目次
A-side
A-side GreenFlash
B-side
A&M-side
C-side 佳辰
D-side
D-side 嫩葉 前編
D-side 嫩葉 後編
D-side 結葉 前編
D-side 結葉 後編
D-side 溟沐 前編
D-side 溟沐 後編
D-side 裾上げ 前編
D-side 裾上げ 後編
D-side 畢竟 前編
D-side 畢竟 後編
Trick OR・・・ D-side 前編
Trick OR・・・ D-side 後編
E-side
F-side 不磨 前編
F-side 不磨 後編
F-side GRAFFITIと落とし文 前編
F-side GRAFFITIと落とし文 後編
H-side
I-side 前編
I-side 後編
J-side
K-side
M-side Nostalgia
N-side
O-side
O-side 波の上の月 前編
O-side 波の上の月 中編
O-side 波の上の月 後編
O-side 白雨_朧雨 1/6
O-side 白雨_朧雨 2/6
O-side 白雨_朧雨 3/6
O-side 白雨_朧雨 4/6
O-side 白雨_朧雨 5/6
O-side 白雨_朧雨 6/6
P-side 前編
P-side 後編
Q-side 暁霧 1/4
Q-side 暁霧 2/4
Q-side 暁霧 3/4
Q-side 暁霧 4/4
R-side
R-side あからめ
S-side
S-side 02 月魄
S-side 03 深浅
S-side 04 紫電
S-side Trick OR・・・ 2011
S-side うくわ
S&B-side いなのめ
S-side 炎熱 前編
S-side 炎熱 後編
S-side 炎熱2013 前編
S-side 炎熱2013 中編
S-side 炎熱2013 後編
S-side Balneum Scipionis. 前編
S-side Balneum Scipionis. 後編
S-side 成ぎ
桜蘂
T-side
U-side 闇蝉 前編
U-side 闇蝉 後編
W-side
W-side Devarana 前編
W-side Devarana 後編
W-side 弄火
W-side くもり、のち
Z-side 瑞祥 前編
Z-side 瑞祥 後編

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D-side 結葉 前編

01

 

眩しい光に目を細めながら、ダイは軽く腰を浮かせて、ベンチに座り直した。浅く腰掛けるのは、彼が演奏者である故に自然に身についた姿勢の良さであった。

それより前から武術を習っていたこともあり、それで背筋が発達していたこともあった。

彼の背筋の潔いと言って良いほどの美しさは、背面に座る者たちを陶然とさせた。

その彼は、急な身長の伸び具合から伴う成長痛に悩まされていたがそれもなくなり、体格が安定してきたこともあって、音に艶と丸みが出てきたと評判になっていた。自分ではそんな風に意識したことはなかったが、やはり声帯や呼吸を支える筋肉や骨格が安定しているということによるものであるのだろうと思うし、彼の師による厳しいレッスンの継続が、最近になってようやく果実となってきたのだろうと思われた。幼い頃から教育を受けている者とは、明らかに遅れている開始であったが、ダイはそれを努力で補った。そして、驕ったり飾ったりすることをせず、彼の師に言われたとおり、長い時間基礎練習に費やした。その成果が・・・今、実ろうとしている。

 

「ダイ」

彼の名前はダイという名前では無い。けれども、周囲の者は皆、彼のことをダイ、と呼ぶ。取り決めはないけれども、いつの間にかそうなってしまっている。環境が変わっても、こんな風に・・・全国から集まった選抜メンバーだけの合宿で初めて顔を合わせる者が居たとしても、いつの間にか彼はダイ、と呼ばれるようになる。

最初はかなり訂正を求めていたが、それでも彼をダイと呼ぶ者たちは彼を慕わしいと思うからこそそう呼ぶのであるのだと・・・諦めることにし、それ以来何も言わないことにした。敢えて訂正させることもない。ダイであろうと本名のヒロであろうと、彼は彼であることには変わらないからだ。

一番最初に、彼をダイ、と呼んだ人物は彼のそんな変遷を眺め続けて久しかった。茶色の髪の茶色の瞳のあの人は、ダイの人生に深く関わっている。離れて過ごしたこともあるし、彼女と一緒に過ごした時間は家族よりもずっと短い。けれども、彼には誰よりも大事な人のひとりであることには変わらない。

時間の長さではないのだ。誰かが、誰かを大事にする時には、時間の長さが非礼するのではないのだ。

 

彼は振り返らずに、ただ、膝の上に立てた楽器を陽の光に当てて丁寧にキーを磨いていた。

そんな彼の傍に、誰かが寄ってくる。

 

ここは、合宿所だ。

ダイは今夏に予定されている全国ジュニア音楽祭の選抜メンバーに選ばれていた。

ある日突然舞い込んだ招待ではなかった。

彼は個人でも受賞しているし、何より彼の師の影響が大きかった。音楽科に進学しているわけでもないし、彼の家族環境は普通の家族だ。

しかし。彼の師は、誰も弟子にしないと有名な人であった。気難しく、そして、師だけしか持ち得ない技術を保持し続けて世界を魅了し続ける。

・・・不幸な事件があったとしてもそれを乗り越えるだけの生命力と精神力を兼ね備えた人であった。

だからこそ、あの人はダイを託そうと思ったのだと思うと・・・彼はいつも自分の何が、彼らを安らがせるのだろうかと思う。

 

もう、何度か経験している、合宿所での集中レッスンであった。彼は定期的にここに招聘されることになり、幾度めかの季節を迎える。この招待を誰も断ることができない程に、充実した環境だ。

・・・ここは楽器のコンディションを保つには素晴らしい環境である。外気でさえ素晴らしいが、施設はさらに完璧であった。

完全に調整された空調、演奏棟にほど近い場所にある宿舎は湿度の管理が自分で行える。・・・奏者の持つ楽器によってそれらは微妙に違っているからだ。完全なる防音の部屋が配置されて自室でも練習できるし、もちろん、調律の完璧なピアノが設置されている個室で調整することもできる。恵まれた環境であるということは十分に理解していた。そして・・・こんな風に、尽くされた状態でなくても自分は活動することができるのだと思うのだ。雑然とした音楽室で、初心者である者たちに運指を教えつつ、自分の技術を磨く。朝夕の練習しか時間が取れないけれども、昼休みであったり自分の時間が捻出できる範囲で皆が練習する。場所がないから・・・音楽室の廊下やベランダで練習する。

しかし、ダイは、そんな時間が嫌いではなかった。

完璧な場所でないからこそ故の方法もたくさんあるのだから。

 

「もうすぐ、時間よ」

彼女の声はとても綺麗だった。すでに何度か組んだ相手であった。彼の息継ぎのタイミングやページの捲り方すら、承知している相手であった。彼のコンディションに合わせることができ、かつ自分の主張は崩さない。音程を保つことが難しい楽器を扱いながらも彼以上に精通している知識と経験と努力から生まれる彼女の音色があるからこそ、ダイはこんな風にして選ばれた奏者達と一緒に演奏できるのだ。

 

ダイは、視線を向けずに微笑む。

そして、空を見上げた。

伸びた枝葉の間から、木漏れ日が柔らかく変換されてダイに降り注ぐ。

・・・この晄を有害な紫外線だとは思わない。

彼は支えていた楽器を持ち直した。リードが乾く頃であった。

オーボエ奏者の彼の音色の秘密は、そのリードにある。フランスのパリに住む人物が調達してくる最高級の素材を、更にこの国の湿度に合わせて調整できる技術が彼に備わっているからだ。

 

「・・・それほどの名器を日光にあてる人は、後にも先にもダイだけだと思う」

梅華はそう言って、笑いながらダイの隣に座った。それが当然であるかのように。彼女のために空けておいた場所ではなかったが、彼はいつもひとり分を確保して座る。・・・小柄なあの人が座ることができる空間分だけ。

しかし、華奢な彼女には充分な幅であった。

 

今は自由時間であり、各々が好きな場所で好きなように時間を過ごして良いと許可された時間である。情操教育も音楽性の伸張を促す。だから・・・皆と集う時間にせず、彼はこうして外に出ることにしたのだから。

トップ奏者は孤独だ。特に管楽器奏者は。

厳しい競争の中で、自分の存在を主張しつつ、それを継続することは許されない。個性を煌かせてはいけないのに、個性が求められる。

・・・なぜなら。

その呼気ひとつで・・・曲が変わるからだ。息継ぎのひとつふたつで、流れが変化する。失敗も成功もその吐息ひとつなのだ。


 

02

 

他の奏者は管楽器でも弦楽器でもやって来ることのなかった場所であった。

考えられるのは、打楽器奏者のみ。練習中のスティック音が他の者の妨げにならないように離れた場所で練習するからだ。それに、彼らは定音であることを求められるので、無音の状態の中で訓練されることを必要とされるものの、時折こんな緑空の下に出たがる。これはなぜなのか、理由はわからない。

・・・そして、ダイはここに居る。

梅華は微笑む。彼が・・・何もかも他の者と違っているからだ。

梅華は彼の側にあった自分の長い黒い髪の毛を耳にかけながら、座った。

彼女の髪が、ダイの楽器に触れてはいけないと思ったからだ。彼の楽器は、人が羨むほどの名器であった。しかもコンディションは最高の状態で、定期的に国内の最高の調整師によって整えられている。

この国では存在しない材を使い、経年と丁寧な手入れによって甘い色が出ている。多くの楽器は漆黒色であったのだが、彼の持っている管は、内面はもちろんのこと、接着剤の色に至るまですべてが完全に他と違っていた。オーボエはパーツが多く、複雑に関係する精密機械と同じ物体である。

そして、些細な違いが音色に影響する。この楽器には、キーが少ない他の楽器の繊細さと違う精密さが必要とされていた。それは、管楽器のうち、フルート、オーボエ、ファゴット及びクラリネットなどキーを多く保有する楽器の持つ問題であった。

だから、ダイと梅華が各々大事にしている半身のような存在を伴って、ここに座って居るとわかるとは誰も思い至らない。紫外線や外気に晒すという行為には危険が伴うのだから、彼らがそんなことをするはずはないと誰もが思っている。

 

「ウメ。・・・戻れよ」

ダイはそう言う。

梅華のことを、彼はウメ、と言う。

昔から知っているからだ。そして、彼女のことを大事なパートナーと思っているから。

そして彼女も彼のことをダイ、と呼ぶ。

他の誰にもそんな風に呼ばせはしない。梅華は顔を上げて、夏に入る前の、僅かな・・・梅雨の気配の混じった晄を浴びながら、言った。緑の匂いが風に乗ってやって来る。

 

彼女の左手には、愛器が乗っていた。彼の学校の部活動では決して見ることの出来ない程の品であった。値段の問題ではない。世界で数台しかない品であったが、それに加えて梅華の求める仕様にカスタマイズされているから、これは世界で一台しかない楽器なのだ。

燻し銀のような光沢であったが、それはもっと重量のあるプラチナ・フルートであった。キーのひとつひとつは、梅華の指圧に合わせて作られている。管中はノンコーティング。これは音程に影響するからだ。取り扱いが簡易であることを捨てて、梅華は彼女にとって最高の状態を求める。・・・それほど年齢が変わらないのに、彼女の求めるものは常に最上でしかない。その隣に座るダイは、同じであることは必要とされなかったが、同じだけの技量は必要とされた。

彼女の高雅な音色に合わせることのできる者は少ない。

この国のジュニアと呼ばれる年齢の奏者の中で彼女はトップクラスどころか、常にトップなのだ。

それを考えると、ダイの環境は恵まれているとしか言いようがない。

 

しかし。

そんな品を手にしている者は、梅華だけではない。他にも大勢、居る。

そして他の者から見れば、ダイも同じ部類であった。・・・この楽器は、アルディ家が保有する古器であるのだという説明を受けたが、どんな手段を講じてどんな過程で作られたのかわからないほどに・・・この器は素晴らしかった。梅華でさえ感歎する。他の楽器の講師でさえ、ダイの楽器を見せて欲しいとわざわざ別の棟からやって来るのだ。彼は、それに見合った技量をつけていると感じられないうちは、それが恥ずかしかった。しかし、代用器を持っているほど彼は潤沢に音楽へ費やす資財を持っていない。皆のように、たくさんの楽器を体格や年齢に合わせて買い換えるということはしない。だから、これが彼の唯一で最後の楽器になるのだろうと考えていた。

・・ダイが他の皆が味わったような苦渋の日々を経験していないかというと、そうではなかった。

誰かに追い抜かれるおそれや屈辱、悔悟などについて無縁であったかというとそうではない。

常にこの選抜メンバーに選ばれている梅華と違い、ダイは浮沈を繰り返し、そして選ばれなかった時もある。それがここ数回は毎回招聘されるようになったというだけだ。

ダイはそこで初めて梅華を見た。彼女は、ダイでないパートナーも知っている。だから、ダイがこれから先、梅華と一緒にどれだけの回数を演奏できるかどうかという技量について、彼女は承知しているような気がしてならない。

それでも・・・今回の合宿の終盤に行われる、成果発表を兼ねたミニコンサートにはどうしても主席奏者で出たかった。

あの人が来るからだ。甲府の友人を訪問するついでに立ち寄るという連絡が入っていた。

正確には、その人本人からではなくて、その人を渋々甲府に遣らせる、この楽器の本当の持ち主からであったが。

 

 


03

 

「・・・そんなに楽器を甘やかしても、良い音色が出るとは限らないでしょう」

梅華の言葉に、彼はおや、と顔を上げる。

時折、自分が本当にここに居て良いのだろうかと思うことがあり、そうい時には、ダイはこうして外に出ることにしていた。何時間も楽器を持ったままで練習をするのも苦にならないが、ふと降りてくる疑念をそのまま合同練習に持ち込めば、たちまち梅華に知られて、叱責されるから。

彼女は普段大人しくてあまり口数が多い方ではないが、彼の様子を誰よりも客観的に観察している相手である。相手の少しでも音が良くないと、席を立つこともしばしばあった。その彼女が、ダイの隣に座り、気持ちよさそうに風に眼を細めていた。

だから。

彼女と会話したければ、練習をするに限る。男女問わず、誰もが梅華に憧れていた。

あまり自分のことを多く語らない。でも、彼女の実力が全てを物語っていた。

圧倒的に、ダイと練習量が違っているのだ。それなのに彼女は自分の基礎練習に加えて、皆と同じだけの練習量をこなし、疲れた顔は見せずに淡々とメニューをこなしていく。いったい、いつ、身体を休めているのかと思うくらいの時間を彼女は音楽に費やしているのだ。好きだからとか興味があるからというレベルではなかった。

そんな彼女が、外の空気を吸いにやって来たダイの行為を咎めないどころか、肯定したのでダイは彼女の横顔を見た。

いつもと眺めている横顔と違って見える。それは、太陽光の下だからなのかと思ったが、それだけではなかった。いつも座って居る場所と逆であったのだ。

彼女は笑う。同年代の女の子達の顔を見ても、同じにしか見えないダイであったが、彼女の顔は綺麗だな、と思う。

顔容が整っているというだけではなく、彼女には隙がない。姿勢も崩したことはないし、髪の毛もいつも綺麗に梳ってある。服装もかなり高価なものを着ているなという印象があったが、それが彼女の自信なのではないのだ。高価な品を自慢することで、自分の価値が高まるとは決して思っていない。彼女は他者にも厳しかったが、自分自身には更に厳しかった。

やはり、この選抜メンバーの定連であることが、彼女の誇りなのだろう。そして幾度もここを訪れているために施設の場所を熟知している梅華には、ダイの行き着く場所などというものはお見通しなのだ。

「何だかさ、時折・・・こうして風に触れた方が良いような気がしているんだ。根拠がないけれども」

ダイは正直に、梅華に告白した。室内の、完璧な状態での合奏は彼を昂揚させる。楽しいし、新しい技術やそれまでできなかったことができるようになった時の歓びは大きいし、何より誰かと一緒に言葉を越えてひとつのことを為し遂げる充実というものは代えがたいもので、誰にも与えられるものではなかった。コンクールに出て賞を取ることも実力を測るためのものであり、賞を取ることそのものが目標というわけではない。

彼の欲のなさは有名であった。

パートをグループ内で割り振りして良いという自由を認められた小規模のグループ練習では、彼はいつもソロを扱わない。誰かに譲ってしまうのだ。我の強さも必要とされるポジションであるのに、彼には誰かの諦めの上に立つつもりはないという気持ちの方が優先しているようだ。

先ほども、管楽器の四重奏のグループ決めの時にも、彼は一歩引いて、梅華や他のトップ奏者が全員揃っているグループではないところに入った。

それを梅華が責めに来たのではなかろうか、と思っていた。

一度だけ、彼女はダイに言ったことがあった。

「手を伸ばさないのは、いつでもそこに手が伸びるからだと思っているからなの?」

彼女が言いたいことは良くわかっていた。そうしたいと思ってもできない者がいる。ここに集うまでに、多くの選抜がされており、合宿の場所にやって来ることさえできない者も居るのだ。

そして、ここにやって来たからと言って、ソロを任せられる実力を兼ね備えた者が大勢いるとは限らない。

梅華だって最初から完璧ではなかったはずだ。今も、努力し続けている。それがわかるからこそ、その言葉の重みと痛みを、ダイは受け止めるだけで言い返すことはしなかった。

そんなこともあったので。

ダイは身構えていた。

 

彼女が怒っているのか、何を考えているのかわからない。

けれども、険しい顔つきではなかったので、本当に休憩に来たのかもしれないとさえ思う。

彼女の真意がわからなくて、ダイは座ったままで、大きく息を吸った。

澄んだ空気が入り込み、彼の中を廻っていく感覚が好きだった。

煮詰まった時にはこうするに限る。

ダイ自身がそうであるのなら、彼の楽器も同じ様に呼吸したいのかもしれないと思ったし、手近なところに置いておくほど気軽な品ではなかった。

 

「ひとつ、聞いても良い?」

梅華が、そう話を切り出した。休憩時間はそれほど長くない。けれども、彼女とこんな風に話をすることは・・・滅多にないことであった。しかも、梅華から話しかけてきた。ダイも御喋りな方であるとは思わなかったが、梅華は輪をかけて人見知りを通り越して会話が少ない。

時々・・・梅華は、自分は交流するためにここに来たのではないという悲壮なまでに思い決めた覚悟のようなものを感じる時があった。馴れ合いを禁じているような、そんな気がしてならなかった。

その梅華が、彼に問いかけをした。そして、上を向く。

楽器をぎゅっと握りしめる梅華の爪は綺麗に丸く整えられている。楽器を傷つけないためだ。そして深爪すると音程が狂うので、指先にも気を付けていなければならない生活を、彼女は何年過ごしているのだろうか、と思った。

彼も、上を見上げる。彼女が何を言いたいのか、何となくわかったから。

 

緑が濃く、爽やかな風が吹き抜ける。

空の色はダイの居住地から見える空よりずっと鮮やかだった。

 

「ダイは、なぜ、音楽を続けるの?」

「え?」

なぜ、音楽を始めたのか、そのきっかけは、と聞かれることも多くなってきた。それほど初めて出逢う人々との会話のきっかけに必要なことだろうかと思うこともあるが、彼が「ダイ」と呼ばれることと同じくらいに、彼の中では普通の質問になってしまっていた。

 


 

04

 

ダイが珍しく動揺していたので、梅華は隣でくすり、と声を漏らして笑った。

「ダイは、誰かに奨められて始めたわけではなさそうだったから」

「確かに・・・時間を決めているかもしれないね」

「それは刻限ということ?」

「そう」

彼女が他人のこれからについて興味を持つとは珍しいこともあるものだ、と彼はどこか他人事のようにそう思っていた。梅華は決して弱音を言ったりしない。彼女が相当な年月を音楽のために費やしていることもわかる。

しかし、彼女が一度も疑問に思ったことがなかったのかというと、そうではないだろうと思っていた。

誰もが考えることだ。

自分の将来と音楽はどんな風にして結びつくのだろうか。ある日突然、指が動かなくなったり、聴力が落ちていることに自分が気がつかなくなってしまった時には、どうしたら良いのだろうか、と。

 

「そうだな・・・」

彼は少し考えた。

軽率な答えは梅華に失礼だと思ったから。

確かに、自分は少し、この世界の暗黙知のようなものを知らなさすぎると思っていた。でもそれは恥じるべきことではない。しかし、知らないからと言って免責されることも望んでいない。知らないから、何をしても良いのだと思わなかった。

その一方で、咎められることは承知の上で、彼は楽器ごと外に出る。彼の師が、ヴァイオリンケースひとつで世界を廻り歩く気持ちが、少しだけわかるような気がした。

やがて、彼は言った。

「生涯つきあっていきたいとは思うけれども、片時も離さないという距離でなくてもいいのかな、と思ったりする」

彼女は黙っていた。自分の楽器に陽光が注ぎ、反射している様を見つめている。ダイの方を見ることはなかった。いつもと同じだ。・・・彼らはいつも隣合って、正面を向いている。互いを身体の僅かな動きや合図で何もかもがわかる。けれども、今、こうして座って居る彼女の質問に、ダイは狼狽していた。けれども、正直に言うことにする。誰にも言ったことがなかった。誰からも、問われなかったから。

ここに居る誰もが、永遠に音楽の世界に身を浸すのだろうと思う。どんな職業に就いたとしても、決して全部を捨てることができないことはわかっていた。

「・・・それほどの技量なら、どこに留学しても通用する」

「ああ、それでは駄目なんだ、ウメ」

ダイは笑う。

「僕の家は音楽にとても理解があるという家族ではないけれども、あの家で僕の演奏を楽しみにしてくれている人が居て、時々、聴いてもらうことが、僕の目的だから」

それから、肩を竦めてダイは唇を持ち上げた。彼女の大きな眼が開き、そしてダイに何かを言いそうになって、綺麗な唇を噤ませる。わかっている。

ここに居る誰にも理解できないことだろう。賞を取るより、留学するよりも大事なものがある。彼には、彼の理由があってここに居る。それが理解できない梅華ではないから、言う気になったのだ。

「その人のため?・・・あの人のためなの?}

梅華の言葉に、ダイは言葉に詰まった。

誰のことを言っているのか、彼女は知っているのだ。

彼がこんな風に思っていることを知らないあの人のことを。

 

小さい時から一緒だった。

だから、彼は彼女と少しでも繋がりを持っていたかった。

ダイは自分を狡いと思う。彼が音楽を本格的に始めたきっかけとなった人であった。彼に現在の師を紹介し、彼女が勧めた事である。

だから、ダイが音楽を続けている限り、彼女は日本に戻ってくるのだ。様子を見に来る。彼女しか観客がいない舞台で・・・ダイは、彼女のためだけに演奏する。賞を取って楯や賞状が増えると、彼女は目を輝かせて喜ぶ。彼女は学生時代、転校が多かった。そのために、何か作品を出品してもその結果を見ることのないまま、去って行くことが多かったのだと言っていた。だから。彼はどこにも行かない。・・・・その時だけは、彼女は、彼を見つめるからだ。彼を決して見ない人が、彼を見るのだ。

 

梅華の瞳が左右に動いていた。彼女も、返答に詰まっている。

「誰かのためだけであるのなら、こういう生活を過ごしたりはしないよ。もちろん、僕が楽しくて、そうしたいと思っているから、そうしているだけだよ」

彼は付け足した。自分の言葉に過不足があるとは思わない。けれども、他者への取り繕いではなく、今自分が発した言葉は、自分自身への説明であった。

それでも、梅華は黙っていた。想定外の返答であったようである。そして、彼女は何かをじっと考えているようであった。

・・・風が大気を揺らし、木々が動き、雲を動かしていく。

彼女の横顔は綺麗だった。ちらりと見るだけでそう思うのだから、皆が騒がしくするのも無理はない。

けれども、彼女はそういったことすらまったく無関係であると言いたそうに、禁欲的なレッスンを続ける。飽きもせず、基礎練習を繰り返し、見せ場や早いテンポの曲は最後に回す。地味な練習が、彼女の響きのある低音や繊細でありながら音程の保たれた確実な音を作り出していくのだ。

「ダイ。誰かのため、というのは十分、理由になるものよ」

やがて、彼女がそう言ったので、ダイは自分の楽器を持ち直した。手の平に汗が滲んできたからだ。

しまった、という気持ちはなかった。けれども、どうして彼女にはそんな風に素直に話してしまうのだろうかという自分への困惑があった。

うん、とダイが頷く。彼女が、隠そうとするなと彼の後押しをする。だからかもしれない。

だから、彼はあの人のことをもう少し語ることにした。彼女になら、良いのだと思った。

それほど長い時間を一緒に過ごしているわけではない。住んでいるところも違う。環境も将来の展望も違う。何もかも違うけれども、あの人を知っているようで知らない梅華にだから、言える。

そこには、彼の秘めたる思いがあった。

「その人が演奏を聴き終わった時に、幸せだね、って言う。・・・幸せだな、じゃないんだよ、ウメ。幸せを共有しているねという意味で、幸せだよね、と僕に言うから。・・・僕は、そうだねって言うことにしている。彼女の幸せな顔が見られるだけではなくて、僕に・・・僕も幸せだよね、同じ気持ちだよねって聞くからだよ」

 


 

05

 

「・・・ダイは、本当にそれで良いの?」

「それが良いんだよ」

梅華の質問はそれだけで終わってしまった。疑問ではなく、念押しだったのかもしれない。

ダイは、誰にも言うなと口止めしなかった。彼女はそんなことはしないだろうと思っていたから。

「この話はこれで終わり」

「私が、あの人に言うかもしれないって思わないの?」

怪訝な顔つきで、梅華が最後にそう言った。ダイはくすり、と小さく笑う。

「今日のウメは質問してばかりだね」

そう言うと、梅華は息を吸い込んで黙り込んだ。彼女がそんな風にして誰かに問いかけることは、あまり見かけない。音楽の解釈であったり、ブレスの位置合わせをしたりするときでさえ、彼女はいつも誰にどうしたいのかは尋ねない。皆の言葉を最後まで聞き、そして誰も意見が出なくなった時まで待ってから、最適の方策を披露する。見物をしているようで高慢だと言う者もいたが、ダイはそうは思わなかった。

彼女は、皆の意見を全部聞き取り、それで最も良い選択をしているように思う。単にソリストとしてだけではなく、彼女は皆を統べるための知恵も経験も持っていた。彼女がそう言えば従わざるを得ないけれども、決まらない事に責任を持って決断する勇気と潔さを持っている人だと思う。まるで、あの人のように。

 

ダイは、微笑んだ。質問してばかりのあの人の声や姿が、梅華に重なる。

似ても似つかないのに。ダイに会えば元気であったのか、何をして過ごしているのか、最近はレッスンに行っているのかなどと矢継ぎ早に尋ねるが、その内容はいつも同じだった。

辟易したダイが、「繰り返すなよ」と窘めると、彼女はいつも「彼のようだ」と言って笑う。彼女が言う「あの人」は誰のことなのか、わかっている。白金の髪の、青灰色の瞳を持っている、相当に性格の捻れている美形だ。だから、ますます意地悪な言い方をしてしまう。

・・・ダイが今回の合宿にいつもより更に精を出して練習に励むのは、あの人がやって来るだからだけではない。・・最後に別れた時に、ダイは繰り返し彼の様子を尋ねる彼女に向かって冷たく言い放ってしまったのだ。

 

「僕に干渉するなよ。・・・親でも姉でもないくせに」

 

そう言ってしまった。

ダイは、いつも彼女に向かって、誰にもしないような態度を取ってしまう。

それが甘えと嫉心が混じったものが、彼をそうさせているのだとわかっていたけれども。それでも、彼女がどんなときでも必ず、別れる時には「またね」と言い、次に会った時には「元気だった?」と屈託無く笑うから。だから、ダイはそれに安心しきってしまっていたのだ。そして、そのまま合宿のために出発してしまった。

後から追いかけるからね、と言われたがそれも漫ろな気持ちで聞いているばかりであった。

彼女を泣かせるな、とあの男に叫んだのに。彼女を傷つける自分が嫌だった。でも、仲直りすることも謝ることもしないで、出てきてしまった。

 

だから。

 

気まずい雰囲気のままで居たので、彼は梅華から思いもかけない質問で彼女のことを語ることになり、自分がずっと口にしていなかったことを口にしたのである。

だから、梅華の質問に、ただ、言葉少なく装飾をつけることもなく、ダイは答える。

「言っても構わないと思ったけれども、ウメはきっと、言わないんだろうな、と思ったし、もし・・・ウメが言ったのなら、それでも良いと思ったんだ」

彼の言葉に、梅華が持っていた楽器をぎゅっと握り直した。

・・・管楽器奏者の癖で、狭い場所で座っているときには、楽器本体を立てて持ってしまう。互いの楽器がぶつかり合って傷つくのを防ぐためだ。だから、彼女が自分の楽器にしがみつくように・・・額を寄せて、大きく溜息をついたので、ダイは慌てて彼女に声をかけた。

「具合でも悪いのか?暗い室内から急に外に出たから・・・」

「ううん、違うの・・・違うのよ」

梅華の声は絞り出すような掠れた声で、小さかった。さらり、と耳にかけていた彼女の髪が頬にかかったので、彼女の表情が見えない。ダイは腰を浮かせたが、それを梅華が押しとどめた。

彼女は普段、あまり表情豊かではない。その反面、音色は豊かで幅があり、喜怒哀楽を音で表現できる数少ない奏者でもある。技術も、解釈の深さも彼が知っているジュニアの中では抜群であった。その梅華が、大きく肩で息をして、何より大事にしているフルートにしがみつくような状態で身体を傾けたので、ダイは酷く狼狽した。立てたフルートの足部管が彼女の柔らかな素材のスカートに深く埋もれていた。

「本当に大丈夫か?医務室に行くか?」

ダイの言葉に、彼女は首を振った。

「必要ない。・・・・それより、ダイ。その人に、ちゃんと、伝えた方が良いよ」

「何を?」

「ダイが、思っていること」

そう言って、梅華はダイの顔を見た。

どきり、とする。

彼女は全部を言わなかった。

何を思っているのか、ダイがどんな風に思っているのか、知っているのだ。

 

誰かのために、これほど厳しいレッスンを繰り返す粋狂な者はここには居ない。

皆が、自分の限界に挑戦し、それを越えて行こうとしている。その中で、ダイだけが、飄々としている様が、梅華には気に入らないのかもしれない。

そう思った。傷つけた、と思った。

 

なぜなら。

 

彼女の瞳が、濡れたように潤んでいたからだ。

泣きそうな顔をしていた。

彼女の声も、震えていた。

 

しかし、梅華はそういう詰りの言葉を言わなかった。

その代わりに、また、切れ切れに言う。

空気を求めるように、喘ぐように・・・言った。

「私はそんなに良い人じゃない。ダイがそんな風に思い悩んでいることを言えないでいるのなら、それを聞いた私は、ダイの代わりに言うかもしれない。演奏に支障が出るくらいなら、その人に私が代わりに言うわよ」

「ウメ、君がそんなに怒らなくても・・・」

ダイが狼狽して言うと、今度は梅華の眦はきゅっと持ち上がった。

「私がダイと、あと何回、隣に座ることができると思っているの。限られた回数しかない。限られた時間しかない。それなのに、これまでもこれからも一緒に居られる人のことだけを考えているダイが、黙っていることで情けない演奏しかしなかったら、許さないから」

彼女は早口でそれだけを言うと、大きく深呼吸をした。

「・・・こんな短いフレーズの息継ぎさえ苦しい」

彼女は恨めしそうにそう言った。いつもなら、もっと長く呼吸を止めることもできるのに。

それから、そっと言う。俯いていた。しかし、彼女の背筋は伸びたままであった。

「・・・ダイ、私はいつもダイの隣に座っているけれども、ダイの演奏を独り占めできたことはない。いつも一緒に吹くけれども、ダイが私のために演奏することは・・・ない」

彼女はそれだけ言うと、眼を瞑り、日焼けを知らない白い顔を上げて、木漏れ日を受け止めた。

 


 

06

 

ダイは梅華の様子に、ただ狼狽えるばかりであった。具合が悪いのかと尋ねると、そうではないと言う。それなのに、いつもの彼女の状態とはとても言えないほど・・・彼女は激しく葛藤している様が見て取れる。ダイの前でも決してそんな顔は見せないというのに。

けれども、彼女は片方の手で楽器を支えると、もう片方の手で自分の頬を押さえた。

彼女の僅かな変化を、彼は黙って見守っていた。彼女に何かが起こっていることは知っている。けれども、それは黙っていることにしていた。ダイしか気がついていないことで、ダイはそれを梅華に告げていなかった。

彼女は時々・・・誰も見ないところでそうして顎を押さえていることがあった。痛むのだろうと思ったが、ダイは大丈夫かと声をかけることはしない。体調管理も奏者の義務のひとつであるが、誇り高い彼女の失調が誰かの耳に入れば、梅華が追いつめられることになるのだ。

「・・・ウメ、頑張りすぎるな」

「人の心配をするより、自分の心配をしたらどうなの?」

間髪入れずに彼女がそう言うので、ダイは笑い出した。

けれども、梅華は一緒に笑うことはせずに・・・じっと、ダイのことを見て、そして少しも表情を崩さずにいた。もう、いつもの彼女であった。

「・・・その言葉はまだ、必要ない」

ああ、彼女の言い方はあの気に食わない白金の髪の人によく似ているんだな、と思った。それに、甲府に住む口数の少ないあの人にも。ダイはそう思うと、そこでなぜ、梅華のことが気になるのか・・・少しだけわかったような気がした。

彼女は、似ている。

茶色の髪の茶色の瞳の・・・あの人を連れて行ってしまう白金の髪の人は、こんな風にして誰かに心配されることに慣れていないのかもしれないな、と思った。そして、ダイ自身も。

僅かなきっかけであったが、一度そう思うと、どんどん、自分の中で未消化であったものが咀嚼されて、すとん、と内に入ってくる。

ダイは自分自身のことを・・・あの人の心配ばかりをしていると思っていたが、その実、ダイは多くの者に気に懸けてもらっている事実を彼は当然のように受け止めていた部分があったことに気がついた。

だから、ダイのことを必要以上に構うのかもしれない。

だから、梅華も見かねて声をかけるのかもしれない。

梅華への気遣いの言葉は必要ない、と言う。自分の心配をしろ、と言う。

どうしてそう言うのか、ようやく、わかった。

彼がこれから進むべき路を、あやふやにしたままで梅華に余計な心配事を増やさせるわけにはいかなかった。彼女とは、年に数回しか音を重ねることができない。

そうして去って行った者たちを知っているから、梅華はダイに腹を立てているのだろうと思った。だから、音楽を続ける理由を尋ねたのだ。

 

そこまで考えると、彼は、空を見上げた。眩しい陽光が少し動いて、今度は彼の楽器のキーを輝かせる。・・・外気に触れるのは良くないと思うが、それでも、こんな葉の音や、陽の光や、優しい風が・・・・ダイにも、この楽器にも必要なのだと思う。

あの白金の髪の人が、ダイに無言で託してくれたものだから。

「ウメ。結葉って言葉があるんだ」

彼は、梅華にそう言った。彼女は黙ってそれを聞いている。だから、ダイは続けた。

「・・・葉が茂るころ、葉が重なって交わりあうように陽の光を受けることなのだけれども。・・・葉が結び合っているように見えることからそういう風に言うらしい」

「結葉・・・」

そう、とダイは頷く。

「音楽も同じ。僕にとっては、重なり合う葉だ。でも、それらがなければ、僕は、自分の道を決めることはなかっただろうし、音楽を続けようとは思わなかった。片手間に思えないくらい、好きだから」

その言葉に、梅華は僅かに身体の向きを変えた。彼が何を言い出そうとしているのか、察したからだ。少し、険しい顔をしていた。けれども、彼女は青白い顔をきゅっと引き締めて、真剣な顔をしてダイを見つめる。だから、彼は自分の中だけの考えのひとつである、それを言った。彼女になら、言っても良いと思ったからだ。

ダイは、初めて声に出して言った。

「僕は、高校までで音楽活動をやめる」

「・・・知ってる」

彼女がそう言ったので、今度はダイの方が唇をぎゅっと引き結んで緊張した顔になった。知っている、とはどういうことなのだろうか。それに梅華は回答する。質問もまだしていないのに。本当に、何もか見透かしているかのようだ。

「どうして?」

それを聞くのは自分の方なのに、と言わんばかりの顔つきで、梅華が苦笑いしたので、ダイは途方に暮れてしまう。彼女は、いつから・・・わかっていたのだろうか。

「ダイが、自分のためではなくて、誰かのために音楽を続けて居るって言ったから」

「それが、僕の活動をやめることと関係があるの?」

「十分に」

彼女はそれだけ言うと、ほっと吐息をついた。彼女の溜息は彼女の楽器の音色のひとつのように聞こえる。ひっそりとして、それでいてとても哀しそうであった。

 


 

 

07

 

彼女は軽く溜息をつくと、肩を竦めた。それを横目で見て、ダイは困ったように、しかし自分の言葉を繰り返す。

彼女を失望させてしまった。そう思ったが、それで彼の意志が翻ったり揺るいだりするような脆さしかもっていなければ、彼女はもっと失望するのだろうと思い直す。

「僕はこの道を選んで、良かったと思う。だから、次に進む道は、この道の続きなんだ」

「それで、ダイはあの人の傍に居続けることができる?」

梅華の質問は、意外なものであった。でも、彼女には隠し事はできないな、と思う。彼の心の動きを他の誰よりも知っている梅華だから。長い付き合いであった。時間は短いものであるかもしれないが、彼女の音色が・・一番好きであった。

孤独で端雅で、それでいて透明な彼女の優しさと厳しさを併せ持つ音が、彼の成長を促したのだから。

もっと、彼女に近付きたい、彼女の音色に重なりたいと思って練習を重ねてきたのだから。彼に詮索するようなことはせず、ただ、静かに・・・彼と音を合わせる梅華を誰よりも崇敬していた。彼女のように、全てを投げ打って、ただそれだけにひたすら打ち込むことが出来たのなら。

・・・・梅華の期待に添うように、梅華を残念がらせることはしないと決めて邁進することであっただろうか。

でも、ダイが望んでいるのはその道ではないのだ。皆がどれほどそうして欲しいと願っても、それはダイの願いではない。

だから、自分の考えをきちんと告げることが・・・残された時間を大事に使うことが、彼のできることなのだろうと思うし、怠惰に過ごして後悔したくなかった。失敗しても構わないが、やり直したいと思いたくなかった。

いつも、その時の選択が・・・今に繋がるのだから。だから、一度決めたら迷わなかった。振り返ってはいけないと思った。そうしなければ進めないから。

 

だから、彼は・・・青葉の匂いの風に目を細めながら、誰にも言った事がなかった言葉を、梅華に零す。

「・・・そうでありたいと思う」

「ダイがそう決めたのなら、決して振り返ってはいけない」

梅華は言う。何となく、覚悟があったのだろう。だから、彼女はここに来たのだ。

皆が彼の将来に期待しているところで、彼はこれからも成長をし続ける、最も期待される若手演奏家のひとりなのだ。

それをあっさり投げ打つというのは欲がないというより、他に目標が出来たからだと考えるのは当然であった。だから、彼女はそれを聞きに・・・ここにやって来た。

「ダイの路と・・・私の路は違うけれども、振り返ることはしないところは・・同じね」

「そうだな。ウメのことを、尊敬しているし・・・挫けそうになった時には、きっとウメのことを思い出すだろうね」

「それなら、思い出さない方が良いのかしら。・・・思い出して欲しいと言うべきかしら」

その言葉に、ダイは言葉に詰まった。彼女の泣きそうな笑顔が、緑の陽光の下で・・・白く輝いていた。彼はいつも・・・あの人も、こんな風な表情をさせる自分のことが厭わしかった。けれども、それを懼れて誰かと関わることを躊躇っていたら、自分はきっとここまでやって来られなかったと思う。

邪な気持ちで始めた路であった。でも、今度は・・・自分の意志で、この路の方角を変える。

 

いつも、思っていた。

いつも、考えていた。

 

あの人に、必要とされたい。

あの人に、気にかけてもらいたい。

 

・・・あの人に笑って居て欲しい。

 

彼のことを決して見なかったあの雪空の日から・・・ずっと考えていたことであった。

自分で幸せにしたいと思うより、幸せな彼女の顔を見ていたかった。だから、彼女を笑顔にするために遠い国から乗り込んでくるあの男に取って代わろうとは思わない。でも、その代わりに、ダイにしかできないことをしたかったのだ。

 

「結葉って良い言葉よね」

梅華がそう言ったので、ダイは頷く。

「僕には目標があって・・・緑のない場所に、緑を増やしたいと思う。水を必要としている人だけではなく、草木が・・・葉が生い茂って、こんな風に木漏れ日の中を皆が歩ける場所を作りたい」

「それはどこなの?」

「ここではない遠い場所。あの人も、それを望んでいるからだけではなくて、僕もそうしたいと思っているから」

白金の髪の、あの人の恋人が今でも技術や器材や人材提供をしている国では、まだまだ何もかもが足りなかった。そのうちのひとつが・・・水の濾過システムである。装置というより、あの国の環境構造を人為的に変更させることもなく、どうすれば改善されるのかダイは挑戦したいと思っているのだ。・・・根本的な問題を解決しなければ、あの国は未来へ続いていかない。特定の国だけではなく、すべてのものに応用できるシステムが必要であった。それには、長い年月と国際協力が必要になる。結局は、あの男のことを支える結果になるのだろうけれども。それであの人が笑顔になるのであれば、それで良かった。

 

「それに、僕は彼が嫌いじゃない。悔しいけれど」

「え?」

ぽつりと言ったダイの言葉に、梅華が首を傾げたがダイは何でも無い、と言ってまた微笑む。

「結葉の夢、ということなのかな。途方もなく、大きな夢だよ。

・・・でも、実現できると思うから、強く気持ちを持って、努力するよ。

どれほど、長い時間がかかっても。・・・・だって、今日、ウメに宣言してしまったからね」

ダイはそこでようやく自分の楽器を持ち直し、立ち上がった。彼の影が伸びて、梅華の身体に影を作る。

ふたりは、話をしている間、決して足元を見なかった。下を見るような梅華ではない。後ろを振り返らない、と言い切るに相応しい姿勢であったから、ダイはいう気になったのだ。自分の、秘めたる思いを。

 

「おかしいだろ?・・・僕の生まれた時からを知っている人を・・・」

「いいえ、少しも」

彼女の答えは簡潔だった。

「追い掛けるのよ、ダイ。どこまでも。・・・・どこまでも」

「・・・うん」

梅華の言葉に、彼は頷く。どこまでも・・・どこまでも続く結葉を、彼は創ろうと思う。

痴がましいかもしれないけれど、それが彼の夢であった。

 

それから。梅華も静かに立ち上がって、間もなく終わる休憩の刻限のために、移動しようとすると、ふたりの空気は流れていく。立ち上がったので日も葉も彼らに近付く。彼らが近付くのではなく、降り注ぐ陽光や枝葉が・・・・彼らに近付くのだ。まだ若いのに、滅多に並ぶことのない名器を持ち合わせるふたりは、それだけの才覚と努力を持って、ここに居る。

ほんの一瞬しか交わらない時間かもしれないけれども、それでも、確かに・・・ここにダイは居る。

彼は梅華に振り返ると、ウメ、と呼んだ。いつもの口調で、あっさりと。

「・・・トップ(首席奏者)は、必ず取るよ」

彼はそう言った。あまりそういうことを宣言しない彼が、初めてそう言ったので、梅華はそれを聞くと少し驚いた顔をした。

しかし、すぐに嬉しそうな顔をして、私もよ、と言った。

 

行こうか、という声も必要ではなかった。彼の動きや僅かな音が、彼女を促すから。

そして、彼女の音を隣で聞くことができる回数は、もう、限られている。

だから。

持っているものを惜しむことなく、彼はこの日々を大事に生きようと思う。

それが、あの人が彼を見続ける唯一の方法なのだから。

 



D-side 結葉 後編


08 

 

 

合宿の終盤には、ミニコンサートが終わった。

一般に公開されているコンサートで、スポンサーがついているので主催者、共催団体、後援の名義がずらりと並ぶスクリーンの中での演奏が終わると、普通はその場で奏者達は退場していくものなのだが、今回は趣が違っていた。

交流会を兼ねて、彼らは楽器を持ったまま、観客席から出口へと向かい、観客達の近くを通って、観客達が退場するのを出口で見送るのだ。

会場の防音扉を抜けた先の出口付近では既にたくさんの花が届いていて、噎せ返るような匂いであった。

また、関係者はそこで自分のこれぞと思う奏者に名刺を渡すために、すでにそこで待機していた。演奏が終わる瞬間には静寂が訪れるが、それが過ぎ去ると騒然が続く。

 

プレスリリースもあったし、撮影も入っている。けれども、それが問題ではなかった。皆、そういったことには慣れているので気にならない。彼が気にしているのは、ただひとつだ。演奏は完璧に近かったけれども、それでも章の合間などには気になった。

しかし、ダイは、演奏が終わって大きな歓声とスタンディング・オベーションの嵐の渦の中、観客席のうちのある一点を軽く睨んだ。

 

宿舎から少し離れた場所にあるコンサート・ホールでは、彼の師も演奏したことがあるという有名なホールがある。そこをジュニアでありながら使えるというのも、何とも贅沢な話であった。しかし、そこの中央に座ることができる首席奏者は限られている。特に、今季は様々な多くの曲ではなく、じっくりと聴かせる交響曲を題材にしているので小曲などは数が少ない。

決して短くはない時間を、ここにやって来ようと思う者達は、関係者ばかりではない。

無料開放であるから、面白くなければすぐに席を立ってしまうような、僅かな雑音でも集中が途切れる奏者の困点となる一般の聴者も混じっている。その中でも、今日の演奏会は成功であると言えた。

ダイも充実感が大きかった。今回は、自分からトップ奏者を希望したからだ。皆が驚いたが、それでも誰も文句を言わなかった。それだけの実力を、ダイが持っているからだ。今回、演目と彼の持つ音色の特色が合致していたこともあった。加えて、木管の首席奏者のメンバーが、皆、ダイと相性の良い楽器や音色の持ち主ばかりであったこともある。

だから、これは自分ひとりの力ではなく、いろんな作用が働いたものなのだと思っていた。

 

梅華はいつも通りであった。

でも、メンバーが発表された時。僅かに、微笑んでいた。それは、彼女の名前のところではなくダイの名前が読み上げられた時のことであった。ぴんと張った姿勢を保ちながら、それでも嬉しそうであった。彼女は目立った言動はないのだが、どうにも視線がそこに行くのはダイだけではなかった。多くの者が、彼女を目標にしている。彼女は長い間・・・首席奏者のリストから名前を消したことはない。才能だけではここまで維持することはできない。彼女の見えない努力がどれほどのものなのか、ダイは知っている。

そんな、いつもと変わらない梅華がいるから、ダイは何も配慮することなくいられる。梅華だけではない。他の者たちだって、同じであった。こんな優しい空間を、自分から捨ててしまうというのは、相当におかしな話だと思うけれども。

でも、彼にはやりたいことがある。そして、ずっと、傍に居たいと思う人がいて、その人の傍にいる人のことも・・・嫌いではない。

 

これから先。自分ひとりだと思い、孤独に苛まれることもあるだろう。音楽の路も同じであった。

でも、こんな風にして・・・結葉のように、皆の路が重なりあって、こんな風に出会いと別れを繰り返して・・・そして、少しずつだけれども、行き着きたい場所に近付くのだろうと思った。

 

葉が結ぶ夢というのは、どんなものなのだろう。

自分の夢だけではなく、皆の夢が重なり合ってできる夢。それが、彼の望みであった。

 

・・・その人はとても小柄であったので、観客席に座る者たちの頭半分程度、顔の位置が低い。それに茶色の髪の人は落ち着きがないので、演奏中でも頭がふらふらしているのがよく見えた。だから、指定席でなかったにも関わらず、すぐに彼女の姿を見つけることができた。

ダイは、その人の傍に居たいがために、音楽と違う路に行く。

捨てるのではないが、諦めなければならないものも、それまで日常であったのにそうでなくなるものも・・・多くあるだろう。

愚かだな、と思うし、他の路もあるのではないのかと思うこともある。でも、そうしない。結局、自分のしたいことというものはいつも、考え及ぶ限り考え尽くしても・・・最後に行き着く考えはいつも同じであるから。

 

それほど大きなコンサートではないのに、盛況であった。人の入りというものは、どれだけ宣伝したかにもよるが、どれほど興味を持たれているかというところも大きかった。こういう活動は、花を咲かせるのと同じだ。地道に地を均し、水や肥料をやり、種を撒き・・・そして花が咲くまで長い時間をかける。一度限りの催事にしてしまわないように、どれほどの人々の努力があったのだろうかと思うと、単に遊びに来て演奏しているという気持ちには決してなれなかったし、メンバーも皆、同じ気持ちであったはずだった。

ダイは、少し明るくなった会場の観客席の階段をゆっくりと上る。その間、観客はみな立ち上がって拍手し続けたので、折々で、ぺこりぺこりと不器用に頭を下げた。新調したばかりの服に、タイがきつかった。

・・・こういうことは、いつになっても慣れない。

早く楽屋に戻って、タイを緩めて一息つきたいというのが正直な感想であった。この時ばかりは、彼の師のことを少しばかり偉大だと思う。

人々の賞賛が彼の糧ではない。でも、誰かに聞いて欲しいという面もあるから音楽とは音を出しているのだろうと思う。

しかし、一番見て欲しい相手が、彼の演奏をろくに聴いていないというのは、なかなかに不機嫌になっても仕方の無いことであるように思えた。しかし、それを顔に出すことはしない。

皆が、笑顔でこの会場を後にして欲しいから。

もちろん、あの人にも同じであって欲しいと思う。

道すがらと言っても、ここに来るまでにはバスを乗り継ぎ、本数の少ない電車を乗り継いで来なければならない。

・・・そんな遠い場所に足を運んで来るのだから、彼女にも、同じ気持ちで会場を後にして欲しかった。

 

 


 

 

 

09

 

演奏会終了後の会場というものは、如実に結果が出る。

演奏の出来が悪ければ、会場から出て行き誰も居なくなるまでの時間は、閉場時間よりもずっと前になる。

奏者の知り合い達はここで待ち合わせをすることはせず、直接楽屋に向かったり、裏口で待ち伏せしているから、一般の聴者だけの動きが続く。・・・だから、ここの空間は演奏の出来そのものを表す。

ダイは舞台から降りた後は、こっそり、こうして会場の風景を除くことがあった。

手応えがこうだとはっきりわからないときには、よくそうしたものだった。

でも、今日は少し違っている。今日は・・・皆と整然と並び、皆が見送るのだ。変わった趣向に、来場者達がわっと歓声を上げた。ここのところ、若手の演奏家に対する理解が深まった。ダイの師の時代には、もっと閉鎖的であったが、今は聴かせてやるという高慢さはなく、もっと観客と奏者が近い場所にあることを求められる空気に変わりつつある。

・・・コンサート・ミストレスは今季参加したばかりのまだ幼い顔立ちの少女であったけれども、どこかカオル・ヒビキヤを思わせる演奏をすることで注目を浴びていたし、ヴィオラの少年はこれでジュニアの世代から抜けてしまい来月からは留学の準備に入るのだと聞いた。だから、こうして・・・このメンバーでもう一度同じ曲を奏すことはもう、二度とないのだろうと彼は思った。

幾度演奏しても、この音を同じ様に再現することはもうできない。

人々のざわめきの中、彼らは決められた位置に立ち並び始める。会場の高い天井の下で、ダイの楽器は光を受けて淡く甘い色に輝いていた。演奏もアンコールも終わり、その後のこういった計らいについて、普通ならばすぐにでも楽器をケースにしまい込み、今日自分に課せられた練習の続きを行うために会場を後にしたいと言い出す者がいてもおかしくないのだが、今回は誰もそんな希望は言わなかった。皆が集い、人が犇めく空間を見て、ダイは、梅華と見上げた結葉の空を思い返していた。

ここは室内であるが、どこか空を思わせる。ああ、そうか、と思った。壁紙が、深い空天色だったからだ。

近寄ると表面は平らではなく、その中で、無数の影が重なり合っている。

彼は、そこで胸が詰まった。これで最後ではない。幾度か、こういう風景を目にすることになるだろう。でも、それはあと何回もあることではない。梅華が歎いても、誰かに引き止められても・・・彼は、これらが永遠に続かないとわかっているから、投げ出さずにひとつひとつを大事にしていく。それを教えてくれたのは、茶色の髪の、あの人だから。

 

全員で見送り、と言っても帰りを急ぐ退場者も少なくはない。まだ整列しきれない、彼らの慌ただしい見送りに微笑みながら、退場していく人々が幾人か見えた。また次回も来ますという声が聞こえてきたり、目礼だけしていく者も居る。そんな各々の反応の違う背中を見送りながら、ダイはあの人の姿を捜している自分の視線に気がつく。

彼女は非常に小柄なので、皆が静止している会場で姿を追う時と同じ様にして捜し出すことはとても難しい。先ほど、会場の中を通った時には、あの人の座っている側と逆の通路を上ったのですれっきり姿を見失ってしまい、外で待っていて欲しいと声をかけることもできずにいた。

彼女は、ひとりでふりとやって来る時にはいつもこうしてダイに声をかけないで帰ってしまう。楽屋に立ち寄ることができるように、関係者パスの登録もしてあるというのに、彼女は必要ない、と言うのだ。

「だって、ダイの演奏を聴きたいだけだから」

彼女はいつも、そう言って笑う。特別扱いして欲しいから、ダイの演奏会に行くのではないと言いたいのだろうな、とダイは考えていた。けれども、単に、純粋に、彼女はダイの演奏風景を見て、それで満足してしまっているらしい。

 

「ダイ」

その時、後ろから彼の名前を呼ぶ声がして振り返ると、梅華がそこに立っていた。

「あちらに居る。・・・ここは良いから、はやく行って」

梅華は場慣れしていることもあり、落ち着いた表情で静かにダイを促す。ちらりと梅華が視線を別の方向に流すと、そこに・・・見覚えのある人の後ろ姿が見えた。

オーケストラは構成人数が多いので、会場扉からホールの出口まで、両側にずらりと人が並ぶ。そして年齢も様々だが、彼らは無言でいられるほど、老成していない。演奏会が終わった後の昂揚感で落ち着かない空気が渦巻いている。

ようやく整列が終わり、会場内で準備が整った旨を知らせるアナウンスが流れ始めていた。

「今のタイミングしか、ない」

梅華は彼の隣で囁くように言った。ダイにしか聞こえないような、小さな声だった。そして彼女は軽く彼の肘をとん、と押し出す。

その間に、あの人の姿はどんどん、小さくなっていく。それほど長い距離があるわけではない。ホールそのものを出てしまえばもう、声をかけることもできない。それに人の声が段々大きくなり、高い天井であるのにそれらが響き渡って本来の騒がしさよりもっと大きな音がする。だから。・・・今、行かなければ、すぐに、また見失ってしまう。

「ウメ。ここを・・・少し抜ける」

返事を待つより先に、身体が動く。

同じパートの者に少し抜けると声をかけると、そのままダイは歩き始めた。

 

彼はいつも優等生で、これほど大人数の中で短い期間であるけれども生活するに必要な規定されたものを破ることはしない。

でも、今度ばかりは・・・ダイは、彼女に後を託すと、大股でその茶色の髪の人に近付いて行った。

何人かがダイに気がついて声をかけるが、まったく無視して、観客の通り道を歩く。

彼は音楽家の多くのように耳が良く、自分の靴がホールの床に響く音さえ聞こえる。

それなのに、彼女の気配を感じるために集中しても拾うことが出来ないなんて、と少し苛立った。

パンフレットを片手に、大きな鞄を肩に提げてどこか楽しそうに歩く彼女の後ろ姿に向かって、歩く。

 

彼女に、伝えたい事がある。そして、それは今でなければ、これから先には言おうと思っても、また、躊躇ってしまうだろうから。

彼がどうしたいのか、どうしていきたいのか・・・悩んでいることを、彼女は知っているから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

10

 

ダイが声をかけても、しばらくその人は気がつかなかったので、幾度か彼女の名前を呼んだ。

 通り過ぎる時、両脇に居た仲間達がダイの姿を見て、彼の決められた立ち位置と違うところを歩いているので、皆がおや、という顔をしたけれども、会場の騒ぎに紛れて彼はそれらをすべて無視して遣り過ごした。

彼は、もう、彼女を見送るだけではなくなった。

 

あの雪空の日。ただ、見送るだけしかできなかった。ついて行ってはいけないのだと、わかっていたから。・・・彼女は迎えに来たあの男と一緒に行ってしまった。でも、今は違う。・・・違うのだ。

 

片手に楽器を持ち、慣れない服装であったので、彼はいつものように走って彼女に向かうことが出来なかったが十分だった。

茶色の髪の人は、空を仰ぎながら歩くことさえ楽しんでいる。

 

そうだ。

この人は、そうなのだ。

 

たとえ、どんな時であったとしても、空を見ることを忘れはしない。空の向こうの・・・白金の髪のあの人に、報告するために。彼女は自分のみた風景をうまく彼に伝えることができないで悩んでいるから。だから、ダイを連れて散歩に出ても、どんなに寒い雪の日でも、彼女は空を見ることを忘れたりしない。

 

彼女を振り向かせるために発した彼の声から漏れる彼女の名前が・・・それが幾度目なのか、数えるのはやめた。

彼女の名前を呼ぶ度に、周囲が振り返る。でも、それでも良かった。違う意味で注目されても、まったく気にならなかった。目の前の人を振り向かせるために呼ぶ声というのは、音に似ている。でも、一連の長いフレーズではないから、人は振り返る。

そうではない。

合図や気を引くための音楽ではない。彼は、彼女の名前を呼び続けていたい。

それが世間一般的な絆でなかったとしても、それでも良い。

ただ、・・・彼は、彼女の心を揺さぶりたいのだ。

それが、音楽を続けている理由だ。

 

「やっと追いついた」

ダイがそう言うと、振り向きながら驚いた顔をして、目を瞠る茶色の髪の人は、どうしてダイがそこに居るのかわからない、と言った。

彼女は間もなくやって来る周回バスに乗り込んで、次の移動先に向かうところであった。でも、まだ、大丈夫だ。ダイは少し離れたバス停に入庫の気配がないことを確認すると、ほっと大きく深呼吸する。

そんな彼を見上げながら、彼女は嗤った。

「ダイ・・・まだ、会場に居るはずだと思ったけれど」

「抜けてきた。少しの時間なら、大丈夫だから」

それだけ言うと、彼はそれほど長い距離を走ったり歩き続けたりしているわけでもないのに、自分の声が震えて途切れがちになっていることに気がついた。

彼女もそれに気がついたらしく、立ち止まって自分の肩に提げている鞄の取っ手に手を掛けていた手を、ダイの腕に置いた。

「そんなに、急がなくても良いのに。この後、甲府に立ち寄るのでしょう?そこで会えるのに」

「そこじゃ、駄目だから」

彼の言い方が切羽詰まった感じがして、彼女はふと、微笑みを閉じる。

改まって、彼はぺこりと頭を下げた。

「今日は、ありがとうございました」

その様子に、彼女が慌てる。

「何?畏まって言うことではないでしょう・・・・」

「いいや、こういうのは、畏まって言わなければならないから」

彼はあらかじめ、言おうと思っていたことの順番をきちんと決めていたはずなのに、彼女の前ではそうならないことにひとり、苦笑する。

ありがとう、と最後に言おうと思ったのに。これでは、ずっと考えていたことの通りにならないではないか。

 

・・・彼女はいつも、誰かの予定の通りにはならない。

・・・そして、彼女自身の予定のとおりにもならない。

だから、彼女だ・・・

だからこそ、彼女だけなのだ・・・

 

白金の髪の人は、彼女のことをそんな風に言ったことがあった。

確かにそうだ。その通りだ。

 

「花束を持って来る余裕もなくて。ごめんね」

「謝るなよ。花が欲しいだけなら、誘わない。来てくれただけで・・・嬉しいよ」

彼の背後が騒がしくなった。会場の退場時間になり、皆が一斉に会場から出てくる頃合いになったのだ。それまで、直接花束を渡したいと思っている者たちが、各々の目当ての者たちに渡したあと、会場から出口までのエントランスホールにまで続く人の路を通って出てくるのも間もなくのことであった。

ダイはそこで、彼女に言った。順序が乱れていると思ったし、唐突に何を言うのかと怒られるのも承知の上だった。でも、言いたいことから言った。

「僕、大学に進んだら、この楽器をあの人に返しに行こうと思う」

それだけで、何を言わんとしているのか、彼女は悟ったらしい。

はっと顔を上げる。

そして、ダイの顔をしげしげと見つめた。食い入るように、じっと。周囲の喧騒などまったく耳に入っていないようであった。

彼女の瞬きはとてもゆっくりだ。だから、時間の経過が自分のそれと違うのだろうと思わせる。でも、今、ここでこうして対面している彼女の中で、ダイの言葉が呑み込まれて・・・そして彼女に、言いたいことが・・・伝わると良いのにというダイの願いを含めてそれらを受け止めて欲しいとダイは強く、思った。

 

「それで、いつか・・・別のことで、僕だけしかできないことをしてみたいと思う」「捨てる必要はないと思うけれども」

「音楽を捨てるとは思わない。・・ただ、音楽をしていたからわかったことも、あるんだ」

ダイの言葉に、彼女はじっと耳を傾けていた。彼は昂揚して大きな声を上げるということはしない。だから、自分でかなり動揺して支離滅裂だと思っている今のこの状態であっても、彼女にはきちんと伝わった。

「そう」

彼女は言った。彼が決めたことだから関与しないということではなく、彼の決断に彼女の言葉が大きく影響していることを承知しているから、何も言わなかったのだろうと思う。

思いつくままに喋っていたあの頃と、明らかに違う彼女の反応であった。変化することは簡単だが、元も戻せない変化もある。それを知っているものの、助言を求められていないのに自分の考えを押し付けるようなことはしない、と彼女は考えているらしい。それほど、ダイを信頼しているのだと思うことにしている。冷たいとは思わない。それなら、彼女はこうしてここにやって来ない。

 


11 

 

言葉だけを受け止めると、彼女の返事はとても素っ気なかった。

でも、ダイは知っている。

梅華も同じ様に返答をした。

彼女達はいつも、肯定も否定もしない返事で、ダイの決めたことについて反対はしない。

もっと驚かれるかと思ったのに、詰られるかと思ったのに。だからダイは思わず、尋ねた。

「どうして、何も言わないの?」

「どうして?何か言って欲しい?」

彼女が微笑む。

若いというより幼い笑いだ。

でもそれがいつも通りであったので安堵する。

 

彼女はとても小柄であったが、彼にとってはとても大きな存在である。

だから、今、言おうと思ったのだ。

彼は震える声で言った。自分が、緊張しているのがわかる。先ほどの舞台の上ではまったくそんなことはなかったのに。手先が震えて、うまく声にならなかった。

 

「ついでの立ち寄りでも良いんだ。できるだけ、多く・・・来て欲しい。無理は言わない。でも、あと少しだから、僕が皆の前で見せる姿を、見守って欲しい」

自分の望みだけを押し付けるような言い方しかできなかった。もっと練習していたのに。何を言うべきなのか、きちんと整理して言うことにしようと決めていたのに。

・・・そうできなかった。

すると、彼女はくすりと声を漏らして笑う。そして、彼の方に一歩近づき、踵を上げて彼の貌を覗き込んだ。

そして、腕を伸ばすと、彼の顎を指で突いた。

「いつの間にか・・・見上げないと顔が見えないね」

目の前に、茶色の瞳があって、彼は言葉を失う。こんな風に覗き込まれたことがなかったから。

彼女の身長を追い抜いたのはもう、ずっと前のことであった。だから、今になって気がついたことではないはずなのに、彼女は笑って言った。

「もう、私だけのための演奏は、必要ないよ」

「うん」

彼は頷いた。

本当は・・・彼女のためだけに演奏したかった。まだ、これからも。

でも、彼女は彼のこれからを見ていてくれるだろう。どんなに、遠くに居ても、彼女はいつもダイのことを忘れないでいてくれるだろう。

それだけは確信できる。

きょうだいでも親でもないけれども、彼女は彼のことを、自分の心に入れてくれたのだから。

「ダイが、お願いするなんて珍しいね」

彼女がそう言ったので、彼は淡く微笑む。

「たまには・・・ね」

ダイの返事に、彼女は笑う。そして、そろそろ行くね、と付け加えた。

「またね」

彼女はいつもの通りに、そう言い残す。誰かを見送るのは苦手だ、と彼女はよく言った。それは、彼女がそれまでの日々の中で哀しい思いを幾度かしたからだ。これからも、決して経験しないとは言い切れない。でも、そうやって、彼女も大人になった。そして、ダイも・・・彼女を見送った時に、少しだけ、大人になったことを自覚している。無邪気に見送ることができなかった、あの日のことがなければこんな風に彼女との繋がりである音楽を断つ、と彼女に言い出すことはできなかっただろう。

この絆だけしか、彼と彼女の間に存在しないというわけではないから。だから、もう、不安に思ったり心配したりすることはしなくて良いのだ。

 

「まだ、もうひとつお願い事がある」

ちょっとそこまで、というような気軽さで背中を向けた彼女に、ダイは声をかけた。

彼女が立ち止まって、振り返る。茶色の髪が翻って、茶色の瞳がダイを見た。

彼は、楽器をぎゅっと握った。これだけはちゃんと言わなければならない、と心に決めたことの殆どをきちんと言う事が出来なかったけれども。でも、これだけは言って彼女を見送りたいと強く想っていたから。

「なに?」

彼女が笑う。ダイのお願い事なら、仕方が無いわね、と言った。

肩にかけていた鞄を持ち直す。踵を浮かせて勢いをつけなければそれは持ち上がらないほどたくさんのものが入っている。彼女のすべてだ。夢も希望も未来も過去も、その鞄の中にすべてを詰め込んで、彼女は今でも様々な場所に軽やかに出歩く。そして行く先々で、その鞄に何かを詰めて帰ってくる。

そういう、人なのだ。

彼女が本当に帰る所は・・・ダイもいるあのアパートではないのだ。

 

彼女だけが叶えられる願い事であるとわかっているのに、ダイの目の前で屈託無く笑う彼女の輪郭に晄があたって、彼女の輪郭が淡く発光しているような錯覚を覚える。

そんな彼女を眩しそうに見つめながら、ダイは少し大きな声で言った。

もう、叫ぶことはしない。

彼は大きな声で周囲を憚らず叫ぶことのない少年になった。

こどもから、少しだけ・・大人になった。

 

彼は大きく息を吸い込んで、言った。

「・・・・あの人に、泣かされたら、いつでも戻って来るんだぞ。だから、それまでは笑って・・・あの人を、笑わせてやってくれ」

彼はそれだけ言うと、彼女の驚いたような顔を見ながら、笑った。

 

彼女にとって、ダイは結葉のひとつでしかないかもしれない。多く出会ってきた人々のうちの、ひとりなのかもしれない。でも、その多くの出会いと別れの中で・・・彼女はたった一枚の葉を見つけた。

そして、ダイという葉が・・・結葉の中できらきらと日を受けて輝いていても、雨に濡れたり枯れたりしそうになったとしても、彼女はダイのことを忘れたりその他大勢という括りにしない。

どんなに他の葉に埋もれたり隠れていたとしても、彼女はダイのことを忘れたりしない。だから・・・もう、ふたりだけの時間を彼が持たなくても、もっと違う夢を抱いても、彼女はそれで良いと言うのだ。

 

しばらく、彼女は無言でいた。

呆然としているようにも思えるし、どこか嬉しそうな顔にも見えた。でも、それはすぐに見えなくなってしまう。

会場は散り散りになった来場者達が、主催者の粋な計らいに驚き喜んで良い演奏会だったね、と言い交わしながら出入口から出てき始めていたからだ。

人の波が溢れ寄せてきた。

すると、あっという間に・・・彼女は非常に小柄であるので、姿が見えなくなってしまう。

周囲はすぐに、騒がしくなる。

もう、ダイも戻らなければならない。それほど長い時間を空けられない。

彼女のために演奏をしていた彼ではなくなった。

務めとは思わないが、演奏会は楽屋口を出るまで演奏会なのだ。途中で放棄することはできないし、したくなかった。たとえ、彼女のためでなくても。

・・・そういう風に自分を戒めることが嫌ではなかった。

 

一応、挨拶は済ませていたし、そのまま彼女が出立しても構わないと思った。

この人の流れに逆らって戻ってくることはしないだろう。

 

すると。

「ダイ」

強く叫ぶ声が聞こえた。会場に戻ろうとした彼を呼ぶ彼女の声が聞こえる。

でも、姿は見えなかった。

はっとして足を止める。そして、彼は思い切り踵を上げて背伸びをした。

明らかに観客ではない彼の格好と楽器を交互の眺めながら、周囲の人々がちらちらと彼の様子を窺い見たが、彼はまったく気にしなかった。

そして、彼が顎を上げて彼女の姿を探そうとした時。

声が、聞こえた。

「ダイ!・・・私・・・あんたのことが、大好きなのよ!」

彼女の声が、涙声だった。

張り裂けんばかりの声で、ホールの出入口に居た人達は、驚いて彼女を見たが、彼女は全く気にしていなかった。

人の波が・・・僅かに開いて、彼女の顔がちらりと見えた。ダイと目が合う。

ダイは、彼女の名前を呟いた。

 

年の離れた、彼の大好きな人は、ダイに向かって満面の笑顔を浮かべる。

彼は無言で、頷いた。

それから、彼女はにっこりと今一度微笑むと、勢いよく向きを変えて、ダイに背中を向けて走って行った。

人にぶつかりながら、先を急いで走って行く。

彼女は彼の結葉だ。彼女の結葉にダイが混じっているのと同じ様に。葉が重なり合い、木漏れ日を感じ、多くの葉が茂って重なる。

 

あっという間に、また、彼女の姿が見えなくなってしまったが、ダイはすぐに自分も人混みに背を向けて歩き出した。

少し先には、梅華が居て、こちらに視線を向けていた。

彼はその場所に急ぐ。

もう、彼女の姿は探さなかった。

 

また、すぐに会えるから。

・・・彼の結葉に。

だから、それ以上見送らなかった。

彼女もわかっていた。

 

彼は、彼女に近付くために努力しなければならない。これからも。これまで以上に。彼女がダイに叫んだ言葉を胸にしまい込んで、ダイはこれからも、彼女の結葉になりたいと思う。

 

自分は声を上げることができなくなってしまったのに、彼女は叫んで彼に伝えてくれた。

 

彼女の声を、忘れない。

決して、忘れない。

 

大好きなあの人が、大好きな人の傍で笑っていられるように、彼は彼女の背中を押し出し、見送る。

それがダイの夢だ。

結葉の夢なのだ。

小さくても葉が重なれば・・・大きな、憩いの葉陰を創り出すことが出来る。

 

「まったく、どっちが大人かこどもか、わからないじゃないか」

ダイはそれだけ言うと・・・会場のエントランスをくぐり抜けて、元来た道を今度は小走りで戻った。

 

FIN

 

 

 

 


D-side 溟沐 前編

●Note  01

その日は、ダイは自分の星回りは悪い日なのだ、と思った。
彼も人間であるから、調子の良くない日がある。
通年を高気圧の中で過ごすことはできない。
集中出来ない時期もあれば、憤りで不本意な結果を出してしまうこともある。
しかし。
それを言い訳にするつもりはなかったので、彼の師であるカオルに叱責されても・・・ただ、黙ってそれを受け止めるだけであった。

彼の師であるカオル・ヒビキヤは世界を巡る音楽を奏でる者である。
それが、旧友に頼まれたからという理由で、ダイというまったくの初心者を弟子に迎えた。
誰も弟子にしない彼女が、ダイを引き受けたのだ。
遅い開始であった。
だから、この世界では大成しないともわかっていた。
この世界しか知らないというわけではない年齢から開始してしまった。
それ故に、目移りするのだ。他の世界がどれほど素晴らしいか、ダイは知っている。
視野が狭いということではない。でも、ダイは、音楽だけしかできない人間になりたくなかった。それでいて、片手間にするものでもないと思っていた。
ある意味、決心が必要だった。
高校を卒業する時期になるまで、進路を決める頃になるまでに・・・音楽を続けることについて決断をすることになるのだろうと予感していた。
音楽を専門とする学校に進学するつもりはなかった。

だから。
ダイは、本当に、マリナという人物はカオルにとって大事な存在なのだと思った。
断れない相手であったのだろう。
付き合いというものは笧になることがある。
マリナがカオルに、ダイのことを何と言って紹介したのか、詳細は知らない。けれども、彼が与えられた彼女からの恵みを自分から手放すようなことはしたくなかった。

カオルは厳しかった。

少しでも練習を怠るとたちどころに「今日は帰れ」と言って無表情になってしまう。
姿勢が悪いと叩かれた。挨拶などの礼節を欠けばレッスンもしないで追い出された。
そして、彼女の聡い耳では、ダイの練習成果の過不足を察知するまでの時間を多く必要としなかった。

日々の練習のうち、基礎練習がどれほど退屈であったとしても、それを怠るのであれば上達はしないと、常々言っていた。
それは、彼女が、幾度か・・・楽器を手にして華やかな舞台に立ち続けることはできないと思うような状況を経験してきたからなのだろうと思う。
この世界は、派手やかな曲を奏することができるようになるのが良いこととされているわけではない。
その曲の構成、歴史、作曲者や多くの奏者の解釈など、ひとつの曲を完成させるときには自分のすべてを捧げるような覚悟でのめり込むことを求められる。
片手間にはできないものだ。
だから、ダイは独奏者ではなくてオーケストラ奏者であり続けた。

ひとつのことに、のめり込むのが、怖かったのかもしれない。
ダイは、マリナにすまないな、と思った。
彼女が良かれと思い用意してくれた舞台の上で、ダイはその役割を十分に発揮することができないのだと思うと。ただ、申し訳ないな、と思った。

両親も姉も、自分のことを応援してくれている。
演奏会があると、チラシを経営しているアパートの隅に貼り付け、本当は有償のチケットも、必ず来てくれることを念押ししながら、無償で近所に配る。
ダイの演奏会の時には、様々な名前で花束が贈られるが、それらは皆、家族からでであったり・・友人が名前を分割して、花束を数多く用意してくれたりしているからなのだ。

今日は、朝からあまり気分の良い状態ではなかった。
姉と些細なことで諍いになった。
ダイは特別だから、と言われてかっとなった。
彼の努力や忍耐を否定されたと思った。
もし、彼が特別であるなら、特別になりたい相手を選ぶことが出来ない今の状態にはならないはずである。

彼が今の状態を続けるには、理由がある。
しかし、それは姉には言えなかった。

怒鳴ることはしなかったが、自分の家族でありながら無神経だと憤った。
血族であるから、一緒に暮らしているから何でもわかり合えるというのは違うとわかった。
・・・でも、そんなときも、取っ組みあいの争になることはない。
彼はどこか・・・自分の家族の間にでも一線を引いているように感じる。
自分のことなのに、どこか冷静になっている自分がいる。
それは寂しい。彼は、いつの間にか・・・大人になってしまっていたのだ。親友と別れた時から。それより前に・・・マリナをあの雪の日に見送ってしまってから。
 

●Note 02

占い事を信奉しているような、クラスの女子とは違うけれども。
自分の努力の至らなさを何かのせいにしているわけではないけれども。

なぜ、彼は星回りが悪い・・・つまり、タイミングが悪かったと思うのか。
その理由が、目の前に座っていた。

今日は、ダイのレッスンが早々に終了してしまった。
集中力散漫であるのなら、次は来なくて良い、と言われた。
他人から、これほど強く叱責されたことのないダイは、ただ、俯くばかりだった。
泣き出してしまったり、不平不満を感じたりすることはない。
カオルだって、自分の貴重な時間をダイのために費やしているのだ。
こんなに立派な設備の中で、違う世界で活躍する有名人が自分のことを見てくれる。それだけで大変名な僥倖とも奇蹟とも言えるような状況に満足できないと思うわけはなかった。

だから、カオルの叱責に臆し、次から足が遠のくことはなかったけれども。
でも、レッスン室を出たところで、彼は足を止めてしまった。
防音室の中に居たから、人の気配に気がつかなかったけれども。

オーボエの運指は法則を覚えてしまえばそれほど難しくない。
けれども、今ひとつ自分の望んだ音として出し切れていない。
もっと自在に、自由に吹くことが出来たのならどれほど楽しいだろうと思うが、それより前にカオルに指定されている基礎練習や集中力が欠けてしまいそうなロングブレス練習ばかりで、少々辟易していたこともあった。ビブラートは禁止されていた。
そしてカオルが練習曲以外を指定することもなかった。

他の皆が他の教室で復習っているような曲の譜面をダイは手にすることは出来なかった。唯一、部活動での練習が息抜きの場所になってしまっているような状態だ。
それでも、彼の日々の努力は成果を上げているようで、その上達の速度が他の者と違うので、どの先生にレッスンについているのかという質問を、顧問の先生にされたばかりであった。彼は言葉を濁して知り合いの音楽家です、とだけ言った。
カオルのことを自慢できるようになるまで、彼には足りないものが多すぎると、自分では思っていたからだ。
カオルやマリナに恥ずかしい思いをさせたくない。
ただ、それだけであったが、自分の態度に自分自身が酷く落胆した。

そんな時に、カオルに叱責され、姉と口論し、あげくの果てには目の前に居る、最悪のダイの困惑の源がダイに渾身の一撃を加えたのだ。
一番、見られたくない人物に、彼が肩を落としてレッスン室から出てくるところを見られてしまったのだ。

ダイの唇の両端が、意図していないのにきゅっと下がった。
頬骨のあたりが細かく痙攣する。自分が緊張しているのだとわかった。

レッスン室の防音扉を開けると、そこにはダイには到底その価値がわかりそうもないほどに高価な音響設備を取りそろえた部屋がある。膨大な数の楽譜があったが、カオルの昔の写真などは飾っていなかった。
殺風景であったが、膨大な量のそれらは作り付けの背の高い棚にきちんと分類されて時折カオルがそこに手を延ばしていることはわかっていた。
過去に使った楽譜やスコアを眺め、希少価値の高いレコードやCDなどを揃えている場所で、カオルがどれほど昔から音楽に携わっていたのかがよくわかった。
だからこそ、ダイは、この世界に魂を捧げるほど自分は傾倒できないのだと思い知る。

楽器は、その小広間で準備をしてからレッスン室に入る。だから、楽器ケースも自分の荷物もそこに置いたままであった。
彼のためだけに用意された、飾り気のない水色の革張りのソファが彼の定位置であった。他に弟子がいないので、ダイが通うようになってから、彼が座り楽器を調整するための小さな椅子が、この場所に増えた。
濃い色合いではなく、薄い灰色の混じった蒼色で・・・座り心地は抜群であると思ったが、その色があまり好きではなかった。

・・・あの人の眸を思い出すからだ。

その色と同じ、青灰色の瞳の持ち主が、その椅子の肘当てに腰を下ろしていたのである。
ダイは声に詰まった。
陽気に挨拶するような関係でもない。気まずいな、と思った。
彼は顎を上げて、膨大な量の譜面の背表紙を眺めていた。瞬きを忘れたかのように、長い睫の下の眸は動かない。その色と、彼が体重を預けている椅子の色はとてもよく似ていた。
白金の髪がとにかく人目を引く。東洋人が脱色をしたような、くすんだ薄さを持つ色ではなくて、本当に艶のある白金髪なのだ。神経質そうな鼻梁も頬もどこか作り物めいている美しさであったが、それは配分と配置が完璧な配合であったからだ。酷薄そうな薄い唇が、誰の名前を呼ぶときに綻ぶのか、ダイは知っている。

・・・とても、よく知っている。

●Note 03

そこは自分の場所だ、と主張することができなかった。
あまりにも現実離れした人がそこに居る。
鍛えた鋼のような、筋肉質であるけれども決して度を超えることは無い身体の曲線は少し離れたダイの立っている場所からもよくわかった。
それに、運動神経も悪くはないらしい。
ダイに気がついて、僅かに腰を浮かせた時の間合いがそう思わせた。
どこか、劣っているところがあれば、ダイはそこから彼を越えることが出来る野かも知れないと思っただろう。
けれども。
彼には一分の隙も無かった。
人間だから、何かしら欠点が見え隠れするのだろうと思うが、彼は不完全ささえ完全にさせてしまっているように思えた。
薄い色素の持ち主だった。
しかし、彼には極めて濃い色が見え隠れしている。
シャルル・ドゥ・アルディの背中には、拒絶と孤独と傲慢さと気高さが同居していた。
僅かに背を屈めて、考えに耽っている物憂げな様は、大人の憂悶を知らないダイでさえ胸に押し当てられたように疼痛を感じる。

しかし、ダイはそのまま立ち尽くしている状況から次の行動に移る。防音室は完全防音とはいっても高温などは振動として響いてくる。・・・カオルのレッスンが始まったからだ。出て行け、と言われているような気がした。しかし、戻るわけにもいかないし、今日のレッスンを最初からやり直して欲しいという贅沢はダイには言う事が出来なかった。
どちらにしても、この状態ではカオルに嘲ら笑われるだけであろう。
だから。
彼は、唇を引き締めた。楽器をぎゅっと握りしめ、楽器が皮脂で傷むことがないように、超微繊維のベルベットクロスでそれを軽く握るだけにする。
「・・・そこの荷物を取りたいのだけれど」
ぶっきらぼうな言い方だ、と自分でも思った。
挨拶もなく話を始めるには相手はダイに無関心そうであった。
ここで何をしているのか聞きたくなったけれども、言わないことにする。
大体の察しはついていた。
世界を巡るカオルの心臓はとても脆い。何時間も立ったままで神経を集中させて演奏する独奏家たちは、運動選手と同じほどの体力を消耗する。
日本人にしてはかなり大柄であるカオル・ヒビキヤであったが、それでも彼女の具合があまり良くない時にはすぐにわかった。
唇の色が紫に近い赤であったり、肌の色が以上に白かったりするからだ。
まだ、レッスンを受け始めたばかりであり、彼女の全てを知っているわけではない。でもこうして定期的に時間を持って貰っているので、何となく、体調が不良の時がダイにもわかるようになった。
彼女が弟子を取らないのも、こういった健康問題に影響しているのだろうと思った。
かなり管理された生活を送っているというのはわかったけれども、彼女はやはり、音楽を取り上げられたら、生きていけないのだろうと思うほどに・・・音を愛し楽器を愛しているのだ。

シャルルはそこで顔をこちらにちらりと向けた。
白金の髪の下にあった青灰色の双眸がダイを捕らえるがすぐに視線を元に戻してしまった。
「・・・聞こえないの?楽器ケースを、取らせてください」
そこは自分の専用スペースだという主張はしなかった。ここは彼の家ではないからだ。椅子の足元に立てかけてある楽器ケースをシャルルがうっかり踏みつぶすのでは無いのかと内心焦る。
彼は、まだ、自分の楽器のレベルを決めることのできない程度だ。かなり上達して、もっと上のランクのものを持ったらどうか、と言われるが。彼は今のままの貸与で構わないとだけ言っていた。オーボエはかなり高価だ。最初からそんな高価なものを持つのは自分の音を見つけることを阻むと思うし、家族にそんな負担をかけることはできない。もちろん、現状で満足しているということではなかったが、それでも次を望めばきりが無かった。
それに、次のジュニアコンクールで入賞すれば、彼の住んでいる区の教育委員会が推奨する、若手音楽家の集いというものの更に下ではあるが、それらに参加し研鑽を重ねるための候補準備生として登録することができる。
そうなれば、スポンサーとして楽器店から、中古ではあるが良い楽器を貸与してもらえる制度を利用する申請をすることができるのだ。

ダイは自分の声が上擦っているのを感じる。逆毛が立つような、肌がぴりぴりとした痛みを伝えてくる。
ああ、厄介な相手に会ってしまった。
そう思った。
彼は褐色の細い線で描かれた格子柄のシャツを着ていた。衿がかためのもので、彼の髪に良く似合っていた。二番目までの釦を無造作に開けているようであったが、それは彼がオフであることを示しているという合図のようでもあった。

マリナ・イケダであるのなら、彼がどうして無表情なのか、何を考えこんでいるのかわかるのかもしれない。しかし、マリナの口からあれこれ・・・この人物の話を聞くことはしたくなかった。今は、まだ。
だから、今、目の前にいる人のことを気難しい外国人とだけしかはっきり言う事が出来なかった。それから、日本語が流暢で・・・・マリナ・イケダをこよなく愛しているのだということもわかっていたが、それを認めたくなかった。
●Note 04

目の前の人物に対して気を遣うというアピールを本人に送る方が好ましくないなと思っていた。
だから、できるだけ遣り過ごすせるものを多くすることに専念する。
でも、強ばった顔になって、自分が身構えているのがよくわかった。
カオルのレッスンの時と異なる緊張が走る。

ダイの声が聞こえていないはずはないのに、彼はダイの存在を無視する。
彼は、人が嫌いなのだろうな、と思った。
これほどの大人になれば、愛想というか人への敬意を持つものだが、彼にはそれを感じることができない。

・・・なんで、こんなヤツがマリナ知り合いなのか、わからない

そう思ってはみたものの、マリナやカオルが彼と懇意にしている事実は変わらない。
実際、来客を接遇するためにある部屋を使わないで、彼はこうして自由に出入りできる権限を与えられている。
理解できないという言葉で解決するのは簡単だ。
しかし、目の前の事態を解決する言葉にはならない。

ダイは、溜め息をついた。相手を消沈させるには溜め息が有効だと聞いたことがあったが、それをシャルルの前で披露するわけにはいかなかった。
自分がこどもであると主張しているようなものだからだ。
シャルルの足元にある楽器ケースが、ダイが先ほど置いた時より少し移動しているような気がした。そこに座りたいのだろうか。
革張りのよく手入れされた椅子は、ダイの家では持つこともないような、とても品の良い椅子であった。足の部分の焦げ茶色と相まって、涼しげでありながら決して寒々しくない色を帯びている。
柔らかな革の感触というものを初めて知ったダイは、彼の友人の家にあった椅子と似ているな、と思った。
今は、離れているけれど、ダイにとっては大事な友であった。

シャルルにダイはぼそりと言った。
「カオルならレッスン室だよ」
「あの苛つく大音量が聞こえないのなら、君の聴覚には問題があるな」
驚くほど、流暢な日本語が飛び出して来た。しかも、彼の高慢な態度も一緒に表すことが出来るほど堪能であるらしい。

しかし、ダイは、おかしいな、と思った。
カオルと待ち合わせをしているようであれば、今は通常のレッスン時間であるので、もっと遅く来るはずである。

カオルはここに人が大勢押し寄せることを好まない。
彼女の人柄からは想像できないが、ここは、誰かと一緒にいる時間を持つための空間ではないのだと感じる。
カオル・ヒビキヤに纏わる様々な出来事は、ネットを検索すればすぐにわかることで、音楽業界の中でも、普通に知れ渡っていることであった。
それでも。
彼女は挫けなかった。
彼女は負けないで続けた。
それが自分の命をすり減らしているのかもしれない、と思わない。
それでも良いのだ、と思っているのだろう。

だから、こうしてダイと誰かの顔を合わせることをしなかった。
最初にマリナがダイを連れて来た時が、ダイがここで見た最大人数である。
それ以来、マリナは同行するとは言わなかった。
そして、ダイも付き添いを頼むことはなかった。

彼女が、自分以外の人と自分の知らないところで約束をしていることが、気に入らなかった。でも、ダイの所有物ではないのだ。マリナは、ダイをよく知っているが、マリナの知らないダイが存在するように、ダイの知らないマリナが存在する。

シャルル・ドゥ・アルディがカオル・ヒビキヤやマリナ・イケダと知り合いであることについて、ダイは踏み込む必要もないし、それを主張することもできない。
するつもりもない。
でも、はじき出された気がして、少し寂しいのだ。

「・・・苛立つ音?」
ダイは、シャルルの言葉を拾った。ダイには、いつもと同じにしか聞こえない。
そもそも、楽器が異なるので、彼女がとてつもなく凄い人なのだということしかわからない。まだ、それしかわからないのだ。
しかし、今は・・・カオルは、ダイに課したように禁欲的な基礎練習をしているところであった。
ダイナミックな彼女の持ち曲(奏者が得意とする曲。急な演奏を必要とするときに選択する曲で、周知度が高い曲が多い)をいきなり練習することはない。
指や楽器や弦をあたためて慣らす作業に余念が無い。
曲なのか音の延長なのかわからないようなアップダウンを繰り返しているだけの、基礎練習。それを、彼は苛立つ音、と表現した。ダイは、持っていた楽器を再び握りしめる。
 
●Note 05

指や肘などの関節がゆっくりと慣れていくために必要な緩急の音が流れてくるが、ダイにはそれがシャルル・ドゥ・アルディの指摘するような「とても苛立つ音」には聞こえなかった。
ダイがカオルを失望させるほどの存在ですらないのだと思い知る瞬間であった。
いつもと同じ。いつもと同じ様に自分の調子を崩さない。
だから。苛立つ音、と聞いて顔をシャルルに向ける。
「いつも通りだよ、カオルは」
彼の師匠であるので、先生、と呼んだら、カオルと呼べと言われた。それ以来、彼女のことはカオルと呼び、カオルは彼のことを「ダイ」と呼ぶ。名字も下の名前の呼び方も、彼女は気にしない様子だった。
マリナの連れてきたダイという人物であるというだけで充分であるようだ。
金品も受け取らない。
でも、ひとつだけ、彼女はダイに要求した。
・・・レッスンのある日には、その後の予定を入れないように、ということだけだった。
時間を気にして受ける指導では集中できないから、とダイは理解していたが、それだけではないと気がついた。
・・・カオルは・・・気まぐれに見えるが、レッスンが終わると、ダイに自分の練習風景を見せたり、こうしてダイを自分の空間に招いたりする。

しかし、最初の日以来、誰かと顔を合わせることは殆どなかった。
カオルとダイだけの賑わしいけれども、穏やかで優しくて静かな時間が流れて行く・・・そう思っていたのに。

白金髪の男が、それを台無しにした。
いや、台無しにしたのはダイの方であったのは、承知している。
今日は、ダイが何もかもに責任を取る日であった。
そう思わなければ、目の前の人物に寛容になれなかった。

ダイの言葉に、シャルルはふっと嗤った。ダイは、かっと頬を染める。誰かにこんな風にあからさまに見下されるのは・・・あの雪の日以来のことであった。
彼はまわりとはそれほど波風を立てることのない人物として皆に認識されていた。自分でもそうなのかな、と思う。誰かを特に嫌いだと思ったりすることも、否定することもない。唯一、家族とマリナと・・・本当に限られた人にしか意見することがなかった。

今回の姉との諍いの原因も、弟であるダイが、手の届かない場所に行ってしまうのかもしれないと思った姉の杞憂から来るものであった。
その予感は正しいと思う。
姉は、ダイの中にある変わりゆくものを感知しているのだと思った。
音楽で身を立てることは・・・ないと思う。しかし、自分が何かにむかって、この国を飛び出していくのかもしれないという予感めいたものがあった。
この国が窮屈であるとは思わない。でも、カオルやマリナを傍で見ていて、自分はそうなれないと思いながらも、きっと・・・いつか、自分は外の世界を見たいと思う気持ちに勝てないのかもしれないと思った。

順調に進学し、この国で就職し、時折取れる休暇に満足しながら、毎日与えられたものをこなしていく日々を過ごしていく路が自分に適しているのか、疑問に思うのだ。

マリナやカオルのようになりたいとは思っていない。不安定な日々を送りたいとは思わない。ダイはまだこどもであったけれども、大人ではないからこそ感じるものがあった。将来の確約などは・・・誰も約束できない。
けれども、どこかこう、鬱屈したものが自分の中にあって、それを姉が見抜き、ダイは怠惰だと言って口論に至ったことを考えると・・・・今日のレッスンは、途中で強制終了されてしかるべき結果であったのだろうと思った。

「それを聞いたら、彼女は失望するだろうな」
「なぜ?」
「オレに、『なぜ』と聞くから」
禅問答に答えるつもりはなかった。
ダイは唇を横に強く引いて、彼の足元にある楽器ケースと荷物を引き寄せるために体を屈める。
彼が言う彼女、というのは誰のことを指し示しているのだろうか。
カオルだろうか。それとも、マリナだろうか。
どちらにしても、ダイに「お前はお呼びじゃない」と言っているような口調のシャルルに、親しく会話しながらこの場を遣り過ごす義理も感じなかった。
胡散臭いな、と思うが、彼は確かに正真正銘の・・・フランスの要人なのだ。

目の前に、滅多に逢うことが出来ないような有名人がいたとしても、ダイはまったく気にしなかった。マリナの影響なのかもしれない。人の肩書きに興味はなかった。ただ、シャルルがカオルとマリナの旧くからの知り合いであり、そのうちのひとりと・・・悔しいが恋人関係にあることだけで、ダイには十分すぎる情報であった。
「誰もがっかりしない。ボクが一番、わかっているよ・・・そんなこと」
ダイはそれだけ言うと、楽器を持っていた反対側の手でケースを引き寄せた。
中身は今、ダイが身体に添えて持っているからそれほど思いものではない。
床の上を滑ってダイのところに到着したそれらを自分の足元に引き寄せた。一度には持ちきれないし、そんなことで抱えている楽器に思わぬ衝撃を与えてしまい、破損させてしまう方が怖かった。

●Note 06

彼は、そっと天上に顔を向けた。物憂げで、何もかもに気懈いのだと言わんばかりの憂鬱そうな顔。
マリナとは正反対であった。
彼女はいつも溌溂としていて、消沈した時でさえ躍動している。彼のまわりだけ、時間が止まっているような・・・そんな空気だった。
しかし、ダイはそれに見惚れるほど、彼に心酔していない。
ただ、見目が良くて日本語に堪能な奇妙な外国人にしか見えなかった。
そして彼は、シャルルが場所を譲らないので、諦めて彼の脚元に屈み込んだ。
恐ろしく長い脚と小さな腰が見える。
けれども決して人形のようではなく、着ているものに隠れて見えていないだけだが、筋肉質で均整の取れた、計算された鍛え方をしているのだとわかる。
ダイにも少しばかり武道の心得がある。だから、わかるのだ。
彼にそれを教えてくれた人も同じ様な体格であった。

人に言われて場所をあけるということを知らない人種も居るのだと思った。
彼の友人の不磨などは、眼を瞠るくらいの裕福な生活を送っているが、いつも謙虚で、皆と違うと言われることを恥じていた。
今は別の場所で暮らしているが、今でも彼とは離れていても友達であった。マリナが、よく言っていた。
どんなに離れていても、また逢いたいと思うことが大事なのだ、と。
またね、と声を交わしたのなら。
それは必ず再会できるまじないになるのだ、と。

傲慢で不遜な態度の人物を目の当たりにして、彼は無関心を装った。

マリナを軽々と抱き上げる人物。
そして、彼女が失調するまで祝いを送りたいと想われている人物。

ダイはまだ少年であるけれども、マリナとシャルルが友達以上の関係であることくらい、察することができる。
わけもなく惹かれて・・・遠く離れていてもきっと迎えがあるのだ、とマリナは信じていたのだろうと考えると、胸が痛む。
この痛みは・・・きっと、これからも繰り返すのだろう。
そして小さな棘ほどなかなか抜けないのだ。

でも、ダイのいつもの日常で足りないものがあるから、カオルに拒否されたのだ。シャルルが居ても居なくても・・・関係ない。
こんな状態のまま、マリナに会いたくなかった。
今、目の前に居る白金髪の男性が日本に居るということは、マリナも近くに居るのだろう。
ダイは、マリナの居ない四季を・・・・連続しない季節を過ごすことに対して、シャルルに憤懣を訴えても、それは不当ではないと思えた。
春が一緒でも、夏には居ない。
秋を一緒に迎えたいと準備しても冬には居ない。

しかし、それは言わなかった。
マリナが・・・あの黒髪の人と一緒に居ない理由を、ダイはまだ聞いていない。そして、違った想いで、目の前のこの人と一緒に居ることも、ダイは詳しく経緯を聞いていなかった。
それを、彼が幼いからだと思っているのか・・・それとも、誰にも言えないのだと思っているのかは・・・ダイには、わからなかった。
 
●Note 07

ダイが、楽器をケースに収納しようとして腕をいま一度伸ばした時に。
シャルルはそれを待っていたように言った。

・・・ダイがここで挫けてしまうようであれば、シャルルはダイを見限るつもりだったのだ。

彼に纏っている冷然について、少しばかり理解できた気がする。

ダイの持っている楽器は、シャルル・ドゥ・アルディから見たら目に入れるまでもない品であるかもしれない。
けれども、今、身の傍に置いているオーボエは、彼の全てであった。
それに溺れることはない。それ以上を求めはしないが、ダイは自分の分にあわないものを手にする愚かしさは持ち得なかった。
己の持つものだけがすべてで絶対だとは思わなかった。
カオルに教わっているから、自分が最高の弟子であるということにはならない。
楽器の値段というのは可能性でしかない。
彼が今、持ち歩いているものは、彼にとっては分が過ぎるものである。

・・・この年齢になって音楽を始めることの辛さを教える象徴そのものであった。
性質や、業界の独特の色や温度や気配を、ダイは知ることが出来ない。
今、どんな音色が求められて、どんな奏法が求められているのか、ダイにはわからない。
音楽という世界に、生まれた時からどっぷりと浸かりきっている者と、ダイは明らかに違っていた。

・・・それなのに、カオルは彼を教えようと言ったのだ。

古典を聴けとは言われていたが、自分がどれだけ異質であるのかということについてはまったく聞かされていなかった。
他に弟子がいないから、比べようがなかった。
同じ環境に居る、他の師に教えてもらっている者のことは、ダイは積極的に聞くことはしない。彼が、皆と同じではないことを理解していたからだ。比べても・・・比べられないのだとわかっていたし、そのことについて他の誰かと違う自分を歎くのは、彼にはとうていできないことだとわかっていたから。

幼の時から日々当然のように浴びた特別な雨のような來音を聞くことがなかったのは、ダイの責任ではない。けれども、そういう環境に居なかったことによって、自分だけ感じるものもあるのかもしれないなと思ったのだ。
幼い時から英才教育を与えられた者は、同じ様な生活環境を過ごしている。

突き指を懸念して体育に出席しなかったり。
失調を気にしてコンクール前は学校を休ませたり。

そういう特別な配慮が、ダイには存在していなかった。

だから、カオルも・・・特に、マリナもダイに対して何も壁を作らないのかもしれない。

カオルは多くを語らないが、マリナは自分の都合ではない事情で様々な場所を転々と住み歩いた経験を持っている。
思うとおりに習い事ができなかった時もあったのだろう。
趣味や習い事という範囲で片付けることの出来ない、諦めなければいけなかったものもあったように聞いている。

・・・人が何かを諦める時というのは、誰かに託すことができるとわかっているときにのみ、受け入れることができるのだと聞いたことがあった。

カオルは。
マリナは。
そしてシャルル・ドゥ・アルディは・・・・

何を諦め、何を誰に託したのだろう。
それを考えると、彼は哀しくなってしまう。
人は、生きている年数を加えるたびに、何かを失っていくばかりなのだろうか。

そうではないと思う。
そうでないのだと思いたい。

だから、ダイは言った。
それが自分を不機嫌にさせるとわかっていても。聞きたくないことなのに、聞いてしまう。
言ってはいけない場所だと聞くと、そこに向かってしまうこどものように。
彼は、こどもだからそうするのだろうか。こどもでなくなったからそうするのだろうか。
それを確かめるかのように、硬い声でダイは言った。言わなくても良いことを言った。
「マリナを待つのであれば、だいぶ遅れてくる。カオルはボクがここから居なくなったら、出てくると思う」
哀しいけれども、それは真実なのだ。ダイが今この瞬間に、断言できることはそれだけであった。
 
●Note 08

ダイが傍に寄ると、シャルル・ドゥ・アルディは僅かに頬を引き締めた。
彼は誰かが傍に寄ることに対して警戒しているようだ。
ひどく神経質な人だな、と改めて感じる。
細く長い指先も潔癖そうだと思ったし、乱れた感じを与えることのない服の着方をする人だと思った。

彼の家では、人と賃貸借関係を結ぶ時に、相手と必ず一度は話をする。
一度でその人すべてがわかるわけではないが、大体のことが推測できるのだと、彼の母は言う。
その時には、指先と服装と・・・相手の目を見るかどうかで決めると教えられた。

彼は、あの雪の日にまっすぐダイを見つめた。
青灰色の瞳と白金の髪が印象に残っていたが、それよりも、マリナを見つめる視線があまりにも優しくてダイはそこに割り込むことすらできなかった。
今でも鮮明に思い出すことができるが、思い出すと胸が痛くなる。
その疼痛に慣れることはなかった。

うまくいかないことばかりであった。
この人は、そんなことはないのだろうな、と思う。
ダイは彼のことを知らないわけではない。
少なくとも、彼がダイのことについて知っている以上のことは、ダイはシャルルのことを知っている。
彼はダイのことなどは気に懸けることもないだろうが。
調べようと思えば、大抵のことはわかった。
彼の経歴も、フランスでは大変な有名人であることも。
そんな人物が、マリナを迎えに来る。
マリナのために、自分の予定を変更する。
「彼女は君に翻弄されはしない」
「そう。だからだよ」
ダイはシャルルの言葉に項垂れた。自分は、彼に慰めて欲しかったわけではない。それなのに、事実を突きつけられてダイはひどく傷ついた。
彼は、カオルのレッスン中にここに入ることを許されている。

カオルは大らかで細かいところに拘る様子は余り見せないが、音楽に関することだけはかなり自分自身に厳しかった。
彼女の肉体は強靱とは言えない。
体格に恵まれているが、その恩恵を十二分に受けているとは言えない。

時折、長時間の立位に耐えられなくて座ってダイを指導することがある。
まだ数えるほどしかレッスンを受けていないけれども、彼女は体調に左右される時があるのだ、と思った。
長距離を移動して演奏に赴く彼女の疲労が蓄積すると身体の方がついていかなくなるのだろう。
彼女ほどの演奏家になれば、ダイの基礎練習ほどの時間以上に自分の一日のほとんどを彼女の情熱のために費やしているのだろうと思われた。

「誰にも影響されない」
ダイは自分で自分を抉っていると思った。
彼にとっては・・・自分のやっていることはままごと以下だろう。
玩具のような楽器に四苦八苦しているダイは滑稽に映っていると思った。
無関心であるようにも見えるが。
マリナの小さなナイトだと揶揄した白金の髪の外国人はダイを無表情に見た。
自分では無情な言葉を使うのに、ダイがそう言うと意外だと思うのだろうか。
それはそれで苛つく。

人は消沈した次には憤りがやってくるのだと知る。
誰にも吐き出すことのできない感情が、種類を変えてダイに何かを訴えているのだが、彼はまだそれがどうしてなのか理由がわかるほど経験を積んだ生を送っていなかった。
マリナに聞けば、彼女はダイの欲しい答えをくれるのだろうか。
でも、そんな質問はしたくなかった。

「・・・君が不調なのは、オレのせいじゃない」
「そうだよ」
ダイは声を押し殺して言った。
楽器ケースを自分に引き寄せて、片付けを始める。
「だから、カオルの音が苛立つ音だと感じるのなら、それはボクのせいじゃない」
ダイはカオルに影響しない。
それから。
次に言いそうになった台詞を、ダイは慌てて呑み込んだ。
それを言ったら、もうここには来られない。

カオルはマリナのともだちで・・・この人はマリナとカオルと関係が深い。
ダイは、そこには入り込めない。
カオルは、ダイの練習不足くらいでは、感情を動かすことはない。
・・・マリナも同じだ。

それを思うと、ダイは、何も出来ないただのこどもに戻ってしまう。
 
●Note 09

早くここから出て行こう。

そう思った。
シャルル・ドゥ・アルディはダイの荷物の近くから離れる様子はない。
自分で誰かのために場所を引き渡すということはしない人で、それが当然である環境に居る人なのだ。
自分の方が、異邦人なのだ。
特に、ここでは。

大人になってまだ続く交友関係については、ダイにはまだわからない。

小学校卒業と同時に別れてしまった友人と将来にわたって友人で居続けることができるかどうかについても、絶対で永遠であると言い切ることができなかった。
マリナがダイを認知しているのは、彼が大家の息子だからという理由がなければ、マリナはダイに対してこれほどまでに良くしてくれることはないと思った。
それから、そんなマリナの依頼だから断れなかったカオルに対しても、気の毒であるなという申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

こういう時には、誰にも会いたくなかった。
気晴らしをするのが必要なのかもしれないが、とてもそんな気分になれない。
自分の部屋に戻って、そうそうにベッドに潜り込み、課題曲を連続再生にして眠りにつくまで音量を大きめにしたまま横たわっていたいと思った。
それとも、少し身体を動かしてこの鬱屈とした気持ちを吹き飛ばしてしまうほどに疲労すれば良いのだろうか。
「・・・彼女が苛立っているのは、明らかに君のせいだろう」
シャルルがそう言ったので、ダイは眉を動かした。
「さっき言ったことと矛盾する」
「矛盾はしない」
彼は唇の端を曲げた。その姿さえどこか、この世のものとは思えないほどに端整であった。
ダイは「過ぎるのは良くない」といつも聞かされていたが、シャルル・ドゥ・アルディは何に対しても過ぎるという言葉を越えた存在のように思えてくる。
シャルルは面白くなさそうに、つまらなさそうに言った。
ダイは説明を求めてはいないのに、何を言い出すのかと思ったが、彼はダイに許可を求める前に話し始めてしまう。
・・・防音室の向こう側では、カオルの音が漏れ聞こえていた。単調な指の練習のための音階の昇降を繰り返している。
シャルル・ドゥ・アルディが静かに説明した。彼はとても気怠げな表情を崩さなかった。
「翻弄されはしないが、君が思ったより気がついていないことに苛立っているし、もっと欲があれば良いのにと思っている。加えて、自分の中の音楽家としての誇りにかけて負けられないと思っているから、ああして君を追い出した後に慌てて練習するのさ。・・・・自分の身体の融通がきかなくなるほどに没頭するのは悪い癖だ」

それをダイは黙って聞いていたが、やがて、自分の持っていた楽器を分解し始めた。
本当は安定した平らな場所で行うべき作業であったが、彼は自分の元に片手で荷物全てを引き寄せると、シャルルから離れた場所で床に片膝をつき、それらの作業を始める。
はやく、ここから出て行こう。
改めてそう思う。
恐ろしく日本語が流暢な外国人が、ダイに何か、理解できないようなことを言っている。
彼にとっては、その言葉は聞き慣れない外国語のように聞こえた。
覚えきれないほどの話を聞いたわけではないが、にわかに信じろと言われてもできない内容であった。
しかし、これだけはわかるのだ。

・・・彼は嘘や虚飾は用いていない

深い付き合いをしていなくても、わかる。
潔癖そうだということはうすうすわかるものだ。
彼は人が嫌いなのだと思う。
人を寄せ付けない態度に、名乗ったり挨拶を交わしたりすることのない不遜な態度。ダイがいくらこどもであったとしても、先客であるわけだから、何かしら反応を示しても良いはずなのに、彼はまったく無関心であった。
・・・誰かにすり寄る必要もないと思っているくらい、人が嫌いそうだなというのも、ダイだからこそわかるのかもしれない。こどもは特に、そういうことには敏感だ。
誰が自分と距離を置きたがっているのか、誰が自分のことに興味を持っているのかという区別くらいは、瞬時にできる。
それほど、すべてのことに疎くて鈍いわけではない。

「なんで、そんなことがわかるんだよ」
ダイがぽつりとそう言った。楽器は冷やすといけない。だから、レッスンが終わればすぐに湿気を抜いてやらなければ急速に劣化する。それがわかっているのに手が止まった。ようやく手に馴染んできたそれをぎゅっと握りしめて、ダイは床にむかって呟くように呻くように言った。

●Note 10

それはダイの頭上から降って来た。
良く通る声で、静かに響き渡る硬質の声であった。
でも決して突き放すような冷たさではなかった。
シャルル・ドゥ・アルディの答は簡潔であった。
「聞いたから」
「誰からだよ」
愚問だとわかっていても、ダイはそれでもその言葉を否定する。
目線を逸らして、ダイはぶっきらぼうにその言葉を吐き出した。

「わかったような口をきくな」
「わかっていないような口をきくな」

瞬時に彼が遣り込めたので、ダイは口を噤む。頬が熱くなり、彼は自分が昂奮しているのだとわかった。あまりそういう感情の起伏は好まない。
姉と口論した時にも、これほど憤らなかった。直情的で順序立ててダイに文句を言う事の出来ない姉の言葉のひとつひとつに耳を傾けているより聞き流してしまうことが気に入らないのだ、と言われたばかりであった。

あんたは、家族より他人との関係の方が大事な、冷たい子なのよ。

そう言われてもなお、何も言い返すことはなかった。
しばらく時間が経過すれば、謝ってくるのは姉の方なのだ。
嵐が来たと思って遣り過ごすことにしていた。
が、その漣が鎮まる前に、このような言葉を投げかけられてしまったものだから、彼は自分の感情を静かにしておくことができなくなってしまった。

シャルル・ドゥ・アルディの言っていることは正しい。でも、ダイにはそれが受け入れられない。
わかっていないようなふりはできなかった。わかっているのだ。
自分が誰かのために音楽を始めたことをカオルは哀しんでいる。
自分のためにではなく誰かのために・・・自分の夢や希望というものを捨ててしまったと思っている。

マリナもそうだ。
何度も、確認された。
それで良いのか、今からやめることもできるのだ、と。
しかしダイはその言葉に・・・ただ笑って・・・考えすぎだよ、と言うだけであった。
マリナは感づいていたのかもしれない。ダイが、自分のことを優先させない少年になってしまいそうで怖いと彼女に言われているような気がした。

カオルのレッスンに通うようになって感じることがあった。
マリナも含めて・・・ダイを通して誰かを見ているのではないのだろうか、という疑問が常に湧き上がるのだ。
そして、マリナからもそれを感じるのだ。
自分は・・・意図せずしてマリナやカオルの求めるものになろうとしているのではないのだろうか、と。

だから、姉の声を聞き流すことができなかったのだ。
聞き捨てることができなかった。

自分の心の声を無視して、他人ばかり気にしている。

そう言われたことが、ダイを言い当てたものであると認めざるを得なかったのだ。

 
●Note 11

「ヒビキヤは融通の利かないところがあるが、自分の経験していないことは教えてやれないというのは、彼女に限ったことではない」
「・・・何を言っているのか、わからない」
また『知らないふりをするのか』と言われることを予想していたが、シャルル・ドゥ・アルディは何も言わなかった。
カオルの事を、カオルのいないところで定義づけすることは避けたかった。
だから、ダイはそれを軽く聞き流そうとするが、彼はそれを許さなかった。
彼は不機嫌そうにまたダイを見下ろす。
蔑視ではなかったが、こうもあからさまに好意的ではない視線を向けられると、爽快さはさすがに感じない。
ダイは黙って片付けを始める。
その様子をシャルルが眺めていることもわかったが、彼は無視してその場を立ち去るための時間を短縮することに専念した。

大人の方が、状況を読めていないってどういうことだよ
ダイは心の中で困惑の言葉を漏らした。

こんな風に、自分には愉快ではない日もある。
誰かと関わるということはそういうことなのだ。
そう自分に言い聞かせるが、想定外の相手に不機嫌そうに話しかけられて、ダイは困惑するばかりであった。彼が何を言いたいのか、本当にわからないのだ。
ダイの困惑を越えてまで会話の往来を成立させたいとは思わない。

片付けもそこそこに立ち上がったダイは、一応の儀礼としてシャルルに僅かに頭を下げる。
自分のそういうところが嫌であった。
誰かと波風を立てたくないからということが先に身体を動かしてしまう。
ここで不作法を披露すれば、マリナの耳に入ると思ったからだ。
それから、扉の向こうにいるカオルにも。
マリナとはしばらく顔を合わせていなかった。
彼女に会った時にはレッスンは順調で、日々つつがなく暮らしているとだけ報告している。詳細をあれこれ語るより、マリナの詳細を聞きたかった。
でも、聞けずにいる。
聞けば、目の前の男性との話題に触れることになるからだ。
ダイが知りたいのはシャルルのことではなくマリナのことであったが、マリナひとりのことを知るためにはシャルルのことも聞かなければならないという事が何とも堪え難かった。

シャルルは溜め息を漏らした。それが余りにも綺麗であったがどこか物憂げであった。
マリナは、こういう奴が良いのか。
ダイは電流のような痛みか痺れかわからない感覚が胸から込み上げてくるのを感じる。

見れば見るほど、彼は平凡という言葉と無縁である人物であると思われた。
自分とは違う世界の住人である。
ダイが感じているように、彼にとってもダイは彼とは違う世界の住人なのだから、理解できなくても当然だろうと思う事にする。
お互い様だ。

そう思って、この場を立ち去ろうとした時。
シャルルが、言葉をかけてきた。
「ここしばらくで、体格が変わったのが原因だ」
「え?」
ダイが振り返った。シャルルの言葉が自分に向けられたものだとわかったから。
彼は無表情に言った。
「不調だと思うのは、身長が伸びて立位の時のポジションが変わるから。・・・次からは時間の半分くらいは座って慣らせ。気管支も骨格が変わるから注意しなければならない。いつまでも同じスタイルに拘ると、悪影響だ」
ダイは驚いてシャルルに向き直った。
「なんでそんなことがわかるんだよ・・・」
彼の声は掠れていた。驚きだけのためではない。彼の声は低くなり始めていた。
それを、風邪かもしれないとカオルに言ったところ、彼女は健康管理もレッスンのうちだとダイに注意したのだ。
「前回会った時より声質も違っているし、身長も成長期特有の伸び方だ」
彼は素っ気なく言った。それほど親しく近付いたこともないのに、彼はそこまで目視で判断できるのか。ダイは驚愕した。
「成長痛が気になるのなら、休むか時間を半分にしろ。いずれおさまる」
そして、もうひとつ彼はダイに言う。
「楽器が馴染まないのならば、リードを削れ。自分に合ったものを作るのもオーボエ奏者には必要だ。・・・習わなかったのか」
ダイはそこでもぐっと言葉に詰まる。確かに、微調整をするためにリードを自分で削り、湿り気を与えてストックを何本か作っておくことについては聞いているし、自分でもやっていることであった。けれども、それも納得できるものに出逢えるのは本当に僅かな確率で、その上消耗品であるから永遠に使い続けることはできない。
「それくらい、知ってる」
ダイはぶっきらぼうに返事をした。
そこでふと思った。
彼は一体、いつからここにいるのだろう。
 
●Note 12

自分には最高の環境と最高の師がついているのに、それに対応できるほどの才能がないのだと宣告されたような気がした。
いや、才能がないのは最初からわかっている。
だから、才能という名前のついた、最初から持っているものではなく、彼が努力し続けなければ決して手に入れられないもののことを指し示されているのだと思った。

ダイはわかっている。
彼は、世界を駆ける立場にはならないだろう。
なぜなら、音楽だけに没頭することができないからだ。
そのことだけに自分の頭の中の全部を使い、体力の全てを注ぎ込み、情熱を燃やし尽くして満足することができないから。

まだ何もかも始まったばかりであるのに。
彼は、終わりの予感を肌に受けていた。
永遠ではないからこそ、夢中になれるのだ。
自分の一部ではあるが全部ではないことを承知しているから・・・だから、マリナは彼をここに寄越すのだろうと思った。
カオルとダイは何もかも対照的だった。どこか醒めた感じのダイに、いつもカオルは皮肉っぽく言う。
「世界を知ったような口を利くなよ」
それでも彼女はこどものくせに、とは言わなかった。

シャルル・ドゥ・アルディは軽く溜息をつくと、噛んで含ませるような言い方で、かつゆっくりとした速度で説明した。
それがダイを苛立たせると承知の上でのことであった。

「骨格に変化があるときに、癖をつけると矯正に時間がかかる。
だから、ヒビキヤは帰れと言った。
が、自分の時はどうであったかという経験を語って聞かせてやることができないから、ああやって苛立つ」

オマエにわかるわけはないだろう、と言いそうになって口を噤む。
けれども、ダイには心当たりがあるのだ。
確かに指の動きも肘の位置も違和感を感じていた。
加えて、リードを口に含んだ時の感触がしっくりと馴染むことがない。
これまでは懸命に基礎練習をこなしていくことだけに懸命であったが、こうして日々の生活に慣れて・・・それで注意力が散漫になり余計なことに気を遣ってしまうのだとダイは考えていた。
 
●Note 13

「・・・楽器はもっと合ったものを使え。こればかりは相性だから、たくさん楽器を持ち自分にはどんなタイプのものが必要で、何が欠けていて、何を削ぎ落とすべきなのか考えろ。
ヒビキヤが帰れと言ったのは、考える時間も必要だと言いたかったのだから」
いつものダイであったのなら、この忠告を真摯に受け止めるよう努力したであろう。
けれどもこの時ばかりは、彼は素直に受け止めることができなかった。

ダイはいつもよりずっと短い時間で片付けをして雑になってしまった鞄の中身に気を遣ることもせず、シャルル・ドゥ・アルディに向き直った。
「それなら、あなたは・・・古くなったり自分に合わなかったりしたら、簡単に取り替えるのですか。ボクにはこれしかないし、これで十分だと思っています。ボクが合わせれば良いだけだ。
でも・・・あなたは・・・気軽に取り替えるのですか。それしかないとわかっているのに。たとえば・・・・マリナも飽きたら捨てますか。捨てられますか」
ダイが彼のことをオマエと言わずに「あなた」と呼んだのは最後の理性であった。

弱さを見せたくなかったので、強がってみせた。
彼のこれまでの人生の中で、誰かに抗議するなどとは家族以外では二回目であった。しかも、二回とも同じ人物に対して彼は憤然とした言い方をしてしまっている。
自分が正しいと思っていないからこそ人は声を荒げるのだと思う。
だから、何かを伝えたいのであれば、ゆっくりと静かに要点だけを伝えるようにしなさいと言われていたし、実際、そうすることによってうまくいくことの方が多かった。

「・・・・ファム・ファタル、という言葉を知っているか」
彼は静かに、ダイの言葉に返答した。
「・・宿命の人、という意味だと記憶している」
ダイはぽつりとこたえた。
シャルル・ドゥ・アルディがこれまでの表情を一切消して、まったく無になってしまったから。
どことなく生気のない顔に見えて、本当に生きている人なのだろうかと思うほどに呼吸が浅くなる。
ダイは彼の貌を見つめた。
その整った横顔が、余りにも儚くて遠くを見つめていたからだ。
見つめていないと、次に視線を移した時にはもうそこにはいなくなってしまっても不思議はなさそうな程であった。

「・・・運命の人、と言うべきか。
宿命とは前世で決まっていることだが、運命は違う。
宿命は現在を定めるが、運命は未来を定める。
・・・彼女はオレのファム・ファタルだ。
もし、彼女がオレから離れて行ったとしてもそれは変わらない。決して変わらない」

ダイは頬に血が上るのを感じた。

この人は・・・マリナのことを心底欲しているのだ。
それなのに、同じだけ愛して欲しいとは思っていない。
何故なのだろう。
どうして、この人はこんな風に身を切るようにして、魂を削るようにして彼女に心を傾けるのだろう。

目の前の外国人が、彼のよく知るマリナ・イケダについての激しい恋情を囁いている。そんな言葉は現代の日本にあっては笑われるだけだと言いたかったが、彼から発せられる言葉には、冷やかすほどの軽さは少しも存在していなかった。

彼がそれを静かに言う事ができるのは、様々な葛藤があったからだろうと思わざるを得ない。あのマリナを運命の人と言い切ったのだから。
彼が望めば手に入らないものはない存在なのだということは痛いほど感じていることである。
それなのに、マリナを完全に彼で覆い尽くすことはできないのだろうとわかっているようでもあった。

・・・切なくなった。

マリナは、彼のことを大事に思っている。でも、距離を置いている。それは、彼女の前の恋人が影響しているのだろうと思われた。

・・・遣りきれなかった。

シャルルは・・・いつかマリナがシャルルとの関係に飽きて離れて行くのかもしれないと思っている。でも、それでも離せないと思っている。
そうでなければ、ダイにまで彼女のことについて語ったりしない。これほどの事をさらりと言ってのけるのであれば、それなりの覚悟はできているはずだ。もし、彼女が生涯をともにすることがない相手であったとしても、彼は『今』一緒に居ることを一番大切にしているのだ。

もう、それだけしか残されていないのだ。選択する余地などはないのだ。唯一であり絶対であるから、他に候補があったとしても、それは唯一でも絶対でもないのだから。

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D-side 溟沐 後編

●Note 14

「・・・楽器のように挿げ替えることができるものではない」
シャルル・ドゥ・アルディという人物は随分と気難しい学者気質の人だな、と思った。友人の不磨も時折、そんな口調になることがあった。
話ながら考えを纏めているから感情を込めることを省略してしまうのだ。
だが、シャルルは先ほどから一貫してずっと冷淡に話をしている。
彼は、話ながら考えているのではない。話す時には、もう、考え終わっている。
そんな気がした。

「どうしてボクにそんなことを言うんだよ」
溜息混じりにダイは聞いてしまった言葉をそのまま丸めて小さくして彼に返してやりたい気持ちでいっぱいになりながら、言った。
「質問されたから」
素っ気なくシャルルの返事がまたひとつ返ってきた。

立っている場所が違っている者との会話は、意思疎通しようと思わない限り相当な労苦を伴う。
・・・ダイはこれだけの短い会話なのに、酷く摩耗している自分に気がついた。
彼は、ダイの質問にはぐらかさず、淡々と事実を述べる。それがダイを苛立たせる。

この人が、マリナ・イケダの特別な人なのだと思うだけで落ち着かなくなった。
彼女を抱き上げ、連れて行ってしまうことのできる大人の男性が、今、ダイに向いていると思うとそれだけで・・・平然としていられなかった。

それならもう何も言うまいと思い、ダイは口を噤む。
今日は本当に風向きの悪い日なのだ、と思った。自分に都合の良いことばかりが起こるとは思わないが、ダイにとっては、都合などという言葉では片付けられない事実を突きつけられてばかりで・・・困憊し憔悴していた。

「・・・過干渉はやめておけ、とマリナにもヒビキヤにも忠告した」
すると、シャルルはダイのことを横目で見ながら、抑揚なく言う。
「どういうこと?」
しまった、と思った。また質問してしまった。
「学童の余興程度でしか接触のなかった音楽を本格的に始める年齢には遅すぎるから、やめておけ、と言ったんだ」
ダイは頬を紅くした。自分のことを言われているのだ。
・・・そして、彼はダイのことをダイが思っている以上に知っていると知り、また緊張が体を走り抜ける。
オーボエを本格的に始めたのは中学に入ってからだが、小学校の授業で触ったことがあり、決断はあっさりしたものであったからそのことを指摘しているのであろう。
確かに、オーケストラの中で、管楽器の中ではひときわ目立つが、扱いやすそうだと軽率に思ったことも理由の一つであるのだと否めなかった。
簡単に音が出ると思った。実際、最初は簡単だった。音を出すのは簡単だが音楽を作るのが難しかった。
でも、彼は愚痴も文句も後悔も何も言わなかった。自分で決めたことだからだ。
そして、マリナは彼の為に師を紹介してくれた。
思ったものと違うから、やめたいと言い出すことはできなかったし、そうしてしまえば楽にはなれたが、マリナはとても残念がるだろうと思ったのだ。
だから、自分を見つめて、自分で結論を出した。
本当にやりたいことが見つかるまでは、これが「今、やりたいこと」なのだと。
目先にぶら下がっている「逃げたい」という気持ちは、決して本心からではなく、それを乗り越えなければ先に進まないとダイは思っていた。

そんなダイの心の動きを・・・シャルルは、見抜いているのだ。
ダイには迷いがないけれども、誰のために・・・誰を思って努力しているのか、彼は知っているのだ。
ダイの思い描く人と同じ人が、彼の中に住まっているから。
「ヒビキヤが憤っているのは、おまえが自分のことより他人のことを優先させてばかりいるから・・・誰かを思いだして苛つくのさ」
そう言って、シャルルは肩を竦めた。
ダイは自分の足元を見つめた。
ここのところ急に身長が伸びたので、着ている服の寸法が合わなくなってきていた。
あまりも見苦しいものにならないようにしてはいたが、またすぐ身長が伸びてしまうと感じているところであった。
手も長くなってきたし、これまでの姿勢では肩の幅も違うので違和感を感じる。
それでも練習を休まないのは・・・自分の中で、マリナの知っているダイでなくなっていく自分が怖かったからだ。

マリナは彼に会うたびに「見るたびに顔つきが違ってくるね」と嬉しそうに眩しそうに、そして少し哀しそうに、言う。
たまに会うからそう感じるだけだ、と言うと彼女は首を横に振るのだ。
「毎日会っていても・・変化はわかるものよ。特に、ダイの年齢の頃は」
彼女はそう言って自分の身長を追い越してしまったダイを見上げるのだ。
・・・一度追い抜いてしまえば、永遠に・・・彼女はダイを見上げ続けるのだ。

「もう少し貪欲にならなければ、オーボエなどという楽器は個性が生まれない。個性が強すぎるのも奏者として向かないが、あるものを消すのは簡単だが、ないものをあるように見せるのはより手間がかかることだからな」
彼は辛辣にダイに言い放った。
●Note 15

「やめるのを決めるのは、ボクだ」
彼はそれだけを言うのがやっとであった。マリナの想い人であるのなら、なおさらのこと彼のことを嫌いになりたくなかったが、どうにも居心地の悪さを感じる。
人の一面だけでその人物を好ましくないと判断してはいけないのだと頭でわかっているのに、感情がついていかなかった。
「そうだな。始めたのがおまえであるのなら」
ダイは唇を強く噛んだ。
「奏者ならそうやってこどもじみた態度で主張する方法は逆効果だぞ」
唇の微妙なコンディションが音色に左右する。
それをシャルルは指摘しているのだ。
・・・彼の言っていることは音楽理論にもならないほどの初歩の話であった。しかし、ダイはそれにすら言い返すことも傲然と忌避することもできなかった。
「あの人の責任にするな。決めたのは、おまえだ」
そこで、彼はシャルルが「あの人」と言い、彼女のことを少し距離を置いて表現したことに、頭の芯にいきなり鉛を打ち込まれたかのような衝撃を受けた。

「何だよ、大人のくせに、こどもみたいなことを言うのはやめろ」
ダイはそれから続けて言った。
「ボクにマリナのせいにするなと言っているくせに、最後までやれと言う。
どっちなんだよ。関わって欲しくなさそうにボクをけん制するのに、悔しかったらやってみろと煽る。
・・・・ボクはオマエのおもちゃじゃない」
彼の最後の声は、絞るような低い声であった。ここのところ、発声に苦労する。
体格が変わってきたからだ。腹式呼吸を自然に行うことができなくなった。
意識しないで行えたことが難しい。どうやって手と足を出していたのだろうと思うことさえあった。手順を思い返そうとするとうまくいかない体に染み付いた基本的なことができなくなっていく。

それは、マリナに対する態度も同じであった。平然とできたことが気恥ずかしくなった。挨拶をしたり一緒に散歩したり、彼女の髪に勝手に触れたりすることが、気恥ずかしくなった。してはいけないことなのかもしれないとさえ思う。

・・・それを、この男は見透かしているような目付きで彼を見るから、彼は困惑し、憤り、そして最後には再び途方に暮れる。
「玩具なら、これほど退屈はしない」
彼は無表情にそう言ったので、とうとう、ダイは彼とのこれ以上の会話は無理だと限界を受け入れることにした。どれほどマリナが彼のことを好きでも、どれほど彼がマリナを大事にしていたとしても、ダイは彼らにとっては部外者なのだ。

●Note 16

ダイとの話が退屈だと言われて、ダイはそれでも平気で居られるほどに達観した態度を続けることはできなかった。
「だったら、退屈しない人と話せばいいだろ。さっきから、何だよ」
いつもの彼らしくないとわかっていても、こういう物言いをされることに慣れていなかった。
確かに、カオルも口が悪いし、マリナも遠回しにものを言うことはできなかったが、ダイはそれで憤ることはなかった。
彼女達との間には、信頼関係があったからだ。
家族に対する甘えのようなものがあったのかもしれないが。
姉との口げんかにしても、またすぐに何事もなかったかのような状態に戻ると確信していたからだ。

「何でも持っているくせに、退屈だと言うな。傲慢だよ」
ダイの言葉に、シャルルが反応した。彼は綺麗な眉を僅かに動かして、切れ長の、青灰色の瞳を少し大きくした。
白い頬に僅かに血紅色を含み始めた。彼の何かを傷つけたのは明白であった。
しかし、彼は止められない勢いのままに言ってしまった。
冷淡でどこか人を見下したような彼の態度に傷つけられたダイは、マリナの想い人である彼のことを妬ましく感じていた。

彼は、何でも持っている。
彼は、何でもできる。
彼は・・・マリナに愛されている。

「敵の数を増やすことに夢中になって、味方の数を減らすタイプだよな」
ダイの言葉が言い終わらないうちに、彼とシャルルのいる場所から少し離れた出入り口付近から、何かを落とす大きな音がして、ダイは我に返った。
足元に落下の時の振動が伝わる。

しまった、と思った。
ダイは人を傷つけることを好まない。
けれども・・・今、関係を修復できるかどうかということすらわからない相手に対して、不適切な発言をしてしまった。
「ごめん・・・」
謝ろうとした時に。
音のした方から、何か茶色のかたまりが突進してきたと思った。
軽やかに走ることに対して気を遣うこともなく、ただ、反射的にという言葉のままに勢いよく近付いて来たそれは、シャルルとダイに向かっている。

そのかたまりが目に入った時に、ダイは思った。

茶色の髪に、茶色の瞳。
日焼けしない職業であるから、色が白くきめ細かい肌をしているけれども日焼けを気にしない気質の持ち主。
大変に小柄で・・・ダイは彼女の背を追い越してしまった。
それが寂しかったが、もうその時代には戻れないので寂しいと思う一方で、彼女を軽々と抱き上げて去っていったシャルルが羨ましいとさえ思ったあの雪の日が重なる。

ああ、マリナだ。

マリナ・イケダが、彼らに向かって小走りで寄って来たのだ。

次に、ダイは覚悟を決めた。
マリナに平手打ちをされると思った。彼女の顔が、いつになく怒気を含んでいたから。
マリナは感情表現が豊かで、しばしばダイに「もう少し大人の対応を」と窘められるほどであった。
長い付き合いのダイには、彼女の喜怒哀楽がかなりの確率で理解できている。
他の者にはわからないかもしれない襞もダイには感じ取ることができる。

だから、瞬時に彼女の顔に浮かぶ感情を汲み取ることができた。
ああ、怒っているな、と思った。
しかも、相当に。

シャルルはマリナの恋人だ。もう、ダイも認めざるを得ない。
しかも、彼に釘を刺されることになった。彼の運命の人で、宿命と呼ぶ以上の存在であるということも聞かされたばかりであった。彼がそうして口にするということは、彼がそう思っていることを、マリナは知っているということだろう。
シャルル・ドゥ・アルディという人物は、片想いでありながらマリナを好きだと人を選ばずに四散させたり吹聴したりするような軽い誇りしか持っていない人物には見えなかった。

 
●Note 17

聞かれたのだ、と思った。
マリナはいつから、彼らの話を聞いていたのだろう。
気配を消して立ち聞きするほどの能力は彼女には備わっていない。
武道の心得のあるダイは踵を鳴らさずに歩くこともできるし、シャルルもそういうことができる人物だと思われたが、マリナは違っている。

・・・それなのに、いつからマリナがそこに居たのか、気がつかないほどダイは気が散っていたということらしい。シャルルの来訪にすら、気がつかなかったのだから。

彼女が床に落としたのは、いつも持ち歩く画材道具の詰まった鞄であった。
彼女はそれを持っているのであれば、どこにでも行く。どこにでも行ってしまう。
それさえあれば、何もいらないと言うかのように。
その鞄を取り落とすということは、彼女は相当・・・動揺しているということだ。

だから。
ダイは覚悟を決めた。
マリナに叩かれると思った。

自分も、同じ立場であったのならそうするかもしれないと思ったからだ。
自分の大事な人が誹られている場面に立ち会ったのなら。
相手は、シャルル・ドゥ・アルディだ。・・・彼女の、運命の人なのだ。
誰かや何かに決められた人なのではなくて、彼女がそうだと定めた人。シャルルも同じなのだろう。
だからこそ、彼らは何もかもが違う環境であるのにも関わらず、惹かれあってしまうのだ。どうしようもなく。
ダイが見ていても、わかる。

彼女は、今は・・・あの黒髪の人と過ごした日々と違う日々を生きている。どちらが良いか、ではない。彼女にとってはどちらも必要なことで、それは過去形にできないほどに彼女の中では生きている想いなのだ。

哀しみと切なさが彼の中に湧いた。
でも、それでも自分を憐れんだりすることはしない。彼が漏らした失言をマリナは咎める権利がある。
・・・ダイは奥歯を噛みしめた。
殴られることは覚悟していたが、唇や口内を切るのは避けたかった。次の練習に差し障りがあるからだ。

・・・そこで、彼はある事実に気がついた。

自分の中で、音楽は自分の一部になっていたことを。
喧嘩をすれば集中力に影響すると憂えて、怪我をすれば演奏不能になるかもしれないと身構えてしまう。
自分が・・・どれほど、投げ出したいと思ったとしてもこの瞬間には彼はまだ、手放すことができないのだと・・・思うのだ。いつか、この世界から離れる時が来るのかもしれない。でも、その時までは諦めずにできることを全部注いでみようと思う気になれるほどには、彼は今の状態が好きだった。
カオルに怒られながらも目標を定めて練習する。何時間練習したか数分の演奏でわかる世界。カオルは努力した時間の長さは褒めないが、練習の成果が如実に表れるレッスンが充実しているととても機嫌が良かった。
まだ拙い演奏であるのに、一緒にヴァイオリンで音色を重ねてくれる。
跳ねるバッハであったり、困ったショパンであったりするが。

そして、それを彼は・・・一番聴かせたいと思っている人を哀しませてしまった。
だから、これは罰だ。

当分、口も利いてもらえないだろうなと思った。
ダイは息を止める。
殴られるのなら、楽器ケースを床に置いた方が良いだろうかという的外れなことを考えていた時のことであった。

「・・・・ちょっと!」
彼女は叫んだ。
ダイは軽く目を瞑る。
彼女は憤っている。

けれども。

目を瞑り、歯を食いしばったが、彼に打撃は伝わらなかった。
その代わりに、ひゅっと音がして、シャルル・ドゥ・アルディの前でマリナが彼の腕に自分の小さな手の平で作った拳を埋めようとし、それをあっさりとシャルルの手首で受けられた音がした。
肌が触れて、ぱちんと何かが弾けたような音がする。
「シャルル・ドゥ・アルディ!ダイに何するのよ」
彼女は怒気を含んだ顔で、彼女の恋人を睨み上げていた。
シャルルは涼しい声で、応える。
「退屈しのぎ」
マリナは紅潮して足元をどんどん、と踏みならした。相当、怒っている。

●Note 18

シャルル・ドゥ・アルディは不機嫌極まりない声と顔で彼女に向かって言った。
「マリナ、状況から何をどう判断したら、そういう結論なのか説明しろよ」
マリナとシャルルは身長差があるので、腰掛けていたとしてもシャルルの頬には跳び上がらなければ手が届かない。
それでも彼女は振り上げた手を下ろすことはなく、彼の腕に拳を向けたのである。
それをあっさりと躱すシャルルの動きは、やはり並大抵の訓練と運動神経ではないのだと思わせてしまう。
優雅な仕草で気懈い雰囲気を持つシャルルであるが、青灰色の瞳が杲々としている。
彼は酷く好戦的であるらしい。
「喧嘩を売るならいつでも買うぞ。・・・家訓だからな」
彼はそう言うと薄く嗤う。
マリナは彼に手首を捻り上げられて、悲鳴を上げた。
しかしそれは彼女の腕を痛める仕草ではなく、なかなか自分から寄ってこない恋人を優しく窘めるような・・・それでいて彼女が自分の方に向かってくることを計算していたかのような様子であった。

「こども相手に配慮が欠けている」
「こども?こいつが?」
シャルルはマリナに向かって冷笑した。品の良い顎を上げて、唇を歪める。
「マリナのことになると顔色を変えて、配慮のたっぷり入った忠告も助言も受け入れないほどに激昂する彼のどこか『こども』?」
「シャルルの理屈と定義に付き合うつもりはない」
マリナは怒気を満面に表した。
「ダイはね、シャルルと違うのよ」
「同じだったらおかしいだろう」
シャルルの言い方に、マリナはますます早口になって声を大きくした。
「ああ、もう!どうして心配だと言えないの。心配で心配で、彼の様子を見に行きたいって言ったのは、シャルルの方なのよ」
「オレは言っていない」
シャルルは横を向いた。
「成長期によく見られる情緒不安定からくるストレスがヒビキヤのストレスを誘因し彼女の体調に影響・・」
「御託は結構です」
マリナは彼の言葉を遮った。
彼女はシャルルの腕を振り払うと、息も荒くシャルルに向かって目を吊り上げた。
それから、今度は片脚を上げて、膝を彼の脛に思い切り強く蹴り上げる。
これにはシャルルも驚いたようであった。
「マリナ!」
彼もむっとしたように立ち上がるが、マリナは視線が今よりさらに上になっても臆することもなく彼を睨み付けている。

ダイはその様子を口を半開きにして眺めていた。

シャルルがダイのことを心配?
いや、そもそも、マリナ・イケダがここにやって来ていることにも驚きであったが、彼女がシャルルをこんな風に叱責するとは、彼は想像すらしていなかった。
恋人同士というものはもっと甘く抱擁を交わし、ダイが赤面するほどの見つめ合いを繰り広げるのかと思ったら・・・どうやら、彼と彼女はそうではないらしい。

そこで我に返る。

彼女が怒っている。
彼女の言うところによれば、シャルルがダイを心配しているのに気遣う言葉に足りていないことがいけないのだということが原因らしい。
「君の方こそ、あいつの話しかしない」
シャルルは白金の髪を揺らしながら、傲然として言った。
「彼にヒビキヤを紹介したが、彼女はダイに不適切な教育しかしないのではないのかと気を揉むから・・・」
「シャルルよりはずっと適切だと思われます。私はそう思います」
マリナは切り捨てるように言った。
彼女の物言いは前から知っていたが、恋人に対しての照れを通りこしている。
ダイは思わず、横から口を挟んでしまった。

「あの・・・・ボクは平気だから・・・」
「ダイはちょっと静かにしていて」
きっとマリナに睨まれて、ダイは口を噤む。
彼女は喜怒哀楽を豊かな表情で表現するが、怒った時の彼女は手がつけられない程に激しいのだと知る。
彼にはそんな風にして怒ったことはなかった。
いつも、怒ったり叱ったりする後にはすぐに笑顔になる。
気まずくなったままで別れることはしない。
すぐに、仲直りしましょうね、と言う。
「でも、ボクはこういうの、好きじゃない」
マリナは頬を紅くしながらダイに向き直る。

「ダイもダイよ。
シャルルの言うとおり早く戻って体を休めないと。
私はね、ダイの演奏会に行く日を楽しみにしているの。
ダイの演奏会のチラシやパンフレットのデザインをいつか私が手がけて、ダイの初演パンレットでいつか高額取引する日を夢見ているの。いいえ・・・夢じゃないわ。予定なのよ」
「君の予定の方が夢のようだよ、マリナ」
シャルルがそう呟いたので、マリナは、今度はシャルルに怒りの矛先を戻した。
「シャルル。ダイは私の大事なともだちなのよ。私の、大事な、ともだちなの」
「繰り返さなくても知っているよ」
シャルルは嫌そうな顔をした。
案外、マリナの方が怒り方が執拗らしい。
しかし、マリナは収まらなかった。
「カオルの様子はしばらく大丈夫そうだからと言っておきながら、定期より予定を繰り上げて来日するくらいなら・・・最初から、ダイに会いたいって言えば良いでしょう。理由が必要なの?」


 
●Note 19

ダイは目を丸くした。
彼は偶然、ここにやって来たのではないのか。
あの人を黙らせるには、彼女くらい遠慮なくものを言う人でなければならないのだろう。
シャルルは不貞腐れたような顔をしたが、そのまま引き下がらなかった。
「ヒビキヤにも、同じことを言ってやれよ。自分の教え子の調子が悪そうだけれども、医師としての所見はどうなのか聞かせてくれと言ってきたのは、彼女の方だ」
「誰が最初かという順番も、必要ではないでしょう」
マリナに苦笑いする。あくまでも、彼女の言うことを認めようとはしない彼の態度が気に入らないマリナ・イケダは、ダイに向かって言った。
「こどもみたいな人ばかりで苦労するわよね」
「マリナに言われたくないよ」
肩を竦めて言うマリナに、ダイはぼそりと言い返す。
・・・呆気にとられて、憤りを忘れてしまう。
自分のことをカオルがそれほど気にしてくれていたことにも驚きであったが、最悪の出逢いであったあの雪の日から、それほど親しくしていたというわけでもなかったシャルルが自分のことを気にしていたというのも、何とも不思議な話である。

「君がオレより大事だと平然と言う作業鞄を放り出して怒る原因の人間を、気持ち良くもてなせというのは、何とも貴女は残酷な人だ」
シャルルに向かってマリナは、あら、と言って唇を突き出した。
「今回ばかりは加勢はしないわよ。ダイにちゃんと説明してあげられなかったのだから」
「説明はした」
「あれは説明ではないでしょう。何よ、カオルも居たのにふたりとも何も言わなかったの?」
マリナは呆れた声を出した。これが本来の彼女であった。
たとえ恋人の前であっても、彼女は変わらない。自分がそうしなければならないと思った時には言葉も体も動いてしまう。そういう人なのだ。それが自分のためでなかった時でも、彼女は・・・ダイをその他大勢のひとりとして扱うことはしなかった。

周囲を眺め回して言った。
「カオルはどこ」
その言葉から、彼女が途中から入ってきたのだとわかる。
「ここに入ってきて、行き会わないのであれば、ひとつしかないだろ。この奧の防音室で集音マイクの電源を入れて、今の会話をにやにやしながら聞いているところだよ」
ダイは、えっと驚いて言った。
確かに、防音室は緊急の時のために呼び出し用のスピーカーとマイクがあった。事故があって閉じ込められてしまった時や、カオルがレッスン中に具合が悪くなった時のためだと説明されていた。
それは防音室と管理室との間の会話が可能であるという認識で居たが、部屋の外の集音機能まで備わっているというのは、初めて知った。
ダイの顔つきから、彼が不知であったことを察したシャルルは皮肉っぽく嗤った。
「いくら耳が悪くても、音が聞こえなくなったのだから、彼女は中で何をしているのか、わかるだろう。いくら『こども』でも」
「カオル」
彼は呟いた。そして荷物を床に置いて、防音室の前に走り寄った。
扉を軽く叩く。
「カオル。具合が悪いの?大丈夫?」
ダイは慌てて言った。彼女はレッスンを途中で止めることはしない。決してそれはしない。切り上げてしまったのなら、自分に課したものを放棄すると思っているように感じる。彼女には音楽しかないのだという切実な想いがあるように感じていた。
だからなのかもしれない。
ダイは、懸命になって・・・マリナとの繋がりが断截されないように躍起になっていたように思う。しがみついているわけではなかったが、彼女と彼のあの姿を見たときに。
ダイは、自分とマリナを繋いでいるものがとても脆くて弱くて・・・彼女の中にある多くの繋がりという枝のひとつでしかないのだと思い知ったから。
でも、本当はそうではないのかもしれない。
彼自身が選択して、ダイはここに居るのは間違いのないことだから。
それをか細い枝にしてしまうのか、もっと違うものになるのか、それはダイの選択によるものだと思う。
彼女が選んだ路ではなくて、ダイが・・・この状況を選んだのだ。
「カオル?」
ダイは慌てて、開けるよ、と声をかけてから、言い終わるより前に扉を開ける。
彼の背中から声が聞こえてきた。
シャルル・ドゥ・アルディが飛び込んで行かないし、マリナが今でもシャルルと会話をしているのであれば、大したことはないのだろう。
それでも、ダイは彼女をひとりにできなかった。
「何をやっているんだよ、マリナ。カオルに何かあったら・・・」
「困るのはおまえだろう」
「おまえと言うな!」
ダイは叫びながら、室内に入り込む。
先ほど、彼が追い出された場所にまた入った。
気まずさも何もない。
ただ、彼女の音が消えた段階で彼は気がつくべきであったのに、自分のことに夢中になっていて、異変がないかどうか確認することを怠ってしまった。それが腹立たしいのだ。
 

●Note 20

部屋の中で、カオルが壁に凭れて楽器を腿の上に置き、面白そうに聞き耳を立てている姿を見つけてダイはほっと安堵の溜息を漏らした。
相変わらず顔色は血色が良いということではないが、これは心臓に負担がかかっているからだ。血流が悪いので、自然とそのような肌色になってしまう。
完全なる健康体ということではないということを表しているが、彼女はそれでもとても楽しそうであった。
口元に微笑みを浮かべながら、カオルはダイの気配に唇を歪ませる。
「おや。何だ、もう終わり?つまらないな」
「カオル」
彼は肩を大きく上下させる。それほど激しい運動をしたわけではなかったが、汗が額に浮かぶ。
「無理しないでくれよ」
ダイは困った顔をして言った。
「カオル以外の人に師事するつもりはない。だから、もっと一生懸命練習してくるから。だから、こういうのは・・・やめて」
ダイは言葉を詰まらせて言った。
「ボクの知らないところで、ボクの心配をしないで。もう、そういうのは嫌なんだ。離れるのは仕方がない。でもさ、ボクも一緒に考えたいんだよ。だから、置いて行くな」
「置いて行かれると思ううちは・・・まだだよ」
カオルはそう言って染み入るような笑顔をダイに向けた。

ああ、彼女は・・・誰かに置いて行かれそうになったのだ、と思った。
そして自分が同じ・・・誰かを教える立場になって、その人の気持ちを少し理解したのかな、と思った。想像でしかないけれども。

・・・そういえば、彼女の兄も・・・音楽を教える立場の人であったと聞いたことがあった。

「・・・・自分の身体のことは、自分でわかるから。ダイの心配は不要だ」
「ボクだってそうだよ」
彼はむっとしながら言った。
「確かに、練習不足はボクの責任だ。もうしない。でも、カオルに心配かけるようなほどのことでもない。あのガイジンを連れて来るほど重篤ではないよ」
ダイの言葉にカオルは嘲ら笑った。
「それだけなら、呼ばない。アタシもアイツが好かんからな」
「じゃ、意見の一致があるのに、どうして?」
「・・・マリナが居るから。マリナにはダイが必要だけれども、シャルルにもダイが必要だから」
カオルの言葉に、ダイは目を見開いた。
彼女は弦をぽんぽんと爪弾きながら俯いて言う。
戯れの短音であるのに、その音色すら美しかった。
いつもの皮肉ばかり彼女特有の言い方ではなかった。

「あいつらは・・・あいつは、ダイに、いろんなものを重ねているんだよ。
ダイの年齢の時には、もうシャルルは大人の中にいた。
自分の自由と責任で何かを言ったりやったりできるけれども、我慢しなけりゃいけないこともあった。
ダイにはさ、そういう風になって欲しくないと言うか・・・あんたには、自分の選択を後悔して欲しくないんだと思う」
「シャルルは後悔したの?」
「後悔はしていないだろうが、違った選択もあったのかもしれないと思うことあっただろう」
まだ何か話し込んでいるシャルルとマリナに声が漏れないように、ダイはさり気なく防音扉を閉めた。
静音設計でそれほど力を入れることなく開閉される扉は、最新の技術によるもので最初にダイを酷く驚かせたものであった。
「マリナも同じだ。あいつも、好きなことばかりしているように見えるが、あれでなかなか苦労人でな。
他人の人生や生死について、あんまりにもたくさん、かつ深く関わりすぎてしまった。自分が望んだことだと言うが。
だからかなあ。生まれた時から知っているダイのことが気になって仕方が無いのだろう」
「どうして?」
彼は不思議そうに言った。
「ボクは単に、大家の息子ってだけだ。マリナとの付き合いは長いけれども、マリナの特別じゃ、ない」
「特別だよ。ダイ。あんたは、特別なんだ」
カオルはそっと微笑んだ。
「それに、ダイにはマリナは特別じゃないのか?」
「それは・・・」
ダイは言い淀んだ。カオルはマリナの友人だ。その人に自分の心の内を見せることに躊躇いを感じた。いつか、マリナに知れることになるだろう。そうなったら、こんな風にしてここに来ることはできなくなってしまう。それは避けたかった。
「そんな顔をするな。アタシがダイを虐めているとマリナに膝蹴りされる」
カオルはくすくすと笑った。
 
●Note 21

「ま、ダイのために、なかなか普段は積極的に調整もしない三人が予定を合わせたんだ。少し、大目に見てやってくれ」
「何を大目に見るんだよ」
ダイはむっつりとそう言う。カオルはますます可笑しそうに言った。
「シャルルのあの言い方はいつものことだ。ダイにだけ、ということではない。
ああ、でも、マリナを独占できないから、あんたには更に加えて冷淡かもな」
「カオル」
「最初はさ。断ろうと思った」
彼女はぽつりと言った。ダイの方を見ていなかった。
「本格的な奏者になるためには、もっと早いうちから取り組まなければ難しい。
音楽科があるところか、それなりに音楽教育の熱心な環境の学校に通わなければ必要最低限の練習時間を確保できない。
同じ楽器ではないから、遊びで来るのであれば、お断りだと言ったら。
一度で良いから、彼に会ってくれないかとマリナが食い下がるので仕方が無く・・・一度だけだと決めてダイに会った。
アタシは弟子は取らないことにしていたし、誰かアタシの後を継いで欲しいとも思っていないから」
その口調が・・・何度も反芻された彼女の決心なのだと思うと、ダイは何も言えなくなってしまった。
ダイが生きているよりずっと長い時間、カオルは生きてきて・・・そして、何かを思い定めてしまっている。自分の後継は作らないと決めているし、彼女は自分自身を滅ぼしてしまいそうな程の大きな秘密を抱えているのかもしれないな、と思った。
それを口に出して言うほど、ダイはカオルの中に踏み込めていない。まだ。

「その子が自分でアタシを探し出して、頼みにやって来るのと状況が違う。いくら友人でも、その子のことが大事でも、やり過ぎじゃないか、と忠告したら。マリナは、会ってみればわかると自信たっぷりに言うからさ」
そして、ダイをそこで初めて見たカオルは、眩しそうに彼を見た。
「アンタは凄く、似ている。あの人に、似ている。
そして、アタシ達が失ったものをまだ持っている。
・・・自分の希望を述べることもなくて、何がしたいのかこっちからはわからない。
誰にも優しいけれども、自分に厳しすぎて、本当に遣りたいことがあったとしても、呑み込んでしまっているように見えた。
でも、マリナに連れられて、どうしてこんな場所に居るのだろうというような顔をして、緊張しているダイを見て、もう一度だけ会おうと思うようになった」
カオルはそう言って天井を見上げた。
「毎回、これっきりだと思っていた。次は、ない。
アタシが日本にずっといるということもないし、そのうちに・・・飽きてダイの方から来なくなるだろうと思っていた。それで友人への義理は果たせるし、マリナに責任が生じることもない。
だから、どんなに次々に出すたくさんのメニューをダイがこなして来たとしても、アタシは絶対に・・・次の次は約束しないことにしていた」
カオルは笑う。そして、参ったな、お喋りが過ぎると言った。
「だからさ。シャルルが同じ様に、あんたのことを心配するのは、ダイが・・・マリナの中で大きな位置を占めていて、シャルルはそれを無視できないからだ」
「どうしてわかるの?」
「シャルルは、昔、マリナの友人を救うために・・・決してしてはいけないことをしたことがあったから」
カオルの顔は苦渋に満ちていた。ダイの質問に答えたくはなかったのに、という顔をしていたがダイが引き出してしまったのだと思うと、慌てて彼は彼女の言葉を遮った。
きっと・・・友人、と言ったがそれはカオルのことなのだろうと確信していた。

「言いたくないことは言わないで良い。ボクは・・・カオルが怒っていないということと、マリナとシャルルが今日ここにいる理由がわかったから、もうそれで・・・それだけ良いよ」
カオルは溜息を漏らした。
「ほら、そういうところがさ。・・・嫌になるほど、似ているんだ」
それから、困ったように首を振った。
「でも、ダイはダイであって、アイツじゃない。それは皆わかっていることだから。それだけは心に留めてくれ」
「ボクは・・・このままだよ。ボクは誰かにならないし、誰かのためにここに居るわけではないから」
「そう。それで、良い」
彼女はそう言うと、嬉しそうに微笑んだ。少し眩しそうに。少し哀しそうに。でも、満足そうでもあった。

「なんてことはない。ダイにかこつけて、シャルルはマリナについて来たかっただけだし、何よりダイに興味があるのは本当のことだろう。
あの人間嫌いのシャルル・ドゥ・アルディがアンタには随分とご執心だな」
「マリナを独占したいというのは無理な話だよ」
ダイは肩を竦めた。カオルも同意する。
「あちこちふらつく性格は、昔から変わらない。シャルルも随分と厄介な相手を選んだな。気の毒に、としか言いようがない」
カオルはそう言ったが、どことなく誇らしそうだった。マリナのことは彼女にとっても特別であり、彼女の最大の理解者のひとりなのだろうと思う。

 
●Note 22

「マリナは、ダイにシャルルとともだちになって欲しいと思っている」
「ともだち?・・・それは頼まれて作るものではないだろ」
「ダイならそう言うと思った」
カオルがくすりとまた声を漏らして笑った。
「きっと、お互いに良い影響を与えると思うんだ。
マリナがいつだったかな・・・ぽつりと言ったことがあってさ。『シャルルには彼を理解して、一緒に居てあげられる人が必要なのだ』というようなことを言っていた。
彼には理解者は居るが、傍に居る者がとても少ない。
傍に居るものは多いが、彼を理解できている者は殆ど居ない。
家族も離ればなれだし、親族とも不和のままだ。
家族がすべてではないけれども、だからこそ、彼にはダイのような健やかな人が必要なのかな、と思う」
「ボクはそんなに大層な人間じゃないよ、カオル」
「逆に、ダイにもシャルルが必要じゃないのかな」
ぎくり、と彼が驚いた顔をしたので、カオルは顎を引いて彼を斜めに見下ろした。
「ボクに?」
「そう。シャルルがマリナの恋人だって、知っているよな?」
ダイは黙っていた。
それは彼女からそのように言われていないからだった。だから、認めるわけにはいかなかった。
彼女はシャルルのことは、まだダイには「ともだちだ」としか言っていない。
彼女のことを尊重するのであれば、ここで頷くわけにはいかなかった。
面白そうにダイの無言を観察しながら、カオルが続ける。

「・・・マリナは自分の恋愛相談は殆どしないからな。
自己完結させてしまうところがある。
そうなると、どこにも逃げ場がなくなる時がある。
あのフランスの華と付き合うというのは、軽い恋愛を愉しむということではないことは、わかるよな?」
それにはダイは頷いた。
気難しく人間嫌いで、ああやって人への対応が一般的とは言いがたい人のことをマリナが気に懸ける理由がわからなかった。

「マリナは行き詰まると日本に戻ってくる。
逃げているというより・・・彼との関係を継続させたいから、自分自身を見つめ直し少し離れた場所から自分と彼の関係を見直すために、日本に戻る。
きっと当分・・・こたえが出るまではそんな生活を繰り返すと思う。
その時に、ダイはマリナの拠り所になるだろう。
ダイを見るたびに、思い出すことがあって・・・そしてダイを見るたびに彼女は救われるものがあるはずだ。
ダイは、シャルルと情報共有することで、彼女を支えてやれる。
そして、シャルルはマリナにとって・・・どういう人なのだろう、とダイは自分で考えることができる」
そこまで聞いてから、ダイは面白くなさそうに顔を曇らせた。
「何だか、カオルに言いくるめられているような気がする」
カオルはふふんと鼻を鳴らして笑った。

「アタシはそんなに人に説教するほど話術が巧みじゃないぞ。
言葉が足りないといつもマリナに言われている。
・・・言葉は難しい。
そして疲れる。
だから音楽をやっているくらいだからな」

そこまで言うと、カオルは凭れていた体を正し、楽器を丁寧に拭いて手早くケースの中に納めた。
甘いニスの光沢がケースの中に消えて、彼女は伸びをした。
「今日の練習は終わりだ。・・・さて、飯でも食いに行くか」

彼女はそれ以上何も語るつもりはないらしい。
振り返ると、もう、いつものカオル・ヒビキヤであった。
「おい、今日はアタシのレッスンを台無しにしてくれた礼をしてもらうぜ。
あの煩いふたりと一緒に、アタシが黙って食事をするために、ダイに担当を任せる」
えっとダイが声を上げると、カオルは当然だという顔をした。

「アタシの溟沐の時間を奪った罰だよ。師匠の言う事は、絶対だぜ」
「メイモク?」
彼が首を傾げると、カオルは、ああ、と言って説明してくれた。
「『溟』は海原のこと。『沐』は洗うということ。
つまり、海で浄めを行うように深く瞑想しながらも濯ぐように自分の中のものを削ぎ落としていくことだ」
ダイは意外そうな顔をしてカオルを見た。
日々の練習とは、何もないものに添加していくことなのだと思っていたからだ。
カオルはダイの疑問に答えた。
「どんなことも、蓄積を続けていくと、ある一定の時期になると飽和状態になる。そこから・・・何を落とし、何を捨て、何を残すのかを決めるのは自分自身だ。だから、演奏家の練習時間を溟沐の時間と言うことがある」
それでふと、思った。

マリナも溟沐するのだろうか。
何か・・・物思いに沈んで、選ばなければならないものについて悩むのだろうか。
そして、シャルルも。
同じ様に、ダイも・・・・ダイも、これから溟沐する時間を迎えるのだろうか。

「まあ、ダイにはまだ早いがな。でも、いつか訪れる。その時に、一緒に居る人がダイを支える。・・・その時に、シャルル・ドゥ・アルディが居れば随分と勝手が良いと思わないか」
「・・・カオルが言うと、別の悪いことを唆しているように聞こえるよ」
ダイはふいと、横を向いた。
「唆しているのさ。・・・あのシャルルが気に入る相手がアタシの弟子なのだから、好き放題できるだろ」
冗談なのか本気なのか、まったくわからなかった。
いつもの、とらえ所のない飄々とした雰囲気でカオルは言った。

 
●Note 23

「ダイ。
体調には気を付けろ。
アタシじゃ、どうにもしてやれない。
でも、幾人もそれが原因で音楽をやめてしまった者を知っている。
成長前から音楽を続けていると、成長期に対応できないんだ。
余りにも長くその体で演奏することに慣れてしまっているから。
だから、ダイは一番良い時期に音楽を始めたと思って欲しい。
シャルルの言う事には腹立つかもしれないが、今は堪えて言う事を聞け。
・・・基礎練習は辛いが、そのうちに自分の思いの通りに吹ける」
「・・・ボクは、また、ここに来ても良いの?」
「無理をしないでほどよく練習するのであれば」
カオルが傍に立つと、彼女の顔がまた少し近くなった気がした。
ダイの身長が伸びたからだ。
そして、彼女の顔が更によく見えるような気がした。
「次の次も。ボクはここに来て、カオルから教えて欲しい」
「ダイがそう望むのであれば。アタシはいつも・・・いつでも迎えるよ」
それだけ言うと、彼女は彼の背中をぽんと軽く押した。

「さ、行くぞ」
カオルはそう言って、扉を開けると、防音扉で消音されていたマリナとシャルルの声が飛び込んで来た。
彼女にも、マリナにも・・・そして、シャルルにも溟沐の時間があるのだろう。
まだ、ダイはそれを知らないけれども。
自分で自分の選んだことをもう少しで恨みそうになってしまうところであった。
それを・・・彼らは遠くから見守って、そして自分達にできることをしようと躍起になって・・・

ああ・・・
ダイは思わず呟いた。
「どちらが、こどもでおとなか、わからないよ」
カオルはその声を聞いて言った。
「おとなでもありこどもでもあるって凄いことだよな」
ああ、そうか。
ダイはそこで悟った。
この人達は。
おとなで、こどもなんだ。

「溟沐を懼れるな。いつか、ダイにもやって来る。その時には・・・ダイの傍には、アタシ達がいると良いなという勝手な願いがあるだけさ」
カオルはそれだけ言うと、ダイを先に外に出した。
ありがとう、という時間的余裕もなかった。

そこには、マリナとシャルルがまだ話をしていた。
「だいたい、シャルルはダイに対して敬意がなさ過ぎる」
「君に言われたくない」
「ダイはね、大家さんの息子なのよ。生まれた時から一緒なの」
「それが彼の負担になると思わないのか」
「うるさいわね、シャルルのその束縛癖、何とかならないの」
「君の放浪癖よりマシだ」
何とも実のない会話を繰り返している彼らであったが、ダイの姿を見つけると、互いに無言になった。
彼はマリナの手首をそのまま掴み、まだ離していなかった。
・・・マリナはそれを一度は振り払ったはずなのに。
そして彼女は先ほどよりもシャルルに一歩近い場所に居た。

「・・・そこ、ボクの使っている椅子なのだけれども」
ダイはそこでむっつりとして言う。
すぐに部屋から続いて出てきたカオルが、状況を見てにやりと笑った。

「痴話喧嘩か。楽しそうだな。アタシの家で痴話喧嘩なんて度胸があるな。
・・・飽きるまでしばらく見物しているから、続けろよ。
食事の時間までまだ少しある。
おい、片手間にやるなよ。
手を抜くな。
マリナはよく言うだろ?
何事も、『一生懸命』だぜ」

 
●Note 24

それでマリナは肩を竦めて降参の合図をした。
食事と聞いて我に返ったようだ。
慌ててシャルルから離れ、彼の手を今一度振り払った。
「失礼しました」
それから、ダイに向かって言う。
「そのソファ、気に入ったの?」
シャルルの瞳の色のようだと思ったが、マリナに尋ねられてダイはまあね、と言った。
「良かった。シャルル。シャルルの選んだ品、ダイは気に入ってくれたみたい」
マリナが手を叩いて喜色満面になったので、ダイとシャルルは同時に面白くなさそうな顔をした。
シャルルは黙って居ろと言ったのだろう。
そして、ダイは知らずに自分の場所だと主張したので気まずくなってしまったのだ。
彼は無表情に言った。
「この部屋に合うものを、カオルに礼として贈りたいと言ったのは君だ、マリナ」
「ダイに思い出して欲しくて自分を連想させる色にするなんて、どれほどダイのことが好きなのかしら。本当に回りくどいわね」
今度ばかりはマリナも負けていなかった。
彼を言い負かすことが出来るのはマリナ・イケダくらいだろう。
改めてそう思った。

ダイはやれやれ、と溜息を漏らす。
今日は本当に星巡りが悪いらしい。
いろんなことが、ありすぎた。

「そうか。もう終わりか。つまらないな。じゃ、ダイ、食事でも行こうか」
「どこに?」
「シャルル・ドゥ・アルディの宿泊先近くのレストラン。最上階で、景色も良い。
成長期には肉を食え。最高の焼き加減で出してくれる。
・・・ああ、もちろんそこはシャルル・ドゥ・アルディの驕りだ」
「じゃ、一番良い物ください、と言わないとね」
マリナがわくわくすると言いながら、自分の転がした荷物を取りにシャルルから離れる。
「三人分しか予約していない」
「あんたなら、もうひとり分くらい、なんとかなるだろ。
それに・・・ダイも誘っていくつもりだったのでは?
あのレストランで最高の席をチャージする時には偶数人数しか受けないって話だ」
シャルルは軽く溜息をついて電話をかけてくると言い、胸ポケットから携帯端末を取り出した。
隣のフロアで話をするようで、出て行く際に鞄の中身を床に落とした時と同じ場所で確認を始めてしまったマリナの茶色の髪をこつん、と拳で軽く叩きながら出て行った。
その自然な仕草が・・・もう、見ているだけでダイは苦しくなる。
お互いだけがわかる小さな合図が、シャルルとマリナの間にはあるのだ。

「席次が問題だな。食事の時には喧嘩するなよ。マリナを取り合ってダイとシャルルの言い合いは楽しそうだが、食事の時くらいは静かにやってくれ」
にやにやと笑って忠告するカオルに、ダイは嫌そうな顔をした。
「ボク、今日は家に遅くなると家に言っていない」
「それを言いに、マリナは行って戻って来たところだよ」
カオルに苦笑いにダイはまたやられた、と思った。
マリナが遅れて来たのは、そういう理由か。
彼女は携帯電話を持ち歩かない。電話で簡単に済ませられるとも思っていないのだろう。
しかもダイの家はそういう不意の予定には厳しかった。
だからそれを知っているマリナは、わざわざ、家に行ってダイの寄り道の許可を得てきたのだ。
「大人の事情に付き合わせたからな。ダイの親御さんに叱られても、それはマリナの役目だ」
「ボクはおもちゃじゃないよ」
ダイはシャルルに言ったことを繰り返した。
「・・・・ともだち、だろう?マリナも言ったぞ」
「・・・うん」

遠くで、シャルルのよく通る声が聞こえてきた。
「友人をひとり追加で招くから席を用意してくれ」
たったそれだけの素っ気ない言葉であった。
すまない、とか。申し訳ないけれども宜しく頼む、とか。
そういう言葉は彼からは発せられない。
まったく高慢な人だ、とダイは思った。
でも、彼はダイのことを友人、と言った。

それを聞いて・・・ダイは何となく、彼のことを最初の印象と違った風に見えていることに気がついた。
最初の時ほど、嫌悪感を感じない。彼は口は悪いしマリナ以外の人間には興味がなさそうに見えるが、その実・・・本当は人に関わりたいと思っているのかもしれないとさえ思えた。ひょっとすると、そういう職業も兼務しているのかもしれない。他人を分析するのは得意でも、自分のことになると・・・そうでもないのかな、と思った。

 
●Note 25

「ダイ。許可は貰ってきたから」
マリナの声にダイはわかっているよ、と言った。
「久々にダイの話を聞かせて」
「マリナの話も聞きたい」
すると、マリナは顔を上げてダイの方を見た。
カオルがダイに見せたように・・・眩しそうに目を細めた。
「シャルルの話も聞いてくれる?」
「仕方が無いな」
ダイはそう言って彼女に譲歩した。

マリナは嬉しそうに・・・本当に、心から嬉しそうに笑った。

彼女には笑顔が似合う。
そして、彼女を泣かせることはせず、笑わせてやって欲しいとシャルルに懇願したのは、他ならないダイであったことを忘れていた。

「しょうがないな」
ダイは頭を軽く掻いた。
「ともだちは、作るものじゃない」
彼の呟きにマリナは不思議そうに言った。
なぜ、ダイがそのようなことを言っているのか、わからないという顔をしていた。
「違うわ。作るものよ。・・・自然にできるものではない。やってくるものではない。自分でともだちになりたいと願い、少しでも理解しようと近づき、そして努力するから、ともだちになれるのよ」
ダイは大きく息を吸った。
彼女はやはり、ダイの大事な存在なのだ。
「なるほどね。シャルルがマリナに拘るわけだ」
「何?」
「何でもない」
ダイにはわかっていた。シャルルにマリナが拘る理由も。何となく、わかった。

「車の準備ができた。行くぞ」
シャルルが不機嫌そうな顔をして、言った。
マリナはカオルの腕に自分の腕を絡めて、もう片方の腕には自分の鞄を提げた。
「カオル。今日は落ちたモノを食べるんじゃないわよ」
「マリナもな」
ふたりはそれを言うと、顔を見合わせて笑い出した。
何のことを思い出しているのか見当もつかなかったが、遠い日の・・・マリナとカオルが共有する想い出について、微笑んでいるのだ。
その様子を見て、彼はますますむっとした顔をしていた。
彼は相当な独占欲の持ち主のようである。他人には冷淡であるのに。マリナ・イケダには違うらしい。
マリナの笑顔が、皆を朗らかにする。

たとえどんなに、溟沐の時間が彼に選択を迫ったとしても。
ダイは決して捨てることのないものがあるのだと知った。
それはともだちであり・・・ダイを囲む人々との繋がりであった。
それは、彼の環境が変わっても変化しない。

シャルルの前を通り過ぎようとした時。
彼は、ダイに向かって低く言った。
「楽器を変えろ。君には可能性が・・・ある」
「残念ながら、今のボクにはこれしかないから。他を選ぶこと以前の問題だよ」
ダイがそう言って、自分の楽器ケースを撫でた。
彼から見たら安物かもしれないが、ダイにはこれが唯一であった。
・・・マリナのことを唯一だと言ったシャルルとは少し違うかもしれない。

ダイの言葉を聞いて、彼が少し何かを考えている顔つきになったのが気になったが、マリナに急かされてダイはそのまま慌ただしく外に出ることになった。

その後、大変な借り物を受けることになり、彼との関わりがもっと深くなっていくとは、この時にはまだ予想もしていないことであった。

けれども、ひとつ、わかっていることがあった。
ダイは、マリナやカオルに言われたからではなく・・・自分から、シャルルとともだちになってみたいな、と思い始めていた。

そして、ダイはシャルルに振り返って言った。
「シャルル、ボクを『おまえ』というのはやめろ。ともだちにそれでは敬意がなさすぎる」
シャルルがそれに何か反論しようとしたが、ダイはま前を向くとそのまま足速に、マリナとカオルに向かって行く。
「焼き加減は?」
「そもそも何料理なの?」
「デザートは?」
三人の姦しい相談に、シャルルはまた無表情になったままで軽く溜息をついた。
だがしかし、その顔はどこか穏やかであった。
ダイが叫ぶ。
「シャルル。行くぞ」
シャルルはそこでようやくダイに向かって言葉をかける。
「オレに命令するな」

彼は白金の髪を揺らしながら、彼を待っている者たちのところへ歩み始めた。
誰にも歩み寄らないとしていたシャルルは、彼を待つ者たちのところへ・・・彼はゆっくりと進んで行った。

それからずっと彼のことを見守って行くことになり、やがてダイが・・・シャルルのよき理解者となることを、予感するかのように。

(FIN)

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D-side 裾上げ 前編

●Congratulations on the arrival of your son. 01

裾上げを頼まれて、正直に戸惑った。
確かに、成長に伴って衣類の裾を変更することも多かった日々であったけれども。
制服の裾上げをするとき。
やはり、格別の思いがあった。

生まれたばかりの瞬間や、この子を妊娠した時のことを思い返す。
同じ様に、彼の前に娘を産んでいた。
けれども、少し違う感想を持っている自分に戸惑う。
これは、夫にも言えない感想であった。
彼女は男兄弟の中で育った。母親と仲睦まじいという関係かというとそうでもなかった。
・・・自営業の夫の元に嫁ぐときにはだいぶ反対された。会社員である父と専業主婦であった母の中では、自営業という存在そのものを認めていたとしても、自分達の生活や人生の中に組み入れることは考えていなかったのだろうと思われた。
確かに、彼女もそうであった。自分がまさか・・・都内のアパートを経営する家に嫁ぎ、夫は会社員であるから自分ですべてを取り仕切らなければならないのだと知ったのは、結婚してから後のことであった。

結婚してすぐに、娘を授かったのでそんなことを考えることはなかった。彼の両親と同居もしくは同業になることを厭って、彼は会社員になった。それで知り合ったのだけれども・・・その先も、自分のこれまでの人生と同じであると根拠もないのにそう思っていた。

彼の両親は彼が結婚するとなると同居を申し出ることもなく、彼らの出身地である田舎に引いてしまった。そこに、家屋も彼らの先祖の墓もあり・・・ここには仮住まいであったのだと言わんばかりに、あっという間に引き払ってしまった。
これまでの縁故も、近所づきあいも、彼と彼女に引き継いで、そして重荷を下ろしたと言って・・・残していったものがどれほど大きかったのか、重かったのか振り返ることもなく去ってしまった。

娘の成長は、想像も想定もできた。自分と同じなのだろうと思うと、ただ、愛おしかった。けれども、息子の大については少しばかり事情が違っていた。
 
●Congratulations on the arrival of your son. 02

何も心配のないこどもであった。
姉にあたる娘を甘やかしすぎたと思った時には、遅かった。
少し浮ついたところもあるけれど、気立ての良い子に育ってくれたと思う。
けれども、大にはそういうことを殆ど感じないままに過ごしてきた。
顔色を覗ってばかりいるような子ではなく、気立ての良い、穏やかな性格であった。

彼が生まれた時に、年若い入居者を迎え入れることになって、彼女は母親としての自覚よりも、アパートの管理人としての仕事を遂行することに明け暮れた。
ひとりめの時には、その子だけにかかり切りになれば良かった。
でも、第2子となるとそうはいかない。上の子は赤ん坊に返ってしまい、夜泣きに悩まされた。
自分ひとりだけに浴びていた愛が、違う対象に移っていきそうだと何となく感じているのだろうなと思うと、ますます不憫に思えた。
けれども、ひとりきりの寂しさを味わわせるより、ふたりで・・大きくなっても、きょうだいで喧嘩をしながらも、仲良く生きていって欲しいと思う。
正直に言って、慣れない生活は疲れたという以外に何も言えなくなってしまうほどであった。
毎日毎日、同じ事を繰り返す。そして、休みもないし、少しでも怠ると自分に返ってくる。
労いの言葉をかけてもらえるわけでもなかったし、何もなくて当たり前であった。
何もないことを維持することにも、大きな労力が必要とされると言うのに。
綺麗なことばかりでもなかったし、苦情も受けることもあった。温和に楽しく過ごす仕事ではない、と思った途端に、嫌気がさした。

そんな時に・・・それまで大人しくて手がかからなかった大の夜泣きが始まり、呼応するように上の子の甘えが始まった。
わかっていたことであったし、周囲からの話も聞いていた。でも、実際に自分が遭遇すると、とてつもない苦行のように思えて仕方がなかった。
アパートの管理というのは、そのまま、人の管理でもある。
彼女の苦悩の種は、最近受け入れたばかりの若いまんが家であった。中学を卒業したばかりで、まんが家として生計を立てると聞いて、最初は不安定な職業の者を受け入れることはできないと思った。

親になってみて、わかることもある。
彼女の親は、どれほど心配していることだろうと思った。
時々、電気や電話が止められていることもあったし、どうやって生活しているのかわからなかった。
家賃も滞納することが多く、定日に入金されることは殆どなかった。
細々と、その日を凌いでいるような印象を受けた。
だからこそ、ここを追い出すことはできなくなってしまう。
もう、彼女には行くところがないからだ。

憂慮することが多く、彼女も眠れない夜を過ごすようになった。
けれども、誰も助けてはくれない。夫は毎朝仕事に行ってしまう。日中はひとりきりで、泣き叫ぶこども達の面倒と際限なく繰り返すのだ。
そうして一息ついた頃には、すでに陽は高くなっていて、もう一度、朝の繰り返しが始まる。
その合間に、アパートの運営管理に関する仕事を片付けて、自分の食事は台所で立って食べる始末だった。

惨めだな、と思い始めると全てが悲惨に思えてくる。
けれども、誰にも、言い訳できない。子を生んで育てるということを選んだのは、自分なのだから。
親になるということは喜びだけではなく、自分も一緒にこどもと育っていかなければならないのだと思うと・・これまでの自分は一体何だったのだろうと思ってしまう。

そんなときのことであった。
夜泣きが酷い大に、姉が手を上げるようになったのだ。
それを目撃した時、彼女は衝撃を受けた。
幼い子が、苛ついた顔をしながら、嬰児を叩くのだ。
その顔つきが、自分に似ていたから。朝の鏡に映る、自分の顔によく似ていたから。
彼女は眠っている夫を揺り起こし、熟睡を妨げられて不機嫌そうな顔をしている夫に娘を頼むと言って、大を抱え上げ・・夜の道路に飛び出した。

どうしよう、と思った。

自分は、親として失格だ、と思った。
情けなくて・・・何もかもに中途半端な自分が、ただ、情けなくて涙がにじむ。
それなのに、乳飲み子は・・・彼女の腕の中で、小さくしゃくり声を上げているばかりであった。
 
●Congratulations on the arrival of your son. 03

自分ひとりで何もかもを背負うのは、無理だと思う。
でも、自分ひとりで背負わなければいけないこともあると思う。
そういう生真面目さが、息苦しいと言われたことがあって、彼女はそれを思い出した。

泣き疲れたために擦れ声で声にならない叫びを上げている乳飲み子を抱えて途方に暮れてしまう。
乳を含ませれば良いのだろうが、彼女は連日の睡眠不足で、乳の出が悪かった。愛しているのに、愛している存在が困っているのに、対処できない。

溜息を漏らす。

アパートの前は一方通行であったので、しばらくそこを往復することにした。
街灯も明るかったし、大通りに出るよりここで歩き回った方が安全であったからだ。何も持たずに出てきてしまったことに気付いたこともあった。
自分はどうして、こうしているのだろうと思った。
子を授かった時のあの時の喜びや、陣痛の苦しみと痛みに耐えて聞いた産声に涙した時のことを忘れたわけではない。
でも・・・大の声が大きくなると、身体が震えるのだ。同じように娘が憤るのも、自分が苛ついているからなのだと思うと、ただ、哀しくなる。無性に。

「あの・・・」
自分の回想に夢中になっていて、声をかけられていることに気がつかなかった。
それにこんな夜更けに、人が通るとは考えていなかったのだ。
歩いていれば、大は静かであった。だから、歩いている。でも他の人に遭遇するとは思っていなかった。
彼女は貌を上げて・・・少しして、目線を落とした。
街灯の下にある人影はとても小さかったからだ。

随分、小柄な人だと思った。
身長は140㎝ぐらいであろうか。こどもと言ってもおかしくない。けれども、その人物はじっと自分の方を見ている。
「大家さんですよね」
彼女がそう言ったので、ああ、と声を漏らした。
思い出した。
彼女は、アパートの最年少の住人で・・・池田麻里奈であった。
大きな鞄を肩から提げて、彼女はじっとこちらを見つめていた。
 
●Congratulations on the arrival of your son. 04

「ええと」
少女特有の少し高めの声で、彼女はぺこりと会釈をした。
こんなに遅い時間に出歩くのは危険だ。親から、そう教えて貰わなかったのだろうか。彼女は、驚きの次に、呆れてその少女を見つめる。
まだ未成年であったが他に住む場所が見つからないということで困っているという話を聞き、入居を引き受けた。
しかし、ただそれだけで引き受けたわけではない。ボランティアではないと割り切って済ませることもできたし、何よりそんな不安定な職業を持つ少女をアパートに住まわせるのは、どうかと思った。
古いアパートで、一部屋の大きさは本当に狭い。もう少しすれば、立て替えを考えなければならないと計画しているが、今はそんなことも考える余裕がなく先延ばしにしている懸念事項であった。

その少女は茶色の髪の片脇を結び、眼鏡をかけおり、それが街灯にあたって光って眼の奥が見えないが、とても幼い顔をしていた。
入居の時に挨拶に来たが、ちょうど授乳の時間であったので、挨拶もしたのかしていないのかわからないような会話であった。
忘れていたわけではないが、今、正直に言って他者のことについて詮索したり想像することのできる余裕はなかった。日中ならば、管理人なのだという責任感が彼女を覆い、仕事を優先しなければならないのだという気概が訪れるが、それは夜が更けていくと、呼応するかのように消え去っていく。
自分の時間はまったくない。自分のことを考える時間もない。そしてようやく眠れると思って横になり、瞬きをしたと思うと既に夜明けになっていて、また子供が泣き出す声で目が覚める。
夫は育児に協力的であったが、積極的ではなかった。確かに、夜泣きを煩いと言われたりすることはなかったが、具体的にこうして欲しいという提示をしなければ彼は何をすれば良いのか思いつかないらしい。
そんな中で、記憶に薄かったのは確かであるが、こんな時間に外をふらついていることを当然とするような価値観の娘であるのならば、次の更新は考えなくてはいけない、と思った。
やはり、自分は親になったのだと思う。娘や息子が、目の前にいる彼女と同じ様にまだ十代で夜暗の路を歩く姿を想像するだけで、肩がどっと重くなってしまう。

「こんばんは」
池田麻里奈は、そんな彼女の考え事を上書きするかのように、何とも珍妙な挨拶をした。
「遅い時間のお帰りだけど・・・いつもこんな風に遅いの?」
彼女の声は、少し尖っていた。責めるつもりはないが、それでも・・・どこか軽蔑した目付きになってしまっていたと思う。心配するのはもっと先の話だろうが、自分の子らに良くない影響を与えるような住人が近くに居ることは良くないと思えてくる。
どうして、彼女を入居させてしまったのだろうという疑問が、ふつふつと湧いて来た。

 
●Congratulations on the arrival of your son. 05

「打ち合わせが長引いて・・・電車賃を浮かせるために、歩いていたら遅くなってしまって・・」
憂慮の種であったのに、すっかり忘れてしまっていたことが少し後ろめたくなった。
確かに、彼女は見る限り、同じ年頃の少女達とは違っていた。
他の者たちは学生服に身を包み、恋や学校や親のことで悩み、些細なことで笑い転げる。
友達という名前の群を作り、そして電車賃を支払うのが惜しくて歩いて帰ってくるようなことは決してしない。

彼女は、肩に提げていた鞄を持ち直した。
池田麻里奈は非常に小柄であるので、鞄が彼女を背負っているような感じにさえ見える。

「そう」
自分の言葉が大人として不適切であったと思うが、謝るきっかけを失ってしまった。それほど、相手は気にしていなさそうであったが、彼女の胸に抱いた赤子に興味を示しているようであった。
「お子さんですか」
そうでなかったら何に見えるのだ、と言いそうになったが、彼女は堪えて言葉を呑み込んだ。
「そうなの。・・・ちょっと機嫌が悪いみたい」
彼女はそう言った。大抵の者は、それで通り過ぎて行く。はやく去って欲しいと思った。
息子が誇らしいと見せるような時間ではなかった。
そういう空気を発しているのに、池田麻里奈はその場を去ろうとしない。
洋服もたくさんは持っていないようであった。清潔であればそれで良いと思っているらしい。
自分の若い時はどうであったかということを思い出していた。こどもができる前は、好きな服を好きな時に買い、そしていつでも自分は何でも手に入ると思っていたし、その通りになることが多かった。自分のペースで生活ができた。
後悔しているわけではないが、もう、二度とああいう日々には戻らないのだろうなと思うと、手の中にあった、「在って当然であったもの」が急になくなってしまっていることに気がついた時の驚愕と焦燥と不安が一度に押し寄せてくる。

近くに彼女は寄って来て、彼女の胸で小さく噦り泣く乳飲み子を覗き込んだ。
彼女は反射的に腕を持ち上げて、池田麻里奈の頭上に彼を避難させた。
そういう自分の行動に、少し驚く。まだ少女というよりあどけない幼女の顔つきの彼女が、大きな瞳を見開いて、赤子に感嘆した。
「名前は何と言うのですか」
「大。漢字の大と書くの」
彼女は答える。名前をどのように書くのかと聞かれることが多かったし、漢字を見せると何と読むのかと聞かれるので、読み方と漢字の説明はいつも揃いの説明になっていた。
少女は、嬉しそうに声を上げた。
「私の名前にも、『大』が入っています。マリナの『奈』に入っています」
赤子との共通点に喜ぶ池田麻里奈の顔を、彼女はじっと見つめた。

 
●Congratulations on the arrival of your son. 06

近くで見ると、本当にまだこどもの顔をしていた彼女は、その一方でどこか大人びていた。
なぜ、そう見えるのだろうか。ふと、気になって彼女は池田麻里奈を見つめる。
こんな遅い時間に夜道を闊歩しているからそう思うのか。
いいや、違うと思った。彼女の瞬きはとてもゆっくりで・・眼鏡をかけていても、とても視力が弱いことがわかった。
だから、彼女は尋ねたのだろうか。
胸の中の息子の鳴き声はか細くて、暗闇の中で聞けば子猫が啼くくらいにしか聞こえない。
もっと泣きわめく、火の付いたような激しい夜泣きではなく、今夜はたださめざめと泣く息子に、ほとほと疲れていた。
眠っている顔や、大人しくにこにこと笑顔を浮かべている時には、天使がやって来たのだと思い幸せと喜びで溢れるのに。
それでも、激しく泣くことに疲れて弱々しく愚図り続ける彼のことを、他人に遠慮して外では気を遣って泣くこどもなのだと思ってしまう。
良い風にも悪い風にも受け止められない、救いようのない事態に陥っていることも自覚していた。
彼女は・・・息子の顔を覗き込むようにして、踵を上げた。
小柄な彼女が、赤子の顔を見る為にはあとほんの少し浮き上がらなければならなかったが、今の状態が池田麻里奈の精一杯なのだと知ると、彼女は腕の力を弱めて・・・ゆっくりと自分の腕を麻里奈の方に傾ける。
大人げないことをしているとわかる。
幼い少女の前で、自分は酷く意固地になり、意地悪になっていた。
恥ずかしいと思うよりも前に、自分が惨めに思えてくる。
なぜ、こんな風にしてまで自分は夜の街を彷徨っているのだろうか。皆が家の中で鎮まり身体を休め、団欒で笑い疲れてさて眠ろうかと思っているに違いない時間に・・・こどもの鳴き声が響き渡るかもしれないのに、家に籠もることもできずに外に飛び出してしまった。

麻里奈は正直な娘であるらしい。夜目に見る、御包みの中の赤子のことを、可愛らしいとか男の子らしく元気だとか・・・ありきたりな言葉は使わなかった。ただ、見つめている。
ゆっくりとした瞬きで。眼鏡の奥で、睫が柔らかく上下する。
「・・・こんなに遅い時間に一人歩きは、危険よ」
「今はひとりではないですよ」
この子は頭の回転は良いらしい。彼女の注意に、ちょっとはにかんだように笑いながら、大人の心配は不要だと言うかのように、今は大丈夫なのだから問題ないのだという意味を込めて彼女を遣り込めた。

●Congratulations on the arrival of your son. 07

「元気そう」
麻里奈がそう言うと、彼女は苦笑いを浮かべた。
大を出産してから気がついたことがあった。
最初の子の時には、はっきりと自覚していなかった靄の正体を知った。

皆、自分のことを見なくなるのだ。
赤子のことばかり聞かれる。

何ヶ月なの?
性別は?
名前は?
そう、良い名前ね。

・・・彼女を詮索するための言葉の組み合わせは無数にあるが、そのひとつひとつは知ったからといって利益になるものでもないし、意味のないものでしかなかった。
質問される側の彼女にとっても、それは同じだった。
その質問には、彼女のことは含まれない。皆は、こどもに眼が行くが決して自分のことは見ない。

この子も同じだ。

そう思うと、池田麻里奈に対して、自分のことをどうせわからない子供なのにと思い始めてしまう。誰も悪くないのに。
何かのせいにしてみたくなる。
誰か野せいにしてみたくなる。
苛立ちの理由や、空しさの矛先を・・・自分のこどもに負わせてしまいそうになる。
自分は、いつから・・・心が沈むようなことばかりしか思いつかなくなってしまったのだろうかと思う。

「元気すぎるの」
自嘲気味に笑い、そして次に彼女は自分が管理人で、大人で・・・人の子の親であるということが麻里奈よりも優れていることだと勘違いしそうになる。
「それより、帰りがこう遅いのは、良くないわ。もっと、自分のことを考えて大事にしないと」
大人とは若い者に対して、教え諭す義務がある。
そして、彼女は池田麻里奈の保護者から彼女を預かっている身でもあった。
そこには契約関係しかないことは承知していた。でも。
自分は、誰かより優位であるのだと確かめたかった。

彼女は、胸の中でぐずる息子を抱いたまま、麻里奈の茶色の髪を見つめながら言った。
「仕送りが来ているのに、送り返すくらいなら、独り暮らしは諦めて実家に戻った方が良いのではないの?」
彼女は踏み込んではいけないところに踏み込んだと思ったが、止められなかった。
生意気なこどもを言い負かしてやろうという気持ちがまったくなかったと言えば嘘になる。

麻里奈はそれを聞くと、ぐっと唇を噛んで、眉をぴくりと動かした。それまで和やかだった麻里奈の空気が、とたんにぴんと張り詰める。
随分とわかりやすい人がだと思った。
まだこどもだと心の中で失笑する。
池田麻里奈が親から送られてくる配送物を、受け取り拒否していることを彼女は知っていた。
親元から離れてみて、親のありがたさがわかるものであるが。
彼女はそうではなかったらしい。
親を蔑ろにしているわけではないのだろうが、彼女が若くして家を出てしまったことや、電車賃を惜しんでいるほど生活に困窮していることを考えると、池田麻里奈の毎日が満ち足りているとはほど遠いと思えた。


 
●Congratulations on the arrival of your son. 08

明らかに謗言だと思った。
しかも、本人の目の前であからさまな意図の透けて見える物言いが自分の口から出てきたことに、少し驚く。

こどもには。
大きな志を持って欲しいと願ったり、誰からも愛されるような子になって欲しいと思ったり・・・ひとつの文字で全部の祝福を表すことができる文字があったのであれば迷わずそれを選ぶと思った日は、遠い昔のことではない。

自分の子を泣かせる者は許さないと思ったのに。
自分の子を、自分の子が泣かせている。
そして、そのことから逃げるようにして彼らを引き離して外に出てきてしまった。

・・・そして、自分は今・・・他の親の子供である池田麻里奈を傷つけている。
これは業なのだろうか。
それとも・・自分は親として欠格しているのだろうか。
こども達を産み落とす時に。
人として大切だと思いこども達に受け継いでいって欲しいと思ったものを吐き出してしまったのだろうか。

そう思うと・・・自分自身に嫌悪する。
これから未来のある者に対して、それを否定するような呪禁を浴びせるというのは、彼女の良心に反することであり、それを敢えて越えてしまっていることについて、無関心かつ無感情でいる自分に脅えていた。
こうして自分は大人になったという言い訳と免罪符を使って、人を・・・少女を傷つけることを正当化しようとしている。

けれども。
彼女はそれに対して返事をするのではなかった。
彼女の顔を見上げた。
目が弱いはずであるのに。麻里奈の視線はこちらを見据えており、どこか人を落ち着かなくさせる。
けれどもそれは、麻里奈の影響ではなく・・・自分が後ろめたいからそう思うのだと我に返る。
謝る機会を失ってしまった。

自分は、最低だ。

そう思った。

その時。
彼女の胸の中で、息子が身動いだ。
まるで、彼女の声にならない慟哭に呼応したかのように。

そして。
目の前の・・・池田麻里奈は、彼女の冷たい言葉を躱して茶色の瞳を瞬かせながら、言った。
赤子ではなく。
彼女の顔を見ながら、麻里奈は言った。

「元気ですか」

皆が、彼女の分身しか気にしない。
彼女はどうなのかと聞かない。
自分は子を持って誇らしいと思うのに、その子に注目が行くことに戸惑っている。手放しで喜べない。
それが・・・どうしてなのか・・・池田麻里奈は見透かしているようであった。

そうして欲しいと言わないのに。
どうして・・・こんなに幼い少女が自分に聞くのだろう。
元気なのか、と。

何も言わないでいると、麻里奈は静かに微笑む。
彼女には豪胆な笑顔や豁達な物言いが似合っていると思ったし、いつもきっとそうするのだろうと思われたけれども。
こんな夜には。こんな夜だからこそ。
若く幼く、何もかもがまだ始まったばかりの池田麻里奈から言われる言葉が、塩水のように全身の肌に染み入る。




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