目次
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D-side 結葉 前編
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D-side 溟沐 前編
D-side 溟沐 後編
D-side 裾上げ 前編
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D-side 畢竟 前編
D-side 畢竟 後編
Trick OR・・・ D-side 前編
Trick OR・・・ D-side 後編
E-side
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F-side 不磨 後編
F-side GRAFFITIと落とし文 前編
F-side GRAFFITIと落とし文 後編
H-side
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J-side
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N-side
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O-side 波の上の月 中編
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O-side 白雨_朧雨 1/6
O-side 白雨_朧雨 2/6
O-side 白雨_朧雨 3/6
O-side 白雨_朧雨 4/6
O-side 白雨_朧雨 5/6
O-side 白雨_朧雨 6/6
P-side 前編
P-side 後編
Q-side 暁霧 1/4
Q-side 暁霧 2/4
Q-side 暁霧 3/4
Q-side 暁霧 4/4
R-side
R-side あからめ
S-side
S-side 02 月魄
S-side 03 深浅
S-side 04 紫電
S-side Trick OR・・・ 2011
S-side うくわ
S&B-side いなのめ
S-side 炎熱 前編
S-side 炎熱 後編
S-side 炎熱2013 前編
S-side 炎熱2013 中編
S-side 炎熱2013 後編
S-side Balneum Scipionis. 前編
S-side Balneum Scipionis. 後編
S-side 成ぎ
桜蘂
T-side
U-side 闇蝉 前編
U-side 闇蝉 後編
W-side
W-side Devarana 前編
W-side Devarana 後編
W-side 弄火
W-side くもり、のち
Z-side 瑞祥 前編
Z-side 瑞祥 後編

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Trick OR・・・ D-side 前編

■01

ここ最近の世の中は、近隣住人との関係が希薄になっている、と言われているけれども。
ボクの住んでいる場所は、そういった「一般的なこと」があまり通用しない場所なのかもしれないと思っている。
確かに、昔よりこどもの数が減ったし、日中はとても静かだなと思うこともある。
公園もあるのに、そこで人を見かけることがないのは、ボクが日中学校に行っているからなのかもしれないけれども。
母さんが昔と比べて、という話をするのはわかる。
でも、あまり年齢の離れていない姉ちゃんが、まるで大人みたいな口調で「最近は・・・」とか「昔は良かった」とぼやくので、その時はボクは笑い出しそうになるのをぐっと堪えるので精一杯だった。
いつだったか、まったく備えをしないままに姉ちゃんが「最近の若い子は制服の着方がおかしい」などと言っていたので、自分だってそうじゃないか、と大笑いしてしまい、こっびどく叱られてしまったことが今でも身に染みた教訓となっている。

「あんたも、もうすぐ制服着るようになるのよ。すぐに背が伸びて、気持ち悪いくらいひょろひょろするようになってしまうのだから」
姉ちゃんはそう言って、ボクを見下ろす。まだ姉ちゃんの方がボクより背が高い。でも、足のサイズが父親と同じなので、きっとずっと背が高くなるからね、と言って母さんは笑う。
そんな未来のことはいつになるのかわからないし、明日になってもやって来ないことはわかっているので、ボクは曖昧に聞き流すことにしていた。

「いつか」って、いつのことを指しているのかまったくわからない。いつ、やって来るのかまったくわからないことを、ボクは心待ちにするよりも、毎日があっという間に過ぎてしまうことに夢中になってしまっていた。
そんなに慌てて大人にならなくても良い、と言われるけれども。でも、ボクは別に慌てていない。
慌てているのは周りだ。ボクが去年来ていた洋服が着られなくなってしまったことや、ボクの背中のランドセルが小さくて、電柱に蝉が止まっているみたいになってしまっていることや、その他もろもろ、なんでそんなことに注意して観察しているのかなぁ、と思ってしまうくらいの出来事に大袈裟に感激している様子を見て、ボクはいつか自分もそう感じるようになるのかな、と思って見るけれども。
でも、その「いつか」もいつのことなのかわからない「いつか」なのだ。
日にちが決まっていれば、その日に向かっていろいろと準備できることも我慢できることもあるというのに。

それでも、ボクはここで生まれ育っているので、他を知らないから比較することはできないものの、やはり、この近辺は何となく「昔ながら」の部分が割と多く残っているような気がする。

なぜかと言うと、ボクの家はアパートを経営していて、そこの家族構成とか状況に割と気を配っているからだ。これは大家であるボクの家の方針にも繋がっている。
困った時にしか手助けしないけれども、無関心でいるわけではない。
最近ではプライバシーとか個人情報の保護とか言っているけれども、ここのアパートは単身者が多いので、何か困ったことがあれば大家が面倒を見ることになる。
不動産屋や仲介業者に任せてしまえば良いのに、ウチは割と古風というか、新しいことを望まないのでいつまでもやり方を変えない。
そういうところが良かったり悪かったりするのだけれども、経営が傾くほどではなかったし、この土地は田舎に引っ込んでしまったじいちゃんが代々受け継いできた土地だったりするので、遣り繰りが難しい時があったとしても、みんな鷹揚に構えて居て、そしてそれが通用してしまっているという摩訶不思議な場所なのだ。
そんなのんびりした家族の中で育ったものだから、ボクには焦りを感じないのだと言われる。
そして、家の手伝いをする代わりに小遣いを貰っている身なので、アパートの住人については結構顔を知っている方だった。
最近の住居事情ではそれは珍しいと言われている。
しかも、ボクはこどもだから、取り返しのつかない事件に巻き込まれたらどうするのだと忠告してくる大人が居る事もいるには、いる。
確かに、ここのアパートの人達にはちょっと生意気なこどもだと思われているのだろうなと思うし、実際にボクもそう思う。

単身者が多いというのは、ここがあまり広くないスペースでありながらも都内にあって、ちょっと歩けば交通の便が良い大通りや駅に向かうことができるからだ。
ボクはここはとても便利な場所だと思う。
公園もあるし、学校も近い。
図書館も充実しているし、買い物をするにも困らない。
でもそれは、この辺の地域を知っているからこそなのだ。
実に便利な場所であったけれども、知らない人にしてみればちょっと困った立地である。
アパートそのものは家族で住むには狭い場所だし、部屋数はそれほど多くない。
全室の駐車場を完備しているわけでもないし、細い路が続くのでタクシーなどで乗り入れることもできない。
引っ越しの時には最悪で、少し先に止めて配送業者さんはこのアパートの前まで荷物を運ばなければならないから、大荷物を持って引っ越して来ようという人は少なく、身軽な単身者が多くなってしまった、というわけだ。
そして、自分のプライバシーだとかいうものを大事にしている人にとっては、ここは住みにくい場所なのだろうと思う。
監視されているような気になってしまうのも仕方が無いことだ。

全ての人に好まれる空間を提供することはできないのだから、と母さんは言う。でも、姉ちゃんはこのアパートをもっと高層の洒落たものにしてしまえば良いのにと言って母さんに窘められていた。父さんはまったく放置を決め込んでいる。困った時だけ相談に乗る。でもそれは相談ではなくて単に頷いたり相槌を打ったりするためだけの時間でしかない。アパートの経営方針そのもののような人だ、と母さんがよく歎いているが、少しも根に持つことはない。いや、本当は思うところがあるのかもしれないけれども、きっと何も言わないことにしているのだろうな、と思った。

そういう時。
将来、ボクにここの経営を任せて、母さんはさっさと引退したいのだろうな、と思う。
将来を親が決めることはないのだから、と口では言っているけれども、遠くに行って欲しくないのかなということは何となく肌で感じる。
でもボクは何となく思っている。
ここを引き継ぐのは姉ちゃんで、ボクはここではないどこかに行ってしまうような気がするのだ。逃げ出したいということではなく、自分が何ができて何ができないのかを確かめるためには、ここは幸せすぎてあたたかすぎるのだと思ったのだ。
姉ちゃんは、何となくボクよりもずっとここが好きなのだと思う。退屈で、都内に住んでいるのにまったく煌びやかなところがない住宅の中で、周囲に挨拶をすることにだけは厳しい親のところで鬱屈しているのだ、と言う。でも、姉ちゃんは決して親が心配するようなことはしないし、大それた野望を持っているわけではない。どちらかと言うと、ボクより生真面目で、ここの暮らしがとても合っているようにも思う。
気性が激しくて、弟のボクと本気で喧嘩をすることもあるけれども、最近では喧嘩にならなくなってきてしまった。
人との諍いは見ることすら好きではないボクは、姉ちゃんとの喧嘩のあとは本当に自己嫌悪で沈んでしまう。でも、姉ちゃんに冷たくされたり無視されたりするともっと落ち着かなくなってしまう。
何でだろう。
人は、敵意が剝き出しになるよりも、諦められて無関心に扱われる方がとても哀しいことなのだと思った。

それでボクは、ボク自身も、同じ様に他の人に対して諦めたりしていないのかな、と振り返ってしまうのだ。
まだこどもなのに、そんなことを考えるのはおかしいことなのかな、と思うけれども。ボクは、こどもみたいな大人を知っているし、ボクはまだまだ大人になりきれていなかった。
将来のこともわからないし、明日の自分が何をどう予定するのかさえきちんと決めることができない。もやもやした気持ちがあるのは、ボク自身がぼんやりしているからなのかなと思ってみるけれども、そのことについて解決策が見つかるわけでもないことはちゃんと把握している。

だから、ボクはたぶん、今回が最後になるかもしれない行事に参加することにした。
親と決めていることがある。周囲の行事に参加することを免除される年齢が迫っていた。これで夏の朝の体操も、冬の餅つき大会も秋の落ち葉拾いのボランティアにも参加しなくて良いのかと思うと少しどころではないほっとした気持ちがあった。
待ち遠しかったのかな、と思ってはみたけれども、待っていたわけでもない。ようやくやって来たのかなという感じだ。
そしてそれは、ボクが時々不思議に思う、大人がよく口にする「いつか」という日なのかと思った。

そういう行事に参加することが嫌なわけではなかった。
どちらかというと、楽しみだ。
学年を越えた催しものに参加することはとても面白い結果に終わる。
でも、最初はその日が到来するのがとても億劫に思える。いざ、当日になってしまえばそんなことはまったく思わないのに。
準備の期間が長すぎると、それはもっと強い気持ちになる。当日、何かの理由で中止にならないかなと思うことさえあった。
予防接種があると知らされて、当日は発熱して接種を見送ることにならないかと願う時の気持ちにも似ている。
ボクのことを「ダイ」と呼ぶ人ではない人達と会うからなのかな、と自分で分析しているつもりであった。でも、それを認めて口に出すつもりはない。

ボクの名前は「大」というけれども、家族も含めてボクのことを「ヒロ」とは呼ばずに「ダイ」と呼ぶ人が殆どだ。それは、アパートに住む住人がボクのことをそう呼び続けるから・・・自然に、そんな風に呼ばれるようになってしまった。
でも、そんな事情を知らない、行事の時にしか会わない人達は、ボクのことを「大」と呼ぶ。それが正常で、当たり前のことなのにボクはそれがとても奇妙なことのように感じてしまい、ボク自身に戸惑うから。だから、億劫だと感じるのだろうと思った。
それに、ボクのことを「ダイ」と呼ばない人達がボクのことを「ダイ」と呼ぶ人達の会話に困惑しているのを見て、ボクがいちいち説明をするのも、そろそろ面倒になってきてしまった。
人に対して面倒だと思ってはいけないのだと思うし、極力そうしないように気を付けていようと心に誓うけれども。
やっぱり、思わないでいることと、顔や態度に出さないでいることは違うのだと思ってしまう。

そういう自分が嫌で、時々、わっと叫びたくなってしまうこともあった。
まだ、ボクはそれほど長く生きているわけではなかったけれども、これから先、こんな風に喚きたくなることを何度も繰り返さなければいけないのか、と思うと「いつか」が怖くなってしまうこともあった。

そんな時に、思うのだ。
あの人はどう思うのだろう。
こどもみたいなおとなの人。
ボクよりずっと、こどもみたいなのに、おとなの人。
最近、話をしていなかったな、と思った。

茶色の髪で、茶色の瞳で、とても小柄で、ボクのことをダイと気軽に大きな声で呼びつける、迷惑なアパートの住人。
最近、滅多に会わない。ボクは学校だし、あの人はいるのかいないのかよくわからない生活をずっと続けている。
でも、どんなに家賃を滞納してしまうほどに不在にしていても、どういうわけかボクの母さんは彼女を追い出すことはしなかった。
手放しでいつまでもいてください、とは思っていない様子だけれども。
でも、彼女にも子育てを手伝ってもらったから、という気持ちが大きいようだ。
ボクはまったく覚えていないし、それほど家事育児に積極的な人とも思えないので、母さんがひとりで恐縮しているだけなのかもしれないと思う。

それでも、一応、大人なのだし、ボクは最大限の尊重をしているつもりなのに、相手は違う。
彼女にとってのボクと、ボクにとっての彼女の比重はまったく違う。
各々違う人間なのだし、そういうものだと諦めることは簡単だったけれども。
でも、もう、無邪気に彼女の家を用事もないのに訪ねていくという頃合いを過ぎてしまっていた。

 


 

●02

もっと残っていても良いのに、と言われたけれども。
ボクは、早々に会場を辞することにした。
家族が煩いからという理由を述べたけれども、本当はもっと別の理由だった。
嘘をつくことはいけないことなのだと教えられた。
それは、嘘を言われた相手を傷つけるからだけではなく、嘘を言った方も傷つくことだからだ、ということらしい。
でも、大人はいつも誤魔化したり嘘をついたりする。
それなのに、こどもには反対のことを教える。
どうしてなのか、ボクは知ってしまったらおとなの狡さだけを押し付けられる気がして聞きたいとか知りたいとかいう気持ちになれることはなかった。
今日はとても良い会合になったと思う。
10月の終わりの日。世の中はハロウィンで染まっている。
ボクの家ではそれほど浸透している行事ではなかった。ただ、かぼちゃのお菓子だけが出ているような、そんな一日になるはずであった。
でも、こうして近所のこども達の集う場所では、ハロウィンは特別だった。
何しろ、夜まで出歩けるからだ。
日が暮れるのは夏の頃に比べればとてもはやくなっていた。
夜になれば、少し肌寒い。
でも、昨日から季節が戻って来てしまったかのような日中の陽気が夜まで影響していて、それほど厚着しなくてもまったく気にならない程度だ。
・・・夜遅いといっても、それほど遅い時間ではない。
世の中の大人達が、どこにも立ち寄らなければ丁度帰宅する時間か、それより少し遅い時間である。
近くの図書館が併設している貸し出し会議室で、ささやかな菓子を持ち寄った後は、ハロウィンの由来、それから今日は割り当ての場所に「トリック・オア・トリート」と言いながら菓子をねだって回る特別な日なのだということを言い聞かせる。
ボクのよりもずっと小さいこども達は、仮装してお菓子をもらい、そして少し遅い活動時間を許可されてかなり興奮していた。
でも、この時代で他所の家に上がり込んで菓子をねだり、それを目的として突然訪問するのは流石に困り事も多い、ということであった。
だからこうして疑似体験だけを味わう。
夜を待って、日が暮れた瞬間にこの場にいるこども達はこどもから仮装した人ではないものに変わる。
年に一度のことなのに、親たちはこの日だけしか着用できない衣装に工夫を凝らし、その時だけしかおさめることのできない画像をより多く取得することに懸命になる。
ボクも何人かと一緒に撮って貰ったけれども、ボクの家族はここにはいないボクが必要ないと言ったからだ。最後になるかもしれないことはわかっていたけれども、どうにも気恥ずかしかった。
ボクと同学年の子は誰も出てきていなかったし、ボクはもう、衣装に着替えてはしゃぎまわるほど小さなこどもでなかった。
こういうところが、姉ちゃんがいうところの「可愛げのない」部分なのかもしれない。
母さんはここのところ、雑事に拘っている。本当はそれがなければ今日は同席するはずだった。最初は無理して出席するのだと言っていたけれども。ボクは、必要ないよ、と言って遣った。
今夜は家でもいつもより少しばかり豪勢な食事が待っているだろうと思ったし、日暮れからそれほど長い時間もかからずここは閉会になってしまう。
大家の仕事というのは、ただ月例で家賃を取り立てるだけではない。子育てと同じなのだ、と母さんは言う。
休みの日はないし、何か突発的なことがあったら、それが最優先になる。自分の思惑通りに物事は運ばないし、定期的に手入れも新調することも必要だ。
だから、今日が、その「突発的なこと」があった日なのだと思った。あまり愉快でないことはボク達には聞かせないようにしているのかな、と思う。
それでも。ボクの最後のハロウィンの催しに出られないという状況になった時に、母さんはとても困った顔をしていた。
ボクは誰かがボクのために困った顔をするのを見ているのが一番苦しい。
今年は両親と決めた「行事に参加する年齢」の上限であったけれども、ここの参加者は年々、減っていくように感じる。こういう有志の集いにこどもを参加させる親が少なくなってきているということらしい。でも、それだからこそ、ボクの両親は期限を決めて参加させることを強制したのかな、と思っている。
来年からは、ボクの自由意志での参加になる。きっと、やっぱり、優先させなければならないことができてしまったのならここには来ないという選択をするのだろうなという予感があった。
それほど熱心でなかったということもあったけれども、ボクは「大」と「ダイ」と「ヒロ」の混在するこの会合で、一生懸命説明をすることはないと諦めてしまっているのだろうと思った。
そんなことを聞いたのなら、あの小さいおとなの人は「そんなことはない」と自分のことのように怒り出すのだろうな、と想像する。

だから早々に引き揚げることにした。
たくさんのお菓子を土産に持たされた。ボクは、それほど大袈裟な衣装を纏っているわけではなく、ジャック・オ・ランタンのプリントの入ったオレンジ色のシャツを着て、頬にペイントをしているだけだ。ついでに、大きめの、フェルトでできた黒い帽子を被っている。
他のこども達はそれぞれに工夫を凝らした衣装だったけれども、ボクは会場の手伝いなどに目が行ってしまうし、元々は母さんがここの会場設営の割り当てだったからつき合ったような始まりであった。

ボクは、ここで学んだことがある。
自分が注目を浴びることよりも、注目を浴びている人を見ていることのほうが自分が生かせるのかな、と思い始めていた。
ダイはそんなことはないのだ、と学校の同級生は笑うかもしれないけれども。
でも、何となく。
ボクは、こうして催しものを開催するまでにどれだけの労力がかかっているのだろうかと思ってしまうし、後片付けが楽になるように菓子を散らかしたりするようなことはできなかった。
確かに、姉ちゃんのいうとおり、ボクはどこか歪んでていてちっともこどもらしくない部分があるのだろうと思う。
だから、ボクは、いつまでもこどもみたいなあの人が気になるのかな、と思った。

難しいことを考え過ぎているのだと思う。
いろんな人のいろんな考え方に触れてしまったから。
アパートの住人はいろんな人がいる。そして、必ずしも、良いことばかりではない。それもわかっている。
それでも。
母さんが楽しみにしていた行事に参加できなくなったり、ボクがこどもであることだけに集中することができないのも、誰かの何かが作用している。
けれども、それは誰の責任でもない。

だから。
その日の帰り道で。
いつもは禁じられていて、今日は許されていることをやってみようと思った。
ひとりで帰る路は短かった。途中まで一緒に連れ添ってくれた親子がいて、ボクは微笑んだ。
すっかり燥いで、睡そうな顔をしたこどもはボクよりずっと年下で、まだ小学校にも行っていない。でも、今年のハロウィンは最初で最後で・・・来年のこの時期にはまた違った衣装に身を包んで、前の年のことはすっかり忘れてしまっているのだろう。でも、それで良いのだ。

なぜか、そうしたくなった。それしか理由はない。彷徨う魂達が、ボクに乗り移ってそういう気持ちにさせたのであるならば、それを実行するボクが決断して決めたことだから、彷徨う霊魂の責任ではない。
どういうわけか、あの人に会いたかった。いや、会いたいというよりも前の気持ちだ。気になった、と言った方が正しいのかな、と思う。

ふと、思いついた。
それが理由でそれが動機だ。
あの人が思いつくときも、きっとこうなのだろうな、と思った。
それがきっかけとなって、いろんなことを思い出す。

ここ最近は顔を見ていないけれども、どうしたのだろう。
どうして、会わないでいられたのだろう。
生まれた時からアパートに住まう人で、母さんと時々困らせる張本人だ。
もうずっと売れないまんが家を自称している。
姉ちゃんがふたりいると思うほど、年齢の差を感じさせない人だった。
ボクをどこにでも連れ出すし、全くボクをこども扱いしない。
お腹がすいたと隠さずに言い、睡くなったと言って眠り、絵を描きたいから絵を描く。
月を見上げれば誰かを思いだしたように黙り込み、熱い夏にも冷房を入れることなしに窓を開け放って風を入れるような、そんな無防備で無邪気で危なっかしい人は、今、どうしているのだろうか。
そんなことを思いついてしまったものだから、ボクは帰り道、家の前の一方通行の路から先はひとりで帰れると言い張った。
家の前まで送り届けるのが大人の役割なのだと思っている付添人に、ボクは丁寧に断りを入れた。
あんまりにもできすぎた用意された言葉に、最初は戸惑ってびっくりしていたけれども、すぐに、帰り着くまで見通しが良い場所なのだからということに納得してボクを解放してくれた。

どうしてなのかな。
ボクはまだ誰かに送り届けられる側なのだと思うと、ちょっとしんどかった。
足踏みして、それだけで疲れてしまったような感じがする。
ほんのちょっとの距離なのに、それがとても長く感じる。いつも通る道程なのに、なぜか今日に限っては、迷ってしまった杜のように見えた。
それはすっかり日が暮れて、周囲に灯りが点る時間だから、そう思うのだろうか。
確かに、ボク達は霊魂を呼び寄せる魂そのものの姿をしている。

忘れていたわけじゃない。
あの人は、いつもボクがいるときにはいない。どこに行っているのか、何をしているのか、まったくわからない。いつしか、聞くこともなくなってしまっていた。なぜなら、ボクは傍観者だからだ。
決して、なりたい場面の主役にはなれないし、なりたいと強く願わないから舞台に上ることができないのだと承知している。

 



■03

ボクはボクを送り届けてくれた近所の人に大きく会釈をした。
もう、家まではすぐそこであった。これ以上の見送りは必要ないという意味で、ボクは元気よく手を上げた。
こういう小さなことで相手が安心することがわかり、それなら姉ちゃんか母さんに迎えに来て貰った方が良かったのだろうかとさえ思う。

・・・誰かに見送られることばかりだ、と思った。

ボクが安全で、目的の場所に行き着くまでボクは誰かに見守られる。
ボクも、いつか・・・誰かをそうやって見送る日が来るのだろうか。

もう、家はすぐ近くというより目の前だ。
それでも、そこに行き着く前に、ボクが今思い出していた人のアパートの入り口があった。 いつもの、見慣れた風景。ボクはこの出入口を掃除したり、たまった郵便物を依頼があって取り纏めたりする。ここは単身者が多く、毎日几帳面にポストを覗く者が全員ではない。小さな郵便受けはすぐに一杯になってしまうから、そういうところは気を配らないといけないと母さんに教わった。

ポストの並んだ場所を見て、ボクは自分の格好を見て、そして少し首を傾げた。
あ、また、いない。

まるで下宿のようで気が抜けないと言って去って行く人もいるけれども。
でもボクはこの家にずっと住み続けている、奇妙な職業の、風変わりな人のことを忘れたり、思い出したりしている。
どういうわけか、ボクは今日は彼女のことを思い出していた。
時々、ふらりと消えてしまう。母さんが家賃滞納でだいぶ扱いに困っているようだけれども、もうそれ以上は待てないというぎりぎりになるといつも入金してくるので、とうとう追い出せないままに今に至る。
困った人ではあるが、どうしても拒絶することができない人は今でも、ボクの近くに住んでいる。
見かけることはほとんどない。ボクと生活時間帯が違うのだとわかっていることだけれども、それを合わせることはできないし・・・でも顔を合わせればいつも彼女は少し驚いた顔をして、そして「大きくなったね、ダイ」と言うのだ。
いつも変わらずそう言う。
それが時々はボクが大きくなって成長してはいけないのだと言われているような気がして、だんだん、それを聞くのが苦痛になっていった。
でも、苦痛になったけれども、うんざりするほど頻繁にそれを聞いていたわけではない。
ボクはすっかり薄くなってしまったポストの表札の名前を読み取った。
日当たりの良い場所ではないが、外気に触れていたせいで薄くなっている。 背の低い彼女はこのポストを開けるのも四苦八苦している。
それが、今はボクはあまり苦にならない位置にあった。 昔は、ここにたくさんの郵便物やチラシが詰まっていて、それでも手が届かなくて母さんに知らせに行くのがボクの分担のようなものだった。 そこに何かがいっぱいで溢れていることを、彼女は敢えてそうしているような気さえしてくる。
彼女が夢とか希望とか可能性というものを、そこに詰め込んで、いっぱいになっているのを確認しているのではないのかなと思えてくる。
昔と違って、今は、勝手に郵便物を取り纏めるのは禁止されている。今日の会合でも、ここ最近では決まり事が多くなって、人はなんだか殺伐としていると誰かが言っていた。
枷というものがないことがすべて良いことだとは思わないけれども、何となく・・・年齢を重ねた人がなぜ、昔は良かったと言うのか少しだけわかったような気がする。それはあまり根拠がないことであったものの、その「何となく」というのは、これからボクの中で、どんどん多くなっていくのだろうという予感があった。

「・・・また溜めている」
思わず口に出してしまった。
そして、彼女の部屋を見上げた。ここは玄関口に面しているので、在室の有無はわからない。
今日はハロウィンでこども会のこども達が訪問するかもしれないという予告があった。この近隣の家々には前からの行事でもあるので、かなり浸透している習慣だった。
出も、このアパートは例外だ。こういう集合住宅が増えて行くと、好まない人もいる。尊重する相手を誰にするのかというのはその時によって違うものだとわかっているけれども、寂しくなるねという声が少なからずあるのは否めない。
賑やかではないことが寂しいということではないと思う。でも、なぜ、人は寂寥感というものがあるのかな、と不思議に思った。
この間、覚えたばかりの言葉についてどれほどの深い意味が混じっているのだろうかと思う。
寂しいと思うのは、何かが欠けているからだと聞いたことがあった。
欠損しているのではなく、以前にはそれがあって当然だと思っていたのに、ある日突然、自分の中にあったものがなくなっていることに気がついたのだとしたら。それはとても驚き慌てるものだと思う。
それまで当然にあって、まったく存在に気がつかなかったものが。あって当然だと思っていたものが。ふと、目を向けてみれば忽然と姿を消してしまったのだとしたら。
それはとても哀しいことなのかもしれない。
ボクは、それが嫌で目を逸らしてしまっている部分がすでにあるのかもしれないと思った。

一度くらいは、チャイムを鳴らし、在室確認をした方が良いのかもしれないと思った。とても過干渉な大家の方針であることは、承知している。

・・・着替えてから出直そうかなと思ったけれど。

いないかもしれないし、ボクの部屋から確認できる部屋の灯りを見てからでは、ボクは家から出ることはできない。
一度帰宅すればば、外出するというのは相当な理由がなければ出ることはできない。
それがボクの家の決まり事のようなものだ。
日が暮れてからの外出であるのならば、必要があってのことなのだという、よくわからない理論が家の中には存在する。
それはボクだけがわからないのか、父さんや母さんがよくわからないままに絶対だと思っているのかはわからない。
でもそれに逆い反論するだけの理由が存在しない。
姉ちゃんは、それに反抗しているけれども、きっとどこかでわかっているから反抗しているのだなと思われた。

いかにもハロウィンの企画に参加してきました、という状況だった。
あの人に遭遇したのだとしたら、ボクは気恥ずかしくてきっと上手に会話できないことはわかっていた。
最初は軽口で揶揄いを交えてボクを赤面させるのだろうけれども、結局は受け入れてくれるのかもしれないという気安さと期待があった。

他の人に、過度な期待はしてはいけないよ。

そう言われてきた。だから、ボクを含めてボクの家の人はアパートの住人には必要以上の干渉はしない。それでも過干渉だと思うけれど、これは近隣の住人の不安を取り除くための「業務」の一部を越えるものは存在しない。
ボクがそんなことを考えるのは、きっと、こどもとおとなの狭間にいるからなのと思う。時々「難しいことを考えすぎる」と言われる。もっぱら、それは姉ちゃんに指摘される。
でも、ボクはそれを誰かに言ったりすることもないし、誰かもボクと同じであって欲しいと思わない。だから、ずっと黙っている。それがボクの今回の催しもので浮き立つ存在にしてしまっているのかもしれないけれども。

・・・ボクは周囲を見回して、そしてボクを見送った大人の姿もなくなってしまったことを確認すると、そっと足音を立てずに階段を上った。
後ろめたい気持ちを持った方が良いのか、それとも捨て去ってしまって開きなおった方が良いのか、それすらわからなかった。



■04

ボクは迷ったものの、結局、階段を上る選択をした。
いるかいないかだけを確認すれば良いのだ。
もし、居たとしても。郵便受けがいっぱいになっているので忠告しに来たのだ、と言えば良い。
それに。彼女のことは昔から知っているし、部屋に上がり込んでそのまま眠ってしまい親に迎えに来て貰ったことも幾度かあった。
家族ぐるみの付き合い、ということではなかったけれども。どことなく憎めない人の姿を最近見ていないのだと改めて感じる。
・・・季節はもうすぐ冬を迎えようとしている。
でも、今年の秋はとても短くて、秋を無視して冬が先に陣取っているような空が続いていた。
そうかと思えば、夏のような強烈な紫外線が出てきて姉ちゃんは嫌な顔をする。姉ちゃんはここのところ不機嫌の連続ばかりで、ボクとはあまり話をしなくなってしまった。
ハロウィンの企画なども、家族の中ではボクが最後の出席者になってしまった。
昔は、もっと様々なことを家族で執り行っていたように思う。年始の餅つきもあったし、年末にはお飾りを各戸に配り歩いた。今はほとんど、そういうことはない。
だからボクがこうして大家の息子の立場で漫ろ歩くような場所ではないと思っている。
相反する気持ちと理由を混ぜながら、結局は彼女の家の前にやって来てしまう。

ボクは肩に提げた袋を持ち直した。大きな袋は口を紐で綴じるタイプのもので、この中に今日使用した道具や残りのお菓子、それから終了報告を兼ねた保護者への御礼の手紙が入っていた。
それが乾燥した風を受けて、かさかさと音をたてている。
ここまで来てしまって、引き返すかどうか悩む。
でも、彼女のことがきっと気になってしまって、どうにもならなくなって、落ち着かない気持ちになるより、確認することによって解決するという道を選んだ。

少し前に、全体のドアを交換したのでそれほど古めかしい感じはしない。集合住宅は時々こうして鍵を変更したりドアを交換しなければ防犯上好ましくないということで、母さんが頭を痛めていた件であった。
だから、ボクはここの合い鍵を持っていない。管理するのは母さんであったし、管理してある場所は知っていたけれども、使ってみようという気にはならなかった。
唯一、今、ボクが立っている部屋に住んでいる人のことは除外される。

ボクは姉ちゃんの反抗期を目の当たりにしてきた。
親に反抗しても結局自分が惨めに思ったり後悔するだけなのだと思っていることもあって、あまり敵愾心というものを持っていないようだと気がついた。
けれども、それは元々持ち合わせていないのではなくて、矛先が別に向かったというだけなのだ。

だから、ボクはあの人に向かっては、結構、意地悪いことを言ってしまうことがあった。
ボクよりずっと大人なのに、まるでこどものように夢を追いかけている人だ。
夢に生きているようなところがあるけれども、現実もちゃんと見ていて、時々アルバイトをして生計を立てているようだ。でも、それは一生続くと思わないのが普通の人なのだけれども。
彼女は、それが生涯続くと思っているところが、奇妙な思考の持ち主だと思わざるを得ないところだ。

ボクが呆れて彼女を眺めると、彼女はいつも屈託無く笑う。豁達という言葉はあの人のためにあるようなものだ。そして、あの人は大人の殆どが諦めてしまったものを諦めずに今でも追いかけている。

・・・ボクは深呼吸して、扉を叩いた。傍らにある呼び出しボタンを押しても、まったく返事がない。わかっていることであったけれども、ボクはもう一度ゆっくりと全体を見回して、もう一度だけ呼び出しボタンを思い切り押した。
彼女には来訪者が多いことは知っていた。
来訪者達は押し並べてかなり荒っぽいというか気短な人が多い。
一度の呼び音だけでは諦めきれずに何度も打鍵するように押すものだから、この部屋のベルが最初に壊れる。
今では予め来訪を告げるためのツールなどはたくさんあると言うのに。
いや、彼女がそういうものを多く持ち合わせていないということから、必然的に直接約束もなしに来訪せざるを得ないというところなのかもしれない。
やはり、居ないのかな。

少しほっとしたような、それでいてがっかりした気持ちがボクの中を巡っている。
小さな悪戯好きの妖精達がボクを翻弄している。
訪ねてみたら、留守だった。
それだけのことなのに、ボクはどうしてこんなにがっかりしたりほっとしたりを繰り返しているのだろう。

ボクは袋の中から菓子の包みを取り出した。焼き菓子で、日持ちがするものだ。
市販のもので、個別包装になっているから、不審なものではないことはわかるだろう。
それに、あの人はそんなこと、まったく考えないだろうなという確信めいたものがあった。

この扉には、のぞき窓の他に、新聞受けがある。彼女は新聞を継続購読していないので、それを利用することはほとんどないけれども、一応、彼女の部屋にもついている機能だ。
ボクの役割というのはごく簡単で、階下に溢れている郵便物を小分けにまとめてそこに放り込むのだ。そこに、何日までの分、とメモを入れて軽く括っておく。そうすると、いつ到着したもので優先的に目を通さなければならないものはひとめでわかる。
歩合制ということでもないし、本当にこの住人が快適に過ごせるような些細なサービスだけれども。
単身者が多いと帰省時などは便利なのだという。
もちろん、個人情報が漏洩するとかいう問題もあるから、予め頼まれたところしか行わない。でも、あの人だけは何も言わずにふらりと出かけてしまうので、この場所だけはそういった配慮とサービスと規制というものをまったく無視して、ボクの家は管理監督している。
困った住人ではあるが、小さい時にはボクを預かってくれたりしたものだから、母さんは黙認しているようだった。その代わり、家賃はきっちり精算することにしているようだけれども。

ボクは、それを取り出すと、手の平に乗せた。夜、少し冷え込んで来た風の中で、包装紙の縁が揺れていた。ボクの手の平の中にすっぽりと入る程度の量だから、それほど重くはなかった。
ボクはそれを持ったままでしばし考えこんでしまっていた。

でも、ボクはそれを握りしめると、勢いよく受け口の中に突っ込んだ。
からから、と音がしてそれらが吸い込まれていく。

その瞬間に、待っていたかのように天井の照明がぱちんと不思議な音を立てて一斉に点灯した。
朝夕の補助灯だけでは暗すぎるので通常灯に切り替わったのだろう。ボクは少し眩しくなって、目を細める。

あいつ、悪戯だと思うかな。

そう呟く。悪戯だと思われても仕方が無いけれど、それが誰なのか思いつかないのかもしれない、と思う。
彼女がそれを見て首を傾げる姿を想像する。
ボクのことを忘れてしまっているのかな、と考えると少し哀しかった。

 



■05

そして、ボクは小さく呟く。
「Trick or ・・・」
上手に発音はできないけれども、意味はわかっている。
何かくれないと悪戯するぞ、という意味だ。
本当は、ボクの方が相手から何かを貰う側なのだけれども。
あいつがくれるのは、散歩の途中で積んできた草花であったり、本当にそんなことがあったのかと疑わしくなってしまうほど奇想天外な話であったりするのだ。

彼女はいつも、形のないものばかりをボクに寄越す。

やはり、家に戻って、郵便受けがいっぱいになっているので取り纏めておくように母さんに言っておこう。
そう思った。
ボクは金輪際、彼女の面倒を見るのは避けた方が良いと思った。
なぜなら、ボクはいつも文句を言ってしまうから。苦笑いするあの人の顔を見たくて言っているわけではないけれども、いつもそんな顔をさせてしまうから。

本当は、わかっているんだ。

彼女がボクのためにさっき散歩から戻って来たばかりなのに、また散歩に行こうと言うことも。小さなことに気がつく心を失わないように、季節の草花を選んで持って来ることも。
ボクが見せろと言った彼女のスケッチブックのうちの一冊は絶対に見せてもらえないのは、そこに大事な思い出を思い出にできないままにしまっているからなのだ、ということも。
そして彼女が最近、よく留守にするのは、どこか別のところで生活をしているようだということも。
全部、わかっているけれどもボクはこどもだからわからないというフリをしているだけだった。

そんな風に、気付いてしまうのは毎日毎日、飽きもせず観察しているからだ。
時々は忘れてしまうこともあるけれども、思い出すと気になってしまう。

・・・親戚でもないから、いつかは別れてしまうこともわかっている。
でも、ボクが生まれた時から一緒にいるから。
時々しか会えなかったとしても、何となくどこかで繋がっているような気がしていた。彼女が、ボクと会う度に「大きくなったね、ダイ」と言うのは、前回のボクを覚えているからだ。忘れられて、誰であったのかわからないという程の繋がりではないことをそこで確認して安心していたのはボクのほうだった。

今夜は、精霊達が自分の存在を主張しながら邌り歩く夜なのだと聞いた。
ボクはここにいるけれども、あの人はここには居ない。
いつもはアイツ、と言うけれども、あの人はまったく動じない。年上の者に対する尊敬はないのかと言うけれども、まったく怒らない。

時々、ボクが言い切れない憤りを扱い兼ねて彼女に当たり散らすのに、まったくと言って良いほど動じず、受け流してしまう。親には言えないことを独り言のように呟く時には、必ず黙って傍らに居てくれる。
どうして、そういう人をどうでも良いと思うことができるのだろうか。

軽い溜息を吐き出した。
あの人は、溜息を覚えると、こどもではなくなるのだと言っていた。
だったら、しょうがないほど夢を諦めないあの人の目の前で幾度も溜息をついて見せたボクは、とっくに・・・大人になってしまっているのではないのか、と言おうと思ったけれど、言わずにそのままになっている。
おとなだとかこどもだとか区別することそのものがおとなではない証拠なのだから。

少し考えて、ボクは持っていた袋の中の菓子を全部取り出し、そして先ほどの受け口に押し込んだ。
ばらばらと今度は乱雑な音がした。
これはボクが貰ったボクの菓子だったけれども、家族の分が残っているから、それで充分だと思ったからだ。

さあ、そろそろ帰ろう。

そう思って、その場を離れようとしたその時のことだった。
がちゃん、と音がして。
新聞受けをあける音がした。
ボクは誰も居ないと思っていたので、酷く驚いた。
息が止まるかと思った。
他の人が戻ってこないうちに確認を済ませてしまおうと思っていたから、かなり気を張っていたようだった。誰にも見つからないで何かをすることは難しいとわかっているし、後ろめたいことで彼女を訪ねているわけでもなかったから、もっと堂々としていれば良いのに。
ボクは密やかに計画を実行する、とても臆病なハロウィンの霊魂と同じ様に、人の気配を求めながらも人の気配に怯えていた。
ボクは慌てた。
居留守を使うのも日常茶飯事のことであったけれども。
でも、こんな風に慌ただしく人の気配を確認しないで自分の在室を主張するような人ではなかったと思ったからだ。
何か、出るに出られない事情でもあるのだろうか。

ボクは心配になった。単身者の心配なところはこういうところが。
事情を知らなければ、どこでどうなっているのかまったくわからない。
このアパートではそういう「不知のための事故」は避けたいと言っていた。この辺りの近隣住人にも心配をかけたくないというのが主旨であったけれども、それより何より希薄になってしまった人間関係とか住居事情とかを理由にして自分は悪くないと言うことはおとなじゃない、と母さんは言っていた。

ボクは扉を手の平で叩く。
「おい、マリナ。居るのか?」
ごそごそと人の気配がするので、ボクはぞっとした。マリナでないのなら、他には誰も暮らしていないわけだから、考えられることはそれほど多くはない。
ここで引き返して大人を呼んできた方が良いのだとボクは判断する。
鍵はかかっているし、相手はボクの声を聞いてこどもだとわかっているからそれほど大層なことはしないだろうけれども。
せっかく家まで送ってくれた近所の人に申し訳ないなと思った。ボクがまっすぐ家に帰るのだと信じ込んで、ボクを信頼してあの場所までの見送りで済ませてくれていたのだから。
でも、この時のボクは何かが痲痺してしまっていた。
何でもできると思っていたわけではない。その逆だ。ボクは非力で何にもできない。でも、この扉の向こう側で、もし、マリナが助けを求めていたのならボクはこの場を立ち去ったことをずっとずっと後悔するのだろう。それだけは確実にわかっていた。
だから、ボクは声を少し大きくして言った。
苦肉の策であった。
もし侵入者であったのなら、これを聞いても何も行動しないだろう。
「トリック・オア・トリート!トリック・オア・トリート!」
今日は各戸に訪問すると周知されていたから。
これで何かがあっても大丈夫だ。周囲にも聞こえる声で、何度も繰り返す。
「マリナ、トリック・オア・トリートだ!」
夜がボクを追いかけて来た。逢魔が時を越えて、ボクは照明の下で叫んだ。
ボクは力一杯扉を叩いた。
これでは、乱暴な来訪者と同じではないかと思う余裕すらなかった。
手の平で叩きつけたので、熱くなってきたけれどもまったく気にならなかった。



■06

何度かそうやって扉を叩いた時。
いきなり扉が開いた。
ボクは手の平を扉に付き、あやうくそのまま扉後となぎ払われてしまうのかもしれないという勢いに面食らって一歩後ろに下がった。
「壊れる!」
彼女の声が先にボクに飛び込んで来た。
それから、マリナ・イケダが顔を出したので、ボクはあっと息を呑んだ。

マリナが出てきた。
マリナ・イケダという、売れないまんが家はボクを睨んだ。
けれども、扉の向こう側で暴れていたのがボクだと認識すると、表情を少し和らげる。
そして、目を瞑った。
茶色の眼がボクの目の前で何度かしばしばと瞬きをする。
ボクを通り越して、ボクの頭上に見える空気の色を読み取った彼女は呟いた。
「ああ、もう夜なのね・・・」
彼女はそう言ったので、ボクは唖然としていた。
この人は、時計を見ないのだろうか。
そして、まじまじと顔を見つめる。

ぼさぼさの髪に、寝起きなのか睡眠不足なのかわからない少し浮腫で疲れた顔。コンタクトは外していて分厚い眼鏡をかけているけれども、慌てて身につけたようでその位置は少し曲がっている。
服装は上下の揃っていない部屋着だった。ところどころ染みついているのは、彩色の際のもので、それは彼女が色を扱う仕事をしているから故のものであった。勲章のように誇らしげに見せる彼女に、いつだったかボクは「上手な人や達人は、汚さないでできるはずだ」と辛辣な言い方をしてしまったことを思い出した。
ボクは、彼女を笑わせることはできないのかなと思うと悔しくて、余計にボクは彼女に突っかかってしまう。
どこまで行っても、すれ違ってしまう。

「・・・居留守は最後まで出てこないから居留守って言う」
ついつい、苛立った声で言ってしまった。
すると、彼女はボクを認識する。ぼんやりとした顔つきであったのに、ボクの顔を見ると彼女は笑った。
彼女は狡い。いつも、その笑顔ですべてを誤魔化してしまう。
哀しいことも苦しいことも、辛いと思うことも。ボクの前では曝け出したりすることはなかった。
それがとても哀しくて時々、残酷な気持ちになってしまう。
彼女が、ここではないどこかに向かって気持ちを飛ばしているのだとわかるから。
時々・・・彼女が、空の更なる先を見ているのが、わかっていたから。
ここではないどこかを定めて、そしてそこに思いを馳せていることがわかったから。

彼女が散歩に行こうと言うのは、かつてそうして青空の下を歩いた人とのことを思い出すから。
彼女がボクに草花を持って来るのは、かつてそうして彼女が草花に目を向けるような長い旅を経験したから。
ボクを通して、誰かを見ているのかな、と思う。
過去の想い出に引きずられているのではなく、ただ、彼女の中にある景色や音や匂いや・・・そういったものを思い返しているのだと思った。
戻りたいと思っているわけではなく、ただ、思い返して、そしてその時に煌めいていたものを今でも同じ様に感じたいと思っているのかな、と想像する。
彼女はとても自由で、そして同時に孤独だった。
彼女は、彼女と誰かが共有できない部分を持っている。
それが彼女を自由にさせているし、彼女が人に対して絶望しきれない願いのようなものになっている。
ボクはそれが嫌いではなかった。
彼女の部屋はいつも絵の具の匂いがして、デッサンのために紙と筆記具が擦れる音が絶えることはなかった。
話の流れを考える時には彼女は独り言が多かったし、うまくいかないときにはとても不機嫌になっている様も知っている。
でも、ボクはそんな彼女を見つめ続けて・・・そして今に至る。

すると、マリナはボクの格好を見て、目を細めてから笑った。
「なに、その格好」
「うるさいな。人のこと、言えるのか?」
ボクは唇を尖らせて言った。ボクの格好を笑うほど、彼女の出で立ちは洗練されているのかと言えば決してそうではなかった。
「居るなら出ろ」
「居留守は・・・出たら居留守にならないと言ったのは、ダイよ」
マリナの返事に、ボクはむっとした。揚げ足を取るような言い方をされて、少し気分を害した。

彼女はいつもと変わらず、部屋に居るときには無防備だった。
睡そうな顔をしているのは、どこかに出掛けていたからなのだろうか。
「また放浪していたのか」
「違うわよ。・・・ちょっと、眠れなかっただけ」
「マリナが眠れない?」
ボクは笑ってしまった。神経が太い女だと思っていたけれども、眠れないことなんてあるのか。
しかし彼女の申告を聞き入れるのだとしたら、何か不安事があったのか・・・
すると、彼女は首を軽く振って、利き腕の側の肩を回しながら、言った。
「時差があってね・・・」
それを聞いてボクはまた驚いた。時差がある場所に彼女は居たのか。
この国で「時差」は存在しないに等しい。国内ではなく、国外に彼女が居たのだと知って、ボクは何だか知らない人を見るような目付きで彼女を見てしまう。
確かに、彼女は「ちょっとそこまで」という気軽さで、どこにでも行ってしまう。でも、それが国外にまで行動範囲を広げたものだとは少しも考えていなかった。
・・・確かに、何週間かまったく連絡が取れずに行方不明になり、明日には然るべきところに届け出ようという時になって彼女がひょっこり戻って来たという話は、母さんから幾度となく繰り返し聞かされたことであった。
ボクがあんまりにも驚いた顔をしていたのだろう。マリナは気恥ずかしそうな顔を浮かべた。
「とにかく寝たいのと、絵を描きたいのと・・・それを繰り返していたら、食べ物がなくなってしまっていて・・・」
それである程度の事情を察した。
食を絶てばすべてが絶たれると思っているマリナが、食を忘れていたということに衝撃を受けた。そして、彼女が戻ってきてからずっとそんな風にして何かに没頭して描き続けるものは何なのだろうかと思ったけれども。きっと、彼女は自分の満足を確かめるまで何も見せてくれないのだろうし、何も話してくれないのだろうと思った。
「ボクは、金輪際、呼び鈴は使わないからな」
ボクは不貞腐れてそう言った。マリナが覚えているとは限らないけれど。ボクは、彼女がまったく違う理由で扉を開けてやってきたのだと知ると、またひとつ、大きな溜息を呼吸の代わりに吐き出した。
なんだよ、と言いたくなった。
何をそんなに夢中になるほど、何を見てきたのか、ボクには理解できなかったし、ボクがまったく知らないところで彼女が見聞きしてきたことが彼女を奪っていくような気がして、ボクは胸がどきどきして・・・そしてどうしようもなく焦ってしまっていた。
だから、ボクは極力素っ気なく言って遣った。
「それでどうして出てくる気になったの?」
理由は明白だった。マリナの口の端には、菓子くずが付いていたからだ。



■07

「それで、その寝たいと描きたいを繰り返している人間が、何だって起きて来のさ」
ボクは意地悪いと思いつつも尋ねてみた。
彼女はうっと声を詰まらせたが、すぐに横を向いて空々しいことを言い始める。
「ダイがあまりにも大きな音で騒ぐからでしょう」
「嘘をつけ」
ボクは冷たく言った。
誰かを思い出したように渋い顔をしたマリナに言ってやる。
「おまえ、お菓子に釣られて出てきたな」
「そんなことは・・・」
まったく。言っていることとやっていることがまったく合致していない。
マリナ・イケダという人物がこういう生き物なのか、それとも女という生き物がそうなのか。
そこまで考えて、ふと疑問に思った。
確かに、姉ちゃんも同じ傾向にあるし、母さんも今日は絶対参加すると言っておきながら欠席した。
こういうものなのだろうか。ひとつひとつが道理にかなっていないことを、自覚しているようには見えないから、余計に訝しんでしまう。
性別で思考が違うということを考えたくなかった。それだから違うのだとか、それだからわかり合えなくて当然なのだ、ということは言いたくなかったし、ボクのことをそんな風にして線引きされることはとても哀しいことだと思ったから。

「だって」
彼女は少し唇を尖らせた。
マリナが「ダイが来てくれないかな、と思っていたのよ」と言ったので、ボクは鼻で笑った。
彼女がボクを待っていたわけはない。ボクのことをすっかり忘れて、いろんなところに行ってしまう人の言うことを全部信じていては、ボクの気持ちはいつも失望し続けていることになってしまう。
期待しすぎれば、失望も大きいと言うけれども。
でも、ボクもマリナのことを忘れていた時間があったことは否めない事実であった。なぜなら、ボクはボクの日々で一杯であったからだ。
マリナも大人ではあるけれども、同じ様にマリナの日々に懸命になっているのだとしたら、そればボクが非難することではないように思えた。
でも・・・
マリナが、ボクの声に反応して出てきてくれたと喜ぶところなのか、それとも、ボクの呼び掛けに最初は無反応であったことを歎くべきなのかと考えるよりも前に、マリナはボクに言った。
「食べ物を持って来てくれないかな、というのが正しいだろ」
そう言うと、マリナは少し上を向いて考えていたが、すぐにうん、と頷いた。
「ダイなら、きっとそうしてくれると思ったから」
聞こえの良い言葉を選んでいるみたいに聞こえたけれども。それがマリナの本心だと思った。
確かに彼女は着の身着のままの部屋着としか言いようのない格好をしていたし、玄関先で座り込んだまま立ち上がろうとしなかったのは、きっとあまりにも空腹でその姿勢で座っている以外の行動はできないのだろうと思われた。
彼女は、いつも変わらない。
飾ったり驕ったりすることもないし、いつもボクの前ではこどものような朗らかな、愁いをまったく感じさせない笑顔と声でボクの呆れたと言いたい態度に応じているだけだ。

マリナはボクを特別に思っていない。
だから、ボクは期待してはいけない。
その他大勢のうちのひとりなのだから。

自分に常日頃言い聞かせていたけれども、ボクは彼女にそう言われてしまうと、体の内側を擽られているように落ち着かなくなる。
期待というものが満たされなくて失望してしまうのは、相手の問題ではなく自分の問題なのだと思う。
でも、何も期待されないより期待される人間でありたい、と思うのはボクだけではないとわかっている。
難しいなと感じるところだけれども。
でも、それだからこそ人との交流が面白いのだとマリナは言う。
マリナのペースにすっかり巻き込まれていると承知しながらも。
ボクは、ボクの声が何だか知らない人の声のようだと思いながらも言わずにはいられなかった。
その声でしか、ボクの声を伝えられないのであれば、それでもマリナはボクの声だとわかってくれるように思えた。
これは、余計な、大きすぎる期待なのだろうか。
叫びすぎて少し喉が痛かった。でも後悔していない。
「ボクが菓子を放り込んだから、ボクを呼ぶの?・・・気付いていないかもしれないけれども、今日はハロウィンだよ」
ボクは、遠回しに言って遣った。
本来なら、マリナは来訪者に菓子を振る舞う側なのに。
来訪者のボクが菓子を振る舞ったら、マリナの方が精霊になってしまうではないか。
外からやって来る魂は菓子で遣り過ごすことができるけれども。内にいる魂は、どうやって送り出すと言うんだよ。
ボクはそう言いたかった。
でも、うまく言えなかった。


Trick OR・・・ D-side 後編


■08

「ダイなら、きっと、困っているところにやって来ると思ったの」
マリナは言い直した。
そこで取り繕うつもりであるなら、何も言わなければ良いのに。
そんなに都合良く、ボクがやって来るなんて、少しも思っていないのに、時々彼女はとても不思議なことを言う。だから、思っていることをそのまま言っただけだ。
こういうところが、マリナらしい特徴であり、損をしているなと思うところであった。
でも、彼女は人間関係に関しては損得を先に考えることはしない。
その後はわからないけれども。
最初は、そのことで動かされるということはしないようだった。
というより、どこか途中で考えが変わったような気がする。ボクの気のせいかもしれないけれども、あるとき、考えが変わったという瞬間があったのかな、と思った。
人の考えが変わることは良いことなのだから、受け入れるようにと言われて育ってきた。
ボクは、あちこちに見せる顔を変えることはあまり良くないことだと思っている。
けれども、周囲の意見や状況から自分の持っている考えを覆すという勇気は持っていたいと思っているし、そうできる人は凄いと思う。
大人になると、なかなか、変化というものを受け入れたり自分で創り出したりすることは難しい。
ボクは幾度かそんな場面を目にしてそう思ったものだった。

心を落ち着けるために、深呼吸する。

ボクは姉ちゃんの時には思わない憤りを、マリナに感じている。
それはボクがマリナに期待しているからだ。
ボクが特別な存在であるに決まっていると、まったくそんなことはないのに、そんな風に穿った見方をして、それを改めることがないから、ボクはこれほど落ち着かない気分なってしまう。

ボクが生まれた時からここに住み続けているマリナという人物は、ボクがいてもいなくてもここにいたのだという事実がボクを失望させる。
ボクは・・・マリナの心の片隅にでも置くことのできる人物とは言えないのだと思い知るから。
だから、苛つくのだ。
ボクは、どこまでいっても「ボク」のことしか想像できないからだ。
マリナの心の内のことはなにひとつ、わからない。
ボクは呆れながらも、袋の中から包みを取り出した。
選んで渡すことはなくて、手に取ったものをそのままマリナに差し出す。
手渡すために、マリナの開けた扉の中に入り込むけれども、中には入らない。
母さんと約束していることがある。
決して、住居している人と仲良くなりすぎないように、ということだ。
具体的には。その人の家に上がり込んではいけない、という項目が入っている。
マリナには尽く適用されないことであったけれども。
・・・うちの匂いと少し違うマリナの家の匂いが漂ってきた。
「ほら。やるよ」
玄関先でボクは立ったままで、座り込んでいるマリナの顔の前に菓子を差し出した。
この時期特有の菓子ということではないが、パッケージはハロウィン仕様になっていたので、マリナは最初、中に何が入っているのかわからなかったらしい。でも、それでも口に入れてしまうなんて、まるでこどもだ。
警戒心がまるでない彼女は、一体、どうやって生きているのだろうかと思った。
何に対しても好奇心旺盛で、それでいてかなり逞しいと思う。そうでなければ、都内で、たったひとりで暮らしていくことなんてできないだろう。
マリナは嬉しそうな顔をした。
「ありがとう」
ボクは呆れて言った。そうしなければ気が済まないというわけではないけれども、彼女の前ではいつも余計な言葉が出てしまう。
些細なことで喜び、嬉しそうなマリナの前で、どんな風に振る舞って良いのかわからないからだ。
「もう少し自重しろよ」
「なにを?」
「不規則な生活態度を改めるとか」
「ダイ、大人ねぇ」
「おまえがこども過ぎるんだよ」
ボクはますます頬を膨らまして口調を速めてしまう。
マリナは、ボクが大人だとは思っていない。それなら、こんな格好をしていることにも何か言うだろうし、ボクが差し出す菓子についてももう少し何か付言するだろうと思われた。
ボクはどこか哀しくなってしまった。
マリナにはボクはどう映っているのかなんて、まったく関係ないのだ。それに、自分のことも飾らないのは、ボクに無関心だから。だから、余程のことが無い限りは家から出ないと決めた時にもボクは「余程のこと」にはならない。

「・・・大声で呼び出して、悪かったよ」
ボクは横を向きながら、言った。
マリナは意識がはっきりしてきたのか、そんなボクを遣り込めた。
「今日はハロウィンなのでしょう?・・・謝る日だったかな?」
彼女はそう言って、自分の両手に乗った受け渡された菓子を膝に置いた。
「そんなに空腹なら、何か食えよ」
「だから、何もなかったの」
この人は餓死することはないかもしれないけれども。
食べ物に執着する割には、家の中に備蓄しておくことを知らない人なのだ、と思った。
それとも。
先ほど遠くに行っていたことが明らかになったから。家の中に何も残さないで出掛けていたということか。ボクはそこでちょっと不安な気持ちになってしまった。戻らないことがあるかもしれないと思って、彼女が何も残していないのかもしれないと考えてしまったからだ。
どうしてそんな風に思ってしまったのだろう。
以前にも、かなり頻繁に長期不在にすることがあったと母さんから聞いていたからなのか。
「何もないって・・・」
ボクの目の前で、彼女は小袋をあけて、口の中に放り込んだ。あっという間に次の袋にも開けてしまう。食べ終わるよりも前に。
体が欲しているのだろうと思った。何やっているのだ、という気持ちにもなった。
けれども、彼女が少し上を向いて「おいしいね」と言って嬉しそうな顔をするので、ボクはただ黙って彼女を見下ろしていた。

ボクは、これからずっと彼女の顔を見上げていくことになる。背が伸びて、マリナが抱き上げることもなくなったボクは、もう、彼女には用事が無いのかもしれない。
他の人のように、彼女を助けることはできないし、何かを与えてあげることもできない。できるとしたら、今日みたいに菓子袋をマリナの家に投げ込むくらいだ。
前みたいに、気軽にマリナの家を訪れることができない。なぜなら、いつも不在だからだ。それでも昔は良かった。また居ない、と言うだけで良かった。けれども。
いつの頃からなのだろうか。それが失望に変わって、ボクは諦めるようになってしまった。
行っても居ない。居るかどうかを毎日確認することも疲れて、ボクはマリナがこういう生活をしていることなどは知らなかった。
ふらりと出かけてしまうことはあっても、まさか、そんな遠くに行っていて、しかも帰ってくることを繰り返しているような様子のマリナは、どうしてこの場所に戻ってくるのだろうか。

 



■09

ボクは、思わず、マリナの前でしゃがみ込んだ。
彼女はまったく、ボクと違う人なのだと思い知らされたような気がして、とても重苦しい気持ちになった。
こういう時に何か言えば、きっとマリナを困らせてしまう。それはわかっていることであったので、本当は早々にここを立ち去る方が良い選択なのだとわかっていたけれども・・・どうしても、どうしてもこのこどもみたいな人を放っておけなかった。

肩に掛けていた袋が地面に擦れて、音を立てる。
マリナの乱れた茶色の髪が近くなって、間から茶色の眼が見える。
年齢よりもずっと幼く見える。けれども、自分は少しもそんなことを意識していない。
彼女の心がとても幼いのだと思う。幼稚という意味ではなくて、いつまでも失っていないものがあるというよりかはむしろ・・・失ってはいけないのだと自分に言い聞かせているような部分を持ち続けているから、そんな風に見えるのかな、と思った。
少女の心を失わない人、というのではなくて。失ったことを承知していながらも、その時に感じていたことそのものよりも「その時には現在の自分と違う景色が見えていたことを理解している」とでも言うのだろうか。
まだ、ボクにはそれを言い当てるような上手な言葉は探すことはできなかった。

「マリナ」
ボクは彼女の目線に自分を合わせた。
もう、お互いが何も工夫しないで同じ目線になることはなかった。それが寂しかった。
はやく大人になりたいと思ったけれど。
こうして、ひとつずつ手放していくことの重さを知らないままに大人になりたいとは思わなかった。
・・・でも、こういう気持ちも、いつかは忘れてしまうのかな。それだったら、大人は寂しいな、と思った。

マリナは口元が汚れていることなどは気にしないのだろうな。そう思いながら彼女の指先を見ると、確かに彼女の言った通りのことが現れていた。
手の平全体が汚れていた。
それでも、その汚れた手で素描をし続けていたのだろう。爪の中まで色が残っていた。
ボクは、マリナの小さな手を見る。
大変に小柄な人なので、手も小さい。でも、昔はボクよりずっと大きかった。
爪は綺麗に整えられていて、手入れが行き届いた滑らかな手の甲だった。
少しも荒れていない。締切前のマリナの指先は、いつも、もっと違っていた。
だから、仕事のためにどこかに行っていたのではないのだと気がついた。
仕事の帰りであったのなら、こんな風に夢中になって絵を描くこともないのだろう。
いや、マリナならどんな時でも思いついたのなら絵を描く場所を選ばない。
自分でもわかっているから、スケッチブックや画材道具を持ち歩いているのだから。

でも。
ボクは、気がついていた。
彼女が外で描くものは、人間以外だ。時々、人を描くこともあるけれど、それは風景と一体となったもので、マリナがボクの前で人物画を描いているところを見たことがない。

マリナはそういう人だ。
自分のことはあまり言わない。お喋りで、どこに行ったとか、どんな友達がいて、どんな人物と知り合ったのかという話はするけれども、彼女は自分の過去のことはあまり言わない。

だから、ボクは敢えて言うことにした。

少なくとも、マリナは自分を大事にしていると言うけれども。
人も、その通りだと言うけれども。
でも、ボクから見てみると、彼女はちっとも自分を大事にしていないように見えたから。

「マリナ。食べ物ないことに気がつかないくらい、何を描きたかったの?」
すると、マリナは顔を上げた。酷い顔だ。絶対、他の人が直視することなんてできないぞ、と思った。
ボク以外の人に、そんな顔を見せることはしないでくれよ、と心の中で祈っていた。
そこで思う。どうしてボクは、そんなことを思ったのだろうか、と。

自分の生活を整えることができないほど貧窮していたわけではない。
ただ、彼女はそういうことを考える余裕すら全部注ぎ込みたいと思うほど、彼女は夢中になっていたのだ。
ボクには、何となくわかる。一緒に居るときも、ふと、遠くを見て、何かを感じ取るように目を細めて空を見るマリナを幾度か見たことがあったから。
でも、そんな顔を知っているのは、ボクだけだと思っていた。
・・・ボクだけではなかったのだね、と確認することが何だか怖かった。
このまま、笑い飛ばして、マリナはやっぱりいろんなところが散漫だと言うだけで良かったのかもしれないけれども。
・・・それを言ったら終わりかもしれないと思っているのに、言ってしまうというのは、ボクがこのままでいられないとわかっているからなのだろうか。

マリナはボクの質問に、一瞬、はっとしたような顔をした。
ボクは、それだけで全部がわかった。本当は、全部ではないのだろうけれども。
少なくとも、ボクの知りたいことはわかってしまった。

ずっと遠くにいる人を想っている。
そして、その人のことを、ようやく、描く気になったのだろうと思った。
でも、上手く描けなくて。
それでも、溢れる欲求を抑えきれなくて。
ただ、夢中で描いているのに満足できない。
だから、もやもやしながら描いては消して、手が汚れるまで描いて、また少し眠って次に描く。
それが、家族とか彼女のよく話すともだちという立場の人ではないことは、わかっている。
彼女が決して明かそうとしない部分に住んでいる人のことを、ボクはとうとう聞く事が出来なかった。

それはボクが聞きたいことではなかった。
これを聞いたら、本当にマリナがどこかに行ったままになってしまうと思っていたから。
・・・それでも言ってしまったのは、きっと、マリナにはそれが必要だからだ。
ボクが必要だから言わないのではなくて、マリナには必要だと思ったから。だから、ボクのことはどうでも良いのだと思った。どういうわけか、この日のこの瞬間だけは、そう思った。
彼女の遠い眼が、ボクに向けられて、あまりにも近くて、ボクは少しどきどきした。
マリナは女の人で、ボクはそれをずっと意識したことはなかったけれども。
彼女は、おとなの視線でボクを見た。

・・・どうして、母さんが、居住者の人と必要以上に親しくなってはいけないよ、と忠告するのかこの時になってわかった。
いつもは、観察して少しでも心配な点が出てきたら、確認するようにと言っている母さんが、矛盾するようなことを言っているのか理解できなかった。でも、ボクは、マリナは特別で、まったくその約束事に当てはまらないと思っていた。でも、今ならわかる。わかるのだ。わかってしまったのだ。

 



■10

マリナが本当は絵を描きたくて仕方が無いのに、どうにもうまく書けないで悩んでいるということもわかっていた。
上手く描けないという表現はちょっと違うかもしれない。
なぜなら、マリナは上手に描くことよりも自分が描きたいものが描けているかどうかに重きを置いているような部分があるからだ。
それが多くの人の求めるものと違う時があるから、マリナの絵はあまり大衆受けしない。
絵が、というより話の筋かもしれないけれども。彼女の描く物語は、こどもや少年少女という世代には受けないのかな、と思ったことがある。でも、こどものうちに読んで、大人になって思い返す作品になるのかもしれないと思うこともあった。
ボクにはそれが正しいことなのかどうかはわからないけれども。まだ、ボクはその時を迎えていないから。
悔しいけれども、それは事実だから認めることにする。
「何かに夢中になるということを持ち続けるって、結構、大変なことなのね」
おもむろにマリナは言ったものだから、ボクはびっくりして彼女を見た。
彼女がそんな風に言うなんて、考えたこともなかったからだ。
「どうして?」
思わずボクは聞いてしまった。大変かどうかということなんて、マリナは考えたことはないのだろうと思っていたからだ。
ボクはマリナの部屋着なのか寝間着なのかわからない様子の彼女を改めて見つめた。
彼女が寝食を忘れるなんて、相当のことだと思うけれども、あの格好を見たのならそれも頷けるのだろう。まったく他者の目を気にしない様子であったし、ボクはそれを見慣れていたのに少しばかり驚いてしまったわけだから、彼女は相当・・・部屋に閉じこもりきりだったのだろうと推測される。
きっと、昼夜なく彼女はひとつのことを考えていたのかな、と思われた。
見れば、それほど広くない部屋の中はスケッチブックが開きっぱなしになっていたし、その他に描けるもの全てに彼女は自分の指を走らせていた痕跡があった。
絵具の匂いや、鉛筆の匂い、マリナの家の中では独特の匂いが混じって、ボクの家のそれとはまるで違っていた。
でも、不愉快な匂いではない。ボクのよく知っている懐かしい匂いだ。
「大変だから、やり遂げるのだろう?」
ボクは言った。大変なことだから、人は時に諦めてしまうし、またある時にはそこに向かって脇目もふらずに突き進んでしまうこともある。でも、どちらも理由は同じだ。
為し遂げることが簡単であるのなら、諦めたり追いかけたりしないのだから。
ボクは極力、宥めるように言った。責めるような口調で言ったら逆効果だ。
姉ちゃんが相手だと面倒くさいな、と思ってしまうようなこともマリナの前ではあまり気にならなかった。
これくらい年齢が離れていると、わからないことが苦痛でなくなる。
だから、ボクはマリナが真っ暗で電気もつけない部屋の中で、何を悶々としていたのか、聞く事は無くそのまま袋の中のありったけの菓子を出した。
「やるよ」
彼女の視線は自分の糧になりそうな物体たちにくぎづけだった。まったくわかりやすい人だ。内心、ボクは笑ってしまう。これが苦笑というものなのか、と思った。
「いいの?」
良いのかどうかなんて、関係なくなってしまっているじゃないか。ボクはそう言いそうになった。マリナの手はもう次の菓子袋に伸びているからだ。でも、そこは大人の意地なのだろうか。とにかくよくわからなかったけれども、ボクの目の前で、ボクをじっと見つめるマリナの瞬きはとてもゆっくりで、時間の流れがこの人は違っているのではないのだろうか、とさえ思ってしまう。
ボクは彼女に気の利いた言葉をかけてやることはできない。マリナもそれは期待していないのだろう。
けれども、ボクが、マリナの窮地に居合わせることができて、ボクは少なからず浮かれていた。ああ、どうしてなのだろう。ボクは、困っている人を見て喜んでいることになる。それは後ろめたいことで、素晴らしい心持ちなどではないことも、ボクにはわかっていたことであったのに。

・・・マリナが困っていて、ボクがそれを少しかもしれないけれども助けたのだ、役に立ったのだ、と思ったら心がふわりと何かに撫でられるような気がした。
「だいたい、灯りも点けないで居留守を使って何やっているんだよ」
ボクは話を変える。
彼女が語った、夢を追いかけることに関しては、きっとそれ以上は言わないのだろうな、と思ったからだ。マリナはそういうところはとても頑固で、決して覆すことはない。少なくとも、その瞬間は。しかも、空腹というマリナの最大の窮地の時においても口を割らないわけだから、それ以上何かを話すということは考えられなかった。
ボクだけではなく、皆にそうであるのなら、それでも良いのだ、と思う。
でも、彼女の交友関係を全部知らないボクは、彼女は別の人にならその先を・・・続きを話すのかもしれないという不安に襲われた。どうして、なぜ、不安に思うのだろう。なぜ、安心できないのだろう。それまで浮かれていた心というのを維持させておくことが出来ないのは、ボクがマリナに対して、もっと何かを追加で要求しているからなのだろうか。

「だから、寝たり起きたりしていたから」
とても具合が悪そうだとは思えない。ボクが部屋に入ってきた時に、灯りをつけたものだから、マリナは目を眩しそうに瞬かせてばかりいた。でも、手はしっかり菓子を握っている。
昔と違って、少しくらいは手持ちの金品もあるだろうに、彼女はまったく無頓着な人で、こういうことは慣れているのだろうと思われた。
本当に困ったのなら、昼夜問わず、ボクの家に飛び込んで来るのだろうから。
「違うだろう?誰が来ても出るものかっていう意気込みを感じたぞ」
ボクの言い方がマリナには面白かったらしい。
ううん、と少し唸って、マリナは唇を尖らせた。
「まぁ・・・今日は誰が来ても出ないつもりでいたけれども」
「ハロウィンが怖いのか?」
ボクは呆れて言ってしまう。この人の前では、思ったことがそのまま口に出てしまう。遠慮のいらない仲と言えばそれまでだったけれども、マリナにはそういうことを言わせやすいという雰囲気があるのだと思う。
ボクの目線や年代に調子を合わせているわけではないのだろうけれども。

 



■11

「それだけ食べられれば大丈夫だな」
ボクは呆れた気持ちよりも、はやくこの場を立ち去らなければ、マリナの何かを邪魔してしまいそうな気がしていた。そこは、ボクが立ち入ってはいけない場所なのだと思う。
ボクの出で立ちに妙な顔をしていたマリナは、ボクがそろそろ退散するのだという気配を見せたのでちょっと残念そうな顔をした。
「ダイには珍しい格好ね」
「だから、ハロウィンの催しのためだって言ってる」
ボクは立ち上がって、膝を軽く曲げ伸ばしした。
「普通はボクみたいなこどもにマリナみたいな大人がお菓子を配ってくれる日だぞ」
「あら、そうなの?」
マリナはある程度空腹が満たされたようで、玄関先に座り込み、所在無く目を走らせた。
「そうだよ」
「でも、こどももおとなも関係ないと思わない?」
「え?」
ボクが聞き返すと、マリナはにこりと屈託無く笑った。こういうところが、マリナの気安いところなのだろうと思う。
きっと、ボクだけではなく他の人にもこういう態度で接するのだろう。だから、どこに行っても苦労しない。
いや、いろんなことを苦労しているのに、笑顔でいられるのかと思うと、マリナがなぜそこまでして強くあれるのかという拠り所があるのだろうと思った。
人が笑顔なのは、余裕があるからではない。余裕を生み出す努力をしているからだ。
大人になると、笑顔を忘れて行く。こどもも、生まれたばかりのときには笑顔を知らない。
もとからあるものではなくて、維持しようと思って、常にそのことを忘れないでいるからなのだって、母さんは言っていた。
それだけ、笑顔は偉大なんだ。
だから、こんな恐ろしい日も皆が笑顔になれるような夜になるための工夫なのだろうと思っている。
一度は持っていないもので、喪失することがあるけれども、皆が持っているもの。
マリナはそのことをよく知っている。
「でも」
ボクは何かひとこと言い返してやろうという気持ちになった。腹が立ったというわけではないけれども。マリナがこんな風に笑っているのは、なぜなのか、ボクには絶対に話してくれないと思ったからだ。

哀しいけれども、それはきっとあたっている。
ボクとマリナだけの世界で、マリナは成立しているわけではない。よくわかっていることであった。でも、ボクはそれを自分自身で確認することはできなかった。不能ということではなく、そうしたくなかったのだ。
マリナの世界は、ボクがひとりだけしか関わっていない世界ではない。そんなことはわかっている。
「マリナはボクに何もくれない」
それは、言ってはいけないことなのだと思った。ずっと、そう思っていた。ボクとマリナの関係は、捧げて捧げられるような関係ではない。
友達よりももっと親しいけれども、ボクはマリナの殆どを知らない。

ボクはひとにねだるということが苦手だ。
だから、母さんはハロウィンの企画はそんなボクにぴったりの行事だと言って送り出すことにしている。それも、間もなく終わってしまうけれども。
行事の一環で、元気にかけ声として発声できるのなら、それはボクにとって少しは何かを変える力になるのかもしれないという親ならではの期待が少し嬉しかった。嫌になる時もあるけれども、親がどうしてそう考えるのかというと、ボクのことを思ってからこそなのだと思うから。完璧な親はいないけれども、同じ様に完璧なこどももいないから。だから、一緒に親子になっていくのって素敵だよね、と母さんに言われた時に。それはマリナから受け取った言葉なのだろうと思った。
母さんはマリナのことを、時々放浪してしまう困った賃借人と考えているけれども、どこか別のところでそれだけではない何かを考えているようだった。
ボクが小さい頃に世話になったから頭が上がらないのだろうか。
そうではなくて、何か、マリナには困った時にほっとするような一言であったり、背中を押してもらったりしたことがあったようなのだが、ボクには詳細はわからなかった。

何かを期待して、自分は何ができるのだろうかと考えることなしに相手に縋ったりねだったりすることが、どうにもボクにはやってはいけないことに思えたのだ。
だからボクはマリナと一緒に歩いていても、何かを欲しがるようなこどもではなかったようだ。
元々そう考えていたのではなく、性分だから仕方がない。水さえ欲しがらなかったので、あやうく脱水症状になりかけたこともあったのだと聞く。親やきょうだいには言えることも、この人には言えなかった。
強烈に何かが欲しいということではないからなのだ、と姉ちゃんは言うけれども。
確かに、思い当たることが幾つもある。
姉ちゃんが我慢していたことを、ボクは我慢しなくて良いことが多かった。
欲がないというわけではなくて、奪い取ってまでして、その人の手の中にあるものを取り上げてまで欲しいものがなかった、というだけだ。というより、それを探さなかったからなのだろう。
欲しいものは時間や希望や奇蹟と同じで、やって来るものではない。
それもわかっているところであったけれども。
でも、ボクはマリナに貰うとかあげるとかいう関係になりたくなかった。
ボクはとうとう言ってしまった。
「今日はハロウィンだよ」
そう言った後に、言うのでは無かったなと思ってしまう。
ボクは家に帰ると決めた。そう決めなければ、マリナと話し込んでしまいそうになったから。なぜなのかわからないけれども、この人は人を引き留めておく力がある。
「ひとつの家に滞在するのではなくて、いろんなところに行くんだ」
ボクは言い訳がましくそう言った。

マリナがそれを聞いて、眉を少し動かした。
マリナはボクくらいのときには、転居が多かったのだと聞いたことがある。だから、こういう言葉に敏感に反応してしまうのだろう。
ますます、しまった、と思った。
ボクには、マリナのように気の利いた言葉は出すことはできない。
ただ、ボクはマリナの傍観者でしかない。
それを思い知らされたような気がして、胸の奥が少しどきどきしてきた。
期待で胸が高鳴るということではない。その反対だ。
失望を確認してしまったから、胸がどきどきするのだ。

 

 



■12

「今日はハロウィンで、来訪者を無視できない日だよ」
僕はそう言って溜息をつき、立ち上がった。
マリナが世の中の行事や常識から逸脱していることはわかっていることだった。
ボクがそう思っている位なのだから、その無関心ぶりは本人も自覚していることだろう。知らないのではなくて、きっと関心を寄せることとか優先順位が上位であるということではないのかな、と思った。
他の人・・・特に大人達は彼女のことを永遠のこどもなのだと思っているのだろう。でも現実に生きられない人ではなくて、現実の中で夢を失わない人なのかな、と思ってしまう。贔屓目なのはわかっている。
確かに、苦労人であることには間違いない。
赤貧の生活を知っているし、それでも夢を諦めていない。
ある意味、尊敬に値する人物だ。
「そう・・・」
彼女はしばらくの間、考えていたけれども。
斜め上を見ている瞳が茶色だな、と思った。彼女の色素はとても薄くて、こうしてある一定の角度からみると茶色の瞳がとても印象的だった。

すると、マリナは突然顔を上に勢いよく向けて、ボクに与えられた菓子の包み紙をかき集め始めた。そして急に立ち上がると、それらを抱えて部屋の奥に行ってしまう。奧に、といっても、それほど広くはない空間であるから、彼女がボクに背中を向けてなにやら作業机の上で描き込みを始めているらしいということはすぐにわかった。
でも、薄暗がりの中で、目の弱い彼女が・・・カーテンも敷かずに外のおぼろな灯りを頼りに、顔を近づけて背を丸くして何かを描いている様を見て。
ボクは、思った。
彼女は夢に生きている人ではなくて、夢を追いかけている人であり、夢と一緒に生きている人なのだ、と。

何かの天啓のように。
彼女は、その行動のひとつひとつに意味があると言うけれども、ボクから見てみればとても唐突なことに没頭していた。

でも、それは彼女の「次」なのだと思う。
「次」というのは、彼女の次の行動で、その瞬間にはボクは置き去りにされてしまったような、泣きたい気持ちになる。でも、仕方の無い人だと思うことで踏みとどまる。

彼女は彼女の順序で物事を組み立てている。
それでも、ボクが困っていれば自分の着手していることを放りだしてでもボクの方に意識を向ける。
今時の人にしてみれば、とても珍しいと思う。
諍いや面倒を嫌って、誰かに意見する人もいないし、そもそも、そこまで深く誰かと関わろうとしている人はとても少ないのだ、と親から聞いたことがあった。
彼女は一切、そんなことはなかった。
彼女からしてみればずっとこどもであるボクに真剣かつ対等につき合うというのはボクに敬意を払っていてくれているからなのだ、と改めて思った。

いつでも、こんな風に自分の思い描いた世界を描くために夢中になってしまう。
ボクがこどもの時からそうだった。小さい時はそれでよかったけれども、彼女はボクの方をちっとも見ていないと気がついた時からボクは彼女と距離を取るようになってしまった。
それすら、彼女は受け入れているように思えた。やって来るものと、去って行くもの。それらが交互に訪れる彼女の生活に、ボクはほんの一瞬しか関われないのだと、彼女から知らされたわけだ。
母さんが「深入りするな」と忠告した理由がここにあると思った。
そしてすぐに「生まれたときから一緒だからね・・・」と諦めた口調でボクに囁く意味も、何となくわかるような気がする。
マリナ・イケダほど、強烈な存在はここの住人では存在しないかな、と思ってしまう。
一度触れてしまえば、決して忘れることはできないし、会わずにいられることを強いられることがとにかく苦しいと思う。自分の望みのとおりに振る舞うとは限らないのに、彼女はいつも・・・当人の核心を突くことを語るものだから、皆が彼女が目の前から消えてしまったり連絡が取れなくなってしまったりすると、途端に慌てるのだ。

いつも、会えると思うから。
いつでも、会えると思うから。

彼女は転居することもしないで、ここで生きている。家賃が据え置きだからというだけではなくて、ここに居ることに拘っている。
なぜなら、遠く離れた人達と連絡を取る手段がここに居続けることだと固く信じているからだ。
相変わらず、という状況を意固地なくらいに貫いている。
ボクが必要なわけではなくて、この場所が必要だから。ここに居る。それを思い知らされて、いつも寂しくなってしまう。
そんなことを繰り返したボクは、マリナの生活にあまり深入りしないようになった。

だから、ボクとそんなマリナの間にはこういう空疎な風が時折感じられていて、ボクよりもマリナの方がそれを気にしている。
彼女はあちこちにいろいろな人との関わりを持っていたけれど、長く、これほど長く関わりを持つというのは家族以外にはなかったことなのかもしれない。
だから、時折とても戸惑っているのかなと思われる瞬間に遭遇する。
そして、家族の前ではマリナはいつも感じている人物像とは違う面を見せているのかなと思ってしまう。
ボクの知らないマリナ。
それを、マリナは見せてくれることは決してないのだ、と思うとどうにも鳩尾あたりの何かがぐうっと音をたてて捩れるような感覚が生まれてしまう。

 

 



■13

「できた」
ぼんやり立ったままのボクに、マリナは満足そうな声を出してボクを現実に引き戻した。
辺りはもうとても暗くなってきていて、それでも電気を灯すことのないマリナに対して、呆れるというより、何か事情があるのではないのだろうかとさえ思うけれど。
マリナは自分の目線よりも高くそれらをつまみ上げて、ひらひらと空気の中を泳がせた。乾燥させているつもりらしい。
それを幾度か繰り返すと、よし、と声を洩らす。ひとりで居ると独り言が増えるというけれども、マリナはひとりではなくても独り言が増えたような気がする。たまに部屋の外の廊下を掃除していると話し声が聞こえることがあった。
誰を部屋に招いているのか気になったけれども、マリナに来訪者はここ最近殆どなかったように思う。
部屋の外はいつも暗くて、留守にすると言われていたからだ。
確かに少し前まで留守にしてではいたのは本当だけれども。
詮索はよくないと思ったけれども、いつ帰ってきたのか、誰かと話をしていたのかと聞くと、彼女は笑って「私、誰と話をしていたのかな」と曖昧かつ不思議な返事をした。

マリナは立ち上がるとボクに向き直った。彼女はとても小柄であったものの、それほど歩数を伸ばして歩かなければボクに到着しないというわけではない。小さな、小さな、彼女だけの城。それをとても大事にしているとわかっている。でも、時々、ボクは泣き出しそうな気持ちになってしまう。
マリナが何を護っているのかわからないことに対して、ボクはボクの持っているアンテナがとても幅の狭いものだと思うから。
彼女の考えていることをとらえることができないことに苛立つ。
この世の中には、絵描きという仕事でなくてもたくさんの仕事がある。けれども、マリナはそれらのどれも選ぶことはなかった。
どうしてそういう決意があるのか、ボクにはまだ聞く事が出来ないと思った。

「Trick OR・・・ 」
彼女はボクに言った。
そして、ボクの手の中にそれを押し込める。
それからボクの顔を見て、にっこりと笑った。

ボクはどうしていいのかわからなくなって、俯いた。手の平に握らされた紙が、ボクの体温を吸って甘い匂いをボクに届けている。
「これがダイを笑顔にさせる」
御守りだ、と言って彼女は肩を竦めた。
トリック・オア・トリート、ともう一度彼女は口の中で呪文のように唱えた。
「どうして絵を描くのかな。描き続けるのかな、ということのこたえは、描くことをやめるときまでの宿題なの」
彼女はそう言った。ボクの疑問に答えた。
そして、首を傾げて、ゆっくりと瞬きをした。
「ダイにはいつか、話をするね」
できたら良いね、という曖昧な言い方はしなかった。
何をどう話をするのか、それ以上ボクは聞くこともなかった。
それから、彼女は言った。
「ダイにはいろいろ・・・隠せないなあ」
「何か隠してるのか?」
「そういうことを言ううちは、まだまだね」
彼女はそこで大人ぶってみせたが、すぐにボクの腕を軽く叩いて帰宅を促した。
「おうちの人が心配するよ」
彼女はそう言って、ボクを送り出した。
「それ、似合っている。よく、似合ってるよ」
彼女はボクの服装をみて、最後にそう言った。

彼女が包み紙に何を描いたのか、確かめるボクの様子を確かめることもなく。
彼女は扉を閉めてしまった。ボクは彼女の心の中にちょっとだけ入り込んでしまった。迷い込んでしまったような気がするけれども。

「ボクの名前は、ダイじゃないよ」
ボクは呟いた。でも、みんなボクのことをダイと呼ぶ。マリナがそう言うからだ。それでも、嫌いな呼び方であったのなら反論するだろう。ボクはそこまでして否定する気になれなかった。
誰もがボクの名前をそのように呼ぶものだから、この近所でボクのことを知らない人だけがボクの名前を聞く。そうして周囲にボクのことを知っている人が増える度に、ボクはマリナのことを思い出すのだ。狡いよなぁ、と思った。マリナは知らずにボクのことを護っているではないか。
それから、誰かに何かを要求することが下手なボクが唯一、マリナに何かくれ、と言ったら。彼女は真剣になって自分の持っているもので勝負した。勝負というのは少しおかしい表現かもしれないけれども。
ボクの目の前であっという間に絵を描き上げた。そういえば、マリナは自分の苦しかったことや哀しかったことをあまり多く話さないな、と思った。人によっては言ってしまって楽になる人もいるけれども、マリナは誰かにそれを告げることで余計に苦しくなると思っているのではないのかとさえ思ってしまう。

ボクは冷えてきた廊下を歩いて、家に戻る。それほど離れた場所にあるわけではないが、勝手口の場所は路地の角を回らないと入れない場所にある。

母さんが用意してくれた、ハロウィンの衣装は、来年にはもう着られないだろう。そして、ボクはもう、催しものに行くこともないと思う。母さんの狙いというか願いは達成されたわけで、ボクは大きな声でマリナに叫んだことによって、少しだけ何かが軽くなったような気がした。ねだる行為を覚えたというより、我慢する限界をちょっとだけ知ったということなのだろうか。相手に嫌われることを怖れて何も言わないでいるより、実行することによって気まずくなっても修復できる関係を築いておけ、ということなのかもしれない。こどもは遠慮するなと言うけれども。遠慮の意味がわかっていなかったのは、ボクだったのだと思う。

 



■14

こどものままでいたくない、はやく大人になりたいと思っていた。マリナとの年齢差が縮まるわけではないのに、マリナと同じ土俵に立ちたかった。
でも、ボクはまだ何になりたいのかはっきりしていなかった。
小さなところで、じたばたしているしかない。
でも、マリナはボクの年齢のころにははっきりと将来の夢を持っていたと思う。ボクは慌てた。
でも。
急いで大人になっても、マリナのようにまだ夢と現実を考え続ける者も居て、だから、ボクにゆっくり確実に歩けとマリナは言っているような気がした。

・・・何だか、マリナの様子を見に行ったのに、マリナにボクの様子を確認されてしまっただけだった。

結局、何がどう変化したわけではない。
明日になってしまえば、また何もかも変わらない日常が始まり、それは続いていくのだと思う。

ボクは夜空を見上げた。もう、冬が溶け込んでいるような夜空だ。
都内の空は明るくて、あまり多くの星を見ることはできない。
でも。
なんだか、それでも、いつも見る空とちょっと違っているような気がした。
空には、はちみつ色の月がきらきらしていて、金平糖のような星の光がまばらに見える。夜雲は僅かに残っていて、それが綿菓子に見えた。

なんだ、お菓子はこんなところにもあったじゃないか。

ボクはそう思いながら笑った。
そして、家に急いで戻った。

家に帰ると、珍しく母さんが台所から出てきて玄関でボクを迎えた。
夕飯ができているけれども、もう少し待つようにと言われて、それならお風呂に入ろうかなと言った。
それから、ボクは母さんにありがとう、と言った。
すると、母さんはびっくりしたようにボクを見て、それから笑った。
珍しいこともあるものだ、これこそハロウィンね、と言ったのでボクは笑いながら家に上がった。
・・・あれだけ大きな声を出していたのだから、母さんは、ボクがマリナのところに立ち寄ったことを知らないわけがなかった。
アパートの住人に大家の息子が個人的に親しくなることについては親はあまり良い気持ちを持っていないことも知っている。でも、マリナだけは特別だった。多少のことには目を瞑っている節があった。

ボクは、用意してくれた服がもう来年は着られそうもないのだと言わなかった。
その代わり、着たものは洗濯に出しておくと言うと、色が落ちやすいので区別しておくようにと言われる。うん、と返事をしてボクはふと、台所に向かう母さんの背中に言った。
「今日、貰ってきたお菓子は全部あげてきてしまった」
そう、と母さんは言った。誰にあげたのか、それすら聞かなかった。
何でもお見通しなのか、と思うとボクは母さんが振り返らずに、いつもの口調で応対してくれたことにほっとした。

今夜はお姉ちゃんがたくさんお菓子を買ってきたから、と母さんは言った。
ボクは荷物を置くためにそれを聞きながら、部屋に入った。
そして、まだカーテンが閉められていないボクの部屋の窓から見えるマリナの家の灯りを探す。・・・彼女はまた眠りについたのだろうか。部屋の灯りはなかった。
軽い溜息をつく。失望ではない。でも、少し疲れていた。
慣れない人達と、慣れない催事にやはり緊張していたのかもしれない。ボクにとっては馴染んだ地域の定例的行事であったけれども、こうして親にお膳立てされて申し込みをすることは、ないだろう。それに、ほどなく対象年齢を越えてしまうわけだから。
そう考えると少し寂しかった。これから燥ぐということがないのかもしれないと思うと、ボクの中からすっと何かが消えてしまったのかなと思って、また慌ててしまう。
気がつかないうちに、気がつかなかったものが消えてしまう。それがどれほど大きなことなのか、消えてしまって驚くのだ。きっと、こういう気持ちを重ねて言って、ボクは何か違うことを考えるようになるのかもしれないな、と思った。
まだ他人事のように考えるうちはこどもだよ、とマリナは笑うかもしれないな。

マリナのことを考えていたら、彼女が寄越した包み紙のことを思い出したので、ボクはしまい込んだポケットからそれらを出した。

ポケットの中で少しだけ皺になってしまったそれらを机の上に取り出して、軽く広げた。
ボクは部屋の灯りを点けて、荷物を部屋の隅に置き、そしてそっと両手でそれらをのばした。

・・・やっぱり、マリナは絵を描く人なのだ、と思った。
そこにはかぼちゃの絵があった。ボクのシャツに描かれているものだった。かなりデフォルメされているけれども、かぼちゃのお化けの絵が描いてあった。
そういうものはマリナは苦手だと思っていたのに、こういう風に自分の中で変換して描くのなら大丈夫なのか、とちょっと驚いた。包み紙の裏に描かれたそれは、マリナがボクだけのために描いたものだった。
何だよ、と少し呟いた。マリナは目が弱いから、暗い中で描くのは難儀しただろうに。ボクの為だけに、ボクの「何かくれよ」という我が侭につき合ってくれたのか。



■15 Trick OR・・・

御守り、か。
ボクは呟く。
これから、今日のように悩んだ時には、この絵を見て思い出すことになるのだろう。
これは、ボクとマリナしか知らない秘密の絵であった。彼女はボクと共有するものをあえて作ってくれたのかな、と思った。あんまりにも、ボクは不満そうな顔をみていたのかもしれない。

・・・・気恥ずかしくなってしまった。

でも、マリナにはきっと、ボクが困っているのだと思ったのかもしれない。
どうしたの?と聞くことは簡単だけれども、彼女はボクに小さな御守りを授けた。
何から護るのかと言えば、きっと、ボクのこういう悩みからボクが笑顔を忘れてしまうということを忘れないようにすること、なのかなと勝手に想像する。
笑顔になれない時には、これを見て笑え、ということなのかな。

ボクは薄く微笑んだ。
姉ちゃんが見たら、ひとりで何を笑っているのよ、と手厳しく言うだろう。
でも、ボクはひっそりと微笑んだ。

でも。それでこの話は終わりにならなかった。

もう一枚を見た時に。
ボクはぎょっとした。
そこには「あと少し待ってください!」とメッセージが書かれていたからだ。
それを見て、何を意味しているのだろうか、何を待つのかとボクは難しい顔をして首を捻ってしまう。
そして、はた、と思いついてしまった。

急にふわりと持ち上げられて急降下するような感覚があった。
あっと声を上げてしまう。
そうか、と瞬時にわかることを悟るというのであれば、確かにこの時、ボクは悟ったのだ。

壁にかけてあったカレンダーを見る。そして、マリナの部屋の方角をもう一度見た。
そして、手元の四角い包み紙を見る。甘い菓子の香りが残るそれに書き込まれた内容を見て、ボクは・・・・ボクは思わず笑ってしまった。最初はぽかんと口を開けたままにしてしまったのだけれども。次には、思わず、笑ってしまった。

なんだ、マリナの御守りって、こっちのことなのか。
ボクは思わず声に出してしまっていた。
「マリナ!」
ああ、もう、本当に・・・・!
ボクは心の中で言うだけでは済まされず、声に出してしまう。
マリナがひとりで呟く時というのは、こういう時なのか。心に留めておくだけにできず、溢れてしまったものが口に出てしまう。

今日はハロウィンだ。
そして、月の最終日。
・・・今日は家賃の支払い期限日だ。
昔から、マリナは滞納するとわかっているときには留守にしてしまうか居留守を決め込んでしまう。
今回は、どこからか戻って来て、用立てることも考えずに眠ったり描いたりする時間に没頭してしまっていたのだろう。
今日、ボクが来訪しなければ日にちの感覚はまったくなかったのだと思う。
それで、彼女が時差のあるところでしばらく生活していたのだと確信できた。
今日がハロウィンで、月末であることに気がつき、しまったと思ったのだろう。
ボクが呼び鈴を押しても出てこないわけだ。
電気も付けずに、息を潜めるようにして、ひっそりと遣り過ごそうと思っていたに違いない。
そして、母さんが今日は忙しいので同伴できないと言っていた理由もわかった。
未納者への督促があったからだ。それから、住人達の安否確認も月末にまとめて行っている。だから、忙しいと言ったのだと理解した。

それなのに。
母さんは、マリナのところが未納しているとは、ボクには少しも言わなかった。住人達と親しくなってしまうと督促できなくなるから、ボクや姉ちゃんにはあまり近付くなと言う。でも、母さんは何も言わなかった。お帰り、と言っただけだった。
ボクに、マリナは在宅しているのかとは聞かなかった。

ボクは笑ってしまう。
本当に、困った大人達だ、と思った。厄介で、どうにもならなくて、それでも・・・ボクはその人達に囲まれて、大きくなった。
大人はいろいろ大変だな、と思った。

そして、階下からはやくお風呂に入りなさいという母さんの声が聞こえる。
いつもなら、それはとても煩わしい命令にしか聞こえなかった。
でも、今日は。
わかっているよ、とボクは大きな声で言い返した。
それから、姉ちゃんに見られたらきっと揶揄われると思って隠すように着た上着を脱いだ。来年は、確かにもう着られないと思う。ボクはもっと背が伸びそうだから。
でも、捨てたり忘れたりすることはなく・・・ハロウィンのたびに、思い出すと思った。
与えられたマリナの描いたハロウィンの絵とともに。
それはどんな菓子よりもボクにとっては大事な贈り物になった。
思い出という名前の、ボクの宝物に変わった。

ボクは窓の外に見える彼女の部屋に目をやる。
夜遅くになったら、マリナはこっそり電気をつけて、また絵を描くことに没頭するのかな。
マリナでは止めることのできないものがマリナの中にある。
ボクはこどもだけれども。マリナのように、自分にとって大事なものを迎え入れる準備をしているところなのだ。
参ったな
そう思った。
それから、今度会った時には、居留守を使うのであれば前もって支払っておけと忠告することを忘れないようにしようと決めた。もうひとつ、言うことがあった。誰かに向かって何かを話している声は、結構響くものだから。
独り言になってしまうくらい、黙って居られないで言いたいことがあるのであれば、直接本人に言えよ、と言うつもりだった。
ずっと後になって、それがWEB会議システムという録画システムで、それに向かってマリナが録画をしているのだと知ったけれども。
それでも、マリナ・イケダという人は変わっていると思った。

また、母さんに呼ばれたのでボクは部屋を後にした。
今夜はきっと、お菓子が降ってくる夢を見るのだろう。
もしくは、マリナの描いたかぼちゃのお化けに追われる夢を見るのかもしれない。
それも良いな、受けて立つよ。

ボクは笑った。

ああ、本当だ。
マリナの御守りは、ボクを笑わせる。

マリナには、彼女を笑わせる御守りがあるのだろうか。

その疑問に対するこたえは、今は見つからなさそうだった。
でも、ボクは心に刻んだ。
ハロウィンの思い出と一緒に。

今夜はハロウィンだけれども。
後で、料理が残ったらマリナのところにこっそり差し入れしてやろうと思った。
母さんは黙認するのだろうけれども、またアパートの手伝いをさせられるのだろうな、と思った。

・・・今夜、ボクが手にしたものは、何だったのだろう。
そう思ったけれども、それは少しも不満にならなかった。

ボクは、着ていたシャツに手をかけながら、慌てて風呂場に駆け込んだ。
お腹が鳴った。

でも、なぜかボクは笑っていた。

ダイ、効果抜群でしょう?というマリナの声が聞こえてくるようだった。


(FIN)


E-side

本当は・・・。


その人は好きになってはいけない人だった。




彼のことは入学当初から知っていた。


やがて同じクラスになったときには、まずいな、と思った。


ストレートの黒い髪、透明感があって鋭い目元、低く響きの良い声。

彼は最初から私の中で特別だった。


大人びていつも、少しだけみんなと距離を置いている風に見える彼を、

私は同級生であったのに、「さん」付けして呼んだ。

あの頃は、男子も女子も名字を呼び捨てが普通だった。



彼は少し・・・寂しい人だね、とそう言うと、みんなが目を丸くした。

どこがそう見えるの、と言われたから、私は答えに詰まった。

どうして、そう見えないのかわからなかったから。


私はいつしか彼の事を女子の話題に聞くことはあっても、

自分から口に出すことはしなかった。



私は自分でもそう思うけれど・・・地味だ。

ひっそりと生きる方が好きだ。

目立つことは好きではない。


どこのクラスにも「華」になる人が居る。

大抵は成績が良くて、スポーツも良くできて、はきはきしている。

そしてクラス委員などはいつも同じ顔ぶれだった。


勉強は嫌いではない。

むしろこつこつやって成果が出るものは好きだった。

本を読むのも好きだ。

何時間でも読んでいたいと思う。


図書館の静けさが好きだった。

いつかは図書館の司書になりたいと思っていた。

本に囲まれて本に埋もれて暮らせれば、大学の研究職でも良いなと思った。


この頃の私も含めた私たちは・・・願えば何にでもなれると思っていた。


彼はパイロットになりたいと言っていた。

同じように夢があるんだな、と思って、その他大勢とひとりとして、その話を聞いた。



彼は・・・いつも輪の中心だった。




私は彼の事を「寂しい人」と思うか「やりづらい人」と思うだけだった。

たまに、話をすることがあっても、私は会話が続かない。

「元気ないなぁ」と彼は笑うけれど、私は目を反らさずに彼の目を見る事なんてできやしなかった。



そんなとき。


転校生がやってきた。


小さい女の子だった。

茶色の髪に、茶色の瞳の、とても小さいけれど元気な子だった。


イケダさんはすぐに私のところに話しかけてきた。

他に女子のグループはたくさんあるし、私はどこにグループにも所属していない空気みたいな存在だったから、どうして私に声をかけるの?と聞いたら、

「ふたつ理由があって」

と言い出した。そして何が可笑しいのかくすくす微笑んで言った。

いたずらっ子のようだった。


彼女は、少し笑いをやめて、

「あなたは、一番よく人を見ているから」

と言った。



「私の妹の名前と同じだし!漢字は違うけれどね!ね、瑛梨奈と呼んでもいいかしら」


彼女はそう言って、お願い!私心細いの!と言って手を合わせた。


ちっとも心細い感じはなかったけれど・・・



私たちはそれから・・・一緒にお昼を食べる仲になった


マリナは、私とは正反対の子だった。


彼女は転校が多いという。


だから短い期間であっても、友達をたくさん作ろうと思う、と言った。

私なら、そんな短い期間なら友達を作っても、すぐに疎遠になるわ、と思うのに。

彼女は違った。


闊達な子だった。



だからすぐに彼と彼女は打ち解けてしまった。


彼は突けばすぐに反応を示す、喜怒哀楽の激しい彼女が気に入ったらしい。


昼にも自習時間にも・・・彼はあからさまに、教室の隅から隅の席なのに、彼女の席に立ち寄っていった。



私は極力その場に居ないようにした。


「瑛梨奈も一緒におしゃべりしようよ」と言われてもその気はまるっきりになかった。


だからマリナが「瑛梨奈は・・・火狩のことが嫌いなの?」と聞くので、私はそうじゃないけれど、と口ごもるだけだった。



彼を見ていると落ち着かなくなる。


ただそれだけが理由だった。



私は静かな方が良い。

ああいう人の視線が集まるような人と一緒に居ると、私の静寂は破られてしまう。



ただ、それだけを心配していた。





やがて。



―――マリナが彼とつきあい始めた。



当然の成り行きだった。



彼は恋に堕ちたのだ。

見た目にも解る。


サッカー部の彼の部活動が終わる時間を待って、マリナは下校していく。

そして、校門で落ち合って、学区内の短い距離を一緒に歩いて行く。


私はそれを図書館の窓から何度か見かけて・・・


そしてため息をついた。


ああいう人達は呼び寄せ合うものなのだ。

だから、彼女が転校して間もないとか、これまで誰にも興味を示さなかった彼が、

彼女を選んだのは、不思議なことではないのだと思った。




・・・夕暮れが来て、下校のチャイムが鳴った。


私は、図書室の窓ガラスをそっと閉めた。


「火狩ってね。本当はいっこ年上なんだよ」

マリナはそう言った。


これは内緒だよ。マリナはそう言った。

・・・他の誰に言うって思うの?


私は笑った。


彼はご両親の都合で長らく海外で過ごしていたらしい。

国内と国外を行ったり来たりしているうちに、1年進学が遅れてしまったという。


・・・だから彼は寂しい人ではなくて、大人なだけなんだよ。

私たちより、少しだけいろんなことを知っているから。


マリナがそう言ったので、私はようやく、彼の秘密を私だけに打ち明けた彼女の意図を理解した。



私が「寂しい人だね」と思わず、彼女に言ってしまったことをマリナは覚えていたのだ。


だって同じクラスなんだから!彼女は笑った。




ね?


と彼女が首を傾げるので、私は少しだけ笑った。


そうだね・・・よく知らないのに、火狩さんのことを決めるつけるようなことは言わないことにするわ。


私はそう言った。



だからと言って、私と彼との間に何かがあるわけでもなく。



でも。



彼はマリナと相変わらず仲良く登下校しているし、女子の嫉妬の視線は険しくなるし、

私は周囲から「あの二人の情報を教えて!」と、知らない他学年からも話しかけられるようになり、

少々辟易していた。



そんなある日のことだった。



いつものとおり、図書室の戸締まりをしていた。

私が最初に来て最後に帰るので、いつのまにかこれが日課になっていた。


図書委員はカウンターに座り、貸し出し・返却の管理をする。

細かい作業はいらないけれど毎日同じように返却漏れや貸し出し簿にチェックする雑務は、

私たちの世代では「退屈」そのものであった。

でも、私はその作業が好きだった。


締切に追われると焦ってしまうし、初めて扱う事柄については戸惑ってしまう。

いわゆる機転が利かないタイプだ。



そんな私だったから、もちろん、その時にも気の利いた動作も言葉も紡ぎ出す事なんてできやしなかった。


「・・・イケダ来てる?」


下校の時間も近くなったころ火狩遼が、図書室にひょい、と顔を出したのだ。

そして私がどう声をかけているのか解らずに黙っていると、こちらを向いて、綺麗な日に焼けた笑顔で言った。


「・・・瑛梨奈、君に話しかけているのだけれど」


彼は私の名を呼んだ。



家族以外の異性に名前を呼ばれて・・・私はその場から動き出すことができなくなってしまった。


「あの。・・・・居ませんけど」

私はうつむきながら言った。それだけ言うのがやっとだった。

「そうかぁ。どこにも居ないから、イケダの一番来そうもないところを狙ってきたんだけど。」

彼のわからないところにマリナが居るとしたら、どうして私がわかるのかしら。

「彼女が来そうもないところ」とそれくらい彼女のことをわかっているのだったら、どうしてここを尋ねてくるのかしら。


私はそう言いたかったけれど、やっぱり気の利いた受け答えなんてできるわけもなく、また下を向いた。

「私、これから戸締まりをしなくてはいけないので・・・」

遠回しに、ここにはマリナが居ないから、はやく出て行って欲しいと言ったつもりだった。

彼は私の静寂を壊す。

だから、私は彼が苦手・・・そう、苦手だった。

「それなら、今日は瑛梨奈と帰るか」

彼はそう言った。すでに制服に着替えて、荷物も手に提げていた。

私は慌てた。

「あの・・・!これから、戸締まりがあるの。・・本当に、本当に戸締まりするの。時間がかかるのよ、これ。だから・・・」

そう言うと、彼はおかしそうに笑った。

会話にならない私の会話がおかしかったのかもしれない。

自分で聞いていてもおかしいのだから、彼はもっと可笑しかったのだろう。

・・・ああ、ついてない。

その時はそう思った。

思いもかけず、予習してきていない部分を教師にあてられてしまった時に似ていた。


「戸締まりするんだろ?だったら手伝うよ」

彼は手に提げた鞄を置いて、てきぱきと戸締まりし始めた。いくつもある窓ガラスに、資料室や準備室の小部屋の鍵閉めも、あっという間に終わってしまった。

「さて、これで良し。じゃ、帰ろう。」

彼はそう言って、私を出口で待った。


夕日に照らされて、火狩遼は私を待った。

髪と横顔が、オレンジ色になり、私は彼がこの世の人ではないような、そしてやっぱり「寂しい人」だと思った。

そのじっと佇む風情が・・何かを決めてしまった人のような気がした。

その時の私はあまりにもこども過ぎて、彼が何を考えているのか、何をそんなに人と距離を置こうとしているのかがわからなかった。

どんなにみんなと親しげにしていても。

彼はやっぱり、マリナのように、考えることなく自然にすっと人の輪に入っていけない。


・・・ある意味、火狩遼とマリナはよく似ていた。

誰とでもそつなく付き合うことができるけれど、誰にもその心を見せない。


でも、彼が彼女を好きなことは確かな事実だった。



最終下校を知らせるチャイムが鳴り響いたので、火狩遼に急かされるまま、私は慌てて荷物を持って図書室を後にした。



「瑛梨奈は図書室の鍵を常備してるの?随分と信用されているんだなぁ」

私は苦笑いとも作り笑いとも言えるような引きつった微笑みをした。

愛想笑いには慣れていないし、彼に向かって極上の微笑みを返すという上級テクニックは持ち合わせていない。


他の生徒達にはじろじろ見られる、この道のりが早く終わってくれれば良いのに、と思った。

私は人に見られて心地好いと感じるタイプではない。むしろ落ち着かなくなり、普段できることも集中できなくなってしまう。


本番に弱いタイプだと思う。


だからこそ、私は常日頃こつこつと地道に積み重ねていかなければ、何かをやり遂げることができなかった。


「・・・ください」

私はそう言った。

「え?」

彼は何かを考えていたらしく、私の声を聞き逃したようだった。

「ごめん。聞き逃した。・・・どうしたの?」

彼は「何?」と聞かずに「どうしたの?」と尋ねる人だった。

だからこそクラスの誰からも好かれる人なのだと思う。


もし、「何か用?」と彼のような人に聞かれれば、例え何か用事があっても私はすぐさま「何もないです」と言ってくるりと向きを変えてその場を立ち去ってしまいたくなるだろう。


ほらね、私と一緒に歩くと、彼は考え事を始めるくらい退屈なのだ。


少しだけ胸が痛んだ。


もう一度同じ台詞を言う気力が無くなってしまった。


「いえ・・・なんでもない・・・です」

語尾が消え入りそうになった。

「名前を呼ばないでください、ってどうしてそんなことを言うの?」

彼は私が言った言葉を繰り返したので、少し驚いて足を止めてしまった。

考え事をしていて、聞こえていなかったのではないの?


「だからこうして質問してみた。なぜ、名前で呼んではいけないの?」

それは聞こえなかったから聞き返したのではなく、私の言葉の意味を私に尋ねたのだと、ややあってようやく理解した。


「・・・マリナは『イケダ』なのに私は名前で呼ばれると・・・ちょっと、驚きますから」


クラスメイトなのに、敬語はやめようよ。

彼は笑った。

透明感のある鋭い視線をこちらに向けたので、私はまた眼を反らした。


「だって、同じ名字の人が3人もクラスに居て、呼び分けられないしね。瑛梨奈って綺麗な良い名前じゃないか。」

私はそんなことを言われたことがなかったので、どうやって言葉を繋いだらいいのかわからずに、途方に暮れてしまった。


素直に賛辞に対しては、お礼を述べれば良かったのだけれど、そうしてしまうと名前を呼ばれても良いと許可をしてしまうことになりそうだったので、私はどうしたものかと、困ってしまった。


「あいつの・・イケダの妹も同じ名前だから、凄く親近感が沸くんだってさ」

彼がマリナの話をし始めた。

私たちには共通の話題がなかったから、この最大の話題を続けることにした。

「そうみたい」

「いつも、イケダは瑛梨奈の話しかしないよ。おとなしくて、でも凄く勉強が出来るって。でもそれを自慢したり、転校ばっかりで勉強が遅れがちなあいつを決して馬鹿にしたりしないで勉強を教えてくれるって。」

彼がそう微笑みながら言う様は本当に愉しそうだったので、つい私もつられて笑ってしまった。

マリナは屈託なく、なんでもあけすけに話をしてしまうのだろう。

彼女から見た私は、他の人達が見ている私とあまり大差がないように思えた。


いつも同じ評価。

もうちょっと積極的に。もうちょっと社交的に。もうちょっと・・・話題に入って。

でも、人の話を聴くのが喋るより好きな人が居ても良いのではないか。

ボタンとボタンホールのように、喋る人が居て、聴く人が居るから、会話は成り立つのではないのだろうか。


彼女の私に対する印象とは、他のクラスメートよりもやや長く一緒に居ても・・・。

同じだったということが哀しくなった。



でも彼は続けて言った。とても、優しく。

「よく似ているって言ってたよ。オレと・・・瑛梨奈が。」

「・・・どうして?」

「いつも遠くを見ているって言われた。そんなことないって言ったけどね。サッカーのことでも考えていたかなぁ。・・そうしたら、イケダは。『瑛梨奈に似てる』って言ったんだ。」

イケダが瑛梨奈、瑛梨奈というので、うつったみたいだ。

彼は少し照れくさそうに笑った。でも本当に良い名前だと思うよ、と付け足した。

「・・良く人を見てるって。イケダが言うから。オレは人を見て態度を変えないよってちょっと怒ったんだ。そうすると、あいつはそうじゃないって言って。」

そこでひとつ、言葉を句切って火狩遼は私を見た。

少しだけ目を細めたその仕草が、とても大人びていて、私はまた落ち着かない気持ちになった。



「人の内面を見て・・・ただ、見るだけなんだって。」


どういう意味なのか、その時の私にはよくわかっていなかった。



随分後になって、その意味がようやくわかる頃には、マリナはまた転校が決まり、慌ただしくクラスのみんなに「またね!」と元気よく言って、登校最終日を迎えることになった。


転校することが決まったの。


マリナが突然にそう言ったものだから、私はあやうくリボンの端を引っ張りすぎてしまうところだった。


・・家庭科の実習で、ケーキを作ることになった。

できあがったケーキは日持ちのするパウンドケーキであったので、みんなが思い思いにラッピングして持ち帰ることが出来る。

意中の子がいる女子は、その子にケーキを渡すのが、我が校のささやかな伝統になっていた。


マリナがすでに等分されたケーキに四苦八苦しながらラッピングをしているので、私は手伝おうか?と言った。

彼女は助かる!と明るく笑った。

人には向き不向きがある。

彼女は絵を描かせたらとても上手だったが、こういう細かい作業はあまり得意ではないようだった。

逆に私は想像力を求められる事は苦手だったけれど、こういった細かくて注意を払う作業は好きだった。


・・・ほんとうに、私たちは正反対だね


私が苦笑しながら、最後のリボンをきつめに結った。

こうすれば多少揺らしてもほどけることはない。


その時だった。彼女が、ふと、思いついたようにそう言えば、と言った。


私は声を上げずに、ただぽかんとしていた。

同じグループの女子はさっさと片付けを始めているので、作業台で話をしているのは、私とマリナの二人だけだった。


「いつ?」

「今月末」

今週末はもう月末近くだ。来週には月が変わる。

私は呆気にとられた。

確かに転校が多いとは聞いていたけれど、こんなにも短い期間しか在籍しないことがありえるのだろうかと思った。

「仕方がないよね・・・親の都合だもん。でもいいの!そのおかげで、たくさんの友達と知り合うことができるし。新しい土地も楽しみだし」

彼女はそう言って笑った。


だって・・・

だって、火狩さんはどうするの?

私がそう尋ねると、別れることになるのかな、と彼女は言った。

私は息を呑んだ。


・・・後で話をしよう。ゆっくり。


ここでは人目があって話ができない。


私は、彼女に、放課後になったら図書室に来るように言った。

彼女はきつめに巻かれたリボンを見ながら、ケーキを持ち上げた。


そして、マリナはわかったと言った。


そして次には、その間の話はまったくなかったかのように、「ね、瑛梨奈のケーキは誰にあげるのかしら」と言った。


私はどうして良いのかわからずに、ただ、淡々と調理実習室の片付けを始めた。

そうでもしなければ心を落ち着かせることが出来なかった。


私はマリナを・・放課後の図書室に呼び出した。

今は定期テスト前で、部活動も活動を制限されているので、ここに残る生徒はいない。

もちろん・・・窓硝子の向こうから聞こえる運動部の声も今日ばかりは聞こえなかった。


マリナが、「どうしたの」と言って、図書室に顔を出した。

その言葉のかけ方は・・・火狩遼と一緒だった。

私は理由がわからなかったけれど、少しだけ切なくなった。

切ない。

これまで味わったどんな気持ちより、それは的確だった。

でも「これまで」の経験が乏しい私には、それがどれだけ・・・どれだけ遣る瀬無くて、取り返しのつかない、失われつつある晄の時代であるのか、その瞬間にはまったくわからなかった。


私はいつも通り、いつものカウンターに座って・・・そして今日はやるべき作業が少ないけれど心を落ち着ける単純作業に没頭していたときだった。


マリナが、現れた。

夕暮れも近い、ぎりぎりの時刻だった。

そして・・・

程なくして、火狩さんが現れた。彼は、ジャージを着ていて。サッカークラブのロゴが入ったものだった。彼はサッカーの力量は、学生レベルを超えていた。

だから、別のサッカークラブに所属していることはすぐにわかった。でも、彼は回りの輪を重んじるばかりに、そんなシャツを着ることもなかった。

・・・私は彼と彼女に何かが起こると確信した。


―――でも。


私はその場に立ち入る勇気はなかった。


マリナと火狩さんは・・・今日、決着をつけるつもりで。

私を立会人に仕立てたのだとわかっていた。


呼び出したのは私なのに。



結局は、マリナと火狩さんとの話になってしまう。


私は、マリナが羨ましかった。

彼女の、・・・その火狩さんを捉えてやまないその魅力が羨ましかった。

・・・きっと、彼だけではないだろう。老若男女問わず・・・ 彼女に魅せられて、そして地獄の沼に沈んでいく人はいないとは限らない。

でも、彼女は基本的に陽の人だった。すべての陰気を明るいものに変化してしまう、そういう陽気な人だった。


マリナと火狩さんは、図書準備室に入っていった。

彼と彼女の話し声らしき物音が聞こえるだけだったけれど、それはとても静かでごく短い時間だった。


・・・最初に出てきたのは、意外にも火狩さんだった。


彼は透明感がある鋭い瞳を、あたしにちらりと向けて・・・無言で出て行ってしまった。

その遣る瀬無い表情にあたしは胸が痛んだ。どういう訳か。


彼のその表情から、マリナと別れの話をしたのだと思った。


ややあって、マリナが出てきた。


「ごめん・・・火狩と先に話をする約束をしてしまって・・・」

彼女は頭を掻いた。

私はちょっと曖昧に微笑んだ。

今の会話を聞くべきでないと思ったから、どうやってその次の話をすれば良いのかわからなかった。


私は手元にあった、すでに整頓された書籍をまた、整え直すフリをした。

「・・・瑛梨奈」

「はい」

「黙っていてごめん。転校のこと。・・・急に決まったの。いつもそうなの。」

「怒ってないよ。」

でもその顔は怒っているよ、とマリナが少し哀しそうな顔をした。

「怒ってないよ。・・・ただ、火狩さんに一番に話しをしなかった理由が知りたい」


彼は明らかに私より後にその事実を知ったはずだった。


放課後のHR直前までは、彼は普通に彼女に笑いかけていた。

それが、図書室に入ってきた彼は、取るものもとりあえずと言った感じで、部活の最中に抜け出してきた、と言った感じだった。

今は部活動の活動時間も厳しく短縮制限されているから、それを抜け出してここまでやって来るのは、相当の理由があってのことに違いなかった。


「瑛梨奈は本当に人をよく見ているね」

マリナがそう言って苦笑した。ちょっと困ったような笑いだった。

かなわないなぁ と彼女は小さな体で、カウンターにもたれかかった。

その仕草が、妙に大人びていて、私は少しだけどきりとした。

カウンターの向こう側に座っている私と、同じくらいの目の高さにマリナの茶色の瞳があった。


「・・・火狩も、転校するんだよ、もうすぐ」

マリナがまた内緒の話だよ、と言った。

「え?」

私はそこで初めて顔を上げた。

瑛梨奈は綺麗なんだから、もっと顔を上げた方がずっと良いよ、とマリナが笑った。


「転校?誰が?」

「だから、火狩が。・・・いえ、違うね。火狩とあたしと。ほとんどタイミングは一緒だと思うよ。」


・・・・知らなかった。マリナの転校のことさえ知らなかったのだから・・・火狩遼の転校の話なんてもっとわからなかったはずだ。


マリナはちょっと首を傾げて、茶色の髪の毛を揺らした。


彼のご両親の元に行くことになったらしい。すでに手続きも済んでいるという。

外国と日本を行ったり来たりして、その間の進学年がその国ごとに異なるのであれば、彼の本来の学年に就学させるか・・・もしくはスキップで学校を早々に卒業させて、彼がもっと自由に学べるようにさせてやりたい、というご両親の教育方針だということだった。



「だから、あたしと火狩はそういうことになったの」


そういうこと の意味がわからないのだけれど・・・・

私は唇を噛んだ。


「だから、別れるってこと。いえ、もう別れてきた。」


ね?とマリナが肩をすくめたものだから、私は声を抑えて言った。


「それで良いの・・・?」


マリナが困ったように言う。


「良いも何も、これ以上一緒にいられない。ただ、それだけだよ。」


普通なら。友として、私は何か声を荒げて反論した方が、「普通の友」らしかったに違いない。

でも、私は黙ったままだった。


・・・マリナの転校のことより、火狩遼の転校が、これほど堪えていたことに、今更になって気がついてしまったから。


私はそんな自分がいやだった。

だから、マリナと過ごした時間より、彼を見続けた時間の方が長いから、きっとそう思うのだと思うことにした。


マリナと過ごす時間も・・・彼と一緒に共有する時間も残りが僅かだということは事実で、これは変更することが出来ないのだとしたら。

私には一体、何ができるのだろう。


行動を起こす、というのは、私がひどく苦手なことだった。

今までと同じであることができない、ということは、とてもしんどかった。


風のようにやって来て、そして去っていくマリナは私と正反対だった。

私は彼女を自分と違うと思ったけれど、そんなマリナのようには到底なれないと思った。


でも、このとき初めて、彼女を羨ましい、と思った。


こんな風にあっさり何にも執着しないで脱ぎ捨てて行くことの出来るマリナが羨ましかった。


私のことも・・・そして火狩さんのことも、きっと次の土地に行ってしまったら忘れてしまうのだろう。

彼女は太陽のような気質の人だったから、その太陽の晄は、みんなにまんべんなく照らすことはあっても・・特定の誰かに注ぐことがないのかもしれない。

そんなときが来ることはあっても、その注がれる対象は、少なくても私ではないことは明白だった。

そして火狩遼も、その対象でないことに・・・私は、どういう訳か・・・安堵した。


その瞬間、私はかっと頬を赤くした。


―――私は、マリナと火狩さんが別れたと聞いて喜んでいる・・・???


自分の気持ちがわからなかった。


なぜ喜ばなければならないのだろう。

友人と、クラスの星のような人が、やむを得ず別離の路をたどらねばならないことを、どうして喜ばなければならないのだろう。

マリナが、それじゃ、帰るね、と行って図書室を出て行った。

私は待って、と言おうとして、慌てて立ち上がり、そして積んであった本の山を倒してしまった。


ああ・・・大変


私は屈んで、床に散らばった本を拾い上げた。


―――動揺していた。



そして、下を向いて作業をしていた私は、不意に、拾い上げようとした本の上に滴を落としたことに気がついた。



私は泣いていた。涙をこぼしていた。

図書館には誰もいないことが幸いだった。

なぜ、涙が出るのかわらかなかった。感情の高ぶりは感じていなかったから。


ぐいっと手で涙を拭ったけれど、後から後から流れてくる。




その時になって初めて、わかった。


自分が恋をしていることに。



マリナと彼が別れたことを喜んでいる自分に失望して流した涙をみて、ようやくわかったのだ。


 クラスの女子と同じように、彼の一挙手一投足に歓声を上げるような恋ではなかった。

私は、マリナと一緒に居て、一緒に微笑む彼が好きだということに気がついた。


私の友達と・・・私の好きな人が一緒に笑って並んでいる姿が好きだった。

だから、彼らが別れるとなったときに、安堵した自分が許せなかった。


火狩遼は、寂しい人だと思った。

誰とも仲良くなるけれど、何かをじっと考えている様を時折見かける度に、彼が学生らしからぬ考えを巡らせていることを知った。

それを誰かに告げることのできない厳しさと高潔な感じが、私の目を惹いたのだ。


だから・・・同じようなマリナが現れて、彼はほっとしたのかも知れない。

彼女も火狩さんによく似ていた。

こちら側には簡単に滑り込んでくるけれど、決して自分の領域には踏み込ませない。

転校を繰り返しているから、人との距離を取るのが上手なのかもしれないと最初は思ったけれど・・・どうも違うようだった。

何も聞かない私と居るとほっとすると言ったマリナが本当のマリナだと思った。

本当は、あの太陽の様な人は、誰もが見ることの出来ない内なる何かを秘めた人なのではないかと思った。口には出さなかったけれども。


マリナには、悩みや真意を打ち明けることができるのかな、そうしたら、彼は少しだけ・・寂しくなくなるのかな、と思った。

二人がつきあい始めたと聞いた時に、それは良かったと喜べた。

でも、今、私は別れたと聞いて再び喜んでいる。


・・・この恋は秘めたる恋にしよう。

そう、思った。

誰にも言ってはいけない。

誰にも告げてはならない。

誰にも・・・知られてはいけない。


私の初めての恋は、秘めた恋として、封印しなければならない。


そう、決心した。



マリナがこの学校を去る日が来た。

マリナと火狩遼は、普通に過ごしていた。

一緒に話をするし、一緒に帰ったりもする。

でも、彼と彼女の間には、もう、何かが違っていた。


みんなで色紙を書き、連絡先を教え合った。

このうちに、何人が彼女に連絡を取るのだろうと思った。

私は、彼女に約束をしなかった。

彼女に手紙を書くね、と約束したところで、彼女は自分の生活で慌ただしい日々を過ごすことになるだろうと想像していたし、短い私との時間を永遠に継続して欲しいとは図々しくて言えなかった。


私にとってマリナが特別であるように・・・マリナにとって私が特別であるとは限らなかった。


彼女はひとりひとりに、またね!と大きな声で挨拶した。

そして、火狩遼のところまでやって来ると・・・またね、と穏やかに笑った。

火狩さんは、そうだね、と言って、彼と彼女は握手をした。

少し、寂しげなその顔が切なかった。


マリナは一番最後に、私のところに来て、言った。

またね!と一番大きな声で言った。

私はうん、と小さく頷いた。

連絡先のカードを交換したけれど、彼女は転校が多いから、やがて連絡を取らなくなってしまったら、私は彼女の居所がわからなくなってしまうだろうと思った。

彼女から連絡を取らない限り、私とマリナはこれが最後の顔合わせになると感じた。


これが最後なのかも知れない。


そう思うと、私は彼女の居た時間が夢でないかと疑うくらい・・・あっという間に私の前から消えてしまった。



そうして・・・風のような、太陽のようなマリナはこの学校を慌ただしく去った。


マリナは、私に、大きな宿題を残していった。

「瑛梨奈。最後まで、火狩を見ててね。・・・見ているだけで良いと思うから。」


マリナ・イケダは別れ際にそう言って、そして居なくなってしまった。


マリナの転出よりも、火狩遼の転校の話が判明したときに、クラスはおろか、学校全体がどよめきを起こした。


彼は、もうすぐ日本を発つ、と言ってちょっとだけ笑った。

サッカーをもうちょっと続けたかったな、とそれだけを残念がっていたけれど、彼はマリナと同じくらい、あっけらかんとしていた。


もう誰もマリナと火狩さんがどうなったのか、尋ねなかった。

ただ、彼がここを去ることだけを残念がった。


私はマリナのことを火狩さんが忘れていないことを、知っていた。

注意深く、見ていたから。

時々、空いた席を眺めているその眼差しがとても、遣る瀬無かった。

そんな顔は決して誰にも見せないと心に決めていたのだろうけれど、それでも、垣間見えるその様子は、やっぱり・・・どこか寂しげだった。


彼女が私に課した宿題だった。


彼を見ていなければならない。

最後まで。



こっそり見ていたつもりだった。

また元の生活に戻った。

変わったのは、私が意識して、静かに彼を見つめるようになったことだけだった。


けれど。


彼は私に声をかけきた。

定期テストも今日で終了して、また放課後に図書室を開けることになったので、私は図書室に向かう廊下を歩いていた時だった。


「瑛梨奈」

彼は制服だった。

偶然を装っていたけれど、HRが終わった後、ずっと待っていたらしかった。

最初、誰が私に声をかけてきたのか、わからなかった。

もう私を「瑛梨奈」と下の名前で呼ぶ人はこの学校に居ないと思っていたから。


ぎくりとして足を止めた。


彼の顔をまともに見られなかった。

見れば・・・きっと、私は今の私でなくなる。


それが怖かった。


私は静寂の中で過ごしたかった。

だから、彼を好きだという気持ちが私を乱すことが怖かった。

恋とは穏やかでいられないものだと、何となくだけれど感じていた。


彼とは・・・これが最後の話になるだろう。


そう思った。


「どうしたの。部活は行かなくても良いの?」

と尋ねた。彼は良いんだ、と言って少し笑った。


本をね、返しに来たんだ。

彼は持っていた本を持ち上げた。


私は少しだけ待ってね、と言って、図書室の扉を開けた。

締め切っていたから、少しだけ空気が澱んでいた。


・・・静かな図書室の静寂と同じものが、私の中にあったはずなのに。

私は、こうして彼の視界に自分が入ることでさえ・・・どきどきした。


彼の視界に入らないように見つめるだけで良かったのに。


そうして、中に入ると、私は窓を開け始めた。

あまり全開にすると湿気が入るので、ほどよく適度に空気が対流するよう、細く開けた。

手伝うよ、と火狩さんが言ったけれど、私はすぐ済むから大丈夫よ、と答えた。


彼が渡してくれた本は、まだ返却期間までに相当日数ある本だった。

でもその期限の日が到来する頃には、彼はもういない。


「・・・片付けは済んだ?ロッカーとか。荷物とか・・・」

「ああ、元々、あまりなかったしね」

私の答えに、彼は笑った。

彼は持ち物が少なかった。

荷物もあまりなかった。

こんなに長く居るのに、彼はいつでも出立できるかのように、最初から準備していたかのようだった。


「いよいよ、明日だね」

私はそう言った。彼の最後の日だった。

「あれから・・・イケダさんとは話ができたの?」

「別れたから」

彼は短くそう言った。少しだけ、眉根を寄せて言った。


私はその言葉に声をかけることができずに、やっぱり黙ったままだった。

火狩さんは、少しだけ開けた窓のひとつに立ち寄って、窓を全開にした。

風が入り込んできて、彼の黒髪をなびかせた。

その様子があんまりにも綺麗だったので、私は息を止めてその姿に見入っていた。

「オレももうすぐ・・日本を離れてしまうしね、次にどこかで逢うこともあるだろう。」

「・・・それで良いの?」

「どういうこと?」

彼は私に振り返った。ややつり上がり気味の切れ長の瞳が私に向けられた。

「別れたら、それでお終い?そしたら、火狩さんの、気持ちはどうなってしまうの?やっと、やっと、見つけたんじゃないの?」

「瑛梨奈」

彼が短く私の名前を呼んだ。

私は思わず、口に手を当てた。

言ってはならないことを言ってしまったと思った。


「ごめんなさい。言い過ぎた」

見れば・・・

ちょっと哀しそうな、困った顔をした火狩さんが佇んでいた。

「謝ることないよ。瑛梨奈には隠し事はできないね」


「イケダ、元気でやってると思うよ。だって、あいつはそう、元気の固まりのような人だから。」

そうして火狩さんはまた風を受けながら言った。

「イケダの言うとおりだよ。確かに君はよく人を見ているね・・オレの考えていることを見透かされて居るみたいだ」

そんなことないよ、と言ったけれどその声は小さくなる一方だった。

「だから、わかってるんだろう?・・・本当の、オレのこと」

彼はそう言うと、勢いよく窓を閉じた。

その音の大きさに驚いて、私は目を瞑った。

・・・そして目を開けると。


私の知っている火狩遼ではなかった。

みんなの知っている火狩遼ではなかった。


老成した、静かな男の人がそこに居た。

唇を結び、その視線は厳しかった。

眉を少しだけ寄せて、私を見つめるその視線は深くて・・・そして哀しみに満ちていた。

何かを決心した人の顔だった。

同じ顔同じ体なのに、どういうわけか、まるっきり別人のようだった。


その時、わかった。


彼が日本を出るのは・・・進学だけが目的ではないのだということに。

だから、マリナとは連絡を取らないことにしたのだ。

だからこそ、いつかどこかで会える、と彼は言ったのだと思う。

マリナに本当のことを言ったのかどうかは、わからなかった。


彼女は本当の彼を知っていたのだろうか。


だから「最後まで見て」と言ったのだろうか。


その時。


風が強く吹いて、別の窓硝子から吹き込んだ強風に煽られて、図書室のカウンターに積んであった貸出票の紙が大量に舞った。

私と火狩遼の前に、紙のカーテンがかかった。


ああ、大丈夫か・・・


彼の穏やかな声がして・・そのカーテンがすっかり床に落ちる頃には、彼はもういつもの彼だった。


私は幻を見ていたのかと思い、目を擦った。



床に飛び散った大量の紙を私は拾い上げた。

ついこの間、本を拾い上げた感覚を思い出した。

その時には・・・マリナが去ろうとしていて、火狩さんが居た。

この紙を拾い上げたときには・・・私しか残らなくなってしまう。


彼は手伝うよ、と言って一緒に拾い上げてくれた。

もうすっかり、いつもの火狩さんだった。


けれど・・けれど、彼はぽつりと言った。

「見てるって・・・辛いな」

その言葉の意味がいくつもあるような気がして、私は声を詰まらせた。


彼は人の領域には踏み込まない。決して。

踏み込みたくても踏み込めない、そんな感じだった。

この場がかりそめの場所であることを、彼はよく知っていたから、だから彼は自分の中にも誰も入れないし、決して特定の誰かに踏み込もうとしなかった。


そうだね、と私が言うと、彼は最後の一枚を私に手渡して・・・行くよ、と言った。

そして立ち上がった。


「瑛梨奈と話ができて良かった」

彼は私の頭の上に手を置いて、ぽんぽんと頭を叩いた。

「元気で・・・いつか、また会おう」



私と彼には握手はなかった。

ただ、最後の会話だけが。

私の想い出になった。



そしてそれは、何年も経過しても忘れることが出来なかった。


そして、火狩遼は私たちの前から居なくなった。


本当の彼を見たのは、私とマリナだけだったのだろうか。

本当の彼を受け入れてくれる人が他に居るのだろうか。


―――寂しい人。


私の最初の印象は、間違っていなかった。


そして彼を見ていたいと・・・ずっと見ていたいと思ったけれど、彼はそれに気がついていた。

最後に、自分の姿を見せて。


マリナの言ったように、私と火狩遼の方が似ていたのかもしれない。



私は好きになってはいけない人を好きになってしまった。

彼の事は忘れない。



―――何年後かに再会することになったのだけれど。


その時まで。

学校の校門を通りすぎるたびに。

図書室の窓をうっかり開けすぎて、風が強く入りこんでしまった時に。

私は彼と・・・彼を見てあげてと言った太陽のような人を思い出した。


(FIN)



F-side 不磨 前編

***千載不磨01


不磨(ふま)という名前が嫌いだった。

最近の若い教師は、この名前の意味がわからないらしい。

わかっている。

僕の名前を最初に呼ぶときには、職員室で最初にふりがなを鉛筆で薄く出席簿の名前の上に書くのだ。


そして、そういう作業をしてなお・・・・僕の名前を呼ぶときには、誰しもが少なからず、眉をしかめる。

おいおい、わかっているからそういう表情をするのか?

わからなかったら・・・・調べてみるとかできないのかな。


僕はそうやって、初対面で僕の名前についてあれこれ思う輩をふるいにかけていた。

賢いとか、知識があるとかそうじゃない。

「なんて意味で、どういう由来なのか」と聞いてくることさえ出来ない者は、僕には必要でなかったから。

わからなかったから、聞けよ。

僕はそう思いたかった。

僕から情報発信をしなければ、決して理解しようとしない者たちは、老若男女問わず・・・皆、表面だけのつきあいしかしようとしなかった。


・・・・僕の両親は、いつも不在がちで、放任主義の家庭のこどもだからああいう偏屈なこどもになるから、感化されてはいけないから一緒に遊んではいけない、と。

どの同級生の親も口を揃えて言った。

ウチの事情を知っているくせに、自分たちと同じではないから、仲間はずれにしろと囁くのは、いつだって・・・こどもではなくて大人の方なのだ。

こどもは残酷で、すぐに異質者を村八分にすると大人は言う。

違うと思う。

こどもは・・・そんなことには頓着しないんだ。

誰が親で、自分とどう違っていて・・・でも関係しない。

だから、こどもなんだということに大人が気がつかないだけなのだ。

大人とこどもの境界線を引いているようで、区別がつかないのは僕よりずっと年齢を重ねている大人の方なのに。


僕は毎年あるクラス編成に辟易していた。

マンモス校ではないが、都内の公立小学校は出入りが多い。

特に、この地区近辺は、最近、学区の半分に当たる地域で、再開発が行われており、駅前に大きな商業施設の開店や、住居住宅の変化がともなって、慌ただしく変化を始めている最中のことだった。

住宅街の中にある僕たちの生活範囲では、昔ながらの居住者達が、いつも新参者に対してぴりぴりしていた。

大人の精神の影響を受けて、そのこども達だって同じように神経を尖らせる。

親に失望されないように、友を選ぶようになるのだ。


・・・・・馬鹿馬鹿しい。


僕は呆気にとられて傍観することにしていた。

いや、諦観かもしれない。


確かに、僕の親は不在がちで、家に戻れば、周囲の家より大きな邸宅に住んでいて、お手伝いや、代々我が家に使える使用人や・・・ばあやと言われる存在が闊歩している。

でも、それが僕の価値を証明することにはならない。


あの家のこどもは・・・・とても偏屈だ。

僕はつくづく、私立校に通わせてくれなかった両親を恨んだ。

同じ環境で育った者同士が居れば、自分を含めて、周囲はもっと空気を読めただろう。

そして、それが普通だと思っているから決して、そんなつまらないことで僕について価値評価することはない。


・・・なんてことはない。

単に、妬みや嫉みから来ている感情と・・・異質な者だから排除しようという気持ちが相まっているのだと・・・気付くのには、あまり時間がかからなかった。


ねぇ・・・

どれだけの人が、僕の名前に込められた願いについて、気がついてくれているのだろうか。


僕の生江は・・・千載不磨ということから来ているのだということに。

決して「磨かれない存在」なのではなく・・・・

摩滅しないで千年の後までも消えないこと示し、転じて「永遠」を意味するのに。


そのことに気がついたのは、たったひとりだった。

彼は自分の本当の名前を「ヒロ」と呼ぶのに・・・・彼はいつも「ダイ」と呼ばれていた。

大、という字を使うからだ。

僕と違っていた。

僕の名前を慎重に呼ぶ人々は、誤っているのに、大の名前を・・・

ダイ、と呼んだ。

そして彼はそれでも良いと言って笑った。


・・・・本当の名前を呼んでもらえない。

それは、本当の名前を呼ぶのに最新の注意を払ってなお、本来の意味を知ろうとしてもらえない者と、どういう違いがあるのだろうか。


僕は困惑した。


そして・・・

ダイという人物と初めて一緒のクラスになった時に初めて交わした言葉が・・・・彼からの言葉であったことを、今でも忘れていない。


「千載不磨って凄い名前だよな・・・よほど、よほど・・・おまえが生まれて来てくれて嬉しかったんだな」


・・・・僕とダイは同級生で、まだ小学生だ。

それなのに・・・そんな言葉を漏らす小学生なんて、僕は知らなかった。


・・・彼が元々知っていたのではなく、僕と話をするために、僕の名前の由来を図書館で調べたと知ったとき。


僕は、この人物は生涯の友になると思った。


友になる、というのはおこがましい。

けれども・・・けれども。


僕に近づいて来た、家族ではない第3者は、ダイが初めてだった。


彼は理知的な瞳で、笑った。


「図書館って面白いな・・・なんでも知りたいことがわかる。しかも今はインターネットでも検索できるけど・・・文字や自分で調べることって大事なんだなと思った。

不磨、おまえは凄いな。いつも図書館に居て、あんなに膨大な文字を見ているなんてどんなに凄いかと思ったけど、やっぱり凄い」


・・・ダイは知っていたのだ。


僕が誰とも話をすることができないから、図書館で時間をつぶしていることを。

でも、図書館の書物に埋もれている時間は決して嫌いではないことを。


そして・・・彼は僕に近づいて来た。


世の中には、誰とでも仲良くできる人物がいるそうだ。

でも、ダイも僕も・・・そうではなかった。

躊躇いと驚きをもって、相手に近づく。それが普通なのだけれども。


・・・・そして、彼は僕に語りかけた。


僕は微笑んだ。


「僕の名前のこと・・・よく知っているね」


言葉が少ない、といつも言われる。

いつも窘められる。

でも、この短い言葉で通じる相手が居るのだと、初めて知った。

短いは身近いに通じる。

身に近しい相手だから・・・少ない言葉で通用する。



僕の何がダイの興味を引いたのだろうか。

まずは、そこから始めようと思った。


どうして、彼のような存在が居るのだろうか。


周囲の噂は聞いていただろう。

この学年で初めて一緒になった相手だったけれども、いろいろと話は吹き込まれていたはずだ。

・・・彼にはいつも人が集う。

そして彼はそれを苦としていない。

それなのに。

それなのに・・・僕にも等しく語りかける。

どんな気まぐれがそうさせるのだろうか、と身構えていると。


ダイは、ちょっと笑った。


「オレの知っている人に・・・不磨は良く似ている」

と言った。

僕は鼻白んだ。

「僕は僕であって・・・誰の模倣でもないよ」

「ほら そういう所がそっくりなんだよ」

ダイはまた、少し可笑しそうに笑った。

・・・・もし。

僕が女子だったのなら。

彼に間違いなく恋していただろう。

同性かどうかも問題にならないくらい・・・それを凌駕する微笑みだった。

彼はとても綺麗に笑った。


「オレ達、気が合うと思わないか」

それが彼との長い付き合いの始まりだった。


それが・・・最初の千古不磨の始まりだった。

***千載不磨02


人と人が知り合うのに、始まりはない。

だから、終わりもない。


始めると意識しないから。

・・・終わりと意識して誰かとの繋がりを断ち切ることはしないし、できない。


長い時間を経て久方ぶりに逢う者も彼の友なのだ。

・・・そして彼には時間の隔たりや、径庭(=ふたつのものが隔たって距離があること)は彼には影響されない。


ダイはそういう考えの持ち主だった。

それが誰かの影響であることは、すぐにわかった。


「いつも一緒に居ることが親密さであるとは限らない」


僕とダイを含めた学年の卒業が近くなったとき。

彼が、そのように漏らすことが多くなった。


年が明けた頃からだろうか。

この頃になると、国内の私立中学校の入試情報が頻繁に飛び交い、欠席する者が出れば「アイツは私立を受験するのだ」と静かに、本人に聞こえないさざめきとして囁かれていた。

表面的には・・・皆が同じ学区に進学することが当然のように、穏やかに日々が流れていく。

でも、その中で、幾人かが、その静寂から離脱することを、他でもない、僕たちはわかっていた。

少なくとも、僕とダイはわかっていた。

・・・ダイはそのまま地元の学校に進学することが決まっていたし。

僕はようやく・・家族と一緒に、様々に彼らと一緒に諸国を渡り歩くことを赦される年齢になったことを喜ぶことで頭がいっぱいだった。

まだ、誰にも話していない事実なのに。

それでも、ダイはわかっていたようだった。

僕たちが。

僕とダイが。

間もなく離れてしまうことを、彼は知っていた。

ダイは、僕と友達だと思ってくれているのだろうか。

僕は・・・ダイを友だと思っていると同じように、彼は僕のことを永遠の友と思い定めてくれるだろうか。

この頃になると、仲間内に秘密が発生する。

他校への受験を意識している者は、試験結果が漏れて自分のプレッシャーになることを懼れている。

そしてそのまま定められた学区への進学を決めた者は、学区によって・・・ここに居る誰が離れて誰が同じ空気を吸うようになるのかという打算を始める。


これまでは最上級生だったのに、今度は下級生になる。

大人とこどもくらい体格に差が出てくる者たちが集う場所を憂えて・・・僕たちはそこに行き着かなければ先に進めないことも、十分よく承知していた。

憂えるのは、僕たちがいちど「おとな」になったのに、また「こども」に戻るからだ。

それを制度という強制力でもって「当然のこと」と言われるからだ。

・・・それまでは上級生で、何でも「お兄さんだから、お姉さんだから」と言われてきた。

それなのに、今後はその立場を捨てろと言われる。

理不尽なことを摂理だと受け止めるほど、僕たちはおとなじゃなない。




「・・・雪合戦、最後になるな」

ダイがぽつんと寂しそうに言った。

彼は地元の学校に進学することが決まっていた。

ダイは、クラスのリーダー的存在だ。

それなのに、ちっとも・・そういう立場をひけらかさない。

自分では意識していないのかもしれないが、彼には不思議な憩いの空気が纏わり付いている。

家では、父は会社員であるものの昔ながらの地元民であることを利用して、持っている土地をアパートにして経営しているという。

他の誰よりもたくさんのいろんな人と交わると、彼のような人間になるのだろうか。

人見知りが激しく、誰にも自分のことをわかってもらえないと信じ込んでいる僕には、彼はある意味興味の対象であり、驚異の的であることは確かだった。


「今年は雪が多いみたいだね。・・・珍しい」

僕はダイの言葉に呼応した。

いつも闊達なダイは、僕の前ではどういうわけか寡黙で静かだった。

少ない言葉を交わして、どれだけ会話が続くか愉しんでいるようにも思えた。

僕がそういう気配を好んでいたから、彼は合わせていたようだったけれども、最近では彼の好みは、実はこういった静かな空間なのではないのかと僕は思うようになった。


僕の通っていた学校では、クラス対抗の競い、というものは、滅多に行われなかった。

保護者の誰かが、競争させるのは良くない、と声高に言い始めた時代だった。

・・・けれども、実際の・・当事者である僕たちはそれを「競争」だなんて決して思っていなかった。

コミュニーションの一環であり・・・・それは普通の遊びだった。

その遊びをひとつずつ奪われていき、そして自分たちは・・大人になるのだと、何となくわかっていた・・・そんな時期でもあった。


寒さと湿度で、教室の窓硝子が白く曇っていた。

ここ数日、雪が降ったり止んだり、夜間には冷え込んだりして・・・この国には珍しい厳冬の季節を迎えていた。

特に、数日前に降った大雪は、このあたりの交通機関をすべて麻痺させて、そしてまだこの国の上空に居座っていた。

徒歩圏内で通学できる今のうちはまだ雪に喜んで通うことが出来るが、進学したら、電車の交通状況を調べなければならないわね、と家人に言われて僕は憂鬱さが増していくばかりだった。



ダイは僕に横顔を見せながら、曇った窓の向こう側に拡がる灰色のどんよりした空を眺めていた。

この時期は、僕たちのように進学先が決まっている者は、割と時間にゆとりがあって、ダイは最近合気道を習い始めたようだった。

少し引き締まって、細長くなった顎が印象的だった。

ダイは普通の子だと思うけれど、あまりいろんなことには執着しない。

しかし、どういう気まぐれなのか・・・

聞いてみたけれど「友達の友達が進めてくれたから」と言っていた。

僕の知らない友達のことを、ダイが語ったのは、その時だけだった。

彼は学校外の交友関係については、ほとんど喋らない。

最も、この狭いコミュニティの中で・・・誰か余所者と親しいと自慢する愚か者は居ない。

自分の知らない者のことを話されても、それは理解したり共有することはできない情報なのだから。


「ダイ・・・何か、心配事?」

僕はそう言って彼の思考を中断させてしまったことを少し悔いながら、話しかけた。

ダイはたぶん、ちょっと変わった思考回路を持っているのだろう。

クラスの誰もが考えつかないようなことを提案するが、決して強要しない。

そういう風に考えるのは自分だけなのだと、いつから気がついていたのだろう。

誰かと少し距離を置くときには彼がおとなの顔をすることを誰が気がついているのだろう。

・・・僕しか知らない秘密であれば、それはとても・・・とても苦しくて切なくて・・そして僕にしてみれば僅かに嬉しい事実であった。

彼はひとりじめできない。

これは他のクラスの女子が喚き散らす「恋する」気持ちとは違っていた。

男女問わず・・・教師でさえ、ダイをひとりじめしようとする。

彼は誰のものにもならないのに。


わからないのだろうか。

みんな、わかってないのだろうか。


彼が僕の傍で静かに本を読んでいるときに、僅かに微笑んでいることを。

彼が僕の傍ではほとんど何も話さずに、深く何かを考えていることを。


傍目から見れば、僕とダイは一緒に過ごしている時間がとても長いように映るだろう。

でも実際には、ダイは僕の傍に居ながら、いつも違うことを考えている。

それを尋ねたり咎めたりしないから、彼は居心地が良いから・・僕が傍に居ても良いと許可してだけなのだということに・・・僕以外の誰が気がついているのだろうか。


でも。

ダイの知性に溢れた・・静かな瞳が、空を見て、そして誰かを思い浮かべているとき。

その瞬間に、傍に居ることを赦されたのは、他の誰でもない僕だけなのだということの希有なる資格を僕は噛みしめている。


わかっている。


・・これは・・・刻限があるからこそ、そんな気持ちになるのだ。


間もなく、僕とダイは離ればなれになる。

だからこそ、僕は、僕の名前のような、不磨の関係を誰かと結んでおきたいと切に願っているだけなのだと。

ダイでなくてはいけないというわけではなかった。

でも、ダイで良かったと思った。


・・・彼は、僕の領域に入ってきた。僕がそれを許可したから。


でも。

彼の心に入り込んでいる人がいる。

彼が僕の領域に入り込んだように。


「ボクのウチのアパートに住んでいる奴で・・・ひどい風邪を引いているのが居てさ」

「そう」

僕はその時に、ダイの横顔が・・・とても穏やかでありながらとても躍動している気持ちを抑えていることに気がついた。

彼は自分でわかっているのだろうか。

・・・その人のことについて、初めて話を聞くのに。

彼はずっと・・・その人の事について心の中で繰り返し語っていたのだということがわかるくらいに、ごく、自然に話をしたものだから。

僕はしばらく驚いたと伝えることが出来ずに、ただ、黙ってダイの話を聞くばかりだった。

***千載不磨03


そういえば、ダイが誰かの話をするのはほとんどないことに気がついた。

家族の話をしたり、友達の話をしたり。興味があることも熱心に語ることもなかった。

随分と、「薄い」人なのだなぁと思っていた。


たまに居る。

そういう人物が。


話に知識はあったり、興味をそそられることもあったりするのだけれども、どこか、こう・・執着しないというのか・・・

僕の当時の語彙力では上手な表現は見当たらなかったけれど。


自分は他のみんなと違う、と思っているのではなくて・・・・

もう、ダイはものの見方が僕たちの年代の大部分とは違っているのだけれど、それに自分自身が、気がついていないらしかった。


彼のことを表すぴったりの言葉はなかった。

今も思い浮かばない。

彼を何かに当て嵌めること自体が、烏滸がましいと思う。

・・・強いて言えば、雲煙過眼とか行雲流水とかいう言葉がぴったりだった。


だから、彼が異質だという扱いを受けたり拒絶されたりすることはない。

けれども、誰かを心に深く留めておくことはしないようにしているような・・・そんな気がした。


僕たちには未来があって、この先何でもできるのに、ダイはそこに高慢になったりすることがなかった。


ちょっとだけ大人なのかもしれない。


なぜ、大人なのかは、彼にもうまく説明できないだろう。

僕にもそれを事細かに事実として説明することはできなかった。


この時期特有の・・「何となく」という言葉を当て嵌めるしかなかった。


彼は、何となく大人だった。

そして何となくこどもだった。


間もなく皆が別れ別れになるという時になって、そこで初めて気がつく雰囲気であったりクラスの仲間関係の変化であったり・・・僕たちはそういったことに対して鋭敏に変化を感じ取り始めていた。

早熟な女子は、永遠の別れでもないのに、「最初の恋」を「最後」の恋にしたがった。

未熟な男子は、永遠の別れでもないのに、しきりに、これまでの遊び仲間と、これからずっと先の遊びの約束を取り付けることに熱心だった。


ダイは女子に結構人気がある。男子にも人気がある。


最近背が伸び始めたからだろうか。

女子も男子もみんな彼を「ダイ」と呼ぶ。

本当は「ヒロ」と呼ぶのに。

担任の教師も彼をダイと呼んだ。

彼の家族も、彼を「ダイちゃん」と呼ぶので、彼がその時にはかなり嫌そうな顔をしていたことを思い出した。


それがどういういきさつでそうなったのか明白な理由があるようなのだが・・・彼は理由を教えてくれない。


その時だけ、彼は小さな微笑みを創って、秘密を持っていることを明白にした。


彼が大人びている瞬間があるのは・・・

何か秘めたる想いを持っているからなのだろうか。

恋愛に限らず・・・誰にも言わない秘密が出てきたときに、人は「こども」から「おとな」になるのだと思う。


僕はその点で言えば、かなり昔から大人だったけれど、それとダイの「おとな」は違うような気がした。

それでも良いと思うが。

だって、僕とダイは同一人ではないから、同じ「おとな」という境界をわざわざこしらえて、自分たちを区別することはないと思っていたから。

そんな僕の気質が、彼のどこかのなにかに気に入ったらしい。


誰かに気に入ってもらうとか、気に入るとか。

そういうことは関係がないのだ。


ただ、互いに楽だった。


干渉しないし、長い時間を共有することが親しい間柄であるという定義を持っていなかったから。

僕は元々が・・・そういう環境にあったので、特段に気にすることもなかったのだが、ダイは普通の家のこどもだ。

きょうだいだっている。

それなのに、彼はどうしてああして人と距離を取ることが得意なのだろうか。

誰かと暮らすとそうなるのか。

いや、違う。

だって僕はそうではない良い証拠であり見本だったから。


・・・その彼が、自分の身の回りの人物で、僕の知らない人のことを話し出した。

ダイは、知らない人のことを話すことは滅多にない。

ましてや、彼の家の住人たちについて述べることは家で禁止されているようだ。

しかしそれ以前に、彼はそういったことにあまり興味が沸かないようだった。

「知らない人の話をしても、つまらないだろう」と言う。

同じクラスの者たちは、自分の交友関係や見聞録を披露したいがために、そういった話を多くしたがるものだったのに。

彼は違った。


「へぇ」

僕はその話を聞き流すべきかどうか躊躇した。

「この間の・・・雪遊びをしようって言った大雪の日に・・・シャボン玉を一生懸命吹かしていて、風邪を引いた」

だから看病をしたいので、当面の間は早く家に帰ると言った。

残された僕たちの共有時間は少なかった。


皆で授業を受けるでもない、一日の大半が自習時間になるという奇妙な日々が・・・何よりも優先されるべき時間であるとこの教室にいる誰もがそう思っていた。

ちらほらと欠席する者たちは、私学を目指す受験組だった。

それを知っていても、口に出さないルールを僕たちは知っている。

やがて訪れる別れの予感を察知していたから。

だから、あえて口の端に昇らせることはしなかった。

・・こどもだと大人はいうけれど、僕たちはこどもであるけれども、ちょっとだけ大人だった。


彼らがよく使う「暗黙のルール」とやらを知っていた。


そんな雰囲気の中で、彼は時間の長さではない、ということを僕に伝えたかったのだと思う。

何がどうウマがあったのかわからないけれど。何となく一緒に居る時間が他の人より多かったような気がする。

だから、彼は自分のことを少しだけ話すことで、僕に許可を求めたのだ。


「シャボン玉・・・」

僕は頭の中で、その構図を想像したけれど、その人がどんな人物なのか、彼の描写が少なすぎて、あまり具体的な想像にならなかった。

「この大雪と寒空の下で・・正気の沙汰じゃないよ」

ダイは少し怒った風にそう言ったので、僕は苦笑した。

日頃、温厚な彼が怒るなんて。

いや、本当は温厚だと思っているのは周囲だけで、本人はちっともそうだとは思っていないのかもしれない。


「だいたい、なぜ、シャボン玉なんだよ。・・・小さなこどもみたいに、身体が冷えることも時間も忘れて・・・・」

なるほど。その人物は、おとななのだな。

彼の家の賃借人であるなら、きっと相当な大人のはずだった。

ここは都内だから、地方の同じ間取りの住まいと比べて、決して家賃が安いとは言えない。


彼は僕が黙っていることに安堵したのか・・そのまま、勢いがついたかのように、いくらかをぽつぽつと話し出した。

彼が生まれた時から一緒にいる女性であること。

最近、彼女が家を不在にすることが多く、会話はないけれども、留守を頼まれていること。

・・・そして彼を「ダイ」と呼び習わし始めたのは、その人なのだということ。

短い言葉で、彼は僕に話をした。


だから僕は笑った。

「ダイ。それなら優先するべきことはわかっているだろう」

「うん」

「・・・それに、その人は、気まぐれにシャボン玉を創っていたわけではないと思うよ」

そこで、ダイが顔を上げた。

彼の知的な瞳が、僕を見つめる。

きゅっと唇を結んでいたが・・・ダイは、その理由を、予測していたようだった。


誰かのために、祈りを捧げて天に魂を還す儀式なのだということを・・・・・

僕は静かに教えてやった。


「そう」

ダイは小さい声でそう言った。

ぽつり、とそう言って、彼は下を向いた。

知らなかったようだったが、合点がいったといったような顔つきをしていた。


彼は、背が伸びて、尖った顎が際立って見えた。

この頃になると、僕たちはランドセルを卒業していた。

担当教師の意向で、ランドセルは卒業まで大事に使いなさいと言われていたけれど、身長や体格が追いつかなくなって背負うことが出来ない生徒が教室の三分の一を占めた時、担任教師は任意使用を認めた。

でも僕たちは、最上級生の特権を手に入れて、勝利をもぎ取った気分になっていた。


大人になると、背負うものが大きくなる。

それなのに、こどもに背負うことを強要する大人達に少しばかり反抗してみたかったのだ。


彼は肩から提げたナイロンの鞄を重そうにかけ直した。

勢いをつけて、ちょっと踵を上げて、彼は荷物を持ち上げた。


・・・そう。

僕たちは知っていた。

背負ったって肩にかけたって、重さは少しも変わらないってことを知っていた。


「その人・・・きっと、とっても哀しいことを経験したんだよ。

泡を空に還すことが、この気候ではとても無理だと・・・さすがにわかっているはずだと思うよ。

・・・どこかで聞いたことがある。魂を空に飛ばすんだって。魂を空に還すんだって。遠くに居る、届けたい人に届くように風に乗っていくんだって」

「・・・・」

ダイは無言だった。


僕は夢中だった。

いつもみたいに「不磨、物知りだな」と言ってもらえると思って得意になっていた。

だから、気がつかなかったのだ。

ダイが・・・とても・・・とても何とも言えない表情を浮かべていたことに気がつくのが遅くなってしまっていた。


僕は続けて言った。

少し早口だったように思う。


「大事な人なのかな・・・家族とか。恋人とか。

だったら哀しいよな。たまにしか帰って来ないアパートで物思いに耽ってシャボン玉を飛ばす人か・・・それは気になるよね」


その時の表情を・・・僕は見なければ良かった、と思った。


・・・・・ダイは顔を真っ赤にして・・・今にも泣きそうな顔をしていた。

***千載不磨04


そこで初めて僕はしまったと思ったのだ。

でも、しまったと思っただけで、僕の言葉の何が、彼をそんな表情にさせたのかがわからなかった。


ただ、これだけはわかった。

ダイを酷く傷つけてしまったのだ。


彼はぐっと唇を噛んだ。

僕は息を呑んで彼の顔をただただ凝視するばかりだった。

何が悪かったのか、わからなかったけれどもひとまず謝ることにした。


「ダイ、すまない」

「いいんだ」

ダイはそう言って・・僕の顔を見つめた。

その肯定の言葉を聞いて、僕はますます息を潜める。

胸がぎゅっと締め付けられるように痛み、喉元に何か・・・言葉にならない言葉が出し切ることが出来ずに滞留しているような感触を味わった。

でも、それは僅かな時間の出来事だった。


顔を上げた彼は、もう、いつもの彼だった。

目尻が少し朱に染まっていたけれど、ダイは大きく息を吸ってひとつ、深呼吸をした。

そして彼の中にそれを沈めていく。何かを呑み込んでいく。


僕の状態について彼は察したように笑った。

「不磨、わからないのに、謝るなよ」

「わからないから、謝るんだよ」

僕は少しむっとして言った。

自分が理解していなくても相手を傷つけた時には、相手には傷つく理由があるはずだ。

特に、ダイは理不尽な怒りや悲しみを持つことはないだろうし、彼にそんな思いを呑み込ませてしまった僕には、まったく非がないかと言ったらそうではないと思っていたからだ。


難しい理屈を並べ立てていても、結局のところ、僕はダイを好きなのだ。

友人として、なくしたくないと強烈に思っていたのだ。

間もなく別れがやって来るから。

だから、余計に・・拗れてしまった糸は解しておきたかった。

そういう危うい氷上を渡り歩くような張り詰めた空気を、彼との間に持ちたくなかった。


ダイは少し笑った。

「不磨のそういう返事が良いと思う」

「そう・・・はぐらかすなよ」

僕はそう言った。

彼が決して、今の一連の行動に説明をしないと知っていたから。


僕はもう一度、言った。

胸が苦しかった。息が詰まる、という感覚を、この時初めて味わった。

気まずいのではない。

ダイはそれほど狭量な人間ではない。

でも、彼の内に秘めたる想いを・・・僕が強制的に暴き晒してしまったかのような罪悪感があった。

ダイはそんなことは望んでいなかった。

それなのに・・僕は引っ張り出してしまったのだ。

彼を強引におとなにしてしまった、と言えば正しいのだろうか。


僕はたまらなくなって、言った。

これ以上、この場に居たら、僕はまた彼を傷つけてしまう。


「ダイ、行けよ。・・・・不作為の後悔ほど不毛なものはないって、議論しただろ。・・・やらない後悔はしてはいけない。だから、行け」

僕はそう言って、手を伸ばし、ダイの肩をぽんと押した。


冬の冷気を纏った彼の上着は、冷たかった。

まだ空気は湿っていたから、それも加わったのかもしれない。

彼の肩はそれほど広くて逞しいわけでもないのに・・なぜか重かった。


「その人のところに、行け。

あと5分しても、ダイがここに立っていたら、僕はダイの友達をやめる」

「ともだち」

ダイは眉を潜めた。

・・・声が掠れていた。


僕は、ここで少し・・躊躇いを持てば良かったのかもしれない。

でも、ここで言わなければきっと後悔すると思った。

僅かな時間しか残されていないと思ったからなのだろうか。

焦燥感が僕の背中から首筋にかけて這い上がり、そして僕の脊髄を浸食して僕の考えも着かなかったような言葉を言わせているようだった。


たとえ、僕の投げつけた言葉がダイとの関係を崩したとしても。

それでも、彼には必要だと思ったから。

適当に愉しくて、適当に気楽な関係は欲しくないと思ったから。


だから、僕は彼の肩をとん、と押して、彼に加力した。


ずっと・・・ずっと大事にしていたものがそこにはあったから。


「ダイがどう思っているか、だよ。・・・早く急げ。少しでも長くその人の傍に居るのが良いよ。きっと、心細いよ。その人・・体調を崩しているんだろ?」

「不磨、すまない」

ダイはもう一度そう言ったので僕は笑った。

「ここで繰り返すつもりはないよ。・・・僕は、ダイとともだちだと思っているし、また明日も会える。それなのに、どうして謝るの?」


わかっていた。

わかっているよ。


この瞬間、僕という媒体を通り過ぎて、ダイは大人になってしまったのだ。

それを、自覚したのだ。


彼の中に、誰にも言えない想いがあることを、彼が自覚したのだ。


「ともだち・・・良い言葉だけれど、今は辛いな」

彼はそう言って、空を見た。

また冷えて、雪が降りそうだ、と呟いた。


僕とダイの関係を言っているのではないと思った。


その人を深く案じているダイを見て。

クラスでダイを慕っている女子がこの場に居たら、ダイの表情について理解できる者は居ないだろう。

彼は・・・空を見て、ごめんよ、と呟いていた。


おそらく、彼の案じている人物が浮かべた空泡を最初に見たときに。

彼はまったくその行動の意味がわからなかったから。

軽んじて見つめていたことに対して・・・空に還った魂に詫びているのだと思った。


「不磨はやっぱり、物知りだ。・・・話を聞かなければ、わからなかった」

ダイは曇天の空を見上げながら、そう言った。

ここ数日は夜になると雪が降って、周囲の交通機関もだいぶ影響を与えている。

おまけに、朝は冷え込むから・・・・ここは都内であるのに、陸の孤島になってしまっていた。

空港は欠航が続いていたし交通機関は制限が加えられていた。


食料の供給値が高くなっていると、僕たちには直接憂えるような知識にならないようなことを、朝のホームルームで担当教師が言っていたことを思いだした。

だから、毎日配膳される給食を粗末にするな、と言いたかったのだろうけれど。

僕たちにはまったく影響しない。

この狭い空間から出ることを許されていないのに。

それでも・・大人は僕たちより、広い境域を過ごしていることを誇示したがる。


ダイにそんな大人になって欲しくなかった。

彼には・・いつまでも少年であり青年であり壮年であって欲しかった。

おとなとこどもが共存しているような・・・

そんな人になって欲しかった。


僕が勝手に願っているだけだけれど。


僕が自分自身の環境を歎くことが無駄なのだと知った時に、僕は大人になってしまった。

不満や不平を述べることは簡単だった。

でも、それを言っても解決しないだろうと思うようなことには、言葉を呑み込むことを覚えた。

誰もが・・・それを抱えて生きているのだと思ったし、僕は「聞き分けのよい子」という自分の立場を利用していたこともあった。

こどもは、大人が思っているより、ずっと狡いのだと・・・自分でそう思っていた。


僕はこどもの仮面を被っているだけだ。

ダイのように魂が清廉ではない。

僕は・・ダイのようになりたい。


でもダイにはなれないと知っているから。


時の流れについて知っている。

孤独について知っている。


僕が広い屋敷に住んでいても、それは僕に付随する事柄ではない。

僕の親がどれほど高名であっても、それは僕のことではない。

どうして、僕は僕で在ることを、周囲に否定されなければいけないのだろう。

僕は不磨と名付けられたのに。

不朽不滅を意味する言葉で名付けられたのに、どうして、僕は、誰かであったり・・・周囲やその他のものに合わせて、自身の価値を決められてしまうのだろう。

「不磨、行くよ」

彼は言った。

ダイは・・きっと僕のようにはならない。

彼は秘めたる想いを持ってなお、変質しなかった。

だから、僕はそれに感動して、苦しくなった。


僕より、僕の知らない誰かをダイが優先させることが苦しかったのではない。


彼の知らない誰かを僕は知っているし。

僕の知らない誰かを彼が知っているし。


でもそれは問題にならない。


・・・ダイの後ろ姿を見て、思った。


僕は・・・ダイが誰かを定めてしまった瞬間に立ち会ってしまったことに、とても・・・衝撃を受けていただけだった。


彼の家の住人であって、彼の述べる描写の人であれば、親子ほどに年齢の離れている人なのだろう。

それなのに・・・ダイは・・・その人に思いを残すことを決めてしまった。


それからしばらくして。


ほんの数日後のことだったように記憶している。


「容態は良くなったから」

とダイが言った時。

何かの話のついでだったように思う。

でも、彼はそれを狙って言ったのだと思った。

何気ない会話に織り込んで・・・

彼は、彼の中の思いを淡く薄く儚いものにしようとしていた。


でも、僕にはわかっていた。


僕だけにしか、彼は言わなかったから。

僕だけにしか、彼は言えなかったから。

・・・

彼はそれを呑み込んで、千載不磨とすることにしたのだと。


***千載不磨05


それから更に数日が経過した。

すでに一日の授業のうちの大半は、自習時間だった。

僕はこの時期に最上級生に与えられた最後の自由を満喫することにした。

図書室にあるたくさんの本を借りてはその日のうちに読破して、返却するという自己最高記録を更新し続けていた。

自分の好きなことをして良い、と言われると何をして良いのかわからなくなる。

そろそろ、僕たちは・・・室内での個人活動に飽きてきたところだった。

ここのところの大雪で、校庭のコンディションは最悪だったし、体育館では校庭ニ出て授業を行うことが出来ないクラスの生徒達が、所狭しという具合にひしめき合って「体育の時間」をようやくの思いで開催しているといった状態だった。

寒い日が続くので、教室内のストーブの周りは休み時間の度に盛況だった。


僕の進学はここの学区外であることはもう決まっていた。

それは周知の事実だった。

だから、僕に集団行動を強制する者はもう居なかった。

進学してからも仲良くしてね、と言って、教室内ではメッセージカードがたくさん出回った。

加除式のルーズリーフのような綴じ穴のついた少し厚手の紙が、幾枚も机の上に乗っており、どの者のものであるのかがわかるように、名前がそれぞれに記入してあった。

つまり、そのカードを寄越した人物に対してメッセージを書け、ということらしい。

僕は苦笑する。それほど親しくない相手に、どうやって何を告げれば良いと言うのだろうか。

しかしダイは律儀にそれを一枚一枚丁寧に書いて返却していた。

だから彼の自習時間の一時間分くらいはこの「執筆」にあてられたが、彼は「いい暇つぶしだ」と言って笑っていた。僕と考えていることが同じだったらしい。

知らない者に何かを伝えることは僕たちにはまだ難しかった。

ダイはフリーメッセージ欄にはいつも短く「またな!」と書くだけにしてあった。

特にダイの机上には、他のクラスや学年の者からの依頼もあり、いつも山盛りでカードが置かれていた。

まったく彼の人柄というものは彼の大変に貴重な財産になるのだろう。

短いようで、そして僕はまったく普通に過ごしているダイを見る度に、なんだか、この間のことは本当は僕の夢なのではないのかと思ったくらいだった。


けれども、ダイは終業後はそそくさと足早に帰ってしまう。

短縮授業になっていたので、それほど慌てて帰らなくても良いのだろうけれど。

それでも、ダイは・・・やはりあの人のところに通っているのだと思った。

一日のうちの大半を同じ空間で過ごしていたのに。

僕はダイの事をあまり多くは知らないことに気がついた。

少し寂しかったが、彼のあんな表情を見てしまったことに比べればそれは大きな事ではなかった。


今日も雪が降りそうだと、帰り際にダイは呟いて、そしてさっさと下校してしまった。

その後。

掃除当番だった僕は少し居残りをして、職員室に呼ばれた。

・・・進学するときに必要な書類だという。内申書ってやつだろうか。

封緘されているので、中身はわからなかったが、その封筒は校紋が入っており、小学校の名前と担任教師の名前が正式名称で入っていた。

寂しいな、と言われたけれど、それがいわゆる社交辞令であることはわかっていた。

僕たちはそういった言葉は知らないが、知らないからそれがどういう時に使われるのかも知らない、というわけではなかった。


僕はそれを受け取ると、そこでようやく全部の用事を済ませて、下校することができると思った。

帰り際に図書室に立ち寄って、朝に借りた本を幾冊か返却する。

シリーズ物というのは一気に読んだ方が面白いので、僕はこのところ、連作ものを読みあさっていた。

図書室は職員室を出て廊下を挟んだ対角線上の場所にあり、そこには放課後には図書委員が輪番で本の貸し出しを行っているが、それ以外の時間は無人だった。

たまに、非常勤の司書の人が来て本を揃えたりしているようだった。


これじゃ、持ち去られても仕方がないよな。

僕はそう思いながらも、返却カウンターに本を置いた。

図書室は、単独で出入りできるのは最上級生だけだった。

今はそれほど、ここを利用する者も居ない。

どちらかというとコンピュータールームに入り浸りになっている者が多い。

紙をめくって文字を追いかけるより情報をスクロールさせる方が楽しいという時代だった。

だからこそ、誰も邪魔をしない静かなこの空間が好きだったのだけれど。

僕は、明日貸し出してもらうための本をどれにするか物色しようとして、本棚に向かおうとしたとき。


・・・その時に。

「あ」

僕は声を漏らした。

返却カウンターに幾冊か本が無造作に置いてあった。


昼休みにでも返却されたのだろう。

ダイが読みたがっていた本だった。

僕が面白いよと薦めたもののうちのひとつだった。

人の出入りがあまりない図書室ではあったが、このシリーズだけはなかなかに人気で、いつも貸し出し中であることが多かった。

僕も気をつけて返却状況を見ていたのだが、予約制度のない図書室では、手に取った者から先に借りることが出来た。


・・・ダイ、喜ぶかな。


僕は誰も居ないことと、僕がいつもここで所定の手続きをしないで本を借りることを黙認してもらっていることを良いことに、その本を手に取った。

・・・返却カウンターは貸し出しカウンターも兼ねている。

カウンターの上には、貸し出しカードというものが置いてあり、その本も貸し出し中の扱いになっていた。


僕はルールは守るためにあるものだと思っている。けれども、その時ばかりは・・・ごめんなさい、と呟いて、カウンターの脇にあった、不要紙を使ったメモ帳に走り書きをした。

どうしても借りたいので、貸し出し手続きを経ないで借りていきます、と書いた。

・・・約束を破ることや、紀律を護らないことは僕の主義に反した。


決まり事というのは守ってこそ決まりなのだから。


これは大変に胸が苦しくなるような出来事で、僕は本当に小心者なのだということをよく理解した出来事だった。

その時に・・・後ろめたいという気持ちを知ったわけだけれども。

でも、ダイにあんな表情をさせてしまったことが僕の中でいつまでも燻ったままだった。

これで相殺できるとは思わなかった。ダイにはそんな取引みたいな事は必要じゃなかった。


僕は誰もいないのに、カウンターにぺこりとお辞儀をして、その本を胸に抱えた。

今になって思えば、それほど目くじらを立てられることではなかったのかもしれない。

けれども僕にとっては重大だった。

誰が許しても自分が許せなかった。

そうまでしてダイと関わり合いを持ちたいと思っている自分が嫌だった。

彼は僕のことを忘れてしまうだろうと思っていた。忘れないだろうけれど・・・・

一緒に過ごした何をするでもない時間のことや、何かを言わなくても伝わった感覚や、クラスのみんなより少しばかり・・・秘密を胸に持つという大人の作法みたいなものを経験した者同士の共有感があった。

ダイにその本を届けるのは、次の日でも良かった。

外は雪が降りそうだったし、鞄の中には、徐々に持ち帰るようにしている文具などが詰まっていたから、何かの拍子に本を傷めてしまう可能性もあった。

そして、先ほど受け取ったばかりの僕に関する書類もあった。

けれども・・・けれども、そんなものよりもっと大事なものに思えた。

僕がダイにそうしたかったんだ。

それが理由ではいけないのだろうか。

***千載不磨06


その頃の僕は何も感じないように努力していたように思う。

努力とは自分で意識しているかどうかは関係ないのだと思った。


本当は自分で閉じ込めてしまっているものがあることに自分で気がつかない場合。

その時は、ため込まれた「いろんなこと」をどうやって見つけるのだろう。

たとえ見つけ出せても。

それは・・・行き場なんてないのに。


気がつかないうちに自分の中に潜めていた鬱屈とした気持ちに気がついた時。

僕はうまく外に表現できずにいた。


僕だって本当は、何も感じないわけではない。

親と離れて暮らすことはとても寂しいと思う。

家族とか家庭とかいうものは、遺伝子の似通った個々人の集合体でしかないと割り切れていない・・・


いつか大人になった時。

僕は誰かを好きになれるかどうか、とても疑問だった。

恋愛という意味ではなく。

それまでよりもっと短い期間しか共有していない相手と、自分の人生の残りを共にするという行為のために、相手を求めて彷徨い歩くことが最上至上のことであると声高に言う者がほとんどなのだ。


そういうものだと言い聞かせてきたけれども、他のみんなの家はそうではない環境がほとんどなのだと言うことも。


もっと低学年の頃には、僕らは頻繁に友達の家を行き来していた。

あまり人付き合いが上手とは言えない僕でさえ、記憶に残っているくらいだから。


その家に招かれて、一足踏み込むとすぐに判るその家独特の匂いに僕はいつも頬を緩ませる。

僕の家に招いたら、誰かが同じように同じ事を感じてくれるかな、と想像するからだ。

でも僕は結局、誰も招かなかったし、誰も招いてくれよ、とは言わなかった。

不磨の家は自分の家と違う香りがする、と誰かに言って欲しかった。

けれども、そういった記憶は僕の中に残っていない。


僕が思っているよりも、ダイはあっさりと新しい環境に馴染むと思う。

僕とダイは・・・春が来たら別々の制服に腕を通すことになる。そうなったら、それは魔法の衣のように、それまでの記憶をすべて消し去ってしまうのだろうと思った。

時折懐かしいと思うことがあるかも知れないけれど、それはずっと先の、大人になってからのことなのだろうと予想していた。


僕は、ダイの家の近くの路地まで来て、角まで来ると、そこで立ち止まった。

・・・彼の家までの道のりを知らないわけでもないし、迷ったわけでもなかった。

けれども、大通りから小道に入り、彼の見てきた風景を僕は再現しながら歩いていると思うと、ゆっくり歩かなくてはいけないような、そんな気持ちになったからだ。

僕はダイではないし、ダイに僕になってほしいとは思わない。


でも、彼が見てきた景色を覚えていたかった。


いつか・・・・

この道のりをこの目線で歩き、この空気を吸った記憶を共有できると良いのに、という願いが僕の中に湧き起こっていた。

感傷的になっているのかもしれない。


けれども。

けれども・・・・


もうすぐ、僕とダイは離れる。


僕は空を見上げた。どんよりとした空だった。

・・・・僕の心を表しているような、そんな灰色の空を見て、僕は溜息をついた。

また少し歩いて・・・そしてまた空を見上げる。


数歩歩いただけで、空は晴れるわけはないのに。


ダイに渡したい本があると言って急な訪問をするのは、彼は迷惑だろうか。

あの・・・シャボン玉を飛ばす彼のアパートの住人がまだ快癒していないことはわかっていた。

彼が毎日、下校の準備が整うとそそくさと帰宅してしまう日々に変化がないからだ。


あの時のダイの顔を見てから、何となく聞くことが出来なくなってしまっていた。

その人は、ダイとどのくらい親密なのか、と聞くことは、誰かとダイとの関係と、僕とダイとの関係を比較することになるから。

ひいては、それは僕とダイの間に流れるものを否定することになるのではないのかなと思っていたから。

・・・口実を作らなくては訪問することが出来ないなんて。

僕はちょっと苦笑いをした。

ただ単に・・・寂しいと言えばそれで済んだかもしれない。

でも僕は、見てはいけないダイの秘めたる想いを見てしまったから。

だから、とても後ろめたかった。


溜息を漏らすと、白い息が宙に舞って・・・そして消えて行く。

大人になったら、背も伸びて、この嘆息はもっと空に近い場所から発することになるのだろう。

大人になっても・・・こんな気持ちを持つのだろうか。

胸がぎゅっと締め付けられて、それでいてじわじわと締め上げられるような感じだ。

それでいてちくちくと痛み、どこか疼きさえ感じる。


・・・痛みの種類を全部一度に味わっているような感覚だった。


ダイの声が聞きたかった。

「そんなことないよ。不磨とはいつまでもともだちだ」

彼はそう言ってくれれば良いのにと自分に都合の良い言葉を夢想する。


・・・その時。


ダイの声が聞こえた。


「・・・・・を笑わせてやってくれ!」


そこで一度声が途切れた。

僕は曲がり角の傍で、角を曲がりきるところだった。

驚いた僕は・・・・そのまま足を止めて、電柱の影に隠れた。

このところ電柱は地中に埋められる工事が至るところで進んでいたが、この地区ではそれは未完の手配だったようだ。

これを幸いだと思う余裕なんて、なかった。

ダイの声が涙声だったからだ。


僕は・・・・今度は聞いてはならない声を聞いてしまった、と思った。


いつも闊達で、朗らかで、それでいて感情を露わにしないダイの悲壮な声が聞こえてきた。

まだ声変わりする前の、少し掠れた少年の声が灰空に響く。


僕は息を呑んで・・・息を潜めて、その言葉を耳にした。


彼の、見てはならない表情を見た。

今度は。

彼の、聞いてはならない声を聞いてしまったと思った。


F-side 不磨 後編

***千載不磨07


僕は小走りになった。

聞いてはならない声を聞いたから、本当はそこで踵を返してなかったことにした方が大人の対応なのだとわかっていたけれども。

でも、足が、ダイの方に向いていた。

彼の声がとても・・・とても胸を裂くような声音だったから。

だから僕は、路の先を急いだ。


これが彼の誇りを傷つけて、彼が僕と距離を持ったとしてもそれでも良かった。

今は・・・ダイの傍に行かなければいけないのだと思ったから。

ああ、僕はまだ・・・本当にこどもだ。

その先に何があるのか知っているのに、それでも・・・行き着こうとする。


角を曲がると、ダイがこちらに背中を向けて・・・そこにいた。

何かを呟きながら、肩を上げていた。

そして、ダイが見つめていた先は・・僕と反対側の曲がり角で、僕が見たものは一瞬しかわからなかった。

白金の髪をした長身の外人が、もうひとり、誰かを抱えながら・・・角を曲がっていくところだった。

それは本当に一瞬のことで、冷たい風に靡いた白金の色しかわからなかった。

顔もはっきりとはよくわからない。

ちらりと見えただけだったが、恐ろしく整った横顔だなぁという印象だけが残った。

人の記憶や残像というのは、まず、印象というかイメージが先行するのだな、と妙な納得をしていたことだけ記憶に残っていた。


消えていく一端を眺めた僕は、あっという間に角の向こうに消えてしまった彼らに、ダイが何かを叫んだのだということだけが判断できた。


彼は大きく息を吸って吐いていた。

冷たい大気に、彼の呼気がいくつもいくつも浮かんでは宙に消えて行く。

普通の深呼吸とは違っていた。

次々と生まれては消えて・・・まるでシャボン玉のような彼の溜め息には、嗚咽が混じっていた。


僕は一瞬足を止めて、その様子を黙って見ていた。

声をかけられなかった。

およそダイらしからぬ彼の挙動が僕の足を止めた。


ダイを越えて過ぎった人影が消えると、ダイは更に大きく息をして、しゃくり上げて泣き始めたからだ。

それで、その人影を彼が見送ったのだと確信した。


「・・・ナを泣かすなよ。絶対だ。あいつは笑った顔が一番なんだ。絶対だ」

彼は涙声に『絶対』を交えて、繰り返し呟いていた。

彼はいつも絶対ということはこの世ではあり得ないと言っており、僕はそれにいつも同感だよと言っていた。

この世には絶対はない。

それなのに、絶対という言葉を繰り返し使うダイの心情を推し量ると、僕は心臓がぎゅっと締め付けられるような苦しさを味わった。

後ろから眺めると、ダイの頬からいくつもいくつも大きな波が零れていた。

頬を伝うほどに静かな落涙ではなかった。

激しく・・・彼は泣いていた。

睫からそのまま重力に負けた涙は落ちて、地面に落ちていった。

彼の耳も首筋も、昂奮のために赤くなっていた。


「・・・ダイ」

僕はそっと声をかけた。

そこでようやく声をかける気になったのは、空から・・・ちらり、と雪の種が落ちてきたからだ。

雪の種というのは僕が作った言葉で、それをダイが気に入ってくれたのでそれ以来使うことにしている。

雪が絶え間なく降る前の、まばらな降雪をそう呼んだ。

僕とダイは今年多く見られる雪の種を見つけて、雪が降ってきたことをどちらがはやく察知できるか競争していたものだった。

この冬は、そんな冬だった。

しかしそんな他愛のない言葉を交わしていたダイと、今、ここでこどものように泣きじゃくるダイは別人のようだった。

いつも物静かで、でも朗らかで・・・誰にも気を遣う優しいダイが、これほど昂奮している。僕は、一体、どうすれば良いのだろう。


ダイは僕のか細い声に、びくりと肩を大きく上げた。

こんなに近くにいるのに、気がつかなかったようだった。

目の前の・・彼が見送った人達への集中で、彼の背後に居た僕の気配に少しも気がつかなかったらしい。

・・・ダイは大きく息を吸って、それから空を見上げてから・・・ゆっくりとゆっくりと、僕の方に振り返った。

***千載不磨08


彼は服の袖で涙を拭った。服の裾はあっという間に水分を吸って、色濃くなっていった。それすらよく判るくらい彼はとても・・・とても大粒の涙を流していたが、僕は普通に話すことにした。


「読みたいと言っていた本が借りられたから。持ってきてやったんだ」

僕は下を向いてそう言った。


彼の顔を直視できそうにもなかった。

目は腫れているし、顔は真っ赤だし、何より、彼の知的な瞳からは大きな涙がまだ浮かんでいた。

でも、僕はどうしたのか、と尋ねなかった。

ごく普通に、話をした。

その涙も、いつも僕のよく知っているダイと違う表情を浮かべているダイの顔もまるっきり無視した。

しばらく僕たちは無言だった。

僕はずっと下を向いて、やや内向きになってしまっている僕の沓先を見詰め続けていた。

その爪先の上に・・・雪の種が、ちらりちらりと落ちて、それが水滴になって、重なって、水の華を作っていた。

自然は素晴らしい。こんな時にでも・・・平等に僕の上にも雪の種を注いでくれる。

本当は、ダイの上にたくさん降らせて、彼の涙を隠してやって欲しいと願っていた。

彼が僕の方に向き直ったために、背中を向けた、あの人影の方角から、また誰か来やしないか、と彼が気を払っていることに気がついた。

だから、僕は黙っていた。

沓の上にいくつも水花が咲いては、滴となって僕の足から地面に流れていく。

ダイの涙のように。いやもっと静かであったけれど、これはダイの涙なのだと思った。


やがて洟をすすり上げるダイが、自分の服の袖で、涙を拭き始めたので、僕は自分の上着のポケットからハンカチを出して彼に差し出した。

彼の袖の面積は、涙をすべて拭き取るだけの余裕はないはずだった。

それでも僕はまだ下を向いたままだった。

下を向いていたので彼の顔に突き出すようにやや上向きに差し出したハンカチを・・・彼は黙ってつまみ上げた。


読みたい本があると、彼はいつも下校時に図書室に立ち寄っていた。

もっと読みたい本があると、一日に何度も図書室に足を運んだ。

そんな彼が・・・・図書室に立ち寄らずにまっすぐに帰宅していた理由になった人を見送ったのだろう、と思った。

彼の熱くなった顔から漏れる吐息は先ほどより更に白く発光して、空に吸い込まれて行く。

雪が降り始めた。

ちらつく程度だけれど、今夜はまた、雪になるだろう。

僕らは雪が積もると雪合戦をして遊んでいた。

でも、今のダイは、遊戯に興じるこどもの表情ではなかった。

こどもか大人かわからない。

それなのに、彼はこどものように泣きじゃくっていた。

でも、僕に気がつくとその涙を鎮めてしまった。


・・・ああ、彼は、大人になったのだな、と思った。


誰にも見せられない秘めたる想いを彼は知ったのだと思った。


僕たちはまた、黙り込んでしまった。

気まずいという言葉では表現できなかった。

なぜなら・・・僕は・・・ダイが誰も傍に寄って欲しくないと思っただろう瞬間に吹き込んでしまったから。

それは一度ではなく、今度は二度目だったから。

だから、彼がこれで僕と距離を置いて新しい環境に行き着くための最初の階段を昇ったのだとしたら、それは僕が招いたことなので、止めることは出来ないと思った。

ともだちだけれど。ともだちだから、見てはいけないことがある。

それを知った僕も・・・少し大人になれたのだろうか。

失敗をして、ダイに去られて、大人になることは、そんなに素敵なことなのだろうか。


だったら、大人になりたくない。


そう思った時のことだった。

ダイがぽつりと言ったのだ。


「ありがとう」

僕は顔を上げた。顔を上げると、すぐ傍にダイの顔があった。

まだ鼻先は赤かったし、頬も瞳も赤いままだったけれど、もう、いつものダイの顔だった。

「これ、借りることにする」

「気にするな」

僕は湿ったハンカチを好まないので、いつも2枚持ち歩いていた。だから、1枚くらい貸しても何かに影響することはない。

それに後は家に帰るだけだったから、気にすることでもない小さな事だった。

それなのに、ダイは、大事そうに四折になったハンカチを整えながら、目と鼻を強く押さえて涙を拭き取った。

***千載不磨09


「あいつ、行っちゃった」

ダイが言った。彼の言う『あいつ』が誰だか察しがついた。

その人物のために、彼は好きな時間を削って、毎日早めに下校していたのだと判っていた。

「うん」

僕は頷いた。彼の視線は僕を通り越して遠くを見ていた。

僕の背中の向こう側にある、彼の親の経営するアパートの一室を眺めていたようだった。

「銀髪のガイジンにひょいって抱え上げられて・・・・」

「ダイ、彼はプラチナ・ブロンドって言って、銀髪じゃないと思うよ」

僕がちょっと口出しをしてしまった。銀の髪はもっと違う色だ。

「どっちでも良いよ。・・・そんなこと」

些細なことに拘る僕の癖を良く知っていたダイは、ぶっきらぼうにそう言った。

でも怒っているわけではなかった。


どうやら、その白金髪のガイジンに『あいつ』がついて行ってしまったようだ。

そして、それを・・・ダイが見送った。

ただそれだけのことなのに。

どうして、彼はそこまで号泣するのだろうか、と尋ねることはできなかった。

彼の心の内が少しだけわかったから。

・・・ダイはゆっくりと、地面に落ちた箒を拾い上げた。その時になって、僕はようやく、彼が家の手伝いで、アパートの前の通りを掃除していた途中だということに気がついた。

足元には、雪でほんのり白くなった落ち葉の山が積まれてあった。

「・・・湿った落ち葉は燃えないんだよな」

彼はそう言って呟いた。この地区はたき火は禁止されているのに、彼はそんなことを呟いたので、不思議そうな顔をしている僕に、ちょっと片眼を瞑った。

「あいつとよくたき火をして焼き芋してたんだ。・・・内緒だよ」

彼の声はくぐもっていたが、それでも・・・いつもの静かなダイの口調だった。


優等生のダイが、禁止されていることを率先してやっていたとは驚きだった。

今日この短い時間だけで、僕の知らないダイをどれだけ見たことだろう。

3ヶ月分の驚きが一気に押し寄せてきた感じだった。


彼は箒を握り直して、今日の掃除はお終いだ、と言った。

そして大きな溜め息をついた。

「・・・戸締まりしないといけない部屋があって、これからそれをやる」

「邪魔はしないよ。本を届けに来ただけだ」

僕はそう言って、鞄から彼の待ち望んだ本を取り出した。学校の図書室の本は、汚損防止のためにビニールコーティングが施されている。その表紙の上に、また、雪の種が落ちて水になった。

ダイは空を見上げた。

「・・・今夜は雪になる」

「もう雪だよ、ダイ」

そう言って僕はダイと同じように空を見上げたけれど、徐々に降ってきた雪のつぶてが顔に当たって、その冷たさに目を細めた。

彼はそれすら気にしないようで、空を眺めて・・・やがて静かに言った。

雪はとても静かだ。

音を掠って行く。

同じように、ダイの嘆きも吸い込んでしまったかのようだった。

彼は、もう、いつものダイだった。


「今夜のフライトは難しいだろうね。路面も凍結しているだろうし」

ここ最近の降雪によって、路面凍結が深刻な話題になっていたので、僕はああ、と頷いた。

首都圏でさえ、交通が麻痺した程の大雪に遭遇したのはつい最近のことだった。

この近辺でしか活動しない僕たちには、格好の遊び場を提供しただけの雪も、大人から見れば大変な憂慮すべき事態なのだと思うと・・僕はその時には大人は大変だなぁと思ったものだった。

・・・フライトというと、彼らはそのままその足で出国すると言うのだろうか。

「パスポートも持っているのかどうかわからないのに・・・」

ダイはそう言って、小さな声で文句を言っていた。

それほど小言を言うダイも初めてだった。

彼は誰か特定の人の事を肯定しないかわりに否定もしない人物だった。

だから、彼の文句を言っている『あいつ』はかなり・・・彼の中で特別なのだろうと思った。

またそこで僕は胸が疼いた。込み上げるものを感じる。

慌てて、下唇を突き出して、ぎゅっとその気持ちを一気に呑み込んだ。

「忘れ物したら、取りに来るよ」

雪がちらついてきて、ますます冷え込んで来たので、僕は身震いをした。

そしてつまらないありきたりの言葉を彼にかけてしまったので、しまった、と思った。

「・・・・あいつの忘れ物が、あいつを取り返しに来たからそれはないな」

彼は不思議な言葉を呟いた。

でも何となく意味がわかった。

それからダイは、僕の顔をしげしげと見つめた。

何か顔についているのかと思うくらい、じっと見つめるので、僕は口ごもってしまった。

気の利いた冗談でも言おうかと思ったが、うまく言葉にならなかった。

・・・この寒さのせいだろうか。違う。そうではなかった。

ダイが・・・ダイが、おもむろに、また、大粒の涙を流していたからだ。

今度は、静かに・・・。先ほどの涕涙と違っていた涙だった。


・・・大人の泣き方だった。

***千載不磨10


彼が急速に、音を立てて変化していくのを目の当たりにして、僕はただ戸惑うばかりだった。

僕のクラスの誰よりも大人だと思っていたダイが、本当は・・・もっと違った面を持っていたことに対して驚いていた。

自分と違うことを思い知らされる。

彼が登り始めた階段の下から、追いつくことが出来ずに、徐々に確実に上昇するダイの後ろ姿を見上げる自分を想像した。

落ちた雪の種が、魔法のように僕の足先から葉や根を伸ばし、冷たさという名前の果実を実らせるために、それらが速度を増して僕の体温を糧として奪っていくように思えた。


僕はダイの泣き顔を見ていた。

彼は静かに涙を流していた。


それほど時間は経過しなかったと思う。

今度も、ダイがぽつりと言った。

眼も鼻も頬も赤かったけれども、彼は平静の中で、何かに区切りをつけたようだった。

「これで、良かったんだ」

まるで自分に言い聞かせるようだった。

僕はうん、と頷いた。

「そうだね」

何が良かったのか悪かったのか判らなかったけれど、ダイがそれで良いと言うのであれば、それで良いのだと思った。


「だって」

ダイは自分の中でめまぐるしいスピードで、何かを問答していたようだ。

彼の言葉と言葉の間には、きっと、もっといろんな言葉が飛び交っているのだろう。

僕はそれを黙って聞いてやることしかできない。


「・・・あいつ。・・・・とても・・・とっても・・・嬉しそうな顔をした」


彼がその人物を止めずに見送ったことを言っているのだと気がついた時には、大きなつぶてとなった雪の華が、僕たちの上に降りかかってくるところだった。

まだまばらであったけれど、今夜は相当雪が積もりそうな、そんな前兆の雪に、僕とダイは立ったままだった。

冷えるよ、とか。寒いよ、とか。

そんな言葉で彼を動かすことはできないと思った。


でも、やっぱり、この静寂を破ったのはダイからだった。

・・・雪がすべての音を吸い込んでいくようだった。まだ積もっていない雪に音が吸い込まれるとは、視認できるとしたら、一体どんな風なのだろうか。

音が空に還って行くのだろうか。

空にシャボン玉が浮かんで消えて行くのと同じように、音も消えていくのだと思った。


僕とダイの間には、静けさしかなかったから。


僕が差し出したハンカチを握りしめて、彼は目頭をぎゅっと押さえる。

そして、少し首を振って、それから一度だけゆっくりと大きく息を吸ったダイは、ほっと小さな溜め息をもらした。


「不磨。・・・ごめんな」

「謝る理由がないよ」

僕は笑った。

ダイは首を振った。

そして、受け取った本の表紙を眺めると、言った。

「これ、手に入れるのは大変だっただろう?人気があって順番待ちだって聞いていたから」

「ちょっとした魔法だよ」

僕はおどけて言った。

いつもの会話だった。それが始まったので、僕は正直言ってほっとした。

好きな女の子に泣かれる時より、ずっと困った。

この時には、まだ、そんな恋愛感情なんて知らなかったけれど。


本当に、もっと後になってから。

この時に感じた・・・・ぎゅっと掴み上げられるような、締め上げられるような痛みと疼きを伴う息苦しい感覚は、「せつない」というのだと、知った。


僕は肩を竦めた。

これ以上ダイをこのままここで立ち尽くすままにさせておくわけにはいかなかった。

何しろ、彼の両袖は涙を吸って湿っており、号泣したことによって体温が上昇しているので、寒空の下で長時間過ごしていれば、彼が看病した「あいつ」と同じように寝込む結果になることは眼に見えて明らかだったからだ。


「ダイ。・・・戸締まりの用事があるなら、行けよ。僕は帰るから」

僕はそう言った。

このまま遊びに行こうよ、と誘える状況ではなかった。

明日からは、彼は、下校時刻よりずっと過ぎてから、僕と一緒に帰ることになるだろうと思ったけれど、それでも、今日だけは・・・・彼だけの余暇というものを味わって欲しいと言う、願いとか祈りとかに似た気持ちを持ったからだ。

***千載不磨11


うん、と頷いてから、ダイは少し気恥ずかしそうに僕を見た。

「格好悪いな」

自分の事をそう言って卑下する必要はないと思った。

だから僕は首を振った。

「何かどう格好悪いのか、わらかないよ」

するとダイは、ちょっとだけ、涙で濡れた唇の端を歪めた。

「泣いたり怒ったりするって、格好悪いだろ」

僕は首を横に振った。

それは違うと思ったからだ。強く首を振った。

「そんなことない」

気休めにしかならない言葉のひとつがこの言葉だと習った。

適当に適切に生きることを教わっていたから、誰かが自分自身を否定したときにはこういって相手を肯定してやれば良いのだ、と僕は記憶していた。

・・・でも、本当にこの言葉しか出てこなかった。

ちょっと息を吸って・・・言葉を探す。

僕の語彙力では、首を振ってただ否定する仕草によってダイを肯定することしかできなかった。


彼は自嘲気味に嗤った。

「・・・あいつを軽々抱え上げるガイジンに叶わない。

ボクはあいつをそんな風に抱き上げたり・・・嬉しそうに笑わせたりすることができない」

だから、ただ単に、地団駄踏んでいる小さなこともと同じなんだ、とダイは言った。

どう言って良いのやら判らなかった。

でも、何かを伝えたかった。

後になって考えればこの時にダイを慰める行為はいくつでも考えついた。

でも、この時には、たったひとつの事だけを伝えたかったという気持ちしかなかった。

「格好好いよ」

僕は怒ったような口調でそう言った。


「・・・ダイ。誰かのために、怒ったり泣いたりすることは格好好いと思うよ」


断片的な影像と、ダイの言葉の端々からしか想像できないけれど。

きっと白金の髪のガイジンは、「あいつ」を、白馬の王子様のような登場方法で、誰もが羨むような洗練された動作で、彼女を連れ去り方をしたのだろう。

ああ、そうだ。

僕はとっくに気がついていた。

「あいつ」は、ダイの一番大事な人なのだということを。

滅多なことでは怒りや悲しみを表さない彼が、こうしてくるくると激しく表情を変える相手というのは・・・彼の秘めたる想いの源になっている人なのだろうと思った。

最初から、わかっていたのに。

彼が、僕より・・・彼の心を占めている人が居て、僕は哀しかったのだ。

そのまま、どんどんダイの心の中からじりじりと端まで追いやられて、いつかは、ダイの心や記憶から、弾き出されるのは僕なのだ、と感づいていた。


そんな矮小で狭隘な考え方しか思いつかない自分自身が嫌だった。

ダイは人に順番をつけたりしない。

でも、たったひとりだけ、彼の中で特別な人が居て、それは、誰も触れることない彼だけの領域なのだと知っただけだった。

その事実は最初からあったのだ。

それを僕が今知ったからと言って、彼が裏切ったとか、変わってしまったとかいうことではなく・・・

ダイは、僕より、一足先に大人になったのだ、ということだけだった。


「ダイは格好好いよ」

僕は繰り返したので、ダイはくすりと声を漏らして笑った。まだ鼻声だったけれど。

「不磨は優しいね」

その言葉に、今度は僕の方が泣きそうになった。

違うよ、ダイ。


君に見捨てられたら哀しいのは僕の方だから。

ダイの特別な友達でいたかったから。

だから、僕は、ダイの欲しい言葉を言っただけだ。

本当は、「あいつ」のことなんて忘れて、さっさと遊びに行こうよ、と言いたいところだった。

僕にとって、ダイは憬れであり、心穏やかになれる唯一の友達だったから。

とおりいっぺんの付き合いしかなく、卒業後は連絡が途絶えるだろうな、とわかりながら付き合っている他の者と違っていたから。

だから・・・だから僕はダイの弱っているところに、つけ込もうとしたのだ。


彼のために本を無断で持ち出したり、彼の流涕の場面から去ろうとしなかったり・・・僕は自分がとても卑怯な奴なのだと思った。

彼の秘めたる想いを知っているのが僕だけで良かった、と内心思ってしまって、そして少しほっとしたのだ。

それを見透かされたかのような、透き通った視線で見つめられて、そして優しいね、と声をかけられた。

僕は一体、どうしたいのだろう。

僕は一体、彼に何をしてやりたかったのだっけ。

・・・・そうだ。彼に笑って欲しかったんだ。

***千載不磨12


「それなら、不磨の方が断然、格好良いな」

彼がそう言って、僕を見た。

「どうして?」

今、僕が考えていたことと全く逆のことをダイが言ったので、僕は苦笑した。

行き違っているとは思わなかったけれど、ダイは僕のことを知らなさすぎた。

これほど一緒に居るのに。


距離は時間ではない。


そう痛感する瞬間だった。


どんなに離れていても。

ダイとあの人との距離は、とても近いところにあった。

人と友好関係を築くためのマニュアルなんて彼らには必要なかった。


彼はちょっと笑った。僕がいつも眼にしている彼の微笑みだった。

でも少し大人びていた。

「一番欲しい言葉を一番欲しい時に言ってくれるから」

「・・・施しをしてあげているわけではないよ」

「ああ、そうだけれども。・・・誰かのために、何かをするって、素晴らし事だと思うよ」


互いを褒め合っても仕方がないので、僕はそれ以上何も言うことはなかった。

ダイもそうだった。

「ダイ。・・帰るよ。今日はすごく冷えるようだから、はやく中に入れ」

僕がそう言うと、彼はそこで寒さを強烈に感じたのか、肩を上げて、自分の服の裾の中に腕を引いたが、袖口は濡れて冷たくなっていたので、彼は顔を顰めて、また腕を少し伸ばした。

「わかった。戻る。・・・不磨、本を届けてくれてありがとう」

ダイはそう言って僕に片手をあげた。その手の中には、僕が運んできた本があった。

けれども・・・彼は、もう、昨日までのダイと違って、嬉々としてすぐに表紙を開き、没頭して読まないのだろうな、と思った。


彼はこの灰色の空の下で、大人になってしまったから。


絶対はない。

それはダイの口癖だった。


いつかきっと別れが来る。同じ状態で永遠は続かない。

自分の中で変わらないと思っていた何かが変化してしまっていたことに気がついたりして、僕たちはひとつずつ大人になっていくのだろうと思っていた。

でも違った。

大人になる瞬間というのは突然に訪れるもので、緩やかに、徐々に切り替わるものではないのだと知った。

そこから先は、きっと穏やかに徐々に変化していくものであるのかもしれないけれども。

少なくとも・・・ダイに関して言えば、そうだった。


「不磨」

ダイが僕の名前を呼んだので、僕は顔を上げた。

そろそろ、本当にこの場所に長居しようものなら失調しそうなほど冷え込んできた。

元々不足していた日差しが更に、薄くなって僕たちの体温さえ奪っていくようだった。

陽光は温度を与えるだけではなく、温度を奪うときもあるのだと思った。


「なに?」

僕は返事をした。

彼は上げた手を下ろして、ゆっくりと視線を建物の方へ遣った。

これから彼は、僕が持ち込んだ本を読むのではなく『あいつ』の後始末に行くのだろうな、と予想していた。きっとそうなのだろう。

でも、僕の名前をダイは呼んでから、僕に微笑んだ。

同級生の僕が言うのもどうかと思うが・・・その時のダイの笑顔は、とても綺麗だった。

生涯忘れることはないだろう、と思うくらいに。

絶対や永遠はない、とダイは言うけれど、この思い出は絶対・・・僕の中で消えはしないと思った。

それとも、大人になったら忘れてしまうのだろうか。

忘れるのが、大人になることなのだろうか。

それならそれでも良いと思った。


今日感じているもどかしさや苦しさを、ダイが大人になったことによって、そういった感情を忘れたり、痛みが和らいだりするのであれば、大人になることはがっかりすることでもないのだろう、と思えた。


「不磨の名前は千載不磨からきているのだろう?」

「そうだよ」

僕は自分の名前について、ダイが何か聞いてきたことはなかったので、ちょっと驚いて、帰路に向かって顔を戻し始めた動作を止めた。

僕たちの別れの挨拶はいつもと同じだ。

今日が終われば明日が来る。

だから、また明日、と言って別れる。週末であればまた週明けに、と言う。

次を約束する言葉が僕たちにはいつもの別れなのだ。

それなのに、不磨という僕の名前について、ダイが珍しく何かを言おうとしていたので、怪訝な顔をしていたのだろう。

変な顔している、とダイが苦笑した。


「凄いな。長い刻を変わらないっていう意味だろ?」

「そうだよ」

僕は頷いた。

「終わらない時という意味ではなく、長い時間、という意味か・・・・」

彼が言いたいことはわかっていた。

永遠はない。絶対はない。

これがダイの持論だった。それは生涯変わらないだろう。

人は変化する。そして万物も。だからこそ、僕たちは生きているのだから。

まだこどもの僕が、生きるということばを口にすることは烏滸がましいかもしれないけれど、それでも、僕は、ダイという人は生命に溢れていてそしてとても眩しい存在なのだということに改めて気がついた。


彼は言う。

永遠はない。絶対はない。

けれども、彼は永遠も絶対も目の当たりにしたのだ。おそらく。

『あいつ』とダイの関係。

そして『あいつ』と白金髪の人との関係。

消えゆくシャボン玉の話。

彼が何を秘めたままにしてこどもから大人に変化したこと。


それらを経験したから。

だから・・・僕の名前の意味を今一度尋ねたのだろう。


僕は言った。

「永遠はないからね。・・・僕の名前の意味は、『不磨』だから。・・・・後世まで残ること、という意味だよ」

偉人になれ、という意味ではなかった。

後世まで何かを誰かに残すことを為し遂げよ、という意味の名前を良い名前だね、と言ったのは、家族以外ではダイだけだった。

彼は知っているから。

いつかは終わりが来るけれど、それは始まりがあるからで、そして変化していくことによって、終わったかのように見えたものがまた始まることもあることを、知っているから。

僕はそこで、彼が何を言いたいのか悟った。


・・・僕とダイはもうすぐ離ればなれになる。これでお別れ、という意味の会話もしたことがなかった。でも、確実に、その日は近付きつつあった。この雪が溶けて、桜の並木で莟が膨らみ始めるよりを確認するより前に、僕はここを去ることになる。

それは決まっていることだった。

でもダイはその日を尋ねることはしなかった。

別れというか、逢えなくなる事への恐怖も不安も感じていないかのようだった。

僕は幾度もそういった別れに出会っていたので、慣れていたけれど、ダイは根本的に違う考えを持っているようだった。


「あいつとは長い付き合いだけれど、逢えなくなっても、突然現れて再会しても、いつも『またね』と言っていた。それだけで十分だったから」

「そう」

彼の口から、その人の話を聞くと、こちらの方が胸が苦しくなった。

ダイがその人のことを思う度に、何を思うのだろうかと考えるからだ。


でもダイはちょっと笑って首を傾げた。

本を持ち替えて、脇の下に挟んだ彼は、僕から眼を反らさずに、ゆっくりと言った。


「・・・だから、不磨ともそうでありたいと思うだけだよ」


・・・しまった、と思った。


何か失敗したわけではないけれど、僕は動揺してしまった。

取り返しのつかないことをしてしまったときに使う言葉だけれど、僕にはその言葉だけしか浮かばなかったのだ。

ダイは・・・・永遠と刹那と、両方を手に入れたのだ。

大人になって苦しみを学んだけれど、彼は、何一つ変わっていない。

現状に更に加えて、彼は何かを得たのだ。何かを失ったのではなかった。

だから、永遠はないと言い切るのに。

長い時間は肯定する。僕の名前を肯定する。

これまで、僕の名前をあり得ないと否定することもなかったけれど、肯定もしなかった。良い名前だね、と言ったことはあったけれど、そうでありたいとは言わなかった。


それなのに。

僕はダイが可哀想だと憐れんだ。

それは違っていた。

彼は少しも可哀想なんかじゃなかった。

誰かを見送っても、その人が戻ってくると信じて、戸締まりをすると言っていたのに、僕はそれを勘違いして、彼を哀れんで胸を痛めた。

そんな必要もなかったのに。


ダイはいつも自分と誰かを比べたりしない。

それなのに・・・僕は、いつの間にか、ダイと僕を比べて、ダイの方が僕より可哀想だと蔑んでいたのだ。

彼はそれを知っていたのに、知っていたはずなのに、こうして僕と普通に接した。

僕なら、一瞬で、激昂するだろう。

憐れみは最大の屈辱だ、とは思わないけれども。

でも、理由なく、誰かにそういう感情を持たれることには愉快で居られなかった。


それなのに。

憐れんだ僕を憐れむことなく、ダイは・・・僕に生涯の宝となるような言葉を言った。

彼の心に秘められた想いと同じくらい、僕との関係を大事にしているよ、と言われたような気がした。


「なんだよ・・・なんだよ」

僕は呆気にとられて、そのまま思ったことを口に出した。

少し前を歩いていたダイが、困ったように唇を少し突き出していた。

僕の表情は・・・あの時のダイと同じ貌をしているに違いない、と思った。


シャボン玉の話をしたとき、ダイが浮かべたあの表情に。


***千載不磨13


しかし、考えてみると、僕がダイと同じ過程を経ているのであれば、僕も間もなくダイのように何かを憂え誰かのために祈りを捧げ、誰かの笑顔を思い浮かべて幸せになってくれと思えるときが来るのだろうか、と思った。


・・・ダイは僕の後ろ暗い気持ちを知っていたように思う。


僕が居ても居なくても同じだと思って欲しくなかった。


僕は、僕と離れたダイが、誰ともうまくやっていけないと良いのに、とちらりと思ったことを恥じた。

もしくは、そつなく何事も処理できる彼のことだから、人当たりは良くても真実の友人ができることのないように、と願っていたことを、ダイは知っていたように思う。

だから、僕の前では、中学生になったらどうしようとか、部活に入ろうかな、とか、具体的な将来像を語ることはしなかったのだと思った。


彼に憂いを与えていたのは、僕だったのだ。


うまく言えなかった。


僕はこれ以上何かを言えば、大声でわめいて・・・ダイに理不尽な言葉を言ってしまいそうになっていた。

彼は自分のせいだと思っていたのだろう。

だから、さっきからしきりに『ありがとう』と彼は言っていたのだ。

泣き顔を見られたら誰だって気まずく思う。それなのに、彼は僕の目の前で涙を見せた。

大事な人が行ってしまうと泣いた。

それに同調することもできなかったし、励ましてやることもできなかった。

ただ、彼を、哀れんだ。

それは最も必要のない行為であったのに。


けれども、ダイはそれらをすべて彼の涙で流し、僕に『またね』という。


彼は、最初から。僕の物思いに、気がついていた。僕の小さな悲鳴を聞いて、僕に近寄った。僕の作った高い心の檻を越えて・・・ダイは僕にすべてを見せてくれたというのに。


それなのに、僕のことを蔑んだり哀れんだり低く見たりすることもなく、彼は、僕に・・・いつもと同じように会話をしていつもと同じように接した。


もうすぐ逢えなくなるのに。

それなのに、彼の中では、僕とダイの関係は、いつまでも千載不磨なのだ、と言ってくれた。


・・・狡いよ、ダイ。


僕は泣きそうになった。込み上げてくる熱い滾りを制御することができない。

ぎゅっと奥歯を噛みしめて、眼を見開いて、そして僕は鼻で大きく息を吸った。


僕の呟きを聞かなかったことにして、ダイは言った。

「不磨。・・・またな。また、明日。本、嬉しいよ。待っていたものだということあるけれども、ダイがそれを覚えていてくれたことの方が嬉しい」

「そういうのはもっと大人になって、社会人になって、誰かをおだてる時に使った方が良いよ」

「そうだね、そういうことには向いていないからな・・・」

将来か、と彼はぼやいていた。

「明日の天気より将来を気にする小学生というものを、少し体験しても良いのかな」

そんな軽口を叩いて、彼は大きく伸びをした。脇に挟んだままの本はまた大事そうに、手の平で掴みなおしていた。


「届けてくれたお礼をしないといけないな」

僕が絶句しているので、今度はダイが話題を切り替えた。

僕は首を振った。

「いらない」

「それじゃ、出世払いにしてくれ」

「そうする」

「不磨が覚えていてくれよ。きっとだ」


それからそこで、本当に行くよ、とダイは言った。

僕ももう帰る時間だった。


「礼には及ばない。でも・・・・僕と別れるときにはダイは『またな』と言ってくれることだけ、希望しておく」

「・・・出世払いじゃないの?」

「出世するかどうかわからないから」

僕とダイはそう言って笑った。

おだてることが苦手なダイと、出世が見込めないと言った僕の将来は、どうなるのだろう。

でも僕たちにはまだまだ可能性がたくさんあるからこそ、そんな会話ができるのだとお互いがわかっていた。

そしてそんな話をする時期は限られた僅かな瞬間しかないのだということも、わかっていた。

「じゃ、帰るよ」

僕はそう言った。

別れの時には笑顔で別れよう。

それはいつも思っていることだった。次を約束しているときには、特に。

「またね」という言葉には笑顔を添えなければ、効果が半減する。

次も逢いたいと思うから。

また、笑ったダイの顔が見たいから。


・・・でも、僕がそう思っているだけではなかったのだとダイが教えてくれたから。

僕も、笑顔で別れることにした。

涙がたまっている瞳だったと思う。

でもダイはそのことについては、何も言わなかった。


ごめんよ、ダイ。

僕は僕の不安を、ダイを蔑むことで紛らわそうとしていたんだ。


彼が望んだことを叶えてやろうとして、神様気取りで約束事を破って本を持っていってやることも。

手の届かない人に手を伸ばそうとして傷ついていることを、自分の特権みたいに思って、訳知り顔で、立ち会ったことも。

すべて彼のためではなく自分のためだったんだ。


でもそれは違っていた。


ダイは最初から傷ついていなかった。

ダイはルールを破ってまで何かを望んだりしない。


誰かを傷つけても自分は傷つきたくなかったから。


「・・・誰かのために、何かをできるって、素晴らしいよね、不磨」

彼は別れ際にそう言った。

そして、次には勢いをつけて「また明日!」と叫んで、小走りに建物の中に入っていってしまった。

もし、彼が僕を見送ると言ったのなら、僕はいつまでも動かないでいるだろうと思ったのだろう。

実際、そうなってしまいそうだったから。

そして・・・僕の困惑したような何とも言えない表情をダイは見て、そして、だから、行け、と言ったのだ。

そうやって誰かの背中を見送ることも、誰かの背中を押してやることもできるダイは、これから一体、どんな大人になるのだろうかと思った。

僕たちは同級生なのに。


僕はずっと年を経てしまった年上の大人のように、彼を見つめていた。

これから輝かしい将来という名前の光が、小走りで去っていくダイの背中で輝いているように見えた。

薄灰色の空の下で、彼だけが明るく燦然と光を放っているようだった。

こんな薄暗い空なのに。


・・・僕は眩しくて眼を細めた。


この時初めて、僕は自分の名前のように・・・ダイが千載不磨に名を残す何かを為し遂げることができますように、と祈った。



あの人とダイは長い時間を一緒に過ごしたのだと聞いた。

だから、あの人の光が、ダイに入り込んで、そして光の種となって、ダイに息づいているのだと思った。

雪の種は形を変えて、彼の中に入り、芽吹き、そして光になった。

いつか、僕も・・・彼のようになれるだろうか。


誰かのために、泣いたり怒ったりして、誰かのために、何かをしようと自然と躰が動くような、そんな大人になれるだろうか。


僕がダイと過ごした最後の冬がそれで終わった。


そして、もう、ダイと冬を過ごすことはなかった。


それから、案の定、ダイは高熱で失調してしまい、2週間も学校を休んでしまったのだ。

授業がほとんどないと言っても、2週間も寝込んでいて、それでも本調子に戻れずにいたので、結局3週間ほどダイの姿を見ることが出来なかった。

加えて、ダイと入れ替わりに今度は僕が流感にかかってしまい、登校禁止になってしまったのだ。これも10日ほどかかった。

互いに、互いの休んで居た時のノートや連絡物を届けに毎日相手の家に行ったけれど、うつるかもしれないと言われていたので、僕たちは結局・・・3月に入るまで顔を合わせることはなかった。

電話などでは話をしたけれど、僕は喉もやられてしまっていたので、最後はほとんど話をすることができなかった。

でも、それでも不満に思うことはなかった。


だって、僕たちは「またね」と挨拶したから。約束したから。

今でも、思い出すと胸が苦しくなる。

大人になったら、こういう記憶は懐かしいという想いだけ残ると思っていた。

今でも、時折苦しくなる。


ダイ、君の言ったことは本当だった。

永遠に同じものはない。

絶対に変わらないものはない。

あの時に感じた痛みも疼きも、和らぐどころか、ますます僕を切なくさせる。

切ないという気持ちを知ったから、僕は大人になったのだろうか。


この苦しい泣き出しそうに成るほど熱い物思いは、僕の中で、薄れるどころか、もっと違う強烈な痛みとなって僕の中に残った。


・・・結局、僕は卒業式にも出席できずに、ダイと別れなければならなくなってしまった。

そのことを詫びようと思ったけれど、保護者同士の挨拶で終わってしまった。

僕の住んでいる場所は引き続き我が家の所有であったから、いつかまた戻ってくるという気安さがあったのかもしれないけれども。

それでも。

僕はちゃんとお別れを言いたかった。


いや、違った。

またね、と言いたかった。

さようなら、ではなく。

また今度、と言って別れたかった。

その時にはもうメールもモバイルもだいぶ発達していたから、すぐに連絡が取れるという気安さもあった。


でも、冬休みや夏休みの別れとは違う。

本当に、逢えなくなってしまうことすら可能性としてあり得るのだ。

それなのに、ダイは毎日いつもと同じように連絡事項とプリントと課題と、それから、お大事にと書かれたメモだけを遺して行った。

卒業式間近の最上級生なんて、やることはほとんどない。荷物も僕は、年明け早々にすべて持ち帰ってしまっていたから教室には僕の痕跡は出席簿に残る、ふりがなのついた名前だけであったはずなのに。

ダイは、いつも同じように僕の家にやって来て、決して逢うことが出来ない僕のために荷物を運び続けていた。


それがどれだけ嬉しかったのか、僕は伝える余裕がなかった。

***千載不磨14


僕とダイの別れはとても呆気ないものだった。

別れとは、それほどの素っ気ないものだと思う。


もともと、卒業式の日には僕はそこに居られないことはわかっていた。

だから、担当教師は僕を呼び出して、様々な書類を渡したのだから。


僕がようやく起き上がれるようになった時には、あいにくと週末のことで、そして僕はここを離れなければならなかった。

少し延期しようか、と言われたけれども、僕はそのまま予定通りに出発しようと言った。

どういうわけか、また、すぐに逢えるような気がしたから。

その代わりに、ダイに手紙を書いた。


今時手紙を残すなんて、時代錯誤もいいところだ。

何でもメールや電話で話が通じてしまう。

でも、僕は、僕だけしか紡ぐことができない紋様としてそれを残したかった。

読んですぐに捨てられても構わない。

でもダイならそれをしばらくの間は残していてくれると思っていた。

思い上がりかもしれないけれども、ダイはそういう人なのだと思っていた僕の認識は、間違っていないということを証明したかったのかもしれない。


とうとう、僕が登校することなしに卒業しそうだということを担任は公表したらしい。

僕の家には・・・カードが届けられていた。

僕は連絡先を書かずに、そのまま一言だけ「またな」と書いて皆に返却するように手配してもらった。

それがダイが預かってきたカード達だと知って、僕は苦笑した。

僕は誰の記憶にも残らないのだろうと思っていたし、そういう風に振る舞ってきたので、きっと、ダイが皆に声をかけたのだろうと思った。

そういう時には妙に気を遣うダイは、将来、人の事ばかり気にして損な役回りばかりを受けるようになるのだろうな、と思ったが、素直にそれを受け止めることにした。

ダイの好意を過ぎた真似だと思うほど、僕はこどもになりきれなかった。


出発は、朝早くだった。

僕は長い間ここで働いてくれていた使用人の人たちに軽く挨拶をした。

彼らは少し涙ぐんでいたけれども、引き続きここで定期的に働くことは約束されていたので、僕がまた戻ってくるのだ、と思っているらしかった。

ここには、僕はもう戻らないだろうと思っていた僕の予想に相反した考えでもって、彼らは僕とまた逢えるから、いってらっしゃい、と言った。

僕はうん、とだけ言った。


今になって考えれば、とても素っ気ない僕の卒業だった。

成績表や配られなければならない連絡事項はすでに保護者の元に郵送されていたし、卒業証書も、後日送られてくることになっていた。

そういう紙面は単に事実を証するだけで、もう一度見てみようという気持ちになれないだろうから、僕は、それらに固執することはなかった。

これはいつの時代の卒業でも同じなのだろうと思った。

実際そうだった。

感慨に耽ることはない。それが僕なのだ。

不磨という名前の通り、淡々と長い時間を過ごして生きるだろう。

でも、僕はその中でも、ダイと過ごした時間を忘れないと思った。

ダイだけではない。

彼が居た教室の雰囲気や、放課後の遊び、そして図書館の本の匂い、音楽室に並んだ音楽家達の肖像画のプリント・・・・

ひとつひとつがきっと、いつか、宝物のように大事な思い出になれば良いのに、と思った。

今はまだ記憶でしかないけれど、それはいつか、思い出になるのだろうか。

それが大人になるということなのだろうか。


そんなことを考えていた。


あれほど親しいと思っていたダイとの別れがこれほど淡彩であるとは思っていなかったけれど、別れを惜しんだあの雪の日のやり取りがあったので、もう、それで良いのだと思っていた。

僕は、誰にも会わない朝を選択した。

もう、季節は春になっていた。

朝の空気は澄んでちょっと寒かったけれど、僕の病み上がりの躰に障る程ではなかった。

すでに長くなった日が顔を出していて、僕の家の玄関前を明るく照らしていた。

この太陽のように、永年を輝かしく生きろ、という意味を持つ僕の名前が嫌いだった。

でも、今度は、誰かに自分の名前を問われたら、胸を張って自分に込められた願いを言うことができるだろうと思った。


それはダイが教えてくれたからだ。

誰かのために、怒ったり泣いたり、幸せを願うことが、どれほど素晴らしいことなのかを。


きっと、「あのひと」が教えてくれたのだろう、と思った。

彼にそんな素敵なことを教える人は、いったい、どんな人なのだろうか。

僕はいつか、きっと、その人にも逢えるのだろうと、何となくだけれども予感していた。


ダイ、またね。また・・・逢おう。

僕は家の玄関を出るときに、そう思った。

名残惜しい気持ちはあった。

でも、必要な荷物はすべて運び出してあったし、今日の僕は身体一つで出発するだけだった。

旅行に行くときより簡単な出発だった。


外には車を待たせておくから、という手筈になっていたけれど、予定されていた僕の出発時間より少し遅れると連絡があった。

だから僕は玄関先で、のんびりと・・朝の陽光を眺めながら、物思いに耽っていた。


ダイには、昨日のうちに、手紙を添えて投函していた。

それから、卒業の時には、大きな花束を彼の家に届けてもらうように頼んでおいた。

きっと、驚くだろう。

これまでのお礼のつもりだったけれども、もので表現することのできない僕の気持ちは、手紙にしたためた。

言葉を選んで、幾度か書き直したけれど、全部を伝えることは難しいと気がついて、ただただ、ありがとう、と伝え、連絡先と、僕のメールアドレスを書いた。

そして、入学まで少し時間があるので、ゆっくり養生するから、またいつか一緒に遊ぼうと書いて、最後に、「またな」と書いた。


僕は空をまた、見上げた。

あの時のような、雪の種の落下を予想させるような空でも雲でもなかった。

もう、季節は春だった。

まだ柔らかいけれども、季節は確実に巡っているのだと思った。

この瞬間のこの僕の気持ちは、次に同じように春の朝の空の下ではもう、同じではないだろう。

だからこそ。

忘れてしまうことを畏れずに、ずっと記憶していたいと思うことが大事なのだと思った。


ダイが僕を忘れたって良い。

僕がダイを好きで、僕が忘れたくないと思っている事の方が大事なのだから。


僕が玄関先の花々と別れを告げて、少し遅れているという車

その時だった。

「不磨!」

ダイが居た。

僕は驚いて、目の前のダイをしばらく凝視していた。

こんな朝早くに、ダイは、僕の家に来た。

すぐに僕は笑顔になった。

彼が見送りに来てくれたのだとわかったから。


別れの時には笑顔で。これは大事な決まり事だ。

「やぁ、ダイ。おはよう。はやいね」

僕がそう言うと、ダイは少し怒ったように言った。そして僕を責めた。

「今日の出発だって、どうして知らせてくれないんだ」

「知らないのにここに居る理由がわからないな」

僕がそう切り返すと、彼は眉を顰めて僕を見た。

見れば、彼の愛用している自転車が、僕の家の壁にもたれ掛かっていた。

僕が出てくるのを待っていたらしい。季節は春でも、まだ朝は冷えるというのに。

「風邪がぶり返すよ」

「不磨こそ、こんな朝早くに出発だなんて。まだ本調子ではないのだろう?」

気管支が弱くて僕がいつも咳き込んでいることをダイは知っていたらしかった。

「今日は大丈夫。ダイがいるからかな」

僕はそう言って微笑んだ。

ダイに出発の日を教えたのは、この家の使用人の誰かだろう。

なぜなら、僕とダイの会話を尊重して、見送りに玄関先に出ていた人々や、車の扉を開けて僕が乗車するのを補助しようとしていた運転手さんまでもが、姿を消していたからだった。

それを裏付けるような言葉がダイの口から出てきた。

「日参して、不磨の家の人に、ようやく聞き出せたよ。なんで、口止めするんだよ」

「こうやってダイが来るだろうと思ったから」

僕は笑った。よくあるワンシーンを演じるつもりはなかった。

このまま見送られたら、彼は、二度も誰かの背を見送ることになる。

「まったく、口の軽いおとなは困るな」

僕は肩を竦めた。

「そう言うな。こちらがしつこく聞いたからだよ」

ダイが苦笑してそう言った。

そして、僕の方に近寄ると・・・ぽんぽんと僕の肩を叩いた。


「もう時間だろう?」

「うん。でも車の到着が遅れていて、搭乗時間に間に合わなくなりそうなので、あまり話ができない」

「それなら、これを持っていってくれ」

ダイは、肩にかけていた鞄から、一冊の本を取り出した。

・・・それは僕がダイのためにこっそり借りていた本だった。しかしそれは新品だった。


彼は読んだ本を、もう一度買い直したのだろうか。

「家の手伝いをして、小遣いをためて、買った。・・・卒業まで借りられないと思ったから、自分で買おうと思って」

「でも読んだだろう?」

「不磨は読んでないんだろう?僕と同じくらい愉しみにしていたこと、知ってるよ」

ダイがそう言ったので、僕はちょっと笑った。泣きそうになった。

彼は何もかも、お見通しだったのだ。

僕はその本を受け取った。

ありがとう、と言った。

ダイはやっぱり凄い人だ。

僕はそんな人の友達だと思い上がっていた自分が恥ずかしかった。

そして、彼と知り合えて良かったと思った。


「道中長いだろう?だから退屈しのぎに」

彼は笑ってそう言った。僕はそうするよ、と言った。

僕たちの会話はとても短いけれど、それだけで十分だった。

「そろそろ行くよ」

そう言うと、ダイはちょっと肩を持ち上げた。

「車がこんなに遅れるとは思わなかったから。不磨を急がせてしまった。ごめんよ」

・・・彼が不思議なことを言うので、僕は吹き出した。

日差しが移動してきて、玄関先の日だまりは、僕とダイの上に降りかかってきた。

暖かい日差しだった。

もう、季節は春だった。

あの雪空の冬は過ぎ去ってしまっていた。


「なんだよ、それってダイが僕の家の車をわざと遅らせたみたいじゃないか」

そう言った僕の言葉を肯定も否定もせず、ただ笑っているダイの顔を見て、彼が僕と話をするために、この本を渡すために、何か細工をしたのだと気がついた。

「・・・ダイ、何をやったの?」

「何も」

「ウソつけ」

僕が軽く睨むと、ダイはくすりと声を漏らして笑った。

「僕は本当に何もしてないよ。・・・ただ、この通りを、フランスの要人が通るっていうんで、通行止め箇所がたくさんできてしまったことを、ちょっとだけはやくみんなより先に知っていただけ」

「・・・それって、ダイがそう仕向けたの?」

「人聞きが悪いな。ただ、時差で眠れないと言っているある人物に、朝早く来るなら、あいつの部屋の合い鍵を渡してやっても良いよ、と取引しただけ。

・・・・加えて、その時間しかこちらに来てはいけないよ、と念押ししただけだ」

呆気にとられていた僕に、ダイは片眼を瞑って、悪戯っ子のように無邪気な笑顔を浮かべた。

「内緒だよ」

僕がかつて言ったように、彼はそう言って笑ったので、僕もつられて笑ってしまった。

ダイにはやっぱり、叶わない。

彼なら本当に実現しそうだった。そして本当に実行したのだろう。

彼の人脈についてほとんど知らないことに気がついた。

狭い校舎を出た、広い世界を知っているダイの背中を見送ってやりたかった。


「・・・ほら、行けよ」

彼が僕の肩をまた軽く叩いた。

「うん」

そしてダイと僕は、自然と、握手を交わした。

おとなの挨拶だと思っていたけれども、僕とダイは、どちらがどうということでもなく、自然と・・・握手を交わしていた。ダイの手は少し冷たかった。

ずっと、待っていたのだろうと思った。

玄関を鳴らせばよいのに、朝早いから、と遠慮した彼の心を考えただけで頭が下がる。


「ダイ。・・・また逢おう」

僕は彼と手を離すと、そう言った。小さい声で。

彼もまたな、と言った。


言いたいことは手紙にしたためたつもりだった。

しかし、その言葉すら、今の握手ほどにはすべてを伝えきれなかった。

どうしても、どうしても。

彼の友達でいたかったから、僕は彼と最後まで会わないことを決めたのに。

それなのに、ダイはこうして会いに来てくれた。

それだけで、満ち足りた。

いつか、彼が、困った事態に遭遇したら。何かに悩んだら。

今度は、僕が彼の背中を見送ってやろうと思った。


誰かのために何ができるだろう。


僕はこのこたえを胸に秘めて、これから大人になっていくのだろうと思った。


本当に時間が迫ってきたらしく、運転手が乗車を促すために、扉を今一度開けてエンジンをかけた。僕はダイに背中を向けて、ゆっくりと車に乗った。

「ダイ。この本の感想文を書くよ」

「そうしてくれ」

分厚くて、読み込むまでには大変に時間がかかりそうだけれども、それでもダイが僕にくれた贈り物は、本の文字だけではない何かを乗せて、真新しい表紙の光沢を放っていた。

膝の上に大事に置いた。

そして、車の後部座席から、僕はダイの姿を見た。

彼はいつまでも僕を見送っていた。

運転手さんが気を利かせて、ゆっくり走ってくれたけれど、間もなく曲がり角にさしかかって、すぐにダイの姿は見えなくなった。

彼は手を振らず、ただ、僕を見ていたようだった。

僕もダイを見ていた。手は振らなかった。

だって、また逢えるのだから。


僕はダイの姿が見えなくなると、急に暖かい車内に入ったせいで、少し咳き込んだ。

けれども、膝の本は、決して手放さなかった。


・・・ダイの言うとおりで、朝早い時間であるのに、大通りは騒がしかった。


彼の言ったとおり、大使館送迎で、この辺りでも滅多に見ることのできない大きな車両がゆっくりと凱旋するかのように、走っていくところに出くわした。

一車線通行しかできなくなっているので、運転手が時間に間に合うかどうかぎりぎりだと言ったので、僕は笑った。

ダイの魔法だ。

僕はそう思った。

だから、遅れてもいいよ、と少しばかり鷹揚な気持ちになっていた。

僕には時間がある。

けれども、今日のこの時間は二度と繰り返さない。

だから、すこしばかり・・それを噛みしめて味わってみようと思った。

道路は込んでいて、運転手さんは少し苛立たしげにハンドルを小刻みに動かしていた。


僕は、膝上の、ダイの温もりが残っている本をゆっくりと開いた。


この感想文を書いて、ダイに届けるのと、ダイが大きな花束と手紙を受け取って困惑気味な顔をするのと、どちらが先なのだろうか、と思いながら。


FIN




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