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D-side 溟沐 後編
D-side 裾上げ 前編
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D-side 畢竟 前編
D-side 畢竟 後編
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Trick OR・・・ D-side 後編
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F-side 不磨 後編
F-side GRAFFITIと落とし文 前編
F-side GRAFFITIと落とし文 後編
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O-side 白雨_朧雨 5/6
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P-side 後編
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Q-side 暁霧 2/4
Q-side 暁霧 3/4
Q-side 暁霧 4/4
R-side
R-side あからめ
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S-side 03 深浅
S-side 04 紫電
S-side Trick OR・・・ 2011
S-side うくわ
S&B-side いなのめ
S-side 炎熱 前編
S-side 炎熱 後編
S-side 炎熱2013 前編
S-side 炎熱2013 中編
S-side 炎熱2013 後編
S-side Balneum Scipionis. 前編
S-side Balneum Scipionis. 後編
S-side 成ぎ
桜蘂
T-side
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U-side 闇蝉 後編
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W-side Devarana 後編
W-side 弄火
W-side くもり、のち
Z-side 瑞祥 前編
Z-side 瑞祥 後編

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S-side 炎熱 後編

■14

彼が彼女を胸の中に包むと、彼女は黙って静かに彼の胸を背中で感じているようであった。
関節痛が残っているので、健やかな眠りが訪れないのだろう。
彼女は、回された青磁の腕に自分の指を添えた。

「・・・ここから先は、オレの独り言だから、黙って聞いてくれていれば良いよ」
青磁はそう言って、彼女に話しかけた。

・・・室内は静かで・・・物音すら聞こえない。

こんなに、この家は静かであっただろうか。静寂を耳に、青磁は眼を瞑り、彼女の髪に顔を埋めながら、言った。
「君がここでの遣るべきことに区切りをつけたら、オレは君を連れて行きたいと思っている。仕事をしたいのであればそれでも良い。何かを学びたいのなら、それも良い。でも、今でなくても良いから・・・いつか、オレと暮らして欲しい」
彼女の返事はなかった。
「オレの代で、マクドゥガル家の紋を変更する。・・・これは一度、静流という人物の代の時に行おうとしたけれども、希代の傑物と言われた彼でもできなかったことだ。当主の座と君を天秤にかけるようなことはしない。でも、理由があって・・・どうしても、紋を変更したいと思っている。
たかが紋だけれども、当主でなければできないことだ。
・・・君に、オレが為すべきことをやり遂げることができるように、支えて欲しい」
そして彼は目を閉じたままで・・・彼女の身体を抱き締めながら、言った。彼女の温度を感じながら、彼自身に言い聞かせるように言った。
「それから・・・今日は君に悲しい思いをさせてしまったことを、オレはとても反省している」
そこで初めて、彼女の肩がぴくりと動いた。青磁に顔を見せないようにしているのは、きっと・・彼女が苦しいのだろうと思った。自分と同じ様に、胸が苦しくて・・・高熱があるのに眠れないほど、苦しいのだと思った。

彼女が月夜を見上げながら考え事をしていたのは、おそらくそういったことも含めて、あれこれと考えていたのだろうと思われた。

「不安にさせてすまない。哀しい思いをさせてすまない。でも、オレは君のことが・・・・」
「もう、いいよ」
彼女がぽつりとそう言ったので、青磁は話をやめた。
彼女の小さな吐息が、彼の腕に降り注がれた。そして彼女は肩で大きく息をした。
「・・・青磁の朝顔になると返事をした時。それで全部を回答したつもりであった」
彼女も囁くように掠れた声で言った。いつもの口調より、ゆっくりとしていた。

「留学中の間だけでも良いと思っていた。
それで終わるなら、それまでだと思っていた。
だから始まっていないフリをしていた。
ずっと・・・ずっと。青磁が待っているのを知っていたのに、ずっと待たせた。だから、それで青磁が待ちくたびれて、離れてくれないかと思ったこともあった。その方が傷つかないで済むと思った。
でも、青磁は今日・・・私のことを婚約者だと言った。
長い時間付き添ってくれて・・・・なぜ、診察結果を自分が聞けないのかと言った」

そして彼女は彼の腕を取ると、そっと・・・彼の掌を、彼女の下腹部に導いた。
「よせ」
彼は拳を握った。
彼女の肌に触れてしまえば、彼の理性は彼女の炎熱の前で、呆気なく溶かされてしまう。
彼が貸与した部屋着の布感があった。
しかし、彼女の大腿から下は素足であり、彼は彼女の肌に触れないように配慮しながら彼女を抱いていた。
彼女は淡々と語った。
「・・・そういう時が来ても、良いと思った。別々の路を選んでも、それでも良いと思っていた。もし・・・私がひとりではなくなったのなら、青磁がどういう反応をしても、受け入れようと思った」
「君にそうさせたくない」
彼は声を震わせながら、言った。
なぜ、彼女は別れを前提として物事を考えるのか、理解できなかった。
彼の心が離れると思ったのだろうか。
彼が帰国すれば、彼女のことを忘れると思ったのだろうか。
「・・・オレは諦めが悪い。君を諦めない。諦めるのはやめたと言ったはずだ」
彼女の指に青磁は指を絡めて・・・そして軽く持ち上げ、彼女の指先に唇を寄せた。今、こうしてベッドに横たわっていなかったのなら、彼は彼女の前に跪き、彼女の手を取って頭を垂れただろう。
彼の育った地域の風習であった。マクドゥガル家の麒麟と呼ばれる男児が他の家の女性に向かってそうするときは自分より高位にある者への敬服の証であった。今では、膝を折る姿が獣の求愛の仕草と似ていることから、愛する者への永遠の誓いと・・・それから婚姻の申し込みと同義だと看做されていた。
彼は彼女の髪の上から、細い項に唇を寄せた。
息が止まりそうなほど苦しかった。
 
■15

「オレは君をこうして抱きしめることをやめない。君が嫌だと拒まない限り」
残酷なことを言っていると思った。
彼女にも希望する将来があり、青磁と出会わなければ、それはこの国で実現される具体的な未来であったはずなのに。
一緒に来てくれるだろうか、と尋ねなかった。
青磁は、彼女を連れて行く、と言った。

「その時を迎えることについて、私は不同意してはいない」
彼女はそう言って溜息をついた。
彼と重ねた指先も熱く、力が入らないようであった。
「・・・同意しているって言えないのか?」
彼が呆れてそう言うと、彼女はおかしそうに笑った。
「肯定してはいけないのが定法なの」
青磁は彼女の身体を少し強く抱いた。絡ませた指が壊れないように気を付けながら、彼女の手の平を彼は改めて包み直した。
そして彼女名前を呼ぶ。彼女の名前を口にするだけで、彼は堪えがたい激しい勢いの潤びを感じるのだ。

「在学中に、婚約式だけでも済ませないか。君の親にも会いたい」
彼女はその言葉には無言であった。青磁は、目の前の女性が大変に強情な人物であることを承知していたので・・・その話はまた次回に持ち越すことを決めた。彼女が失調しているときに、こんな話を持ち出すのはフェアではなかった。
しかし、一日でも早く・・・彼女を彼だけの朝顔にしたかった。名実共に。
彼女はすっと息を吸って、彼女の身体を囲う青磁の腕に額を寄せる。

この時代になってなお、家や倣いに縛られている青磁は、彼女には滑稽に映るかもしれない。けれども、彼には彼の代で解決しなければならない問題があり、厭わしいとされた過去を浄化し、そして・・・・朝顔がひっそりと咲く、離れた場所に埋葬された在る人物の亡骸を、昔の当主であった誠次・マクドゥガルという人物の妻として埋葬しなおしてやりたかった。
そして、静流の代からもっと昔に遡るほど古えの時代からの願いであった・・・麒麟の紋に、新たに紋様を加えることに挑戦したかった。
提案権は、当主しか持っていない。
青磁だけではなく、代々・・・幾度も反対された。
それには理由があった。
麒麟の紋様には秘密がある。
彼の耳で輝く麒麟の紋にも同じ様に・・・マクドゥガル家の男子だけに託された秘密があった。その紋を変更するというのは、託された問題が解決することを意味する。傑物と言われた静流も倬登も、それを解決する時間がなく次に託して、逝去した。
それを、彼が・・・現代になってようやく解決する時を迎えようとしている。
ひょっとすると、彼ではなく、彼のこどもの時代になって、解決するのだろうと思われるくらいの長い年月が必要とされていた。
だから、紋を託すのは男子だけではなく女子にも託したかった。
変更できる権限を持っている間に、彼は、彼の持っている、生まれる前から託されている問題を解決したかった。
それが、彼が生まれて来た理由であり、彼が彼の人生として定めたものだから。

だから、生国の、親族の奨める地元の子女では駄目なのだ。
あの因習を普通として育った者には、これは理解できない。
彼と苦楽を共にし、彼の信念を理解でき、意見することができる者でなければ、彼の傍らにいることはできない。
それに、彼女には強力な後ろ盾があった。本人はそれを承知していなかったが、いつか、それを利用しなければならない時が来るだろう、と思っていた。
そういう、政治的な打算を含んでいることを、彼女は承知していた。
彼女にはすべてを話していた。
いつか・・・彼女と別れる時がやって来たとしても、彼女なら彼の話した内容を、語り継いでくれると思ったからだ。そうはならないことを期待して話したという前提があるが。
彼に真実を話してくれた、フランスに居るホテル王の悲願を叶えたかった。
彼が再び・・・マクドゥガル家の敷地の土を踏むことが、青磁の長年の願いでもあった。
彼と同じ・・・麒麟のピアスを持つ者は、既に、朝顔の刻印を入れていた。

「・・・すまない。オレの都合ばかりだ」
青磁は素直に認めて、今の話はなかったことにして欲しい、と言った。
「復調したら、きちんと話そう」
彼はそう言って彼女の躯を抱き寄せた。
彼女の肌の湿りを知ってしまった。
もう・・・それを思い出さないで眠る夜はやって来ないのだろうと思った。
「・・・・婚約?」
静かに、彼女は青磁の言葉を復唱した。
彼はその話を終えようとしていた。彼女をそろそろ休ませた方が良かった。
自分の思惑ばかりを語ってしまった。こうやって事情を聞いてしまえば、ノーと言いにくくなることもわかっていた。でも、どうしても・・・彼女が腕の中にいるうちに、彼の気持ちを伝えたかったのだ。
「・・・・それを捨てたいほど、君を愛していると言いたいのではなく、それを実現できると思うことができるほど・・・君を好きになってしまったと言いたかった」
彼はそれだけ言った。
後は彼女の判断であった。厭わしいと思われたら、それまでであった。
 
■16

彼は彼女の躯を抱きしめた。・・・彼の方が、震えていた。
彼女の髪の香りがした。彼が使っているものと同じ香りであった。こうして、溶け合ってしまいたいとさえ思っていた。
愛おしさが募り、狂おしくなって、彼は彼女の体調のことを気遣えなくなりそうだった。

しかし、やがて彼は彼女の縛めを解いた。
「・・・ゆっくり眠って欲しい。自分のベッドと勝手が違うから違和感を感じるだろうが・・・少しずつ、慣れてくれると嬉しい」
すると、彼女が身体を動かして、青磁の方に向き直った。躊躇ったような仕草であったが、彼女は彼の胸に自分の頭を擦りつけた。・・・彼女の片腕が彼の背中に伸ばされた。もう片方の手は、彼に向き直った後、彼と彼女の躯の間で軽く重ねられた。
「・・・・同じだよ」
彼女は囁いた。

「青磁と眠る時はどこで眠っても、同じだよ」

それが彼女のこたえだった。連れて行きたい、と言った青磁へのこたえだった。
彼と眠る場所はどこでも良いので、彼が傍に居ればそれは変化しないと言ったのだ。・・・遠回しに、彼女は彼の申し出を承諾してくれたのだ。
青磁は、言葉を詰まらせながら、彼女の言葉にこたえた。

「オレもだ。・・・君と眠る時は、どこでも同じだ・・いつでも同じだ」

彼は彼女の身体をさらに自分に寄せた。
しかしそれは一瞬で・・・すぐに、彼女から離れた。
「頼む。・・・オレ、このままだと本当にどうにかなる」
あどけない彼女の顔を見つめているだけで良かったはずなのに、どうにもならない衝動が彼を再び乱そうとしていた。
彼は身体を起こした。彼女は相当倦怠感を感じているはずであった。
口調はゆっくりで、緩慢な瞬きを繰り返している。
「・・・また戻ってくる?」
彼女の言葉に、もちろんだと言って青磁は頷いた。もう、ゲストルームで眠るつもりはなかった。途中で目を醒ました時に誰も居らず、自分の部屋ではない場所で目醒めたのであるなら、心細くなってしまうだろう。
彼の背中に回された腕が、ゆっくりとベッドの上に乗った。
「君が嫌だと言っても、また来るよ」
彼はそう言って、優しく彼女の手の平に自分の指先を載せて、彼女の熱い手の平をなぞった。
あと少し一緒に居れば、彼女の意識や望みは関係なく、彼は彼女を自分の情欲のために犠牲にしてしまうだろう。それは間違いなく訪れる。
・・・少し冷静になる必要があった。

心と体は違うと認識しろ、と言われるがそれでも・・・彼女に惨いことはしたくなかったし、自分を律することができるように教育された。
けれども、どうにも・・・彼女に対してだけは、彼は自分のこれまでの認識を改めないといけないほど、夢中になってしまっているように思える。
それでは、駄目なのだ。
一時の恋情だと判断されては、彼女を連れて行けない。
彼女が言っているように、留学中の特殊環境の中で恋愛と錯覚しているだけだと誰もが言う。
そうだと言わせないほどの彼の変わらぬ希望を提示し続けなければならない。

仄暗い闇に取り込まれてしまいそうになり、彼は意を決し、ベッドから完全に身体を起こした。
「・・・早く良くなってくれ。そうでなければ、君をここから出せなくなる」
それは彼の正直な言葉であった。
わかってないよな、と言いそうになった。
だからこそ、彼女に青磁を知って欲しかった。

・・彼女をわかりたいと思っていたのに、彼は彼を知って欲しいと同時に思うようになった。

彼女の秘めたる思いを聞いて・・・彼は彼女の心を聞いた。
彼女が、じっと・・・彼を見つめて、少し眠ると言った時、彼はそうしてくれ、と言った。
すぐに・・・
彼女の瞼が閉じられ、やがて苦しそうな寝息が聞こえ始めた。

肺を鷲掴みにされたような気分だった。
愛おしくて、切なくて、そしてとても安らかという言葉と遠い状況であった。
それなのに・・・彼女の言葉で彼は歓喜に打ち震えるのだ。

彼がこれから背負うべきものをすべて話した。在学中にあえて話すことで、彼女に考えて欲しかった。
一時の感情ではないことを。
手軽な恋愛ではなく、周囲の者が持て囃すような気軽な御伽話などではないことを。これから先は、楽しいことばかりではない。憂鬱になるような場面もあるだろう。だが・・・それでも、彼女は考えて、長い時間をかけて、感上げて・・・・彼に応えた。それが、嬉しかった。
今は、素っ気ない彼女の返答さえ、愛おしくて何もかもを記憶していたかった。
■17

結局、彼女は昏々と眠り続けて・・・丸2日、ベッドで過ごした。
水分補給や服用の時間などは起き上がるが、それ以外はいつも横たわって、言葉もなくただ眠り続けるだけであった。
倒れた翌朝には熱が下がっていたが、かなり疲労していたらしい。
それを補うかのように、彼女は眠り続けた。

大学院が休みであったので、彼はその間、彼女の傍に居た。
有事に備えて、彼は外出することを控えて、ネットで宅配を依頼した。
このマンションでは、ロビー階でそういったものを受け取り手配する。
そして定時に訪れる荷物の受け取りの気配に彼女が眼を醒ましてしまわないかということだけ気を配った。
彼はその間、いくつか論文を書き、彼女が汗を流すためにシャワーを浴びている間にシーツや毛布を取り替えた。
熱が完全に下がっていたので、後は疲弊した内臓が復調してくるのを待つばかりであった。

静かな時間が流れた。
彼はひとりで過ごす時間よりさらに静かな時間を迎えることになった。
彼女と過ごしているからなのだろうか。
彼女は眠り続け、時折彼の名前を呼ぶ。
便利に使う為ではなく、無意識で彼の所在を確認しているのだ。
彼女が眠り続けてしまうほど、様々なことを思い悩んでいるのかと思うと、彼は胸が痛んだ。

そして二日目には起き上がれるようになった彼女のために、さすがに、できたての温かい食事が必要だろう、と思い、彼は自宅から少し歩いた場所にある閑静な住宅街の中のパン屋に出向き、失調している者でも口に入れやすいものを注文した。ポットパイを包んでもらい、温め直さなくても良いように保温剤を入れて貰い、サービスで上階の喫茶店から分けて貰った珈琲を付けて貰った。
だいたいの設備は彼の家のキッチンに備わっているが、彼女の口に合うものは、青磁の調理するものであるより、やはり、この国のものなのだろうと思った。
その時に初めて外出し、彼は路の途中で、久々に・・・ベンチに座り、喫煙した。この地域はまだ禁煙ではなく、公道でも特定の場所であれば喫煙可能であった。
・・・煙草が恋しかったわけではない。
ただ、ここ数日のことについて整理する必要があった。

青磁は、自分がこれほどまでに甲斐甲斐しく誰かに尽くす自分を想定していなかった。そして、彼女と、これまでになく最も長い時間を過ごし、それは延長し続けている。
これまで、彼女が青磁の家を訪れる時は、用事があって来るときと、用事があってそれが済んだ後に彼がねだって彼女をあの家に留め置くかのどちらかであった。
外で彼女の横顔を見るのが好きだった。
食事の時に、テーブルマナーが青磁と違うかもしれないと言って困惑する彼女の顔を見るのが好きだった。
誰も見ていないかどうかを気にせずに、彼女にキスをする青磁に、困ったように淡く笑う彼女が好きだった。

彼は、唇に乗せた煙草を一度だけ吸うと、そのまま揉み消して吸い殻を捨てた。
嗜好品では彼は癒されない。
ただ・・・思い浮かぶのは、彼女のことばかりであった。
保温を考慮して梱包された手元のポットパイを、温かいうちに彼女に食べさせてやりたかった。
・・・こんな風に、どこの家庭でも普通に思うことを青磁が感じ、それを実践したいと思うなどとは、考えていなかった。
彼が吐き出した溜息は白かった。しかしすぐに淡くなり輪郭を崩して空に上っていく。
そして、それはこれまでの煩累たる思いをすべて・・空に還してしまっているように思えた。
外は冷え込んで、彼は首をすくめる。こんなに冷えれば、彼女を外に出すことはできない。
そして手元の食糧が冷えそうであったので、彼はすぐにベンチから腰を浮かせた。

彼女に対して、配慮することが必要であった。
・・・彼女が、失調する度に、検査をすぐに受けられず、苦しむ時間を持つのであれば、彼は彼女を過ごす夜を放棄できるかと言われれば、それは難しかった。
別の者を抱きたいとは思わない。
彼女を抱けないから、獣のように他の誰かで良いと思うことはしたくない。
幸せにしたかった。そして、青磁は幸せになりたかった。
どうしたらそうなるのか、わからない。
しかし、彼女が居なければ、彼は幸せになれなかった。
それだけは断言できた。

・・・それが最後の恋と信じたがるものだ。
白金の髪の主治医は、そう言うかもしれない。
けれども、その主治医も、最初の恋を最後の恋にしたのだから。
彼は、最後の恋にするつもりはなかった。常に、彼女に恋し続けるのだから。
だから、いつも、彼は恋をしている。彼女に対していつも・・恋に堕ち続ける。
彼女の声が恋しかった。たった数十分離れているだけなのに。恋しかった。
 
■18

自宅に戻ると、玄関先に彼女の靴がなかったので、彼は顔を強ばらせた。
オートロックシステムを採用しているので、彼女が出入りすることに障害はない。かつ、彼女はスペアキーを持っているので・・・いつでもここを出ることができた。

玄関から廊下に入る時に、彼女の名前を呼ぶ。
けれども、返事はなかった。上着を廊下に脱ぎ捨て、彼はリビングに手荷物を置くと、そのままメインルームに入った。けれども、そこに横たわっているはずの彼女の姿はなく、ベッドは綺麗に整えられていた。
彼女の手荷物も、上着も・・・バスルームで保管されていた彼女の衣類もなかった。
・・・バスルームでは、彼女の使用済みの洗濯物が乾燥待機に入っているところであった。
つまり、彼女は青磁が外出して、すぐにここを出てしまったことになる。

彼女が、彼を拒絶しているとは思えない。けれども、帰巣本能が働き、彼のいるここではなく・・・帰りたいと思ったのなら、それは引留めることができなかった。
本気で好きだから。
彼は、困惑した。立腹はしなかった。ただ・・・・怖くなってしまった。
彼女の名前を呼ぶ。
部屋にはいないとわかっているのに。
彼女の名前を呼んだ。
置き手紙を探したが、どこにもなかった。
彼女はこの時代に珍しく、携帯電話を持って歩かない。・・・必要ないからだ。
そして誰かに管理される一方的な通知を持ち歩く必要はないと言って笑っていた。
幻などではない。先ほどまで彼と一緒にいたのだから。
「・・・どうして」
彼は呟いた。
一度家に帰ったのだ、と思うことにしたが、それでも納得できなかった。
看病した彼に何も言わなかったことを責めているのではない。
彼女も自分の必要品がない場所で過ごすのは苦痛であったのだろう。
彼が強引に引留めてしまったから。
しかし、これほど冷えた日に帰ることはないだろう、と思った。
彼女が予言したとおり、今晩には雪になる予報であった。
空気は湿っていたがとても冷たくて・・・彼女が外に出ることに適している空気ではなかった。
彼女はいつも尋ねない。
青磁にどこに行くの、とは尋ねなかった。
だから、彼女も何も言わないで出て行ったのだろうと思った。
でも。
・・・それでも。
そうやって自由に出て行ってしまう彼女を恨めしく思った。
失望したのは彼女に対してではなく・・・自分自身に対してであった。

どれほど愛していても、相手が自分と同じになるとは限らない。
同じ様に愛していても、それが本当に同じかどうかはわからない。
・・・・彼女には、彼女の生活があるのだ。
そこに、無理矢理に介入してしまったのは、青磁のほうなのだ。
どんなに傷ついても、それを彼女に訴えてはいけないのだ。
・・・それでも、彼女を愛しているから。

彼はたった一人きりの部屋がこれほどまでに広いのだと・・・・広すぎるのだと、今更ながらに悟った。ただ、それだけだ、と思うようにした。
彼女が本当は自宅に戻りたがっていたのに、引留めたのは青磁の方なのだ。

彼はベッドルームのシーツが新しく取り替えられている様子を見て、溜息を漏らした。
彼女は彼女の痕跡を残さない。
彼がその余香を恋しく思っていると知っているのか、そうでないのか・・・わからなかったけれども。
戻ったことを見はからって、電話しようと思った。
彼が想定している時間から計算すると、辿り着いたかそうでないかの頃合いであった。

彼女に同じを求めるのは酷な話だと思った。
彼が彼女を求めるのは、純粋な愛だけではなかった。近付いたことにも理由があった。そして、彼女には・・・彼の宿願を成就させるだけの力が秘められていた。
東洋人であること。それから、マクドゥガルのことを少なからず知っている者が近いところに居ること・・・それから、彼女は大変に希有な因縁を持ち合わせている人物であるからだ。彼女の家系も重要な意味を持っていた。

それが理由ではなかったけれども。
それが、彼が恋にと堕ちる理由ではなかったけれども。
何もかもを兼ね備えた人物であり、彼はそれが彼女を愛するようになった後に知ったことであり、すべては彼女を迎え入れるための材料でしかないことを承知していた。
彼女は自由だ。どこに行こうとも、彼の許可を求めることはしない。しかし・・・青磁は、病み上がりの萎れた羽根を持った人が、またどこかで倒れていないように祈るだけであった。
 
■19

その時に、かちり、と玄関のドアが開く音がしたので、青磁はそちらに顔をやった。
安全確保のために、オートロック機能は閉扉後、すぐには作動しない。
再起動するときには、今のような施錠音が鳴るようになっており、侵入者や誤作動への確認を促すようになっていた。
彼はすぐに廊下を大股で横切り、玄関に向かった。
エントランスと言った方が良かった。この階層には、彼の居住区画しか存在しない。だから、人の気配があるということは、彼に用事がある者だけだということであった。

両扉の片側だけを開閉可能にした扉は、それでも広すぎた。重々しく広がる扉の向こうに、彼女の顔を見つけたとき。
青磁はそのまま飛び出した。
「・・・青磁!」
彼女の悲鳴があがる。
外廊下に彼女の悲鳴が響き渡った。
けれども、彼はそれも気にせずに、彼女の手首を強く掴んで、家の中に引きずり込んだ。
強く掴んだ手が持っていた荷物が、玄関に撒き散らされた。乾いたビニール袋や紙袋の音が幾種類か重なり、彼女が何カ所か巡り歩いて買い物をしたのだと知った。
閉じ込めるつもりはない。ここから出てはいけない、と禁じたこともない。
けれども・・・こんな風に、彼女が彼の知らないところで回復している様を見せつけられることがどうにも苦しかった。

なぜなのだろう。
つい、数日前までは・・・彼女が炎熱で苦しむ姿が辛かった。
それなのに、今は・・・彼女が回復して、彼の庇護から離れて行くのが辛かった。

「・・・・出掛けるときには、一言声をかけてくれ」
彼は彼女の冷気を伴う上着を抱えながら、そう言った。
彼女が復調し、出歩くことができるようになっていることに驚愕していた。
彼が出掛けた後を見はからって外出していることにも傷ついた。
・・・青磁は、彼女の腕を掴むと、すぐに上がれと言って靴を脱がせた。
玄関に散らばる荷物を拾おうとした彼女を制止し、手を引いた。
「青磁、痛い」
彼は無言であった。彼女が居ないという喪失感がまだ、胸の中で、空洞になっていた。声を聞いて温度を感じているのに・・・彼女が待つべき場所に居なかったと知っただけで、これほど動揺してしまう。自分は・・・もう、恋に堕ちたのではなく、恋に迷ってしまったのだろうかとさえ思った。

「・・・ちょっと買い物をしに行ったの。駅前だから近くだし・・・」
彼女の説明の言葉は聞こえなかった。
彼の中で滾る、暗い炎がぽつんと灯り始めたかと思うと再び燃えさかり、そしてすぐに大きな情炎となって彼を灼いた。
束縛するつもりはない。
彼女は自由だ。
どこに行こうと、彼女の自由だ。
それなのに・・・彼は彼女が居ないと、とても不安で落ち着かなくなった。

彼が居なくても活動を再開できることを見せつけられて、彼は苦悶した。
彼は廊下の途中で立ち止まり・・・上着を着たままの彼女に、身体を寄せた。
彼女の髪も、肌も上着さえも冷たかった。そして、彼女の手首も冷たかった。
あれほど・・・炎のように熱いと感じた肌は、今は冷たかった。

壁に背中を押し当てられた彼女は逃げ場がなく、困惑した表情であった。
化粧っ気のない顔であったが、温風の流れる室内に入り、頬が薔薇色に染まっていた。
・・・こんな無防備な表情で、外に出たのか。
彼はそれだけで我を失いそうであった。

「・・・君を飼育したいわけではない。でも、オレ・・・・」
青磁は身体を屈め、彼女の首筋に顔を埋めて、冷たくなった耳に彼の頬を押し付けた。彼女の腰から背中に腕を回す。
もう、それだけで・・・彼は彼女を蹂躙してしまいそうな狂気を抑えることができなくなりそうであった。
「・・・・約束が欲しい」
彼はそっと言った。
自分に何が必要なのか、わかっていた。何も欲しくないと思っていたのに。
彼は、貪欲にも自分の希望を伝えてしまっていた。
彼女が落ち着いてから話そうと思っていた。しかし・・・こんな風に、彼の傍から消えてしまう瞬間を怖しいことだと・・・青磁が思う限り・・・彼女に対してこんな風に惑いを与えるだけしかできない自分との折り合いが必要であった。
「・・・何を約束するの?」
やがて、静かな彼女の声が聞こえてきた。寒くはないのに、震えている青磁の背中をそっと撫でさすっている腕があった。
彼が自嘲気味に言った。「いいよ。何も約束しなくて良い。オレが勝手にそう思っているだけだ」彼女にこんな時に約束を求めるのは酷なことだ。そして、一度約束してしまえば彼女はきっとそれを遵守しようとするだろう。それは望んでいなかった。
 
■20

「今のは失言だから、気にしないでくれ」
彼はそう言うと、彼女から身体を離した。
久々の外出で疲れているはずであった。少し休ませた方が良い。処方薬もまだ飲み終わっていない。
そろそろ・・・服用の時間だった。

「今日は、ポットパイを用意した。
・・・ここの調理パンは侮れないと思ったよ・・・」

彼は陽気にそう言って、彼女の髪を整え、そしてリビングに向かおうとして背中を向けた。いつもの通りに・・・振る舞おうとして、乱れた心を押し隠した。

「上着を置いておいで。・・・・一緒に食べよう」リビングに投げ置くように放置してあったビニール袋を取ろうと思って、手を伸ばした時のことであった。
どん、と彼に何かが・・・体当たりしたと思ったら、それは彼女の躯であった。彼女は、そんな風に彼に寄り添うことはしない。
彼女はいつも・・・激しさを表に出さない。
彼の腰元に、彼女の腕があった。まだ上着を脱いでいなかった。
青磁は吐息を漏らす。彼女を困らせてしまったからだ。
「ごめん。・・・オレ、どうかしている」
彼の背中越しに、彼女の息吹を感じた。もう、熱くなかった。それが少し寂しかった。
約束が欲しいなどと言ってしまった。
彼女の心は自由だ。そして、彼女の躯も自由だ。
今は青磁の傍に居るが、誰と居ても彼女の望んだことであれば、それは青磁が止めることは出来ない。
「・・・青磁がいなくて、その間に必要なものを揃えれば、合理的だと思った」
「何が合理的になると思ったのか、説明できていない」
彼は笑った。
彼女はいつもこうして自分の気持ちを客観的にしか言わない。
青磁は彼女に飾りなく伝える。
「・・・君がどこに行こうと、オレに報告する義務はない。オレが勝手に待っているだけだ・・・」
彼の炎熱を彼女が受け止める必要も義務もない。ただ・・・遣る瀬無い、行き先のわからない思いを・・・どこに吐き出して良いのかわからなかった。
だから、彼女にぶつけてしまった。それは間違いであった。それだけはわかっていた。
「なぜ?」
彼女は彼の背中に頬を押し当てながら、言った。彼女はこんな風にして、誰かに近寄ることはしない。躰を寄せるのはいつも青磁の方であった。勢いよく飛び込む彼女が、何時もと違っていて・・・そして、それは彼が彼女の炎熱を引き受けたからなのだと思うと、彼は・・・そう考えるだけで、身が切られるほどの痛みを全身に感じた。

「青磁がいなくて、落ち着かないという自分の気持ちに説明がつかなかったから、それを忘れるために対処することにしたの」
彼女はそう言って、大きく溜息をついた。
彼は、彼の中から込み上げてくる熱い塊を感じながら・・・・彼女の言葉を反芻した。

ひとりで居られないほど寂しく思ったから、外に出ることにした。しかし、自分の部屋に戻るのではなく、近場で用事を済ませまた戻って来た。・・・青磁が戻ってくる頃合いを見はからって。
彼女は、そう言いたいのだろうか。
それとも、それは彼の都合の良い妄想なのだろうか。

青磁は、切れの長い双眸を遠くに遣った。
彼女の触れている部分から、彼が眠らせることにした滾りがまたふつふつと湧いて来て・・・そして炎龍となって彼の全身を包んでいく。
「・・・眠っていると思ったんだ」
彼女は反論した。
「青磁は、眠っている間はずっと一緒に居ると言った。・・・矛盾している」
「ああ、そうだよ」
青磁は少しむっとして言い返した。彼女は、青磁の激情を知らない。復調し、外を出歩けるようになった彼女に対して彼が何を考えているのか・・・まったく想像していないその様子が、理解し難い憤りとなって彼を呑み込みそうになる。
「目醒めた時には尋ねることができるけれども・・・眠っている君に、抱きたくなって堪えられないと言えないだろう?・・・だから、寐ている間に、君を襲わないように努力していると言ったら、それを褒めてくれるのか?」
彼は半ば捨て身の気持ちでそう言った。
青磁のことを軽蔑するのであるならば、それでも良かった。
けれども、彼は健全な男子で、何より・・・生涯で最後の人だと思い定めている相手が目の前に居て、彼のベッドで寝泊まりしている。その上、彼に添い寝しろと言う。
彼はまったく道理に合わない憤りを彼女に向けていると承知しながら、早口でそう言った後、気まずそうに黙りこんでしまった。
・・・自分の言っていることは矛盾していた。彼女を大事にしたいのに、苦悶する自分に耐えきれなくて、こうやって彼女を困らせている。
彼の背中でそれを聞いていたが、彼女はやがて・・・彼の背後で、言った。
「青磁は・・・どうして・・・・自分ひとりだけがそう思っていると思うの?」
その言葉を聞いた瞬間、彼の理性ははじけ飛んだ。
■21

「・・・・パイ、冷めてしまったわね」
彼女が青磁の腕の中でそう言ったので、青磁は眼を薄く開けて彼女の姿を確認すると少し笑った。
「温め直せば十分だ」
癒えたばかりの彼女の身体を冷やさないように、項まで毛布を掛けてやる。
まだ、彼の中で炎が燻っていた。
床には彼と彼女の衣類が混在して散らばっている。
また、服を洗濯しなくてはいけない・・・と彼女が考えているのだろうと思った。一方で彼は安堵していた。これで、彼女はまた帰れなくなったから。

目の前がかっと赤くなったと思った。
そして、耳鳴りがして、自分の考えを話すことも纏めることもできなくなり・・・青磁は、急にのぼせたような感覚を味わった。
彼の理性が飛散してしまった後、青磁は彼女の身体を強く引き寄せ、そして彼はそのまま彼女を引き摺るようにしてベッドルームに連れて行き、彼女の言葉を聞くことを放棄して、彼女の五体の上に自分の身体を覆い被せた。
彼は自分がそれほどまで我を忘れた瞬間を知らなかった。

彼女が挑発したのだとは思っていない。
そういう駆け引きはできない人だからだ。
ただ・・・彼の身体が彼女を求めて、そしてどうしようもなくこの人が好きだと心が叫びだそうとするのに、うまく言葉にできないもどかしさが身体を支配しているのだとさえ、思った。

服を脱ぎ捨てる間も惜しかった。
青磁によってたくし上げられた服の下から覗く彼女の白い肌を見た時に、背筋に痺れが走った。強引に彼女に押し入る。
そしてそのまま・・・彼は彼女に身体を合わせた。
項から首筋、そして鎖骨に肩・・・彼女の持っている曲線全部に唇を押しあてた。揺れる彼女の髪に指を絡め、どこにも行くことができないはずの彼女がどこにも行ってしまわないように腰を抱き寄せ、肩を掴み、彼は彼女に深く沈んだ。

何度も・・・彼女に触れながら・・・彼は声もなく何度も打ち震えた。
その間、彼女は貌を横にしたまま、彼の熱情を黙って受け止めていた。
時折、彼女の唇から青磁、と彼の名が聞こえた。
彼女の小さな声さえ愛おしくて、奪いたくなって、青磁は彼女の唇に自分の唇を重ねた。息もできないほど、激しく口吻を交わす。不器用な慰撫に、彼女はそれでも応えてくれた。
切なそうに、眉根を寄せている彼女の顔を見つめて・・・彼は彼女の名前を何度も呼ぶ。
彼にしがみつき、彼の指や唇の躍りに身体を反らせ、小さく震えている彼女を自分の肌に引き入れながら、彼は極みを感じ彼女の温度を奪い取った。そして自分を与える。
・・・自分は地獄に堕ちるのだろうと思った。
病み上がりの彼女をこんな風にしてでしか愛せないのであれば、自分はかつての当主達のように最愛の者を壊してしまうしかできない人間なのだと思った。
嵐の様な激しい抱擁が去ると、青磁はそこで我に返った。
すまない、と謝罪しようとしたところ、彼女はふっと身体を起こし、彼に口づけた。・・・彼女からは彼に唇を寄せることはしない。
それなのに、彼女は青磁が謝らないように、彼の唇を塞いだ。
震えは去り、先ほどより身体が温かくなっていた。
長い・・・優しいキスだった。
彼女は・・・いつもこんな風にして彼を包み込む。
彼が本当に必要としている時には、いつも必ず傍に居た。

そして、彼女はすべての服を脱ぎ、自分から彼の肩に顔を乗せて・・・そして囁いた。彼に裸体を晒すことはやはり恥ずかしいらしく、胸に自分の脱いだ服を添えて、シャツすら完全に脱ぎ捨てていない、彼の湿った肌に顔を寄せた。
「・・・私もこうしたいと思ったから、ここに居る」
青磁は、やはりわかっていない、と少し唇を尖らせて彼女は言う。
「だから、謝らないで」
「・・・そうする」
彼は微笑んだ。彼女の額に唇を乗せる。
それから、青磁はふと、真顔になって彼女に尋ねた。
「怖くなかった?」
「少しも」
「オレは怖かった。・・・自分が怖いと思った」
彼女の躰を抱きながら、彼は告白した。
「こういうことは・・・どちらか一方だけが満足する行為ではない」
彼女は黙ったままだった。
「君のことを大事にしたいと思っているし、復調してくれてとても嬉しい。けれども、こうやって我を忘れて・・・君を傷つけるように自分を制御できなくなってしまうのであれば、オレは・・・・」
彼はそこまで言うと、言葉を探すようにして、しばし無言になった。
「自分を忘れそうになったの?」
「いいや、オレ自身であることを強く認識したよ」彼は嗤った。
「忘我というのは、自分を忘れることはなくて、自分の中のものを表出させ、それと対面することなのだろうな、と思った」
彼の中にある、抑えきれない獣じみた激しさが彼女の尊厳を穢すのであれば、青磁は彼女を連れて行くことは諦めなければならないと考え始めていた。
 
■22

「・・・君の体調の事も考えられず、強引に引留めて、その上・・・」
彼はそこで口を噤んだ。青磁は激情に身を任せて、配慮を欠いていた。
彼は彼女に何度も入った。赦しを求めていなかった。
彼を受け入れる時に彼女が僅かに身体を引いた際に、彼はそこで彼女に語りかけられなかった。
青磁が黙り込んだのは、この合歓によって、彼女が望んでいない結果を呼び寄せることになるのかもしれないと思ったからだ。
「それでも良いよ」
彼女は青磁の考えていることを読み取ったかのように言った。
「それでも・・・良い」
青磁は黙って彼女の髪を撫でた。
彼女が同意したとしても、彼は承知できなかった。

青磁は国に帰れば身分保証されているが、この国では異国の大学院生でしかなく、留学期間は終わっていない。しかも、影響はないと説明を受けては居るが、彼は治療期間中であり、定期的に眼疾患の経過観察のために、検査を受けたりもしている。これまでの経緯で、彼女がただならぬ身体になるのであれば、彼女は自分のやりたいことを中断して出産しなければならないし、その間に生まれてくるその子どもが婚外子になってしまわないように手続きを進めなければならなかった。現在は父親診断によって早期のうちに結論が出るが、それで納得するようなことではなかった。
それに、彼女にも悲しい思いをさせたくはなかった。

・・・そういう事実に附随する事務的なことを優先させることによって、子の誕生を喜べないのであれば、先に婚姻式を済ませてしまいたかった。
保守的であると言われればそれまでであったが、彼は子ができたから結婚するのではなく、結婚した後に正当なマクドゥガル家の子として家紋を変更する手続きを取る必要があった。
その手続きの過程で、当主は継嗣に対して身分を示す飾りと様体を指定することができ、この際に、青磁は麒麟の紋に朝顔を入れる予定であった。
彼女との愛を優先できない事が出てきており、彼は自分の感情と現実の間で苦悩した。
「オレにとっては望んだ結果になるが、君は・・・」
哀しませたくなかった。苦しませたくなかった。極力、そういう煩わしいことを考えさせたくなかった。
そして彼は憂える。なぜ、彼女は悲壮な決意をもって、「留学中の間だけで良いと思っていた」と言ったのか、理解できていた。お互いに、子を流すつもりはなかった。それはまったく考えていない。けれども、こんな風に彼女を激流に翻弄させるような扱いを、自分が今後もしてしまうのであれば、彼は彼女から離れて暮らすことを選ばなければならないと考え始めていた。
しかし、会わなければきっと・・・次に会った時に、彼は会わなかった分だけ、こうやって狂うのだろうと思っていた。別れるつもりはない。彼女だけしか欲しくない。それでも、待つと言ったのに、結局こうして待てずに距離を詰めて彼女を傷つけてしまう自分がどうにも許しがたかった。

「青磁は先を考えすぎる」
彼女は淡く嗤った。
いつも思慮が深く、先々のことを考えて憂えているのは彼女の方であったのに。
「押し流されはしない、と言ったでしょう?」
彼女はそう言って彼の肩に唇を寄せた。滑らかな唇が彼の肩に乗り、青磁はそこから彼の身体に微電が走る感覚に溺れた。
「敢えて言うなら、もう少し冷静になれば良いのに・・」
「君は冷静でいられるのか?オレは無理だ」
自分を誤魔化すことはできなかった。どうしても、彼女が欲しかった。
いつもそうであったわけではない。かつて、茶色の髪の茶色の瞳のあの人を愛した時は、恋は成就しなかった。けれども、今は・・・自分の心の内を語るほどに気を許してしまっている相手に対して、彼は彼女の未来を自分に託してくれないだろうかと真剣に考えている。
彼女にとっては、なにひとつ、良いことはない。
遠い国に行き、国籍を捨てさせ、家族や友人から離し、あの家に縛り付けることになる。
昔と様々なところが違って改善されてきてはいるものの、まだまだ課題が山積しているあの家が彼女の安らぎの場所になると、青磁は彼女に確約してやれなかった。

「・・・こうなってしまうのが怖かった。想像通りになってしまった」
彼は、すまないと言うかわりに、正直に言った。
「君を離せなくなって・・・立ち止まることを忘れて、君を引き摺り回す。一緒に歩いて行こうと言ったのに、冷静でいられない」
青磁の言葉に、彼女は唇を持ち上げて笑った。そして、顔を上げて、青磁の顔を覗き込んだ。彼の強い視線に憶することなく、彼女は彼の顔を見つめる。
失調した彼女を気遣うどころか、かえって気遣わせてしまった。
「青磁、こちらを向いて」
彼女がそう言って、視線を横に遣っていた彼に囁いた。
彼の顎に軽く口吻を添えると、彼女は静かに言った。
「・・・冷静であったのなら、青磁の話は受けなかった。でも、きちんと考える時間を青磁が作ってくれて、待ってくれたから私はそれに答えたい」
青磁は黙ってそれを聞いていた。彼女は彼の視線を怖いと言わない。自分でさえ扱えない獣炎を、彼女は怖くないと言う。
「・・・こうして過ごすとき、私が何も思っていないと・・・平気だと・・思っている?」彼女は少し困ったように言った。彼は首を軽く振った。
「いや・・・しかし、冷静な君であったのなら、オレを受け入れないと思った」
■23

「青磁だけに乱されて、それでも良いと納得している。・・・これは、私にとって考えられないことよ」
確かにそうであった。
彼女は自分のことをあまり話さないし、いつも他人のことばかり気遣っている。決して相手を否定しないが、むやみに賛同することもしない。その彼女が、青磁の前では怒ったり涙を見せたり・・・彼だけにしか見せない笑顔を見せる。彼の恋人になるのは嫌だと言うのに、こうして彼と肌を重ねる。
最初・・・他に相手がいるのかもしれないと思っていたが、そうではなかった。
しかし、それでも良かった。
彼女が彼に向き直るまで、いくらでも待つつもりだった。
その彼女が、彼が居なくて落ち着かない、と彼女は言う。
青磁はわかっていない、と幼い口調で駄々をこねたように言う。

彼女にあり得ないことをもたらす青磁・マクドゥガルという人物を、彼女が受け入れることが、どれほど彼女に対して大きな変化であるのか、彼は彼女の声を聞いて、初めて・・・理解した。
「平気だったのに、平気になれなくなった。
他の誰かの気持ちはわかったけれど自分の気持ちがわからなくなった。
青磁が他の人と付き合っているのかもしれないと思ったり、この家に誰かを泊めたりしているのかもしれないと考えるだけで・・・自分がわからなくなった。なぜ、そんなことを考えるのか、わからなかった」
そして彼女は言葉を句切り、軽く頭を振った。
「いつも自信たっぷりで、私がきっと青磁に恋すると宣言してばかりで、それなのにいつまでも待つと言って、矛盾したことばかりで・・・私のことを乱してばかりいる青磁を・・・今でも、何故なのだろうと思っているのに・・・」
彼女はそこでまた唇を閉じた。少し考えながら話していたのかと思ったが、そうではなく・・・躊躇っているようであった。
が、彼女は思い切ったように、彼に向かって言った。

「・・・本気で好きになった」

その言葉に、青磁・マクドゥガルは息を呑み込んだ。
こめかみを殴られたような衝撃を受けて、目の前の色が一瞬、反転したように感じた。その次には、唇が自分でもわかるほど震え始めて、近い場所にある彼女の顔を、信じられないといった面持ちで見つめ返した。
「・・・寒いの?」
心配そうに彼女が彼を見る。彼女の細い首筋が動き、髪が鎖骨に散った。彼女の皮膚の薄い部分には、彼が加減を忘れて彼女の上に散らせた紅い痕がいくつも残っていた。
「・・・違う」
彼は呟くように否定した。寒くはなかった。まだ、彼の肌は汗ばんでいた。彼女の熱を奪ったからだ。

寒気が彼を震わせたのではない。

・・・・彼女からの愛の囁きを受けて、彼の全身が震えたのだ。
・・・・歓びで。歓喜に震える。

彼女の身体がひとりではないのかもしれないと思った時と比べものにならないほどの陶然とした心持ちにのぼりつめていく。
自分の身体が震えて、前髪が揺れていた。
彼女はそんな彼を心配して、身体を起こそうとした。
が、彼に阻まれてしまい、彼女は小さく声を上げた。
彼女が胸にあてていた最後の衣をそっと取り上げて、彼は彼女の素膚を自分の胸に重ねたからだ。
彼女は身を小さく縮めたが、彼はそのまま彼女の身体を抱いたまま、ゆっくりと、着衣をすべて、脱ぎ捨てた。青磁、と彼を窘める彼女の声が聞こえてきたが、彼は無言でいた。
彼女の身体の上に、再び彼は自分の締まった身体を乗せた。
私が服を脱いだのは、シャワーを浴びるためだ、と彼女が彼に抗いながら言ったのに、彼はそんな彼女の唇を自分の唇で塞ぎ、彼女の声を呑み込んだ。
両手で静かに彼女の躰を撫でると、彼と同じ様に汗ばんでいた彼女の躰はすぐに熱を帯び始めた。
何度も・・・何度も彼女の肌に自分の手の平を滑らせた。
彼の胸の上で拳を握り、青磁の身体を押し戻そうとしていた彼女の指が徐々に開く。彼女の両手を取って、青磁は彼女の指に自分の指を絡めた。
今度は頬や唇を滑らせて、彼女の肌を温めていく。

言葉にならなかった。
彼女の言葉を受けて、彼は返答することができなかった。
ただ・・・この身に眠る炎熱を彼女が怖くないと言い、それによって乱されることを受け入れたのであるならば・・・
彼は、彼の中の自分でさえ抑えられないものが、仄暗いものだけではなく・・・それは愛の歓びというものが含まれていることを知ったから。
だから、自分で抑えられないほど、歓びで身体が震えるのだ。

「・・・そうだな。少し、寒いかもしれない。だから、君の熱を、わけてくれないか」
青磁は潤んだ溜息を漏らす彼女に向かって、囁いた。
今度は、彼女が満ちるのを待って彼と同じ場所に連れて行くことにした。
炎熱はまだ鎮まっていなかった。

■24

それからまた2日、彼女は熱を引き戻してしまい、青磁に外出してはいけないと禁じられることになった。
その間、外には雪が降り積もり、どちらにしても雪空の下で彼女を帰らせるわけにはいかなかったので丁度良かったのだ、と青磁が言うと、彼女は今度ばかりは本当に怒り出した。
ハウスキーパーの来訪も断り、あらゆる呼び出しには必要最小限しか応じず、完全にふたりだけの世界で数日を過ごした彼女は、相当に困っていた。
青磁が彼女に過干渉であったからだ。
眠る時も湯を浴びる時も彼は一緒に居ると言って片時も離れようとしなかった。
「オレ、独占欲が強いから」
青磁はそう言ったが、そういう域を超えていると彼女は反論した。
しかし、本調子でなかったようで、彼女は大人しく数日は青磁の言うとおりに寝たり起きたりの生活を繰り返していた。

その間、彼女はあちこちに電話をかけていた。
具合が悪くなり、出先で寝込んでしまったことを手短に話し、詫びを加えた上で予定を変更しているようであった。
律儀な彼女の対応は適切であったが、彼は彼の知らないスケジュールが彼女に存在していることが気に入らなかった。
「・・・忙しいんだな」
彼がリビングのソファで横になり、資料となる専門書を読んでいると、彼女は青磁を軽く睨みおろした。
「青磁はこんなに家に引き籠もっていて・・・大丈夫なの?」
「オレの予定は全部キャンセルしたから」
一体、いつの間に・・・と絶句する彼女の前で、青磁は嘲ら笑った。
「オレの予定は、いつも同じ。君を早く連れて行けるように説得することが最優先タスクだ」
懲りない人ね、と彼女が呆れて言ったが、青磁はそれだけ元気が出れば大丈夫だねと受け流していた。

そして、今日という今日は帰宅すると言って準備を始めたので、青磁はつまらなさそうな顔をする。
「一緒に暮らせば、そんな面倒もないのに」
「あんな格好で一日過ごしていれば、また熱が出る」
彼女が言っている「あんな格好」というのは、青磁の部屋着を借りて脚を露出し、その都度、彼に抱き上げられてベッドに連れて行かれることを指し示していた。しかし、彼はその都度、彼女に触れても良いか、と尋ねる。彼女はノーとは言わなかった。
「・・・今度は君の部屋から持って来いよ」
青磁がそう言うと、彼女は口籠もった。これは緊急措置であるから、常時彼女の私物を置くことについて、彼女はあまり賛成していないようだった。
しかし、ここ数日の滞在によって、彼女が買い揃えたり青磁が手配したりしたものは、確実に増えていたし、それを持ち帰るつもりはなかったようであった。
彼女の為に用意したバスローブがひとつと、ルームシューズが一組しかなかったのに。彼女の残していく香りだけしか残っていなかったのに。今は・・・目に見えて、彼女の名残が僅かであるけれども増えている。
青磁は整った顔を方々に向けて、微笑んだ。

彼女が眠っている間に、彼女の寝顔をデッサンしていることを知ったら、彼女は怒るだろうか。
いつか・・・いつか、彼女に手渡しできる日が、来るだろうか。
あの人のように。
茶色の髪の茶色の瞳のあの人が、自分の一番大事なものが何であるか知った時に、それまで描きためていたものを手渡ししたように。

今朝は、彼女の用意した朝食を一緒に食べた。
珈琲ではなく紅茶が好みであることや、パンは焼き加減にこだわりがあることを知った。彼女の作るスープは絶品で彼が褒めると彼女は気恥ずかしそうに微笑んだ。
歯ブラシは柔らかめが本当は好きなのだと知ったし、彼女の身につけている整髪料の銘柄もわかった。
同じ様に、彼女も青磁の生活についていくつか学んだようであった。
彼はかなり早起きで、朝食前の筋力トレーニングとストレッチを習慣としていることを知らなかった。彼女が泊まった朝はその日の夜に行っていたと言うと意外そうな顔をしていた。
また、青磁の湯加減は熱すぎると言われたし、ミストサウナを使った後は換気をしっかり怠らないようにしろと叱られた。彼が中国茶をたくさん揃えていることにも驚いていたし、彼女に隠れて煙草を吸ったことも判明して窘められた。

・・・こうしてひとつずつ、彼女の日常を知っていくことになるのだろう。
だから、それはまた次の機会に取っておくことにした。

「・・・何か持って帰るものでもあるのか」
帰り支度をしながら、彼女が紙袋に何かを詰めようとしているのを見て、彼は尋ねた。
手提げ程度の小さな鞄しか持ってこなかった。彼女の鞄に入りきらないので、買い揃えた時に店から支給された紙袋を広げている時のことだった。
彼女は無言だったので、彼はそこでソファから身を起こし、彼女の手元を見た。
・・・そして押し黙った。

彼女が手にしているのは新しく買い揃えた短期滞在用の生活必需品であった。それも男物ばかりであった。
■25

彼女がひとりで出掛けた時に、何を買ったのかわかった。なぜ、いくつもの店を回ったのか、理由を知った。自分のものだけではなかったのだ。
彼女は、青磁のものも買い揃えていたのだ。

彼は早鐘を打つような心臓の鼓動を意識しながら、極力平然として言った。
「それ・・・オレの私物?」
「そう」
彼女は素っ気なく言った。彼に背中を向けていた。
彼女が無表情で素っ気ない時は、気恥ずかしさを隠す時であると彼は知っていた。
「・・・つまり、オレも君の部屋に泊まって良いという許可?」
彼女は貌を赤らめて、知らない、と言った。
年若い彼女が、こういった物を揃える時に何も感じないかと言ったらそうではないと思う。シェーバーや歯ブラシ、整髪料・・・もっと細々としたものもあった。彼女の居住地の近辺では揃えられないようなものだけを吟味して買ってあった。
彼は彼女を、また抱きしめて・・・心底愛していると囁きたくなった。

彼はそこで立ち上がると、部屋の奥から少し大きめの鞄を取り出し、まずは手に持っていた、読みかけの専門書を詰め始めた。後はノートパソコンと着替えが少々あれば十分である。部屋着もいくつか用意して、鞄に無造作に放り込んでいった。
彼女が呆気にとられてその様子を見ていると、彼はちょっと笑った。
「何だよ・・・早く支度しろよ。置いて行くぞ」
「どこへ?」
部屋着を脱ぎながら、彼は輝くばかりに締まった上半身を露出しながら、ウォークイン・クローゼットに歩いて行く。彼女が顔を紅くして、横を向いたので、何を今更恥ずかしいと思うの?と嗤ってやった。
家の電話を留守番電話対応にセットし、彼は着替えながら自分の家のセキュリティー・キーと、彼女の家の鍵を持ってポケットに入れた。
「君の家はしばらく暖房を入れていないから、寒いだろうな」
彼が揶揄するように言ったので、彼女は堪りかねて青磁に言った。
「泊めないわよ。・・・今日こそ私は帰るの」
「帰ることと泊めることは相反しないよ。・・・じゃ、君を送って行くついでだ。荷物を置いてくるだけ」
彼はきっとそれだけでは終わることはないと思っていた。
彼女の部屋に招かれて、玄関先で帰るつもりはない。

「・・・寒いから、マフラーと帽子を忘れずに」
青磁はそう言って、久々に見る、待ち合わせをした時の彼女の出で立ちを見て、目を細めた。
彼女はしばらく青磁の姿を見ていたが、身支度を終えた彼が彼女の用意した小物を入れた紙袋と自分の鞄を持ったので、観念したのか、肩を竦めて言った。
「・・・お茶ぐらいは、ごちそうするわ」
彼女の譲歩の言葉に、青磁はくすくす笑った。
「オレ、マイセンのマグカップがいい」「ありません」「じゃ、FireKingでも良い」「もっとありません」

今日は夜通し・・・彼女のスケジュールについて、問い質そうと思った。
彼女について、あまりにも知らなかった。
けれども、知っていく歓びを知った。
これからも・・・彼女の炎熱を知る度に、彼は彼女を更に深く愛していくことになるのだろう、と思った。
そして、彼の中の暗くて激しい焔を知る彼女は、おののくこともなく、彼の炎を包むのだろう。

「・・・・今日は寒いけれど、少し遠回りをしていかないか」
彼が申し出た。
「雪がまだ綺麗で・・・君とこうして空を見るのも良いけれど、雪も見てみたくなった」
高層マンションから見える空は薄青色で、寒々しかった。けれども、この空の蒼を覚えておこうと思った。これから、彼女とみる景色には蒼も、銀白も、様々な色が増えていく。彼女をひとつ、知る度に、それは増えていく。

彼女はそうだね、と言った。また熱が出てしまうかもしれないけれども、今日だけは、彼女と白く広がる一面の雪を踏んでみたかった。

「行こうか」
支度を調えた彼と彼女は、玄関を出た。
久々の外出で、彼女はあまりの冷気に驚いてマフラーの中に顔を埋めたが、空いている方の手を伸ばし・・・青磁のコートのポケットに手を入れて来た。
彼はそれを見て、満足そうに微笑むと、ぎゅっと彼女の手を握り返した。
この幸せを忘れない、と決めた。どれだけ長い年月が経過しても、これから彼女を哀しませて泣かせてしまうことがあっても。決して彼女を諦めない、と誓った。
彼は、彼女の囁く秘めたる思いを炎熱とともに受け止めたから。
彼女は、彼の秘めたる思いを怖くないと言ったから。

ああ、そうか。

彼は理解した。

「・・・約束が欲しいのではなく、オレが欲しかったのは、誓いなんだ」
彼は心の中で呟いた。

彼女が彼を愛しているという言葉の中に秘められた誓いを知った。
必ず、彼女は青磁を愛し抜くと言ったのだ。彼は、それに応えたいと思った。
彼女との約束ではなく、彼女を必ず幸せにするという自分への誓いが欲しかった。
自分自身へ・・・将来、必ずそれを為し遂げるために。

・・・誓おう。オレの生涯をかけて。必ず、君を幸せにする。必ず、君を娶る。君を朝顔の祖にする。オレの妻になるのは、君だけだ。

彼女が聞けば、多すぎる誓いね、と苦笑いするかもしれない。
それでも良かった。彼の一生をかけて為し遂げると決めたのだから。

彼女と並んで見る外の景色は、一面の銀世界で、ずっと広がっていた。
寒さは続いていたので、雪はまだこの地域を覆っていた。
足元に気を付けろと言った傍から彼女がバランスを崩しそうになったので、彼は彼女と重ねていた手を更に強く握った。


・・・今夜も雪が降りそうだった。

青磁・マクドゥガルは、今夜は帰れなくなりそうなほど、雪が降れば良いのに、と思った。

(FIN)

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S-side 炎熱2013 前編

▼01

外来を知らせる呼び音であると気がついたのは、それが鳴り終わって呼応する動作に青磁・マクドゥガルが取りかからなかったからであった。

このフロアに直接訪れる者は居ない。なぜなら、セキュリティチェックの厳しい高層住宅に彼は住んでおり、大抵は主玄関と呼ばれる地表近くの門扉のモニターで用事が済んでしまうからだ。

彼は遠国からやって来た留学生である。
本分は勉学であるが、それ以外の目的で活動もしている。
だから、日中はほとんどここに居ない。
着替えをして休むためだけに戻る空間に、本当の休息は存在しない。
享楽を味わうために誰かとここで時間を過ごすこともなかった。
誰かがここを訪れることもない。そして、彼が望まない来訪者は文字通り「門前払い」で用事が足りてしまう。
駅前の高層マンションであるから、売却や転売などを案内する業者からの広告などはすべてエントランスのコンシェルジュに任せてしまっている。
彼の実家の財力であれば、ホテル暮らしの方が何かと便利であることは承知していたが。彼は、自分だけの空間が欲しかった。
庭があり、空が近く、そして遠くどこまでも見渡すことができる景色が欲しかった。
青磁は今度、生国に戻ればマクドゥガル家の後継者として自由に渡り歩くことすら難しくなる立場を与えられる。今でも、成人しているので、いくつか筆頭株主であったり、代表者として名前が記載されていたりする。

それが煩わしいということではない。いつかは、そうなるだろうと覚悟していた。
しかし、最初から現在に至るまでまったく疑問を差し挟まない生活であったのか、というとそうではなかった。
だから、一時の自由を味わいたいという、どこにでもあるような別の世界への憧憬を実現させた、ということではない。
この国は、彼がかつて愛した人の国であり、彼の主治医であり友でもあるシャルル・ドゥ・アルディがこよなく愛している場所でもある。
そして、それに加えて・・彼には彼が滞在するに充分な理由のある国であり、同時に、彼が生涯の伴侶にしたいと強烈に願う人物の生活する国でもあった。

一時の気まぐれや、すぐに醒めてしまう熱情ではない。
・・・彼女を青磁の生まれ育った国に連れて行きたいと思う。
それがどういうことなのか、青磁にはわかっていた。
別の国の、文化も価値観も何もかもが違う者を連れて行けば、摩擦は生じるものだ。

けれども、彼女は青磁から一定の距離を保ち続け、そして決して自分からは近寄ろうとはしない。
単なる友人であるのであれば。
これほど苦しくならない。
身体を重ねるだけの関係であるのであれば、彼女のことを合理的に流されることもなく遇することもできる。
けれども、そのどれにも当てはまらない。
ここ最近では、シャルル・ドゥ・アルディに連絡をすることが多くなった。
彼の主治医でもあるが、それ以上の関係であった。
フランスの華と呼ばれて、彼は常に人々の期待を背負っている。それが苦痛なのではなく、あの人はそれが当然だと感じている。
明らむ晄のような人に惹かれるシャルルの気持ちがわかる。
今までは、彼がなぜ、今後ずっと憂えることを絶やすことのできないような相手を選んだのか、不思議に思っていた部分があった。
しかし、今ならわかる。
心を奪われて我を忘れるから、という理由ではない。
打算も計算も理由も存在する。それでも、他の者を選定することができない。その狭間で踠くからこそ、失いたくないと思うのだ。

 
▼02

行くあてのない感情と戯れる時間は、青磁には存在しない。
焦っている、と彼女は言うけれども。焦れているのは、彼女の心を得たと実感できないからで、期限が迫っているから彼女を当初の予定通りにしたいと思っているわけではなかった。
知れば知るほど、
恋愛に相応しい資格というものは、相手に求めるものではなく己で定めるものなのだと思う。

重厚そうな扉は外観だけであった。
防犯上の問題で、ある一定の順番で開錠した後には、僅かな動力で開閉できるように細工されている。
だから、その人物はそれほど力がない者でも扉を開くことができる。
それなのに。なかなか入ってこない人物に、青磁は眉を動かして首を傾けた。
ここまでやって来られるくらいであるから、見知らぬ来訪者ではない。
その人物を、青磁はひとりしか知らない。

今、ここに一番居て欲しいと思う人。
今、ここで彼の弱った姿を見せたくないと思う人。

彼はモニターに映る人物の額を見て微笑んだ。
彼女だ。全身を見なくても、すぐにわかった。
予感と確認は別なのだと実感する。
彼女が来たな、という予感は事実になった。
そして、青磁はカメラの位置の調節をしておくべきだと思った。
その人物は、少し屈み込んでいる様子であった。
こちらの様子を確認しているのか。
スペアキーも、ここの場所への入り方もみんな教えたはずなのに、彼女は入ってこない。
しかし、なぜ入ってこないのだろう。
困惑と同時に、歓びが込み上げてくる。
特に連絡をしたわけではない。来て欲しいと告げたわけでもない。
けれども、彼女は察知したかのように、やって来た。
いつもは、彼が何度も誘い、何かしら理由がなければ部屋にやって来ることはない人であった。自分から来たいと言うこともない。
青磁が強く言わなければ、どんなに遅くなったとしても身支度を調え次第、さっさと帰ろうとしてしまう。
何を考えているのかわからないところもあるが、彼女は青磁だけではなくあらゆる人の中で目立たないように気を付けているのではなく本当に溶け込んでしまっているのは、彼女の特性なのかもしれないと思った。それでも際立つものがあることは周囲も青磁も十分に承知していることであるのに、当の本人が気がついていない。

まったく、酷い人を好きになってしまった。

彼はそう思うが、だからといって諦めることはしない。
彼女を諦めはしない。

その人物が、約束もしていないのにやって来た。
扉を幾度も潜り抜けた人物が、門扉の前で不機嫌そうな顔をして立っていた。
他の者の前ではいつも朗らかに、穏やかに微笑むのに。
青磁の傍に寄るとき、彼女はいつもそんな風にして機嫌を損ねた顔を見せる。

誰かを好きになる時。
笑顔であったり、涙顔であったり・・・人のきっかけは千差万別だ。
けれども、青磁は、彼女のすべてに恋をした。
彼の前でだけ、無愛想な顔を見せるのは、彼には本心を曝け出しているからだ。皆に愛想良く笑顔を振りまく彼女は、彼女の本心を見せることはない。
線引きしているのではなくて、そうなってしまうのだ。
だから、それを指摘した青磁には酷く憤慨していた。
誰にでも優しくて誰も否定しない彼女が、何を否定して何に哀しんでいるのか誰も知らなかったことに青磁が悲憤した時。
彼女は、心の扉を僅かに開いた。

確かに、きっかけはとても自己中心的であった。
・・・彼は、茶色の髪の非常に小柄な人物を忘れられなくて、行き場のない思いが重すぎて、強烈に誰かを愛したいと思っていた。
失った恋は愛に代わり、そして決して手が届かないものなのだと知って、誰でも良いから恋に堕ちてみたいと思った。
それは嘘ではない。

 
▼03

「・・・やあ」
自分の声が掠れている。喉の痛みは和らいできたが、まだどこか本調子ではない。

病院に飛び込むほどには重篤な状態ではない。
彼は眼病治療のためにこの国にいるので、些細な不調であったとしても「些細かどうか」を自分で判断してはいけないと言われていた。
けれども、発熱しただけで大騒ぎをすることのほどでもないと思われた。
もう、幼いこどもではない。
失調したな、と思ったので、自分でできる必要な処置は施したつもりであった。あとは睡りを貪るだけであった。
その時に来訪者を告げる知らせが届いたので、彼は起き出してきた。
それが今の状況であった。

汗ばんだ身体はいつもより重かったが、それでも青磁の枷にはならなかった。
会いたいという気持ちが、彼の身体に指示をする。彼女を迎えろ、と。

彼女は、青磁が出迎えるとは思っていなかったのだろうか。
それ以外にはあり得ない状況であったのに。
彼女しかここに入り込めないし、青磁は彼女以外の誰かをここに招くことはない。
遠く離れた異国であるから、家族がここにやって来ることもなかった。
もっとも、定期的に送信する家族宛のメールでは、自分のことを多く話すつもりはなかった。ただ、元気でいるのだと定型文のような文章を送る。

彼女はしばらくの間、青磁を見上げていた。乱れた格好はしていないが、これから眠ろうとしていたところであったので、かなりの薄着であった。
彼女は彼の浮き出る身体の線に途惑っているようだ。

男性の部屋に上がり込むほど、彼女は無頓着でもない。
彼の恋人だと広く周知したいのに、彼女はそれを望まない。
自分がそれほど恥ずかしい相手であるとは考えたくなかったが、彼女が青磁のこれからを考えていることは明白であった。
だから、一緒に暮らそうと何度も言ったし、彼の国に一緒についてきて欲しいのだと懇願もした。けれども、彼女はイエスと言わない。彼の朝顔であることは同意するのに。

その彼女が目の前に居るので、彼は少なからず狼狽した。
来てくれれば良いのにと思ったのにそうできなかった。
彼の弱った姿などは見てくれるな、と願ったから決して連絡は取るまいと決めた。
願いが叶ったのか、叶わなかったのか、それすらわからない。

・・・このまま、彼女を家に招き入れてしまえば、彼女が呼吸できないほどに抱きしめてしまうかもしれない。
危ういと自覚している。
しかし、失調しているときほど、彼女が欲しくなる。誰でも良いわけではない。
彼女の湿った滑らかな肌を思い出す。最後に重ねた時から、どれほど経っただろう。
彼女は、肩にいつもの鞄を提げていた。帰り道なのだろうか。時間について気にしていなかったが、そういえば、この曜日のこの時間は彼女には用事がある。
青磁は驚いて、言った。
「今日は用事があったのでは?」
「延期した」
彼女はぶっきらぼうに応えた。
彼のために予定を変更してくれたのだろうかと期待してしまう。
予定を自分から変更することはしない。彼女が相手の都合を変更させることを好まないことを知っているので、青磁は少し驚いて言った。
「・・・入って」
彼は扉を押し広げ、彼女に家の中に入るように促した。
招いたのは自分であるけれども。この熱情は、炎熱のせいなのか。彼女は、唇を横に引いていた。
 
▼04

彼女はお邪魔します、と言った。もう部屋の家具の配置や間取りなども知っているというのに、いつまでも初訪問のような態度を見せる。
純朴であるのかもしれないが、それは、彼だけの彼女ではないのかもしれないという不安を大きくさせた。

・・・束縛されたい

青磁は、その言葉をずっと言わずにいた。
待つ、と言ったからだ。
彼はマクドゥガル家の跡継ぎだ。
いつかはこの場所を離れなければならない。
その時は、彼女が良い。彼女と一緒に帰りたい。
だから、待つ。
長くかかっても良い。
焦りはしない。

けれども、こんな時には動揺を隠せなくなる。
彼女が予定を変更してやって来た。
これが彼をどれほど大きく揺さぶっているのか、彼女はわかっているのだろうか。

誰かに所有されることはない、と思っていた。
マクドゥガル家の者に、眼病のことを指摘され、先祖返りのような容姿を持った彼のことを厭わしい子だとはっきりと口に出す者も居る。
マクドゥガル家の悲劇は、誠次・マクドゥガルが引き起こしたが、それ以降もそれ以前も、沈鬱なあの土地で起こった出来事を知ってなお、あの土地で生きて欲しいとは言えなくなった。
それでも良いと言う者もいたし、家の者が勧める相手も事情を承知しているかどうかが前提で話が進められていた。
しかし、自分は誰かにあてがわれるように自分の相手を見つけることはしたくなかった。
若者特有の傲慢さだと言われてもまったく気にならなかった。
マクドゥガル家に逆らって生きる予定ではない。彼は、彼の代でマクドゥガル家の悲願の概ね全てを終わらそうと思っているから。
あの謎を一緒に解き明かす人物が必要であった。そして、その重苦から逃げることのない人物が必要で、誰かにあてがわれた相手では荷が重すぎた。
現実を静かに見つめ、そして青磁がすることを傍で見守り続ける相手。
愛した人をそのような淵に落とすような行為の先にある謎を一緒に見ようと思う人物。そういう者でなければ、彼は相手を壊してしまう。

「誰もいないの?」
彼女はそう言った。誰かがいた方が良かったのか、良くなかったのか、どちらの考えを持っているのか推し量ることが出来ない。

日中の、決められた時間に家事代行が入っていることは、彼女も知っていることであった。しかし、身元のしっかりした者以外はここに入れることはない。顔も合わせないように、極力、その時間は留守にすることにしていた。
彼女が泊まって行くときには、彼女がこの家の中のことを青磁が詳細まで知らないことに憤慨していたことを思い出す。
あれから、少しばかり身の回りのことに気を遣うようになったが。それでも、彼女から見れば呆れるほど世間知らずに見えるのだろう。
彼女に家事をさせるつもりはない。
けれども、現実に、彼が生活していく上で自炊するというのも限界があった。極力、家の中のものは何も置かないようにしているけれども、それでもここでの生活が長くなるにつれて、持ち込んだ教書や参考文献などが山積するようになった。

「今日は遠慮してもらった。終日、オレが家にいるから」
そう、と彼女は言う。
「・・・上がって」
彼は再び彼女を招き入れる。まるで、彼女は彼の許可がなければここに入れないと思っているようであったが、彼女なら好きな時にやって来ても良いのだと繰り返さなければならない。しかしそのことに疲労を感じているわけではない。
どこか人目を避けてやって来るような様子の彼女が、ここまで来た。

そのことに、今、純粋に喜んでおり、彼はそれを隠すことはなかった。
 
▼05

ひとりで住まうには広すぎる空間に、彼女は玄関先で居心地悪そうに肩を竦めた。
「好きな時に、来れば良いのに」
彼の小さな囁きは、彼女に聞こえてしまっていたようであった。
彼女は抑揚なく言った。
まるで、義務のように。
綿のようにとらえ所がない部分があるが、彼女はとても強情であったし、納得のいかないことには従わない。本来の彼女はそういう気質なのだと思っている。
「休みだと聞いたから」
どこから聞いてきたのだろうか。
今日、体調不調で研究室には顔を出せないというメールを研究室のアドレスに一本だけ打っただけであった。
すると、青磁の不思議そうな気配が伝わったらしく、彼女はまた首を傾けて瞳を瞬かせた。
「青磁は、わかっていない」
これも彼女からよく聞く言葉だった。
「秘密事項でも何でもないことなのだから」
なるほど、と思った。次のフィールドワークのための演練であったので、少人数で編成していることもあり、青磁の所属するグループから漏れたのだろう。
普段、自分の個人情報などに神経を尖らせているわけではないが、これほどあっという間に情報は伝達してしまうのだと思うと、少し対応に気を配る方が良いのかもしれない、と思う。

そして、彼女が部屋に入ろうとしない理由を知った。
躊躇っているのではない。入れないのだ。
「ごめん、気がつかなくて」
相当、自分は熱に侵されていると思った。意識が朦朧とする程にまで深刻な状態ではなかった、やはり、足元が浮き立つような感覚が残っている。
その上、まさか今日、会えるとは思っていなかった相手がこうして彼の住まいを訪ねて来たのだから、昂揚しないはずはなかった。

彼女は肩にいつもの鞄を提げたままで、両手にも荷物を持っていた。見慣れないナイロン製の薄手の袋だ。携帯性に優れているもので、買い物帰りと思しき者がよく持ち歩いているのを見かけた。
青磁は普段、自分の必要なものを細々買い回る方ではなかったので、事情を熟知しているわけでもないが。
所謂、自然環境対策というものであった。
この国の者たちは皆勤勉で、反復を厭わない。僅かな努力の積み重ねを励行している。もちろん、彼女もそのひとりであった。
彼女は黙々と努力を重ねる人であった。
能力があることを前提としているのではなく、自分の持つものが継続することにあると強く想っている。非凡であることの重要な要素は非凡なものを磨くことではなく、自分が持ち得ているものをどう組み合わせを、どう研磨していくかによるものなのだということを、彼女は熟知しているようであった。




 
▼06
「すぐに帰るから」
彼女のそんな声に、青磁は口を噤んだ。
いつもと違う体調に気を懸けることはなかったが、少しだけ曇った視界は、発病したかもしれないと不安になった頃のことを思い返させた。
その時にはすでに、普通ではない状態であったのだが。そのうちに、瞳の色が薄くなってきて、誰もがわかる程度になるまでに要した時間はそれほど長くなかった。
彼女の髪の色は、本当はもっと違う色なのではないのだろうか。
肌の色はもっと白いのではないのだおるか。
濃淡が判別しづらいという奇病を抱えた彼の中で、常に思いながらも口にできない事に対して、彼女は身を寄せることで応え続けている。
誰よりも近くに居ることによって、彼が確認することを許可している。

すぐに帰るな、と言えば彼女は困った顔をするだろう。
すぐに帰れ、と言うつもりはなかったが。
どうせなら、ひと晩泊まって行って欲しい。
けれども、失調を理由にせがむことはできなかった。
彼女は一体、どういうつもりで来ているのだろう。
そう尋ねれば彼女は二度とここには来ない。
都合の良い相手と思っているのではない。
彼女は、そういう享楽的かつ刹那的な考えを持っていないから。
だから、心を傾けたのだから。
彼女を疑うことは自分を疑うことになる。
彼女は上着を脱ぎ、リビングに入った。
陽光がまだ注いでいる時間であったので、目を細める。
青磁の住んでいる高層マンションはこの場所が視界に入るほどの対面の建築物がないので、青磁は日中はごく薄いカーテンだけを用いている。
そこからバルコニーに面しており、高層ゆえの強風に彼の育てた花々が乱されることのないように観察しているからだ。

いつであったか、彼女が、質問したことがあった。
なぜ、それほど土いじりが好きなのに、土から一番離れた場所を選んだのか、と。
青磁の実家の財力であれば、戸建てに住むことも可能であっただろうし、ここの階下も、かなり広いバルコニーを所有することができた。
青磁は、真摯に答えた。
「ここで育てることに必要があったから」
彼女はそれ以上、質問してこなかった。
彼の耳に光るピアスには、麒麟という聖獣を象った彼の家の男子であることの象徴が燦然としている。
伝説の聖獣であるが、風に乗り、慈愛を糧としていると言われている。
これは世界各地に散らばった血族が、いつか生まれた土地に戻ってこられるようにという願いを込めたものであるが。
彼は、彼の代に、この紋様を改編しようと考えている。
他の誰にも託すことはできない。
だから、彼がやる。
そのためには・・・彼には、彼と一緒にその事実に向かう人物が必要だ。誰でも良いわけではない。彼女以外には、考えていない。
それで気がついた。
彼女は、庭の植物たちの世話ができていないのではないのだろかと心配してやって来たのだ。
彼は、彼女の背後に立ち、廊下とリビングを隔てるための扉を閉めた。
このドアひとつで、彼女が帰れなくなるということはない。
けれども、帰したくなかったから。
「体調は?」
「見ての通り」
青磁が肩を竦める。一目見れば、わかるだろう。
他の者への応対は一切できない状態であることを。床から上がれないというわけではないが、それは彼女の来訪に対してのみに適用される。
他の者が来るのであれば、応じないつもりであった。
青磁は恋愛をゲームにするつもりはない。それに。今は彼女が、彼の心の支えであり、彼の朝顔であると決めていた。それ以外の者に縋って、誰か別の者をその場凌ぎの安らぎにするつもりはない。
 
▼07

勝負にできるのであれば、最初からそうしていた。
勝敗を求める間柄を求めるのであれば、どれほど楽であっただろう。
そうではない。
・・・そうではないのだ。

「世話は、私がするから」
彼女はそう切り出した。
「用事が終わったら帰るから、寝ていて構わない」
青磁の前では、いつにも増して言葉が少ないように思えた。
それが「特別」だからなのか「特別ではない」からなのか、青磁は聞く事は無かった。
皆と同じであることは望まない。
彼は彼女の「たったひとり」になりたいと思っていることは、今でも変更されていない。
毎日の手入れを欠かさなければ枯れてしまうような種は育てていない。
けれども、青磁の失調の度合いや、いつから彼の失調が始まったのか、彼女は知らない。
だから、彼女はやって来た。

最も弱った存在であると認識していない。
絶望と苦しみで青磁は弱っているとは思わない。
・・・わかっている。
彼女にあるものは、ただ、慈愛だけだ。それでも、彼に対する心が嫌悪ではないことは知っている。知っているからこそ、苦しい。
彼女の心が、欲しい。彼女の心だけではなく、すべてが欲しい。
しかし、それでは彼女に近寄れないことも知っている。
まったく、難しい人を好きになってしまったものだ。そう思うが、それは止めることはできなかった。
マクドゥガル家の者は、定めてしまうと覆すことはできない気質の者が多い。
一度、この人だと決めてしまうと、その人が絶対になる。
アルディ家の者も同じだと聞く。
マクドゥガル家の者はもっと柔軟だと思っていたが、そうではないようであった。
どうやら、自分は彼女への熱に浮かされているらしい。
認めたくないと思う気持ちがあるが、同時に、そうなのだろうな、と肯定する気持ちがある。
だからこそ、マクドゥガルの者は恋に堕ちることには慎重であった。

恋に堕ちたらそれが恋なのだ

そういう言葉が残るのは、それが真理だからなのだと思う。
恋なのかどうなのか、定義付ける瞬間には、それはもう、恋なのだ。

「さっき水をやったので、当分は大丈夫だ」
青磁は、自分の言葉を出す度に感じる脳への震盪を堪えながら、言った。
「きっと花たちも喜ぶ」
少し曇った声で、青磁はそう言った。
青磁が主目的でなくても、良い。彼が愛でているものを、彼女が愛でてくれるのであればそれは、ないよりかは喜ばしいことである。

「構わないで良いの。それから、必要書類は持ってきた」
今日を期限としているわけではないのに彼女がそれを持ち込んだ理由を聞きたくて仕方が無かった。それを理由として青磁に会いに来たのだ、と言わせたかった。
どうして、これほど求めるのだろう。
これは、炎熱がそうさせるのだろうか。
彼は、彼女の持ち込んだ両手に残る荷物を見た。
草花に関するものだけではなかった。簡単に調理できる品ばかりが、袋から覗いていた。彼が失調した時に必要とするような、液体や半固形の栄養補助食品であった。
けれども、青磁は彼女がそれを説明する前に、指摘することはなかった。自分を気遣って用意してきたのか、と聞いても彼女はそうだと答えないだろうから。
 
▼08

彼女が両手に提げてきた荷物が相当に重そうであったので、青磁は彼女に尋ねた。
「随分大荷物だけれども」
「たいしたことではない」
そうは言っても、彼女が扉を開けられなくくらいの重さであることは事実である。
額にはうっすらと汗が滲んでいる。
床に置くことのできないものなのだろうか。
彼女は居間に入ってきても、まだ、荷物を離そうとはしなかった。
「テーブルに置けば良い?」
青磁は彼女の後ろから片方だけ、袋の把手に触れて遠慮がちに引いた。
その時。
彼女の手が触れてどきりとする。
彼がこれほどまでに彼女に夢中になってしまっていることを、彼女は知らないのだろうか。
周囲には既に明白のことのようであった。
「相手が誰もいないのなら」と言い寄る者も現れなくなり、「彼女を想っていても良いから」と言い直す者が増えた。それでも、青磁はイエスと言わなかった。
適当に恋愛をするつもりはない。
そういう余裕は、彼には、ない。
それが余裕という言葉を使うことが適切なのかどうかという議論なら、彼女はいくらでも付き合うだろう。
けれども当事者として彼女がどれほど青磁から思われているのか客観的に述べることはしない。
気がついていないわけでもないだろうに。
それとも、青磁の心配りが足りないのか。
待つ、と言ったので、彼はいつまでも待つつもりだ。必要な時には、待つだけではなく、ともに行動し、考える。そういう意味の「待つ」だ。
思ったとおり、彼女が持ち運ぶには相当の重量であった。
一体、何を持ってきたのだろうか。
居間と続いているキッチンに運ぶ。彼女は小さく、ありがとう、と言った。
そして、さり気ない口調で尋ねた。
同時に、荷物の中を覗き込み、そして小さく声を漏らした。
「これ、オレに?」
まだくぐもった声であったが、青磁は驚愕しながら言った。
「そう」
青磁の家を訪ねて来て、青磁にあてた品でなければ何なのだ、と言いたそうな声で彼女は素っ気なく答えた。
「・・・助かるよ」
口当たりの良い乳製品や、飲料などが入っている。
滋養のあるものばかりであった。
青磁はその後の言葉が続かなくて、押し黙る。
どうしようか、と困惑する。
自分がこれほど言葉が足りない人間だとは思っていなかったからだ。
彼女が、彼のことを考えながら品物を選ぶことがこれほど嬉しいとは思っていなかった。

来てくれれば良いな、と考えていたが。
実際に来訪してくれた今となっては更に深い歓びを求めてしまう。
何と、欲深なのだと思ったが、気持ちが止まらなくなってしまう。
「とても、嬉しい」
彼は率直な気持ちを述べた。
二人の関係は危うい。
抱き合っているだけで良いとは思わない。
でも、彼女を抱きしめたままで眠りたい。
彼女が買い揃えた品が気に入った。青磁の好みを承知していることにも、またひとつ、嬉しさが込み上げる。失調している時には確かに、注文するのも買い出しに出るのも億劫であった。誰かに頼むほど、彼は誰かをここに招きたいと思っていない。

「もうひとつの袋は?」
青磁は彼女の持っていたもうひとつの袋に目をやる。
片方だけで相当の重量であったから、相当に疲弊しているだろう。
労いの言葉をかけてやりたかった。
 
▼09

もう片方の袋も、彼女は背伸びをしてテーブルの上に置く。
中から、正方形の布に包んだ折り詰めが出てきた。
・・・何を持ってきたのか、察しがついた。
彼が何もできない状態であるかもしれないと想定して、彼女が軽食を作って来たのだ。
青磁は、ただ、困惑する。
熱によって頭の芯がすっきりとしない不快感があるが、それ以上に彼女の気遣いに軽口を叩くこともできないでいた。
「冷蔵庫と冷凍庫に各々入れておけば日持ちするものばかりだから」
彼女はそう言うと、黙々と袋から出してテーブルの上に積み上げて行く。
彼女がなぜ、床に降ろし、持返すこともしなかったのか察した。
彼が代金を払うと言うと、彼女は首を横に振る。
「いつも、貴重な本の見せてもらって、英訳の手伝いをしてもらっているから」
なるほど。これは駄賃なのだ。
貴重すぎる駄賃であった。
彼女がそう言ってしまえば、青磁はそれ以上何も言えなくなってしまう。
いつか、彼女の負担を肩代わりすることで何とかなるだろう。彼女はどちらか一方だけが尽くす関係は好まない。
「それなら、今回は君の言葉に甘えることにするよ」
掠れた声で、彼は言った。
しかし、これだけの量を用意したとなると、相当時間がかかったと思われる。
家事に精通していると言えない青磁でさえそれがわかる。
彼が研究室に今日は休むと連絡を入れたのがそれほど早い時間ではなかったことを考えると、それからすぐに作業に取りかからなければ、これほど準備することはできなかった。
おそらく、情報が入ってすぐにすべての予定を変更して、これらを準備したのではないのかと思われた。
「これ、ひとりで作ったのか?」
「誰と作ると言うの」
彼女は辛辣に遣り込める。それ以上は聞いて欲しくないと言いたそうであった。
「そうではなくて」
彼女の思うところと青磁のそれが違っていることを伝えるために、青磁は言い直した。
「随分と、時間がかかっただろう」

「だから予定を変更した」

ああ、と青磁は合点して頷いた。
しかし、その説明の理路に納得しただけである。
彼女は予定をあまり変更しない主義だと思っていた。いつも温厚な彼女にしては珍しく譲らない点だと理解していたので、青磁は首を傾げた。

「怠いかもしれないけれども、食事で体の内側から温めて・・・」
彼女が説明しながら、ひとつひとつ丁寧に積み上げていく様を見て、青磁は胸苦しくなった。
いつか、こういう見舞いは終わる時が来る。それは、青磁がこの国を離れるときだ。
そして彼女が青磁が失調する都度、このように滋養を考えた食事を届けるような日々になるのかどうか・・・それは青磁次第だと思った。
心身が弱っている時には、身近な者に愛着を感じると言う。けれども、青磁は違っていた。
離れているから、余計に恋しい。
一緒に暮らしていないから、尚更愛おしい。
彼女が彼の朝顔になると承諾してくれた朝を忘れない。彼女も、忘れていないだろう。
けれども、マクドゥガル家の持つ重すぎる課題が、彼女を押しつぶしてしまうのかもしれないと懸念している青磁の心が揺れている限り、彼女は何も言わない。

「君の時間を奪ってしまった」
青磁は困った声を出した。しかし、自分の声音がうまく相手に感情を伝えることができないほどくぐもって抑揚なく聞こえる。
彼は、彼女が機転を利かせて食事を届けてくれたことを嬉しいのだと言う前に、彼女が費やした時間の方を考えてしまった。
思考が鈍っている。そう思った。相手に伝えたいことが、伝わらないから。
 
▼10

「それほど長居はしない」
彼女はそう言って用件を済ませようとする。
急いですることはないのに。
しかし、それは青磁が押し黙ったまま困惑した表情を浮かべ続けているからなのだと気がつくと、青磁は気怠さを吹き飛ばすような口調でつとめて気鬱にならないように言った。
彼女に帰って欲しいと思っているのではない。その逆だ。
不調で弱っている時の姿を見せたくないと思うが、彼女は特別であった。
「とても困ったことになったと思っているけれども、同時にとても嬉しいと思っている」
彼は正直に言った。
「青磁、熱があるの?」
常心を失っているという意味を込めて、彼女が言うが、彼女の方が狼狽えていた。
いつにない彼女の細い声に、彼は全身の気怠さも関節の痛みも消えてしまいそうなほどに躰が打ち震えているのを感じる。
何とも思われていないとは感じていなかったが、彼女は彼に対して距離を置いている。それは確認するまでのことでもなかった。
その彼女が、青磁の安否を確認するために、自分の予定を変更してやって来てくれた。これが困惑ではなく歓喜であると伝えるためには、どのようにしたら良いのか、彼には策が思いつかない。けれども、どうにも・・今すぐ、彼女を抱きしめたくて仕方が無かった。
彼が知っている、一般的な恋人同士の始まりではなかった。だからこそ、夢中になっているのだという自覚はあった。
しかし、それが一時のことではないのだろうという確信めいたものも存在する。
彼は、誰にも彼の朝顔になって欲しいと言わなかったのに、彼女に対しては願いが消えることがないからだ。
求めているものが多すぎることはわかっている。
マクドゥガル家を捨てることもできないし、彼女を諦めることもできない。
・・・あのフランスの華と同じ状況であることに対して、複雑な思いを持っていた。
けれども、シャルルはそれを貫いている。だから、青磁は不安になることはない。
自分はシャルルと違うことは承知しているが、あの人がファム・ファタルに感じているものと同じくらい強いものを、青磁も目の前の彼の想い人に感じているからだ。
恋が終わり、愛に変わり、そして新しい愛を憶えた。
自分の中にはどうしようもない狂気が眠っていることもわかっている。
マクドゥガル家の男達が愛した女性達は、尽く何らかの不遇を味わっている。
最大の悲劇は・・・マクドゥガル家本邸の焼失にかかるあの出来事であっただろう。
彼女には、そのような不幸を味わわせるつもりはなかった。しかし、青磁の心構えだけではどうにもできない問題も幾つか存在するのは事実である。
彼に必要なのは、彼を癒す人物でもなく、愛されるだけの人物でもなく・・・彼と一緒にこれから彼が向き合わなければならない現実と課題に立ち向かう人物である。
彼女こそ、彼の探し求めていた人だと思っている。
もし、彼女でなかったとしたら。彼はその次はないと思っている。
条件に合致しているかどうかということが愛する条件ではない。彼には、やらなければならないことがある。それは、どうしても彼でなければできないことであった。他の誰かに任せることができない。

普段はまったく気にしない耳のピアスが、どうにも重かった。それはマクドゥガル家の継嗣という重責によるものなのか・・・彼女を目の前にして、戸惑っている自分を持て余しているのか・・・どちらにしても、彼はいつも通りに振る舞うことができそうもなかった。
押して響かなければ、引く。それを繰り返す。
彼女が困ったり厭だと言ったりすることは、彼は望まない。
信頼を失うのは一瞬だ。けれども回復させるにはとても長い時間がかかってしまう。
だから、彼は言った。
「熱は・・・あるよ。どうにもならないほど」
彼の声は掠れていた。


S-side 炎熱2013 中編

11

 

彼女は青磁を見上げていた。

確認しなくても、口に出さなくても明白であった。

彼女は彼の朝顔だ。

そして彼女は彼の申し出にイエスと言った。

視線を動かすこともなく、覗き込むように青磁の片方だけ薄い瞳を見つめ返している彼女は、やがて静かに言った。

「それなら、もう休んだ方が良い」

そうやって逸らかされることもわかっていたが。

彼女に、青磁の想いは届いている。

彼はそう確信した。

 

奇妙で不思議な関係だと思う。恋人同士と言うには、距離がありすぎる。

けれども、彼女は青磁を拒むでもなく、こうして彼の炎熱を確認しにやって来る。

「躰を温かくして、水分を十分に」

ありきたりなことであったが、彼女が言うとそれが最上の方法であるのだと信じることができる。

 

彼はテーブルの上に並べられたものが彼女によって的確な場所に高速で収納されていくのを見ながら、キッチンのカウンターに腰を預けてその様子を眺めていた。

どこかに腰を下ろしてしまうのも気怠い。

発熱に対して備えがないわけではないが、彼の中からやって来る、嵐のような激しい恋慾が彼を落ち着かなくさせる。

 

背中と形の良い耳の後ろから汗が滲むのを感じる。

参ったな、と思った。

彼女が一目で青磁の不調を感じ取ることができるほど、彼は良くない状態らしい。

 

「必要があれば病院に・・・」

そこまで言ってから、彼女は口元に笑みを浮かべた。

彼が何のためにこの国に滞在しているのか、思い出したようであった。

奇妙な眼病を患っている彼は、その治療のために日本に滞在している。

それだけが目的ではなかったが、彼が定期的な通院を怠っていないことを彼女は知っているので、それ以上のことは言わなかった。

 

もっと、彼を束縛しても良いのに。

彼女はそういう感情を露わにしない。

しかし、無感情であるということではない。

一緒に暮らそうと言っても、彼女は首を縦に振らない。

そうなってしまったのなら、取り返しがつかないと思っているからだ。

彼女が戻れなくなってしまうということではない。

彼が、彼女のことを「彼の朝顔ではなかったのだ」と言い出しにくくなると思っているようであった。

 

「・・・用事が終わったので、帰る」

彼女の声で、我に返る。ぼんやりとしていたらしい。

考え事をしていたつもりはなかったのに、いつの間にか時間が経過していたようであった。彼女と居ると、時間を忘れてしまう。

彼は腰を浮かせた。

確かに、頭痛も関節痛も自覚している。喉も渇いているから、発熱していることは間違いない。しかし、そんなことを言おうものなら、彼女はすぐさまこの場を辞すると言って聞かないだろう。

本当は、今日は彼女にはずっと傍にいて欲しいと思っている。余計な心配をかけたくないので、会わない方が良さそうだと思っていたのに。彼女の顔を見て、声を聞いてしまった途端に・・・放したくなくなってしまった。

矛盾する気持ちを、今でも制御することができない自分に途方に暮れる。

それでも、彼は静かに言った。彼女を留めて置くことが出来ない自分が不甲斐ない。

「・・・送るよ」


12

 

彼女は苦笑いを漏らしながら、言った。

「病人はあなたなのよ」

彼女が青磁のことを「あなた」と言う時に、彼はいつも甘い痱れを味わっていた。楽しむことはできない。ただ、その甘美な痲痺が彼女を想うが故のことであることはわかっている。

・・・そして、その理由も知っている。

彼女は、他の者には決して「あなた」と言わないことを知っているからだ。

配偶者を呼ぶときの応答と同じであった。青磁は、いつか、彼女が時分のことを障害そのように呼び続けてくれることをイエスと言う日を夢見ている。

 

いつもの彼なら、もうここで諦めてしまっていたところだろう。

マクドゥガル家の者に迎え入れるための条件に合致した者でなければ・・・彼女は間違いなく、壊れてしまうだろうと確信していたから。

けれども、彼女はそうではなかった。青磁の予想を裏切り続けた。

そして、いつの間にか・・・彼は恋に堕ちてしまった。

いや、恋に堕ちた瞬間は、彼は自覚していた。けれども、それを認めるまでに随分と時間がかかってしまった。

彼女にしよう、と決めて近付いたけれど、彼女でなければならないと思い定めたわけではなかった。

愛を選んですべてを捨ててしまったとしたら、彼は彼の生きている意味を失う。そう思っていた。

そして、あの家の不幸の連鎖を切断するのは自分で良いと思っていた。マクドゥガル家の男達は、いつも最後は誰かに託すことになって命を終えていた。けれども、彼が誰かに託すとしたら・・・きっと、彼の息子となる人物になり、そしてそれが最後になるのだろうと思っていた。

全てを引き継ぎ、全てを壊し、そして全てを新しく作り替える。

彼は、その間、少しも弱く在ってはいけない。その時に、隣に居るのは・・・朝顔のように撓む柔軟性がありながらも決して途絶えることのないしなやかさと強さを併せ持つ者でなければ、青磁と一緒に歩けない。

可不可で相手を選ぶのが最善の方法だとは思っていない。

 

愛を定める時に、そういう条件も含めなければならないのは、マクドゥガル家の定めなのかもしれないが、彼はそういう要素を厭っていたはずなのに、今になって・・・決してそうはしないと決めていたことを踏襲しようとしている己に愕然とする。

 

彼は、マクドゥガル家の男子であるが、その家に逆らおうとしている要素だと思っていたのに、その実は、マクドゥガル家の因子そのものだという行動しかしていないのだと知ったからだ。

彼らが全世界に散らばったことには、理由がある。あの土地では、相応しい子孫を残すことができないからだ。

そして、更に激減した男子にしか残せない謎を残すために、彼らは麒麟の烙印を推して記録を残すことにした。

すべてを明かすことのできない者であるのに、マクドゥガルが耐えてしまわないように、名前を残すことにしたのだ。

そのうち、波瑠佳・マクドゥガルだけが血縁でない者としてのすべてを知る最後の人物になってしまったが、その後に、葎の婿が書物を残し、絲・マクドゥガルがフランスに渡って記録の消失を防いだ。

青磁は、内外ともに記録の多くを知る直近の者である。

誠次という人物の道筋を追うことによって、詳細を知ることになったのだが、それでも青磁が悲劇を引き起こした人物と酷似した容姿を持ち、マクドゥガル家の土地で生まれ育ちながら奇妙な眼病を背負うことになった意味を考えると・・・青磁が最後の真実の継承者なのだろうと思った。

これから先、自分の子に、これらの秘密を託すつもりはなかった。そうしたいと思えなかったからだ。

その代わり、と言っては痴がましいが。

彼の配偶者になる人物には、すべてを知って欲しかった。

そういう・・・打算を含めた恋の相手を探していることを、青磁は最初に彼女に告白していた。

だから、彼女は青磁と距離を置く。そういう対象で見られたくないと思っていたのが最初であったのだろうが・・・青磁には、そのような秩序を求める要素があり、時分がそれに合致しそうだと承知していたからこその、節度を彼女は持っていたから。


13

 

「それでも、送っていきたいから」

彼の打算が、その言葉には含まれていた。

それなら、彼女がここに留まるという宣言を聞きたかったから。

狡い申し出であることは、十分に認識している。

けれども、彼女を帰したくなかったし、もし見送るのであれば彼が彼女の背中を見届ける権利を放棄したくなかった。

少しでも・・・一瞬でも、一秒でも長く傍に居たい。そういう気持ちが彼をそんな風に動かし続ける。

愚かしいことだとわかっていても。この恋はきっと・・・最後の恋であり、永遠の愛になるのだということを予測していたから。そうなってしまうのだろうという曖昧なものではなく、己でそう決めたいと願っていることだから。

 

彼女は首を軽く傾げた。彼女はいつも拒絶することはない。

「青磁の安否を気にかけている人がいることを忘れないように」

彼女はそう言った。

彼女は時分が早くここを出て、青磁がひとり静かに休むことが必要だと言いたいらしい。

彼女を見送ることは、柔らかく拒否された。

それでも青磁が彼女の言葉に従おうとしないので、彼女は青磁を見上げると、テーブル越しに軽く彼を睨んだ。

「早く休んで」

彼は目を伏せて、時分の足元を見つめた。

確かに、すぐに彼女を送っていけるような状態ではなかった。

かなり発汗しているらしい。部屋着が湿っていて重く感じる。

「君がいるなら」

青磁はそう言うと、少しは離れた場所に佇んでいる彼女を切なく想いながら見つめる。

彼の視線は紫電と呼ばれるもので、眼光鋭く、人によってはそれが怖いと言う者もいる。

けれども、彼女はまったく動じなかった。

「治るものも、治らなくなる」

「君がいるなら、治る」

青磁の言葉に、彼女はとうとう呆れたような顔をして言った。

「こどものようなことを言っても駄目よ」

大体、神経が休まらないではないか、と彼女は言ったがすぐに口を噤んだ。

どれだけ日本語が流暢であったとしても、彼は遠い異国からやって来た人物で、誰も傍についていないことを心細く思っているのかもしれない。

元々、ここにやって来たのも、そういう懸念があったからであったことを、彼女は思い出したようだ。

 

軋むような痛みがふと、甦ってくる。

青磁は美貌を僅かに歪めて、テーブルに用意されたミネラル・ウォーターのペットボトルに腕を伸ばした。彼女が持ってきてくれたものである。

青磁がその銘柄を好んで飲んでいることを知っている彼女が、途中で買い求めてきてくれたものであった。

複数本あったが、それを持って来るだけでも相当に重量があったと思われる。それなのに、彼女は青磁のためだけに、持ち込んでくれた。

 

・・・目と目を合わせれば、手に取るように気持ちが通じ合うという関係ではない。しかし、知りたいと思う。

けれども、心がざわめく。彼女の視線の先に・・・青磁は存在し続けたい。

「君が付き添ってくれるのなら、寝る」

「青磁」

彼は彼女に近寄ると、彼女の手首をそっと掴んだ。

彼女の肌は冷たかった。彼の躰が熱いからだ。

「君と一緒なら、寝る」

彼はそう言って、彼女の腕を引いた。こういう時であるのに。

彼女が愛おしくて、そして彼女が来てくれたことが嬉しくて・・・彼は、それだけで十分であると思っているはずなのに、彼女が去ってしまうことが怖い。

「少し話をするだけなら」

彼女は腕を引かれたままで躊躇いがちに言った。彼の体温が想像以上に高いことを察知したのだ。そのままひとりにさせておくわけにはいかないと判断したのだろう。

彼女は言葉を覆すことはあまりしないようにしているようであったが、それでも考えを改める潔さも持っている。そういうところも好ましかった。

 


14

 

彼が寝室のベッドに倒れ込むように横たわると、彼女は静かに彼の手に持っていたミネラル・ウォーターのボトルを枕元に置き直す。

「少し飲む?」

「いや、後で」

彼は彼女から取り上げられて、空になってしまった手の平を時分の額にあてた。

天井が見えるが、揺らめいているように見える。

解熱剤も飲んでいたので、躰の怠さはその影響もあるのだろう。押さえ込むより、発汗して熱を下げた方がよさそうだった。

 

確かに、いつもの彼らしくない物言いではなかった。

それを咎めるでもなく、揶揄するでもなく、彼女は静かに彼のベッドの裾にあるオットマンに腰掛けている。ここは日本式であるので、彼は高低差の少ないベッドを愛用していたので、彼女は名ばかりのそれにいつも苦笑いしていたことを思い出す。

彼女はそこで膝下の行方を持て余し、彼に向けて躰を斜めにして腰の両側に手を置いた。

縺れ合うようにしてベッドに彼女の身体を横たえてから、随分と時間が経過しているような気がした。

 

快楽だけを共有する関係ではない。

それだけは断言できる。

愛のない間柄ではない。

彼はそう信じている。

 

想っていない相手に身を委ねることに何も感じないような価値観の者であったのなら彼は彼女を好きにならなかったと思う。

 

いや・・・恋に堕ちてしまったのならそれが恋なのだから。

彼女が、彼だけを見つめない相手であったとしても、恋していたのだろう。

条件で恋を選ぶことなどできないことを思い知る。

あの、フランスの華ならどんな風に分析するのだろう。解明できない、心の動きに後付けで理由を附すくらいなら・・・これほど苦しくなかった。

彼は高い天井を見つめながら、自分の手の甲を額に添える。彼女がブランケットを彼の身体の上にかけ直してくれたことすら、浮遊感の中に記憶する程度であった。

シーツが冷たい波のように心地好かった。けれども、彼女の肌の冷たさが彼を誘う。

彼女の髪の香りや肌のにおいに敏感になっていた。失調しているのなら、そういった感覚はすべて稜くなるのが常であったのに。

彼女が傍らに寄って彼の睡りを見守ることを期待していたのに、何とももどかしい距離で彼の稜にいた。

これが、彼と彼女の距離なのだろうと思う。

背中を見せているのに、青磁を振り返ったままの彼女を眺めた。

「もっと近くに」

彼はそう言ったが、やがて軽く首を振った。

彼女も失調してしまうようなことがあってはいけない。

感染するような病ではなかったが、それでも彼女には彼女の生活があり、その決め事を変更して彼女はここにやって来てくれたのだから、それ以上を望んではいけないと思った。

「すまない。オレの都合ばかりで・・・」

彼はそう言うと、目を瞑った。

彼女がここにいるということが、彼には特別なことであると言い募ったとしても、それは炎熱が齎す幻影なのだと彼女に思って欲しくない。

でも。

どうにも・・・心の内を隠すことができない。

「呆れないで欲しい」

彼はふっと天井に向けて吐き出すように言った。

失調しているせいか、煙草も欲しいと思わない。

けれども、こういう時に限って思い出す過去と対峙するのは、どうにも遣る瀬無い。

「どうして?誰にでもあることよ」

彼女の声は、清廉で、彼に染み渡る。


15

 

「こういう時は慣れていない。・・・苦手だな」                      

「慣れていて得意な人もそれほどいないでしょう」

彼女がおかしそうに言った。そうか、と言いたかったが言葉にならない。

その代わりに、彼は長い睫を伏せて、深呼吸した。横たわっているので、彼の締まった腹が僅かに動くばかりであった。

彼女は実に不思議な人物だ。

自分の心の内に、誰かを依存させることはない。それなのに、人の心の機微を知り抜いている。

もし。

本気で彼女がそうしたいと望んだのであれば、彼女は人の心を自由に動かせる人物なのだろうと思う。

まるで、マクドゥガル家に君臨した麒麟や、マクドゥガル家に名を残した葎のように。

だから惹かれるのか。

彼女の中にある、青磁と同じものを・・・「言葉にならない何か」を感じるから、これほど惹かれるのだろうか。

 

人の心の内を覗ける相手に対して畏怖を感じるのは、その者によって心を動かされるからだ。隠しているものが曝け出され、誰かに知られるというのは大変に恐怖である。

そして、場合によっては、相手の都合のままに自分の感情が左右されてしまうかもしれないという予感めいたものを感じるから・・・だから、相手との距離を正しく保とうとする。

それが正しいのか正しくないのかということは関係しない。適切であるかどうかということも。

しかし、青磁の瞳を見ると、心を乱されると言い出す者はひとりやふたりではなかった。

彼はいつになく遠く感じる天井を眺めながら、大きく息を吸った。

喉が痛み、声を出すのも億劫に感じる。けれども、話を終えてしまえば、彼女は帰ってしまう。

彼女を引き留めるだけの存在になりきれていない自分をもどかしく思う。それならいっそのこと、好きになることを諦めてしまえば楽になるのかと思ったが、青磁はそういう見切りを良いことだと思わなかった。

良いかどうかで決められるものでもないことも、承知している。

それで言い訳したかっただけだ。

彼女をどうしようもなく好きになってしまっている自分を止める理由を探すことはない。

 

こうして異国の地で失調する自分のことを知って、彼らはどう思うのだろうかと考えなくなって随分と時間が経過した。

茶色の瞳のあの人・・・フランスの華が運命の人と定めたあの人との出逢いによって、彼は少し考えを改めた。

家族に歩み寄るのは自分からでなければ、何も変わらないのだと思うことができて、そして行動することができた。

「・・・昔は、熱が出ると家内が騒がしくなって、それがどうしてなのか、わからなかった」

彼は呟くように、心にある熱を吐き出した。

「男子は出生率が異常に低い。

生まれても身体が弱く、健康で長命であるという保証はない。そういう家に生まれつくと、少しの不調でも大騒ぎになる」

青磁は目を瞑り、意識を遠く飛ばす。

こどもの発熱というものにそれほど神経質になることがあるのだろうかと疑問に思いながらも、熱に浮かされた時のことを思い返す。

そのまま儚くなってしまうのではないのだろうかと思った。

あの家に生まれたことが厭わしいと思ったこともあった。しかし、失調すると・・・血縁者達は彼の見舞いに訪れる。早く良くなるようにとメッセージカードを残し、彼は復調すると必ず返事を書かされた。

また退屈な作業が待っているのかなと思ったが、自分がそれほど大切にされているのだと感じた瞬間でもあった。

マクドゥガルの男子は滅多に生まれることがない。だから大事にされているのだと思う一方で、形ばかりの尊重ではないのだと信じることができた。

しかし、彼が眼病を患った時。そして、丁度その頃から、青磁はあの誠次に酷似した顔立ちだと皆が気付きはじめた。

誠次とその父の静流・マクドゥガルはとてもよく似ていると言われている。けれども、当時の彼らの風貌を残すものはほとんど残っていないし、気軽に閲覧できる状態ではなかった。

マクドゥガル家の悲劇については、幼い時から禁忌であるとだけ言い含められていた。それを知りたいと思うようになったのも・・・彼らが時折、青磁の聞こえないところで「あの時の詛いか因縁か・・・」というようなことを繰り返し囁いていることに気がついた時からであった。


16

 

だから、それまでは何でもできる自由な立場だと意識することさえなかった家の中の自分の存在が、本当は大人達が困惑する異質な存在であることを知り、青磁は困惑した。

それまでの対応をいきなり変えられてしまったと感じたからだ。

 

親しく口を利くこともなく、必要以上に近付くことはしない。

だから、失調時に皆が見舞いに来るのは心配しているのではなく確認しているのだと気がついた。

彼がいつ死ぬか・・・確認しに来ているのだと思うようになった。

健康な身体であったことも、絵が好きであったことも、皆、否定するようになった。

マクドゥガル家の名を残す者たちに並ぶ人物になるのだろうと言われて、甘やかされて育ったのに。

彼の瞳が薄くなり始め、顔立ちが悲劇を呼び起こした人物に似ていると誰かが言い始めた時。

彼はなぜ、彼に「青磁」という名前をつけたのだろうかと考えさせられることになった。

忘れたい悲劇であるのなら、どうして青磁は青磁・マクドゥガルと名を付けられて、育ったのだろうか。それが逃れられない約定であったからなのか。

自分達のこどもに、そのような詛呪を刻んで、皆は一体何を考えていたのだろうか、と何もかもを疑問に思うようになってしまった。

自分は一体、何のために生まれたのだろう。

最初から、必要のないこどもであったのなら良かったのに。

都合の良い時だけ必要とされ、そうでなかったのなら疎まれる。

それはあって良いことなのだろうかと考えることさえ許されない。

青磁は孤独を感じた。

失調して発熱すると、部屋に籠もって誰の看病も受け付けなくなってしまった。

 

いつだったか、彼が高熱で魘されている時に・・・彼の様子を見にやってきた彼の親は、彼の貌を見ると深く溜息を漏らしたから。

それなら、最初から期待させるような育て方をしなければ良かったのに。

彼の何が彼らを失望させたのか、少しも共感できなかった。

それで思ったのだ。

親であったとしても、血が繋がっていたとしても。

各々がまったく違った個であり、同じものを求めてはいけない時もあるのだ、と。

だから彼は家を出て、遊学とか留学とかいう名目で外に住まうようになった。

それを可能にさせるだけの環境であったことと、彼の奇妙な眼病を研究したいという奇特なフランス人医師がいたからこそ成し得たことであった。

失調するたびに、家族と遠くなっていく自分を感じた。

だから、余程の事がない限り、あの家では不調を訴えることはしなくなった。

理解者を探すこともしなかった。

あの家で暮らして、そのまま家の決めた者と結婚して家庭を持ったとしても、彼はまったく満たされなかっただろう。

青磁の中には、そういう蟠りがある。

 

今は少しだけ改善された間柄であったが、それでも・・・どこか遠くの親族を見るような目付きで彼を眺める実家に長居したいとは思わない。

けれども、彼はいつか、あの家に帰る。「いつか」ではない。

間もなくそれはやって来る。

いつまでも好き勝手なことができるとは考えていない。

実際に、彼は若いが幾つかの事業の経営者として名前を記載されている身だ。

飾りであったとしても、飾りのままで終わるつもりはなかった。

そのようなことを考えていると、足元で屈んでいたはずの彼女が自分の身体の横に移動したことに気がついた。

彼女が腰を上げて、彼の近くに寄ったことすら気がつかないほど、彼は物思いに耽っていたのか。

 

「考え事をしていた」

「いいよ」

彼女の返事は短いが、彼の心に沁みた。

こうして返事があることが、何より嬉しくて・・・そして彼はずっとそれを待っていたのだと思った。

 


17

 

青磁の物思いを読み取ったかのように、彼女は彼に気遣ってそっと身動ぐ。

もう、気の遠くなるような昔の話なのに、どうして今になって思い出すのだろうか。

彼は吐息を呑み込んだ。

黙ってしまえば、彼女が行ってしまう。

けれども、彼が話すことは・・・彼が自分のことを話すのは、彼女にとっては負担になるだけだ。

だから、彼は家族のことをあまり詳細には語っていない。

ただ、彼女はそれでも青磁が情に薄い者だとは考えていないようであった。

 

彼女の誕生日の時にはおめでとうとは言わずにありがとうと言った時に、彼女は表情を柔らかくして、青磁にこの上ない優美な微笑みを浮かべた。

はじめてみる彼女の表情に、しばらくの間、その状況を忘れてしまったくらいであった。

 

人の祝い事を「ありがとう」と言える人は、とても優しい人なのよ

 

彼女はそう言った。そして、そんな風に言う事の出来る彼女に恋をした。

 

彼は腕を伸ばした。

彼女が消えてしまわないように。

身体が軋んだが、それは我慢できる。けれども、心の疼きは我慢できない。

自分に言い聞かせているようであった。

家族との距離が縮まらないから、彼女との距離を詰めてみたいと思うのだろうか。

諦めて、新しい関係にだけ目を向けることが、楽になる方策だとは思わない。

それは彼女にも指摘されていたことであったが、だからと言って彼女を諦めることはしない。

 

心の溝を埋めたいから、誰でも良かった・・・という状態であるのなら、どれほど楽であっただろうか。割り切って、彼の渇望をそのつど埋める者を惹き寄せれば良いだけの話であったのだから。

けれども、彼女には満たされもするし、餓えることもある。失望することもあるし、期待以上のこたえが戻ってくる嬉しさもある。もどかしさも切なさも憤りも感じる。でも、それでも諦めようとは思わない。

 

驚いた声が青磁の頭上から降って来た。

話をするだけだと言ったのに、彼が別の行動を示したからだ。

「青磁」

「少しこのままで」

彼女の腰を両腕で抱き、彼は彼女の衣服の匂いを肺に取り入れる。

彼の汗が彼女の服に染み付いて、そして彼女が彼の恋人だと皆にわかるほどに変色すれば良いのに。

そういう邪な考えが浮かんで、すぐに消えていく。彼女は戦利品ではない。

身体を屈めて、彼よりずっと華奢な彼女の躯を抱きしめた。

彼女の腰や腹に回った青磁の腕の方が、ずっと思いのだろうと思ったが、しばらく彼女の体温を感じて・・・この憂悶から解放されたかった。

 

考えても、解決しない。

行動しなければ、何も動かない。

しかし、考えることをやめたら、そこで終わってしまう。

 

彼女と接するようになって、彼が持ち始めた思いは幾つもあった。

そのうちの一つが、今、彼の身体を巡っている。

 

彼女を欲しいと思う。身も心も、すべてが欲しい。

彼に夢中になって、彼とどこまでも一緒に行きたいと言ってくれないかと夢見ている。

そして、彼女に青磁が欲しいと言わせてみたい。

こういう昏い欲求を抱えて、彼が純粋に愛だけに生きることができずに踠いている様を、彼女が喜んでいるとは思えない。

 

戸惑っている。

そういう表現以外の言葉が見つからない。

彼女は、青磁という相手に対して、困っているように見える。

しかし青磁はそれを尋ねることはなかった。

それを聞いたから、青磁が彼女を諦めるということはなかったし、聞いてしまった以上は彼女に対する気持ちを抑えることができるのかと自問自答していたから。

・・・愛だと確信しているのに、それは確信ではなく過信であったのかもしれないと何度も思った。

でも、結論が出るまで待つと決めた。

 

間もなく、彼はマクドゥガル家に戻ることになる。

でも、その時には彼女が一緒であって欲しい。

こうして、炎熱に浮かされる時には、彼女に稜にいて欲しい。

 

 


18

 

やがて、彼の湿った髪に柔らかいものが触れた。

それが、彼女の掌だと気がつくまで、彼はずっと目を閉じて、幼子のように彼女の躯にしがみついていた。

これは自分の今の心の内のそのままだと思った。

 

彼女に固執し、彼女を戸惑わせている自分は、炎熱に浮かされているあの時のこどもの頃のまま成長していないのだと思った。

マクドゥガル家の麒麟だと褒めそやされて、自分は何でもできると思っていた。

絵が好きで、将来は世界各地を巡り、いろいろな風景や人物を可能な限りたくさん描き続けたいと思っていた。

それができなくなったとき。

自分はいかに小さく、何もできなく、そして人の思惑の中で翻弄される脆弱な器しか持ち得ないのだろうか、と感じた。

彼らが求めていたのは、青磁ではなく、誰でも良かったのだと知った。

マクドゥガル家の血を絶やさない程度に健康で、あの家の過去に口出しをしない者。青磁はそういう存在になると思われていた。だから好きなことを好きなだけ享受することを許されていた。

それなのに、青磁はマクドゥガル家最大の悲劇と言われた時代に関わった者たちとあまりにも近い容姿を持っていた。

姿形だけで彼の人生が決まってしまったように思えて悔しかった。

誰が悪いわけでもない。

自分の価値観が変化してしまったのだ。

だから、離れた。それだけなのに、それは彼の満足にはならなかった。

 

彼女の掌が、青磁の額に添えられる。彼は、彼女の躯に回していた戒めを解き、再び仰向けになって背中をシーツの上に重ねる。

 

彼女は、青磁の頭上から声をかける。どこまでも静かで、彼はその声に満たされていく。

「はやく治して」

「君が望むのなら」

青磁はそう言ってから笑いを含んだ。

そういう風に、彼女に責任を任せてしまうのは良くないことだ。

それはわかっている。

けれども、彼女に望んで欲しかった。

彼女の願いや言葉はいつも力強い。

いつもは柔和で何があっても、自分以外の者を優先させるほどに気優しいのに。

・・・・だから願った。

豁達で、何にも屈せず、そして彼女に対しては彼女が時折憤懣に溢れる表情を浮かべることすら楽しむ不遜な青磁・マクドゥガルであり続けることが・・・それは、マクドゥガル家で鬱屈としていた自分とあまり変わりないのかもしれないと思うことすら、吹き飛ばしてしまう程の威力があった。

「人任せにするような話ではなかった」

彼は両腕を乱暴に広げて、ベッドの上で身体を弛緩させる。

「こういう時にどうすれば良いのか、もう忘れてしまったよ」

歎きに近い感想しか、思い浮かばなかった。

 

やはり、彼女を引き留めておくべきではなかった。

弱いところを曝け出すほどに距離が近いわけではない。

疎まれるのが怖かった。

蔑まれることを懼れた。

それなのに、なぜ、彼女に対しては曝け出してしまうのだろう。

そして、彼女には、物思いすら受け止めて欲しくなる。

一方的な願いではなく、彼女が同じ状況であるのなら、青磁は聞いてみたいと思った。

彼女の心の呟きを、青磁は聞くことができるほどに近い場所に・・・彼女の炎熱に灼かれるほどに近い場所にいられるのだろうか。

煩悶が彼を痺れさせる。

彼女に対する配慮を痲痺させてはいけない。

青磁は、自分のことばかりを話している。彼女はそれを聞いている。

その状況が、彼にさらなる熱を加えていく。


19

 

彼女は青磁の髪の中に白い掌を埋めた。

灯りの加減なのだろうか。

暗闇に浮かぶ彼女の顔はただ、彼に向かって視線を向けている。

青磁だけを見つめる彼女の姿を恋い焦がれすぎて、彼は幻を見ているのだろうか。

そんなことさえ思った。

「君はどうしてそんなに優しいの」

勘違いしてしまいそうになる。

彼女が、彼を愛しているのではないのか、と思ってしまう。

身体を重ねたからといって、心が重なるとは思わない。

でも。

彼女は、彼の特別であった。

いつまでも優しく、いつまでも残酷だった。

最後の恋にしたいから、何もかもを特殊にしたいと思うのかもしれない。

恋は・・・愛は・・・どこに行き着くのだろう。

 

恋をしたら、それが恋なのだ。

 

そういう言葉が、マクドゥガル家には残っている。

 

確かに、そうなのだと思う。

今になって、実感する。

 

恋に堕ちた。

 

それだけで十分だった。

理由もいらない。前置きも必要ない。

誰かを愛するために、説明できる何かを用意することもない。

それが、恋であり愛なのだと知った。

誰かに心を預けても良いと思う。それが、今なのだと思う。

 

委ねることができると思った。

青磁は、小さな声で言った。

「優しい?」

「そう」

彼は頷く。彼女は、他の誰にでも同じ事をするだろう。

心が弱り、砕けそうになる気配を感じると、彼女は自分の気配を消して、相手を元気づける行動を選ぶ。

 

それでも。

彼女のすべてを委ねることを彼女が選んだのは、青磁だけであると信じたい。

彼女は誰でも良いと思っているわけではない。

少なくとも、現在の彼女の褥の相手は青磁だけであった。しかしそれを確認することが怖い。そうなのか、と尋ねたくないし、それによって壊れるものの方が彼には大きな痛手である。

 

なぜ、青磁が彼女の近い相手に選ばれたのかは考えない。

けれども、彼女を手に入れたとは思わない。

 

フランスの華になら、この心の靄が解明できるのだろうか。

そうではない。

青磁の心は己にしかわからない。

だからこそ・・・フランスの華にはすべてを話すことはない。

それなのに、彼と連絡を取りたがるのは・・・そうだ、決して望まれない結婚を彼が決行しようとしているからだ。それは、あの白金の髪の美しい人にも共通していることであったから。

共感を求めていたわけではないが、これから青磁が直面する様々な困難を、彼女に伝播することがないようにするための気構えを知りたかった。

幸せで、心地好い状況だけを味わう日々ではない。誰がマクドゥガル家夫人となっても同じであった。でも、青磁には、誰でも良いわけではなかったのだ。

「弱っている時に言っていることは、あまり信用しない方が良い」

「本人に言われても」

彼女は苦笑いを吐き出した。確かにそうだ。青磁はそうだな、と頷く。


20 

 

「弱っているから、君につけ込むこともできるよ」

「思っていないことを言わないで」

彼女の顔が、傾いた。

気配でわかる。青磁自身の様子より、彼女の気配の方が優先される。それは変わらない。

失調していても、そうでなくても。

 

誰でも良かったから、というわけではなかった。

自分でそう思い定めるというよりかはむしろ、彼女にそう思って欲しくなかった。

条件に合致した人物であったということが最初だった。

でも、それすら遠い幻や妄想であったのかもしれないと思う程、彼女と過ごす日々が平穏であったことを青磁は楽しんだ。

別れはほとんど存在しない、新しい出逢いだけを受け入れる日々。

彼の使命を忘れそうになった。

けれども、彼はその都度思い出す。

 

あの家を愛おしいと思えないが、あの家の糧になった者たちは愛おしいと思ったことを、思い出す。

 

「君は優しすぎるよ」

青磁は唇の端を曲げた。

そしてもう一度言う。

「優しすぎる」

過ぎることは不足と同じだ。

彼の求める完璧は彼女の完璧ではないことは、承知している。

だからこそ、告げてしまう。

「もう、帰った方が良い。・・・スペアキーは持っているだろう?」

彼はそう言って、また目を瞑った。

彼女の気配が遠のくまで、そうしているつもりだった。

送ると言ってみたり、行くなと言ったり、矛盾していることを繰り返していると思う。

彼女がその都度、それを受け止めていたら疲弊してしまう。

そう思った。もう、彼女は帰した方が良い。

彼女を送らなければいけない。彼女をひとりで帰すくらいなら、彼は堪えて平気な素振りを見せることに集中し、彼女を送り届けるまで何事もないように振る舞うことを選ぶ。

 

「青磁」

身を起こそうとした彼の頬が、彼女の両手に挟まれた。青磁は再びベッドに戻されてしまう。

彼の安息そのものが、彼を覗き込んでいた。

顔を屈め、額を青磁の湿った額の上に乗せた。

彼女の顔や瞳が近くなり、青磁は酷く狼狽して視線を彷徨わせた。しかし、見る対象を選ぶことができないほど、彼女が近かった。

彼の視線を怖いと思わない相手が、彼の貌に自分を重ねている。

「熱が相当高い」

それから呟く。

「ひとりにしておけない」

「同情は必要ないよ。それから、義務も感じることもない」

青磁は心にもないことだと思いながらも言った。

彼女は自分がそうしたいからと思わず、青磁が困っているから何とかしようと思っている。彼女が望んで彼女が青磁の傍に居ると言うまでは、待つのだと言った。その通りに実行することが、彼女への誠意と愛の証だと思う。

彼しかできないことを、彼が意識して行う。

 

「君の時間をだいぶ使わせてしまった」

彼がそう言うと、彼女は彼に額を押し当てたまま、ゆっくりと横に擦った。

「そう思うのなら、早く治して。そのことだけに集中して」

「君がこんなに近いのに?」

彼は微笑む。熱を感じていなかったのなら、そのまま顔を上げて彼女の唇に自分を重ねることに没頭しただろう。


S-side 炎熱2013 後編

21

 

彼女の掌が、彼の頬や耳に触れると青磁は身を竦ませる。幼いこどものように。

そして、いつも彼がそうして触れると彼女が見せる仕草と同じであることに気がついた。彼女が触れると、身が震える。歓喜のあまり。そして、戸惑いのあまり。

どうにもならないほどの熱が、彼の中にある焔を呼び起こす。

このままでいると、どれほど失調していたとしても彼女を抱いてしまいそうになる。

いつもは、彼から近付くのに。今は、彼女から彼に触れているから。

理性による戒めが緩みそうになる。

「・・・思っていないことではない。どうやって、君の心につけ込もうか考えているところだから」

青磁はそう言うと、彼女の手の甲に自分の手の平を添える。彼女の手は冷たくて心地好かった。自分の手の平は自分のものではないと思ってしまうほどに熱い。彼女を焦がしてしまうのではないのかとさえ思うほどである。

彼女の指先に青磁は自分の指を潜り込ませる。

 

「今日は来てくれて嬉しかった」

彼は正直に、自分の心をさらけ出した。

「予定があったはずなのに・・・君は来てくれた。それが嬉しい」

「調子が良くない時には、すぐに病院に行くか・・・誰かに連絡しないと。

取り返しがつかない事態になってからでは遅い」

「もう、今・・・取り返しがつかないことになっているよ」

青磁はそう言うと、彼女の両手を自分の両手で包み、そして腹に力を入れて顔を持ち上げた。

 

・・・彼女の唇を掠う。

ひやりとして、そして甘い。

 

肌の擦れる音がして、彼はベッドに堕ちていく。僅かな距離であるのに、それが遠く感じられる。

彼女は彼に両手の自由を取り上げられて、困った顔をしていた。

わかっている。そういうつもりで彼女がここに居るのではないことも。

 

「ほら・・・危険だよ」

青磁はくすりと声を漏らした。声が掠れているけれども、彼女に取り繕っても仕方が無い。彼女が欲しいと全身で訴えていることは、彼女にもわかっていることだろうから。

 

「君の肌でオレを冷ましてくれる?」

断られるのは承知の上であった。これ以上彼女をここに留めておけば、彼女を見送ることもできなくなってしまう。自分のために時間を調整してきた彼女の対応を、彼の懊悩で穢すことはしたくなかった。

だから、そう言った。彼女がそれで帰ると言ってくれることを期待して。

青磁の中には、彼でさえ抑えることのできない獣が潜んでいる。

マクドゥガル家の男子は麒麟の化身だと言われている。

しかし、それは聖獣と言われていても、所詮は獣であった。彼の中には獣が居る。狂気でできた塊だ。

 

彼女を独占したいと思うが故に、彼女そのものを無視してしまうことも厭わない気持ちになってしまう。だが、それを彼女に見せないようにしてきた。

 

でも、彼女は気がついているのだろう。

だからこれほど距離を置く。決して彼女は彼に夢中にならない。

極力、彼女が怯えないように、彼女に接してきた。

しかし、彼はそれでも、時々自分が壊れてしまうのかもしれないと思う時があった。

 

なぜなら、彼はマクドゥガル家の者だからだ。

狂気と孤独の家に育って、何も影響しない健やかな人間になったとは感じられないし、それは決してあり得ないのだろうと思っている。

 

実際、彼女を前にして失調している姿を見せてなお、彼はこの状況で彼女の心が絆されることを願っている。彼女の誠実さを利用しようとしている。そういう自分が確かに存在していることを確認しているようで、切なくなる。

わかっているのに、それを止めることができない。

それが後悔という名前以上の存在であることを承知しているのに・・・彼は彼女に対して、近付こうとしている。

 


22

 

彼女が戸惑っていることはすぐにわかった。

それでも、彼女の頬に自分の頬を押し当てた。彼女は自分の身体のどこを支えて良いのか困惑し、彼の身体の上に自分を乗せてしまった。

慌てて退こうとする彼女に、青磁は囁く。

「いいんだ」

彼女の肘が彼の顔の両脇に落ち着き、彼女の身体を自分の上に感じて、彼は背中から一筋汗を流した。

「どうして連絡しなかったの」

彼女の言葉に、青磁は手を震わせた。彼女にそれが伝わったらしい。彼女の瞳が更に彼を覗き込んだ。

これほど誰かを求めていながら、なぜ、彼は誰かを呼ばなかったのか。

 

青磁の行動には矛盾がありすぎる。

 

そう言って咎めているように見えた。

彼は彼女と目を合わせたままで、静かに告白する。

「誰でも良かったわけじゃない。君がいないのなら、誰が居ても同じことだから」

なぜ、わからないのだろうか。

青磁は微かに憤慨を感じる。

彼女でなければ意味がない。

他の誰かを彼の傍に寄せることもないし、こんな姿を見せたいと思わない。

しかし、彼女には予定があると聞いていた。

だから、誰にも状況を伝えなかった。

彼も既に成人している者であるから、万が一のことは考えている。

余程ひとりで立ちゆかなくなるような状況であったとしたら、どこに何を伝えれば良いのか、それは承知しているつもりであった。

しかし、正直にそれを言ってしまえば彼女が青磁の中でどれほど大きな存在なのかという事実を押し付けるだけにすぎない結果になってしまう。

彼女のことを待つ、と言った。

自分がどれほど彼女のことを好きなのかそれを証明し続けるための待機ではない。

 

うまくいかない彼女との関係に、青磁はもどかしさを感じるものの、それでも結論を急ぐことはしないと決めていた。

時が全てを解決するとは考えていない。

けれども、時をかけなければ得られないものもあるのだと知っているから。

なぜ、自分はこのように深い慾に遭遇しやすいのだろうか、と思う。

それは青磁が多くを願いすぎるか、強く願いすぎるからなのだと知ることの出来る年齢になった時には、彼は誰も愛せないのだろうなと思い始めている頃であった。

どんな者とも、どんな関係であっても、長く続かない。

友人とか恋人とか名前を変えてはいるものの、それらは彼の中で永遠という存在にならなかった。

だから。

フランスの華が、運命の人と呼んだ彼女を今でも想い続けいると知って、愕然とした。自分と同じ存在だと思っていたから。

そして、マクドゥガル家の男は、たったひとりの人を深く愛しすぎて壊してしまうという愛し方しかできないことも知っていた。

それに倣うつもりはなかったが、自分も他者からみるとそんな風に映るのだろうと自覚していた。

しかし、彼女は少し違っていた。

青磁の紫電を見ても怯まず、そして彼のことをひとりの男として扱った。

彼の家のことも、彼の持って生まれた謎も業も、特別なことではないのだ、と言い切った。

 

ひとめで恋に堕ちたわけではない。

彼女のことを好きになっても差し障りがないのか、彼の中で考えた時期があった。

けれども。

それらがどうでも良くなってしまうくらい、彼女は会話を進めていくうちに彼を魅了して、それが終了することはなかった。


23

 

青磁は彼女の両手から自分の手を離した。

彼女の手の冷たさより冷たいとは感じなかった。しかし、汗ばんだ掌に風が入り込み、彼の身体の熱さを再び教える。

彼の部屋はとても静かだ。何も聞こえない。僅かに、彼女と彼の呼吸音と空調の音、それに外の風が少し強くなってきたことを気配で知らせるだけだ。

どうしても、彼女のことが諦められない。

ここまで言って、彼女がそれでも青磁を拒否するのであれば。

彼は帰国の頃、自分の気持ちに決着をつけなければならないと思っていた。

「先回りして、私の予定を決めないで。私がどうするのか、私が決める」

「そうだな」

青磁は彼女の怒った口調に苦笑いする。怒っているのではない。哀しんでいると知っているから。

彼女に何も言わなかったのは、こうして予定を変更して欲しいと願うことと同じことになると思ったからだ。弱っている人間を見捨てて自分の予定を優先させるほど、彼女は他者を切り捨てることに無感動でいられない。

それを見越して、彼女に連絡するというのは、青磁の誇りが許さなかった。

彼女がいなくても、切り抜けられるというところを見せたかったのか・・・それとも、大学院に顔を出さない青磁について、彼女がおかしいと気がついてくれることを待っていたのか。

 

彼女のことは、彼女が決める。

わかっていることなのに、宣言されると・・少し胸が痛んだ。

 

すると、彼女は彼の額の上で顔を振った。彼女の髪が青磁の頬に降り、彼はくすぐったさに目を細めた。

彼女の身体が青磁の上に乗り、彼は離した手を彼女の身体の脇に添えた。

甘い重みが彼を痺れに誘う。

彼の身体に重なる重さに、甘さを感じたことなどなかった。彼女を知るまでは。

 

健康でないことを厭われた日々を思い返す。

けれども、彼女は青磁のために、言われてもいないのに、彼を気遣ってやって来てくれた。

このことが嬉しくないのだとしたら、彼の喜びはどこに行ってしまったのだろうかとさえ思う。

彼女と巡り逢って、ただ己の恋情だけでは相手を動かすことができないのだと知った。そして、相手を動かすには恋情がなければ少しも響くものがないということも。

相反する事実を受け入れて、その先にある何かについて同じこたえを出せるのであるならば、相手と同じ未来を視ることができる。それを知った。

愛しているというだけで、何もかもを乗り越えることはできない。

けれども、愛していなければ乗り越えられないものもある。

彼女を好きになって、そのことについて深く理解した。

 

誰かを愛するということは誰かを壊すことではなく・・・自分を壊すことなのだということを。

青磁は確かに、あのマクドゥガル家の男子の特徴を兼ね備えているが、同時に・・・あの家に集った女人達の気質も受け継いでいるのだと思う。愛する者に尽くし、愛する者に与え、そして奪われることを知りながらもそれが恋なのだと知る者たちと同じ魂が彼の中には宿っている。

彼女に迷惑をかけてしまった。

いらぬ心配をかけてしまった。

それが、青磁の焔を更に揺らめかせる。

今・・・彼女がこのまま彼に触れ続けるのなら。彼はもう、止められないと思った。

「君がこれほど強情だとは思っていなかったから」

青磁はそう言ってまた綻ぶ。

彼の忍耐にも限界があった。炎熱が、彼の理性を焼き切りそうになるほどの激しさで燃えさかっている。

「それなら、最初から・・・連絡してくれば良かったのに」

彼女が強ばった口調で、彼の口元に近い場所で囁く。

「これからは、そうするよ」

青磁の声も小さかった。彼女に対して、そういう態度はいけないことなのだと思っていたのに、彼女はそうではなかったから。嬉しい誤算に、言葉が震える。

 

 

 

 

                                             


24

青磁、と彼女は彼の名前を呼んだ。

「誰かに教えてもらって知るって、少しだけ哀しかった」

彼女の告白に、彼は瞼をぴくりと動かす。

青磁の中では大切な人であることは間違いない。

けれども、彼女が同じであるとは限らない。

だから、言わなかった。

彼女に負担をかけさせたくないと思ったから。

しかし、それが彼女を哀しませていたのだとしたら。

彼は熱を帯びた声で、彼女に謝罪する。

「今度は君に最初に知らせるよ」

「そういう意味ではなくて」

彼女が微笑むと、彼はそれだけで嬉しくなる。しかし、屈託のない微笑みではなかった。愁いに満ちた、少し寂しそうな笑顔。

「青磁が悪いのではなくて、私の問題」

「どういう意味?」

青磁が尋ねる。鼓動がはやくなってくる。

自分の期待する何かが得られるかもしれないという予感からくるものだ。しかし、それを急かさずじっと待った。

彼は待つしかできないけれども。

待つことによって得られるものもあるから。それを知っているから。

そのまま激しいうねりに身を任せてしまいたくなってしまう。彼女を抱いたままで、彼の熱が引いていくまで。

彼女は、一瞬、しまったというような顔をしたが、青磁は見逃さなかった。

これほど近い距離にありながら、彼女は受け流せると思っていたのだろうか。

少し可笑しくなって、声を漏らして笑うと、彼女の頬が動いて彼女は青磁から逃れようとする。

けれども、彼は素早く彼女の背を抱き、自分の胸の上に彼女を絡め取った。

彼女の指の温度を感じていたかったが、それ以上に今は・・・彼女の言葉が聞きたい。

「どういう意味だよ」

彼はもう一度尋ねる。彼女は口籠もっていたが、青磁がそのまま言葉を待って無言でいると、やがて諦めたように軽く溜息をついて、それから短く返答した。

「私が勝手に自分に失望しただけ。青磁が、ひとりで解決しようとしていたことを知ったから」

「オレのことで君が失望?」

少し顔を離すと、彼女の困った顔が見える。彼女は青磁の顔をじっと見つめながら、面白くなさそうに言った。

「そう」

彼は彼女の名前を呼んだ。

どうして失望したのか、それが聞きたい。

 

彼が彼女に連絡をしなかったから。

そしてそれを他者から聞かされたから。

何も知らないと思い知らされたから。

彼を知っているのは自分だけだと自惚れていたから。

 

・・・そういう言葉が聞きたかった。

残酷だと思うがそれが本心だった。

彼女の心に、彼が居るのだと彼女の口から知りたかった。

彼女と駆け引きを楽しんでいるのではない。それができるのであれば、もっと上手に彼女の本心を聞き出すことができる。それなのに、彼はどうにもならないもどかしさのために、ただ口を噤んで彼女の話を待つしかできなかった。

熱のせいだろうか。

だから、彼女に対してこんな風に、質問してばかりいるのだろうか。

「今日はどうして聞きたがるの」

「熱があるから」

彼は可笑しそうに言うと、誤魔化さないで、という彼女の文句が聞こえて来た。

「君に内緒にしていたわけではないんだ。ただ・・・こうして予定を変更して来てくれると良いなと期待してしまうから、だから言わなかった」

「あなたの普段を知っていれば、こうなることはわかっていたでしょう」

ああ、と思った。

また彼女は青磁のことを「あなた」と呼ぶ。心地良い響きであったが、同時に彼の中にある焔の勢いが増してしまう。

 

25

 

そして彼女は青磁の日常を知っていると言った。

そして彼女は、早口で言う。まるで、その場を駆け抜けて早く終わらせようとしているようであった。

「誰かが来ていれば、それですぐに帰るつもりだった。哀しい気持ちになるのであるならば、知らないふりをしていようと思っていた」

彼女の言葉が青磁の肌に雪のように降り注ぐ。心地好い声の響きが、彼の火照った肌から熱を奪っていく。

 

「オレはこの部屋には誰も呼ばないよ。君以外は」

それに、と言って青磁は苦笑する。

「君が何を遠慮しているのかはわからないけれども。スペアキーを渡してあるのに、何を心配しているのか、少しも理解できない」

彼が誰かにキーを渡すというのは皆無である。

ここは、人を招いて何かをする空間ではなかった。

殺伐としたという表現までには至らないが、これまで各地で短期滞在を繰り返している青磁の荷物というのは実に少ない。

ホテル住まいにした方が良かったのかもしれないが、それでは彼は彼女といつまでも心を通わせることはできなかったと思う。

生きている世界が違うと言われてしまうことが何より怖かった。そんなことは十分に承知している。でも、それでも近付きたかった。

 

「理解してもらわなくて結構よ」

彼女は素気なくそう言った。

彼は、何かを言い返す前に、彼女の身体を抱き締めた。

彼女の香りに混じって外気の匂いが残っていたが、彼はそれを肺一杯に吸い込んだ。

「・・・本当は」

青磁は彼女に囁いた。熱のせいだろうか。今日はいつも抑えていた様々なことが声になって彼女に向かって行く。

「君が看病に来てくれると良いなと思っていた。来てくれよ、と言いたかった。でも、それでは君を束縛することになるし・・・それに君はオレを束縛できるけれども、その逆がいつも必ず成立するとは限らない」

それから青磁は目を瞑った。

天井が揺らぐ。

彼女の顔が近くにあるからこそ、こんな風に無防備でいられた。

失調した時は、夜が明けない気がしていた。

青磁の孤独や虚などを埋めてくれる手の平を期待することができなくなっていた。

彼の炎熱は誰も鎮めることができない。そう思っていた。

 

すると。

彼女は身体を起こして、青磁の頬に自分の唇を押し当てた。

ふわりと彼女の気配が動く。

唇にではなく、彼の頬に彼女は唇を擦らせた。ぎこちないキスに、青磁は息を止める。

どうして良いのかわからなくなるほど・・目眩がした。

それが失調からなのか、それとも信じられない奇蹟のような彼女からのキスに戸惑っているからなのかはわからなかった。

彼女は素っ気なく繰り返す。

「・・・理解しなくて良いから」

今の行動について説明を求められても彼女は説明しないのだろうと思われた。

 

青磁の顳顬に汗が浮かぶ。ただ呆然とそれを受け止めるばかりで、余韻に浸る余裕さえなかった。

このことについて理由を考えたり、彼女の心の動きを推し量ろうとするなと言われて、青磁は困惑する。

何気ない動作ということで片付けたい彼女と違い、彼はこのことに意味を持たせたかった。

「つまり、君は怒っているのか?」

青磁は喉の痛みも忘れて尋ねてみる。

しかし、予想通り、彼女からの回答は得られなかった。

 

 

26

 

「それだけ元気なら、大丈夫そうね」

彼女は唇を突き出した。分が悪いと思ったようだ。

けれども。

青磁は、彼女の身体を強く抱き締めると、力強く引き寄せて今度は彼女をベッドに沈めた。

小さく悲鳴が聞こえて、青磁の身体の下で、彼女が不本意だということを全身で表していた。つまり、かなり激しく抵抗したのだ。

不調といえども、彼と彼女では身長も体重にも差がありすぎた。青磁は彼女の上に屈み込み、そして今度は彼が彼女の顔を覗き込む。

両手首を自分の手の平の下に置き、そして彼は軽く足を開いて彼女の上に身体を浮かせる。

「青磁」

一瞬で反転してしまったことに、彼女は酷く驚いていた。

「今、君が言ったんだぞ。大丈夫そうだ、と」

青磁は悪戯を仕掛けるこどものように邪気なく微笑む。

湿った臥榻に彼女を押し倒すのはやり過ぎだったかもしれない。

でも、今は離れて居たくないという気持ちが彼を衝き動かした。

「青磁が不調の時には、かなり我が侭になるということが良くわかりました」

彼女は溜息混じりに、彼の顔を仰ぎ見ながら言った。青磁が笑う。

「そうだよ。オレは、かなり我が侭だ。君に今日はこのままここに居て欲しいと思っているし。・・・今日は帰って欲しくないと思っている。君の都合を考えもしないで、君を今、思い切り抱いてから眠りたいと思っている」

最後の言葉に、彼女が顔を真っ赤にして目を見開いた。

そういうつもりではない、と言っているでしょう。

彼女がそう言ったが青磁は今度はその言葉を聞き流した。

無理強いするつもりはない。本当に嫌がるようであればすぐさま解放する。

でも。

彼が炎熱に浮かされている時には、いつも孤独であったが。

こんな風に彼女と話をすることによって、果てがないかもしれないと思った孤独な休息の時間がまったく違ったものになってしまう。

なぜ、これほどまでに心惹かれるのか。

また少し、理解したような気がする。

彼女は自分の心をさらけ出すことが不得手だ。その彼女が、青磁のためにやって来てくれた。そして、炎熱を気に懸ける。

その一方で、青磁が他の者を部屋に入れているのかもしれないと思う彼女の心中が、彼をせつなくさせる。

そんなことはないのに。

それでも、彼と彼女は互いだけを見つめていると言い交わしていない仲なのだと思い知る。

 

「オレは君だけだよ」

青磁は心を込めて、彼女に言った。

 

自分の中に何が渦巻いているのか、彼女は気がついている。それは青磁が指摘することではない。反対に、安心させたかった。

彼が彼女以外には、誰ともこうするつもりはないことを、知って欲しかった。

「そんなに器用な人だとは思っていない」

彼女が否定的な言葉を使う時は、決まってその逆を述べているのだ。

器用に相手を選ぶ人間であるのなら、青磁という人物に近付かなかった、と彼女は言ってくれているのだと思う。

 

彼女は彼を軽く睨んだ。

「なぜ、そんなに嬉しそうなの?」

彼の体調が良くないから、彼女はやって来たというのに。

彼がひとりでも困らないように、時間を作って彼女はいろいろ準備してきたというのに。

どういうわけか、まったくそれらのことが生かされそうもない状況に気がついて、彼女は彼の身体の下から逃れようと努力しはじめる。

「・・・・少しくらい、わかれよ」

彼はそう言うと、彼女の頬にキスをした。

先ほどの返礼だ。

けれども、そのままで終わらなかった。

彼女の頬を滑りながら、今度は耳朶や顔の輪郭に唇を押し当てる。

彼女の顔が熱くなっていくのがわかった。

何が始まるのか、そこではっきりと悟ったようだ。

鈍感なのか鋭い感性の持ち主なのか、まったくわからない。

 


27

 

彼女の安らかな寝顔を見つめながら、彼は彼女に毛布をかけなおしてやった。ゲストルームから持ってきたものなので、幾分乾燥しているものを選んだつもりであった。心地好い肌触りに、彼女の口持ちが心なしか緩んで微笑んでいるように見える。

青磁のベッドは湿りが抜けないままに冷えてきたので、このままにしておけば、彼女の方が失調してしまう。

彼はシャワーを浴びて汗を流し、もう一度解熱剤を飲んで水分を摂った。

かなり熱は引いてきたようであった。

しかし、違う熱の燻りが彼を動かしたことによって彼女が疲弊して眠り込んでしまっている。

体調が悪いのに、何をしているの

彼女はそう言って彼を窘めたが、それでも拒絶しなかった。

彼女の肌が、彼をいやしてくれた。

失調すると添い臥しが恋しくなるというのは本当だと思った。

しかし誰でも良いわけではない。幼い時には、家族の温かさが恋しかったし、今はただ、彼女が傍に居るだけで満たされる。

愛があれば何もいらないという綺麗事を彼女に囁くつもりはない。

彼は、いつかマクドゥガル家に戻る身だ。でも、その時には彼女が一緒に来てくれることを願い続ける。

炎熱というのは、願いなのかもしれない。

 

失調している時の青磁は我が侭だと言った彼女はそれでも彼を否定しなかった。彼が心の底で何を抱えているのかを知っているからだ。

そして、彼が素直に思っていることを口にする時に、他の誰も寄せ付けず彼女だけに吐露したことが、彼女をここに留まらせた理由になった。

他の誰かに、彼の秘密や孤独を簡単に明かすほど、彼の昏い思いの根は浅くない。

彼女の素膚を柔らかいブランケットで包んでやると、彼は再びベッドに潜り込んだ。身ぎれいにして着替えたものの、再び湿ったシーツに身を横たえる。しかし、不快感はなかった。彼女がそこに横臥しているからだ。

持ち運んだミネラル・ウォーターは既に空になっていた。そして時間もかなり経過している。今日はこのまま彼女を泊まらせようと思っていた。

こういう時に、スペアキーを持たせるのではなかったと少しばかり後悔する。

彼の知らない間に出て行かれては困るので、毛布を取りに部屋を出た時に、扉の施錠を改めておくことにした。

オートロックで完全管理されていたが、在室時に小さいこどもが勝手に徘徊しないように、チャイルドロックが採用されている。

彼の身長の遙か上にある小さな施錠であったが、これを使用するのは今回が初めてのことであった。

彼女が知ったら、相当憤慨するだろうなと思ったものの、彼の眠ってしまっている夜更けに帰宅すると決めて行動されることに比べれば、少しぐらい叱られても構わないと思った。

大切な者を閉じ込めるような行為であるのに、密かに心が躍っていた。

彼だけの彼女として独占できるからだ。

 

肌を重ね合うだけではない関係を望んでいる。青磁は、彼女をもっと知りたいと思った。

自分の予定を変更してまでやって来てくれた彼女に、さらに無理をさせてしまったと思う。彼女を自分の胸に引き入れてしまった後は、いつも思う。これが彼女は望んでいないことなのではないのだろうか、と。

しかし流されるような人でないことも知っている。

それでも・・・青磁は安心しきれない不安を新しく生み出してしまう。つい先ほどまで彼女を独り占めしていたというのに。

彼ができることと言えば、彼女にこたえを早急に求めないということだけ。

待つ、と言い続けているだけ。

それでも、彼女はこうして彼に少しだけ彼女そのものを見せてくれる。

彼は彼女の汗で濡れた髪に指を差し入れた。

彼もいつにない倦怠感を感じる。疲労していると実感した。

そういう時ほど、彼女が恋しくなるものなのだと知った。

誰でも良いわけではない。彼女だけしか欲しいと思わない。

それをうまく伝えることができずに、こうして彼女を引き留めるためだけに腐心する自分は、マクドゥガル家の男子であるのだろうかと疑問に思うこともあった。

しかし、そうなのだろうなと確信めいたものもある。

顔容が、先祖に似ているからというだけではない。ひとりの人を愛しすぎて壊してしまうのが、あの家の男の愛し方だ。誰に教わるわけでもないのに。いや、誰にも教わることができないから、そうなってしまうのだろう。

 


28

 

彼女が自分のためにしてくれたことを考えると、青磁は胸に込み上げるものを感じる。運命だとか必然だとか、そういう言葉で片付けられない出逢いを果たしたと感じるから。

そして自分の状況に酔いしれているばかりではいられないこともわかっていた。

これは永遠ではない。この状況は、ずっと続くわけではないのだ。

彼は毛布に顔を埋めた彼女の様子を見つめながら、彼女の身体に自分を寄せた。

頭痛を感じたし、悪寒も残っていた。

でも、それでも。

このまましばらくこうしていたかった。

 

彼女の髪を撫でながら、彼は呟く。

誰に言うでもなく、自分自身への言葉だった。

「・・・・マクドゥガル家の紋に、朝顔を入れる。オレの代で全てに決着をつけることはできないけれども。でも、それだけは為し遂げたいと思っている。

あの家の謎を解くのは、オレと君だ。もう、大体わかっているんだ。けれども、それを動かすだけの力が、今のオレにはない。ずっとあの家から逃げるようにして過ごしてきたから。

・・・突然戻って、いきなり当主などは務まるわけはない。

だから。

オレにはオレを信じてくれる人が必要だ。

それからオレが信じ抜けると思える人も。

何があっても、必ずやり遂げる。君の人生を変えてしまうのはわかっている。でも、きっと幸せにすると約束しないかわりに・・オレはきっとやり抜くから」

自分への言葉であった。彼女に直接向ける気はない。こうして自分だけの思いをぶつけても、彼女は戸惑うだけだ。それに、彼は彼女が彼を拒んだとしても、それでも帰らなければならない。

諦めることはできないが、あの場所でやらなければならないことがある。

恋を選ぶことができるのであるならば、どれほど簡単であっただろう。

こうして彼の炎熱を心配してやって来てくれる彼女のことを愛おしいと思う。壊してしまいそうなほどに・・・融合してしまうほどに激しく焔を燃やしてしまうほどに。

彼が横たわった時の震動で彼女を起こさないように、彼は静かに身体を伸ばした。

枕が変わると眠れないという神経質さを見せる彼女が、彼の寐台で睡りに堕ちている。

静かな寝室で、彼はひとり心を固める。

彼女のことを心から愛しているが、彼女がどんな決断をしてもそれを受け入れるだけの度量を育む必要があった。

これしきの発熱で、心を失いそうになるほどでは彼はまだ・・・まだ帰れないと思った。

帰りたいと切に願うことはない。できれば、戻りたくない場所だ。けれども、彼だけにしかできないことがある。

この後、青磁と同じような気持ちになる者を産み出さないために。

「・・・それが青磁の本音?」

ぎくりとした。

彼女の髪を梳いていた自分の指が止まる。

彼女が起きているとは思わなかった。

しまった、と思った。決して告げるべきではないことを、言ってしまったから。

「建前ではないだろうな」

彼はすかさずそう答えた。

軽く受け流して終わってしまう会話になるように祈りながら、彼女の顔を見下ろすと、青磁は彼女の瞳が毛布の中からはっきりとこちらを見ていることに気がついた。

 

それから優しく囁く。

「君がオレの朝顔であることには変わりがないよ」

こたえになっていないとわかっていても。それでもそう言って話を終わらせるしか彼には思いつかなかった。

「・・・青磁は失調すると我が侭になるけれども、素直になるのね」

思うことを何でも言う事を我が侭と言い、素直であると言う彼女の区別の方法に、彼は苦笑いを浮かべた。

「今日は熱に浮かされているから、言っていることはあまり気にしなくても良いよ」

「本当に?」

彼女がそう言って毛布から顔を出した。彼の寝室にあったものではないと気がつくと、小さな声でありがとう、と言った。彼に気を遣わせてしまったことを詫びる言葉だった。


29

 

「本当だよ」

彼の声は幼かった。強烈な睡気が襲ってきていた。

体温が下がりはじめたらしい。

眠ってしまう前に、彼は彼女に忠告した。

「今日はもう遅いから・・・オレが眠っている間に帰らないでくれよ」

それだけ伝えれば十分だった。彼女はこれで万が一、帰ると言っても彼に黙って部屋を後にすることはないだろう。

抱いて確かめたのに、彼女はするりと抜けて行ってしまう。

そういう儚さを持っているのに、とても強い人でもあった。

今日の遅れを取り戻すために彼女がどれほどの時間を捻出するのだろうかと思うと、彼女を崇拝してやまない。

「頼むから・・・君を送らせてくれ」

「それなら、早く治して」

「うん」

彼は幼い返事をした。彼女が言っているのは最初から同じであった。

「泊まって行けよ」

彼女は毛布の中で身動ぎしながら溜息を漏らす。

「青磁のことだから、帰れないように細工をしたに違いない」

言い当てられてどきりとするが彼は平然を装った。

「さあ・・・何のことかな」

彼女を閉じ込めてしまうことができるのなら、最初からそうしているよ。心の中でそう呟いた。

彼女は微睡んでいた途中であったらしい。声音ははっきりしていたが、動作は緩慢であった。

「・・・こうして一緒に居るのは、とても良いものだと思うよ」

「それを伝える必要があるのは、私ではないのでしょう?」

彼女の言葉に、また彼は返答に詰まってしまう。

彼が何に対してそれほど憂えているのか、彼女は知っているようであった。

「予行演習」

「私で練習しないで」

青磁と彼女は同時に笑った。

彼が家族に・・・自分の失調時には、家に伝わる水菓子を欲しがったことを伝えるのは、遠い先のことではない。

また、焼き菓子も時折欲しくなることを、いつまでも言えないままで終わらせることはないのだろうな、と思った。

彼女と一緒なら。彼女と一緒であるのなら。

それもすぐに実現できそうなことに思えた。

 

彼はもう一度、尋ねた。これで彼女がノーと言えば引き下がるつもりだった。

「・・・今夜は傍に居て欲しい」

「今夜だけ?」

彼女の返答に、彼は声を失った。狼狽していると自分でもわかる。

薄い瞳の側の頬が痙攣した。あまりの驚きで。

「それは・・・」

彼女はそれ以上言わずに、寝返りを打って向こうを向いてしまった。

しかしすぐに呆然としている青磁の方に向き直り、顔を顰める。

「このシーツ、交換しましょう。このままだったら、青磁の身体が冷えてしまう」

熱があるから、冷やさなければいけないのに。

彼女はそう言って毛布を身に纏いながら起き上がった。

綺麗だ、と思った。

どんな豪奢な服を纏っていたとしても、今の彼女の理知は決して反映することができないだろうと思われた。

内から出る美しさというものが備わっている人だと思った。どこまでも優しく、どこまでも強い。そういう人物が、マクドゥガル家には必要だった。

たとえ、誰もとわかり合えないとしても、諦めてしまうのではなく、誰もと心を通わせたいと思い続けるような、そんな人物が・・・。

 

今夜だけではない。これからもずっと・・・

彼にそう言わせないために、彼女が身を起こしたのだと思うと、それ以上はこの次以降に備えておいた方が良さそうであった。

 


30

 

「・・・いつか、誰かや何かのためではなく自分のために・・・」

彼はそこまで言うと、端整な口元を引き締めた。

彼の眼病が完全に治るとは限らない。

けれども、確実に変化していることを感じる。

もう一度、あのマクドゥガル家の敷地に広がる風景を描くことができるだろうか。

こうして、炎熱に浮かされた時のことを、話す事が出来るのだろうか。

彼を思い遣る彼女の前では、彼はいつになく自分のこれからのことを語りたくなってしまう。

なぜなのだろう。どうしてなのだろう。

そんな神妙な顔つきをしている青磁の前で、彼女がふっと淡く微笑んだ。

こういう表情をしている時の彼女には、何かが宿っているのではないのだろうかとさえ思えるような神々しさがあった。

 

多くを言わなくても良いのだ、と彼女は言いたそうだった。

その先を促すこともなく、目を伏せて、辛抱強く彼に繰り返す。

はやく良くなって欲しいと思うのは、彼女の心からの気持ちであったから。

 

「ゆっくり休んで。私は・・・あちらの部屋を貸して貰うから」

「駄目だ」

青磁は嗤う。気怠い睡魔が襲ってきたが、それでも彼女に向かって魅惑的な笑みを浮かべながら、頭を振った。

「今夜も、一緒に居てくれるだろう?」

彼はそう言って彼女に更に近寄った。

起き上がろうとしていた彼女は青磁に阻まれて、困った顔をする。

何と答えて良いのか思案しているようだった。

「それでは青磁が治らない」

「いいや、君と一緒でなければ治らない」

呆れた顔をする彼女に、青磁はくすりと声を漏らして笑った。

こうして、どんなに苦しい時でも微笑みをやり取りする相手がいるからこそ、炎熱を消し去ろうと思える。そう思った。

彼女がますます呆れた顔をしているので、彼は心の中で呟く。

 

単なる発熱なら、ひとりでも治せるけれども・・・そうではない炎熱は、ひとりでは治せない。

 

けれども、それは声に出さなかった。いつか、彼女がイエスと言った時に言おうと思った。

失調を理由に彼女にたくさんのことをねだってしまったから。

彼は気恥ずかしさと後ろめたさの中にある喜びを見つけ出すことで満足することにした。

「せっかく君が用意してくれた食事をそのままにしてあったことを忘れていたよ。何が合うかな。ワインか、それともブランデーかな」

「何を言っているの」

彼女が青磁の身体を軽く叩いた。病人が、何を提案しているのかと彼女は本気で怒っていた。

気怠い睡気がまだ青磁を包んでいる。

眠るより、こうして会話していたかった。

そして、彼女と過ごす夜はどの夜も素晴らしいもので・・そして彼の家のことを少し語って聞かせてみようと思った。

彼女はどんな感想を述べるのであろうか。

 

彼は炎熱に苦しんでいるはずなのに。

そして気怠い身体を横たえたいはずなのに。

汗で濡れた不快なベッドの上でいつまでも、こうして彼女と語りあっていたい気持ちになった。

 

青磁の朝顔となる人は、彼を窘めつつも、持ち込んだ食事を温める支度をすると言った。

そして彼にそれまでは休んでいるように、と厳命する。青磁に命令できるのは今のところ・・・彼女だけであった。

どうにも擽ったいような、嬉しいような、それでいてこの瞬間を決して忘れてはいけないのだという厳粛な気持ちが、青磁の炎熱を取り払ってくれるまでにはそれほど長い時間はかからないようである。

青磁・マクドゥガルはそんなことを思いながら。

乱れた髪のままで起き上がろうとしている彼の想い人の髪を、両手で整えてやった。

炎熱の乗る、大きな手の平を受けて、彼女は目を閉じて大人しくされるがままになっていた。

 

ひとりじゃない。

 

そう思える瞬間であった。

もう、炎熱に魘されながら孤独を味わうこともない。それを考えると、この状況がまた訪れないかと考える。

彼女に知れてしまったのなら、大変に叱られるだろうな。

そんなことを思いながら。

 

彼は、今日は彼女とどんな話をしようかと考え始めていた。

考えなくても、ただこうしているだけで良かった。

それが、彼の焔を鎮めてくれる。

傍にいて欲しいという彼の願いを受けて、彼女がここに居るから。

 

それから。

今夜だけで良いのか、と言われたことに対して彼はまだ回答していない。

今夜だけで良いわけではない。わかりきっていることなのに。

ああ、まったく厄介な焔を身に受けてしまった。

そう思った。

けれども、少しも嫌だとは思わなかった。

むしろ・・・この炎熱がずっと続けば良いのにとさえ思えてくる。

 

まだ完全に復調しているわけではないが。青磁は、彼女の髪に指を埋めながら祈るような気持ちで心の中で呟いた。

 

彼の朝顔は、いつも淡く微笑む。それが、彼を笑顔にさせる。

それだけのことなのに、それだけのことがただ、愛おしい。

 

青磁は、彼女の腕を取り、まだ身支度が調っていないと言い募る彼女の身が起きるように手を差し伸べる。

 

先ほどまで感じていた、睡りへの誘いを受けるわけにはいかない、と思った。

 

・・・今夜は長くなりそうだな、と思った。

 

FIN


S-side Balneum Scipionis. 前編

*01


青磁・マクドゥガルが濡れた体に吸水性の優れた素材の上着を羽織った時に、大きな溜息がプールサイドの縁沿いに漏れた。
均整の取れた彼の体が隠れてしまうことを惜しむ歎息であった。
ゆったりとした、水を含んでも体に貼り付かない布地が皺を刻み彼の体の温度が失われていくことを防ぐ。それは同時に、彼の整った引き締まった肢体を惜しげも無く晒す時間は終わりだと告知することと同じだった。
幅の狭い腰、伸びた長い脚、背中も胸も、肩から伸びる腕にも無駄なものはひとつも存在しない。水は彼の肌から、いとも簡単に離れて行く。
若いとか恵まれた体軀であるという以上に、彼がこの場にいる誰よりも特別な存在なのだと、彼が何も言わなくても全身が語っていた。
しかも、彼の顔立ちは誰かに似ていると言わしめることができない程に忘れることのできないほど印象的な顔立ちであった。

気の強そうな眉に、豊かな髪。
通った鼻筋は民族を忘れてしまうほどに貌の中で完璧な比率を誇っていた。
かつて、恋した人に「生意気だ」と言われた唇は情感豊かで真珠色の揃った歯を見え隠れさせる。
そして彼を際立たせているのは、形の良い耳に光る一点ものとすぐにわかる麒麟の模様のピアスと、片方だけ薄い瞳であった。
吸い込まれそうな、それでいて抗えない魅力に満ちた瞳で、人によってはそれを「紫電」と呼ぶ。
片方だけ薄いということも人を惹きつける。それでいて、彼はまったくそのことを後ろめたく思わないどころか、彼であることの証明のようにしていた。ひけらかすのではなく、隠し事はしないという心持ちでいるように努めているらしい。
眸子の鋭い青年は、ここに長く居る者ではない。
そう感じるからこそ、皆が彼に瞠目するのだ。
奇蹟のような人物であるが、彼はそういった視線をまったく気にしないでプールサイドに無造作に置いてあったロングタオルに手を伸ばし、そして自分の髪の湿気を除去するためにそれを被って鋭い紫電を一瞬だけ隠した。
彼の視線が怖いという者もいれば、たまらない魅力だと言う者もいる。
けれども、彼のことを、ただひとりの普通の男として見る人物に、彼はすっかり心を奪われて、彼女だけしか見つめることができなくなっていることも、誰も知らない。
水が滴る度に、周囲の溜息が増えて行く。

その青磁が、タオルを取りにリザーブしてあったビーチチェアとテーブルに近寄った時。
二人がけのそれに、誰も何もないことに気がついて僅かに眉を顰めた。
普段は前髪を下ろしているが、水濡れて秀でた額が露わになった彼の貌が一瞬陰る。

そこには、確かに人が居た気配が残っていた。
青磁はここにひとりで来たわけではない。
日差しの強い、雲一つ無い青い空の下で、彼は膝丈の水着から雫を滴らせながら唇を引き結んだ。

「おい・・・」
彼が連れてきたのは、彼の最も愛する、彼の朝顔だ。マクドゥガル家の男が、女性に向かって朝顔になって欲しいと言うのは・・・生涯の伴侶となって欲しいと求婚するときだけだ。
彼の家では、朝顔、と表現するときは永遠の女性を意味することもあるが、同時に禁忌の女性・・・つまり人生を狂わせる相手という意味も含まれている。
あのフランスの華が運命の女性のことをファム・ファタルと言うように。
大きく影響する人のことをそのように呼ぶことがある。けれども、青磁より前の数代は、それらの禁忌を避ける傾向にあった。それは、マクドゥガル家の当主の就任期間が異常に短いままに代替わりすること、そして男子は出生率が異常に低く、青磁が次の代の継承者と決まるまでに、相当の悶着があったことを考えると・・・青磁は、それでも自分の愛する人を「朝顔」と言うことを躊躇ってしまうような憂事を多く抱えている。
古くさい家系のしきたりであるかもしれないが、それでも護らなくてはならない理由がある。

彼が陸に上がるのを待っていたのかのように、数人が駆け寄ってきて、足場の悪い場所で彼に話しかけてきた。
ひとりなのか、ここに宿泊するのか、などと矢継ぎ早に質問する。

確かに、地元のものでなければ日帰りするには難しい場所にあった。
夕刻の海が正面に見えて、かつプールも整備され、各部屋には海に面した部屋風呂が設置され、専用のビーチからシュノーケリングも楽しめる。ゴルフ場もテニスコートも完備されているし、室内でスカッシュやフットサルなどができるに充分な場所も確保されていた。
バカンスを愉しむには十分すぎるほどに完備された場所であったが、それ以上に、場所を確保するにも一苦労するということで有名な場所であった。
それが、大きすぎるプールのコースのうちのひとつを終日独占し、それでもなかなか姿を現さない予約客はどれほどの特別な滞在者なのだろうかと周囲の者が噂に没頭している最中に現れたのが、青磁・マクドゥガルであったので、皆は騒然とし、連れ立っていた者が彼に見惚れてしまっている様を面白くなさそうに呆然としている者の嫉視を浴びながら、青磁は悠然と自分にだけ割り当てられたコースを泳ぎはじめたのだ。

けれども、彼が現れた時には連れ立つ者が居た。
気恥ずかしそうに俯いたまま、他の者の好奇を避けるようにして現れた若い女性であった。
彼は特別出口から彼女と現れると、彼女の肩を抱きながら颯爽と現れた。
まるで、彼女の披露目の場であるかと宣言するかのように。
しかし、当人は・・・彼の腕に抱かれて、大きなバスタオルに身をくるんだ人物はただ、首を竦めて彼の案内すら邪魔そうに困ったような表情を浮かべていた。



*02

彼女は少し離れた、フリースペースに座っていた。
手には、防水加工を施したシート端末を持っている。
タブレットよりも更に薄型で、色彩が鮮やかなことで話題を呼んでいるものであった。
有機ELをパネル化した開発技術を転用したもので、限りなく透明で曲がる光源を使ったものであった。彼はそれを見ると、彼女が彼の思惑の通りにプールで水と戯れることはしないのだな、と予測する。

元々、彼がいつも彼のマンションで会って、周辺を歩き回るだけではなく、どこか別の場所に行こうと言ったことが始まりであった。
同性の学友達と海に行ったところ、相当楽しい時間を過ごしてきたらしい。そこに彼女が居なかったことがとても残念だと土産を渡しながら、彼は今度は彼女とふたりだけで出かけたいと言った。
彼女は少し困ったような顔をして、今度ね、と言った。
彼が夏の長期休暇を利用して、彼の実家に帰国することを知っていたからだ。
もうすぐその日がやって来る。
日本では、戻ってくる頃には遊泳できる状況ではなかった。
海に行きたいのであれば、国外の南の方に旅行すれば良い、と彼が目を輝かせて提案したが、彼女はノーと言った。彼は学生で、実家から戻ってくればすぐにこれまでどおりの生活が始まる。それを返上して遊びに興じるなどとんでもない、と彼女が反対したところ、日帰りなら良いと言う交換条件になってしまい、彼女は青磁とともに日帰りで出掛けることになったのだ。
宿泊や交通にかかる費用は出す、と青磁が言ったが、彼女はそういう浪費は好まなかった。
そして、思い立って行動するより、計画的に実行したいのだと婉曲に断りの話をされて、青磁が代替案を持ってきたのが、このリゾートホテルでの休暇だった。
ここはフランスのホテル王が経営するホテルの系列であった。
未成年は入ることができない。5名以上の団体も入れない。ドレスコードがあり、静寂を破る者は即座に退去を命じられる。
そういう瀟灑な宿泊施設がひとつくらいあってもよいものだから・・・とホテル王は豁達に青磁に言ったが、それは計算された進出であることもわかっていた。抜け目がないが、どこか少年のようなその人と青磁は浅からぬ縁で結ばれている。

少ない客数と完全予約制の割合が他の宿泊施設よりも高いが、最高のサービスを受けられるオーベルジュとしても評判の場所だった。しかも、今夏はプールを改築したので、更に人気は高く、そして彼女が予約しても来年までは確保できないであろうと思われる場所であった。それを、青磁がいとも簡単に「予約が取れた」と言ってきたので、彼女は青磁が偶然に用意できたものではないのだということを知り、いつもよりも更に無言になってしまったのである。
彼女にはつてで、予約が取れて、かつモニター料金で良いのだと言った。
氏名登録もしたのでキャンセルするにも費用がかかると言われると、彼女は固辞する理由がなくなってしまった。
狡い追いつめ方だと青磁はわかっている。けれども、こうでもしなければ彼女は彼と一緒に遠出することもない。

「泳がないの?」
青磁は彼女に向かってそう言ったが、彼女は陽光から逃れるようにタオルを羽織りながら、僅かに唇を引き締めた。
「先に泳いでいて、気を悪くした?」
彼は彼女に囁くように言った。
いいえ、と彼女が首を横に振る。
「先に行っていて、と言ったのは私だから」
彼はほっと顔を綻ばせた。彼女の機嫌を取っているわけではないが、手に取るようにわかりやすい感情の起伏の人、ということではないので青磁には推し量りかねるところがある。
それでも、面倒だとか厄介だとは思わない。
彼女が彼だけに見せる特別な面があると知ってからは、特に。

青磁は濡れた髪から小さな雫を落としながら、彼女に言った。
「本当は気が進まなかった?」
今頃、そのように聞いても仕方が無いと思っているが、それでも彼女の浮かない貌を見ていると、青磁は手放しでこの状況を喜ぶことはできない。
それでも、彼は見知らぬ場所で彼女を独占できるということに、心を弾ませていた。
どうにもならないほどに好きになってしまった。他の者が嗤っても構わないと思うほどに。けれども、彼女は青磁の生涯に必要な人物であった。
由緒正しいマクドゥガル家の継嗣でありながら、心を浮つかせるなどと、と眉を顰める者たちもここには存在しない。
羽目を外すということもなかったが、こういう様子の彼女を他の者は誰も知らないのだと思うと・・・どうにも気持ちが安定せずに昂揚してしまう。

「自分で後悔を増やすようなことはしない」
彼女はそう言って、肩を持ち上げる。
青磁は、彼女のこのような考え方が好きだ。
嫋やかであるが、風に流されるような人物ではない。
彼女の精神は実に強靱で、青磁にでさえノーと言い切れる強さを持っていた。
彼の視線は紫電と呼ばれ、見る者によっては抗い難い目付きなのだと言う。
彼はそれを気にしない彼女の言葉に耳を傾けるようになって、随分と時間が経過した。
かけがえのない時間が過ぎていく。無為ではない時間。彼女は彼の肌に最も近い者になり、彼は彼女の心に一番近いと思えるようになった。けれども、彼女はこうして時折彼を不安にさせる。
引かれた距離を感じるからだ。彼女に夢中になっていると態度でわかるだろう。けれども、彼が彼女の何もかもに盲目的に従うのであれば、彼女はきっと彼の元から去ってしまうことも承知していた。
自分の中にある、譲れないものがあるから・・・彼は、マクドゥガル家の謎を解き明かし、耳に光るピアスの刻印を変更することを目指している。

誰に望まれなくても。誰に阻まれようとも。

恋をしてしまった。恋に堕ちたらそれが恋なのだ。
それを免罪符の代わりに使うつもりはない。けれども、抗えない力に、時々戸惑う。
これほどつれない人を、愛おしいと思うのは、彼の錯覚なのだろうか、と思う。
そう信じられるのなら、どれほど楽であったのだろうか。
この国に滞在している時だけの、割り切った関係であるのなら・・・彼は、これほど長い時間ここで過ごそうと思わなかった。
抱きしめたまま、マクドゥガル家の敷地に流れる河に沈んでしまいたい。
そう思うこともある。
実際、あの河には氾濫の度に底に沈もうとする男女が絶えることはない。
あの土地には、狂気が流れている。登を狂わせたように。静流の妻を狂わせたように。外からやって来る者はすべからくどこかを失っていく。
青磁はだから、彼女と水で戯れることを積極的に提案していなかった。この国では、年間を通して、どこでも水に潜れる。
様々な景色や季節を彼女と分かち合いたいと思っていた。
ようやく・・・外出して遠出することを承諾してくれた彼女は不機嫌そうに、水から離れている。
青磁の質問に、彼女は貌を上げて微笑んだ。
「まずは青磁が楽しむことから始めなければ」
彼女が居てこそなのだと言おうとしたが、彼は形の良い唇を引き結ぶ。水によって温度が失われた肌は、彼女の体温が恋しいと訴えている。けれども、必要以上に彼女に添わせることはしない。
それは彼の誇りであると同時に、彼女への誠意であった。好きになってしまったことは否定しない。けれども、どこが好きなのかと聞かれれば、どこもかしこも好きなのだと言ってしまいたいのに言えない雰囲気が彼女には漂っていた。
それが何故なのか、青磁は知っている。
彼女は・・・これがかりそめの夏なのだと思っているのだ。
夢のように過ぎていく夏で、来年には同じ事は起こらない。そう思っているから、彼女はこうしてやって来ているのに、他の者たちが見せる恋人同士の享楽に溺れることはないのだ。
そしてそれは非常に目立った。この場所でひとり醒めた顔つきで佇んで居る彼女は、まったく他の者に影響される気配はなかった。場の雰囲気を読めない人ではないが、流されることも呑まれることもない人物であった。だからこそ、青磁は彼女を生涯最後の人にしようと決めたのだが。

 

 



*03

彼女はこのような人目の多い場所で、青磁と行動することを好まない。
それは承知していたことであった。
彼女は青磁のことを恥ずかしい相手と思っているわけではない。逆だ。
彼女が、彼と一緒に居ることを恥じている。
一度だけ、それとなく聞いたことがあった。
彼のことを恥じているのか、と。
彼女は違うと強い口調で言い切った。
彼女がなぜそのような顔をするのかわからない、と言う青磁に、彼女はただ微笑むだけであった。
何も言わない。青磁が聞いても、彼女は何も答えない。
他者を観察することに長けている人であるのに、自分自身のことは上手に表現することができない彼女の不器用さを愛していた。

だから青磁は、好まないことを積極的に取り入れることはしていなかった。
極力、大勢の居る場所を避けて外出するようにしていたし、彼女が年齢や経験に対して不相応だと言い出すような時間と金品の浪費は避けた。虔しやかな彼女は、他の皆が喜ぶようなことでは喜ばない。

ここ数週間ほどお互いに多忙でまとまった時間が取れていなかった。だからこそ、こうして時間を捻出したのだが、それは彼女も同じだと思う。
無理を言って時間を空けて貰ったのは青磁の方であったが、彼女もまた多忙を極めているはずであった。詳細な予定を青磁は知らない。それで良いと思っているのではない。今は、まだそれで良いのだと思っているだけだ。
容易く届くような人であるのなら、青磁はこれほどまでに心惹かれなかったであろう。しかしながら、彼女の気持ちを知りたくて、少しでも距離を縮めたくで、連れ出してしまった。
部屋で本を読みながら、話を交わし、時にはベランダに設置した風除けの中に端座する草花たちの成長具合を確かめることが何より楽しいようであった。彼女が何を好み、どんな時間を過ごしたいのか最近になってようやく感じ取ることができるようになった。
しかし、青磁はもう一歩だけ先に進みたいと思っていた。

今日、天気が良ければ夜には満天の星が眺めることが出るだろう。
だから、今日は晴れれば良いと願っていた。
これを下心、と言えばそれまでであった。

青磁は、彼女と今日は宿泊するつもりでやって来た。
彼女は日帰りであると信じているけれども。

「君は楽しんでいる?」
濡れた髪の間から、青磁が瞳を覗かせて彼女を見ると、彼女は目を伏せたままで言った。
「とても」
冷たいのか、素っ気ないのかわからない。
けれども、彼女はとても優しい人であることも、青磁は知っていた。強くて、慈愛があり、そしてどこに居ても自分のことだけで手一杯になることはない。
惚れたからそう見えるのだ、と言われることもあったが、青磁はそう思わなかった。

彼女は、彼女なりに考えてくれている。
それがわかるからこそ、彼は待てるのだ。

「水には入らないの?」
「後で」
彼女が熱心に読み耽っているのは、青磁が貸してやったシート端末であった。薄いが鮮やかな色から淡色まで細かく指定できるので、青磁の眼に負担のかからない端末であった。
彼女の持っているものに興味を持った者が何人か覗き込んで行ったが、すぐに傍らの青磁の風貌にぎょっとしたような驚いた顔をして足速に立ち去ってしまう。
他の者の視線に晒すために彼女を連れてきたのではないが、彼女が人に注目されると、どこかくすぐったい気持ちになってくる。
まったく矛盾する気持ちについて、フランスの華であれば的確な表現をしてくれるのだろうか。

そこで彼女は顔を上げた。
どきり、とした。
青磁は微笑んでいた端整な貌に、次にどういう表情を浮かべれば良いのか忘れてしまうほどに、今の彼女の表情は彼を惹き寄せた。

普段、彼女は露出の多い服装を好まない。
けれども、プールサイドでチェアに座る彼女は、いつも見る彼女と違っていた。
そうだった、と思った。

彼女のパイル地のフード付きの上着を着ていた。
そして先ほど羽織っていたタオルを膝の上に乗せている。
まったく彼女の肌が見えないか、というとそうではなく、そのタオルの下から覗く素足は、彼女が水着を着ていることを青磁に教えていた。
覆いそこねてしまった彼女の大腿からちらりと淡い色使いで、細かい花柄の布地が見える。遠目で見るとドット柄に見えるが、近くで見るとそれは小さな円形の花だった。彼女のような東洋人にはとても良く映える色であった。
そして彼女の爪先は、僅かに色が入っており、日に晒されて乱反射している。細かい粒子入りであった。それで、彼女も今日は特別だと感じていることを知って、青磁は、また微笑んでしまう。

そして、陽光の下で見る彼女の裸の足に、青磁は眼を逸らす。
目のやり場に困るほどに大胆な格好であるわけはない。彼女はロッカールームに入る前に念押ししてきたのだから。
「期待しているよ」と言った青磁に、彼女は手の平で腕を軽く叩くと振り向くまでもなくロッカールームに消えて行ってしまった。

本当は、見晴らしの良い部屋をチャージしてあったのでそちらで着替えさせれば良かったのだが、青磁の思惑の通りに行かないことを学んでいる彼は、何も言わずに共用の更衣室に彼女を連れて行った。それも全面改装されていたので、心地好く使用できることを事前に確認していた。

こういう外出は、はじめてではない。
彼女と付き合い出す前にも、幾度かこうやって出掛けたこともある。
恋愛もはじめてではないし、このように連れ立って遠出することもままあった。
それなのに、なぜなのだろう。大勢で出掛ける時にはなかった感覚だ。
彼ははじめて片恋の相手と出掛ける少年のように、何もかもに確認をし、昂揚して眠れない幼いこどものように、心が浮き立つ自分を認識していた。

そういう気持ちは、久しぶりのことだった。

確かに、彼は夢中なのだ。

「もう少しで読み終わるから」
彼女はそう言って指先を動かしながら、読み物に耽っていた。
青磁はその間、彼女の顔をじっと見つめる。
元々化粧気のない彼女であったが、今回は髪の毛を軽く結んで耳元が見えていた。彼女を抱いている時か髪を梳いてやった時にしか見ることのできない、彼女の小さな耳朶が見えていた。

テーブルの向かい側で、彼は足を組み、しばらく彼女のために無言の待機をすることに決める。
こういうことはいつもあることであった。
そして青磁も、考え中であったり手配中であったりした内容を彼女のためだけに中断すると、彼女は途端に不機嫌になった。

マクドゥガル家の夫人として、彼女に決めたいという話はすでに正式に申し入れてあったが、当の本人の承諾がなければまったく意味のないことだと言われて保留になってしまっている。今回の帰国も、そのことについて話し合うことになるだろう。反対しているわけではないし、彼が持ち込んだ彼女の身上というか釣書については、拒絶される理由もなかった。
何しろ、彼女には強力な後ろ楯があるのだから。

これが、最後の長期留学になるだろう。もう彼はそういう言葉で逃げることをやめた。あの家の不幸の連鎖を断ち切るのは自分であり、そのことによって何が起こるのかも、薄々察している。その時には、彼女が傍に居て欲しい。勝手な願いであったし、彼女のことをまったく無視した願いであることもわかっていた。
だから、説得するための時間は惜しまない。
それでも。
彼女のことは、条件が合致しているからという理由だけではない。彼女に愛をしてしまったのは青磁であったから。そしてその彼女は彼が望んだとおりの人であった。それだけではなく、彼女は青磁の目の前で彼が眼を細めてしまうくらい、素敵な女性になっていく。

すると、彼が想定していたよりも早く彼女は目線を上げた。
充実し満足した顔をしていたので、読了したのだろう。

「青磁、ありがとう」
彼女はそう言って、大事そうに自分の足元のバスタオルにそれを包んだ。
防水性があると聞いていても、やはり気になるのだろう。
先に泳いでいてくれと言っていた彼女が青磁の視線を感じて、唇を閉じた。
「何か、飲む?」
「まだ必要ない」
彼女の言葉が、最近理解できるようになった。
これは断りや拒絶ではなく、後で飲む、という意味だ。
日本語は奧が深いなと苦笑するが、彼は外国人であるのにかなりという域を超えて堪能であった。

そして彼女は顔を上げると、彼女と同じ様に上着を羽織っていながらも胸元が開けている彼の姿に今さらながらに気がついたようで、僅かに顔を赤くした。
「何だよ、見慣れているだろう?」
「青磁」
彼女の険を含んだ視線も、今日は青磁にとっては甘い棘でしかなかった。

 


 

*04

彼女がこういう冗談を好まないことも知っていたが、今日は緊張や緊縛が外れやすい状態にあるようだ。
その状態を、箍を外すと言うのだ、と彼女は言うけれども。

青磁は周囲の視線などは最初から気にしていなかった。自分の容姿はこの国の者にとてもよく似ているし、通名として使用している名前はこの国に馴染みの深い音で構成されている。そういう風にしろ、という家のしきたりのようなものであったので、あれこれ聞かれることにももう慣れてしまった。
うんざりした時期もあったけれども、今は・・・この名前で良かったと思っている。

何をどうしたい、という明確な目的があったはずなのに。
彼女に見られてしまうと、それらはすべてまったく整然としていない思い付きのように思えてしまう。
青磁は、彼女が退屈だと言うことを懼れていた。
彼女はそういう風に人を失望させるようなことは言わない。
だからこそ、青磁は・・・自分の願いのとおりに彼女が実行しているだけではないのかという疑いを捨てきれない。
彼が強く望んだから。
彼の束の間の恋愛に付き合っている・・・そう感じてしまう自分に迷いがあるのだと思った。
そういう弱さも含めて、青磁は彼女に剝き出しの自分を見せる。
彼も若かった。他の者と同じ様に・・・彼女に楽しんで欲しいと思う一方で、彼女と世間一般の夏を過ごしたかった。
彼がこの国で過ごせる夏は、数えるほどしかやって来ない。
それよりもずっと長い時間、この国で夏を迎えている彼女には、いつもの夏かもしれないけれども。
青磁には、これが最後であるだろうと思う季節であった。

彼は、自分の国に持ち帰る戦利品のように彼女を想っているわけではない。それをどうやって彼女に伝えるのか・・・言葉では無理なのだという結論しか出なかった。
だから。
彼女を、こうして遠出に誘った。

皆で出かけた時に、青磁の意中の人とは、その後はどうなったのだと聞かれた。皆がその話を聞きたがるが、青磁はあまり多くを語らないので、余程大事にしているのだな、という聴取結果で満足したらしい。
しばらく口出しはしないという暗黙の了解が得られた。
確かに、彼は誰にも心を飛ばすことはない。
派手やかな見た目よりも、ずっと真面目で誠実なのだという評価を得られて、青磁はこの国の者は善良で人の良い面を見ようとする傾向が強いのだ、と改めて思った。
しかし。
彼女も同じなのだろうか、と思うと不安という芽が彼の胸の中で一気に芽吹いてしまう。
何度摘取っても。それは幾度も芽を吹いてくる。

彼は待つと言ったし、それを曲げるつもりもない。
ようやく、彼だけには特別な面を見せてくれているのだと実感できるようになった。

・・・自分が不安の時には、相手も不安なのだ。

そう思うことにする。自分の中の問答だけで解決できない課題を、青磁は乗り越えなければならない。

「ビーチに出ることもできるし、このウェアのままで大抵の場所には出入りできる。何か、不足があるようなら、遠慮しないでくれ」
そこまで言ってから、まるで彼の家に招いた時のような口調になっていることに気がついた。
軽く嗤う。
青磁は、彼女の落ち着いた物腰とは反対に、かなり焦っている。
彼女には、モニター扱いだから、と言っていた。
かなりの負担を青磁が引き受けているのではないのか、と心配した彼女に。
必要ない、と言った。
嘘は告げられない。けれども、心配させたくない。
彼女は、マクドゥガル家の夫人になる人だ。
今後、こういったことで逐次、気に懸けてしまうようであったのならマクドゥガル家の当主としての自分との間に、深い溝が入ってしまう。
だから、最初から見せておきたかった。

彼女は、贅沢ができるから、彼と居るのではない。
だから、彼女が良いのだ。
同じ様な環境で育った者の方が、こういうことに時間をかけないで居られることは承知している。
勝手がわかっているし、何より・・・マクドゥガル家のことを説明しなくても最初から基礎知識として得ていることが多いからだ。
彼女は青磁の話を聞くと、少し顔を傾けて考えているようだった。
・・・彼女ではない者達と出かけたこの間の外出は楽しかった。
学友と学ぶことは、勉学だけではないのだと実感する。
結局・・・彼の生国でそれを味わうことはできなかった。
どこに行っても、彼の容姿とマクドゥガル家の名声と、そして彼がなぜ片眼だけ薄いのかということを熟知している者はそれを尋ねないことによって知っていることを証明してしまっていたから。

聞きたいことがあれば青磁本人に聞けばよいのに、皆、そうしない。
彼の機嫌を損ねることを懸念していた。
人の一生には、谷もあれば山もある。
それなのに、何も傷つかないで、何も感じないで生涯を終えることは青磁にはできなかった。
いや、できなくなった。

茶色の髪のあの人に出会って、それは人生の大きな部分を手放してしまっているのだということを教わった。
人は、傷つくから、癒されることを知る。
失うから、愛して愛され、得ることの喜びを知る。

だから、彼は半乾きの頭に手を入れて、無造作に髪を散らした。

「君はどうしたいの?・・・オレは、君と一緒に居られればそれで良い」
「判断を人に委ねてはいけない」
彼女はそう言ったが、口調は柔らかであった。
いつもの・・・彼女であった。
どんな場面でも、どんな服装をしていても、彼女は少しも変わらないのだ。
「青磁はどうなの?私が、青磁の予定を狂わせてしまった?」
彼は言葉に詰まる。
何でもお見通しであったというわけだ。
彼が自分の心の中で巡らせていた、彼女との行動予定について彼女は把握してしまっているのだろうか。
いや、そうではない。
日帰りだと言ってやって来たから、時間を気にしていると思っているのだ。
「ここは知り合いのつてで予約できた。でも、その代わりに、施設を回って細かく気になったところを報告することになっている」

道中、差し入れを持たせてくれた「ambush」の店主は、青磁を見て髭面の中から満面の笑みを見せた。その眼は悪戯っ子のような目付きだった。
青磁の好む中国茶と片手で摂取できる軽食。彼らのためだけに作られたオリジナルの料理だ。
何だか、息子の初デートにそわそわする親のような気持ちだ、と言っていた。
青磁は苦笑いを浮かべて、礼を述べただけであった。
いつか、あの夫妻もここに招きたいなと思った。
なにより、誠実で生真面目で礼儀正しいこの国の恋人達が寛ぎながらも礼節を重んじる場所ということで設定した空間だ。
あの人は・・・こういう時間を持ちたかったのだろうか、と思った。
フランスに住む、マクドゥガル家に縁の深い人物のことを思う。
近いうちに、彼女に引き合わせたいと思っている。
それから・・・青磁の耳に光るピアスを作らせた人物にも。

彼は哀しい半生を送ったが今は静かに人生を過ごしている。
彼女を連れて行きたいと思う場所は無数にあった。
そのうちのひとつが、この場所なのだと思う。
大きく呼吸すると、彼の胸元から腹部にかけて大きく筋肉が動く。

「オレは・・・君が喜ぶ顔が見たい。それだけ」
青磁がそう言ったので、彼女は聞いた瞬間に緊張を走らせた。
全身にそれが伝わって、彼女の膝上に、タオルに巻かれた端末を彼女が強く握りしめて、そしてそれは機器に負担をかけると気がつき慌ててスチールテーブルの上に置いたのを、青磁は黙って見ていた。

彼女には何度も好きだと告げている。
時には、愛している、と言う。
他の者には言わないことなのだと知って貰うために、彼はかなり自分を律して行動しているつもりであった。
そして、彼女とは何度も夜を過ごしている。それでも、彼女と恋人同士なのだと言い交わすことも認めて貰えないし、彼女の恋人なのだと誰かに紹介されることもなかった。
人に認めてもらうことが目的で、彼女に恋しているわけではない。
しかし、これほど難攻不落の人の頑なな心の内にあるのは、一体どんな迷いなのだろうかと思う。



*05

「あまり気が進まなかった?」
直前まで、熱心にシート端末に見入っていた彼女に、青磁はそっと言った。
そうだと言って欲しくはなかったから、そのように尋ねた。しかし、彼女に「青磁がそう言ったのだから」と言われることが何より怖かった。彼女は自分の意志が働かなければ、このような場所には同行市内。
でも。
自分が特別なのだと強く実感したいと思うのに、彼女はいつもそれらの縛めを軽く躱してしまう。

自分は年齢相応の恋愛を楽しめていないと忠告されたこともあった。
でも、それでも良い。・・・それでも良いのだ。
彼女と一緒なら、それでも良い。マクドゥガル家の凝った想いが彼女を縛ってしまうかもしれない。だから、彼は待つのだ。自分の想いが、彼女にとって重すぎて、背負えないと言うのであれば、少し退くつもりであった。
でも、諦めない。
青磁は、彼女を最後の人にすると決めた。もし、それが叶わなかったから・・・自分は、生涯結婚しないだろうと思った。養子を迎えることがあるかもしれない。
しかし、妻と呼ぶのはひとりだけ良いと思っていた。
真実の妻はひとりだけだったのに、かりそめの妻を持った誠次。
たったひとりの妻しか持たなかったのに、妻以外の人との子を持った静流。
遡れば、理由のわからない恋愛を受け入れた者が多すぎた。
だから、マクドゥガルの家は、たったひとりと決められないのだ、と言われた。フランスのアルディ家のように。
あの家と本当は縁続きなのかもしれない。
シャルル・ドゥ・アルディが突然、主治医として青磁の前に現れたことにも、何か理由があるのかもしれない。
しかし、マクドゥガル家の歴史には、空白と空欄が存在する。
それを埋めるのも、青磁の役割だと考えていた。
それから・・・もっと大事な使命があった。

だから、シャルル・ドゥ・アルディとので出逢いと繋がりと・・それから、その先にあった様々な苦悶は、必要不可欠であったのだと思うと、青磁は複雑名気持ちになる。それを包み隠さず、彼女に告げたのなら。青磁の心は軽くなるかも知れないが、彼女のこれからを曇らせてしまうことになりかねないと思った。
マクドゥガル家に必要だから、彼女を好きになったわけではない。
好きになろうとして近付いたのは確かであった。
埋められない空虚を埋めてくれるのは、彼女だけだと思った。
でも。
彼女はそれ以上の存在だった。
恋をするのではなく、愛をすることになった。
恋に堕ちたのではなく、愛に堕ちた。

恋に堕ちたら、それが恋なのだ。
そういう言葉を残した者もいたけれども。
青磁は、愛に堕ちてしまった。

愛をしたら・・・愛に堕ちたら、それは愛にしかならない。

そう思った。

・・・人との出逢いに、そういう風に理由や原因が恋愛を呼び寄せ、それを必須とするマクドゥガル家の考え方がどうにも受け入れ難い。
でも。彼女となら、例外を考えることも苦痛ではなくなった。
それを、彼女の国の言葉で、ひとことで言えない自分がもどかしい。
「水は好きではないのか?」
「いいえ、好きよ。・・・この国は水で囲まれた国だから」
彼女のこたえはいつも美麗であった。
そして彼女の具体的な思い出が連鎖することはない。なぜなのだろう、と思ったが。彼女のそれまでの経緯を尋ねると、なるほどと思わざるを得なかった。
青磁も、すべてを彼女に時系列に語ることはできなかった。
人の一生というものは、必ずすべてが共有されるものではないのだ。
そう思っていても、相手を知りたくなる。それが恋であり、相手をどこまでも信じたくなるのが愛であるのだと思った。
「水に囲まれたところでも・・・もっと違うところにもある」
「それは、青磁の育った場所?」
「そう」
彼は短く答えた。彼の育った場所のことを、彼女に詳しく話していないことに気がつく。・・・彼女のことを知りたいと思うのに、自分のことは少しも語っていないことに気がつく。
自分のことを語らないのに、彼女のことを知りたいと思う。それはとても勝手で独りよがりの願いではないのだろうかと感じた。
来ることは出来ても、行くことは出来ない。
そういう、一方通行の想いであるのなら・・・それは、それで心安らかであったのだろう。でも、彼は、今は・・・彼女の心を知りたいと思う。
簡単に説明できない様々なことが彼の中を巡って消えていく。告げなければわからないあの家の陰鬱な特徴を、敢えて教える必要があるのかどうか、彼は考えてしまう。
恋愛というのは、時に思いものだと感じる。
特に、性別の差を理由にするつもりはないが、家を継がなければならないと思う者には、配偶者の条件というものは重要になってくる。
打算ではない。
幸せになりたいから。相手を幸せにしたいから。
だから、考えてしまうのだ。
条件という言葉で片付けることはできない。

人が長く生きるにつれて、自分ではどうしようもないことで縛られていくことを感じていく。それが大人になるということなのだろうかと悶絶したこともあった。
けれども。
自分が、自分を捨てられない。それでも、あの家の根本を覆し、新しい未来を敷き直すのであるのならば。
彼女は必要不可欠な存在だった。部品とは思っていない。彼女は、マクドゥガル家に迎えるには勿体無い存在だと思う。でも、それでも彼女を迎えたい。
どこでも幸せになれる人を、マクドゥガル家の土地に搾取するような行為を、青磁はあえて行おうとしている。
だから、待っている。
それでも彼女がイエスと言ってくれる余地があるのなら。
待とうと思う。
長い時間がかかりそうであっても、待てる気がする。
走り抜けた先に待っているものが・・・青磁にとっては決して無為ではないのだと信じられるから。

それでも、マクドゥガル家の事情とは関係なく、こうして逢瀬を楽しんでいたい。それは本当の気持ちであった。
彼女が心から安らいで楽しめることに青磁が同席できるのであれば。
極力そうしたかった。
彼女は水を恋しがる。けれども、マクドゥガル家に入ってしまえば・・・自由気儘な生活はなくなってしまう。
それで幾度も壊れてしまったマクドゥガル家の夫人の話を聞いていた青磁は、それでも彼女に「だいじょうぶ」と言うことはできなかった。だからこそ、彼女は何も言わないのだろう。青磁の企画した旅程であったとしても、それは素晴らしいと称賛しない。なぜなら・・・彼女は、イエスと言ってしまったから。彼の朝顔になるのだと承諾してしまったから。
だから、これから先に、彼女が見る景色は、彼女そのものとして見る最後の風景なのだとわかっているから・・・彼女は彼と遠出しようと思っているのだろう。


 

*06

青磁は湿った水の空気に目を細める。こうして彼女と遠出することになるとは思っていなかった。いつか、彼女にもマクドゥガルの敷地の自然を見せてやりたい。そう強く願うようになった。
特に、ここ最近は彼女が自分の未来の中にいることを想像する機会が増えた。
その場限りの恋情で満足することができなくなってしまった。
傾いたと思ったら、それはもう元に戻すことができない。
いいや・・・戻したくなかったのだと思う。
後戻りしたくなかった。振り返ることを放棄したのではなく、前を向き続けて、その先に何がやって来るのかを待ち受けていたいと思ったのだ。
それは、勝手な・・・若すぎる願いなのかもしれない。
だから、待とうと思った。
今すぐにでも、彼女を連れて行きたいと思ったがぎりぎりまで待とうと思った。きっと・・・刻限がやって来たとしてもそれでも待つことをやめるということはやめることはできないのだと思う。
本来なら自分がはやく戻って、あの家の鬱屈した原因を取り除く作業に取りかかるべきであろう。
でも。彼にはともに歩む者が必要だった。彼ひとりでは決して為し遂げることはできないことはわかっている。
だから誰でも良いのだと言うつもりはない。

それを忘れることができるから、彼女といたいのだというのではなく・・・彼女は、彼にいつもそれを思い出させる。決して忘れさせない。帰らなければならない場所のことを思い出させ、そこでやり残したことを、固い決心でもって執り行えと言い続ける。それなのに、早く帰れと言わない。

彼と彼女は、実に不思議な関係であった。
恋人同士の熱を交わすだけでは得られない心の静寂を感じる。
なぜだろう。
彼女は彼を独占したいと言わない。行きたいところに行けと言う。それが嫉心からくるものではなく、本当にそう思っているのだ。
呆れてしまうくらい、彼女は風変わりな対応しかしない。
こうして出掛けているのに、熱心に端末を覗き込んでいる彼女を見て微笑んでしまう
その場の雰囲気が読めないのではなく彼女はどちらかというとかなり繊細だ。
けれども、あのフランスの華と同じ様に他人を寄せ付けないのではなく、彼女は人に近付くことを懼れない。
・・・かつて、青磁がこの人なのだと決めた、あの茶色の髪の人のように。

「なに?」
彼女が青磁に尋ねる。
「いや・・・」
青磁が口籠もる。彼は言い淀んだりしない。いつも相手を見据えて、そして従わざるを得ない力を相手に放つ。
青磁が怖いと言うもと、彼に魅了されて無条件に従ってしまう者のどちらかが多かった。
彼は生まれながらに人を従わせることができる。それは特別でも特殊でもない。彼が欲しているからなのだと思う。
誰かから与えられた能力であるのではなく、彼が・・・きっと、人の歓心を得たいのだと強く願っているからなのだと思った。
餓えているから、そう思うのだ。
それまでは何不自由なく、何を選ぶこともできるのだと思っていた。
マクドゥガル家の悲劇のことも、承知していた。

そして。
自分が、その時の悲劇の主と同じ様な顔立ちをしていることも。
それから。
彼が「セイジ」という悲劇そのものの名前であったことも。

縋って良い場所を探していたように思う。
でも、青磁は紫電と呼ばれる目線でしか人は自分を表現しないのだということが怖くなった。
そんな時に、彼女は、彼を眩しく見ることもなく、時には冷たい言葉でもって彼をひとりの男で特別な存在なのではないのだと告げ続けた。
だから。
彼女の特別になりたいと思った。
どれだけ多くの者が彼らに従うのかということは関与しない。
そう思った。
この年齢で、人を遵えることも人を動かすことも・・・そして誰かを愛することについて早々に決めなければならないのだと知り、青磁は絶望した。
誰かを愛することに、条件を必要とするのは・・それは愛する事なのだろうか。

前置きや理由がある恋熱は否定されるのだろうかと苦悶した。
彼はそんな関係を自分が作り出すとは考えていなかったのに、誰かを愛することを自分で作り出す事になった。それが青磁を躊躇わせる。彼女にもう一歩近付きたいと思う自分を止めてしまう枷になった。
温度を感じるのに、彼女の心に重なることは出来ない。
そういう自分が彼女を怖がらせていると思うが、それでも・・・それでも、彼女ではない誰かにしようとは、もう思えなかった。

 



*07

「私に構わず、自由に過ごして欲しい」
「オレは今、自由にやっているよ。かなり」
そして青磁は少し笑った。
自分は不自由で窮屈そうに見えるのだろうか。他人がどう思うのか気にしないことにしていたが、彼女から見た青磁がどのような印象なのかだけは気になってしまう。

青磁がひとりで泳ぎ流していた間、周囲の者は彼を凝視するが、彼と眼が合うと途端に視線を外してしまう。元々、そういう鋭い視線の持ち主であると承知した上で彼を見ているわけではないからだ。
本格的に泳ぎ込むことはしないつもりであったので立ち上がった彼に幾人か声をかけてきたが、彼が恋人を待っているので話に応じられないと柔らかく拒むと、残念そうに立ち去っていく。
他人に向かって彼女のことを「恋人」と言えるのに。彼女の前ではそれを言えない。

「あれほど話しかけられているのに?」
彼女が青磁に言った。青磁は苦笑いを浮かべながら首を横に振る。
「話が通じない相手と話をしても仕方ないだろう」
「話が通じない?」
彼女が青磁の瞳を見つめる。彼女は怖じけることもなく彼を覗き込む。どうしてなのかと聞いたことがあった。すると「人の眼を見て話をするのが礼儀でしょう」と言う。確かにその通りではあったが、ごく当たり前のことのように言ってのける彼女の健やかさが青磁には眩しかった。
「英語で答えることにしているから」
彼が澄ました顔で言ったので、彼女は綺麗な白い歯を見せて笑った。
彼がひとりになる瞬間を狙って、様々な者が話かける場面に幾度か彼女は居合わせたことがあった。
その度に、彼女は彼を遠くで見ているだけで、決して近付かない。
青磁は、彼女がやって来ればその場で話を打ち切ってしまうと承知しているからだ。
他の者との会話を自分が中断させてしまってはいけないと思っている。
しかし、青磁はその都度辛抱強く言っている。
一緒に話に入ってこい、と何度も言っているのだが、彼女は首を縦に振ることはない。
特に今日は彼女に後ろめたい秘密を持ってやって来ているので、青磁は彼女の姿を探すことに専念し、そして周囲の者からの好奇を含んだ詮索を回避することにした結果、違う言語で話がわからない素振りを見せることにした。
チェックインの時には日本語で応対し、そして彼女には流暢を越えた滑らかな発音で軽口を言うことすら自由に操るというほどであるのに。
嘘を朽ちにしているわけではない。彼はこの国では外国籍の留学生の身分だ。
だからこそ、彼女がこうして贅沢だと困惑するのだが。
彼にとっては少しも負担ではなかった。けれども彼女はあまり良い顔をしない。
だから、自分が株を所有しており、配当が思ったよりも良かったと言った。かつ、ここは知り合いからの紹介で高額な遊興費にならないことを示して、彼女はようやく出かけることを承諾してくれたという状況であった。
詳しい事情は話していなかった。
できるだけ目立たないようにしたいという要望が通り、入り口で総支配人が出迎えたきり、彼らは他のビジターと同じ扱いであった。
プールを一列、貸切とするということがなければ。
また彼は配慮がなさ過ぎると彼女に窘められることになるのかと思ったが、彼女は何も言わなかった。

緊張も不機嫌もそこにはなかったので、青磁は安堵する。
それでも、彼女が自分だけを見て欲しいと言ってくれないかと思った。
欲深いと思う。一緒に居られればそれで良いと思い、次には彼女が自分だけの朝顔と認めてくれないかと願った。そして・・・今は、彼は彼女を独り占めしたいと考えている。彼女は何も言わない。だから、待つと言った。
待つことを許してくれた彼女は、彼に待たないようにと言う。
一体、彼女を放置して何を楽しめと言うのだろうか。

「それに君のエスコートなしに、オレに何をしろと?」
彼は甘く囁くように言う。
椅子に座り直す時に、彼女に僅かに近付く。
けれども。
彼女は少しも絆されることはなかった。
「ひとりにしておけないよ」
「そういう気遣いはしなくて良いものよ」
彼女はぽつりと言う。
「他の人との出逢いを大事にした方が良い」
「オレは君との出逢いを大事にしているけれども、今のところはそれで満足しているから」
彼はそう言って微笑む。彼女が軽く溜息を交えて彼の片方だけ薄い瞳を見つめる。
そういう仕草が、彼を深く激しい恋情へ誘うのだと彼女は気がつかない。
彼が彼女に今ひとつ強く出られないのは、恋慕しているからというだけではない。けれども、他の者と連れ立ち彼女は放置しておけと言い出すとは思っていなかった。それは譲れないな、と思う。
「オレは、君と二人だけで出かけたかったから」
少し口調が強くなってしまったと思ったが、彼ははっきりと口にした。

 


*08

 

「ささやかな事かもしれないけれども、オレには必要なことだから」

彼は微笑んで言った。ようやく、そう言えるようになった。

彼に必要であったのは何なのか。遠い異国の地に来て、ようやくわかったような気がする。そして、毎日を繰り返すということがどれほど貴重で切ないことなのか。

 

彼女はそれを聞くと、仄かに淡く微笑んだ。しかし、すぐに彼女は言う。

「さっきから、青磁に話しかけたいと思うような人がたくさん往来している」

「君しか見ていないから、わからない」

青磁が明瞭に言ってのけたので、彼女は呆れた顔をしていた。

それすら、楽しい。

日常の中の非日常なのか、非日常の中の日常なのか。

彼女の存在は、両方を含んでいる。

 

青磁は声を漏らして笑った。

それから、少し浮かれた気持ちを延長させる。

いつもは言わないことであった。

何の気なしに。軽い口調で彼は彼女に向かって言う。

片方だけ薄い瞳は彼女を注視する。ああ、可愛いな、と思った。惚れているからという理由だけではない。

「・・・妬いているの?」

彼女の目が大きく見開いたので、本人よりも青磁の方がどきりとして真顔になってしまう。

 

「・・・何?」

いつもと違う彼女の反応に辟易ろぐ。

寛いでいた身を背凭れから起こし、彼女の方に体を傾ける。

 

彼女は一瞬、唇を開いて青磁を見つめると、またたく間に頬を赤くし、首筋や耳朶まで朱に染めてしまう。

青磁は普段、彼女のこういう表情を見たことがなかった。

誰かに嫉妬するという感情は、彼女は持ち合わせていないのかと思っていたのだ。欠けているのではなく、誰かと自分を比べることはしない人なのだと信じていた。

「あの・・・」

青磁がその場を流すこともできずに、困惑した声を出す。

くしゃり、と髪をかき上げた。

今すぐ抱きしめてしまいたい。胸部に何かが閊えているかのように重苦しくなった。

自分と彼女が、まだ愛の途中にあることを知った。これでは恋を始めたばかりの幼い少年少女のようではないか。青磁はそう思った。けれども、それがどこか心を浮かせる。

彼女が嫉妬している。

彼女の心を乱すものは許さないと思っているのに、彼女の心を自分が乱していることを知り、嬉しくなる。

 

彼女が横を向く。耳が真っ赤で熱を持っていることがわかった。

彼女の肌が、うっすらと汗ばんでいる様子がわかる。

青磁は視線を伏せている彼女の名前を呼んだ。

「こちらを向いてくれ」

彼女は少しの間黙っていたが、すぐに彼の方に視線を向ける。

眦まで聴し(ゆるし)色であった。

 

彼女は青磁を軽く睨んだ。

「嫌な人」

彼女は他者のことをそういう風には言わない。冗談であってもだ。

青磁にだけは、特別になってしまう。いや、彼女そのものであっても良いのだと彼女自身に許可している。それが、嬉しい。

すると彼女は突然、立ち上がって言った。

「暑い。泳いでくる」

それまで後で良いと言っていたのに。彼女はその場から逃れるように言った。青磁について来いとは言わない。きっと、他の一般遊泳の場所に紛れて、彼から姿を消そうとしているのだ。

「待てよ。オレも行く」

青磁が言うと、彼女は首を横に振った。

「目立つ」

「そう思うから目立つんだよ。人は案外、他を見ているようで見ていない」

特にここは恋人同士で来ている者たちが多い。

ここに来る全員が、他者に眼を遣る者に寛容な相手だけを連れてきているわけではないだろう。

 

「荷物を置いてくるから」

彼女は青磁の言葉に返事をしないで、ぼそぼそと呟くように低い声で言うと、荷物を丁寧に抱えて、逃げるように所定の場所に置く。

青磁は自分達の休憩スペースを確保してあったので、彼女はそこに向かって行く。後ろ姿を眺めながら、彼女にそのスペースについて説明していないことに気がついた。

立ち上がった時に見えた彼女の脚が白く眩しく映る。

こういう男の下心を前面に出すつもりはないが、やはり、彼女のことを愛おしいと思うから抱きたくなるし、身体を重ねる時間以外の時間も気に入っていた。だからこそ。

彼女との関係に対しては誠実でいたかった。

他の者に目を向けることはあり得ないのに、彼女が心乱れるのは、青磁のことを憎からず想っていてくれるからなのだと考えることにする。彼が彼女の心を乱してしまっているのであるのなら、彼女の心を鎮めるのも青磁だけでありたいと切に願う。

・・・だから。

青磁は、享楽のためだけの恋愛は必要であるとは思っていない。

少なくとも、今は、いらない。



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