目次
A-side
A-side GreenFlash
B-side
A&M-side
C-side 佳辰
D-side
D-side 嫩葉 前編
D-side 嫩葉 後編
D-side 結葉 前編
D-side 結葉 後編
D-side 溟沐 前編
D-side 溟沐 後編
D-side 裾上げ 前編
D-side 裾上げ 後編
D-side 畢竟 前編
D-side 畢竟 後編
Trick OR・・・ D-side 前編
Trick OR・・・ D-side 後編
E-side
F-side 不磨 前編
F-side 不磨 後編
F-side GRAFFITIと落とし文 前編
F-side GRAFFITIと落とし文 後編
H-side
I-side 前編
I-side 後編
J-side
K-side
M-side Nostalgia
N-side
O-side
O-side 波の上の月 前編
O-side 波の上の月 中編
O-side 波の上の月 後編
O-side 白雨_朧雨 1/6
O-side 白雨_朧雨 2/6
O-side 白雨_朧雨 3/6
O-side 白雨_朧雨 4/6
O-side 白雨_朧雨 5/6
O-side 白雨_朧雨 6/6
P-side 前編
P-side 後編
Q-side 暁霧 1/4
Q-side 暁霧 2/4
Q-side 暁霧 3/4
Q-side 暁霧 4/4
R-side
R-side あからめ
S-side
S-side 02 月魄
S-side 03 深浅
S-side 04 紫電
S-side Trick OR・・・ 2011
S-side うくわ
S&B-side いなのめ
S-side 炎熱 前編
S-side 炎熱 後編
S-side 炎熱2013 前編
S-side 炎熱2013 中編
S-side 炎熱2013 後編
S-side Balneum Scipionis. 前編
S-side Balneum Scipionis. 後編
S-side 成ぎ
桜蘂
T-side
U-side 闇蝉 前編
U-side 闇蝉 後編
W-side
W-side Devarana 前編
W-side Devarana 後編
W-side 弄火
W-side くもり、のち
Z-side 瑞祥 前編
Z-side 瑞祥 後編

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U-side 闇蝉 前編

鳴く蝉は、「吟蝉(ぎんせん)」という。

鳴かない蝉は「暗蝉(あんぜん)」というのだそうだ。

それでは、私は鳴かない蝉だから、暗蝉なのだろう。

鳴きたくても鳴けない。そういう蝉もいるのだ。





「ウメ、調子悪いの?」

そう聞かれて、私は手を止めた。

今しがたのセッションで、ブレスの位置を確認するために、イメージトレーニングをしながら楽譜にメモを書き込んでいた最中のことだった。

「そんなことないけど・・・?」

「そう?Cの音が微妙に高い。・・・この気候のせいかな。」

彼はそう言った。オレもリードの調子が悪いんだよね。そう言った。


ここは完全防音室で、外気の湿気や温度とも完全に隔離された場所なのに、彼はそう言う。

微妙に出入りの風が影響しているのかもしれない。

オーボエ奏者は神経が細かい人が多い。

細やかでないとあの繊細な音色を出すことが出来ないかと言うかのように。


でも、大はそんなオーボエ奏者と違っていた。

おおらかで、理論的に物事を進める。

理系で、将来は物理学や生化学などの方面に進みたいと言っていた。

音楽業界は文系が多いと思われがちだが、本当は理系が多い。

このジュニア・オーケストラでは圧倒的に理系だった。

文系理系と区別することの方がおかしいだろう?

彼はそう言って笑った。


「そうね、この蝉の音がなんだか調子が狂ってしまうのかも」

大は私のことを「ウメ」と呼ぶ。本当は「梅華」という名前なのだけれど。

楽器ケースに書かれた私宛のサインに「To ume」と書かれているのを見て、そのままそれで呼ぶようになった。

彼だって本当は「ヒロ」という名前だけれど、私は彼を「ダイ」と呼んだ。

私たちはそういう間柄だった。友達以上で、恋人未満。

一日のうちの大半を一緒に過ごす間柄だけど、彼の心には踏み込めない。そんな間柄。

主席オーボエ奏者とフルート奏者は隣同士に座る。

これは何百年も変わらない配置。

最近では弦楽器奏者の配置を変えて演奏することもしばしばあるけれど・・・

管楽器奏者だけは変化しなかった。


ダイと出会ったのは、この松本で行われているジュニアオーケストラの選抜メンバーによる講習会が初めてだった。中学3年の時だった。


全国選抜された、全国の学生のうち、ほんの一握りだけが夏の短い期間、ここで合宿を行い、世界中に散った日本の音楽家の指導を受ける。


彼は、休憩時間には受験参考書を手にとって、一心不乱に受験勉強をしていた。

防音が完全に行き渡った練習室から抜け出して、彼はたくさんの蝉が鳴く木の下で勉強していた。

松本は空気が乾燥して、日陰は涼しいけれど、日中は暑い。

蝉も大音量で鳴いている中、彼はまったく耳に入らないかのように集中していた。

・・・オーボエ奏者の特徴だった。いや、トップ奏者はこういう気質が強い。

私も一度レッスンに入ると、時間を忘れることがしばしばあった。



音楽科に進まないの?

そう話しかけたのが最初のきっかけだった。

彼は顔を上げた。


ああ、将来はもっと違うものになりたくて。


彼が笑った。


私たちのような若い学生が、全国から集まり、そして世界で活躍する音楽家の指導を受けることが出来るのはその地道な努力と、長い経験年数が必要最低条件だ。

彼は、驚くべき経歴の持ち主だった。

小学校高学年でオーボエを始めて。

まだたった5年の経験年数で、ここまで登りつめてしまった。

彼の名前は聞いたことがあった。

学生コンクールで、突如として上位入賞を果たしてしまった新星だった。



彼のその音色が好きだった。

透き通るのに、艶めかしい。情動的なのに、静寂に響く。

すぐに彼だとわかる音。

それなのに、ピッチは常に狂ったことがない。



その時。

私の心の中で何かが動いた。



彼に心を動かされた。

今まで、音楽の路以外に、私が心を奪われるものなんて、何もなかったのに。

彼を見ていたいと思うようになり、そして翌年の合宿にはまた会いましょうと約束するだけで精一杯だった。



何てこと。


私は彼に、恋をしてしまった。


彼の音色の秘密はなんといってもそのリードの製法にある。

ダイは言った。

「リードはやはり自分で削るに限るよな」

いつだったか。彼に頼まれ事をした。

一緒に買い物に行って欲しいと言う。


私たちは年に一回、この合宿でしか会えない。

だから、私は選抜メンバーに選ばれるために必死でレッスンを重ねていた。

その合間を縫って、つきあって欲しいという。

彼の実直な性格を考えると、これはデートの誘いではないことがすぐにわかった。

・・・行った先は駅前の、デパートの化粧品売り場。

外国産のネイルエナメルを購入したいと言う。

「リードの接着にはこれが一番で。でも買う暇がなかった」

彼はそう言った。

でも、年若い男の子がそんな化粧品売り場をうろつくこともできないので、今までは姉に頼んでいたけれど、やむにやまれずウメに頼むんだよ、と彼はそう言った。

私は二つ返事でOKした。


オーボエとフルートは密接な関係にある。

その管楽器の形態からオーボエはクラリネットと同じに見られがちだが、本当は限りなくフルートに・・・ C管に近い。

ピアノで「ドレミファソラシド」と叩いたときに同じ「ドレミファソラシド」の運指で動く楽器と小さい頃から一緒に過ごした。

これは親にも環境にも感謝しないといけない。

私の絶対音感に気がついた周囲の人から勧められて、ピアノとフルートを始めた。

でも、フルートにはすぐに限界を感じた。

・・・そんな私が未だにこうして日本の選抜メンバーに残ることが出来るのは、私が器用貧乏だから。


私は真の奏者になれない。そう感じたのは。

私が、アルトフルートも、ピッコロも、負荷なく吹けるからだ。


通常ソロ奏者は自分の楽器以外は吹かない。

なぜなら「口が変わる」という言い方をして、口角の回りの筋肉を変化させることを厭うからだ。


私はそれが自在に出来た。

だから、技術がたいしたことがなくても・・・

そこそこに演奏できて、皆の厭う他の楽器も演奏できる便利な人間としてしか、重宝された。

いずれ、このメンバーから世界にでる人が出るだろう。でも私は選ばれない。

でも、私はわかっていた。

自分が、この日本の狭いジュニアという世界でしか生きられないことを。



そんなときに、別の道を進もうとするダイに出会った。

私はそんな道もあるのだとはじめて知った。

・・・毎日毎日、血反吐が出るくらいのレッスンをこなす日々が辛かった。

ここまできたらもう引き返せなかった。


一日のうちの練習時間は、こういう休みの時であれば、10時間を超す。

生活時間と睡眠時間以外は、常に楽器をもっている状態だ。

もしくは、音楽について講義を受けている時間。

私の中で、音楽は生活の一部であり・・睡眠時間より長く接している辛い時間だった。


それを、ダイはあっさりと捨てるという。

「大学に入って、専門課程に入ったら、音楽はやめるだろう」

彼は買い物の帰りみち。帰りのバスの中でそう言った。

「もったいない」

そう言うと彼は笑った。闊達な笑いだった。


「もともと部活の延長で・・・もっとやりたいことがあるのに、これに時間を割けない」

彼は笑った。音楽は好きだけれど、もっと好きなものがあり、好きな人がいて。

そしてその人のいる海外に飛び出したい。

彼はそう言った。


私はその彼の凜とした横顔が羨ましかった。

惰性で続けて居る私よりずっと才能溢れている彼が。

そんな風に音楽を「たくさんある好きなもののひとつで、もっと大切なものを優先したい」

そういう気持ちを語ることが切なかった。


・・・・蝉が鳴いていた。


まだ季節は夏だった。


私とダイは、とても近い場所に居ながらにして・・・とても遠い場所に居るのだと悟った。


本当は年に一度しか会話を交わすことはなかったけれど。

もっと別の彼を知っていた。

こっそり、中学と高校のオーケストラ部の定期演奏会に行っていた。

毎回、必ず、開場すぐに行って、同じ席に座った。

もう何年になるだろう。

毎年2回ずつ行われる演奏会では、彼は常に首席奏者だった。

学校のオーケストラ部であるから、品質はたかが知れている。

でも、彼の演奏は際だって素晴らしかった。


・・・彼は世界的に有名な奏者になることができる。


私には、そんな奏者になる技量はなかったけれど、その奏者になる資質を持つ人を見分けることだけは長けていた。


拙い音楽を演奏する集団の中にあっても彼の音色は煌めいていた。

そして、それが逸脱しないように、周囲に気を配る余裕も見せていた。


私は彼の音楽に恋をしているのか、それとも彼そのものに恋をしているのかわからないくらい・・・夢中になった。


でも、私の夢中は皆と少し違っていたようだ。

静かに、何年も見守ることが、その証だと思った。

かつてのサリエリのようにモーツァルトを激しく愛しすぎた感情ではない。

・・・長く彼を見守っていたかった。

そして彼が始めて演奏するソロには、私が立ち会いたいと思った。


何回か、その演奏会にいくうちに、同じように、同じ席に座る人に気がついた。

一番前の正面の席。


音楽通ならあまり座らない席だ。


・・・でも、ダイはその席の人に合図を送っていた。

着席するなり、とんとん、と左足のつま先で、彼は音を鳴らす。

その席に座る人が、茶色の髪を動かす。頷いたサインだ。

彼と彼女のその合図に気がつかない人がほとんどだった。

でも、私は気がついてしまった。

後ろ姿だったので、顔がよく見えない。

小柄な、茶色の髪の人だった。


私はその人を凝視した。

彼の音色を理解しているとは思えなかった。

ただ、演奏会に来ているだけ。一般的な父兄の聴音の様子に、私は何か言いようのない感情を持った。

・・・ダイは、音楽がわからない人が好きなのだ・・・

そう思うと、遣る瀬無くなった。

彼を理解できない人を彼が好きになったことに。

彼を理解しているつもりであった私がちっとも彼を知らないことに。

遣る瀬無くなった。




その年の夏。

ダイは言った。

「ウメ。・・・オレの演奏会、来てくれた?」

なんのことかしら?

私は笑った。

ダイは「君によく似た人を見つけて・・舞台から手を振ったんだけど」

と言った。

私は笑った。「他人のそら似でしょう?」

そうか、と彼は言った。


でも、匿名で花束を贈り続けたことについて彼は触れなかった。

彼に贈る花はいつも同じだった。

前から注文して、その季節になくても特別に取り寄せる花。


ベラドンナ・リリーの花言葉。

―――「私を見て」


彼はその意味に気がついたのだろうか。



私の夏は彼に会うことから始まる。


ダイ。

私のこの気持ちに気がついているのであれば・・・

その屈託のない笑いを私だけに見せて欲しい。

そうでないことはわかっているけれど。


私の、彦星様。


一年に一度しか言葉を交わすことができない、私の王子様。


どうか、私だけに微笑んで欲しい。


そして私たちは何年にもわたってパートナーだった。

毎年顔を合わせれば自然に一緒に居る時間も長くなる。

彼と私の席はいつも同じだった。

隣同士。

そして勝手の知る練習開場では、彼のピッチに会わせたA音で始まる。

もう、チューニングメーターはいらなかった。彼の音はすぐにわかり、

私はトップ奏者としての合図を受ける。


・・・甘美な瞬間。


調和がとれ、A音でハーモニーが生まれる。

トップ奏者と言われる人達はメンバーの入れ替わりがほとんどない。

その代わりにその他の席は、どんどん新しいメンバーが入れ替わっていく。


厳しい世界だ。

トップ奏者と思っていても、翌年には次点に座っていることもあるし、

その席そのものがないこともある。


私はこの席にしがみついていたかった。

ダイが居る限り。


そんなときダイが言った。

「ウメ。なんでそんなに悲愴な顔をしているの?」と。

私はちょっと泣きそうになった。

だって、苦しいから。

そう言いたかったけれど言えなかった。

恋をすると音質が変わる。

それは本当だった。身をもって実践した。

それでダイが恋をしていることを共感してしまった。

・・だから哀しかった。苦しかった。辛かった。


彼の音色は素晴らしい。技術もそうだけれど、そのたぐいまれなまろやかな音が。

私の心を打ち、そして聴衆を魅了する。

この耳ざとい選抜メンバーでさえ、自分の演奏を忘れて彼の音色に聞き惚れる。

・・・・もったいないよ、ダイ。これを捨てるのは惜しい。


そう何度もいったけれど彼は笑って言った。

「世の中にはもっと凄い人がたくさんいる」と。


そして彼は言った。

「ウメと演奏しているときが一番楽だ。音域もブレスのタイミングも一緒で・・・

なんだか二人で演奏しているのに、そうじゃないみたいだ」

―――彼の最大の賛辞だった。


私は目を瞑った。


なぜ、トップクラスの奏者は、男性が多いのか。

体格が違う。

肺活量が違い、骨格が違う。

筋力で何時間もその姿勢を支えることが出来る。

そして極めつけは呼吸方法だ。

女性は胸式呼吸。男性は腹式呼吸を無意識のうちに行っている。

体のつくりが違うから、仕方がない。


だからダイが「呼吸方法がウメと同じ」というのは語弊がある。

オーボエは息の長くはき出すことの出来る楽器だったから、その演奏は、私に合わせているのだけなのだ。


私は少し哀しくなった。

確かに、ダイとは音調も解釈も何もかもがとても良く似通っていると思う。

でもそれと演奏スタイルとはまったく別のものだ。

私はどんなに頑張ってもダイには追いつけない。

追いつく前に彼は走ることを止めてしまうという。

だったら、この気持ちはどこにたどり着けばいいのだろう。




私はダイと一緒に居ても、他の人がいると話をしない。極力しない。

私とだけ話をしている彼しか話したくなかった。

正確に言えば、他の人と話をしているダイを見るのが切なかった。

だから少し距離を置いてみている方が、楽だった。

「ウメももうちょっとみんなと話をしたらどうなの」

ダイはそう言うけれど、私はちょっと首を傾げて、

「ダイがいないときには話をしているわよ、たくさん」

と言った。その通りだったから。


私のそんな様子はダイを嫌っているかのように思われたらしい。

木管楽器だけのパート練習の合間に、そんなことを言われた。


「梅華は大が嫌いだなぁ」


そうじゃないよ、と私は笑ったけれど否定はしなかった。


嫌いと好きは紙一重だ。


だから、私のこの感情は、好きでも嫌いでも表現しにくかった。

でも相手の不幸を願う感情はなかったので、あえて「好き」ということなのかもしれない。

それ以外は・・見ていたくない、話すと苦しい、心が乱れて演奏に支障が出る。

それは嫌いという表現では成り立たないのだろうか。

そんな「好き」か「嫌い」かで済ますことが出来るのでればどんなに楽だったか。


そして今年は、世界的に有名なヴァイオリン奏者であるカオル・ヒビキヤがゲスト参加するという。

私たちは興奮した。

このジュニア・オケに選抜されなければ、世界の楽団に所属する以外に彼女と共演する機会はまるでないのだ。

特に彼女はソリストだから・・こういうオーケストラに参加するというのは、珍しいことなのだ。


今年はダイと演奏する最後の年になるかもしれない。

無理してでも、出たい。

そう思えるような最後の夏。

記録的な猛暑で、外の蝉が慌てて鳴いているかのようなそんな暑い夏だった。



でも私は気がついていた。

ダイのケースには。毎年のように、サインが増えていた。

それは、すべて・・・カオル・ヒビキヤのものだった。

そして・・その傍らにはいつも小さく、「Marina」とサインされていることに。

演奏家にそんな名前の奏者は居ない。


―――マリナ。

それがあの人の名前なのだろうか。

彼は数年の間に、何台か楽器を買い換えた。

それなのにケースは交換しなかった。

それは偉大な音楽家のサインを放置するに忍びないと思っているからなのか、それとも、「Marina」と書かれたその人のサインを大事にしたいのか、聞くことができなかった。

私は逢うたびに「楽器が変わったね」「リード、調子が良いのね」と言うしかなかった。


麗人というのはああいう人のことを言うのだと思う。

秘めた情熱が迸る三白眼に、女性にあるまじき長身は、ヴァイオリン奏者の利点になった。

長い手足に、均整の取れた体つき。長い手指に、繊細な技法。

素晴らしい甘い音色が彼女の世界を豊かに繊細に色濃く表現する音楽は、やはり生演奏が素晴らしいと思った。



彼女のレッスンシーンを目の前で見られるというのは僥倖に近い。



・・・今年の夏は、以前にも増して暑い夏だった。

私の楽器は暑さに弱い。

だから、時々練習の手を止めて、楽器を冷やさなければならなかった。


もう、夕暮れ。

一体何時間レッスンすれば、彼に追いつけるのだろう。

私はそう思った。

そして、蝉の鳴く杜を、見上げた。


レッスン室は完全防音とはいえ、周囲に音が漏れる。

だから、こういう合宿所は、森の中にあるか、誰も来ない墓場の近くにあるかと相場が決まっていた。

今年は、この合宿の後に合流するプロのオーケストラと、カオル・ヒビキヤとの共演コンサートも計画されているし、彼女の来訪に相応しい場所として、この杜の中の合宿所が指定された。

松本や甲府の付近ではこういう施設が整っていてとても安心できる。

冬は・・雪深くなるか湿度が極端に下がった寒風のために、管楽器奏者のレッスン上にはまったく辛い場所ではあったが。

湿気が少ないので、弦楽器奏者やハープ奏者、ピアニストが多く集う場所でもあった。


そんな静かな杜に鳴く蝉を見ることはないけれど、ただただたくさんの音を奏でる蝉を。

私は静かに聞くことがまだ、できなかった。





ねぇ ダイ。

ダイは知ってるのかな。


この泣いている蝉と同数だけ、泣かない蝉がいることに。

その存在を気がついてもらえない蝉がいることに。

鳴いている蝉を恋い焦がれても、彼女たちは、泣くことが出来ない。


彼らの・・・その音色に同調することが出来ない。


私そのものだ。

暗蝉。それは私のことを指す。


カオル・ヒビキヤは、噂に違わぬ麗人だった。

とても女性とは思えない長身に、物憂げな三白眼の美麗な顔立ちの持ち主で、

小さい頃から英才教育を受けてきた彼女は、そのまま音楽だけの世界に生きているようだった。

でも、カオル・ヒビキヤのCDDVDもほとんどすべてを持っていたけれど。

実物の彼女はもっと迫力があった。ソリストとしての自信と経験と・・そして何か思いきったような闊達さと強さがあった。

彼女はぬるま湯で生きてきた人間ではなかった。

心臓を患い、奇跡の生還を果たし、現在の音楽活動に至るまでは、随分と断絶期間があったという。

そんな彼女は思いつめたような三白眼が印象的だった。


彼女はその日の合同練習が終わった頃、最後に一通り演奏してみようか、というところで現れた。

彼女はラフなパンツスタイルで、大股で入ってきた。

バイオリンケースをひょいと、片手に提げて、ふらっとやって来た。そんな感じだった。

ホールの全員が、一斉にどよめいた。

カオル・ヒビキヤだ!


100人ほど居るホールが騒然となった。


全員が、足を踏みならす。

楽器を持っているから、拍手は出来ない。

これはオーケストラ独特の、歓迎の合図だ。

ホール一杯に、皆の踏みならす足音が響いて、彼女はその歓迎を受け止めました、と言うかのように、少し右手を挙げた。

彼女はサングラスをかけて、颯爽と登場した。

王子様みたいねぇとクラリネットの女の子が私の後ろで呟いた。

女の人よ、カオル・ヒビキヤは。

そう言うと、ちっとも女性に見えないじゃない!

と口々に女子が反論した。

ジュニアメンバーは、一番年上は19歳、年下は13歳だから、そんなため息もとても幼く聞こえる。

彼らは恋も知らない。

恋する暇はない。

家と学校とレッスン教室を唯ひたすらに往復する毎日だ。

だからこういうタイミングで、著名な眉目秀麗な音楽家に出会うと、こぞってテンションが上がる。

それもジュニアメンバーならではの楽しみでもあるのだが。

彼らは、本物を見ることが出来て興奮しているようだった。

私はそんなものかしらと思った。

―――苦笑した。


彼女を見てもあまりときめかない。

音楽家としての彼女は尊敬し、そしてその演奏を生で見ることが出来るのは嬉しい限りだが。

あまり、そういう「色めき立つ」感情が湧かない。


それは私が恋を知ってしまったからだった。

今、左隣にいるダイが最も輝いて見えるから。

最も身近に居るから。

遠い世界のカオル・ヒビキヤを見て、ときめく余裕がなかった。

私は隣にダイが座って居ることの方が大切で・・・ 苦しかった。


私はダイを横目で見た。

彼は普通の態度だった。リードを締めて、音調を調整していた。

あの茶色の髪の人に合図したように、とんとん、と左足で二回、床を鳴らしただけだった。


その合図に。


どういうわけか、カオル・ヒビキヤが反応した。

ふと、その物憂げな三白眼をこちらに向けた。


・・・こちらを見ていた。



・・・ダイ?


ダイは微笑んでいた。

不敵な笑いを浮かべて、カオル・ヒビキヤを見ていた。



「大。師匠が到着だぞ!」

ホルンの男との子がそう言った。

彼はうるさいなぁと言った。

・・・鈍感な私はそこでやっと気がついたのだった。

彼の楽器ケースに、無数のカオル・ヒビキヤのサインがあることを。


彼女は弟子を取らないことで有名だったから、ダイと彼女が関係あるなんて、考えても居なかった。

そして、選抜メンバーは皆、誰かしら高名な演奏家の師事を得ているのが常だった。

だから、普通の会話の中に「ウチの先生が・・」と自分の師匠の名前と知名度が、その者のスキルに付随するアクセサリーとなっていた。

私はあまりそういったことに興味がなかったので、この時になって初めて、ダイも誰かの師事を受けていたのだということに思い至った。

まるっきり気がつかなかったのではなく・・・彼は特別だから、誰かの下でレッスンを受けるなんて、考えても見なかった。


それにカオル・ヒビキヤはオーボエ奏者でない。



・・・でも、オケの最初の音あわせは、オーボエとコンサートマスタ(またはコンサートミストレス)で行われる。


彼女が自分の望みのオーケストラで演奏しようと思った時には。

まずは、同じ楽器ではなく、基音を出す、オーボエに声をかけるのではないのだろうか・・・



私はダイのことをほとんど知らないことに、今更ながら気がついた。


よくよく考えてみれば、私の興味がなかっただけで、オーケストラのメンバー表には、どこの学校出身か、何のコンクールに出ているのか、所属はどこか、誰の師事を受けているのか、ちゃんと書いてあるのだ。

持ち歩いている楽譜の裏に下敷き代わりに敷いてしまっていたメンバー表を取り出して眺めた。

・・・ダイの紹介項目には、彼の輝かしい経歴と、カオル・ヒビキヤという名前がちゃんと書いてあった。毎年の事だから。最初の年しか見なかった。その時は書いてなかった。

確か、カオルは長期の演奏旅行で海外に行っていた頃だ。・・・だから書かなかったのか。

毎年彼の受賞歴で長くなるそのスペースを見るのがなんだか誇らしいようで辛かった。

毎回合宿の最初に交わされる、もう知った仲間同士の自己紹介で、昨年度一年の活動結果と、むこう一年の活動予定を聞けばそれで十分だった。


ちょっと耳を澄ませばすぐにわかる情報なのに。

私は唇を噛んだ。


カオルに皆の集中が集まってしまい、今日の合同練習はそれでお開きになってしまった。

彼女もタイトなスケジュールであるから合流レッスンは明日以降に持ち越された。


カオルはまた優雅に手を振ると、特別に設けられた専用の個人練習棟に足を運んでしまった。彼女のレッスン風景は今日は見ることが出来ないらしい。

・・・解散の合図で、皆が楽器を片付け始め、そして思い思いに宿泊施設棟に戻っていく。


「ウメ。戻らないの?食事は?」

最後まで残っておさらいをしている私に、ダイが声をかけた。

彼は楽器をすでに収納し、その師匠がたくさん書き込んだサイン入りの楽器ケースと楽譜と、そしてリードを入れた水入れを持っていた。

リードは適度な湿気を持たせて、削り込みを行う。

彼はいつも空いているほんのわずかな時間でもリードを削り機で削っていた。

そうして何本もストックを持たないと、いざというときに、リードが割れたり裂けたりして演奏そのものに支障が出るからだ。


「いい。ちょっと・・おさらいする。温度も下がってきたし」

ああ、この部屋は暑かったし外気温も高いしね。

彼は頷いた。

「今日、ピッチ(音程)高めだったし。少し調整しておきたい」


私がそう言うと、それなら、先に戻るよ、と彼は言ったので私は微笑んだ。

あまり根を詰めないように、と念を押された。

これから用事がある、と彼は言っていたから、そのままカオルのところに足を運ぶのだろうと思った。


私はそのダイの背中を見送ってから、ひとつ吐息をついた。

彼は毎年違った彼になる。

背が伸び、顔が面長になり、そして口の悪いこどもから少年というより・・男の人になってしまった。

そうして体格が定まってくると奏法も安定してきて、彼の音色はあでやかになっていった。


彼の演奏会もコンクールも欠かさず聴いた。

私は第一のファンと思っているわけではなかったけれど・・・

あの茶色の髪の人より、たくさんのダイの演奏を聴きたかった。

ただ、それだけだ。

それ以上は・・・求めない。



管楽器奏者内の恋愛は御法度だった。

密接にレッスンしたり、議論したりするので、そういう状況に堕ちやすかったけれど、

特にトップ奏者同士の恋は・・・切ない結果に終わることが多かった。

音楽の価値観と、恋愛の価値観が同じであるうちは良い。

でもそれにずれが生じたり私生活がうまくいかないと、とたんに音に出る。

管楽器奏者は呼気を使うからそれが如実だった。

耳の良い者が聴けば、誰が誰に片想いをしていて、誰と誰がこっそりつきあっていて・・・

そんなことまで解るという。

そういう恋愛の哀しい結末を味わいたくなかった。だから、このままで良いと思った。


私は・・・私はダイの才能に嫉妬している。でも、その前に。ダイの傍で微笑むあの人に嫉妬している。

奥歯を噛んだ。


静かなホールで私は吐息をついた。どのくらいそこに居たのだろう。

食欲はなかった。このまま疲れて泥のように眠りたかった。

・・・あまりにも静かすぎて、防音室の外から聞こえる夜の蝉の鳴き声が、僅かだけれど聞こえてきた。


もう遅い時間だった。私はホールを軽く片付けて、合同練習室を出ることにした。


―――もう、来年はここに来られない。


それは確実だった。


ジュニアの年齢を超えてしまうに近かった。私は今18歳で、来年19歳になる。

来年は・・・来られそうもなかった。

特例で12歳からここに来ていた。その時はまだ、自分は世界に通用する奏者になれると思っていた。

でも・・そろそろ限界だった。

後から後から、若い演奏家がやってくる。

私がこの首席奏者の席に座っていられるのは、ダイがいるから。

彼と一緒に演奏したくて練習に励み、彼がさり気なく、総合監督に「フルートのトップ(主席)は・・・持ち替え(フルートとピッコロ・アルトフルートなどを演奏中に替えて演奏すること)もできる人が良い」と私を推薦してくれたからだった。


ダイ。

ごめん。

私は来年、ここに来られない。

ダイの居ない演奏はもう辛い。



少しだけため息をつき、練習場を後にした。



防音扉を開けると、大音量の蝉たちの鳴き声に、少しだけ顔をしかめた。


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そして夜空を眺めた。


蝉たちの鳴く杜を眺めた。

そして上を見上げて、満点の星を眺めた。

今年はここも猛暑だった。

毎年この時間になるとかなり涼しくて、楽器を持つ手が冷えてきたものだ。

私は肩から提げた革製の楽器ケースを持ち直した。



「暑いな」

突然、声をかけられて、ぎょっとした。

―――誰?

練習棟の灯りもほとんど消えてしまっていたし。

今、出てきたばかりのホールから暗がりに出たばかりなので、目が闇夜になれていなかった。

まだこのあと自室で運指の練習をするつもりだったので、楽器は反対側の手に持ったままだった。

あやうく、その楽器を取り落としそうになる。


その姿を見て、私は息を呑んだ。

「カオル・ヒビキヤ!」

「呼び捨てにするなんて、酷いなぁ」

彼女はくすくす笑いながら、その長めの前髪をかき上げた。


間近で見ることがあるなんて。

私はどう、声を出して良いのか解らず、空いた方の手で楽器ケースの肩紐を握りしめた。


褐色がかった巻き毛、物憂げな褐色の三白眼がはっきり見える。

端整な顔立ちに通った鼻筋。

均整の取れた、ヴァイオリニストかダンサーかよくわからないくらいのシルエット。

長い手足。良く響く声。

何もかもが、カオル・ヒビキヤだった。


「すみません、ヒビキヤさん。つい、興奮して。」

私はそう言った。


「いいよ、・・・可愛い女の子に呼び捨てにされるのは光栄だ。ウメちゃん」

彼女が私の名前を呼んだので、私は少し驚いて目を見開いた。

甘いカーブを描いた唇を少しだけ歪めて、彼女は笑った。

「なんであたしの名前を知ってるのかって顔をしてる。」

「そのとおりですから」

私はそう言った。

そして、彼女が今、私が行った動作と同じ事を。

・・・夜の星を見上げながら、宵の蝉の音に聞き入っていたことに気がついた。

「夜の蝉。風情があるね。まさかここで聞けるとは思わなかった。」


カオルはそう言った。

私の問いには答えなかった。


彼女は、宿泊棟に通じる小道に設置されたベンチに腰掛けていた。

そして、だれからも声をかけられない静寂を楽しむように、星を見上げていた。

「女の子がこんなに遅い時間、出歩いたら駄目だろう・・部屋にお戻り」

「あなたも女子ですよ」

私は苦笑した。そうだったっけ、とカオルが笑った。

「それにここは敷地内ですから、大丈夫ですよ。安全面ではね。灯りが少ないから、夜道で転んだりして楽器を落とさない限りは。」

私はそう軽口を叩いた。

カオル・ヒビキヤがヴァイオリンを持っていなかったことも私を気安くさせたのかもしれない。

楽器を持たない彼女は・・・そう、まるで月夜見の神があまりの蝉の囂しさに、ここに思わずやってきて呆れている。そんな感じだった。

どこか寂しげで、どこか幸せそうで・・どこか、頼りなさげに見えてしまった。

月の光のせいかもしれない。それとも、この蝉の声で、私の聴覚が狂い、聴覚と接続して視力や接続してない思考力までも狂ってしまったのかも知れなかった。


「ここにお座りよ。・・・今にお客さんが来るから。」

カオルが笑って、隣に座れといってベンチを軽く叩いた。


「お客様?」

「ああ、毛色の違う奴と、小さい奴」

彼女はそう言ってまたくすりと笑った。

「ウメちゃん。・・・凄い楽器を持ってるなぁ。見せて」

カオルの隣に座るだけで緊張のあまりに硬直している私に、彼女は親しげに話しかけてきた。

私は彼女に、楽器を手渡した。まるで、弓を持つかのように。慣れた手つきで彼女は持った。ずしりとした感触があったのかもしれない。

または、私が長時間握りしめていたから、生暖かくなって、ちょっと吃驚したのかもしれなかった。

彼女は、すげぇと言って口笛を吹いた。

「・・・これを日本で、持っている人が何人いるかな。

ああ、久々に見たよ。ムラマツの完全ハンドメイドだね・・・・しかもプラチナだぜ!」

彼女が高く私の楽器を掲げた。

フレンチタイプ(※フルートにはカバードとフレンチがある。フレンチの方が奏法がより難しい)なので、ホールキー部分が月の光で乱反射した。

「これ、馴らすの難しかっただろう」

「そうでもなかったです。プラチナの方が温度管理が難しいですが・・・シルバーや18K よりもずっと音色が安定しているので。」

それであえて君はこれを選んだんだね、とカオルが私を見てそう言ったので、私は少しだけ心を平静に保つことが出来なくなった。


「・・・どういう意味でしょうか」


また、カオルはその問いに答えなかった。


「ダイはね・・奴が小さい頃から知ってるんだ。」

カオルが話し出した。

「ほら、奴は拘る性質だからさ。音楽やりたいって言ったときに、最初はヴァイオリンやらせるつもりだったんだ。・・・でも、いつかカオルと共演したいからヴァイオリンはイヤだ、弦楽器は追いつけないからイヤだ、って言いやがる。」

カオルがそのときのことを思い出したらしく、細くて大きな手を口元にあてて豪快に笑った。

「しかもさ。アイツ、次に何て言ったと思う?メカニカルで、舞台の上で目立って、カオルと同じでない楽器。でもカオルはボクを見なければ演奏できない位置にいる楽器が良いと指定しやがったんだ。・・・そしたらもう、あのポジションしかないだろう?」

・・・ダイの楽器選びの動機がそれだけだったのには正直驚いた。


「さすがに、断れない筋からのお願いでなかったら、ああいう『こだわりマン』を弟子にするつもりはなくって。・・・でも、アイツは数年であっという間に上手くなった。」

それは演奏会のたびに聴きに来てくれる人がいるからです、と私は心の中で呟いた。

自分の演奏を聴いてくれる人が居れば、必然的に練習にだって熱が入る。


私は黙って彼女が語るダイに耳を澄ませた。

「このジュニアオケのメンバーだって、推薦状がないと入れないんだろ?あたしはそんなものは書かないから自力で来いよって言ったんだ。

ダイを紹介した人が毎年甲府に来るのでね。

・・・毎年、この合宿が終わった後に。甲府でちょっとした催し物があってね。

アイツには、このオケに参加できないような奴には甲府に足を踏み入れるなって言ったんだ」

そうしたら毎年来やがって。あたしより参加回数が多いんだ。酷いよなぁ


彼女はそう言って笑った。


彼女は私の楽器を眺めながら世間話をした。

時々笑いながら片手を口元に持って行くので、少しだけはらはらした。

噂に違わない、豪快な気質の人のようだった。



・・・そろそろお出ましだぜ


彼女が何かに気がついて、微笑んだ。


誰かが来る。

彼女の耳は私の数倍良かった。私は足音に気がついたのは彼女のその台詞から数秒経過したときだった。


宿泊棟への道は緩やかな傾斜になっていて、こちらからは下り坂だ。

だから、大きな楽器の人は、楽器を運ぶ際に、この傾斜に気を付けて歩かなければならない。

つまり向こうからは上り坂で。

・・・向こうから、誰かがやって来る足音がした。

その人物はが徐々に近づいてきて、姿を現したとき。

彼女に言っていた「毛色の違う客人」だと思った。


「ヒビキヤ。・・・おい。探したぞ。」


彼はとても不機嫌そうに、そういった。

白金の髪に、青灰色の瞳の・・・本当に月の神様のような人が目の前に現れた。

長身の、神経質そうな人だった。

外国人と一見して解るのに・・・流暢な日本語だった。

彼は、カオル・ヒビキヤの知り合いのようだ。

カオルは唇の端を歪めて、ふふんと鼻を鳴らした。


ここで待ってたんだ。


彼女はそう言った。



「やぁ、シャルル。遅かったな」

カオルはそう言って、反り返り、長い脚を組み直した。


シャルル、と呼ばれた人物はますます不機嫌そうに、眉根を寄せた。

彫刻のような、その美しい顔に、はらりと白金の髪がかかり、月の光を全部集めてしまったように光を受けて発光し、今はその髪はレモン色に見えた。

月の神様のようはその人は、カオルと私の目の前に立って、腕組みをした。

私にはまったく目が入らないかのようだった。私は慌てて立ち上がった。

「レディが先に立つものじゃない」

カオルが面白そうに言ったものだから、私は、はい、と小さく頷いてまた座ってしまった。


「オレの患者が何してる。・・・今日はゆっくり休むというから、休息時間を予定しないでここまで移動することを許可したのに。」

彼は憤慨していたようだった。

物言いは静かだったけれど、目つきが鋭くなった。

はいはい、とカオルが言ってちょっと笑った。

「発作を起こしても知らんぞ」

「・・・腕の良い医者がいるからね。しかもあたしの主治医だ。そいつが治してくれるさ」

「ふざけるな」

ぎらりと、今度は強くカオルを睨んだので、私はまた腰を浮かせてしまった。

カオルはまったく動じてなかった。


「ここにいる小さなレディが驚いているよ。名医シャルル・ドゥ・アルディ。・・・本当に診て欲しいのは、あたしじゃない。」


彼女はそう言って、座ったまま、私の楽器をシャルルに渡した。

シャルルは、私のフルートの色あいに気がつき、おや、と眉を動かした。

そしてそれを受けとると、ずしりとした感触に、少しだけ声を漏らした。

先ほどの憤りは忘れてしまったか、後回しにしようと思ったらしい。

「・・・・ムラマツのハンドメイド。H管。エクストラバージョン。フレンチタイプ。頭部管をオリジナルに交換してある。・・・日本人で持っている者の中で最年少だな。」

彼はそう言うと、興味なさそうに、私に渡して寄越した。

カオルは面白そうに言った。

「あんた、フルート好きだったろ?珍しい楽器をみて、喜んだお礼はなしかい?」


そう言うと、シャルル・ドゥ・アルディは私の方をおもむろに向き直った。

・・・・そして、じっと私を見た。

その青灰色の瞳で。

喜んでる?この無表情が?

私はカオルが言っていることが理解できなかった。


でも次の瞬間、吸い込まれそうな彫りの深い瞳が私を見たものだからそんなことを言う暇はなかった。

「名前は?」

「ウメ」

私の代わりにカオルが答えたので、シャルルはカオルに少し黙ってろ、と短く言った。


「・・・いつからだ?」

彼はそう言った。

「え?」

私がそう声を出すと。


私から楽器を取り上げて。カオルに渡した。ちょっと持っていろ、と肩にかけていた鞄も取り上げて、カオルに渡した。

カオルははいはい、とまた言って、面白そうにほおづえをついた。


この神様達の気紛れに立ち会って良いのだろうか・・・

私はなんだかここに居てはいけない気持ちになってきた。


その時、シャルルが動いた。

「あっ・・・!」

「黙って。」

シャルル・ドゥ・アルディが、私の両の頬を掴んだのだ。

冷たくて細くて繊細だけれど、大きな手のひらが、私の顔を包んだ。

「日本人にしては顔が小さいな」

シャルルはそう言いながら、私の顎からこめかみにかけて・・・ゆっくりとなぞった。

私は顔が赤くなり、近くに見えるその瞳から眼を反らすだけで精一杯だった。

その横でにやにや笑うカオルが恨めしかった。助けてくれたって良いじゃない。

――― 一体、何をしようと言うの。


U-side 闇蝉 後編

「あの。離してください。」


私は小さな声でそう言うのが精一杯だった。


彼の左手の薬指から伝わる冷たいリングの感触から、その素材は私の楽器と同じハードプラチナだとわかった。

その薬指が、小指と一緒に、私の頬や顎のラインをなぞった。

そしてうなじにまで手を伸ばしたので、私は首を縮めて肩を上げた。

「いつからだと聞いてるんだ。」

シャルル・ドゥ・アルディは、まったく日本人女性は神経が退化しているとしか思えない、と苛立たしげに呟いた。

私は眼を反らしながら、とぼけてみた。

「なんのことでしょう・・・」

「オレは医者だからね。ごまかせないよ。・・・ウメちゃん?」

彼がぐい、ともう一度、私の顔を自分に向けた。

「こっちを見ろ」

彼はそう言った。その強い口調に逆らえなかった。

大人の人にそんな風に命令されるのは慣れていなかった。困ってしまった。

「ウメちゃん。奴には隠し事はできないぜ。」

可笑しそうにカオルが言った。

「シャルル。レディが怖がっていよ。そう、どいつもこいつもって顔しないでさ。

 気持ちはわかるけどね。」


「・・・顎関節症。随分長いこと患っているね」

シャルルが言い当てた言葉に、私はぎくりとした。

隠しても駄目だとシャルルは言った。

青灰色の瞳が私をのぞき込んでいた。

「職業病みたいなものさ。・・・高い確率で発症する。型から型までの混合だな。

食事するときも相当痛いだろう」

「痛くありません。痛くなんかありません。」

私はそう言って、彼の手を振り払った。

「君だって自覚症状あるだろう。痛み止めの注射を打っている痕跡がある。

でも演奏に支障が出るから、ぎりぎりまで鎮痛治療はしないのだろう?

それが悪循環になる。長時間練習した後は、口もきけないくらいだね。」

シャルル・ドゥ・アルディは私を見て、わからない、といった風に首を振った。

「このプラチナフルートの頭部管がハンドメイドで君の唇の形状に合わせたものである理由もわかるよ。負担ができるだけかからないように、作り直したのだろうね。

そして、最も好まれる18K フルートにしないで、プラチナにした理由は、やはり、その顎の周りの筋肉がバランスを崩して音程が崩れたときに、硬質の音がでるプラチナの方が誤魔化しやすいからじゃないのか?」

「・・・・・・」

私は無言だった。

たった、ほんの一瞬だけ私を見て、少しだけ触診して、楽器をちらりと見ただけでわかってしまうこの人が怖かった。

私そのものが薄っぺらい人間だからか。

シャルル・ドゥ・アルディ。何者なのだろう。

どこかで聞いたことがあった。


「忠告しておく。早いところ専門家に診てもらえ。それとも・・専門家の忠告を無視して、君はずっとごまかしごまかしその状態を続けていたのかな。」

私は下を向いた。

まったく頑固なお嬢さんだ。

シャルルはそう言った。

相当痛いぞ、これは。

そう言った。


・・・痛いわよ。痛いに決まってるじゃない。


確かに激痛が走る。

最近では常に鈍痛がある。

でも痛み止めを使うと、口角の筋力が加減できなくなり、・・・私の唯一の取り柄であるピッコロもアルトフルートも持ち替え吹きができなくなる。

微妙な加減ができなければ音程も保てないし、難易度の高い曲も吹けなくなる。


この合宿に入ってからは、皆に知られずにいることにどれだけ心を砕いたことだろう。

・・・レッスン後はもう、口もきけないくらい、痛んで咀嚼することもできない。

フルート奏者は私だけではない。

他に5人も居て、彼ら彼女らは、私の席が空くのをじっと狙っているのだ。

脇に控え、監督や指揮者の注意を自分の事のように楽譜にすぐさま書き込んで、自分のレッスンでないそれが終わったあとは、自分のことのように重点を置いて練習する。

音楽の世界とはそういうものだった。

そしてチャンスに恵まれて、タイミングが良く、努力を怠らない才能溢れる人間だけが残る。

どれか一つだけ優れていても、駄目なのだ。

それに、・・私はダイと一緒にもう少しだけ過ごしたかった。


贅沢は求めない。

今年だけだ。

来年はもう、私はここの参加資格を失う。

規定する合宿の申込日までに、私は19歳になる。

ダイはまだその時はその年齢に達しない。

大学に入ったばかりで、まだ音楽を続けて居れば、彼はまだこの合宿の参加資格があるのだ。

留学経験者が多いから、学年で区切ると遅れて進学した者が有利になる。

だから年齢で制限するのもわかるけれど。でも、酷いと思っていた。

その代わりに、私は特例で、13歳に達する直前だったことを理由に、12歳からここに参加することが出来たのだから、文句や不平は言えなかった。


―――来年、ダイの右隣に座るのは、私でない誰か、なのだ。


顎関節症を患ったのは随分前だ。

これは管楽器奏者に多く見られる。

一種の職業病だ。

顎の筋力を酷使して、とても負荷をかけ、精神ストレスもかかる故の故障だった。


演奏会本番の前は、緊張がほぐれるのを畏れて食事も水分も摂ることができない。

ましてや、鎮痛剤なんて使うこともできやしない。

痛みに耐えながら、日々を生活することは辛かった。

唯一寝る瞬間だけが痛みを感じなかった。


もう、限界でしょう。


私のかかりつけの医師は言った。

楽器でごまかしても。技術でごまかしても。

本人が治療しないのであれば、駄目ですよ。


アーティスト専門に診ているその人はそう言った。

君はまだ若いから、はっきり言うよ。

そうして・・・はっきりと死の宣告をしたのだ。



手術をしろという。

砕けた軟骨を除去しないと痛みは消えないと言う。

私に死ねと言ったのだ。



1日休めば自分で解る。

2日休めば周囲が解る。

3日休めば観客が解る。


そういう世界だった。

一日何時間も孤独で退屈な基礎練習をして技術を維持する。

華やかな曲の練習をするのは、ほんの僅かな時間なのだ。

それが私の今を支えているのに。

手術なんかしたら、何ヶ月楽器に触れないのか。

何ヶ月・・・その何倍の時間をかけたら、今の自分以上になれるのか。

考えるだけで恐ろしかった。

熱が出ても学校の行事があっても、睡眠時間を削っても練習時間を確保した。

毎日毎日、学校とレッスン場を往復するだけだった。

2時間基礎練習をして。昼休みに30分練習して。自習時間があれば音楽室の教師に頼み込んで個室防音室を借りて練習する。そして夕方終業と共に深夜までレッスンに明け暮れる。

そんな毎日を失うのだ。そんな毎日を捨てろというのだ。


・・・このシャルル・ドゥ・アルディも。同じことを言うのだ。


私は・・・泣きそうになって。


「ウメちゃん。だから、はやく治療しなよ。あたしが見てもわかる。

ダイが心配して・・・シャルルにここに立ち寄るように、頼んで寄越したんだよ。・・・ウメちゃん?」

カオルの言葉を聞き流した。


私は。


おもむろに楽器を分解し始めた。

何してるの?とカオルが唖然として言う。

泣きそうな顔をした女子が、涙を流す前に、慌てて楽器をケースに閉まっているのだ。

その奇妙な行動に唖然とするカオルに、シャルルが説明した。

「涙の成分がプラチナの本体に付着するのを防ぐために片付けているんだよ。塩分がこの楽器には禁物だ。涙とか汗とか。だからこの陽気は相当辛かっただろうね。・・・・見上げた根性だな。」

シャルル・ドゥ・アルディがそう解説した。

私の解説は良いから。はやくどこかに行って。でなければ、私がはやくどこかに行かなければならない。



・・・楽器を慌てて片付けた。

肩にかけていた楽器ケースを開き、尾篭土のやわらかいケースに収納して。

溢れそうになる涙を堪えた。ここに落としてはいけない。楽器を痛めてはいけない。

彼が好きだと言ってくれた楽器だった。

良いね、と言ってくれた。

だから私はこの楽器がとても扱いづらいと思ったけれど好きになった。

このフルートでダイと演奏できることが嬉しかった。


・・・でも、もう、それもできない。

カオル・ヒビキヤに知られてしまった。

彼女はきっと、早速音楽監督にドクターストップをしろと告げるだろう。


そうして壊れることを引き替えに、トップ奏者の地位にしがみついたまま、そのまま転落していった人を何人も知っていた。

後輩にも何人かいた。

今のチャンスを選んで将来を捨ててしまった人と、私は今同じになろうとしていた。



・・防湿効果の高い楽器ケースをぱちんと音を立てて蓋をして。



そして私は初めて。ようやく泣くことに専念することが出来た。


「だったらどうすれば良いのよ!」

私はそう言って号泣した。

後から後から涙が出てきたが、嗚咽は蝉の音にかき消された。

楽器を片付けて、それをぶつけて傷つけたりすることがない状態になって初めて・・・。

私は泣くことが出来た。

私の感情より優先されるものはこの音楽と。そしてダイだけだった。

ぽろぽろと涙を流す。

涙を流すのだって、病気には障る。

ずきんずきん、とこめかみが痛む。


「私にはこれしか取り柄がない。私に残されたものはこれしかないし。

・・他にどうやって誰と繋がることができるというの・・・」

小さいときからこの生活だった。

今を失うことが怖かった。

だったら・・・来年からは会えないみんなとダイに。最後の私の姿を焼き付けて欲しかった。


暗蝉もその羽音を響かせることができるのだと。

そう、言いたかった。


わかってるわよ。


私は世界に通用しない。日本のジュニアに選抜される程度しか技術がない。

どんなに環境にもタイミングに恵まれていてもそれを上手く使うことの出来ない人間だった。


だから今年くらいダイと一緒に演奏させて欲しい。

それは私の小さくてささやかな願いだった。

それを。

今あったばかりのこの人達に指摘されて、そしてそれを止めろと言われて。

私はどうしたらいいのか、わからなかった。



「・・・・ダイが言ってた。努力家の女の子が、毎年隣に座る、って。」

ああ、泣くんじゃないよ。別嬪さんが台無しだよ。

カオルが腕を伸ばして、泣きじゃくる私の頭を撫でた。

「食事の時間も気にするくらいの神経質なその子は。

・・・トップ奏者にない謙虚さを持っていると言ってた。

毎回、下っ端が掃除するべきホールを掃除し最後に退室する。

そして一番にやって来て、空調を気にする。

・・・ダイがそんな風に女の子の話題をするのは、二人目だよ。

・・・・そしてその通りじゃないか。

ウメは、この時間まで練習をして練習をして、そして、その地位を保っている。

そんな素敵な女の子が、痛みと秘密に苦しんでいたら、ダイだって苦しいだろ。」


カオルはそう言った。


違うよ、私は泣きながら否定した。


最初に入室するのは。

私が人よりたくさんの基礎練習をしないと・・・休み休み楽器を暖めているのを知られてしまうから。

私が人より遅く退室するのは。

掃除をしているという名目でないと、その痛みに耐えかねて、痛み止めを服用する姿を見られたくなかったから。


「・・・なによ、ダイは知ってたの?・・・・ 馬鹿みたい。」

私はそう言って、また上を向いて泣いた。


どんなに悔しい結果になっても、コンクールの時には泣かなかった。

主席を奪われた時にも泣かなかった。

自分の練習不足が敗因だと思い、闘志を燃やしただけだった。


・・・でも。今、この瞬間。


私のことをよく知らない人達の前で、私は泣いた。

私を知らないから、思い切り泣けた。


その時に思いだした。

シャルル・ドゥ・アルディ。

カオルと最初に共演した人物だった。

確か、ワンフレーズ飛ばして。たぶんわざとだと思うが。

カオルに殴られた人物だ。

昔の逸話の人物が、今、ここに居た。

こんな凡庸な私を、奇跡のような人達が困ったように。でも嬉しそうに見つめていた。

きっとダイに対してもこうして見つめているのだろう。

優しい、月の神様たち。

「ダイが気むずかしいから。ああやってパートナーを何年も替えずにいられるのって、ウメしかいないと思うんだよね。」


カオルが言った。


そして私はカオル・ヒビキヤとシャルル・ドゥ・アルディの関係が羨ましかった。

彼女と彼は、今、患者と医者の関係にあるという。

出会ったときの年齢の何倍もの年数を経験して、彼らはその関係を少しだけ変えたけれど、それでも信頼関係を築いていた。


私は。


ダイとそんな関係を築けないだろうと思った。

来年、私の姿がなければ、ダイはそうなんだ、と思うのだろう。

でも、ただそれだけだ。

隣に座っていた人物が交替しただけ。

そう思うだけだ。

私も。

ダイでない人を隣に何度も演奏した。

その器用さを乞われて、演奏会のエキストラに参加した際には、一番末席でさえ、そこに参加できることを喜んだ。ほんの何小節しか出番がなくても。


でも。

カオルはまた長い話をした。

「ダイはね。音楽を始めたのが遅いから。絶対音感はない・・だから、音程を気にしすぎる。

あいつが始終リードを削ってストックをたくさん作っているのは不安の表れさ。

音程が、環境や自分のコンディションで崩れることを極端に嫌う。

・・・・ウメちゃん。

君がきちんとした音感で、彼にA音とC音を提供しているから。

彼は平穏を保てるのさ」


私は彼女が言っている言葉の少ししか・・・理解できなかったと思う。

号泣していたから。

ダイが語る私は私であって私でなかった。

そんなに私はご大層な人間でない。


ただダイと一緒に演奏できなくなる日をカウントダウンしている情けない人間なのだ。


私がこんなに辛く苦しい日々を送ることができるのは、彼のその才能に魅せられてしまったから。

ただそれだけだった。


「ダイも器用貧乏でね。あいつも、音楽の道を究めることはないだろう」

シャルルが今度は言った。

「・・いずれ、別の道で大成する。

これはほんの・・・ 序章でしかない。」


彼の人生が、音楽以外でもっと花開くのであれば。

私は喜んで応援したい。


泣きながら。私はそう言って笑った。

やぁ、ようやく笑ってくれた。暗蝉の姫君。



カオルはそう言った。

暗蝉。カオルはその意味を知っていた。

「あたし達のように・・・泣きたくても泣けない蝉のことだろう。」

彼女はそう言った。

「我慢強くて・・そしてこよなくダイを大切にしてくれる人を蔑ろにするわけにはいかないよね?」

シャルル・ドゥ・アルディ?と聞かれて。

その異国の人はちょっとだけ舌打ちをした。

「ダイと一緒にアイツに怒られてもいいのであれば、このままウメを放置するけれど。」

「ああ。わかったわかった。」

彼はほんとうに仕方なさそうに。

手を振った。本当にうんざりした様子だった。



「この子の病床例については興味があるしね。珍しい複合型だし。

ストレスと緊張性障害については経過観察後、論文のサンプル価値はあるね。・・・・

 引き続き経過観察して。

 しかるべきときに手術すれば良いのだろう?」

まったくオレの回りの女性とはこうも願い事が多いものなのだろうか、と彼が大げさにため息をついた。


「・・・おい!何、ウメを泣かせているんだよ!」

その時不意に声がして。

こちらからみて下り坂から、ダイがやって来るのが見えた。

「いい大人が二人して。なに、泣かせてるんだ!」

彼は怒っていた。

とても憤慨していた。

ダイ。

私の涙が止まった。

彼はまだ少年と大人の狭間の人だった。

ひょろりとした体躯。でも、骨格は大人だった。

大きな瞳に、バランスの取れていない少年とも青年とも言えるようなそんな彼を。

私は眩しくて直視できなかった。


・・・カオルとシャルルが月の使わした人達であれば、ダイは太陽そのものだった。

彼らも、眩しそうにダイを見た。

「おい、また身長のびたんじゃないのか?」

そうカオルが言うとダイは近づきながら、面白くなさそうに言った。

「もう少しでカオルを抜かすよ。・・・・それより。帰りが遅いので、出てきてみれば。

何してるんだよ」

ウメを泣かせとは言ってないぞ、と彼が口ごもった。


成り行きだ、とシャルルが言うと、ダイはきっと彼を睨んだ。

「シャルル。お前・・・泣かせるなって言っただろう」

おや、とシャルルは意地悪く笑った。

「それは特定の人に対する願い事じゃないのか・・知らなかった。」

シャルル・ドゥ・アルディがそう言うと、ダイは面白くなさそうに口を尖らせた。

「いいから。オレの言う通りにしてくれ。

―――今年の甲府の祭りには彼女の隣の席を譲ると約束しただろ」

白金の髪のその人は、面白そうに結構、と言った。

「君がそれを譲るとは。相当大した決心だね。」

「うるさい」

ダイは言った。そして私に向き合った。

「・・・ウメ。具合は・・・ あまり良くないのか」

「ダイ。知っていたの?」


そう言うと、ダイは、パートナーなのだから、解らない方がどうかしている、と笑った。

「食事。固形が辛いと思って、ゼリー状飲料を買って置いた。

 カロリーだけは保たないと、持久力がもたない」

私は笑った。

「・・・・もうそういうレベルじゃない」

「・・・そうか。」

ダイは少し寂しそうに言った。

「でも明日の最終日にはちゃんと出るから」

私はそう言った。

彼がうんと頷いた。


「カオル。シャルル。・・・ちょっとカオルの独立棟で待っててくれ。」

ひゅう、とカオルが口笛を吹いた。

「ナイトがプリンセスを送っていくそうだ」

「そんなんじゃない」

ダイがそう言って否定した。

私の肩に提げられた鞄を彼は代わりに持ってくれた。

カオルとシャルルは。まだ、月夜を眺めていくと言う。

私はぴょこんと頭を下げた。


カオルは「おやすみ、良い夢を」と言った。

シャルルは黙っていた。

私はこの奇跡の様な人達と話をすることができたことそのものが私の最後の音楽活動になるのかと思うと少し切なくなった。

素敵な音楽家達との会話が私の演奏活動歴の最後欄に書かれることになるのだろう。

カオルと、ダイと。そしてシャルルとの音楽討論。



見返りを持たない、そんな私の願いを。

彼らが聞き入れてくれた。

私は捨てるつもりがなかった。

捨てることが出きなかった。


シャルルとカオルが何かを考えていた。

私が座っていたところにシャルルが座ると。

二人でなにやら話をし出した。

カオルは手を振って挨拶をしたが、シャルルはもう私とダイには興味がなくなったかのように

こちらを見もしなかった。



「行こう」

ダイが言った。


宿泊棟までの、ほんとうに短い距離と時間。

私はダイと、音楽の解釈と今後のスケジュールなどの事務的な話以外を・・・はじめて交わすことになった。


「彼らを置いてきてしまって良いの?」

「ああ、どうせもう一人が到着するのを待っているんだろう」

カオルが言っていた「小さい客人」のことだろう。

ダイは月を見上げて、「暑いな」とカオルと同じ台詞を呟いた。

私は「そうだね」と言っただけだった。

ダイと普通の会話をしたことがないから、どんな話から始めれば良かったのかわからなかった。


ダイは私の歩幅に合わせてゆっくり歩いた。

そして「ごめん」と言った。

「・・・本当は随分前から気がついてた。だけど、ウメが言い出すまで、言い出すつもりがなかった。そんなに酷くなっているなんて、知らなかった。・・・いや知っていたけど、我慢できるくらいだから・・・大丈夫だって思ってた」

彼は前を向いたまま、そう言った。

私の左側に立つ彼は、演奏するときの彼と同じ角度なのに違うダイだった。

「それはダイのせいじゃないでしょう」

「・・・明日の最終日には出られそう?」

その質問に、当然じゃない、と私は極力朗らかに言った。

「明日は無理をしても良いから」

そう言ったので、私は言葉に詰まった。

無理をするな、と言われると思ったからだ。

「悔いのないように。・・・・でも、そのあとはきちんと治療してくれ。」

ダイ。それは私に死ねと言っているようなものよ。

私はその言葉には返事をしなかった。

「取り柄がなくなっちゃうわね」

ちくりと、それだけ言うと、彼は大きくため息をついた。

「ウメ。・・・・取り柄って、優れている技能を指すわけではないよ」

彼は言った。

「その人そのものの優れているところをそう言うんだ。ウメにはちゃんと、取り柄があるだろう?持ち替えできて。長らくトップ奏者を維持して。そして、きちんと努力することを知っている。辛いとも痛いとも言わない。辛抱強くこつこつ進むことって、取り柄じゃないの?」


・・・ダイ。それは路を極めた人が言うんだよ。

でもその言葉は私には重かった。

とても・・・ずしんと来た。

ダイは路を極めつつある人だ。そしてこれから・・・ あっさりと違う道に行こうとしている。

彼はそんな頂点に登りつめる前に、私に向かって振り返ってくれた。

そして、堕ちていく人を何人も見ているはずなのに、私には諦めろとは言わなかった。


優しすぎるよ、ダイ。

そんなだから・・・私はあなたを見ていたいと思ったのだけれど。


彼だって努力していないわけではなかった。

私は知っている。

才能だけではこの世界では生きていけない。

たくさん書き込まれた楽譜と、スコア(総譜)を持ち歩き、休憩時間には曲のおさらいをして。そして時間を惜しんですべての情熱を注いでいることを私は知っていた。


カオルもシャルルもそんな彼だからこそ、師であるようなずっと雲の上の人達なのに、ああして対等に彼を扱うのだ。


・・・おせっかいね。


私がそう言うと、ダイは少し口を尖らせた。

「それはないだろう。もう何年一緒にやってるんだ。」

だから、早く病院に行け。早く戻ってこい。

彼は、そう言った。私は小さく微笑んだ。

「考えておくわ」

それ、あのシャルルの台詞だぜ!

ダイが目を丸くしてそう言った。

その表情があんまりにも面白くて、私はついまた笑ってしまい、大きな口を開けたものだから痛みに顔をしかめることになった。

「今日はもう休め。明日に備えろ。」

カオル・ヒビキヤと一緒に演奏できるのだしね。

彼は目をきらきらさせながら言った。

随分長い間師事していたのに、彼女は一度も彼と同じ舞台に上がらなかったらしい。

・・・今度こそ、カオルにぎゃふんと言わせるよ。オレの音じゃないと始まらないしね。

それが彼女との約束なんだ、とダイが言った。

ああ、あの茶色の髪の彼女のことだろうな、と思った。

「それなら、明日は最高の演奏にしないとね」

私はそう言った。


・・・蝉がまだ鳴いていた。

私とダイの会話はここで終わった。


頑張ろうね


私が彼と別れ際にそう言うと。


ああ、お互いに。明日は無理しろよ。


持ってくれていた鞄を受取りながら、彼の言葉を聞いて。


私は笑った。もう泣かなかった。


あの人達に逢ったから。

この暑い夏の夜に、気紛れにやってきた、彼らが私を少しだけ変えた。

最終日は、いつも楽しみだった。

これまで練習してきた曲を、その都度招いたプロのゲストと一緒に楽しむ。

プロを目指す音楽家のタマゴ達には、唯一の息抜きだった。

その時だけは、上下関係も、厳しい奏法の指導もない。

ただただ、最後の演奏を楽しんで。

来年もまたこのメンバーで演奏しようと言い合う。

それは半分だけ叶って半分は叶わない願いだけれど、決まったようにそう言う。


カオル・ヒビキヤが入ってきた。

昨日と同じように、足を踏みならして彼女を迎え入れた。

彼女は・・・ちょっと頭を掻いて、そして手を挙げた。足音がやむ。

「若い音楽家の人達へ」

彼女はそう言って話を切り出した。音楽理論や難しい奏法はなしにしよう。そう始めた。


「あたしは・・・あんた達と同じくらいのときに病気になりしばらく音楽を離れた。でもやっぱりこの道が自分の道であって・・・自分を支えてくれる人達と繋がることの出来る唯一の手段だと思った時に。そして、ヴァイオリンを続けなさいと言ってくれた人のために。もう一度始めることにした。」

そう言うと、彼女は甘いニスの光る彼女の愛器を撫でた。

「音の道はとても険しくて、とても・・・孤独だけれど。一本道ではない。いろんな、道があって、それぞれがそれぞれの道をゆくのだと思う。

だからこそ、音楽というやつは奥が深い。」

そこまで言うと、彼女は少し笑った。

お堅い話はなしだよ。これがあたしの最初で最後の講義だね。

さぁ・・・言葉はいらない。始めようじゃないか。


彼女がそう言うと、オーボエ、音をくれと言った。


・・・ダイはカオルの言葉をじっと聞いていた。何か思うところがあるのだと思う。

そして、静かにけれども完璧なA音を吹いた。

基音。これが始まりの音。

その音にあわせて、カオルが音を奏で始めた。

顔を上げると、次にコンサートミストレスが。そしてそこから波及するように、次々にA音を奏でるいろんな楽器の音の渦。

私は目を瞑った。

これが最後とわかっていても。目を瞑ってこのまま・・・じっと聞いていたかった。

カオルの音は素晴らしかった。

弦も弓さばきも素晴らしかった。生のカオル・ヒビキヤをいつか聞きたいと思っていたけれど・・・この基音だけで、十分満足できた。


「それじゃ、今回で卒業になる者は立って」

カオルはチューニングを終わらせると、よく響く声でそう言った。

「卒業」それは来年には年齢制限を迎える者を指す。

来年からは・・『ジュニア』でなくなる。もっと上のランクの大人達に競争を挑む立場になり、このジュニア・オーケストラは・・幼くて甘くて柔らかい綿菓子のような夢になる瞬間だった。


何人かが立った。私も立った。

でもカオルがそんなことを言い出すのがよくわからなかった。


それはすぐにわかった。

ダイが立ち上がったからだ。


「ダイ?」

私が怪訝な顔をすると。彼は少し笑った。

右側の私をちらっと見た。

「・・・来年は、オレ、留学するんだよ。フランスの大学に。」

彼がぼそりと言った。私は唖然とし、周囲は騒然となった。

ここ何年も彼の音でチューニングしていたメンバーには衝撃だったはずだ。

となりのサブを吹いていた女の子も口を開けていた。

・・・誰も知らなかったらしい。


後になって知ったけれど、ダイはこれが最後の合宿だった。

彼は理系の・・・スーパーサイエンス高校の指定を受けている学校の生徒で、その物理センスを評価されて、来年からは交換留学生として日本からフランスに派遣されるという。

・・・そんな凄い人とは知らなかった。

彼が何を知っていてどんな将来を考えているのか。

ほんの少ししか知らなかった。


隠していたわけではないよ、と彼はみんなに言った。私も含めて。


黙っているのと隠しているのと、私たちの世代ではあまり変わらなかった。

でも私はそんなダイが好きだった。

あまり多くを語らず・・でも口の悪い、長らくのパートナーの気質を私は心得ていた。

ダイが好きだったから。

好きだったから・・・次に笑ってみた。

そう、そうなんだ、と言ってみた。

私はダイの一部しか知らなくても、ダイが好きだった。それで良いじゃないと思った。


知らなかったよ、とか聞いてないよ、とか。そういう言葉は誰でも言えた。

でも、私は「無理するところはそこだね」と言って笑った。

頑張れ、とは言わなかった。

これから留学して。

結果を出そうとする彼を応援する言葉はきっとそんな言葉ではないだろうと思った。


彼もここは最後になるのに。また、戻っておいでと言った。

それは音楽の世界に戻ってこい、どういう形でも、という事だと思った。

そして私は「考えておく」と返事をした以上、それに答えを出さなければならないと思った。いつか、どんなに長い年月を経過したとしても、その結論を出したいと思った。


ダイ。


私の秘めたる恋の相手。

拙い暗蝉の音を聞き分けてくれた、素敵な大人達と一緒に、彼は今年消えてしまう。


ダイに、私は何を残してあげられるのかな。


いつか・・・いつか、こんな女の子もいたなと思いだして欲しいな。そう思った。

私なりに頑張った。結果も出した。でもそのぶんたくさん辛い思いをしたけれど、やっぱりダイを好きになって良かったし、この道を選んで良かったと思う。



「なにか・・・リクエストはあるか」

カオルがそう言うと、ダイが大きな声で言った。

「別れのカノン」

・・・カオルが苦笑した。随分と・・・趣味が悪いね、と言ったけれど、少しして、彼女は弓を弦の上に置いた。

つややかでみずみずしく・・そしてどこか憂いを帯びたカオルの音。

彼女が目配せをすると。

私たちは即興で、その曲に伴奏をつけた。

本当はオーケストラ向きの曲ではなくソリストがピアノ伴奏で演奏する曲目だった。


でも、カオルが演奏すると私たちは自然につられて・・・

そう、そこが彼女の最大の魅力だった。


彼女は音楽が好きで・・音楽が好きな人が好きだった。

ダイもそうだった。

技術じゃないよと彼は言った。

ダイもカオルと同じだった。音楽が好き、音楽が好きな自分が好きではなかった。

音を愛でる人が好きで。

だから、音を出すことがない無音の私の叫びに気がついてくれた。


茶色の髪の彼女が音楽がわからなくても、音楽を奏でるダイを好きなのだったら、それはやっぱり良いことなんだと思った。



別れのワルツ。


私の最後の演奏曲になった。


カオルが弾き終わると、一斉に喝采が飛んだ。

彼女は少し微笑んで、ダイは左足をとんとん、と2回だけ叩いた。

その合図は、彼と彼をよく知る人だけの合図だった。


今年の夏は暑かった。

とにかく暑かった。

でも・・・でも、いろんな意味で、私の知るどんな夏より。良い夏だった。夏らしい夏だった。

冷房の効いた防音室のなかで過ごしていた私に、暗蝉が少しだけ見せてくれた幻が。

私の大切な宝物になった。


―――それから何年が経過しただろう。




偶然、本当に偶然。


彼を。ダイを見かけた。

しかもフランスの空港で。


何年経過しても彼の顔を忘れることがない。

それに、日本人がこうして異国で取材陣に囲まれてるなんて滅多にないことだったから、私は驚いて足を止めた。


・・・彼は取材陣に囲まれていた。


私は近くの人に聞いた。彼は誰でしょう、と。


ニュースを見なかったの?

そう聞かれたけれど、しばらく演奏旅行に同行していたから、ニュースは見ていなかった。


日本人で、初めて。ある分野で研究結果を証明してみせた人なのだ、と興奮気味に言っていた。


私はその輝かしく晄を浴びる、日本人研究者を遠くで眺めた。


そっか。


ダイ。


あなたは道を極めたのね。

そう思った。


私は・・・


私はあれから手術をして、音楽理論と語学の道に進んだ。

今は、フランス語の通訳を必要とする指揮者達の通訳をしている。

音楽用語がわからないと通訳できないので、私のような奏者あがりの通訳は重宝された。


もう、一緒に演奏することはないけれど。


今でも思い出す。


―――頑張らないといけないときは、無理をしても良い。


―――取り柄は技術が優れていることとは限らない。


彼のその言葉を今でも思い出す。


あの夏の、暗蝉の杜での会話が今の私を支えていた。



ダイ。


私の秘めたる恋は、結局、そのまま何もしないままで終わってしまった。

勝手に膨らんで勝手に萎んでしまったその恋の種は、まだ私の大事な奥深いところで眠っていた。


あれから、随分後悔したのよ。告白しておけば良かったって。


でもね。秘めているからこそ私は今、こうして微笑んでいることができるのだと思う。


いつか、いつか会えると思うから。


連絡は取らなかった。


いつか、また、音楽を通じて、誰かを通じて会えると思うから。

ダイには、新しい環境に早くなれるほうが大事だと思っていたので、そのまま連絡を取らずに今まで居た。


世間って狭いのよ。私はそう思う。


だから・・だからこんな日本でない場所で彼を見かけても驚きはほんの少しだった。

それまでフランス語で質問にぼそぼそと答えていた彼に、日本人インタビュアーが、日本語で質問した。

「この喜ばしい報道を、誰に知らせたいですか。」


彼はたくさんいるんだけど、と言って頭を掻いた。

その仕草は、昔とちっとも変わらなかった。


「・・・両親と。姉と。そして、私のたくさんの友人に。特に。」

彼は言葉を切った。

「フランスという異国の生活が辛かったときに、頑張ることを教えてくれた長らくの友人・・・ウメに。」


ばかね。


私はその言葉を聞いて微笑んだ。


あのときの拙い言葉を・・・私たちはお互いに秘する言葉としてあの夏に秘めた。

恋ではなかったかも知れないけれど、私たちは私たちの言葉を大事にして、長い年月を経たのだと思うと、とても切なかった。切ない。何年ぶりに味わうのだろう。



―――暗蝉の姫


そう私を呼んだ、カオルは今でも。

つんと澄ましたDVDジャケットとは全く違う、大雑把な歩き方で、皮肉たっぷりに笑うのだろうか。


しばらく彼女の新作を聞いていなかった。

店で探してみようかな。そう思った。



シャルル・ドゥ・アルディは・・・私の顎関節症の治療カルテを取り寄せていたらしいけれど、

その後は薬と術後の処置方法だけを書き記してフランスに去ってしまった。

今ではグリーティングカードに返事もない。

でも、どうやら手術の時には彼も立ち会っていたらしいということは聞いて、ダイとの約束を守ったんだ、と思った。


久々に。

少し、楽器でも吹いてみようか。


そんな気になった。


また、今年の日本の夏は何年かぶりに暑いらしい。


久しぶりに、松本に行ってみようか。

カオルやシャルルと同じ世代になった私は・・・誰か。

暗蝉の姫を見つけるのだろうか。



そう思いながら、そのだんだん大きくなる人だかりの横をすり抜けて。



私は空港を後にした。




FIN



W-side


イケダ・ユリナの紹介で、イケダ・マリナと知り合った。


銀座の雑居ビルの地下の1室が、彼の画廊だった。

このあたり一体のビルオーナーである父から譲ってもらった、彼の管轄ビルだ。

とは言っても、次男坊で、跡継ぎ云々で煩わされることのない、悠々自適の彼は、

この地下の画廊で、時たま、催し物をしたり、新人作家の作品を即時販売で展示したり、

とにかく、毎日をあまり苦労しないで過ごしていた。


イケダ・ユリナはテレビ局のアンカーウーマンだ。

若手作家の創作について取材をしたいということで、飛び入りでこの画廊にやってきたのがきっかけだった。

画廊は通常、人目につく1階に設置されることが多い。

日の光が差さない方が、作品が傷まない。

彼は取材にそう答えた。

しかし、この看板もない、地下1階の窓もないスペースに、ユリナが取材に来てくれたおかげで、おおむね、採算が取れる程度には繁盛していた。


そしてしばらくして、彼の画廊で、ハプニングが起きた。


今度主催する絵付け教室の講師に予定していた講師が盲腸で入院してしまったので、急遽代役を立てることになった。

困って、ユリナに相談したところ、イケダ・マリナを紹介された。



マリナはユリナの実妹だ。

とてもよく似ていた。

茶色の髪に、茶色の瞳。色素の薄い人物だった。

非常に小柄で、いつも持ち歩くコットンの鞄が、彼女の体を小さく見せていた。

長らく売れない漫画家をしているが、絵付けの心得があるので、お役に立てれば、ということだった。

自宅で仕事をしているらしく、日焼けもしていなかった。

色素が薄いので、コンタクトでも日の光に対しては、目が弱いのであろう。

日中の打合せには、陽光差す場所では目を細めるのが印象的だった。



他に適当な人物が見あたらなかったので、やむを得ず彼は彼女を代役とすることとした。

顧客から評判が悪かったら、即刻断れば良い。

先般自分のギャラリーを紹介してもらった恩返し程度に思っていた。


だがしかし。


イケダ・マリナは、人好きのする人物で、腕前は秀でたものがあるとは思えないのに、臨時講師の代役であるにもかかわらず、その絵付け教室は最後まで欠席者が出ることのない人気教室になった。


一度、マリナの講義に出たことがある。

非常に、自由であった。

当初は、決まった道具に決まった方式で絵を描く教室だったのに。

彼女の手にかかると、誰もが自由気ままに、解放されるようだった。


人が好きなんだ。

ワタルはそう思った。


人が好きだから、その人は何をしたいのか?が瞬時にわかる。

やりたいこと、抑圧されたことを、あたかも「自分の意思でしたこと」のように表現することを促すことができる。


希有な存在であるのは,確かだ。



以降、時々、講師を頼むようになった。


画廊にも、小さい号数のものであれば、マリナの作品が売れていくようになった。

あまり大きいものだと、マンガをメインにしている彼女は、締切に間に合わせることができないようであった。


それに、特段、美大で授業を受けた新進作家であるわけではないので。

あまり大きい号数は売れない、というのが現実だった。


でも、その現実に。

マリナは闊達に笑い飛ばし、講習生の作業が遅くて延長になったとしても、彼女は文句を言わず「提携範囲内ですから」と笑って、残業料金を受けとろうとしなかった。


春風駘蕩な彼女に好感を持つまで、時間はかからなかった。

自分とそれほど年齢が変わらないということもあったかと思う。



そんなある日。


マリナが、画廊にやってきて、作業をさせて欲しいと言ってきた。

作業スペースというほどの広さもないが、絵付け教室のための教材やカラーが置いてあるスペースがある。そこを、使わせて欲しいと言ったので、彼はどうぞ、と快くスペースを提供した。


「少し、ここのカラーの残りと、この教材。使わせてもらっても、良いですか?」

彼女が少し、はにかんだように笑ったので、彼もつい、つられて小さく笑った。

「いつも最後まで片付けを手伝ってくれてますし。良いですよ。遠慮なくどうぞ」

「ありがとうございます」


そう言うと、彼女は時計をちらっと見ながら、作業を始めた。


狭いスペースの中で、二人きりで居ると、集中できないかな、と思ったが、

店を開けておくわけにもいかないので、できるだけ距離を空けて、次回の教室のチラシやダイレクトメールのデザインを考えることに集中することにした。



どれくらい、時間が経過しただろうか。

地階であるので、日差しの加減がわかならいが、もう日も傾きかけているはずだった。


創作中の彼女を見るのは、初めてだった。

髪の毛や汚れが入らないように、両脇の髪をねじり止めし、細かな部分の絵付けを仕上げていた。


「できたぁ」

小さく言って、彼女は筆を置いた。

同じ姿勢を続けていたので、肩が凝ったのだろう。

大きく伸びをした。


「見せてもらっても良いですか」

彼がそう言うと、マリナは どうぞ、と言って、ちょっとはにかんだ。

彼女が作品を見せるときは、いつもそうやって少し恥ずかしそうに微笑む。

闊達な彼女の、意外な表情だった。


それは、小さなマトリョーシカだった。

4つしか入れ子になっていない。小さなタイプだ。


元々、教材キットがあって、初心者用に絵付けをするだけの無地のものだ。

立体的であるので、簡単そうにみえてもデザインがしっかりしていないと、思ったとおりのものに仕上がらない。


あらかじめ、図案は考えてあったのだろう。

もう4つのマトリョーシカすべてに着彩が終わっていた。


「良い色ですね」

「最後のラッカーが乾いてないので、色合いが今ひとつですけれど」

良い出来だった。


マトリョーシカは喜怒哀楽を表したもので、モデルになる人物がいるのだろうか。

同じ顔立ちだった。


笑った顔、怒った顔、悲しい顔、そして楽しそうに微笑む顔。

薄い金髪の髪に、青灰色の瞳。色味がちょっと薄いような気がした。

こういう絵付けには、濃淡やコントラストと効かせた方が仕上がりが映える。

パステルの淡い色を使うのは彼女の独特の方法だった。


「天使の喜怒哀楽がテーマですか?」

「実在の人物がモデルです。友人への贈り物です。いただき物をもらったのですがお礼の品にと思って」

彼女にしては饒舌だった。

友人、という言葉が、ちょっと詰まった気がしたけれど。


「・・・もう、長らく会ってないので、うろ覚えの部分も、あるんですけれども」

ドライヤーを使って、ラッカーを乾かしながら、彼女はそう言った。

「でも。天使。そう、天使のように綺麗な人です。きっと、今もそうなんでしょう。」



ちくり、と胸が刺すように痛んだ。



天使は雌雄の区別がない。

けれど、この天使はきっと男性なのであろう。



薄い、と感じたのは、モデルが外国人で、日本的な色使いを積極的に取り入れた結果だろう。

ちょとはかなげな感じがするが、ラッカーが乾いていくうちに、その色合いが少し変化して、

照り輝いてきた。


完全に乾いたのを待って、彼女は用意してきたエアクッションに包み、包装紙にくるんだ。




「あ」

マリナが、しまった、というような顔をした。

大きなコットンの鞄をごそごそとあさるが、目当てのものが取り出せなかったらしい。


「どうしました?」

関心のないふりをしていたが、彼女のその声に振り向いた。


「リボン、忘れてしまいました。今日、渡す予定だったんです」


そして、また腕時計を見た。


その人と、待ち合わせ、するのかな。


彼はう~んと小首をかしげて、少し考えた。

「リボン。ちょっと待って。あるかもしれないよ」

包装紙の色にあったリボンがあると思う。


「ああ、あった。」

適当な長さに調整して、先端を切り、マリナに渡す。

「ちょうちょ結びって、どうしても縦結びになってしまうんですよねぇ」

マリナが丁寧に礼を言った後、リボンの結び目に四苦八苦する姿に、彼は思わず笑ってしまう。

悪戦苦闘する彼女が面白かったけれど。


あの、繊細な絵付けをする彼女が、リボン結びが出来ないというギャップが、

彼を破顔させたのである。



「貸して。やってあげる」

何度も結び直すと、端がほつれてきてしまう。

彼は、見かねてリボンを結んでやることにした。


「ワタルさん、器用ですねぇ」

感嘆の声。

「ほら、できた。」

「ありがとう」

マリナは、手を叩いて喜んだ。

リボンを二重に結び、ちょっとボリュームを持たせた。

「素敵!」




「お茶でも、飲んでいく?」

「ありがとう」

断りの、ありがとうだった。


ワタルは、また胸が痛んだ。


「待ち合わせがあるので、また。」

「そう」


彼は、それ以上強くは誘わなかった。


「今度お礼をしないといけませんね」

マリナは画廊を出るときに、そう言った。

彼女は姉と同じで、律儀であった。


「そう思うのなら」

ワタルは1階の出口まで見送りながら、腰に手をあてた。

「これは貸し1ということで」

「ポイント制なんですね」

マリナがふふっと笑った。

そして鞄を持ち直すと、ぺこんと頭を下げた。


彼女の背中を見送りながら。


ポイントをためて、君がこちらを見てくれるのなら、たくさんためるよ。


そう、想いを込めて姿が見えなくなるまで、見送った。



FIN)


W-side Devarana 前編

Devarana(テワラン。サンスクリット語で「天国の庭園」「天空の庭」)


■01


「いい加減にその状態維持の姿勢は何とかしたらどうなの?」

彼をよく知っている幼なじみの杜宇子はワタルに呆れてそう言った。

もう言わないわよ、と念を押してそう言った。


彼は苦笑して、フレーバーコーヒーの入ったカップから立ち上る湯気に眼を細めた。

杜宇子は甘いコーヒーを好まない。

しかし今日は滅多にない繁忙で相当疲れているはずだったので、せめて甘いバニラの香りの漂うものを、とワタルが自ら煎れていた。

「何のことかな」

「とぼけないで・・・あの人のことよ」

杜宇子がワタルが思い定めている人に対して何もしないことに憤りと苛立ちを覚えていることは承知していた。

それでも、思ったことは口にする彼女が、これまでそのことについて触れたのは、これで2度目だ。

それは杜宇子にとってはとても我慢強いと褒めてやらなければならない回数だった。


一度目にワタルは激昂して、彼女を叱咤してしまった。

それ以来、彼女はワタルの秘めたる思いについて、尋ねたりその後の進捗について意見したりすることはなかった。

けれども、今回ばかりは黙っていることは出来なかったらしい。

「杜宇子の言いたいことはわかっているよ」

ワタルはそう言ってミニキッチンの上に乗った、2つのマグカップのうち片方を彼女に差し出した。

ワタルはこの画廊のオーナーだ。

そして杜宇子はそこで受付嬢のアルバイトをしている。雇用者と被雇用者の関係ではあるが、彼らは学友であり、昔からの友人でもある。

休憩時間や仕事時間ではない時には、このようにざっくばらんに話をすることのできる間柄だった。

ただ一つ・・・互いの恋愛については、口を差し挟まないというのが暗黙のルールであった。昔からそうだった。

杜宇子は目鼻立ちのはっきりした美しい人であった。

しかしそれはワタルが彼女にこの画廊の受付を任せている理由ではない。

頭の回転が速く、それを表に出さない奥ゆかしさがあった。

周囲は、家族ぐるみの付き合いのある杜宇子とワタルが長い友人時代を経て、いつか結ばれるのではないのかと言う。

しかし、それはなかった。

彼女のことを、見守る者がいるからである。

彼女は・・・本当に心から愛されることを望んでいるから。

ワタルではそれは与えてやることが出来ない。


個性的であることを必要とされるこの画廊において、そうではないことを必要とされる職種に彼女は就いた。

そしてその要求を完璧に遂行している。

それが誰のためであるのか・・・何のためであるのか、ワタルは知っているのに、触れることは決してなかった。


「入ったよ」

「良い香り」

杜宇子がことり、と音を立てて小さなテーブルの上に置かれたマグカップに眼を細めた。


画廊はワタルの本業の片手間に経営しているもので、彼の父の所有するビルのひとつだった。彼は不動産王の息子であるのに、それを継承しなかった。

「ひとりでここまで片付けをして・・・大変だったろう」

ワタルはねぎらいの言葉をかけたが、杜宇子は仕事だからと言って笑った。

ここ数年で恒例になっている展示会の最終日が今日だった。

彼はどうしてもはずせない用事があって、最終日の、今日の荷物の搬出の時間に間に合わせることが出来なかった。

画廊の主催している絵付け教室がだいぶ人気になってきた。手軽に習い事ができるということと、都心の一角にあって気軽に立ち寄れるということと、ワタルが「これが本業ではないから」と言って、講習料を材料費を込めてかなりの廉価に設定していることが人気を呼んだらしい。

それに、この独身の若きオーナーが、先般、実は有名なグラフィックデザイナーであり、不動産王の息子であることが、雑誌に掲載されて・・物見遊山で来訪したものの、彼の気さくな魅力に惹きつけられてそのまま、教室の申し込みをしていく者も少なくはない。


杜宇子は苦笑する。

毎回定期的にささやかながらも、絵付け教室の生徒達による展示会を開催しているが、今回は大盛況で、この小さなフロアに入りきれないほどに混雑したのだ。

貴重な絵画を一時待避させておいて良かった、と杜宇子は心底思ったものだ。

機材の片付けの後、ワタルが居ないことを良いことに、こっそり隠しておいた貴重な絵画たちを戻し、いつもの静かな画廊に戻しているところに・・・・ワタルが慌てて戻ってきたのだった。

彼は滅多なことでは怒らないが、定めたポリシーに反することを勝手に行えば不快になるはずだった。

怒られることは承知でやったので、素直に謝る。

勝手にレイアウトを変更してしまった。

勝手に、彼の考えていた配置を変更し、そして「皆に見て欲しい」と常々言っていた作品群を「今日は展示会なので」と言って片付けてしまったのだから。

けれども、ワタルはひとりで残っている杜宇子に「コーヒーを煎れるよ」と言っただけだった。次に、労いの言葉をかけた。それだけで十分だった。彼女は・・・嬉しくなる表情を隠そうとして、ワタルの背中に注いでいた視線を、コーヒーのマグカップに移す。


もう、夜も更けていた。


香気を伴う湯気が立ち上って、杜宇子は先ほど片付けのために着替えた軽装のまま、ステンレスのチェアに腰掛けた。これもワタルのデザインで・・・・すべてにさりげないこだわりがあった。

女性が座っても堅苦しくならないように、微妙に傾斜しており、緩やかに腰を落とすことが出来る計算されたその椅子が杜宇子の気に入りだった。

いつもは・・・違う女性がそこに座るのだが。

彼女はたいへんに小柄なので、杜宇子のように美しい曲線の脚を地面に軽く降り立たせることができない。

僅かに浮いた足元を愛おしそうに眺めるワタルの姿を何度も目撃しては、そのたびに胸が少し痛くなったと、ワタルに伝えることが出来ない。

彼はそこに座るように指示したので、杜宇子は少し躊躇ったが、座ることにした。

「彼女」がこの画廊に来るまでは、そこは杜宇子の特等席だった。

しかし悔しくも何ともない。

いや、嬉しいのだ。


彼が・・・杜宇子が好きになった人が好きな人を、杜宇子も好きだから。

彼女しか赦されない場所に、杜宇子も来て良いよ、と彼が許可するから。


だから、少しも悲しくも寂しくもない。ただ・・・ワタルの煮え切らない態度に少しばかり腹を立てていたが。


熱いよ、と言われていたのに、一口煤って、杜宇子は熱いと顔をしかめた。

少し冷めるのを待つことにする間の言葉を探す。

いつもはこんな風に緊張することもないのに・・・


今は、乱れて雑然とした夜中の画廊の空間で、こうして・・・静かに会話を愉しむことに専念することにした。

彼は最終ぎりぎりでここに足を運んだ。連絡が取れないことと、業務の終了報告のメールが届かなかったことによって、まだ作業中であると確信したらしい。

業者はとっくにトラックに荷物を積んで搬送を終えているのに、杜宇子の所在がわからないということで、ワタルが・・・駆けつけた。それだけで十分な報酬だった。


「代休、取ってくれよ」

「気が向いたらね」

そんな会話を愉しんで・・・杜宇子は続きのフロアに広がる片付け途中の絵付け教室の作品たちを見つめた。

素人が作った作品ばかりだから、値打ちがあるわけではない。

しかし、即売会ではそのほとんどが売れた。

持ち帰れない者が依頼していった品を梱包して、早い内に発送しなければならない。

明日は画廊の定休日であったが、それを待って次の営業日に手配するつもりはなかった。信用問題に関わるので、依頼されたものについては、どんなに遅くなってもその日のうちにある程度処理をする。

杜宇子はそういう人だと知っていたからこそ、ワタルはまっすぐに・・・戻らずにここに来た。


「ワタルの人気はすごいわね」

「いや、彼女の人気だろうね」

ワタルは即座に否定した。

彼が言う「彼女」とは、ここの絵付け教室の講師をしている、茶色の髪の茶色の瞳の小柄な女性のことである。

知人から紹介されたと言っていたが、彼女はとんでもない人物だった。

学歴も経歴も目立ったところはない。

逆に中卒だと言われると杜宇子は臆してしまったくらいだ。

それなのに・・・溢れる魅力がある。

人が好きな人だった。

誰もが彼女に集まる。

単なる・・・決められた定形の器に絵付けをしていくだけの倦怠とも言える教室にこれだけの人が老若男女を問わずに集まるのは、彼女の魅力だからなのだ。

彼女は否定しない。そのものが持つ良いところを引き出す能力がある。

人に教えるというよりは、審美眼があるのだ。

しかも、単にその気にさせるだけではなく本当にそのものが持つ美点を的確に見抜く。

この画廊を有名にした、最も優れた作品である誠次・マクドゥガルの作品を買い付けしてきたもの、彼女だった。

そして、あのフランスの華の思い人と聞いたときには、しばし杜宇子でさえ言葉を発することができないくらい驚愕した

後に、その所収者と彼女が恋人同士でありながらも、それを越えて売買契約を結んだと聞くと、杜宇子はますます彼女が好きになった。

彼女を知らない人は、彼女はフランスの華の庇護を受けていると言う。

しかし本当はそうではない。

小さなアパートに住み、本当は漫画家なの、と言い放って、日本国のどこでも旅するが、絵付け教室のスケジュールを変更したことはない。


変わっている、とサトルには言われる。

恋敵なのに、好きになったとは聞き捨てならないと彼は言った。

しかし彼女に逢って、サトルは「しょうがないなぁ」と言っただけだった。


自分でない者を好きになった者を好きになった。

長い間・・いつか、自分を見つめてくれないのだろうかと思っていた。

だから、ワタルの傍に誰かが居たら激しく嫉妬したこともあった。

熱に浮かされたように、彼を忘れようと他の誰かに恋をしたと自分を誤魔化したこともあった。


でも、・・・今は嬉しい。嬉しいのだ。

誰にも優しいワタルが、たったひとりを定めた。

長い時間、彼だけを見つめてきた。

それなのに・・・そんなことはなかったのだ。

彼は誰にでも優しいが、誰にも心を開かない。

兄弟にでさえ、淡々としている。


それは彼の気質なのかもしれないが、彼が何かに執着し、誰かを・・心から愛することが出来るとは、杜宇子は思えなかったから。

彼の母は病気で逝去している。

それが起因するとは思えなかったが、彼は・・・どこか他人と距離を置く。

柔和でいつも微笑みを絶やさず・・そして自分の好きなことに対して努力を重ねて、ようやく、グラフィックデザイナーとして名前が売れてくるようになった。

ワタルが「W」として活動し、その経歴を一切公表しないのは、彼の父の威光を厭ってのことだと思ったが、それに触れられると彼は途端に相手と距離を置くのだ。

そして一度距離を置いてしまうと、その距離を縮めることはない。

ワタルと父親との間に何があったのかはわからない。

けれども・・・彼の父も、昔はグラフィックデザイナーになりたかった、と先般の対談集で書いてあったから・・・

彼の父と最も似通っているのは、本当はワタルなのかもしれない。

だから、彼が彼女に惹かれるのは杜宇子にはよく理解できた。

彼女は・・・あの、茶色の髪の人は、誰かと距離を置くけれど、それを決して定めたものにしない。ワタルはそこに惹かれるのだ。

彼と彼女は良く似ている。でも、彼ができないことを彼女はできる。

時と場合と状況によって、彼女は相手に本当に必要なものを、必要とする分だけ、与えることが出来る。本人はそう意識していないようなのだが。


ワタルが・・・常々、兄弟は3人だと言っているのに、いつも4人分のケーキしか注文しないことを知っている。

そして、彼が彼女にグラフィックのイメージモデルを依頼するときも、詳しくは尋ねずに快諾した。

・・・そのときの彼は、自分が広く誰かに作品を見せることを躊躇っていた時期でもあった。

それが・・・・彼女が持ち運んだ、誠次・マクドゥガルの絵を見てから考えが変わったようだった。

いや、その絵そのものではなく、彼女の書いたという考察レポートを読んで・・・彼は秘められた才能がどこまで通用するのか試してみようと思うようになったらしい。




■02


欲がないというか、あまり自己主張を得意としない人物かと思っていただけに、この変化は杜宇子にとっては新鮮であり、驚愕だった。

しかし一番変化に戸惑っていたのは、ワタル自身なのかもしれない。

この画廊に持ち込まれる数々の作品に目を通すようになって、杜宇子は少しだけ学んだことがある。

才能あるものは、その才にしがみつくことはしないのだと思った。

いつでも手放してしまうし、価値というものについて深く考えていないことが多いように感じる。

だからワタルが・・・有り余る溢れる才幹を十分に発揮してみたいと思うとは、実は思っていなかった。それが今はどうだろう。

デザイナーとしてひとりで事務所を運営していたが、それも今は難しくなり、あれこれ考えた末に、弁護士の兄のつてで、とうとう事務所を設立することとなった。

仕事は忙しくなっているはずだった。

そちらとこの画廊の往復だけで、彼の生活は終わってしまう。

それなのに、ワタルは今まで通りの業務スケジュールをこなし、悠然とした空間を損ねないように、いつもこの画廊では時間を決めて、来客が居ても居なくても滞在するようにしていた。

そんな時間があれば、少しでも・・・仕事をすれば良いのに、と彼女は思う。

だが、ワタルは一度決めてしまった事に対しては、最後までやり遂げるという信念があるので、何を言っても「ありがとう。考えておくよ」と言うだけで、実際は従わないことを杜宇子はよく知っていた。


客観的に合理的に物事を考えるようにしている彼が、唯一そうできない相手がいる。

それが、あの人だった。

彼女の穏やかな空間を守り抜くために、彼はこの場所を手放さない。

彼は知っているからだ。

微々たるものではあるが、彼女がここの絵付け教室の報酬を生活費にしていることや、それに見合った金額より多くは求めないことや・・・

大実業家の一族でもあり、古の血を持つフランスの華の恋人であるのに、つましく生活し、日本とフランスを往復する生活を送りながらも、日本での日々を変更することなく過ごしている彼女に・・・ワタルは自分と重ね合わせ、更に自分ができないことを成し遂げてしまう彼女に焦がれているのだということを、ワタルはよく知っているのだ。


彼の秘めたる想いに、彼女はいつになったら気がつくのだろうか。


杜宇子は祈りにも似た気持ちで、そう想うことがある。

自分の恋愛を成就するためには、あり得ないことなのだが・・・どうにも、あの小柄な茶色の髪の女性を嫌いなったり、煙たがったりすることができない。

ワタルが幸せであれば、それで良い。

彼は・・・随分と待ったのだから。こうして、影ながら彼女を支えているのだから。

いや・・・彼女の存在そのものが、ワタルの支えになっているだから。

何でも手に入るけれども、本当に欲しいものは手に入らない。

いつか、彼がそう言っていたことを思い出していた。


彼は・・・虚無の中で退屈な日々を送っていたのに。

それなのに、ある日突然、一条の晄が彼を照らし出して、仄暗い静かな場所から、いきなり明るい世界に引き出したのだ。


最初は、彼は大変に戸惑っていた。

杜宇子の眼から見ても明らかだった。

兄の友人から妹だと言って紹介されたあの人は、とても小柄で・・・いや、幼く見えた。

この画廊を立て直すための一貫としての集客活動であった、絵付け教室の講師が急な病で継続することができなくなり、困ったワタルがつてをたどって紹介された女性だった。

打ち合わせも条件も簡単に電話で確認しただけのようだった。

不定期な仕事に飛びつくなんて、たかが絵付け教室、と思って軽んじているのではないのだろうか。経歴も驚くほど・・・なかった。

正直に言って、ひところ流行した家事手伝いという職業の人かと思った。

・・・自分だって長らくそうであったのだが。

ワタルは、彼女のことを悠々自適な生活を楽しむお嬢様なのかと思ったようだった。

しかし、人選に悩む時間がない。

駄目だったら後任を探すまでだ。ワタルはそう思ったようだった。

いっそのことワタル自身が講師になってしまえば、話は簡単だったのだが、彼は首を縦に振らなかった。

彼自身は経営者であるから、人前に立つことは決してしないとこれまた頑固に決めてしまっていたので、杜宇子は先行き不安なその状況に、かなり気を揉んで見守っていた。


実際に逢った人は、想像や憶測とかなり違っていた。

漫画家を目指して都内に住み続けており・・彼女はいつも夢や希望や目標を諦めたり手放したりすることがなかった。絵に携わる職はなんでも経験したいというのが今回の志望理由だった。

面接にもならない面接の最後に、ワタルは聞いた。

「なぜ、そんなに絵に拘るのですか」

「いつか・・・逢いたい人に会えるかもしれないという希望です」

彼はそれで採用を決めてしまった。


彼女は大変に人間が好きだった。職業柄、必要としているのにも関わらず、あまり人と知り合いになれないことを気に病んでいたらしい。それが解消されて嬉しい、と彼女は言った。まったく呑気な人だ、という印象を持っていたことを記憶している。


杜宇子は・・・・

それだけではない予感を感じていたから、あれほど不安を感じたのだろうか。

彼が・・・ワタルが細い縁なしの眼鏡の奥で、柔和に微笑む瞳を未だかつて見たことがなかった光を宿し始めたことに、杜宇子は気がつかないと思ったのだろうか。


人に速度を上げて魅了されている彼の様子に、杜宇子は胸が苦しくなった。

彼女の周りにはいつも人が集まる。

とても不思議なことだ。

そして、とても友人が多いらしく・・・結局、どこから聞きつけたのか、この画廊にはいつも定期的に人がやって来るようになった。皆、彼女と何かしら縁がある者たちのようだったが、それだけではなく、教室の生徒達が熱心に通い始めるようになったのだ。


彼女は教師に向いているとワタルが言ったことがあった。きちんと学べばよいのに、と。

しかしあくまでも創作を選んだ彼女は、誰かに何かを教えるほど自分には知識も経験も不足しているからと言って笑った。

いつか何かで・・・自分の名前が残るものを創り出したいと言っていた。若い頃は、それが漫画家として大成することだけしかないと思っていたが、と言ってまた笑った。

よく自分のことを話すのに、彼女のことをほとんど知ることが出来なかった。

あのフランスの華の思い人だと知ったのは、いつだったか、彼がこの画廊に乗り込んで来たからだ。

絵の買い付けが縁故事情によるものではないことを証するために、彼女はその事実を長い間黙っていた。しかしそのことについて、ワタルは一言も責めなかった。彼女の考えがわかったからだ。その代わりに・・・彼は彼女を拘束した。

向こう2年間の講師契約を結んでしまったのだ。

彼は優しい人ではあったが、経営者でもあった。

彼女の集客能力を確保しておきたいと思ったのでそうしたまでだ、と素っ気なく言った。

杜宇子はなにも聞いていないのに。

杜宇子は従業員でしかないのに。

彼は誰かに聞いて欲しかったのだろうと思った。

そのときに・・・彼女をワタルがこよなく愛していることを知った。

好きという感情ではない。

相手の自由を望み、相手の幸せを願って自らの気持ちを吐露しない。


・・・これが、愛ではなかったら、いったい何なのだろう。


彼女を縛ってしまったことに大変苦悩したようであったけれど、杜宇子はワタルのそんな吐露が嬉しかった。

この穏やかな時間が、あと2年は確保されると思ったからだ。

画廊の経営は順調だったが、ワタルは拡充することは考えていないようだった。

この小さな空間を大事にしたい、と言った。


何もない場所から始めた。

経営が傾いて、作品も施設もそのままに転売された場所だった。長らく・・・誰も足を踏み入れない場所だったのにそこを天国の庭園のように・・穏やかに誰もが訪れることのできる場所にしたい、と彼が名付けた。

ワタルは経費がかかるからと言って、それらの照明器具や壁紙や・・絵の修復を丁寧に、自分でこつこつと地道に行った結果、今がある。


杜宇子はこの空間が好きだと・・・最初に足を踏み入れたときに言った彼女の言葉を忘れていない。

ワタルは完璧主義なので、一見して素人の作業とは思えないほどにきちんと整えた空間を用意していた。それなのに、彼女は一目見るなり「これほど総合的にいろいろなことを考えて作られた空間は心地よいという言葉以外に表現できない」と言った。


絵画が傷まないように、外気に触れないように奥まった場所に設置した。

誰もが最初は戸惑うので、杜宇子が正面で微笑んで接客しつつも、内部にまで目が行き届くような配置にした。

壁紙は、落ち着くけれども汚れが目立たない暖色の淡い色にした。

椅子や机の引き音が障らないように、備品の底にはすべてシリコンパッドシールが敷き詰められた。


立て直しシミュレーションと称して彼の実弟が時折収支報告のデータを取りにやって来る。メールで済ませられる内容なのに、彼がやって来る。

そして、彼女が居る。

授業前の打ち合わせに講座の開始時間の少し前にやって来る。

そして・・・ワタルはいつも静かに決まった場所に座っている。

持ち歩いているラップトップで作業をしているふりをしているが、本当は・・・じっと彼女のことを見つめていることに彼女は気がつかない。


永遠はない。

いつか・・・この空間も閉じるときが来る。

それでも・・・杜宇子はこれがもう少し続けば良いのにと思う。



ワタルが居る。

サトルが居て・・・タケルさんとタケルさんの愛する人が時折やって来る。

あの人が居て・・・みんなでああでもないこうでもないと言いながら、この小さな空間で賑やかに過ごす。いつもは静かな空間なのに。

誰かを待つだけの場所ではなくなっていた。誰かを迎えるための空間になっていた。


彼が・・・この場所をどうしても変化させたくないという理由と正当性を知っていたから、杜宇子は黙ってそうだね、と言った。

やがて、彼に変化が訪れて、それまでセーブしていた本業に力を注ぐようになった。

忙しくて・・・彼が護りたいと思う空間が護れないことは耐えられなかった。

仕事を越えている。領分を越えている。そう思う時もある。

残業は好まない。彼女の職種では、それは滅多なことではあり得ない。

それでも・・・杜宇子はワタルが不在の時に、ひとりでここを切り盛りしなければならないし、彼をがっかりさせたくなかった。


あのとき。

杜宇子に言われて彼は憤った。

どうしてあのフランスの華から奪い取らないのか、と質問したときにワタルが激昂したのだ。


彼は言った。

「彼女はモノじゃない」と言い切った時。

ワタルがあれほど強く何かを言ったことはなかった。彼が怒っている姿は滅多に見ることはない。

けれども・・・・けれども、あの人のために。彼はその心をさざめかせる。

鳶色の短い髪の毛に・・・眼鏡の奥ではいつも優しく微笑む人。

誰かを押しのけて先を越そうと思わない人。

先頭を走っているのに・・・後ろを振り向いて「だいじょうぶか」と常に誰かを案じる人。

そのワタルが・・・誰も気にすることなく、追いかけようとしている人が・・・彼女が現れた。


涙が出るほど、嬉しい。


成就する恋より、愛を・・・愛を育てることのほうが杜宇子は崇高だと感じた。

こういう愛し方は、不毛だとサトルは言う。

けれども・・けれども。

杜宇子にとってはこれがただ一つの恋であり愛であり・・・・秘めたる想いなのだ。


だから彼女は黙々と今回の業務をこなすことにした。

ワタルが杜宇子を信頼して、全幅の信頼を置き、杜宇子に任せて不在にする。


それを杜宇子はイヤだとは言えなかった。

それを杜宇子はイヤだとは言いたくなかった。


ワタルは反対側の椅子に腰をかけた。あたりには・・・一面に甘い香りが漂った。

こうしてワタルと夜の空間で時間を過ごすことは滅多にない。

彼と彼女は家同士の付き合いが少なからずあるが、それでも・・・ワタルは杜宇子とこうして過ごすことを避けているようだった。


少し寂しい。

昔のように・・・互いの家を行き来して、皆と騒いだ・・・若く幼い日々を知っているだけに、杜宇子に対する遠慮を感じて杜宇子は切なくなった。

しかし、彼の心には別の人が住んでいる。彼女とこうして静かな夜を過ごしたいと切望するワタルを・・・杜宇子は知っている。


■03


「絵付け教室の模擬の・・見本品。・・・ここの余部に取り分けておいたから、だって」

彼がそう言うと、杜宇子はふたつのマグカップを交互に眺めて・・そして微笑んだ。


彼と杜宇子の目の前のカップは、紛れもなくあの人の作品だった。


彼と彼女の前に置かれた・・・

柔らかな薄い青灰色の混じるマグカップの光沢に眼を細めた。

底を持ち上げてみれば、刻印があるはずだった。

それを見れば、誰が彩色したのかはわかるが、見なくてもわかる。

あの人が色入れをしたものだった。

色は人を表す。

彼女の色は無限大だった。

マグカップの周回だけでも微妙に色合いが違う。

それなのに徹底して同じ色を使う。

淡いパステルを好む人だった。

若い頃に・・・そういう色彩で人の絵を描いたことがあると言っていた。

彼女の絵を、杜宇子はまだ見たことがない。

しかし何度も色を見ていた。彼女の色は・・・無限大だった。

何かを・・・象徴するかのような色だった。


彼女にとって、愛とは、この世の色とは・・・こういう色味なのだと思った。

何か図柄や、物体を描かない。

ただ・・・色が広がるだけ。

それなのに、その意図がよくわかる。

人によって識別できる色というのは違うことを知っているようだった。

だから彼女の絵付けは、いつも・・こうしてグラデーションを多く用いている。


・・・不思議な人だ。

しかるべき後ろ盾があって、十分な知識と教育を受けていたら・・・

彼女は今、ここで絵付け教室の講師で生計を立てることはなかっただろう。


彼女は・・・ただひとり、描きたいと思う白金の髪の青灰色の瞳の青年を描くことが出来るようになるまで、何かを描くことを禁じてしまっていた。

それがよくわかった。

広く大きく穏やかで海のような色見なのに・・・深淵の苦悩を表しているとも思った。

彼女は2客のカップに彩色を施していた。

海、空、雲、月、太陽・・・本当はもっとたくさんの色を使いたかったのだと思う。

2客あるうちのひとつは、「空」と命名されていた。もうひとつは「月」だった。


杜宇子でさえわかった。


これは・・・あの白金の髪の、青灰色の瞳の青年を模したものなのだということを。

それなのに・・・ワタルはこれを愛おしそうに使う。

飾っておくのではなくて、使う。手の平で暖める。彼の口元に寄せる。

それが・・・愛の囁きに代わるものであると、杜宇子は知っている。


残酷な人だと思う。

でも、それがワタルには嬉しいのだ。

彼女の作品に触れることが出来る贅沢を味わっている。

たかだか・・・絵付け教室の展示会での模擬作品であるのに、彼はそれを・・・この画廊の中に飾られているどんな作品よりも先に、触れた。

彼女が彼にあてたメッセージを最初に読んだ。


そして・・・彼はそのうちのひとつを、杜宇子にも貸し出してくれた。

世界にひとつしかない、彼女の作品なのに。

労をねぎらい、彼女の疲れを癒すために甘い香りの漂うコーヒーを煎れてくれる。

自らも仕事で疲れているはずなのに、そんなことは決して口にしない。

だから、それだけで、嬉しい。杜宇子は、嬉しい。


それは、あの人がワタルにもたらしたものだ。

あの人が現れなければ・・・ワタルは誰にも優しいけれど、誰にも優しくなれない人で居たと思う。


たとえ・・・あの人が誰を愛していようとも。


「怒らないの?」

「何が?」

ワタルは笑った。

展示会後の、雑然とした画廊の様子を見て・・彼は最初の頃を思い出すよ、と言った。

そうだった。最初は・・・こんな場所から始めたのだった。


家族同士の縁薄い付き合いはあった。しかし、彼女はワタルと距離を持っていた。

いや、彼の方がそうしていた。

幾人かの友人とともに、開店祝いにここを最初に訪れたとき。

まだ正式なオープン前であり、そして間もなく開店するというのに、この場所は今のこんな風に雑然としていた。

杜宇子はひとりでやり遂げると言ったワタルの言葉をそのまま聞き流していた。

手伝う気持ちもなかったし、そのまま友達と一緒に画廊とは言えない状況のこの場所を後にしてしまった。

単に・・これから夜遊びに行く途中の通り道に画廊があり、約束の時間までの暇つぶしの一瞬だった。

だから実はそれほど多くを記憶しているわけではない。

とても雑然としている雑居ビルの地階が、これほどまでに生まれ変わるとは、そのときには予想すらしていなかった。

結局、坊ちゃんの道楽で終わるだろうと思っていた。

それくらい・・ワタルと疎遠になっていた。


それなのに・・・ワタルは彼女に声をかけてきた。

画廊の店番をしないか、と言った。

あのときより、綺麗になったから、最初に客を出迎える場所に・・・特別な席に、杜宇子に座って欲しいと言った。

断るつもりだったのに。そうできなかった。


そして・・そして今に至る。

最初は本当はどうだって良いのだ。

今、この瞬間、秒数を重ねるごとに、杜宇子はワタルが変化していくことに惹きつけられて目が離せない。


彼が彼女のことを想って、カップひとつにでさえ愛おしむ表情を見せる度。

彼が夜遅いこの時間に、彼女がすでに帰ったことに安堵の吐息を漏らす度。

杜宇子は寂しくなるどころか・・・ワタルがもっともっと素敵になる様を見届けていたいと思う。


「杜宇子の判断は間違いじゃないよ。こちらも連絡が取れない状況にあったしね」

ワタルはそう言って一口、コーヒーを啜って、顔をしかめた。

彼はコーヒーはあまり好みではない。それなのに・・・彼女のためにコーヒーを煎れた。

「でも、絵を勝手に動かした」

「杜宇子ひとりの判断ではないだろう?」

ワタルがくすりと笑った。

杜宇子は横を向いた。後ろに束ねた黒髪が揺れる。


わかっているくせに、時々、ワタルは意地悪を言う。

違う。

わかっているくせに。杜宇子の気持ちをわかっているくせに。

・・・・ワタルは杜宇子に優しくする。


「人の熱気と湿気は案外想像以上のものだ。ここの空調が間に合わないくらいの出入りがあったのであれば・・・そういう選択が一番正しいと思うよ。なに、本来の絵を見て欲しいという趣旨には反してないよ。パンフレットには、きちんとここの展示品についての案内が入っていて、入場者は必ずそれを手にするはずだから、宣伝としてはまぁまぁかな。・・・・それに杜宇子が判断したのだろうけれど、助言をしたのは・・・彼女が指示したのかな。・・・いや、もっと別の・・・」

ワタルはそこまで言うと、眼鏡の奥の柔和な瞳を細めた。


杜宇子は黙ってコーヒーを飲んだ。

叱責されるのは杜宇子ひとりで十分だと思っていたからだ。

助言をしたのは彼女だけれど、それを受けて、レイアウトを変更したのは杜宇子だった。


この無風流に見えて実はとても記憶に鮮やかに残る色味を出す人の言葉には、杜宇子も従う気になったのだ。


「私にはそういう知識がないから」

「それなら僕だってそうだ」

「ワタルはここの経営者だから、何を言っても何をしても良いのです」

つんと横を向いた杜宇子に、ワタルがくすくすと笑った。

こんな穏やかな時間が・・・いつまでも続けば良いのに。杜宇子はそう強く思った。


■04


「あの人のこと、気にならないの?」

杜宇子がそう言っただけでワタルは察しがついたようだった。

今、この場に彼女が居ないことにワタルは安堵しているが、同時に失望している。

彼が入ってきて、すぐに周囲をぐるりと見渡した視線が求めているのは、杜宇子の姿ではなかった。

彼女はぎりぎりまでワタルを待っていた。

それを言うべきかどうか、彼女は決めかねていたが、すぐに唇を開いて彼の欲しい言葉を捧げた。

こんな時間まであの人が居れば、それはそれで彼の杞憂の源になる。


「あの人は・・・迎えに行く人がいて、どうしても行かなければならないからと言っていた。ずいぶんと遅くまでワタルを待っていたのよ」

「そう」

わかっている。

あの、フランスの華が来ているのだ。

多忙を極めているはずなのに、なぜ、あの男はああして日仏を行き来する時間を工面するのか。

・・・わかっている。


それは彼女に逢いたいからだ。


彼女に逢いたいから・・・

彼らは良く似ている。

彼女の時間を奪うことはしない。

差し出してくれと要求しない。

けれども、こうして空いた時間を使って・・・少しでも彼女の居る場所にやって来ようとする。

行き着けなくても良いから、彼らは彼女の傍に近づければそれで良いと思っている。

殉教の民のようだ。

行き着けなくても、足を踏み出せば、彼女に近づける。

確実に。


「そろそろ勝負時じゃないの?」

「何を言っているのか、わからないよ・・・それに。勝負にならないよ」

ワタルはそう言ったので杜宇子は笑った。

わかっているくせに、わからないフリをする。

彼は勝負というものに挑まないけれど、挑むことによって誰かを傷つけるのであれば、そんな恋や愛はいらないと思っている。

切なくて苦しくて、どうしてこちらを向いてくれないのだろうかという独りよがりな気持ちではない。

秘めたる想いに身を焦がすのではなく・・・もっと違った何かをワタルは抱えている。

「勝負をする前から、そんなことを言っている」

彼女は言った。

杜宇子はコーヒーのマグカップに口をつけた。丸みを帯びた縁がどんな最高級のコーヒーカップより口当たりが良い。彼女が絵付けをする前に、やすりで削いだのだ。そして丁寧に・・根気よく鑢がけをしたのだ。たかだか模擬品なのに。

でもそんな人をワタルはこよなく・・・こよなく愛している。


やや低めに設定した空調で冷えて疲労した体に染み渡るような甘さだった。

本当は香りだけが甘かったのだが。

彼女は甘いものはあまり口にしない。

しかし、そんなワタルの気遣いが心地よかった。


「大盛況だったようだね」

ワタルがそう言った。


教室の生徒の作品が売れていく。

誰かの手に渡る。

そして、それらをきっかけに、何かが宇生まれていく。

作る喜びを感じ、誰かの作品を愛でる喜びを知り、そしてそういった人々を見つめる彼女の笑顔が・・・ワタルの最高の報酬なのだ。

それに加えて、彼は今、彼女の作った色を手にしている。

たとえ、誰を思った品だとしても。

これをこの画廊に残していった。

それが何を意味するのか・・・ワタルはわかっていたようだった。


「本当はもっと何客もあるようよ」

でも、彼女が決して売らなかったのがその2客なのだと言った。

そんなに大事にしたいのであれば持ち帰れば良いのに、と杜宇子が言うと、これはここに置いてあった方が良いと、彼女が首を振ったのだ。


ワタルはその話を最後まで聞くと・・そう、とまた小さく言って、彼も杜宇子と同じようにコーヒーに口を付けた。

心なしか、口元が綻んでいた。


「杜宇子はここの正社員になる気はないの?」

「その話は保留。今はやることが目の前にあって、それどころではない」

彼女は美しい眉を少し潜めた。

先般からワタルが切り出している話を杜宇子は保留にしていた。

以前のように・・・気がついたら頷いていた、とはいかなかった。

彼の申し出はとても嬉しい。

けれども・・・けれども、彼女はそうしてしまったら、一生、彼との関係が変わらないような気がした。


いや、このまま・・この関係が心地よい。

傍に居たい。

誰よりも一番長い時間を過ごしたい。

誰よりも彼を助けたいと思う。


でも・・・・でも。

今は、確固たる気持ちでイエスと言えない。

自分には・・・ワタルを最後まで見届ける覚悟が、まだ、ない。


「それなら、答えが出たら言って」

「随分悠長ね。・・・・そういう時は、期限を決めるものではないの?」

「そうするのが一番良いことでないと判断するときには、変更できるのも、経営者の特権だよ」

彼はそう言って笑った。静かな声が・・・杜宇子の疲労を飛ばし散らしていく。

「楽な受付嬢で良ければ直ぐさま返事をしたと思うけれど・・・こんなにこき使われるのであれば少し考えてしまうわね」

彼女は軽くそう言った。

本当は知っている。彼が杜宇子に何か・・・実績を持たせてやろうと考えていることを。

ただ微笑んでいる美しいだけの杜宇子では、この先も彼女は自分を好きになれないと憂えて居ることも。

自分自身事を愛せないワタルが、杜宇子に囁いた言葉がある。

もっと自分を好きになれと言った。

その結論も成果も・・・杜宇子の中の変化も、ワタルにまだ告げていない。


「私も、同じ言葉をワタルに言うわ。・・・答えが出たら、そう言って。私はワタルの結論を絶対に否定しないから」

この言葉には彼は少し驚いたようだった。

ことり・・・と。杜宇子の方から見て、色濃い部分のマグが・・・テーブルの上に置かれた。眼鏡の奥で・・彼の瞳の晄が少しだけ、揺れ動いた。


「僕は変化を嫌うのでね。・・・・このままが良いと思っているよ」

「どうかしら」

杜宇子は唇の端を持ち上げた。ワタルが決してそうは思っていないことがわかったからだ。

「ま、部外者はこれ以上の話はしない。・・・今日中に片付けないと、予定が詰まっているのだから」

「杜宇子」

ワタルが椅子から躰を傾けて、立ち上がろうとした彼女に呼びかけた。

マグカップを・・・両手で軽く包んだままだった。彼の愛そのものだった。

決して触れない。決して温度を感じさせない。その代わりにいつも包み込んで、何かあった時には敏感に察知できる距離に居る。それがワタルの愛だった。

杜宇子はワタルとの話題を一方的に打ち切ろうとした。

胸が痛くなったから。

涙が出そうになったから。

でも・・・ワタルを困らせるために出した会話ではなかった。


杜宇子を労るワタルの視線が、何とも・・杜宇子には慣れていなかったからだ。

だから自分のことを語るワタルより、ワタル自身のことを語ってもらったり・・あの人のことで微笑むワタルを見ている方が・・楽だったから。


不毛だなぁ。


サトルの声が聞こえてくる。

そうだ。自分はまったく・・・実りを求めていないのだから。サトルの言うとおりだった。


「さ、片付けよう。続きを開始しないとね」

小休止のコーヒーは確かに甘くて疲労した躰には即効性があった。

しかし・・・これほど甘い香りを漂わせているのに、なぜか・・・苦かった。


■05


「・・・僕の答えは変わらないよ、杜宇子」

彼が杜宇子に従いながら、そう言った。

彼も静かに立ち上がるが・・・まだ大事にカップを持ったままだった。

「別にそんなの、宣言しなくても良いじゃないの」

彼女は会話を終えたつもりだったので、少し意外だとでも言うかのように、ワタルを振り返った。

彼女から切り出すと彼は困った顔をするか、拒絶の態度しか取らないのに。

でも。

今日のワタルは・・・少しだけ・・・距離が近い。

「彼女しか考えられない」

杜宇子の指先が、かちん、と音を立てた。

短く切ったつもりの爪が、マグカップにあたった音だった。

・・・ワタルの直接的な吐露を、初めて聞いたからだ。

彼が近い。・・・でも、彼が遠く感じる。決して・・・手を伸ばしても届かない那落迦に堕ちた気がした。

「杜宇子しか考えられない」という答えはとうに期待していない。

期待すると失望が大きい。

でも、期待するほどの何かがあるわけでもない。それは失望より大きな何かを失うようで・・・でも結局は失望しないまま、傷つかないで居られる安寧の状態なのかもしれない。


けれども。


こうして・・・


ワタルの声が愛おしそうに・・苦しそうに彼の秘めたる思いを吐き出している。


「・・・そうだよ。ワタルは、彼女しかあり得ない・・・あの人なしではいられないくせに」

杜宇子は、それだけ言うのがやっとだった。

苦しくて切ない。

・・・どうして、この人はこうして自分の想いを閉じ込めてしまうのだろうか。

大人なのだから、相手をそこまで思い遣らなくても・・・良いのではないのだろうか。

時折そう思う。心に刺さったままの気持ちを・・・どうやって解せと言うのか。

杜宇子は彼に背を向けながら、軽く伸びをした。

自分の表情は・・・今、きっと、とても惨めな顔をしているに違いない。

ワタルにはそんな自分の顔を見せたくなかった。

人の笑顔が好きだ、と言った。

ワタルは自分を好きになれ、と言った。

だから。

だから・・・自分を嫌いになるような顔を彼に見せたくない。

ああ、最初から・・・勝負にならないのは自分の方ではないか。

どんなときにも笑顔を絶やさず「またね」と言う人を。

次を期待する希望を絶やすことのない、太陽のようなあの人のことを・・・ワタルが好きになっても当然だった。

彼には太陽とか月とか・・天地の理は通用しない。ただあるのは・・深い闇底だけだった。

そこにいきなり晄が照らされた。自分と似た闇を持つのに、同時に晄を持つ人が現れた。

ワタルが・・・自分は誰も・・自分自身さえも好きになれないと沈んでいた場所から、彼女はそうではないと言って彼を引き揚げた。


それが、マリナ・イケダだ。

限りなく優しくて・・限りなく寂しい人の憂いに触れた人が居る。

誰も・・・杜宇子でさえも、彼の深間に触れることは出来なかったのに。


いや、そういうワタルだからこそ・・・杜宇子は彼に秘めたる想いを抱き続けるのだから。


ワタルは、少し吐息を漏らして・・・・彼にしては珍しく、長い言葉を引き出した。


「彼女が帰ってくる場所がある。僕が戻ろうと思う場所がある。たとえどんなに小さくても。狭くても。そして、そこはビジネスとして成立する。

誰にも文句は言わせない。誰にもそんな場所がある。

・・・・戻ればいつもと同じで・・・杜宇子が居て。サトルが居て。

・・・そんな不変の空間がここであると良いなと思うよ」

「・・・贅沢な願い事ね」

「そう?願いは大きいほど・・楽しいよ」

この静かな空間で・・・ワタルは何を思ったのだろうか。


サンスクリット語を語源として、「天国の庭園」という言葉がある。

まさに・・・ここはそんな場所なのだろうか。

誠次・マクドゥガルの名画が眠り、そして・・フランスの華が時折訪れる場所。

それ以上に、ワタルやタケルやサトルが・・・この場所を懐かしいと思って集う。

ああ、そうだ。

彼がどうしてこの場所に固執するのか。


・・・杜宇子は知っていた。


この場所は・・・彼らの母親が愛でた場所だから。

家業でもある夫の不動産業には口を差し挟むことはなかった。

しかし、この場所は・・・彼女が幼い時に育った場所だった。

近くには、取り壊しが済み、更地になってしまった彼女の通った小学校があった。

懐かしい・・・そして悲しくも切ない場所が、ここだった。


この場所は彼らの天国の場所なのだ。

・・・ワタルの休息の場所だから。

彼女はだからこそ、そこに・・存在しても良いのかどうか惑っている。


天国の庭園をワタルは求めている。

あんなに穏やかな彼なのに・・・その心の中は決してそうではないのだ。

それを思うと・・・杜宇子は、自分を見て欲しいと言えない。言い出すことが出来ない。

彼の闇は深く静かで・・そして冷たくどこまでも底がない。


何もかもを知っていると思っていたのに。

ワタルに関しては・・・何も知らなかった。

恋敵を模したマグカップを愛でて・・そしてあの人の安寧の地を用意する。

それが、彼の愛なのだろうか。


■06


杜宇子は、この静かな空間が・・彼のDevarana(天国の庭園)のようだと思った。

穏やかで変化がなく・・・それでいて、見ている者によってその存在が変わる変化し続ける不変の空間。

彼が割り込むことを、大変に邪だと考えているから・・これほど静かなのだろうか。

静かに見せかけているのだろうか。


ここを心地良いと言って、何度も訪れる者が徐々に増えてきている。

それは彼がそういう空間になるように配慮しているからだ。

決して・・・彼の心に波風が生じていないということではない。


「ワタルは・・・もうちょっと自分を好きになっても良いのに」

彼がどうしてこの恋に躊躇しているのか、杜宇子には何となく理由がわかっていた。

けれども、それは・・・彼が解決しなければならない。



・・ワタルは立ち上がると、その利き手を持ち上げて、人差し指を端麗な顔に垂直に押し当て、親指は顎の下に置いた。


・・・ワタル独特の仕草だった。

・・・静かにしろという合図だった。


「しっ・・・静かに」

彼の合図に、杜宇子が口をつぐむ。

短く切りそろえられた彼の髪の下で・・・ワタルが滅多に見せない鋭い眼差しを見せた。


彼の本業である空間には、ワタルは杜宇子やこの画廊の関係者は同席させない。

本来の彼の表情は・・・きっとこんな表情なのだろう。

厳しい男性の・・・杜宇子の知らない男の人の顔だった。


杜宇子はそれが何なのか・・すぐに理解した。

頬が緩んでくる。

肩の力が抜けてくる。

ワタルが杜宇子の知っている柔和な仮面を捨てる時。

それは・・・本当に彼の中に息づいているものだけに見せることを赦している表情だった。

仕事の時であり・・何かを決断するときであり・・激昂するときでもあり・・・


そして・・・そして。

杜宇子はすべてを察して、席を離れた。

まだ、コーヒーは湯気が立ち上り・・・そして飲みかけだった。

甘い芳醇な薫りが燻っている。


見なくてもわかった。


ふわり、と空気が甘くなった。

このコーヒーのように。

飲めば苦いのに、薫りは甘く周囲の者を誘う。


・・・今までの奇妙なまでの緊迫感は何であったのだろうと思うくらいに・・・柔和な波長が流れ出した。


・・・ワタルがワタルになる瞬間だ。

・・・皆が知っているワタルに戻る。


それはワタルであってワタルではないけれど。


穏やかで静かで、自分の主張を誇張しないし、淡々と客観的に自らでさえも述べてしまうほどの・・・穏やかな人がそこにいた。

誰も・・・誰も、「彼女なしではいられない」と言い切るワタルを知らない。

あの人は・・本当の彼を知ることになるのだろうか。いや、本当は知っているのだと思う。それでも、彼女は目をそらすのではなくて「そこに在って当然」という意味での緘黙を課している。

自らにも、ワタルにも。

だからこそ・・・この静かなまでの緊張感を、だれもが咎めることもなく・・当事者達も躊躇うこともなく享受するのだと実感した。

都会のこんな喧騒多い場所で、静かな・・・安らぐ空間を求めて、誰もが彷徨っている。


この変容を杜宇子は静かに・・・微笑みながら受け止めた。

ワタルと杜宇子の間には、あまり会話がない。

彼はいつも言葉が少ないし、自分のことは一切話さない。

それでも・・こうして・・・本来の自分が生きるべき世界から戻り、この地階の狭い空間に降り立つ彼は・・あのフランスの華と同じくらいに神々しい天使のような人だと思った。

シャルル・ドゥ・アルディがここにやってきた時には、あまりにも美しいので言葉を失った。身分高い者の歩き方は、他の者のそれと違っている。立ち止まったり躊躇ったりしない。

誰かに路を譲り、自分のエスコートする者に合わせることはあるけれど、決して・・自身の予定を変更させることはない。


他者を気にすることがないので、一定律だ。

それなのに・・今はどういうわけか、ワタルが地階に降り立つ足音が恋しかった。

彼もそういうカテゴリに入るはずなのに・・・・ワタルの足音は一定ではない。

いつも誰かを気にするから・・・誰も気にしない歩みをすることができないのだ。


そんなワタルは昔から変わらない。

だから・・・だから杜宇子は彼に惹かれるのだろうか。

人は変化するのに、彼は何か・・変化しないことを決めてしまっているようだった。

それなのに、そんな彼を否応なく引っ張り回す者がいる。

あの人だ。

あの人は・・・彼の懐に突然飛び込んだ。そして直ぐさま離れて・・・そして彼に大変に強い引力でもって魅了してやまない。

これほど穏やかで静かにしているから・・あの人は気がつかないのか。

いや・・・あの人の永遠の恋人は、ワタルの気持ちをとうに察している。


この空間に・・・

この空間に、何かがあるとしたら、

杜宇子は息を吸った。

愛しい・・待っていた人に背を向けて。


今の自分には、ワタルが振り向いたとしても受け止めるだけの度量がない。

あの人のように・・・あの人のように魅了するものがない。

ただ、好きなだけで振り向いてもらえるというのは恋物語でしかない。

想いを強く持つだけでは・・・成就しない。

成就しない愛もある。

自分は、どうしたいのだろうか。


・・・ワタルと一緒に人生を歩みたいという先のことは想像できない。

でも。

これだけは言える。


・・・彼の微笑んだ顔が好きだ。


本当に・・・彼が心から微笑む姿が好きだ。

ただ、それだけだ。


眩しい灼熱の日差しのような笑顔ではなく・・・穏やかな・・・永遠に続きそうだと思うほどに柔らかな彼の微笑みが見たかった。


W-side Devarana 後編

■07


「ワタルは優しすぎるよ」

杜宇子がそう言うと、彼は首を振った。

「・・・僕は残酷な人間だと思うよ、杜宇子」

彼がぽつりとそう言ったので、杜宇子は次の言葉を失ってしまった。


杜宇子はすぐに理解した。


彼はこの場所に、彼女を縛り付けていると思っている。

だから彼は浮かない顔をしているのだ。

彼女への愛に我を忘れることを制御している。

そう、感じる。


彼女があの国と日本を行き来している理由のひとつが、ここの教室の講師を先々まで引き受けていることにあるということを承知しているようだった。

それなのに、彼女をこの国に縛り付けておくことになるとわかっているのに・・・彼は申し出を止めることが出来なかった。


彼女を離したくなかったからだ。


どんな理由であれ、あの人を・・・彼女にここに降りたって欲しかったのだ。


彼女が天使を模して、あのフランスの華をイメージした作品を創っても。

ワタルにとっては・・・降り立つ天使は、彼女に他ならないのだという強烈な想いが彼を突き動かしたのだ。


・・・もっと集客に的確な人物が居るだろう。

探せば、こんな小さな画廊で微々たる報酬であったとしても、手を挙げて志願する者は皆無ではないはずだった。

それなのに・・彼女に学を与え、場所を提供し・・・


だからこそ彼は言えないのだ。

彼は経営者で、彼女が恩誼と感じる恵沢をいくつも彼女に捧げている。


だからこそ、それからだからこそ・・・ワタルであるのに。

誰かを傷つけるための愛の囁きは不要であると感じている。

誰も幸せにならない愛の奪略は彼の中で存在しない。


「・・・そういう風には、思っていないよ。あの人はそう思わないよ」

杜宇子はそれだけ言うのがやっとだった。

そんなことないよ、とか。

貴方の愛は成就すると良いわね、とか。

気休めは言えない。

ワタルがこのままでいる限りは、彼女との関係は変化しない。


・・・彼女からワタルとの距離を縮めない限り、彼は自ら彼女に近づかない。



「・・・不毛ね」

杜宇子は自分が言われた言葉をワタルに言って遣った。

実りのない愛を抱えているのは、杜宇子だけではないのだ。


「そうかな?僕には・・十分、報酬があるよ」

彼がそう言って笑った時だった。

■08


からん、とドアにつけた乾いた鈴の音が鳴り響く。


ワタルが静かにするようにと杜宇子に指図した意味がわかった。


ふたりのよく知る足音が・・・静かな画廊にまで響き渡ってきたからだ。

画廊は地階にあり、階段を下がって少し奥に進むと、入り口がある。

雑居ビルではあるが、同じフロアに店舗はないので、時間を空けることもなく迷わずまっすぐに突き進んでくるその足音が・・・ここに用事がある者であるのは明白だった。

つい数時間前までは、不特定多数の者が往来していた空間であった。

人が多すぎて、終了時間直前では、鈴音が鳴っているのかさえ気にならなかったし、聞こえなかった。

人間の聴覚とは、聞きたいものだけを聞き分けることが出来るのだということを実感した一日だった。

ワタルが居てくれればこんなことも緩和されたのかもしれないのに、と思う余裕さえなく時間が過ぎ去った。

ひっきりなしに鳴るその音が煩わしいと思ったのに、今は・・・今は懐かしく大きな音に感じる。


「・・・・ただいま!」


声が聞こえてきた。

若い・・・溌剌とした声だった。夜の更けていく静かな空間を突如として現れた声と人の気配に、杜宇子が顔を上げた。


「どうしたの」


杜宇子が慌てて入り口まで出迎える。


思いもかけない人物が、ふたり、いた。


「良い香り。・・・・ああ、本当に美味しそうな薫り」

そこには・・・先刻、出迎えのためにここを慌てて出発したマリナ・イケダの姿があった。

そして、もうひとり。

浮かない顔をした・・・ワタルと良く似た面持ちの青年が立っていた。


杜宇子は呆れた声を出した。

「何をしに来たのよ」

「何って・・・片付けの手伝い」

マリナがそう言って、茶色の瞳を輝かせた。手首につけていた赤い髪飾りで、簡単に髪の毛を束ねたが、杜宇子のように美しい流線型にはならず、首もとで茶色の髪の毛が丸まった。

肩にかけた大きな画材道具も、衣類も、先ほどのままだった。

彼女の用事は終わったのだろうか。

杜宇子の呆れた顔を見て、マリナ・イケダがくすりと笑った。

「私の用事は・・・人をホテルまで送り届けるだけ。車も用意してあるし、部屋だって自分で確保しているから知っているはずなのに、『荷物持ちの随行が居ないと行動できない』と言い張るなんて、困った人がいるものよね・・・」

マリナがそう言って、にこりと微笑んだ。

寒いと感じた空調の効いた室内が・・・一気に温度が上がったような気がする。

彼女は、まさしく太陽のような人なのだ。

この静かな場所に・・・日の差さない地階に・・・彼女は慈光をもたらす。

しかし、それは無垢な強烈な晄ではなかった。


決して自分の恋人を迎えに言ったとは言わない。

彼女は・・・あの人を恋人と人に紹介をすることを躊躇っているようだった。

愛や恋について、この人も・・・秘めたる想いや悲しみを持ち合わせている。

杜宇子はそう思った。


彼女をこよなく愛する・・白金の髪の青灰色の瞳をした男性も。

静かに彼女の居場所を整え続けながら、それが足枷になっていると感じているワタルも。

どうしてこうも・・・拙い愛を抱えている人ばかりなのだろうか。


もっと・・自分を好きになれば良いのに


ワタルの言葉は、ワタルにそのまま返してやりたいくらいだった。


自分の幸せを願わなければ・・他者を幸せにできないことくらい、とっくに気がついていても良さそうなのに。

■09


「サトル」

今、苦しい想いを打ち明けたことを少しも面に出さずに、ワタルは弟の名前を呼んだ。

杜宇子を悲しませたり憂えるような表情をさせたりすれば、直情的な実弟は、直ぐさまワタルに抗議することだろう。誰の目も憚らずに。

サトルはむっつりとした表情で入ってきた。

今まで薄暗い闇夜の中に居たのだろう。ここの光源を落とした間接照明でさえ眩しいと言うかのようにあからさまに顔をしかめて目を細めた。

杜宇子はそんなサトルの顔を見ながら・・・複雑な心境だった。

長兄と良く似た顔であるが、こういう表情は、昔のワタルを思い出させる。

いや・・ワタルは昔から物静かではあり、このようにくるくると表情を変化させることはなかった。

しかし・・・若い頃のワタルに似ている。

彼は、長兄に最も似ていると言われているが、このような心を許した者達の前では、ワタルに良く似ている表情を見せる。


何を見ても。誰を見ても・・ワタルに行き着くこの想いをどうすれば良いのだろう。


ワタルよりずっと小柄であるが、マリナとワタルはどこかで待ち合わせて、ふたりでここにやって来るほどには親しくない。

杜宇子とワタルの疑問を解決するかのように、そこでマリナがくすりと笑って言った。


「・・・片付け。杜宇子さんに・・・ひとりでは大丈夫と言われたけれど、気になって来てみたら。

・・・外に彼が居て。

仏頂面で立ち尽くしているから、連れて来てしまったの。

もう・・だいぶ長い時間そこで立っていたみたい。

・・・まるで、怪しい人が誰も立ち入らないように見張っているみたいに・・・ね」

「おい!」

マリナの説明に、サトルが顔を赤くして叫んだ。



杜宇子はその様子があまりにもおかしくて、吹き出してしまった。


杜宇子が誰かの助けを施してもらうことをありがたい恵みだと思うような人物でないから。

だから、サトルは中に入らないで、じっと・・・杜宇子の作業が終わるまで待っていたのだ。

ワタルが入って来るのも見ていたのだろうか。

彼にでさえ気がつかない密やかな息遣いで・・・サトルは・・・外で杜宇子を見守っていたというのに。

彼女が誰かの助けを必要としないことも。

そして、誰かが先回りして「手伝うよ」ということを厭う人であることも承知しているからこそ・・・サトルは彼女に近づきたい気持ちを抑えて、杜宇子の居る空間を見守っていたと言うのか。

更に驚くべき事には、マリナ・イケダがそれに気がついたということだった。

実兄であるワタルに声もかけないサトルの・・・・静かだけれど杜宇子を想って高鳴る心拍を聞き分けた。

この人は、それほど親しくもないサトルの気配を感じ取って、そして声をかけたというのか。


そして彼女は「ただいま」と言った。

こんばんは、とか。

お邪魔します、とか。

そう言わなかった。


「ただいま」と言った。


・・・・参ったわ。太刀打ちできない。


杜宇子は苦笑した。


愛について・・愛をすることについて、各々の秘めたる想いを胸に抱く人々が集うこの場所を、どうして・・どうして消滅させることができようか。

ここはまさしく・・・杜宇子にとっても。

ワタルにとっても「Devarana」なのに。


「バニラの香りがする・・・」

マリナがそう言って目を細めて顎を上げて、上を向いた。

目が弱い彼女は、嗅覚が良いらしい。

茶色の目を細めて、幸せそうに微笑んだ。

この空間に漂う、癒しの薫りを早速かぎ分けたようだ。

ワタルは、ああ、と言って優しく微笑んだ。


「今、休憩中で・・・フレーバーコーヒーを煎れていたところ。イケダさんもどうでしょうか」

年下の彼女に敬語で接するワタルの言葉は、いつもどおり・・抑揚の乏しいけれども優しい声音であった。決して・・恋の苦しみを混じらせることはなかった。


もちろん喜んで、と彼女は笑って言った。

「まだ何もしてないうちから、慰労のコーヒーをいただくなんて、贅沢だわ」

彼女は笑った。そして、その通りだとサトルが頷いた後、彼は意地悪く兄に言った。

「オレには聞いてくれないのかな、兄さん」

サトルが憤慨したように抗議した。

ワタルはそうだった、と思いついたように言った。

「サトルもどう?だって、甘いものはあまり好きではないと思ったから」

「兄さん!」

サトルが叫んだ。杜宇子が切れ長の大きな瞳を少しだけ・・大きくした。

それは内緒にしていたはずではないのだろうか、と言った抗議だったが、ワタルはくすくすと声を漏らして笑った後、キッチンに向かって躰の向きを変えた。


「・・・良い色だな」

サトルがそう言った。

テーブルの上に置かれた、マグカップを指した言葉だった。

「どう?我が画廊の名物講師の・・・マリナ・イケダ氏の作だよ。タイトルは・・・」

「Devarana」

マリナがくすり、と笑いながら言った。

「そう・・今回の展示会のテーマだ」

サトルが口笛を吹いた。

「・・・Devarana?粋だね」

「名付けたのは、タケル兄さんだよ」

ワタルは言った。


「天国の庭園という意味なのに・・・なんで黄色と青灰色の色しか使わないんだ?」

「私にはそう見えるから。Devaranaの世界が」

おそらく・・ワタルには、もっと違う色に見えるのだろう。

彼のDevaranaには、茶色の瞳の茶色の髪の女性の微笑むのだろう、と杜宇子は思った。

・・・静かな草原や空や・・月や太陽が混在する天国の庭に・・・誰が何を住まわせているのかは各々違う。


「ただいま」と彼女は言った。

だから・・だから。


「おかえり」

ワタルはそう言った。

杜宇子が言おうとしていた言葉だった。

■10


「さて。人手が増えたことだし。片付けてしまおうか」

明日からはまた・・静かで穏やかな空間になるように、現状復帰をしなければならない。

ワタルはワイシャツの袖をまくった。


「今日のはずせない仕事、うまく行ったのか?」

彼の弟が遠慮無くそう聞いた。

杜宇子が遠慮して聞けないでいると思ったらしい。

ワタルは笑って頷いた。

「もちろん」

この場に居た、誰もが・・・ワタルの用事というのは、マリナ・イケダを題材にして扱った作品集をWEB展示としてインターネット配信することの企画立案のための会合であったことを知っていた。

知らなかったのはモデルであるマリナ・イケダだけだった。

彼女は・・・彼女には微笑んで欲しいから。

臆することなく・・・微笑んだマリナを描き続けたいから。


彼女が買い付けてきた誠次・マクドゥガルの愛する人に対する想いも・・このような気持ちだったのだろうか。

描くことによって愛を深め、描くことによって何かが浄化され昇華され・・・

限りなく・・・今以上に・・・愛を・・・愛をすることを笑って赦してくれるだろうか。


彼の作品は相当数になっていた。

その件で肖像権の問題もあるということで、あのフランスの華がマリナ・イケダの代理人として来日していることを、この場の者たちは皆、知っていた。


当事者であるはずのマリナだけが、悠然としてどこから片付けの手を入れようか悩んでいた。

あの人は・・・あのフランスの華は、彼女の権利に関することなのに、まだ知らせていないらしい。それほど・・マリナは彼にすべてを委ねているのだとしたら・・

二人が・・・いずれ権利を分かち合う関係になる・・・つまり、結婚をするのも近いのかもしれない。

それならなおさら、彼女にすべてを話すはずであるのが常なのだが。

人嫌いで風変わりな白金の髪の青年実業家は、すべてが終わった後に、彼女に話をするらしい。


しかし互いに決裂して終わったわけではないらしい。

その証拠に・・遅くはなったが、ワタルはこうして戻ってきた。

彼らは会合が終わったので・・・そこで散会した。

マリナは、あの人の商談相手がワタルであることを知らない。

マリナは、ワタルの「どうしてもはずせない用事」に自分が関与していることを知らない。


でも。

それでも。


彼女は・・・この場所になくてはならない存在なのだ。

天から舞い降りてきた天使は、彼女の愛する人ではなく、彼女なのだ。

少なくとも・・・ここでは。


「イケダさんなら、来ると思っていたよ」

ワタルはそう言った。

「でも、マグカップ・・・使わせてもらっているけれど、客数が足りなくて・・別のものでも良いかな」

「容れ物にはこだわりません」

マリナがそう言ったので、ワタルがまた声を漏らして笑った。

彼が声を出して笑うのは、本当に・・本当に珍しいのだ。

今日は、ワタルはよく笑った。

きっと、彼の会合というのは有利に終了することができたのだろう。

高揚感も手伝ったのかもしれない。


・・・・彼女と居ると、彼はよく笑う。

静かに穏やかに・・皆から一歩引いた微笑みではなく・・円の中心に居ることを楽しむ、声を漏らした笑いが・・・ワタルのそんな笑顔が、杜宇子には眩しかった。


彼には彼だけしかできないことをすることで彼女への愛の証を示している。

誰でもない、自分自身に証明し続けている、

静かな愛はないのかもしれない。

でも、ワタルの愛には音がない。気配がない。


それほど時間を置くこともなく、新しい薫りが小さな空間に充塞した。

先ほどと同じものであるのに・・・微妙にどこかが違う。

ミニキッチンがこれまでにないほどに稼働している。

ワタルがスイッチを入れると、IHヒーターの上で、釣の細い薬罐が音を立てて水蒸気を放出しだした。


ワタルがいつも煎れることのできる人数は4人までだ。

別々に暮らしているはずなのに、彼ら家族は集うと、いつも・・・甘いものがそれほど好物ではないのに、ケーキを食べる。

ケーキはもうひとりの人が好きだったからだ。

自分でも、頻繁に手作りのケーキを焼いていた。

その時だけは、ワタルが自ら季節折々の器を選び、湯を沸かして濃い紅茶を煎れる。

それは・・・もう二度と再現することの出来ない五人の時の習慣だった。

都内の、気に入りの店があり、そこに長男を良く連れて行ってはケーキの蘊蓄を披露して息子を苦笑させた。

何でもない時間と何を気にするでもない空間こそが・・・何よりも恵まれた天国の庭園であることを、その人は知っていた。

「天国の庭園はね、実は、とても近くにあるものなのよ」

よく、そう言っていた。


「容れ物には拘らない」と言ったマリナ・イケダは雰囲気が良く似ている。

朗らかで闊達で・・・・太陽のような人。

母性とは、そういうものを指すのかもしれない。ただ、そこに居るだけでそこは一瞬にして荒野から草原に変化する。天国の・・・満ち足りた神の苑が無限に広がっていく。

彼女の周囲に、母親が不在である者が多く集うという話を聞いたことがあった。

それは、彼女に何か・・・失われた何かを求めているのかもしれない。

もちろん、ワタル自身も。

■11


「賑やかなのは、たまには良いことだね」

疲れているはずなのに、ワタルはそう言った。


癒されるから集う。

集うから癒される。


・・・・誰かと分かち合うとは、そういうことなのだと言うかのように。


ワタルは・・・初めて、誰かと分かち合いたいと思ったのかもしれない。

この場所を・・・彼の「天国の場所」をあの人と共有したいのかもしれない。


「『たまには』?最近のここは・・・いつも賑やかよ」

杜宇子が言い返した。

ワタルはそうだっけ?と言って聞き返したが、それは答えを期待していたわけではなさそうだったので、彼女は知らない顔をして、どこから片付けようか、と早速分担を考え始めていた。


「一息ついたら、4人で一気に片付ければすぐ終わる」

サトルはそう言ってぐるりと周囲を見回した。

こんなことであれば、もっと早い時間から杜宇子の手伝いをするべきだった、と悔しそうな顔をしていた。しかしサトルからの申し出には、杜宇子は「私を甘やかさないで」と言って、彼を窘めることしかしないのだろう。杜宇子はそういう人だった。

だから、彼女が携帯電話で呼び出してくれやしないかと思っていたのに、とうとう彼女はサトルに連絡を寄越さなかった。

そんな折に、ワタルが人通りの減った路地から姿を現して、ふらりと雑居ビルに入っていったので、サトルがタイミングを狙っていたところに、マリナ・イケダが通りかかったのだ。


4人の関係は、微妙な均衡を保っていたのに、それでいて何か穏やかな雰囲気に満ちている。


彼が揃いのカップで出し直しをしようと言った。

杜宇子は2杯目はもうたくさんは飲めないから、とワタルに声をかけたが、それでもいらないとは言わなかった。

テーブルの上でやや冷めかけたコーヒーの入ったマグカップを杜宇子が黙って両手で持ち、運んだ。

その阿吽の呼吸に、マリナが微笑んだ。

彼女は・・・こういう静かな愛を知っているのかもしれない。

あの、激しい気性のフランスの華との愛では考えられなかったので・・・誰か別の人との距離感を思い出しているのだろうと思った。

彼女がそうやって、彼ではない誰かを思い出す場所は限られているのかもしれない。

「オーナー、今日のお仕事はもう、良いのですか」

マリナの言葉に、ワタルは彼女に背中を向けたまま、返答した。

「おかげさまで。・・・首尾良くこちらに有利に終わりました」

彼の実兄のタケルが付き添い、綿密な打ち合わせを立てた。

双方とも不利益にはならないはずだ。


「それなら、良かった」

マリナはほっとした顔になり、嬉しい話が聞けて良かったと言った。

「片付けを始める前に・・・コーヒーで乾杯ですね」

マリナが手を叩いて喜んだ。

彼女のこういう間髪入れない喜びの表現がワタルの表情を柔らかくさせる。


「・・・入ったよ」


だか、ワタルが3人の前に差し出したコーヒーは、3客しかなかった。

上品な焦げ茶色のカップだった。

コーヒーの色を損ねない、暖かみのある・・・マリナの茶色の瞳と茶色の髪を思い出させるような、色のカップだった。

それがワタルの作品であることを杜宇子は知っていた。


本当は・・・あれは5客あるのだ。

本当は・・・欠けた5人目に、この色を持つ人が加わってくれないかと願いながら創ったものであることが、杜宇子にもサトルの目にも明らかだった。


「オーナー?」

それ以上加えられてテーブルの上にはコーヒーカップは出ていないと察したマリナが少し首を傾げた。各々の前に出された器からは、甘い香が漂っている。マリナが恨めしそうに、上目遣いにワタルを見つめる。

その仕草は若く見えるのではなく、幼く見えた。


「数が足りない」

「良いんだ」

ワタルがくすりと笑った。

そして、次にキッチンからマリナの作品のマグカップを持ってきた。

「イケダさんには、これ」

そして、マリナの目の前には、先ほどのマグカップがことり、と置かれた。


キッチンペーパーで水分を拭き取られたマグカップが2客、マリナの前に差し出された。

「緩衝材を巻いて、梱包して持たせてあげるから、少し待っていて」

どうして?と理由がわからないマリナがしきりに不思議そうな顔をしているので、ワタルは笑った。

ワタルは水仕事で腕まくりをしていた袖を一度軽く伸ばしてカフスを止めた。

また作業を始めるときにははずすのに。

ワタルの肘から手首までの肌の露出がいきなり消えて・・杜宇子はどきりとした。

現れるとどぎまぎするのではない。

今、そこに見えていた「普段では見られない彼の姿」が消えてしまうと、胸が高鳴る。

見てはならないものを見てしまう時より、見てしまった後に訪れる静寂に戸惑う。


ワタルは眼鏡の奥で、瞳を細めて破顔した。静かに、対岸に座るマリナ・イケダに言った。


「貴女を待っている人を置いて、ここに来てくれるのは嬉しいことだけれど、仕事の範囲を越えた業務は信用問題になるからね。それに超過の深夜割増料金を払わないといけなくなる」

「杜宇子さんだって居るわ」

「彼女は・・・ここの社員だからね。貴女は契約講師。就労状況も条件もまったく違う」


「・・・ワタル!」

「杜宇子、いったいいつの間に就職したんだよ」

杜宇子の声と、サトルの声が重なった。

ワタルはまた笑った。


「ま、近い内にそうなるから」

その声に、マリナ・イケダが手を叩いた。

「それならなおさら、乾杯しないと。・・・・だって喜ばしいことがこんなに重なる日は、滅多にないから・・」

その声に、3人が各々思うところに行き当たり、それぞれ苦笑いを浮かべる。

彼女は喜びを見つける天才だ。些細なことでも・・・大きな欣悦に変化させてしまう。


まったく、困った人で・・不思議な人だ。

だからこそ、彼女に人が集うのかもしれない。

だからこそ、あの男性は彼女を愛し続けているのかもしれない。


きっと、自分でない他の者も、同じ事を思っているに違いない。


「それは今度にしよう」

ワタルがそう言って遠回しに彼女に帰れと言った。

マリナがたとえ、出迎えるだけだと言い張ったとしても、彼女と祝杯をあげたいと熱烈に思っている男をひとり置いておくと、後に差し支える。

マリナは差し出されて綺麗なった2色のマグカップをワタルの方に少し押し出した。

「オーナー、私にも・・・コーヒーを煎れてください。ご面倒でなければ、このマグカップにもう一度」

「構わないよ。でも・・・イケダさんの帰りが遅くなってしまう」


ワタルが困ってしまって言った。サトルがみかねて、口を差し挟んだ。

「さっさと、待ち合わせの人のところに行けって言ってるんだ。こんなところで飲み物一杯を飲む飲まないで粘るより、もっとやることがあるだろう?」

「あら、それは大事なことなのよ。それに・・・・」

マリナがそこで笑った。いたずらっ子のような幼い笑顔だった。

マグカップに茶色の瞳を遣る。


「そのマグカップは、ここに在るべきものだと思うの」

「そう?・・・これはペアのマグカップではないの?」

「いずれ、もっとたくさん増える予定です」

マリナが即答した。

「展示会をやるたびに・・・ひとつずつ、増やしていきたいです。展示会のテーマごとに。

不揃いでもこれは連作になって・・・ひとつひとつに意味を持つ。・・・支障がなければこのまま、ここに置いてもらえませんか」

「それなら、イケダさんとイケダさんの来客が来たときに使用するようにしましょう」

「いえ、水差しでもペン立てでも良いのです。・・・ここに置いてもらうことに意味があるのだから」

■12


「図々しい奴だなぁ。・・・あんた、今、これからもここで仕事しますって宣言しているようなものだぞ」

サトルが呆れてそう言ったが、杜宇子に睨まれたので、それ以上は言わずに肩をすくめてしまった。


「そうなると、良いなと思うのですが」

マリナがサトルの言葉に気を悪くした風でもなく言ったので、ワタルが返答する。

少し・・・・動揺しているようだった。

声音が低くなっていた。

彼女がこの場所を居心地が悪いわけではないと思っていることを、思いもかけずに知ったからだった。


「それは願ったり叶ったりのことなのですが・・・それでは、持ち帰りたくなったら言ってくださいね」

これは貴女の作品なのですからね、とワタルは念を押した。

「この連作が止まるまで、ここに置きましょう。・・・では今回の展示会のテーマの『Devarana』が・・・この器の名前ですね」

白金の色の・・・淡い太陽光とも月明かりとも解釈できるような器と、青灰色の白い月が良く似合う薄い空の色をしたカップを交互に眺めながら、ワタルはそう言った。

彼女のDevaranaはこんな色をしているのだろう。


「それほど大それたものではありませんけれども」

彼女はそこまで言うと、ワタルに照れくさそうに笑いかけた。

「だから、ごめんと言わないでください。オーナー。契約外だからと言わないでください。

今日は業務の延長とは思っていません。手伝いに来ただけ。・・・私はここに来たくて来たから」


マリナの言葉に、ワタルが言葉に詰まった。普段・・・彼はこうして誰かから直接的な言葉を浴びても決して動じない。それなのに、彼女の一言一言がとても・・重く感じる。

自分に都合の良いように解釈をしたくなかった。

淡々としていることが最良であるといつも思っていたし、これからもそれは変更されないだろう。

しかし、彼女の意味を取り間違えれば・・・彼は愛の迷宮を彷徨ってしまいそうになる自分が居ることにとうの昔に気がついていたのに。


  • コーヒーを飲みませんかと言ったのはオーナーですよ」

マリナがそう言ってワタルを責めたので、彼はそうだった、と言って笑った。

彼女の顔を見ていると、どうしても・・・相反する気持ちが交錯する。

引き留めておきたいのに、彼女を帰したくなくなるのが怖くて、早く去ってくれれば良いのに、と思う。

それなのに、契約更新を申し出たり・・早く帰れと言ってみたり。

自分の中の矛盾に、自分で気がつかないなんて。


「今回は、ワタルの負けよ。・・・終わったら、送っていってあげれば良いじゃない」

杜宇子がそう言って場を取りなした。


意味を理解していないマリナだけが、にこにこと笑いながら、はやくコーヒーで乾杯しよう、と言って催促した。


「それにね、オーナー」

「業務時間外は、そういう名称で呼ばないでくださいね。・・・・契約書の但し書きに書き足しますよ」

ワタルがそう言ってマリナ・イケダに用意するためのマグカップをふたつ、持ち上げた。

マリナが・・・少し意外そうに声を漏らした。

「どうして2つ、とわかったのですか?」

「単純な考察と、足し算だよ、イケダさん」


ワタルは笑った。


夜が更けて・・・静かな画廊の淡い間接照明の中で、ワタルはくすくす笑った。

こんな笑いを深夜にするなんて、どれくらい久しぶりのことだろうか。

昔の・・・楽しみにしていた行事の前の日に、眠れずに夜更かしに興じたころを思い出す。

大人になって眠れない夜や、眠りたいのに眠れないほどの激務を味わった。

しかし・・・こんな夜を過ごすこともできるのだ。


サトルが立ち上がった。

ワタルが話を始めるのと同時だった。


「貴女が相手の方と落ち合って、そして戻ってくには、夜は遅いけれど、少し早過ぎやしませんか。・・・だから、貴女は途中でここに立ち寄るからと言って戻ってきたのではないのかな、と思います。

ただ・・・相手の方はそれで話が終わったと思わないのであれば・・・イケダさんは相手の方に何か用事を言いつけて、ここに遅れて来るように、調整したのかな、と」

「疲れた躰には、甘いものが良いかなと思っただけですよ。・・・私も食べたかったし」


マリナがにこりと笑った。

ワタルさんには叶わない、と言った。

杜宇子が叫んだ。

「こんな埃まみれの場所に呼びつけたの?」

信用問題に関わるから、急いで片付けないと、と言って、杜宇子が立ち上がって作業を開始し始めた。

「ああ、せっかくのコーヒーが・・・」マリナがちょっと残念そうに口のつけられていない茶器に視線を注いだので、ワタルは苦笑した。

「入れ直しますよ。何度でも」


声にならない声で、追加した。

貴女のためなら・・・何度でも、ね。


届かない声はマリナの耳に入らなかった。

彼女は少し得意げに胸を反らせて顎を引いて説明をした。


「このコーヒーには、あのホテルのショコラが最高ですよ、きっと。そのホテルのオリジナルで、今日、新作の試作が出たそうです。

・・・しかも、発売前だから、スイートクラスの宿泊客が直接注文しなければ、手に入りません。販売戦略なのでしょうけれども・・・とにかく人気で、まったく手に入らない。当然、私が行っても駄目だったので、頼んで持ってきてもらうことにしたの」


「それで、あの人をお使いに出したの・・・・?

呆れたというより、そんなお使いをあの人がするのね」

びっくりだわ、と杜宇子は素直な感想を漏らした。

話を聞きながら作業を始めていた彼女は、呆れて大きな溜息をついた。

「確かにあそこのショコラは最高だけれど。でも、わざわざお使い立てさせることなの?私に言ってくれれば買いに行ったのに」


「だって、どうしても・・・みんなで食べたかったの。杜宇子さんに食べて欲しかったのになぁ・・・ああ、もちろん私も食べたいのだけれども」

小さなこどもの言い訳のように、マリナが少し萎れた声で言ったので、ワタルは彼女に優しく、友人として声をかけた。

「ありがたい話だけど・・・彼がそれを許すかな」

「どうかしら。・・・・ちょっとした賭をしている気分になります」

ワタルが「彼」と言ったことにマリナは否定しなかった。胸が・・痛んだ。

彼女の賭は勝負にならないのだ。

ワタルが最初にそう言ったように。

彼女は・・・きっと彼が来ると信じている。

そしてそれは間違わないだろう。

勝負にならない。

彼女はどちらかに勝敗をもたらすようなことはしない。

最初から・・・・結果を選ぶようなことはしないから。ひとつしか、答えがないから。


そんな彼女が彼に頼んだ茶菓のために、彼が足を運ぶ。そして・・・・

■13


からん、と音がした。

入り口で、待機していたサトルが声を上げた。

彼はさりげなく移動して、誰かの来訪を・・・今度は扉の内側で待っていた。

それほど待たずにやってきた来訪者を見るなり、軽く口笛を吹いた。

「すっげぇ・・・予想通りだ」


「予想通りではなく、予定通りだ」

むっつりとした声で、もう一人の誰かが・・・サトルに回答した。

人目に付かないように配慮された設計であるから、最も奥まった場所にキッチンは設置してあり、こちらからは来客の顔が見えていない。

それなのに、マリナの顔が綻んだ。


「さ、これで・・・今日の作業を乗り切るくらいの人手が揃ったから・・・その前に、乾杯でしょうね。ワタルさん、とびきり熱くて甘くしてください」

マリナが笑って、その声の主を出迎えに足を運んだ。

遅い、とか。ショコラは人数分あるか、と言って他愛もない会話が始まり、マリナの明るい声に低く良く通る声が応答していた。


白金の髪と青灰色の瞳を持つ人物に会うのは今日はこれで・・・幾度目だろう。



彼は、ひとり残されたキッチンで・・・ワタルは思案した。

彼の髪と瞳の色を模したマグカップに湯を入れて、軽く温めながら彼はいつもより多目の湯を沸かす。


いつもは4人分しか目分量で量ったことがない。

けれども・・・今日は5人分のコーヒーが必要だった。

自分には、できるだろうか。

・・・Devaranaの空間を、彼女に与えてやることが出来るだろうか。


彼は顔を上げて、先ほどしまい込んだもう2客のカップを取り出した。

やはり、このマグカップは、今は使うことが出来ない。

その代わりに・・・あの男が顔をしかめたとしても、この茶器を使うことにしようと決めた。


勝負にならない勝負はしない。

けれども・・・勝負と思わない角逐(※互いに争うこと)に挑んでみるのも良いのかもしれない。結果を気にするのではなく・・・経過によっては結果が逆転することも、ある。


彼女の言っていたショコラはきっと、あの男が滞在することになっている宿泊先のものだろう。病中は舌感が鈍くなっていた母のために、よく・・あのホテルが得意とする一口大の茶菓を求めて取り寄せたものだった。

だから、ワタルに言えば取り寄せることだってできたのに。

サトルか、タケルに尋ねてみれば、良かったのに。

特に、タケルはそのホテルのシェフだったレストランにマリナをよく連れて行っているようだから、少し思料すれば、すぐにわかったはずなのに。

それでも、彼女は彼に依頼した。


分が悪いスタートではある。

しかしこれは始まりではなく・・・もう、始まっているのだから。

そこでワタルはまたひとり、笑ってしまった。

どうやら、自分はあの男に挑むつもりらしい。あの男に・・・勝つもりらしい。

また、ここでも愛の矛盾に気がつく。

自分は・・・自分の中に眠るのは、いったいどんな自分なのだろう。

諦めることが出来るくらいならば、最初からこんな気持ちにならなかった。



ワタルは微笑んだ。

5人分のコーヒーを煎れるのは、久しぶりのことだった。

彼は・・・相当、味に煩いだろう。

それにマリナ・イケダの言うとおり、彼がこの部屋の片付けを手伝うとは思えなかった。

しかし、彼女の笑顔の前では・・・あのフランスの華もひとりの男になる。


立場も身分も国籍も環境も・・・誰が誰を愛しているのかさえ、咎められない自由な場所。


そんな場所に・・・彼女の笑顔があれば良いのに、と思った。



サトルの声がする。そして杜宇子が深夜の来客者を中に招き入れる声がする。

そして・・・マリナ・イケダが彼の詰問を軽く交わしながら、皆と一緒の時間を楽しもうと言っている声がした。


「これは貴方の良く言う、『Devaranaの時間』というものではないの、シャルル」

「オレの国の信仰する神の庭園とは違うだろ。それに賑わしいことを指し示すものではないよ、マリナ」

「あら、入り口は違っても・・・行き着く先は同じであれば宗教も信仰も関係ないわよ。おまけに、賑わしくなんて、ないわよ。だって、ここには知った顔しか居ないから。・・・静かよ、とても」

マリナがそう言って、不機嫌そうな彼に中に入れと呼び込んでいる。


ワタルは今度は声を漏らして笑った。

あのフランスの華を黙らせる人物が、居る。そして彼女のことを自分は・・・・


ああ、本当だ。


彼は遠く天の空に還った人の言葉を思い出していた。

安らぐから集う。癒されるから集う。

集うから・・癒される。誰かと集うから・・・愛が始まる。

既に愛が始まっているから・・・傍に寄りたくなる。


勝負がいやだとか、心乱されるから離れていたいとか。

そんなものは理由でしかない。

自分の中のパラドクスに、答えを出せる日が来るのだろうか。

そしてそれを彼女に告げたら・・・彼女は、ワタルになんて言うのだろうか。


しかし、彼女の元に誰もが集う。

あっという間に・・・この静かな空間には人が集ってしまった。

惹きつけられる。それを否定することは出来ないし、したくもなかった。


「さ、みんな、少し休憩だ。・・・最高のショコラで・・・客人をもてなすぐらいできるだろう?席作りを頼むよ。・・・ここは雑然としすぎているからね」

声を張り上げた。

今日の作業は明日に持ち込むことになるだろう。

夜更けの祝筵に勝るものはない。

彼はここの経営者である。だから彼の決定は絶対であるが異を唱える者は居ないだろう。

この雑然とした空間が・・・あの麗人によって神の庭に変化する。

フランスの華は、自由気ままに出歩くほどに悠々とした環境ではないはずなのに。

彼女のために・・彼女を手に入れるために・・こうして時間を調整してここにやって来る。

気持ちがわからないでもない。いや、理解できる。


その声に呼応するかのように、マリナ・イケダがはしゃいだ声を出した。

「ほら!お祝いの席なのだからそんな顔はよして。・・・ねぇ、嬉しくないの?私は・・私は嬉しい。だって私が素敵だなぁと思う人達がここにたくさん集って居るから・・・ああ、もちろんそこにはシャルルの名前も加えても良いわ。・・・貴方がもう少し仏頂面を緩めてくれるのなら」


皆が疲弊しているはずなのに、どういうわけか活力が漲ってくる。

その源でもある・・茶色の髪の茶色の瞳の女神は、ワタルには決して見せない・・・悔しいくらいに美しい表情で・・・恋をして愛を知る者の表情で、ワタルの目の前に現れた。


次の作品のテーマは決まったよ。


ワタルはそっと呟いた。

彼の作品のイメージモデルの務めも持ち合わせる彼女に心の中で囁いた。


貴女をここに絡め取っていたと思っていた。でも、そうではなかった。

Devaranaはどこにでも存在する。

誰の中にでも存在する。

誰にでも創り出すことができる。


だから・・・ワタルの創る楽土の庭に・・・自由に気儘に降りたって飛び立ってそしてまた戻ってくることを約束していく人が見つめる先を・・今度は描いてみようと思った。


彼女は、彼女だけのDevaranaの腕を取ってワタルの前に現れた。


「ああ、良い香りだわ。ワタルさん・・・はじめましょう」


そうだね。始めようか。いや・・・もう始まっているから。


ワタルは頷いた。

目の前の、彼の「天国の庭園」に。


(FIN)




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