目次
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A-side GreenFlash
B-side
A&M-side
C-side 佳辰
D-side
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D-side 嫩葉 後編
D-side 結葉 前編
D-side 結葉 後編
D-side 溟沐 前編
D-side 溟沐 後編
D-side 裾上げ 前編
D-side 裾上げ 後編
D-side 畢竟 前編
D-side 畢竟 後編
Trick OR・・・ D-side 前編
Trick OR・・・ D-side 後編
E-side
F-side 不磨 前編
F-side 不磨 後編
F-side GRAFFITIと落とし文 前編
F-side GRAFFITIと落とし文 後編
H-side
I-side 前編
I-side 後編
J-side
K-side
M-side Nostalgia
N-side
O-side
O-side 波の上の月 前編
O-side 波の上の月 中編
O-side 波の上の月 後編
O-side 白雨_朧雨 1/6
O-side 白雨_朧雨 2/6
O-side 白雨_朧雨 3/6
O-side 白雨_朧雨 4/6
O-side 白雨_朧雨 5/6
O-side 白雨_朧雨 6/6
P-side 前編
P-side 後編
Q-side 暁霧 1/4
Q-side 暁霧 2/4
Q-side 暁霧 3/4
Q-side 暁霧 4/4
R-side
R-side あからめ
S-side
S-side 02 月魄
S-side 03 深浅
S-side 04 紫電
S-side Trick OR・・・ 2011
S-side うくわ
S&B-side いなのめ
S-side 炎熱 前編
S-side 炎熱 後編
S-side 炎熱2013 前編
S-side 炎熱2013 中編
S-side 炎熱2013 後編
S-side Balneum Scipionis. 前編
S-side Balneum Scipionis. 後編
S-side 成ぎ
桜蘂
T-side
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U-side 闇蝉 後編
W-side
W-side Devarana 前編
W-side Devarana 後編
W-side 弄火
W-side くもり、のち
Z-side 瑞祥 前編
Z-side 瑞祥 後編

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A&M-side

01 Satan's grief





君はオレの luminosité du diable だよ。


あたしの大好きなシャルル・ドゥ・アルディと同じ顔で、彼がそう言う度に、

あたしはとても落ち着かない気分にさせられる。


シャルルと同じ青灰色の瞳に白金の髪に、ため息が出るほど美しい造作を持ち合わせる、

もう一人の奇跡のような人。シャルルの片割れ。

そういう言い方をすると少しだけ目を細める。これは彼が怒っている印だ。


ミシェル・ドゥ・アルディは初めて会ったときにそう、あたしに言った。

あろうことか「悪魔の輝き」ですって!


あたしはシャルルのアンジェ(天使)なのに。



見た目はまるっきり彼と同じなのに、その底意地の悪さと、良く響く声だけがシャルルと違う。

でもそれはその酷薄な唇を開いて、発せられる言葉を聞かないとわからない。

残酷な言葉なのかこの世の楽園に誘う言葉が出るかによって、シャルルなのかミシェルなのかようやく区別が付くくらいだ。

だから、あたしはできるだけ彼に話しかけないようにしている。



そもそも、ミシェルと初めて会った時が最悪の出会いだった。



それは、あたしのお誕生会の日。


忙しい中、シャルルが都合をつけて時間を作ってくれた、大切な大切な短い時間。

忙しいシャルルが、あたしだけを見てくれる時間を作る。

それはどんなプレゼントにも勝る、最高の贈り物だった。

・・・マリナはいつも暇そうだけれど。


出先から戻るよ、というシャルルのコールを受けて、その会の始まりを本当に楽しみにしていた。


その集いは毎年催されているけれど、マリナが、今年はとびきりの来賓を招いているの、と嬉しそうに言った。

とびきりの来賓?主賓はあたしでしょ。主賓が知らない来賓なんて、聞いたことがないわ。


つんと横を向いてマリナにそう言うと、彼女はちょっと笑って、まぁ会ってみればわかるから。

とそう言った。


それが、ミシェルだった。


あたしは、あろうことか、シャルルとミシェルを間違えた。

マリナやダイとは家族の抱擁ではなく、再会の握手を交えていたし、朝出て行った服装とも違う。

あたしは、コールよりも早く帰還したシャルルが、あたしに会いたくて急いで帰ってきてくれたと思い込んで。


そうして、レディにあるまじき事に。

ミシェルに抱きついてしまったのだ。しかもこの上ない極上の笑みで。

ああ、本当に口惜しい。

その行為に、最初彼は戸惑ったように、体当たりをしてきたあたしを受け止めた。


「これがシャルルの遺伝子か。まるっきり半分だな。」

シャルルよりもずっと低いバリトンがあたしの頭の上から降ってきて、そうして、何かが違うようだとようやく気がついた。



良く良く見れば。

髪の毛の長さが少しだけ違う。

そして、あたしを見る視線が柔らかくない。いつもなら、真っ先に抱き上げてくれるのに。

「オレのアンジェ」そう言って、優しくキスをしてくれるのに。

その他のパーツは全部同じであるのに、どういうわけか、声を聞くと、シャルルではないということがわかってくる。


戸惑った顔をしていたのだろう。あたしにマリナが説明した。

「初めてではないけれど。ミシェルよ。シャルルの双子。

 何度か写真を見せたわよね。それからグリーティングカードも毎年もらっているでしょう」

すっとあたしは表情をなくして、ミシェルから離れた。

「この無表情加減、シャルルそっくりだよね」

「いえミシェルでしょう」

周囲のやかましい客人達が、そんなあたしの反応を観察し始めるころ、シャルルが戻ってきた。



玄関先の広間でのやり取りに、この館の主であるシャルルは、ちょっと驚いたように目を見開いたけれど、すぐに面白そうに皮肉たっぷりに笑った。

「アンジェ。君はミシェルとオレを間違えるくらい、ノンアルコールのカクテルを飲み過ぎたのか?」


ああ、シャルル。どうしてそうなってしまうの。

それもこれも、マリナがきちんと来賓について情報を流さなかったからだ。


そう軽く睨むと、今度はシャルルは自分と同じ顔の、ミシェルに向き直った。

「久しぶり」

「今日はお招きありがとう」

こういう素直な会話は。本当に何年ぶりなのだろうとマリナが少し嬉しそうに、呟いた。

この二人は一緒に写真を撮ることがない。

だから、あたしはシャルルとミシェルが並んでいるところを見ていないので、比較できないままでいた。

双子だから、似ているのは当たり前なのだろうけれど。

彼らはよく似ていて、そしてまったく違っていた。会話しているとわかる。


出会いも最悪だったけれど、その後のあたしへの言動は、本当に腹が立つとしか言いようがない。






luminosité du diable = 悪魔の輝き


02  Satan's gealousy




シャルルとミシェルは何もかもが違う。外見は例え同じであっても。


たとえば。

あたしが何か、失敗してしまって、どうにもならないことに対して、涙を流していたとする。

すると

シャルルは

「涙を拭いて。オレのアンジェ。ひとりで泣くな」という。

ジルは

「涙を拭いて。まずはそこからですよ。そして一緒に何が一番良いことなのか考えましょう」という。

セイジは

「泣いても解決にならないだろ」と冷たく言う。そして、乱暴にあたしの涙を拭う。

アルディ家やここを訪れる人達の発言は千差万別だ。


・・・でも。

ミシェルは。


無視するのだ。このあたしを。


そうして辛辣に言う。

「涙を流す行為には意味がない。単に異物を流し出すだけの行動だ。それに理由を求めてどうする。

 君の名前どおり、慈悲の心がそうさせるのかい。だとしたらとても無駄な機能だね。是非、削除するべきだ。」

そう言うのだ。

あたしは悔しいけれど、これで一番涙が止まる。そうして涙していても口を開く。

「解決しないことを嘆いても結論は出ないでしょ。あたしは今、一生懸命考えているの。体の老廃物を押し流しながら。考えながら、涙で瞳を洗っているの。同時にできるのだから、機能的だと言って欲しいところだわ」

この言い返しのどこがミシェルは気に入ったのかわからない。

彼は薄く笑うと、悪くない答えだ、と言う。

けれど、すべてにおいて、あたしとミシェルのやり取りはこんな感じなのだ。


「そっくりよねぇ 二人とも」

「似てる・・・さすがアルディ家。遺伝は恐ろしいまでに確実だ。」

マリナとダイがそう感心して言う。あたしはまた、ぷいっと横を向いた。

「けれども、ミシェルがまたこうしてアルディを尋ねて来てくれることが嬉しい」

ジルがそう言って微笑むものだから。

あたしはミシェルが嫌いで、ここにはそれほど頻繁に来て欲しくないのだと言い出せないでいた。



でも、シャルルと一緒にいる時のミシェルは、何となくだけれど、穏やかな気がする。

これまで離ればなれで暮らしていたから、きっと何か感じ入るところがあるのだろうか。

あの二人にはそんな感慨はあてはまらないと思うけれど。


そもそも部屋が余っているのだから、一緒に暮らせばいいのだ。

どうして、ふいっと現れて、そしてふいっと帰っていくのだろうか。

ここはミシェルの生家でもあるはずなのに。

これを漏らすと、周囲の誰もが少し哀しそうに微笑む。

まだ、アンジェには早い話よと言われると、あたしは腹が立って仕方がない。


あたしはシャルルのアンジェなのよ。どうして彼を知りたいと思う気持ちをとめるの。

これは誰にも出来ない事じゃないの。そうはいっても、シャルルがこの件に関して口を開くとはとうてい思えなかった。



だから、気が進まなかったけれど、シャルルではないもう一人のシャルルに、思い切って聞くことにした。


03 Satan's vociferation



あたしがミシェルの来訪を待つ、というのは人生初めてのことだった。

ミシェルはいつも思いもかけない時にやって来る。

そして思いついたように帰っていく。泊まったことはないし、シャルルやマリナがいない時にやって来て、邸内をぐるっと散歩して帰るだけのこともある。

ミシェルは、誰かに会いにここに来ているのではないのだと思う。

この館と、この館に住まった人を偲んでいるのだ。

でもそれはそれほど待たなくてもすぐにやって来た。

いつものように、思いもかけない時間に、彼はやって来た。


庭園の中央。

そよぐ風に髪をなびかせて、ミシェルは座っていた。

噴水の脇で、ベンチに腰掛け、長い脚を組んで、煙草を燻らせながら一人考え事をしているかのように微動だにしないミシェルの前を、あたしはわざとらしく、偶然を装って横切った。

「あら、ミシェル・ドゥ・アルディ。ごきげんよう」

相変わらずあたしを無視した。

目に入っていないわけではない。その青灰色の瞳がちょっとだけ動いたから。


「そんなにこの庭園が好きなら、ここに住めば良いのに。ここはあなたの生家でもあるのだから。・・あたしはあなたが嫌いだけれどね、ミシェル・ドゥ・アルディ。」



「君の話は矛盾している」


おもむろにそう言うと、ミシェルはお話にならないね、と肩をすくめた。

「オレのことが嫌いなら、どうして一緒に住めば良いのにと尋ねるんだ?」

「そういうミシェルこそ矛盾している」

あたしは言い返した。脳内のありとあらゆる部分を刺激しながら、彼にどう切り込んだらいいのか、瞬時に思いつく限りの手を考える。チェスをしているような感覚だ。

「あなたを嫌いというあたし個人の感情と、一緒に住みたいのに住めない事情を持つ人に提案をするのは、因果関係がなく、まるっきり関連性がない。そこを矛盾ということ自体が矛盾している。」

ぴくり、とミシェルが眉を動かした。挑戦的な青灰色の晄が徐々に強くなってくる。

少し嬉しそうに、薄い唇の橋を持ち上げて、そこでようやくあたしを視界に入れた。

「さすがはシャルルの半分だ。」

意地悪くミシェル・ドゥ・アルディは言った。

「もっと言葉少なに言え。アルディの人間なら。必要以上の言葉は浪費でしかない。」

「・・必要なときに言葉を発しないのも、時間の浪費だと思うけど」

「今の言葉は説明に不十分だ」

ああ、要は、どうしてこういう話をするのか、説明しろと言う訳なのよね。

わざとらしく、あたしは肩をすくめた。ミシェルがやったように。

「お話にならないわね」

「アンジェ」

名前を呼ばれてぎくり、とした。

ぎらり、とあたしを睨み付ける男の人がいた。一瞬息をのむ。

有無を言わさない強い言い方。そして人を傅かせるほどの威圧感を持つこの雰囲気。

煙草の灰が、落ちそうになっていた。彼はそんなことは気にしないで、こちらを睨み付けている。

たとえ、あたしでも容赦しないのだ。これがアルディの男なのだ。

そう思うと。体中の血が打ち震えて、頭の中がすっきりしてくる。目が見開いてミシェルを睨み付けている格好になる。きっと今、あたしも、ミシェルと同じ微笑みをしているのかもしれない。

不謹慎だとマリナが困ったように言うかもしれないけれど、どういうわけかわくわくする。


シャルルがいつか言っていたことを思いだした。

「あいつの狂気はまだ鎮まってない」

確かにそうだと確認した。たった、今。

そして彼の触れてはいけない話題の一つがここ、アルディ家を不定期に訪れる理由にあるのだということも確信した。



04 Satan's wish




天使のようなカーブに、物憂げな微笑み。気品あるけれど静かな青灰色の瞳。

それはまさしく、シャルルと同じだったけれど、ミシェルにはどこか・・・そう、暗くて

拭いきれない悲しみがあった。はっきりと強い艶めくバリトンが響いた。

「シャルルはどうやら教育という大事な調教を忘れてしまっているようだね。

 売られた喧嘩は買わねばならぬし、やられたら倍に返せという家訓を君は知らないらし

い。」

アルディの家訓を忘れた訳じゃないだろうな。

ミシェルがそう言った。とても、挑戦的に。だからあたしも挑戦的に言った。

「あなたのIQの足元にも及ばないけれど、ミシェル。でも、あたしも一応アルディ家の人

 間ですしね。その言葉は撤回するか、でなければ、変更して頂戴。

 投げたパイは引っ込める事なんてできやしない。

『やられたら倍に返せ』?ミシェル。あなたはあたしにやられたと思っているのかしら」

そうせせら笑うと、ますますあたしの頭が冴えてくる。挑発しているのは十分理解した上

でのことだ。

ミシェルはくっと笑うと、悪くない、と言いながら煙草の火を消した。そして組んでいた

長い脚を解いて、立ち上がった。


「それではアルディ一族で最も傲慢で最も愚かなMademoiselleに耳を傾けてみることにし

よう。途中、オレが優位に立ったり、最後の切り札を君が出しそびれたら・・

 切り札なんてものがあるならね。」

「わかっているわ。売られた喧嘩は買わなければならない。負けたら、ミシェル。あたし

は永遠に『ドゥ』を名乗らないことにする」

「良かろう。あまりにも少ない見返りだが、それで我慢してやる。暇つぶしとして。」


―――何から何まで腹の立つ人だ。


「それで?君の考察を聞こうじゃないか」

「その前に、行くところがある」

シャルルが憂えたまなざしで、吐息をつくことがある。

それは決まって必ず、ミシェルがシャルルに連絡もなく黙ってこの館を訪れて、そしてメッセージも残さずに帰って行ったと報告を受けたときだ。

決して、シャルルとミシェルが断絶されているわけではなかったけれど、シャルルのため息は実に切なくて、マリナでさえ、ジルでさえも癒すことが出来ない。

それなら。やっぱり、シャルルのため息の源から、その理由を引き出して聞かないといけないのだ。

あたしはくるりと背を向けると、シャルルに着いて来て、と行った。


シャルル、ごめんなさい。あたしはこれから、シャルルの言いつけを破ります。


着いたところはアルディ家の庭園を抜け、薔薇園を抜けたその奥。

そこは小高い丘になっていた。脇には小さな泉があり、一面には寒さに強く、できるだけ長く咲くことが出来るようにシャルルが品種改良した薔薇が植わっていた。音はすべて薔薇の蔓に吸収されて、あたし達の足音しか聞こえない。静かな、静寂だけが続く場所だ。小高い丘だから、庭園より風が少しだけ強かった。アルディ家にはあまり相応しくない、素朴で自然に任せたままの場所。そこには地下に下がる階段と手すりがなければ、自然に出来た丘と間違えるほど、ごくさりげなく造られた場所だった。

「・・本当は、もっと花が咲いて、蔓を延ばしてから、ミシェルを呼ぼうとシャルルが言ってた。」

「・・・それで?」

「それでじゃないでしょう。ミシェル・ドゥ・アルディ。ここはあなたとシャルルのママンのお墓なのよ!」

「いつの間に移したんだ。断りもなく」

そのときだけ、ミシェルが感情を露わにした。不快感。そう、その言葉がぴったりだった。

「もう、ずっと前からよ。そしてミシェルがこの館に現れるようになってから、急ピッチで進められた。

・・・ミシェル・ドゥ・アルディが厭がるかも知れないけれど、ここは、自分とミシェルがかつて住んだところで、やはりママンはここに居て、一緒にいる姿を見守りたいのだと思うって・・」

「くだらない感傷だな」

ぴしゃりとミシェルが言った。あたしは憤りに任せて、言葉を選ぶことを忘れた。

「くだらない?くだらないと言うあなたのほうが、くだらないわ。」

風がまたひとつ、吹いた。

「死者に意志はない。死んでしまえばただの肉片になり薔薇に還る。ただ、それだけだ」

「いいえ、違う。」

あたしは言った。あまりに強く言ったので、ミシェルがちょっとせせら笑った。

「君は発言が感情に左右されがちだ。そして、論理的であることを時々失念する。」

「いいえ、先ほどの続きは終わってない。」

そう続けた。

「これがあたしの答えよ、ミシェル。シャルルはずっとあなたを待ってる。かつてひとつであったものが 欲しているのよ。ミシェルがここにほんの短い時間しか滞在しないのは、あなたが言うところの説明の 付かないもの、つまり矛盾があなたの中にあるからなのよ」

「オレは矛盾もしないし、間違えもしない」

笑った。冷たく笑った。

「根拠のない結論はやめろ」

「いいえ。あなたはこの館に特別の思い入れがあるのがわかる。事情を知らないあたしでもわかる。

 そして、シャルルとミシェルのママンが過ごした館で、あなたたちが生まれた場所だもの。

 この館を散策しているのは、何かを捜していたんでしょ。」

その時初めて、彼がぎくりとした表情をした。

「それがこのお墓じゃないの?シャルルがお墓を移したのは知っていて、でもこの館の中のどこかだろうと検討をつけていたのよね。でも彼に聞くことができずに、こうして短い時間を探索してたんでしょ。

随分増改築したしね、ここも。ミシェル・ドゥ・アルディが捜してもわからないなんて。」

「小さな探偵が付きまとっていたからね。時間もあまりないし。」

ミシェル・ドゥ・アルディがそう言った。ため息を一つついて。

そうして少し下を向いて、じっと、地下に続く階段を見つめていた。

この先に、シャルルとミシェルのママンの棺がある。

アルディ家の人間は土に還らない。薔薇に還ると言われている。

だから、シャルルはここ一面を薔薇で埋め尽くしたんだ。いつか、自分たちもここに入ることを夢見て。

扉には、これも新しいことを思わせないように配慮された大理石の扉がついていた。

薔薇の花を摘んで戯れる天使が模されている。そしてそこには二人の天使がいた。よく似ているけれど、お互いがお互いを見て、向き合っている構図だ。

あたしはこれをデザインしたマリナが、シャルルとミシェルを模したものにしたということを知って、

ミシェルではなくあたしの顔にして欲しいと何度もねだったことを思いだした。

このときだけは、マリナはあたしに「駄目だ」と言った。


ミシェル。あたしはだから、ミシェルが嫌いなんだ。

シャルルやその他の人の気持ちを知っていながら、それを感謝する表現の術を知らないミシェルが思い出そうとしないただ一つの感情。それは『家族の愛』だ。ママンが死んでしまって、その後、随分と、この言葉を忘れているのだ。

「言葉が足りない時も、時間を浪費する。これが原因で取り戻せない状態に陥ったとき、それを取り戻そうとするまでに時間を浪費する。以上、あたしの考察よ」

そこまで言うと、ミシェルはおかしそうに笑った。

「・・・反撃のチャンスがないね」

「反撃?この理論にあなたはまだ反証できない。証明できないことを証明していないから。」

「君は、証明できるというのかな?」

「できるわ。」

あたしは笑った。あのミシェルを閉口させたのだ。愉しくて仕方がない。




05 Le sourire du diable



あたしは小さな鍵をポケットから取り出した。

薔薇の形をした小さな鍵だ。

「これはこの扉の鍵よ。ひとつしかないマスターキー。」

あたしはこれをミシェルに渡した。

「これがあたしの最後の切り札よ。これは誰にも見せてはいけないと言われていたから、

誰かにこの鍵のことを言うのは初めてよ。だから誰もコピーを持っていない」

そうして、最後の切り札を使うことにした。

「ミシェルがもし、必要以上は無駄であり浪費であると言うのであれば。これは感傷からできている至極無駄なものよね。なら、捨てて。今、あたしの目の前で。あなたは捨てられない。これがあたしの証明。」

全部、出し切った。ミシェルはじっと、青灰色の瞳であたしを見ていた。

何かを試すように、何かを計るように、何かを・・探るように。あたしの思惑を探っていたのだろう。

その視線は、今のシャルルには持ち得ないものだった。

「面白いね」

今度は悪くないね、とは言わずに、面白いね、と言った。

そうして。


「―――――――あ。」

ぽいっと、投げ捨てたのだ。泉に向かって。鍵を。

ぽちゃん、と音がして、泉に鍵が沈んでいく。

「・・・!!!!ミシェル!ミシェル・ドゥ・アルディ!」

「くだらないね」

ミシェル・ドゥ・アルディがそう言った。そして、風で乱れた髪を掻き上げた。

その仕草はあたしのシャルルとまったく同じだった。

「君の話を聞いている時間ロスしてしまった。帰る。」

「ちょっと待ちなさいよ!」

あたしは激昂して言った。極力レディらしく振る舞ったつもりだが、限界だった。

「何してるのよ!あのキーひとつしかないって言ってるでしょ!ミシェル・ドゥ・アルディ!

あたしのよ!返してよ!」

あたしは地団駄を踏んだ。ああ、もう我慢できない。

「地団駄を踏むアルディ一族か。最悪最低だな。」

ちらりと横目で流し見て、ミシェル・ドゥ・アルディはふんと鼻を鳴らした。


でも、そんな冷笑に腹を立てていられなかった。


拾わなくっちゃ!


あたしは泉に飛び込んだ。泉は結構深くて、あたしの肩くらいまでの深さがある。

柵も電灯もない場所なので、あたし一人では絶対に、ここに来てはいけないと釘を刺されていた。

夢中で飛び込んだので、服が水に濡れると重みを増して身動きが取れなくなることに注意を払う余裕がなかった。

沈んだ鍵の場所の見当をつけようとしたけれど、泳げないあたしの体が沈んでいく方が先だった。

・・・これ、溺れているっていう現象?

苦しいとか思う暇はなかった。次の瞬間、大きな力で引っ張り上げられたからだ。

「君は本当にluminosité du diableだ」

耳元で、低いバリトンの声が響く。髪の毛がずぶ濡れで、頬に水滴が張り付いている。

天使の水浴びだ!そう思った。ミシェルがあたしを抱き上げる。自分も濡れているのに。

「まったく目が離せないね、だから、悪魔の輝きなんだよ。・・目が離せない」

ミシェルは泉から引き上げると、アルディ邸にそのまま歩き出す。あたしは軽々抱き留められていた。


「さっき捨てたのは、違うキーだ」ほら、とミシェルがあたしの鍵を渡した。

「注意力散漫だ。及第点はやれない。でも、その闘志は買ってやろう」

それから、あたしの頭を撫でた。そして、頬を撫でた。水に濡れて体温が奪われているせいか、

冷たい指だった。

「この考察に対する議論は後日。もっとマシな反証を持ってきてくれ」

そう言うと、小さく笑った。綺麗な笑顔だった。


ああ、もう、勝ち負けはこの笑顔の前ではどうでも良いことになってしまう。

それは、シャルルがマリナ以外のどんな人にも絶対に向けてくれない笑顔だった。

ミシェル・ドゥ・アルディはやっぱり、腹黒い。



その後、シャルル・ドゥ・アルディに随分とこっぴどく怒られた。

約束を反故にしたこと、泉に落ちたこと。そして風邪を引いて高熱を出す結果になったこと。

そのほか諸々。

ただ、ミシェル・ドゥ・アルディの服を台無しにして、一晩アルディ邸に宿泊させることになったことだけ、褒められた。そこは一番、叱られるところだと思うけれど。



帰り際、ミシェル・ドゥ・アルディはまた来るよ、と言って帰ったらしい。

あたしは高熱を出してしまい、見送ることが出来なかった。

また今度、来るんでしょ?そう思っていた。これはずいぶんな収穫だ。

帰ったよ、という報告とあたしの様子を見に、シャルルが部屋を尋ねて来てくれた。

これからまた仕事で出かけるという。

風邪がうつるよと言うと、オレは医者で、オレのアンジェを置いていくお詫びをしなけりゃいけない、と言った。

シャルルは、やっぱり優しい。

あたしはシャルルのアンジェで居続けたい。

すると、シャルルはミシェル・ドゥ・アルディからあたしへの預かりものがあるという。


何かしら


あたしは熱に浮かされながらも、それを受けとる。小さな箱に入ったそれを見る。

熱でも好奇心が勝るのは、誰譲りかね、とシャルルは苦笑した。

そして珍しくそのシャルルの言葉を聞き流しながら。あたしはあっと声を上げた。


・・・キーだ。形状が同じだ。

シャルルのデザインしたキーじゃない。つまり、あたしの持っているマスターキーじゃない。


・・・・

・・・・

・・・・


ミシェルは、あの場所を知ってたんだ!

彼がここを訪れていたのは、お墓参りであって、お墓そのものの探索じゃなかったんだ。

そしていつの間にか、鍵もちゃんと複製してた。

なのに、あたしの戯言を聞くためにあたかも初めて来たところのように、一芝居打ったのだ。

ミシェル・ドゥ・アルディが「暇つぶし」と言っていたことをようやく思い出す。

「アンジェに会いに来てるんだと言えば良いのに。我が弟は素直じゃないらしい。」


シャルルは笑って、あたしの頭を撫でた。ミシェル・ドゥ・アルディのように。

「じゃ、オレのアンジェ、ゆっくりお休み。良い夢を」と言って、扉を閉めた。

あたしは、何これ!と言って、枕を投げつけた。




FIN)



C-side 佳辰

★秘する恋 秘するが花D-side → キリ番リクエスト 想起 をご覧になってからお進みください。




佳辰 めでたい日のこと 





「誕生日はどうしようか」

マリナ・イケダにそう言われて、シャルル・ドゥ・アルディは読んでいた厚い学術書から目をあげた。

「誕生日・・・」

「シャルルの誕生日のことについて私は10分ほど前から喋っていました。」

マリナはそう言って、唇を尖らせた。

シャルルはあまり興味がないことだったので、彼女の絶え間なく流れてくる構想を聞き流していた。彼女の様子から、自分の誕生日について話をされているのだとわかった。

「シャルル、私の話は聞いていたの?」

「聞いてはいたよ」

ソファに長い脚を投げ出しながら、彼はそう言った。

「ひとつ年を重ねるのだから、何かお祝いしたいという気持ちを無視するなんて酷い」

彼女はそう抗議すると、シャルルは薄い唇を歪めて、マリナに反論した。

「正確に言うと、日本の戸籍法では満年齢は生年月日の前日とされる。

・・・だから、ひとつ満年齢があがる行為を祝うのであれば、バースデーその日ではなく、前日に行うべきだとオレは思うね」

「ひねくれた言い方はよして」


「シャルルについて何かを祝いたいという気持ちを無視しないでくれる?」

「黙殺しているつもりはないけれど」

シャルルは身を起こした。

「一般の質問ならよしてくれ。オレは何もいらないし、何も祝ってもらおうと思わないし。・・・第一、その日は仕事だ。」

正面に座ってチャイを飲みながら抗議するマリナから、カップを取り上げ、そうして彼は彼女を抱き寄せようとした。シナモンの香りが部屋一杯に充満する。


毎年、彼のバースデーにはたくさんのカードと贈り物が届けられる。

それこそ世界各国から。

しかし彼はそれらを一度も開封したこともなかったし、心待ちにしたものもなかった。

送り主の一覧を作成し、後日お礼のメッセージカードを送るのは彼の統括する仕事ではなかった。

彼女を抱き寄せようとしたシャルルに、マリナは身を引いたので、彼は強引に彼女の腰を掴み、自分の胸に引き寄せてソファに座り直した。

彼女は小さく悲鳴をあげる。


「マリナ。前半と後半の文章の整合性がまるでない。まぁ、君が何かをしたいというのであれば反対はしないけれど」

ディナーまでの僅かな時間のことだった。

外は薄暗くなり、薄紫色に変化していた。

彼がこの時間に私邸に居ること自体がとても珍しい。

マリナは相変わらず日本とパリを往復し、近いうちにまた日本に戻ると言っていた。

だから二人がこうして早い時間から一緒に時間を過ごすのも・・・とても貴重なことだった。

シャルルとはあまり話ができないことをマリナは常々悲しんでいた。

彼は仕事をセーブしなかった。マリナをこの館に住まわせるようになってからも。

「シャルルの欲しいものは何か・・・ないの?」

「ものはいらないよ」

彼はそう言って微笑む。青灰色の瞳で彼女の顔をのぞき込んだ。

そして、ゆっくりと唇を寄せて、彼女にキスをした。

マリナは静かに瞳を閉じて、その啄むような口吻に酔いしれた。

やがて、ゆっくりと唇を離すと、シャルルは彼女に微笑んだ。綺麗な微笑みだった。

「強いて言えば・・・時間が欲しい・・・そう、君との時間が」

「それはシャルル次第だわ。私はいつでもシャルルのために時間を空けたいと思っているのに」

「もうすぐ日本に行くと言っている人が言ってくれるね」

彼はそう言って彼女を絡め取っていた腕の力を緩めた。


「それなら、具体的に要望を言っておこうかな」

シャルルは切れ長の瞳を輝かせると、挑戦的に彼女に言った。

「・・・・当日は日本で過ごそう。オレもオフを取る。・・・・君のアパートで一日中、一緒に居る。

たまには天井の低い日本家屋にカンヅメになって、どこにも出ないで君を一日抱き続ける日があっても面白いな」

そうして妖しく笑った。

彼は、少しだけ、意地悪な気持ちになっていた。


彼女が日本のアパートに彼を入れたがらない理由は、知っていた。

けれども、知らないふりをしていた。


彼が欲しかったのは、ふたつ。

ひとつはマリナとのこれからの時間すべて。

そうしてもう一つは・・・マリナと過ごさなかった彼女の過去の時間。

今は、後者が最も彼の欲しいものだった。


マリナの困った顔が目の前にあった。

明らかに狼狽えていた。

「・・・君のアパートで過ごせない理由でもあるの?」

「シャルル。」

困った顔をして、マリナが眉根を寄せた。そんな顔をするマリナの頬にシャルルはそっと手を触れた。大きいけれども冷たい手のひらが、彼女の頬を包んだ。

「オレは知りたい・・・オレの知らない8年以上もの間、君が何をどう感じてあの部屋で過ごしたのか。この欲求は押さえられそうもない。」

「あなたの誕生日にわざわざ過ごす場所でもないでしょう。日本に来るのであれば、なおさら。」

「そうかな?・・・『その日』だからこそ意味があると思うけれど」

彼はまた意味深げに言った。マリナが少しだけ吐息をついた。

彼の言葉ひとつひとつが・・・彼女に何かを訴えかけようとしていた。


「冷えるよ」

外は冷たい風が吹いて、だいぶ冷え込んできた。

彼は彼女にショールをかけてやり、そして頭を撫でた。

「考えておいてくれ。そしてわかってくれ。・・・オレが欲しいのは、君に関することだけだということを」

彼はマリナの頬を寄せて、彼女の小さな額に彼の秀でた額を合わせた。

茶色の髪と白金の髪が混ざり合い、そして少ししてから離された。


「そもそも、その日は一緒に過ごせるかどうかわからない。」

これは本当だった。

オフを取るとなると、どんなに繰り上げてもその日には予定が詰まることになる。

日本に滞在したとしても、一日ホテルに籠もりきりになって、仕事をしなければ到底時間を作ることは実現できそうもなかった。

「そうだ、それなら、シャルルの誕生日には、私、一日中、シャルルのためにシャボン玉を吹くわ」

彼女が思いついたように言った。そして両手を鳴らす。

どこからその思いつきが涌いて出たのか理解できないというように、しばらくシャルルは彼女を見つめていた。

「・・・この寒空でそれは愚行だと思うけれど。特に日本は湿気が多いから・・・」

「ねぇ、シャルル」

マリナは少し哀しそうに言った。

「誕生日は特別な日よ。あなたが生まれてきた日でもあり、お母様があなたをこの世に送り出すために、一生懸命になった日でもあるのよ」

彼はその言葉を聞いて薄く笑った。

彼の母に対する記憶と感想はあまり良いものではなく、ただ哀しいだけだったから。

母が自分を産むために苦しんだ日に、シャボン玉を飛ばしたいというマリナの心が少しだけ・・・嬉しくもあり哀しくもあった。


一説によれば、シャボン玉は魂と言われている。

次々生まれては天井高く上り、そして消えていくその様が、輪廻転生を表しているという説があったことを、シャルルは思い返していた。

彼が生まれ落ちたその日から始まったアルディ家の悲劇と、まっ先に彼の誕生日を祝うべきであろう、儚くなってしまった彼の父母への追悼を込めて、マリナがそう言いだしたことに気がついた。

泡沫の創作に心を込めようとするマリナの気持ちが、微笑ましかった。


「ものはいらない」

そう言いきった彼に捧げられる最大のマリナの誠意だった。


けれども・・・彼は彼女の時間が欲しかった。

彼の誕生日前後には日本では雪が降る。

その時期にマリナは日本に帰ることを躊躇った。

特にシャルルと一緒に訪日したいといつも言うのに、今度ばかりは言い出さなかった。

オフの頃合いも、マリナの帰国に遅れて出発することに、彼女が少しばかり安堵の色を見せたことに、シャルルは納得しなかった。


今回は画廊のオーナーに乞われてどうしても帰国しなければならない理由ができてしまったから、やむを得ない帰国であるということらしかったが・・・。

「何か、その日はオレを部屋に入れたくない理由でもあるの?」

シャルルが尋ねた。

「そうじゃない。」

マリナが言い切ったので、ますますシャルルは追求を止めることが出来なくなった。

「マリナ、オレに隠し事をしても無駄だよ」

そう言うと、今度はマリナが訝しげに彼に尋ねた。

「シャルル。あなたは・・・何か私に言いたいことがあるの?」


ああ、あるとも


彼は心の中で呟いた。


オレの誕生日を祝いたいという君の唇が・・・違う男に覆われて、そして「その日」が君にとって特別な日になったという記憶と事実が欲しいと言っているだけだよ。

彼は声に出さずに、内心でそう叫んだ。


戻せない事実は存在する。

もちろん、マリナにとってもそういった過去はあるだろう。

あの陽だまりのような男と一緒に居た彼女を想像するだけで、強烈な衝動を抑えることができなくなり、そしてほんの少し眩暈さえ感じる。


――憤りで。


それが彼自身に感じる憤りなのか、彼女に感じているのか、それとも・・・あの男に感じているのか、それさえもよくわからなくなってしまうほどに、彼の狂気が激しく刺激されるのだった。


眼をそらしたのは彼の方が先だった。

「シャルル!」

マリナが彼の名前を呼ぶ。

彼女は、話の途中で切り上げられることが好きではなかった。

それを良く承知していながら、シャルルはマリナに宣言した。

「マリナ。オフは取る。だから、久々にゆっくり一緒に過ごそう。

・・・でもその日はどうしても一緒に居られない。」

シャルルの「どうしても」という言葉は絶対だ。

彼には予定の変更はありえない。

シャルル・ドゥ・アルディだからこその言葉だった。

マリナはその言葉を聞くと、みるみる萎れていく花のようになり、そう、とだけ言って項垂れた。

「残念だわ。せっかく、お祝いしたいと思っていたのに。」

「マリナ。特別はいらない。」

シャルルは青灰色の瞳を少しだけ細めて、目の前の彼女を見た。


自分は、少しばかり貪欲になったと思う。

少し・・・いや、「かなり」と表現した方がより適切だ。

彼女と一緒に居る倖せ以上のものはありえない、と考えていたのに、今では、もっと彼女が自分に心を傾けてくれないかと願っている。

一滴水を飲めば、もっと水を欲しがる海難者のように。

彼は速度を上げて加速する渇望を堪えてみせなければならなかった。

彼は・・・そうして穏やかな日々の中で、身の内の狂気と闘わなければならなかった。


彼女を運命の人と定めたときには、マリナの無邪気さや闊達さに惹かれたと思って居た。

でもこうして大人になったマリナは、無邪気さも闊達さもすべて損なわれていなかったがやはり、憂いを学んだように思う。

たくさんの人と出会い、別れ、そしてまた再会するというくり返しの中で、彼女は、転化した(他の物質に変わること)のではなく変通した(状況や経年に応じて適応すること)のだと感じる。

それでもなお、この愛おしさや狂おしいほど恋しい気持ちがシャルルから消えることもなく、ますます、彼女だけが唯一の女性であると確信せざるをえないという気持ちになる。

どんなマリナ・イケダになっても、彼の愛は揺らがなかった。


それなのに。

彼は、時々彼の中の狂気を抑えることができなくなる。

過去を変更することはできない。

それなのに・・・彼は彼女に訴えかけてしまう。



「わかった。それなら、シャルルの仕事が一段落したら、落ち合おう。

でも、忘れないで。私は、シャルルがこの世に生まれてきてくれたことを祝いたいし、シャルルがなんと言おうとも、その日はやっぱり特別な日なのよ。シャルルだけでなく、私にとっても。」

最期の言葉は、随分と含みがあるね。彼は声に出さずに、また言った。

マリナはシャルルの様子を敏感に感じ取り、困ってしまった。

「シャルル・・・私の言葉、届いてる?」

「ああ、もちろんだよ」

彼女の自分への気持ちを疑っているわけではなかった。

マリナの申し出は大変に嬉しいものだったし、彼女の、自分に向けられた仕草のひとつひとつに、彼が充足感を感じているのは間違いなかった。


それでも、この満たされない気持ちを、彼女に伝えても傷つけるだけだとわかっていた。

だから、マリナに伝えるつもりはなかった。

彼女にはどうすることもできないことはシャルルが一番良く承知していた。

長らく待ち望んだ人が傍らに居るのに。

彼は、それでも満足できない自分に苛立っていた。


「今年は、日本は珍しく雪が多いようだ。」

彼は遠くを見ながらそう言った。

「雪・・・珍しいわね・・・昔は雪合戦や雪だるまを楽しみにしていたわ。」

「今はそこまで積もらないよ。温暖化現象もあることだし。・・・だが、日本に居る間に、雪見ができるかもしれないね」

「ええ、そうね・・」

彼女が語尾弱くそう答えたので、彼はこの話を完全に切り上げることにした。

「そろそろ食事の時間だ。・・・行こう」


これがパリで交わす彼女と彼の最後のひとときの会話だった。


喧嘩にならない喧嘩をした、と言ってマリナが相談に来た。


ジルが様子を見計らってシャルルにそう告げたのは翌日のことだった。

明日にはマリナが出発すると言う。

彼はそう、とだけ言った。

彼と良く似た面立ちの女性は、少しだけため息をついた。

顔を横に向けて、とても憂いを帯びたため息だった。

「シャルル。どんなに彼女がそうしたいと願っても、彼女があなたに与えられないものは存在するのです。」

そう言って、ジルは続けた。

「聞けば、あなたのバースデーのことで彼女はシャルルの機嫌を損ねてしまったとか。」

「そういうことではない。」

「彼女は・・きっと、あなたのために、一日、あなたのことだけを考えて過ごすのでしょうね。その日を。」

「時差の関係もあるから、日本で過ごすバースデーというものには意味がないと思うがね」

「そういうものではありませんよ――シャルル。」

今度はジルがシャルルを窘めた。

普段あまりこういったことに口を出さないジルが、言葉を差し挟むということは、マリナは相当意気消沈しているのかもしれない。彼は推測した。

何がどうとはっきりわかっているわけではないが、シャルルが酷く不機嫌になってしまったことを察したマリナが、困りに困ってジルに相談した内容に、ジルは心当たりがあったようだった。取りなしを頼まれたわけではないが・・・とジルは前置きした。

「時間ではないと常日頃口にする彼女が、これまでの時間と空白を埋めようと努力しているのです。本来なら、その日は確か・・日本で仕事のはずだったのに、彼女は無理を言ってキャンセルしています。シャルルも同じ事をしろとは言いませんが・・・もっと彼女を・・」

「ジル」

彼が短く低く彼女の名前を呼んだ。ジルは口をつぐんだ。

仕事中に私事は口にするな、と言った。

ジルがもっと何か言いかけようとしたが、シャルルはそれを遮断した。


「―――今日は戻れるかどうかわからない。マリナにそう伝えてくれ」

彼はそれだけ言うと、それっきりその話題には触れるな、とジルに念を押した。


彼が屋敷に戻ったのは、日付も越えて夜も更けてからである。

この時間帯の帰宅は今まではほぼ日常であったのに、今ではひっそり静まり返った帳がシャルル・ドゥ・アルディさえも包み込んでしまおうとしていた。

こんなに人気のない、寂しい館だったのだろうか・・・

彼は思った。

以前と変わりない様子であるのに、シャルルがそのように感じるのは、やはり、彼の帰りを待つ者がいると思いながら帰宅するか否かの違いであるということがよくわかる。

以前は・・ここは就寝するだけの場所だった。

でも、今は違う。待つ人がいて、その人がこの館に住まうことをもう随分と長い間待ち焦がれていた。

願いが果たされたのに、どうしてこんなにも・・・こんなにも苦しいのだろうか。


彼は自室へと向かう足を少しだけ止めた。

少しだけ立ち止まり、薄い唇からため息をもらす。

・・・そして向きを変えた。

マリナの私室へと向かう。

ノックをすると、意外にもマリナは起きていた。

「シャルル」

少しだけ驚いたようだ。ジルの伝言を聞いていたようだった。

「良かった!もう会えないかと思ってた。」

「遅い訪問ですまない・・・明日、早いんだろう?」

「うん・・でも荷物もあまりないし。」

マリナが少しだけ照れくさそうに笑う。

昔から荷造りは苦手だった。

彼女は、いつも必要最小限だけ持って出発する。

シャルルはその様子が相変わらずなので、少しだけ微笑んだ。

「忘れ物は突如として現れるものだ。・・・準備は万端と思っていても実際は8割から9割しか整っていないと思った方がいい。」

「忘れ物なら、あるわよ」

彼女がちょっと首を傾げていった。

「シャルルへのプレゼント。・・・何が欲しいのか、もう一度確認するのを忘れていた。」

「ものはいらない」

彼はもう一度だけ言った。

「マリナ、オレの言ったことを忘れたの?」

「そうじゃないけど」

マリナが彼の顔を眺めながら言った。

「私ができることってとっても限られているのよ。だから、できることをやってみたいと思うけれど、それがシャルルの気に入った結果になるかどうか、わからなじゃない?」

彼は黙っていた。

「シャルルが何か・・自分の誕生日にあまり関心が持てないことも、何となくだけどわかっているつもり。でも・・・私はこれからも、ずっと、ずっと、あなたにおめでとうと言い続けたいと思うから・・・」

「その気持ちだけで充分だよ」

シャルルは努めて優しく言った。

綺麗な微笑みだった。

そして、彼女に屈んで、額にキスをした。

「もう遅い。明日は早いのだろう?休め。オレは・・・君の出発までにここを出てしまうから」

「起きられるのかしら」

シャルルは朝が弱いことをマリナはよく知っていたから、軽口を叩いたが、シャルルは少し笑っただけだった。

寝られないから、眠らないんだよ、と言おうとして、言わずにおいた。

「お休み、マリナ。良い夢を」

彼はそう言って、扉を閉めた。

彼女が日本に行くときと何ら変わらない挨拶だった。

またすぐに会えるという気持ちがあったから、彼らはごく自然にこういう挨拶で済ませることができるようになった。

「明日の朝、いつも通り薔薇を届けるよ。」

彼は扉を閉める直前にそう言った。

彼は毎朝、温室で咲く最高の状態の薔薇を彼女のために届けさせていた。

明日の朝の薔薇は、決まっていた。



白い薔薇にするように、指示を入れることにする。

朝咲きの薔薇と、ドライフラワーにした白薔薇を混ぜて活けるように言った。


薔薇の花言葉は・・・「恋の吐息」

そして枯れた白い薔薇は・・・「生涯を誓う」

彼女はこの矛盾したシャルルからのメッセージを受け止めてくれるだろうか。

正面から言えば、二人の関係は壊れてしまう。

彼は彼女を失いたくなかった。もう二度と、その手を離さないと誓った。

壊してしまうつもりはなく、ただこの苦しみを・・・どこかにはき出したかった。

マリナ、君も同じように、苦しんでいるのだろうか。

オレと居るときには、思い出さないのだろうか、あの男のことを。


月は太陽には勝てない。

そう思った。


彼はしんと静まり返った長い廊下を、マリナの部屋を背にして、ひとり、静かに歩いた。


マリナ・イケダと連絡が取れない。


ジルがシャルルに報告をしてきた。

他でもない彼の誕生日のことだった。

彼は彼女との約束を守るために、オフの時間を作るべく、かなり繁忙な日々を送っていた。

マリナが居ないときにはいつもこうだった。

彼は、彼女の不在の時に訪れる寂寥感を埋めるかのように作業に没頭する。

まるで、思い出すことが怖いとでも言うかのように。

かつての荒んだ生活を思い出し、ジルは彼の体調管理にそれとなく気を遣っているようだったが、シャルルは無用で無意味だ、と言って薄く笑うだけだった。


彼はすでに日本に向かっているところだった。

急な予定が入り、出発の日にちが変更された。

彼は通常の人間ならオフを返上しなくては到底消化できないその困難な案件もわずかな時間で解決したが、それでも彼の予定は変更せざるを得なくなった。


けれども、シャルルはマリナにはまだ到着日時が変更されたことも、いつ到着するのかも知らせていなかった。

きっとジルからは連絡が入っていることだろう、と思った。

・・・自分のバースデーに意味があるとは思えなかったが、彼を祝福したいというマリナの気持ちには値打ちのつけ様がなかった。


そんな折の連絡に、彼はジルに経緯説明と現状報告を求めた。

「彼女にシャルルの到着を知らせました。いつもなら開封メッセージが届くはずなのですが、今回はメールも見ていないようです。国際電話をかけてみたのですが、留守が続き、連絡が取れません。・・・外出するような時間でもないですし、彼女の安否の確認を急ぎます」

1時間以内に次の報告を」

彼はそう言ってジルとの回線を切断した。

そして、じっと青灰色の瞳で視線を遠くにやり・・・少しだけ考えを巡らせる。

彼女の行動範囲から予測できるすべてを、彼の中で計算する。

そして、一本、メールを打つことにした。遮断していた回線を接続する。

・・・あまり送信したくない相手だったが、今は彼の機嫌を優先するべきではなかった。


しばらくして、返信があった。

彼はそのメールを開封すると、ざっと目を通して内容を把握する。

―――イケダさんはここ数日こちらに仕事の打合せで来ていましたが、本日は予定があるということで来訪していません。

こちらは降雪があり、交通機能も大分麻痺しています。

・・・昨日帰り際に、壊れにくいシャボン玉の作り方について教えて欲しい、という質問をされました。また、ペンタブレットの使い方を教えて欲しいと言われましたのでこの2点について回答したのを記憶しています。・・・・W


彼はそのメールを閉じると、今度は彼女とのホットラインである回線を繋いだ。

・・・しばらくこちらのメッセージを見ていなかったが、何通か、マリナからメッセージが届いていた。

彼女は携帯電話やモバイルを持ち歩かない。

連絡手段はこのメールと、固定電話のみだった。

シャルルは今更になって、彼女の危機管理能力のなさに苦言を呈していなかったことを少しだけ悔やんだ。


メールを時系列に開いていく。

一通ずつ開封していく。

もどかしそうにディスプレイに映るメッセージをスクロールした。

到着の知らせ、外出の知らせ・・・そして、最後は・・・


彼はそのメッセージを開いた。


To:Charles

From:Marina IKEDA

Title:誕生日おめでとう

内容:誕生日おめでとう。今日は一緒に祝えなくて残念だけど、こちらの画像を送ります。使い方を習ったばかりなので、あまり上手ではないけれど・・・私の気持ちです。

それから約束通り、今日はシャボン玉でお祝いしようと思います。

日本の空の下だけれども。シャルルに届きますように。 マリナ


彼はその添付ファイルを開いた。通常はウイルスチェックをしないと決して開かない用心深い彼であったけれど、その時ばかりはそれを気にする余裕がなかった。


・・・・そして、彼は、その細く長い指を少しだけ震わせた。

同じように、薄い唇も細かく震え・・・彼は目を瞑った。

マリナ、と小さく呟いた。


彼女が送って寄越したものは、薔薇の絵だった。

たどたどしい線で描かれた、着色もあまり上手とは言えないその彼女のイラストを、彼はじっと見つめた。


・・・青い薔薇の蕾が、画面一杯に溢れていた。


青い薔薇。

・・・近年改良に成功した薔薇は、すでにずっと以前からアルディ家の薔薇園に存在した。

以前、彼女はその薔薇を、シャルルの瞳の様だと言った。

薄い花弁の薔薇は、確かに彼の青灰色の瞳に似ていた。


シャルルは息を呑み、その薔薇を食い入るように見つめた。


青い薔薇の花言葉は「奇跡」「神の祝福」


―――そして薔薇の蕾は「愛の告白」。


彼女は、彼の無言の言葉に、やはり同じように無音で答えた。

言葉に出すと壊れてしまうから。


シャルルは、ぎゅっと、手のひらを握った。

マリナ。

もう一度、彼の運命の人の名前を呼んだ。



日本はあいにくの大雪だった。

何年かぶりの降雪だという。

あまりの降雪に、彼を乗せた機体は本来着陸する場所から大分離れた空港に臨時で着陸する始末だった。

日本を縦断したこの雪雲は、あちこちで影響を与えていた。

ようやく着陸はできたものの、その後の交通手段がまったく確保できなかった。

シャルルはこの天候を恨んだ。

しかも、交通機関が完全に麻痺してしまい、除雪にはあと数日ほど要するという。

彼がどう主張しても、外国人でかつ要人である彼に無理な移動は許可されなかった。

同じ国内にいるのに、彼は彼女の傍に行くことができない。


マリナと連絡が取れない以上は、彼はメールを送り、彼女の固定電話にコールするしか手段がなかった。ジルには別の手段で確認するように伝えてある。

なぜ、連絡を寄越さないのか。

彼は思案した。

シャルル・ドゥ・アルディの誕生日以降、ぷっつりと連絡を途絶えてしまった彼女が、何か事故に巻き込まれていなければ良いのだが・・・

この焦燥感に、彼は酷く狼狽した。


寂寥感とは違う。

突然のこの出来事は・・彼を驚惶させた。


待つことに慣れていたはずなのに、なんとか彼女の安否を確認できないかどうか、その手段に考えを巡らす。


そして、薄い携帯電話を取りだして、彼は、覚えていた番号を押した。

何コールかあって、・・・相手は出た。


「お待ちしておりましたよ」

彼はそう言った。

手短にこちらの状況を説明すると、彼はそうですか、と静かに言った。

そして、こちらはまだ雪が降り続けていて、当分止みそうもない、と説明する。

「こんなに積もるとは誰も想像していませんでしたでしょう」

彼はそう言って笑った。

「彼女は、当然あれから来ていませんよ・・・・それなのにここに電話をかけてくるということは、連絡が取れないのでしょうか」

シャルルはその問いには黙っていた。

「・・あなたのサイトはいつも拝見しています」

「ログを残していただいてありがとうございます。・・・あなたがこう足繁く通ってくださるとは思って居ませんでした」

シャルルの言葉に、彼は少し笑い声を漏らした。

この画廊の電話番号を知るために、シャルルは彼のサイトに飛び・・・そして、「Marina」が更新されていることを知った。


彼女が来日するたびに、その作品は増えていく。


その都度、見たくないと思う気持ちの一方で、シャルルでない男の視線を確かめるかのように、その新作を眺める。


来日する度に、彼に会っているのかという強烈な嫉妬が彼を、矛盾した感覚の世界に誘った。


今回更新されていた「シャルルの目線でないマリナ」には、珍しくタイトルがつけられていた。


日本語で「憂い」と冠されていた。


グラフィックアートですでに名を轟かせている彼は、彼女をモデルにいくつか自分のサイトに作品を公開していた。

それだけでも我慢出来ないのに、彼は、シャルルの皮肉にさらりと応えたのだ。


故意にログを残したのに、彼はそれを受け流した・・・


彼は、シャルルとマリナの関係を知っていながらも作品を描き続ける・・・


シャルルが遠回しに、自分の恋人のマリナをああいう目線で描き続けることを非難しているのに、彼はそれを隠そうともせず、シャルルの言葉をかわした。


彼は、この点だけは、シャルルより優勢だった。

愛を得ていないのに、優勢だった。


「・・・あのタイトルのテーマで作品を作るのはこれで最後にしたいものです」

彼はそう言って電話を切った。


シャルルは回線が切れた音だけが鳴り続ける携帯電話を持ったまま・・・少しだけ無言であったが、やがて、乱暴にその携帯電話を強く投げつけた。

かしゃん、と音がして、床に本体とバッテリーがばらばらになって飛び散った。


マリナ・・・・


君は、一体、何処にいるんだ。

どこで・・・何をしているんだ。

この雪の中、ひとりで泣いているのではないのか。


ひとりで泣くな



そう言ったのは、シャルルだったのに。


彼女が泣いている気がした。


この雪空のように、音もなく声もなく泣いている気がした。



彼女を・・・悲しませてしまった。

彼女を傷つけてしまった。


それでも・・・それでも、この声にならない慟哭を、彼はまだ持て余していた。




マリナはどうやら体調を崩して、床に伏せっていたらしい。


その情報が入ってきたのは、彼がようやく彼女の自宅に向かって移動を始めた時のことだった。

ジルに報告が遅すぎると冷たく言い放ったが、シャルルは少しだけ間をおいて、情報は有効に使うことにしよう、と言った。

彼の賛辞だった。

ジルは電話口の向こうで少しだけ微笑んだようだった。

マリナと直接話をすることができて、彼女は快癒に向かっているということだった、と付け加えた。

彼女は自宅にいて、今は静養中だと彼女は言って報告を終えた。


フランスと日本を往復する生活が、彼女の疲労感を増長させたのだろうか。

・・・それなら、いっそのこと、フランスに永住すればいいのに。

彼は何度かその話をマリナに持ちかけたが、彼女はウィと言わなかった。


生活のためとか目先のことでなく・・・

彼女は彼女の作品を創り続ける限り、日本を訪れるだろう。

それで良いと承諾したのも誰でもないシャルル・ドゥ・アルディだった。


体調が悪かったのに、あの絵を描いて寄越したのだろうか。

それとも、最初に彼が忠告したように、寒空の下、彼女はシャボン玉を創ることに熱中して、失調したのだろうか。


どちらにしても・・・ジルの予告どおり「その日はシャルルのためだけに、シャルルのことを考えて過ごす一日」として彼女は独りで過ごしたのだろうと思った。


彼にとって、誕生日はどうでも良かった。


しかし、それを特別だと言ってくれる、彼にとっての「特別な」彼女がそう言うのであれば、その日はやはり特別なのだと思う。


その一方で、彼女がその日を迎える度に、自分でない誰かを思い出したり、憂いのある表情を自分以外の誰かに見せるのは、到底我慢出来なかった。

いっそのこと彼女を幽閉しようかという思いに駆られたこともあった。


それでは、彼女は生きていけなかった。

彼女は温室に咲く薔薇ではなかった。

雪の下でも、風の中でも、一度は萎れてもまた咲くような、そんな人だった。

命はそんなに弱くない、と遠い昔に叫んだ若い人の言葉を思い返していた。


彼女はそんなに弱くない。

昔の郷愁に囚われて、シャルルに何かを重ねることは決してしないと思う。

だから、これは自分の問題なのだ。

それはわかっていた。


彼女を・・離したくない。

彼女を・・壊したくない。



やがて彼女の住む地区に入っていった。


このあたりは一方通行が多いから、これ以上はこの車幅では入れない、と運転手が困ったように言うので、彼はそれなら一人で歩いて行くからここで待て、と指示を出した。


長い脚を地面に落とし、彼は細い路地を歩き始めた。

以前と変わらない景色に、少しだけ安堵する。


彼女のようだった。

彼女はいつまでも変わらない。


変化してもいつまでも彼女の根幹は変化していない。

だから・・・だから、彼女ともう一度話をしようと思った。


路地を曲がると、ますます細い一方通行の路になり、ところどころ除雪されていない部分があった。

ますますあたりは静かになっていく。


・・・人の話し声がした。

曲がり角にさしかかり、彼は速度を緩めた。

完全に曲がりきったところに、マリナの住むアパートがある。

その前で、子供の嬌声と・・・聞き間違えようのないマリナの声が、した。


シャルルは息を呑んだ。

マリナの声が聞こえる。

幻聴ではなかった。


彼は随分、その声を聞いていなかった。

パリで最後に話をしてから、それほど日数は経過していなかったけれど、彼女のあの明るい声は、・・・久しぶりに聞いた。


そこでシャルルは青灰色の瞳を切なく瞬かせた。


マリナ・・・君に憂いを与えていたのは、オレだったんだね。


君は変わらず、オレでない誰かには、子供のようにはしゃぐこともできる人だったのに。


シャルルは足を止めて・・・白いため息をついた




シャルル・ドゥ・アルディが曲がり角を曲がりきると、楽しそうな話し声が止んだ。

少し離れた路地の向こうには・・・マリナが居た。

彼は彼女を見定めた。


少し、痩せた。

具合が悪かったと聞くが、確かに風邪をこじらせたようだった。

まだ、顔色が優れていない。でも、最悪の状態は抜けて、快調に向かっているようだった。

彼の青灰色の瞳は、彼女の姿だけを捉えていた。


マリナは少しだけ息をのみ、茶色の瞳を見開いた。

唇を開き、驚いたように「シャルル」と彼の名前を呼ぶ。


・・・彼女が生きていてくれれば良い

そう思って過ごした時代を、思い返していた。


彼は・・・彼は愛に貪欲になっていたことを再認識する。


元気にしているだろうか

困っていないだろうか

そして・・あいつを愛し、あいつに愛されているだろうか

倖せだろうか


そんなことを考えていた長い時間を思い出した。


彼女はその時間を埋めようと、彼女なりに愛の証しを示したのに。

彼は、貪欲になりすぎて・・・少しだけ見失ってしまっていた。


自分の愛を。


シャルル・ドゥ・アルディの愛がマリナを惑わせて、シャルル自身も惑わせた。


マリナ。


彼はもう一度、熱く彼女を見つめた。

無言で、マリナは彼の顔を眺めていた。


彼はやはり同じように黙ったまま、彼女に近づいて、そしてマリナを抱き上げた。


―――軽く感じたので、彼は狼狽する。


悪戯で彼女を抱き上げることはあったけれど、それでもこんなに軽かっただろうか。


こんなに小さかっただろうか。


彼女はいつも太陽のようで眩しくて、そして彼の中ではいつでも微笑んでいた。


「何するんだよ!」

子供の甲高い声が響いて、彼はその時に我に返った。

彼女と話をしていた男児だった。

その時になって、ようやく彼はその子供に目を遣る。


典型的な日本人の男子だ。

小学校高学年から中学生くらいだろうか。

黒い理知的な瞳の知性のある顔立ちだった。

だが、まだこどもだった。

頬を紅潮させて、こちらを睨んでいる。


「ずいぶん、小さいナイトだな」

「なんだと!」

こどもが怒って、手に持っていた箒を握りしめた。

その年齢と、様子から、マリナの住むアパートの管理人の息子だと推測した。

昔、もっと小さい頃にマリナと写っている写真を見たことがあった。

確か・・・ダイ。そんな名前だった。


「おい、マリナ、何とか言えよ!・・・言ってやれよ!」

ダイが悲鳴に近い声でそう言った。

彼は憤慨していた。

・・・マリナが失調していたときに傍に居たのは、こいつか。


シャルルが苦笑する。

この小さなナイト気取りのこどもにまで、自分は嫉視の瞳で睨み付けそうになる。


「オマエがシャルルだろ。」

「だからなんだ。」

シャルルは冷たく言い放った。流暢な日本語に、子供は少し驚いた様子だった。

彼は怯まずに、それでも叫んだ。よほど憤慨しているのか・・・度胸があると言うのか。

この状況でこの行動を取る彼を、ほんの少しだけは褒めてやるに値する行動だった。

「マリナはずっと、オマエのこと待ってたんだぞ!

雪の中、誕生日を祝えなかったって言って、熱を出して寝込むまで、シャボン玉飛ばし続けたりする阿呆なオンナだけど。

でも、そういう扱い、することないじゃないか。」

ダイはシャルルを睨んだが、睨みになっていなかった。


シャルルはその言葉に、少しだけ間を置いた。


・・・やはり、彼女は約束を違えなかった。


一日中・・・誰が見ているわけでもないのに。シャルルが傍で見ているわけでもないのに。

彼女は当初の予定通り・・・彼の魂と命を祝って、奇跡の花を描き、そして祝いの珠を創り続けていたのだと知る。


シャルルが口を開きかけたそのときだった。

マリナが、ふわり、と軽くシャルルに腕を回した。

彼は視線をダイからはずし、そしてマリナに移す。



「・・・来てくれて、ありがとう」

その言葉に、シャルルは微笑んだ。


「・・・迎えに来たよ」

「・・・うん」

会話は、それだけだった。

でもそれで充分だった。



シャルルは、ぽんぽんと、マリナの頭を軽く撫でた。

それ以上の行動は・・・できなかった。

彼女の触れることそのものが、どうにもならないくらい苦しかった。



シャルルは、上着を脱いで、そっと上着を彼女の肩にかける。

彼女はありがとう、と小さく言った。

いつもの、微笑みだった。

彼女が寒そうにしていたからという理由もあったが、何より直接彼女に触れることが・・・どうにも遣る瀬無かったので、彼は上着を彼女にかけてくるむことにした。



行こう、と言って、彼はマリナの歩幅に合わせて歩き始めた。

彼女はゆっくり彼に添って歩いた。



彼女は彼の無言のメッセージに、同じように答えた。


だからこの無言の会話も、どういうわけか、心地好かった。


彼の言葉にならない狂気を彼女は正面から受け止めて、そして彼をそれでも愛していると言葉に出さずに告げたから、彼はその愛を少しだけ信じてみることにした。


目に見えない、その非科学的な何かを―――

彼は、根拠もないものは信じないはずだったのに、信じることにした。


彼女の彼への愛を、ではなく。彼の彼女への愛、でもなく。

彼と彼女の間に流れる愛を信じることにした。



「マリナを泣かすな!マリナをいじめるな!マリナを・・・マリナを、笑わせてやってくれ!」

シャルルとマリナが背中を向けた側で、ダイがおもむろに叫んだ。

ああ、小さなナイトでさえ、彼女の憂いを感じ、そして訴えている。


自分はこの生涯付きまとう狂気と闘わねばならない。

シャルルはそう思った。


彼の秘する想いは、決して、もう表に出ることはない。

この狂気は彼の中で、これから一生、隠されていくことになる。

嫉妬と言う言葉で表すには、激しすぎて触れる者すべてを傷つけてしまう諸刃の剣を、彼は自分の胸の内に納めた。

血を流すのは、自分だけで良い、と思った。


シャルル・ドゥ・アルディはダイに振り返り、ふうっと笑った。


綺麗な微笑みで。


あの、青い薔薇のような奇跡のような微笑みだった。


「オレはシャルル・ドゥ・アルディだ。」

彼はそう言ってまた微笑んだ。

「どーでもいいよ!そんなこと!オマエで十分だ!!!!!」



その声に、マリナがくすくす笑った。

まだ少し鼻声だった。


遠くなる怒声に、少しだけ目を潤ませた。



「彼は、私のともだちなの。・・・彼が、生まれたときから一緒なのよ。」


「そうか」


シャルルが静かに言った。

彼も彼女も、そして当人も、これから思わぬところで再会し、再び巡り会い、一生を親しく過ごす間柄になるとは、このとき予想もしていなかった。


「マリナ。今夜は、ディナーだ。少しだけ、長く時間をかけて・・・温かくして・・・ゆっくり時間を過ごそう。・・・それから・・・オレのバースデーを祝ってくれるかな・・・」

マリナは茶色の瞳を大きく開いて、素晴らしいわ、と言った。

彼はその様子に微笑みながら、意地悪くちらりと視線を流して言った。

「それにしても・・あのイラストはお粗末だから、描き直してくれ。」

シャルルがそう言うと、彼女はいつものとおり、頬を膨らませて抗議した。

「もうひとつ。危機管理ができてない。―――この国も、君も。せめて携帯電話くらいは持ってくれ」

先にその端末を自らたたき壊したシャルルがマリナにそう忠告した。

そう言って、彼はそっと、彼女の小さな肩を抱いた。


伝えなくても伝わらなくても・・・もう良かった。


それでもこの愛は確かにここに在る。


それが彼への最大の贈り物だった。


毎年、毎日、生涯彼女から贈り続けられる「奇跡」そして「神の祝福」それから「愛の告白」を彼は手に入れた。






―――周囲の雪はまだ白く、そして今夜も雪になりそうだった。




FIN



D-side

Dのつぶやき


ボクの家が経営するアパートには、もう12年も住んでいる古参の主がいる。


そして、そいつはボクの知っている大人のうち、一番けったいなオンナだった。


そいつの名前はイケダ・マリナと言って、売れない漫画家だ。


あんまりにも長年売れないので、部屋の更新手数料をもらい損ねて以来、ずっと住み着いていると

かーちゃんが嘆いていた。





12年というと、ボクが生まれた年から住み続けていることになる。


ちょうど、ボクの部屋の窓からマリナの部屋の扉が見えるので、時々、見かけるけど。



一言で言って、神出鬼没だ。


何日も部屋から出てこない(と、思われる)日があるかと思うと、何日も帰ってこない時もある。

いったい、どうやって生活してるんだと、子どもながらも思ってしまう。

ああいう大人になりたくないなぁ と思う一方で、

あいつの自由気ままさが、何となく好きだった。



12年も住んでいれば、ボクとも当然に顔見知りになるわけで。


「ダイ、おおきくなったわねぇ つい最近までおむつしてたと思ったのに」

時たまばったり行き会うこともあると、このセリフを繰り返す。

「マリナ、ボクは『ダイ』じゃなくて『ヒロ』という名前なんだから、いい加減、ちゃんと呼んでよ」

というと、マリナは茶色い目をくりくりさせて、くすくす笑う。


「あら、『大』と書くんだからダイで十分よ」

ぽんぽん、と頭をたたく。


マリナは大人のわりに小さい。


ボクもそれほど大きいわけではないけれど、マリナはボクより少し、大きいくらいだ。

最近、ぐんと背が伸びてきたので、マリナを追い越す日も近いと思う。


Dのぼやき



マリナが12年もここに住み続けているせいなのか、あいつが友達が多いせいなのか。

どっちも理由であるように思うけれど。


マリナには来客が多い。


しょっちゅう、人が出入りしている気がする。


「イケダさんちには、いっつもモデルさんだか、芸能人のような人が出入りしている」

と噂されたもんだ。

マンガのモデルでもやってもらっているんだろうか。


実際、2つ年上のねーちゃんと、ミーハーなかーちゃんの目撃証言によると、

背の高いハーフっぽい男だったり、ヴァイオリンケースを片手に、どかどか歩く男か女かわからない奴だったり、時には、目が覚めるような美形の外人を招き入れているそうだ。


そこまでしっかり目撃されているのに、

「フトクテイタスウ」の男と遊んで暮らしてると思われないところが、マリナのすごいところだ。



だけど、ねーちゃんやかーちゃんや他の人は知らないと思う。


マリナが、時々、ものすごくあいつらしからぬことをしているのを。








雪の日だった。


都内にしては珍しくドカ雪で、朝から降り続けた時だったから、良く覚えている。

学校から帰って鞄を置いて、普段にはない雪のつもり具合に、どこで雪合戦をしようかと

友達との待ち合わせに備えるべく、外出の支度をしていたとき。

ふと、目をやると、マリナが玄関先で、なにやらたたずんでいた。


手に何かを持って、一生懸命口にあてている。



「あ?あいつ、この雪の中で薄着だなぁ」

まだ明るいうちから、酔っ払ってるのか?


目をこらしてみると。



マリナは、一生懸命シャボン玉を飛ばしていた。



雪の日にシャボン玉。


奇妙な組み合わせに、ボクはしばらくあんぐりと口を開いていた。

この寒い中、マリナは玄関先にたたずんで、シャボン玉を飛ばしているんだ。


その姿、いつか通報されると思うよ・・・



シャボン玉は、寒い空気にさらされて、大きな球状にはならないだろうし、

この雪にぶつかって、飛ばしてもすぐに割れてしまうだけだった。



でも。

いくつかは、空に向かって飛ばされていく。

弱風が、シャボン玉を飛ばしていった。




その、奇妙で摩訶不思議な光景は、ずいぶん忘れることができなかった。



マリナは遠目に見ても、小柄で髪の毛が茶色いのですぐわかる。

ハタチをとうに越えたおとなが

何やってるんだよ。



玄関先で、手袋もせず、立ち尽くしているから、さぞかし寒いだろう、とか

シャボン玉をこの真冬の真雪の中にふかしていることに対しての疑問、とか。

そういうことをすべて超越したマリナがいた。



やっぱり、ヘンなオンナ。



そのときは、ただそう思っていただけだった。


Dのなげき


イケダさん、すっごい風邪を引いたらしいよ

もう何日も寝込んでるんだって


たまった郵便物が階下のポストに溢れていたので、かーちゃんが見かねて届けたらしい。

そのときに、マリナがあの雪の日以来、風邪を引いて寝込んでいることを知った。



ダイちゃん、悪いけどこれをイケダさんちに届けてくれる?



ねーちゃんもかーちゃんもボクの名前をそう呼ぶから、マリナもいい気になって、ボクをダイと呼び続けるんだよ。

心の中で文句は言ったものの、書留郵便を受け取れないくらい具合が悪いマリナがちょっと気になった。



やだなぁ


ボクんちのアパートで、物騒な事件が起きなきゃいいけど。

でも、あいつは来客が多いからな。きっと、誰かが看病してるに違いないよ。


そう思う一方で、玄関先にも出られないマリナが、友人が尋ねてきたとしても、

応対できないんじゃないかと思った。



表面はしぶしぶ、という顔をしながら、ボクはマリナの部屋に行ってみることにした。





「ダイ?」

ものすごい鼻声で、マリナが出た。

出た

というよりは、布団から顔を上げた、という程度だ。


鍵だって開いたまんまだ。

さっきかーちゃんが郵便物を届けに来て、そのままにして寝てしまったらしい。




ボクは、部屋に上がり込んで、そうぶつぶつ言いながら、タオルを水で冷やして、

マリナの額にあてがった。

そのとき、ものすごい熱があって、顔も赤くて、目がどんよりしていて、とにかく、

弱った動物みたいなぐったりした姿のマリナに、ボクはびっくりした。


部屋は、雑然としていて、まさに「足の踏み場がない状態」だった。

オンナの部屋か、これ。

久しぶりにマリナの部屋にあがる。

昔は、よく、マリナの部屋に上がり込んで、マンガを読んだり、画材道具でいたずら書きをして時間を過ごしたものだった。


ボクが大家の息子かどうか、ではなく、マリナは本当にボクのことをともだちだと思ってたようだ。

そこが、マリナの才能だと思う。

老若男女関係なんだよね、きっと。


小学校の高学年になるにつれて、だんだんクラスの友達と遊ぶことの方が楽しくなっていったけど。

マリナと遊んだことは忘れていないんだ。




・・・かーちゃんも薄情だよな

こんな状態のマリナを放っておくなんて。





「あたしが大丈夫だって言ったんだよ」

咳き込みながら、マリナがそう言い返した。




「マリナ、病院に行こう」

「う~ん 今、動くのもしんどいんだけど」

「だいたい、なんでそんなに具合が悪くなるまでの風邪を引くんだよ。

ボク、この間目撃したんだぞ!雪の中で、シャボン玉ふかしてただろうがっ」

「あはは。見られちゃってた?」


ボクはあまりの間抜けな答えに、あんぐりと口をあいた。

呆れてものが言えない、とよくかーちゃんがボクが口答えすると、そう言うけれど、

マリナのこの反応には「ダツボウ」だよ・・・


「一体ぜんたい、なんでそんなことになっちゃったんだよ」

呆れついでに聞いてみることにした。


「えとね。」

熱に浮かされて、聞かれるがままに答えてしまったんだろう。



「ともだちの、誕生日」

「え?」

「ともだちの誕生日に、たくさんのシャボン玉でお祝いしてあげようと思ったんだけど。

そのともだちと、けんか、しちゃって。

一緒にお祝いしようねって言ってたんだけど、その人は来てくれなかったんだ。

でも、お祝いしたい気持ちには変わりがないから。

その日は大雪で、たくさん、たくさん飛ばしてあげられなくって・・」



「おまえは阿呆だ。」

ボクは言った。

なんだか知らないけど、無性に腹が立った。



「オマエ、一体いくつになったと思ってるんだよ。

あんな薄着で、雪の中、しゃぼん玉ふかしてたら、年寄りだったら死ぬぞ。」

しゅん、としたマリナが布団にもぐった。


ボクはまだ怒ってた。

「オマエのそういう夢見るオトメみたいなぽやんとしたところが良いって言う奴もいるんだろうけど。

いい年して、何やってるんだよ。自覚持てよ。」


つもりに積もった言いたいことをはき出した。

そのあと、言い過ぎたかなと思い直して「ごめん」と言うとマリナは一言だけ、言い返した。


「・・オマエ言うな」

「オマエで十分だ」


マリナは笑った。

「その言い方、すごく、わたしの知っている人に似てる」


汗で額に髪の毛が張り付いていた。


「食べ物少し口に入れられたみたいだね。とにかく寝ろ。」

「言われなくてもそうする」


マリナはそう言って、それから、しげしげとボクを眺めた。

大きい茶色い目玉が、こっちを見てる。

ボクは、ちょっとどきりとした。

「なんだよ?寝ろよ」


「大きくなったね、ダイ」

「そりゃ、もうすぐ小学校卒業だしね」


「つい最近まで、おむつしてたのにねぇ。いつの間にか、口答えするようになっちゃって。

ほんと、私の周りには怒りっぽい人がたくさんで、困るわ」

すぐにうつらうつらし出したようだ。


ボクは、簡単に部屋を片付けて、湯を沸かし、台所を洗って、一応、人が棲息できる状態を作った。

12歳でここまでできる奴がいたら、是非勝負したい。


「じゃ ボクは一度帰るから。後でかーちゃんかねーちゃんを寄越すよ」


そう言って、振り返ったときには、マリナはもう寝付いてた。


そっと部屋を出ようと、玄関先で靴を履いたとき。

「ごめんね、シャルル」


という声が聞こえた。


寝ぼけていたらしい。マリナは寝言を言ったようだ。

「しゃるる。」

ボクは、その名前らしき単語を復唱した。





そいつとけんかして、でも、謝れなくて、それでも誕生日を祝いたくて、

あの雪の中を馬鹿みたいに一人でシャボン玉飛ばしていたわけ?



一体、何日寝込んでるんだよ。


壁に掛けてあったカレンダーをみた。


125日に、マルがしてあった。


Dのためいき



人間という生き物の体は、頑丈に出来ているんだ



マリナの回復ぶりをみると、ボクは自然にそう思ってしまう。


あれだけ弱っていたのに、見かねたかーちゃんが差し入れた食い物と、

惰眠をむさぼるだけ貪ったら、あっという間に回復しやがった。



寝言でみーみー泣いていたマリナより、ふらっとどこかに出かけて、

「スケッチしてきたの!」

と、ボクよりずっと年下のこどものようにはしゃぎ回っている方が、

マリナらしい。




まぁ、たまにはあいつだって、弱気になることくらいあるよな。



ボクは、いろいろなことをそうやって納得させることにした。

肯定はしてないけど。

理解はしているつもりだ。



おとなにだって、いろいろ事情がある。

マリナがおとなかどうかはわかならいけど。

(現に体だって小さいし、何より精神年齢が、生活年齢より下回っている)



ボクから切りださなければ、マリナはあの日のぼやきなんて、

きっと、けろっとして忘れてしまっているに違いない。

いや、そんなことさえ呟いたことも、覚えていないと思う。



***



北風が、また一層寒くなって、空がどんよりと墨色になってきた。

雪の気配がしてきた。


「今年は、雪が多いねぇ」


マリナが話しかけてきた。


ボクは、アパートの入り口周辺に散った枯葉を掃除していた。

「もう、具合は良いの?」

「すっかり。」


「それにしても偉いわね、お手伝い?」

「あるばいと。」

ボクは胸を張って言った。

「もう 学校は短縮授業だから、暇なんだよ。もらったお小遣いで、買いたいものあるしね」

「へぇ」

マリナがいたずらっぽく笑った。


「計画的なのねぇ」

「オマエが無計画なんだよ」


買い物の帰りだといっていた割には、手に荷物を持たずに帰ってきたマリナは、

何か、アタリをきょろきょろして、落ち着かない様子であることに、やがて気がついた。



Dのささやき



「誰かと待ち合わせ?」


ボクが尋ねると、マリナはううん、と首を振った。


こういう仕草が、とても、子どもっぽい。

茶色い髪の毛が、ふるふると揺れた。


「そうじゃない、けど」

じゃぁ、誰かを待っているんだね。あの『しゃるる』って人のことかい?

ボクはそう尋ねようと思ったけれど、言わないことにした。


聞いてもどうにもならないことは聞かない。

よく、ねーちゃんが「良いこと教えてあげようか。あのね・・・ああ、やっぱり言えないわ」

と言うことがあるけれど、ボクは決まって「じゃぁ聞かない」と言うことにしている。


そういう話は聞いても面白くないし、ボクに関係のない話であることが確実だからだ。




囂しいねーちゃんとかーちゃんという自分と違う性別の生物から得た、経験からくる知恵というやつだ。




マリナは、茶色の瞳をくるくるさせて、せわしなくアタリを見回している。


明らかに、誰かを、もしくは何かを、待っている様子だった。




「病み上がりなんだから、早く部屋に入れよ」

「はいはい」

「『はい』は一度で良いの」

「は~~~い」

これじゃ、どっちが大人だかわかりゃしない。

そんなことを思いながら。

何かと、部屋に入りたがらないマリナは、まとわりつく子犬みたいだった。

掃除に邪魔だ邪魔だと追いやろうとしたときに。





アパート入り口の細い路地から、誰かが角を曲がってやってきた。



ん?





ボクは目をこらした。

マリナは目を見開いた。


Dのおどろき



ずいぶんと後になって。

こういうシチュエーションは、女子がこの上なく喜ぶものだということを知ったけれど。

12歳のボクは、そのときは、ただただ、唖然とするだけだった。



アパートの前は、細い路地で一方通行だ。

だから、ボクみたいな子どもが遊んでいたり、今みたいに枯葉を掃除しても安全な場所だった。


その路地を、「場違いな」そう、本当に場違いな、ガイジンが歩いてきた。


ガイジンだ!

姿を見定めた時は、そう、思った。


長い、長い脚。

冬なのに、厚着なのに。

遠目からも体を鍛えていることがわかる、調整された体。

寒風に揺れる、色素の薄い髪。

金髪よりももっと白い。こういうのを「銀髪」と言うのだろうか。

彫刻のように整った顔立ち。

寒さなのか緊張なんか、つまらないからなのか。

無表情だった。

印象的な、青灰色の目が、マリナだけを、見据えて捕らえていた。


ボクのコトなんて、二人は眼中にない。

そんなかんじだった。




何だよ・・・???






そのとき。



その人と、マリナの視線の先が同じだということに気がついたときに。






寒そうに、フード付きの丈が短いダッフルコートを羽織ったその人を、

マリナが待っていたことを。

知ったんだ。




「しゃるる」




彼女はそう、呟いた。






ああ、こいつを、マリナは待ってたんだな。






雪が、ちらついてきた。


ゆっくり、音もなく、マリナと、そいつと、ボクに降りかかってきた。











「あっ」


先に静寂を破ったのは、ボクの声だった。






ひょい。






まるで、花束を担ぐかのように。





シャルルという奴は、マリナをか肩に担ぎ上げた。

本当に、簡単にいともなげに。




マリナは小柄だから、その動作は何となく、小動物を抱えて愛でるみたいに見えた。





「何するんだよ!」


思わず、ボクが声を荒げて近寄った。

シャルルは、ボクを、横目で見た。

うう、ガイジンのにらみつけがこんなに怖いとは、思ってもいなかった。



「ずいぶん、小さいナイトだな」

「なんだと!」

ボクは、持っていた箒を握りしめた。



何もかもが、こいつに勝ってない。

唯一、年が若い ことくらいか。自慢にならない。


Dのためいき


「おい、マリナ、何とか言えよ!・・・言ってやれよ!」

ボクは叫んだ。



シャルルと呼ばれたそいつは、ため息をひとつ、つくと、マリナを肩から降ろした。

まるで荷物を降ろすように、ぞんざいに。


マリナはモノじゃない。


ぎゅっと、両手に握りしめていた箒の柄を、もう一度持ち直して。

ボクは、ゆっくり、一句一句を確認しながら、言った。


「オマエがシャルルだろ。」

「だからなんだ。」

ヤツは言った。

ボクはココで負けてはいけないと決心して,渾身の力で叫んだ。

「マリナはずっと、オマエのこと待ってたんだぞ!

雪の中、誕生日を祝えなかったって言って、熱を出して寝込むまで、シャボン玉飛ばし続けたりする阿呆なオンナだけど。

でも、そういう扱い、することないじゃないか。」


シャルルとかいうヤツは、ぎろりとこっちをにらんだ。

ボクは、また、箒の柄を握り直した。

やるっていうのなら、望むところだ。

この間、合気道教室で習った払い脚を披露してやる。

脚が長いから、さぞかし有効だろう。



そのときだった。

マリナが、抱きついたのだ。


ふわっと、軽く。


そう、ボクではなくシャルルにだ。


ヤツは、視線をボクからマリナに移した。

もう、この段階で、僕の気配というか存在感は消されてしまった。




「・・・来てくれて、ありがとう」

「迎えに来たよ」

「・・・うん」

会話は、それだけだった。


シャルルは、ぽんぽんと、あやすかのようにマリナの頭を軽く撫でた。

その仕草は、マリナが、ボクの頭を撫でる時に良く似ていた。






ボクはまったくのピエロだったんだ。



そう、気がついたときには、ヤツが暖かそうなダッフルコートを脱ぎ、優雅なしぐさでもって

マリナにそれをかけて、肩を抱いて歩き始めたときだった。



ボクは、かぁっと頬が赤くなった。




マリナ。

マリナ。



小さいときから。

違う。

ボクが、生まれたときから一緒のマリナ。


彼女が行ってしまう。

彼女が、去ってしまう。



「おい!オマエ!」

ボクは、二人の背中に叫んだ。


「マリナを泣かすな!マリナをいじめるな!マリナを・・・」


最後は、声がかすれていた。


目の前が、なんだか滲んでくる。



「マリナを、笑わせてやってくれ!」





そこまで言うと、シャルルはふいっと、ボクを見たんだ。


そして、笑った。


綺麗な、綺麗な笑顔だった。


「オマエ、言うな。オレはシャルル・ドゥ・アルディだ。」





「どーでもいいよ!そんなこと!オマエで十分だ!!!!!」




ボクは、そう叫んだ。



空から、雪が、ひとひら、落ちてきた。







今夜は雪になりそうだ。






FIN)




そしてDは



国立病理研究所で、快挙を成し遂げた日本人研究者がいた。



彼はその若さで、辛抱強く研究を重ね、かつ、時には大胆に仮説を打ち立て、

水の清浄化を急速に促すバクテリアを発見し、濾過システムを確立した。


また、これを偶然の産物でないことを証明した。

モザンビークをはじめ、衛生状態の良くない場所で役に立つことだろう。



彼は、若き研究者であると同時に、病理研究所所長の信任厚い片腕でもあり、家族共々親しくつきあう間柄だった。



そして。


フランスの華と呼ばれた所長にいつも寄り添う彼の生涯の伴侶とは、文字通り、彼が生まれたときから一緒だったという。


彼らは、その研究者のことを本名ではなく「ダイ」と慕わしげに呼んでいた。




(本当の Fin)



D-side 嫩葉 前編

嫩葉01

 

・・・進学先が決まったとき。

 

真っ先に音楽活動をいつになったら再開するのか、と聞かれたので、僕は「趣味だから」と言って微笑むことに決めていた。

つまり、もう、公には姿を出すことはない、と言って、引退宣言をした。

 

人より少し早い進路の決定だった。

これまでの音楽活動が功を奏したのかもしれない。

一般入試とは違う特別枠で入ったものの、僕はその道を邁進するという選択をしなかった。

音楽活動が加点されたことは認めるが、それで入学したのではなく、僕はやりたい路に進みたいと言った。

もちろん、試験も受けたし、これまでの学生生活の評点が及第だったからこその結果であったけれども。

・・・つまり、理系のある特別な分野に進むことに決めていて、音楽の路には進まないことにした。

 

これまでの、一日のうちのほとんどを練習時間に費やすという生活からきっぱりと決別した。

短い活動だったけれども、周囲の理解と協力があってこそ続けられたのだと思う。

親はアパートの空き部屋を防音室に改築してくれたし、大変に高名な音楽家に師事してくれるように取りはからってくれた人も居た。

とても今の生活では持つことの出来ない楽器を貸与してくれた人物もいた。

友人は僕をインターネット投票で1位に押し上げてくれる運動をしてくれたし、長らくのパートナーであった音楽仲間は一緒に留学しないかと声をかけてくれたこともあった。

 

・・・僕は、大変に恵まれていると思う。

 

しかし、たくさんのコンクールに出て、部屋には数え切れないほどの賞状やトロフィーが並んでいたが、それもすべて片付けてしまった。

過去の栄光を飾っていても何にも満たされないから。

 

だから、これまでの生活を一変させて、普通の・・・まったく考えて居なかった普通の生活をするようになった時。

誰もが驚き、そしてもったいないと言った。

 

何がもったいないのかわからない。

だって、僕の一日は決まった時間しかなくて、僕は自分の進みたい路をすでに決めていたから。

音楽は好きであったけれども、僕はこのまま進んだら・・戻れなくなると思った。

好きと仕事は一緒にできない人間なのだと思っている。

まだ、好きで居られたから。

好きなままに一生を共にしたいと思ったから。

だから、留別を選んだのに。

それが間違っていると言われて、僕は大変に困惑した。

 

でも、彼女はそれで良い、と言ってくれた。

彼女は・・・僕に偉大な師を紹介し、そして希なる名器を貸与するように、彼女の恋人に取りはからってくれた人は僕の家の経営するアパートの住人だった。

そして僕が生まれた時から一緒に居る。

 

本当の名前は「大」と書いて「ヒロ」と読むのに、彼女はいつも僕を大きな声で「ダイ」と呼んだ。

そして、彼女は笑って、彼女よりずっと大きくなった僕の背中をとんとん、と軽く叩いた。

 

「決まった路ではなく決めた路を行くのが一番よ」

 

・・・重みのある言葉だった。

 

その言葉に押されて、僕は今に至る。

だから後悔していない。

 

僕が恵まれていたのは機会であって、すべてがダイの実力なのだ、とあの人は言ってくれたから、ここまで続けることが出来た。

高名な師が慰留してくれたけれども、それは丁寧に断った。

僕から始めたいと言ったことなのに。それでも皆はダイが選んだのだからと言って許してくれた。

 

僕の夢はいつの間にか、あのフランスの華の元で研究開発をすることに変わっていた。

いつか・・・彼が今でも研究を続けている、彼が救いたいと思っているあの国の土壌開発について、研究チームに加わりたいと思っていた。

どんなに彼が万能でも、彼はあらゆる方面から必要とされている逸材であり、着手した研究について、最後まで研究を進めることは難しかった。

彼の身体もひとつしかない。そして彼の時間も僕と同じだけの時間しかなかった。

そして、フランスの華は、自分の実験については大変に厳しく、信用できないデータはすべて元から廃棄してしまうという潔癖さを持っている。

そんな彼の元で一緒に研究をしていけたら。どれほど素晴らしいだろう。

そう考えていたものの、僕にはもう一つ・・・野卑な願いがあった。

もし、願いが叶えば、彼女と一緒に居られると思ったからだ。

 

彼女を泣かさないで欲しい。

彼女を笑顔にさせて欲しい。

彼女を大事にして欲しい。

そう訴えて大声を張り上げたのは、つい最近のことのように思える。

 

確かに、彼はマリナを大事にしている。

どんなときも。どんなときでも。

 

しかし僕の胸の中の秘めたる疼きは・・・彼女の幸せそうな笑顔を見る度に、渇きとうねりをもたらして、僕を悩ます。

 

マリナ、わかっているだろうか。

 

貴女は僕のすべてを知り、僕の生き方に深く影響しているのに。

 

・・・彼女は僕を見ない。

 

少し年の近い親子ほど年齢が離れているのに、彼女は年若く見えるので、少し年の離れた姉弟のように僕らは会話を交わす。

そして、フランスの華と言われている、彼女の永遠の恋人は・・・やがて彼女と永遠を誓い合う人となった。

 

それはとても嬉しいことのはずなのに。

僕はどういう訳か僅かに哀しかった。

 

だからだろうか。

音楽の路から決別するときに、あれほどあっさりとしていられたのは。

深みに入れば入るほど、彼と彼女の絆について考えが及び、それが音色に出る。

 

いつだったか・・・師であるカオル・ヒビキヤに叱咤されたことがあった。

「悲恋ばかりを表現したいのなら、よそへ行け」

僕がどういう感情の波に溺れているのか、彼女は見抜いていた。

だからこそ・・・僕にそんな言葉をかけたのだと思う。

そして彼女はふと、非常に中性的な横顔を見せて呟いた。

彼女は大変に端整な顔立ちをしているが、時々・・男女の性差を超えた表情をすることがあった。

そんなときは、誰かの遠くにいる人の事を考えて居るのだな、と思った。

彼女はいつも、そういう表情をしたときには「別れのワルツ」を弾いた。

嫩葉02

 

普通は違う楽器の奏者は弟子にしない。

せいぜい、音楽理論を教えるくらいだ。

それなのに、カオル・ヒビキヤは僕を受け入れた。

かの師は、決して弟子を取らないことで有名だった。

それなのに、たったひとりの人の言葉で、彼女は僕を受け入れた。

 

茶色の髪の茶色の瞳の、僕の家の住居人に連れられて、僕はカオル・ヒビキヤに会いに行った日の事を決して忘れない。

 

彼女は大変な美形で・・そして性別を超えるほど、年齢を推し量れないほどに綺麗な人だった。

 

そこは、天使の庭かと思った。

 

・・・最初。

 

レッスンの先生を紹介したいと言われたので、ちょっとそこまで、といった気分で僕は彼女と一緒にアパートの前で待ち合わせをして、そのまま大通りに出て・・面食らった。

細い路地が続く一方通行のアパートの前ではとても止められないくらいの、大変に立派な迎えの大きな車に乗せられて、僕は都内を走り抜けて、豪華なマンションの一室に連れて行かれた。

次からはひとりで来られるか、と聞かれて、僕は無言で頷いた。

マリナの車の乗り方が洗練されているとは思えなかったが、とても慣れていたので・・僕は言葉を発することが出来ず、ただ首を縦に振るだけだった。

彼女が知らない人のように思えた。

だから・・・隣に座って、僕の相づちの有無も関係なく喋り続けるマリナ・イケダの声の高低だけを感じながら、車の震動に身を任せているばかりだった。

決して踏み入れてはいけない領域に入っていくような感覚があった。

 

・・・そこは交通の便が良く、陸路も空路もすべてにおいてアクセスが良い場所にそこはそびえ立っていた。

いくつものセキュリティゲートを越えて、僕はそこに辿り着いた。

今度からひとりで来られる場所にその場所は在ったけれど、これではひとりで入れないじゃないか。

心の中でそう思った。

 

ペントハウスのそこは、大変に日当たりの良い場所で、エレベーターは、特殊キーを持ってIDセンサーに特定のカードを入れて暗証番号を入れないと停止しない階だった。

生体認証とIDカードと暗証番号が正しい順序で合致していないと入れない場所にあり、表示されている最上階の数字を表したパネルの数字のさらにその上の階層に位置していた。

大きな重たい扉を開いて、中に進むと、そこには・・・・僕がテレビや雑誌でしか知ることのない世界が広がっていた。

 

靴を脱がない居住空間。

何人か点在する使用人。

アパートの路地より広そうな長い廊下。

中二階になっている螺旋階段の先はプライベートルームなのだろう。

 

・・・そして次に大きな居間を通り、ソファの上に大きなスーツケースが途中まで開いてあって、その中から散らばった楽譜が床に散乱しているのを見て、マリナは顔をしかめた。

「カオルはいつになったら、掃除ができるようになるのか」

その言葉を、マリナ・イケダという人物にそっくり返してやりたかった。

そこで僕はようやく苦笑いであったけれど、笑い声を漏らすことが出来た。

車内で説明された。

カオル・ヒビキヤという音楽家と知り合いだと言う。

だから僕を引き合わせたいのだ、と彼女は言った。

どういう理由でそういう経緯になったのかと言うと、これはまた長い話になる。

けれども、僕の中に何か・・・音楽的センスがあって、それが本物かどうか、カオルに見て欲しいと思う、とマリナが橋渡しをしてくれた。

それが彼女のとの出会いだった。

 

・・・・部屋の構造について、詳細を言えば言うほど、現実離れしてくるような気がした。

 

そしてその雑然としているけれども、途方もなく生活の匂いのなく、かつ広すぎる空間を、彼女が慣れた足取りで自由に泳ぎ渡っているように歩いて、目的の部屋に僕を誘う後ろ姿を見ながら・・僕は覚束無い足取りでその後を夢中で追いかけた。

 

やがて、分厚い扉が威圧的な雰囲気で構えていて、僕とマリナは両開きのその扉を片方ずつ担当して、取っ手を横に引いた。

その時に、大変に珍しい横開きの防音扉だということに気がついたが、部屋の中はとても静かだったので、拍子抜けしたことを覚えていた。

 

・・・2室の壁を抜いたのだろう。それくらい広かった。

 

中央には漆塗りのグランドピアノが設置されており、温度も湿度も完璧に調整されていた。

シャルル・ドゥ・アルディと、カオル・ヒビキヤがそこに居た。

すぐにわかった。彼らはそれくらい特徴がありすぎる。

マリナが「扉が重い」と言って文句を言いながら、その部屋に入っていく。

僕は入り口でしばし立ったまま、その姿を眺めていた。

おいで、と彼女に言われて、僕はそっと足を踏み入れた。

 

防音室なのに、立派な天窓や出窓があって、彼らの居る場所には、燦々と陽光が射し込んでいた。

特に、シャルル・ドゥ・アルディの白金の髪が、とても強く煌めいていて、僕は一瞬目を細めたのを覚えている。

 

美術室の壁に取り付けられている絵画のような荘厳さがそこにあった。

 

・・・ヴァイオリンの弦を爪弾きながら、片膝を立てて椅子に座る男装の麗人と、白金の髪に青灰色の瞳の・・・整った顔立ちと表現するにはとても足りない顔立ちをした男性がそこに立っていた。

マリナの恋人が、大変な人物であることを知ったのはその少し前のことだった。

けれども、それよりなお・・・音楽雑誌でその名前を見かけない時はないくらいの有名人がそこに居て、写真やジャケットや動画を見る以上の存在感を持ってそこにいたので、僕はその場所に立ち尽くしてしまっていた。

マリナに背中を押されるまで、その場をしばらく動くことができなかった。

 

それからフランスの華は、これから大事な話があるからシャルルは出て行け、と言ったマリナに苦笑しながら、部屋を出て行った。

大変に小柄な彼女に近づくと、ちょっと屈んで、彼女の髪にキスをした。

その仕種が映画のワンシーンのようにあまりにも綺麗で流れるようで、僕はちょっと瞬きを繰り返してしまった。

あまりにも眩しかったから。

そして、もっと眩しかったのは・・・・その祝福の口吻を・・・マリナが嬉しそうに瞳を細めて軽く顎を上げて、シャルルのキスを受け止めている姿だった。

 

僕は・・・また目を反らした。

 

そこはカオル・ヒビキヤのレッスン室で、防音設備が完璧にされている上に、大変に高価なスピーカーが部屋の四隅に設置されていて、今は入手するのも難しいLPレコードを再生するためのレーザー読み取り装置が完備されていた。

僕の知っているマリナはいつも漫然としていて、遠くを見つめていて・・・雑然としたアパートの一室で、整頓できないことさえ、平気で生きている人だったのに。

胸が苦しくなったことだけ覚えていて、その時の彼女の様子についてあまり細かく覚えていない。もちろん、僕と彼女が車内でどんな会話をしたのかさえ、うろ覚えだった。

 

僕の脇を通り過ぎていった。

何も声をかけられなかったし、触れることもなかったけれど、すれ違う時に僕はびりっと電流が腕に走るような気がした。

彼の長身が、マリナを軽々と担ぎ上げた時のことを思い出したからだ。

・・・その時の僕にはまだそれほどの腕力も身長もなかったから。

だから僕は彼の気配と温度と空気を感じて・・・ひどく緊張した。

 

僕とすれ違った時に、とても良い香りがした。

・・・出で立ちは外国人であるのに、シャルル・ドゥ・アルディは完璧な日本語を操る。

 

隣の部屋で寛いでいるがあまり時間はない、と短いけれども要点を押さえた言葉だけを残して、シャルルは部屋を出て行った。

 

・・・シャルルは僕の顔をちらりと一瞥した。

僕の顔を覚えているようだった。

でも僕は、母さんから言われているように、大人にきちんとした挨拶をしなさいという教えを守ることが出来なかった。

ちょっと首を曲げて、ぺこりとお辞儀をしただけだった。

 

彼はそんな僕の様子を見て、「なるほどね」と言ったが、その意味がどういう意味なのか、その時にはわからなかった。

 

彼と会うのは、これが初回ではない。

2回目だ。

 

だからなのだろうか。

 

いや、そういった意味ではない、もっと違った意味での肯定の言葉を彼は残して部屋を出て行った。

しかし、カオル・ヒビキヤはシャルルのたったそれだけの言葉でシャルルが何を言いたかったのか、何を指摘したのか、わかったらしい。

端整な口元をほころばせながら、不敵に笑った。

 

「・・・昔の誰かを思い出すな」

 

彼女は僕を見て、それで決めてしまった。

最初で最後の弟子を取ろう、と言った。

 

僕の何を見て、彼女は微笑んだのだろうか。

僕の何が、シャルルを肯定させたのだろうか。

 

それ以来、僕は音の路を駆けるように抜けていった。

あっという間の日々であったが、一日たりとも無駄に過ごしたとは思わなかったし、そう思う必要もないくらいに満たされていた。

レッスンは厳しかったけれど、マリナに途中で弱音を吐いたこともあったけれども、それでも僕は続けて良かったと思う。

続けていればシャルル・ドゥ・アルディの言った言葉の意味と、カオル・ヒビキヤが呟いた言葉の意味と、なぜ師がいつも別れのワルツを奏でるのかという理由と・・・もっといろいろなことを知ることが出来るのだろうと思ったから。

嫩葉03

 

僕の音楽生活の中には、いつもシャルル・ドゥ・アルディの影がちらついていた。

 

彼と僕との間には奇妙な利害関係が成立していた。

 

マリナ・イケダが日本のアパートを不在にしているときに、僕の実家が管理を任されていることもあって、僕にいろいろと連絡を取ってきていた。

 

最初は国際電話からの一方的な指示だった。

しかも、意地の悪いことに、僕以外の人間が電話に出ると、フランス語やイタリア語やドイツ語やラテン語で話し出して、会話しようとしない。

もしくは、秘書らしきとても落ち着いた若い女性の声で呼びだして、僕が受話器に出ると交替してシャルルがいきなり話し出す。

 

彼の奇妙な行動には理由があった。

彼が、非常に知能指数が高く、数奇な運命と経験をたどり、生来の人間嫌いに起因するということを後になって知ったけれども、それでも彼の行為は奇妙を通り越して奇怪としか言いようがなかった。

マリナがどうしてあんな外国人と一緒に居たがるのか・・・最初はよくわからなかった。

 

次に、僕が彼の存在を認識するようになると、今度はマリナから聞いたのか、どこかで調べたのか、FAXや文書送付での連絡と続き、程なくしてそれは僕の個人メールアドレスに到着するようになった。

 

・・・彼ができないことはない人物だということは知っていた。

その頃になると、マリナの恋人が、シャルル・ドゥ・アルディという人物であることも知った。

そして彼が大変な有名人であることも。

 

だから、僕に関する情報をどうして知ったのだ、とか、個人情報の漏洩だとか、そう言って騒ぐつもりはなかったけれども、それでも外国籍でありながら、それほど強大な権力や権利をこの国で行使することができるのであれば、僕やこのアパートに拘る事なんて、ないじゃないかと思っていたのは確かだった。

正規の手続きを経ないで、未成年にあれこれ業務を委託するなんて、おかしいじゃないか、と最初のころ抗議したことがあった。

 

ところが、今度は、僕が遠方に住む友人との連絡にWEBチャットを使用しており、そのソフトがあまり品質の良いものではないことを知ったらしく、シャルルが開発したWEB会議システムのソフトとOSを僕に無償提供すると言って来た。

僕がそういったことに、普通の男子よりも興味を持っていることと、現状に窮していることを知ったシャルルの策略に不承不承乗っかったことが、彼とのやり取りの始まりだった。

 

確かに、彼の開発したシステムは素晴らしかった。

画期的で斬新なOSであったにも関わらず、彼はそれを市場販売にまで踏み切るまでに、だいぶ足踏みしていた。

 

・・・それがマリナとシャルルと、僕と・・・ごく限られた人間だけしか使えないということに意味があるのだ、と彼は言っていた。

 

マリナが日本に居る間も、そのシステムを使用して連絡を取っているようだった。

それなのに、シャルルは、僕と彼との連絡とマリナと彼との連絡に利用しているシステムを、決して・・・三者間通話で使用したり、マリナと僕との間の回線を開こうとしなかった。

これにもきっと理由があり、あの時・・・カオル・ヒビキヤが言っていた言葉のこたえによって、シャルルはこのような行動を取っているのだろうと思った。

 

・・・彼ほどの人物であれば、代理人を立てるとか、別の者を管理に遣らせるとか。

・・・アパートそのものを引き払ってしまって、もっと様々なサービスの行き届いた場所にマリナの居を移すことも想定していたはずなのに。

 

それなのに、どういうわけか、シャルルは僕に連絡を寄越す。

然るべき立場の大人ではなくて、大人になる前の僕に。

結局事務手続きなことは僕では荷が重すぎるので、親に委託することもあったけれど、それでもシャルルはそのシステム経由でいつも僕に連絡を寄越した。

それはマリナが日本に居る時にも続いた。

 

時差があるはずなのに。僕の行動時間に連絡を寄越す。

メールだったら受信時間の差はあるが、要件は済まされるはずなのに、メールの送信でさえ、彼は僕のログイン時間を見はからって送って寄越していた。

 

マリナ・イケダという人物が、密に連絡を取り合うことに労苦を感じない人間であれば、きっとそういったこともなかったのだろうと思う。

連絡も寄越さず、連絡もせず、マリナは突然ふらりと居なくなったり、アルディ家から出てしまったりするらしい。

 

大変な過保護ぶりだ。

マリナは大人でこどもじゃない。

そして、シャルルのように拘束してばかりだったら、マリナはさぞかし苦しいのだろうと思った。

けれどもそれは二人の問題であり、僕が口を差し挟めるものではなかった。

でも。

 

シャルルにとって、マリナが、唯一絶対なのだと思った。

 

・・・家族に恵まれなかった人だと聞いた。

 

肉親はいるけれども一緒に暮らすことが出来ないのだとマリナが少し寂しそうに、でもたくさんは語ることなくそう言ったときに、眉をひそめて、顔を曇らせたから。

 

僕はそれ以上聞くのをやめた。

 

・・・僕は両親が健在で、けんかばかりしているけれども姉が居る。

季節の行事に電話をする程度であったけれど、祖父母も仲良く元気に暮らしていた。

それがどれほど大事なことで・・・どんなに手を伸ばしてもぎ取りたくてもそうできない人が居るのだと思った。

それがシャルル・ドゥ・アルディという人物の青灰色の瞳がいつも静かで哀しそうな色をたたえている理由なのかと思うと・・・無視することができなかった。

憐れみは彼は欲していない。

同情や憐憫といった感情は彼の誇りを傷つけることは理解していた。

 

誇り高い、フランスの華と呼ばれる希なる傑人が、僕に一体どうしてそこまで関わるのだろう。僕は普通の・・・本当に普通の学生で、そして・・・たまたま、彼の恋人の住居を管理している家の息子であるだけであった。

 

時差があるのに、彼の活動時間外であろう時間帯に僕に連絡を寄越す。

忙しい時はメールや短いチャットだった。

そして彼はいつも決まった時間に、決まった長さしかやり取りしない。

まるで一日のうちの会話の回数や時間や文字数を決めてしまっているようだった。

 

「ダイに」

彼は僕のことをダイ、と言った。

流暢な日本語だった。

マリナから聞いているのだろう。

もしかしたら、カオル・ヒビキヤからも聞いているのかも知れない。

出来の悪い弟子だから。

きっと呆れているのだろうな。

ネットなどではその音源を求めて彷徨っているファンがいるという幻の演奏会では、シャルル・ドゥ・アルディとカオル・ヒビキヤが共演している演目があるらしい。

 

パソコンのスピーカーから流れてくる声は、うっとりするくらい綺麗な声だった。

 

「ダイには小さい時に逢ったことがある。

・・・まだ、あの建物が古いときに。

居室の扉にはちゃちな鍵しかなくて、それでも彼女の家に入って彼女を待つ必要があったときに。

・・・君はまだ小さくて・・・そう、とても小さくて、大きな声で泣いていた。

建物の前の細い路地を行ったり来たりしてあやす大人の声と一緒に、君は生命に輝いていた。

その声があまりにも大きくて、でも、その声を聞きながらマリナは君と一緒に時間を過ごしていたのだろうと思って・・・ただひとり、君が母の胸に抱かれて、泣き止んでは眠り、そしてまた泣き出す声を聞いていた」

そして次に、その様を見て、自分も誰かを・・・幼子を抱いたらどう対応すれば良いのか知った、と言っていた。

・・・誰のことを言っているのかは、わからなかったけれども。

彼は僕を通して、彼の経験とし、そして彼が経験するときに僕を思い出したのだと言った。

嫩葉04

 

いつしか、シャルル・ドゥ・アルディとの奇妙なやり取りが僕の日常になっていった。

人が聞けば、大変に珍しい体験であると言うだろう。

でも僕にとってはそれが「普通」だった。

生まれてからいつも一緒に居たマリナ・イケダには来訪者が多く彼女は・・・常にひとつところにじっとしていられない人物だったので、僕は小さい時から彼女の家の管理を任されていた。

 

シャルルが会話の出来る程度に成長した僕と初めて会った時。

それは、雪が降りそうなどんよりした日のことだったけれども。

「小さいナイト」と僕のことを揶揄した。

でも、僕は確かに、小さい時からマリナが戻ってくる場所を守ってやらなければならないのだ、という意識が強かったように思う。

それをシャルルが見越して僕のことをナイトと言った。

それは「騎士」という意味であったけれども、決して背中を向けて駒を置くことをしないルールのチェスの「ナイト」の意味もあったように思う。

彼はチェスの達人だった。

 

・・・だから。

 

彼女が僕の知らない面をたくさん持っていて・・・・雪の日にマリナがシャボン玉を空に飛ばしている理由を知った時や、初めて彼女の口から聞く「シャルル」という名前に酷くびっくりしたものだった。

 

彼女は自分の知人のことをあまり口にしない。

来訪者が多いが、彼らの氏素性についてはほとんど語らなかった。

 

誰かが来るのを待っているかのように決して転居を考えようとしないくせに、彼女は・・・いつも誰かを待っているように思った。

それは、シャルルが僕の目の前に現れるより前に、よく彼女の部屋に訪れていた癖の強い黒髪のあの人のことを思い出しているからなのだろか、と思ったが、結局随分と長い間、その人のことについては聞くことはしないままになってしまっていた。

その時の僕は余りにも幼くて、記憶が断片的でしかなかった。

 

・・・どこまで僕のことをシャルルが知っているのか不明であったけれども、僕を無視していれば良いのに、彼はいつも僕にちょっかいを出す。

そんな余裕も時間もないはずなのに。

 

あるとき、彼がカオル・ヒビキヤに預けものをした。

それを受け取った時。

僕は唸った。

赤茶色の、上等な革のケースに入った中身について・・・推測できたから。

僕に・・・彼は大変に高価な楽器を貸与してくれたのだ。

まだ、音楽活動を初めてそれほど年数が経っていない僕に。

僕は受け取れないと言った。

その価値を知っていたから。

どんなに高名な奏者であっても、それを目にすることはほとんどないと言われているくらいの名器だった。

それなのに。

カオル・ヒビキヤは僕に微笑んで、受け取れないと首を振るばかりの僕に、そのケースを押し戻した。

 

「あたしはメッセンジャーじゃないからね。あんたとシャルルのやり取りに付き合うつもりはない」

 

そうして彼女は笑った。

とても美しい微笑みで、彼女は時々・・・そうして少し寂しそうに笑う。

なぜ僕を見て、そういう微笑みをするのかわからないが、シャルルもカオルもマリナも、僕に対して懐かしそうな・・・それでいて切なさそうな瞳をすることがあった。

 

「楽器は使われてこそ息を吹き返す生き物だ。

だからアルディ家の陳列ケースに並んでいるより良いと思って、判断したことなのだから有り難く受け取れ」

 

僕は、それは無理だと言った。受け取れないと繰り返し言った。

 

人には分相応というものがあると思う。

僕には・・・・・梅華のように、大変貴重な楽器を受け入れてさらに努力しようという精神力は持ち合わせていない。

しかしカオル・ヒビキヤは首を振った。

 

「ダイ。

こう考えろ。

・・・おまえにくれてやるのではない。

貸与されたと思え。

だから、受け取れ。

・・・おまえが使うのならそれで良いと、本当の持ち主が願ったのだから。

・・・でも、受け取ったのなら。

おまえはその楽器に相応しい演奏と技術と功績を背負わなければならない」

 

そこで僕はカオル・ヒビキヤに尋ねてみることにした。

なぜ、彼が僕にそこまで関わろうとするのか。

すると。

彼女は、とても綺麗な瞳をちょっとだけ細めて僕を見た。

眩しいものを見るかのように。それでいて・・・とても嬉しそうであり、そして少し哀しそうだった。

 

「それを見つけて、ダイから彼に直接回答してやるのが、シャルルへの最高の報酬だと思うがね」

 

彼女はそれっきり・・・その話を一方的に打ち切った。

僕がその楽器を手にしなければ、マリナに怒られる、とカオルが肩を竦めるので、ようやくそれを「ほんのちょっと預かる」つもりで受け取ったのが、最初だった。

 

しかし、一度手にしたそれは僕のために創られたと言われたら信用してしまうくらい、大変に僕の手の中に馴染んで・・そして僕はそこから一段も二段も飛び越して、駆け足で音楽の階段を上っていくことになった。

 

けれども、シャルルへの礼に毎年バースデーにカードやメールを送ったが、彼はそれには一度も返信することはなかった。

そして、カオルは・・・僕の質問にはいつも唇の端を曲げて、面白そうに微笑むだけで決して堪えてくれはしなかった。

だから、僕は・・・この楽器を手放す時が。

この音の路からはずれて、もっと違う人生を歩むときが来た時に。

シャルル・ドゥ・アルディに何かしらのこたえを述べる準備が整うのだと確信した。

 

だから、カオル・ヒビキヤは少し哀しそうな顔をしたのだと・・・・

 

その路と決別するしかない、と思った時に。

理解した。

 

いつか、僕が・・・この路を進むことはなく、もっと別の人生を進んでいくのだろう、と彼女は予感していたのだ。

あっさりとした慰留であったことも頷けた。

 

考えてみれば、年齢的にはこれからというジュニア世代であったのに、僕はその先には進まないと宣言した。

ほぼ無償で僕にすべてを教えてくれたカオルの顔に泥を塗ることになりはしないかと思った。

でも。

 

・・・それなのに。

カオルは、僕の願いに耳を傾けてくれた。

 

勝手なことを言って弟子入りした。

文字通り、カオル・ヒビキヤにとっては・・・僕は最初で最後の弟子になった。

 

僕は矮小で狡賢いこどもだった。

彼女のコネクションを使って無理も言った。

それなのに、勝手に離別しようとした僕に、彼女は良いよ、と言った。

シャルルに・・・報告しなさいと言っただけだった。

 

「他人のために路を決めてはいけない」

 

この言葉を、カオルもマリナも僕に繰り返し言った。

だから僕はごめんなさいと謝罪しなかった。

そのかわりに、ありがとう、と言った。

 

人に謝るときには、その言葉が・・・「ありがとう」と言い換えることはできないかと考えろと、マリナはいつも言っていた。

だから、僕は、心を込めて、言った。

 

そして、シャルルに礼を言うために・・・僕は丁寧に楽器を調整し、磨き、そしてすっかり変色してしまった革のケースに専用の保護クリームを塗った。

 

僕の音色はリードの加工からくるところによるものが大きいと言われている。

確かに独特の製法で僕にぴったり合うように調整されたものだった。

しかし材料を用意してくれたのは、いるもシャルル・ドゥ・アルディだった。

そして、溜息が出るくらい高価な楽器を貸与してくれたのも、彼だった。

 

WEBメッセンジャーで僕の様子をいつも観察していた。

そして、マリナの雑事を処理している駄賃だ、と言ってこの楽器を貸与した。

まったく釣り合わない値段だよ、と言おうと思ったが、そういうときには彼はいつも青灰色の瞳を曇らせた。

 

「オレに値段の話をするなよ。

・・・価値と値段が違うという論争から始めたいのであれば、もっと根源的なところから議論を始めよう」

 

高い知能指数を誇り、フランスの華と呼ばれている彼と僕が議論という盤上で互角に渡り合える状況ではなかった。

僕が唇を噛むと、彼はいつも薄い唇を持ち上げて微笑んだ。

・・・遠回しに、遠慮はするな、と言われていると思った。

だから僕はそういう時にはきまって、ありがとう、と言った。

嫩葉05

 

確かに。

 

僕は、普通に暮らしていたのであれば。

生涯、関わり合いになることは決してないような人物たちと知り合うことが出来た。

それを声高に自慢するつもりもないし、これが僕の人生の付加価値なのだと思うこともなかった。

 

けれども。

 

彼らは・・・・僕の「これまで」に加えて「それから」に大きく影響していったことは否めない事実だった。

カオルやマリナはどこまでも限りがないと思っていた路に分岐点を設けてくれた。

シャルルは僕の路に広がりと奥行きを持たせてくれた。

 

それは、僕の選んだ路が「たった一つ」しかないと思わせるものではなく、もちろん、彼らが用意した路でもなかった。

 

そして・・・彼らは、幾通りもの違う路が存在すると教えてくれた。

乗った一直線の路の上を、出口の見えそうで見えない薄い晄に向かって走るのではなく・・・何種類もある出口と終着駅と通過駅があるのだと教えてくれた。

 

僕の心は軽くなり、そして「それから」を決めた。

 

理路整然とした音の譜の謎や解釈を考えるように・・・僕は、多くの人に共感してもらえる理論という名前の音楽を奏でたいと思った。

理系クラスに進学したことも影響していた。

音楽関係者は、解釈の豊かな感性を求められることから文系出身者が多いように思われているが、実は理系出身者が多い。

それは演奏会場の解釈の問題が幾何学の分析であることや、音符や音差や・・客観的な「差」というものを求められる業界だからなのだと思う。

 

・・・・その年がやって来る前のことだった。

 

年末にはすでに僕の進路の結論と結果が出ていて、我が家には穏やかな冬が訪れていた。

 

すでに学校は休みに入り、僕は毎日、学校の音楽室に入り浸った。

防音の個室があり、僕の原点に戻っていた。

小学校の音楽室で、たくさんの音楽家達の肖像を印刷したポスター達が整然と並んでいる壁を眺めていたことを思い出す。

僕は音楽教師が好んで聞くと言うカオル・ヒビキヤのCDを授業中に流してもらったことから始まったことを思い出していた。

僕が音楽を始めようと思ったのはその時だった。

友人がその筋の話に詳しかったこともあった。

少しでも彼の知っている世界を理解したくて・・随分とCDDVDも彼から借りて聞き込んだ。

そのうち、家でも大音量で聞くようになり、それを聞きつけたマリナ・イケダが、カオル・ヒビキヤは彼女の学生時代の同級生で、紹介してやることができると言った。

普段、彼女は友人の職業には口出ししない。

シャルル・ドゥ・アルディのことに関してもそうだった。彼女からは、彼とのいきさつや顛末や、どうして一緒に居るようになったのかと

自分が口出しされるのがいやだから、と彼女は言っていたけれども、もっと違う理由があったように思う。

だから僕は彼女の友人を紹介されるのは滅多にないことで・・・とても驚いた。

彼女曰く「カオルにはダイが必要だから」と言った。

どうして僕なのだろうか。

世の中には、ヴァイオリンの才能を持った人物が溢れており、僕がやりたいのはヴァイオリンではなく、オーボエが良いなと思っていた矢先だったから。

 

後で聞いたところによると、カオルは誰か人を教える立場に一度就いた方が良い、とシャルルに進められていたそうだ。

彼は医師でもあり、いろいろとカオルに助言をしているらしかったが、それらはすべてマリナを経由してのことで、彼らは、それまではほとんど滅多に逢うことはなかったのだと言う。

マリナはそれを僕に伝える時に、少し声を漏らして笑った。

「必要なのはシャルルの方なのかも知れないね」

そう言って微笑んだ。

 

そんなことを思い出しながら・・・僕はこれまでの6年間を思い出していた。

辛かったこともあったけれど、それは、今は良い経験だったと思えるようになった。

 

僕は、彼にこたえを出すときがやって来たのだと思った。

マリナは今は、ほとんどこちらには戻って来ない。

だから、マリナの部屋は僕のレッスン室に改築されていて、実際は僕の部屋になっているも同然だった。

時々戻って来ることがある。その時には僕はその部屋を明け渡す。

そして夜通し、彼女はその部屋の隅で、ひっそりと絵を描いたり・・・窓辺に座って、ぼんやりと外を眺めていたりする。

その時には、彼女はマリナ・イケダに戻るのだ。

僕はその時に本来の部屋に戻る。

そして、自分の部屋から見えるマリナの部屋の明かりを見て、どういうわけかほっとする。

 

彼女は、ここに戻ってくる度に、雑然とした自分の部屋と見違えるくらい綺麗になっている、と目を丸くして笑う。それでも懐かしいと言う。

 

僕は僕で、彼女が冬の雪空の下で、一生懸命シャボン玉を吹いていた姿を懐かしく思っていた。

まだ厚底の眼鏡をかけていた時代も知っている。

家賃や光熱費を滞納して、居留守を使っていたことも。

交通費を浮かせようとして、徒歩で都内に行って、帰って来られなかった時のことも。

スケッチに行くのと言って、近所の散歩に行く後ろ姿も。

今は懐かしい思い出だ。

 

その部屋は、シャルル・ドゥ・アルディが支払いを済ませて防音室に改装したこともあったが、誰にも貸し出しはしなかった。

「ここはいつ、誰が訪ねてきても良いように」ということから、今でも、マリナ・イケダの名前で表札がかかっている。

 

音楽の路には進まないと決めた時に、その部屋はこれほど狭かったのだろうか、とふと気がついたことがあった。

それまで毎日そこで過ごしていたのに。

空気の入れ換えのために、窓を開けて、雪の降りそうな空を見上げたとき。

・・・僕は、自分自身が成長して目線が変わったのだということを実感した。

そして、あの狭い部屋の中で、マリナが何を思っていたのかをよく考えた。

 

マリナにとっては、この空間はお城のような場所だったに違いない。

若くして自活を始めて、彼女はいろいろなことを経験して大人になった。

今の僕の年齢の時には・・・彼女は長らく留守にしていたときがあった。

そして、ある冬の日に、ひょっこり戻って来た。

「帰る場所があるって良いね」

彼女はそう言って、空を眺めることが、それ以来多くなったように思う。

まだ僕はその時に小さくて、彼女の言っている意味もわかっていなかったし、記憶もおぼろげである部分が多かったが。

その時に、帰りたくても帰れない人のことを思って、空を見上げていたのかもしれないと、今になって想像がついた。

 

マリナ。

僕はマリナとずっと一緒に育ってきたようなものだけれど。

僕はマリナのことをほとんど何も知らないよ。

でも、貴女は僕のことをよく知っているから。

だから、この部屋を僕に託してくれたのかな、と思うことにする。


D-side 嫩葉 後編

嫩葉06

 

・・・・・・好意だけでは済まされない様々な厚遇について。

僕はいつかきちんとシャルルに礼を言わなければならないと思っていた。

 

彼は大変に多忙を極める人物で、アポイントを取っても、三ヶ月後、半年後、といった風にかなり待たされることで有名だった。

 

その彼が、時間に余裕がないのに、些事で来日する。

僕の演奏会であったり、夏の甲府での休暇だったり・・・

この時間を捻出するのに、一体どれだけの労力をかけているのだろうかと思う。

 

だから。

僕はある計画を実行することにした。

 

年が明けて、本格的に一日中自習時間になる期間にさしかかってきたとき。

 

僕は、これまで家の手伝いをすることによって得た小遣いと、春の新しい備えのための祝いの総額に少しばかり親に借金をして足してもらった旅費で、フランスのパリに行くことにした。

卒業旅行にしては豪奢だった。

 

そしてこの先・・・僕はきっと「普通の」人生は歩まないのだろうと確信していた。

そのことについては、大変に申し訳ないと思った。

僕の家族は、自分の身内で僕のような変わり者が・・・そういう者が出ることに慣れていない、善良な人達だった。

若いうちは良いだろう。

でも、年齢を重ねるにつれて、彼らは戸惑うと思った。

大学を出て大学院に行き、そして就職して、配偶者と一緒になって孫の顔を見せに週末の時間をやりくりする。

そういう一生を贈ることが出来ないのではないのかなと思っていた。

 

だから、誰もが浮かれがちな状況ではあったけれども。

僕はただひたすら、一足先に訪れた春に浮かれていることに没頭することができなかった。

 

・・その点で言えば、僕はシャルルやカオルやマリナととても近い人間なのだと思う。

それが少し誇らしかったけれども、その一方で、家族には・・・大変に申し訳ないと思っていた。

息子が・・弟が、世間一般の人生と違う路を進んだと思い知るときが、いつか来るだろう。

たぶん、将来は・・この国で暮らすこともないのかもしれない。

 

その時に。

これは僕の選択であり、誰かに・・・特に僕の家族には、僕がそう決めたことに対して理解して欲しいと勝手なことを思う一方で、彼らに、僕がそういう価値観を持つのはマリナに感化されたからだ、と思って欲しくなかった。

 

彼女が居たから。

そしてシャルル・ドゥ・アルディが居たから。

 

僕は僕の路を決められたのだから。

 

そして、僕は、あの日の近くにパリを訪れることにした。

計算と綿密な調査の上のことだった。

未成年のひとり旅を心配する親には、カオル・ヒビキヤとパリで合流することになっていると言った。

これは本当のことだった。

彼女は心臓に持病があり、シャルルに定期的に診察してもらっている。

僕が合格の報告とともに、パリに行ってシャルルに会ってきたいと相談すると、彼女は少し考えてから・・・小さく笑って、不敵な微笑みをうかべた。

僕の偉大なる師は、大変に悪戯好きな人だった。

僕たちは、まるでこどもが親の目をくぐり抜けて廃墟を探検する算段を整えるかのように、夢中になって計画を練った。

ひとこと、彼女が僕の保護者に演奏旅行に連れて行くと言えば済むだけの話なのだけれども、それではダイのためにならない、と彼女は言って、僕が渡仏するための準備については何も口出しをしなかった。

 

僕も、彼女の財力に縋ってパリに渡ることも考えて居なかったし、治安の面も考えて、ツアーに申し込むことにした。

自由行動の時間が多く、それでいて手続きなどはしっかりしているところを選んだ。

その時期にパリのアルディ邸には、シャルルとマリナが滞在していることもきちんと確認していた。

 

僕は、彼の所有物の楽器を持っていたので、シャルルに関する情報を取得するにはなんら支障のない立場に居たことをその時に実感する。

僕が貸与されていた楽器は特殊な金属や樹脂を使っている部分があり、これは日本では代替品は手に入れることが難しかった。

けれども、定期的に・・・僕の様子を見はからっているかのように、いつもそれらは僕宛に送られてきていた。

シャルルが凄いと思うところは、そういうところだった。

一回限りの幸運や奇蹟を起こすことが出来る人はたくさん居る。

でも、それを継続させることができる人は大変に少ない。

つまり、僕に楽器を貸し与えてやろうと思いつき実行するのは簡単なことだけれど、その先にあるメンテナンスの問題について考えが及ぶのは、僕の知る大人の範囲では、シャルルぐらいしか思いつかなかった。

日本を発つ前に・・・最後の調整をする時に。

僕宛に、移動中の震動を防ぐ特殊ケースが送られて来た。

・・・カオルが手配してくれたのだろうか。いや、違っていた。

シャルルからだった。

そして、それには連絡先と、アルディ邸の受付時間と・・・何もかもを見透かしたようなシャルルの手配準備に僕は悔しくなってしまった。驚かそうと思ったのに。

それなのに、彼はいつも僕の先を行く。

 

それは知能指数が高いからだけではなく、シャルルが僕よりずっと・・・ずっと大人だからなのだと思った。

 

僕はパリに行った。

まだ卒業もしていないうちから旅行に行くというのは大変に贅沢なことだった。

姉も同行したいと言ったけれど、学校の試験があり、彼女は大変に不満を漏らしていた。

 

僕は苦笑して、家族にお土産を買ってくることを約束した。

あれこれ忘れ物はないのか、と僕のあまりの軽装に家族が世話を焼くので、とうとう、僕は防音室に籠もって支度を済ませてしまうことにした。

空港までの手続きも見送りも必要ないと断った。

ひとりで行かなければ、きっと泣きそうになるから。

 

道中は終始快適だった。

ツアーと言っても航空券を確保するための募集であるので、搭乗と降機で名前をチェックされる以外には、何も煩わしいことはなかった。

機内では退屈しのぎに音楽を聞こうとして、クラシックチャンネルを自然に選んでいた僕は指先を伸ばすのをやめて、そしてくすりと声を漏らして笑った。

身についてしまっていた習慣というものは恐ろしいなと思った。

軽く目を瞑って・・・貸し出された毛布にくるまっていると、まるで、マリナの部屋で薄い毛布に身を包んで彼女のスケッチブックをこっそり眺めたことを思い出す。

彼女はまだ・・・日本のあの部屋ではシャルルの絵を描いていないのだろうか。

パリでは描けているのだろうか。

 

そして、僕は、彼女と一緒に過ごしてきて久しいのに、マリナのパリでの生活をまったく知らないことにも少しばかり臆していた。

だから日本の土産をマリナに持っていこうと思ったけれども、それの予定は不採用にした。

不便があれば彼女は何か言ってくるだろう。

それに・・僕とマリナは家族のような付き合いをしているが、彼女には家族がちゃんと居る。

 

シャルルは、今回のことを予測しているようだった。

僕は日本を発つ際に、メールを入れておいたのを彼が読んでくれたのだろうと思った。

ケースの礼を述べてあるだけだったけれど、必要ないものだとか、どうやって使うのかといったような内容は記載していなかった。

彼女にも渡仏を伝えていないし、シャルルはおそらく・・・マリナに何も言っていないのだろうと予測していた。

 

彼女はパリでの生活について、日本ではまったく話をしなかった。

逆に、日本で何をしているのか、パリではまったく話をしないのだろうな、と予想している。

 

そして僕はこの旅から帰ってきたら・・・肌身離さず持ち歩いていた、長年一緒に過ごしてきた楽器ケースが傍にない生活に入る。

 

パリについて、ホテルでチェックインを済ませる。

交通の便が良い場所に位置している、単身旅行者でも安心して泊まれるホテルだった。

でも荷物を置いて一息つくこともなく、僕はすぐに出発した。

大変に冷え込む冬で、もっと着込んで来れば良かったかな、と思ったくらい寒かった。

 

雪になるらしい、と誰かが言っていた。

僕は外に出ると、異国の街並みに歓声を上げるより前に・・・空を見上げた。

空気が乾燥しており、日本で感じる降雪の前の湿り気を帯びた冷たい風ではなかった。

どこをどう感じて雪になるのだろうか。でも、確かに、いつ雪が降ってもおかしくないくらいの空模様で、そして大変に寒かった。

シャルルが特殊ケースを寄越してくれなかったら、寒暖の差で、足部管がいたんでしまったかもしれない。

 

マリナは、この空を見て生活しているのだろうか。

 

そして僕は、アルディ邸に初めて足を踏み入れることになった。

彼が大変な資産家であり、由緒正しい家柄の人物でありながら、親日家としても有名で、日本とフランスを結ぶ重要な人物であるということは、認識していたけれども。

 

・・・いつも運転手付きの車で来ていたし、彼が日本で宿泊しているホテルに遊びに行ったこともある。

夏には甲府のダンジョウ家で幾日かを一緒に過ごす。

着ているものだって僕の知らないブランドの高そうなものばかりを身につけていた。

でも、それがシャルル・ドゥ・アルディであると思っていたし、生活環境が違うからと言って彼と僕との間や、僕の家族の日々の生活が変化するわけでもなかった。彼は僕にとっては「ちょっと風変わりなガイジン」であった。

 

それなのに。

僕は唖然としてその建物を見つめていた。

パリの16区はそれほど広い区画ではないと聞いていた。

この広い土地は一体どういうことなのだろうか。

最新の設備に、制服を着た警備の人達。

・・まるでお城だな、と思った。

シャルルのためだけに存在するような、場所であったけれども、とても寒かった。

内邸は居住空間であるとのことなので、これほど寒々と感じることはないのだろうけれども。

今は客棟は縮小されていて、人の出入りは多くないとカオルから聞いていた。

シャルルは仕事とプライベートを完全に切り分けているようだった。

それでも寒い冬の日だというのに、これほどの人達がフロアで手続きを済ませている。

 

・・・こんな場所に長い間ひとりで・・・・シャルルは寂しくなかったのだろうか。

 

僕の年の頃では、すでに現在の総合研究所の前身である国立病理研究所の所長に就任していたという。そして彼の数奇な人生は、めまぐるしい流転と激流を終結させることもなく、シャルルをアルディ家の当主に今一度据え置いた。

 

・・・彼がシャルル・ドゥ・アルディというフランスの要人であるということをあまり僕が考えないのは、彼がこれまでに起こった彼の経験を、あまり多くは話さないからなのだろうと思った。

 

僕は溜息をついた。

僕は彼のプライベートしか知らない。

仕事でよく日本に来ているようだったけれど、何のために何をしているのか知らなかった。

マリナもシャルルの事を多く話さない。

それなのに、僕は、彼と一緒に仕事をしたいという大それた夢を持ってしまった。

こんなに凄い人の周囲にいる人達は、僕の知らない世界の人達だった。

彼が効率よく仕事ができるように、各国から優秀な人材を集めていることだろう。

 

シャルル・ドゥ・アルディは一人しか居ない。

それなのに、彼は様々な面で常人では達成できないことを次々に開発している。

彼は・・・一体どこに行き着きたいのだろうか。

 


 

嫩葉07

 

・・・・その特殊保護のケースの底には、アルディ家が独自に採番したと思われるシリアルナンバーが打刻されており、この番号と僕の氏名をアルディ家の入り口で伝えると、その他大勢の者が面会やアポイントの申し込みを求めて列を成している外客棟で順番を待つことなく、アルディ邸の本邸に入れる仕組みになっていた。

まるで僕が来訪することを待っていたかのような、そんなごく自然の手配だったので、大変に目を丸くした。

 

別世界の出来事のようであった。

十数時間前までは、僕はフランス語が話せないのに会話が通じるかどうか、どの交通手段を使ったらアルディ家まで迷わずたどり着くことが出来るだろうかなど・・・つまらないことで頭を悩めていたというのに。

唖然として大きな建物を見上げて、高い天井を見回して首を捻りそうになって・・・それでも僕は彼が大変に・・大変に住まう世界が違う人間なのだということを知った。

 

これだけの人がいるのに。そして、空調は完備されているというのに。

・・・僕は身体が冷えているのを感じた。

そうだ。彼はこれだけの人たちに頼られている。けれども。彼でなくてはならないことなのだろうか。

彼が処理するのが一番早くて的確だから。

彼なら何とかしてくれるから。

神様への願い事めいたことを面謁申請書に記入している人がほとんどなのではなかろうか。

・・・何となく、彼が孤独であることを感じていたけれども。

アルディ家の当主、とか。フランスの華、とか。

そう呼ばれているシャルル自身を、本当に必要としている人はいったいどれだけいるのだろうかと思った。

 

だからちょっと哀しくなった。

彼が・・・日本で見せる姿というのは、ここでは見ることが出来ないのだろうと思った。

そんな場所に足を踏み入れてしまって・・・僕は、本当は何をしたかったのだろうかと考え始めていた。

 

マリナがどうして・・・パリに遊びに行こうと誘うことはあっても、アルディ邸においで、と言わないのか理由が少しだけわかったような気がした。

カオルがどうして・・・僕と往路から随行しないのかがわかった。彼女たちは知っているからだ。アルディ家の当主の仕事をしているときのシャルルというのは、日本で僕と会話をしている彼とは違う面を持っているのだということに。

 

僕は日本語と僅かな英語しか使えなかったけれど、応対してくれた係の人は、とても丁寧に僕を扱ってくれた。そして僕は外客棟を通り越して、本邸に入っていく時には、幾人もの係の人が交替して僕を先導した。彼らが入ることの出来る場所というのは、厳格に管理されているらしい。

そんな中を、マリナはいつもひとりでふらりと出て行くのか。

僕は呆れてしまっていた。

 

・・・彼女の豪胆さにはいつも頭が痛いものだと思っていたけれども、これほど厳重な保守警備の中で暮らしているのだとは知らなかった。

 

おそらく、シャルルの取り計らいがなければ、僕は何時間も・・いや、ひょっとすると何日も待たされてしまったのだろうと思った。

 

僕はとても幸運で、今日は当主が在邸している、と聞いた。

日中にはほとんど姿を見せないアルディ家の当主は、今日は昼過ぎから戻っている、と言っていた。

朝が苦手なシャルルが、昼までに用事を済ませて戻ってくるということはできないと思って、僕は苦笑いをした。

僕にもシャルルにも等しい時間しか配分されていない、と良く思うけれども。

シャルルは、時間がないときには何をするのかということ、最初に睡眠を削る。

彼は脳を酷使するので、睡眠時間を多く取らなければ負荷が大きくかかってしまう。

しかし休めることを放棄する。

そして、食事時間などの生活時間を極限まで削る。

マリナと違ってきれい好きだから、シャワーぐらいは入るだろうが。

彼が来日するときはいつも決まって不機嫌そうだった。

時間を捻出するために、寝不足と過労が続くからだ。

それほど忙しいのなら来なければ良いのに、と僕が口を尖らせて不満を言った時にだけ、マリナに窘められた。

 

今になって、大きくなってから理解した。

彼がどれほど・・・日本で過ごす時間を大事にしているのか、必要としているのかということを。

 

かなり歩いたような気もしていたし、それほど遠い道のりではなかったのかもしれない。

初めて訪れる屋敷の荘厳さにただただ驚いていたが、いきなり視界が開けて・・・僕は応接室に通されたのだと知った。

そこから先は、自由に過ごすようにと言われて僕は面食らった。日本語が通じるからだ。

驚いた僕に、係の人は当然ですと言って微笑んだ。シャルルがある時期から日本語でしか話をしなくなってしまったので、日本語を話せる者を採用するか、語学を習得してもなお雇用を継続したい者だけが残った結果が現在だ、と言った。呆れてしまった。シャルルの一言で、この邸はすべての者が動くのだ。

おそらく・・・彼が今でもそれを徹底しているのであれば、それは、マリナがここに滞在しているからという理由なのだろう。

彼女はフランス語が得意ではない。いや、まったくわからないに近い。

 

彼女のためにすべてを変えたのだ。

でも彼は自分がアルディ家を捨てられないから。

シャルルに不可能はない。

やろうと思ってできないことはほとんどないだろう。

だから日本に居る時とあまり大差ないように、彼は言語を整備した。

もっと目に見えない様々なことも整えてあるのだろうと思った。

彼ならやるだろう。先まで見える人だから。

僕に貸与した楽器の消耗や摩耗を計算してメンテナンスの予定を立てることができるくらいなのだから。

 

それなのに。

 

・・・・彼はとても不器用な人だから

 

マリナが僕を窘めたときに、そう言った言葉を思い出した。

シャルルが不器用なんてことはあり得ないだろ、と僕は笑ったけれど。

マリナはそれを聞いて、そうなのだけれどもね、と哀しそうに微笑んだ。

 

ごめんよ、マリナ。

 

僕は心の中でそう呟いた。

彼女がシャルルと一緒に居るのに。

それでもシャルルはいつも何かに憂えている。

手放しの幸せというものを信頼していないようだった。

嫩葉08

 

どこまでが本邸と呼ばれているところなのかは定かではなかった。

とにかく何もかもの規模が違い、僕の住んでいるアパートや地区ではとうてい考えられない空間だった。

応接間に通されて、僕はそこに座ることすら出来なかった。

しばらく待つように言われているが、邸内は自由にして良いと言われて、庭を少し散歩してくると言った。

散歩どころではない。隅々まで歩いたら、大変な距離になるだろうと思われた。

そして、どこからどこまでが彼の発言が影響する範囲・・・つまり、アルディ邸の占有地なのだろうかと考えるだけで、背筋が寒くなる。

ここに住まうということがどれほどのことなのか、マリナだってわからないわけではない。

 

それなのに。

それなのに・・・・

 

僕は暖房でぼんやりした頭を切り換えようと思った。

硝子扉を開けて内庭を通り、白い小石を敷き詰めた小道を歩いて行くと、やがて大きな庭に出た。

寒い季節だというのに、立派な彫像を備えた噴水が勢いよく水を放出していた。

手入れの行き届いた庭からは、冬だというのに、薔薇の香りがした。

 

僕は荷物は持ったままで・・・・そして空を見上げる。

僕の知らないフランスの空だ。

雪が降りそうで降らない。

そんな天気であったけれども。

・・・なんだか視界がぼやけてきそうだった。

姉を連れて来なくて良かったと思った。きっと卒倒するだろう。

いや、それよりも。

もし姉が一緒だったら。

・・・僕のこの表情を見られるのが辛かった。

 

僕の声は掠れていた。

深い溜息を漏らす。

頬に冷たい空気があたった。

寒いと言うより痛みを感じるような冷たさだった。空気が冷え切っているからだ。

風寒を浴びて、僕は肩を竦めた。

 

僕は誰に祈りを捧げるでもないのに、ぽつりと声を漏らして言った。

この家で彼が安らげるのであればそれで良い。でも。

マリナやカオルの知らない・・・一日のうちの大半以上の時間の「職務従事中のシャルル・ドゥ・アルディ」である時間でさえも、彼が穏やかで居られるように。

 

「・・・シャルルを笑わせてやってくれ」

僕は薔薇の香りのする冷たい風に声を乗せて祈った。

 

すると。

その声に呼応するかのように、空で何かがきらりと光ったことに気がついた。

雪が降りそうな空で陽光は遮られているというのに。

僕は目を細めた。

今、僕が立っている場所から遠く離れた・・・噴水も丘も越えた本邸のひときわ大きなバルコニーから・・・・寒空に乗って、きらきらと輝く球体が見えて僕は声を漏らした。

 

「・・・シャボン玉だ!」

 

そこにはマリナが居るのだろうと確信した。

重厚な手摺りが邪魔をして、ここからでは、階上のバルコニーの人物の姿は見えなかった。

 

彼女は、ここでも鎮魂を願っているのだろうか。

シャルルの誕生日に彼女が寒い冬の空の下で何をしていたのか、僕は知っている。

家族に恵まれないシャルルのために。シャルルの両親やすでに居ない人達のために。

彼女なりの方法で、祈祷している様を見て・・・・

まだ、続けていたのか。

 

開扉の音がして、近くの庭の硝子扉が開き、邸内に外気を取り込む。

僕はそちらの方を向いて、顔を持ち上げた。

 

彼は周囲の者に、ひとことふたこと何かを指示し、そのうちのひとつの言葉によって人払いをした上で・・ゆっくりとこちらに歩いてきた。

彼に追従していた者達が彼の指示によって離れていくが、遠くからでもその人物が誰であるか、すぐにわかった。

白金の髪は、陽光の射さないこんな曇天でもなお、輝いて眩しい。

整った顔に、鍛えられた鋼のような体躯、高い腰位置から伸ばされる長い脚に、広い肩幅。

手には何も持っていなかった。

歩き方も揺るぎなく、慣れた道のりを歩いて来る彼は、この家の主だった。

両手をあけたままでごく自然に歩ける人物というのは、シャルルのような環境で生きている人達だけだろう。

僕は持っていたケースを軽く持ち直した。僕のすべてが詰まったそれは、マリナの持ち歩いている鞄よりずっと小さかったけれども、それでも僕のこれまでがぎっしりと詰まっている。

人が背負い込んだものの重さをふと感じるときには・・・きっと、自分の詰め込んだものについて、再認識するときなのだろうと思った。

 

彼は両手に何も持っていないのに。それでも、彼が背負っているものはなんて大きいのだろうと思った。

 

彼はああして・・・確か、ああして、彼女を迎えに来た日の事を思い出していた。

着ているものも違うし、その頃と少し髪型も違っているし、何より年月が経過しているのに。

シャルルは、あの頃のままの若々しい足取りで僕に近寄った。

 

「・・・ダイ」

「やあ、シャルル」

 

良く来てくれたね、とか。ひとりで来たのか、とか。

彼はそういったことを一切尋ねなかった。僕も同じようにした。

シャルルにとっては想定済みのことであり、そこに至る過程は彼には興味の無いことであったようだ。

 

「・・・・借りていたものを返しに来た」

 

僕がそう言うと、彼は青灰色の瞳をちらりと、僕の提げて居たケースに遣って、次にふわりと端正な顔を綻ばせて、綺麗な笑顔を作った。

 

どうして、彼が人払いをしたのかわかっていた。

ここでのシャルル・ドゥ・アルディを知って僕が驚くといけないと判断したからだ。

だから僕の知らない人を傍に寄せるのを避けて、彼はひとりでこちらに歩いてきたのだと知る。

 

「そうか」

シャルルは短くそう答えただけだった。

 

「それから、これまで過分な好意を当然のように享受していたけれども、いつも有り難いと思っていたよ。シャルルは・・・僕がシャルルに対して何か負い目を感じるのだと思って、わざと距離を置いていたことも知ってた。でもちゃんと言うことは出来なかった」

僕はそこで言葉を切った。

 

ごめんなさい、と謝罪するより、もっと違う言葉があるでしょう?

 

マリナにいつもそう言われていたことを思いだした。

シャボン玉の舞うアルディ邸の庭先で・・・僕は、シャルルにそっと言った。

下を向いてはいけないと思った。

顔を上げて・・・成長して、シャルルとあまり身長差がなくなった僕はシャルルの青灰色の綺麗な瞳をじっと見つめてから、やがてひとつひとつの音に心を込めて言った。

 

「シャルル・・・ありがとう」

 

 

 

嫩葉09

 

彼は薄い唇の端を持ち上げて、流暢な日本語で言った。

「我が家の保管品のうち、使用しないと価値が低減するものについて、効率よく保守しただけだ」

楽器は使っても劣化するが、使わないとさらに劣化する。

手入れをし、本来の目的である音を出すということを怠らずに行ってこそ、最高の状態に保つことが出来る。

毎日、一日のうちの大半をこの楽器に触れている僕であれば、きっと、ここで眠らせておくよりかはましな状態になるだろう、と彼が遠回しに言ったのだ。

だから、礼を言うには及ばない、と。

 

シャルル・ドゥ・アルディは本当に不器用な人だ。

マリナの言うとおりだった。

 

聞いているとは思ったけれど、僕は自分の口から彼に今後のことを報告した。

 

「・・・春から、僕は日本ではまだ数少ない分野の学部に進むことにした。

大学院にも行くことになると思う。

だから、まだ、ずっと先のことであるけれども・・・・」

 

僕の長い前置きにシャルルは冷笑した。

彼はいつも結論がすぐにわかってしまうので、長い話をすることを好まない。

 

「就職の相談は受けかねるな。縁故採用はしていないのでね。

・・・・フランス語で日常会話以上の専門用語まで話せるようになっていることと、論文をいくつか提出して学会発表をしていることが最低条件だ。

・・・研究所に欠員があれば募集がかかるだろう。

いくら所長でも・・・独断と偏見で入所させることはできないからな」

 

「日本の制度では、いろんなことを飛び越えてシャルルに追いつくことができない。

でも、僕はきっと追いつくから」

シャルルの持っているいくつもの称号と並ぶことは出来ないかもしれない。

でも、彼の傍で・・・・

 

楽器と同じように。

一日のうちの大半を彼と過ごし、彼の仕事の面もそうでない部分もすべて・・・すべて知る人物になりたかった。

マリナは彼の就業中の顔を知らない。僕は彼が日本に居る時しか知らなかった。

でも。

彼の孤独を引き受ける人がマリナだとしたら。

彼の全部を見て、彼の業務を引き受ける人のひとりに僕はなりたいと思った。

僕はシャルルよりずっと年下で、マリナとシャルルの関係を知っている。

そういう立場の人間が、仕事の面でパートナーになれるかというと、それは難しかった。シャルルの従妹が秘書をしているそうだけれども、彼女は僕とシャルルとの関係に立ち入らなかった。彼女のことについては、必要最小限の情報しか知らない。

 

でも。

 

僕の叫びにシャルルは耳を傾けた。

あの雪の日に。

彼はマリナを泣かせるなと言った僕の言葉を無視すれば良いのに、振り返って微笑んだ。

 

そしてマリナは彼の誕生日にはああしてシャボン玉を浮かせる。

彼を想って。

彼だけを想って。

 

それなら。

僕は、一体どうすれば良いのだろう。

 

カオルが言っていた、僕のこたえとは・・・どうすれば良いのだろう。

 

ダイはシャルルの希望がいっぱい詰まっている

 

マリナがそう言った。

カオルもそう言っていた。

 

意味がわからなかった。

彼に叶えられない希望があるのだろうか。

 

彼は何でもできるのに。

何でも持っているのに。

 

僕の一番欲しいものを持っているのに。

僕が出来ないことをすることができるのに。

 

・・・マリナを笑わせることが出来るのに。

 

目の前に、寒空の下なのに、僕の言葉を待っているシャルル・ドゥ・アルディに向かって、一番適切な言葉が思い浮かばなかった。

彼が僕を見守っていてくれたから、今の僕がある。

今度は、シャルルを見守る役割を僕にもちょっとだけわけてもらえないかと申し出たら、彼は否定しなかった。

 

だから、僕はシャルルに対して回答するこたえを発する準備が整っているのだと思った。解が出ているのに。

僕は、シャルルに回答することができていない。

 

どうして、彼が僕に対してそれほどまでに・・・哀しそうな顔をしたり、関わろうとしたりするのか。

どうして、日本に居る時のマリナのことを託そうとするのか。

 

それなのに、どうして・・・僕の目の前で彼女にキスをするのか。

 

シャルルは、こたえを待っている。

僕の中に詰まっているものを解放するために。

彼が僕の中に詰め込んでしまったと思っている何かについて、彼が憂えている。

 

僕は・・・さっきよりもっと小さな声で言った。

でもはっきりと言った。

僕に遺された音は、もう、これしか残っていなかった。

 

黙ったままの彼の顔を見つめながら、言った。

間違っていても良い。

この言葉を彼が嘲笑しても良い。

でも。

今、輪郭を淡くして消え入りそうなほど、美しい男性を目の前にして・・・

僕は僕とシャルルのこれまでをこの一言に託すことにした。

 

「シャルル・・・大丈夫?」

その時。

シャルルが綺麗な唇を僅かに開いて・・・そして青灰色の瞳を大きく見開いた。

息を呑む彼の呼気が、次にゆっくりと吐き出されて・・・白い衣を纏って空に浮かぶ。

まるで、マリナの浮かべている球体のように、それはすぐに淡くなり、大気に溶けていった。

これほど寒いことに加えて、風が少し出ているので、シャボン玉は長くその姿を留めておくことが出来ない。

それでも彼女は無数の魂を空に流す。

 

シャルルは僕の来邸を予定して、朝から僕を待っていた。

昼からではない。朝から。正確には前日の晩から。

・・・彼は寝ないで僕を待っていたのだ。

 

「ダイは・・・ダイは彼に良く似ているよ」

シャルルが僕の顔をじっと見つめながら、ようやく、それだけ言った。

目が潤んでいて・・彼は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

嫩葉10

 

そこで僕はようやくわかったのだ。

カオルやマリナやシャルルが・・・僕を通して誰を見ていたのか。何を見ていたのか。

あの癖の強い黒髪の人への想いを、彼らは秘めたるものにして、それを僕に詰めて託した。

 

僕の年齢は、彼とシャルルとマリナとカオルが過ごしたあの時代に到達していた。

決して彼らが僕に詳しく話をしないあの時代。

カオル・ヒビキヤが病気療養として一時期再開していた音楽活動を途中で中断してしまっていた時代。

 

彼は僕を見ると思い出すのだろうか。

僕に願いを込めているのだろうか。

あの時代を後悔していないと思うけれど・・・もっと違った路もあったのかもしれないと僕を見て思うのだろうか。

 

シャルルが、どうして僕に関わろうとしているのか少しだけ理解した。

 

・・・僕からマリナを取り上げたとシャルルが思っているから。

あの人から、マリナを取り上げたとシャルルが思っているから。

 

だから、僕に少し哀しそうな瞳を向けていたのだと、気がついた。

 

それまでは幼すぎて気がつかなかった。

みんなが・・・各々にどうしても諦めきれない、秘めたる想いを持っていて、大人になっても、それを諦めきれないのだということに。

 

でも僕は同じくらいの年齢になったから。

でも僕は同じ気持ちを持つようになったから。

 

そして僕が言った言葉はシャルルを激しく動揺させた。

彼が僕に込めた願いがとても勝手なものなのだとシャルルは思っているように感じた。

憬れとか遠い日の記憶とか。

回顧という表現では足りない様々な思いを・・・

 

「ダイは・・・彼に良く似ている。顔容ではなく、自分の気持ちより相手を優先させて尋ねるところが、特に」

 

彼は長い話を好まないのに、そっと吐き出すように一気に語った。

白い頬を紅潮させていた。

 

「君はオレにないものを持っている。そしてとても健全だ。

・・・オレが君の年齢の時には決してそうではなかった。ダイになりたいとは思わない。

けれども、ダイと一緒に居ると・・・ほんの少しだけ、オレは赦されたのかな、と思う」

彼は、最後の言葉は、全部補足しなかった。

シャルルが僕とマリナと一緒に過ごすことで・・・どんなときも彼を理解し信頼していた人を思い出しているのだとわかった。

 

あの人が居て。

マリナが居て。

シャルルが居て・・・カオルが居た時代なのだろうと思った。

 

僕があの人の代わりじゃないことはわかっている。

マリナの恋の相手でもあったあの人のかわりはできない。

マリナはそういう視線で僕を見ない。

 

・・・代わりでも良かったのに。

 

マリナとカオルから奪ってしまったあの人との時間を、再現しているのだと思った。

僕は代わりじゃない。あの人の代わりには、誰もなれない。

でも、穏やかで、平凡で、ささやかで・・・それでも相手の健康と幸せを願い、何かしてやりたいと強く思う・・・そんな気持ちをもう一度持ちたかったのだと思った。

 

「ダイはオレ達の・・オレの若葉なんだよ」

彼がぽつりとそう言った。

目線をはずして、彼は宙に遠く舞うシャボン玉を見つめて、それから、マリナは飽きないなと言って笑った。

でも、少し嬉しそうだった。

 

こんな寒い日の空の下なのに。

シャルルは若芽の話をした。

僕が若葉だという。

何もかもが凍て付くような寒い空気の中で、彼の唇だけが赤くて・・・生命の息吹を連想させた。

少し肩を竦めて空を見上げる白金の髪の人は、いつもの・・僕の知るシャルル・ドゥ・アルディだった。

広大な敷地と立派な屋敷の持ち主は、自分の睡眠時間を削ってまで日本にやって来る。

いつもの・・・不機嫌そうなシャルルの顔を見て、どうして彼はそんなに不機嫌なのだろうと思っていたことを思い出した。

そして、彼は滅多なことがない限り、彼女の部屋に入らなかった。

どうしてなのか。

あの人と過ごしたマリナがその部屋に拘り続けるからだと思っていた。

でもそれは少し違うのだと知る。

 

僕が居るから。

僕が小さい時にはマリナの部屋に入り浸っていたことを彼は知っていたから。

自分が尋ねていくことで、僕が遠慮するからと思ったのだ。

マリナがシャルル以外の人と過ごした時間を、奪ってはいけないと思っていたから。

・・・彼はあの部屋に出資をして、防音装置を備えた僕の空間を作りつつ、マリナがいつ訪れても良いようにしたのだとわかった。

 

大人なのかこどもなのか、わからないよ・・・

 

かつて、マリナに感じた言葉を反芻させた。

シャルルは不器用だ。どうして、こんなに不器用なんだ。

何でもできるのに。何でも持っているのに。

マリナも居るのに。

 

僕は唇をぎゅっと強く噛んだ。寒さで、唇の感覚がよくわからない。

けれども、唇を噛みしめて頬を持ち上げて、眉をしかめなければ・・・・泣いてしまいそうだった。姉も家族も連れてきていないのに。泣いてしまいそうになった。

 

良く通る魅惑的な声で、彼は歌うように囀るように言った。

「芽吹くのを楽しみにしている。成長するのを待ち遠しいと思う。

・・・家族でもないのに。

肉親でもないのに。

君が息災で居ることが何より嬉しい。

マリナと誰よりも長い時間を過ごした君の泣き顔がちらつくと・・・彼女を幸せにしてやりたいと強く思う」


嫩葉11

 

「シャルルが気兼ねしている限りは・・・まだまだ彼女はああやってシャルルの誕生日にシャボン玉をこっそり吹かすのをやめはしないよ」

僕は静かにそう言った。

顎を僅かに上げてアルディ邸から舞い上がる稚拙な虹色の球体を眺める。

休むことなくそれはアルディ邸のバルコニーから空に高く・・・昇って消えて行った。

 

僕とあの人はあまり似ていない。

けれどもシャルルが似ていると言うのは・・・もっと違うところなのだろうと思った。

誰かを想って自分のことより他者を優先させる人なのだろうな、と想像する。

そして、誰よりも・・・シャルルのことを理解していたのだろう。

 

もうすぐ・・・間もなく彼はひとつ年齢を重ねる。

その都度、彼は様々なことを想うのだろう。

 

「本当に、本当の意味で、マリナを幸せにしてやってくれよ。

・・・あいつは笑っている顔が一番だ」

僕がそう言うと、彼は微笑んだ。うっとりするくらい綺麗な微笑みだった。

「そうだな」

 

けれども、彼はきっと・・・ずっとそのことを考え続けるのだと思った。

 

もう、大人なのだから。

自分の幸せのことだけを考えるわけにはいかないのかも知れない。

 

でも、もう大人なのだから。

自分とマリナの幸せのことだけを、そろそろ考えても良いのではないだろうか。

 

「随分と素直だね、シャルル」

彼はちょっと瞳を見開いた。

そして白金の前髪の下から、青灰色の物憂げな瞳で僕を軽く睨んだ。

「睡眠不足と疲労が影響しているのかな」

曖昧な表現は避ける傾向にあるシャルル・ドゥ・アルディが、そう言ったので、僕は苦笑いをした。

 

僕はケースを差し出した。

「これは返却する。でも、手入れする人が必要だから、時々・・・誰かの手入れが必要だ」

「それならダイが持っていろ。これまでと同じように」

僕は首を横に振った。

「いつか、パリで暮らすようになったらそうする。それまでは・・シャルルが管理して」

 

それを聞くと、彼は不敵に笑った。

彼は僕に、随分と壮大な夢物語だね、と言った。

僕は笑った。

 

「マリナにフランス語を教える人が必要だ。・・シャルル、いつまで彼女を甘やかすんだよ」

「甘やかしているつもりはない」

シャルルが否定したが僕は言って遣った。彼に意見できる人なんて、そう多くはない。

特に、この邸内では。

 

「それに、睡眠不足だとか疲労しているとか言って・・・どうせ、ひとりで何でも解決しようとしているからだろ。

息抜きに日本に来るのは構わないが。

仏頂面のシャルルばかり見ている僕としては、ここで口うるさく言って、シャルルを少しは休息させろと言ってそれが通るくらいの権限を持って、シャルルに小言を言う役割を引き受けた方が精神衛生上良いというものだよ」

 

「煩い小姑だな」

「そうだよ」

僕はあっさりと認めた。

そしてたっぷりの皮肉を込めて言ってやる。

僕がどれだけ、マリナに口うるさくあれこれ言ってきたのか、シャルルは知らないんだ。

そんな言葉を言われても、まったく動じなかった。讃辞にさえ聞こえる。

 

「楽器の礼にしては、高くついたよ。

・・・なにせ、生涯、シャルルの友達でいてやるのだから。

僕はこれからずっと・・・・シャルルに『大丈夫か』と尋ねて過ごすのだから」

 

僕はマリナをかけがえのない存在だと思っているけれど。

それと同じくらい。

シャルルのことも大事なんだ。

でも、そう言ったら彼は僕を遠ざけるから。

だから敢えて言わなかった。

 

先ほど彼が言った言葉は・・・マリナには聞かせることはないだろう。

男同士の秘密だ。

これは秘めたる想いとして、誰に告げることもない。

シャルルのあの想いは、僕だけが知っていれば良い。

マリナはとっくに気がついているかも知れないけれど。

 

「だから僕を不採用にしたら、とても後悔することになるよ」

僕はそう言って笑った。もちろん、これから先、余程努力しないと、彼には近付けないだろう。

「・・・でも、やりがいのある仕事だと思うよ。僕は、シャルルと一緒にあの国についていろんなことを考えていきたいと思うから」

今年か来年の夏休みには、あの国に行ってみようと思った。

まだまだパリの街中や日本と同じ平穏を求めることは出来ないけれど。

シャルルが今でも気にかけている懸案事項を解決できたのなら。それは僕の夢でもある。

 

シャルルは僕を若葉だと言った。嫩葉という言葉があって・・・それは若葉を意味する。

シャルルにとって、僕は嫩葉であるのなら。

僕の夢は僕の嫩葉だった。

たくさんの夢を持っている。

 

いつか彼の片腕となって・・・彼の素晴らしい功績を一番近いところで見たかった。

そして・・・・マリナとシャルルが過ごすこの邸で静かに・・・カオルやシャルルの家族を交えてオーボエを演奏する。指が鈍らないようにするのは大変だ、と少しばかり文句を言いながら。

 

マリナが僕のことを希望の塊だと言ったけれど。

僕は、マリナやシャルルこそが夢の塊なのだと思う。

 

「あ」

僕は声を漏らした。

雪が・・・白い雪がひとひら、目の前に落ちてきたからだ。

そこで身体が冷え切っていることに気がついて、僕は身震いをした。

シャルルは黙ったまま・・・雪の中で舞うシャボン玉を見上げていた。

 

彼の憂いも、あの珠に混じって、空に還れば良いのに。

そう思った。

彼には、傍に居る人が必要だった。

だから僕はあの人と同じように彼の親友になれるとは限らないけれど。

せめて・・・彼の傍に居て彼の見つめるものを一緒に見たいと思う気持ちを、シャルルでさえ変更させることはできない。

 

「シャルル。楽器が冷える。中に入ろう」

僕がそう言って、彼の肩に手をあてた。

アルディ家の当主が失調でもしたら・・・僕はここに来た意味がなかった。

 

その時。シャルルが向き直って、僕の肩を抱いた。

ふわり、と薔薇の香りがした。

僕は面食らってしまって、しばし呆然としていたが、シャルルは一度だけ強く、僕を抱き締めた。

 

「・・・・・ありがとう」

その言葉は、僕に言ったものなのか、あの人に言ったものなのか、わからなかったけれど。

彼の声は少し震えていた。

 

ごめんよ、と謝らずに。

彼はありがとう、と言った。

 

だからこれで良かったのだと思った。

 

・・・僕は楽器ケースを持っていない方の手の平で、彼の背中を撫でた。

 

「素直なシャルルも悪くないね」

 

すると彼は少し声を漏らして笑った。

「なるほど。ダイの前ではどうも・・・オレは自分を律することができないらしい」

「いつも不機嫌そうな顔しているだろ。あれのどこが自己を抑制しているのかわからないよ」

彼はちょっと嗤った。

「ダイはまだこどもだな」

 

おとなかこどもかわからない。

 

その言葉は、僕にも当てはまるようだ。

 

でも。

僕は知っている。

 

僕に微笑むマリナの顔を見て、シャルルはいつもちょっとイヤそうな顔をしていることも。僕だけが彼女の部屋に立ち入ることが、彼は相当気に入らないけれども、他の男が立ち入るのはもっと気に入らないと思っていることも。

 

だから表札はマリナの名前のままにしてあるのに、管理を僕に任せて、僕を常駐させるように仕向けるために、あの部屋を防音室にしてしまったことも。

 

「・・・ヒビキヤも来るのであれば、グランドピアノを調律しておこう」

彼はそう言った。

カオルと僕がここで合流することを知っていたらしい。

誕生日のサプライズにするつもりであったのに、少しぐらい驚いてくれても良いのではないのかなと、彼の頭脳と抜かりのなさについて恨めしく思う。

でも。

カオルがヴァイオリンを弾いて僕がオーボエを吹き・・・ピアノは誰が演奏するのだろうか。

ふと・・・カオルとシャルルが昔、共演したことがあったということに思い出した。

彼はピアノも奏するのだということを思い出して、それから僕は唸った。

リサイタルを開くほどの腕前の持ち主達と共演は・・・とても緊張する。

 

寒いと感じていたのに、身体が緊張して熱くなり、背中に汗が流れ落ちるのを感じた。

「どうやら、オレは静かに自分の誕生日を過ごすことができないようだ」

彼が澄ましてそう言ったので、僕は吹き出してしまった。

 

その時。静かなアルディ邸で、マリナの声が響き渡った。

僕が来邸していることを聞いたのだろう。

バルコニーから身を乗り出して・・・雪の交じる空から聞こえて来た。

アルディ邸から、手摺りを乗り越えそうな勢いで、茶色の髪の人が手を大きく振っているのが見えた。

 

・・・・パリの16区で、大声を出して僕の名前を呼ぶのはマリナくらいだ。

 

僕はくすりと笑った。

パリでも相変わらずマリナは変わらなかった。

・・・それが、どういうわけかとても嬉しかった。

 

なんだ、もっと早く来れば良かった。

僕はそう思った。

 

行こう、と僕の方から促したのに。

僕は寒空の下で手を振るマリナの姿を目に焼き付けとしてそのまま立ち止まってしまった。

「楽器が冷えるのだろう?」

シャルルが可笑しそうに言うので、それでやっと邸内に入ることにした。

彼の誕生日には、彼はいつもひとりではない。それが嬉しい。

僕とシャルルは肩を並べて歩き出した。

 

硝子扉の向こう側で待機している人達が居た。誰が・・また来客があるらしい。

僕がそうされたように、先導する人が居て、その係員の人がまた、別の人に取り次ぐという手の込んだ手順を無視して、誰かが入ってきたようだった。

その人物に心当たりがあった。ありすぎた。

 

彼が大きな溜息を漏らした。

でも、少し嬉しそうだった。

僕もその横顔を見て、嬉しくなった。

 

雪がちらついているのに。

彼が腕を回して僕に触れた部分からじんわりと温かさが浸透していく。

 

「宿泊先のホテルには連絡しておいてやる。今日はこちらに泊まれ」

僕はウイ、と言った。

それから少し考えて・・・まだ明日の話であったけれども、一足早く、用意してきた言葉を言うことにした。

 

「シャルル・・・誕生日おめでとう」

 

彼はそれを聞くと・・・綺麗な微笑みをして、瞳に強い晄を宿らせて言った。

「なるほど。・・・東の果ての国の者に相応しい。

・・・それで?一日早いオレへのバースデープレゼントは?」

「シャルルに『親友』をあげるよ」

僕は笑った。

贈るとか受け取るとかいう問題ではないことは、お互いにわかっているのだが。

シャルルは黙って僕の持っていたケースを受け取った。

それまで持っていた、慣れた重さが急に軽くなって・・・そして、僕はまた泣きそうになった。

 

各々が持つ荷物の重さについて僕は憂えたけれど・・・こうして、渡したり託したりすることもできるのだと言うことに気がついた。

だから、僕は・・・誰かに何かを託されて託して生きていくことが大人になることなのだと知った。

シャルルが背負っているものは大きくて重いけれども。

彼のその重さを僕は引き受けることが出来るのだとわかった。

 

カオルが僕に託したもの。

マリナが僕に託したもの。

シャルルが僕に託したもの。

 

それはあの人の代わりという役割ではなくて・・・彼が言った嫩葉という言葉の意味、そのものなのだと思った。

春が来て芽吹いて成長し枝を伸ばして花を咲かせ、実を結ぶ。

僕は僕の決まった路ではなく、自分の決めた路を進むことで・・・彼らから託されたものを別のものに形を変えて、やがて別の誰かに還すことが出来るのだろう。

 

僕はそれまで歩いてきたひとつの路と決別した。

でも、その路と違う路に進んでも、きっとまたひとつに重なる時がくると思った。

 

「『親友』なら。まずは、マリナにあの奇行をやめさせろ」

彼はマリナと揃いの指輪を薬指に光らせながら、髪をかき上げてそう言った。

「アルディ夫人が日本にお忍びでやって来ることも十分奇行だと思うけれども」

「彼女の奇妙な行動については分析が必要だな。・・・ダイ、レポートしておけ。

・・・それが入所試験だ」

「難しいな」

「困難だからこそ為し遂げる必要があるのだろう?」

シャルルが意味深い言葉を言ったので、僕はくすりと笑って頷いた。

 

「それは大変に難しい試験というか・・・魂の試練だね、シャルル」

彼はその言葉が気に入ったようだった。

「昔、愛とは魂の試練だ、と言った男が居たな」

彼は顔を綻ばせて、そう言った。

 

行こう、と彼は言った。

 

行け、ではなかった。

一緒に、行こうと言った。

それが彼の回答だと思った。

 

僕とシャルルはほぼ同じ歩幅で歩き出した。

白金の髪の麗人は、僕を隣に並ばせて歩くことを許可した。

 

僕の出したこたえに、シャルルが及第点をつけてくれたのかどうか。

それはもっと・・・ずっと後になってわかることになる。

 

雪が、また降ってきた。

マリナの慌ただしい足音が、アルディ家の長い廊下の億から聞こえて来る。

そして反対側からは、僕の師匠が奏でるけたたましい足音が邸内に響いていた。

 

ひっそりと静かな卒業旅行になるはずであったのに。

決して忘れられない旅になりそうだった。

そして、この国に訪れるのはこれが最初で・・・やがてこの国に行くという表現ではなく、この国に帰るという表現を使うようになるのだろうなという予感がした。

 

それは予感ではなく、予想でもなく・・・シャルル・ドゥ・アルディ曰く「予定」だった。

 

今年のシャルルの誕生日は・・・一体何人分の賑やかさになるのだろう。

 

 

FIN

 



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