしまった。
集中力散漫であるのなら、次は来なくて良い、と言われた。
他人から、これほど強く叱責されたことのないダイは、ただ、俯くばかりだった。
泣き出してしまったり、不平不満を感じたりすることはない。
カオルだって、自分の貴重な時間をダイのために費やしているのだ。
こんなに立派な設備の中で、違う世界で活躍する有名人が自分のことを見てくれる。それだけで大変名な僥倖とも奇蹟とも言えるような状況に満足できないと思うわけはなかった。

だから、カオルの叱責に臆し、次から足が遠のくことはなかったけれども。
でも、レッスン室を出たところで、彼は足を止めてしまった。
防音室の中に居たから、人の気配に気がつかなかったけれども。

オーボエの運指は法則を覚えてしまえばそれほど難しくない。
けれども、今ひとつ自分の望んだ音として出し切れていない。
もっと自在に、自由に吹くことが出来たのならどれほど楽しいだろうと思うが、それより前にカオルに指定されている基礎練習や集中力が欠けてしまいそうなロングブレス練習ばかりで、少々辟易していたこともあった。ビブラートは禁止されていた。
そしてカオルが練習曲以外を指定することもなかった。

他の皆が他の教室で復習っているような曲の譜面をダイは手にすることは出来なかった。唯一、部活動での練習が息抜きの場所になってしまっているような状態だ。
それでも、彼の日々の努力は成果を上げているようで、その上達の速度が他の者と違うので、どの先生にレッスンについているのかという質問を、顧問の先生にされたばかりであった。彼は言葉を濁して知り合いの音楽家です、とだけ言った。
カオルのことを自慢できるようになるまで、彼には足りないものが多すぎると、自分では思っていたからだ。
カオルやマリナに恥ずかしい思いをさせたくない。
ただ、それだけであったが、自分の態度に自分自身が酷く落胆した。

そんな時に、カオルに叱責され、姉と口論し、あげくの果てには目の前に居る、最悪のダイの困惑の源がダイに渾身の一撃を加えたのだ。
一番、見られたくない人物に、彼が肩を落としてレッスン室から出てくるところを見られてしまったのだ。

ダイの唇の両端が、意図していないのにきゅっと下がった。
頬骨のあたりが細かく痙攣する。自分が緊張しているのだとわかった。

レッスン室の防音扉を開けると、そこにはダイには到底その価値がわかりそうもないほどに高価な音響設備を取りそろえた部屋がある。膨大な数の楽譜があったが、カオルの昔の写真などは飾っていなかった。
殺風景であったが、膨大な量のそれらは作り付けの背の高い棚にきちんと分類されて時折カオルがそこに手を延ばしていることはわかっていた。
過去に使った楽譜やスコアを眺め、希少価値の高いレコードやCDなどを揃えている場所で、カオルがどれほど昔から音楽に携わっていたのかがよくわかった。
だからこそ、ダイは、この世界に魂を捧げるほど自分は傾倒できないのだと思い知る。

楽器は、その小広間で準備をしてからレッスン室に入る。だから、楽器ケースも自分の荷物もそこに置いたままであった。
彼のためだけに用意された、飾り気のない水色の革張りのソファが彼の定位置であった。他に弟子がいないので、ダイが通うようになってから、彼が座り楽器を調整するための小さな椅子が、この場所に増えた。
濃い色合いではなく、薄い灰色の混じった蒼色で・・・座り心地は抜群であると思ったが、その色があまり好きではなかった。

・・・あの人の眸を思い出すからだ。

その色と同じ、青灰色の瞳の持ち主が、その椅子の肘当てに腰を下ろしていたのである。
ダイは声に詰まった。
陽気に挨拶するような関係でもない。気まずいな、と思った。
彼は顎を上げて、膨大な量の譜面の背表紙を眺めていた。瞬きを忘れたかのように、長い睫の下の眸は動かない。その色と、彼が体重を預けている椅子の色はとてもよく似ていた。
白金の髪がとにかく人目を引く。東洋人が脱色をしたような、くすんだ薄さを持つ色ではなくて、本当に艶のある白金髪なのだ。神経質そうな鼻梁も頬もどこか作り物めいている美しさであったが、それは配分と配置が完璧な配合であったからだ。酷薄そうな薄い唇が、誰の名前を呼ぶときに綻ぶのか、ダイは知っている。

・・・とても、よく知っている。

●Note 03

そこは自分の場所だ、と主張することができなかった。
あまりにも現実離れした人がそこに居る。
鍛えた鋼のような、筋肉質であるけれども決して度を超えることは無い身体の曲線は少し離れたダイの立っている場所からもよくわかった。
それに、運動神経も悪くはないらしい。
ダイに気がついて、僅かに腰を浮かせた時の間合いがそう思わせた。
どこか、劣っているところがあれば、ダイはそこから彼を越えることが出来る野かも知れないと思っただろう。
けれども。
彼には一分の隙も無かった。
人間だから、何かしら欠点が見え隠れするのだろうと思うが、彼は不完全ささえ完全にさせてしまっているように思えた。
薄い色素の持ち主だった。
しかし、彼には極めて濃い色が見え隠れしている。
シャルル・ドゥ・アルディの背中には、拒絶と孤独と傲慢さと気高さが同居していた。
僅かに背を屈めて、考えに耽っている物憂げな様は、大人の憂悶を知らないダイでさえ胸に押し当てられたように疼痛を感じる。

しかし、ダイはそのまま立ち尽くしている状況から次の行動に移る。防音室は完全防音とはいっても高温などは振動として響いてくる。・・・カオルのレッスンが始まったからだ。出て行け、と言われているような気がした。しかし、戻るわけにもいかないし、今日のレッスンを最初からやり直して欲しいという贅沢はダイには言う事が出来なかった。
どちらにしても、この状態ではカオルに嘲ら笑われるだけであろう。
だから。
彼は、唇を引き締めた。楽器をぎゅっと握りしめ、楽器が皮脂で傷むことがないように、超微繊維のベルベットクロスでそれを軽く握るだけにする。
「・・・そこの荷物を取りたいのだけれど」
ぶっきらぼうな言い方だ、と自分でも思った。
挨拶もなく話を始めるには相手はダイに無関心そうであった。
ここで何をしているのか聞きたくなったけれども、言わないことにする。
大体の察しはついていた。
世界を巡るカオルの心臓はとても脆い。何時間も立ったままで神経を集中させて演奏する独奏家たちは、運動選手と同じほどの体力を消耗する。
日本人にしてはかなり大柄であるカオル・ヒビキヤであったが、それでも彼女の具合があまり良くない時にはすぐにわかった。
唇の色が紫に近い赤であったり、肌の色が以上に白かったりするからだ。
まだ、レッスンを受け始めたばかりであり、彼女の全てを知っているわけではない。でもこうして定期的に時間を持って貰っているので、何となく、体調が不良の時がダイにもわかるようになった。
彼女が弟子を取らないのも、こういった健康問題に影響しているのだろうと思った。
かなり管理された生活を送っているというのはわかったけれども、彼女はやはり、音楽を取り上げられたら、生きていけないのだろうと思うほどに・・・音を愛し楽器を愛しているのだ。

シャルルはそこで顔をこちらにちらりと向けた。
白金の髪の下にあった青灰色の双眸がダイを捕らえるがすぐに視線を元に戻してしまった。
「・・・聞こえないの?楽器ケースを、取らせてください」
そこは自分の専用スペースだという主張はしなかった。ここは彼の家ではないからだ。椅子の足元に立てかけてある楽器ケースをシャルルがうっかり踏みつぶすのでは無いのかと内心焦る。
彼は、まだ、自分の楽器のレベルを決めることのできない程度だ。かなり上達して、もっと上のランクのものを持ったらどうか、と言われるが。彼は今のままの貸与で構わないとだけ言っていた。オーボエはかなり高価だ。最初からそんな高価なものを持つのは自分の音を見つけることを阻むと思うし、家族にそんな負担をかけることはできない。もちろん、現状で満足しているということではなかったが、それでも次を望めばきりが無かった。
それに、次のジュニアコンクールで入賞すれば、彼の住んでいる区の教育委員会が推奨する、若手音楽家の集いというものの更に下ではあるが、それらに参加し研鑽を重ねるための候補準備生として登録することができる。
そうなれば、スポンサーとして楽器店から、中古ではあるが良い楽器を貸与してもらえる制度を利用する申請をすることができるのだ。

ダイは自分の声が上擦っているのを感じる。逆毛が立つような、肌がぴりぴりとした痛みを伝えてくる。
ああ、厄介な相手に会ってしまった。
そう思った。
彼は褐色の細い線で描かれた格子柄のシャツを着ていた。衿がかためのもので、彼の髪に良く似合っていた。二番目までの釦を無造作に開けているようであったが、それは彼がオフであることを示しているという合図のようでもあった。

マリナ・イケダであるのなら、彼がどうして無表情なのか、何を考えこんでいるのかわかるのかもしれない。しかし、マリナの口からあれこれ・・・この人物の話を聞くことはしたくなかった。今は、まだ。
だから、今、目の前にいる人のことを気難しい外国人とだけしかはっきり言う事が出来なかった。それから、日本語が流暢で・・・・マリナ・イケダをこよなく愛しているのだということもわかっていたが、それを認めたくなかった。
●Note 04

目の前の人物に対して気を遣うというアピールを本人に送る方が好ましくないなと思っていた。
だから、できるだけ遣り過ごすせるものを多くすることに専念する。
でも、強ばった顔になって、自分が身構えているのがよくわかった。
カオルのレッスンの時と異なる緊張が走る。

ダイの声が聞こえていないはずはないのに、彼はダイの存在を無視する。
彼は、人が嫌いなのだろうな、と思った。
これほどの大人になれば、愛想というか人への敬意を持つものだが、彼にはそれを感じることができない。

・・・なんで、こんなヤツがマリナ知り合いなのか、わからない

そう思ってはみたものの、マリナやカオルが彼と懇意にしている事実は変わらない。
実際、来客を接遇するためにある部屋を使わないで、彼はこうして自由に出入りできる権限を与えられている。
理解できないという言葉で解決するのは簡単だ。
しかし、目の前の事態を解決する言葉にはならない。

ダイは、溜め息をついた。相手を消沈させるには溜め息が有効だと聞いたことがあったが、それをシャルルの前で披露するわけにはいかなかった。
自分がこどもであると主張しているようなものだからだ。
シャルルの足元にある楽器ケースが、ダイが先ほど置いた時より少し移動しているような気がした。そこに座りたいのだろうか。
革張りのよく手入れされた椅子は、ダイの家では持つこともないような、とても品の良い椅子であった。足の部分の焦げ茶色と相まって、涼しげでありながら決して寒々しくない色を帯びている。
柔らかな革の感触というものを初めて知ったダイは、彼の友人の家にあった椅子と似ているな、と思った。
今は、離れているけれど、ダイにとっては大事な友であった。

シャルルにダイはぼそりと言った。
「カオルならレッスン室だよ」
「あの苛つく大音量が聞こえないのなら、君の聴覚には問題があるな」
驚くほど、流暢な日本語が飛び出して来た。しかも、彼の高慢な態度も一緒に表すことが出来るほど堪能であるらしい。

しかし、ダイは、おかしいな、と思った。
カオルと待ち合わせをしているようであれば、今は通常のレッスン時間であるので、もっと遅く来るはずである。

カオルはここに人が大勢押し寄せることを好まない。
彼女の人柄からは想像できないが、ここは、誰かと一緒にいる時間を持つための空間ではないのだと感じる。
カオル・ヒビキヤに纏わる様々な出来事は、ネットを検索すればすぐにわかることで、音楽業界の中でも、普通に知れ渡っていることであった。
それでも。
彼女は挫けなかった。
彼女は負けないで続けた。
それが自分の命をすり減らしているのかもしれない、と思わない。
それでも良いのだ、と思っているのだろう。

だから、こうしてダイと誰かの顔を合わせることをしなかった。
最初にマリナがダイを連れて来た時が、ダイがここで見た最大人数である。
それ以来、マリナは同行するとは言わなかった。
そして、ダイも付き添いを頼むことはなかった。

彼女が、自分以外の人と自分の知らないところで約束をしていることが、気に入らなかった。でも、ダイの所有物ではないのだ。マリナは、ダイをよく知っているが、マリナの知らないダイが存在するように、ダイの知らないマリナが存在する。

シャルル・ドゥ・アルディがカオル・ヒビキヤやマリナ・イケダと知り合いであることについて、ダイは踏み込む必要もないし、それを主張することもできない。
するつもりもない。
でも、はじき出された気がして、少し寂しいのだ。

「・・・苛立つ音?」
ダイは、シャルルの言葉を拾った。ダイには、いつもと同じにしか聞こえない。
そもそも、楽器が異なるので、彼女がとてつもなく凄い人なのだということしかわからない。まだ、それしかわからないのだ。
しかし、今は・・・カオルは、ダイに課したように禁欲的な基礎練習をしているところであった。
ダイナミックな彼女の持ち曲(奏者が得意とする曲。急な演奏を必要とするときに選択する曲で、周知度が高い曲が多い)をいきなり練習することはない。
指や楽器や弦をあたためて慣らす作業に余念が無い。
曲なのか音の延長なのかわからないようなアップダウンを繰り返しているだけの、基礎練習。それを、彼は苛立つ音、と表現した。ダイは、持っていた楽器を再び握りしめる。
 
●Note 05

指や肘などの関節がゆっくりと慣れていくために必要な緩急の音が流れてくるが、ダイにはそれがシャルル・ドゥ・アルディの指摘するような「とても苛立つ音」には聞こえなかった。
ダイがカオルを失望させるほどの存在ですらないのだと思い知る瞬間であった。
いつもと同じ。いつもと同じ様に自分の調子を崩さない。
だから。苛立つ音、と聞いて顔をシャルルに向ける。
「いつも通りだよ、カオルは」
彼の師匠であるので、先生、と呼んだら、カオルと呼べと言われた。それ以来、彼女のことはカオルと呼び、カオルは彼のことを「ダイ」と呼ぶ。名字も下の名前の呼び方も、彼女は気にしない様子だった。
マリナの連れてきたダイという人物であるというだけで充分であるようだ。
金品も受け取らない。
でも、ひとつだけ、彼女はダイに要求した。
・・・レッスンのある日には、その後の予定を入れないように、ということだけだった。
時間を気にして受ける指導では集中できないから、とダイは理解していたが、それだけではないと気がついた。
・・・カオルは・・・気まぐれに見えるが、レッスンが終わると、ダイに自分の練習風景を見せたり、こうしてダイを自分の空間に招いたりする。

しかし、最初の日以来、誰かと顔を合わせることは殆どなかった。
カオルとダイだけの賑わしいけれども、穏やかで優しくて静かな時間が流れて行く・・・そう思っていたのに。

白金髪の男が、それを台無しにした。
いや、台無しにしたのはダイの方であったのは、承知している。
今日は、ダイが何もかもに責任を取る日であった。
そう思わなければ、目の前の人物に寛容になれなかった。

ダイの言葉に、シャルルはふっと嗤った。ダイは、かっと頬を染める。誰かにこんな風にあからさまに見下されるのは・・・あの雪の日以来のことであった。
彼はまわりとはそれほど波風を立てることのない人物として皆に認識されていた。自分でもそうなのかな、と思う。誰かを特に嫌いだと思ったりすることも、否定することもない。唯一、家族とマリナと・・・本当に限られた人にしか意見することがなかった。

今回の姉との諍いの原因も、弟であるダイが、手の届かない場所に行ってしまうのかもしれないと思った姉の杞憂から来るものであった。
その予感は正しいと思う。
姉は、ダイの中にある変わりゆくものを感知しているのだと思った。
音楽で身を立てることは・・・ないと思う。しかし、自分が何かにむかって、この国を飛び出していくのかもしれないという予感めいたものがあった。
この国が窮屈であるとは思わない。でも、カオルやマリナを傍で見ていて、自分はそうなれないと思いながらも、きっと・・・いつか、自分は外の世界を見たいと思う気持ちに勝てないのかもしれないと思った。

順調に進学し、この国で就職し、時折取れる休暇に満足しながら、毎日与えられたものをこなしていく日々を過ごしていく路が自分に適しているのか、疑問に思うのだ。

マリナやカオルのようになりたいとは思っていない。不安定な日々を送りたいとは思わない。ダイはまだこどもであったけれども、大人ではないからこそ感じるものがあった。将来の確約などは・・・誰も約束できない。
けれども、どこかこう、鬱屈したものが自分の中にあって、それを姉が見抜き、ダイは怠惰だと言って口論に至ったことを考えると・・・・今日のレッスンは、途中で強制終了されてしかるべき結果であったのだろうと思った。

「それを聞いたら、彼女は失望するだろうな」
「なぜ?」
「オレに、『なぜ』と聞くから」
禅問答に答えるつもりはなかった。
ダイは唇を横に強く引いて、彼の足元にある楽器ケースと荷物を引き寄せるために体を屈める。
彼が言う彼女、というのは誰のことを指し示しているのだろうか。
カオルだろうか。それとも、マリナだろうか。
どちらにしても、ダイに「お前はお呼びじゃない」と言っているような口調のシャルルに、親しく会話しながらこの場を遣り過ごす義理も感じなかった。
胡散臭いな、と思うが、彼は確かに正真正銘の・・・フランスの要人なのだ。

目の前に、滅多に逢うことが出来ないような有名人がいたとしても、ダイはまったく気にしなかった。マリナの影響なのかもしれない。人の肩書きに興味はなかった。ただ、シャルルがカオルとマリナの旧くからの知り合いであり、そのうちのひとりと・・・悔しいが恋人関係にあることだけで、ダイには十分すぎる情報であった。
「誰もがっかりしない。ボクが一番、わかっているよ・・・そんなこと」
ダイはそれだけ言うと、楽器を持っていた反対側の手でケースを引き寄せた。
中身は今、ダイが身体に添えて持っているからそれほど思いものではない。
床の上を滑ってダイのところに到着したそれらを自分の足元に引き寄せた。一度には持ちきれないし、そんなことで抱えている楽器に思わぬ衝撃を与えてしまい、破損させてしまう方が怖かった。

●Note 06

彼は、そっと天上に顔を向けた。物憂げで、何もかもに気懈いのだと言わんばかりの憂鬱そうな顔。
マリナとは正反対であった。
彼女はいつも溌溂としていて、消沈した時でさえ躍動している。彼のまわりだけ、時間が止まっているような・・・そんな空気だった。
しかし、ダイはそれに見惚れるほど、彼に心酔していない。
ただ、見目が良くて日本語に堪能な奇妙な外国人にしか見えなかった。
そして彼は、シャルルが場所を譲らないので、諦めて彼の脚元に屈み込んだ。
恐ろしく長い脚と小さな腰が見える。
けれども決して人形のようではなく、着ているものに隠れて見えていないだけだが、筋肉質で均整の取れた、計算された鍛え方をしているのだとわかる。
ダイにも少しばかり武道の心得がある。だから、わかるのだ。
彼にそれを教えてくれた人も同じ様な体格であった。

人に言われて場所をあけるということを知らない人種も居るのだと思った。
彼の友人の不磨などは、眼を瞠るくらいの裕福な生活を送っているが、いつも謙虚で、皆と違うと言われることを恥じていた。
今は別の場所で暮らしているが、今でも彼とは離れていても友達であった。マリナが、よく言っていた。
どんなに離れていても、また逢いたいと思うことが大事なのだ、と。
またね、と声を交わしたのなら。
それは必ず再会できるまじないになるのだ、と。

傲慢で不遜な態度の人物を目の当たりにして、彼は無関心を装った。

マリナを軽々と抱き上げる人物。
そして、彼女が失調するまで祝いを送りたいと想われている人物。

ダイはまだ少年であるけれども、マリナとシャルルが友達以上の関係であることくらい、察することができる。
わけもなく惹かれて・・・遠く離れていてもきっと迎えがあるのだ、とマリナは信じていたのだろうと考えると、胸が痛む。
この痛みは・・・きっと、これからも繰り返すのだろう。
そして小さな棘ほどなかなか抜けないのだ。

でも、ダイのいつもの日常で足りないものがあるから、カオルに拒否されたのだ。シャルルが居ても居なくても・・・関係ない。
こんな状態のまま、マリナに会いたくなかった。
今、目の前に居る白金髪の男性が日本に居るということは、マリナも近くに居るのだろう。
ダイは、マリナの居ない四季を・・・・連続しない季節を過ごすことに対して、シャルルに憤懣を訴えても、それは不当ではないと思えた。
春が一緒でも、夏には居ない。
秋を一緒に迎えたいと準備しても冬には居ない。

しかし、それは言わなかった。
マリナが・・・あの黒髪の人と一緒に居ない理由を、ダイはまだ聞いていない。そして、違った想いで、目の前のこの人と一緒に居ることも、ダイは詳しく経緯を聞いていなかった。
それを、彼が幼いからだと思っているのか・・・それとも、誰にも言えないのだと思っているのかは・・・ダイには、わからなかった。
 
●Note 07

ダイが、楽器をケースに収納しようとして腕をいま一度伸ばした時に。
シャルルはそれを待っていたように言った。

・・・ダイがここで挫けてしまうようであれば、シャルルはダイを見限るつもりだったのだ。

彼に纏っている冷然について、少しばかり理解できた気がする。

ダイの持っている楽器は、シャルル・ドゥ・アルディから見たら目に入れるまでもない品であるかもしれない。
けれども、今、身の傍に置いているオーボエは、彼の全てであった。
それに溺れることはない。それ以上を求めはしないが、ダイは自分の分にあわないものを手にする愚かしさは持ち得なかった。
己の持つものだけがすべてで絶対だとは思わなかった。
カオルに教わっているから、自分が最高の弟子であるということにはならない。
楽器の値段というのは可能性でしかない。
彼が今、持ち歩いているものは、彼にとっては分が過ぎるものである。

・・・この年齢になって音楽を始めることの辛さを教える象徴そのものであった。
性質や、業界の独特の色や温度や気配を、ダイは知ることが出来ない。
今、どんな音色が求められて、どんな奏法が求められているのか、ダイにはわからない。
音楽という世界に、生まれた時からどっぷりと浸かりきっている者と、ダイは明らかに違っていた。

・・・それなのに、カオルは彼を教えようと言ったのだ。

古典を聴けとは言われていたが、自分がどれだけ異質であるのかということについてはまったく聞かされていなかった。
他に弟子がいないから、比べようがなかった。
同じ環境に居る、他の師に教えてもらっている者のことは、ダイは積極的に聞くことはしない。彼が、皆と同じではないことを理解していたからだ。比べても・・・比べられないのだとわかっていたし、そのことについて他の誰かと違う自分を歎くのは、彼にはとうていできないことだとわかっていたから。

幼の時から日々当然のように浴びた特別な雨のような來音を聞くことがなかったのは、ダイの責任ではない。けれども、そういう環境に居なかったことによって、自分だけ感じるものもあるのかもしれないなと思ったのだ。
幼い時から英才教育を与えられた者は、同じ様な生活環境を過ごしている。

突き指を懸念して体育に出席しなかったり。
失調を気にしてコンクール前は学校を休ませたり。

そういう特別な配慮が、ダイには存在していなかった。

だから、カオルも・・・特に、マリナもダイに対して何も壁を作らないのかもしれない。

カオルは多くを語らないが、マリナは自分の都合ではない事情で様々な場所を転々と住み歩いた経験を持っている。
思うとおりに習い事ができなかった時もあったのだろう。
趣味や習い事という範囲で片付けることの出来ない、諦めなければいけなかったものもあったように聞いている。

・・・人が何かを諦める時というのは、誰かに託すことができるとわかっているときにのみ、受け入れることができるのだと聞いたことがあった。

カオルは。
マリナは。
そしてシャルル・ドゥ・アルディは・・・・

何を諦め、何を誰に託したのだろう。
それを考えると、彼は哀しくなってしまう。
人は、生きている年数を加えるたびに、何かを失っていくばかりなのだろうか。

そうではないと思う。
そうでないのだと思いたい。

だから、ダイは言った。
それが自分を不機嫌にさせるとわかっていても。聞きたくないことなのに、聞いてしまう。
言ってはいけない場所だと聞くと、そこに向かってしまうこどものように。
彼は、こどもだからそうするのだろうか。こどもでなくなったからそうするのだろうか。
それを確かめるかのように、硬い声でダイは言った。言わなくても良いことを言った。
「マリナを待つのであれば、だいぶ遅れてくる。カオルはボクがここから居なくなったら、出てくると思う」
哀しいけれども、それは真実なのだ。ダイが今この瞬間に、断言できることはそれだけであった。
 
●Note 08

ダイが傍に寄ると、シャルル・ドゥ・アルディは僅かに頬を引き締めた。
彼は誰かが傍に寄ることに対して警戒しているようだ。
ひどく神経質な人だな、と改めて感じる。
細く長い指先も潔癖そうだと思ったし、乱れた感じを与えることのない服の着方をする人だと思った。

彼の家では、人と賃貸借関係を結ぶ時に、相手と必ず一度は話をする。
一度でその人すべてがわかるわけではないが、大体のことが推測できるのだと、彼の母は言う。
その時には、指先と服装と・・・相手の目を見るかどうかで決めると教えられた。

彼は、あの雪の日にまっすぐダイを見つめた。
青灰色の瞳と白金の髪が印象に残っていたが、それよりも、マリナを見つめる視線があまりにも優しくてダイはそこに割り込むことすらできなかった。
今でも鮮明に思い出すことができるが、思い出すと胸が痛くなる。
その疼痛に慣れることはなかった。

うまくいかないことばかりであった。
この人は、そんなことはないのだろうな、と思う。
ダイは彼のことを知らないわけではない。
少なくとも、彼がダイのことについて知っている以上のことは、ダイはシャルルのことを知っている。
彼はダイのことなどは気に懸けることもないだろうが。
調べようと思えば、大抵のことはわかった。
彼の経歴も、フランスでは大変な有名人であることも。
そんな人物が、マリナを迎えに来る。
マリナのために、自分の予定を変更する。
「彼女は君に翻弄されはしない」
「そう。だからだよ」
ダイはシャルルの言葉に項垂れた。自分は、彼に慰めて欲しかったわけではない。それなのに、事実を突きつけられてダイはひどく傷ついた。
彼は、カオルのレッスン中にここに入ることを許されている。

カオルは大らかで細かいところに拘る様子は余り見せないが、音楽に関することだけはかなり自分自身に厳しかった。
彼女の肉体は強靱とは言えない。
体格に恵まれているが、その恩恵を十二分に受けているとは言えない。

時折、長時間の立位に耐えられなくて座ってダイを指導することがある。
まだ数えるほどしかレッスンを受けていないけれども、彼女は体調に左右される時があるのだ、と思った。
長距離を移動して演奏に赴く彼女の疲労が蓄積すると身体の方がついていかなくなるのだろう。
彼女ほどの演奏家になれば、ダイの基礎練習ほどの時間以上に自分の一日のほとんどを彼女の情熱のために費やしているのだろうと思われた。

「誰にも影響されない」
ダイは自分で自分を抉っていると思った。
彼にとっては・・・自分のやっていることはままごと以下だろう。
玩具のような楽器に四苦八苦しているダイは滑稽に映っていると思った。
無関心であるようにも見えるが。
マリナの小さなナイトだと揶揄した白金の髪の外国人はダイを無表情に見た。
自分では無情な言葉を使うのに、ダイがそう言うと意外だと思うのだろうか。
それはそれで苛つく。

人は消沈した次には憤りがやってくるのだと知る。
誰にも吐き出すことのできない感情が、種類を変えてダイに何かを訴えているのだが、彼はまだそれがどうしてなのか理由がわかるほど経験を積んだ生を送っていなかった。
マリナに聞けば、彼女はダイの欲しい答えをくれるのだろうか。
でも、そんな質問はしたくなかった。

「・・・君が不調なのは、オレのせいじゃない」
「そうだよ」
ダイは声を押し殺して言った。
楽器ケースを自分に引き寄せて、片付けを始める。
「だから、カオルの音が苛立つ音だと感じるのなら、それはボクのせいじゃない」
ダイはカオルに影響しない。
それから。
次に言いそうになった台詞を、ダイは慌てて呑み込んだ。
それを言ったら、もうここには来られない。

カオルはマリナのともだちで・・・この人はマリナとカオルと関係が深い。
ダイは、そこには入り込めない。
カオルは、ダイの練習不足くらいでは、感情を動かすことはない。
・・・マリナも同じだ。

それを思うと、ダイは、何も出来ないただのこどもに戻ってしまう。
 
●Note 09

早くここから出て行こう。

そう思った。
シャルル・ドゥ・アルディはダイの荷物の近くから離れる様子はない。
自分で誰かのために場所を引き渡すということはしない人で、それが当然である環境に居る人なのだ。
自分の方が、異邦人なのだ。
特に、ここでは。

大人になってまだ続く交友関係については、ダイにはまだわからない。

小学校卒業と同時に別れてしまった友人と将来にわたって友人で居続けることができるかどうかについても、絶対で永遠であると言い切ることができなかった。
マリナがダイを認知しているのは、彼が大家の息子だからという理由がなければ、マリナはダイに対してこれほどまでに良くしてくれることはないと思った。
それから、そんなマリナの依頼だから断れなかったカオルに対しても、気の毒であるなという申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

こういう時には、誰にも会いたくなかった。
気晴らしをするのが必要なのかもしれないが、とてもそんな気分になれない。
自分の部屋に戻って、そうそうにベッドに潜り込み、課題曲を連続再生にして眠りにつくまで音量を大きめにしたまま横たわっていたいと思った。
それとも、少し身体を動かしてこの鬱屈とした気持ちを吹き飛ばしてしまうほどに疲労すれば良いのだろうか。
「・・・彼女が苛立っているのは、明らかに君のせいだろう」
シャルルがそう言ったので、ダイは眉を動かした。
「さっき言ったことと矛盾する」
「矛盾はしない」
彼は唇の端を曲げた。その姿さえどこか、この世のものとは思えないほどに端整であった。
ダイは「過ぎるのは良くない」といつも聞かされていたが、シャルル・ドゥ・アルディは何に対しても過ぎるという言葉を越えた存在のように思えてくる。
シャルルは面白くなさそうに、つまらなさそうに言った。
ダイは説明を求めてはいないのに、何を言い出すのかと思ったが、彼はダイに許可を求める前に話し始めてしまう。
・・・防音室の向こう側では、カオルの音が漏れ聞こえていた。単調な指の練習のための音階の昇降を繰り返している。
シャルル・ドゥ・アルディが静かに説明した。彼はとても気怠げな表情を崩さなかった。
「翻弄されはしないが、君が思ったより気がついていないことに苛立っているし、もっと欲があれば良いのにと思っている。加えて、自分の中の音楽家としての誇りにかけて負けられないと思っているから、ああして君を追い出した後に慌てて練習するのさ。・・・・自分の身体の融通がきかなくなるほどに没頭するのは悪い癖だ」

それをダイは黙って聞いていたが、やがて、自分の持っていた楽器を分解し始めた。
本当は安定した平らな場所で行うべき作業であったが、彼は自分の元に片手で荷物全てを引き寄せると、シャルルから離れた場所で床に片膝をつき、それらの作業を始める。
はやく、ここから出て行こう。
改めてそう思う。
恐ろしく日本語が流暢な外国人が、ダイに何か、理解できないようなことを言っている。
彼にとっては、その言葉は聞き慣れない外国語のように聞こえた。
覚えきれないほどの話を聞いたわけではないが、にわかに信じろと言われてもできない内容であった。
しかし、これだけはわかるのだ。

・・・彼は嘘や虚飾は用いていない

深い付き合いをしていなくても、わかる。
潔癖そうだということはうすうすわかるものだ。
彼は人が嫌いなのだと思う。
人を寄せ付けない態度に、名乗ったり挨拶を交わしたりすることのない不遜な態度。ダイがいくらこどもであったとしても、先客であるわけだから、何かしら反応を示しても良いはずなのに、彼はまったく無関心であった。
・・・誰かにすり寄る必要もないと思っているくらい、人が嫌いそうだなというのも、ダイだからこそわかるのかもしれない。こどもは特に、そういうことには敏感だ。
誰が自分と距離を置きたがっているのか、誰が自分のことに興味を持っているのかという区別くらいは、瞬時にできる。
それほど、すべてのことに疎くて鈍いわけではない。

「なんで、そんなことがわかるんだよ」
ダイがぽつりとそう言った。楽器は冷やすといけない。だから、レッスンが終わればすぐに湿気を抜いてやらなければ急速に劣化する。それがわかっているのに手が止まった。ようやく手に馴染んできたそれをぎゅっと握りしめて、ダイは床にむかって呟くように呻くように言った。

●Note 10

それはダイの頭上から降って来た。
良く通る声で、静かに響き渡る硬質の声であった。
でも決して突き放すような冷たさではなかった。
シャルル・ドゥ・アルディの答は簡潔であった。
「聞いたから」
「誰からだよ」
愚問だとわかっていても、ダイはそれでもその言葉を否定する。
目線を逸らして、ダイはぶっきらぼうにその言葉を吐き出した。

「わかったような口をきくな」
「わかっていないような口をきくな」

瞬時に彼が遣り込めたので、ダイは口を噤む。頬が熱くなり、彼は自分が昂奮しているのだとわかった。あまりそういう感情の起伏は好まない。
姉と口論した時にも、これほど憤らなかった。直情的で順序立ててダイに文句を言う事の出来ない姉の言葉のひとつひとつに耳を傾けているより聞き流してしまうことが気に入らないのだ、と言われたばかりであった。

あんたは、家族より他人との関係の方が大事な、冷たい子なのよ。

そう言われてもなお、何も言い返すことはなかった。
しばらく時間が経過すれば、謝ってくるのは姉の方なのだ。
嵐が来たと思って遣り過ごすことにしていた。
が、その漣が鎮まる前に、このような言葉を投げかけられてしまったものだから、彼は自分の感情を静かにしておくことができなくなってしまった。

シャルル・ドゥ・アルディの言っていることは正しい。でも、ダイにはそれが受け入れられない。
わかっていないようなふりはできなかった。わかっているのだ。
自分が誰かのために音楽を始めたことをカオルは哀しんでいる。
自分のためにではなく誰かのために・・・自分の夢や希望というものを捨ててしまったと思っている。

マリナもそうだ。
何度も、確認された。
それで良いのか、今からやめることもできるのだ、と。
しかしダイはその言葉に・・・ただ笑って・・・考えすぎだよ、と言うだけであった。
マリナは感づいていたのかもしれない。ダイが、自分のことを優先させない少年になってしまいそうで怖いと彼女に言われているような気がした。

カオルのレッスンに通うようになって感じることがあった。
マリナも含めて・・・ダイを通して誰かを見ているのではないのだろうか、という疑問が常に湧き上がるのだ。
そして、マリナからもそれを感じるのだ。
自分は・・・意図せずしてマリナやカオルの求めるものになろうとしているのではないのだろうか、と。

だから、姉の声を聞き流すことができなかったのだ。
聞き捨てることができなかった。

自分の心の声を無視して、他人ばかり気にしている。

そう言われたことが、ダイを言い当てたものであると認めざるを得なかったのだ。

 
●Note 11

「ヒビキヤは融通の利かないところがあるが、自分の経験していないことは教えてやれないというのは、彼女に限ったことではない」
「・・・何を言っているのか、わからない」
また『知らないふりをするのか』と言われることを予想していたが、シャルル・ドゥ・アルディは何も言わなかった。
カオルの事を、カオルのいないところで定義づけすることは避けたかった。
だから、ダイはそれを軽く聞き流そうとするが、彼はそれを許さなかった。
彼は不機嫌そうにまたダイを見下ろす。
蔑視ではなかったが、こうもあからさまに好意的ではない視線を向けられると、爽快さはさすがに感じない。
ダイは黙って片付けを始める。
その様子をシャルルが眺めていることもわかったが、彼は無視してその場を立ち去るための時間を短縮することに専念した。

大人の方が、状況を読めていないってどういうことだよ
ダイは心の中で困惑の言葉を漏らした。

こんな風に、自分には愉快ではない日もある。
誰かと関わるということはそういうことなのだ。
そう自分に言い聞かせるが、想定外の相手に不機嫌そうに話しかけられて、ダイは困惑するばかりであった。彼が何を言いたいのか、本当にわからないのだ。
ダイの困惑を越えてまで会話の往来を成立させたいとは思わない。

片付けもそこそこに立ち上がったダイは、一応の儀礼としてシャルルに僅かに頭を下げる。
自分のそういうところが嫌であった。
誰かと波風を立てたくないからということが先に身体を動かしてしまう。
ここで不作法を披露すれば、マリナの耳に入ると思ったからだ。
それから、扉の向こうにいるカオルにも。
マリナとはしばらく顔を合わせていなかった。
彼女に会った時にはレッスンは順調で、日々つつがなく暮らしているとだけ報告している。詳細をあれこれ語るより、マリナの詳細を聞きたかった。
でも、聞けずにいる。
聞けば、目の前の男性との話題に触れることになるからだ。
ダイが知りたいのはシャルルのことではなくマリナのことであったが、マリナひとりのことを知るためにはシャルルのことも聞かなければならないという事が何とも堪え難かった。

シャルルは溜め息を漏らした。それが余りにも綺麗であったがどこか物憂げであった。
マリナは、こういう奴が良いのか。
ダイは電流のような痛みか痺れかわからない感覚が胸から込み上げてくるのを感じる。

見れば見るほど、彼は平凡という言葉と無縁である人物であると思われた。
自分とは違う世界の住人である。
ダイが感じているように、彼にとってもダイは彼とは違う世界の住人なのだから、理解できなくても当然だろうと思う事にする。
お互い様だ。

そう思って、この場を立ち去ろうとした時。
シャルルが、言葉をかけてきた。
「ここしばらくで、体格が変わったのが原因だ」
「え?」
ダイが振り返った。シャルルの言葉が自分に向けられたものだとわかったから。
彼は無表情に言った。
「不調だと思うのは、身長が伸びて立位の時のポジションが変わるから。・・・次からは時間の半分くらいは座って慣らせ。気管支も骨格が変わるから注意しなければならない。いつまでも同じスタイルに拘ると、悪影響だ」
ダイは驚いてシャルルに向き直った。
「なんでそんなことがわかるんだよ・・・」
彼の声は掠れていた。驚きだけのためではない。彼の声は低くなり始めていた。
それを、風邪かもしれないとカオルに言ったところ、彼女は健康管理もレッスンのうちだとダイに注意したのだ。
「前回会った時より声質も違っているし、身長も成長期特有の伸び方だ」
彼は素っ気なく言った。それほど親しく近付いたこともないのに、彼はそこまで目視で判断できるのか。ダイは驚愕した。
「成長痛が気になるのなら、休むか時間を半分にしろ。いずれおさまる」
そして、もうひとつ彼はダイに言う。
「楽器が馴染まないのならば、リードを削れ。自分に合ったものを作るのもオーボエ奏者には必要だ。・・・習わなかったのか」
ダイはそこでもぐっと言葉に詰まる。確かに、微調整をするためにリードを自分で削り、湿り気を与えてストックを何本か作っておくことについては聞いているし、自分でもやっていることであった。けれども、それも納得できるものに出逢えるのは本当に僅かな確率で、その上消耗品であるから永遠に使い続けることはできない。
「それくらい、知ってる」
ダイはぶっきらぼうに返事をした。
そこでふと思った。
彼は一体、いつからここにいるのだろう。
 
●Note 12

自分には最高の環境と最高の師がついているのに、それに対応できるほどの才能がないのだと宣告されたような気がした。
いや、才能がないのは最初からわかっている。
だから、才能という名前のついた、最初から持っているものではなく、彼が努力し続けなければ決して手に入れられないもののことを指し示されているのだと思った。

ダイはわかっている。
彼は、世界を駆ける立場にはならないだろう。
なぜなら、音楽だけに没頭することができないからだ。
そのことだけに自分の頭の中の全部を使い、体力の全てを注ぎ込み、情熱を燃やし尽くして満足することができないから。

まだ何もかも始まったばかりであるのに。
彼は、終わりの予感を肌に受けていた。
永遠ではないからこそ、夢中になれるのだ。
自分の一部ではあるが全部ではないことを承知しているから・・・だから、マリナは彼をここに寄越すのだろうと思った。
カオルとダイは何もかも対照的だった。どこか醒めた感じのダイに、いつもカオルは皮肉っぽく言う。
「世界を知ったような口を利くなよ」
それでも彼女はこどものくせに、とは言わなかった。

シャルル・ドゥ・アルディは軽く溜息をつくと、噛んで含ませるような言い方で、かつゆっくりとした速度で説明した。
それがダイを苛立たせると承知の上でのことであった。

「骨格に変化があるときに、癖をつけると矯正に時間がかかる。
だから、ヒビキヤは帰れと言った。
が、自分の時はどうであったかという経験を語って聞かせてやることができないから、ああやって苛立つ」

オマエにわかるわけはないだろう、と言いそうになって口を噤む。
けれども、ダイには心当たりがあるのだ。
確かに指の動きも肘の位置も違和感を感じていた。
加えて、リードを口に含んだ時の感触がしっくりと馴染むことがない。
これまでは懸命に基礎練習をこなしていくことだけに懸命であったが、こうして日々の生活に慣れて・・・それで注意力が散漫になり余計なことに気を遣ってしまうのだとダイは考えていた。
 
●Note 13

「・・・楽器はもっと合ったものを使え。こればかりは相性だから、たくさん楽器を持ち自分にはどんなタイプのものが必要で、何が欠けていて、何を削ぎ落とすべきなのか考えろ。
ヒビキヤが帰れと言ったのは、考える時間も必要だと言いたかったのだから」
いつものダイであったのなら、この忠告を真摯に受け止めるよう努力したであろう。
けれどもこの時ばかりは、彼は素直に受け止めることができなかった。

ダイはいつもよりずっと短い時間で片付けをして雑になってしまった鞄の中身に気を遣ることもせず、シャルル・ドゥ・アルディに向き直った。
「それなら、あなたは・・・古くなったり自分に合わなかったりしたら、簡単に取り替えるのですか。ボクにはこれしかないし、これで十分だと思っています。ボクが合わせれば良いだけだ。
でも・・・あなたは・・・気軽に取り替えるのですか。それしかないとわかっているのに。たとえば・・・・マリナも飽きたら捨てますか。捨てられますか」
ダイが彼のことをオマエと言わずに「あなた」と呼んだのは最後の理性であった。

弱さを見せたくなかったので、強がってみせた。
彼のこれまでの人生の中で、誰かに抗議するなどとは家族以外では二回目であった。しかも、二回とも同じ人物に対して彼は憤然とした言い方をしてしまっている。
自分が正しいと思っていないからこそ人は声を荒げるのだと思う。
だから、何かを伝えたいのであれば、ゆっくりと静かに要点だけを伝えるようにしなさいと言われていたし、実際、そうすることによってうまくいくことの方が多かった。

「・・・・ファム・ファタル、という言葉を知っているか」
彼は静かに、ダイの言葉に返答した。
「・・宿命の人、という意味だと記憶している」
ダイはぽつりとこたえた。
シャルル・ドゥ・アルディがこれまでの表情を一切消して、まったく無になってしまったから。
どことなく生気のない顔に見えて、本当に生きている人なのだろうかと思うほどに呼吸が浅くなる。
ダイは彼の貌を見つめた。
その整った横顔が、余りにも儚くて遠くを見つめていたからだ。
見つめていないと、次に視線を移した時にはもうそこにはいなくなってしまっても不思議はなさそうな程であった。

「・・・運命の人、と言うべきか。
宿命とは前世で決まっていることだが、運命は違う。
宿命は現在を定めるが、運命は未来を定める。
・・・彼女はオレのファム・ファタルだ。
もし、彼女がオレから離れて行ったとしてもそれは変わらない。決して変わらない」

ダイは頬に血が上るのを感じた。

この人は・・・マリナのことを心底欲しているのだ。
それなのに、同じだけ愛して欲しいとは思っていない。
何故なのだろう。
どうして、この人はこんな風に身を切るようにして、魂を削るようにして彼女に心を傾けるのだろう。

目の前の外国人が、彼のよく知るマリナ・イケダについての激しい恋情を囁いている。そんな言葉は現代の日本にあっては笑われるだけだと言いたかったが、彼から発せられる言葉には、冷やかすほどの軽さは少しも存在していなかった。

彼がそれを静かに言う事ができるのは、様々な葛藤があったからだろうと思わざるを得ない。あのマリナを運命の人と言い切ったのだから。
彼が望めば手に入らないものはない存在なのだということは痛いほど感じていることである。
それなのに、マリナを完全に彼で覆い尽くすことはできないのだろうとわかっているようでもあった。

・・・切なくなった。

マリナは、彼のことを大事に思っている。でも、距離を置いている。それは、彼女の前の恋人が影響しているのだろうと思われた。

・・・遣りきれなかった。

シャルルは・・・いつかマリナがシャルルとの関係に飽きて離れて行くのかもしれないと思っている。でも、それでも離せないと思っている。
そうでなければ、ダイにまで彼女のことについて語ったりしない。これほどの事をさらりと言ってのけるのであれば、それなりの覚悟はできているはずだ。もし、彼女が生涯をともにすることがない相手であったとしても、彼は『今』一緒に居ることを一番大切にしているのだ。

もう、それだけしか残されていないのだ。選択する余地などはないのだ。唯一であり絶対であるから、他に候補があったとしても、それは唯一でも絶対でもないのだから。

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