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O-side 白雨_朧雨 5/6
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P-side 後編
Q-side 暁霧 1/4
Q-side 暁霧 2/4
Q-side 暁霧 3/4
Q-side 暁霧 4/4
R-side
R-side あからめ
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S-side 03 深浅
S-side 04 紫電
S-side Trick OR・・・ 2011
S-side うくわ
S&B-side いなのめ
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S-side 炎熱2013 中編
S-side 炎熱2013 後編
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S-side 成ぎ
桜蘂
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Z-side 瑞祥 後編

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Q-side 暁霧 1/4

■01
隔離された病棟の最上階の滞在人がが、ルイ・ドゥ・アルディであると聞いた時。
私は厄介な仕事を引き受けてしまったと思った。
単に配属された、というだけではない作用を感じた。

ここはアルディ家がほとんどを出資している研究所であり、その研究所長の肩書きを持つフランスの華の令息であるルイ・ドゥ・アルディが、アルディ邸のボイラー爆発事故に巻き込まれて、重篤な状態になったという情報は、この国のすべてに瞬時に行き渡った。
報道陣をシャットアウトし、そして治療に専念すると宣言したのは、他でもないフランスの華の発言だった。
政財界に大きな影響を与え続けているアルディ家当主の発言は、この国の情報網をすべて網羅していたからこそ作用した発言だった。
彼の一言で、報道陣の取材申し込みはなくなり、そしてルイ・ドゥ・アルディの快癒を願って研究所の敷地を隔てる柵越しに集まる熱狂的な信者とでも言えば良いかのような信奉者達は、忽然と姿を消した。

それがアルディ家当主の実力なのだと思うと、身震いした。
あの家柄にまつわる伝説は、清いものばかりではない。後ろ暗い話も聞き及んでいる。
だからこそ、積極的に関わり合いになりたいとは思うことはなかった。
それなのに。
この研究所で、出世や抜きん出た業績を望まない私に白羽の矢が当たったのはまったくもって不可解だった。
しかし、指示書を見つめると、なるほどと頷けた。

アルディ家は代々親日家で、邸内では日本語が第一言語として周知徹底されている。
私は日系であり、日本語はそれほど堪能ではないけれども日常会話には不自由しない程度に会得していたから。
だから私に彼の世話を任されたのだという理由を聞いて、それなら致し方ないと思ったのだ。

十分過ぎるほどの報酬と、時間外労働に対する手当、そして厳重を越して絶対的な守秘義務への誓約書への署名を経て、私はルイ・ドゥ・アルディの専属の介添人となった。

身元も調べられているのはわかった。
ルイ・ドゥ・アルディに対して看護期間が経過するまでは、自宅に戻ることすら許可されなかった。
恵まれた環境の中で、私は、籠の鳥になってしまったと感じてそれを否定すること
すら許可されなかった。
 
■02

どうして・・・

この研究所が他国である、遠いあの国の言語や文化を重要視しているのか、最初は理解できなかった。
そして入所時にスタッフは必ず研修を受ける。
研修と呼ぶには長い時間を過ごすうちに、この区画は特別なのだと・・・
皆がその情報を受け取る。
あの東洋の最果ての国から得る様々な恩恵を得る代わりに自分たちに課せられた義務を知る瞬間でもある。
クロス・グループによる医療機器の独占市場とは別に、あの国は、万能細胞についての特許を取得しており、現在もその覇権について、他国と争いを続けている。
万能細胞という表現自体も、もう後世の表現でしかなかった。

この研究所はまったく異質だった。
あの国の万能細胞への開発速度は驚異的だった。
しかし、それがこの施設を維持する理由にはならない。
ひとえに、出資の大半を担っているアルディ家の意向が影響していた。
国立でない一私設だからこそ、特殊な環境を維持していられるのだ。
アルディ家が保つ、重大な研究成果の実用化という理由がなければ、ここは存続しなかった。

高額の報酬と、その後の将来への約束を考えると、これは受けてはならない契約とは言いがたかった。
唯一重視されるのは、「そこで起こったことは口外してはいけない」という事だけだった。
私がなぜ選ばれたのかというと。
入所時にも提出していたし、定期的に更新される身上書から、明らかであったのだと思う。縁故が存在しないということと、私の容姿が・・・日系である血筋から選ばれたのだろうな、ということも何となく理解していた。

この国には珍しく、出資者であり希なる人として国内外から特別扱いを受けているシャルル・ドゥ・アルディは、大変な親日家として有名だったから。
その息子のルイ・ドゥ・アルディの看護には、日本の最先端の医療器具が使用されているし、その使用について、開発業者へ直接問い合わせをしないといけないという理由から、私が直接コンタクトをとって使用方法などの詳細な説明を受けることが可能だと言うことが選ばれた理由なのだと思った。

日本の医療世界は最先端を走っている。
その中でも、クロス・グループの開発する医療ネットワークには、世界の誰もが手を伸ばしながらその先を行くことができない分野だった。

だからこそ。

ひととおりの事情説明を受けたとき。
私はなぜ、日本という国について、この施設が拘るのかようやく理解できた。

クロス・グループの会長の孫娘であるヒカル・クロスがアルディ家に養女同然に滞在していること。
そして、彼女がルイ・ドゥ・アルディの看護に加わること。
そして、覚醒したばかりのルイ・ドゥ・アルディは日本語にしか反応しないこと。

だからこそ、私が選ばれたのだ。

そしていくつかの公表された事実に驚愕していた。
そこで報じられる事実について何らコメントをしてはいけない、と契約書にサインさせられたからだった。

これまで、実弟の存在を公に話すことは滅多なことではなかったアルディ家当主が、彼の実弟と共に息子のルイが参画していた事業を引継、ルイが治療に専念することを宣言した。

ルイ・ドゥ・アルディの治療経過への公式発表とヒカル・クロスという存在がここでようやく公にシャルルの恋人として肯定されるような報道に彼が否定とも肯定とも取れないような曖昧な発言をしたのがほぼ同時であったことにも、大きな話題になった。

しかし、アルディ氏にとってみれば、それは絶妙のタイミングであり、そしてルイ・ドゥ・アルディの婚約者としての報道は誤報で・・・・シャルルの定めた恋人として広く周知するに足りるきっかけとなったに過ぎなかった。

しかし私はそういった話にはあまり興味がなかった。
そこから得られる情報は、ヒカル・クロスが家族でもないのに、ルイに面会できる数少ないリストの中の筆頭であることと、私が介助するべき人物が、口外をしてはならないと誓約させられる程に何か重大な状況にあるのだということが確認できれば、それで良かったのだ。

この研究所の治療棟には、各界の著名な人物が頻繁に出入りしている。
また、重篤な病を保つ者たちも。
だから貧富の差に関係なく、この病棟で起こったことは決して口にしてはいけないのだということは浸透していたし、だからこそ、他の病院などでは支払われることのできない高額な報酬を受け取ることができるのだと思っていた。
それは間違いではなかった。 
■03

ルイ・ドゥ・アルディの病棟は・・・そう。病室ではなく病棟だった。
ひとつのフロアがそのまま彼のためだけの空間になった。
出入りを許されているのは、毎日変わるパスワードの配布を許された私を含めて、数少ない必要最小限のスタッフと、ルイ・ドゥ・アルディの親族だけであった。
IDチップシールは毎日回収されて、誰も入り込めないように厳重な監視の下に置かれた。
淡い壁紙の貼られた病室は、天井が高く広く作られており、とても治療を要する者のための室というものではなく、ただひたすら豪奢だった。
最新の機器設備に、贅を尽くした内装。雑菌を避けるために滅菌シートがベッドの周りに張り巡らされて、彼の体温や心音を測定する装置がなければ、ここが治療棟とはとても思えないほどの空間だった。
私はここに務め始めてかなり経過するが、ここに入ったのは初めてのことだった。
少なからず驚いたが、驚愕やその他の表情を大袈裟に表現しない東洋人の顔立ちと文化が役に立った。
私以外の者たちは普段話をすることができない程の、世界で最も優れた技術や教育を受けているスタッフが揃っていた。
ルイのためだけに用意された病棟は、夢のような場所だった。
始終静かであるが、彼の覚醒を促すために時間を決めてクラシック音楽が流れ、彼のために最高の状態の薔薇が滅菌されて、毎朝届けられる。
彼は滅菌シートで覆われたベッドで昏睡と覚醒を繰り返しているから、その薔薇の香りは楽しむことはないのに。

手術は成功だった。
それなのに、彼は目覚めの時間をほとんど持たない。

眠っている彼はまったく人形のように美しかった。
特殊な装置を備えた最高の施設であったのに、私の仕事と言えば、彼の身なりを整えてやり、枕を取り替え、鬱血しないように体位を少しずつ変えてやることだった。
大変に負担の軽い仕事であった。

眠ったきりの彼の世話をしている時間はほとんどなかった。
おそらく彼は誇り高く、医師としての知識も兼ね備えていたから、他者から世話を受けることに対して大変な恥辱だと考えて居たのかもしれない。
けれどもそれが彼の回復の糧になったのだから私はそれを素直に喜んだ。
これはビジネスであり、私は最低限の言葉をかける以外はできるだけ彼に言葉をかけないようにしていた。目覚めて、知らない者が気安く声をかけたら戸惑うのは当たり前のことだから。それは幾人もの人々の生死を見送ってきたからこそ、断言できることであった。
規則的に目覚めるようになってからは、彼は素晴らしい速度で回復していった。

栄養チューブが外れ、様々に取り付けられた彼の生命を確認する装置が外された。鍛え上げられた肉体だと強靱な精神が、彼を死地からこちらに呼び戻したのだ。
何もかもが素晴らしい人物だった。
彼は星辰の子と呼ばれている。
天体を遵えるという意味だ。

何もかもに恵まれている彼は、何かもを失ったはずなのに、こうして奇跡的に生還した。
背中の酷い火傷も炎症が治まり、幾度か移植手術を施せば日常生活に支障はない程度に回復できるだろう。うつぶせになっている時間も減った。
破れた鼓膜も戻ると聞いた。
私の呼び掛けに彼は応じていた。
物憂げな、上品な・・・高い知性を湛えた青灰色の瞳は、日を追う毎にその光を強くしていった。
けれども、彼は言葉を発しなかった。
聞こえていないわけではなさそうだった。
しかし、覚醒時の彼は・・・いつも心許なげに視線を彷徨わせている。誰かを探しているかのようだった。しかしここは面会謝絶で、限られた者も、彼と直接会話をすることができない。
滅菌処理をしているから、という理由であったが、その他に理由がいくつかあった。
彼の意識混濁を心配してのことだった。ルイは日本語にしか反応しない。
精神的なものであるということであったが、私は、そのまま曖昧な指示に従うことにした。
何より、高名な医師として名高いシャルルの実息であるのだから、そのアルディ氏の指示に従わないという理由はなかった。
彼は痛みも不快も訴えない。ただじっと耐えているだけだった。それが少し気になった。
誇り高く、強い精神を持ち合わせている人物ほど、重篤な症状を見逃しがちになる。
だからこそ、私は日々彼を観察することを命じられたのだ。
高価な医療機器に触れることより、ルイという繊細でいつ壊れてもおかしくないような美しい麗人の看護にあたることに対して少しばかり慢心していた。
見事な金髪に、深い知性を秘めた青灰色の瞳。
擦過傷も火傷も彼の美貌を損なうことはなかった。
鍛えた鋼のような肉体はかなり筋肉が削げてしまったが、やがてそれは元に戻るだろう。彼はとにかく若かった。

夢幻の世界を彷徨っているかのような不安定な日々を過ごしたが、命に別状はなかった。
彼には生きる意志があり、そして何か強い決意が彼を生き存えさせていた。
それが何なのか、詮索する権利は私にはなかった。静観するだけの日々であるが、とにかく・・・このような患者を見守るのは初めてのことだった。
介助は必要であったものの、普段通りの生活ができるようになったルイが、アルディさんと呼ぶと反応するのに、ルイと彼の名前を呼ぶと知らない顔をする。それだけが気になった。特定の音に反応しないという症例は聞いたことがなかったからだ。
そして、彼はあえてその名前に反応していないのだと思った。いつだったか、経験があった。自分ではない誰かであると強く思い込みすぎて・・・自分の本当の名前や姿を拒否してしまう者がいた。こういう、昏倒する事故をきっかけにして、人間は、奥底に秘めた想いを露顕させることがある。私の専門は医療機器操作ではなくそちらの方だった。
つまり、事故に遭遇した人の心の痛みを和らげることをもっぱらの業務としていた。
・・・私が表情のあまりでない東洋人の顔立ちをしていることと、あまり口数が多い方ではなく、秘密を誰かに漏らすほど親しい人間がいないことが、幸いした。

この国で、私の民族が認められるのは大変に苦労する。
特にこの研究所では、そういった差別や区別はないほうであったけれども、それでも時折どうしようもなく遣る瀬無くなることがあった。
この仕事が楽であると思ったのは、肉体的負担のことを言っているのではない。
就労時間は守られていたが交替の者はめまぐるしく変わっていった。
きっと、ルイの気に入らない看護師であるか、彼の世話に関して失敗したのだろう。
私もいつ、その立場になるかわからなかったから、彼らを嗤うことはできなかった。 
■04

彼が眠っているときには来客が必ずあった。
まるでそれを見はからっているかのように。

逆に、彼が目覚めている時に訪れて、彼の言葉や指示や感想を尋ねたがる人物達は、次回以降からは「次」はなく、完全に締め出された。それ故に、彼には眠っている時にしか会えない法則が浸透していった。
それほど長い時間は要しなかったので、私はそれを無言で受け入れた。

ルイ・ドゥ・アルディの眠っている間に訪れる人間は、必然的に決まった者になった。
この施設の最も強い権限を持つ人物であり、彼の血族であるフランスの華の指示であることは、明らかであった。

それがルールとなり、敏感に暗黙知について了承した人物だけが、彼の近くに寄ることができた。
彼の生存や、快復の度合いを確認するだけで安堵する人物だけが、彼の近くで彼の吐息を確認することができた。

規則正しい睡眠になってからは、かなりたくさんの人物が彼を訪れていく。
しかし、誰もが彼に話しかけてはいかない。

意識がなくても、話しかけてください。
無意識の状態は何も考えているわけではなく、逆に目覚めたままの状態と同じなのですから。

私はいつもそう言うことにしていたが、今回ばかりは、来訪者達にそうは言わなかった。
彼らも心得ていた。
今回は特殊な事情によるものであり、通常の、私が「普通」と考えて居る快癒への近道とは違った道を選ばなければ、彼は決して良くならないだろうと私も納得したからだった。
肉体が癒えても、彼の魂は戻って来ない。
決して私は口に出すことができなかったが、彼の症状については明らかだった。
多年に渡る深い嗟嘆が、彼を彼ではない人物に変化させてしまっていた。
彼は今・・・本当になりたかったものになっている。

戻りたい過去に戻るのではなく、なりたかったものになって、何かを得ようとしている。

私は奇妙な患者を請け負ってしまったと思うことはしないようにしていた。彼は誇り高くそして穢れなき魂を得て、誰もから望まれた素晴らしい肉体に植え付けられたと信じて居る。固く、強く。
だから、負傷を癒すことに対して彼は協力的であった。通常の倍近い速度で彼は快癒していく。誰もが目を見張る快復力には、彼の精神力も影響していた。
漏れ聞いたところによると、この国でも屈指の名門であるアルディ家では、強い精神力を持つ者が厚遇されると言う。そして当主はそれらの者を束ねて行く必要があり、今の当主であるアルディ氏は、生死をかけてそれを手に入れたという話はまだ記憶に新しい。その息子であるルイが、彼の気質を引き継いでいないわけはなかった。
良く似た顔立ちの青年は、少し髪が伸びて、どんどん・・・・今の当主の若い頃に似てきている。
アルディ氏の若き日の映像や画像はほとんど流出することはなかったが、それでもこの国の有名人でもある彼の若き日の姿の画像を何度か見たことがあった。
大変に良く似ていた。
もっと若い頃は、少女と見紛う神々しいまでに、性別を超えた美中の美を備えていたという。

そんな中で。

彼が眠っている姿と、回復の経過報告だけを確認するだけで満足しない人物が居た。
それが、ヒカル・クロスだった。
やがて、彼の義母となる立場の人間であるのに、まるで、恋人の安否を心配するかのように、彼女は毎日何時間もここで過ごしていた。
茶色の髪に茶色の瞳の娘は、とても若く見えた。
生命の息吹に溢れている彼女は、物腰は洗練されており、ルイの見舞いに訪れる者たちと同じ空気を纏っていた。
彼女は日本国籍を持っているということであったが、フランス語も堪能だった。
しかしここでの決まり事のうち、日本語しか使用しないということについて、一番遵守していたのは彼女であったように思う。

・・・おそらく、彼女はパリに住まいながら、日常は日本語で過ごしているのだろうと思った。
きっと彼とそれほど年齢が離れていないだろう。
自分の息子より年若い娘を運命の人と定めたアルディ氏のことを痛ましい人だと言う者はいなかった。
彼の家は代々多情で有名だったから。
そんな彼が二度と結婚しないと思われていたのに、突然、長らく彼を理解してきた娘と結婚するということを匂わせた話を公でし始めたので、どんなに稀な才を持った人物なのであろうか、と思っていたが、彼女はごく普通の人間であった。
確かに、彼女は、フランス人の祖母を持ち、世界にも名を知られるようになったクロス・グループの末裔である。
そしてクロス・グループとアルディ家は今では切り離すことのできないほど、深い繋がりがあり、元々は、アルディ氏とヒカル・クロスの父親が親友であったということであった。
彼女の両親はすでに居ないということであった。しかし死亡した、とは誰も口にしなかった。
彼女は、あの不幸な墜落事故の遺族でもある。あの海に沈んだ者を待つ者は、彼女だけではないし、まだ様々な問題が解決されていないので、公式な見解として「死亡した」という言葉は慎むように配慮されていた。
帰って来ない親友夫妻の娘を手元に引き取り・・・そして彼は恋に堕ちた。
年齢も国籍も何もかもを越えて、待つ者同士身を寄せ合っただけなのかもしれないが、言葉にしがたい強い絆が彼らを結びつけていることには間違いなかった。

・・・・それなのに、シャルルとヒカル・クロスは連れ立って、ここにやってくることはなかった。
必ず、彼らはひとりでやって来た。
アルディ氏の実弟であるミシェル・ドゥ・アルディも然りであったが、彼らはいつも・・・単独でやってくる。
ルイの教育係であり、長らく彼を息子同然に養育してきたとされているミシェル氏は、時折の覚醒中にも室内に入り、ひとことふたこと話をしているようであったが、その際には誰も立ち入らせないので、何の話をしているのかよくわからなかった。
そしてシャルル氏は、彼の睡臥の際に、肉体の診察のみを行っているようである。

時間が経過していくにつれて、シャルル氏が躰の診察を。
そしてミシェル氏が精神状態の確認をしているのだろうということに気が付いた。
私はルイを直接世話している人間であるが、その役割を持つ私にでさえ、それは秘匿された。

そんな中、ヒカル・クロスは、彼が眠っていようが起きていようが、毎日のように姿を見せた。
彼の意識が戻って、命に別状はないという診断が下りた日には、まだ面会できないと言うのに、彼の眠る部屋の扉の外で、何時間も涙ぐんでいた。
ヒカル・クロスとルイは幼なじみだと事情を聞いて、納得した。
彼らは兄妹同然なのだろうと解釈した。
彼女はすでに日本よりフランスで過ごす時間の方が長く、つい最近まで、アルディ邸に滞在していたのだと言う。
今は日本に戻っているようであるが、それでもフランスに来訪中にルイの事故に遭遇し、滞在期間を延長しているのだということであった。
それなら、ルイと一緒に過ごす時間が最も長かった人物であり、彼女には家族同然であるという理由から、これほどまでに心配しているのだろうと頷けた。

私は極力、彼女と話をしないように、配慮した。
彼女も何か、言い含められているらしかった。ルイには決して話しかけなかった。
偏光硝子で調光されている大きな窓硝子越しに見える彼の眠っている姿を見詰め続けているか、彼が目覚めている時には、大きく手を振って彼女は明るく微笑んで居る。だいじょうぶよ、と声にならない声で、彼に話しかけるが、分厚い硝子越しには、彼女の声は届かない。
中に入れば話はできるが、ヒカル・クロスはあえてそうしなかった。
彼は鼓膜が破れており、大きな音は禁物だった。
女性の甲高い声というものは、彼には障りになりこそすれ、癒しの音楽には鳴らない。
だから非常に一方的な伝達方法であったけれども、彼女は、硝子越しに手をあてて、少しでも彼に近く寄れるように顔を近付けて、彼の様子をただひたすら網膜に焼きつけているかのように立っているだけだった。

彼女はいつも微笑んで彼に笑顔を贈る。はやく話がしたい、と言うのに。
彼女は、ルイの眠っている時には苦しそうに涙ぐんで彼の姿を見つめていた。
これは私の職業から来る勘であり根拠がなかったが、彼女はこうして、窓硝子越しに、誰かを見つめるということを過去に経験しているように思えて仕方がなかった。
こういう場面に、他でも遭遇しており、これが初めての経験ではないように思えた。

両の手の平を硝子窓に添えるときに、彼女はいつも躊躇う。
手の平に伝わる硬質な冷たさに毎回、驚いて躊躇って、それでもルイの様子を近く見つめていたいという欲求を優先し、額を押し当てるように近く顔を寄せる。
しかし、それがとても辛そうに見えるのだ。
良く磨かれたそれらを汚してしまうかもしれないという気遣いではなく・・・・・何か、彼女はこうして自分の言葉を相手に伝えられず、ただ、見つめるだけであった記憶が呼び起こされているらしかった。 
■05

彼と彼女の見えざる絆について、誰もが強烈な存在感を感じたかもしれない。
しかし、ヒカル・クロスは、彼の父であるシャルル・ドゥ・アルディの恋人であり、未来のアルディ夫人として遇される存在であった。
それはすでに公表されていることだった。
親子ほどに年齢が離れているのに。
彼女を幼いときから育てた親にも等しいアルディ氏と恋に堕ちたヒカル・クロスはアルディ家の者たちも含めて、とても静かだった。
若い者に特有の蠕動を感じなかった。
ただ・・・ルイ・ドゥ・アルディの安否を案じ、そして彼の呼吸を確かめるだけに日々こうして来棟する彼女に、酷い人だと言って責め立てる者はひとりも存在しなかった。

実息の安否確認だけでも大きな情報であるのに。
彼らには、もう・・・こたえが出ていたのだろうと思えるほどに、静かな時間を過ごしていた。
まったく関係しないと言うかのような、静寂がそこにはあった。
だからこそ、ルイ・ドゥ・アルディという人物に伽藍を感じる。蛻を感じる。

長い時間、彼と過ごした人物はおそらく、ヒカル・クロスだけであろう。それは容易に推測できた。
年齢が近く、彼は、いつも留学したり諸外国を遊学している身分であったので、誰かと一緒に過ごす時間はほとんどなかったはずだった。
たとえ、彼の親族であったとしても。
けれども、彼は、いつも拠点をフランスのパリに置いていた。それが何を意味しているのか・・・
ここに書いてある、カルテに記述された生育環境による空気圧の好適について述べる以外に、彼がパリに留まった意味を証明する者はいない。
少し考えれば、わかるはずだった。
彼が、決して、アルディ家から離れなかった理由が・・・・
当主の後継者としての責務からだけではなく、もっと別の理由があったということを、私は気が付いてしまった。
だからと言って、それを世紀の発見のように声高に述べるつもりはなかった。
・・・彼の愛が・・・彼の回復を増長する要素であったとしても。
それは、決して、現実では再現されない倖せなのだ。
だから、彼の回復や生きる理由を与えるためだけに、虚構の愛を演出する者として荷担するつもりはなかった。
彼は誇り高く、それを知れば・・・すぐさま、彼はその状況を却下するために全神経を使うようになるだろう。まだ癒えていないのに。彼は、そのために、命を削っても躊躇わないだろう。それほどに、誇り高い人物であることは、これまでの接触で理解していたつもりだった。

■06

彼女は毎日やって来た。
晴れても、雨でも、まったく関係なかった。どんなに荒れた天候の時にでも必ずやって来る。
当然のことながら、私とは面識を持つようになった。けれども、彼女は目が合っても静かに頭を下げるだけで、私に話しかけることはなかった。
誰かに禁じられているらしい。
気になったのは、彼女がいつも長袖を着ていることだった。
直射日光に弱い体質であるのか、と思ったがどうやらそうではないらしい。
どうも、定期的に血液を抜いているらしかった。
それも少量を頻繁に採取しているようだ。

人工透析を受けているのか、それとも血液検査をしないとならない重篤な病なのか・・・しかし彼女はいたって健康体であるかのようだったので、その可能性もなかった。

それが分かったのは、彼女の袖から血液が流れ出しており、廊下で立ち往生しているところに私が出くわしたのだ。
私は持っていたシリコン・グローブのジェルを手に塗りつけながら駆け寄った。
ジェル状のそれは、皮膚に吸着するとゴム手袋のように表面に張り付く性質を持っている。そしてある一定時間を経過すると剥離し、一定の方向に一定時間力を加えるとこれも簡単に分離した。これはルイ・ドゥ・アルディが開発したものであるということであった。どんな場所でも決して劣化しない製品になるまでには時間がかかったようだが、彼は・・・大変に素晴らしい才能を持っていると確信する。

私が慌てて近付くと、彼女はちょっと困ったようにブラウスの裾を捲っていた。
「ああ、大丈夫です」
ヒカル・クロスの声は柔らかく、そして若い娘特有の声質を持っていた。
茶色のうねりの強いくせのある髪に、大きな茶色の瞳が印象的だった。
初めて聞く彼女の声に、私は一瞬だけ辟易ろいだ。
もっと落ち着きのある声かと思っていたのだ。しかし彼女は完璧なフランス語を話していた。
そして、彼女は本当は大変に若いのだということを改めて知った。
肌理の細かい肌や、髪の艶、そして何より伸びた腕の線の細さが、彼女の年齢を推測させた。まだ、成人してそれほど経過していないのだろう。
彼女は腕から血を流していた。
止血テープがうまく貼れていなかったらしい。
動いた拍子に、圧迫されて血液が流れ出てしまったのだ。
手早く、持っていたガーゼを取り出して、止血した。
あっという間にそれらが朱く染まる。私は強く圧迫すると、そのまま腕を持ち上げながら、もう片方の手でテープを出した。
ポケットに何があるのか、見なくてもわかる。視線は彼女に向けたままだった。
彼女からは僅かに薔薇の香りがした。大変に品の良い東洋人であるというしか表現しようがなかった。
しかし、彼女は世間一般の若者と違っていた。・・・・その腕の採血痕があまりにも多いので、私はだから眼を逸らすことができなかったのだから。
細い長い腕には、内出血している痕が転々とあった。採血技術は今は大変に発達しているのに、これほどまでに何をどうしたら、痕が残るのだろう。
私の視線に気が付いて、ヒカル・クロスは気恥ずかしそうに笑った。
「あまり見ないでください」
私は小さく謝罪した。ここでは大きな声はもちろん、会話も禁じられている。
鼓膜を損傷しているルイ・ドゥ・アルディのことを考慮してのことだった。
どんなに防音装置が優れていたとしても、彼には完全な静寂が必要であった。
「綺麗なものではないから」彼女はそう言って笑った。私がまた謝罪したからだ。

年頃の娘が長袖を着る気温ではなかった。それなのに、彼女はそうして素膚を隠している。それについて考えが及ばなかったことを申し訳なく思った。
どういうわけか、彼女はとても親しみやすい印象を与える。
少なくとも、フランスの華や、彼の実弟には、こんな風に近寄れない。
私が手早く止血テープを貼り付けると、彼女はありがとうと言って笑った。
「床を汚してしまった」
ヒカルが酷くそれを気にしていたので、私はあとで片付けると言ったが、彼女はそれでも気にしている様子だった。
彼女の血液は何かに汚染されているのだろうか。私はグローブの装着を外そうとしていたがそれをやめた。
彼女の服は鮮血に染まっていた。
それでも、片腕だけ巻き上げている状態であったが、薄い花柄のそれは、彼女に良く似合っていると思った。

「ちょっと動かないで・・・」
私はそう言うと、跪き、自分のハンカチを取り出して、それらを丁寧に拭き清めた。あとで消毒しておけば、問題ないだろう。
その間、彼女は立ったままで、片腕にもう片方の指を押さえたまま、じっと様子を見つめていた。
足元の靴もかなり高価なものであったが、清楚であった。私はますます、ヒカル・クロスという人物は謎めいていると思った。
しかし多くを穿鑿する気はなかった。それはしてはいけないことのリストの筆頭に挙げられるからだ。私は仕事をしに来ているのであって、人間観察を生業としているわけではなかった。

「そのハンカチ・・・」
私は良いのですよ、と言った。彼女のこの靴片方分にも到底及ばない値段のものであったし、こんな時であった。清掃員を呼んで清掃する時間が惜しかった。というよりもむしろ、彼女の腕の痕を誰かに見せては彼女が気の毒だと思ったのだ。
「今度、弁償させてください」
彼女は申し訳なさそうに言った。
私がハンカチを取り出し、床に広げた時に、彼女は小さな悲鳴を上げた。そして、当然だとは思わず、それはいけない、と言って私を押しとどめようとした。
それだけで十分だった。
この人は、良識のある人物だと思ったからだ。

私は職業柄、多くの人々と接する機会があるが、それでも高慢さに辟易することもあった。心が貧しい者たちは、自分以外の者の奉仕を当然のものだと考えていることが多かった。でも、いちいち気にしてはこちらも仕事が成立しない。
私の無愛想さはそこからも来ているのかもしれなかった。
誰か特定の患者に深入りしてはいけない。そう考えていた。
それは私が深入りされたくないからという理由が大きかったが。


しかし、ヒカル・クロスという若い娘は大変に恐縮し、私の名前を名札で確認すると、いつも会っていますね、と言って笑った。
「ヒカル・クロスです」
彼女はそう言って自分の名前を名乗った。もう知っていますよ、と言って私は微笑んだ。
「私の血液は、ちょっと特殊なので・・・・こうした血液を拭ったものは、勝手に捨ててはいけないことになっているのです」
彼女はそう言って事情を説明した。だからそのハンカチは自分にくれないか、と言ったのだ。床を拭いたものであるし、どうせ焼却処分をしてしまうのだから気にしないようにと言ったがそれでも彼女は首を縦に振らなかった。
「どうしてもそうしなければならないのです」
困った顔をするものだから、私は、そうですかと言って、ポケットから小さなビニールの袋を取り出し、それに入れてやった。そしてそれをヒカル・クロスに渡してやると、彼女は微笑んだ。
「凄いわ。何でもお持ちなのですね」「たまたまですよ」私はそう言った。
医療用の小物を取り纏めるときに便利であったので、そのまま持ち歩いていたことが幸いした。
■07

「どうか、内密に」
それがヒカル・クロスとの遣りとりの最初であった。
彼女は私に繰り返し懇願した。
もっとずっと後になって、彼女がなぜあの時、自分の体液に拘るのか理由を知ることになったが、この時の私には、彼女が何かの病に感染でもしているのだろうと思った程度だった。
扱いは慣れている。
空気感染することもなさそうだし、正しい知識があれば、特段に問題になるようなものではなさそうだった。
彼女が慌てている様子ではなかったので、私は吐息をついた。抗体検査は定期的に受けていた。
「その出血は尋常ならざる状態ですよ、マドモアゼル」
そう言うと、彼女は少しはにかんだ。
この件は内密にして欲しいという彼女の言葉を私が承諾したからだ。
「若いお嬢さんが、そのような針痕を残すと・・・哀しむ人が居るでしょう」
それでもやらなければならない病であったのなら、この時の私の言葉はとても思慮を欠いた発言だったのかもしれない。
しかし彼女の落ち着き払った態度や、私に全幅の信頼を置くかのような態度が気になっていた。
この治療棟から情報が漏洩することは皆無だった。そしてその仕組みを作ったのは、彼女の未来の夫になるべきシャルル・ドゥ・アルディであり、システム制御に関してはルイ・ドゥ・アルディによるところの功績が大きかった。つまり、この棟は、彼らの合作でもあるのだ。
皆が、完全に管理されたIDチップシーツを装着し、棟内に居る時にはどこで何をしているのか把握できるシステムになっている。
やはりこれも後になって思い返したことであったが、ルイの考案した事柄にはすべて、シャルル・ドゥ・アルディが関与していたように思う。
それに、彼の教育係であり、シャルル・ドゥ・アルディの実弟であるミシェル・ドゥ・アルディの名前も連なっていることが多かった。
これほどアルディ家の結束が固いのであれば、あの家柄は安泰であろうと思った矢先の・・・不幸な事故がルイを襲ったのだ。

そんな中に、彼女の存在は、まったく異質でありながら、ようやく姿を現したという感がしないでもなかった。
彼女は、長らくアルディ家で養われており、アルディ家の当主であるシャルルと彼女に父は親友であったと言う。
そして、クロス・グループの孫娘でもある彼女は、まったく真相の令嬢として育てられた。彼女の両親が彼女だけを残して、不幸な航空機事故で未だ行方不明であることから、彼が引き取り養い育てていたのだという。
一時期はルイ・ドゥ・アルディの婚約者として紹介もされている。
それなのに、彼女は親子ほどに年齢の離れたシャルルと婚姻すると言う発表がなされたが、徹底された情報操作が行われ、それらに対する記事はまったく明らかにされることはなかった。もちろん、この研究所の中にも箝口令が敷かれ、情報管理が徹底して行われた結果、彼女はこの棟に直接入ることの出来るパスコードを手に入れることができた。
真実と情報は違うのだということを私は思い知った。
しかしそういったことをまったく考慮に入れていないヒカル・クロスの場合には、打算というものとかけ離れており・・駆け引きを知らない様子であった。
彼女の気質であるのだろうが、あの高名なアルディ家の教育は完全に分化されていたのだとわかる。ルイ・ドゥ・アルディとヒカル・クロスは何もかもが違っていたからだ。

私は苦笑した。
私は秘密を漏らす誰かさえいないので、心配は無用だと言った。

「それに・・・そんなことをしても、なんら得にはなりませんからね」
私は苦笑してそう言った。損得勘定をしても何もならない。一時の好奇心や利益に目を眩ませて現在の職を失うような結果になっては何もならないことは、少し考えればわかることだろう。
・・・私はもう、そんな風にして自己保身に計算を巡らせる年齢になってしまっていた。

しかし、彼女はそうではなかった。
彼女はその言葉を聞いて、微笑んだ。
笑うと、とても幼い。彼女は若く見えるのではなく幼く見えた。
きっと・・・彼女が東洋人の特徴を濃く持っているからだろう。

「でも、約束してください。後で必ず適切な処置を受けることを。・・・何かがあってからでは遅いですからね」
そう言って、私の微笑みに彼女は頷いた。
どういうわけか、彼女はこれほど年若く経験も少ないだろうに、人を安堵させる空気を持っていた。清麗な空気が彼女の全身を包んでいる。そんな感じがする。

大きな苦労があったのだろうと予想できた。しかし彼女はそれを滲み出すことはしなかった。それはシャルル・ドゥ・アルディの教育の賜なのだろう。
彼女の仕種ひとつひとつが洗練されており、静かな所作で始まっては終わった。
それなのに、生命の強さを感じる。これは彼女の持っている素養に大きく影響するのだろうと思った。彼女は、太陽のような・・・いや、万人に照らし出す陽光のような人で、その名前のとおり、晄輝く存在であるのだと、僅かな会話でそう思うようになる。

私は極力彼女を刺激しないように、それでいて、大切な来賓に対して失礼のないように言った。
「今日はもうお戻りになられて、少し躰を休めた方が良いです。・・・これ以上の失血は貴女の健康を害する怖れがある」
彼女は眼を細めて、気恥ずかしそうに笑った。
「ありがとう。でも、ルイの顔をほんの少しだけでも見てから・・・それではいけないからしら」
彼女がそこまでしてここに来棟することに大きな意味があると思った私は、しばらく考えるふりをして、顎に指を伸ばして考えるふりをした。
即答すれば、彼女は自分の申し出を引き下げるだろうと思ったからだ。
また、誰かの判断を求めるように、この場での回答を保留にすれば、彼女は同じようにやはり今日はやめておく、と言うであろうと思った。
天候が悪くても、ここにやってくる彼女にとって、彼女の体調というものは、ルイ・ドゥ・アルディの様子を窺うことを中止する理由にならないと思った。 
■08

それから、ヒカル・クロスとの暗黙の交流が始まった。
何がどう変化したのかというと、あまり変化はなかった。
けれども、彼女が来訪する時間はいつも決まった時間になり、そして私が彼女を待ち受ける時間は、交替シフトの赦す限り同じ時間になった。
それでも、目が合えば黙礼は欠かさず行っていた。これは彼女の生国で奨励されている伝統的な儀礼であった。言葉を交わさなくても、静かな礼節がそこにあった。
それは私の家系も同じように美徳とされていた事柄であったが、なかなか浸透しなかったことを思い出した。
それを徹底したアルディ家というのは一体どんな生活を普段の生活としているのか、興味が沸いたが、すぐにそれは沈静化した。
クライアントの秘密を嗅ぎ廻るのは御法度であるし、好奇心を持ち合わせたことそのものが今のポジションを危うくさせることは、わかっていた。
深入りしてはいけない、と経験上わかっていた。ここに集うような者たちの秘密は、己の秘密のようにしてはいけないことを・・・・ただ、通り過ぎるだけで留めて置いてはいけないのだと理解していた。

それでも、ヒカル・クロスは興味深い人物であった。まだ年若いのに、日々の習慣を守り、そして決してルイ・ドゥ・アルディと会話しない。彼がそこまで回復しているわけではないということもあったが、積極的に会話しないように努めているように見えた。
だがしかし、望んでいないということではない。
回復の程度については把握しているのか、誰かに詰め寄って尋ねることはしなかった。
主治医が彼の父であり、彼女の近しい人間であるアルディ家当主であるのだから、それは当然のことであったのだが。
それでも実際に世話をしている人間に様子を尋ねたがるのが人の常であるように思っていたので、彼女の距離の置き方が非常に気になっていた。
同時に、ルイ・ドゥ・アルディも彼女に話しかけることはなかった。

しかし、私は気がついていた。
ヒカル・クロスが彼を訪ねる時間には、ルイはいつも覚醒しているのだ。
それなのに、微睡んでいる様子を彼女に見せる。
非常に誇り高い人物であると聞いていたから、睡眠中の様子を誰かに閲覧されることに対しては拒絶を示すと思っていたのに。
そうではなかった。
このふたりの関係は、あにいもうと以上の強い絆が存在する、と思わざるを得なかった。
それなのに、言葉を交わすどころか・・・彼らは決して近寄ろうとしなかった。

彼女と彼は単調な作業を繰り返す。毎日・・・互いの視線を避けるのに、互いの気配を確認している。なぜなのだろう。好奇心と言うには・・・その秘密は重すぎた。
秘めたる思いと言うには、それ以上に、秘することを重く課していた。
若い彼らの目に見えない緊迫した空気が、私を落ち着かなくさせていた。
彼と彼女は恋人同士ではないのだろうか。
そう、疑われても仕方がなかった。
過去に・・・婚約者として報道されたことがあったが、そういった関係から解消して、彼女が父親に乗り換えているという軽薄さも感じなかった。
彼女は、心から、ルイ・ドゥ・アルディを心配して、日参している。
それを、ルイ・ドゥ・アルディは知っている。けれども、彼女と彼は会話を交わすことはしない。
・・・・彼女は彼の状況について、全部把握していないのではないのだろうかという疑問がよぎった瞬間でもあった。
しかし、私が彼女に話しかけることはあり得ない。
それは固く禁じられているからだ。
研究所で治療する対象者は滞在者と呼ばれ、患者と呼ばれることはない。
滞在者の親族には規定によって話しかけることはしない。
私の雇い主はこの特殊な研究所であり、標準から逸脱した報酬を得ているのは・・・ここで知り得た秘密を遵守するという未来までの束縛を私自身が約束しているからだ。

それでも。
日々、ルイ・ドゥ・アルディの顔が穏やかになる。
日々、意識が戻るにつれて、誰かを探すように青灰色の瞳を彷徨わせる。

その時間に覚醒するのは、やはり彼女を待っているからだ。
驚異的な速度で回復する彼の姿を見たいとヒカル・クロスが訪れるのに、彼は彼女に横臥する姿しか見せなかった。
なぜなのだろう。まるで、眠りを覚醒させるのは、彼女であると訴えているかのようだった。
世が世なら、彼は・・・眠りの杜の美女ならぬ、眠りの杜の王子なのだろうな、と思った。
しかし彼は望んで微睡んでいる。彼女と話をしないことを理由とする目的を自ら創りだしていた。

私は嗤う。
陳腐な言葉でしか彼らの関係を表現できない自分の語彙力に嗤う。

それでも。
普通の・・・ごく一般的な言葉では、彼らは表現できないのだ。

彼女の真摯な眼差しが彼に注がれるが、彼はそれを無視して眼を瞑る。
それなのに・・・彼女の気配が消えると、足音が消えると・・・彼は瞳を彷徨わせて、彼女の痕跡を探すのだ。これはなんと言って良いのか・・・傍観者の私には大変に胸の潰れるようなすれ違いであった。
でも、私は、彼に尋ねることは出来ない。それを尋ねたら、彼と彼女の距離は縮まるかもしれない。しかし、彼女はすでに・・ルイ・ドゥ・アルディではない人物の恋の相手であった。 
■09
見つめ合うことを放棄した・・・触れあうことをやめることによって魂の交合を行っているとしたら。
それは秘めたる恋を越えて、もっと違う何かになるのかもしれないという実験を行っているかのように、彼と彼女は沈黙の会話を続けていた。
彼女は気付いているのかもしれない。彼がいつも来訪する度に意識のない日々が続き、決して会話できないことについて、疑念を抱いているのかもしれない。
しかし、私が観察する限りでは、彼女はいつも決まった時間に遣ってきて、いつも決まった時間に帰っていく。できる限りここに来ることを課しているようで、そうすることによって、彼の快癒祈願をしているかのような・・・そう。それは礼拝のようにも見えた。

その間にも季節は変わり、彼の体調は回復に向かっていた。
相変わらず口数は少なかった。
完全に空調管理された滅菌棟であっても季節の移り変わりや気圧の僅かな変化に影響しないというわけでもない場所に設置された場所にここは存在していた。
それらに引き摺られない程に体力が戻り、様々な失われた細胞が再生を始め、損傷した部分が再び機能し始める頃になると、彼は起き上がって覚醒している時間を増やしていった。
まるで、自分で管理しているようだった。

そして彼は酷く無口だった。
熱風に晒された咽喉部の一部の損傷によって、彼はしばらく声を発することもなかったが、ようやく回復した時期を迎えたかと思えば、彼は短い言葉しか発しない。
誰とも会話しなかった。
必要最小限の言葉しか使わない。挨拶も交わさない。
しかも、彼は医療知識もあったので、痛みや疼きなどの主観的な症状を告げることはなく、投薬の量や間隔の変更をぽつりぽつりと言うだけであった。
広範囲にわたって移植手術や再生治療を幾度も繰り返しているから、酷く痛むはずであるのに、彼は何も言わなかった。
そのうち躰の方が悲鳴を上げて、長時間眠る日々がかなり長い時間続いたが、それは彼が生きているという証拠でもあった。
若さとは脅威で、彼の肉体は素晴らしい速度で回復していった。
やがてある時期から、彼は起き上がってタブレット端末などで読書をするようになった。
柔らかい枕を背あてにして、握力の訓練や断裂した筋肉の機能回復訓練に大変役だったそれは、ヒカル・クロスから差し入れられたものだった。
彼が大変な読書家であるということは容易に想像できた。
彼はもの凄い速読で記憶しているようだった。
毎日のように更新されるそれらの情報は、ヒカル・クロスから入手されていると思われた。彼女は、彼の好む分野を知っているのだ。一体、いつ、そのような作業時間を捻出しているのだろうか。私は彼らの時間軸は、私のそれとまったく違うサイクルで展開されているのだと知り・・・そして感歎する。こんな稀なる逸材が、これからの世を動かすのだろうということを目の当たりにして・・・そしてそれは叶わない夢などではないことを、神託にも似た荘厳な痺れとともに感じる瞬間が多々あった。
私は充電池を交換する役割が増えて、そしてルイはそれを私だけに任せるのだとしばらく後に知った。私の勤務時間中に訪れるバッテリー警告のランプは、勤務開始と最後に必ず発生した。つまり、彼は、私の在勤時にだけ、ヒカル・クロスから贈られたそれを使用し、彼の私生活を垣間見せるのだ。どれだけの量を読み込めばそれほどの短時間でバッテリーが切れてしまうのだろうかと内心呆れたが、それは最初のうちだけであった。彼の記憶容量は無限で、一度記録してしまえばそれを思い返して思考に耽ることは用意なのだという思考過程を知ってようやくわかった。
私の居るときには集中して無防備になり、その状態を他の者に見せたくないのだという彼の意図を知ると、彼の誇り高さに唸るばかりであった。
彼の脳は、少しも損傷していないで自己の前のままに機能しているかのように思われた。
・・・ある課題を除いては。

医療機器に影響があるので常時接続はできないが、彼は私にだけそれを許可した。
他の交代要員には決して何かを許可させることはなかったと聞き、私はあの気難しい滞在者が、私の何を気に入ったのか少しも理解することができなかった。
ただ・・・ヒカル・クロスと言葉を交わし、そして彼女の窮地をほんの少しだけ助けてやったという程度であるのに。彼はその場所に居合わせていなかったのに、何もかも知っているようだった。
彼に対する世話の程度が気に入ったのではなく、彼女と・・・少しばかり関わったというだけで、ルイは私を選んだのだ。
そこまで彼女を想いながら、彼はどうしてヒカルに声をかけないのだろうか。彼女は待っているのに。彼から、おいで、と呼び寄せることを待って・・・毎日、彼の微睡みの中に現れる。このような行き違いを毎日続けて、彼女は神経が参ってしまわないのだろうかと考える時もあったが、大人しく従順そうな少女と言っても良いような容姿のヒカル・クロスは、不壊の魂を持っていた。我慢強く、日々、ルイが横たわっている姿だけを見つめる。しかし僅かな変化・・・そう、たとえば、彼の頬に少し赤みが増してきたとか。彼の削げた頬がほんの少しふっくらしてきたこととか。表面の皮膚の裂傷が回復してきたとか。
そんな瑣細な変化に安堵し、そして帰っていく。それだけで良いと・・・生きていることだけで喜びであると全身で訴えていた。

不思議なことに、アルディ家の構成員は皆、単独で訪れる。ヒカル・クロスもそうであった。彼らは連れ立ってやって来ない。騒がしい音は彼の鼓膜に良い影響は与えないと理解しているからこそなのか、それとも・・もっと大きな波紋を与えて今度こそ彼が戻ってこられないように仕向ける真似は避けたいと考えているからなのか。
どちらにしても、ルイ・ドゥ・アルディは星辰の子と呼ばれ、あらゆる天体を遵えるという美称を持っているが、そのとおりに・・・誰もが彼を失いたくないという意図が作用しているからこそなのだ、という私なりの妙な納得があった。

これほど寡黙な人物は今まで見たことがなかった。すでに長い時間を共有しているのに、まったく・・・ルイ・ドゥ・アルディという人物がどんな人間なのか、謎めいた人物であること以外にはわからなかった。
届かない想いを抱えながら、他者の前では平然としている。そして僅かな・・・ヒカル・クロスが来訪してその気配が消えゆく瞬間だけ、心許ない風に視線を彷徨わせて彼女を探す。私が知っているのは、大変な読書家で天才で、そして選ばれて何もかもを持っているのに、彼は何も持っていないと感じていることだけであった。
どれほどの見舞いの品やメッセージカードが届いても、それらで彼は癒されない。

徐々に彼の眼孔に鋭さが戻ってくる頃。彼の肉体も回復に向かい、そして彼はとても睡眠時間が短い人間で、本来ならこうして長い時間ひとつのところに留まっているような性質の人ではないことも知った。本人の様子からわかったこともあったが、周囲の彼に関する関心は大変なもので、時間の経過とともに人々の記憶から消去される類の人間ではないのだと改めてそう思った。
彼はフランスの華の血を引く後継者であり、そしてたったひとりしか存在しない星辰の子なのだから。多方面にその名を轟かせ、長い時間をかけて彼はアルディ家の反映に尽力し続けた。おそらく、復帰後も同じように黙々と淡々と過ごすのだろう。
私が周囲の情報や彼自身の様子からだけではない事柄からわかったことと言えば。

・・・彼には、彼女が必要なのだ。死ねないほど、愛しているのだ。あの人を。

それだけはわかった。死ぬほど愛しているという言葉もあるだろう。でも、彼は死ねないほど、彼女を愛しているのだ。自分の血族よりも。自分自身よりも。
だからこそ、彼女と言葉を交わさないことを自分に課し、それを無言のうちにヒカル・クロスは承諾しているのだと思った。

ルイ・ドゥ・アルディの感じている情と、彼女のそれは違うのだろう。
だから、言葉を交わさないのだろう。
同じ敷地で長い時間を一緒に過ごしながら、同じ質の愛ではない感情の交叉は、互いをどれほど傷つけるのだろうか。それは私にはとても想像のできないことであった。
若いふたりはそれらを知りながら。相手の愛慕に応えられないことを知っていながら、それでもこうして日々巡り会いを繰り返す。私は胸が潰れそうになった。
男女の愛恋と言い切るには難しい、癒しがたい傷がそこにあったからだ。

肉体の傷は癒えても、魂の癒しを迎えることが出来ない。だから、彼は誰とも話をしないのだろうと察した。私は彼に向けて言葉をもっとかけるようにと心がけていた留意事項を削除した。ルイ・ドゥ・アルディには沈黙が必要で、ヒカルという名前の晄だけを欲している闇の住人であることを彼自身が定めてしまっているのであれば、誰も彼を救うことは出来ないのだろうと思った。
ただひとり。ヒカル・クロスだけが彼を癒すことができるのに、癒しの晄を持つ彼女は彼に近寄れない。 
■10

他者の詮索というものは、時に必要な助走になることもあるが、その大半は思い通りにならないこと・・・つまり、最良の結果と違う場所に行き着くことになる原因になることが多かった。
それに私は彼と彼女のごく一部しか知らないし、彼らから直接聞いたわけでもない。私自身の好奇心を満たすために、今の状況を覆すことを代償とするには危険すぎる秘密であったし、特に・・・ルイ・ドゥ・アルディは・・・彼はそれを望んでいないのだろうと思った。

相も変わらずヒカル・クロスは毎日やって来る。それをルイ・ドゥ・アルディが認識していることは間違いないのだが、それについて彼女は気がついているのだろうか。
ほんの少し・・・本当に、ほんの少しだけ遅れて来棟する彼女の気配を感じようと彼が神経を傾けていることを、彼女が知ったとしたら。
彼は、その瞬間、彼女を全身で欲することをやめてしまうのかもしれない。
これほど若いふたりが、どうして触れることすらできないのか、私は黙って見つめるだけであった。それしかできないし、それ以上のことができる立場にもない。
大人になるというのはこういうことなのかと思った。傍観することは忍耐を必要とする。
しかしそうしなければこのふたりのこたえは出ないのだろう。

・・・・彼は回復している。徐々に肉体は戻りつつあった。あの事故によって焦げた髪は切り落とされていたが、それが再び伸びて見事な金色を取り戻していた。
いや、以前より長くなった。しかし、無粋という言葉からは縁遠いほど美しく滑らかな金の髪が蘇っていた。
皮膚の移植は成功して癒着の具合も良かったし、骨折や打撲はもうほとんど完治していた。何より、彼の若い鍛えられた肉体が今回、彼の命を救ったのだ。そして、最新の医療が彼の回復を支えている。
・・・・再生医療の最先端の技術を持つこの研究所では、彼の治療が最優先事項とされていた。彼はこの国の将来を担うほどの優れた逸材であり、あのアルディ家の後継者であるのだからその待遇は当然であった。
しかし人の出入りを極力抑えた環境が整えられ、安定した容態を確保することができるようになったため、更に人員の往来については管理徹底されるようになった。
・・・ルイ・ドゥ・アルディの覚醒時間が長くなっているからだ。

ヒカル・クロスが、時折姿を見せなくなることがあったのは、この頃からだった。
どうしても来棟できない時には、彼は私がその時担当している職員に、控えめに言付けしていく。ルイが目覚めたら、伝えて欲しい、と言って去って行く。
そして彼はそれを後ほど聞いて無言のまま僅かに頷き、ヒカルの不在を承知するのだ。
物憂げな青灰色の瞳が澱む。明らかに、失望している晄だった。私たちのような職に就いている者たちは、相手と言葉による会話という手段を使用しなくても十分に意思疎通ができることがあった。しかしながら、彼女に彼の無言の囁きは伝わらない。私は切なくて・・・彼の瞳を見つめて観察するという行為が苦しくなってきてしまった。
なぜ、こうまでして彼女を求めているのに・・・彼女の言葉を求めているのに、彼はそれを伝えることをやめてしまったのだろうか。
燃えて焼き尽くすような烈しさを持ちながら、彼は静かに・・・炎を燃やし続ける。
絶やさないように。静かに。けれどもそれは決して消えない。

そんな日が、何度も続いた。そう、何度も。
私は彼と彼女の間が少しも縮まらないことに対して諦めにも似た気持ちを持つようになっていった。彼は驚異的な速さで回復しているのに、まったく時間軸が違っているかのように、彼と彼女の間の時間はゆっくりと動くどころか・・・停止したままだった。

それは気の遠くなるような繰り返しだった。
季節は移り変わり・・・・そして彼女の着衣が一枚一枚羽を滑り堕としていくかのように薄くなっていく季節に、彼はこの棟を出ることになった。

機能回復の運動も始まっていたし、投薬量も減っていった。相変わらず食は細かったがそれは元からのようだった。
彼は激しい訓練で肉体を鍛えるために完全な食事管理をしていたことに加えて、味覚に優れていたので、損傷していないその感覚が、味気ない食事に不平を漏らしていたのだろう。
全てが元通りというわけではなかったが、滅菌状態の部屋から出ても問題ないと診断されて・・・そして、彼はその先の段階に進むことになった。
ここまで、長い間担当していると自然に情が湧くものであり、家族に感じる連帯感のようなものを持つことがしばしばあったが、彼と私の間にはそれはなかった。
私が彼に対して何も語りかけないことを貫いたからなのか、何も語らないことを彼が貫いたからなのか、理由はわからなかったが、互いに深く干渉しないという決まり事がいつしか生まれていたようだった。

・・・日々の彼の生活を細かく思い返しても、そこには何も残らなかった。
それはとても不思議なくらいにまったく蓄積されなかった。彼の在棟している毎日を細かく記録しているのに、それでも私はその過程を思い出すことはなかった。
ただ思い返すのは、彼の切ない遣る瀬無い青灰色の瞳がヒカル・クロスの姿と気配を求めて彷徨う姿ばかりであった。美しく儚く・・・声をかければすぐに霧散してしまう空気のようでいて、張り詰めた何か。誰も近寄らせないほどに冷たい雰囲気を持つ彼が一瞬だけ瞳を細めて表情を緩める。まるで冬眠を強いられている眠りの杜の住人のようだと思ったのは、間違いではなかった。

これほどの麗人であり、肉体的にも滅多に遭遇できないほどの回復ぶりを見てきたし、それに彼に施されている治療は、世界最高の治療と言っても過言ではなかった。私の持ち合わせている経験や知識ではとうてい理解しかねる様々な処置を施されている彼の一端しか私は知らない。
ただ・・・彼に繋がれた装置がひとつずつ外されて、彼が何かに凭れていたとしても自力で立ち上がることができるようになる様を見届けるだけしかできなかった。
彼は無言で、長らく動かしていない筋肉が硬直している故に感じる痛みも越えて・・・一度も。そう、ただの一度も何か後退的な言葉を発することはなかった。強靱な肉体の持ち主だと思っていたが、それ以上に、彼は不屈の精神を持ち合わせている。これには感嘆するばかりであった。

だから。・・・・彼の愛も、きっとそうなのだろうと思った。 
■11

まったく縮まらないふたりの距離に、苛立つどころか・・・私は平穏さえ覚えていた。
彼らの間は、変化しない。
脆くか弱いように見えて、長い間、彼らはそうして重ね合うことのない時間を過ごしてきたのだと感じる。
それは、彼と彼女がこの事態についてまったく・・・突虚として訪れた苦痛だと感じていないように見て取れたからだ。
なぜ、どうしてといった、理不尽に対する不満をヒカルに感じなかった。ただ・・・彼女は本当に彼のことを案じ、何かを求めることも見返りも持たずにただ、彼の姿を眺めるだけだった。

そんな時間さえ、彼らは無為であるとは思っていないようだった。
不思議ではあったが、私はどこか嬉しかった。
彼らは若い者に多く見られる愛や恋の熱に浮かされるような昂揚感は必要としていない。
静かだけれども一途で激しく唯一の・・・強い感情が、ここに存在しているからだ。
目に見えない根拠のないものに対する揺るぎのない信念に近い何かが、確かにあった。

しかしその静寂に変化が訪れた。
ルイ・ドゥ・アルディがこの棟を出て、アルディ家の私邸のひとつに移動するということが決定となったからだ。ここからそれほど遠くはない。
けれども、ここではない場所に移るということであった。
それが良いのかもしれない。
私は内心この予定を大いに歓迎した。
私が決める事ではなく、彼の主治医がそれを許可したのだが。

・・・本来、短期的な滞在しか許可されないこの階にこれほど長く滞在するのは彼が初めてのことであっただろう。
それに加えて、彼は誰とも必要最小限の会話しかしない。
彼の復帰を促すためには、環境の変化は必要であった。覚醒している時間が長くなってきたとはいえ、彼はまだ一日のうち、半分眠って半分起きているような状態である。

最初の変化は・・・・ヒカル・クロスからだった。

彼の治療や万が一の時に備えての様々な対策や課題についてすべてが解消された時。
間もなく、彼がここを出るという日が数えるばかりになったときだった。
騒々しい準備はなかった。全てのせわしなさはこの階ではない場所で稼働していた。
・・・・私はこの施設の被雇用者であるから、業務はこれで終了することになる。
当然に、ルイ・ドゥ・アルディの担当を外れて、その抜けた枠に新しい患者があてられるだけであった。
彼には別れの言葉も何も告げずに居た。そういったことに感慨深くなるような人物ではないと知っていたからだ。彼の周囲に群がる者たちは、彼と言葉を交わそうとしていることが多い。
しかし、この棟では、彼から話しかけられない限り、私的会話はしてはいけないことになっていた。
それに・・・彼の回復を心から祈念している者たちは、みな、彼と会話しなかった。
主治医のシャルル・ドゥ・アルディはルイが完全に意識がない時にしか近付かない。どこで見ているのか、彼の本当の眠りを察知してやって来る。
だからヒカル・クロスを同伴してはやって来ないのだった。彼らは示し合わせたかのように、単独でやって来る。ルイの叔父であり教育係のミシェルに至っては、室内にさえ入ろうとしなかった。
「お世話になりました」
茶色の髪の娘は私の姿を見つけると、廊下を歩く速度を少し変えて、私に向かってまっすぐ歩いてきた。
そして、目の前に立つと、彼女は日本式に礼を述べた。
私は微笑んだ。
「仕事ですから」
「いいえ・・・あなたには色々と・・・それ以上のことをお願いしてばかりでした」
私がルイ・ドゥ・アルディのタブレット端末使用を補助していることを彼女はどこからか聞きつけ来たらしい。
大きな瞳がくるり、と動いた。まだ若い。化粧をほとんどしていない若々しい頬が綻んだ。
「いつか、きちんとお礼を述べようと思っていたのだけれども・・」
「業務に対する対価は得ていますから。マドモアゼル」
私はそう言って、恐縮する彼女の礼の言葉を流そうとした。
彼女が曖昧に言っている『いろいろ』というのは、先般の私が処置してやったあのことも含まれているようだった。
人に言わない秘密を持つことの苦しさを彼女は知っているのだな、と思った。
その瞬間だけは、彼女の穏やかな表情が少しだけ曇ったからだ。
だから私は淡々といつも使っている言葉を述べた。
「難しいことを為し遂げたわけではないですから。いつものとおりに過ごしました。
とてもよいクライアントです。まったく問題は発生しなかった」
彼らと対等であるかのような振る舞いはするつもりはない。
感謝されたいわけでもない。
ただ・・・そう、残念なのは、彼らの動かない静寂の中にある愛というだけでは片付けられないものをもう少しだけ見ていたかった、と思ったことくらいだ。
しかしこういう出会いには中途の別れが附随する。
誰かの結末を見届けるというのはできない。
その人そのものではないのだから。そして、私の結末も、彼らが見ることはないのだ。
それが人生であり生活であり・・・・人が個であり孤であるかもしれないという証明のように考えていた。
「ルイは貴方のことをだいぶ気に入っていたようだったけれども」
彼女はそう言って私を見上げた。いいえ、と私は首を振る。

ヒカル・・・貴女だけしか見ていない彼のことをそんな風に言ってはいけない。 
■12

「私はただ見ているだけですよ。・・・彼の容態を。それが仕事ですから」
私は繰り返しそう言った。
それ以上のものは彼に求めていないし、彼女にも求めていない。
けれども、ヒカル・クロスは彼女の感謝の念を込めて、また礼を言った。
先ほど最後の勤務を終えて廊下に出てきたところに、彼女と出くわしたのだ。
後は、彼の移転先に一度だけ行くだけだ。・・・環境が整えられているかどうかを確認するだけの短時間で終わる作業であったが、出張扱いをさせてくれるという異例の好待遇に私は苦笑したものだった。
それほど必要な逸材である彼を移設することに周囲は神経質になっている。
シャルル・ドゥ・アルディの意向通り物事は運ぶのだろうと思っているし、きっとそうなるのだろう。彼はフランスの華で・・・できないことはないと言われているくらいのこの国の重要人物なのだから。
ルイの回復は素晴らしい。この時期は適切かつ的確であった。彼はこのまま滅菌棟を出ても、十分に回復へ向かうはずである。・・・・ただ一つの問題を除いては。
ヒカル・クロスは私が出てくるのを待っていたのかもしれない、と思った。
こんな風にして彼女の近くに寄って、まじまじと彼女の顔を見るのは久しぶりのことであったが・・・私は気がついたことを口にした。今は勤務終了のタイムスタンプを更新していないから勤務中であることに変わりが無いのだが、いや、もう、誰も咎める者はいないだろう。私は誰も周囲に居ないことをそっと確認したうえで、彼女に質問した。
これも不必要な行為であったが、それでも私は医療に携わる者として、気に懸ける義務があると考えていた。好奇心などではないことを伝えるために、事務的に淡々と言った。
「どこか具合が悪いのですか?顔色が・・・」
彼女はああ、と言って頷いた。
ヒカルの顔はこころなしか青ざめていた。彼女の茶色の瞳が、以前見た時より大きくなっていることに気がついていた。・・・少し痩せたからだ。希望を失ったりしない強い晄を満たした彼女は生命そのものであるようだ。それなのに、体に異変をきたしている。
そして、化粧気がないので、更に白く見える。
彼女は東洋人の特質がよく現れているので、失念してしまっていた。
象牙色の肌は決して白くならない。ルイのように白皙ではない肌が美しいと思っていたのに。彼女の顔と手の抜けるような白さが気になったのが、今になってからだなんて。
・・・・顔色が優れないのだ。

ただ見ているだけだと言った傍から、私は恐縮した。彼女のことは決して見ていなかったのだ。彼と彼女のことを見つめていたのに、ルイの容態は仕事として観察していたのに。・・・・彼女のことにはまるで気がつかなかった。
「いつからなのですか」
そこまで言ってから、私は思い当たる節に気がついて、自分自身の言葉に閉口した。

彼女の状態が・・・
私の知っているある薬剤の副作用によく似ていたことに気がついたからだ。
最近開発されたものだ。
貧血気味の血の気のない貌、血管が脆くなり止められないほどに溢れる血、食欲不振・・・まさか、と思った。
この業務が終わったら、その治療方法に関し、さらなる研修を受ける予定であった私は、非番の時や空いた時間に研修に必要な書類に目を通していたというのに。
しかし、それはここではない遠い実験棟で行われていることであると認識していた。
私は・・・目の前の人物にそれが当てはまるかどうかなどとは、まったく考えていなかったのだから。
彼女はそこで私の思考を読み取ったかのように、そっと自分の唇に人差し指を乗せた。
「どうかご内密に。・・・ああ、これで貴方と私の秘密はふたつになりました」
なんと言う魅力的な娘なのだろうと思った。愛慾の対象という意味ではない。
彼女をシャルル・ドゥ・アルディやルイがこよなく愛する理由が、そこにあった。彼女は・・・私に秘密を持てと言うのに、それを自分一人の秘めたる想いにするのではなく、共有しようと持ちかけたのだ。
何を言葉にし、何を伝えるべきか、そして何を秘めるべきか・・・彼女はこの若さで知っていた。私は黙り込んでしまった。

彼女は再生医療の母床になることを承諾したのだ。時々訪れる時刻が遅くなったりした日の数日後は必ずルイの治療が行われていた。
単なる私事都合などによる遅延などではなかったのだ。
・・・・すべてに符合する。
なぜ、彼は彼女の姿を求めるのか。
何も・・・苦痛も不満も漏らさずに治療を受けるのか。
愛しているから姿を探すという言葉ではない、それ以上の強い想いを感じて・・・私はただ沈黙するだけであった。

この二人の絆は、強くて、痛いほどに強くて・・・
そしてルイ・ドゥ・アルディの願いは叶わない。 
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Q-side 暁霧 2/4

■13

ルイ・ドゥ・アルディが治療期間を終えて棟を出る時がやってきたが、それはあっさりとしたものだった。
徹底された情報管理故のことであったが、それでも・・・星辰の子と呼ばれ、フランスの華の子息であり、稀なる才を持つ美貌の青年の出立を惜しむ声は少なくはなかった。ここは医療を施す場所であるから、長居することについて願いを口にすることは禁忌とされている。
けれども、明らかに失望する者たちが居て、私は彼の孤独をより深く知るだけになった。
ルイ・ドゥ・アルディは存在するだけで周囲に影響をもたらす。
名前のとおりである。
太陽であり、星辰である。周囲の天体をあまねく遵えて・・・そして彼自身はどこに行くのだろうと思った。
そんな中で、ヒカル・クロスは一条の閃光なのかもしれないと想像する。彼にとっては絶対の・・・不変の存在。運命の人という言葉があるが、彼にとって、彼女はまさしく・・運命の人なのだろう。

何かを聞いたわけでもない。
それでも、ルイ・ドゥ・アルディから迸る切ない思いを隠しながら、ヒカルの来訪を待っている言葉のない日々を終えて、彼はどこに行きつくのだろうかと思った。だからここを出て・・・ヒカル・クロスと会話をする時に、彼のその先のことを考えると胸が痛んだ。
私は傍観者でしかないし、彼の一面しか知らない。
完全に管理された場所を出て、ルイは復帰のための訓練期間に入る。
医療分野にも詳しい彼であるならば、おそらく最速でその期間を終えてしまうのだろう。
筋肉が少しずつ戻り、皮膚も綺麗になった。それでもまだ・・・世間を賑わせていた頃の彼の容姿とはほど遠いので、誇り高い彼は決して人前に出ようとしないのだろうが、それも短い時間で解消される問題にならない問題であった。
肉体は癒えているが、彼女との距離は縮まっていない。

しかし私は最後までそれを見届けることはできないだろう。次の滞在者への対応シフトがすでに組み込まれており、私がルイに関わるのはあと1度だけ・・・そう。彼が移動した後に、彼のための医療設備のチェックで彼の滞在先である邸宅に行くときだけであった。準備はすべて完璧に整っているはずであったから、それが異常の無い快適な環境であることをいくつかの項目において点検し、最終的に確認のサインをするだけで良い、至極簡単な点検作業をするだけで終わる。それで、彼との関わりも終了する。
これまで、対象について何かを考えないようにしていた。
私だって人間だから、想い出に残る相手も居れば、そうではない記憶もあった。
けれども、それでは均等に扱えない。

空気と同じで、誰かに縋ったり靠れたりしていると感じさせないサービスが必要であると徹底的に教育されている私たちスタッフには誰かに固執したり何かに執着してはいけないのだと教えられる。
まるでルイ・ドゥ・アルディのようだ。そこが彼の満足していた点なのだろうと。彼も何かに執着したりしていないようだった。
その生命さえも。彼は、なぜ自分が生きているのだろうと思っている節があった。それでいて現状の自己の状況を把握し受け入れ、機能改善に努めている。それはヒカル・クロスが来訪しているからだ。彼女が毎日状況を確認しに、訪れているからだ。
それを、彼女は理解しているのだろうか。

ここを出て・・・ルイとヒカルが言葉を交わす時が来たら、彼女は何て言うのだろうか。これまでずっと会話をしない日々を送ってきた。おかしいとは思っているのだろうが、それも彼が声帯を損傷しているから会話できないと聞いて納得しているらしかった。
筆談でも良い。傍に行って触れたい。
そういう願いそのものを、彼女は持ち合わせていないようだった。
従順で我慢強く、それでいて決して怠惰にならない。
どんな悪天候の時にでも、体調不良でも、彼女は彼に逢いにやって来る。
それがどれだけ彼の支えになっているのかについては考えていないらしかった。
純真で寡欲な彼女の来訪をどれだけルイが待ち焦がれているのか、彼女は知らない。

だから。
あのふたりが、会話を交わすことになり、穏やかで静かな時間を過ごすことが出来れば良いのにと思ったけれども、その先の未来が・・・決して明るく開けているものではないのだろうという予感めいたものを感じていた。根拠がないのに。私には、それを見届ける機会はない。けれども、ただ、ただ・・・・あの若いふたりが本当の意味で、恋ではなく愛に近い感情を持って想い合っていることだけは理解できたし、それを垣間見て・・・それ以上彼らの傍にいてはいけないのだろうなと思っていた。深入りは良くない。彼らの顛末を見届けることはできないが、せめて静かに・・・一瞬だけ交わった時間の中だけかもしれないが、彼らを案じることを赦されたのだから、それに念心しようと決めた。 
■14

滅多にない外出の話がやって来た。
ルイ・ドゥ・アルディがここを出て、アルディ家の用意する私邸に移った直後のことだった。私に環境チェックの依頼が入ったのだ。特に何をする作業でもなかったが、私はふたつ返事でそれを承諾した。契約外の業務であったが、内容は至って簡単でそれほど拘束されるものではないと判断したからだ。
それに断っても業務命令が出ることになるだろうと予想していた。
アルディ家の私邸のひとつであるその館は、医療施設が十分に敷設されており、余程・・・こちらの施設より充実していることであったろう。あのシャルル・ドゥ・アルディの私邸なのだから。
彼はまだ昏睡と覚醒を繰り返している。けれども、ここに居続けることで生じる様々な問題解決に着手できないのだろうと彼の主治医は思ったらしい。
長い間・・・彼を見守り続けたアルディ氏の判断は絶対だった。
彼が施設を出るときには、完全に秘密裏に行われ、私が次に出勤した時にはすでに彼はそこには居なかった。具体的な移動の日にちさえ明らかにされていなかったとは関係者たちの失望は大きかったはずだった。
それに、彼には最先端の再生医療が施されており、研究者であるならば、誰もが経過を見つめていたいと願ったことだろう。しかしそれは中断された。
穏やかで静かな時間を・・・本当の意味で迎える準備が整ったのだ。
ここに居れば完全看護であったが、アルディ氏もヒカル・クロスも限られた時間でしか来棟できない。
私邸に移り、ごく限られたスタッフに囲まれて、よく見知った者たちに囲まれて過ごす時間が彼には必要であった。

特に・・・特にヒカル・クロスと会話をしようとしない彼は、ここに居る限り変化しないだろう。
彼女に触れてはいけないと言い聞かせているかのような頑なな態度の彼の真意を知ることはできなかったが・・・それでも環境が変わることは賛成だった。
私は淡々と仕事を進めることにした。だから、アルディ家の私邸が館というよりかはむしろ城と言った方が正しいほどに広大であったとしても驚かなかった。
彼の家はこれほどの規模の不動産をいくつも所有している。莫大な財があり、彼らの仲からいずれ・・・この国の頂点に立つ者が輩出されるのは時間の問題だろうと言われていた。しかし、その最も大きな期待を得ていたアルディ氏は政事には表面的には関与しなかった。発言権は絶大なものがあると言うことはまことしやかな噂であったがおそらく真実なのだろう。
その証拠に、アルディ邸で起きた不幸な事故の報道はほとんど成されず、世間では静かで退屈とさえ言われる日々が流れて居るが実際にはそうではないことを・・・承知していた私は、ルイ・ドゥ・アルディの孤独をますます知るばかりであった。
これほどの家柄に生まれたのに。
彼はとても孤独であった。
その言葉しか思いつかないくらいだ。
それが彼に必要な要素であったとしても。彼は星辰の子であるのに。
・・・誰かに会いたいと零したことは一度も無かった。あれほどの苦痛を耐え抜いたのに、彼は逢いたい人の名前を決して漏らさなかった。躰が弱ると精神も弱る。けれども、彼にはそれは当てはまらない。
強靱な精神力で彼はこの苦難を乗り越えている。それなのに・・・ヒカル・クロスと言葉を交わさない。

だからアルディ家の保有する私邸のひとつにたどり着いたときに、私はヒカル・クロスの出迎えに安堵した。
入り口の門前で手続きを済ませて私がエントランスに入ると、それを待ち構えていたかのようにヒカル・クロスが足早に私に近づいて来た。
彼女はこの場所をよく知っているようで、慣れない空間に辟易して供の者を希望しているといった風情ではなかった。
彼女は待っていた、と言った。
しかし少し驚いていた。
研究所から来訪があるとは知っていたが、私が来館するとは聞いていなかったらしい。
彼女もここでルイに会うのは初回だと言うことであった。
「奇遇ですね。点検に来館する方が居るとはきいていたのですが、まさか貴方がいらっしゃるとは・・・」
いいや、奇遇などではなかった。
取りはからった者が居ることは知っていた。
私の勤務サイクルを知っており、ヒカル・クロスと言葉を交わしたことがあると知っている人物はただひとりしか居ない。

違う建物の中で見る彼女は昂揚していると言ってはいたが、とても落ち着いて見えた。
やはり、ああいった医療施設に長く通うことを良しとしない判断は正解だったようだ。特に家族関係が特殊であると思われるアルディ家の者たちには、静かに・・・血族だけで集う空間が必要なのだろうと解釈した。
彼女にとって、ルイの存在はささやかなものではないのだ。
「少し緊張します。だから貴方が居てくれてほっとしたと言いますか・・・」
ヒカルがそう言って恥ずかしそうに笑った。
「ルイと話ができると聞いて、朝から本当に・・・朝から落ち着かなくて」
彼女がそう言って私を見上げた。彼の目覚は遅い時間であることが常だったから、彼女はそれまで待機していたようだった。
完全に人の出入りが管理されている空間で、ヒカルだけが自在にこの館の中を行き来できるようであった。彼女はアルディ家の家族も同然の待遇を受けているらしかった。
昂揚を抑えきれないほど、彼女はまだ若いのだと思った。そして、ルイはそんな朝を迎えて、どのように感じているのだろうかと想像する。
「私が先に話をしてきても良いでしょうか」「どうぞ」
私の返答にノンはあり得ない。彼女の希望は慎ましやかすぎて・・・私は思わず微笑んでしまった。 
■15

微笑ましいという言葉が相応しい彼女の笑顔だった。
待ちきれない喜びが全身に溢れて彼女を落ち着かなくさせている。
「やはり貴方が先に・・・」
そこで自分の我が侭な申し出があっさりと承認されてしまったことにヒカル・クロスは少し臆していた。
彼女はそうやって自分の意見を真っ先に挙げる人物ではないのだろうと思った。
しかし同時に少しばかり不憫に思った。
彼女はルイ・ドゥ・アルディとの時間を余りにも長い間待ち望んでいたと言うのに。
その瞬間を分かち会う人物が少ない。
ここにはシャルル・ドゥ・アルディも、アルディ家に縁の者も気配を見せなかった。
いや・・気配だけは存在するが、姿が見当たらない。
まるで彼女の空気になって、私の視界に移らないだけなのかも知れないと思わせる独特の空気がここにはある。
彼女はよい意味で平凡であった。凡愚ということではない。
あの薔薇の家で育ちながら、その世界だけしか知らないということではなかった。
私のような者は空気のような存在としか見なされない階級の家柄に近く縁を結びながら、彼女は私のことを記憶していた。
その他大勢に取り囲まれていながら、彼女は決して接した相手によって態度を変えることをしない。
自分の領域を守るために欲行われる、周囲に目を配らないということを選択する人物ではないのだと思った。

だからかもしれない。
私は首を振る。
私が先である必要は無い。
こういう優先順位の交替は苦にならない。
「いいえ・・・今日は、貴女が・・・最初が良いと思うのです。それに私は彼の周辺施設を確認しに訪れただけですから」

茶色の髪と茶色の瞳が揺れて、若々しいヒカルの頬が仄かに上気していく。
こちらまで笑みを誘われる。
そして幸せな気持ちになる。
彼女はきっと、常にそういう雰囲気というか空気を保っている人物なのだろうと思った。
人は、こうした気持ちを忘れていることを思い出すことによってまた繰り返し微笑む事が出来る。それをよく知っている。何度も失い、何度も思い起こして、そこであるとき突然自分にとって必要不可欠のものであると気がつくものがある。それが微笑みであり・・・こうして誰かを想う気持ちであるのだろうと思った。優しすぎるねと言われるが、それでも私はその希望の晄を持ち続けているかどうかを大きく左右する要因であると思っていた。
優しすぎるだけでは生きていけないが、優しくなければ生きていけない。

彼女がなぜ、永遠の晄という名前を持っているのか理由が少しだけわかったような気がした。
ヒカルはアルディ家の者にとって、永遠の晄なのだ。
路を指し示すのではなく、路を照らし、その者にとって必要な晄を注ぐ。
根拠のない憶測はしない主義であると聞いている。
私にとって・・・ヒカル・クロスは単なるクライアントでしかなかったが、それ以上であった。もう認めないわけにはいかなかった。
彼女から目が離せないのだ。
我慢できないほどに狂喜し、約束の時刻よりもっと前からその瞬間を待ち侘びるのに。
いつも相手のことを優先するのにそれすらできないほどに彼女は彼に会いたいと思っているのに。
それでも・・・こうして我慢してその時を待ち侘びる。

こういう時代が私にもあったのだろうかと過去を振り返りたくなる。
こういう時代が私にも訪れるのだろうかと未来を見上げたくなる。

・・・・年若い彼女は私に・・・・希望を期待させる。

彼女はただ路を照らすだけではなく、救うことが出来るのかもしれない、と。
晄が濃ければ影も濃くなるけれども、彼女の晄は少し違うような気がした。私のように言語能力に長けていない者が表現することはできないが。
ヒカル・クロスは眩しくて生命に満ちていて・・・そして・・・ルイ・ドゥ・アルディそのものを焼き尽くす存在なのかもしれないと思った。

彼女はどうやって育ってきたのだろうと興味を持ってしまいそうになるくらいに。
彼女は何を考えているのだろうかと考えてしまいそうになるくらいに。

あの、ルイ・ドゥ・アルディが唯一・・・面会を許した親族ではない者がここで彼のことを案じ、身を躍らせ、そして彼がこれから快癒に向かって行き・・・やがて・・・静かだけれどもこれまでのように、この館を包んでいる薔薇の香りのように空気だけになっていき空気に溶ける存在になり・・・ふたりはそうして会話にならない会話を繰り返していくのだろうと思った。
長い時間を一緒に過ごせばそれで成立する関係ではない。
愛よりも深く・・・恋よりも激しく・・・そしてそれでいて形のない霧のような存在。
ああ、そうだ。彼らの関係は暁霧に似ている。暁の霧だ。 
■16

暁霧が夜霧と違うのは・・・日が昇るにつれて継続できないところにある。
朝立ちこめる霧は、必ず消える。
夜霧と違う。
夜は朝に続くが、朝は昼がある。
だから暁霧は夜霧より短い。そして必ず消えてしまう。

存在を継続することができない前提で、存在する空気のような・・それでいて目に見える粒子に近い存在。水でありながら浮遊する存在。

それが彼らなのだろうと思った。
だから。
暁霧は彼女と彼の・・危うい無言の対話に似ていると思った。
会話を交わしていないのに、彼らには時間が成立する。
それは長くは続かないが繰り返されるのだ。

ルイ・ドゥ・アルディは何度も何度も・・・毎日毎日彼女を待ち侘びるという事だけに専念できる自由を享受した。
これまでの彼にはそんな時間はなかったはずだった。
星辰の子と呼ばれて、彼は彼だけの時間は存在しない生命を受け入れた。
自由はなく、友も作らず、彼は何かに向かってすべてを捨てて生きてきたように思える。最初、負傷した躰を見て驚いた。
完璧に整えられた体軀であったからだ。
しかもかなり訓練していると思った。
そうなるまでには、厳しい食事制限や鍛練を必要とすることは誰の目にも明らかだった。
とても禁欲的でそれでいてそれらを面に出さずに黙々と遂行する彼の精神力というか生命力というか・・・それに驚歎するばかりであった。
その彼が唯一、来訪を待ち侘びる人物がいる。
父でもなく、教育係の叔父でもなく、ヒカル・クロスだ。

私は微笑んだ。
ヒカル・クロスへの返礼として。
しかしその先を知っていた。
けれども微笑んだ。
彼女に虚の笑みを向けたと知れば、どれほど残酷な仮面であったのか・・・彼女は後に思い知ることになるのだろうと思った。
この家の者は憐れみも哀しみも必要としていない。
でも彼女には必要な感情で・・・彼女はそういった情さえ捨てきれないのだろうと思っていた。それはおそらく間違いではない。

私を恨むのかも知れない。
私を憎むのかも知れない。

けれども、今、この瞬間に彼女の感情について私はそれを否定することはできなかったのだ。
会いたいに人にようやく会える。この喜びは何にも代えがたいものである。
ヒカル・クロスの考えていることの一部分がわかるような気がした。
彼と交わした最後の会話を思い出す。
彼の微妙な変化を思い出す。
生きていればそれで良いと思うのに、次には言葉を交わし視線を絡めたいと思うようになる自分に憂える。
そして・・・彼の最後の言葉や動作について正確に理解していなかったことを何度も恥じ、悔やみ・・・そして彼との次の会話では細微に至るまで決して見落とすまいと心に誓う。

彼女は今、きっとそのように考えているはずであった。
だから、彼から招かれないから。だから彼女は彼に話しかけなかった。
逸る気持ちを堪えて、それでも・・・それでも会いたいと願っているというのに。
身を切られるように切ない思いを抱きながらも、このふたりがどうして・・・世間によくある恋人同士のように振る舞えないのかと考えないようにした。
彼らは・・・理由もなくそうしているわけではないのだから。

だからこそ、ヒカル・クロスのこの瞬間に私が立ち会うような状況が訪れたことについて考えざるを得なかった。
「彼のために揃えたものをひとつひとつ説明したいの。押しつけにならないように話すには、どうしたら良いのかしら。ああ、それから・・・タブレットへのダウンロードを補助していてくださったのは貴方であったとか・・・・今頃こんな事を話して・・・呆れていることでしょうね」
「いいえ、少しも」
私はまた微笑んだ。彼女が動揺していることは明白だった。
ヒカルの昂揚に付き合う必要は無かったが、私は彼女の清麗な温かさに触れて、彼女のような人物がルイ・ドゥ・アルディに寄り添って微笑む未来がすぐに訪れれば良いのに、とさえ願うようになっていた。

私の業務時間は終了していない。
こうして言葉を交わしてはいけないという約束事がまだ適用されていた。
それでも・・・それでも私は彼女と彼を見届けようと思っていた。
それが誰の望みなのかも私は知っていたから。
職務を越えた対応であることは知っていた。けれども。
私自身が知りたかったのだ。
彼らが・・・特に、ヒカル・クロスがどんなこたえを出すのだろうか、ということについて、このままでいることができなかった。 
■17

「待っていますよ。彼は・・きっと・・・・」
私はそう言った。
気休めなどではない。
彼は本当に彼女を待ち侘びているのだ。
私の言葉は、ヒカル・クロスの背中を押した。
本当に触れるわけにはいかない華奢な彼女の背中に触れる仕種をして、私はヒカルを送り出した。彼女は貴人だ。
世間の者から見れば夢のようだと思われるような生活を送りながらも、一般の生活も知っている風変わりな人は・・・アルディ家に大きな波を及ぼし強い晄でもって変革をもたらすのだろうと期待させるに十分な人物だった。
そうでないかもしれないけれども、彼女はいずれ・・・アルディ家にはなくてはならない存在になることは明らかであった。
彼女に配置されている人員を見れば明らかだった。
いつも彼女はひとりで行動しているように見えるが本当はそうではない。
幾重ものセキュリティチェックを受けて、私のような者にでさえ身辺調査を施すほどに、彼らは細心の注意を払っているのに。
いや、だからこそ、「ヒカル・クロスはひとりであること」を見せかけているのだ。
彼女に意識されないように幾人もついて回っている。
要人になればなるほど・・・その縁の者も自由を剥奪されていく。
ルイ・ドゥ・アルディは生まれながらにそのような状況であったのだろうが、ヒカルクソルは少なくとも、生まれてからこの瞬間までそれが継続していたという風情ではなかった。それなのに。また彼女は戻ってきた。豪奢な生活を望んでのことではなかったのだろう。それはよく分かった。誰も好きこのんで自由でなくなることを選びはしない。そして今、彼女はここに居る。

それが私を動かすのだ。彼女はとても魅力的でその先を見てみたいと思わせる人であった。
黙々と日々、ルイ・ドゥ・アルディを見舞いながらも自分の失調については何も訴えなかった。我慢強く待ち続ける強さを持っている。

私は深入りしすぎだとは思った。
それでも・・・。
彼女が単独で何かを話すことが出来るのはルイの見舞いの時と、今、この瞬間だけなのかもしれない。
彼女には自由や・・・孤独の笑み栄ゆ様を見せることは許されなかった。
それはルイ・ドゥ・アルディも同じであった。
可哀想だと思った。しかし憐れみを彼は必要としていない。
自分で選んだ路だからと言って冷笑するのだろうと容易に想像がつく。
彼女たちの年齢ではあり得ない、どうにもならない制限された環境に悶えながら、それでも生きている。 
■17
 
「待っていますよ。彼は・・きっと・・・・」
私はそう言った。
気休めなどではない。
彼は本当に彼女を待ち侘びているのだ。
私の言葉は、ヒカル・クロスの背中を押した。
本当に触れるわけにはいかない華奢な彼女の背中に触れる仕種をして、私はヒカルを送り出した。彼女は貴人だ。
世間の者から見れば夢のようだと思われるような生活を送りながらも、一般の生活も知っている風変わりな人は・・・アルディ家に大きな波を及ぼし強い晄でもって変革をもたらすのだろうと期待させるに十分な人物だった。
そうでないかもしれないけれども、彼女はいずれ・・・アルディ家にはなくてはならない存在になることは明らかであった。
彼女に配置されている人員を見れば明らかだった。
いつも彼女はひとりで行動しているように見えるが本当はそうではない。
幾重ものセキュリティチェックを受けて、私のような者にでさえ身辺調査を施すほどに、ルイとヒカルを取り巻く「彼ら」は細心の注意を払っているのに。
いや、だからこそ、「ヒカル・クロスはひとりであること」を見せかけているのだ。
彼女に意識されないように幾人もついて回っている。
要人になればなるほど・・・その縁の者も自由を剥奪されていく。
一挙手一投足に注意が払われて、何をするにも意味をもたなければならなくなる。

ルイ・ドゥ・アルディは生まれながらにそのような状況であったのだろうが、ヒカルは少なくとも、生まれてからこの瞬間までそれが継続していたという風情ではなかった。

それなのに。
また彼女は戻ってきた。
豪奢な生活を望んでのことではなかったのだろう。それはよく分かった。誰も好きこのんで自由でなくなることを選びはしない。
そして今、彼女はここに居る。それが私を動かすのだ。彼女はとても魅力的で、その先を見てみたいと思わせる人であった。
彼女は黙々と日々、ルイ・ドゥ・アルディを見舞いながらも自分の失調については何も訴えなかった。
我慢強く待ち続ける強さを持っている。
 
私は深入りしすぎだと思った。
それでも・・・。
彼女が単独で何かを話すことが出来るのはルイの見舞いの時と、今、この瞬間だけなのかもしれない。
彼女には自由や・・・孤独の笑み栄ゆ様を見せることは許されなかった。
それはルイ・ドゥ・アルディも同じであった。
可哀想だと思った。しかし憐れみを彼は必要としていない。
自分で選んだ路だからと言って冷笑するのだろうと容易に想像がつく。
彼らではどうにもならない制限された環境に悶えながら、それでも彼らは生きている。

「そうだと良いなと思っています」
彼女はそう言って微笑んだ。なぜ、彼が彼女に何も言わなかったのかも、その理由を詰問するつもりはないようだった。

・・・この館はとても静かだった。何もかもが夢のようであったと思わせるほどに。ここを一歩出れば、私はいつもの・・・慌ただしい分刻みの勤務に戻り、それらに神経を注いで疲労した躰を休めて休日を指折り数えて楽しみにするだけを繰り返す日々を送っている現実に戻る。
しかし。
夢のような・・・霧のような瞬間であるからこそ。
私は、彼女を見届ける必要があった。そう感じていた。だから、順番を譲った。
「そろそろ時間では?」
私は彼女を促した。その瞬間が訪れているのに、彼女は足踏みをしている。ルイは待っているというのに。あの施設から出て・・・彼のよく知るアルディの私邸のひとつに戻って来た。だからこそ彼はもう、昏倒を理由にしてヒカル・クロスと離れていることのできない時期にさしかかっていた。
それを微妙に感じ取って、ヒカル・クロスが躊躇いを感じているのだろうと推測した。それはおそらく当たっているだろうと思った。
ヒカル・クロスは頬に茶色の髪を散らせて、ぱっと顔を上げて横を向いた。彼の居る室の方角だろう。廊下を渡って、螺旋階段を昇り、そしてその先の部屋に行くのだろう。・・・・この棟の反対側にも、同じ様な設計の部屋があると聞いていた。査収対象になった双塔に誰が住まっているのか・・・それはしてはいけない想像であったが、ヒカル・クロスは知っているようだった。それほど深くこの家に関わっていながら、彼女には何も知らされていないというこの事態について、私が意見したり感想を漏らしたりすることは許可されていない。
「私の用事があるのは、治療室のみです。そして最後に彼の居室を少しだけ回覧して私は戻ります。何か・・・何か気になることがあったら、その間に声をかけてください。私はいつでも構いませんので」
そう言うと、ヒカルは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。仕事の邪魔をしてしましました」
「いいえ、少しも。だから、気遣いは無用です」
それから私はヒカル・クロスとの短い会話を終わらせる前に、ひとつだけ気になることを口にした。
「・・・体調はもう戻りましたか」
その問い掛けに、彼女は少し意外だというように大きな瞳を更に大きくして見せた。
「体調・・・」
「貴女は自分の心配をすることも忘れてはいけませんよ」
私はそれだけを言った。彼女がここでは何も言えないことを承知していたからだ。私とヒカルが数回会話を往来させていることに蠢く気配を感じた。それほど、彼女の行動というものは厳しく制限されているのだろうと思った。
難しい時期でもあったのでそれは致し方がないことだった。しかしアルディ家の私邸の中でさえ、彼女は限られた時間の中でしか生きることが出来ない。
ルイの容態が安定し、復帰に向けて様々なプログラムが計画されているという時期だからこそのことなのかもしれないが・・・
ヒカル・クロスの所為にでさえ注意を払わなければならない体勢に彼女も疑問を持っているのかも知れない。
それはすべて憶測でしかないけれども。
彼女は暫く考えていたが、やがて、軽く・・・腕を押さえて、小さな顎を引いて私を見た。
それは私が止血をしてやった側の腕だった。彼女のきちんと憶えていた。自分のことを気にかける人物がこんなところに存在するとは考えていなかった、そんな小さな驚きを発していた。
いや・・・自分のことより他者のことが気になるあまりのことであったから、私は気を悪くするどころか気の毒になってしまった。彼女は、心配することが多すぎた日々を過ごしていたのだ、と思った。確かにそうだ。
ルイ・ドゥ・アルディは快癒に向かっているとは言えども、まだまだ・・・完全に復帰するには遠い状況にあるのだから。
「はい」
それが彼女の精一杯の返答であった。
「さ、言って」私はそっと言った。ヒカル・クロスの時間にこれほど割り込んではいけないと思ったからだ。
逸る気持ちと戸惑う気持ちを抑えながら、彼女は私とほんの僅かな共有時間を持つことを許可した。
それだけで、十分だと思った。
彼女はこれで私を思い出すだろう。
ルイ・ドゥ・アルディの部屋から出てきたときに、彼女がひとりではないと思い出す。それを記憶していてくれればそれで良かった。
 
■18

それでは自分は行く、と言ったときの彼女の顔はこの上なく倖せそうであった。
私は幾度もそういう表情を見送ってきた。
生きるということに対して希望や期待を持って・・・昂揚する者達の背中を見送ってきた。
でも今回ばかりは複雑であった。
その希望が決して彼女の望む結末にならないことを知っていたから。

人は誰もが、期待や希望を持って生きている。
絶望や失望だけでは生きていけないからだ。
彼女が特殊であると思うところは・・・常に希望を抱き続けているところにある。

けれども、前者が後者に変わるとき。
彼らはどういう風に何を受け止めるのかで、それらが新たな希望になることもあれば、覆しがたい失意になることもあるという、違った結果になる。

私は残酷な測定人であると思わざるを得なかった。
好奇心で見届けたいわけではなかったが・・・それでも、彼女の行く先について考えると決して楽しい気分にはならなかった。

逢いたい人に逢える。言葉を交わすことが出来る。
その幸せを味わうことができる。そしてそれがどれほど奇跡的なことなのか、身を以て知る。
そして・・・絶望を知る。

私はヒカル・クロスの背中を見送った。
彼女の心躍る様子を詳細なまでに見つめて・・・この役割を私に与えた人物について少しばかり文句を言いたい気持ちになった。
なぜ、私なのかは問わない。
けれども、なぜ、彼女なのだろうか。
事実を知らされないで・・・そして彼女が味わう絶望の大きさを測れと言われているかのように思えて仕方がなかった。

ぎりぎりに生きている彼女の生命の煌めきが、あまりにも眩しかった。
あの若さで彼女は生も死も知っていた。そして誰かを失う哀しみも、誰かを待つ喜びも知っていた。
そう・・・彼女に対して、何か特別な思いを感じていたとしたら。
これから彼女の受ける試練とも言うべき・・・そんな靄を纏っているのが見える。

それは私だけなのかも知れない。
けれども・・・・私が、今日、今、この瞬間に・・・ここに存在するのは何か意味があることなのだと思いたいのかもしれない。

だから。私が救われたかったのかもしれない。
生きるという執着に疲れていた私は・・・・生きることそのものに夢中になっているヒカル・クロスに救いを願っていたのかもしれない。
彼女に贖罪を求めていたのかもしれない。
うねりの強い茶色の髪を見る度に。 
■19

そこから先の時間は長いようで短いようで・・・私にはとても奇妙な時間が経過した。何度も時計を見るが、それでも先ほど確認した時から僅かしか時が経過しておらず、自分の作業も遅々として進まないことに苛立ちを感じるが、ぶつけようのない癇癪はそのまま自分の中にしまい込んだ。
周辺の設備チェックも終わった。
簡単なものであったからそれほど時間を要するものではなかった。
無期限に誰かを待つ、というのはこれほどまでに・・・不安で寂しく、少しの先も見えない闇どころか霧のような気がしてならない。
ルイ・ドゥ・アルディはどれほど長い時間をこんな風にして過ごしたのだろう。
彼女を待ち続けて・・・彼女が振り向くのを、彼女が気がつくのを待って待って・・・気が遠くなるほど彼は待ったのだろう。

何とかその想いを成就させてやりたいとは思うことはやめた。
人の気持ちは誰かの思いの通りにならないからだ。
特に、彼らの長い時間の中の一瞬しか交わらない私のような者がそんな風に彼らについて願いをかけていることを知れば、誇り高いルイは即座に・・・愛することをやめられない自分自身の命を絶つくらいはやりかねなかった。

私は窓から見える外の景色に驚歎した。
私邸がこれほど素晴らしい設備と美観を持つアルディ家で・・・できないことはないだろう。
広がる杜、手入れされた芝生、噴水は年代を感じさせながらもそれが極めて周囲の風景と合致して一枚の絵画のようであった。
内部の調度品は私が見ても値段のつけられなさそうなものばかりで、一体どんな貴人が幾人ここに住んでいるのだろうかと思わせるほどの部屋数であった。
それなのに、最新の設備がこの館を張り巡らせていた。

・・・彼がここに移設された理由に何となく気がついていた。
これはこの施設を見なければ確信には至らなかっただろう。
完全に防音が施され、遮光に関しても完璧に制御されていた。
監視装置に指紋認証装置が隠された場所に付属されているドアノブ。
・・・何もかもが、異常なほどにあることに対して配慮されている。
私はこの家に何があって、何がないのか・・・気がついていた。

時計はあるがカレンダーはない。鏡がない。
情報伝達するための手段・・メディア媒体が限られている。
大型フィルムスクリーンはあるがテレビ端子に接続されていない。
彼女は気がつくはずだ。
彼女がなぜ、アルディ家のサーバーだけにしか接続できないタブレット端末の更新のみ許可されていたのか。・・・彼がそこでしか情報を得ることが出来ないことについても。

ヒカル・クロスがルイとの面会を終えた後、彼女は私に声をかけることになっていた。ルイの居室の続きの間に設置されている備品や環境を確認するために・・・私はヒカルと交替することとなっていた。

そのヒカルがまだ出てこなかった。
・・・長い時間の接見は避けるようにと言われているはずだ。
彼はまだ・・・・覚醒と昏睡を繰り返しているから。
気配はまったく窺い知ることが出来ない。
私のやることは全て終わってしまって、ただ、ぼんやり、渡り廊下の窓から見える邸内の杜や反対側の棟や・・・その中間にある小さな低層の離れを眺めていることにも疲れてきた頃。・・・私が溜息をついた時だった。

かたり、と音がした。
私はその音を待っていたのに・・・いざ、それが私に訪れると少しばかり動揺していた。廊下に出されていた観賞用の椅子でさえ、分不相応であったが、そこでしか待つことが出来なかった。それ以外は、エントランスまで出て行かなければならない。それでは、ヒカル・クロスと話ができなかったし、私の本来の目的を遂行するために、またこちらの棟に入るための手続きを取り直すことも躊躇われた。
時計を見る。反射的なものだ。何か事態が発生したときには必ず時刻を聞かれるという長い習慣が私にそうさせていた。
・・・それほど長い時間が経過したわけではなかったことに気がつき、またひとつ驚愕が私に降って来た。
・・・正面の一番大きな扉が僅かに開き、そこから・・・静かにヒカル・クロスが出てきたので、私は腰を浮かせて、書類ケースを持ち直した。
掌に汗が滲んでいた。暑くはないのに。

幽鬼のような青ざめた顔で、彼女が出てきた。
・・・しかし、脚が痙攣しているのだろう。何かに凭れ掛らなければ扉から躰を話すことが出来ないほどに・・・彼女は脱力しているのだ、とすぐにわかった。私は書類ケースも最小限の手荷物も椅子の上に放りだし、彼女に向かって足早に近付いた。
「大丈夫ですか」

大丈夫な人間には決して問わない言葉をかけた。
ほんの少し前に彼女とは別人なほど、憔悴していた。
櫻色の唇は色が抜け、脳貧血を起こしているかのように顔は青白い。
指先も肩も、彼女に触れなくても小刻みに痙攣しているのがわかった。
最初、彼女は私の声も聞こえていなかった。ただ・・・ただ茶色の瞳は空を見ているだけだったし、呼吸をしなければ息絶えてしまうということすら忘れてしまっているようだった。
「しっかりしなさい」私は少し強い口調でそう言った。咎められても良かった。
今は・・・彼女をこちらに戻すことが必要だった。
しかし彼女は扉のノブ下に施された指紋認証のプレートに自分の指を乗せることを忘れていなかった。
ここの扉は、そうしなければ施錠できないからだ。
しかし、彼女は・・・手が痙攣しているので、指先がかちかちと鳴るだけでただ触れるだけのセンサーに照準を合わせることができないでいた。
「おかしいわ・・・」
掠れた声で彼女はそう言いながら、自分の反対側の手で震える手首を掴むが、それは意味を成さなかった。
「おかしいわ・・・」
ヒカルはもう一度そう言った。唇を噛んで、再試するが、どうしてもうまくいかない。立っていることもできずに、扉に肩をあててノブに覆い被さるようにして彼女はそれに固執した。

「失礼」
私はとうとう・・・脇でそのまま傍観することができずに、彼女を補助してやることにした。邸内の者は、限られた者でなければこの階層までやって来ることができない。それはあの治療棟でも同じ事だった。ヒカル・クロスは人払いをしてあったのだろう。誰も・・・彼女の異変を察知して寄ってこなかったからだ。
しかし、気付かれないように設置してある監視カメラが彼女の姿を発見して、誰かがここにやって来るのも間もなくのことだろうと思った。
けれども。
彼女の動揺の度合いが尋常ならざるものであったので、私は・・・私は遂に、霧を掻き分けてその先に手を伸ばすことにしてしまったのだ。

私は彼女の手首に軽く自分の手を添えて、反対側の手で彼女の震える腕を掴んだ。
そして、ぎょっとして・・・・指先の力を抜きそうになって、そして慌てて、彼女の腕と手首に適切に加圧した。
私が驚いたのは・・・ヒカル・クロス・・・彼女の腕が、細くなっていたからだ。
手首もそうだった。私は注意深い方であると思っていたが、その対象は限られているのだと思い知った。

この間、止血して遣った時よりも。
そして、彼女の躰に触れて、彼女がとても弱っていると確信した。
彼女がなぜ、あれほど幼く見えるのか。若いからではない。
痩せて・・・目が大きくなり、そしてそれを隠すために、髪を下ろし、さらにそれが彼女を童女のように見せていたのだ。

・・・何が、彼と彼女の行く末を祈ってみたい、だ。

私は内心、激しく自己嫌悪した。
彼女のこの憔悴ぶりに気がつかなかったのは、私が彼女の本来の姿を見ていなかったからだ。毎日のように、シフトが合えば彼女の姿を見かけていたのに。
それなのに・・・彼女を待つルイ・ドゥ・アルディの様子はつぶさに観察していたのに、治療を補助した彼女の様子についてはそうではなかった。
若者の体型の変化について知識が甘いと言われればそれまでであったが、彼女は巧みにそれらを隠していた。
ひとりで来ていたのは・・誰かと並ばないようにするためであった。
長袖を着ているのは、彼女の腕の穿刺痕を見せないためだった。

暁の霧の先を見てしまった彼女は・・・・
激しく揺さぶられていた。







■20

「ゆっくり・・・そう。急がなくて良い。ゆっくり呼吸して」
私は今まで自分の座っていた椅子に彼女を腰掛けさせた。
手首から指先まで異常に冷たかった。
そして濡れた感じを憶えて、
俯いた彼女の頬は濡れていた。胸元に濃いシミができていた。それは彼女が落とした涙の痕跡であった。
私はポケットからハンカチーフを取り出して彼女に渡した。
「これを使って」
すると彼女は首を横に振った。
「良いから。返さなくて良いから」
私はそう言って彼女の手に布を握らせたが、彼女の指先はまだ細かく震えていて、その布端を掴むことさえままならなかった。
・・・私は失礼、ともう一度言ってから、彼女の指先にそれを滑り込ませた。
私のような身分の者が、彼女の頬に堕ちる雫を拭って良いとは思えなかった。
酷だとは思ったが、少なくとも、今この瞬間だけは、彼女は自分自身で涙を振り払わなくてはいけない人なのだ。
ヒカルは血の気の引いた顔を俯かせて、ただじっと黙っているばかりであった。
瞬きさえ忘れてしまっているようだった。私はこういった状態に陥った者を幾人も見てきた。だから、それがどうしてなのかもわかっていた。
そして彼女がそこから抜け出そうとしていることもわかった。
「・・・ああ・・また、貴方に借り物をしてしまいました」
ハンカチの感触にようやく気がついたヒカルは、それだけ言うと、大きく深呼吸をし、直ぐ様次に大きな溜息を落とした。眼を瞑り・・僅かな時間で幾歳も年齢を重ねてしまったかのような疲れた表情で、眉根を寄せた。
あれほど、喜びに満ちた表情をしていたのに。あれほど、彼との対顔を心待ちにしていたのに。
私は、残酷なことをしたと思った。酷く、後ろめたかった。
彼女がこうなることを承知していながら、私は彼女に微笑み、送り出したのだ。
行くな、と言っても彼女はそれでも行っただろう。
だからそうした、というのは後付けの言い訳にしかならない。

「彼はずっと貴女を待っていた」
そう言うと、彼女はそこで初めて顔を上げた。
萎れた花のように、それでも彼女の顔は生気が僅かに点っていた。どれほど憔悴していたとしても、それでも彼女は・・・踏みとどまっていた。
まだ、この場所に。
ヒカル・クロスは健康で善良な精神の持ち主であった。だからこそこれだけの打撃で済んだのだ。
「・・貴方は、わかっていたのね」
それは恨みの少しも籠もっていない声だった。私は目を伏せた。
「すみません」
謝っても仕方の無いことだ。箝口令が敷かれ、彼に関する情報は口外してはいけないときつく言われていた。誰に聞かれても答えてはいけないと規定された。
伝えたくても伝える術がなかった。しかしそれを言い訳にして免罪を得ようとは思わない。
「良いの。貴方が悪いのではない。・・・誰も、悪くない」
そう言うと、彼女はしばらくの間、押し黙ったままだったが、すぐに私に声を漏らした。
「貴方のお仕事を始めてください」
「いいえ、貴女をひとりにしておくことはできない」
彼女はそれを聞くと、淡く微笑んだ。儚い微笑みだった。
そこでようやく・・・ヒカルは私の方を向いた。
こちらに戻って来た光を彼女の茶色の瞳の中に感じて、私は安堵の吐息を出した。
彼女の座っている場所に跪いたまま、彼女に向かって声をかける。長い会話は禁物だ。けれども、会話を絶やしてはいけない。
「・・・私だけ、わかっていなかったのね」
ヒカル・クロスはぽつりとそう言った。彼女は恥じていた。目元が朱く、そして唇を強く噛んでいた。
顔色が蒼白になっていたので、その様は、東洋人というよりかはむしろ、おとぎ話に出てくる・・眠りにつく前の姫君のようであった。朱い唇に白い肌。大きな瞳に、癖のある茶色の髪。完璧なフランス語を操るのに、日本語も自在に話すことができる。彼女は、この薔薇の家の者に寄り添うために育てられた永遠の晄という名前の救いなのだろうと思った。
なぜ、シャルル・ドゥ・アルディが彼女を人前に出すことをほとんどせず・・・邸内で密かに守り育てていたのか、理由がわかったような気がした。
ルイ・ドゥ・アルディでなくても、誰でも心惹かれるだろう。
少なくとも、戻れない路に踏み込んだことのある人間にとっては、彼女はとても眩しい存在であるように思えた。
「なぜ、シャルルが私ひとりだけで行きなさいと言ったのか、ミシェルもシャルルも彼が眠っている間でしか訪れないのか・・・ふたり一緒には彼の元を訪ねない理由も・・・どうしてなのか、わかった」
「彼らを責めてはいけない」
「いいえ、責めるべき人間は彼らではない」
ヒカルはそれだけ言うと、どんどん声音を落としていった。
語尾が小さくなっていく。
「・・・・彼は、戻ってくるの?」
彼女は私に尋ねたのか、自分自身に問うたのかわからないほど小さな声でそう呟いた。私は黙っていた。気休めを言うことは容易い。
けれども、それでは彼も彼女も本当の意味で向き合うことができない。

私は言葉を選んで慎重に言った。踏み込んでしまう時は簡単だった。
・・・・でもそれは越えてはいけない場所のぎりぎりである。
私の職責では、私の言葉にはなんら責を持たせることができないのだから。
けれども、彼女には今、何かが必要であった。ひとりで立ち直り、ひとりで軌道修正し、ひとりで彼を支えて行く勇気と気力が持てるのはまだ少し先の話だ。
「それは貴女次第」
私がそう言うと、彼女は泣きそうな顔をした。
わかっていることを他者から告げられる時、人は堪えきれない激情の波を留めて置くことができない。勢いよく・・・彼女の何かが吹き出すのを感じた。
茶色の瞳が潤んで、あっという間に涙が浮かんでくる。
しかし彼女はそれをぐっと呑み込んだ。唇を横に引いて、彼女は少し上を向き、顎を震わせて瞳をきつく閉じた。涙が溢れないようにしているのだと思ったので、私は少し早口に囁いた。
「泣いても良いのです。・・・泣いてしまって楽になった方が良い」
「楽になりたくないの」
ヒカル・クロスはそう言って、大きく深呼吸をした。
「楽になりたいとは思わない」
そこで私の差し出したハンカチを、彼女はぐっと強く握った。
「ルイ・・・・」
彼女は、そこで初めて・・・彼の名前を大事そうに呼んだ。
それはこの階層では聞こえない。
彼に呼び掛けてもそれは届かない名前だった。
ヒカルの待ち望んだ・・・金の髪の青灰色の瞳の彼は、ルイ・ドゥ・アルディという名前ではなく、シャルル・ドゥ・アルディであったから。
彼は夢幻の世界に落ち込んでしまったから。
「・・・場所を変えましょうか」私の提案に彼女はしばらく反応しなかった。
■21

彼女は頭を振った。
彼女はここを離れられないと言った。
「彼がまた私を呼ぶかもしれない」
私は言葉に詰まった。
彼女の言うところの・・・彼、というのはどちらのことなのだろう。
ルイとしての彼なのか、シャルルとしての彼なのか・・・
しかし私は動揺を隠して、そっと言った。大事ないと安堵させるように。
「彼は、今、退室したばかりの貴女を呼び戻すような気質の人間ではないでしょう。それは貴女が一番よくわかっていると思いますよ」
彼女の受け取り方や、どう思っているかについて聞き取りすることができなかった。それほど彼女は乱されていたから。
・・・ヒカル・クロスがこの事実を知らないままであることは、承知していた。
彼女は彼の家族ではないから・・・血族ではないから、きっと知らされていないのだろうと類推することが出来た。
もっと複雑な事情があり、彼女には知らされていなかったのか・・・それとも、彼女が気付くまで沈黙することを求められたのか・・・それはどちらも結論は同じで在った。
この瞬間まで、彼女は知らされていなかったのだ。

・・・彼の中に、「シャルル・ドゥ・アルディ」がいることを。

彼女はそれでもしきりにあちらを・・・彼の居室の方角を見ていた。
「やはり、ここは少し体を横にした方が良いですよ・・・そうだ、少し外の空気を吸いに行きましょう」
私はそう彼女に提案した。
軽率な言葉であったかもしれない。
けれども、彼女をここに放置しておくことはできなかった。

階下に行けば、担当する係の者が待機しているはずだった。
彼女の蒼白な顔や尋常ではない様子を知れば、適切な処置をすることができるスタッフが揃っているはずであった。
そうですね、と言った彼女がふと・・・不安そうに私を見上げたので、私は彼女の茶色の瞳を、思わずじっと見つめてしまった。
礼を失する無遠慮な行為であると承知していたのだけれども。
彼女は完璧なフランス語を話す事ができるが、顔立ちや容姿は東洋人のそれだった。しかし、仏人の血が入っているということで、どうにも・・・不思議な雰囲気を持った人に見える。
彼女はまだ若いのに。
どこか・・・懐かしさを感じさせるようなそんな印象を与える。
それは私の持つ同じような血がそう思わせているのだろうか。
それが彼女の持つ稀なる能力のせいなのかどうかは、この時の私は知らなかったし、その後に事情を聞いた後になっても、あの郷愁感について説明できなかった。ただ、この人をこのままここに置いていけないと思った。
酷く心細そうで、そして彼女は誰かに置いて行かれることを既に経験していると思った。
別れが来るとは思わずに相手を送り出して・・・そしてそれが最後になってしまった時。
人は、その瞬間を何度も繰り返すのだ。
幾通りものその先を夢みるのだ。
もう二度と、同じ場面を再現できないとわかっているのに、あの時にああすれば、どういう未来があったのだろうかという虚しい夢想に耽る。
そしてそれは実現しない未来であることを確認する作業を続ける。
それでも繰り返す。
私は囁いた。
「・・・ここにいつまでも貴女が居ることを彼が知れば、彼はとても・・・哀しむでしょう。それから、なぜ、ルイの傍に行かないのかと言うでしょう。いつもそうであったから。・・・だから、ここは私の申し出を受け入れてください」
早口で囁く。悪魔のような呟きだろうと思った。
彼女の中に、霧がかかっている。驚愕という名前のそれは、目に見えて彼女の視界を阻んで居る。閉じ込められて・・・そしてどこまで行きつけば先が見えるのかまったく不知の世界に彼女はひとり、放り投げられてしまったのだから。
「それとも、誰かを呼びますか」
私が言うと、彼女は首を横に振った。
「シャルルの耳に及ぶ。それは避けたい」
ここで彼女の言う「シャルル」は、ここに居る「シャルル」ではない。
シャルル・ドゥ・アルディはこうなることを予見していたのだろうか。だから、私がここに居るのだろうか。それとも・・・その「シャルル」はどちらのシャルルなのだろうか。それすらわからない霧の中に、私も足を踏み入れてしまったらしい。


■22

結局、彼女は私の申し出を承諾し、一度は深く沈んだ椅子から立ち上がって螺旋階段を降りることにした。
彼女はひとりで立っていられないほどの衝撃を受けており、手摺りに両手を添えて一歩一歩慎重に降りたとしても、その足先すら震えている状況だったので・・・私はやむなく、彼女の反対側に廻り、ヒカル・クロスの腕に自分の腕を回して、彼女を介助しながら降下することになった。
この姿をルイ・ドゥ・アルディが見れば良い顔はしないはずであった。
ヒカルに話かける者がいないのは、そういう規定も影響したが、彼が明らかに不機嫌そうな顔つきになったからだ。
感情を表すというのは良い兆候であったが、負の情ばかりを表出させるというのは逆の刺激にしかならない。
それで彼女には誰も・・・話しかけないように申しお送りがあったのだ。
これらから、彼がいかに・・・ヒカルという人物を懇望しているのかということもよくわかったが、私や私たちには、どうにもできない問題であった。
螺旋階段に添ってステンドグラスが見事な色彩を階段に落としていた。
大変に幻想的な荘厳な空気の中で、彼女はそこに行きついたばかりなのに。
今度は、壮絶な駭きと嘆きを伴って、下降していく。
まるで、天使が下界に降りるときのように。
神が遣わした天使は、希望に満ちて下界に降りたのだろうか。
私はそうは思っていなかった。
天界とは違う人の哀しい性(さが)を問うために・・・彼らはそれでも微笑みを絶やさず、どこにでも行く。
ヒカル・クロスは確かに、清純であったが、彼女はそういった・・・負の情動について理解があるように思えた。彼女は知らないことによる純粋さを誇っているわけではない。逆に・・・自分は背徳の天使なのではないのだろうかと思っているようなそんな一歩引いたものを持っているように思える。

彼女の均律とは言えない不規則な蹌踉めいた足音が響く。
アルディ家の者であれば、こんな時も毅然としていろと教育されたのだろう。
実際、アルディの名前を持つ者が幾人も彼を訪れたが、それでも皆一様に、背筋を伸ばし、無表情で、硬い表情であったけれどもそれでも自分の乱れを誰かに悟られることのないように退室していった様を何度も見ていた。
何かが凝る。
そう思った。
「・・・貴方がいてくれて良かった」
ヒカル・クロスは螺旋階段をひとつずつ、注意深く降りながらそう言った。
「光栄ですね」
私はそう言って微笑んだ。ぎゅっと彼女の腕が縮小した。
そんな中で、彼女は一条の閃光だと思った。
高貴な家柄には時折・・・こういう人が必要だった。
澱みを正す人物。
凝り固まって、凝結するが故に発生する澱を洗い流す人物が必要なのだと思った。
この家の人達は、みな、一様に同じ様な顔つきをしている。
・・・血が濃くなっているからだ。
そして血統を重んじる余り、血族結婚だけではなく遺伝子の操作まで行うようになった。特質をより濃く残すためだめだけに。・・・いや、果たしてそうだろうか。もっと別の目的があったように思うが、ルイ・ドゥ・アルディはアルディ家の特質を最も色濃く残している。

彼らの中には血の濃さとか親族の情は存在しない。
自分と同じ質を持つことだけ。
それを最重要視する。
神だの愛だの・・・それらを重要視するのは彼らが満たされているからだ。
彼の一族は満たされないという質を持って生き存えている。
それなのに、ヒカルのような存在を望む。・・・アルディ氏が・・・あの家の当主が誰とも再婚しないで、唯ひたすらに今、目の前にいる、少女と言ってもよいような娘に愛を注ぐのは、致し方ないことなのかもしれないと思った。
昶・・・
そう。
永遠の晄のような彼女の陽光を必要としているのだろうと思った。
影が濃ければより強い光を必要とすることは、彼らは承知であると思った。
それは私の口出しをするところではなかったかもしれないけれども。
偽善でも欺瞞でもなく・・・彼らは彼女を必要としている。
喉から手が出るほど欲しい存在なのだろうと思った。これほど長い年月彼らと一緒に居て、それでも尚、晄を失わない希有な存在。そして・・・ルイ・ドゥ・アルディは彼女をただひとりと定めている。
生涯、ただひとりの人として定めてしまっている。だからこそ、こんな舞台が用意されている。舞台というには哀しい・・・苦しい。


■23

先ほどは軽やかに上がっていった階段であったが、帰り道はひどく沈鬱な面持ちであった。
ヒカル・クロスは近づいて来た者に、しばらく私と話をするから庭に出ると言って人払いをした。
彼女はそういったことにも柔和に穏やかに人を払うのだと知り、そんなヒカルを好ましく思った。
彼女は誰かを思い遣ることを知っている人だと思うと、彼の現状にこれほど酷く打ちのめされているのも仕方のないことだと思わざるを得ない。

高慢に同等と思わずに罵る者達を知っている。そういう者に辟易し、必要以上に口を利かないようにしているのは私のささやかな誇りであり抗いであった。
けれども彼女にはどういうわけか干渉したくなってしまう。
「余計な事であるのに。お引き受けいただきまして感謝します」
彼女の大人びた口調が少し哀しかった。
私は極力笑顔と平静を崩さずに、彼女言った。
「ご自身の心配について晴れやかにする方が、最初ですよ」
そう言うと、ヒカルは立ち止まった。螺旋階段を下がりきったところで、渡り廊下を少し歩くと、小さな内庭に出る。噴水があり、そこから清らかな泉水が吹き出す音が聞こえて来た。水の音は人を安堵させる効果がある。これは人の体がそういう作りだからなのだが、彼女は足元を見て、俯いたまま押し黙っていた。泉の音を聞いているわけではなく、内なる声に耳を傾けているようだった。
私はヒカルの腕に軽く手をあてた。ルイ・ドゥ・アルディが見れば決して良い顔をしないだろうと思う。
それでも、彼女には誰かの体温が必要だった。
しかし今一番傍にいて欲しい人間は彼女を一番悩ませるのだろうと思う。この家の人間でない誰かと一緒に居たいのだろうな、と私は彼女の様子を見つめながら考えていた。

皆が瞞していたわけではない。誰も、嘘はついていない。
ただ、ヒカルが気がつくまでは積極的開示をしないようにと言い伝えられており、私たちのような職の者は、余計な付加情報を迂闊に他者に与えることは禁じられている。ルイ・ドゥ・アルディと呼んでも彼が応えないことについて最初に気がついたのはミシェルであった。それからミシェルは教育係として当主に相談をしたのだろう。程なくして、今のまま・・・彼が混沌とした状態から抜け出すまでは体の復旧の方が先で在るという判断が下された。
放置していたわけではない。
彼が心を閉ざしてしまった。
これは彼の責任ではない。
彼はそこまで弱くない。
誇り高く大変に知能の高い星辰の子は、生還したのだ。
ルイ・ドゥ・アルディという存在は、彼の中では彼自身ではない者、という認識になっている。
何年にも渡る強い信念が崩れそうになるほどの大きな事故に遭遇してしまったことは彼の責任ではない。

ヒカル・クロスは、自分の事は構わずに、残ったルイの様子を見てきてくれ、と人を遣らせた。
その時にルイと言わずにヒカルは少し間を置いて「彼を頼む」と言った。彼女の苦しい言葉の選択が始まったのだと思った。
この館に居る間は、彼女はルイの婚約者のヒカル・クロスになり、シャルルと他愛のない会話をして、結婚式までの日取りを相談するなどして、養父代わりのシャルルと時間を過ごすことになるのだ。
ルイが姿を見せない、と金の髪で彼は老成した口調でそう言い、ヒカルが彼に困ったように微笑むのだろう。
容易に想像できた。
それは、彼が望んだことだからだ。

しばらくの間は、意識が混濁している時にはそれが顕著であったので、ヒカルは病室に入室できなかった。
その間に、彼女は毎日ただ彼を見つめるだけの日々を送った。
「なぜ、彼はシャルルになってしまうの」
「彼は戻るところがないからですよ・・・・」
私は彼女が答えを知っているように思った。私の言葉に反論しなかったからだ。
「だから、彼は違う未来を生きるために懸命なのです」
「過去に戻らず未来に生きるため?」
「そう。だから、彼はきっと良くなると、貴女だけは信じ続けてください」
私は残酷なことを言っていると思った。

彼女が驚くほど細って弱ってしまっている理由はわかっていた。
尋常ならぬ採血の仕方、彼女がいつも長袖を着ている理由。時折、腰や脇腹を押さえている理由。血液や体液が漏れることを懼れる仕種。
彼女がやって来られない日の数日後には、決まって彼に大がかりな治療が施された。そして、ルイに施されている再生医療は、まだどこも実現させていない未知なる治療方法だった。人体に適用させるまでに至っていない、この世の理を覆してしまうような医療方法で、彼は復活しようとしている。
しかし、それでは彼の魂は戻って来ないのだ。肉体が戻ったとしても、彼は・・・ルイ・ドゥ・アルディと呼ばれても顔を上げない。

シャルルが姿を見せないのは、多忙を決めていることもあるが、それだけではなかった。対峙してはいけないからだ。
そして、ヒカル・クロスは彼女は命を削って、彼を救おうとしている。
それなのに、更に加えて、彼の魂も救って遣って欲しいと言い募る私はとても残酷で冷酷だと思った。

彼女は彼にとっての永遠の晄なのだ。たったひとりしか居ないのだ。
幼い時から一緒であったと言う。彼の孤独を傍で最も長い時間共有していた彼女だけが、彼の渇望するものそのものであり、彼はそれ以外は本当はいらなかったのではないのだろうかとさえ思う。

「彼はやり直すつもりではなくて、新しい未来を夢想しているのだと思います」
私は根拠がないことを口にしないつもりであったが、彼女にそう言った。
気休めや其の場凌ぎの言葉は人から希望を与えるが、奪う役割も持っているからだ。これは希望ではなく絶望になるかもしれないと思いながら、ヒカル・クロスの手を取り、歩行を促しながら長い渡り廊下を見遣った。
彼女の顔を見ることができなかったからだ。
「だから、彼は過去体験したことを再現したり・・繰り返さないでしょう?」
ヒカルは黙ったままだった。心当たりがあるようであった。
私は噴水の前に彼女を連れてきた。外の空気にあたった方が良さそうだと思ったが、ここは薔薇の香りが強くて・・・ヒカルの体調に影響を与えるかもしれないなと思ったが彼女は大きく息を吸うと、ほっと一息だけ溜息を漏らした。
「ファム・ファタル・・・・」
運命の人という意味であったが、それが薔薇の名前であることをヒカルは私に教えた。
噴水の縁に座り、水飛沫がかからない場所で、彼女は腰を下ろして膝の上に手をやった。姿勢良く座って居る年若い貴婦人は、両手をぎゅっと握った。
「ルイには、今、霧がかかっているのね」
「そうです。目の間にあるものが、霧で見えなくなっているだけです。そこに存在することは認識している。幻を見ているわけではなく、彼は、彼なりに自己と決着をつけようと考えていると思います。・・・私はそういった専門ではないので、私見でしかありませんが」
私は推測を言わないことにしているのに、その決め事を破って、更に言った。
茶色の髪の下で、茶色の瞳が私を見ていた。この人は、眼を逸らしたり動揺したりしないで、事態を受け止めようとしている。強い人だ。
だから、禁を破って言うことにした。
「彼をルイにするのもシャルルにするのも、貴女次第です。ヒカル・クロス。これから貴女とどう過ごすか、それが彼に影響します。ルイとして生きるか、シャルルとして生きるか。・・・両方は存在しない。彼は誇り高いから」
「私が・・・」
そうだ、と私は大きく強く頷いた。
「彼の霧は暁霧です。暁の霧です。晴れゆく直前の靄です。暁霧は必ず晴れます。更けていく夜霧ではなく・・・必ず、明るくなる。そういう霧の中で差し出した彼の腕を振り払わないでください」
ヒカルの顔が曇った。私は残酷なことを言っている。わかっている。
彼女の愛は、ルイではない人物に向いている。
そして彼女に、別の大きな愛でルイを救って遣って欲しいと願う私の愚かな言葉が、彼女をこれからずっと苦しめることになるのだろうと思った。 
■24

彼女を極限に追いやるつもりはなかった。
文字通り、彼女は晄だからだ。
彼にとって、そこにあると信じて居る唯一の存在である。

私は知っている。

彼女の到着を待つ彼の姿を知っている。
彼が少しでも有意義な時間を過ごせるように、彼女がタブレット端末から読み物をダウンロードできるように手配していることも知っている。
彼が彼女が来ないときの僅かな表情の差を私は知っている。
どうしようもなく・・・彼が彼女を愛しているのだと、知っている。

それでも、私では彼と彼女を救ってやることはできない。

彼女はぼんやりと・・・噴水から湧き上がる細かい水粒子を眺めていた。飛沫というには細かいそれは霧散しており、暁霧について連想しているのだろうと思った。
茶色の瞳が、宙をさまよう。彼女が激しい思いを内に秘めて、何かを思い定めようとしている時間であった。
私もしばらく黙ったままだった。
人の葛藤の時間というのは、外から見てとても静かなものだ。
考えに耽るので、体も表情も動かない。
けれども激しく体が緊張し、視線は遠くをみるようになり、何も聞こえなくなっていく。それでも・・・心の内では、何度も同じ結論になるのに、それらを深く考えてはもっと違う方法もあるのではないのだろうかと考える。
彼女も、今まさに・・・その瞬間を迎えていた。

・・・噴水の音と、風がそよいで周囲の植樹の葉を擽るように流れていく音だけが聞こえてきた。風向きが変わり、噴水の水飛沫が彼女の足にかかったが、ヒカル・クロスはまったく気にしない様子で無言で座っていた。
それほど長い時間ではない。彼女はこうしてどんな場所でもどんな時でも、結論が出るまで深い沈降を何度も繰り返して考えるのだ。
しかし、彼女の中ではこたえは出ているように思った。
当然だ。シャルル・ドゥ・アルディは実際に存在するし、ルイ・ドゥ・アルディがこのままで居て良いという状況ではなかった。長引けば、いくらアルディ家の秘匿事項だとは言え、情報が漏れていく可能性も高かった。

そうしてしばらく時間が経過した。それでも私はそこから動かずに、彼女の様子をじっと見守っていた。
時折・・・誰かが渡り廊下から様子を窺っている気配を感じたが、それはすぐに消えた。彼女はアルディ家の要人で、見知らぬ者である私と長時間話し込むことは許可されていない立場の人間だった。
ルイの療養に関しては完全に秘密とされていたが、私がその緘黙を破りそうな人間に見えたのだろう。私はアルディ家の人間ではないのだから、仕方の無いことであった。

彼女はふと、顔を上げた。そして、そういった人の気配がなくなった瞬間であることを確認してから・・・そっと静かに私に言った。
「ルイが。・・・・彼が」
彼女は少し首を傾けて微笑んだ。哀しい・・・とても哀しそうな顔だった。
「微笑むの」
私はまだ押し黙ったままそれを聞いた。
なぜなら、彼女がとても切ない表情を浮かべたからだ。
まだ年若い彼女がこれほどまでに哀しそうな顔をして・・・何もかもを受け入れたような顔を見せる。
若いからこそ、それが際だった。

そしてその原因を作ったのは、他ならない私であった。
「彼が微笑むの。ほとんど彼は笑わない。でも・・・笑うの。綺麗な笑顔って、ああいう笑みを言うのね」
「そうですね」
彼の笑顔。
ヒカル・クロスは長い時間を彼と共有しているのに、ほとんどそれを見たことがないのだと知った。
それほど、ルイは日々切れそうな糸の張り巡らしていたのだろうかと思うと・・・私は浅はかな言葉を言ってしまったと後悔し始めていた。

その時。
ヒカルの顔がぐっと苦悶に満ちた顔になった。
唇が細かく震えて・・・呼吸が乱れる。込み上げてくる激しい感情を抑えているのがわかった。頬が動き、歯を食いしばって堪え忍んでいるのがここからでもよくわかった。
「言いたくないことがあったら言わなくても良い。
でも、言わないと楽にならないことは言ってしまいなさい」
私は声をかける。
そんなことは彼女は承知していることだろうと思ったが、敢えて言った。

彼女が上を向く。空を眺めているのではない。
・・・涙を堪えているのだ。
「ヒカル、それはいけない」
私は声をかけた。彼女が眉を寄せて・・・涙を堪えている時、また・・・握っている手の平が細かく痙攣し始めたのだ。
「泣くのを堪えたいのはわかる。けれども、自分の身体の声を聞きなさい。・・・涙を出したいから貴女は涙を流す。
貴女が貴女自身の内なる声を聞いてやらないで、誰が聞くというのですか。
体の叫びを無視したり抑制してはいけない」
その瞬間、ヒカル・クロスの大きな茶色の瞳から、涙が流れ始めた。
突如という言葉はこういった時に使うのだと・・・ぼんやり、そう思った。

「ルイが・・・」
掠れた声で絞り出すように、彼女がそう言い始めた。
涙が頬を伝わり、顎を伝わっていくつも彼女の手の上に落ちていく。ぱたぱたと音を立てていた。大粒の雨であった。霧のような涙ではない。
彼女の心の内のような、激しいそれが堰を切ったように現れた。

そして彼女は歔欷しながら言った。

何度も、ルイが、と言った。

もう、次に来るときには、ルイと言えない金の髪のあの人のことを考えながら、ヒカルは涙を流していた。
「ルイが・・・・笑うの。シャルル、と声をかけると笑うの。
彼は私の前では微笑まないのに。私の前で優しい表情にならないのに。
けれども・・・私がシャルルと呼ぶと、彼は・・・・微笑むの」

そこで私は気がついた。彼女の相反する欲求に苦しんでいる理由が垣間見えた。
息をする間もなく、彼女は言った。幼子のように、涙を零しながら。
「私は彼がルイ・ドゥ・アルディであることを知っていて・・・誰もそう呼ばなくても私だけは彼をルイと呼ばなくてはいけないのに。
・・・それでも・・・それでも、私はシャルルと呼ぶ。穏やかな表情を浮かべる彼にシャルルと言うと、彼は嬉しそうに笑う」
そこで彼女は嗚咽を漏らした。
静かな・・・噴水の音と、乱れた落涙の音が入り交じり、そこにヒカルの嗟歎の声が混じった。

「こんな時なのに・・・私は・・・・私は・・・なんて罪深いのだろう」

暁霧に包まれていたのは、ルイ・ドゥ・アルディだけではなかった。
ここにもひとり・・・深い悲しみの霧に包まれた人が、居た。

私は何も言うことが出来ずに、ただ、彼女の落涙する顔を眺めて、哀声を聞くだけしかできなかった。背中を擦ってやることも、彼女の頭を撫でてやることもできなかった。

ただ、傍に居るだけだった。 

■25

彼女が惑いに揺れているのは、痛いほどよくわかった。
茶色の髪の先が揺れて・・・長い睫は湿っていた。
細かく震える体を優しく抱く人物は、ここには居ない。
私はそうしてはいけないのだと思った。
そこに関わってはいけないから。
そこに居てはいけないから。
やがて明ける霧の中に、私は存在してはいけない。

・・・どうして、彼女はここに居るのかというこたえは、彼女が出さなければいけない。

彼女が得ることが出来なかったルイ・ドゥ・アルディの微笑みを・・・今、得ていることに対して、彼女は戸惑っていた。
ルイは彼女に冷たかったのではない。そうしなければ彼女が彼女で在ることができないと判断したからだ。
何よりも・・自分自身よりも愛おしい存在に出会ってしまったから。
ただ、それだけなのだ。
彼は彼女だけを求めていたから・・・だから、彼女に微笑みを漏らさなかったのだ。
それを今、彼女が求めているとしたら。

彼がタブレット端末で閲覧している膨大な文字量を知っているヒカル。
彼の脳細胞は決して死滅したり減衰しているわけではないと知っているヒカル。
意識がなくても、毎日訪れることに意味があると思って、自分の体調を二の次にして彼を見舞うヒカル。

誰よりも、誰よりも彼女のことを愛して求めている人物の求めに応じて、彼女は黙って姿を見せる。
そういうヒカルを・・・・ルイはこよなく愛しているのだ。
家族よりも。自分自身よりも。
だから、彼女が見たいと願っていた微笑みを見せるために。
彼は、ルイであることを捨てた。彼は、シャルルになった。
それが理由だ。

彼は見返りは求めていない。
ただ、欲しいのはヒカル・クロスの笑顔だけだった。
だから、彼は・・・シャルルになり、ルイとヒカルの未来を祝うシャルルになった。

まったく矛盾するのに。
それでも、「彼」はヒカルと永遠を誓い合うことができないのに。
彼女は彼等にとって・・彼にとって永遠の昶だ。
文字通りに。


この歯痒さを誰に伝えれば良いのだろうか。
シャルル・ドゥ・アルディと名乗るルイにだろうか。彼を責めても・・・彼は戻ってこない。
そもそも、彼を戻したいのだろうか。
シャルルの影として生涯彼に側仕えすることに活用できると、あの家の者達は思わないのだろうか。
・・・私の知っている、シャルルとミシェルという双子の人物はそうは思っていないようだった。
一方は彼の父であり、もう一方は彼の教育係として長い時間・・・彼を見守って来た。
彼等は、ルイ・ドゥ・アルディを新しい薔薇の種になると考えているようだった。
私の考えは・・間違っていないと思う。

「私は・・・」
ヒカル・クロスはそう言って、しばし無言の時間を持った。
彼女が黙り込む時間は決して無駄ではない。
その瞬間に、彼女は様々なことを考えているからだ。
それを思い浮かべることができたのに。
それなのに、シャルルは・・ルイはそうしない。
彼等の思い描く理想像に固執しない。
この愛が、どれほど・・どれほど、透き通った愛なのか、触れる人物にしかわからない。

汚れた欲望ではない。
乱れた霧ではない。
でも・・・でも、それらに関わる人物達の哀しみや苦しみを浄化できないほどに、この澱は澱んでいたから。
ルイは、それらを一身に引き受けようとしたから。

だから・・・
私はヒカルに声をかけた。
彼等は生きなくては・・生きなくてはいけない。
どんなに、苦しくても。

ルイはそれを知っている。
アルディ家の濁りを知っている。
そしてそんな状態の家が浄化できるのは、ヒカル・クロスを迎えることで・・・彼等の闇に想う深淵を浄化できる人物が、彼等を救うことができると承知している者達の承認があってこそ、ということも知っている。

「ルイの笑顔が欲しい」
彼女はそう言った。私は付け足した。
「貴女に迎え入れられない微笑みでも?」
「私はそれは厭わない。・・・誰かではなく自分を尊重する人の願いは尊重するべきだ」
彼女はそう言った。
でも、そこにはヒカル・クロスの願いは申請されていない。 


Q-side 暁霧 3/4

■26

私は彼女が大粒の涙を落とすのをただ眺めるだけだった。
彼女の涙を拭くのは、私ではないのだ。
彼女の涙を指先の乗せて良いのは、私ではないのだから。
「ルイはルイだけの笑顔を持っていて・・・そして私にそれを向けてくれなくても、良い。彼はルイだから」
彼女はそう言ってまたひとつ、涙を溢した。
私は違う、と彼女に言えなかった。
ヒカルのためだけの笑顔を向けたいから、彼は彼でなくなったのに、と言えなかった。
彼女は手の甲で自分の頬を拭った。何度も、何度も。
手の平と甲と両側を交互に使いながら、それでも溢れる涙を受け止めきれずに、彼女の手首を伝ってそれらは彼女の長袖の中に消えて行く。
私の与えた布きれはそれ以下の役割しか持たなかった。
彼女はそれを膝に置いたまま・・・咽び泣いた。
「ごめんなさい」
彼女は謝罪した。最初、何を謝っているのかわからなかったが、彼女が見苦しい姿を見せてしまったと感じて恐縮しているからなのだと気がついた時には、彼女は両手で顔を覆ってしまっていた時だった。それでも涙が・・・・彼女の内なる訴えは止まらなかったのだ。
いったい、どれだけの長い時間を彼女はこうして堪えていたのだろうか。
「誰かの前で泣くのは慣れていなくて・・・」
私は切れ切れにそう言う彼女に微笑んだ。静かに。
「それにはやり方というものもありません。
誰も教えないし、誰も同じではない。
彼が貴女に微笑みを見せないのは、その方法を知らないから。貴女と同じです」
そう言うと、彼女は肩を震わせて、両手を持ち上げた。
・・・涙に濡れた顔が大きな瞳を連れて私の前に現れた。
彼女の瞳は澄んでいて・・・そしてまっすぐにこちらを躊躇いもなく見つめるものだから、私の方が気後れしてしまいそうなほどであった。
あまりにも驚いた顔をしているので、私は何かあったのかと尋ねることさえできなかった。何か、気に染まない言葉でも投げかけてしまったのだろうか。
彼女は私のそんな表情を読んだようだった。違うのです、と言って、また、涙を拭いた。しかし、その大きな瞳にはもう新たに湧き出る雫はなかった。
「貴方の言葉は・・・・私の懐かしい人と同じだったから」
「懐かしい人?」
「そう。いつか、逢いたい人。泣いたらまた逢えないよと言ったから・・・私は泣かないでいようと思い続けることができた」
そこで私は言葉に詰まった。
人が、こういう口調で「いつか逢いたい人」と言う時は、大抵が故人であったり、もう2度と・・・呼吸をしている間には逢うことが出来ない人物を示すことが多いからだ。
彼女の逢いたい人は、もうこの世界には居ないのだと彼女は何となく承知しているもののそれを曖昧に濁している言葉を使用していることから、それはまだ・・・彼女の中で確定し切れていない事項なのだとわかった。
彼女がアルディ家で養われることになった、両親の不在に起因するものだということがわかる。彼女は若くて・・・彼女の憂いは多くの要素は持ち得ない。
ルイが彼女に惹かれるのが、何となくわかった。
彼女は誰かの為になら涙を散らすのだ。
決して自分の為には涙を流さない。
彼が抱えている苦しみを、ヒカルという媒体を通して彼は放出するのだろうと思った。
だから彼女に微笑みを見せず・・・いつも哀しそうな顔を浮かばせる結果になっても、ルイは彼女を必要としているのだ。
そして、ぎりぎりのところまでやって来てしまったから・・・彼は霧の中から、出てくることが出来ない。いや、出てこようとしないのだ。
彼女を哀しませ続けることができなくなったから。
彼は・・・・極限に辿り着いてしまったから。

「誰も教えてくれないこと・・・・だから、私は自分で見つけなければいけない・・・」
彼女は呟いた。
深い思考の底で、光は見えるのにその実像を捉えることが出来ないようであった。
それでも、霧の先が見えたらしい。
彼女の瞳に生気が宿りはじめていた。
ぎゅっと唇を横に惹いて、強く噛んでいた。
何度か体を斜めにして、頭を前後に僅かに揺らす。
瞬きの速度が極端に落ち、手の平はまた膝の上に置かれて、私の差し出したハンカチはとうに皺だらけの布きれになってしまっていた。

「・・・ルイに会いたい」
彼女はそう言って強く目を閉じた。
・・・一筋、また涙が落ちたがそれは最後の迸りであった。
彼女は詰まった声で、もう一度言った。
「ルイに会いたい」
「そう強く思っていれば・・・きっと、実現できます」
私はそう言った。
愚かなことを囁いたことを後悔していた。
ほんの少しばかり。
彼女は、最初からこたえを持っていたというのに。
私が何も言わなくても、彼女はきっと・・・それほど時間をかけずに、彼女の結論を導き出していたと思う。
でも。・・・あれほど震える彼女をそのままにしておけなかった。
私が、ここに呼ばれた理由と役割について考えることを放棄していると思ったからだ。自分の都合と満足であったのかもしれない。けれども、それでも彼女に言わずには居られなかった。

「まずは、貴女が健康になることです。それから・・・貴女が貴女で居ること」
私は最後の助言をした。いや、助言ではない。
きっと・・・私が、彼女にそうして欲しいと思っている願いを勝手に口にしているだけであった。
採用するかしないかは、彼女の自由と選択であるが。
彼女の溜息さえ、涙さえ欲しいと思ったルイ・ドゥ・アルディの思いを受信しているような気になった。
なぜそれほど彼が彼女を愛しているという言葉以上に求めているのか、それが垣間見えてきた。

ああ、もう少しだ。
霧は、必ず晴れる。暁霧は必ず晴れるのだ。だから・・・彼女と彼が互いに手を伸ばして・・・霧の中で伸ばした指先が触れあい、温度を感じ、見えなくても互いの存在を認識することができるようになれば、彼はきっと目覚めると信じたい。
少なくとも、ヒカル・クロスの霧は晴れつつある。
彼の苦悩も哀しみも受け止めて・・・彼女の支えによって、彼はきっと戻ってくる。フランスの華としてではなく、星辰の子として戻ってくる。
私は強くそう願った。私の願いや希望というものはまったく不必要であったけれども。

■27

彼女はそこで初めて頬を綻ばせた。
「貴方は優しい人ですね」
「いいえ、少しも」
私がそう言うと、ヒカル・クロスは頭を振った。
「沈黙を知っている人は優しいのだと思います」
彼女の深い意味の言葉に、私はそうですかと適当な相づちを打つことは出来なかった。

彼女は握りしめていたハンカチにようやく気を注ぐようになった。
「洗ってお返しします」
「いいえ、差し上げますよ。・・・きっと、私の手元にない方が、良いでしょうから」
彼女が水からの血液が流れ出るのを気にしていたということは、涙さえも、彼女の配慮しなければならない跡始末のひとつなのだろうと予想できたからだ。
洗って返すということは、彼女はしないだろう。焼却処分にして、何倍もの値段のする品を新しく用意するのだろうと思った。
「それでは無遠慮すぎます」
ヒカルが顔を曇らせた。まだ頬は濡れているのに、私のことを気遣いだした。
良い兆候なのか悪い兆しなのかわからない。
「誰にも教えてもらえないことがあるということを知っている人は・・・優しい人ばかりです。少なくとも、私の知っている人達は皆、優しい」
「その中にはルイ・ドゥ・アルディも含まれているのですね」
もちろんです、と言って彼女は笑った。
「自分で気がつけ、と彼はずっと私に言っていた。
繰り返し、繰り返し。
彼は何度も繰り返すことはしないのに。だから、そこに込めれた意味にはやく返事をしていれば・・・」
そこで口を噤んだヒカル・クロスは、最後の一滴を瞳から落とした。
それは残渣であった。彼女の澱はここですべて流された。
「私の方が、霧の中に居たのに。ルイはそこに手を差し伸べた。差し伸べ続けた。気が遠くなるほど長い年月をずっと・・・・今度は私がそうする」
彼女と彼の間に何があったのか、詳細はわからない。けれども、彼女は彼を救いたいと思っている。それは確実だった。

彼がルイ・ドゥ・アルディとなるには何かのきっかけが必要だと考えていた。
それは強い衝撃に近い負荷で、それに彼が耐えられる状況がなければ・・・難しいと思われた。緩やかな回復はあり得ないというのが医療チームの結論だった。
だから、彼の望む状態に置くことで・・・彼は回復に努めるのだ。
ヒカル・クロスが毎日彼を訪れていることや、アルディ家の当主としてのつとめなどを果たさなければならないという強い念が、彼をこれほどはやい回復に導いたのだから。

しかしヒカル・クロスは、シャルル・ドゥ・アルディの知人夫妻の娘であると言うのに・・・ルイは不思議なことに、ヒカルの存在は、実年齢そのままに認識しているのだ。
彼女の母親とヒカルを間違えたり、時間を誤認することはなかった。
ヒカルだけは・・現実なのだ。彼が望んでいるヒカル・クロスは、彼の夢の中に居るのではなく、目の前に存在する実体のある彼女そのものなのだと知ると・・・どうにも苦しくなる。
ルイはどこにも戻れないから。
彼を愛するヒカル・クロスという存在だけが彼の希望であり願望であるのだ。
矛盾する状況に、いつか・・・気がつくのだろうか。
実弟と呼ばれるミシェルとの間にあった、フランスを湧かせた当主争奪の顛末を彼は知らない。
だから、ミシェルとシャルルとの間で交わされる無機質だけれども何かを共有するような間合いについて彼はほとんど経験していないはずなのだから。

彼がヒカル・クロスとほとんど年齢の変わらない若い肉体を持っていることに気がつくだろう。
そして彼は・・・白金ではなく、見事な金の髪を持っていることに気がつくだろう。

彼がシャルルになってしまったら、ヒカルと結ばれない。永遠に。
けれども、ルイに戻っても、ヒカルはルイとは結ばれない。
永遠に、彼の焦がれる相手は手に入らない。
それなのに、彼を呼び戻しなさいと言うのは、ヒカルにとって酷な話以外の何ものでも無い。
どうしたら・・・彼はどうしたら穏やかになるのだろうか。いや、彼はそうでない方が幸せなのだろう。
ここまで誰かひとりだけを定めて・・・切実に求めているのに、結論は同じで、彼等は決して結ばれることはない。ヒカルが心変わりしてルイに向き合うという可能性もあったが、そこまでには・・また、さらにたくさんの時間が必要になるのだろうな、という気がした。

彼女は情愛深い人間だ。でも、憐れみと愛の情の違いを知っている。はっきりと。
妹でもない。親族でもない。・・・彼女は、彼にとって、永遠の昶なのだ。それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもない。
ただ、唯一絶対で・・・それがなければ彼は生きていけない。
愛が得られなくても彼女が生きていることが彼を生かすのだ。

「・・・・彼がこちらに戻るにはきっかけが必要です。でも、それはタイミングがある。今はまだはやい」
私は最後の助言を彼女に付した。
「私はこれ以上のこともわからないし・・・貴女にはもっと詳しく分析できる相手が傍にいるでしょうから。でも、彼を長い時間見てきて・・・これだけは言えます」
私は早口で言った。時間をかけすぎた。あまり話し込むと、咎められるだろう。
もうここには立ち入ることは出来ないと思った。声もかからないだろう。
けれども・・・けれども、彼女と話をするのはこれが最後であるという予感が私を焦らせた。
伝えきれない。
彼の切ない思いを代弁しても、彼女にありのままを伝えることができないだろう。
「彼は・・・彼は自分自身よりも貴女が大切なのです。誰でもない。貴女です。だから、それを忘れないで・・・」
私はそれだけ言うのがやっとだった。具体的な治療方法などを喋っても虚しいだけで、それはルイに適用できないことはわかっていたからだ。
「彼と時間を重ねてください。共有する時間が長いほど・・・彼は戻りやすくなる」
そこで、私の言葉は遮られた。建物の影から、人が出てきたのだ。ここの館のスタッフだった。ヒカルを迎えに来たのだとわかった。
彼女は長い時間、外で雑談に興じて時間を忘れるということを許可されていない。身体中に残る穿刺の痕から・・・相当、抵抗力が落ちているだろうと思われた。紫外線も、外気も、雑菌も彼女には大敵なのだ。
「再生治療で彼の肉体が癒えても、彼の魂を癒すのは、霧の中の彼を救うのは、貴女が彼の気配を感じて・・・そこに同じ様に腕を差し伸べることです。ただ、それだけです」
「わかった」
短いけれども、はっきりと彼女はそう言った。幼い返答になったのは・・・もう、それ以上話ができないと悟ったからだ。
私とヒカルの会話が聞こえる範囲にまで、人が入ってきたからだ。

それまで静かであった館に、複数の人の気配を感じた。
単なる設備調整のために訪れた、研究棟の一スタッフが、異常な滞在時間を経過して退館していない、と私に貼られたIDチップシールが警告波を出したのだろう。

「いつか、必ずこのハンカチをお返しします」
もう、私とヒカル・クロスの接点はなくなるのだろうと思ったのに。
彼女はそう、私に約束した。
刺繍も何もない、布きれだ。それには意味が無い。
市販のものであるから、焼却して欲しいと言った。彼女は唇の端を持ち上げた。
穏やかな・・・涙の跡が残っているが、もうそこには・・・誰にも涙を見せないヒカル・クロスが居た。
近づいて来た者が、来館者がヒカルを待っていると言った。
その時に、スタッフは来館者の名前を言わなかった。
・・・・シャルル・ドゥ・アルディだな、と感じた。
ここでシャルルはふたり存在してはいけない。
だから。
だから、よくよく申し送りされていて、ここではシャルルの存在はないものとして扱われるのだ。
・・・この館は彼の私邸であるのに。
その空間の中で・・・彼の息子であるルイを治療するために、シャルルは存在を消す。
気配を消す。
ルイに対して、シャルルと呼ぶことをヒカルに許可する。
彼と彼女だけの時間を持つことを赦す。

誰も悪くないのに。
誰にも責はないのに。
なぜこんな風に・・・誰もが血や涙を流しているのだろうか。
静かな、薔薇の香りの漂う館は、穏やかになるために鎮まるために存在しているのではないのか。歴史の古い・・・緩やかな優しい時間を過ごすために、この場所があるはずなのに。
ヒカル・クロスは私と少し距離を置いて背中を向けた。
小さな声で、やり取りをいくつかして打ち合わせをしたあと、彼女は私に振り返った。
「私、ここで失礼します」
本当に申し訳なさそうに言うので、彼女の都合で私が振り回されていると感じないようにつとめて明るく言った。
彼女の目元は少し濡れていたが、朱も混じっていた。
私はそれで察しがついた。
「こちらは大丈夫です。退館の手続きも必要ですから・・・」
時間がかかるので、先に行っていてください、と言った。

一般の訪問の方がより厳しいセキュリティであることは通常の道理であった。
不思議なのは、入るときにのみ厳しいところがほとんどであるのに、ここでは出る時も厳しいチェックを受けることにあった。

これまでの激流が逆巻くそこに入り込んでしまったかのように、勢いよくこれまでの澱みを噴出させたヒカル・クロスはすでに落ち着きを取り戻していた。
・・・こういう人達は気の毒だと思った。私が哀れむことではないのだが・・・人前で泣いたり、取り乱したりすることができない。
どんなに泣きはらした顔をしていても、泣いていないと言い続けなければならない。
どれほど話を継続したいと思っても、彼女はそれを諦めなければならなかった。
本当は私と話をしたかったのだろう。うぬぼれではない。
彼女が私と持ちたいと思った会話は・・・
彼女がこれからの方策を講じるための相談ではない。
ただ・・・ただ、彼女の嘆きを目の前にした数少ない者のひとりが私であるという認識はあった。
 
■28

流転の人生を歩んできた者特有の間合いだった。
彼女はそれ以上踏み込んではいけないというぎりぎりの境界を知っていると思った。
私との距離をそれ以上縮めてはいけないと思ったようだ。
名残を惜しんではいけない。そうしてしまえば、ヒカルはきっと心を残すからだ。
彼女のような、別れを極度に懼れる者の憂いになってはいけないと思った。
人は出会い別れそしてまた出会いそれからまた別れる。
繰り返すということを意識しないままに繰り返す。
ルイ・ドゥ・アルディのように反復を厭う者は、綻んでいくことがわかっているのにそれでもやめることはできないのだ。
ルイ・ドゥ・アルディは・・・繰り返し、ヒカルを愛するのだろう。
何度も、何度も。
彼女を繰り返し愛して更に深いところに堕ちていく。
彼の霧はまだ・・・晴れない。
「それでは、ひとつ・・・御願いを聞いてもらえませんか」
命令することもできるのに、彼女は私に向かってそう言った。
奥ゆかしい気質はどこで養われたのだろうか。
誇り高いアルディ家の者は冷笑するかもしれない。
彼女のそういった素地は見苦しいと言うかもしれない。

けれども、私にはこの上なく好ましく見えた。
ルイが彼女を愛するのはごく自然の成り行きであり、そして彼女だからこそ彼は深く激しく永らくヒカルを求め続けるのだろうと思った。
彼女は・・・・そこで私の差し出したハンカチを取り出した。
「貴方からの借り物を利用してごめんなさい」
彼女はそう言って最初に謝った。
「いいえ、それは既に貴女のものですよ、ヒカル・クロス」
私がそう言ったので、ヒカルは僅かに微笑んだ。ありがとう、と言った。
私に差し出されたのは、私が差し出した布であった。彼女の涙を拭う役割を果たすことが出来なかったが、大きく強い皺が幾筋も入り、彼女は手の平でそれをそっと丁寧に伸ばした。
「本当にごめんなさい」
彼女がまた謝罪した。
私ではなく・・・彼女の手の平の、涙の染みが多く残るそれに向かって言った。
目元を拭去することはなかったが、彼女の大粒の涙は、そこに彼女の膝や手の平に落ち続けて・・・そしてそれはヒカルの涙を幾粒か、受け止めた。
彼女は伏し目がちにそれを眺めていたけれども・・・やがて、言った。
あまり時間がないことは彼女が一番よく承知している。
本当なら、少しでもはやく、先ほど到着した・・・彼女を待ち受けている人物に会いたいはずだった。
それでも、ヒカルはじっとハンカチを眺めて、そして次に私に差し出した。
私はそれを受け取った。
手の平にこぼれ落ちるように布の感触が滑り込んでくるが、少し重みを感じた。
彼女の涙の分だけ、湿って重くなったのだ。
・・・・重量を感じるのは、それだけではないのだろうが、私は黙ってそれを受け取ることにした。
そして実行した。

彼女の哀しみを少しでも受け止められば、それだけで満足である。
自分の身体から零れる液体について極端に気を遣っている彼女は・・・・いつか、医療業界の聖母と言われる存在になるのだろうなという気がした。
彼女でなくても。この家から、きっとそういう存在が輩出されるのだろうという根拠のない空想が私の頭を過ぎった。

「これを、シャルルに持って行ってくれますか」
「このハンカチを?」
私は少し驚いて、尋ね返してしまった。ヒカルはそうだ、と言って頷いた。
茶色の髪が少し動いて、御願いしますと頭を下げたヒカルがそこに居たので、私は慌ててそんなことをしないでくれ、と言った。
日本式のそれは・・・最高の敬意を払う行為のひとつだ。
私ごときに、ヒカル・クロスが頭を低くすることは、彼女が満足しても、周囲が驚愕するだけだ。
そこには私も含まれている。
私は驚いて、思わず受け取ったハンカチを握りしめてしまう。・・・・少しひんやりしていた。
「届けてくれればわかると思います。・・・・まずは、そこから始めたいと思います」
彼女がそう言ったので、私はノンと言えなかった。
頼みと言った彼女の気持ちが・・・どうにも切なかったからだ。
始める、と言ったヒカルの言葉はそれでもしっかりしていた。はっきりとそう言った。先ほどはあれほど取り乱していたのに、今はもう・・・・静かに、事実を受け入れていた。
強い人だ。
そう思った。
反骨の魂を持つばかりが、強いということではない。
何にも抗うということが、強いということではない。

受け入れる強さが彼女にはあった。
それはとても固い決心であることは明白であった。
彼女は先ほど、ルイのことを「シャルル」と言った。
言い淀むことなく、そう言った。
そして・・・届けてくれればわかると言う。
彼には、想い出がないから、それを指し示されても、わからないかもしれないのに。
わかる、と言い切った。
彼を信頼しているのだろう。そして、彼と彼女が過ごした時間を信じているのだ。

彼女は・・・目の前にある自分への課題を受け入れて、次に進もうとしている。
これほど短時間で彼女はそう考えることが出来る。
若いからだろうか。
これからの未来への時間がたくさんあるから、その場から逃げても良かったのに。
今日は何も考えられないから、出直すと言うことも出来たのに。

哀しみを包み込むように、彼女は・・・

ああ、そうか

私は悟った。

彼女は確かに霧だ。
ヒカル・クロスは、ルイ・ドゥ・アルディの暁霧だ。

目の前を晦ます霧ではなく・・・・・彼の苦悩を包み込む霧なのだ。
誇り高いルイの摩耗した魂を呼び寄せるために、彼女は一度・・・彼の姿を包もうとしているのだ。
私はそこで妙に納得していた。
だから彼女の申し出を受け入れることにした。ノンと言うつもりもなかったが、彼女の気持ちを・・・一緒に彼に届けて欲しいという彼女の依頼を受けることにした。

「私が出来るのは、届けることだけですよ」
目の前の茶色の髪の茶色の眸の娘に、私はそう言った。
責任逃れの念押しではない。
彼女には伝わったようだった。
軽く顎を引くと、彼女は「御願いします」と言ってまた頭を下げた。

なぜ、アルディ家の者達が彼女に強く惹かれ、そして求めざるを得ないのか・・・少しわかったような気がした。
彼女は、彼等の暁霧なのだ。
永遠の晄でありながら、彼女はすべてを浄化しそして更に強い光でその者を包み込んで・・・癒すのだ。
目覚の時まで、誰も彼に触れることのないように。

ルイ・ドゥ・アルディは・・・・彼は暁霧の中で微睡んでいる。
・・・・その暁霧そのものが、彼を晴れた昊の下に導引していることに気がつくだろうか。

星辰の子の帰還は近い、と思った。

それは少し違うかもしれない。

私が、そうであって欲しいと願ったのだ。

彼の夢が・・・終わりを告げなければ彼は永遠に安らげるかもしれないが、彼が彷徨いから戻り、そしてヒカルの晄に目を細めて・・・皮肉げな微笑みを浮かべることをヒカルが願っているから。
そして、何よりルイ・ドゥ・アルディが・・・彼女に心からの微笑みを・・・ルイ・ドゥ・アルディとして捧げることができるようになりたいと、彼が望んでいるから。

ルイ・ドゥ・アルディ。

私は心の中でそっと言った。
螺旋階段の階段を昇った先の静かな部屋で躰を横たえながら、ヒカルの気配を待ち続ける星辰の子に聞こえると良いのに、と思いながら言った。

貴方は孤独ではない。

孤独だけれども、それを知っている人間がここに居る。
ヒカルは、ルイ・ドゥ・アルディの孤独と悲哀を知っている。
だから、彼女に導かれて・・・委ねてみないか。 
■29

ヒカル・クロスの背中を見送った後、私は彼女からの依頼を受けたために、退館時間を延長して欲しいと係の者に告げた。
ヒカル・クロスの許可があったのでそれは口頭による申請で十分であった。
・・・来た道を戻る。
長い渡り廊下を今度は・・・ひとりで歩いた。

往路も復路も違う状況であったが、今回は・・・往復はひとりきりであった。
それは最初からわか孤独な往路というものを、感慨深く感じる。
きっと・・・おそらく、彼女は館の入り口で彼女を待つ人物に向かっているのだろうと思った。
哀しみと・・・苦しみと・・・そして強い引力でもって、その人物の胸に飛び込むのだろうと思った。彼女の運命の人は、彼女を運命の人と定めたのだ。
けれども・・・ルイ・ドゥ・アルディの運命の人であるヒカル・クロスは、彼を運命の人と定めなかった。
それは往々にしてあることだけれど、それでも・・・私はその定めの残酷さについて深く感じ入る。

どうして、ルイ・ドゥ・アルディの愛は成就しないのだろう。
もっと違う愛が彼女に生まれたのだろう。
彼が欲しいのは、それではないというのに。
しかし、何もないよりあるほうが良いと考えるには、彼は誇り高すぎた。
彼の欲しいものがないのであれば、意味が無い。
少し種の異なった「それ」がどんなに溢れていても、それは「ない」と同じなのだ。
彼の求めているものはひとつだけ・・・たったひとりからしか得られないものだから。

静かに、螺旋階段を登り切る。
私はその音さえ、その温度さえ・・・これきりであることを念頭に置いて歩んだ。ヒカルがもたらした「もう一度」という反復について感謝しながら、私は歩く。
・・・もう二度と、星辰の子には逢えないと思っていたからだ。
私がここに呼ばれた理由を考えるにつけ、彼にはもう二度と会見することはないと考えていた。
よくあることだ。
ある日、出勤してみれば、そこに数時間前まで居た人が、居ないという場面に私は幾度も出会した。
だからあの棟を出て、こんな風にもう一度会う人物が居るとは私にとってはまったく特殊な例であった。それはいつものことであった。
互いにもう二度と会わない方が良いという職に就いている私は・・・先ほども彼に会わずに退邸しようとしたのに。
・・・まったく、あのヒカル・クロスという人物は不思議な人だと思う。
他の者がそれを言えば無謀な願い事だと思わざるを得ないのに。彼女の言葉は精霊の囁きのようにささやかであり、それでいて叶えてやりたいと思ってしまう。
・・・彼らもこんな風にして、彼女の小さな声を聞き分けたのだろうか。
彼女は自分の願いは口にしない。
誰かのために、いつも動いている。いつも何かを考えている。
これまでの様子からそんな人なのだろうな、と思った。
そしてそれは間違いではないだろう。

螺旋階段の途中にある踊り場で少し呼吸を整える。
彼に会うときはとても緊張する。
こればかりは何度経験しても慣れないことであった。
階段を上りきって、少し歩き、ヒカルの座り込んでいた椅子を横切る。
まだ、彼女の温度がそこにあるようであった。
私は今一度・・・彼女が震えながら降りた階段を上りそしてまた陽が移動して薄暗くなった廊下の中を歩き始めた。
そしてもう会うこともないと思っていただけに、今日、もう一度彼と言葉を交わすことになろうとは思ってもみなかった。

私の手の中には、彼女の託したハンカチが握られているだけだった。肩には提出に必要な書き込みの終わった書類がいくつか入っているがごく軽い鞄を提げていた。
不格好な仕事鞄を持ち歩く私を見て、彼がなんと言うのか想像できた。それくらいは暗記できないのかな、と薄笑するのだろうと思った。
しかしそれは彼なりの気遣いであり、決して嘲笑しているわけではないと気付くまでに少し時間がかかってしまったけれども。

奧の部屋の前に行きつくと、私は立ち止まった。
ここは生体認証により施錠されているはずであった。先ほど、ヒカルが施錠していった。何度も何度も指を合わせて、動揺しながらも彼女が蒼白な横顔を私に見せたのは、つい先ほどの話であった。
・・・・誰か人を呼ばなくてはならないだろうか。
私にはそういった権限はないので、認証装置をいじり回すつもりはなかった。
しかし、かちり、という小さな開錠音がしたので、私は周囲を見回した。
遠隔操作で開錠されたタイミングに居合わせたのだろうか。
・・・この家のあらゆる場所に監視カメラが内蔵されていることは承知していた。ヒカル・クロスが中庭に出るというのは予定されていないのに、係の者が見はからってやって来たことを考えると、それはこの館では当然の設備なのだということは察知できた。

私はあまり驚くことなく、そのまま入室することにした。
これを手配したのが誰であるのか、おおよそ想像できたからだ。
生体認証による施錠装置は、遠隔操作できる場合にはふたつの事情しか存在しない。故障や緊急避難の時によるものと・・・マスタ権限で強請開錠するときだ。
おそらく、この家のマスタ権限を持つ者で・・・ヒカルの話を聞き、その命令ができる人物の仕業だろうと思った。
その人物は・・・決して彼に会うことはない。

入室すると声をかけた。
彼は奧の寝室にいるから、その声は聞こえない。
けれども最低限の礼儀は必要であった。
もうここには入ることはないだろう。
幾度も通う理由はなかった。
だから、ひとつひとつを記憶していく。
優美な家具や仄かに漂う薔薇の香気や・・・何もかもが異世界の雑誌や映画の世界で出てくるようなものばかりであった。
しかしそれらが本物であると理解できるのは何より嗅覚や触覚に刺激されるからだ。視覚や聴覚だけしか得られない情報と異なり、これらは・・・すべて、ルイ・ドゥ・アルディの為に整えられたものなのだと理解できる。
空気が柔らかく感じるのは、湿度と温度が完璧に調整されているからだ。
上質のカーテンが僅かに揺らいだのは、私が入室することによって中の空気圧が変化したからだ。ここは完全なる防音が施されているようだった。

彼女はここを独りで通り抜け・・そして戻って来た。彼の変化を初めて知って、驚愕しながらも普通を装って帰って行った。会いたいと思っていた人物に再会したのに、彼女は会いたいと思っていた人物に会えなかった。

極限まで痩せた彼の顔が少し戻ってくる都度、私は彼にそろそろ、彼女に会ったらどうかと言いかけて何度もやめたことを思い出した。

見ているだけで苦しくなる恋というのは、存在するのだと痛感する。
自分の恋ではないのに。
秘めたる想いというものは、なぜこれほどまでに・・・痛々しいものなのだろうか。
私は歩みを進めて中に入っていった。
奧で人の気配がする。
彼がそこに居るのは明らかだった。













 
■30

私は身なりを整えた。
何をどうするわけでもないが、私の気がつかないことに彼は気がつき、彼の観察は細部に至るまで鋭いからだ。暫く振りに対面するので、少し緊張する。
彼は、僅かな事実から彼は様々なことを知ることができる。
私がヒカル・クロスと話してきたことも、その内容すら把握できてしまう。
仕種や表情から、容易に判断できるらしい。
だから彼には迂闊に興味本位で近付くことはできない。
彼は、この館に移動したばかりであるので、何となくすべての調度品などが彼の納得する位置でないように思われた。
そして、少し動かした新しい形跡があった。
おそらく、ヒカル・クロスが自分自身で気がついた幾つかを動かしたのだろうと思われた。
しかし、それはルイ・ドゥ・アルディの嗜好ではないことを知り、ヒカルは更に心を痛めたことだろう。

「シャルル。入室します」
私はそれだけを短く言って、返事がなかったものの寝室に入っていった。
もう、彼には生命を維持し経過を見守る機器は接続されていない。
点滴も外されて、衰えた筋肉や移植された皮膚の調整のみが優先事項とされた。
彼は美貌の持ち主であり、素晴らしい体軀を備えていた。
加えて高い知性も。
見事な金の髪は絹糸のように柔らかだし、整った顔は幸い事故の影響を受けなかった。
致命的な頭部損傷はなかったが、髪が焼けてしまったので切り落とさざるを得なかったが、それも今は伸びていた。
視力にも異常は無い。
しかし、吹き飛ばされて追突した衝撃と熱風を吸ったために肺の一部と内臓を若干損傷した。
開腹手術を行い、内臓の幾つかを治療した時の傷も、形成外科手術でほとんど傷口がわからないようになった。
首の付け根から腰まで受けた火傷も今は再生医療によって仰向けに横たわっても良い時間ができた。骨折は完治している。神経には奇跡的に損傷はほとんど無かった。
その他全てが順調に回復している。
それなのに、彼はつまらなさそうにしていた。
・・・それなのに。
何もかもを手に入れたはずの彼はそれでも、いつも孤独を抱えて生きている。

「・・・君が来るということは、何か不具合でも?」
それが第一声だった。
私は極力落ち着いた声を出した。
「不具合でないことを報告しに来ただけです」
彼は顔を顰めた。

すっかり回復して、移植された皮膚は、元の彼の肌に近くなっていた。
驚異的な回復力である。
強靱な肉体と若さとそして彼が元々そういった耐性に強い性質を遺伝的に引き継いでいるが故の奇蹟であった。
大きなベッドに横たわるルイ・ドゥ・アルディが居た。いや、シャルル・ドゥ・アルディだった。
その姿は、最後に見た彼からすると比べものにならないほど穏やかだった。
ヒカル・クロスと話ができたせいだろうか。

彼は彼の意識があるうちに訪れる人物達がいつも決まって同じであることに、心中傷ついていたのかもしれない。
この家の者達は、執着してはいけないと言われて育つそうだ。
その一方で、目指す目標にだけは固執しどんな手段を採択しても遂行するという気質も持ち合わせている。
私はルイ本人ではないから、彼の心の中やすべてを理解することはできないが、それでも年若い彼がどんな人生を歩んできたのか、垣間見えた気がする。
酷く孤独であったのだろうと思った。
それを憐れまれることを何より厭う誇り高さも持っている。
誰かを頼ったり縋ったりすることは一切しないと決めてしまっている。
それなのに・・・それなのに、彼が唯一、手を伸ばした相手は、決して手の届かない相手だった。

金の髪の下で、彼は青灰色の瞳を私に向けていた。
きっと、長くなりはじめた彼の髪の色は、彼の霧の中では白金に見えるに違いない。
「退棟おめでとうございます。それだけを伝えに」
「違うな。
・・・君は何か別の目的があって来た。
・・・君の用件ではなさそうだ。
誰かに何かを頼まれたのか?」
毎度のことであるが、彼の観察眼には舌を巻く。
誤魔化したり繕ったりすることを彼は許可しない。
どうしてわかるのか、と言うような表情を浮かべていたのだろう。
彼は薄く笑った。
「君が君の職務のためにここに来ることはあり得ないから」
寝台に身を横たえて、上半身を起こした状態のまま、上質の軽い素材の羽織りものに袖を通さずに体を覆っていた。
毛布も静電気が発生しない軽いもので、体に負担をかけないようにするための配慮がなされていた。
・・・僅かに、ポプリのような香りがしていたが、彼が少し身動ぎするとかさりという僅かな乾燥音とともに馥郁な空気が散ったので、枕にポプリが入っているのだろうと思った。
膝上には、タブレット端末が置いてあった。
彼の手すさびにということと、指先の訓練のためにヒカル・クロスが用意したものだった。
彼は大変な読書家であった。
今も、私の話を聞きながら、用意された世界の中だけしか閲覧出来ないことを承知の上で、彼はあらゆる文献に目を通す。
現在の状況や情勢については、広大な情報の海にアクセスできないことに、彼はあまり不満を漏らさなかった。
本当は・・・彼は世俗から離れた静かな場所で、読書をして終日を過ごしたいという願望があるらしかった。
しかし、それはルイの希望なのか、シャルルならそう思うだろうという予測から来る行動なのか、私には判別がつかなかった。
「クロス嬢から頼まれました」
青灰色の視線が私に再び移った。
「ヒカルが?」
興味なさそうにしていたルイの表情が少しだけ変化した。私は頷いた。
「はい。貴方に・・・渡して欲しいと」
そう言って、私は持っていたハンカチを差し出した。
近くに寄ることの許可は求めなかった。
彼にとって、ヒカル・クロスは最優先なのだ。
今のルイの中では、彼女はルイ・ドゥ・アルディの婚約者で、愛した友人夫婦の忘れ形見で・・・それ以上の感情は持ってはいけないのだと言い聞かせて煩悶するアルディ家当主なのだから。
まるっきり、家の当主としての努めは切り捨てられてしまっていた。ミシェルという実弟がおり、ルイが居るから心配していないという素振りを見せていたが内心は気になっているのだろうと思った。しかし体がどうにも思うようにならないので、彼は復調に専念することにしたのだ。
本当は・・・今すぐにでもここから出て行って業務に戻りたいと思っているのは明白であった。
しかし、それはルイとしてではなく、シャルルとして、だった。

私はベッドの近くまで寄って差し出したそれを受け取ると、彼はその重みに耐えかねるかのように、ぱたん、と手の平を上に向けて、腿の上に落とした。
しかし私が落としたハンカチは彼の手の平からこぼれ落ちることはなかった。
ヒカルから渡されたものを粗末に扱うことができないのは、ルイもシャルルも同じであるらしい。
私は無言でいた。
ただ、何もしないで直立不動では居られなかったので、気忙しそうに視線を動かし、何か些事で良いのでできることを探した後に、彼の足元の毛布の裾が僅かに乱れていたので、それを整えることにした。
彼の顔を正面から見ることはしなかった。
今、彼はルイとシャルルを往復している。
素っ気なさそうな顔と苦悶に満ちた顔と・・・哀しそうなそれでいて彼女の意図を探ろうとするような挑戦的な顔と・・・・様々に表情を変える。
もちろん、普通の者が見たらそれは僅かな差であるが、こうして長い時間彼を見つめ続けて居ると、その微妙な表情が、実は大きな変化をもたらしていることに気がつくのだ。

しばらく彼はそれを黙って見つめていた。
頭の中で、目に見える物体から得られる情報から様々なことを類推しているのだと思った。
 
■31

その布の切れ端は、何の変哲もなかった。
明らかにヒカル・クロスの所有物ではないものであるのに。
彼はそれを受け取ると・・・しばらくの間、じっとそれを観察していた。
彼はすぐにわかっただろう。
それが涙で湿っていることに。
それから、私がそれを手渡した時の表情と仕種で、それが私のハンカチで、私が彼女の涙を見た証になることを彼は瞬時に判断したのだ。
誰しも自分の所有物を他者に手渡す時には、どことなく粗雑に扱う傾向にあるからだ。私のものではなかったのであれば、私は彼の方にハンカチの裾を向けて渡したと思ったが、それは後になって思いついた彼の指摘の理由のひとつにしかならなかった。
「ヒカルは人前では泣かないのだが」
彼の声は困惑を含んでいた。
彼は整った顔を曇らせた。
シャルル・ドゥ・アルディなら・・・きっとそんな風にして、彼女のことを憂えるのだろう。

「彼女を呼び戻しますか」
「いいや、必要ない。・・・ルイが居るから」
最後の言葉に少しばかり間があった。
「彼女には、ルイが居るから」
彼は繰り返した。自分にそう言い含めているかのように、静かな声で。
「彼女は滅多なことでは人前では泣かない。
・・・そうすることが自分にできる唯一のことだと思っているようだ」
彼はそう言った。
そしてそのまま暫く考えに耽っていた。
いつものことだ。
彼は何かを思いつくと、途端に周囲が見えなくなってしまう。
何時間でもそうしている。
私やその他の者達と考える速度がまったく異なる、新しい薔薇の種である星辰の子は、今になってようやく・・・ヒカルのことだけについて没頭することができるようになった。

「ヒカルが何を哀しんでいるのか、これだけでは情報が足りない」
彼はやがて呟いた。私はこの言葉が出るまでに、傍にあった椅子を引き寄せて、彼の斜め右側に座った。近い距離で座ることが出来るのは、ヒカル・クロスだけだ。
私はまったくの部外者で・・・そして、ただ眺めているだけしかできなかった。
「私には理由は述べませんでした」
「嘘をつくときにはもう少しましな言葉を用意しておくことだ」
あっさりとそう言われてしまったので、私は苦い笑いを浮かべる。
彼にあっては、何も隠し事ができなかった。
しかし全てを述べることはできなかった。
私は頭を掻いて、正直に言った。真実を隠すときには、事実を割愛して言うに限る。不必要な情報は付け加える必要はなかった。
「ルイ・ドゥ・アルディが解決してくれるでしょう。・・・彼女は、彼の笑顔が見たい、と言って感極まって涙を流した。それだけです」
「それは難しい注文かもしれないな」
彼は微笑んだ。
「しかし、他ならない彼女の願いであれば、ルイはきっと・・・その通りにするのだろう。彼はいつもそうだから」
私はその言葉を聞いて、切なくなってしまった。言葉が出てこなかった。
彼の微笑みが欲しいというヒカルに微笑む彼は、霧の中の住人なのだ。
それをヒカルが憂えて慟哭することについて、彼は知らない。
それほど・・・彼女がどれほど彼を大事にしているのか、彼は知らない。

「体液を含んでいるので、焼却処分にしてするつもりですが、その前に、貴方に渡して指示を仰げと言われましたので」
「彼女の分析は終了している。やむを得ないが、それは焼却してくれ」
彼はそう言ってハンカチの表面をそっと撫でた。
「・・・秘密を抱えるというのは苦しいことだ。それをどこまで守り通せるかによって秘密になるかそうでなくなるかが決まる」
「つまり、秘めたるものは、秘めたるがままにしておくことが良いと言うことでしょうか」
「そういう言い方も出来るな」
彼はそう言って含み笑いをした。物憂げな上品な青灰色の瞳が煌めいた。
「ヒカルの秘密は、君の中に留めておいてくれ。それを共有することについてはすでにヒカルと君との間で協議済みだろう?」
「そして貴方にも共有して欲しいから・・・クロス嬢は貴方にハンカチを渡してくれと頼んだのでしょうね」
彼は嬉しそうな笑みを見せた。私は立ち上がると、彼からそれを受け取った。
これで彼女の言葉が、彼の中に墜ちて、紋を広げることができるだろうか。
彼女は言ったのだ。
「ルイ・ドゥ・アルディの笑顔が見たい」と。
それは、シャルル・ドゥ・アルディのそれではなく、ルイとしての微笑みであることを、彼はまだ認識していない。
私はそのまま自分の荷物を持った。それほど多くはない。
「そろそろ交代の時間なので、失礼します」
「そうか。・・・ルイには言い含めておく。彼女を哀しませることは許さない」
彼はそこで溜息を漏らした。
「これからもヒカルが涙を見せる度に、こうしてひっそりとオレだけに告解するのは・・・・これで最後にして欲しいものだ」
「ルイの笑顔が彼女の涙を止める最高の術であることに、彼も間もなく気がつくでしょう」
私はそれだけ言った。
それ以上言えば、彼にいろいろと指摘されかねないと思ったからだ。
私は交代の時間だと偽った。ここには単に、最終確認のために訪れただけだ。
もう・・・彼と逢うことはない。
それでも、良かった。
私の勤務先の最高権力者はシャルル・ドゥ・アルディであるから、まったく縁が切れてしまうということではなかった。
どこかで・・・きっと、どこかでまた逢えるだろう。
その時には、私の事は忘れているのかもしれないが。
私は霧の中に住まうルイ・ドゥ・アルディとだけ出会ったのだから、霧が晴れれば、彼は忘れてしまうだろうと思った。

だから、最後にひとつだけ・・・彼に質問することにした。

「シャルル。・・・ひとつ、質問して宜しいでしょうか」
「手短に」
私は丁寧に言った。
彼に・・・・伝わりますようにと願いながら。
人には、言ってはならない秘密がある。
秘めたる想いは、口にしてはいけない。
彼は、ずっとそれを守ってきた。
彼女に愛して居ると伝えないまま、彼はこのまま戻れない路を彷徨うには不憫すぎた。

「・・・シャルル。貴方には、愛する人は居ますか?」
「ファム・ファタルと呼んだ人は居たよ」
「それは誰ですか?」
「ヒカルの母親。彼女は永遠の晄という名前の娘を残した。それがヒカルだ」

ここで、本当のシャルルなら、ファム・ファタルの永遠の不在について述べなかっただろう。
まだ、生きていると思いたいからだ。
どこかで生きているのなら、それで良いと思い、生きていない事実を認めるには諦めきれないからだ。
・・・・それが、愛だからだ。
過去にできないから。
未来を生きるために、ルイはシャルル・ドゥ・アルディになった。
この事実に・・・いつか到達して欲しいと思った。

「彼女を泣かせる仕方の無い息子とヒカルは婚約して・・・いつか、ランスの教会で式を挙げる。そうなれば、オレの役割は終わって・・・静かに・・・ただ静かに・・・・」
そこで彼はまた沈黙した。
また、深い思索の旅に出てしまったようだった。
きっと、彼の中で今が最も幸せな瞬間なのだろうと思った。
シャルルに息子と認められ、愛するヒカル・クロスと結婚し、そして当主の座に昇る。
けれども、彼にはその先がない。未来を作るために、未来を作らない。そんな彼は暁の霧に入り込んでしまった。自分でわかっているからだろう。それが苦しかった。彼はどうしてそんな風にしか生きられなかったのだろうか。
 
■32

私は彼の思考の妨げにならないように、そっと部屋を出た。
扉を閉めると、僅かにかちりと自動施錠されると音がした。
・・・先ほどと同じであった。ヒカルの時には、彼女による施錠が必要であったのに。

ルイはいつもの通り、自分の霧の中に入り込んでしまった。だからこそ、ヒカルが必要なのだろう。
また、彼女はいつも通り無休で彼の元に通い続けるのだろうと思った。

・・・指示があったので、焼却処分するために、ハンカチは私がそっと彼の手の中から抜き取った。
また、これは私の手元に戻って来たが、それは既に私の所有物ではなくなっていた。
彼女の涙を含み、彼の手の温度を受け、そしてまた傍観者の私の元に戻って当事者になることから離れたそれを・・・彼らはいつか、思い出すことがあるのだろうか。
こんな関わり方でしか関わることを赦されない者が居るといることを、知って欲しいというわけではない。
でも、ルイ・ドゥ・アルディの暁霧が晴れやかになって欲しいと思った。
彼女しかできないことだったから。

私は、戻れない路に向かって、彼女の背中を断りもなく押してしまったような気持ちでいた。

・・・もと来た路を帰る。
この往復は、私にとってはそれほど長い道のりではなかった。

途中ですれ違う人はいなかった。
この経路を使う者は、限られている。
本来なら、私のような使用人は通ることのできない場所であった。
そうしなさい、と指示されない限りは。

私はおそらくもう二度と通ることのない路を歩いた。
他の者と私が少しばかり違ったのは、日本語を解することができるということと、この風貌・・・それから、彼が心の奥底で恐れている「感染」の危機に晒されない人種の者であるからだ。
そして、ヒカル・クロスと少しだけ会話した。
これが大きく左右したのだ。
私は私の役割を全うしたと思ってはいない。
彼らに問題を投げかけただけでしかない。

噴水の近くで、大粒の涙を溢してルイ・ドゥ・アルディの笑顔を求めたヒカルの姿はもう、そこには無かった。
螺旋階段をひとりで降下することができなかったヒカルは、次に来た時には静かに淋しそうに、けれどもそれでも次への期待を捨てることなく、毎日を繰り返して、ルイとの想い出を蓄積させていくのだろうと思った。

私は、静かに分不相応な廊下を歩いた。
私のためだけに用意された静寂だった。

・・・エントランスまで戻る。
城と呼んだ方が良さそうな瀟灑な館は、出入りの折にはこの場所を通り過ぎなければならない。
安全上の問題なのかもしれないが、その他に・・・もうひとつ、この館には秘密があることを私は知っていた。

エントランスの向こう側に続いている道は、先ほど私が歩んできた渡り廊下と同じであった。合わせ鏡のように。
ずっと・・・戻って来たはずなのに、その奧がある不思議な空間を見つめながら歩く。
・・・反対側の棟があるのだ。
完全に左右対称でありながら、居室が対面しない設計になっていた。
それでいて美観を全く損なっていない。
この一族は美を重んじるようであるが、これほど徹底していると、どこか夢の国に迷い込んだ気にさせられる。

眠りの霧に包まれた、幻の城。
ここに集う者達はどこか顔が似通っていて、それでいて個を主張するあまり深く沈降する。
ヒカル・クロスの姿はすでに無かった。
迎えの車の中で酷く憔悴しながらも、同乗している相手を気遣って微笑んでいるのだろうと思った。
本当にシャルル・ドゥ・アルディに彼女が泣いた証を見せたのであれば、彼は一体どうするのであろうか。
おそらく、ルイとは違うやり方で、彼女を慰撫するのだろうと思った。
同じにはなれなから、同じになりたいと思うのだ。
彼には過去がないから、過去に匹敵する未来を作ろうとするのだ。

しかし、本当にそうだろうか。
ルイ・ドゥ・アルディとヒカル・クロスの重ねた年月はまったくなかったのだろうか。
私は・・・それはないと思っている。
それなら、ヒカルはあれほど涕涙にむせぶこともなかっただろう。

そんなことを考えながら歩みを進めていると、反対側の渡り廊下にまで出てしまった。
・・・私にはそちらの棟に入る権限はないので、足を止めて踵を返した。
何もかもが、先ほどの風景と左右対称であるだけで、まったく同じ作りであったけれども、こちらの方がどことなく古かった。本来は、こちら側のみであったのだろう。
双子のような設計の構造。それでいて、片方はもう片方に気がつかない。
・・・・設計者の意図について考えるまでもなかった。

おそらく、その思考の持ち主であろう人物が、向こう側から歩いてきたからである。
誰も供をつけていなかった。
この館の中では、自由に・・・気儘に漫ろ歩くのだろう。彼はそういう人物だから。

彼は歩きながら薄い唇に、煙草を咥えていた。
ここは禁煙であると聞いていたのに。
彼には適用できないらしい。
白金の髪の青灰色の瞳の人は・・・私に気がついていたはずであるのに、私が誰であるか記憶しているはずなのに、私に目を遣ると、煙草を口から離して指先に移動させた。
「こちらあての来客はないはずだ」
低い、艶やかを通り越して妖しいまでに美しいバリトンが彼の唇から漏れて、響いた。
「失礼。道に迷いました」
「惑った、の間違いではないのかな」
彼は即答した。
恐ろしく頭の切れる男だという印象を受けた。
ルイやシャルルと同じ貌を持っているのに、彼はどこか違っていた。
危うい気を放っている。

私はその人物を知っていた。
とても良く知っている。

「君の名前はこちらの来棟予定者の中に入っていない。あと数歩進めば、警報が鳴り君は不審人物として連れ去られる結果になるので、そのつもりで」
ミシェル・ドゥ・アルディはそう言って微笑んだ。
しかし、青灰色の双眸は少しも微笑んでいなかった。
引き返せ、とかなり直接的に言われたことに対して憤慨しているのではない。
ただ・・・この人はどこまでも底のない闇にいるような印象を受けるので、吸い込まれていきそうになる。








 
■33

彼はあちら側の棟から出てきた。
と、いうことは、誰かと会っていたのだろうか。
治療棟は完全禁煙であったので、彼の喫煙する姿は見たことがなかったが、すれ違う際に僅かな風に乗る香りが、シャルルと違うのだという目印になった。

彼はルイ・ドゥ・アルディの教育係だ。
そして、アルディ家当主の実弟である。
一卵性双生児であるので、かなり似通った顔立ちをしていたが、まったくそのもの、ということではなかった。
ふたりが並べば違いにわかるだろう。
彼らはとてもよく似ているが、その反面、同じ顔立ちであるが故にその違いは顕著であった。

その違いのひとつに、喫煙癖があるのではないのかと思う。
彼はひっきりなしに煙草を吸う。
ルイもそうであったようだ。
・・・何か不安に思う事があるのだろうか。
それとも心に根付いてしまうほどの憤りを隠しているのだろうか。
喫煙者の多くに見受けられる、心の平穏についての陰事は様々だ。
不安、憤怒そして哀しみ・・・
彼は一体何を隠して煙の向こうに消えようとしているのだろう。

物憂げで冷たい青灰色の瞳は、こちらをちらりと見る。
これ以上その先に行ってはいけないという忠告であった。
私は彼と同じ向きに体を反転させた。
その時、ちょうど彼と肩を並べて歩くことになったので、私は一歩引いて少し後ろを歩く。

「・・・驚かないのもつまらないな」
「驚くのも予想道りでつまらないと思いますよ」
彼は同じ顔立ちの住人を幾人も見て、動揺しないでいられる私が珍しいと言った。
きっと、ルイも経年するとこのような顔つきになるのだろう。
まったく年齢を感じさせない若々しい印象のミシェル・ドゥ・アルディは、私を横目で見ると、煙草を銜え直し、そして持っていたライターで火をつけた。
歩きながらの仕草であるのに、それがとても優美で慣れた仕草であったので、私はしばし無言で彼の流れるような動作に見入っていた。
彼は一度だけ肺に煙を入れると、それで満足したかのように顎をあげて煙を吐いた。
神経質そうな指先に細身の煙草が携えられたが、彼はそれに執着していないようだった。
エントランスのごく一部のスペースだけで喫煙が許可されているらしい。
そしてそこはミシェルの定位置のようだった。
慣れた様子で、彼はそこにまっすぐ歩いて行く。
私はそのまま、彼の後について行った。
「君にも許可するよ」
彼は私の方を見ないでそう言ったが、私は首を横に振った。
頭上で軽くモーター音が鳴った。強力な換気装置が作動したようだ。
けれども、それはとても静かで、私の知恵ではどうやって作動しているのかさえ理解できないような仕組みが施されていた。
「私は喫煙しませんので」
丁寧に断ったつもりだったが、彼は綺麗な眉を少しだけ動かし、「そうか」と言っただけでまた新しい煙草を吸うために、たった今、火をつけたばかりの煙草を捨てた。
そして彼は嗤う。誰かに喫煙を奨めるのは、愚かしい行為を懺悔したい気持ちに駆られる罪人と同じなのかもしれないな、と独りごちた。

ミシェル・ドゥ・アルディは、ルイの教育係であるが、彼とは距離を置いている。
そして、彼はいつも遠くからでしかルイを見舞わない。
見舞うという行為ではなく観察しにやって来ているかのようであった。

どこか他人と距離を置きたがる彼は、ルイにとてもよく似ていると思ったし、ルイの教育係でもあり、生まれた時から一緒であるのであれば、彼はミシェルの影響を強く受けているのも頷けた。

白金の髪と、経年した大人の男性の顔である以外は、彼と・・・ルイとほとんど同じであった。
ただ、彼はどこか全身から殺気が出ていると言うのだろうか、どこにも誰も入り込む隙がなかった。

「彼は良くなるでしょう」
「オレには興味がないことだ」
彼はそう言って煙草を吸ったが、私の方を冷たい青灰色の瞳で注視していたので、その言葉は言った通りの意味ではないと思った。
だから、私は続けることにした。
これは、文字にしてはいけないからだ。記録にしてはいけないからだ。
でも、誰かに伝え残さなければならないと思った。
「彼は彼女と時間を過ごすことによって、やがて、思い出すでしょう。彼と彼女だけの時間は、決して少ないものでもなく内容の薄いものでもなかったことに」
「それで彼が蘇る確率を示すことにはならないよ」
ミシェルが皮肉っぽくそう言ったので、私は少し微笑んだ。しかし大変に緊張していた。
これほど知能が高い人物と会話すると、通常は、会話にならないことがほとんどだ。
だから、彼らは同じ血肉か近いものだけで集うのだ。もう、傷つきたくないから。
自分が歩み寄っても決して理解してもらえないという苦悶を代々、その遺伝子の中に受け継いでしまったから。
「彼は優因子を多く持つから。あのままにしておくには惜しい。何しろ、莫大な投資と時間を費やしているから」
ミシェルは冷たくそう言った。
けれども、その言葉は多かった。
彼の私見も交えた発言だった。
だから、私にはそれが、「彼が早く良くなりますように」というミシェルの祈りの言葉に聞こえた。

やがて、ミシェルは煙草を吸い終わると、まったく未練もなくそれを捨てて、そして次の煙草を取り出した。
彼は半分程度しか口をつけないらしい。
彼の喫煙癖は相当なものであると推測する。
ひっきりなしに吸っているが、この邸では、禁煙だ。
邸内に居る時間の長短は別として、彼にとっては、だいぶ断煙していたのだろう。

「確実に、彼は戻りつつあります」
「なぜ、そう言えるのか?根拠を言えよ」
ミシェルは私にそう言った。根拠がないものは信じないというアルディ家の者らしい発言であった。私は・・・・彼が私の土壌にまで目線を下げて話をしていることを感じた。
そうしてなお、彼に関する情報を知りたいのだとミシェルが言っているような気がした。
モニター越しから聞こえる音声や画像ではなく、彼らを外側から見つめる人間からの見解を求めているのだろうと思った。
私は言葉を選んで、ゆっくりと言った。
時間を稼いで焦らしているつもりはなかった。
かちり、とまたミシェルがライターで煙草に火を灯す。
「彼の中での時間経過が正常だからです。もし、彼がシャルル・ドゥ・アルディであるのなら・・・まず、ヒカル・クロスを彼女と認識しないでしょう。
なぜならシャルルであるならば、彼の最愛の友人夫妻が戻らないことを受け入れられないからです。
ところが、彼は、過去に戻らず、不仲と言われた彼と父の確執を忘れて・・・そうでありたいと願う未来を夢みている。
・・・もし、本当のシャルルであるならば、ああいう言い方はしない。
本当のシャルルであるならば・・・・確実に、過去に戻ったところから始まるからです。
それなのに、彼は『今』から始まっている。
・・・それは彼が・・・ルイが、事実を受け入れる今を生きているからです」
ヒカル・クロスが涙を流した事を憂える。
そしてルイとヒカルが結ばれて、新しい未来を築くことを願っている。
そう・・・彼は過去に戻らず、未来への期待を多く口にしたのだから。
「・・・もし、シャルルであるならば、彼のファム・ファタルとヒカル・クロスを間違えると思うのです。だから、彼は夏になると彼女を遠ざけるのだから。・・・・でも、彼はヒカル・クロスを間違えなかった。彼女の到来を待った。言葉を交わさなくても、待ち続ける・・・・そういう時間を永らく過ごしてきて、彼はそれが身に染みているから」
「つまり、彼のファム・ファタルはたったひとりだけだと言うのか」
ミシェルが低い、魅惑的な声で呟いた。私はそうだ、と言って頷いた。
「ここからは、私の感想です。
・・・・ファム・ファタルとは、生涯にただひとりだけの人のことではないと思います。

シャルルはそれを知っている。でも、ルイはひとりだけしか知らない。
そこが、彼とシャルルを大きく別つところです」
私はそこまで言って、無言でいるミシェルの横顔をじっと見つめた。
彼はどこか遠くをみており・・・・その頭の中で、高速で計算が始まっているのだと知ったので、私は声をかけることはしないで、ただしばらく無言で立ち尽くしてしまっていた。

・・・・薔薇の香りがする風が流れてきた。
自分が懸命であったので、微風に気がつかなかったが・・・・ここはずっと薔薇の香りが流れている。
ヒカル・クロスが懐かしそうに目を細める香りであった。
古い・・・思い入れのある古城と呼ぶに相応しい格式高い館の中で、彼は何を思っているのだろうか。そして彼女は何を決意したのだろうか。
 
■34 

私の様子に気がついたミシェルが説明を加えることによって、彼の思考は中断されたことを私に告げた。
つまり、彼の考え事に耽る時間が終わり、再び私に向き直ったのだ。
乱れのない線を保持する顎が僅かに動いた。
「・・・なるほど。
シャルルにとって、ヒカルの存在は唯一絶対ではないが、ルイにはそれしか存在しない、ということなのか」
私は頷いた。
「そこに、彼が気がつけば・・・・」
私は口を閉ざした。それは、ミシェル・ドゥ・アルディにはとうに承知の事柄だと思ったからだ。
その証拠に、彼は再び、優雅に煙草を吸い始めていた。
自分の想定したことが、他者も安易に予想できたことに対して少しばかり傷歎しているかのようにも見えた。

「シャルルは幾通りもの未来を選ぶ揺らぎを受け入れる。
けれども、ルイにはそれがない。
・・・そこが、シャルルが当主を譲らない理由なのか」

私は黙ったままだった。
彼は、私の意見や相づちは必要としていないからだ。

これほど似通った顔立ちの一族なのに・・・こうして見てみると彼らはとても似てはいるが皆、それぞれに違っていた。
ルイは黄金の髪をしているし、生真面目な印象を受ける。
ミシェルはシャルルより極限を好む性質のようである。
シャルルは・・・愛を知って、ヒカルという存在を得て、他のふたりよりもどこか輪郭が柔らかい気がする。
容姿だけではなく、各々、生い立ちが違う。そして、それぞれが唯一や絶対と定めるものが違うからこそ、こんな風に違う印象を受けるのだろうと思った。
だから、ヒカル・クロスは、皆、各々に見分けていると思った。

彼女は聡いとは言えないが愚かではない。
そして、人の心の機微に敏感であった。

・・・人が人を愛おしむ条件として、その素質は不要とは言えなかった。

だからこそ、彼女が誰よりも、何よりも、この不思議な家に受け入れられるのだろうと思った。
彼らを深く知らない者は、彼らを見分けることが出来ない。
けれども、彼らはそういった者ではなく・・・彼らの本質を分ける者を求めているのだろうと思った。

「あなたは、彼が戻ってくると確信しているのですね」
「理由がないから」
彼はそう言って微笑んだ。即答だった。
その答えしかない、と彼は断言したのだ。

ルイ・ドゥ・アルディが彼の主張をそのまま消し去ることはない、とミシェルは断言する。
その絶大なる信頼にも似た確信は、どこから来るのだろう。
ルイ・ドゥ・アルディが必ず復活する、とミシェル・ドゥ・アルディはここで公言する。
その根拠は・・・一体、何なのだろうか。

「ルイ・ドゥ・アルディが戻らない可能性も考える」
ミシェル・ドゥ・アルディは嗤った。
「君がそう言うだけだよ。・・・そのような結末は、誰も想定していない」
彼は、私がこの先に、誰かにこの話をしても誰も採用しないと宣言したのだ。
誰に言っても、この話は霧を掴むような話で、信用されないと言う。
けれども。
誰に言っても、この話は霧のような話で・・・それでいて核心に触れる。

それらを。

すべてを企てたのは・・・
シャルルなのだろうか。
それとも。
ミシェルなのだろうか。

ヒカルを悩ませて、ルイを惑わせて、その先にある未来を信じる者たちの理由はそれぞれだ。
けれども、道化のような役割しか与えられず、それでいて、己の生命の意味について深く問う者達へのこたえは、どのように与えれば良いのだろうか。
「・・・与えるのではない。自発するのを待て」
ミシェル・ドゥ・アルディは私の思考を読み取って、そう言った。
彼らが自分でこたえを出すのを見届けろ、と言う。
間違っていたとしても。
自分の予想と違っていたとしても。
それでも、彼らの行く先を見ろ、とミシェル・ドゥ・アルディは言うのだ。
なぜなのろうか。
シャルルよりもヒカルよりも・・・ミシェルの言葉は、誰かと比べてはいけない気がした。
 
■35

「それで、私を遣わしたのですか」
私は聞くまいと思っていたことを、尋ねてみる気になった。
彼が、ルイ・ドゥ・アルディの居棟と反対側の廊下から出てきたからだ。
同じような構造であるのならば、その棟にも、誰か・・・霧の国の住人がいるのかもしれない、と思ったのだ。
その証拠に、シャルルとミシェルは同時にここに存在しない。
ヒカル・クロスを迎えに来たと思われるシャルルは、彼女を連れて、エントランスで引き返してしまった。
ルイ・ドゥ・アルディがシャルルであるならば、シャルルと、ミシェルと、もうひとり・・・誰か別の者が存在することになる。
それは矛盾していたから。
だから、彼らは互いに顔を合わせない。

・・・ここには、ミシェルは様子を見に来ることはないと思っていた。

「何のことかな」
彼はごくありふれた言葉で返答したので、私は軽く首を振った。
「無言で役割分担をするのは、必要だからでしょう。・・・私にはまったく関係のないことです。与えられた指示のとおりに職務を遂行するだけですから」
「君の推測はいくつか、情報が足りないために、誤っている。修正をするべきだ」
ミシェルは煙草の煙を吐き出しながら、そう言った。
しかし、青灰色の怜悧な瞳はほんの少しばかりこの状況を楽しんでいるようにも見えた。
彼に意見しない私の回答が、彼は気に入ったようだった。もう少し、話をする気になったらしい。
気難しく誇り高く高い知能ゆえに誰にも理解されないという孤独を抱える薔薇の家の人は、私にそっと言った。
教えてやろう、と言いながら。
「年齢が下だが、叔父にあたる人物もとてもシャルルに似ていてね・・・。
気質がだいぶ違うので、話をしたり近くに寄ったりすると別人だとわかるのだが。それに、我々の・・・ルイの曾祖父にあたる人物は多情な人物で、その他にも異母兄弟姉妹が多く存在する。従妹のジル・ド・ラ・ロシェルもシャルルの影武者をしていたくらいなので、顔立ちが似通っている者達は、たくさん存在する」
「それでも、ルイが認識する親しい者は、そう多くないと思うのですが。・・・もっとも親しい方は、貴方かと思うのですが。・・・いかがでしょうか」
「教育係だからね」
ミシェルは肩を竦めてそう言った。
彼は口数が多い方ではないと聞く。
それなのに、これほどまでに重大な秘匿事項を私に話して・・・それでなお、自信に満ちあふれているのは、彼がアルディ家の中で大変な功績を抱えていながら、当主の実弟であるのにも関わらず、表舞台にほとんど姿を現さないことと関連しているのだろう。
彼は、華やかな光の世界を捨てて、星辰の子を創り出すことに没頭したのだ。
教育係となり、幼い頃から英才教育を施し、最高の環境を与えた。
ただ、愛というものは与えなかった。
何かに執着するあまりに、何もかもを捨てることがないように。
・・・あの研究所で密かに続けられているプロジェクトにミシェルが加わっていることも知っていた。
そこに、ルイが加わらないことにも疑問があったが、そこは私の踏み入れることの出来る領域ではなかったので、余計な詮索はしないことに決めていた。
それも影響しているのだろうか。

彼には彼の囁きを聴き取る者が必要であるように思えた。
大変に高い知能指数を持つ者は、他者と会話が続かない。その中で、シャルルとルイは、彼の問いかけに答えることができる。
そのうち、ルイは消え・・・シャルルはミシェルと親しく会話しない。
兄弟であるからなのかもしれない。
近い存在ほど、遠いものだ。

「私をここに呼び寄せたのは、ミシェル、貴方でしょう。
・・それについてどうこう言うつもりはありません。
あの研究所は、アルディ家の出資で成立しているのだから」
「君のその割り切り具合を評価しよう」
ミシェルは面白そうにそう言った。彼はすべての事柄を愉しむことができるかどうかで判断しているのだろうか。
そうは思わなかった。彼の内面はシャルルと同じかそれ以上に繊細で、そのように何事にも鷹揚であると見せかけることで、平穏を保っているように見える。
数多の人々を見てきた。
だから、少しだけわかるのだ。彼がとても・・・深く何かに沈んでいることを。

暁霧の中に居るルイが、彼の誇りを捨てて別の人物になってしまったことに、憤慨しているようにも見えた。
ミシェルは決してそうはならないのだろう。理由はいくつもあるのかもしれない。
けれども、彼はどこか・・・そう・・・どんな屈辱や汚泥の中でも生き抜く強さやしたたかさがあるように思えた。

私はここでは何の権限もないのに、最奥の居室に入ることが出来た。
設備の点検などは、他の者に任せれば良いのに。
ここでの出来事は秘密であるというのであれば、外部から誰も入れないはずだ。
それなのに・・・・私は呼ばれた。

もしも。

・・・私が、職を越えて、ヒカル・クロスと接触することをミシェルは見越していたのだとしたら。
いつも、あの研究所の治療棟で私も含め、皆に近付くこともせずに遠くで観察していたのは、ルイの経過観察ではなく・・・・彼を霧の中から救いだす補助を自ら進んで行う者を探していたとしたら。

・・・・何もかもが、ミシェルの用意した舞台の上のことであり、私は知らない間に、用意された台本どおりに物事を進めていたのかもしれない。
いや、それは、真実だろうと思った。
なぜなら、彼がこれほど満足そうに・・・遠巻きに誰かを観察するように距離を置いて話をすることもしないのではなく、今、私に話をしているからだ。
煙草を燻らす佳人を、私は食い入るように見つめた。


Q-side 暁霧 4/4

■36 

「どうにかなりそうなくらい我を忘れて溺れたいという誘惑と、何もかもを手に入れる代わりに何もかもが手に入らない苦渋は、片方しか手に入らない」
ミシェルはやがてそう言った。静かに烟る靄の中で、彼は独り言のように語る。
その前者がシャルルとルイで、後者がミシェルなのだろうと思った。
そして、ルイがミシェルと違う結論を選んだことに対して、彼は少しばかり哀しんでいるように見えたが、その一方で歓迎しているようにも窺えた。

シャルルの選択でもなく、ミシェルの選択でもない、別の路を模索している彼を、静かに・・ミシェルは、ただ、静かに見守っているように見えた。

それはとても辛い行為であったように感じる。
長い時間をかけて、彼は常に自己を律して、自らがルイに近付きすぎないように調整し続けた。
アルディ家の求める事項をルイが満たすように、教育係として彼は最大以上の最高のものを与え続けたのだろう。

・・・ここにも、暁霧に包まれた人物が居る。
改めて、また、そう思った。
薔薇の香りが、階上よりも強く香るこの場所で、彼は静かに思考に沈湎する。

「・・・ヒカル・クロスとルイの接触時間を制限したのも、貴方なのですか」
私はもう、尋ねることはできなくなるという焦燥感を感じた。ルイとヒカルに関与し続けるつもりはない。
私の役割と職務と共有時間は限られている。
彼らだけに限らず、私も含め、すべて個というものはそうやって、添って歩く時間が短い者がいるから、そうではなく生涯にわたって関わる者を見つけることができるのだと思っている。
「それが何か関係するとでも?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
彼らの特別であるというまったく根拠のない自信は持っていないし、これからもそうだろう。私はそう感じることはない。
だから、ミシェルは私を選んだのだろう。チェスの駒のように。
何気なくつまみ上げた様に見えて、彼は周到な計算を根拠に実行したのだ。

「この館で治療するということを提案したのも、貴方ですね。ミシェル・ドゥ・アルディ。・・・私の夢想ですので、否定も肯定も必要ありません。
ただ、興味があったら聞いてください」
「・・・奇妙な申し出をする来棟者に、どう返答しようかな」
彼はくすりと声を漏らし、そして酷薄そうな唇を歪めた。
恐ろしく美しい男性が、目の前で静かに・・・けれども、内心では激しく幾通りもの計算を同時に行って、行き着く結論になるためにはどのように手配したら良いのかを考え続けていた。
これまでもそうだったろうし、これからも・・・彼は生涯をこのようにして、激しさを秘めて過ごしていくのだろう。

彼は、誰かに謎解きをして欲しいのかもしれない、と思った。

その役割が、私なのだろうか。
私はそのまま続けた。

「彼は決してこの状況を望んでいません。
先ほど言った通りで、彼は未来を生きるために、生きている。・・・本当のシャルルではないから、過去に戻れないことを知っているのです。
だから、シャルルが愛した人々の名前を挙げることはせず、ただただ、ヒカル・クロスとルイ・ドゥ・アルディのこれからを案じる父親の影を追っている。
ヒカルとルイ・ドゥ・アルディが生まれる前の事については触れない。
それは、シャルルがおそらく・・・ヒカルには伝えていたかもしれないが、ルイには話をしていないからでしょう。
主観的な陳述は一切しなかったのかと思われます。
そこには彼は・・・いなかったからです。
だから、ルイは、決してそこには触れない。
想像の世界だけで、物事を述べることは根拠のないことだ、と今の貴方のように考えているからでしょう。
・・・・彼には、戻る過去がないから、未来しか選べない。
過去に入れば、二度と戻らないとわかっているから。
過去は、現実を飛び越えて、未来に渡ることはできないから。
・・・過去に戻れないように、そういう風に、誰かが仕組みを作ったとしたら。
・・・・ルイ・ドゥ・アルディは目醒めるでしょうね、確実に」
「随分とお喋りなのだね」
「口が過ぎれば謝罪します。でも、このことを、彼女は・・・ヒカル・クロスは、悟ったから。あれほど激しい涙を流すのでしょう」
ミシェル・ドゥ・アルディはそこで煙草を捨てた。
用意された曇り一つないトレイに、煙草を投げ込む。
・・・そこからまだ煙が立ち上っていた。

「彼女は人前で泣かないことを信条としているからね。
・・・それを覆すときが、良い機会であるから」
彼は否定しない代わりに、そのように答えた。
沈黙さえ媚薬のようであった。彼に抗う神は存在しないようであった。
何もかもが、彼に平伏す。事実も、想定される未来も。
それなのに、彼は満たされていないようにただ、物事を弄ぶように采配している様子を見せ続ける。
本当はそうではないのに。

彼が導き出す答えは、ルイだけではなく、ヒカル・クロスさえ救うのだと、一体、どれだけの者が理解しているのだろうか。

私は緊張の余り、暑くもないのに汗が噴き出していることに気がついた。
無粋な面持ちで早口で彼の前でまくし立てる仮説は、少しも彼の興味を引くものではないはずなのに、ミシェル・ドゥ・アルディは、役に立たない私の話に耳を傾けた。


 
■37

この先に・・・どんな咎めを受けても良い、と思った私の言動がミシェル・ドゥ・アルディに障ることなく会話を続行することができたことに私は少なからず安堵を覚えた。

「ありがとうございます」
彼は肩を竦める。
白金の髪が頬に降りかかった。
・・・・ルイがなりたかったのは、見事な黄金の髪ではなく、こういう色素の薄い色なのだろう。
しかし私はそれを口に出さない。
自分の感想を述べるのは、避けるべきであった。彼の・・ミシェルには誰がどう感じているかは必要ではないように思った。
そして実際に、彼は、私の感想や他者がどう思うのかということについてまったく口述していない。

「礼を言われるようなことはしていないが」
私は首を振った。
「いいえ・・・・貴方はやはり、彼の・・・彼らの最大の理解者であると思います」
「それは讃辞にはならないな」
彼は唇を歪めた。
その姿さえ美しい。
ルイより長い年月を生きているからだ。
長く生きている者は、それだけで美しい。
私はそう思う。

この世の全てを見聞きして、そして生き抜いてきた者だけに与えられる美がそこにはあった。
彼は実兄と当主争いをして、フランス国内だけではなく国外でも大変に話題になった人物であった。再び実兄が当主に座することを彼が承諾したのか、詳細な経緯は明らかになっていない。
ただ、しばらくの間まったく存在さえ消えていたのに、ある時突然彼の名前が浮上してきたのだ。
突然、とは言ったが、機を待っていたような印象を受ける。
まるで、計算されたかのようだった。
それは、シャルルの表舞台への出現が極端に減る頃を見はからったような時期ばかりであった。
・・・まるで、ミシェルがそこに居ると思わせるかのような存在の主張であった。
フランスの華と呼ばれる兄と同じ遺伝子を持ちながら、彼には尊称がない。
星辰の子と呼ばれるルイの教育係でありながら、彼には尊称がない。
他者が呼びならわすものについてはまったく興味がないようであった。
そして、ミシェルはおもむろに言った。
「君は面白いな。
・・・まったくの傍観者であると思ったが、オレの計算違いだったようだ。
職務を越えて彼らとの接触時に説教するのは、あの棟の所員の中では、君と・・・ジルだけだろう」
「ジル・・・」
私の記憶の中にある情報の検索結果に合致するのはひとりだけしか居なかった。
ジル・ド・ラ・ロシェルだ。
アルディ家ゆかりの者で、研究チームの名前に加わっていた。
ずっと前に退所したと聞いたが。
彼女の残した論文は、いくつかが公開されていて、私も読んだことがあった。
・・・未来を予想する者はこんな思考をしているのかと驚歎したので、彼女の名前を覚えていたのだ。
ミシェルの論文もシャルルのものも読んだことがあったが、もう、私の知能ではとうてい追いつかない高度なものばかりであった。
けれども、彼女の論文の書き方は平易で、誰かに読んで貰うために故意にそう書いているような印象を受けた。
文字には温度は存在しないが、彼女の論文は暖かい色があった。

そこで私ははっと顔を上げて、ミシェルの顔を見た。
すると、彼は私を観察するために、面白そうに青灰色の瞳をこちらに向けていた。
あまりにも造作の整った者というのは、時折恐ろしくなる。
ルイ・ドゥ・アルディに対してもそう思った。
だから、ヒカル・クロスの柔和な穏やかな空気に安堵した。
それは事実だ。
同じ様に。
ミシェルが安堵する者が居るとしたら。
それは・・・・
私は、彼がやってきた方角を見上げた。
ルイ・ドゥ・アルディの居室と反対側の棟。

ミシェルが一人だけでそこに入り込む場所。
ヒカル・クロスには、そこに立ち寄るには許可が必要な場所。
ルイ・ドゥ・アルディは、過去に還ることはないと断言するミシェルの根拠。

・・・すべてがそこにあるとしたら。

私は言葉に詰まった。
彼がこれだけ多くの情報量を放出しているということは、意味があった。
彼はではない誰かに、気がついて欲しいという願いとひとかけらの気まぐれがそこにはあった。
知らないふりをした方が、正しい選択だったのかもしれない。
けれども、ミシェルは私に選択を委ねた。
気がつくか否か、という選択だ。




 
■38

私とミシェルの間に、薔薇の香りのする風が吹いた。
なぜ、このタイミングでそれが吹くのかについて神秘性を持たせるつもりはない。
けれども、私はそれが自分への合図だと思った。
どういうわけか、その時にはそうであると信じたのだ。
ミシェルが、誰かに気がついて欲しいと願っているような気がした。

私は悟った。
もうひとつの棟に、誰が居るのか。
そして、その相手に対して、彼は何かを願っているのだということを。
あやふやな結論かもしれないし、導き出すには根拠のないことも含まれているかもしれなかった。
でも、私はそれを言わずには居られなかった。
誰かに、背中を押されたような感覚を味わう。
この薔薇の風が、そうさせるのだろうか。

どうして、彼女の名前を出したのか。
私と同じ様に、職務を越えてしまったと彼は言った。
しかし非難する口調ではなく、かえってそれを歓迎しているようであった。
そしてそれは必要な要素であると言った。
彼の高い知能で考えついた結論は、彼を満足させているらしい。
それだけ揃っていれば十分だった。

ミシェルは、長い時間をかけて、待ったのだ。
それこそ、気の遠くなるような長い年月を。
彼はヒカル・クロスとルイ・ドゥ・アルディを待った。
生まれてくるのを待った。
そして・・・この時期が到来するまで。
彼は、待ち続けた。
最大幸福を得るために、自分の幸福を捨てたのだ。
それ故の、結論なのだろう。
ルイとヒカルが、彼らだけの時間を持つことによって、未来へ生きることができると彼は判断した。
それは私の推測のように根拠のないものは存在しないのだろう。
なぜなら、彼はおそらく・・・これも私の想像でしかないけれども、あの棟の人との時間の中で、それを確信したのだと思った。

そしてルイが本当に真の強い魂を手に入れるために何をしなければならないのか、彼は考え続けたのだ。ずっと・・・・ずっと。
孤独な作業だったと思う。彼の思考を共有することはできないから。
唯一、彼を理解するであろうルイは、彼を認識しない。
苦闘の末に実弟から当主の座を勝ち取ったが、埋められない溝があるとだけしか感じることが出来ない。
シャルルとしての、ミシェルとの想い出がないからだ。

そして彼は、自分の経験した方策と別の策を実行することにした。
ルイが戻るためには、どんな投薬治療も効かない。
ルイの肉体は癒えても、魂が沈んだままだ。
それを癒すのは・・・ヒカル・クロスだけであると、彼は思料した。
彼女との未来の中で、シャルルのままでは決して結ばれないことと、彼の中で眠る彼女への渇望と・・・彼の誇り高さを計算したのだ。
結論を幾通りも考えるのではない。
そうなる結論になるために・・・ただ、ひたすら、その答えになるように、過程を計算した。

おそらく、彼の待っている「向こう側の棟の住人」も、彼を彼と認識しないのだろう。どれほど長い時間を持っても。
彼は彼女を取り戻すことが出来ない。だからここにやって来る。
・・・きっと、彼女は、ミシェルをシャルルと呼ぶのだろう、と思った。
私の推測でしかないが。
尋ねても、これに関しては、彼は決して答えないと思った。

もう、彼は私を見ていなかった。
私に期待した役割を、私は意図せずきっちりと果たしたらしい。
彼は病棟に来ていたのは、ルイの様子を確認するだけではなかった。
・・・決められた枠の中からはみ出してしまうような因子を持つ者を探していたのだろう。
それが、私であったわけだ。
誰かを雇うわけにはいかない。
そうやって近付いた者は、ルイにはすぐに感づかれる。
それに、持っている駒だけで動かさなければ秘密が漏れると彼なら考えそうだった。

どうして、シャルルに助力を求めなかったのだろうか。
ルイを救うためなら、彼は賛成しただろう。
・・・いや、違う。シャルルも同意したのだ。
なぜなら、ヒカル・クロスひとりをここに遣り、彼は迎えに来てもすぐに退邸してしまった。
ここに、シャルルが複数人いるわけにはいかなかったからだ。
こちらの棟と、あちらの棟で、各々別の人物がシャルルと名乗るから。
だから、本当のシャルルはここにはやって来ない。

彼らのためだけに整えられた巨大な治療の館は、シャルルの許可なしには設置することができない医療器具が複数揃っていた。

どうしてこんなに拙い表現しかできないのだろう。
高い知性と富も名声も持っているのに。
何でも持っているのに。
それなのに、彼らは互いの手を取り合うことを知らない。
皆が、霧に包まれている。
風や光を求めて、霧の中を歩く者達がここに集う。
・・・遠くで聞こえる声や気配を頼りに、自分の信じた方向に向かってただ彷徨い歩いているのだ。
その先が、断崖絶壁であったとしても。

私は、胸が詰まった。
唇が震える。
でも、それを止めることが出来ない。
自分の身体であるのに。
声が喉を通って音になる。
それが、ミシェルだけではなく・・・風に乗って、この棟の中で眠りにつく薔薇に還ると言われている一族の者達に、届くようにと祈りながら。
何かに祈ったことはない。
神に縋ったりしない。

けれども・・・この瞬間だけは、私は自分の声に祈りを込めた。
誰かが、何かが・・・誰かの肉体を借りるときには、こんな風なのだろうか。

「ミシェル。・・・彼女もきっと、またあなたをミシェルと呼ぶようになるでしょう」

しばらく無音が続いた。
遠くで、噴水の水が弾かれる音がするばかりだった。
さっきまで感じていた風も、そこにはなかった。
ただ・・・煙草を吸うこともなく、無言でじっと宙を見ているミシェルがそこに居るだけだった。
いや、違った。
彼は、少し上を見上げて、双塔を見つめていたのだ。
青灰色の薄い眼差しで、彼は霧の先を眺めているような、そんな様子だった。

「・・・過ぎた言葉は身を滅ぼす。忘れないことだ」
魅惑的で一度聞いたら忘れられないような低い艶のあるバリトンが響いた。
ミシェルは私の言葉に否定はしなかった。
 
■39

張り詰めた空気が私をさらに緊張させた。
けれども、その静寂を最初に破ったのは、ミシェルからであった。
「ここで長居は無用だ」
それが彼の言葉だった。
もう、私がここに居る理由はないのだ、と彼は宣言した.

「あの方達は・・・結ばれることはあるのでしょうか」
「それは愚問だな」
ミシェルは艶然と嗤った。
私が言うところの彼と彼女について、ミシェルはその先を知っているように思えた。彼は過去を見つめながら現在を生き抜き、未来を想像することができる。
なぜ、これほどの人物が、影のように生きているのか・・・私は、最初は・・・理解できないと思った。
でも、理解できないと言い切ってしまうことは簡単なのだと思った。
彼と話をして、短い会話の中で・・・・ミシェルは、シャルルでもなくミシェル・ドゥ・アルディとして生きていると思った。
彼も、生について霧中を彷徨い、そしてこたえを見つけようとしていると思った。
なぜなら、どんな辛苦辛労を厭わず、彼はただ、見つめるという苦行に近い行為を続けているからだ。

生きるということについて、彼は執着している。
だからこそ、彼は生命について問い続けている。
そして・・・・何かを購おうとしているようにも見える。
だからこそ、彼は生き抜こうとしているのだろうか。

彼は冴え冴えとして青灰色の瞳を私に向けた。
私は、この色を知っている。
ルイ・ドゥ・アルディも同じ瞳だった。
今、真理を語る白金の髪の麗人は私に去れと言った。

「この家の者は、独特の価値観で生きている。・・・・それが高邁であると固く信じている。しかし、オレはそうではないと問い続ける」
深い深い・・・・よく響く声で、ミシェル・ドゥ・アルディは言った。
「何かに執着することが、変化をもたらし亜種を創り、強い因子となることを、彼らは気がつかない。
・・・誇りがあるなら今すぐ死ね、と言われたが。誇りがあるから今すぐ死ねないのだ、という可能性を持つことについて考えない。
ヒカル・クロスが必要な素子であると認めるのは少々やっかいだが・・・・この家の者達が、彼女を受け入れることができるとき。彼女のような存在を必要だと自分たちが求めていることを知るとき。それが・・・・それが最後の舞台になるのだろう」
私は饒舌なミシェルの言葉を聞くだけであった。
その言葉を理解するより、記憶することだけで精一杯だった。

だから、後になって何度も反芻した。
そして、何度も咀嚼して初めて理解した。

・・・・何かに執着してはいけないと育てられたルイが、霧の中で見つける・・・一条の光のようなヒカルの存在であり、彼は彼女に・・・生命の輝きに手を伸ばそうとしている自分に気がついた時に・・・彼は戻るのだろう、とミシェルは予測しているのだ。

「ルイは成就することは望まない。
・・・シャルルの影響を受けないように当人は気を付けていただろうが、それでも影響を受けているのだろうな。
結びつくことは、様々な定義がある。彼は・・・ルイは、ヒカル・クロスと今生で結婚するというより、彼女の唯一絶対になりたいのだと考えている」
ミシェルが断言してそう言ったので、私は驚いてその言葉に尋ね返してしまった。
それが彼を不機嫌にさせると承知していたけれども。
「恋人同士より深い絆を求めていると思ったのですが・・・」
「彼が求めているのは、それ以上だよ」
ミシェルは不敵に笑った。
「そういう曖昧なものは必要としない。ルイは星辰の子と呼ばれている唯一の者だ。
・・・・肉体だけであったり魂だけであったり、結びつくことを求めていない。それが、ルイ・ドゥ・アルディだ。
・・・彼がひとりだけを・・・ヒカル・クロスをファム・ファタルに定めたのは、恋情で片付けられない様々なものがあり、彼と彼女の因子がこの家を大きく変化させていくと知っていたからだ」
私は彼の言葉の半分以下しか理解できなかった。
確かに、ルイ・ドゥ・アルディは優性遺伝子を多く保持する者であった。
また、ヒカル・クロスについても同じで、彼女の腕には予防接種の痕などが一切残っていなかった。
彼女の止血をした時に、それには気がついていた。
国籍が違うからだと思っていたが、彼女はこの国に長く居住している者であるから、それはあり得なかった。

・・・つまり、ルイとヒカルは、ジーン・リッチなのだ。デザイナーズ・ベビーとも言うが。

予め・・・・感染症や病気などの懸念を排除された因子保持者達なのだ。
ミシェルの言葉で確信した。
彼らは・・・・新しい未来を築くために、アルディ家に必要な優性遺伝子を多く保有する者達なのだ。

「完璧でないから完璧になるのだ」
彼は囀るようにそう言った。
「でも、私は、彼と彼女が惹かれあうのは・・・そういう外的要因だけと片付けたくないのです」
「それは君の主観だろう」
ミシェルは嘲ら笑った。
「どの代で融合しても、まったく問題としない。ただ・・・・彼らの遺伝子が混じり合い、この先の・・・この館の中で本当にそれを必要とする者に適用できれば、それでオレの考察は終了する」
彼は軽くそう言った。けれども、それは真理だった。

ミシェルは、ルイとヒカルという組み合わせではなく、ヒカルとシャルルと・・・その次世代の者とルイという掛け合わせでも良いと言ってのけたのだ。
まるで、実験をしているかのように。
しかし、その表情はそれまでの無表情と違い、やや、昂揚しているように感じた。
彼の願いは、何なのだろう。
アルディ家には、憂悶は感じるだろうが、それ以上の期待をかけるような理由が、彼には存在するのだろうか・・・・。

「双子は昔から不吉であったが。現代においては、人工的に操作された生命について異論を述べる者は少なくなった。・・・倫理問題の解決に伴い、一斉に開発が進む時代に生きる者達は、細胞分裂の過程でそのほとんどが多胎児だ」
私は黙ってしまった。
ミシェルとシャルルは、時代を先駆けした優性遺伝子保持者だと彼が遠回しに吐露しているように聞こえて仕方が無い。
しかしミシェルは私の考えを見越して、軽く首を振った。
ひょっとして・・・母細胞から創りだしたストックの存在であるミシェルの方が、より高い知能を持ち、より多くの優性遺伝をもたらすとアルディ家が分析したとしたら。
・・・・この家の「もう一人の住人」と、ミシェルが頻繁にこうして会い、そしルイはその対面で療養していることに、説明がつく・・・
私はこめかみに汗が流れるのを感じた。
私の中で生まれた「ひょっとしたら」が一人歩きを始めたからだ。

ひょっとして・・・・ルイは、ミシェルと「あの人」つまり、ジル・ド・ラ・ロシェルの遺伝子を使って生まれたアルディ家の最も濃い因子を持つもので、ヒカル・クロスの因子を入れたいという希望はアルディ家の者達の優性遺伝子を完成させるものだとしたら・・・


■40

「古来から、人々は不老不死であることを求めたが、それは実現しない。それは細胞レベルで維持できないからだ。
だから次に、不病であることを求めた。
その次に、たとえ病に陥っても、自らの肉体が再生すれば良いという結論を出した」
神話や寓話の転生や再来というものではなく、彼の言うそれらは、実現可能な言葉であった。彼の頭脳と彼女の肉体があれば解決することなのだろう。
それだけのことであるのに、周囲の者達は彼らを暁霧から無理矢理引き出すことをしない。
それを阻止しているのが、ミシェルとシャルルなのだろうと思った。
各々やり方は違うかも知れないが。

人が生きるとはどういうことなのだろう。

つつがなく健康で、最期の吐息の瞬間まで意識を持ち、それでいて苦痛のない死を迎え、家族や愛する者に見守られながら、逝くものの、存在を忘れられることなく別の者達がその者が居たという記録や記憶を引き継ぐことなのだろうか。

ルイの直系家族の病歴を見たことがある。
精神疾患や血液関係の病気を煩ったり、夭折していたりすることが多かった。
病だけではなく、時代の奔流に呑まれて若くして命を失ったものもいたが。
彼らの系図を遡ると、大変に興味深い生涯を送っている者が数多居た。
彼らの医療技術をもってすれば、助かったかもしれない。けれども敬虔な信徒である一族の目の前に、倫理や宗教観の遵守が立ちはだかり、生きることができた者を見送る結果になるとしたら。
彼の系図はそれを感じさせるものであった。
しかし、彼の資料は、アルディ家のみ・・・つまり、父方のみのものであった。
原細胞を調べるのであれば、母方の系図の方が必要であるということはミシェルはよく承知しているはずであったのだが。
それなのに、それらの資料は用意されていなかった。
それが私の「ひょっとしたら」という考えを加速させることになったのだ。

「仮定から導く理論はひとつに絞ることだ」
次々に湧き起こる「ひょっとしたら」に、ミシェルが忠告した。
それを確認する手立てが私には皆無だった。

でもその言葉で十分だった。
ミシェルが、ルイとヒカルを結婚しない可能性もあることを示唆していたから。

彼の目的は、達成されるのだろう。
そう遠くない未来に。
未来を生きようとする者達によって、アルディ家に必要な遺伝子と性質を持つ人間が、この家に誕生する。

・・・いいや、違う。
融合するのだろう。
優れたものだけを縒るのではなく、不完全さを取り込むことで、完全になるのだ。
ミシェル・ドゥ・アルディがそう言ったからだ。

相反する性質が、混じって溶け合う。
冷酷であるけれども慈悲深く、計算高いが果敢であり、豪胆であるが繊細な者。
病を抱える因子を持つが、それを癒す因子も持つ者。
相反する・・・相対立するものが同時に存在し、彼の信念である生き抜くことを選ぶ者が現れるのだろう。
そして、その中には、きっと、愛を知りたくないと思いながらも愛を求めてしまう性質も含まれているのかも知れない。その逆かもしれない。
愛を知っているのに、愛を受け入れることに不器用な者が生まれるのかもしれない。
でも亜種が居なければ、種の継続は難しい。
同じ質の集団は一度の攻撃で滅されてしまうからだ。

だから。
たとえ、その時に彼自身がこの世に生きていなくても、彼の願いは生き抜くのだろう。
彼が言っている生き抜くということ・・・彼の成就とはそういうことなのだ。
彼自身の生存を言っているのではないのだ。

私はこの風変わりな人を無遠慮に眺め回してしまった。
彼の容姿に惑わされる者は多いと思う。
そして私もルイ・ドゥ・アルディを知っていなければ、彼の美貌に惑わされて、彼の言葉の意味について考えなかったのであろう。
よく切れる刃物を連想させる。彼に触れれば、誰もが切られる。
そして内に潜む熱望を曝け出してしまいそうになる。
それでいて、切る都度に彼は自らも切られるのだろうと思った。
切られる度に己が表出しないように。
・・・内なる己を出さないようにするためには、深く深く、個を沈めるしかなかった。

探求の極みというものは、こうやって、自分の生きているうちに何かを為し遂げようという焦りを捨てた者だけが・・・到達することが出来のかもしれない。

「私のような者ができるのは、ただ祈ることとだけですよ」
私は肩を竦めて私はそう言った。

彼の求めた枠を越えてはいけない。
彼はそれを求めていない。
そんな気がしたからだ。
そこは・・・私が踏み込んではいけない領域であり、彼はそこに立ち入ることを望んではいない。

「こんな仮説がある」
ミシェル・ドゥ・アルディは囀るように、そう言った。彼は研究者だ。
だから、仮説については決して口に上らせることはないのだ。
それなのに、私に「仮説だ」と言って彼の考えを伝えようとする。
・・・それがどんな意味を持つのか、私は知らないふりを理由にして、聞き流すことができなかった。
あり得ないことを仮説として私に聞かせる。

なぜなのだろう。
どうしてなのだろう。

彼は時折、気まぐれに・・・彼の知能に及ばない者達に彼の考えを植え付けるのだろうと思った。
理解しているかどうかは問題としない。
ただ、彼の声を聞いてくれる者に、声を残す。
そうやって、彼は、彼の生きている証を残しているのだと思った。

 
■41

「なぜ、同じ様な顔立ちの者がこの家には多いのか。
なぜ、父系の系図原簿しか存在しないのか。
母方の持ち込む劣性遺伝子は影響しないのか・・・何かを繰り返し行った結果なのではないのか。
・・・その『何か』とは夢想であるかもしれないし、そうでないのかもしれない」
彼は仮定の言葉は用いない。
それについては、ミシェルの考察は終了しているのだろうと思った。

彼は私を見ていなかった。私を通り越して・・・彼がやってきた方角の棟を見つめていた。
彼の問いかけに答えることのできる知性を持った者は彼の家に多く存在するのに、彼の声は届かない。
しかし、彼は歎くことなく無言で問い続けているのだろうと思った。
「あなたの仮説は、きっと仮説ではなくなる時がくるでしょう」
私はそれだけを言った。
私の言葉が気に入ったのか、彼はふと、そこで青灰色の瞳を私に向けた。
この上なく怜悧な頭脳の持ち主がここに居る。
けれども、彼は、孤独だった。
しかし熱さを知らなければ寒さはわからない。
孤独も孤独だけしか知らないのであれば孤独を理解できない。
・・・だから、彼は誰かを愛し、誰かから愛されたことがあるのだろうと思った。

「時間だ」
ミシェルがそう言ったので、私は頷いた。
これ以上ここに居てはいけないのだと彼が忠告する。
そですね、と私は彼の言葉に従う。
「長居をしてしまいました。・・・・どこかで、彼らの話を聞くことが出来ることができると良いなと思っています」
「あなたがあの研究棟で勤務し続ける限りは、それは実現性の低い事ではないはずだが」
ミシェルの言葉から、彼らから私に接触することは二度とないということがわかった。
利用されたと憤慨しても良いのかもしれない。
けれども、怒りはわかなかった。
私がそうできない性分であったのかもしれないが、それより何より・・・彼と彼女の透明な・・・透き通ってしまいそうなほど濁りのない、強い想いと絆があまりにも痛々しかったから、分を過ぎたことをしてしまった。
ただ、それだけだった。
「何かをしてあげたくなってしまうと考えるより、動いてしまう。特に、彼女には。・・・不思議な人ですね」
「それが必要だからだよ」
ミシェルは素っ気なくそう言った。
彼の求める因子というのは、彼女のそういう気質のことも含めてなのかもしれなかった。
私がミシェル・ドゥ・アルディの艶やかな低いバリトンの声を間近で聞いたのは、それが最後になった。

一礼をして背中を向けると、また、かちりとライターを点す音がした。
彼はまた煙草を吸い始めたのだ。

それほど長い時間の会話ではなかったはずであったのに、私はとても疲弊していた。でも、心地好い疲労感であった。
彼のように、優れた才能と知性を持つ者には、人が群がる。
けれども、長い時間をともにしようとする者が少ないのは、きっとこんな風にして、会話に疲れるからだ。
自分の脳が尋常ならざる速度で稼働するからだろう。

また、来た路を戻る。
でも、幾度も繰り返す錯覚の迷宮のように、私の視線は、ルイの居室のある棟の方を向いていた。
彼がいつか・・・自分の本当の望みに気がつけば良いのに、と思った。
しかし、それは口にしなかった。
そして、もうひとりの「誰か」についても思いを馳せる。
ヒカル・クロスがあれほど涕泣したのは、ルイのことだけを思ってのことではなかったのだろう。

どうして、この家の者達は不器用なのだろうか。
何でも持ち得ているのに、何でもできるのに、何でも手に入るのに。
ただ一言で良いのに。
愛しているよ、と言うだけなのに。
ただ、黙って・・・傍に居るだけしかできない。
愛していると伝えるだけのことができないで、苦悶の霧の中に迷い込んでしまう。
ヒカル・クロスはそんな彼らの晄なのだろう。
名前の通り、彼女は彼らの晄になるのだろう。

ミシェルの言葉から、ヒカル・クロスもルイ・ドゥ・アルディも遺伝子操作された命であるらしいということは理解できた。けれども、それだけでは生き抜くことはできないのだとミシェルは考えている。
それに、シャルルもヒカルも賛同しているのだろう。
だからこそ、各々の役割分担とでも言うべき無言の誓いを立てているのだろう。
愛しているよと言わないで、ただ傍に居ること。

遠く離れている方がまだ、心安らかであっただろうに。
傍に居て、何も言わず、ただ傍に居て・・・そういう日々を重ねていくことの重さを感じながら過ごす。

「諦めるか忘れるかのどちらかだ」
ルイがそのように言ったことがあった。
誰の何についてそのように言及したのか、その時はわからなかった。
しかし、それは・・・愛についての彼の考察であったように思う。
いや、その時は「シャルル」としての考えであった。

どうしても忘れられない人が居る。
その人が幸せになるためには、諦めるか忘れるかのどちらかしか自分には残されていない。
でも、忘れたくない。
だから、諦めたのだ。
秘めたる想いを諦めることも、忘れることもできないから。
ルイは・・・自分自身で居ることを、諦めたのだ。
彼が持っている誇りを捨てて。彼は、諦めてしまったのだ。

私はエントランスに向かって、歩いた。振り返らなかった。
そうしてはいけない気がした。
ミシェルの表情を見てはいけないと思った。
彼が、彼だけのために浮かべる表情は微笑みなのか苦悶なのかわからない。
けれども、誇り高い彼はそれを私に見られたくないのだろうと思ったから。
だから、私と一緒に歩かない。
彼は私と時間を置くために、煙草を吸っている。

ルイ。
忘れてはいけない。
諦めてもいけない。
あなたが、あなたであるために、これだけの人物達が心を砕いているのだから。
決してルイはひとりではない。
孤独を感じるかもしれないけれども、彼には愛する者がいて、彼は愛されているのから。

だから、彼はこれからの時間を静かに重ねていって欲しい。
きっと、彼は良くなる。きっと、彼は戻ってくる。
私が会ったときにはすでにルイ・ドゥ・アルディはそこに居なかった。
彼はシャルル・ドゥ・アルディと名乗っていた。
だから、ルイと話をしたことはない。
けれども、私は知っている。
寡黙で知性ある金の髪の青灰色の若者は常に優しかった。
ヒカル・クロスの来訪を待ち詫び、それで居ながらも、自分を気にかけてはいけないと言うかのように決して彼女と言葉を交わすことはなかった。
それなのに、彼女の用意した端末を大事にして、黙々と訓練を重ねていく意志の強い人物だ。

薔薇の香りがした。
また、風がそよぎ始めたのだ。
外気を吸ったから、館に充満する薔薇の香に改めて気付く。
人間の嗅覚は最も慣れやすい感覚であるにも関わらず、常に薔薇の芳香を感じる。
それは、薔薇を絶やさないように誰かが配慮しているからだ。

私は・・・・その薔薇の風を背に受けながら、この不思議な館を後にした。
長い夢を見ているようだった。
出る時は、入館するときの緊張と同じくらいに、緊張していた。
揺られていた舟から地面に降り立って、まだ揺れを感じているような陸酔いに似た感覚と言ったら良いのだろうか。
自分の生きる世界とあまりにも違う空間であったが、そこには確実に、そこで生きる人達が居た。

どういうわけか、込み上げるものがあった。
ヒカルの涙を見たからだろうか。
それとも・・・苦しくなるほど切ない願いや思いを受け止めてしまったからだろうか。
秘めたる想いがここには幾つも存在した。
私はその幾つかに遭遇したがもっともっと・・・違う想いがあるのかもしれない。
ほら、私は彼らの側面や、ほんの一部分しか知ることが出来ない。
交わった時間の中だけで、彼らの全てを知ることは出来ない。

だから、私は業務日誌には何も書かなかった。
ただ、最初に命じられた設備の確認の報告だけだであった。
滞在時間が長すぎたはずなのに。
入退の記録がおかしいと言う者は居なかった。
私が咎めを受けないように、誰が手を回したのか、承知していた。

私の一日は終わった。次の日からは、またいつもの日常だった。
でも。
いつか、きっと、ルイ・ドゥ・アルディに会える。
そんな予感がした。
根拠がないね、と彼はきっと、笑うだろうが。

 
■42 epilogue01 暁の霧 

・・・・それっきり、私の記憶は更新されていない。

なぜなら。
私は、ほどなくして研究棟から異動になったからだ。
以前から希望していた配属の変更願が受理されたからだ。
そして関連する団体に籍を置くことになり、それは身に余る好待遇であった。
希望すればどんな研修も受けさせてくれる。
各国の視察に行き、最先端の技術に触れることができた。
負傷した者が受けるべき心的外傷にかかる治療の考察について、短い論文を出したことがきっかけだった。
それが・・・私が医療従事者から医療研究者になった理由だ。
私の長年の経験によるところのものであったが、アルディ家との関わりによって、それを出そうと思った。
売名行為を目的としていないから、もちろん、アルディ家の私邸で起こった出来事や、彼らに関する記述は一切ない。

でも。彼らとの関わりの中でひとつ確信したことがあった。
人は再生するのだ、と言いたかった。

今では、再生医療は大きく変化し、誰もが・・・安価で安全な治療を受けることができた。
医療業界のそれまでが覆される画期的な再生医療方法が開発されたからだ。
そして間もなく・・・それを本当に求めている地域には無償と言える値段で施術されるようになる。

それはフランスの華が永らく望んだことであり、彼が永年に渡り携わってきたあの国に対する最も大きな貢献の一つであった。
それは彼一人でできることではなかった。
彼を支えた者が、ひとりやふたりではないことを証明した。

私は、その結果だけ知れば良かった。
ルイ・ドゥ・アルディやヒカル・クロスのその後の結末を、知ろうと思えばそうできた。
しかし、彼らに接触するつもりはなかった。もう、生涯、逢うこともないだろう。

私の寿命も永遠ではない。
限りがある。平均寿命はもっと長いはずであった。でも。
このまま終わるかもしれないという予感を幾度か経験した。
望んで危険な地域に足を運び、感染のおそれがあるとされた病に積極的であった故のことで、それは私の希望であったのだから仕方が無い。
驚異的な発見はできない。
私は凡庸だから。
だから、地道に臨床例を記録して少しばかり考察を加えて報告する仕事しかできないが、それを恥ずべき仕事とは思っていない。
その仕事に従事していなければ、彼らに出会うこともなかったからだ。

忘れてしまっていたというのは語弊があった。
正確には、思い出す機会が減ったという言葉が正しかった。
しかし、今でも、薔薇の香りに触れると思い出す。
涙を流した彼女の瞳の色や、金の髪の星辰の子のことを。

出資のほとんどがアルディ家であるあの研究所から離籍しているわけではなかったから、時折・・・ルイ・ドゥ・アルディの名前が出ることがあった。
彼は執務に復帰し、そして生きている。
戻って来たのだ。
彼がルイ・ドゥ・アルディという名称を用いているのであればそれは確実であった。それだけわかれば、私はそれで良かった。
いいや、その先を知りたくなかったのかもしれない。
ヒカル・クロスと、ルイ・ドゥ・アルディが結ばれなかった結末と、結ばれた結末と・・・両方が考えられたが、私はそのどちらの結果を聞いても胸が痛んだと思ったから。
それが理由で積極的に国外の研究所に赴くことにしたのかもしれない。

それなら、忘れていたという言葉は正しくないな。

あの家の者達なら、きっと、そう言って私を嗤っただろう。

しかし、私は今般、改装した研究棟に戻って来た。
なぜならば、感染率の高い接種事業があり、私はそれに参加する旨を表明したからだ。
それは特異なウイルス感染で、東洋人には感染しないとのことだった。
ある特定の家系にのみ感染すると考えられていたけれども、国際化が進んだ我が国のこども達に影響するという判断があり、このたび予防接種の種目に追加された都聞いた。
そして予防接種の際に流れ出る体液に感染する可能性が高いと聞いた。
だからしばらくは希望者のみだと聞く。
でも私には感染しない。
永らく虐げられてきた特徴が生かせるのであれば。
それは恥ずべき行為でも表明でもなかった。
私の体質が誰かを救うのであれば・・・それはまったく問題にならない。
応募を求める回覧メールに、私はすぐにウイのチェックを入れて返信した。

予防接種に至るまでの、開発年月はいつも長い。
なぜなら、大変に危険を伴うから。

拒絶反応を示す者も居る。
接種という行為でなければもっと違っているのかもしれない。
定期的な皮膚吸収のパッチでも良かったのかもしれない。
でも、接種が最も効果的であると判断したのがあの研究棟であるならば、きっとそれは正解なのだろう。
理解は少ないかもしれないが、やがて、時間が解決するだろう。
だから、私は参加することにした。
ひとりでも多くの命が救われるのであれば。
もうすぐ消えそうな私の命が糧になるのであれば。

・・・そこで、久方ぶりに、彼らのことを思い出した。
誰かのために、自分を犠牲にすることを厭わない薔薇の一族を、思い出した。

不器用で、切なくて、愛おしい人々のことを思い出した。
あと幾回、私はこの国の空気を吸うことができるだろう。
あの時の私の居住場所はもうなかったし、私の慣れ親しんだ研究棟は改築されて構造がまったくわからなかった。
 
■43 epilogue02 暁の霧 

それから、私はしばらくパリに滞在することになった。
必須の研修を受けるためだ。同時に、幼いこども達の為にボランティアでワクチン接種の解除を申し出た。ここに滞在していても、非番の時には何をすることもなかった。昔々、ここで勤務していたという以外に、何かに固執しているわけではなかった。すでに私を知る者はここには誰も残っていなかったし、変わってしまった街並みを見て追憶を愛おしむ気持ちもなかった。

研修はそれほど大変なことではなく、いくつかの実技研修と、座学で構成され、懇親会では世界各国での医療情勢などの情報収集が目的となって皆が集う。
ただ資格を保有し登録していれば良いというわけではなく、定期的に研修を受け登録内容の確認を受けなければいけないシステムを厭わしいと思った事はなかった。
少しの時間の拘束で・・・医師ではない私でさえ、たくさんの命を救うことができるのだから。
高度な医療行為は禁じられていたが、この時代になると、予防接種や処方を受けた、2回目以降の受診時のカルテ作成の補助など・・・医療行為そのものが、ひとりの医師によるものではなく、診断や手術の手順考慮など複雑な判断を要するもの以外では、補助者による裁量が認められる時代になった。
それは、再生医療が活発になり、これまで治療不能とされていた病気も怪我も治療することができるようになったからだ。
その結果、以前より多くの患者が絶対数として存在するからである。

しかし、相変わらず、医療現場というのは人手不足であった。
研究機関や、特定の病院には溢れているのに。
こうして地道に、予防接種をするような医師はいなかった。
これから・・・この医療システムは変化していくことになるのだろう。
そうなって欲しいという私の個人的な願いも含まれているのかもしれないけれども。

・・・最初の接種対象となったのは、アルディ家のこども達だと言う。
人体実験だとか、未成年者の被験者を容認することへの是非などが取りざたされたが、それでもアルディ家は緘黙し、将来のあるこども達へ可能性を説いて理解を深めていった。・・・やがて、ある特定の因子が作用と環境とウイルス感染が相まって発症するものであるが、一度感染すると治癒までに厄介で・・・まだそれは解決しきれておらず研究の段階であるということ程度の情報しか入ってこなかった。
医療の先端部に居ると思っていたけれど、私にはわからないことや知らないことが・・・多すぎた。それを不服としているわけではなかった。知ることが出来ない事実があるという事実を、私は知っているからだ。

遠いあの日に・・・・彼女の涙を見た。そして苦悶しながらも微笑む彼の姿を見た。ミシェルという人物は本当は酷く繊細で何かを秘めている人なのだということも知った。そして・・・私自身の中に、職を越えて何かをしてしまうほどの熱情が存在していたことを知った。なぜなのだろう。・・・とても懐かしくなった。思い出すという現象は、時に・・・突如として湧き起こるものなのだと知る。

『記憶とは記録、保持、想起、忘却と過程を進める。そして、想起は再生、再認、再構成という段階を経る』

シャルル、と呼ばれて振り向くルイ・ドゥ・アルディの声が今でも耳に残る。
皮肉気に誰に語るでもなく囁くように彼は言った。誰に向けた言葉なのかと尋ねても、彼は薄く笑うだけで、それ以上は答えなかった。
だいぶ長い間、忘れていたのに。・・・いや、忘れていたのではなく、単に・・・再構築していなかっただけなのだと思った。

彼らも・・・ルイ・ドゥ・アルディもヒカル・クロスも、時折思い出すのだろうか。特に、ルイは自分が深く沈降してしまった、薔薇の香りに包まれた屋敷での出来事を思い出すのだろうか。
本当のところは、わからなかったけれども。でも、わかるような気がした。

相変わらず、あの研究所は瀟灑な館のようであった。近代的でありながら、どこか懐かしさを感じさせる。
地下で繋がっている研究棟、一般棟、治療棟などの独立した棟が点在しているが、その間を濃い緑が杜となって覆い被さっていた。

冬のフランスの空は相変わらず遠くて、高くて・・・そして染み入るほどに綺麗であった。薄い水色がどこまでも広がっていた。茜色の夕焼けもみな・・・遠い昔のことであるのに、鮮やかな色とともに甦ってくる。何もかもが幻のようであったが、本当に起こったことであった。
ミシェル・ドゥ・アルディの実子としてルイが認知されたこと、彼には第2子が誕生したことも知っていた。そして、ルイ・ドゥ・アルディは忙しく世界を巡っていることも・・・

あの時のヒカル・クロスの泣き顔が思い起こされた。彼女は今、どうしているのだろうか。彼女の滑らかな頬を流れる涙雫に・・・彼は気がついたのだろうか。
血縁でなくても、呼び合う繋がりがある。それは一般的には、愛という。
男女の情愛だけではなく、それ以上に・・彼らはもっと深いところで、繋がっているような気がしてならなかった。

ああ、もう、どれくらい長い時間を過ごしてきたのだろう。記憶は年月が経れば鮮やかになり、決して・・・自分の望みのとおりに美化されることもなく存在することができると私自身の脳のある分野で証明できたことが何となく嬉しかった。
あの時の記憶はそのままに残っているけれども・・・やがて薄れて消えてしまうここともなく、ただ、私の奥底に眠っているだけで、こうして光や温度や空気を感じることによって刺激され、眠りから目を覚ますのだと知った。
彼の記憶はもっと鮮明で、もっと細かくて写真のように客観的かつ直感的であるのに・・きっと、ヒカルに関してだけはそうではなかったのだろう。
彼は・・・自分自身が人でなくなる瞬間を怖れていたように思う。
それをヒカルによって繋ぎ止められていると感じるのであれば。

暁霧のような瞬間であった。本当に短い時間であったのに、私のそれからを変えてしまった。
夢ではなく、確実に私の中に根を下ろしたものがあり、そしてそれを誰かに託すことを知り、私は今に至る。
病気をして、命と祈りについて考えることがあったからなのかもしれない。人が生きていく上で、何も波風が立たない日々というのはあり得ないことで・・そんな一瞬の霧に包まれてなお、人は模索し続けるのだと知った。
それは、あの若いふたりと・・・白金の髪の麗人によるところが大きかった。

忘れていたはずなのに、思い出さないで久しい年月が経過しているはずなのに・・・こうしてまた、空を見て杜を見て・・・空気を吸うと、目の前で再現される風景があった。

・・・私はここで、私の割り当てを考える。
Quotaという言葉がある。役割とか・・・割り当てるという意味だ。
・・・ミシェル・ドゥ・アルディは私に割り当てたのだ。
彼と彼女の暁の霧の中で・・・微動だにせず路を指し示す灯台のような役割を私に与えたのだろう。
そして彼はその褒美として、qualisを私に与えた。
ラテン語で資格を意味する。私には・・・彼らの一瞬に触れる資格があるのだと、采配されたのだ。思い上りなどではない。ただ・・・彼らの何かに必要であったから私が遣わされた。
職務に背いて、彼女に彼を救って欲しいと言ってしまった。でも、それが・・本当は、元々想定されていたものだとしたら。
彼女がいつもひとりで・・・あの棟にやって来ることも、仕組まれたことであったとしたら。

私は強くうねる黒い髪を掻き上げた。
この髪と、瞳が・・・懐かしい友人を思い出す、とシャルル・ドゥ・アルディは私に言った。性別も年齢も国籍も関係ない、とシャルルは嗤った。
それで私が採用されたようなものであった。
そして、ルイ・ドゥ・アルディはシャルルであったとしても・・・私の姿を見ても、懐かしい人を思い出さなかった。そこに、記憶がないからだ。だから、彼はシャルルではないのだと・・・教えたかったのかもしれない。
そして、そんな私が彼の傍らにいることで、ルイは何かに気付いてくれれば良いのにという配慮であると同時に、ヒカル・クロスの信頼を得るに足りる容姿であったわけだ。
彼女も、幼い時の記憶しか無いと聞いている。でも、懐かしいと思ったのだろう。私にだけは・・・何かを感じてくれたようであった。

彼女とよく似た、うねりのある髪を見て・・・ルイは何を思ったのだろうか。
今になって尋ねることではなかった。そして、私は過去の繋がりを元に、彼らに再会するつもりもなかった。
それで良いのだ。私は・・・私の人生を生きている。同じ様に、彼らも彼らの人生を生きて・・・生き抜いているのだから。

生命には限りがある。そしてその限りや区切りを撤廃してしまうような秘めた可能性を持つ娘がもたらした、この世界の光明は・・今、願ったとおりに・・・願った先に向かおうとしている。
限られた者だけが享受できる恩恵ではなく、誰もが低額で治療を受けることが出来、順番を待つこともなく診断を受けられる世界。メディカル・サイバーの世界が行き渡った結果で・・・それはルイ・ドゥ・アルディの尽力が大きかった。

私は・・・少しでも、彼らの何かに、触れることが出来て嬉しかった。それだけだ。誰かの役に立てた、という気持ちではない。
それはおこがましい。
でも。
私の命が、誰かの命に触れたのだと思うと、くすぐったいような気持ちになる。
あの時。
自分の立場や身分やそれらを越えて、声が出てしまった。
後にも先にもそれっきりのことであるが、私は・・・私の中の心の声を、ヒカルによって引き出されたような気がしたのだ。彼女は実に不思議な人であった。
誰にも近寄らせないのに、ああして私の心を短時間で読み取ってしまったのだから。

・・・私ができるのはそこまでで、その先については・・・彼らの決めるところであった。

私はqという側にしか存在しない。
でも・・・あの暁霧を一緒に見たから。彼らの深い霧は、晴れ渡ったのだろうか。

そんなことを考えながら、空を眺めていたら。
突然・・・腿と腰に衝撃を感じたので、私は前にのめりそうになった体を反射的に支えた。

あっという声が聞こえて、私の足に小さな細い腕がからまった。
勢いよく突進してきたので、速度を払い落とすことが出来ずに、私の足にしがみついた小さな存在があった。
「ご、ごめんなさい」
幼い声が後ろから聞こえて来て・・・・そして私は振り返り、微笑みを落とそうとして・・・息を呑んだ。

こどもの予防接種のボランティアで来ていることをその時になって、思い出した。
この日を限定として、棟内に設けられたプレイルームでの嬌声が聞こえて来るようであった。
ここは、昔は・・・限られた人間しか入れなかった。IDチップシールを貼付した者だけが入ることが出来た。そして皆は白衣を着て、静かに・・・無言で行き交う場所でしかなかった。
しかし、あの時より杜の緑は濃くなり、棟は幾度か改築されて、私の記憶と少し違う景色を広げていた。

ガラス張りの、陽光をふんだんに受け入れることのできる場所で、こども達が遊びに興じている姿が遠くに見えた。
予防接種や健康診断など医療にかかわる場所というものは、本能的に怖れるものであったが彼らは皆、ここに来ても危害を加えられることは無いと信じているようだった。そして、古い家柄のアルディ家の者であるから、大人しく座って人形のように順番を待っているのかと思えばそうではなく、本当に普通のこども達と同じように、用意されたたくさんの道具や絵本やスケッチブックを手に、各々が各々の好みに没頭していた。
・・・まったく普通のこども達の光景であった。

・・・けれども。
今、目の前に居る子は・・・・驚くほど、ルイ・ドゥ・アルディに・・・に似ていた。
知性の高そうな青と灰の瞳に、金の髪に・・・こどもであるのに整った顔立ちも、見上げる視線も・・・皆、ルイによく似ていた。ひとつ違うのは、彼がこどもであることと、金の髪は強い巻き毛であったことだ。
次に、彼は・・とてもこどもらしい所作を持っていた。
若いのに老成してしまっていた彼とは違っていた。

「・・・ひとりなのですか?皆は?」
私はこの場の沈黙を破って、掠れた声でそう尋ねた。
ルイの親族であることは間違いなかった。今、思い出していたとは言えずに、私はごく一般的な言葉を投げかけた。
「・・・スケッチをしようと思って」
彼はそう言った。彼、と呼ぶには幼すぎた。声も高く、髪もこども特有の柔らかさがあるのでぶつかった衝撃で乱れてしまっていた。でも、間違いない。体に押し当てるようにして抱えていたスケッチブックを落とすまいと、ぎゅっと抱きしめている彼に、私は言った。
「・・・ここの緑は、最高だよ」
「そのようですね」
受け答えに、ルイを感じ・・・私は、彼の胸に輝くゲスト・プレートに眼を遣った。
そこには、確かにアルディ家の者であることを示す名前が刻まれていた。
「ママか、パパは?」
保護者はどこにいるのか、と尋ねようと思っての言葉であったけれども、彼はそう理解しなかったらしい。聡い子であるようだが、彼はこどもであった。・・・それが私をますます、嬉しくさせる。彼にもこんな幼少期があったのだろうと思いたかったし、目の前にいる少年を見て、ルイがどこかで・・・懐かしそうに眼を細めて見ることがあれば良いのに、と思ったからだ。
その言葉に、彼が顔を輝かせて・・・私を見上げた。
逆光で私は光を背にしていたので、彼は眩しそうに私を見た。
その姿は・・・とても・・・あの白金の髪の麗人と似ていたし、ルイにも似ていた。誰の血縁者かという問いは必要ではなかった。この子は、アルディ家の未来であり希望であり・・・あれほど多くのこどもが、あそこで微笑みを降り注いでいるのだ。

彼は、私を目が合うと、櫻色の唇を少し開いたままで私の顔をしばらくじっと見つめていた。何かに驚いたらしい。
そして、彼はスケッチブックを抱えたまま・・・私を見上げた。
彼は、私の顔をまじまじと見つめながら、言った。踵を上げて、私の顔に少しでも近付こうとしているようだった。

「・・・ぼくの家には肖像画があって、永遠の晄という意味の、ヒカルという人の若いころの姿を残した画がたくさん残っています。
あなたは、僕の家の肖像画の人に似ています。ヒカルと、ヒカルの両親の肖像画です」

その時。彼が言い終わるか終わらないかの瞬間のことだった。
私と・・・彼の間に強い風が吹いた。こどもが驚く声がして、風に驚いた彼は、スケッチブックを取り落としてしまった。
地面に落ちる画材が派手に音を立てた。
彼はそれに狼狽して、しゃがみ込むと・・・土に汚れたスケッチブックを取り上げて、残念そうに歎きの声を上げた。

「そう。でも私は・・・ヒカル・クロスの縁者ではないのです」
「あなたは、どうしてヒカルの旧姓を知っているのですか」
彼が驚いて顔を上げたので、私は微笑んだ。
「さあ。どうしてだろう・・・その絵を描いた人に、聞いてみてください」
「あなたは、これを描いた人を知っているのですか」
私は頷いた。その絵を描いた人の名前には見当がついていた。
あの暁霧の中に・・・居た人だ。

「知っているとも言えるし、知らないとも言えます」
「まるで、暁霧のようなこたえですね」
その言葉に、私はぎょっとした。今度はこちらが驚く番であった。
彼がアルディ家のこどもであることは、名札からもわかるし、その顔立ちからもわかっていた。けれども・・・この言葉は、誰にも教えたことがない。これほどの幼いこどもが使いこなす言葉とも思えなかった。
彼は言った。私の怪訝な顔を見て、説明が足りないと判断したようだ。
これほど聡いのも・・・この子が、アルディ家の血筋の者であるからなのだと思った。それなりの教育を受けて、今に至っているのだろう。

「我が家に伝わる言い方です。
『その人によって・・・こたえが違い、正義が違い、そして問いすら違う。だからこそ、手を伸ばし続けるのが人間だ。たとえどんなに見えなくても、暁の霧は必ず晴れる。だから、霧の中にあると信じるものに手を伸ばせ・・・』
・・・ああ、忘れられないのは血なのでしょうか。ぼくは、この言葉が大好きで・・・いつも心に置いておくようにしています」
「座右の銘というものですね」
「そうですね。・・・ぼくの他にも、幾人も好きだと言う者が居るので、あまりこれを口に出しません」
誇り高さも、アルディ家の者特有であると苦笑が混じる。

私は歓びが込み上げて来た。
どうして、忘れていることが出来たのだろう。

ああ・・・ここに・・・ここにも・・・命も言葉も・・・祈りも伝わっているではないか。

私は、そっと言った。
伝わらなくても良かった。でも、言いたかった。

「あなたの、思うままに映る風景を、残せば良いのですよ。・・・そして、それをいつまでも、問い続けてください。・・・生きるということについて、ヒカルという女性が問い続けた先に、あなた達がいるのですから」

私の言葉は拙くて、説明も足りなくて、よくわからなかったかもしれない。
けれども、金の髪の巻き毛の少年は・・・私を暫く眺めていたけれども、やがてにっこりと微笑んだ。素晴らしく透き通った青灰色の瞳で、私を見た。

「ぼくの好きな言葉のひとつに加えることにします」
「光栄です」
私はそれだけを言うと、彼に会釈をして背中を向けた。・・・・彼も、元居た場所に戻る気になったらしい。スケッチに足る場所を求めて彷徨っていたようであったが、ひとり遠く離れてはいけないという、この棟でゲストとして入る時のルールを思い出したようだ。
こどもの拙い走り音が遠のいていくのを感じながら・・・私は、吐息を空に還した。

あなた達も、この空を見ているのでしょうか。

私は・・・久々に、暁霧の中で悩み問答を続けた彼らのことを思い浮かべた。
あなた達の思いは、残っています。確実に、他の命に繋がっています。
・・・・私はそう囁いた。

あの時のヒカルの涙も。ルイの哀しみも。・・・ミシェルの苦悩も、すべて・・・蒼い空と深い杜と・・・そして霧のようでありながらまったく違う白い雲の向こう側に行ってしまったような気がした。

私の秘めたる想いは・・・ようやく、還っていくことが出来そうだった。
どこに、という場所は指定されないけれども。
漂っているだけかもしれないけれども。

私の暁霧は・・・ようやく晴れていくのだ。

そう思うと、見上げた空から見える柔らかな日差しが・・・とても眩しく思えた。
永遠の晄という名前のヒカルのような、優しくてあたたかくて・・・そして少し切ない光を、目を細めながら、しばらくの間、眺めているばかりであった。

(FIN)


R-side

秘するが花02 邂逅編 番外編です。




この作品を、ご来訪いただき、コメントいただき、

応援してくださった皆様に捧げます



シャルルと一時の情事を愉しむという設定の、ほんの数話しか出てこなかった「彼女」

について書くことにしてみました。



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君の名付け親は、古典を嗜む人のようだね





初めて名前を名乗ったとき、シャルル・ドゥ・アルディはそう言った。


ブルガリア人とドイツ人とオーストリア人とインド人の血が混じるアメリカ人の父を持ち、

日本人と韓国人のハーフである母を持つ、国籍不明の外見を持つ彼女は、何千回も何万回も「あなたは何人なの?」と民族を聞かれることに、少々うんざりしていた時だった。


特色は東洋人の血が、色濃く出ている。

容貌は欧州人のそれだった。

だが、その髪と瞳の色を黒くすれば、母親にそっくりだ、言われるようになった。

茶色い髪なのに質感は東洋人のそれで、茶色い瞳。

膝から下が長い。その抜群のモデル体型は、堅苦しいスーツに身を包んでもよくわかる。

象牙色の肌。腰近くにまで伸ばしたストレートを後ろで束ねただけの地味な髪型であるはずなのに、彼女の整った顔立ちを強調し、かつ、見る人は誰もが一度は彼女の顔に体に見惚れるのであった。


マナ という名前について述べているのだということに、気がつくのに、少し時間がかかった。

「ありがとう、Monsieur。」

彼女はよそ行きの笑みで微笑んだ。


シャルル・ドゥ・アルディ。

学会に久しく名を連ねる永年名誉会員。

彼が、学会に論文を寄稿する都度、会誌は飛ぶように売れ、問い合わせが殺到し、来日でもしようものなら大変だ。

会場には彼の論文結果をその口から聞きたがる者で満員となるのが常だった。


最初、彼女はもう永年名誉会員というから、どれほど年老いた象牙の塔の主なのかと思っていたら。


彼は、若かった。まだ、青年だった。

プロフィールはよく知っている。

元貴族であり、現在はパリに在住。研究所で、たくさんの分野に関する執筆・実験論文を報告し、臨床試験薬の調査も請け負う。

その一方でフェンシングの名手でもあり、ダーツやチェスの世界でも、その名が知られている。

フランスの華。

いつか、時が来たら、彼は大統領にさえ「片手間」でなってしまうかもしれない。


彼女をひどく驚かせたのは、その美しい風貌よりもむしろ、流暢に日本語を話す語学の才だった。

親日家で知られるシャルル・ドゥ・アルディであるが、通訳もつけずにこれほどまでに完璧に日本語を使い、必要があればドイツ語も英語も話す。


プラチナ・ブロンドの髪は、長めである。

秀でた額、完璧なカーブを持つ頬。

少年時代はさぞかし少女と見まごうような、涼やかな目元だったに違いない、蒼いけれど灰色がかった瞳。

上質のスーツを身にまとい、繻子織りのタイを締めている。

ビジネス・スタイルであるにもかかわらず、彼の物腰は優雅で、「ちょっと休暇に」と言ってもおかしくないくらい、リラックスしている。


その場にいた誰もが、彼に魅入られていた。

ここは、学会の準備控え室を兼ねた打合せ会場で、あと数十分後に始まる彼の講演が始まる。

準備控え室前の廊下を走るスタッフの足音が聞こえるくらい、誰が喋ることをやめてしまう。

分刻みの空間の中が、ほぉ、という感嘆の吐息で溢れた。


長い指が、とんとん、と机を叩いた。


「それで。はじめようか」

そう言ったとき、彼が少し苛立っていることに気がついた。


彼女が動き出すのが、一番早かった。

「本日のスケジュール、時間配分、カメラとマイクの位置、同時通訳メンバーのリストです」

シャルルは、ほぉ、とそのとき、もう一度彼女を見た。

「名札を良く見せてくれ」

彼が、そう言って、ちらりと顔写真の入ったIDを見た次のセリフが、それだった。


それが、彼と長いけれど短いつきあいとなるきっかけだった。


「あなたにとって、こういうことは何ていう言葉に置き換えるのかしら」

ベッドで、シャルルは気だるげに、慣れた手つきで煙草に火をつけた。

「暇つぶし。」


「『スポーツ』って言うかと思ったわ」

彼女は小さく笑って言った。

長い髪をかき上げながら、身を起こす。

情事の後のシャルルは、この上なく優しいか、この上なく冷たいかのどちらかだった。

今日は、前者らしい。

会話を好まないシャルルが珍しく答えてきた。

「勝ち負けというほどの勝負事じゃないだろ」

そうかしら。

情欲に負けて貪り合うこの行為を、無言だけれども激しく交合するこの時間を。

彼は、あえて「意味のないもの」と言い切ったわけだ。


コトが終わった後は、お互いにシャワーを浴び、無言で身支度をする。

次の約束はしない。

ただ、別れる際に、「久々に楽しい時間だったよ。じゃ。」と言って彼は額に軽く口づける。

目を合わせることなく。これが、次も逢っても良い程度には満足したよという採点結果なのだ。

常に及第点でなければ、彼は二度と会おうとしないだろう。

ベッドから抜け出たその時から、彼の頭の中は、別のことで一杯になるのだ。


定期試験を受けるときより、苦労するわ。

彼女は苦笑した。


彼とこうして情事を重ねるのは、年に何回か、だ。

彼はほとんど日本に来ない。以前は、親日家らしく、だいぶ頻繁に来日していたらしいが。

今は、インターネットの普及やテレビ会議システムなどの通信網の充実で、来日せずとも、各国と会議することが可能になった。

だから、もっぱら逢うのは彼女が仕事でパリに行くときだけだ。

そのときだけ、彼は、通訳も護衛もつけずに、ひとりで、ふらっと彼女の逗留先に現れる。

もちろんスケジュールが合わずに、逢わないで慌ただしく帰るときもある。そう言うときにはあえて、連絡しない。


お互いに、パートナーがいるとか、好きだとか、一般的に、誰もが行うコミュニケーションと情報共有は、一切行わなかった。




こういうルールもある。


彼女も、煙草を一本口にした。



****


今回は、シャルルが珍しく来日するという。

予定が書かれたテキストだけを貼り付けたメールが送られてきただけだった。

提携する姉妹学会主催のもののようだ。

スケジュールを見る限り、びっしりと予定が入っていて、このような時間を取ることさえできないな、と思っていたら

シャルルから連絡があったのだ。時間が空いた、と。


「時間が空いたから逢いたい」とか「時間が空いたから、部屋に来ないか」と言わない。

「行くわ」

彼女の返事を待ってから、部屋番号を言って、彼は電話を切った。


通された部屋はシャルルの宿泊先であるロイヤルスィートだった。

ゲストルームとメインルームがあり、それらを繋ぐリビングで、ティーを愉しんでいたようだ。

ガラスのテーブルの上には、何本かの煙草の吸い殻と、無造作に置かれた資料の束と、

脱ぎ捨てたスーツの上着があった。

「講演、聞いたわよ」

彼女は持っていたブリーフケースから、ちらりと論文集を取り出した。

論文集を持っている者は、事前送付された会員であることを示し、それを見せればフリーパスで会場に入れる。

彼女にももちろん、事前に送られてきていた。

そうして「私も煙草とティーをいただくわ」

と言って、ソファに座る。煙草を一本、口にした。

今日の口紅は、プルーフタイプでないので、口紅が吸い口についた。

夜のレセプションでは、グラスに口紅がつくような無粋なディナーは避けなければならない。


と。

テーブルの上の論文集に、目がいった。

メモが載っている。

日本語を母国語とする彼女のことを

シャルル・ドゥ・アルディはよく知らなかった。



「マリナへ この論文集を持って入場するように シャルル」

走り書きのメモだった。

シャルルの愛用するモンブランのブラウンブラックのインクで書かれたものに間違いない。

何度となく論文集の書名で見かけた筆跡だった。


それで、ありとあらゆることが、ひとつに繋がった。

いわゆる「察した」という状態だった。


彼が直筆でメモやメッセージを残すことは、ほとんどない。

メモを取ることも必要としないし、メッセージを残す仕事を業務としている者が、きちんと控えている。

つまり、これは私信であり、「マリナ」という人物に、彼が届くかどうかわからないまま、宛てた手紙なのだ。

そしてその文面から推測できるあらゆる可能性から、断言できることはたくさんあった。

彼女の脳細胞が活性化されて、瞬時に様々にシミュレートし始める。


日本語で書かれているから、彼女は日本人女性だろう。

シャルル・ドゥ・アルディのフルネームを書かずにいるので、相当親しい間柄だ。

だが、彼は彼女が来るかどうかわからないらしい。

マリナという人物が彼との約束を取り付けているのであれば、最初から会場入り口に渡しておけば良かったはずだ。

そして、シャルルは、そんな不確定要素の発生を認めない。

となると、このマリナという女性は、彼の、特別な存在なのであろう。


待たずには居られないし、逢うための手配を欠かさない。

でも、彼女には連絡ができないので、来るかどうかわからない。


そして、彼の講演が終わった今も、ここにメモがあるということは、彼女は来なかったということなのだ。




なんてこと。


彼女は、ふうと息をひとつ、ついた。

ため息が出るほど、完璧な動作だった。



シャルルが、恋をしている。



まったく気がつかなかったわけではない。

顎を少しあげて、紫煙を空中に散らす。

摂取したニコチンが頭の神経細胞を冴え渡らせると同時に、胸の疼きをごまかした。



彼女を抱くとき、彼は時折小さく「マリナ」と言うことがあった。

陶酔の絶頂にありがながら、何度かその言葉を聞くたびに、発音が間違ったのだろうと思っていた。いや、彼が誰の名を呼ぼうと、全く関心がなかったのだ。今、この瞬間まで。


マナ、と「マリナ」、ね。


容姿は日本人のそれに近いが、ほとんど外国人である彼女にはわからないと思ったのだろうか。



知能指数が高く、恵まれた容姿と恵まれた環境に生まれた彼は、きっと、「そういう」ことに気を払う必要性を感じてなかったに違いない。

自分が恋をしていることを、彼は気がついているのだろうか。


気がつかないわけはないだろう。


彼女をこうして彼の腕の中に抱くときは、きっと、そのマリナを思い出しているに違いない。それは、間違いなかった。


いつだったか、その長い髪が好きだと、口づけてくれたことがあった。

今更ながら思い当たる。


「長い」髪が好きなのではなく、東洋人のような自分の容姿が好きだったのだと。

自分の名前が、想い恋い焦がれる相手に似通っているから。

日本とフランスを往復し、彼がどんなに逢いたいと願っても、その権力を行使してまでは逢うことの叶わない、日本の住人と同じ空に住んでいるから。


彼女が驚いたことは、いくつかあった。





まず、シャルルについて。

想い人がいたこと。

そして、どうも片思いであるようだということ。


次に、自分について。

この奇妙な発見というか驚きという感情が、とても湿気が少ないというか、

粘着要素を持たない、さばさばとしたものであったということ。


何度も肌を合わせていれば、自然に愛着というか憐憫というか、執着が沸くかと思っていたのに。


今、シャルルに手を取られ、ベッドルームに移動し、時間があまりないんだ、という彼の首に腕を回しているのに。

こうして抱交しているのに、彼女の頭の中はひどく冴えている。

シャルルの典麗な愛撫が、愛おしく思えてきた。

ひとつひとつの仕草を、彼女に捧げているのだ。少なくとも、彼女を「マリナ」と呼ぶその瞬間だけは。


初めて彼女は彼を「いじらしい」と思った。




***

マナという名前は母がつけた。

本当は「真名」という。

真名文字、仮名文字の真名から取ったそうだ。

「たくさんの国が交じったミラクル・ガールだけど、どうかその国の文字を愛して欲しい」という意味が込められていると、小さい頃から何度も聞かされた。

幼いときは、容姿が違う彼女をつまはじきにする者はたくさんいた。大人も、子供も。

異質な者には容赦がない。

長じるにつれて、彼女が美しい、ということをみんなが認め始めたとき、彼女を排除しようとした人々は、こぞって彼女の興味を得ることに夢中になった。


シャルルは当然にパートナーではない。

決まったパートナーは持たない。

彼女は、今でも、今になっても、気まぐれに恋愛めいたゲームを楽しむ。

火遊びを楽しみ、相手を自分の足下にひれ伏させて勝利を味わって、そして、捨てる。

情報共有100パーセントでないと信用できない間柄は、いらない。


いつだったか、何かの話のついでにシャルルにそう言ったことがあった。

「そういう享楽的なところ、悪くないね」

シャルルは皮肉めいたように、そう面白そうに言った。


批判も賛成もしない人。


その返答が心地よくて、今まで関係を続けていた。

もちろん、彼と一緒に味わう蜜の味はこの上なく甘美であることは間違いがなかったが。


「今日は、いつにもまして、心ここにあらず、ね」


終わった後、彼女はそう言った。シャルルは答えなかった。

身支度をして、いつものように彼女は帰り支度をした。

でも、これが本当に「いつもの」帰り道になるかどうかは、わからなかった。


「久々に楽しかったよ。」彼はそういうと、「いつも」のとおり、ベッドに腰かけたまま、彼女が部屋から出て行くのを見ていた。視線はこちらにあったが、どこか遠くを見ているかのようだった。



ルールに踏み込むつもりはなかった。

いずれ、別れが訪れることを常に想定している。

でも、彼とは何らかの形でまた一緒に仕事をするかもしれないし、距離を置いた関係のままでいるつもりだ。


パタン。



扉を閉めると、何か、急にからだが軽くなった。

彼が待つのは、私ではない他の女性だ。


シャルルに対して何の感情もわかないかというとそうでもない。

むしろ、何度も逢うということ自体、彼女にとっては珍しいことだった。

パートナーとしては申し分ないだろう。

でも、唯一人の相手にはならないし、自分も唯一の人と定めることができるかどうか不確定だった。


不確定要素は、ありえない。

太陽が西から昇っても、彼が間違えることは、ないのだ。



シャルル・ドゥ・アルディならきっと、そういうはず。



シャルルは同志、だ。


問わず問われず、ただ、お互いの肌の温度のみを感じる時間だけは、自分が「違う」ということを忘れていられた。

人と違い、傷つき、そして捨てられるのであれば、前に捨ててしまおう。

シャルルと私。

違うのは、愛を求めるのを辞めてしまったかどうかということ。


シャルル。


私の仲間。

傷つけることが怖くて、脆いから、お互いに触れないようにしていた。

その中心まで飛び込まなかった。

私と同じ、かわいそうな人




部屋の廊下を歩きながら、髪の毛をなでつける。

情事の後、という痕跡を残してはいけない。

これから自分は仕事に戻り、極上の笑顔で、夜の招かれたレセプションで招待主と満足させるような機知に富んだ会話を作り出すために、今日の論文集のポイントを再確認しておかねばならない。



なぜだか、足が軽かった。


次に逢うときは、彼に抱きついて、そして「またね、シャルル。」と言うのだ。


今までは、誰に見られているかわからないという理由で、部屋の外ではその気配さえ見せることはしなかったけれど。


彼女から、抱擁を求めることは、かつて誰にもしなかったけれど。




次に。外で彼に会ったら。




その幼気な恋心を隠す、彼に微笑んでみよう。



FIN






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