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S-side 成ぎ

■01 成ぎ(たいらぎ)

 

オレ以外の誰かと、こうしているの?

 

言ってはいけない言葉を言ってしまったと、青磁・マクドゥガルは猛省していた。

その時のことを考えると、今でも激しい頭痛がして息苦しさを考える。

まだほんの数日前のことなのに。

季節は、その数日のうちに変わってしまったように思った。

 

なぜ、そんなことを言ってしまったのか。

わかっている。彼は、燥いでいたのだ。

根拠のない自信によって。

 

初めて会った時から、随分と時間も季節も経過していて、彼女も彼もあの時から変化したように思えた。少なくとも距離は縮まり、彼は彼女のことを何よりも大事な相手であることを日々認識している。

だが、彼女との間に、どうしても越えられないものがあるのだと感じている。うまく言葉にできないけれども、彼女は青磁との未来を考えないようにしている。

だが、青磁の方はそうではない。

常に夢見ている。その夢が具体的になるには、どうしたら良いのかと考えている。

・・・彼は、彼女がいないことがあり得なくなってしまった。

 

そんな時、マクドゥガル家の実家に彼女のことを具体的に話そうと思っていて、一度帰国する予定になっていた。

実は既に心に決めた人がいるのだということは幾度か話をしているところだった。留学先で運命の出逢いをした、というわけではない。彼女に会うことは留学の目的の一つであった。勿論、目の治療のこともあったが。

彼は永遠にここに居るわけではない。だから、ここから離れるときに彼女を連れて行きたい。

先頃、アルディ家からも彼女を推挙する旨の書翰が届いたと聞いた。勝手なことをするなと言ったばかりだったが、内心はその気遣いに感謝していた。

そんなことが彼女の知らないうちに進んでいた。

だから、一度ゆっくり話をしたいと思っていた時に。

彼女が続けて彼と時間を持つことを断ったのだ。

 

青磁を最優先にしたりすることのない人だということはわかっていた。承知で好きになった。恋愛に溺れて、何もかもを投げだす人ではマクドゥガル家夫人は務まらないからだ。打算的な戀だと言われればそれまでであったが、彼はどうしても彼女という人となりを見て判断したかった。

しかし、彼女は僅かな時間で彼の心を奪ってしまったのだ。

彼女はそれだけの魅力を備えていた。彼の用意した言い訳そのものすら役に立たなくなってしまうほどに。

 

条件が整ったから好きになったのではない。

いつの間にか・・・もう、彼女以外には考えられない程、彼女のことを深く愛するようになっていた。

 

だから彼女にとって特別な存在になったと感じた時に。

彼は心躍り、そしてさらに少しずつ欲深くなっていった。彼女の全部を知りたいと思い、彼女を隣にして歩く唯一の恋人だと彼女に皆に触れ回って欲しかった。

何人も恋人を持ってうまく立ち回るような人ではない。そういうところは実に誠実で、青磁を翻弄して楽しむようなことはしなかった。実際は、かなり翻弄されているけれども。

だが、青磁の学業と治療を優先させるという姿勢を彼女は徹底して貫いており、彼は彼女の成熟した精神に敬意を払っていた。

だからなのだろうか。

今度時間を取って、話をしたいと言った時に、続けて断られてしまった。

何かを察した彼女が青磁と距離を置こうとしていると考えた青磁は、彼女が本当に予定が合わないのだと説明する目の前で、あんな酷いことを言ってしまった。

 

オレ以外の誰かと、こうしているの?

 

彼女は、大きな眼を見開いて、彼女は青磁の顔を黙って見つめていた。

頬が紅潮し、睫の震える音が聞こえそうだった。唇を横に引結び、大きく深呼吸を繰り返す。青磁は彼女が怒り出して彼の頬を叩くくらいの激昂を見せるのではないのかと思っていたが・・・実際は違った。

耳や首筋を赤らめた彼女は、眦から大きな涙を零し始めたのだ。

「・・・エリナ」

彼は彼女の名前を呼んだ。

しまった、と思った。青磁は息を呑み、そして自分が何をしてしまったのかを感じた。

ようやく、薄くなってきた壁を彼はまた厚くしてしまった。彼女に触れることを赦されて、彼女にキスをすることを拒まれなくなった。だから彼は慢心していたのだ。自分のたったひとりは、同じ様に彼をたったひとりだと思ってくれているのだ、と。だから恋人気取りで・・・彼女が「そんなことはあるわけない」と怒り出す様を笑って抱きしめて取りなすという場面を夢想していたのだ。

 

彼は片方だけ薄い瞳を瞬かせた。その間も、彼女の瞳からは大粒の真珠のような涙が落ちて彼女の顎を伝い、彼女の胸元に落ちていく。

「・・・帰ります」

彼女はそう言って、その場を立ち去ってしまった。青磁はその後を追うことができなかった。泣かせてしまった。

ごめん、とその場で謝れば良かったのに、彼はそれすら言えなかった。

涙で頬を濡らす彼女をひとりで帰してしまった。

 

適当な言葉で彼女を傷つけてしまった。それなのに、それを癒す術が見つからない。

 

その夜は、眠れなかった。

 

次の日の朝一番に、彼女を探したけれども彼女は見つからなかった。あらゆる連絡手段を使っても彼女はつかまらない。授業には出てきているようであったが、どうしても見つからなかった。彼の焦りは周囲にも見て取れるようで、青磁はその時に自分が思っている以上に動揺していることを自覚した。

そんな微妙なすれ違いを愉しむ余裕は彼にはなくなってしまった。

それまで彼は、恋をしなかったわけではない。彼女の前にも、とても好きになった人がいた。シャルル・ドゥ・アルディの心の妻だと言わせるような女性で、彼女のことを好きになったことは今でも後悔していない。恋を失い、愛を知った。

 

比べることはできない。でも、彼女はずっと考えているのだろう。それを青磁は慮ってやる必要があったのに、無視して壁を飛び越えようとした。彼だけの事情によって。

 

あの時の涙を思うと、彼は何も手に付かなくなってしまった。

初めて、彼女が彼の家に泊まった時のように。

あの時、彼女は彼の朝顔になってくれると言った。

 

なぜ、それを信じられなかったのか。

なぜ、試すようなことを言ってしまったのか。

 

なよやかで儚くて、それでも蔓は生命力逞しく伸び続ける朝顔の花。

まさに、彼女のような花で、青磁はマクドゥガル家で解決しなければならない問題がある。

 

■02

 

彼女に会う手段が限られていることに気がついた。

それが青磁の不安を煽る。

目を瞑れば、彼女の涙顔が浮かんだ。

なぜ、あのままにして帰してしまったのだろう。彼女の涙を受け止めるべきだった。何をしても彼の中で彼女の静かな抗議が彼の心を刺し続けるので、彼は普段の生活を続けることすらできなかった。

眠れないし、食事も喉を通らない。思い浮かぶのは、彼女の笑顔と薫りと・・・肌の湿りであった。

肌を重ねることに、彼女が安楽的に考えているとは思えなかった。青磁もそうであったから。単なる快楽や一時の緊張感でもってそれを享受することはしない部類の者であると認識していた。

どうにもならない程、彼女に深くのめり込んでいるとは思ったが、それは青磁が単に戀に溺れているだけではないのだということを彼女は証明し続けた。

 

結局、一日中探し回ったが彼女と会うことができなかった。青磁は誰にも相談できずに、そのままambushという彼が行きつけにしている店に立ち寄り、何も説明できずに茶だけを飲んだ。彼女が来ているかと思ったが、それは期待外れだった。結局、店主に気を遣わせてしまっただけで帰宅した。

 

自分の部屋に戻った時に感じたことがある。

ひとりで暮らすには広すぎると思った。マクドゥガル家の屋敷よりもずっと狭い場所なのに。彼女がいないだけで、それはとても違うものになってしまう。

それは初めてのことだった。連絡が完全に取れなくなってしまったので、青磁はとうとう、彼女のもとに出向くことにした。普段は彼女が嫌がるので、会うのは専ら青磁のマンションであった。最近では時折出かけることもあったが、目立つ容姿の青磁に注目が集まることを彼女が気にしていると感じたので、彼女が外に出ようと言わない限りは青磁の方から申し出ることはとても少なかった。唯一、ambushという店にだけは彼女は足を運んでいた。

移動中も、彼はずっと彼女の涙を浮かべた姿を思い出していた。泣かせてしまったことに対して痛惜という以上の痛みを感じていた。

 

なぜ、もっと大事にできなかったのだろう。

なぜ、もっと誠実に対処しなかったのだろう。

 

しかし、なかったことにはできなかった。それはわかっている。

 

・・・ただ、慌てていた。

彼女を失いそうな気がしてただ落ち着かない。

気が急いて、何もかもが手に付かないのだと言おうものなら彼女は青磁の元を躊躇なく去ってしまうだろう。そういう潔さも持っている人だった。

 

一歩間違えれば犯罪者だな、と苦笑いしながら青磁は彼女の家の扉の前でただひたすら待った。アポイントを取らないで待ち伏せするのは反則であるとしか言いようがない。

でも。逆に、恋愛に決まった法則があるのならそれを知りたいとさえ思う。今、彼はどうして良いのかわからずただ彼女に会いたいと思っていた。

何をどう言おうというシナリオができているわけでもない。ただ、謝りたかった。それが自己満足だったとしても。

 

「・・・何をしているの」

どれくらい時間が経過したのかわからなかったが、手足がすっかり冷え切った頃に、彼女の困惑する声が聞こえてきてそちらを向き直った。ずっと扉を凝視していて考え事に耽っていたらしい。陽は角度を変えていたし、彼女は頬を赤くしてこちらを睨み付けるように見ていた。ああ、怒っているなとわかったけれども。彼女に会えたことが嬉しくて、青磁は微笑み、そしてすぐに笑みを消した。まだ彼女に謝罪していないのだから。綻びは必要とはされない。

しかし心が躍ってしまう。

彼女は両手に荷物を持っていた。日用品を買い足したらしく、彼女の小さな手には余りある大きさだったので、青磁は慌てて手を伸ばした。

「持つよ」

「だから、何をしているのかと聞いているの」

彼女は少しむっとしたように言った。怒っているなと思ったけれども、それよりも彼女の負荷を和らげたかった。

 

「君を待っていた」

彼はそれだけ言うと、彼女の手から荷物を捥ぎ取るようにして受け取った。ずしり、と重かった。荷物持ちでさえ嬉しいと思うのに。わずかに手が触れて、彼女ははっとしたように顔を上げた。青磁の手が予想以外に冷たかったと感じたのだろう。心優しい彼女は自分の手の冷たさよりも青磁のそれを気にする。

彼女はやや考えた後に、肩を竦めて鍵を取り出して開錠した。ふわり、と彼女の薫りがして、青磁は目を細める。彼女の空間に入ることができるという歓びを噛みしめる。それから、胸の高鳴りも。

「荷物、ありがとう」

彼女はそう言いながら、扉を開いた。肩に掛けていたショルダーバッグを持ち替えながら、玄関の照明に電源を入れる。部屋の中は射し込んだ西日のせいでそれほど冷気は感じなかった。

正面に見えるベランダに面している窓に掲げられている薄いレースのカーテンがとても白くて彼女の几帳面さを感じさせる。

ああ、どうしよう。彼はそう思った。受け取った荷物を投げだして彼女を抱きしめてしまいそうだった。

 

彼女は靴を脱いで、先に部屋に上がったが青磁はそのまま玄関先で立ったままだ。どれほど親しい間柄であったとしても許可されなければその先に進むことはなかった。

 

決まった場所に鍵や鞄を置くのは彼女の習慣だ。青磁の家にやって来ても彼女はいつもきちんと・・・一時的な来訪者であることを主張するかのように来客として振る舞う。一緒に暮らそうと言っても。どれだけ夜を重ねても。彼女は、決して一線を越えない。

 

暖房の電源を入れたらしく、電子音が小さく響いた。

そこはとても静かな空間で、彼女の部屋には年頃の娘が置くような細々したものはほとんどなかった。彼も飾り立てることを好まないので、彼女のそういう趣味嗜好が気に入っていたところだ。いいや、すべてがもう、肯定されるべき事項になってしまっていると感じた。今、改めて。

盲目になっているとは思っていなかったが、どうやら・・・

彼女に対しての感情が爆ぜるのではないのかという恐怖というか、緊迫を自分の中に感じていた。

自分が抑えられなくなってしまった時に、彼女を壊してしまいそうな気になってしまう。

マクドゥガル家の厄介な気質であった。大事にしたいのに・・・時折、狂乱の波に溺れてしまう者が居る。彼女が必要であるのに彼女をそんな波に巻き込みたくなかった。

 

立ち尽くしたままの青磁を見て、彼女は眉を動かした。上着を脱ぐととても薄着で、短い外出を想定していたものと思われた。彼は、手の中に残っている紙袋や布製の持ち込み用のそれを見つめる。

そこで、なぜそれが重いのかがわかった。

 

彼の常用しているミネラル・ウォーターであった。すぐにわかった。それは、自分の為に彼女が買い揃えてくれたものなのだ、と。

彼は玄関先にそれを置く。涙が出そうなほどに、嬉しかった。彼のことを彼女が考えてくれたのなら。それ以上に、何を求めるのだろうか。自分が願ったさもしい願望を恥ずべきだ、と思った。

 

彼女は青磁に背中を見せながら言った。

「そこは寒い」

 

■03

 

静かな怒りに満ちてなお、青磁のことを気遣う彼女が愛おしかった。

「エリナ」

青磁は彼女の名前を呼んだ。

「今、お茶を煎れます」

彼女の素っ気ない言葉が青磁の胸を抉る。腕を伸ばして、駆け上がれば彼女は目の前にいる。

「青磁」

彼女が彼の名前を呼ぶ時には、彼は痺れを伴う。

どうしようもなく、夢中になってしまった。

彼女のたったひとりになりたい。永遠になりたい。

「そこにひとりで居ないで」

それが彼の心を決めた。

この人を、最後の人にしようと思った。

 

自分が傷ついているのに、詰ることもしないで青磁を気遣う。彼は紐靴を解くこともしないで、そのままもどかしげに踵を踏み、靴を捨てるようにして彼女の領域に上がり込んだ。

そして彼女に向かって彼は体を傾ける。

外気の残る、冷たい上着のままで。

 

初めての恋に戸惑う者の様に。

どうして良いのかわからないままに・・・翻弄される。しかし、彼女がそうしているのではない。

紊されているのは彼の方で、彼女は悲しんでいる。

 

彼は荷物を床に置くと、そのまま頭を下げた。

「すまない」

青磁の謝罪に、彼女は無言だった。

しかし、しばらくして声を出す。

「なぜ、謝るの?」

「君を泣かせてしまったから」

彼は頭を上げて言った。普段、彼は頭を下げることはしない。マクドゥガル家の次期当主であるという自負があり、そのように教育されてきたからだ。

しかし、彼女は別だ。

素直に、ひとりの男として愛しいひとの心を解したいと思うから。

 

「泣かせたくてああ言ったわけではない」

「わかっている」

弁解を聞きながら、彼女は静かに言った。彼が決して、本当にそう思っているわけではないことは、これだけでは伝わらない。

それならなぜ泣かせたのだ、ともうひとりの自分が彼に問いかける。

思ったままを言うことはできなかった。彼女を独り占めしたくて、彼女に怒って欲しかったのだと言えなかった。ただ、彼女はそれでもわかっていたと思われた。

なぜなら、それ以上は尋ねなかったから。

彼は、彼女の傍に寄った。自分が特別だと思う傲慢な気持ちはどこかに失せていた。彼女の部屋に上がり込むことを赦されても、それは彼が寒気の中を勝手に彼女の帰りを待って佇んでいたので暖気を与えようとしただけのことなのだ。

 

「私が勝手に泣いただけ」

「そうじゃない」

彼は辛そうに言った。本当に息苦しかった。彼女にそう言わせてしまう自分が不甲斐なかったのだ。

何の事かわからないと逸らかされるより誠実な回答だった。彼女は向き合うことに恐怖を感じる人ではないのだ、と思う。

涙を流したことを恥じてはいないのだが、思うところがあったのだろう。

 

「そうではないだろ」

青磁は低い声で言った。まだ、彼女に触れられなかった。

このまま抱きしめてしまいたいと思った。しかし、それでは話が有耶無耶になってしまう。

会いたくて、ずっと姿を探していた。連絡が取れないことに恐怖を感じた。

それでますます彼女が必要だと青磁は思ったのだ。

 

ずっと笑っていて欲しいと思う。そして、彼の傍で彼の為に朝顔になってくれると言ってくれた彼女をずっと大切にしたいと思っていた。

俯く彼女の横顔が凜としていて美しい。

決して派手やかさはないけれども、彼女の芯の強さを知っている青磁は、彼女を眩しそうに見つめた。

 

キッチンに立った彼女の横顔を見ながら、彼は言葉を詰まらせる。

 

待つ、と言ったのに。

彼はずっと待てたのに。いざ、彼女と距離が近くなると幼い独占欲で彼女を困らせてしまった。心を疑ったのではない。けれども、結果的にそうなってしまった。

 

彼女が青磁の他の者と恋愛関係にあるとは思っていない。たとえそうだとしても。彼に魅力や引力がないから、彼女が余所見をしてしまうのだと思った。

紫電と呼ばれる鋭い視線を持ちながらも。彼女を射抜けない彼はもどかしさを感じていた。

 

自分はどうしたら彼女の心を安らがせることができるのだろうか。

 

彼女が不誠実であることはあり得なかった。たとえそうであったとしても、彼は後悔しなかった。彼女のことを好きになったのは、青磁なのだから。

でも。彼女を悲しませることはそこには含まれていない。彼は激しく後悔していた。

何故、あんなことを言ってしまったのだろう、と。

だから正直に告白した。それを拒まれたら・・・もう彼女とこうして会うことはないのだろうという覚悟とともに。

 

「オレ・・・本気だから」

彼は掠れた声で言う。心を込めて。

「どうしたら君と一緒に未来を伸ばしていけるのか、考えている」

追いつめる様な言葉だとは思う。でも、それ以上の言葉を探す余裕がない。

 

もう、彼も限界だった。

溢れて迸る想いが止められなかった。こんな想いはもう二度と味わいたくない。

彼女と心を通い合わせたい。肌の温度だけではなく心の温度も知りたい。

愛している以上に本気だった。もう、どうにもならないほどに。

あのフランスの華が、ファム・ファタルと定めた人に惹かれ続ける、抗えない力を彼も感じていた。抗えないのではなく、抗いたくないのだ。

 

運命的な出会いというものではなく、彼が彼女を定めてやって来た。

それを彼女は気にしている。それなのに、彼は彼女を束縛し、彼女のことを責めるような言い方をしてしまった。それが彼女を傷つけた。

でも。彼女の涙さえ、彼は独り占めしたいのだ。

なんという欲深な願いなのだろうと思っていた。

彼の家の、詛われた愛の呪縛が発動してしまっているのではないのかと錯覚するほどに。彼は心を震わせた。

不釣り合いだと思っている。彼女が青磁によくそう言う。けれども、青磁の方がいつもそう思っていた。彼女のような心優しい魂を、あのマクドゥガル家の土地に持ち帰ってしまうのはとても残酷なことなのではないのだろうかと思った。

愛が深まると、更に頻繁にそう思うようになった。

 

■04 

 

「一緒にいるということだけがすべてではないでしょう」

「どうして君は・・・」

絶句して青磁は言葉を途切らせた。彼女が意地悪を言っているわけではないことは承知している。でも。青磁との未来を少しでも考えてくれたことはないのだろうかと思う気持ちになってしまっていた。

彼女がイエスと言ってくれた時のことを忘れない。しかし、それ以上を彼女は望んでいないことがわかると、青磁はそれが切なくなった。

もっと多くを望んでくれても良いのに。

そう思ってしまう。

彼が求めるように彼女からも求めて欲しいと願った。

焦がれている。

もっと近くに居て、ずっと近くに居たい。

彼女はそれっきり黙り込んでしまった。青磁も黙ったままだった。

しかし、彼は諦めなかった。諦めることはやめたのだ。そう宣言した。

詰るのは簡単であった。

しかし、それに抗う。

責め立てて、その先にあるものは無しかなかったから。そんなことで彼女を失いたくはなかった。

「すまない」

彼はもう一度謝った。

「疑ったわけではないんだ。ただ・・・君に否定して欲しかっただけだ」

青磁は正直に言った。すべてを述べることが正しいことだとは思っていない。

しかし、今回は正直に言った。疑っていると思われてしまうことの方が彼は怖かった。彼女が他の誰かと青磁と同じ様な時間を持っているとは考えていない。彼女は、そういうことには狡い考えを及ばすことができない人だから。

だから、これは青磁がひとりで片付けなければならない疑問であったのだ。

相手に尋ねてはいけない内容だった。

実を抓むことはあっても、実を結ぶことはないのだから。

「ごめんよ」彼はもう一度囁くように謝る。彼はそれだけを言って、そっと彼女に告げた。

「帰るよ。今日のところは」

本当は、このまま抱きしめてしまいたかった。そのままもどかしく唇を重ねて、潰されてしまうと彼女が言うほどに強く・・・彼女の体を彼の体で覆ってしまいたかった。でも、彼はそうしない。彼女を怖がらせたくない。

いいや、本当は彼の方が青磁という人物を怖いと思っていたのだ。

自分自身のことを。

マクドゥガルの男は、どこかそんな気質の者が多い。誰かを深く愛しすぎて、破滅に導くことが多々あった。新しい愛を見つけることが不得手で、ひとりと決めてしまうとそれ以外を考えられなくなってしまう。

自分は、そんなことはないと思っていた。あの人に出会うまでは。マリナ・イケダは、彼に愛を教えたが、同時にマクドゥガル家の男であるということも再認識させた。

新しい恋に踏み切ることに言い訳を用意しなければならなかった。

待つと言ったのは、自分が楽だったからだ。確かに待つことは辛いことであったけれども、彼はその間、彼女のことを好きでいられた。

そして自分の恋慕が成就しそうだと思うと途端に彼は更に加えて望みを持ってしまった。

愛は、望んではいけないことなのか。

そんな、傲慢な気持ちを持ってしまったのだ。

それを敏感に察知して彼女は涙を流したのかと思うと・・・

彼は不安な気持ちになり、どうしても会いたくなってしまった。

勝手な想いに振り回された彼女が静かな憤りを感じたのは無理もないことだと改めて思った。

だから、もう一度言った。

心を込めて。本当に、失いたくないのだ、と想いながら。

「君が好きだ。泣かせてすまない。でも、オレはこうやって君を困らせる。

・・・それはオレが未熟だから。

でも、その度に君と話し合いたいと思う。だから、待つ」

片方だけ薄い瞳に僅かに痛みが走った。

これを言って彼女が去ってしまうのであれば、彼は彼女の幸せを願って彼女の前から去ることも考えていた。マクドゥガル家に入ってしまえば、彼の知らないところで彼女の苦悶が生まれることは容易に想像できた。

それでも戻れない路に彼女を連れて行く。でもひとりにはさせない。彼は彼女を愛し彼女を護り、彼女が見聞きしたものを受け入れる。

それより何より・・・生涯をともにするのは彼女が良いと青磁は願っていた。

これほど言い募っても、結局は彼女を愛しているのだ。心の底から。

誰にも渡したくない。

だから、あんなことを言ってしまった。

「今日は寒いから、気を付けて」

彼はそれだけを言うと、彼女に背を向けて立ち去ろうとした。

今日は、会えただけで十分だった。

彼女に謝りたいが、今回だけで挽回できるとは思っていない。

信頼というものはそういうものだ。一度崩れてしまえば崩れたところだけを修復すれば良いのだというわけではないのだ。根柢から作り直す必要がある。

青磁はそれを身を以て知った。

ここで居座るつもりはなかった。

彼女の心の傷の方が気になった。自分の傲慢さを正当化するつもりにはなれなかった。

頬を撫でて、彼女を抱いて、そしてごめんと囁きたかった。

 

彼女の領域に侵入するつもりはなかった。本当はそこも彼は共有したかったけれども。でも、時期尚早だと思った。

「邪魔をした」

彼はそれだけを言うと背を向けて、外に向かう。彼女が病気であったり困っている状況でなければ、それだけで安心した。

シャルル・ドゥ・アルディが、ずっとファム・ファタルを想い続けていた時の心情がこの時にようやく理解できた。

それから、彼なささやかな昏い物思いも。遠くで見守っているだけなら。きっと、彼はそれ以上彼女を悲しませることはないのだろうと思ったのだろう。しかし、青磁はそうではなかった。目の前にいる人の歎きさえ共有したいと思っていた。その原因が青磁であったとしても。

「謝りたかった。それだけだから」

彼はそう言い捨てるようにして彼女に背を向ける。

なぜ、いつも彼女に託してしまうのだろう。

自分で決められないからなのか。あまりにも残酷だと思った。

だから、彼は安易であったのかもしれないが、この場を去ることにした。彼女の領域に入ってはいけない。そう思ったから。

自分は割り込んでしまっている。そう思うから。

自己満足だとはわかっている。

「青磁」

彼が立ち去ろうとしたときに、彼女はそっと彼に声をかけた。

体に痺れが奔る。彼女が彼の名前を呼んだだけで。ああ、もうこの人は自分の朝顔そのものなのだ、と思ってしまう。こんな時なのに。こんな時だから、そう思うのだろうか。

「・・・うん」

彼は頷いた。彼女が自分を気に懸けてくれることを感じ、ただ心が熱くなる。

どうあっても、どうしようもなく自分を平静に保っていることが出来なくなってしまっていた。

彼女に背を向けて、深呼吸する。本当は、帰りたくなかった。このまま、彼女と一緒に時間を過ごしたいと思っていた。

「あの、お茶を・・・」

「駄目だ」

彼は絞り出すようにして言う。もう、ここには居てはいけないと感じた。

「ありがとう。でも、もう、帰るよ」

青磁はそれだけ言うと、外に向かって歩き出す。

もう、心臓が張り裂けそうなくらい緊張していた。

 

■05

 

「青磁、待って」

彼女は彼を引き留める。寒い外気にこのまま送り出すことに気が咎めるのだろう。彼女はそういう人だった。けれども、今の青磁にはそれは残酷すぎる優しさだった。このままここに留まれば、きっと彼は彼女の赦しを得るまでこの問答を繰り返すのだろうと予想していた。そしてそれは確実なことであったから。

だから、彼は彼女の甘い誘いを振り切って断りを入れた。彼女のことが好きだから。このまま流されてはいけないのだ、と思った。

一時の感情に身を任せる相手ではない。彼女の気持ちを尊重したい。しかし決して諦めはしない。・・・それくらい、本気で彼女との未来を考えている。

 

その大事な人を泣かせてしまった。彼の浅慮からくる言葉によって。

彼女に気遣われたからそうするのではなく、彼の誠意を見せたかった。

それも自己満足であるかもしれないけれども。それでも、彼はもうこれ以上彼女を悲しませたくなかった。涙を流す彼女を美しいと思ったけれども。その美しさをもう一度見たいとは思わなかった。

 

いや、本当は・・・彼女の涙は自分だけに見せて欲しいと思っていた。

狂おしい思いに溺れたくなってしまう。彼女は、彼を支配する。笑顔でもって。涙顔でもって。

「あのさ」

彼は静かに言う。後ろ髪が引かれる、というのはまさにこのことだった。彼は心を抑える。

「こういう時に・・・引き止めるのは駄目だ」

青磁は忠告する。歯止めが利かなくなることはわかっていた。間もなく、その箍が外れてしまうということも。だからはやくここを立ち去らなければならない。

「話がまだ、終わっていない」

いいや、話はもう終わっているのだ。青磁は思った。

「青磁の問いに答えていない」

青磁は深呼吸した。あの問いかけに、イエスかノーか、という回答は必要ないのだ。

「それは、もういいんだ」

青磁は呻く。少なくとも、他の多くの者よりも、彼は彼女に近い場所にいる。それだけで満足できなかった自分が悪いのだ。どれくらい近い場所にいるのかを確認する時期ではなかった。彼が彼女を悲しませてしまったという事実は変更しようがない。

しかし、彼女は青磁の懇願に近い途絶を受け入れなかった。

「私は・・・」

「無理しないでくれ」

彼は振り返って言う。彼女の言葉がわからなかった。どんな答が戻ってくるのか、彼は想像できなかった。

青磁の知らない彼女の生活や人との関わりを知るのが怖い。それなら、知らないままで良い。そういう気持ちが働いた。恋に惑わされて愛を失いそうになる。

だから、ここで引き返さなければならないと考えていた。

彼女に無理に何かを言わせたいとは思っていなかった。勿論、彼ひとりだけなのだと聞きたい気持ちもまだ存在する。けれども、それよりもなによりも・・・彼女の気持ちを優先させたい。傷ついた彼女の心を、彼の前で再び曝け出すことが良策とは思えなかった。

 

「オレは君に多くを求めてしまったから」

彼はそれだけを言うと、話を終わりにしようとした。

「なぜ?」

 

その時。

床を蹴る音がした。

そして、彼女の問いかけとともに、青磁の上着を軽く叩いた音がしたので青磁は驚いて振り返る。早く帰れと押し出されたのかと思った。しかし、そうではなかった。見れば、彼女が俯いたままで彼の背中のすぐ近くに立っていた。

彼は彼女の名前を呼ぶ。声が震えていた。自分でもわかる。拳を握り、頬を引き締める。駄目だ、と言い聞かせる。

「あり得ないから」

彼女は言った。わかっているのに、なぜか苦しい。

「私は、青磁以外の人とは・・・その・・あり得ないから」

張り詰めた空気の中で、彼の声が震動する。聞きたかった言葉なのに、彼の鼓動は速まるばかりで、目眩がしそうなほどに彼を揺らがせる。

かっと頬が紅潮し、体の血が沸騰しそうだった。

 

なぜ、と問いかけた彼女の問いに、彼は応じた。

「君が好きだから。どうしようもなく、好きだから」

だから、言ってしまった。

 

彼女は青磁の欲しい言葉をくれた。青磁だけなのだ、と言って欲しかった青磁に、彼女は告げてくれた。

今、彼が欲しかったその言葉を聞いたのに締め付けられるほどの苦しさだけしか残っていない。

彼女はまたひとつ、彼の背を叩く。乾燥した音がまたひとつ生まれた。

息ができない。苦しい。冷えた空気が、暖かい空気に循環されていく。

頬を叩かれるより、痛かった。彼女は軽く、彼の背を打っただけなのに。それなのに、その度に何かが削ぎ落とされるような気がした。彼の物思いも、彼の哀しみも。

「堪えきれなくなるから」

彼はやっとのことで言った。正直に言った。

「オレに優しくしないでくれ。声もかけないでくれ。今は・・・」

彼女のことを信じていた。決して、彼以外にこうすることを赦していない人なのだと。

青磁は彼女の気配を背に感じながら、自分の中の焔と闘う。

彼は、体を強ばらせる。彼女が腕を回し、彼の体を抱きしめたから。長身の彼は更に上着を着ているので、彼女の手は回りきらない。けれども、彼女の温度がじわりと彼の体に浸透していく。

彼女は、彼の怖さを知らない。理性を失い、彼女を壊してしまいそうなくらい力強く抱きとめて・・・そして彼女をどこにも行かせることも認めずに、彼はマクドゥガル家に連れ去ってしまうだろうという予感があった。彼女の未来も希望も踏みにじって。

そういう・・・自分の心の中に巣くうものを彼は怖れていた。歪んでいると思う。しかし、彼は彼女をそんな狂気から護りたかった。矛盾していると思う。

けれども、彼の心には獣が宿っている。麒麟という聖獣になぞらえているけれども、それは単に、饑えた獣でしかあり得ない。マクドゥガル家の男子は、吉兆どころではなく病んだ魂そのものが形を作っているだけなのだと認めざるを得ない。

自分は、溺れたいのか。それとも浮き上がりたいのか。

よくわからなかった。しかしながら、彼は思うのだ。彼女が好きで・・・彼女を愛しすぎて、踏み込んで良い距離を間違えてしまった。そしてそれが彼女の涙を呼んだ。

狂気の波に、彼は彼女を巻き込んでしまった。それなのに、彼女は青磁を気遣う。その心が切なかった。そして、そんな彼女の思いを他の誰かに渡したくはなかった。

 

「あの・・・エリナ」

彼は彼女の名前を呼ぶ。どうあっても、彼はここに留まってはいけない。

このまま彼女を抱いてしまいそうになるから。

しかし、彼はそれで終われない。

それで解決できるとは思えないから。

でも、彼は・・・自分の獣炎を吹き去ることができそうにないという予感もあった。

彼女を乱すだけではなく、己のことも乱れると思った。乱される。

彼女に、彼は乱される。でも、彼は自分のことではなく彼女のことを思う。

 

■06

 

「私はそんなに器用ではない」

ああ、わかっているよ。彼は心の中でそう叫んだ。

彼も彼女も器用とは言えない。月日を増す毎に、彼と彼女は答えのない迷宮に進んでしまうと思われた。

わかっている。彼も、それほど器用ではない。彼女の他に、誰か別の人を選ぶほど彼は臈長けているわけではないのだ。

ああ、もう、駄目だ、と思った。それでも彼は・・・終わりにできずに彼女に振り返ってしまった。

彼女の顔が近くにあって、青磁はとうとう、体の向きを変えて振り返ってしまった。

少し怒ったような顔をして、頬を赤らませている彼女が見えて、彼は彼女の肩を掴みそして強引に自分に寄せた。

彼女の温度を手の平に感じて、彼は目の前が一瞬霞んだ。焦がれた彼女の温度がそこには存在する。背中に手を回し、彼は彼女を胸に入れる。

「そんな顔を見せないで」

言葉と違う感情を持っていた。彼だけにはそんな表情を見せて欲しい。他の誰かには見せないで欲しい。

彼女は黙ったままで彼の抱擁を受けていた。

「ごめんよ」

彼は囁く。部屋の片隅で、彼女は黙って青磁に抱かれていた。

「本当に、すまない」

「もう、いいの」

彼女はそう言った。

それを聞いて、彼は安堵する。

でも。

彼女の哀しみを、彼はそれでも忘れることはないだろう。

「君を束縛するようなことは言わないよ・・・これからはずっと」

青磁は誓った。彼女のことを大事にしたいと改めて思った。

「そうではなくて」

彼女が青磁の言葉を否定したので、彼は彼女の髪の匂いに混じった彼女の真意がわからずに困惑した表情を浮かべる。

青磁は、彼の誓いを否定する彼女の顔をじっと見つめた。片方だけ薄い瞳が彼女を捉える。彼女だけは、彼の視線を怖いと言わなかった。それは青磁という人物の個性であるけれども大好きな絵を描くことができるようになるための治療であるのならば辛くても受けるべきだ、と彼女はいつもそう言って彼を優しく肯定する。

彼女が何を言いたいのかを推し量る。しかし、彼女は彼の胸の中で静かに彼の回答を待っていた。しばらくして、彼は彼女の待っている言葉に行き着いた。正しいかどうかはわからない。背の筋肉が張り、彼は彼女をこのままにしておけない、と思う。愛おしさでいっぱいになった。

だから彼は言い直した。強がりを言っても仕方がない。彼のありのままを言う。

「今の言葉は撤回する。本当は、君のことを束縛したいし、君の唯一になりたい。他の人に触れられて欲しくないし、オレを同じ様に君のたったひとりにして欲しい」

たくさんの願いを言ってしまった。それで彼女が彼を嫌悪するのであれば、それはもう仕方の無いことだとして受け入れるしかなかった。

彼女を愛していた。勇気をもって、彼は彼女に一歩近付く。

「欲張りね」

彼女は言う。そうだな、と青磁は言った。確かに、彼は欲深い。たくさんのことを彼女に求めている。

マクドゥガル家の夫人として入って欲しい。彼と一緒に、あの家の謎を解消することに加わって欲しい。彼女だけが、彼の朝顔なのだと決めてしまったから。勝手な想いだとはわかっている。でも。彼女以外には考えられない。

自分の中にある、仄暗い想いを彼女は知っている。

肉親であるのに遠く離れなければならなかった家族や、遊学という理由で様々な国を渡り歩くことになった彼の経歴について、彼女は多くを知っている。それでも、変わらずにいてくれた。

「そう。欲張りだけれども・・・君が欲しい」

彼は熱っぽく囁く。それがすべてだ。彼の、願いのすべて。

絵を描いていたい。マクドゥガル家の当主の座を捨てられない。彼と同じ名前であった誠次のことを考えるようになった。彼は、何を犠牲にしても、彼の熱情を残しておきたいのだと考えていたのだろうと思う。それが悲劇を招いたとしても。

そしてそのことが、青磁のこれからを左右させるような出来事になったのだということも彼女は知らない。彼女に話す時が来るのは・・・まだ先の話だ。

これから先の人生は、彼女の絵を描いていたいと思った。

それから、マクドゥガル家のあの敷地の風景を。彼の育った場所であり、彼の悲哀を生み出した場所でもあった。

「君が欲しい」

彼の言葉はこれで尽きてしまった。けれども、それがすべてだった。

彼女を支配したいのではなく、ともに歩みたいと思っていた。それこそが、マクドゥガル家の者が求めるすべてだと思う。狂ってしまうかもしれない恐怖に抗い、それでも当主と一緒に人生を歩む人を求めて・・・青磁は彷徨っていた。けれども、そんな人は見つけることはできず、愛している人に対して理解を求めるしかなかった。

彼女のように、強い意識をもって青磁と対峙することができる人はとても・・・そう、とても少ない。

また己の願いだけを言ってしまった。青磁は深く悔やんだが、出してしまった言葉をなかったことにはできなかった。

どうにもならないほどの激情が湧き起こる。抱きしめているだけでは終わることのできない、目眩がするくらい強い衝動が彼をじわりじわりと浸食していく。

ぎゅっと彼女を強く抱きしめる。彼女の嫌がることはしたくない。彼は彼女が欲しかったけれども、彼女が望まないのであるならば、このまま帰るつもりだった。

勢いに任せて彼女を抱くということはしたくなかった。特に、彼女の部屋ではそのような行動は控えたかった。

すると、彼女は彼の胸の中で肩を強ばらせて苦しそうに身動ぎした。力が強すぎたのだろうか。彼は、慌てて腕の力を緩める。

耳元のピアスが冷たく感じた。体温が上がっているからだ。寒さはもう感じていない。

彼女は黙ったままで彼の背中に腕を回したので、驚いた彼は体を震わせた。

待つと言ったのは青磁からであったのに。なぜ、待てないのか。彼女が責めても仕方が無いと思った。しかし、彼女は彼の体に寄り添った。

「帰れなくなる」

彼は正直に困窮した状況を訴えた。

「帰るの?」

彼女の声に、もう後戻りはできないと思った。彼女の頭をかき抱き、髪の毛に指を埋める。まだ冷気の残る彼女の髪から彼の求めていた香りが浮かぶ。

 

身を屈めて彼は彼女を抱きしめた。

なぜ、彼女は挑発するようなことばかり言うのだろう。そう思ったこともあった。

けれども、それは彼を煽っているのではなく、彼女が何かを伝えたいのだということに気がついた。彼女はいつも何も求めないと思っていたけれども。本当は・・・彼女は青磁にいつも訴えていたのかもしれないと思い始める。

そう考えると何もかもが納得できた。

「好きだ・・・好きなんだ。待てないくらい」

彼は彼女に告げる。それから彼はもう一度謝った。

「泣かせてごめん」

「青磁」

彼女は顔を上げた。彼の名前を呼び、大きく目を見開いて彼を見つめていた。

彼女の頬に自分の手の平を添える。何もかもが愛おしい。

 

恋に堕ちたらそれが恋なのだ。

彼は、改めてそう思う。

 

それから彼は再び囁いた。

「もう、帰れなくなった」

 

■07

 

彼は彼女の額にキスをする。それから、膝を屈めて彼女の唇を奪う。

何度唇を重ねても飽きることはなかった。

彼女の柔らかい唇の感触が彼を扇情する。

黙って口付けを受ける彼女の顔に手を添えて何度も自分を重ねる。

それから、立ったままで彼は彼女に口吻の雨を降らせた。

彼女の腕の上に青磁の腕を回し、そして軽く持ち上げる。

帰れない。帰れない。

彼女の傍で呼吸したい。

そう想いながら。

彼は彼女に頬を傾けて呼吸を止め、そして彼女の唇を啄み、貪る。

彼の心は躍る。彼女が抗わないで彼と重なることがこれほど嬉しいことなのだと焼きつける。

激った感情を正義とは思わないが、彼女に対してだけは、青磁はいつも常ならぬものを思っていた。

恋の惑いが彼を狂わせているとは思わなかった。

彼は、彼女のすべてが・・・彼の未来に繋がると思っていたから。

でも、彼女のすべてはわからない。

・・・青磁に付き纏う彼の物思いを彼女は知っているのに。

 

「もう少しだけ、待って」

彼女から声が漏れた。青磁の心が震える。

ああ、もう、戻れない。

彼女が初めて待つということに対して返事をしてくれたから。

彼は両眼を大きく見開いた。彼女は繰り返さなかった。正確には、繰り返せなかった。再び、彼が顔を傾けて彼女に口吻したから。

どのように返事をしたら良いのかわからなかった。

でも、彼女は間違いなく彼の朝顔だった。彼女の精一杯の・・・ぎりぎりの譲歩だろう。これまで何も言わなかったのだから。

「待つよ。でも、今は待てそうもない」

矛盾する言葉だと思ったが、青磁はそれだけを囁くと彼女を強く抱きしめた。

体が震える。寒くはない。徐々に切り替わる乾燥した暖気が部屋を暖め始めていた。しかし、体が震えるのだ。彼女を悲しませてしまったのに、彼女は青磁を気遣うから。歓喜の余り、彼は彼女を強く抱いた。この人を好きになって良かった、と改めてそう思った。

頬に、額に、髪に、彼は唇を落とす。恋の苦しさは承知していたことであった。彼女に想いが通じた後にあるのはもっと苦しい愛の煩悶だった。

 

それでも、彼女の傍にいられる。彼女は待つな、とは言わなかった。もう少しだけ猶予が欲しいという意味として彼は受け止める。そしてそれはイエスかノーかという答ではないと思われた。迷っているのではなくて、彼女は考えているのだ。

思わせ振りなことをして彼を弄ぶことができる彼女ではない。

彼は彼女の首筋に手を伸ばした。びくり、と弾けたように彼女が身動ぎして目を瞑る。

彼は彼女の体を抱き、そして部屋の奥へ連れて行く。後ずさりする彼女の体を支えながら、彼はベッドに彼女を座らせた。綺麗に整えてある。彼女の几帳面さは知っていたけれども、彼は端に腰掛けた彼女の前に跪いた。

「座って」

「もう座っている」

彼女は驚いた顔をしながらもそう答えた。

彼が真剣な面持ちで彼女に話をしようとしている気配を察知したのか、彼女は立ち上がることはなかった。

 

「聞いてくれ」

彼は彼女の前で、床に跪いた。それでもすっと背を伸ばして、彼女の顔を覗き込む。膝を合わせて手を重ねている彼女に、青磁は微笑んだ。

彼女は当主夫人としての資質を兼ね備えている。

生まれた時から教育されていなくても。

条件ではない。

何より、もっと必要なことがあった。

彼はこんなにも彼女を愛しているということだ。

 

彼は彼女の手を取った。そして、ほんのりと暖まった彼女の指先を伸ばし、彼はそこに口づけた。愛を込めて。願いを注いで。

 

彼女と温度を重ねている時とは違う熱がそこにはあった。

何もかも・・・すべてを捨てて、彼女とマクドゥガル家とは関わりのない場所に行きたいと思う時もある。それでも。彼は、あの家の忌まわしい呪縛を終わりにさせたかった。マリナ・イケダとともに読み進めたあの悲劇を知ってしまったから。

それからずっと考えていた。

彼の家に纏わるものを、彼は取り除きたい。彼の次の世代には彼の味わった苦しみは伝えたくない。だからこそ、彼女を選んだ。思惑があった出逢いであった。

でも、彼女を愛してしまった。深く、強く。

どれほど彼女を求めても、彼はマクドゥガル家の継嗣である。次の当主となる。彼女にそれを見届けて欲しいと思っていた。そして、彼と彼女が紡ぎ出す真実は遠からずマクドゥガル家を変えるだろうと思っていた。それは想像ではなく、近い将来実現する事実だと青磁は認識している。

 

「妻として迎えたい」

多くのことは語れなかった。しかし、それだけをやっと言うことができた。

求婚の言葉には足りないと思っていた。でも、彼はそれで十分だと思っていて、彼女には十分伝わっていた。

巡る季節を彼女と過ごしたいと思っていた。胸が押し潰されそうになるほどの苦しさと痛みが、彼を現実に引き戻す。

こうして手を握っているだけでも彼は彼女を失いたくないと思ってしまう。彼女の指先が、ぴくりと動いた。しかし彼女は手を引くことはない。

「オレは本気だ」

彼はそれだけを言うと、彼女の目をじっと見つめる。有無を言わさぬ強い視線を自分が持っていることは承知している。しかし彼女にはそれは通用しない。だからこそ、彼女を遠慮もなく見つめる。幾度か頬を叩かれたことがあったが、それでも穏やかな彼女が感情を露わにすることが嬉しくて、幼いこどものように無邪気に喜んでしまう自分に嫌悪したこともあった。そしていつの間にか、彼女を目で追いかける時間が長くなった。観察していた頃とは違って、無意識に存在を探してしまう。

 

「返事は、待つよ」

彼は言った。彼女は何かを言おうとして唇を開いたが、それは声にならなかった。彼女も目を逸らさずに彼を見つめている。

誰かに用意される未来は彼には必要ない。

彼の事情に彼女を巻き込むことは心が痛む。でも、他の人は考えられない。青磁は、これから待ち受ける苦難を一緒に切り開ける人を求めていた。だからといって誰でも良いわけではない。しかし彼とともに生きるということは、幸せなだけの日々ではないということは確かだ。

そんな中に彼女を連れて行くのは狂悖であるとしか言いようがなかった。

もう、自分は狂っているのかもしれない。そう思った。

すると。彼女がふっと微笑んだ、と思った途端に彼女の顔が近付いて来たので彼ははっとして顔を上げた。彼女は彼に指先を絡め取られたまま、体を屈めて彼の頬に唇を付けた。彼女からキスをするということは殆どなかったので、青磁は驚いて彼女の手を強く握り返した。彼女は顔を顰めて表情を変える。

「痛い」

彼は慌てて手を離した。しかし、今度は指先ではなく彼女の手の甲を掴み、そして彼の両手で壊れ物を扱うかのように優しく包んだ。

「今のは、イエスという意味?」

「返事は待つと言ったばかりなのに」

彼女は困ったように首を傾げた。青磁は苦笑する。

良かった。いつも通りの彼女だ。そう思った。

「君の笑顔をずっと見ていたい」

心に思ったままを伝える。彼女の泣き顔ではなく、彼女の微笑みが彼を癒した。それは本当のことだ。

「そういうところが・・・」

彼女が彼を諫めようとしたが、それは彼のキスで遮られた。

押しのけようとする彼女の手を握ったままで、彼は彼女に再び唇を重ねる。どうにかなってしまいそうなほど、愛している。

彼は彼女をベッドに横たえる。彼女は横を向いて困ったようにしていた。押し返して拒むのなら、彼はそこで帰るつもりだった。しかし、彼女はそうしない。

彼は器用に上着を脱ぎ捨てた。床に矧ぎ落とすように置くと彼女が驚いて声を出した。

「仲直りのことはなんて言う?」

彼は彼女の額にキスをしながら、質問した。彼は外国人だ。まだまだ、この国で知らない言葉が多かった。すると彼女は静かに答えた。

 

「成ぎ」

「そうか。綺麗な言葉だ」

 

彼は甘い微笑みを浮かべて彼女の散った髪の毛を指で梳いた。

「・・・続けて良い?」

彼はそっと尋ねた。眸の奧がちかちかと明滅を繰り返す。彼は彼女の溜息を聞いた。だが、それは拒絶ではなく、彼女はそっと彼の背中に腕を回したので、青磁は微笑し、それからふと真顔になって彼女を抱きしめた。

 

ほら、帰れなくなった。

そんなことを思った。

 

(FIN)

 


桜蘂

芲_01

 

桜が散った後に残される、雄蘂と雌蘂は独特の色合いをしている。

桜の紅と白を交えた薄い色よりも、濃い紅色をしている。

花は散るのに、枝に残る雄蘂と雌蘂を、いつまでも睦まじい男女に見立てて「桜蘂を観る」という表現を使うことがあった。

 

青磁・マクドゥガルは、高層マンションの最上階にまで舞い上がった桜の花弁に気がつき、ふと、顔をそちらに向けた。

片方だけ薄い瞳がちかりと輝き、彼の風貌の中でも際だった特徴であることを示していた。

限りなく東洋人に近い色素を持っていたが、肌の質であったり、顔立ちそのものがこの国とは少し違う。

生国ではかなりの確率で間違えられたのだが、この場所で同じ国の者だと信じ込む者は殆ど存在しない。

もっとも、流暢な日本語を操る彼と少しでも話せば、ひょっとしたら東洋人ではない遺伝子を持っているだけなのかもしれないと思わせてしまうほどに達者な会話を繰り広げることができた。

それに、彼の視線と己のそれを合わせてしまえば、紫電と呼ばれる彼の眼光に見入ってしまい、大抵のものは彼に傾倒してしまうのだ。

彼女を除いては。

 

彼は汗ばんだ肌の火照りを冷ます途中であったことも一瞬忘れて、窓辺に寄った。

高層マンションの最上階が彼の住まいであったが、そこまで花片が舞い上がってくるのは相当の強風か、それとも花の終わりが近いために軽い風でも吹き上げられる数が増えてきており、そのうちのひとひらが青磁の目にとまったかのどちらかであった。

時刻は間もなく薄闇を迎える頃であった。

ここ数日、特に日照時間が長くなってきたと感じ、急に暖かくなったので桜の開花が進んだとそこかしこで耳にした。

そういえば、桜の季節は彼と彼女にとっても思い出深い季節であった。

しかし、その季節よりも前に・・・

彼女が彼を知るよりも前に彼は彼女を知っていたのだ、と打ち明けることがないままであったけれども。

でも。

先ほど、彼女がぽつりと「桜の季節がまた巡ってきた」と言ったので、本当は感づいているのだろうと青磁は思う。

今、ここで二重サッシのガラス戸を開けてしまえば、室内の空調が一変して彼女に気がつかれてしまうかもしれない。

それでも、彼はゆっくりと扉に手をかけたが、彼の予想通り、不規則な強風がひゅっと鋭い音を立ててガラス戸の隙間に突風を生み出して彼の体を急速に冷やした。

上半身は何も身につけず、下半身はゆるやかな洗いざらしのデニムに素足という出で立ちであった青磁は、一瞬、目を細めて自分の額が露わになったまま、外に目を向ける。

彼はそんな風に後退りするほど軽量ではないので、あっさりと、柔らかい仄かな夕陽の下に出ることができた。部屋の中を確認するように振り返る。彼女はバスルームを使っているからしばらくは気がつかれないだろう。

数度に一度だけ、彼女は彼の誘いに応じて彼の部屋にやって来る。

彼は彼女に夢中で、己の誇りさえ失いそうなほどに彼女を独り占めしたくて仕方が無い。けれども、それを知っているのか、彼女は彼に応じないことが多かった。しかし、彼女は彼のことを、割り切った関係の相手という認識をしている様子ではなかった。

束縛されることの辛さも、束縛することの惨めさも彼は知っているから、彼女のことはあれこれ詮索しない。そして、彼女は他の者との恋を継続しながら青磁のことを都合の良い相手として保有するような人物ではなかった。

不器用で、誠実で、頑固で、それでいて心が透明である故に他者の様々な物思いを一緒に引き受けてしまう優しさを持っている。

自分の心は決して明かさず、人当たり良くつき合うことに徹しているが彼女はとても繊細で感性豊かで・・・そして青磁はもっともっと、彼女のことを知りたいと思う途中にあった。

ひとかたならぬ心の通じ合いを確認したと思うと、彼の腕からするりと抜け出してしまう。

 

地上から吹き上げられた桜の花弁は白く輝きながら青磁の目の前を舞っていた。

躍るように、逃げるように。

そして乱れて静かに地上に落ちるまで翻弄され続ける。

青磁は自分が彼女に振り回されているとは思わない。夢中になっているという事実は認めるが。

 

青磁は春の強風に煽られながら、その様をじっと見つめた。

片方だけ薄い瞳で。置き去りにされたこどものような、所在なげな顔をしていたが、それを指摘する者はここにはいない。

誰も見ていないから、そんな顔をするのか。それとも、誰かに見て欲しいから、そんな顔をするのか。

 

・・・・彼女は、まだ帰り支度をしている。

桜の花が、散るための支度を終えられずに、空に舞って

それが終わらなければ良いのにと彼が想っているというのに。

しかし、彼女は、彼がどれほどここで一緒に暮らそうと言っても、彼女はイエスと言わない。

この関係に、何か変化を求めたいのか、決着をつけたいのか・・・青磁には明確に言葉を使って説明することができなかった。彼女と永遠を誓い合いたい。彼女に、永遠に青磁の傍にいたいと言って欲しい。それが、彼の望みだ。

彼の願いは、彼女に関するものばかりで溢れている。その全部が、彼女に関するものなのだと言えば彼女はまた逃げてしまいそうな、困った顔をするのだろう。

 

青磁が物思いに耽る理由があった。

桜の季節に入る前の僅かな期間に、彼は彼の国に彼女を誘った。

渡航や滞在にかかる手配の心配はしなくても良いから、と言ったものの、彼女はそれについて承諾しなかった。

ひとりで行くべきだ、と主張し続けた。

彼女がなぜ、そのように言うのかもわかっていた。切なくなり、言葉が出なくなってしまうほどに、よく理解できた。

 

 

しかし、彼女と一緒でないのならば、彼は帰る必要はないのだからと彼女に説明すると、彼女は途端に落胆の溜め息をついて、それっきり黙り込んでしまった。

彼は激しく詰られるより、このように拒絶される事の方が辛いのだと知った。彼女は彼に、この世のありとあらゆる感情を教える。

 

それが苛立たしいと思う事もある。

彼の苦悩を知らない彼女が、彼が苦しいと思う瞬間を感じ取ることができるから。

 

・・・かつて、彼が恋をした相手も、同じ様に彼の心の襞にある苦悶を察することに長けていた。

恋が実らず、愛に変わった。あの時の思いがあるからこそ、彼女を大切に愛おしく思う青磁が存在する。

 

彼が、まだ彼の家族と話し合っていないからだ。一方的に、滞在先の国で迎えたい相手がいると言った。そして、その相手は、マクドゥガル家の者が反論できない縁を持った相手であり、青磁が探し求めていた条件を兼ね備えている。

だから反対される理由もなかった。万が一、反対されるのであれば、フランスの華と呼ばれる彼の主治医に仲介を依頼することになるのだろうという予定を立てていた。

傲慢で人の依頼などは決して受けない相手であるが、今回の話ばかりは受けざるを得ない事情があった。

それを最終手段として使うことに、青磁は躊躇っていた。

力でねじ伏せることが解決に至るとは思えなかったからで、それは彼女から得た影響による考えた方であった。一族が受け入れる姿勢であるのに、彼女が渋っている。条件も資格も、そして青磁そのものが望んでいるという最も重要な要件を満たしているというのに、最後の難関が突破できない。

 

人はみな、満たされたいと思う。

方法や時期はそれぞれであるけれども。生まれた時から欠けていると感じるのは、なぜなのだろうか。己がすべてを満たされた存在であると感じないのは、産声をあげた瞬間に、何かを落としながら生きているからなのだろうか。

そして、人は・・・自分の半身を探し、運命の人を求める。

自分の責任や選択というものから逸脱した存在に神聖を求める。

 

青磁は、肺に春の空気を入れる。この国の大気の匂い。桜の大気。それが愛おしい。自分の身体の中に流れる血に、愛おしむ記憶が刻まれているからなのだろう。しかし、そうでなかったとしても、この国の、この時期の風は、どういうわけは青磁にとっては懐かしいものであった。

 

懐かしいは、愛おしいことなのだ。

 

そう言った人のことを思い出す。

今、夢中になっている人は、かつて恋した人とは何もかもが違っている。でも、彼は、あの人のことを時々思い出す。彼女がいなければ、今、目の前にいる人のことを愛することがなかったからだ。

青磁は、間もなく実家に戻らなければならない。家に縛られていると嗤う者もいるのだろう。しかし、彼は彼の代かもしくは次代で完結させたいと思っている命題を抱えている。それを解決できるのは、彼女だけなのだろうという予感があった。それは予想とか希望とかいう曖昧なものではなく、確実な未来なのだと思っている。

 

そんな彼の煩悶に関わらせたくないという気持ちも大きかったが、彼女と一緒なら、彼はこの問題を解決できると思っているし、このような状況でなかったとしても、きっと彼女のことを愛おしむと思った。

家を捨ててくれと彼女が言うのであったのなら。彼は、それも考えたのだろう。でも、彼女はそう言わない。青磁が抱えているものの大きさを知っているからだ。そして、彼女以外に、それを解決できる術を持つものがいないことも知っている。

だから、青磁は彼女を追いつめていることも十分に承知していた。

だからこそ、待つ、と繰り返すばかりであった。

彼女が青磁との未来を考えたくないという選択をして欲しいとは願っていない。けれども、彼女の幸せというものに自由選択を含むのであれば、彼女は青磁と一緒にいない時の方が未来を多く選ぶことができるのだと思う。

でも。

彼は、一緒に居たい。桜の蘂が濃い紅色を見せると、彼はマクドゥガル家の敷地に残る、倬登のために植えられたという桜を彼女に見せたいと思う。

登という人物を大変に愛でて、日本の方式を多く残したとされる、マクドゥガル家の傑物とされる人のことを思う。彼は、この国を愛でた。同じ様に、青磁も心を引かれる。理由がわからないのではなく、なぜ心が吸い寄せられるのか認識しているから、なおさら強く惹かれる。

 

マクドゥガル家の悲劇は、誠次・マクドゥガルが引き起こしただけではない。過去に、幾度も生じているのだ。

稀生の時にも。也真斗の時にも。マクドゥガル家の男は、時々狂う。外からやってきた女の健康な血肉を継承することができない者は、時に狂気に生きて、狂気に死ぬ。

自分も・・・そうして、狂ってしまっているのだろうか。

青磁がこの国に拘るのは、この国ではない生国以外で過ごすことによって狂うことから回避されるのではないのかと思っているからなのだ。

でも。

桜の花びらが舞い上がると、どうにもならないもの苦しい気持ちが彼を落ち着かなくさせる。愛している人を壊したくなってしまう。そうしなければ得られないのではないのかと考える。

失う事が怖いから。得たものは壊す。そして得られないものは滅する。そういう一族の中で生きてきたから。青磁は、そこから遠く離れた場所で生活しているのに、その呪縛から解かれることができないと感じる。

自分のことを多く話さないのは、自分の育ってきた環境が他の者とまったく違うことを知っているからだ。

同じであるものを探すために生きているわけではないし、同じでないから愛せないということでもない。

・・・認めなさいよ

とても小柄な人の声が、聞こえる。まっすぐな視線で、彼の瞳を臆することもなく見据える彼女の視線を思い出す。

青磁の視線は、紫電と呼ばれている。逸らすことのできない強い視線のことを紫電と言う。しかし、彼は眼光鋭いだけでそのように呼ばれているわけではなかった。

青磁は、眼病を患っており、片方だけが薄い瞳を持っている。

それを神秘的だと言う者もいるが、彼はそれが未熟性の烙印であるという認識以外には考えられなかった。

それが、彼そのものであるのだ。

そう教えてくれた人を好きだった。

そして、それを実感させてくれる人を好きになった。

愛とは、こんな風に始まって深まるものだと知った。これがはじめてではなかったのに。

愛や恋を述べる機会は、これは最初ではなかった。

これが最初ではない。でも、最後だと思う。

次がないのだ、と思うのではなく、次は存在しないのだ、と願う。

これを言えば、外国籍の青磁が、その国独特の方便でもって逃れようとしているのだと思われることが苦しかった。

一時の恋情で彼は行動しているわけではない。

彼女だからこそ、彼はこの国に留まっている。

それを証明する術が無いから、彼は慌てているのだ。

彼女が誰か、青磁ではない他のものに心を動かしてしまうのではないのか、と。

一時の恋情で彼は行動しているわけではない。

彼女だからこそ、彼はこの国に留まっている。

それを証明する術が無いから、彼は慌てているのだ。

彼女が誰か、青磁ではない他のものに心を動かしてしまうのではないのか、と。

桜の蘂のようになりたいと思っていた。

生涯の番いになるような、桜の花片よりもずっと長い時間一緒に居られる関係になりたい、と。

桜の花びらではない。彼は彼女の蘂になりたい。

散ってもなお、そこに残り色濃く・・・実を残す者になりたい。

 

桜の蘂は。桜の花の色よりも濃い。そして、番になって残る。花が散ってもなお・・・それは残る。

 

芲_02

 

彼は宙に舞う花片を見つめる。追って行くことはしない。目の前を過ぎるそれらは、青磁に何かを伝えるかのように、ただひらひらと合図するかのように明滅するだけであった。それが彼には今は良くわかった。奇妙な眼病は、完治に向かっている。あと少しで、彼はここに滞在する理由を失ってしまう。それが今は、辛くて堪らない。

理解していたつもりであった。最初から、ここは終の棲家にはならないということも、承知した上で・・・そして、彼女を好きになってしまった。彼女と恋を結ぶということは、彼女をこの国から引き離さなくてはならないということであることもわかっている。条件が合致したものであればそれで良いというわけではない。青磁は、愛されるのではなく自分が愛した者が良いと判断してしまったのだ。後悔はしていない。彼女をこのまま連れ去ってしまえれば。彼はそんなことすら考えてしまう。

あれほど、待ち焦がれた状況であった。彼女がイエスと言うのを、ずっと待っていた。

青磁にも、勿論、独占欲も孤独も存在する。しかし自分はそれが人一倍激しくて、そして皆がそれを怖れていることもわかっていたからこそ、彼女でなくては受け止められないと思ってしまった。それを彼女は察して「決め込んでしまうのは危険だ」と忠告する。まるで自分のことではないかのように淡々と語る。

 

残酷な人だと思うが、彼女は青磁の惑いを察知していたのだと考えられた。彼女はそういうことには人一倍聡いところがある。朧であった輪郭や濃淡がはっきりと見えると自覚するにつれて彼は見えなくなったものがあるのではないのか、と指摘されたような気になってしまった。

今は、これほどに花の美しい季節であるのに。

彼女の心がつかみ取れない。彼女は、彼にこんなにも優しいのに、彼は彼女に優しくしてやることができない。

 

自分は異国から突如としてやって来た、彼女の桜なのだろうか、と思った。僅かな期間だけしか咲かない、花。それを愛でて人は足を止めることがあっても、それと一緒にどの季節も幾年も自分を重ねようとすることはしない。花が咲くその時だけ。もしくは、紅葉しその樹が生きていることを実感する時だけ。その時は、まるで紫電に打たれたかのように、彼らは足を止めることがあっても、その先には何もない。

 

無性に煙草が吸いたくなった。

彼女が好まないので、彼女と過ごしている時には吸わない。けれども、自分の中には仄暗い狂気が存在する。それを煙だけが忘れさせる。そう思っていた。

彼はかなたの地上を見遣る。ここは最上階だ。風も強く、縁に出てはいけないと言われていた。人が寄ることの出来る最も外側の手摺りに彼は体を凭せ掛けて、地表を見つめる。

花はだいぶ散り去り、濃い紅の色と緑葉が混ざってすでに姿を変えてしまっていた。満開の桜を見上げながら、彼女が綺麗ねと言ったことを思い出す。

彼女のためなら、雨粒でも桜でも抱えきれないほど用意してやろう、と思った。でも彼女はそれを望まない。彼女は青磁に、摘取るのではなく降ってくるからこそ愛おしいのだと言うのだ。

 

煙草の煙は、一瞬だけ、その痛みを忘れさせる。依存するわけではないが、彼は彼女と行き着く先が見えない焦りで煩悶している。

何と勝手なことだろうと思う。

あれほど、彼女が欲しかったのに。彼女が彼の胸の上で目を閉じることを許可された途端に、今度はその先が欲しくなる。

 

このまま、あの花蕊達のように番って生きたい。そのためには・・・

 

「青磁」

背後で声がした。

ここは高層階であるから風も強い。部屋の空調との差異によって勢いよく閉まってしまうのだが、このマンションはその点にも配慮されていて滑らかに開閉できる。そこもここに居を構えた理由のひとつであった。マクドゥガル家の庭に出る時ととてもよく似た感覚を味わうことができた。

今までは、あれほどあの家が厭わしかったのに。今は、懐かしささえ感じる。

 

音に気付かず、彼女の声と風で我に返る。

「やあ」

彼は薄く微笑んだ。

すでに身支度を終えた彼女の髪が、舞っていて、彼は目を細める。汗ばんだ額に口付けをしたのは、つい先ほどであったのに。今、彼女は涼しげな目元を彼に向けている。

彼の掌に包み込んでしまえば隠れて見えなくなってしまう顔が、彼にゆっくり近付いた。

「風邪をひく」

「大丈夫だよ」

彼は言われてはじめて気がついた。まだ上半身には何も纏わず、そういえば自分は水気を散らすために軽装のままでいたのだった。

「涼んでいただけ」

「そうではなくて」

彼女は顔を赤らめた。横を向いて、青磁から視線をはずす。

「何か、着て」

先ほどは何も纏わずに抱き合ったのに。彼は苦笑した。

彼女の虔しい感覚を愛おしむ。

彼女を家まで送り届けるつもりであったが、青磁の準備ができていなかったので、結局彼女を待たせる結果になってしまった。

彼はそれを素直に謝ることにする。

「すまない。桜が舞い上がっていたから」

本当は。舞い上がっているのは自分のほうであった。彼女と時間を重ねると、あまりにも幸せすぎて何もかもに寛容になってしまうし、何もかもが美しく鮮やかであると感じる。

「何か、考え事?」

彼女は察したように言った。彼は微笑む。イエスと言えば、それを邪魔してはいけないと呟いて彼女は背を向けてしまう。

わかっていることであった。

彼女は、他の誰かと通じ合うことに長けているけれども、他の誰かが自分を望んでいるとは決して思わない。もう少し自分に自信を持ち、そして自重して欲しいと思う。彼の所有物であるとは考えないが、彼だけのたったひとりになって欲しいと青磁が常に考えていることについて彼女はいつも憂悶する。

どうしたらひとつになれるのだろうか。愛していると告げるより、それ以上に本気で、真剣に、彼女のことを妻に迎えたいと考えているのに。

彼の家に咲く白い朝顔は、愛と狂気の象徴だ。白い花は、人を狂わせる。桜も淡い紅色であるが、彼は桜というものは、白い花だと思っていた。眼病のために、濃淡がわからなかったのだ。マクドゥガル家に咲く桜の樹を何年も見たというのに、彼は、それが徐々に白くなっていくという奇病に陥っているのだと思った。経年により古木は色素を失ったのだ、と。

しかしそうではなかった。色を失ったのは青磁の方であった。

 

「桜が散って、桜蘂の時期になったから」

彼はそう言ってまた見下ろした。すぐ目の下に、桜の木々が目をついた。ここは新築であるから、別の場所から持ち込んで植えたのだろう。そういう植え換えは樹を弱らせることが多いが、無事に根付いたようだ。人の事情で生きる場所を変えた樹は、それでも春には花を咲かせて実を結ぼうとしている。

彼女が隣にやって来た。

「危ないから、中に入って。・・・すぐに戻るから」

青磁は優しくそう伝えるが、彼女は巻き上がる髪に手を添えながら、青磁の当初の目的と同じ様に、涼を感じて目を細める。ほとんど化粧をすることはない彼女の睫が揺れていた。

 

それ以上、ここに居ては駄目だ。

青磁は心の中で呟いた。

なぜなら、彼は彼女を帰せなくなってしまうから。

傍にいても、傍にいなくても苦しい。どうしたら良いのかわからなくなって途方に暮れるくらい、彼女が愛おしい。

桜蘂を観るということは、番うことを・・・結ばれることを承諾することと同義だ。

青磁の実家に咲く桜の樹は、幾本か枝分けを行って敷地だけではなく河に添って何本か移植されたが、愛を誓う男女は桜蘂を観ることによって幸せになれるという、何とも甘い夢が伝えられていた。

白金髪の男がそれを聞いたのなら、冷笑することだろう。まったく根拠がないのに、人はなぜそれに縋るのか。幸せは、誰かに与えられたり約定したりするものでもないのだ、と嗤うのだろう。

「雄蘂と雌蘂が剝き出しになって、今度は実が成る。桜を愛でるという感覚は、理解できるよ」

「花だけではなく、その後も?」

「そう。桜という種について論文が書けそうだ」

彼は冗談交じりに言った。生真面目な彼女はその気になれば、きっと今のテーマで文字を起こしてしまうのだろう。だがしかし、青磁はそう言いたかったのではない。神妙な面持ちの彼女を見て、彼は気持ちが和む。

彼と将来を話し合うことは頑なに拒絶する彼女であったが、それ以外は至って穏やかであった。外では彼女は彼に何も求めない。

恋人同士の近接もキスも、自分だけが特別であるという確認は何一つ求めない。それが時々、もの悲しい。

 

青磁はもっと彼女に独占されたかった。

自分ひとりの、自分だけのものなのだと彼女に宣言して欲しいとさえ思う。いつから、こんな風に心が脆くなったのだろうか。そう思ってしまう。

己を愛せない者は、誰かを愛せない。しかし、誰かを愛することによって己に向かうこともある。彼女は青磁にそれを教える。

 

「桜の花片だけではなく、花に包まれていたものすら、青磁は桜だと言いたいのね」

彼は軽く頷く。散ってしまえば興味をなくすことが多いが、その後にのこるものこそ、彼が求めていたものだと思う。

彼は手摺りに腕を乗せた。自分の考えこんでいる姿を見せたくなかった。

彼女に言われて、ようやく気がついたが彼の水気はとうになくなっていて、素膚に春の風がやって来て、彼の温度を連れて行ってしまう。

だから、彼女は心配して服を着ろと青磁に忠告したのだが、彼はそれに遵わずに、目下の桜庭を見つめる。

花は散り、すでに見物に訪れようという者もいなかった。ここは私有地で、内側の庭に面しているので住人以外にはなかなかに気がつかない場所であったが、今、彼はそれを上から眺めている。

「なぜ、同じ種は、一斉に同じ時期に咲くのかな・・・」

周囲を確認しているわけでもないのに、花たちは同じ時期に生まれてくる。マクドゥガル家の男達とは違う。

愛の条件について、彼は考えている。そんなことを考えて愛をするのかと言われてしまうが、ずっと続く幸せに夢をかけすぎて、目の前の一瞬を積み重ねていることにこそ永遠があるのだということを忘れてしまいそうになってしまう。それはすべて、今が満たされているからだ。

形にできないものを、形にする。

それまで誰もできなかったものを、彼はやり遂げる。そのために、彼は彼女を連れて行きたい。

簡単なことであった。

青磁は、彼女と桜蘂を眺めたいのだ。きっかけも理由も存在する。打算もあった。条件も合致していた。でも、そんなことはどうでも良くなってしまうくらい、彼女に気持ちが傾いてしまっているのだ。

 

愛のためにすべてを捨てる気質であったのなら、彼女は青磁とこのような関係にならなかっただろう。

結婚を前提に考えて欲しい、と幾度か話を持ちかけたが、彼女は自分のことより青磁のこれからを考えるべきだと言い張るばかりであった。

青磁が、一時の気の迷いで彼女を抱いていると思っているのか、と最初は憤慨し失望した。でも、そうではないということも、最近ではわかるようになってきた。

彼女は、彼が狂気に走ることを食い止めているのではないのか。

そう思うのだ。

都合のよい解釈であることも承知している。でも、そう思わざるを得ない。

彼と同じ様に熱に浮かされたように夢物語を見続けるような人であったのなら、青磁も彼女のことについてここまで拘らなかったかもしれない。幾度か断られたら、それで仕方の無いことだと思って諦めていただろう。

彼の家に巣くうものを祓うために、彼がこれからすることは賛成されるばかりではないと思っている。

過去のマクドゥガル家の幾人かが試みたように。

しかし、彼は人から理解できなくても実行するつもりであった。称賛されたくてやるのではない。悪因を断ち切るためだ。これ以上、マクドゥガル家に悲劇は起こさせない。帰りたいけれども帰れない人がいて、あの土地に降り立ちたいと思っている。でも、それができていないから。

だから、彼はやるのだ。

「・・・青磁?」

はっとした。

彼女の手の平が、彼の腕に乗った。あたたかい。

「体が冷えている」

彼女が心配そうに呟いた。自分の髪が巻き上がって彼の腕を擽っていることも気にせず、両手で彼の肌を温めようとした時。

 

あっと声を出す瞬間さえ、なかった。

 

強風に彼女の体が蹌踉めいたのだ。

手摺りがあったとしても体の均衡を失い、彼女は風に踵を浮かせてしまった。

「行くな!」

彼は危ない、と叫ぶことができなかった。

 

桜に酔った風が、彼女を連れて行こうとしている。

そう思ったからだ。

 

青磁は加減を忘れて、彼女の腕を取って力強く自分の胸の中に入れる。

彼の声が静かな建物に響き渡った。

悲鳴さえ上げることもできない彼女を自分の体の下に入れて、手摺りを強く握り、彼女の背に押し当てた。目を瞑ったままの彼女が、何が起こったのか理解できずに彼の胸と手摺りに挟まれて身を縮ませていた。

「・・・ここは危ないと言ったのに」

彼は掠れた声で囁いた。一瞬、桜の木々が近くなって彼はひやりとした。自分はいつ死んでも構わないと思っていたが、本当はそうではないらしい。このまま命を落としてしまったのなら、彼が考えていることは達成できない。

その一方で。

あと少しであったのにと残念がる声が心の中で蠢いた。このまま、彼女と桜蘂に向かって落ちたのなら。それは、彼の願っている成就が完成されて永遠になるということはないのか、という囁きが彼の中で響き渡る。

今の叫声とは別の響きでもって。甘い蜜と猛烈な毒を孕んだ声であった。

彼の顔や胸、腕に彼女の髪が絡み付くように貼り付いた。

湿り気を帯びているのは、彼女の髪なのか自分の冷や汗なのか・・・どちらなのだろうと考える余裕すらなかった。

 

このまま、ここから彼女と一緒に・・・桜蘂を観ることで永遠に睦む仲になると誓わせる代わりに彼女を連れて行ったのなら。マクドゥガル家ではなく、代々の主の悲願が詰まったこの世とあの世の狭間に、今、行き着くことを願ったのなら。ひとつになれるのだろうか。彼女を、彼だけのものにしてしまえるのだろうか。

狂った焔が、彼の魄を焼きつける。

どうにもならないほど、彼女が欲しい。心と体以外にも。彼女の未来が欲しい。過去も欲しい。全部を飲み尽くしたのなら彼の乾きは癒されるのか。

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「青磁?」

彼女の声を聞いて、青磁は力を緩めた。

飛ばされていかないように彼女を引き寄せたけれども、それはとても加減したとは言えない状況であったので、彼は慌てて彼女の顔を覗き込んだ。

「どこか怪我は?」

彼女は首を横に振った。しかし、あれだけ強い力で腕を掴んだのだから、きっと鬱血していることだろう。少しも傷ついて欲しくないと思うのに、彼が彼女の肌を傷つけることに昂揚を感じる青磁は、もうおかしくなっているのかもしれない。

他の者に気取られないように、彼女の肌が露出する部分には彼の痕跡を残さない。涼しい顔をして他の者と話をする様を眺めて、誰も知らない彼女の秘密を知っているのは自分だけなのだ、と内心で悦ぶだけであった。まったく困った病んだ思いであることはわかっている。

「桜に酔った」

彼は、言った。目眩がするほど降り注ぐ桜の花弁はどこにも存在しない。ちらりちらりと点滅するような桜の光は、もう、見えなかった。

彼は彼女の頭に自分の手の平を添えて、震える声で言った。

彼女の全身に、桜貝のような痕跡を落としたいという昏い思いに駆られてしまう。自分だけのもので、自分だけに赦されたことなのだという目に見える証が欲しい。

 

なんと欲深なことなのか、と思う。それはわかっている。

こうして一緒にいられるだけで嬉しいと思うのに。その先を求めてしまう。

もっと、もっと愛したい。

 

ぎゅっと自分の胸を彼女に押し付ける。

彼女の背が撓って櫻の枝のようになった。風に吹かれて、このまま堕ちていきたいと思ってしまう。この瞬間が、幸せの絶頂であるのなら。

しかし、そうではない。彼はもっと幸せになれると考えていた。

フランスの華の言う通りだ。

幸せは他者から与えられるものではない。

自然発生するものでもない。

 

・・・自分が創り出すものであるから。

 

だから、この先で待っているものは多くの苦難も混じっているものの、大きな幸福と充足が待っている。

それを信じて、彼は走り続ける。

彼女のことが気になって仕方が無いという状態から大きく逸れて、もう彼女のことを考えない日は存在しない。

それを、日常としてしまった。

 

すると。

彼女が腕を彼の背に回し、そして彼の胸の中からくぐもった声で青磁に語りかけた。回りきらない手の先が、彼の背の途中で指先を起こす。しがみつくように、そして押しとどめるかのように。

 

「・・・いかないで」

それは、先ほど彼が彼女に向かって叫んだ言葉そのものだった。

青磁は驚いて、一瞬、呼吸を止めた。彼女がそんな風に青磁に何かを願うことはなかったことだから。

風の強い春の日の中で、彼女が震えながら彼に囁く言葉が・・・幻聴でないことを確かめる術はひとつしかなかった。

「もう一度、言ってくれ」

 

彼女は困った顔をしていた。少しだけ体を起こす。

そうすることによって彼女の心の内を覗き込もうとする青磁の視線と、彼女の視線が出会った。

どうして良いのか、わからない。

何が良くて何が悪いのか、それすらわからない。

 

花に酔ったというのは方便であったけれども。本当のことなのかもしれないと思った。確かに、青磁は花のような彼女に酔っている。

 

青磁の懇願に、彼女は軽く首を振った。切ない彼女の反応に、青磁はまた腕に力を入れる。壊してしまいそうになってしまう瞬間を幾度も経験した。その都度、自分という人間は本当はとっくの昔に狂っているのではないのだろうかと思ってしまう。

瞳の色が薄くなったのは、その予兆で、すでに夢の世界に入り込んでいるのではないのか。

数々の出逢いも別れも、そして待ち望んだ彼女と彼だけの時間さえ、桜に酔った故の幻なのかもしれない。

どうしたら、そんな惑いから抜け出すことができるのか。

どうしたら・・・彼女をこのまま自分の腕の中で微笑ませることができるのか。

彼はいつも問答ばかりしている。

「青磁、青磁」

彼は再び自分への呼び掛けではっと顔を強ばらせた。

高層階の手摺りで支えもなく彼にしがみつくしか術が無い彼女の声に、自分が彼女を怯えさせているのだと気がついて、彼は身を起こした。

彼が風で吹き飛ぶことはない。しかし、風に髪を散らせている彼女はあり得ないことではなかったが。

「今、飛んでいきそうだった」

彼女は慌てて腕を掴み、扉の近くまで彼女を連れて行く。引き摺るように強引に扱ってしまっているとわかっていたが、彼には彼女を優しく誘導することができなかった。彼女に対して、まったく余裕がなくなってしまっている。いつもの事であったが、酷く動揺していることが自覚できていた。

 

彼は髪をかき上げた。すっかり乾燥していたが、じわりと額に汗が浮かぶ。嫌な感覚が残っていた。

もう少しで、彼女と一緒に堕ちてしまいたいという誘惑に流されてしまうところであった。

 

確かに、ここのところ彼の思い通りにいかないことが多かった。

実家に彼女を連れて行きたいという希望も実現しなかったし、彼女は青磁との仲を詳らかにすることに積極的ではなかった。加えて、最近彼が苛立っているのは、彼女に対して他の男が寄ってくる様を目撃してしまったからだ。

まったくつまらない嫉妬であることはわかっている。しかし、それを見て、青磁は不機嫌になって落ち着かない気持ちになってしまった。なぜ彼女を好きになってしまったのだろうかと煩悶し、繰り返し自分に問いかけた。もう彼女を諦めてしまった方が楽になるのかもしれないとさえ思ったのだ。つれない彼女の態度は、青磁のことを弄んでいるのではなく彼女の本来の姿である不器用で虔しやかであることの現れであることを、十分理解しているはずなのに。

・・・桜蘂の季節になってしまう前に、彼女と桜を堪能することを心待ちにしていた。

しかし、彼女が他の誰かとその景色を見ているのかもしれないと思うと、身を焦がすほどに・・・そして全身がひりつくような痛みを感じる。

今日も、優しくできなかったのだろうと思った。彼女は彼の家に泊まらずに帰ると言い出したので、青磁は内心、かなり焦っていた。

それらはすべて青磁の考え方と気持ちの持ち方から来ているものなのに、それを彼女に押し付けてしまいそうになった。

すまない、と思う気持ちと後悔と反省の念があっという間に彼を支配してしまう。

上手に愛そうとは思っていない。けれども、彼女には優しく包み込む青磁・マクドゥガルでありたかった。彼女は他者を優しく包むが、そんな彼女をさらに憩わせる者でありたかったから。

けれども。

今、自分の昏い思いを悟られて、そちらに行ってはいけないと諭されてしまい、青磁はどう対応して良いのかわからずに途方に暮れてしまった。

彼女は、綺麗になった。前よりもずっと。だから、他の者がそんな彼女に気がつくことが許しがたいと思ったのだ。それを恥じて、彼は慌てている。彼女には何もかもが見通せていると思っていた。

彼は唇を引いて、扉に手を掛けて彼女に中に入るように言った。

外気に慣れてしまったが、室内とはあまりにも違う圧がかかって、扉を開ける力をいつもより強くしなければならなかった。

そんな中、彼女は外に出てきたのだ。このことを素直に喜べない。

どんな風に、逸らかしたら良いのか。

彼がそんなことを考えていると、扉を開き彼女が部屋に入るのを待っていた青磁の前を、目礼しながら横切った彼女と視線が合って、彼はまた緊張する。

部屋に入って、彼はソファの上に投げだしてあった薄手のシャツを素膚の上に着て、彼女の言った通りに肌を隠す。

 

「ただ、桜の蘂を見たいな、と思っただけだ」

最低の言い訳だと思った。桜を見物しようとして身を乗り出し、危ういと彼女に指摘されたという場面設定で逃れようとしている自分の状況を、それ以上言うつもりはなかった。彼は麒麟のピアスが冷えて彼の体温を奪っていくのを感じながら、それでも彼女に尋ねる。

彼の体が冷えることは厭わないが、彼女の体が冷えていないか、心配になったからだ。

「寒くない?」

「平気」

素っ気ない回答であったが、彼女はやや乱れた髪を手の平で撫で付けていた。帰りの支度が整い、彼女が部屋を出て行く時間が近くなっていた。

行って欲しくない、と思っている。

でも青磁は多くを希望しない。特に、彼女が彼との逢瀬の後にどのように行動するのかは、彼女が決めることだと思っていた。

本当は、どこにも行かせたくないと思っているが。

彼女は、襟元に指先を遣りながら、空気を受けて縒れてしまったブラウスを整えながら、言う。

「青磁は、時々、とても危なっかしい」

「オレが?」

彼が驚いて尋ねた。そんな風に言われたことはなかったからだ。

彼の紫電が怖いと言われることはあったけれども。彼が危うい、と彼女が感じているとは初耳であった。

「そう」

彼女は顔を上げる。そして、青磁に説明した。

「桜に酔ったの?それは花片?それとももっと違うもの?」

青磁は何も言えなくなってしまう。桜蘂を見るということは男女の仲を誓うことなのだ。だから、彼は桜蘂を見たいと思っている。

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青磁は彼女を気遣った。自分の身体が冷えたとしても、彼女が同じ状態になることは避けたいことであった。このまま帰したくないとは思うが、それ故に彼女を哀しませたくない。それは正直な気持ちであった。

恋をすると人は狂っていく。けれども、愛を知ったら人はどうなっていくのだろうか。桜の蘂に願いをかける男女の様子を嗤っていた頃の青磁はもうここには存在しない。

 

彼は知らなかった。知らなくても良いと思っていた。

来年も同じであるかどうかわからない樹の枝に貼り付く花の名残を見て、なぜ恋人達は未来を想像するのかということを。

そして長じると、青磁には理解できないことなのだと思っていた。

 

彼の奇妙な病のために、血が繋がった者でさえ、彼を敬遠した。伝染性はないとされていたのに、あれほど彼に媚び諂っていた者達は遠巻きに彼を見るだけになったし、次の当主が出てくるまでの繋ぎであればそれで良いとあからさまに言う者もいた。だから、自分の優遇された状況は自分で勝ち取ったものではないのだと思い知ることになり、それが彼の愛に対する価値観を大きく変更させることになったことは事実として認める。

 

しかし、今ならそれが・・・なぜ、人は愛を誓うのか、わかるような気がする。

以前のように、愚かしいことだとは思わない。

わからないのではなく、理解できることが怖かったのかもしれない。

彼の家の者は、時々、人の愛し方を違えてしまう者が出てくることがあるから。自分はそんな風にして誰かを強く欲することはないのだろうと思っていた。

でも、あの土地を離れて、彼は恋を知った。

それが実らず愛を知り、そして再び・・・愛を求める。

泣かせたくないと思い、傷つけたくないと願うのに、彼は恋する相手をいつも泣かせて困らせてしまう。それでも、好きでいることを諦めることはしない。後ろめたい気持ちがあることは確かだ。彼は、純粋に、他の者と同じ様な過程を経て彼女を好ましいと思ったわけではなかったから。

マクドゥガル家の者に相応しいか、彼女の家族の反対は対応できる程度か、マクドゥガル家の生活だけではなく、常に外出しがちになるであろうこともわかっていた。そんな中で、家族としてふたりで強い絆で結ばれるほどの相手なのだろうかと見極めを行うように観察してしまう、彼のそんな心の内を、彼女はとうの昔から承知しているように思う。

それでも、何も言わない。

彼の考えが変わらないことに困惑するような様子さえ見せる。自分でも、これほど固執することになろうとは考えていなかった。もう少し、諦める瞬間というものに臆病でないような気がしていたのだ。

 

しかし、今は、まったく考えられない。彼女のいない日々は想像できないし、想定したくなかった。

それほど・・・桜の花だけではなく蘂さえ眺めたいと思うほどに、彼女を愛している。

酔ったのかと聞かれる程に、彼は自分の物思いに鬱ぎ込んでいると気がついて、笑顔を浮かべる。無理して笑むことはないと彼女は言うが、彼は彼女を心配させないための偽りを受け入れる孤独も、彼女から教わっていた。

季節が終わり、色が変わり、匂いが春から夏に変化する。その時になってなお、桜を愛おしむ絆で結ばれていたい。

そんな願いを、桜の花が散った後に人は願ったり誓ったりするのだ。

 

「桜蘂に酔った」

彼は告白した。桜の花びらの咲く様、散る様をこの国の人々はこよなく愛していることを知っている。マクドゥガル家の敷地にも、桜が咲く。でもそれと同一であるわけではないのだ、と彼女を見て思うのだ。

人の生まれ育ったものが共通していなければいけないのだ、とは思わない。

あの白金髪の人も、彼が定めたファム・ファタルとは何もかもが違っていることを承知の上で、愛を継続することを選んだ。

恋に堕ちることも、愛に溺れることも簡単なのだ。しかし、継続することは難しい。成就することが最終目的では無い青磁にとって、愛というものが方便になっているのではないのかと思った時期もあった。

愛する人を不幸にしてしまう。時には、己が狂ってしまう。愛している人を狂わせてしまうような土地に連れ帰って、相手が幸せになれるとは限らない。

しかし、それでも青磁は彼女と生きたい、と思った。

これほど気持ちを傾けて、マクドゥガル家に戻らないことすら考えたのは、彼女を最後にしたいと思っていた。

やり遂げなければならないことを放置して、恋に溺れることができなかったのに。

彼は、惑っている。

狭間で行き戻りを繰り返してしまっているような状況を彼は受け入れている。

放さないで欲しい。

溶かさないで欲しい。

消えないで欲しい。

・・・そして、彼と彼女は互いに言った。

行くな、と。

彼女は彼の中に、危うさを見つけたのだろうと思う。

風が吹いても、青磁はあの場所で吹き飛ばされるような肉体を持っているわけではない。筋肉も重量もそれなりに存在するから、彼女が心配するような事態には陥らない。それなのに、彼女は・・・青磁に語りかけた。

肉体ではなく魄が離れて行きそうだと察したからだ。

桜蘂を見たからだろうか。地表近くではなく、宙から見下ろすように、あの紅色を見てしまったから。吹き上げる春の強風に彼は地と天を混雑させてしまった。それが青磁に目眩がするほどの匂いを伴った芳醇な空気が彼を酔わせる。

 

そんな彼に、彼女は問いかける。

「桜蘂に?」

彼女は不思議そうな顔をした。匂いも勢いもあるわけではない。散った後に残る濃い色の、残花よりも華奢な雌雄の蘂を見て、彼が酔うと告白することが珍しいと感じているようだ。

青磁は自嘲気味に嗤う。

「そう。だから君と眺めたい」

それは偽らざる気持ちであった。

しかし、すぐに補足した。

「君を酔わせたいわけではないが・・・」

言い訳じみている、と思った。自分が何を説明しようとしているのかさえ、はっきりしなくなってしまう。

 

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桜蘂に青磁は酔うと言いながら、青磁はそれを彼女と眺めたいと言う。

それでも。

彼の言葉を、まったく支離滅裂だと嗤う彼女ではなかった。

彼女はちらりと彼を見る。

・・・彼女の方が、紫電の持ち主ではないのだろうかと思う時がある。

紫電の持ち主である青磁を絡め取ってしまうほどの力を持っているのだから。

「行こう」

彼女を酔わせたいと思ったわけではないのなら、何を求めていたのかということについて言い淀んでいたままの青磁に、彼女はぽつりと言った。

 

青磁が顔を上げると、彼女は彼に背中を向けて自分の薄手の上着や鞄を取りにクローゼットに向かっているところであった。客用のそれを使うのではなく、主寝室の青磁の使っている場所の方が圧倒的に広いから、そちらを共有すれば良いのにと提案しているのに、彼女は頑なに来客用の場所を使っている。そして、残して行くものはまったくなかった。

一緒に暮らそう、という彼の申し出にもイエスと言わない。束の間の夢ではなかったのかと青磁が思ってしまうほど、彼女の痕跡はいつも儚い。

その彼女が、青磁に行こう、と誘う。どこへ、と聞かなくてもわかっていた。彼女は桜蘂を見る為に外に出ようと誘っているのだ。

そして青磁が行かなくても、それでも、彼女は行くのだろう。

 

彼は彼女の名前を呼ぼうとして、声を止める。

ここで呼び止めて良いのだろうかという躊躇があった。

 

自分の中にある、この秘めた物思いを彼女は感じ察して、そして行くな、と言ってくれた。戻れない路に踏み込みそうになって戻れないとわかっていてのめり込みそうになった青磁を止めた。彼女となら、彼の中にある昏い葛藤はきっと薄らぐのだろうと確信した。彼女に期待するのではなく自分に希望を持つことが出来る。そんな相手と巡り逢いたいと思い、そして出会うことができた。彼は桜の下で願いを唱える男女を蔑んだことを悔いた。

人の心は移ろうもので、決して永遠などは存在しないのだ、と。

彼はその時にそれが絶対だと感じていた。しかし、今は違う。永遠を約束するのではなく、永遠に傍に居続けたいのだと願うことこそが誓いなのだと思った。

 

これまでの距離の遠さを、僅かな期間で埋めることはできなかった。青磁と家族の間にあるものは深刻なものであるが、元通りにはならないのだろうと感じていた。なかったかのようにすることはできない。これまで、青磁は家族やマクドゥガル家のことを忘れたわけではなかったが、それでも時折・・・それらが笧みに感じることがあった。

もし、あの家に生まれなかったら、自分はこれほど遠くにやって来ることもなかったのだろうと思うけれども。でも、彼の眼病と彼の風貌がマクドゥガル家から乖背させ睽離させたことは事実である。彼が真実を知る前に、彼は孤独を感じてそこに閉じこもってしまった。誰かと心を通わせることはできないのだと拒絶していた。

でも。

フランスのパリで過ごした短い日々に生まれた、成就できない恋心と、今ここで育んでいる愛おしい気持ちが彼を変えた。

自分だけが苦しんでいたわけではないのだと想像することができたし、理解し受け入れ、許すことができるようになった。

更に、彼から離れて行ってしまった者達に対して、彼らも苦しんだのだろうと想像する気持ちの余裕が生まれた。

それらはすべて、彼女の影響によるところが大きいと思う。

信奉しているのでは無い。しかし、尊敬に値する人物だ。彼はそんな彼女を好きになって良かったと思っているしこれからも変わらない気持ちでいるのだろう。

「もう散ってしまったのに?」

この時期の桜の樹の下に行こうと思う者がすくないことは、青磁もよく承知していた。

これから、彼女のことを彼は散らしてしまう。桜のように。

それまで生きてきた国を置いて、彼の国に来て欲しいと懇願することになる。彼女は、イエスと言わない。でも、イエスと言うまで彼は諦めない。

 

恋に堕ちたら、それが恋なのだ。

 

彼はそれを実感する。

理由もきっかけも、恋の前ではすべてを置き去りにする。

 

桜の散った後について、彼は思いを馳せている。

そしてそれは恋に似ていた。

桜の花の香りは僅かで、他の花たちのように強い芳香は持たない。

結実するまでの過程を、彼は彼女と眺めていたい。

そう思わせるほどのものが、彼女には存在する。

いつも愛に饑えていて、それでもすぐに得られるものを疑わしく思って身構えていた青灰色の瞳の男のことを思い出していた。

彼もこんな風に・・・桜の風と空の下で、巡り逢った人のことを思うのだろうか。

 

芲_06

 

花の香りが漂ってくるような気がした。それは幻であったのかもしれない。

室内には桜はないから。しかし、彼は確かに春しか咲かない、すでに散ってしまった花の空気を感じる。

目眩がするような甘い匂いと、浄化されるようなもの悲しい香りが混ざった、懐かしい空気をここで感じた。

 

「散った後にしか、桜蘂は見ることが出来ないでしょう」

彼女は苦笑いを交えながら、言った。表情は見えない。既に上着を着て、声は遠のきながらも彼に届く。風のように、風に乗って。

それは、彼を何に、どこに導くのかわからない。

彼女の髪と、春に相応しい柔らかい色合いのコートの色を眺めながら、彼は狼狽える。青磁は彼女の前では、ひとりの青年になってしまう。人々から傅かれたり、同年代の者が臆するような場面に慣れていたりするけれども。でも、こんな場面では彼はいつも戸惑ってしまう。

わかっている。

それは、彼女だけがもたらすものであることを。

 

「桜蘂を見る、という意味を知っているのか」

彼は呻くように言った。それを肯定されてしまえば、彼女を手放せなくなってしまう。彼女がどれほど抗おうとも、彼女から離れないと決めてしまう自分の心が怖かった。

もう、とっくの昔に狂っているのかもしれない。

「青磁」

戸惑う彼に、彼女は言った。

「知らないことにしておく」

彼女は返事をする。

 

それが、今のところの彼女の返しなのだろう。

 

でも。

ノーではなかった。

拒絶するのではなかった。

 

彼はそれがどんなことを意味しているのか把握しかねて、そしてまた彼女に質問する。

「知らないままにはできなくなる」

青磁はぎりぎりのところで・・・婉曲の際で踏みとどまった。

彼の妻になって欲しい。彼だけのものになって欲しい。彼とともに、マクドゥガル家に住まって欲しい。具体的な言葉はいくつも存在する。

けれども。

桜蘂を見ることの意味を彼女は知っていながら。

それに酔ってしまったと言って狂気を覗かせた彼を引き戻した。

戻れない路から。

 

彼はそんな彼女と・・・ずっと、ずっと、傍に居たい。

彼女と、世界各国の桜の蘂を眺めたい。

しかし、それは言わないままで、彼に向かって彼女は囁くだけであった。

肌を寄せ合い、そして彼に優しい笑顔を向けるのに。

それは彼がそうさせているのだと思っていた。彼女が言い出せないのは、彼だけが未来に傾いているからだ。

しかし、彼が望む未来はふたりで望まなければ生まれない。

 

「桜が散っても、桜は綺麗ね。・・・それを、忘れていたくない」

彼女の答は至って簡素なものであった。

彼が、散った桜の跡を見ようとするのは、永遠を誓って欲しいからだ。

しかし、彼女はその声を無視しないかわりに、その誓いを忘れることができなくなってしまうが、良いのかと問う。

「ああ・・・忘れないよ」

彼は即座に言った。どうして、忘れることが出来るのか。

これほど愛おしいという気持ちを、忘れることはない。痛みとなって薄らぐことを待つという未来があるのかもしれないけれども、マクドゥガル家の男はただひとりの人を激しく愛する傾向にある。

それが破滅や破局を迎える結果になっても、誰も・・・本人でさえもそれを止めることは出来ない。

 

青磁は完全に彼女に夢中なのだ、という滑稽な状況であるのかもしれない。しかし、少しも気恥ずかしいとは思わなかった。

事実だから。彼は、彼女に夢中だから。

 

「それなら、早く支度をして」

彼女は少し怒ったように言ったので、自分がまだ上半身に何も身につけていない状態であったことに気がついた。

そうか。

彼は笑った。

彼女が始終背中を向けて、素っ気ない言葉を繰り返すのは彼が外出できるような状況どころか、何をしていたのか明白な格好であったからなのだ、ということに気がついた。

 

彼は彼女に徴を付けると同時に、彼女からの徴が欲しいと言った。

胸の上に薄く残る桜色の彼女の痕に気がついて、彼はそれを指先でなぞった。

 

その色が濃くなっていくことを確かめたくて、彼は素膚のままでいたのだということをようやく思い出した。

 

気が遠くなってしまいそうなほどの深い悦楽に浸り、そして彼女と抱き合うたびに彼は彼女への思いを募らせていく。

しかし、彼女を愛おしく思うのは、その時間だけではなかった。こんな風に、彼の心の内を理解し、そして桜蘂を見る、というマクドゥガル家の土地の者は誰でも知っている言葉の意味を彼女は拒絶しないで受け入れようとしてくれている。

青磁は・・・青磁は、彼女に何かを与えられているのだろうか。彼女を安らがせることができているのだろうか。それを聞いても、彼女は応えてくれないだろう。今は、まだ。

 

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「困っているの?」

彼は向こう側の彼女に聞いた。

彼女の小さな呟きが聞こえたが、青磁にははっきりと聞き取れなかった。

それでも、何を言っているのかは想像できた。

きっと、そのように言う青磁のことを意地悪だと言っているのだろう。

そうだ、彼は・・・愛に酔って彼女を困らせている。

それが許されると信じられるから。

 

彼が酔っているのは、本当は桜蘂ではない。

 

桜の蘂の色合いでは、人は酔わない。

けれども、色の濃淡が判別しにくくなるという眼病を患っていた青磁には、その色は鮮やかすぎた。しかし、今はそれが嬉しいし、少し哀しい。

病が快癒に向かっていくことは嬉しい。また、あの時のように絵が描けると希望を持つことが出来る。

しかし、同時に・・・マクドゥガル家に戻る時がやって来たということを知らせる兆候だから。

 

「青磁」

はっきりとした声で、彼女が玄関先から声をかけてきた。

青磁はそれに反射的に応える。

「今、用意をしていく。待たせてすまない」

そうか。待たせているのは、彼女ではなく彼の方なのだ。

それに気がついて、支度を急ぐ。

でも。次に、彼女の声に彼は足を止めた。今度は、はっきりと聞こえた。

抱き合っている時には聞こえない声。そして、近い場所で見つめ合っている時には消えてしまう声。

彼女の、心の内の声はとても小さい。けれども、今ははっきりと口にした。

「青磁とだけ、見たいから」

彼は歩きながらソファの上に投げだしてあったシャツを着込むために上げていた腕を止めた。

彼女の声を、何かの動作と同時に聞いてはいけない。そう感じたからだ。

 

・・・最初は、見ているだけで良かった。次に、話をしてみたくなった。怒った顔が可愛らしくて、もっと話をしたいと思った。そして、彼女と幾度も衝突し、意見を交わし、相手の思考に賛同したり反発したり・・・幾度も話し合いを繰り返した。彼女は自分の心の内をなかなか明かさないから、それに対して憤ったこともあった。また、他の者が彼女に気安く声をかけるだけで胸が騒ぎ、彼女に優しくできなくなってしまった。

それが恋なのだ、と気がつく時には、すでに深く彼女を愛していた。

それに対し、自分はある目的があってこの国にやって来て、彼女を見つけ出した。

後ろめたいという気持ちを感じる前に、彼女に夢中になっていた。

 

自分が醜い嫉妬で彼女を支配してしまいたいと願っていることも・・・彼女は承知の上で、彼に散った桜に残るものを見に行こうと言う。

他の者に、彼女を引きあわせたくない。渡したくない。彼女は、彼の所有物ではないというのに、それをわかっているのに、どうしても独占したいという気持ちが消えて無くならない。

 

彼が外出の支度を整えている間、彼女は呟き続ける。それが彼に届いていることをわかっている。大きな、独り言であった。

「他の人と観桜に行くのは・・・気になるものね」

それは、青磁が他の者と行くことについてなのか、他の者と観桜する時に彼女が感じていることなのか、わからない。それでも、彼女は囁く。囁きにならない声で。彼の前では消して言わないことを述べる。

彼はただそれを聞くばかりだ。桜の風に乗って、彼だけの蘂は告げる。春が過ぎて夏の気配を宣言する桜蘂そのもののように。

 

「故郷の桜はどんな感じなの?」

彼は必要最小限のものを用意して、慌てて廊下を歩く途中の言葉であった。

「今はどう見えるのかわからないけれども、とても・・・綺麗だよ」

そうだ。彼は、この病を癒そうとしてから、あれらを眺めたことはなかった。あの土地の花達は、どうしているのだろう。静流という名前の当主が愛した土地の花達は白い花が多かった。

そして彼の家では白い朝顔について述べることは禁忌とされていたけれども、唯一の相手と定めたものを、朝顔と呼ぶことは消えていない。

フランスの華がファム・ファタルと呼ぶように。青磁は、彼女のことを彼の朝顔と呼ぶ。

桜も朝顔も・・・この国ではとても深く愛されている花々であった。青磁はそれを知ってとても心が満たされた。自分の中にある渇望が、この国ではどんどん満たされる。しかしそれは、彼女あってこそのことだ。

「桜蘂を観ることが、春の行事になるくらい」

彼は表現をぼかして言った。桜の花を眺めるだけではなく、桜の散った跡に集う人々のことを言うが、その意味は述べない。

彼女は、もうわかっているから。

男女の契りと誓いを望む蘂の昊を眺める時。それは、彼女であって欲しいと思っていたが、それが実現されそうで彼は躊躇していた。

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彼はそこで彼女の待つ玄関先に顔を出した。

彼女はきちんと上着を着て、鞄を肩に掛けていた。いつも見る、彼女の姿であったけれども。少し湿り気の残った彼女の髪が、「いつも」から逸脱していることを教えていた。

泣き出したい気持ちになってしまう。

彼の顔を見上げて、彼女は首を傾げる。

「待っていてはだめ?」

「いいや・・・」

彼はそれだけしか言う事が出来なかった。胸が何かに詰まって、重くなってしまう。

単なる一時的な火遊びだと・・・彼女との関係はこの国だけに限定されるのだと言えば彼女は心安らかになるのだろうかと思うと、決してそうではないのだと考える。青磁が持つ葛藤と同じ様に、彼女の中でも葛藤があるのだと思っている。行かないで欲しい。彼女はそう言った。

それは、桜の風に酔って彼が吹き飛ばされてしまうかもしれないという不安だけではなく・・・彼女の心の声なのだろうと思った。

「君を待たせることはしたくない」

彼はそう言って、前髪をかき上げた。ある時期からはあまり長くすることはなかったが、整える時間はなかったので、いつもより長く伸びた気がする前髪の下から、彼は彼女を見つめる。この瞳は、生涯、同じ色になることはないだろう。眼球を移植しない限り。でも彼は色素が戻らなくても良いと考えていた。見えるものが同じであったのなら。あの桜の細かい濃淡が見えるようになるのであれば。彼は、この瞳を残したいとさえ思っていた。

 

困っているのか、と尋ねた彼女に答えることができていなかった。確かに、彼は困窮していた。

彼女を、失いたくない。

そう思っているからこそ、一緒に暮らそうと申し出た。彼が妻にしたいと宣言した人物は、彼女が最初ではない。だから、彼は後ろめたく思っている。それを彼女は感じているのだ。

愛した者と行き着く先を、彼が結婚であると言い切ってしまうところが危ういのだと彼女に指摘されたことがあり、彼はそれ以降、どのようにして愛を表現していいのか躊躇ってしまっていた。彼女がそんな彼に身を寄せるようになった時に、ますます困惑した。彼と同じ未来を見ていないのであれば、なぜ、彼に彼女の身を許すのかわからなかった。

それでも、彼女が恋しくて・・・どうしてそんな風に彼に身を任せるのかということを尋ねられないで今日に至る。

青磁は、自分が待つことには耐えることが出来ても彼女を待たせたくないのだと思っていた。

だから、こんなに焦っている。

彼女が、待ってはいけないのだろうか、と言うから。

 

「桜の花と違って、待っても散らないから」

彼女は柔らかくこたえた。彼は慌てて、彼女に近寄る。

どうして良いのかわからない。でも、彼女を帰したくなかった。

同じ敷地の中の見物であったので、彼は薄い裾の長いフード付きの上着をシャツの上に羽織っているだけであった。部屋着に少し変化がある程度の軽装だ。

彼女はそれを見て、目を細めた。

「体が冷えないように」

先ほど、何も纏わずに上半身を素のままで彼女に触れた時に体を冷やしているのではないのかと彼女に指摘されて、青磁は笑った。

「あれしきのことでは、何も起こらない」

彼女は、青磁を見上げた。そして、軽く溜息をつく。判っていない、とまた呟いた。

「心配してくれている?」

彼は心が踊り出すのを感じた。ぽこぽこと音を立てて泡が彼の体の内で弾けては消える。

「必要ないようだけれども」

「必要だよ。心配して欲しい。オレのことを考えて欲しい」

彼は正直に告白する。

玄関先で・・・扉の先に出てしまえば、彼女は彼に対して冷淡になってしまう。

恋人同士の甘い抱合はこの部屋の内だけでしか成立しない。人に見せびらかすような行為は彼女は好まなかった。しかし、彼は想う。

場所や状況がわからなくなってしまうほど、誰かを愛してしまったということを止められない者は・・・どんな忠告も制止も不要としてしまうくらい、歯止めがきかないものなのだと彼は知っているから。

「・・・オレとだけ、桜蘂を見て欲しい」

彼は絞り出すように言った。

それは彼が少年の時に、決して自分は言うことがないのだろうと思っていた言葉であった。

「青磁とだけ?」

彼女は復唱した。彼は遣る瀬無くなって、微笑む。縋ることは彼女を苦しめる。覆い被さるような気持ちでもって依存するような台詞は言いたくない。

でも・・・でも。

「桜の蘂だけは、君とだけ、見たい」

拙い言葉だとわかっている。でも、それしか言う術が見つからない。桜は誰と見ても良い。でも、男女の誓いを立てる桜の蘂については青磁とだけにして欲しい。

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そんな願いを彼女は無視したり拒絶したりすることはなかった。

ただ、返事はなかった。

それでも、彼女は言った。

桜蘂を見に行こう、と。

 

「桜の蘂を見たいという人は、滅多にいない」

彼女は言う。

青磁の欲しい言葉から少し逸れた返事であった。

 

しかし、彼はそれで不満だとは思わなかった。

 

なぜなら、彼女は、敢えてそう言っているから。

なぜなら、彼女は青磁と約束をすることはしないから。

 

未来を誓う夢のような願い事は言わないのだ。

青磁がもっと具体的に、実現するためにはどうしたら良いのかと提示しなければ彼女はイエスと言わないのだろう。

そしてその間に、もし、彼が疲弊してこの恋を諦めてしまったとしても彼女はまったく恨み言は言わないで静かに去って行ってしまうのだと思われた。

どうしたら、そのようにならないのか。

彼は、真剣に考えている。

彼女を永遠に、彼の傍で微笑んでもらうために、彼がしなくてはならないこと。それは明白であった。

 

「・・・今回は、ひとりで戻る」

「そう」

彼女は即答した。短いこたえであったけれども、彼女はそれを待っていたのだと思った。青磁は鳩尾から喉元に駆け上がる狂おしさを、肺に吸い込んだ。

彼の故郷に、彼女を連れて行きたい。それは今でも変わらない気持ちであった。しかし、彼女は青磁に聞いた。

「いつ?」

「すぐにでも」

彼女はもう一度言った。

「いつ・・・?」

青磁はそこで形の良い唇を閉ざした。

自分の思ったことが、勘違いなのだろうかと心の中で彼女の言葉を繰り返す。

片方だけ薄い瞳が、大きく開いた。

頬が僅かに痙攣する。彼女の声が、彼から平静を奪う。

彼女は聞いているのだ。

いつ、戻ってくるのか、と。

彼がひとりで帰郷することを送り出すのに、彼女は青磁に戻って来いと言う。

けれども、青磁にはっきりとすべてを告げることはしない。

明白な返事ではなかったけれども。

頭の中が発泡した状態になる。何かが弾けて、何も考えられなくなりそうになる。それが「何」であるのかさえ、わからなくなってしまうほどに華やぐ騒ぎに胸が共鳴し、彼は頬がかっと熱くなっていった。

 

胸が痛い。

息苦しい。

耳鳴りがする。

 

それでも、彼女の姿も声も香りも温度もすべて・・・すべてが今、彼に向かっていると思った。

 

もどかしい。

でも、愛おしい。

マクドゥガル家の慣習が、なぜ、花樹に喩えられることが多いのか、彼は理解した。

彼は言葉を探した。

戀や愛は儚いものだから、という認識を改めざるを得なかった。

花が散って、その後に残るものさえ愛おしいと思うから。

唯一絶対と愛する人のことを花にたとえるのだ、と悟る。

誰に教えられるでもなく、彼はそれを知った。

思いを馳せる毎夜毎朝の青磁のことを、彼女は知らない。

それでも。

自分だけが切ない物思いに眠れぬ夜を過ごしていたのではなく、彼女も・・・少しでも・・・彼女が少しでも自分のことを気に懸けているのだと確認するような言葉を投げかけられて、彼は戸惑っていた。そういう返しを期待していたところも在ったが、彼女に限ってそのように容易く青磁に都合の良い解釈をしてしまうような言葉を使うとは考えていなかったから。

失望したのではなく、まったく予想外の出来事に青磁は心を激しく揺らせている。それだけはわかった。

「すぐに、戻る。そう、桜の蘂が完全に葉桜になってしまわないうちに」

「葉桜の季節はもうすぐ、そこよ」

彼女は微笑んだ。面映ゆい思いをしているのは彼だけではないのだ、と言いたそうに。

しかし、そんな彼女の笑顔を青磁はこよなく愛していた。

彼女のことを思えば、気鬱なことも無視して遣り過ごしてしまいたいような出来事も乗り越えられそうな気がした。

何より。

この人となら・・・この人と一緒なら、彼は戻れない路に怯えて生きることはないと核心できた。いつの間にか迷い込んでしまっているような、そんな恐ろしい冷たく寂しい路の中にひとり孤独に取り残されるという恐怖に打ち克つことができる。少なくとも、そう強く心を持つことができる。

 

焦げ付きそうなほど強く熱い恋情を胸に、彼は囁くように彼女に言った。

「桜蘂を、見てくれるか?」

「これから見に行くところ?」

狡いな、と思った。しかし憎めない。

青磁は苦笑いを浮かべる。なぜ、これほどまでに彼女は青磁の心をかき乱すのか。理由はわかっているのに、青磁はそれを考える。彼女のことを考えるのは、青磁が彼女に心を奪われているからだ。そして、諦めないと決めたから。

もし、こんな愛し方が彼女の重荷であったのなら。彼女は正直に告白するのだろうと思う。その時は、青磁は彼女との人生について考えることを断絶させなければならない。夢想することも、ひょっとして継続できるかもしれないと期待することもしないと努めるのだろう。

しかし、そんな瞬間が来ないように。

「もしも」という過程を幾つも立てて彼女に接することは避けていた。いくつもある未来のひとつにしたくなかったからだ。

切ない気持ちがあふれ出しそうになる。

思いすぎて・・・きっと、この思い全部を放出してしまったのなら、彼女を容易く壊してしまう。それが怖い。そして、彼女は彼に対して怯えているのではないのだろうか。少なくとも、彼は己が怖かった。熱情を抑えきれない時があるから。彼女に加減しない自分が苛立たしくもあり、同時に恐怖でもあった。マクドゥガル家の男子は、そういう愛し方しかしない。己があの家の者であることを証明するために保持しているわけではない気質が、彼を悩ませていた。

 

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彼の恋は穏やかなものにはならない。炙られるように強く激しい念に近い感情でいつも焼き尽すような恋愛しか経験していなかった。

でも。

あの時に、成就することのなかった戀が彼を変えた。

彼の瞳のことを彼に直接尋ねる者は少ない。青磁も人格者であるわけではないと自覚しているが、距離を置かれたようでこちらも態度を変えてしまうこともあった。

しかし彼女はどこか他の者と違っていた。ありきたりな言葉でしか表現できないが、最初は神の奇跡でもなく、運命の偶然でもなく、彼は彼女の存在を知っていた。

そして、彼に対して、叶わなかった恋の相手と彼女だけは、青磁の眼病のことを彼の一部であり個性であり特徴でしかないという認識であった。

それが彼を安堵させた。自分は人と違うのだと他者によって確認させられることにうんざりしていたから。

 

過去の様々な出逢いと別れの中で、彼は知った。

叶わない恋が、それを教えてくれた。

運命というものは抗えないものではなく、自分で定めることができるということを。

そしてそれは受け入れることも拒むこともできるが、ひとりの力では達しえないことも同時に学んだ。

抗えないほどに強い力で惹き寄せられる物事に、立ち止まるという強さを身につけた。

 

運命とは・・・運命という名前でしかないのだ、と彼は思った。

抗えなかったことに対する理由であったり、永遠と定める根拠にすることもあった。けれども。

季節によって今でも、叶わなかった恋のことを懐かしむことがある。その恋が成就しなかったことについては固執するのではなく、だからこそ、彼女を見つめることができるのだと思える。

そして、桜蘂を見るという誓いの元に、青磁の父と母は結ばれて青磁が生まれたことも、彼の土地で様々な恋人達が花が散ってもその先まで一緒に生きていこうと誓うことも・・・今では、違った感情と景色で受け入れることができる。

そうか、と思った。

運命とは、受け入れてはじめて運命と呼べるものに形を変えるのだ。

そう思った。

勿論、彼女は彼にとって都合の良い肯定ばかりを青磁に返す人ではなかった。

青磁が帰郷することに難色を示していることの根源を見抜き、指摘し、彼を問い詰めることもやってのける。逃げてはいけないと言うこともあったし、時にはそんな彼女に青磁が困り果てて彼女から逃れるように会うことを避けることもあった。しかし、彼はどうにも彼女が気になってまた戻って来てしまう。

諦めたくないと思っていた。

彼女がもうやめて欲しいと言うまで。

彼が、もう、これ以上傍にいられないと思うまで。

青磁は、彼女に桜蘂のことを言い続ける。

そしてそれは桜の季節でなかったとしても言うのだろう。

もう、告げてしまったから。

 

彼女に、彼だけの朝顔になって欲しい。

 

桜でも朝顔でも・・・本当は、花の種などはどうでも良いのかもしれない。ただ一つだけわかっているのは、彼だけの芲になって欲しい。それだけだ。

 

しかし何度も繰り返した青磁からの求婚の言葉に彼女はイエスと言わない。

だから、時々不安になる。自分は彼女のことを苦しめているのだろうかと思ってしまう。彼が言い募りすぎて、彼女は何も言い出せないのでは無いのかと思うのだ。そんな風に思わせる態度を彼女が見せない分、余計にそう考えこんでしまう。

 

彼女は何も言わない。

しかし、その代わりに・・・素っ気なく尋ねてきた。

いつ、帰ってくるのか、と。

 

それが今は、無性に嬉しい。知らずに笑顔になってしまう程に。彼のことを考えている彼女を想像するだけで彼に幸せが落ちてくる。

待っていなかったのにやって来た桜の花片が、彼に幸せな桜風をもたらす。

愛や恋に酔って見失ってしまうものより、愛や恋に教えられ知ったことの方が多かった。

素晴らしい経験であり、彼は人を信じ、彼の紫電に惑うことのない人の声を聞き分けることができるようになったと思った。

血の繋がった、あの忌まわしい歴史を共有する一族でさえ、青磁のことを理解しようとしなかった。

与奪を司るのは、運命の人ではなく己そのものなのだ、と知った。彼女は総てを赦す女神でもないし、彼の未来を定める理由の根源でもない。

ただ、彼女がいるから生きていることが朗らかで明らかなものであると考える彼の存在になることを認めるか、そうではないか、という問題を残しているだけであった。

青磁はいつになく口籠もりながら、言った。

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「これから桜蘂を見に行くけれども・・・君にも、マクドゥガル家の敷地の桜も見て欲しい」

いつか、とは言わなかった。すぐにでも見せたいものであったから。

あの桜達の下で、彼がかつて見てきた風景になりたい。

今度は青磁と彼女が風景そのものになりたいと思っている。

永遠を誓い、未来も一緒で現在、花がないのにそれでも集う恋人達のように彼女といつまでも一緒に同じ風景を見たい。

その色が、彼と彼女で違っていたとしても、青磁が見る彼女はいつも同じであるから。

 

彼女はしばらく無言であったが、その問いかけを無視することは無かった。

「青磁がなぜそうしたいのか、説明して」

「説明するために、今回戻ろうと思う」

青磁は笑う。彼女がそこまでして話を逸らかすのは、彼に一度ひとりで、戻り、彼女を伴わないで解決しなければならないものを先に解決して来い、と言っているからだ。

 

厭わしいと思っていた。

でも、今は懐かしい。

あの昊の下で咲く、桜の蘂が恋しくなった。

あのマクドゥガル家の土地を見せたのなら。彼女は何という感想を洩らすのだろうか。

青磁はそれを考えながらも、彼女をすでにだいぶ待たせてしまっていることに気がつき、外出の支度を整える時間を短縮させる。

自分から誘っておいた観桜であるのに。

しかし桜の花はすでに存在しない。その花の下から覗く蘂と葉を眺めに行く。

「でも、一度戻ったのなら」

彼は前置きした。微笑んでいた精悍な顔がふっと引き締まって真剣な面持ちになった。彼が決めていたことに対してまったく軽く考えているのではないのだという気持ちを秘めて、宣言した。

「次に戻る時には一緒に連れて戻りたい。それで良いかどうかは聞かない。そうしなければ次は戻らない、というオレの希望だから」

彼が帰る場所はマクドゥガル家であったけれども、彼はいつも彼女と帰りたい。そう思っていた。帰る場所は、彼女の帰るところだ。

あの茶色の髪の人が言っていたことと同じだろうと思う。彼女も、彼女が帰る場所は白金髪の人のところなのだと考えているから。

いつ、彼女のところに戻ってくるのかと聞いた時の彼女の心を包みたかった。それ以上に、その言葉に青磁は癒されたのは青磁の方だ。

 

「次の桜を眺める時には、君も一緒に見て欲しい」

「桜蘂は青磁を酔わせるのに?」

「そう。だからこそ、見張りが必要だから」

彼女は少し首を傾けて、笑った。泣きそうな顔をしていた。しかしそれは困った顔ではなかった。

「わかった」

彼女は短くそれだけを言う。彼は背中まで強ばらせていた緊張を解いた。

自分がそれほど緊縛した空気を作っていた本人であると言うのに、その空気が緩和されて、今までいかに息苦しい雰囲気であったのかを知った。そんな中に彼女を置いて、追いつめたのは青磁の方であったのに、彼女は何も言わなかった。

「・・・強制ではないよ」

「強制でする返事ではない」

彼女はいつもよりさらに素っ気ない口調で言う。わかっている。こういう風に必要最小限しか述べない時の彼女は、限りになく正直に物事を述べている時であった。

 

人は貪欲だ。

恋愛というものは、そこで終わり、ということはないのだろうと改めて思う。

彼女を見ているだけで良かったのに、それだけで満足できなくなってしまった。

 

愛は、人を狂わせる。蘂は、人を酔わせる。

好きになってしまって、それが恋なのだと認め、愛になっていく。

いいや、恋を知らねば愛を得ることはできない。

桜の花が散らなければ、蘂を見ることが出来ないように。

それらは別々で考えることのできないもの同士であるのだから。

 

それから、彼は彼女の質問に、もう一度回答した。

「すぐに戻る。それほど長く待たせない。戻ったら・・・まだ桜が咲いているところまで日帰りで良いから旅をしないか」

「どうして交換条件なの?」

彼女は笑い出した。ああ、彼女の笑顔が本当に好きだ、と思った。

思うだけで彼の心は優しく柔らかく色鮮やかになっていく。もう二度と、こんな気持ちになることはないと思っていた。

でも、今は・・・

考えてもいなかった。

こんな穏やかな微笑みを信じて、彼女を残して行くことに対する不安が霧散してしまうなんて。

しかし彼女には静寂しかなかった。

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だから、青磁はそれで知った。

不安にさせてはいけないと思っていたが、本当は青磁の方が不安で落ち着かない気持ちを抱えていたのだ、と気がついた。

彼女はいつも変わらない。

ただ、言うべきことを言って成すべきことについて行動し、思考する。

これはひとりで乗り越えるものであるかもしれないが、彼女が彼に行くなと告げてくれたことによる安堵であることを忘れてはいけない、と心に強く刻んだ。

 

彼は唇を突き出して、いつものように朗らかに言った。

「君とずっと・・・桜蘂を追いかけたいから」

彼はそれだけ言うと、顔を背けてエントランスの脇に設置されているウォークイン・クローゼットの扉を開けた。靴の予備や上着などはここに収納されている。そこで身支度をして室内に上着や持ち込む必要のないものを保管しておくことができる、機能的な収納場所に足を運んだ。

そこで、ふと、足を止める。

そこにあったのは彼の所有物だけではなく、彼女の薄手の羽織物が掛かっていたからだ。

小さく、気配を押し殺すかのように遠慮がちにかかっている上着は彼女が今日着ていたものであった。

 

その小さな事実だけで、彼は胸が熱くなる。

こういう、ひとつひとつの積み重ねが愛を大きくしていくのだと実感した。

なんだよ、と口籠もった。

彼女が主寝室のクローゼットを使わずに来客の扱いでありたいという彼女の本意がわからないと、歎いたばかりなのに。こうやって静かに彼を驚かせる準備を進めている彼女は、すぐ傍で彼の外出の支度が整うことを待っている。

 

それは、淡い桜色をしていた。

彼女は自分の持ち物を青磁の家に残して行かない。いつでも、ぷっつりとやって来なくなることがある、と想定してのことであった。青磁はそういう気遣いをしないで欲しいと常に言っていたものの、彼女はそれを聞き入れなかった。

それなのに。

またこの場所に、近いうちにやって来ることを約束した上着を眺めるだけで、彼女を帰したくなってしまう。本当に、彼は彼女に振り回されている。でも、彼女の行動にはいつも理由があって、彼が勝手に不可解だと戸惑って心を揺らされているだけである。それはわかっている。でも、してやられた、という気持ちが湧いてくる。

嬉しさの次に、こんな気持ちになるなんて。

余裕はないはずなのに、笑みがこぼれてしまう。

マクドゥガル家に伝わる言葉は幾つかあるが、そのうちの一つに「切札は最後に使うもの」というものがあった。勝負や駆け引きではないけれども、彼女はそうやって青磁に直接物事を伝えるのではなく、静かに・・・そう、桜が散り積もるように積み重ねていく。

 

ここに置く、ということは、また部屋にやって来ることを約束したからだ。

自分の持ち物をそこに置くことの意味を青磁は深く噛みしめていた。

そして・・・息を潜めて青磁を待つ彼女の心を知る。

すぐに、戻ってくる。

彼は誓った。まだ出発していないのに、もう、帰りたいという気持ちにさせてしまう。

彼女に夢中であることは認めるところであったけれども、これほどとは自覚していなかった。危険すぎるとも思うけれども。でも、それでも・・・それでも、この恋をやめることはできなかったし、諦めることは諦めていた。

 

痺れるような痛みと疼きを感じながら、彼は顔を上げた.

そして手を伸ばし、そっと・・・彼女の桜の花弁のような、そんな上着に触れようとしてまた手を降ろした。聖なるもののような、触れてはいけないもののような気がした。

神聖視してはいけない。

彼女はひとりの女性であり、そして青磁の大切な存在である以上のものを求めすぎていることもわかっていた。十分すぎるほどに。

その代わりに、彼はその隣に並ぶ自分の別の上着の肩口を摘まみ、そしてそれを彼女の上着に近付けた。

・・・今すぐにでも、こうしてまた彼女に触れてしまいたくなるけれども。

今は、これだけで満足しようと思った。

 

それは。

彼女と彼の肩の高さが並ぶ貴重な瞬間であった。

その代わりに、裾の部分が彼女の方がかなり短くなっている。彼のそれから見れば、彼女の羽織り物などはとても小さくて・・・そんな小さな衣類しか着ることのない彼女に、これほど大きく影響されているとは、と改めて思うのだ。

桜の花弁が、昊まで届いた。

この物思いの最初を思い出した。そうだ。桜の花びらが散って、この高層階まで届き、そして彼はそれに酔って・・・・

青磁はまるで片恋の少年が思い相手の人物に隠れて秘密を落とし込むような、そんな昂揚を感じながら、自分の中に秘密をしまい込む。

秘めたる想いではない。彼女にすでに伝えてある思いであった。

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けれども。

・・・今、彼は彼女に報告することもないような小さな仕草を、自分の中に落とし込んだ。

忘れない。

こんな気持ちは、ずっと続くのだろう。彼女と永遠を誓い合っても、彼が片想いである気持ちは、きっとずっと続く。それで良いと思った。

彼女に優しくしたい。彼女を大事にしたい。

そう思っている一方で、彼が怯える、彼の強い情念が彼女を滅ぼしてしまうのかもしれないという予想が的中しないことを祈りながら。彼は、彼女にこんな気持ちを持ち続ける。季節の花々を愛でて、マクドゥガル家の・・・土の香りのする場所を案内したいと考えていた。

今住まっている処のように、蒼空に近い場所も良かった。でも、土に近い場所も好きだ。昔は厭わしかったのに、今はとても懐かしい。

こんな風に思うことを、彼女は構わないと言ってくれるのなら。世界を廻って・・・いつか、彼女と蒼空に戻りたい。

あの人も、そうなのだろう。

運命の人のことを、心の妻だと言い切った人のことを思い返す。同じ愛し方ではないけれども。いつまでも、永年に、想い続けるのだろう。

 

「待たせてすまない」

彼はそう言って彼女の前に再び現れた。

きっと、彼の大きな独り言も聞こえてしまっていることだろう。

会いたいのに会えない時間が、間もなく訪れる。今は、メールや音声通話、WEBでの映像通話が普及された時代であったけれども、青磁は彼女はそれよりももっと近くで感じたいと思っていた。

届きそうで届かない気持ちを抱えて、彼女のことを置いて帰国することは躊躇われた。それは、彼が不安に思っているからだ。彼の知らない時間に、彼女が誰かに心を向けてしまうことを疑う自分が、辛かった。

 

綺麗な感情だけが生まれるわけではない。

恋とは、愛とは、己に対する試練のようなものだと感じる時がある。

それでも、彼は彼女を諦めない。もし、彼女が彼だけを求めるという人であったのなら、彼は彼女をこれほどまでに好きにならないと思うからだ。

彼女は嫌な顔ひとつせずに、頷いた。

一枚少ない着衣のために、少し、寒そうであった。

彼はそれを見て、腕を伸ばす先を変えた。

「青磁?」

「今日は赦して。・・・まだ、肌寒いから」

彼は彼女の肩を抱き寄せて、自分の方に近付けた。彼女の髪が自分の手の甲に乗って、空気をたっぷり含ませた柔らかい毛布のように彼を温める。先ほどの、湿りの残る髪ではなかった。

 

同じ夢を見続けたい。そう願いながら。

彼は、彼女を抱き寄せた。

このように出歩くことを好まない彼女だけれども。今回ばかりは、彼に対して何も文句を言わなかった。

できることなら、決して傷つけたくないし、ましてや、寒い思いをさせることもしたくなかった。でも、彼女が行こうと言ってくれたから。

彼女は、彼に勇気をくれる。諦めないで信じることを期待させる。

「すぐに、帰ってくる。だから、戻って来たら・・・オレの話を聞いてくれるか?」

彼は囁いた。

これから、桜蘂を一緒に眺めに行く相手にだけ聞こえるように。

あの時。

行ってはいけない、と言ってくれた彼女と築いていく未来が、とても待ち遠しい。

しかしそれは待っていてはやって来ない。こちらから・・・青磁と彼女が作っていくものだから。

 

彼女に青磁は甘い微笑みを浮かべる。

「次は、君を連れて行くよ。マクドゥガル家の敷地の桜はとても綺麗だから」

「私は承諾していない」

「承諾してもらえるように努力するよ。それだけ、あの桜は綺麗だから」

彼女の抗議に、彼は笑って言う。

 

マクドゥガル家の不幸によって、焼け落ちてしまった桜があった。

マクドゥガル家の多くの者が愛でたというその桜は、今、息を吹き替えそうとしている。

これから長い年月をかけて、その樹は河沿いの桜達のように見事に枝葉を伸ばすことだろう。それを、見せてやりたいと思った。

青磁の時代では達成できないことであるかもしれないけれども、次の世代には見事な桜を見ることができるのだろうと思った。

 

「桜蘂を見に行こう。・・・でも、オレはこれを君以外の誰かと見ることはないから」

「青磁」

彼女は困った声で、彼を窘める。

笑顔が素晴らしい彼女であったけれども。彼の為に困る彼女を見て、青磁は胸が躍った。

自分のために心を動かす彼女を見て、自分は悦んでいる。まったく、厄介な感情であったけれども・・・この恋を終わらせることはしない。

 

しかし、マクドゥガル家に戻った時に。

自分から尋ねたことはなかった、彼の親の桜蘂にまつわる話を質問しても良いのかもしれないと思い始めていた。

 

ああ、確かに、桜の蘂に酔っている。

彼は実感する。

 

雄蘂と雌蘂が寄り添う姿を見て、桜が散っても・・・恋を愛にかえて、彼はずっと彼女と寄り添って大きな樹木の枝葉となり、朽ちてなおその養分となって生きるという生命を過ごしたいと強く願った。

 

「行こう。少し眺めたら、どこかで食事でも良いかな。体を動かしたから空腹で・・」

その先は言う事が出来なかった。

真っ赤になった顔のままで、彼女が青磁の脇腹を叩いたからだ。

涙目になり、彼女はそういう話題を人一倍嫌うことを知っていながらの青磁の発言に動揺してしまっている。

それでも、彼は彼女の肩を離さなかった。

「行こう」

彼は笑いながら、扉を開けた。

その時。

ふわり、と桜の風が彼の鼻腔をくすぐった。

 

桜の香り、というよりかはむしろ、桜の蘂の香りであった。

廻りゆく季節のひとつであるかもしれない。

けれども、どうにも愛おしい季節の瞬間に、彼は片方だけ薄い瞳を細めて、そして深呼吸した。

 

そして心の中で呟く。

桜の蘂に酔ったのは・・・君が傍にいるからだ・・・

それを桜の蘂の下で言うために、今は、声を呑み込んだ。

 

桜の風を感じながら。

青磁は彼女とともに、外に出た。

 

あのマクドゥガル家の桜の蘂を、彼女と眺める日が、遠くない未来にやって来ることを願いながら。

彼が、彼女の肩を自分に寄せたまま、歩きだした。

不思議なことに、彼女は抗わなかった。

 

桜の蘂に酔ったのは、彼だけではないのかもしれないな。

 

彼はそんなことを思いながら、微笑みが自然に浮かぶ自分の心が桜の蘂のように鮮やかに色づくのを感じていた。

 

春は彼らの元にやって来て・・・そして、また次もやって来ることを言い追いて去って行く途中であった。

 

男女が永遠を誓う、愛の証を、眺めるために。

ふたりは桜の季節に出かけて行った。

 

 


T-side

01 まずはその対象と構図から


彼が徐々に名前を知られていくようになる都度、私は少しだけ残念な気持ちになる。

それは、有名になったとたんに興味が失せる芸能人に対するそれと、何となく似ていた。

彼が知らないところに行ってしまう。

それがどんなに喜ばしいことだったとしても、寂しいのだ。


彼が画廊のオーナーとグラフィックデザイナーの兼務が難しくなってきたとき。

画廊の店番をしないか、と突然電話が入った。考えさせて、と言おうと思ったけれど、

次に口から出た言葉は「仕方がないから引き受けてあげる」という即答だった。

定職にも就かずぶらぶらしていた私にアルバイトをしないかと持ちかけてきたときだった。

彼が私を思い出したことが、嬉しかった。


時々、メールのやり取りをしたり、共通の友人達と一緒に飲み会をしたり。

その程度の関係であったはずなのに、私に声をかけてきてくれた。

それだけで、有頂天になった。


持ち上がりの私立学校で、彼は典型的なお坊ちゃんだった。

倖せに育った人間は、鈍くなると思った。

穏やかで物静かで、そのくせ成績も運動も何もかもがそんなに苦労しているとは思えないのに抜群に良かった。その穏やかな物腰のせいで、リーダーになるタイプではなかった。

その代わり、彼の一言は常に絶大だった。


私もそれほど毎日の生活に困っているわけではない。

現にこうしてアルバイトで日々を過ごし、気ままに旅行したり遊びに行くことが出来るのは、

やっぱり親が自分を扶養してくれているからだと感謝している。

でも、つまらないのだ。毎日が、つまらないのだ。


そんな気持ちを、ワタルが最初に見抜いた。


「杜宇子。もうちょっと自分を好きになったら」


ある日。そう、ある日突然彼は言った。

私はワタルは鈍感だと改めて思った。

平気でそういうことが言える彼が恨めしかった。

狡いよ、ワタル。

その瞬間、私が恋に堕ちたことを、知りもしないで。



以来、私はワタルを「ワタル」と呼び捨てにする最初の女子になった。


「杜宇子」


彼が私をそう呼ぶたびに。

彼が私をそう呼んでくれるようになったことに。


私がどんなに嬉しい気持ちを堪えているのか、彼は知らない。

02 要件定義には階層と優先順位


長い時間一緒に居ればやがて恋が芽生えるなんて妄想は持たないことにした。


本来不在にしがちになったワタルのかわりに店番をするわけだから、

会うとか会わないとかいうどころの話ではなく、単に縁が繋がっているというそれだけの関係だった。



でもそれだけでも私は特別なのだ。そう思った。そう思うことにした。

彼らしい画廊の配置図に感心し、いつも片付けられた空間で彼が仕事をしている姿を想像する。

単なる留守番だったけど。



この恋はとても密やかに息をしていた。

芽吹く時期を待っていたかのように、とても昔から私の中にあった恋の種なのかもしれない。

一瞬で恋に堕ちたのに、恋を持続させることは難しい。

私はワタルを好きになったのに、その後、手に入らない恋を嘆くより、新しい恋をすることに夢中になった。そして、学校を卒業したら、ほんの数回会う程度にしかならない関係しか残らなかった。


それでも、彼が私が職を探していることを、大分前の飲み会でほんの一言二言言っただけなのにちゃんと覚えていて、そして私に声をかけてきてくれたことを徒事ではないことなのだから、この出来事を、この眠っていた恋の種に水をやるべき時という「スタート」にして良いのかなと思った。





そんなとき。



ワタルが、恋をした。



彼が人を好きになることなんてあるんだね。

人事みたいにそう思った。まるで誰かの噂話のように。




ワタルの恋。へぇ



もう一度、心の中でその驚きを繰り返した。



そのときにはもう、自分自身の言葉に、少なからずの衝撃を受けたのだったが。




相手は、画廊が主催している絵付け教室の講師だ。

年は、私たちより少し下だ。

とても小柄な女性で、幼く見える。

化粧っ気がないので、場合によっては学生に見えないこともない。

茶色い髪に茶色の瞳の、色素の薄い女性で、外に出る仕事はしていないのだろうと一目でわかるくらい、色の白い人だった。


先般、取材に来たキャスターの女性の妹だそうだ。何となく似ている。

予定していた講師が急病で代役を頼んだところこれが好評だったということで、以来彼女はたまに顔を出して、依頼された講師のアルバイトをするようになった。



私は、ワタルが密やかな恋を始めるところに居合わせる格好になったのだ。

03 基本設計には論理とドメイン性の確保が必要




ワタルは明らかにその恋を秘めたるものにしているらしかった。

それでも、彼女が来るときには画廊はいつもにも増して綺麗に整頓されていたし。

彼女が来るときには、生徒の気が散らないように参加を遠慮する彼が、後ろの席に座って聴講している。明らかに、彼は「いつもの」彼ではないのだ。

だからと言って彼の穏やかな性質そのものが変化するような激しい恋ではないようだった。

静かに、彼女を見守る。そんなかんじだ。


なぜ彼女に告白しないの?と尋ねたことがある。

えっ??

穏やかな彼の頬が朱に染まった。

目元までが染まるものだから、私は苦笑いをせざるを得なかった。


彼女?誰のこと?

あなたが今そこで、微笑みながら一生懸命ディスプレイと会話しながら作っている、そのグラフィック作品のモデルの事よ。私は辛辣に言った。


時々忘れてしまうくらい私には昔からのワタルだが、彼はグラフィックデザイナーだ。


その斬新だったり懐古的だったり、とにかく私には考えもつかないような作品を創り出す彼は、

自分のサイトの隠しアイコンに彼女をモデルにした作品を掲載していた。

もちろん身元のはっきりしない者は入れない厳重な制限の元に。

ワタルは一体何歳になったの?と聞くと、杜宇子と同じ年だよ、と笑う。


その年齢になってまで、そんなお子様みたいな恋しかしないワタルがよくわからない。


私がそう言うと彼は困ったな、と頭を掻いた。

そして少し疲れたように眼鏡をはずして目頭を押さえた。

今、創っている作品の仕上げに入っているらしい。

それほど根を詰める作品のモデルを、穏やかに見つめるワタルがよくわからなかった。


私がワタルへ何か秘めていることくらい、わかりそうなものなのに。


ワタルはちっともわかってない。

私は言った。


フランスまで買い付けの仕事を依頼するほど彼女を信頼しているのであれば。

自分の作品のモデルを依頼しそして承諾してくれるほどの関係であれば。


彼の静かな想いというのは、静かだけれど見つめるだけで済まされてしまう程度なの?


「杜宇子のその物怖じしない言い方は気持ちが良いね。」

ワタルは言った。


そして、彼女に言うつもりはないよ。

ただ、こうしてモデルになってもらうことを承諾してくれるだけで満足なんだ。


呆れた、と私は言った。憤りでなんだか涙が出そうになる。

ワタルの恋が理解できない。見つめているだけで満足できる恋なんてない。

恋は堕ちるものであり、そして静まるものなんかじゃない。


ワタルは確実に恋をしていてそして私はそんなワタルを見るだけで切なくなる。



それにね、彼女には恋人が居るんだよ、杜宇子。


ワタルがそう言った。

04 発想の源ではなく品質の検証材料のために在る


だから何?


私は彼に詰問した。なぜだかわからないけれど憤っていた。

ワタルの穏やかさが好きなのに、そのワタルの穏やかさが腹立たしい。


思い通りにならないから、八つ当たりしている。わかってる。

彼の情熱が自分に向けられないから、私は憤っているだけなのだ。

その一方で、彼のこういう愛し方が羨ましかった。


私の恋は、スタートすることをやめてしまったときに枯れてしまっていたのだ。

その蒔かれたばかりの時と違うものになってしまったのだ。


恋をやめると思った瞬間に恋が終わっていたのだ。


どうせ、ワタルは私を見てくれない。それなら、ずっと一緒に居られる方を選ぶ。

そうやって私は私の恋と私が傷つくことと天秤にかけた。

そして後者を選択した以上は、ワタルを自分と同じだと思って、憤ったり教え諭す事なんて、所詮意味のないことなのだと思い知った。



恋をやめる事なんて、だれにも出来ないのに。

私でさえ、ワタルでさえ。

だから、思いを遂げなくてもその恋をやめずに続けるワタルはやっぱり凄いヤツだねと言って、

後押ししてあげなければいけない立場にあるのに。


私には責める資格なんてないのだ。もちろん、権利も義務もない。



「ワタルは阿呆だ」

私は決めつけたように言ったので、ワタルはまたちょっと困ったように息をついて、その指の動きを止めた。

「杜宇子。杜宇子は何を憤っているの?」

「ワタルが本当に阿呆だから。・・・奪えば良いでしょ。本当に好きなら」

「彼女はモノじゃない」


ぴしり、と彼が言ったので、私は顔を上げた。

厳しい、知らない男の人の顔が近くにあった。驚いて、少し後ずさりした。



「そういう言い方はやめてくれ」


・・・びっくりした。ワタルは静かに怒っていた。彼女をモノ扱いしたから。

彼がこれほど怒るのはまったく希なことで、成人してからは見たことがなかった。

私に対してそういう怒りをぶつけることが初めてだった。


思い上がっていたことをようやく知る。

特別なのは、彼女であることを知る。

私は、あまたある衛星のうち、ほんの少しだけ彼に近い衛星であるに過ぎないことを。

他の人よりほんの少しだけ、距離が近いから、だから余計に見えてしまう。

見たくないものも、自分だけに見せて欲しいと切望するものも。



「ごめん」


ワタルが言った。いつもの彼だった。



「私の方が踏み込みすぎた」そう謝る。こじれては、お互いが苦しいだけだ。

それにワタルに謝ってもらうようなことはされていない。

私がただ、勝手に傷ついて勝手に怒って勝手に嘆いているだけなのだ。

05 そして要件定義や現状分析を忘れていることに気づく



彼女の買い付けた絵は、確かに素晴らしいものだった。

誠次・マクドゥガルというまだ無名の作家のものだったけれど、本当に素晴らしい。

あまりこう言ったことに明るくない私でさえ、この絵の切なる想いが伝わってくる。


ビジネスでもプライベートでも彼を満足させる彼女が、羨ましかった。


そんな折。

彼女が話しかけてきた。


人好きのする彼女は、ほとんど口をきかない私にずっと話しかけるタイミングを見計らっていたようだった。

いやな相手と話をしなければならない。

私は一度苦手意識を持つと、とことんその人が苦手になる。

彼女に対しては不思議とそうは思わなかった。

自分より年が若く、小柄なこの女性は、誰にでもくったくなく話し、いつも朗らかに笑う。

加えて、こんなに素敵な買い付けができて、講師としての人気も高い。

それにフランス人の恋人がいるということだ。

順風満帆じゃないの。羨ましい。

でも、なぜか憎めない。


「オーナーとは、同級生と伺ったのですが」

彼女は言った。そうよ、と私は素っ気なく言った。

「中学校から一緒だったの」

そうですか、そんなに長いおつきあいというのも羨ましいですね。

彼女が目を丸くする。


「時間の長さじゃないわ」

私はそう言い返した。かなりとげとげしく。

それは、私とワタルが過ごした時間の何万分の一の時間しか共有していないにもかかわらず、一瞬で彼を惹き付けてしまった彼女へ投げかけた暴言だった。


彼女はこの言葉に傷つくかもしれない。言ってしまった後に、気がついた。

でももう言葉は出てしまった後だった。


「そうですね、私もそう思います。・・一緒に過ごさなかった時間も大事なのだと」

そうして、ふと、壁に飾られた3点の絵を見つめた。

「もちろん、時間を共有することはとても素晴らしいことですが」

彼女の目は何を見ているのだろうか。

「恋人と会えなくて、寂しいの?」

そう尋ねると。彼女は一瞬唇をぴくりと動かして、それから真っ赤になった。

ワタルの赤面どころではない。首まで赤くなっている。

なぜ知っているのと言いたげだったけれど、女のカンよ、と笑ってごまかした。


「いえ、なんと言ったらいいのか。上手に言えないのですが、

 失われた時間は戻らないけれど、それに気がついてそれからどう過ごすかという時間が大事なのかな、 と思って」


彼女のことをワタルが好きになった理由がわかったような気がする。

彼女は、どんな人にでも、入り込めるのだ。そしてすぐさま親しみを感じてしまう。

でも決して自分のことは言わないし明かさない。

これ以上入り込んではいけないという拒絶を感じないので、気がつかないのだが。

これはワタルと同じだ。

だから惹かれてやまないけれど、ワタルは彼女に近づこうとしないのだ。

それでも時折、こうして彼女の防壁が崩れるときがある。

それが、自分が初めて入って良いよと許した、好きな人のことに関わる時だけ。

これもワタルと同じ。


しょうがないなぁ


私は苦笑した。年下のこの彼女にやり込められてしまった。

完敗だ。敵わない。でも、負けない。


でもなんだかすっきりした。心のもやもやというか疑問が晴れた、そんな感じだ。



その物思いを彼女が察したのかはわからない。

彼女は小さく笑った。

「私の初恋、実は中学校の同級生なんですよ!」と言って離れていった。

その言っている意味、わかっているのだろうか。

彼女の明るさからみると、それは懐かしい晄なのだろう。

時々思い出すけれども、眩しくて目を押さえるほどの光でなく、柔らかくそして優しい煌めきなのだと思う。





ワタル。

私の恋は秘めたる恋だ。今は、まだ。

そして秘めたる恋を持つワタルが好きだ。


お互いに、その恋について語ることが出来たら、もうちょっとだけ、ワタルに近づいても良いのかな。


私にとっては、たった一つの大きなお星様だけど、ワタルにとっては私はたくさんいる友達のひとり。

でも、ワタルから見て、一番光っている衛星になりたいと思った。

どんなに時間がかかっても、良い。

必ず、彼から近寄らせてみせる。




就職先、探さないとなぁ



彼女の後ろ姿を見ながら、そんなことを思った。





FIN)



U-side 闇蝉 前編

鳴く蝉は、「吟蝉(ぎんせん)」という。

鳴かない蝉は「暗蝉(あんぜん)」というのだそうだ。

それでは、私は鳴かない蝉だから、暗蝉なのだろう。

鳴きたくても鳴けない。そういう蝉もいるのだ。





「ウメ、調子悪いの?」

そう聞かれて、私は手を止めた。

今しがたのセッションで、ブレスの位置を確認するために、イメージトレーニングをしながら楽譜にメモを書き込んでいた最中のことだった。

「そんなことないけど・・・?」

「そう?Cの音が微妙に高い。・・・この気候のせいかな。」

彼はそう言った。オレもリードの調子が悪いんだよね。そう言った。


ここは完全防音室で、外気の湿気や温度とも完全に隔離された場所なのに、彼はそう言う。

微妙に出入りの風が影響しているのかもしれない。

オーボエ奏者は神経が細かい人が多い。

細やかでないとあの繊細な音色を出すことが出来ないかと言うかのように。


でも、大はそんなオーボエ奏者と違っていた。

おおらかで、理論的に物事を進める。

理系で、将来は物理学や生化学などの方面に進みたいと言っていた。

音楽業界は文系が多いと思われがちだが、本当は理系が多い。

このジュニア・オーケストラでは圧倒的に理系だった。

文系理系と区別することの方がおかしいだろう?

彼はそう言って笑った。


「そうね、この蝉の音がなんだか調子が狂ってしまうのかも」

大は私のことを「ウメ」と呼ぶ。本当は「梅華」という名前なのだけれど。

楽器ケースに書かれた私宛のサインに「To ume」と書かれているのを見て、そのままそれで呼ぶようになった。

彼だって本当は「ヒロ」という名前だけれど、私は彼を「ダイ」と呼んだ。

私たちはそういう間柄だった。友達以上で、恋人未満。

一日のうちの大半を一緒に過ごす間柄だけど、彼の心には踏み込めない。そんな間柄。

主席オーボエ奏者とフルート奏者は隣同士に座る。

これは何百年も変わらない配置。

最近では弦楽器奏者の配置を変えて演奏することもしばしばあるけれど・・・

管楽器奏者だけは変化しなかった。


ダイと出会ったのは、この松本で行われているジュニアオーケストラの選抜メンバーによる講習会が初めてだった。中学3年の時だった。


全国選抜された、全国の学生のうち、ほんの一握りだけが夏の短い期間、ここで合宿を行い、世界中に散った日本の音楽家の指導を受ける。


彼は、休憩時間には受験参考書を手にとって、一心不乱に受験勉強をしていた。

防音が完全に行き渡った練習室から抜け出して、彼はたくさんの蝉が鳴く木の下で勉強していた。

松本は空気が乾燥して、日陰は涼しいけれど、日中は暑い。

蝉も大音量で鳴いている中、彼はまったく耳に入らないかのように集中していた。

・・・オーボエ奏者の特徴だった。いや、トップ奏者はこういう気質が強い。

私も一度レッスンに入ると、時間を忘れることがしばしばあった。



音楽科に進まないの?

そう話しかけたのが最初のきっかけだった。

彼は顔を上げた。


ああ、将来はもっと違うものになりたくて。


彼が笑った。


私たちのような若い学生が、全国から集まり、そして世界で活躍する音楽家の指導を受けることが出来るのはその地道な努力と、長い経験年数が必要最低条件だ。

彼は、驚くべき経歴の持ち主だった。

小学校高学年でオーボエを始めて。

まだたった5年の経験年数で、ここまで登りつめてしまった。

彼の名前は聞いたことがあった。

学生コンクールで、突如として上位入賞を果たしてしまった新星だった。



彼のその音色が好きだった。

透き通るのに、艶めかしい。情動的なのに、静寂に響く。

すぐに彼だとわかる音。

それなのに、ピッチは常に狂ったことがない。



その時。

私の心の中で何かが動いた。



彼に心を動かされた。

今まで、音楽の路以外に、私が心を奪われるものなんて、何もなかったのに。

彼を見ていたいと思うようになり、そして翌年の合宿にはまた会いましょうと約束するだけで精一杯だった。



何てこと。


私は彼に、恋をしてしまった。


彼の音色の秘密はなんといってもそのリードの製法にある。

ダイは言った。

「リードはやはり自分で削るに限るよな」

いつだったか。彼に頼まれ事をした。

一緒に買い物に行って欲しいと言う。


私たちは年に一回、この合宿でしか会えない。

だから、私は選抜メンバーに選ばれるために必死でレッスンを重ねていた。

その合間を縫って、つきあって欲しいという。

彼の実直な性格を考えると、これはデートの誘いではないことがすぐにわかった。

・・・行った先は駅前の、デパートの化粧品売り場。

外国産のネイルエナメルを購入したいと言う。

「リードの接着にはこれが一番で。でも買う暇がなかった」

彼はそう言った。

でも、年若い男の子がそんな化粧品売り場をうろつくこともできないので、今までは姉に頼んでいたけれど、やむにやまれずウメに頼むんだよ、と彼はそう言った。

私は二つ返事でOKした。


オーボエとフルートは密接な関係にある。

その管楽器の形態からオーボエはクラリネットと同じに見られがちだが、本当は限りなくフルートに・・・ C管に近い。

ピアノで「ドレミファソラシド」と叩いたときに同じ「ドレミファソラシド」の運指で動く楽器と小さい頃から一緒に過ごした。

これは親にも環境にも感謝しないといけない。

私の絶対音感に気がついた周囲の人から勧められて、ピアノとフルートを始めた。

でも、フルートにはすぐに限界を感じた。

・・・そんな私が未だにこうして日本の選抜メンバーに残ることが出来るのは、私が器用貧乏だから。


私は真の奏者になれない。そう感じたのは。

私が、アルトフルートも、ピッコロも、負荷なく吹けるからだ。


通常ソロ奏者は自分の楽器以外は吹かない。

なぜなら「口が変わる」という言い方をして、口角の回りの筋肉を変化させることを厭うからだ。


私はそれが自在に出来た。

だから、技術がたいしたことがなくても・・・

そこそこに演奏できて、皆の厭う他の楽器も演奏できる便利な人間としてしか、重宝された。

いずれ、このメンバーから世界にでる人が出るだろう。でも私は選ばれない。

でも、私はわかっていた。

自分が、この日本の狭いジュニアという世界でしか生きられないことを。



そんなときに、別の道を進もうとするダイに出会った。

私はそんな道もあるのだとはじめて知った。

・・・毎日毎日、血反吐が出るくらいのレッスンをこなす日々が辛かった。

ここまできたらもう引き返せなかった。


一日のうちの練習時間は、こういう休みの時であれば、10時間を超す。

生活時間と睡眠時間以外は、常に楽器をもっている状態だ。

もしくは、音楽について講義を受けている時間。

私の中で、音楽は生活の一部であり・・睡眠時間より長く接している辛い時間だった。


それを、ダイはあっさりと捨てるという。

「大学に入って、専門課程に入ったら、音楽はやめるだろう」

彼は買い物の帰りみち。帰りのバスの中でそう言った。

「もったいない」

そう言うと彼は笑った。闊達な笑いだった。


「もともと部活の延長で・・・もっとやりたいことがあるのに、これに時間を割けない」

彼は笑った。音楽は好きだけれど、もっと好きなものがあり、好きな人がいて。

そしてその人のいる海外に飛び出したい。

彼はそう言った。


私はその彼の凜とした横顔が羨ましかった。

惰性で続けて居る私よりずっと才能溢れている彼が。

そんな風に音楽を「たくさんある好きなもののひとつで、もっと大切なものを優先したい」

そういう気持ちを語ることが切なかった。


・・・・蝉が鳴いていた。


まだ季節は夏だった。


私とダイは、とても近い場所に居ながらにして・・・とても遠い場所に居るのだと悟った。


本当は年に一度しか会話を交わすことはなかったけれど。

もっと別の彼を知っていた。

こっそり、中学と高校のオーケストラ部の定期演奏会に行っていた。

毎回、必ず、開場すぐに行って、同じ席に座った。

もう何年になるだろう。

毎年2回ずつ行われる演奏会では、彼は常に首席奏者だった。

学校のオーケストラ部であるから、品質はたかが知れている。

でも、彼の演奏は際だって素晴らしかった。


・・・彼は世界的に有名な奏者になることができる。


私には、そんな奏者になる技量はなかったけれど、その奏者になる資質を持つ人を見分けることだけは長けていた。


拙い音楽を演奏する集団の中にあっても彼の音色は煌めいていた。

そして、それが逸脱しないように、周囲に気を配る余裕も見せていた。


私は彼の音楽に恋をしているのか、それとも彼そのものに恋をしているのかわからないくらい・・・夢中になった。


でも、私の夢中は皆と少し違っていたようだ。

静かに、何年も見守ることが、その証だと思った。

かつてのサリエリのようにモーツァルトを激しく愛しすぎた感情ではない。

・・・長く彼を見守っていたかった。

そして彼が始めて演奏するソロには、私が立ち会いたいと思った。


何回か、その演奏会にいくうちに、同じように、同じ席に座る人に気がついた。

一番前の正面の席。


音楽通ならあまり座らない席だ。


・・・でも、ダイはその席の人に合図を送っていた。

着席するなり、とんとん、と左足のつま先で、彼は音を鳴らす。

その席に座る人が、茶色の髪を動かす。頷いたサインだ。

彼と彼女のその合図に気がつかない人がほとんどだった。

でも、私は気がついてしまった。

後ろ姿だったので、顔がよく見えない。

小柄な、茶色の髪の人だった。


私はその人を凝視した。

彼の音色を理解しているとは思えなかった。

ただ、演奏会に来ているだけ。一般的な父兄の聴音の様子に、私は何か言いようのない感情を持った。

・・・ダイは、音楽がわからない人が好きなのだ・・・

そう思うと、遣る瀬無くなった。

彼を理解できない人を彼が好きになったことに。

彼を理解しているつもりであった私がちっとも彼を知らないことに。

遣る瀬無くなった。




その年の夏。

ダイは言った。

「ウメ。・・・オレの演奏会、来てくれた?」

なんのことかしら?

私は笑った。

ダイは「君によく似た人を見つけて・・舞台から手を振ったんだけど」

と言った。

私は笑った。「他人のそら似でしょう?」

そうか、と彼は言った。


でも、匿名で花束を贈り続けたことについて彼は触れなかった。

彼に贈る花はいつも同じだった。

前から注文して、その季節になくても特別に取り寄せる花。


ベラドンナ・リリーの花言葉。

―――「私を見て」


彼はその意味に気がついたのだろうか。



私の夏は彼に会うことから始まる。


ダイ。

私のこの気持ちに気がついているのであれば・・・

その屈託のない笑いを私だけに見せて欲しい。

そうでないことはわかっているけれど。


私の、彦星様。


一年に一度しか言葉を交わすことができない、私の王子様。


どうか、私だけに微笑んで欲しい。


そして私たちは何年にもわたってパートナーだった。

毎年顔を合わせれば自然に一緒に居る時間も長くなる。

彼と私の席はいつも同じだった。

隣同士。

そして勝手の知る練習開場では、彼のピッチに会わせたA音で始まる。

もう、チューニングメーターはいらなかった。彼の音はすぐにわかり、

私はトップ奏者としての合図を受ける。


・・・甘美な瞬間。


調和がとれ、A音でハーモニーが生まれる。

トップ奏者と言われる人達はメンバーの入れ替わりがほとんどない。

その代わりにその他の席は、どんどん新しいメンバーが入れ替わっていく。


厳しい世界だ。

トップ奏者と思っていても、翌年には次点に座っていることもあるし、

その席そのものがないこともある。


私はこの席にしがみついていたかった。

ダイが居る限り。


そんなときダイが言った。

「ウメ。なんでそんなに悲愴な顔をしているの?」と。

私はちょっと泣きそうになった。

だって、苦しいから。

そう言いたかったけれど言えなかった。

恋をすると音質が変わる。

それは本当だった。身をもって実践した。

それでダイが恋をしていることを共感してしまった。

・・だから哀しかった。苦しかった。辛かった。


彼の音色は素晴らしい。技術もそうだけれど、そのたぐいまれなまろやかな音が。

私の心を打ち、そして聴衆を魅了する。

この耳ざとい選抜メンバーでさえ、自分の演奏を忘れて彼の音色に聞き惚れる。

・・・・もったいないよ、ダイ。これを捨てるのは惜しい。


そう何度もいったけれど彼は笑って言った。

「世の中にはもっと凄い人がたくさんいる」と。


そして彼は言った。

「ウメと演奏しているときが一番楽だ。音域もブレスのタイミングも一緒で・・・

なんだか二人で演奏しているのに、そうじゃないみたいだ」

―――彼の最大の賛辞だった。


私は目を瞑った。


なぜ、トップクラスの奏者は、男性が多いのか。

体格が違う。

肺活量が違い、骨格が違う。

筋力で何時間もその姿勢を支えることが出来る。

そして極めつけは呼吸方法だ。

女性は胸式呼吸。男性は腹式呼吸を無意識のうちに行っている。

体のつくりが違うから、仕方がない。


だからダイが「呼吸方法がウメと同じ」というのは語弊がある。

オーボエは息の長くはき出すことの出来る楽器だったから、その演奏は、私に合わせているのだけなのだ。


私は少し哀しくなった。

確かに、ダイとは音調も解釈も何もかもがとても良く似通っていると思う。

でもそれと演奏スタイルとはまったく別のものだ。

私はどんなに頑張ってもダイには追いつけない。

追いつく前に彼は走ることを止めてしまうという。

だったら、この気持ちはどこにたどり着けばいいのだろう。




私はダイと一緒に居ても、他の人がいると話をしない。極力しない。

私とだけ話をしている彼しか話したくなかった。

正確に言えば、他の人と話をしているダイを見るのが切なかった。

だから少し距離を置いてみている方が、楽だった。

「ウメももうちょっとみんなと話をしたらどうなの」

ダイはそう言うけれど、私はちょっと首を傾げて、

「ダイがいないときには話をしているわよ、たくさん」

と言った。その通りだったから。


私のそんな様子はダイを嫌っているかのように思われたらしい。

木管楽器だけのパート練習の合間に、そんなことを言われた。


「梅華は大が嫌いだなぁ」


そうじゃないよ、と私は笑ったけれど否定はしなかった。


嫌いと好きは紙一重だ。


だから、私のこの感情は、好きでも嫌いでも表現しにくかった。

でも相手の不幸を願う感情はなかったので、あえて「好き」ということなのかもしれない。

それ以外は・・見ていたくない、話すと苦しい、心が乱れて演奏に支障が出る。

それは嫌いという表現では成り立たないのだろうか。

そんな「好き」か「嫌い」かで済ますことが出来るのでればどんなに楽だったか。


そして今年は、世界的に有名なヴァイオリン奏者であるカオル・ヒビキヤがゲスト参加するという。

私たちは興奮した。

このジュニア・オケに選抜されなければ、世界の楽団に所属する以外に彼女と共演する機会はまるでないのだ。

特に彼女はソリストだから・・こういうオーケストラに参加するというのは、珍しいことなのだ。


今年はダイと演奏する最後の年になるかもしれない。

無理してでも、出たい。

そう思えるような最後の夏。

記録的な猛暑で、外の蝉が慌てて鳴いているかのようなそんな暑い夏だった。



でも私は気がついていた。

ダイのケースには。毎年のように、サインが増えていた。

それは、すべて・・・カオル・ヒビキヤのものだった。

そして・・その傍らにはいつも小さく、「Marina」とサインされていることに。

演奏家にそんな名前の奏者は居ない。


―――マリナ。

それがあの人の名前なのだろうか。

彼は数年の間に、何台か楽器を買い換えた。

それなのにケースは交換しなかった。

それは偉大な音楽家のサインを放置するに忍びないと思っているからなのか、それとも、「Marina」と書かれたその人のサインを大事にしたいのか、聞くことができなかった。

私は逢うたびに「楽器が変わったね」「リード、調子が良いのね」と言うしかなかった。


麗人というのはああいう人のことを言うのだと思う。

秘めた情熱が迸る三白眼に、女性にあるまじき長身は、ヴァイオリン奏者の利点になった。

長い手足に、均整の取れた体つき。長い手指に、繊細な技法。

素晴らしい甘い音色が彼女の世界を豊かに繊細に色濃く表現する音楽は、やはり生演奏が素晴らしいと思った。



彼女のレッスンシーンを目の前で見られるというのは僥倖に近い。



・・・今年の夏は、以前にも増して暑い夏だった。

私の楽器は暑さに弱い。

だから、時々練習の手を止めて、楽器を冷やさなければならなかった。


もう、夕暮れ。

一体何時間レッスンすれば、彼に追いつけるのだろう。

私はそう思った。

そして、蝉の鳴く杜を、見上げた。


レッスン室は完全防音とはいえ、周囲に音が漏れる。

だから、こういう合宿所は、森の中にあるか、誰も来ない墓場の近くにあるかと相場が決まっていた。

今年は、この合宿の後に合流するプロのオーケストラと、カオル・ヒビキヤとの共演コンサートも計画されているし、彼女の来訪に相応しい場所として、この杜の中の合宿所が指定された。

松本や甲府の付近ではこういう施設が整っていてとても安心できる。

冬は・・雪深くなるか湿度が極端に下がった寒風のために、管楽器奏者のレッスン上にはまったく辛い場所ではあったが。

湿気が少ないので、弦楽器奏者やハープ奏者、ピアニストが多く集う場所でもあった。


そんな静かな杜に鳴く蝉を見ることはないけれど、ただただたくさんの音を奏でる蝉を。

私は静かに聞くことがまだ、できなかった。





ねぇ ダイ。

ダイは知ってるのかな。


この泣いている蝉と同数だけ、泣かない蝉がいることに。

その存在を気がついてもらえない蝉がいることに。

鳴いている蝉を恋い焦がれても、彼女たちは、泣くことが出来ない。


彼らの・・・その音色に同調することが出来ない。


私そのものだ。

暗蝉。それは私のことを指す。


カオル・ヒビキヤは、噂に違わぬ麗人だった。

とても女性とは思えない長身に、物憂げな三白眼の美麗な顔立ちの持ち主で、

小さい頃から英才教育を受けてきた彼女は、そのまま音楽だけの世界に生きているようだった。

でも、カオル・ヒビキヤのCDDVDもほとんどすべてを持っていたけれど。

実物の彼女はもっと迫力があった。ソリストとしての自信と経験と・・そして何か思いきったような闊達さと強さがあった。

彼女はぬるま湯で生きてきた人間ではなかった。

心臓を患い、奇跡の生還を果たし、現在の音楽活動に至るまでは、随分と断絶期間があったという。

そんな彼女は思いつめたような三白眼が印象的だった。


彼女はその日の合同練習が終わった頃、最後に一通り演奏してみようか、というところで現れた。

彼女はラフなパンツスタイルで、大股で入ってきた。

バイオリンケースをひょいと、片手に提げて、ふらっとやって来た。そんな感じだった。

ホールの全員が、一斉にどよめいた。

カオル・ヒビキヤだ!


100人ほど居るホールが騒然となった。


全員が、足を踏みならす。

楽器を持っているから、拍手は出来ない。

これはオーケストラ独特の、歓迎の合図だ。

ホール一杯に、皆の踏みならす足音が響いて、彼女はその歓迎を受け止めました、と言うかのように、少し右手を挙げた。

彼女はサングラスをかけて、颯爽と登場した。

王子様みたいねぇとクラリネットの女の子が私の後ろで呟いた。

女の人よ、カオル・ヒビキヤは。

そう言うと、ちっとも女性に見えないじゃない!

と口々に女子が反論した。

ジュニアメンバーは、一番年上は19歳、年下は13歳だから、そんなため息もとても幼く聞こえる。

彼らは恋も知らない。

恋する暇はない。

家と学校とレッスン教室を唯ひたすらに往復する毎日だ。

だからこういうタイミングで、著名な眉目秀麗な音楽家に出会うと、こぞってテンションが上がる。

それもジュニアメンバーならではの楽しみでもあるのだが。

彼らは、本物を見ることが出来て興奮しているようだった。

私はそんなものかしらと思った。

―――苦笑した。


彼女を見てもあまりときめかない。

音楽家としての彼女は尊敬し、そしてその演奏を生で見ることが出来るのは嬉しい限りだが。

あまり、そういう「色めき立つ」感情が湧かない。


それは私が恋を知ってしまったからだった。

今、左隣にいるダイが最も輝いて見えるから。

最も身近に居るから。

遠い世界のカオル・ヒビキヤを見て、ときめく余裕がなかった。

私は隣にダイが座って居ることの方が大切で・・・ 苦しかった。


私はダイを横目で見た。

彼は普通の態度だった。リードを締めて、音調を調整していた。

あの茶色の髪の人に合図したように、とんとん、と左足で二回、床を鳴らしただけだった。


その合図に。


どういうわけか、カオル・ヒビキヤが反応した。

ふと、その物憂げな三白眼をこちらに向けた。


・・・こちらを見ていた。



・・・ダイ?


ダイは微笑んでいた。

不敵な笑いを浮かべて、カオル・ヒビキヤを見ていた。



「大。師匠が到着だぞ!」

ホルンの男との子がそう言った。

彼はうるさいなぁと言った。

・・・鈍感な私はそこでやっと気がついたのだった。

彼の楽器ケースに、無数のカオル・ヒビキヤのサインがあることを。


彼女は弟子を取らないことで有名だったから、ダイと彼女が関係あるなんて、考えても居なかった。

そして、選抜メンバーは皆、誰かしら高名な演奏家の師事を得ているのが常だった。

だから、普通の会話の中に「ウチの先生が・・」と自分の師匠の名前と知名度が、その者のスキルに付随するアクセサリーとなっていた。

私はあまりそういったことに興味がなかったので、この時になって初めて、ダイも誰かの師事を受けていたのだということに思い至った。

まるっきり気がつかなかったのではなく・・・彼は特別だから、誰かの下でレッスンを受けるなんて、考えても見なかった。


それにカオル・ヒビキヤはオーボエ奏者でない。



・・・でも、オケの最初の音あわせは、オーボエとコンサートマスタ(またはコンサートミストレス)で行われる。


彼女が自分の望みのオーケストラで演奏しようと思った時には。

まずは、同じ楽器ではなく、基音を出す、オーボエに声をかけるのではないのだろうか・・・



私はダイのことをほとんど知らないことに、今更ながら気がついた。


よくよく考えてみれば、私の興味がなかっただけで、オーケストラのメンバー表には、どこの学校出身か、何のコンクールに出ているのか、所属はどこか、誰の師事を受けているのか、ちゃんと書いてあるのだ。

持ち歩いている楽譜の裏に下敷き代わりに敷いてしまっていたメンバー表を取り出して眺めた。

・・・ダイの紹介項目には、彼の輝かしい経歴と、カオル・ヒビキヤという名前がちゃんと書いてあった。毎年の事だから。最初の年しか見なかった。その時は書いてなかった。

確か、カオルは長期の演奏旅行で海外に行っていた頃だ。・・・だから書かなかったのか。

毎年彼の受賞歴で長くなるそのスペースを見るのがなんだか誇らしいようで辛かった。

毎回合宿の最初に交わされる、もう知った仲間同士の自己紹介で、昨年度一年の活動結果と、むこう一年の活動予定を聞けばそれで十分だった。


ちょっと耳を澄ませばすぐにわかる情報なのに。

私は唇を噛んだ。


カオルに皆の集中が集まってしまい、今日の合同練習はそれでお開きになってしまった。

彼女もタイトなスケジュールであるから合流レッスンは明日以降に持ち越された。


カオルはまた優雅に手を振ると、特別に設けられた専用の個人練習棟に足を運んでしまった。彼女のレッスン風景は今日は見ることが出来ないらしい。

・・・解散の合図で、皆が楽器を片付け始め、そして思い思いに宿泊施設棟に戻っていく。


「ウメ。戻らないの?食事は?」

最後まで残っておさらいをしている私に、ダイが声をかけた。

彼は楽器をすでに収納し、その師匠がたくさん書き込んだサイン入りの楽器ケースと楽譜と、そしてリードを入れた水入れを持っていた。

リードは適度な湿気を持たせて、削り込みを行う。

彼はいつも空いているほんのわずかな時間でもリードを削り機で削っていた。

そうして何本もストックを持たないと、いざというときに、リードが割れたり裂けたりして演奏そのものに支障が出るからだ。


「いい。ちょっと・・おさらいする。温度も下がってきたし」

ああ、この部屋は暑かったし外気温も高いしね。

彼は頷いた。

「今日、ピッチ(音程)高めだったし。少し調整しておきたい」


私がそう言うと、それなら、先に戻るよ、と彼は言ったので私は微笑んだ。

あまり根を詰めないように、と念を押された。

これから用事がある、と彼は言っていたから、そのままカオルのところに足を運ぶのだろうと思った。


私はそのダイの背中を見送ってから、ひとつ吐息をついた。

彼は毎年違った彼になる。

背が伸び、顔が面長になり、そして口の悪いこどもから少年というより・・男の人になってしまった。

そうして体格が定まってくると奏法も安定してきて、彼の音色はあでやかになっていった。


彼の演奏会もコンクールも欠かさず聴いた。

私は第一のファンと思っているわけではなかったけれど・・・

あの茶色の髪の人より、たくさんのダイの演奏を聴きたかった。

ただ、それだけだ。

それ以上は・・・求めない。



管楽器奏者内の恋愛は御法度だった。

密接にレッスンしたり、議論したりするので、そういう状況に堕ちやすかったけれど、

特にトップ奏者同士の恋は・・・切ない結果に終わることが多かった。

音楽の価値観と、恋愛の価値観が同じであるうちは良い。

でもそれにずれが生じたり私生活がうまくいかないと、とたんに音に出る。

管楽器奏者は呼気を使うからそれが如実だった。

耳の良い者が聴けば、誰が誰に片想いをしていて、誰と誰がこっそりつきあっていて・・・

そんなことまで解るという。

そういう恋愛の哀しい結末を味わいたくなかった。だから、このままで良いと思った。


私は・・・私はダイの才能に嫉妬している。でも、その前に。ダイの傍で微笑むあの人に嫉妬している。

奥歯を噛んだ。


静かなホールで私は吐息をついた。どのくらいそこに居たのだろう。

食欲はなかった。このまま疲れて泥のように眠りたかった。

・・・あまりにも静かすぎて、防音室の外から聞こえる夜の蝉の鳴き声が、僅かだけれど聞こえてきた。


もう遅い時間だった。私はホールを軽く片付けて、合同練習室を出ることにした。


―――もう、来年はここに来られない。


それは確実だった。


ジュニアの年齢を超えてしまうに近かった。私は今18歳で、来年19歳になる。

来年は・・・来られそうもなかった。

特例で12歳からここに来ていた。その時はまだ、自分は世界に通用する奏者になれると思っていた。

でも・・そろそろ限界だった。

後から後から、若い演奏家がやってくる。

私がこの首席奏者の席に座っていられるのは、ダイがいるから。

彼と一緒に演奏したくて練習に励み、彼がさり気なく、総合監督に「フルートのトップ(主席)は・・・持ち替え(フルートとピッコロ・アルトフルートなどを演奏中に替えて演奏すること)もできる人が良い」と私を推薦してくれたからだった。


ダイ。

ごめん。

私は来年、ここに来られない。

ダイの居ない演奏はもう辛い。



少しだけため息をつき、練習場を後にした。



防音扉を開けると、大音量の蝉たちの鳴き声に、少しだけ顔をしかめた。


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そして夜空を眺めた。


蝉たちの鳴く杜を眺めた。

そして上を見上げて、満点の星を眺めた。

今年はここも猛暑だった。

毎年この時間になるとかなり涼しくて、楽器を持つ手が冷えてきたものだ。

私は肩から提げた革製の楽器ケースを持ち直した。



「暑いな」

突然、声をかけられて、ぎょっとした。

―――誰?

練習棟の灯りもほとんど消えてしまっていたし。

今、出てきたばかりのホールから暗がりに出たばかりなので、目が闇夜になれていなかった。

まだこのあと自室で運指の練習をするつもりだったので、楽器は反対側の手に持ったままだった。

あやうく、その楽器を取り落としそうになる。


その姿を見て、私は息を呑んだ。

「カオル・ヒビキヤ!」

「呼び捨てにするなんて、酷いなぁ」

彼女はくすくす笑いながら、その長めの前髪をかき上げた。


間近で見ることがあるなんて。

私はどう、声を出して良いのか解らず、空いた方の手で楽器ケースの肩紐を握りしめた。


褐色がかった巻き毛、物憂げな褐色の三白眼がはっきり見える。

端整な顔立ちに通った鼻筋。

均整の取れた、ヴァイオリニストかダンサーかよくわからないくらいのシルエット。

長い手足。良く響く声。

何もかもが、カオル・ヒビキヤだった。


「すみません、ヒビキヤさん。つい、興奮して。」

私はそう言った。


「いいよ、・・・可愛い女の子に呼び捨てにされるのは光栄だ。ウメちゃん」

彼女が私の名前を呼んだので、私は少し驚いて目を見開いた。

甘いカーブを描いた唇を少しだけ歪めて、彼女は笑った。

「なんであたしの名前を知ってるのかって顔をしてる。」

「そのとおりですから」

私はそう言った。

そして、彼女が今、私が行った動作と同じ事を。

・・・夜の星を見上げながら、宵の蝉の音に聞き入っていたことに気がついた。

「夜の蝉。風情があるね。まさかここで聞けるとは思わなかった。」


カオルはそう言った。

私の問いには答えなかった。


彼女は、宿泊棟に通じる小道に設置されたベンチに腰掛けていた。

そして、だれからも声をかけられない静寂を楽しむように、星を見上げていた。

「女の子がこんなに遅い時間、出歩いたら駄目だろう・・部屋にお戻り」

「あなたも女子ですよ」

私は苦笑した。そうだったっけ、とカオルが笑った。

「それにここは敷地内ですから、大丈夫ですよ。安全面ではね。灯りが少ないから、夜道で転んだりして楽器を落とさない限りは。」

私はそう軽口を叩いた。

カオル・ヒビキヤがヴァイオリンを持っていなかったことも私を気安くさせたのかもしれない。

楽器を持たない彼女は・・・そう、まるで月夜見の神があまりの蝉の囂しさに、ここに思わずやってきて呆れている。そんな感じだった。

どこか寂しげで、どこか幸せそうで・・どこか、頼りなさげに見えてしまった。

月の光のせいかもしれない。それとも、この蝉の声で、私の聴覚が狂い、聴覚と接続して視力や接続してない思考力までも狂ってしまったのかも知れなかった。


「ここにお座りよ。・・・今にお客さんが来るから。」

カオルが笑って、隣に座れといってベンチを軽く叩いた。


「お客様?」

「ああ、毛色の違う奴と、小さい奴」

彼女はそう言ってまたくすりと笑った。

「ウメちゃん。・・・凄い楽器を持ってるなぁ。見せて」

カオルの隣に座るだけで緊張のあまりに硬直している私に、彼女は親しげに話しかけてきた。

私は彼女に、楽器を手渡した。まるで、弓を持つかのように。慣れた手つきで彼女は持った。ずしりとした感触があったのかもしれない。

または、私が長時間握りしめていたから、生暖かくなって、ちょっと吃驚したのかもしれなかった。

彼女は、すげぇと言って口笛を吹いた。

「・・・これを日本で、持っている人が何人いるかな。

ああ、久々に見たよ。ムラマツの完全ハンドメイドだね・・・・しかもプラチナだぜ!」

彼女が高く私の楽器を掲げた。

フレンチタイプ(※フルートにはカバードとフレンチがある。フレンチの方が奏法がより難しい)なので、ホールキー部分が月の光で乱反射した。

「これ、馴らすの難しかっただろう」

「そうでもなかったです。プラチナの方が温度管理が難しいですが・・・シルバーや18K よりもずっと音色が安定しているので。」

それであえて君はこれを選んだんだね、とカオルが私を見てそう言ったので、私は少しだけ心を平静に保つことが出来なくなった。


「・・・どういう意味でしょうか」


また、カオルはその問いに答えなかった。


「ダイはね・・奴が小さい頃から知ってるんだ。」

カオルが話し出した。

「ほら、奴は拘る性質だからさ。音楽やりたいって言ったときに、最初はヴァイオリンやらせるつもりだったんだ。・・・でも、いつかカオルと共演したいからヴァイオリンはイヤだ、弦楽器は追いつけないからイヤだ、って言いやがる。」

カオルがそのときのことを思い出したらしく、細くて大きな手を口元にあてて豪快に笑った。

「しかもさ。アイツ、次に何て言ったと思う?メカニカルで、舞台の上で目立って、カオルと同じでない楽器。でもカオルはボクを見なければ演奏できない位置にいる楽器が良いと指定しやがったんだ。・・・そしたらもう、あのポジションしかないだろう?」

・・・ダイの楽器選びの動機がそれだけだったのには正直驚いた。


「さすがに、断れない筋からのお願いでなかったら、ああいう『こだわりマン』を弟子にするつもりはなくって。・・・でも、アイツは数年であっという間に上手くなった。」

それは演奏会のたびに聴きに来てくれる人がいるからです、と私は心の中で呟いた。

自分の演奏を聴いてくれる人が居れば、必然的に練習にだって熱が入る。


私は黙って彼女が語るダイに耳を澄ませた。

「このジュニアオケのメンバーだって、推薦状がないと入れないんだろ?あたしはそんなものは書かないから自力で来いよって言ったんだ。

ダイを紹介した人が毎年甲府に来るのでね。

・・・毎年、この合宿が終わった後に。甲府でちょっとした催し物があってね。

アイツには、このオケに参加できないような奴には甲府に足を踏み入れるなって言ったんだ」

そうしたら毎年来やがって。あたしより参加回数が多いんだ。酷いよなぁ


彼女はそう言って笑った。


彼女は私の楽器を眺めながら世間話をした。

時々笑いながら片手を口元に持って行くので、少しだけはらはらした。

噂に違わない、豪快な気質の人のようだった。



・・・そろそろお出ましだぜ


彼女が何かに気がついて、微笑んだ。


誰かが来る。

彼女の耳は私の数倍良かった。私は足音に気がついたのは彼女のその台詞から数秒経過したときだった。


宿泊棟への道は緩やかな傾斜になっていて、こちらからは下り坂だ。

だから、大きな楽器の人は、楽器を運ぶ際に、この傾斜に気を付けて歩かなければならない。

つまり向こうからは上り坂で。

・・・向こうから、誰かがやって来る足音がした。

その人物はが徐々に近づいてきて、姿を現したとき。

彼女に言っていた「毛色の違う客人」だと思った。


「ヒビキヤ。・・・おい。探したぞ。」


彼はとても不機嫌そうに、そういった。

白金の髪に、青灰色の瞳の・・・本当に月の神様のような人が目の前に現れた。

長身の、神経質そうな人だった。

外国人と一見して解るのに・・・流暢な日本語だった。

彼は、カオル・ヒビキヤの知り合いのようだ。

カオルは唇の端を歪めて、ふふんと鼻を鳴らした。


ここで待ってたんだ。


彼女はそう言った。



「やぁ、シャルル。遅かったな」

カオルはそう言って、反り返り、長い脚を組み直した。


シャルル、と呼ばれた人物はますます不機嫌そうに、眉根を寄せた。

彫刻のような、その美しい顔に、はらりと白金の髪がかかり、月の光を全部集めてしまったように光を受けて発光し、今はその髪はレモン色に見えた。

月の神様のようはその人は、カオルと私の目の前に立って、腕組みをした。

私にはまったく目が入らないかのようだった。私は慌てて立ち上がった。

「レディが先に立つものじゃない」

カオルが面白そうに言ったものだから、私は、はい、と小さく頷いてまた座ってしまった。


「オレの患者が何してる。・・・今日はゆっくり休むというから、休息時間を予定しないでここまで移動することを許可したのに。」

彼は憤慨していたようだった。

物言いは静かだったけれど、目つきが鋭くなった。

はいはい、とカオルが言ってちょっと笑った。

「発作を起こしても知らんぞ」

「・・・腕の良い医者がいるからね。しかもあたしの主治医だ。そいつが治してくれるさ」

「ふざけるな」

ぎらりと、今度は強くカオルを睨んだので、私はまた腰を浮かせてしまった。

カオルはまったく動じてなかった。


「ここにいる小さなレディが驚いているよ。名医シャルル・ドゥ・アルディ。・・・本当に診て欲しいのは、あたしじゃない。」


彼女はそう言って、座ったまま、私の楽器をシャルルに渡した。

シャルルは、私のフルートの色あいに気がつき、おや、と眉を動かした。

そしてそれを受けとると、ずしりとした感触に、少しだけ声を漏らした。

先ほどの憤りは忘れてしまったか、後回しにしようと思ったらしい。

「・・・・ムラマツのハンドメイド。H管。エクストラバージョン。フレンチタイプ。頭部管をオリジナルに交換してある。・・・日本人で持っている者の中で最年少だな。」

彼はそう言うと、興味なさそうに、私に渡して寄越した。

カオルは面白そうに言った。

「あんた、フルート好きだったろ?珍しい楽器をみて、喜んだお礼はなしかい?」


そう言うと、シャルル・ドゥ・アルディは私の方をおもむろに向き直った。

・・・・そして、じっと私を見た。

その青灰色の瞳で。

喜んでる?この無表情が?

私はカオルが言っていることが理解できなかった。


でも次の瞬間、吸い込まれそうな彫りの深い瞳が私を見たものだからそんなことを言う暇はなかった。

「名前は?」

「ウメ」

私の代わりにカオルが答えたので、シャルルはカオルに少し黙ってろ、と短く言った。


「・・・いつからだ?」

彼はそう言った。

「え?」

私がそう声を出すと。


私から楽器を取り上げて。カオルに渡した。ちょっと持っていろ、と肩にかけていた鞄も取り上げて、カオルに渡した。

カオルははいはい、とまた言って、面白そうにほおづえをついた。


この神様達の気紛れに立ち会って良いのだろうか・・・

私はなんだかここに居てはいけない気持ちになってきた。


その時、シャルルが動いた。

「あっ・・・!」

「黙って。」

シャルル・ドゥ・アルディが、私の両の頬を掴んだのだ。

冷たくて細くて繊細だけれど、大きな手のひらが、私の顔を包んだ。

「日本人にしては顔が小さいな」

シャルルはそう言いながら、私の顎からこめかみにかけて・・・ゆっくりとなぞった。

私は顔が赤くなり、近くに見えるその瞳から眼を反らすだけで精一杯だった。

その横でにやにや笑うカオルが恨めしかった。助けてくれたって良いじゃない。

――― 一体、何をしようと言うの。


U-side 闇蝉 後編

「あの。離してください。」


私は小さな声でそう言うのが精一杯だった。


彼の左手の薬指から伝わる冷たいリングの感触から、その素材は私の楽器と同じハードプラチナだとわかった。

その薬指が、小指と一緒に、私の頬や顎のラインをなぞった。

そしてうなじにまで手を伸ばしたので、私は首を縮めて肩を上げた。

「いつからだと聞いてるんだ。」

シャルル・ドゥ・アルディは、まったく日本人女性は神経が退化しているとしか思えない、と苛立たしげに呟いた。

私は眼を反らしながら、とぼけてみた。

「なんのことでしょう・・・」

「オレは医者だからね。ごまかせないよ。・・・ウメちゃん?」

彼がぐい、ともう一度、私の顔を自分に向けた。

「こっちを見ろ」

彼はそう言った。その強い口調に逆らえなかった。

大人の人にそんな風に命令されるのは慣れていなかった。困ってしまった。

「ウメちゃん。奴には隠し事はできないぜ。」

可笑しそうにカオルが言った。

「シャルル。レディが怖がっていよ。そう、どいつもこいつもって顔しないでさ。

 気持ちはわかるけどね。」


「・・・顎関節症。随分長いこと患っているね」

シャルルが言い当てた言葉に、私はぎくりとした。

隠しても駄目だとシャルルは言った。

青灰色の瞳が私をのぞき込んでいた。

「職業病みたいなものさ。・・・高い確率で発症する。型から型までの混合だな。

食事するときも相当痛いだろう」

「痛くありません。痛くなんかありません。」

私はそう言って、彼の手を振り払った。

「君だって自覚症状あるだろう。痛み止めの注射を打っている痕跡がある。

でも演奏に支障が出るから、ぎりぎりまで鎮痛治療はしないのだろう?

それが悪循環になる。長時間練習した後は、口もきけないくらいだね。」

シャルル・ドゥ・アルディは私を見て、わからない、といった風に首を振った。

「このプラチナフルートの頭部管がハンドメイドで君の唇の形状に合わせたものである理由もわかるよ。負担ができるだけかからないように、作り直したのだろうね。

そして、最も好まれる18K フルートにしないで、プラチナにした理由は、やはり、その顎の周りの筋肉がバランスを崩して音程が崩れたときに、硬質の音がでるプラチナの方が誤魔化しやすいからじゃないのか?」

「・・・・・・」

私は無言だった。

たった、ほんの一瞬だけ私を見て、少しだけ触診して、楽器をちらりと見ただけでわかってしまうこの人が怖かった。

私そのものが薄っぺらい人間だからか。

シャルル・ドゥ・アルディ。何者なのだろう。

どこかで聞いたことがあった。


「忠告しておく。早いところ専門家に診てもらえ。それとも・・専門家の忠告を無視して、君はずっとごまかしごまかしその状態を続けていたのかな。」

私は下を向いた。

まったく頑固なお嬢さんだ。

シャルルはそう言った。

相当痛いぞ、これは。

そう言った。


・・・痛いわよ。痛いに決まってるじゃない。


確かに激痛が走る。

最近では常に鈍痛がある。

でも痛み止めを使うと、口角の筋力が加減できなくなり、・・・私の唯一の取り柄であるピッコロもアルトフルートも持ち替え吹きができなくなる。

微妙な加減ができなければ音程も保てないし、難易度の高い曲も吹けなくなる。


この合宿に入ってからは、皆に知られずにいることにどれだけ心を砕いたことだろう。

・・・レッスン後はもう、口もきけないくらい、痛んで咀嚼することもできない。

フルート奏者は私だけではない。

他に5人も居て、彼ら彼女らは、私の席が空くのをじっと狙っているのだ。

脇に控え、監督や指揮者の注意を自分の事のように楽譜にすぐさま書き込んで、自分のレッスンでないそれが終わったあとは、自分のことのように重点を置いて練習する。

音楽の世界とはそういうものだった。

そしてチャンスに恵まれて、タイミングが良く、努力を怠らない才能溢れる人間だけが残る。

どれか一つだけ優れていても、駄目なのだ。

それに、・・私はダイと一緒にもう少しだけ過ごしたかった。


贅沢は求めない。

今年だけだ。

来年はもう、私はここの参加資格を失う。

規定する合宿の申込日までに、私は19歳になる。

ダイはまだその時はその年齢に達しない。

大学に入ったばかりで、まだ音楽を続けて居れば、彼はまだこの合宿の参加資格があるのだ。

留学経験者が多いから、学年で区切ると遅れて進学した者が有利になる。

だから年齢で制限するのもわかるけれど。でも、酷いと思っていた。

その代わりに、私は特例で、13歳に達する直前だったことを理由に、12歳からここに参加することが出来たのだから、文句や不平は言えなかった。


―――来年、ダイの右隣に座るのは、私でない誰か、なのだ。


顎関節症を患ったのは随分前だ。

これは管楽器奏者に多く見られる。

一種の職業病だ。

顎の筋力を酷使して、とても負荷をかけ、精神ストレスもかかる故の故障だった。


演奏会本番の前は、緊張がほぐれるのを畏れて食事も水分も摂ることができない。

ましてや、鎮痛剤なんて使うこともできやしない。

痛みに耐えながら、日々を生活することは辛かった。

唯一寝る瞬間だけが痛みを感じなかった。


もう、限界でしょう。


私のかかりつけの医師は言った。

楽器でごまかしても。技術でごまかしても。

本人が治療しないのであれば、駄目ですよ。


アーティスト専門に診ているその人はそう言った。

君はまだ若いから、はっきり言うよ。

そうして・・・はっきりと死の宣告をしたのだ。



手術をしろという。

砕けた軟骨を除去しないと痛みは消えないと言う。

私に死ねと言ったのだ。



1日休めば自分で解る。

2日休めば周囲が解る。

3日休めば観客が解る。


そういう世界だった。

一日何時間も孤独で退屈な基礎練習をして技術を維持する。

華やかな曲の練習をするのは、ほんの僅かな時間なのだ。

それが私の今を支えているのに。

手術なんかしたら、何ヶ月楽器に触れないのか。

何ヶ月・・・その何倍の時間をかけたら、今の自分以上になれるのか。

考えるだけで恐ろしかった。

熱が出ても学校の行事があっても、睡眠時間を削っても練習時間を確保した。

毎日毎日、学校とレッスン場を往復するだけだった。

2時間基礎練習をして。昼休みに30分練習して。自習時間があれば音楽室の教師に頼み込んで個室防音室を借りて練習する。そして夕方終業と共に深夜までレッスンに明け暮れる。

そんな毎日を失うのだ。そんな毎日を捨てろというのだ。


・・・このシャルル・ドゥ・アルディも。同じことを言うのだ。


私は・・・泣きそうになって。


「ウメちゃん。だから、はやく治療しなよ。あたしが見てもわかる。

ダイが心配して・・・シャルルにここに立ち寄るように、頼んで寄越したんだよ。・・・ウメちゃん?」

カオルの言葉を聞き流した。


私は。


おもむろに楽器を分解し始めた。

何してるの?とカオルが唖然として言う。

泣きそうな顔をした女子が、涙を流す前に、慌てて楽器をケースに閉まっているのだ。

その奇妙な行動に唖然とするカオルに、シャルルが説明した。

「涙の成分がプラチナの本体に付着するのを防ぐために片付けているんだよ。塩分がこの楽器には禁物だ。涙とか汗とか。だからこの陽気は相当辛かっただろうね。・・・・見上げた根性だな。」

シャルル・ドゥ・アルディがそう解説した。

私の解説は良いから。はやくどこかに行って。でなければ、私がはやくどこかに行かなければならない。



・・・楽器を慌てて片付けた。

肩にかけていた楽器ケースを開き、尾篭土のやわらかいケースに収納して。

溢れそうになる涙を堪えた。ここに落としてはいけない。楽器を痛めてはいけない。

彼が好きだと言ってくれた楽器だった。

良いね、と言ってくれた。

だから私はこの楽器がとても扱いづらいと思ったけれど好きになった。

このフルートでダイと演奏できることが嬉しかった。


・・・でも、もう、それもできない。

カオル・ヒビキヤに知られてしまった。

彼女はきっと、早速音楽監督にドクターストップをしろと告げるだろう。


そうして壊れることを引き替えに、トップ奏者の地位にしがみついたまま、そのまま転落していった人を何人も知っていた。

後輩にも何人かいた。

今のチャンスを選んで将来を捨ててしまった人と、私は今同じになろうとしていた。



・・防湿効果の高い楽器ケースをぱちんと音を立てて蓋をして。



そして私は初めて。ようやく泣くことに専念することが出来た。


「だったらどうすれば良いのよ!」

私はそう言って号泣した。

後から後から涙が出てきたが、嗚咽は蝉の音にかき消された。

楽器を片付けて、それをぶつけて傷つけたりすることがない状態になって初めて・・・。

私は泣くことが出来た。

私の感情より優先されるものはこの音楽と。そしてダイだけだった。

ぽろぽろと涙を流す。

涙を流すのだって、病気には障る。

ずきんずきん、とこめかみが痛む。


「私にはこれしか取り柄がない。私に残されたものはこれしかないし。

・・他にどうやって誰と繋がることができるというの・・・」

小さいときからこの生活だった。

今を失うことが怖かった。

だったら・・・来年からは会えないみんなとダイに。最後の私の姿を焼き付けて欲しかった。


暗蝉もその羽音を響かせることができるのだと。

そう、言いたかった。


わかってるわよ。


私は世界に通用しない。日本のジュニアに選抜される程度しか技術がない。

どんなに環境にもタイミングに恵まれていてもそれを上手く使うことの出来ない人間だった。


だから今年くらいダイと一緒に演奏させて欲しい。

それは私の小さくてささやかな願いだった。

それを。

今あったばかりのこの人達に指摘されて、そしてそれを止めろと言われて。

私はどうしたらいいのか、わからなかった。



「・・・・ダイが言ってた。努力家の女の子が、毎年隣に座る、って。」

ああ、泣くんじゃないよ。別嬪さんが台無しだよ。

カオルが腕を伸ばして、泣きじゃくる私の頭を撫でた。

「食事の時間も気にするくらいの神経質なその子は。

・・・トップ奏者にない謙虚さを持っていると言ってた。

毎回、下っ端が掃除するべきホールを掃除し最後に退室する。

そして一番にやって来て、空調を気にする。

・・・ダイがそんな風に女の子の話題をするのは、二人目だよ。

・・・・そしてその通りじゃないか。

ウメは、この時間まで練習をして練習をして、そして、その地位を保っている。

そんな素敵な女の子が、痛みと秘密に苦しんでいたら、ダイだって苦しいだろ。」


カオルはそう言った。


違うよ、私は泣きながら否定した。


最初に入室するのは。

私が人よりたくさんの基礎練習をしないと・・・休み休み楽器を暖めているのを知られてしまうから。

私が人より遅く退室するのは。

掃除をしているという名目でないと、その痛みに耐えかねて、痛み止めを服用する姿を見られたくなかったから。


「・・・なによ、ダイは知ってたの?・・・・ 馬鹿みたい。」

私はそう言って、また上を向いて泣いた。


どんなに悔しい結果になっても、コンクールの時には泣かなかった。

主席を奪われた時にも泣かなかった。

自分の練習不足が敗因だと思い、闘志を燃やしただけだった。


・・・でも。今、この瞬間。


私のことをよく知らない人達の前で、私は泣いた。

私を知らないから、思い切り泣けた。


その時に思いだした。

シャルル・ドゥ・アルディ。

カオルと最初に共演した人物だった。

確か、ワンフレーズ飛ばして。たぶんわざとだと思うが。

カオルに殴られた人物だ。

昔の逸話の人物が、今、ここに居た。

こんな凡庸な私を、奇跡のような人達が困ったように。でも嬉しそうに見つめていた。

きっとダイに対してもこうして見つめているのだろう。

優しい、月の神様たち。

「ダイが気むずかしいから。ああやってパートナーを何年も替えずにいられるのって、ウメしかいないと思うんだよね。」


カオルが言った。


そして私はカオル・ヒビキヤとシャルル・ドゥ・アルディの関係が羨ましかった。

彼女と彼は、今、患者と医者の関係にあるという。

出会ったときの年齢の何倍もの年数を経験して、彼らはその関係を少しだけ変えたけれど、それでも信頼関係を築いていた。


私は。


ダイとそんな関係を築けないだろうと思った。

来年、私の姿がなければ、ダイはそうなんだ、と思うのだろう。

でも、ただそれだけだ。

隣に座っていた人物が交替しただけ。

そう思うだけだ。

私も。

ダイでない人を隣に何度も演奏した。

その器用さを乞われて、演奏会のエキストラに参加した際には、一番末席でさえ、そこに参加できることを喜んだ。ほんの何小節しか出番がなくても。


でも。

カオルはまた長い話をした。

「ダイはね。音楽を始めたのが遅いから。絶対音感はない・・だから、音程を気にしすぎる。

あいつが始終リードを削ってストックをたくさん作っているのは不安の表れさ。

音程が、環境や自分のコンディションで崩れることを極端に嫌う。

・・・・ウメちゃん。

君がきちんとした音感で、彼にA音とC音を提供しているから。

彼は平穏を保てるのさ」


私は彼女が言っている言葉の少ししか・・・理解できなかったと思う。

号泣していたから。

ダイが語る私は私であって私でなかった。

そんなに私はご大層な人間でない。


ただダイと一緒に演奏できなくなる日をカウントダウンしている情けない人間なのだ。


私がこんなに辛く苦しい日々を送ることができるのは、彼のその才能に魅せられてしまったから。

ただそれだけだった。


「ダイも器用貧乏でね。あいつも、音楽の道を究めることはないだろう」

シャルルが今度は言った。

「・・いずれ、別の道で大成する。

これはほんの・・・ 序章でしかない。」


彼の人生が、音楽以外でもっと花開くのであれば。

私は喜んで応援したい。


泣きながら。私はそう言って笑った。

やぁ、ようやく笑ってくれた。暗蝉の姫君。



カオルはそう言った。

暗蝉。カオルはその意味を知っていた。

「あたし達のように・・・泣きたくても泣けない蝉のことだろう。」

彼女はそう言った。

「我慢強くて・・そしてこよなくダイを大切にしてくれる人を蔑ろにするわけにはいかないよね?」

シャルル・ドゥ・アルディ?と聞かれて。

その異国の人はちょっとだけ舌打ちをした。

「ダイと一緒にアイツに怒られてもいいのであれば、このままウメを放置するけれど。」

「ああ。わかったわかった。」

彼はほんとうに仕方なさそうに。

手を振った。本当にうんざりした様子だった。



「この子の病床例については興味があるしね。珍しい複合型だし。

ストレスと緊張性障害については経過観察後、論文のサンプル価値はあるね。・・・・

 引き続き経過観察して。

 しかるべきときに手術すれば良いのだろう?」

まったくオレの回りの女性とはこうも願い事が多いものなのだろうか、と彼が大げさにため息をついた。


「・・・おい!何、ウメを泣かせているんだよ!」

その時不意に声がして。

こちらからみて下り坂から、ダイがやって来るのが見えた。

「いい大人が二人して。なに、泣かせてるんだ!」

彼は怒っていた。

とても憤慨していた。

ダイ。

私の涙が止まった。

彼はまだ少年と大人の狭間の人だった。

ひょろりとした体躯。でも、骨格は大人だった。

大きな瞳に、バランスの取れていない少年とも青年とも言えるようなそんな彼を。

私は眩しくて直視できなかった。


・・・カオルとシャルルが月の使わした人達であれば、ダイは太陽そのものだった。

彼らも、眩しそうにダイを見た。

「おい、また身長のびたんじゃないのか?」

そうカオルが言うとダイは近づきながら、面白くなさそうに言った。

「もう少しでカオルを抜かすよ。・・・・それより。帰りが遅いので、出てきてみれば。

何してるんだよ」

ウメを泣かせとは言ってないぞ、と彼が口ごもった。


成り行きだ、とシャルルが言うと、ダイはきっと彼を睨んだ。

「シャルル。お前・・・泣かせるなって言っただろう」

おや、とシャルルは意地悪く笑った。

「それは特定の人に対する願い事じゃないのか・・知らなかった。」

シャルル・ドゥ・アルディがそう言うと、ダイは面白くなさそうに口を尖らせた。

「いいから。オレの言う通りにしてくれ。

―――今年の甲府の祭りには彼女の隣の席を譲ると約束しただろ」

白金の髪のその人は、面白そうに結構、と言った。

「君がそれを譲るとは。相当大した決心だね。」

「うるさい」

ダイは言った。そして私に向き合った。

「・・・ウメ。具合は・・・ あまり良くないのか」

「ダイ。知っていたの?」


そう言うと、ダイは、パートナーなのだから、解らない方がどうかしている、と笑った。

「食事。固形が辛いと思って、ゼリー状飲料を買って置いた。

 カロリーだけは保たないと、持久力がもたない」

私は笑った。

「・・・・もうそういうレベルじゃない」

「・・・そうか。」

ダイは少し寂しそうに言った。

「でも明日の最終日にはちゃんと出るから」

私はそう言った。

彼がうんと頷いた。


「カオル。シャルル。・・・ちょっとカオルの独立棟で待っててくれ。」

ひゅう、とカオルが口笛を吹いた。

「ナイトがプリンセスを送っていくそうだ」

「そんなんじゃない」

ダイがそう言って否定した。

私の肩に提げられた鞄を彼は代わりに持ってくれた。

カオルとシャルルは。まだ、月夜を眺めていくと言う。

私はぴょこんと頭を下げた。


カオルは「おやすみ、良い夢を」と言った。

シャルルは黙っていた。

私はこの奇跡の様な人達と話をすることができたことそのものが私の最後の音楽活動になるのかと思うと少し切なくなった。

素敵な音楽家達との会話が私の演奏活動歴の最後欄に書かれることになるのだろう。

カオルと、ダイと。そしてシャルルとの音楽討論。



見返りを持たない、そんな私の願いを。

彼らが聞き入れてくれた。

私は捨てるつもりがなかった。

捨てることが出きなかった。


シャルルとカオルが何かを考えていた。

私が座っていたところにシャルルが座ると。

二人でなにやら話をし出した。

カオルは手を振って挨拶をしたが、シャルルはもう私とダイには興味がなくなったかのように

こちらを見もしなかった。



「行こう」

ダイが言った。


宿泊棟までの、ほんとうに短い距離と時間。

私はダイと、音楽の解釈と今後のスケジュールなどの事務的な話以外を・・・はじめて交わすことになった。


「彼らを置いてきてしまって良いの?」

「ああ、どうせもう一人が到着するのを待っているんだろう」

カオルが言っていた「小さい客人」のことだろう。

ダイは月を見上げて、「暑いな」とカオルと同じ台詞を呟いた。

私は「そうだね」と言っただけだった。

ダイと普通の会話をしたことがないから、どんな話から始めれば良かったのかわからなかった。


ダイは私の歩幅に合わせてゆっくり歩いた。

そして「ごめん」と言った。

「・・・本当は随分前から気がついてた。だけど、ウメが言い出すまで、言い出すつもりがなかった。そんなに酷くなっているなんて、知らなかった。・・・いや知っていたけど、我慢できるくらいだから・・・大丈夫だって思ってた」

彼は前を向いたまま、そう言った。

私の左側に立つ彼は、演奏するときの彼と同じ角度なのに違うダイだった。

「それはダイのせいじゃないでしょう」

「・・・明日の最終日には出られそう?」

その質問に、当然じゃない、と私は極力朗らかに言った。

「明日は無理をしても良いから」

そう言ったので、私は言葉に詰まった。

無理をするな、と言われると思ったからだ。

「悔いのないように。・・・・でも、そのあとはきちんと治療してくれ。」

ダイ。それは私に死ねと言っているようなものよ。

私はその言葉には返事をしなかった。

「取り柄がなくなっちゃうわね」

ちくりと、それだけ言うと、彼は大きくため息をついた。

「ウメ。・・・・取り柄って、優れている技能を指すわけではないよ」

彼は言った。

「その人そのものの優れているところをそう言うんだ。ウメにはちゃんと、取り柄があるだろう?持ち替えできて。長らくトップ奏者を維持して。そして、きちんと努力することを知っている。辛いとも痛いとも言わない。辛抱強くこつこつ進むことって、取り柄じゃないの?」


・・・ダイ。それは路を極めた人が言うんだよ。

でもその言葉は私には重かった。

とても・・・ずしんと来た。

ダイは路を極めつつある人だ。そしてこれから・・・ あっさりと違う道に行こうとしている。

彼はそんな頂点に登りつめる前に、私に向かって振り返ってくれた。

そして、堕ちていく人を何人も見ているはずなのに、私には諦めろとは言わなかった。


優しすぎるよ、ダイ。

そんなだから・・・私はあなたを見ていたいと思ったのだけれど。


彼だって努力していないわけではなかった。

私は知っている。

才能だけではこの世界では生きていけない。

たくさん書き込まれた楽譜と、スコア(総譜)を持ち歩き、休憩時間には曲のおさらいをして。そして時間を惜しんですべての情熱を注いでいることを私は知っていた。


カオルもシャルルもそんな彼だからこそ、師であるようなずっと雲の上の人達なのに、ああして対等に彼を扱うのだ。


・・・おせっかいね。


私がそう言うと、ダイは少し口を尖らせた。

「それはないだろう。もう何年一緒にやってるんだ。」

だから、早く病院に行け。早く戻ってこい。

彼は、そう言った。私は小さく微笑んだ。

「考えておくわ」

それ、あのシャルルの台詞だぜ!

ダイが目を丸くしてそう言った。

その表情があんまりにも面白くて、私はついまた笑ってしまい、大きな口を開けたものだから痛みに顔をしかめることになった。

「今日はもう休め。明日に備えろ。」

カオル・ヒビキヤと一緒に演奏できるのだしね。

彼は目をきらきらさせながら言った。

随分長い間師事していたのに、彼女は一度も彼と同じ舞台に上がらなかったらしい。

・・・今度こそ、カオルにぎゃふんと言わせるよ。オレの音じゃないと始まらないしね。

それが彼女との約束なんだ、とダイが言った。

ああ、あの茶色の髪の彼女のことだろうな、と思った。

「それなら、明日は最高の演奏にしないとね」

私はそう言った。


・・・蝉がまだ鳴いていた。

私とダイの会話はここで終わった。


頑張ろうね


私が彼と別れ際にそう言うと。


ああ、お互いに。明日は無理しろよ。


持ってくれていた鞄を受取りながら、彼の言葉を聞いて。


私は笑った。もう泣かなかった。


あの人達に逢ったから。

この暑い夏の夜に、気紛れにやってきた、彼らが私を少しだけ変えた。

最終日は、いつも楽しみだった。

これまで練習してきた曲を、その都度招いたプロのゲストと一緒に楽しむ。

プロを目指す音楽家のタマゴ達には、唯一の息抜きだった。

その時だけは、上下関係も、厳しい奏法の指導もない。

ただただ、最後の演奏を楽しんで。

来年もまたこのメンバーで演奏しようと言い合う。

それは半分だけ叶って半分は叶わない願いだけれど、決まったようにそう言う。


カオル・ヒビキヤが入ってきた。

昨日と同じように、足を踏みならして彼女を迎え入れた。

彼女は・・・ちょっと頭を掻いて、そして手を挙げた。足音がやむ。

「若い音楽家の人達へ」

彼女はそう言って話を切り出した。音楽理論や難しい奏法はなしにしよう。そう始めた。


「あたしは・・・あんた達と同じくらいのときに病気になりしばらく音楽を離れた。でもやっぱりこの道が自分の道であって・・・自分を支えてくれる人達と繋がることの出来る唯一の手段だと思った時に。そして、ヴァイオリンを続けなさいと言ってくれた人のために。もう一度始めることにした。」

そう言うと、彼女は甘いニスの光る彼女の愛器を撫でた。

「音の道はとても険しくて、とても・・・孤独だけれど。一本道ではない。いろんな、道があって、それぞれがそれぞれの道をゆくのだと思う。

だからこそ、音楽というやつは奥が深い。」

そこまで言うと、彼女は少し笑った。

お堅い話はなしだよ。これがあたしの最初で最後の講義だね。

さぁ・・・言葉はいらない。始めようじゃないか。


彼女がそう言うと、オーボエ、音をくれと言った。


・・・ダイはカオルの言葉をじっと聞いていた。何か思うところがあるのだと思う。

そして、静かにけれども完璧なA音を吹いた。

基音。これが始まりの音。

その音にあわせて、カオルが音を奏で始めた。

顔を上げると、次にコンサートミストレスが。そしてそこから波及するように、次々にA音を奏でるいろんな楽器の音の渦。

私は目を瞑った。

これが最後とわかっていても。目を瞑ってこのまま・・・じっと聞いていたかった。

カオルの音は素晴らしかった。

弦も弓さばきも素晴らしかった。生のカオル・ヒビキヤをいつか聞きたいと思っていたけれど・・・この基音だけで、十分満足できた。


「それじゃ、今回で卒業になる者は立って」

カオルはチューニングを終わらせると、よく響く声でそう言った。

「卒業」それは来年には年齢制限を迎える者を指す。

来年からは・・『ジュニア』でなくなる。もっと上のランクの大人達に競争を挑む立場になり、このジュニア・オーケストラは・・幼くて甘くて柔らかい綿菓子のような夢になる瞬間だった。


何人かが立った。私も立った。

でもカオルがそんなことを言い出すのがよくわからなかった。


それはすぐにわかった。

ダイが立ち上がったからだ。


「ダイ?」

私が怪訝な顔をすると。彼は少し笑った。

右側の私をちらっと見た。

「・・・来年は、オレ、留学するんだよ。フランスの大学に。」

彼がぼそりと言った。私は唖然とし、周囲は騒然となった。

ここ何年も彼の音でチューニングしていたメンバーには衝撃だったはずだ。

となりのサブを吹いていた女の子も口を開けていた。

・・・誰も知らなかったらしい。


後になって知ったけれど、ダイはこれが最後の合宿だった。

彼は理系の・・・スーパーサイエンス高校の指定を受けている学校の生徒で、その物理センスを評価されて、来年からは交換留学生として日本からフランスに派遣されるという。

・・・そんな凄い人とは知らなかった。

彼が何を知っていてどんな将来を考えているのか。

ほんの少ししか知らなかった。


隠していたわけではないよ、と彼はみんなに言った。私も含めて。


黙っているのと隠しているのと、私たちの世代ではあまり変わらなかった。

でも私はそんなダイが好きだった。

あまり多くを語らず・・でも口の悪い、長らくのパートナーの気質を私は心得ていた。

ダイが好きだったから。

好きだったから・・・次に笑ってみた。

そう、そうなんだ、と言ってみた。

私はダイの一部しか知らなくても、ダイが好きだった。それで良いじゃないと思った。


知らなかったよ、とか聞いてないよ、とか。そういう言葉は誰でも言えた。

でも、私は「無理するところはそこだね」と言って笑った。

頑張れ、とは言わなかった。

これから留学して。

結果を出そうとする彼を応援する言葉はきっとそんな言葉ではないだろうと思った。


彼もここは最後になるのに。また、戻っておいでと言った。

それは音楽の世界に戻ってこい、どういう形でも、という事だと思った。

そして私は「考えておく」と返事をした以上、それに答えを出さなければならないと思った。いつか、どんなに長い年月を経過したとしても、その結論を出したいと思った。


ダイ。


私の秘めたる恋の相手。

拙い暗蝉の音を聞き分けてくれた、素敵な大人達と一緒に、彼は今年消えてしまう。


ダイに、私は何を残してあげられるのかな。


いつか・・・いつか、こんな女の子もいたなと思いだして欲しいな。そう思った。

私なりに頑張った。結果も出した。でもそのぶんたくさん辛い思いをしたけれど、やっぱりダイを好きになって良かったし、この道を選んで良かったと思う。



「なにか・・・リクエストはあるか」

カオルがそう言うと、ダイが大きな声で言った。

「別れのカノン」

・・・カオルが苦笑した。随分と・・・趣味が悪いね、と言ったけれど、少しして、彼女は弓を弦の上に置いた。

つややかでみずみずしく・・そしてどこか憂いを帯びたカオルの音。

彼女が目配せをすると。

私たちは即興で、その曲に伴奏をつけた。

本当はオーケストラ向きの曲ではなくソリストがピアノ伴奏で演奏する曲目だった。


でも、カオルが演奏すると私たちは自然につられて・・・

そう、そこが彼女の最大の魅力だった。


彼女は音楽が好きで・・音楽が好きな人が好きだった。

ダイもそうだった。

技術じゃないよと彼は言った。

ダイもカオルと同じだった。音楽が好き、音楽が好きな自分が好きではなかった。

音を愛でる人が好きで。

だから、音を出すことがない無音の私の叫びに気がついてくれた。


茶色の髪の彼女が音楽がわからなくても、音楽を奏でるダイを好きなのだったら、それはやっぱり良いことなんだと思った。



別れのワルツ。


私の最後の演奏曲になった。


カオルが弾き終わると、一斉に喝采が飛んだ。

彼女は少し微笑んで、ダイは左足をとんとん、と2回だけ叩いた。

その合図は、彼と彼をよく知る人だけの合図だった。


今年の夏は暑かった。

とにかく暑かった。

でも・・・でも、いろんな意味で、私の知るどんな夏より。良い夏だった。夏らしい夏だった。

冷房の効いた防音室のなかで過ごしていた私に、暗蝉が少しだけ見せてくれた幻が。

私の大切な宝物になった。


―――それから何年が経過しただろう。




偶然、本当に偶然。


彼を。ダイを見かけた。

しかもフランスの空港で。


何年経過しても彼の顔を忘れることがない。

それに、日本人がこうして異国で取材陣に囲まれてるなんて滅多にないことだったから、私は驚いて足を止めた。


・・・彼は取材陣に囲まれていた。


私は近くの人に聞いた。彼は誰でしょう、と。


ニュースを見なかったの?

そう聞かれたけれど、しばらく演奏旅行に同行していたから、ニュースは見ていなかった。


日本人で、初めて。ある分野で研究結果を証明してみせた人なのだ、と興奮気味に言っていた。


私はその輝かしく晄を浴びる、日本人研究者を遠くで眺めた。


そっか。


ダイ。


あなたは道を極めたのね。

そう思った。


私は・・・


私はあれから手術をして、音楽理論と語学の道に進んだ。

今は、フランス語の通訳を必要とする指揮者達の通訳をしている。

音楽用語がわからないと通訳できないので、私のような奏者あがりの通訳は重宝された。


もう、一緒に演奏することはないけれど。


今でも思い出す。


―――頑張らないといけないときは、無理をしても良い。


―――取り柄は技術が優れていることとは限らない。


彼のその言葉を今でも思い出す。


あの夏の、暗蝉の杜での会話が今の私を支えていた。



ダイ。


私の秘めたる恋は、結局、そのまま何もしないままで終わってしまった。

勝手に膨らんで勝手に萎んでしまったその恋の種は、まだ私の大事な奥深いところで眠っていた。


あれから、随分後悔したのよ。告白しておけば良かったって。


でもね。秘めているからこそ私は今、こうして微笑んでいることができるのだと思う。


いつか、いつか会えると思うから。


連絡は取らなかった。


いつか、また、音楽を通じて、誰かを通じて会えると思うから。

ダイには、新しい環境に早くなれるほうが大事だと思っていたので、そのまま連絡を取らずに今まで居た。


世間って狭いのよ。私はそう思う。


だから・・だからこんな日本でない場所で彼を見かけても驚きはほんの少しだった。

それまでフランス語で質問にぼそぼそと答えていた彼に、日本人インタビュアーが、日本語で質問した。

「この喜ばしい報道を、誰に知らせたいですか。」


彼はたくさんいるんだけど、と言って頭を掻いた。

その仕草は、昔とちっとも変わらなかった。


「・・・両親と。姉と。そして、私のたくさんの友人に。特に。」

彼は言葉を切った。

「フランスという異国の生活が辛かったときに、頑張ることを教えてくれた長らくの友人・・・ウメに。」


ばかね。


私はその言葉を聞いて微笑んだ。


あのときの拙い言葉を・・・私たちはお互いに秘する言葉としてあの夏に秘めた。

恋ではなかったかも知れないけれど、私たちは私たちの言葉を大事にして、長い年月を経たのだと思うと、とても切なかった。切ない。何年ぶりに味わうのだろう。



―――暗蝉の姫


そう私を呼んだ、カオルは今でも。

つんと澄ましたDVDジャケットとは全く違う、大雑把な歩き方で、皮肉たっぷりに笑うのだろうか。


しばらく彼女の新作を聞いていなかった。

店で探してみようかな。そう思った。



シャルル・ドゥ・アルディは・・・私の顎関節症の治療カルテを取り寄せていたらしいけれど、

その後は薬と術後の処置方法だけを書き記してフランスに去ってしまった。

今ではグリーティングカードに返事もない。

でも、どうやら手術の時には彼も立ち会っていたらしいということは聞いて、ダイとの約束を守ったんだ、と思った。


久々に。

少し、楽器でも吹いてみようか。


そんな気になった。


また、今年の日本の夏は何年かぶりに暑いらしい。


久しぶりに、松本に行ってみようか。

カオルやシャルルと同じ世代になった私は・・・誰か。

暗蝉の姫を見つけるのだろうか。



そう思いながら、そのだんだん大きくなる人だかりの横をすり抜けて。



私は空港を後にした。




FIN




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