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Trick OR・・・ L-side 前編


何もかもに恵まれているのに、彼には無機質で色のない世界が拡がっているようにしか感じられていないようだった。

見事な金髪の下から覗く青灰色の瞳が、強い眼光を放ってヒカル・クロスを睨み付けたので、ヒカルは自分から声をかけたのではなく、ルイからヒカルに向かって声をかけてきたことすら忘れて、「ごめんなさい」と意味もなく謝ってしまったのが、またルイの怒りを昂じさせてしまった。

彼は冷たく笑うと、辛辣に彼女に攻撃した。

シャルル・ドゥ・アルディの愛した人の一人娘であり、アルディ家で養われているヒカルにはこよなく愛を注ぐフランスの華は、実子のルイには無関心でいた。


冴えた星彩のような瞳を茶色の瞳の少女に向けて、ルイは傲慢に言い放った。

「ヒカル。謝罪するということは、自分自身の非を認めたことになるぞ。

・・・さて、貴女は一体、何の罪について謝罪しているのだろうか」

またヒカルがそこで黙っているので、彼は苛立ちを露わにした。

「まったく苛立つ人だよ、君は」

「ルイ・・・・」

ヒカルは彼の苛立ちの原因を知っていたので、項垂れたままだった。

誰にでも愛される大人しい気質の少女は、時折こうやって自我を抛棄する。

ルイや他のアルディ家の者たちとは長い付き合いであるから、そういう面は最近ほとんど見せないが・・・


ルイは続けた。

「それで、どうしてここに貴女がいるのか、理由を説明してくれ」

ルイはすっかり萎れてしまっているヒカル・クロスを容赦なく見下ろした。

そして、目の前の茶色の髪の少女を眺め回す。

凍て付きそうな鋭いルイの視線に、ヒカルは下を向いて足元を見つめていた。

「ヒカル。上を向け」

彼が厳しくそう言ったので、ヒカルはますます萎縮して、肩を震わせる。

呆れたね、と言ってルイは軽く腕を組んだ。

そして組んだ腕の上から、左の指先を軽くとんとん、と叩いた。

「そんな臆した振る舞いはしない。アルディ家の者なら誰でも」

彼はそう言って、周囲には聞こえないように彼女にだけ聞こえるように、低く彼女に囁いた。

しかし周りの音が障ると言いたげに、小さく舌打ちをした。

アルディ家の者ではない、という言葉が、いつもヒカルを傷つけることを知っていた。

彼女は、長い時間アルディ家に滞在しているが、当主であるシャルルの移行によって彼女は日本人学校に通い、邸内は日本語が第一使用言語として指定されていた。

これほどの厚遇を受けているのに、ルイと同じような教育を受けているはずなのに、彼女はそれでもアルディ家の人間のような思考にならない。


その場所は、派手やかな樺色と檳榔子黒が混じった装飾だった。

舞踏室を改装した大きな広間の片隅で、彼は彼女を目の前にして、しばしにらみ据えていた。

大きな色とりどりの目鼻を描き加えた風船や、立食パーティーのために人々が行き交う。

強い照明でもなく、それほど大勢の者がひしめき合っているわけでもないのに、室内は熱気でむせかえるようだった。

室内楽の生演奏がかき消されるくらいの賑わしさの中で、ルイ・ドゥ・アルディの周辺の空気だけが熱気や噪音と切り離されて彼を包んでいた。

今日はハロウィンのチャリティパーティだった。


主催はとある企業であったが、伏せられた後援者が誰であるか、この場に居た誰もが知っているところだった。

・・・・若い世代の実業家を中心に、この国の将来の要人になるであろうという人物達や、その子息が集まってきている。

年齢で招待範囲を限定する趣味のなさに、ルイは苦笑していたが、ここで交わされる人脈というのはどうにも捨て難いものがあった。

先ごろ、この国では、ルイの取り扱っている類の方面について、国家予算を投じて着手する、と発表をしたばかりだったからだ。

これによって、半官半民だとか公社だとかと呼ばれて揶揄されていた機関は一気に注目を浴びることになったのだ。

同伴を要するカジュアルパーティーであることも幸いした。

チャリティーでもあるので、できるだけ人を呼んでこいということらしい。

慣れている環境で育った者ばかりとはいえ、エスコートをするのに精一杯の若者ばかりが集う会合だった。

そして古の家柄ではない、先頃脚光を浴びてはじめた業界の若き才能在る者たちもこの中に混じっている。

だから、雰囲気が統制されずに賑わしいのだ。

その中で、ルイはふらりとやって来た。

彼は会場に入るなり、眉を潜めてこの喧騒を嫌悪する表情を一瞬だけ表したが、すぐに無表情になった。

煩わしい、と思うことが最近増えてくる。

ルイが睡眠時間を削り、寸暇を惜しんで自分の業務の終了後にこうした会合に足を運んでいる一方で、アルディ邸の奥深くで静かに過ごすヒカル・クロスとの違いを考えると、それだけで腹立たしい。

青灰色の物憂げな瞳で、周囲を見回した。

この会場は、日本大使の「好意」によって貸し出された日本家屋を改装した平屋であった。

庭園の奥にある屋敷は、西洋式に改められており、日本家屋とはいえ折衷された屋敷の中は、舞踏室があったり喫煙室があったりと・・・一種異質な雰囲気を出している。

その中でチャリティとはいえ、ハロウィンという馬鹿馬鹿しい企画を開催していることに辟易する。

よほどこの国の民は危機的状況についての想像を放棄したいのだと思わざるを得ない。

おそらく、入り口で配られたIDチップの入退場を含めた行動記録から、誰が誰に接触して、宴の終了後にどういう人脈になって拡がっていくのかを観察しているのだろうと思った。

我が母国と呼べるほどには情を湧かせることのできないこの国の者たちより・・・・ヒカルの属するあの国の者たちの方が、よほど・・・状況を把握しているのだろう、と思う。


秋と言うよりは孟冬(冬の初め・10月の異称)という言葉を使った方が相応しい夜だった。


その中で・・・・ルイは足元に気を取られていて、周囲の者にぶつかりそうになり慌てて方向を変えてまた他者の進路を阻んで居る、変わった経路を取る人物に遭遇したのだ。

・・・・それが、ヒカル・クロスだったのだ。


「ヒカル。なぜ、おまえがここに居るのか説明しろよ」

繰り返さない彼は、繰り返して彼女にそう言った。

ここで癇癖を募らせれば、周囲の注視の的になってしまう。

静かに、しかし怒気を含ませて彼は言った。


ルイ・ドゥ・アルディは指定された楽礼装で、佇んでいた。

一方、ヒカルは茶色の髪の茶色の瞳に良く似合う・・・若々しいドレスを見に纏っていた。

朱華(はねず:古代に皇族の衣服の色とされたやわらかいオレンジ色)に染色したボリュームがあるが決して華美ではないフェイクファーのAラインのドレスで、同系色の腰元のサッシュや胸元の飾り紐の丁寧な織りは日本の着物の帯を意識したものらしく、きっちり編み込まれた目が照明を受けて、鈍い光沢を放っている。足元は蔦をあしらった華奢な・・・低踵の沓を履いていた。

若い彼女はアクセサリーはいっさい身につけていない。

僅かに耳元に光っているイヤークリップはティファニーのファイブ リーフで、スペサタイトにダイヤモンドとプラチナを花形にあしらったものだった。


ヒカルが何か口ごもったが、下を向いており、小さな声であったので、喧騒にかき消されて、まったく聞こえなかった。

ルイは大袈裟に溜息をついて、組んだ腕を解いた。

「ここでは聞こえない。・・・こちらに来い」

薄いショールくらいは羽織るのが礼儀だ。

ここは露出を好む場所ではない。

彼は苛立っていた。

ヒカルの白い胸元が見えて、彼女のむき出しの二の腕の肌に直接触れたからだ。

ぎりっと唇を噛んだ。

どうして彼女はこんな場所に居るのだろうか。


ヒカル・クロスが戸惑っている様子が手に取るようにわかる。

彼女も驚いているようだった。

しかも、このことはシャルルも承知の上のことらしい。

耳元の飾りは、アルディ家の保有する宝飾品リストの中にあったもので、最近ティファニーからアンティークという名目で購入したものだった。

シャルルの許可がないと持ち出すことはできない。

が、彼はここにやって来ない。

十分に「若い世代」に入る年齢であったが、シャルルはそういった会合には滅多なことがない限りは姿を現さない。

だから代わりにルイがこうしてアルディ家との繋がりを構築するためにいろいろと出歩いているというのに。

ヒカル・クロスはそれがわからずに、どうしてアルディ邸になかなか戻らないのか、といつも寂しそうに言う。


「痛い・・・・ルイ、痛いよ」

彼女がそう言ったので、ルイは忌々しげに言った。


彼女の肌に触れると、躰が熱くなる。

華奢な腕に触れると、ルイの手の平が触れている面から徐々に・・・僅かに痺れる。


彼は広間の外廊下に彼女を連れ出した。日本家屋を改築しているので、緩やかなスロープを降りれば、そこは庭園に繋がる設計になっていた。

照明は僅かで、足元にハロウィンを意識した、模様の入った風よけに入ったキャンドルによる照明が点在している。

中の喧騒と注目を避けるために、ルイは彼女を連れ出した。

間もなく、催し物が中で始まるために、人々は皆会場の中に集っていく。

逆に建物から外に出て行って、せっかくの要人の顔合わせを台無しにするのは、ルイとヒカルのひと組だけだった。

よく磨かれた木目の光沢が、彼女のドレスに反射して・・・足元が僅かに光った。

ヒカルは腕も胸元もきめが細かい象牙色より少し白い色をした肌を持っているが・・・足の先までも白い。

茶色の癖の強い髪を緩く巻いて、背中に流している。


ヒカルをこの国の要人と娶せるのか・・・それとも、日本とこの国との架け橋にするつもりなのか・・・それともっと別の目的があるのか。


「君の耳は飾りか?それならその耳飾りの方がよほど価値がある」

ルイは冷たくそう言い放った。

自分はなぜ憤っているのだろう。


ヒカル・クロスがこの場に居るからだろうか。

シャルルが・・・あの男が、ヒカルに素晴らしい未来を用意するために、さり気なく・・・無理のない範囲で、こうして人との繋がりを構築させようとしているからだろうか。


「シャルルが行っておいで、と。・・・日本の方々もいらっしゃるので、通訳とまではいかないけれど

お手伝いをしておいで・・・と」

「君はシャルルの言うことなら、何でも聞くのだね」

ルイの言葉に、ヒカルが顔を曇らせた。

「そうではないよ、ルイ」

「だったら、何だと言うのかな、ヒカル」

彼は冷たく言った。

冷たい風が彼らを吹き込んでいるというのに、躰が熱い。

タイを緩めたいところだったが、誰に会うかわからないので彼は彼女の腕を乱暴に払った。

・・・彼女の肌から熱が伝わってきそうだったから。


「それで・・・?」

「え?」

邪気のない瞳で、ルイを見上げたヒカルは、彼の美しい瞳と、見事な色の金の髪を見て、また下を向いてしまった。

「ヒカル、こちらを向け」

ルイは自分の言葉に従わない愚かな娘に対して、今一度命令した。

そして、ふっと動くと、フェンシングと乗馬で鍛えたしなやかな腕を伸ばし・・・あっと言う間にヒカルの首に片手をかけた。

「ルイ!」

顎に指を乗せてこちらを向かせる、などという優雅な行為をヒカルに与えてやるつもりはなかった。

ヒカルの細い首の後ろを掴み、彼は自分の元に引き寄せた。

こういう力任せの言い付けにはヒカルは対応できない。慣れていないからだ。

「それで・・・誰と来た?」

「誰と・・・?」

ヒカルが目を見開いて、ルイを見つめる。済んだ澱みのない瞳が、ルイの怜悧な青灰色の瞳と交差した。彼は低く言った。

「・・・・君と同伴しようという奇特な男は誰だ、と聞いている」

このパーティーは同伴だ。誰かと一緒でないと入り込むことが出来ない。

自分の知らないところで、ヒカルが誰かと交友関係を広げることは許さない。

それはシャルルがヒカルのために用意したものだからだ。

本来なら・・・それを享受するべきなのは、ヒカル・クロスではないのに。

「それで、なぜ、怒るの?」

「怒っていないよ。呆れているだけだ」


彼は血液が逆に流れていくような感覚を味わった。

憤るときには、人は目の前の色が違う色に変化するという。

確かに・・・確かにそれは言い得ている。

いっそのこと・・・いっそのこと、このまま彼女を頸ってしまおうかと思うくらいに。

彼は激怒している。


・・・ヒカルが誰か別の男の腕を取って、その笑顔を向けているなどと、想定していなかったからだ。

「あの女の娘らしいよ」


彼は嘲笑した。

周りの男どもを籠絡して・・・そして自分ひとりだけ安穏とした日々を送っていた。

皆が、厳しい情勢の国にシャルルを巡って旅立ったというのに、あの女だけはひとり、日本で安全に暮らしていた。

彼女は父親の気質が強く出ていると思われがちだが、そうではない。

・・・・ヒカルはまさしく、あのシャルルが運命の人と定めた女性の、娘なのだ。


ルイは憮然とした面持ちで居た。

彼女が、誰か知らない者に微笑む。シャルルは致し方がない。

彼はヒカルを愛翫しているだけだから、腕を組んで、シャルルと同等に扱うことはしない。


ルイは・・・自分の精神を分析しようとして、やめた。

本当は、わかっていた。

ヒカルのドレスは当日に用意できるものではない。ということは、前から決まっていたことなのだ。

ルイがほとんど本邸に戻らず、シャルルの行動予定は把握していたもののヒカルの行動予定に変更や追加が生じていたことを知らされていなかったことに憤っていた。

いや・・意図的に、シャルルがそういう操作をしているようにも感じる。

ヒカルに関わるな、と彼が排除活動を始めていることは薄々気がついていた。


しかし、それが彼の憤怒に繋がるのかというと、そうではない。それは想定範囲だ。

原因はわかっている。

彼女が・・・ルイを伴ってここに来なかったことや、ルイがその事実を知らなかったことや・・彼女が今日の宴のために、着飾って装っていることに、憤っているのだ。

■Trick OR・・・ L-side 02

ヒカルから立ち上り、ふわりと芳る匂いに、ルイは横を向いた。

「ここはヒカルが居る場所ではない。帰れ」

館の方からは、準備を済ませた楽団が余興のための音楽を奏で始めていた。

いつものようなおきまりの静かな抑揚のあまりないものではなく、賑わしい。

先ほどの喧騒をより更に大きくしていく。

その後は、寄付を募るために主催者がめぼしい者に挨拶をして回り、自由に歓談後に散会となるが、気の合う者たちはそのまま休憩室や娯楽室といっためいめいの好みの場所に行き、小グループを作って会話を楽しむ。

・・・・どの場所に行ってもヒカルが入れる環などはないのだ。

彼女はアルディ家の庇護にある者であることは一部分の者は知っているが、まだ未成年であることを理由に、シャルルは彼女を社交界の表舞台に出すことを禁じている。

それなのに、こうして彼女の存在を知らしめるかのように、パーティーに送り込む。

・・・・今日は、シャルルがかつて訪れたあの国への寄付を募る宴だった。

シャルルはどうしても、運命の人と定めたあの人や、あの人と一緒に居たときに関わった事柄を切り捨てることが出来ないのだ。たとえ名目上のことであったとしても。


「どうして・・・今日に限ってそんな風に怒るの?」

ヒカルが呟いた。

「私、何か・・・気に障ることをしたのかしら」

「ああ、障るね」

彼はそう言って、彼女を一瞬だけ強く引き、そして手をおもむろに離したので、ヒカルは反動で少し蹌踉けた。

敷き詰められた花崗岩の上で踏みとどまったので、かつん、という足を踏みならす音が聞こえる。

彼女の履いている沓は踵が低く、それほど音を立てることのないように、コルク素材に薄い箔を当てている華奢な作りのものなのに。


彼女の持っているIDチップの履歴を見れば、誰と一緒に来ているのかはわかるのだろう。

そして、ヒカルが誰と接触しているのか・・・誰に近寄り、誰が近寄ったのかさえわかるようにできている仕様のものだった。

しかし、冷たくなった夜の微風の中で、ヒカルを見て・・・・理由を明かしてやろうなどとは考えなかった。

淡い橙の衣に身を包んだヒカルの髪が巻き上げられて、彼女の肩や背中が露わになった。

夜会服であるから、温度調節には適していない。

彼女は躰を震わせた。

青灰色の瞳で、彼は・・・ヒカルに素っ気なく言った。

「アルディ家からの出席者はルイ・ドゥ・アルディだと伝えてある。・・・それなのに、ヒカルはシャルルの・・・当主の使いだと言って、オレに恥をかかせようとしている」

「そんなつもりはない」

「それなら、なぜ、ここに来た。・・・この場所の意味が、わかっているのか」

彼はそう言いながら、記憶している彼女の交友の記録を検索し始めていた。

・・・・この主催者の中に、ヒカルと同じ日本人学校に通っている者が居た。

年齢もヒカルとそれほど変わらない。

彼女が「手伝いだ」と言っていたのは、そのためなのだろうか。

「ルイ、私、そろそろ行かないと・・・余興で、ケーキを配る係なのよ」

彼女の見事な衣装は、手伝いの者の衣装ではなかった。

「シャルルは知っているのか」

ルイ・ドゥ・アルディが低く言う。


彼が何を言っているのか・・・ヒカルはよくわかっていないようだった。


この会合には、これから・・・・この国を担うと位置されている者たちが集って居る。

もちろん・・・ヒカルのことをよく知っている製薬会社や、日本のクロス・グループと提携している医療機器メーカーの子息も来場している。

黒須昶と名乗らなくても、長らく留学をしてパリに滞在しているヒカル・クロスと聞けば・・事情を知らない者でも、察するに容易だった。

後に、各々持ち帰った招待者名簿のコードを読み込んでアクセスすれば、帰り際に提出したIDの記録から、自分が誰と接触したのか閲覧することだってできる。

彼女の耳飾りは目立ちすぎた。

本人はその価値についてあまり気にしていないようだが・・・

彼女の年齢に相応しくない高価な宝飾品を身につけ、そして豪華なクチュールドレスに身を包んでいる彼女を、壁際の花だとか、単なる手伝いだと思う者はいないだろう。

その時に・・・・ヒカルのデータを削除するか改竄するほどの自信が、シャルルにはあるのだろうか。


そうではないだろう。

おそらく、彼女が宴にどこまで参加するのか・・・彼女は詳しく話していないに違いないと思った。


くすり、とそこでルイ・ドゥ・アルディは笑った。

ヒカルでも、シャルルに報告や相談や密な連絡をしないことがあるらしい。


・・・そういえば、この宴の招待状は、夏に届いていた。

その時期は、シャルルはオフを取っているし、ヒカルは日本に戻って夏を過ごしている。

その間に生じたすれ違いを・・・この時期になっても修復できないのは、ヒカルとシャルルの間に、何か変化が生じているからだった。


「面白い」

ルイは挑戦的に言った。あの男から、ヒカルを奪ってやろうと考え始めたのは、昨日今日のことではない。しかし、今、ふと、彼は思いついた。彼の教育係がそんな風に、本当は前もって考えていたことを口にするときのように。

■Trick OR・・・ L-side 03


「帰れ。・・・・ここは君が居る場所ではない」

ルイが金の髪を掻き上げた。そして物憂げな青灰色の瞳をヒカルに向ける。

彼女はしばらくルイを見つめていた。

茶色の髪に、耳飾りの鮮やかな橙がよく映えていた。

誰が見ても、大事に育て上げられた深窓の令嬢だ。

日焼けしない肌理の細かい象牙色の肌は光沢を放ち、線の細い肩が露出していた。

胸元を飾る宝玉はないのに、その白さが彼女のドレスの朱華の色を淡く反射させている。

「それは命令?」

「忠告だ」

ルイが即答した。そして美しい眉を少し持ち上げる。

彼女がこうやって抗うことを試みるのは珍しいことだった。

やがて、しばらくの間ルイを見上げながら黙ったままでいたヒカルがぽつりと言った。

「・・・ルイと一緒にだったら帰る」

「ヒカル。交換条件を出すほど、ヒカルは優勢ではないはずだよ」

ルイが無表情に素っ気なくそう言った。

それから、吐息をひとつついて、続けた。

「シャルルが君の今日の行動を知ったら、どう思うかな。・・・・何だよ、その格好は。まるで誰かに声をかけられるのを待っているかのような、物欲しげな顔をして。・・・こういう場所のこういう機会が自分を変えられると思っているのか?自分の特権を振りかざさないと、君は気が済まないらしい」


シャルルはきっと・・・ヒカルに誰も注目することはないと思ったのだろうか。

いや、それはないだろう。

彼女がアルディ家に引き取られていることが露出するのを極端に避けているのだから。

それなら、彼女は手伝いという役割ではなく・・・・彼の推測が正しければ、同伴者の方が今日のこの宴に呼ばれている客なのだろう。

ああ、まったく意味がわからない。

ルイはそう言おうとしてヒカルを見下ろした。

「・・・私だって、シャルルの役に立ちたいよ」

ヒカルは唇を噛んで、低く言った。

下を向いていたので、ルイがぐっと拳を握ったことに気がついていないようだった。

「最近シャルルが忙しくて・・・戻って来ないのは、日本の・・・その・・クロス・グループと提携している製薬会社とバイオパイラシー(生物資源の海賊行為)の件でうまく行っていないからって・・・」

「だから、ヒカルがここに来たのか?それで解決する問題ではないだろう」

「私がここに出席するように、と・・・日本から要請があった」

ヒカルは思い切ったように、それでいて困ったように言った。

「日本から?」

「夏に戻ったときに。そういう話が出て・・・」

なるほど。

ヒカルはクロス・グループの会長の孫娘だ。

そして、本来なら、彼女の父親が引き継ぐはずであった組織を、孫娘に継承させたいと思っている節があった。

伯母夫婦がすでに確固たる地位を築いており、安泰であるはずなのに、ヒカルのことを気にかけている祖父は、彼女が夏だけしか帰国しないことに対して不満を漏らしたという話を聞いた。

・・・・シャルルに監護権があることを理由に、彼らは沈黙を守っていたが、そうもいかなくなってきたらしい。

自分の必要性や価値についていつも考えているヒカルが・・・その申し出を断れなかったのであろうということは容易に想像がついた。


「どうしてオレがここに来ていると思う?それらの問題を解決するためだよ」

「え・・・?」

「だから、オレの邪魔をしないでくれ」

「どうして、それで私が帰らないといけないの?」

・・・・ルイは肩をすくめた。夜風がますます冷たくなってきて、邸内の喧騒が緩和されてきたので、ルイは行くぞ、と言って、彼女の腕を掴んだ。

「ヒカル。君は知らないのだろうが・・・オレにはいろいろと制約があってね。ヒカルと同席するときには、ヒカルを優先させなければならないことになっている。君はオレの同伴者ではないし、目立つ行為は控えなければならない。・・・・そうなると、オレは仕事を放棄して、ヒカルをアルディ邸に送り届けるためにエスコートしなければならない」

「だったら、知らないふりをしていれば良い。私はあまり・・・知り合いがいないから」

「そうも行かないだろう」


彼は苛立たしげに言った。

ヒカルのその格好を見て・・・誰も寄らないという確約はあるのだろうか。豪奢な耳飾りをして・・・そろらく、日本のクロス・グループが指定してきた同伴者とは、有力者の子息だろう。


・・・館のでは入り口から・・・ルイの名前を呼ぶ声がした。

今夜限りの相手だった。

いつまでも現れない自分の同伴者に・・・・星辰の子を呼び寄せようとしている声が聞こえた。

「ルイ、行って」

ヒカルは笑った。

「チャリティのお手伝いは・・・本当に、たいした事はないの。すぐ済むから。・・・そうしたら戻ります。だから、ルイを待っていたいの。車で待っていても・・・良い?それなら、ルイの問題は解決するよね」

ルイは頸を振った。

そうではなく・・・彼女の姿を誰かが見つめるのが気に入らない。

彼女は自己はないから、すぐに誰かの言われるがままに相づちを打つ。

この場に集う者たちの意志のどれかに賛同するような・・・それこそ、シャルルを逆に窮地に陥れてしまうような結果になりかねないということは想定できないのだろうか。

クロス・グループとアルディ家の絆は強いが、それでも・・・どうにもならない課題がいくつも残っている。

個人的に親しくするのと、業務提携で近しくするのとでは、とても・・・隔たりがあるのだ。

誰とでも仲良く、というヒカルの幻想は、ここでは叶わない。

■Trick OR・・・ L-side 04


「君に提案する権利はないよ、ヒカル」

ルイを呼ぶ声にヒカルは聞き覚えがあった。

・・・彼と最近、噂されているとある高貴な家柄の令嬢だった。

アルディ家の繋がりも深く、彼の短い期間の恋人ではなく、今度こそ、ルイ・ドゥ・アルディの「ファム・ファタル」たる人物なのではないのかと噂されている人物だった。

ルイがヒカルに帰れ、と言った理由がわかった。

彼は当主の・・・シャルルの命令には逆らわない。

けれども今日、一緒に居る相手は蔑ろにできない人物なのだ。

・・・彼が唯一の恋人と定めて、こよなく愛するのであればヒカルは喜んでこの場を退場しようと思ったが、彼は少しも・・・相手の方を見なかった。

ただ、じっと、ヒカルを、夜風よりも冷たく感じる眼差しで見つめているだけである。


「私に構わずに・・・あの人のところに行って」

ヒカルがそう言うと、ルイは低く唸った。

「ヒカルが介入する話ではない」

「でも・・・・ルイの恋人でしょう?」

「いや」

彼は短く否定した。


「渋々、招かれた宴に同伴した人物は、すべからく皆が恋人同士でなければならない理由はない。・・・利害関係が一致するという理由も成立する」

「利害関係・・・・」

「オレはここに来て、目的を達成する。

そのためには同伴者を伴って来場し、チャリティパーティーであることを肯定しなければならない。相手は、オレを連れて歩きたい。

ただそれだけだ。

適当に・・寄付行為をして、これがどんなにくだらないハロウィンの祭りであったとしても、オレはそれに微笑んで、グラスを傾けなければならない相手がこの会場には幾人かいる」


「ルイ、ルイ」

ヒカルが慌てて言った。


「今日はハロウィンだよ。

・・・・皆が陽気になって、いつもはできないようなことをして戯れるこども達にお菓子をあげたり・・・こうやって寄付を呼び掛けて援助を必要とする国を助けるということができる日なのに・・・・」

「ハロウィンでなくても、できるだろ」

彼は素っ気なく言った。


そして、ヒカルの腕を掴んで・・・彼女の茶色の長い髪を引っ張った。

会場内では、招かれた者のうち、仮装した幼年のこどもたちが、催し物として周囲の者たちに「Trick or Treat」と言って、菓子の代わりに寄付を募っている声が聞こえている。


「そもそも、何かの記念日でないと、いつもできないことができるようになるというのは、おかしな話だと思わないか?それなら、オレは・・・・」

「・・・・それなら?」

ヒカルとルイはそこで目が合った。

ルイの青灰色の瞳が、ほんの少しだけ細くなった。

彼は、何を望んでいるのだろうか。

ルイにできないことはないというのに。

それなのに、彼は「それなら」と言った。


「それなら・・・・」

彼はそこで唇を噤んだ。

彼女の朱華のドレス姿と、夜空の下に靡く茶色の髪と・・・鮮やかな耳飾りが、彼の言葉を引き出そうとするような妖しい魔力を持って彼を惹きつけるかのようだった。

彼女はこの狂濤の宴の中にあって、ひとりだけ・・・静寂という従者を連れてやってきた童話の中の姫のようだった。

硝子の沓は履いていないが、彼女はまさしく・・・この宴で目立たないでやり過ごすことはとうていできない出で立ちだった。


もうひとり、邸内からヒカルを探している様子の者が出てきた。

・・・誰だかそのシルエットですぐにわかった。

ヒカルがどうして断れなかったのかもわかった。


「愚かなヒカル」

ルイは言いかけた言葉を続けることもなく、冷たく言い放った。

まだ、激昂が収まらない。

ヒカルの名前を慕わしげに呼ぶ声に、苛立ちを募らせる。

あんなに大きな声でヒカルを呼びつける神経がわからない。彼女は確かにアルディ家当主の愛翫物ではあるが・・・それ以外の者には決して従属しないと思っていたのに。

なぜ、彼女が誇り高く居られないのか。

唇の端を、少し噛んで、ルイは言った。

ヒカルを傷つける言葉はたくさん用意していた。

どれが効果的なのか選択を始める。

・・・彼女に責はないのに。

事情を話して邸に返せばそれで良かったのに。


・・・・ヒカルを呼ぶ下卑た声と・・・こどもたちの嬌声と、ルイを呼ぶ極めて収攬とはほど遠い声が彼を苛々させる。


なぜ、あんな男に自らの名を呼ばせるのか。

なぜ、あのような者に呼ばれて飼い犬のように身を移すのか。

なぜ・・・・・その白い肌や茶色の髪や、その出で立ちが周囲の者の羨望と春情を刺激するのだということがわからないのだろうか。


できないことをできるようになるかもしれない日がハロウィンだ、とヒカルは言った。

けれども・・・・いつもできるようになることができない日も、この日なのだとルイは悟った。


彼女を傷つける言葉が出てこない。


あまりにも・・・・彼女が美しすぎて、誰にも渡したくないのだという気持ちが込み上げたのに。

それは亡霊達が見せる幻なのだとルイはちらりと考えた。

■Trick OR・・・ L-side 05


「惨めな思いをしたいのであれば、残っても構わないよ」

ルイは冷たく静かにそう言った。

ヒカルは少し泣きそうな顔をしていた。

シャルルの助けにさえならない、とルイに宣言されて、深く傷付いたようだ。

そうだ・・・彼女は自分のことを蔑まれても、決して泣かない。

しかしシャルルとの関係を否定されたり・・・アルディ家に留まっていることから生じる一族の憂いについて触れたりすると、とたんに彼女は萎れてしまう。


「私は・・シャルルの・・・ルイの手伝いがしたいのだけれども・・何かできるかしら」

「大人しく邸に戻ることが一番効果的だと思うが。君の存在自体がヒカル自身の思惑を阻害しているのだということに、早く気がついた方が良いね」

彼はそう言って、優雅にヒカルに向かって手を差し伸べた。

「こどもは早く帰って寝ろ。・・・舞踏会の時間は終わりだ。愚かな娘にかけられるような魔法は12時まではとうてい保たない。それとも、あの小人達のように、菓子をねだって、歩き回るか?」


「・・・私、そんなに似合っていない?」

人に自分がどう映るのかは気にするのに、それを尋ねる勇気を持たない少女は、ぽつりとルイに言った。

「これから仮装行列にでも加わるのか?」

とうてい淑女の装いではない、とあからさまに言ったルイに、ヒカルは息を呑んだ。


・・・また、遠くでルイを呼ぶ声が聞こえてくる。

それから、ヒカルを探していると思われる者が数名・・・庭と館を繋ぐ出入り口をうろついていた。


これ以上ここに長居することは得策ではない。

ルイはそう判断して、ヒカルに差し出した腕を戻し、館の方に向き直った。

金の髪を掻き上げる。・・・・風も冷たくなってきて、ヒカルの躰は相当冷えているはずだった。

ここで彼女が失調でもすれば、そこに同席していたルイがシャルルに叱責されるだけだった。

彼は・・・ルイにはまったくと言って良いほど愛を注がない。

そして、彼はルイと思い出を作ることを極端に避けている。


ヒカルは大きな溜息を漏らした。

「シャルルがせっかく耳飾りを貸してくれたのに・・・・」

そうして、化粧気のない顔に両の手の平をあてて、また息を吐き出した。

白い細い肩が大きく上下した。

顔を隠すと・・・彼女の白い肌がますます際だって見えた。

「わかった。・・・・ルイの邪魔をしたくない」

ヒカルは両手を顔から話すと、静かにそう言った。

「ルイが見て、侘しいと思うのならきっとそうなのでしょう。相手の方にも申し訳ないし。・・・戻ります」

「オレが言ったことを信用するの?随分と・・・・愚人なのだな。他者から言われれば、そうしてしまうのか。・・・誰かに乞われれば、君は誰にでもついて行くのだね」

「そうではない」

ヒカルがそこで反論した。

彼女には誇りがないはずなのに、その瞬間に下を向いていた顔を上げて、伏し目がちにしていた茶色の瞳を上に向ける。

両手でドレスの裾をぎゅっと握っていた。

唇を噛み、何か反論をしたいのだと言うような、大きな瞳でルイを見たので、彼はせせら笑った。


「言いたいことがあるのなら、手短に。君が憤るほどの何かを言ったつもりはないよ」

「ルイは・・・自分を信用してはいけないと言った」

ヒカルは小さく言った。

普段口答えなどはほとんどしない彼女が、珍しく・・・ルイに反論している。

ルイは青灰色の物憂げな瞳を開いた。

寒さで震えながら、頬を紅潮させて、両手をこどもが直訴するときによくそうするように、ドレスの裾を強く掴み上げている。

寒風に揺られて、持ち上げられたドレスの裾から、足元が見えていた。

・・・熱せられた会場を想定して、彼女は素足だった。

白い臑が僅かに見えて、真珠色の光沢を放っていた。


彼女は言った。

「ルイは本当のことしか言わない。嘘はつかない。・・・・だから、私はそれを信じただけ。ルイの言葉をルイ・ドゥ・アルディ自身が否定してはいけない」


その言葉に、ルイは薄い唇を横に引いた。


ヒカルは、自分自身の見窄らしさを指摘されて憤慨しているのではなく・・・ルイがそう言うのだからそれは本当のことであり、彼自身が自分の言葉を信用して良いのか、とヒカルが疑念を持つような言葉を使ってはいけないのだ、とヒカルが言ったので、ルイは絶句した。


この人は、どうして・・・どうしてこれほどまでに、自分を信頼しきっているのだろう。

人を疑わず・・・いつも良い面だけを見ようとする善良な娘に育てたシャルルの真意が見えてこなかった。

アルディ家にそういう者は不要であるのに。なぜ、シャルルは、公開しない薔薇の品種改良を続けることも含めて・・・不必要なことばかりするのだろう。


ヒカルに高価な耳飾りを貸し与え、衣装を用意し、そして宴に向かわせる。

その一方で、ヒカルが絶対に・・・同伴者や彼女を眺め回す者たちに翻弄されることはないと信じている。それこそ、疑わしいのに。

彼女は・・・・誰にでもついていく人恋しがってばかりいる、憐れな愛翫物でしかないはずなのに。

それなのに。

どうして、次の言葉が出てこないのだろう。


ルイを絶対的に信頼している、とヒカルが言ったその言葉が・・・・先ほど、ばったりヒカルを出くわした時と同じほどに、彼の何かを動かしていた。


ルイは・・・・着飾った彼女と向き合うように対峙してしまった時・・・・ヒカルと目があった瞬間、同伴のしなだれかかる彼の一夜の相手と距離を取った。

ヒカルにその姿を見せたくないと躰が反応したのに、彼はそれを反射だと思い込もうとした。

知った顔が・・・シャルルの名によって、第一優先しなければならない人物が、居るはずのない場所に出現した。


これが理由だ。ただ、それだけだ。


彼はそういう結論を導き出したばかりなのに。


・・・・・・ヒカルの姿を見て・・・少しばかり動揺したのだ。


「オレの言葉を盲目的に信頼すると、火傷をするよ」

彼はそれだけを言った。

声が僅かばかり、掠れていた。


もっとあれこれ言ってやることもできたし、そういった言葉は常に幾つも用意しているのに。

ルイは、言葉が出なかった。

目の前の・・・茶色の髪の茶色の瞳の・・・・魔法の馬車から降り立ったような眩い輝きに溢れている人は、冷たい夜風の暗闇の下でも、輝いていた。

それは、朱華の衣のためなのか、それとも・・・ヒカル自身が眩しいのか・・・

ルイは青灰色の瞳を少し細めた。


「オレは君と出くわさなかったことにして、戻ることにする。・・・・後は勝手にしてくれ」

「それなら、ルイの車で待っている」

「オレがそれに乗るとは限らない。・・・・同伴の相手が用意した車に乗って、そのまま戻らない可能性は考えないのか?」

「それでも待っている」

最後のヒカルの言葉には、ルイは返事をしなかった。

待っている、と言われるといつも気鬱になる。いや、その言葉そのものを切り捨てるようにしていた。

ルイに執着する者は皆、同じだ。待っていれば、彼が憐れんでやって来ると思っている。しかし彼は一度としてそのような情け深い行動を取ったことはないのに。・・・それでも皆、彼を手に入れたい者は待っている、と言う。そして待ちくたびれると、彼の周囲を旋回しはじめる。

自分の方角にいつか・・・星辰の子が向いて手を伸ばしてくれるのではないのかと思って、離れることを放棄して、皆、彼の周りを巡り始める。

軌道に乗った星々に手を伸ばしても、興醒ましになるだけでしかないのに。


・・・・それなのに、ヒカルの「待っている」という言葉には、無視することも、返答することもできなかった。

抗えない吸力を持つ星辰の子が、唯一抗えない引力を持っている者が居る。

それは彼の周りを回る天体ではなく、永遠の晄という名前を持った者なのだと認めるわけにはいかなかった。



■Trick OR・・・ L-side 06


何かに固執すれば、その倍のものを失う覚悟で手に入れろ。


彼の教育係であり、冷酷無比なルイ・ドゥ・アルディの叔父は、彼と良く似た顔立ちでそう言った。

もっとも、ルイ・ドゥ・アルディの父親であるシャルルとミシェルは一卵性双生児であるので、ルイとミシェルが似ているのも当然と言えば当然だった。


ルイは何も失わない。

何も持ち得ていないから。

そしてすべてを手に入れる。

何も持ち得ていないから。


ルイ・ドゥ・アルディは今日、この宴で、目的を果たした。

彼の持つ人脈を更に広げたし、アルディ家の者が権利を持っている様々な分野のものについて、更に発展するための足がかりを取り付けた。

特に・・・ヒカルが言っていた、クロス・グループとの確執問題は、後日、日を改めて契約問題について中立な立場を取れる有資格者と有識者を交えて再度会合を持つ約束を取り付けた。

・・・・それがヒカルの口添えであることを知り、ルイは余計な手配を彼女がしたことに少しばかり苛立ったが。

それでも、彼女はルイより先に会場に戻り、それっきり彼が邸内に入っていったが、宴の席ではヒカルは姿を見せなかった。

ルイはヒカルの白い背中とドレスの裾が翻って彼女の足取りを阻んでいる様をじっと・・・冷たい青灰色の瞳を反らすことなく注いでいたが、やがて姿が見えなくなると、大きな溜息をついた。

彼女を探している人物は、ヒカルの姿を見つけると、なにやら彼女を叱責していたようだった。

酷く恐縮したように、ヒカルが何度も頭を下げているのが目に入った。

・・・・彼はそこで頬を僅かに動かした。

彼女を辱めて良いのは、その権利を持った者だけであり、それはルイ・ドゥ・アルディだけである。

同じ境遇で生まれたのに、どうしてもこうも違うのだろうか。

同じ薔薇の中で成長したのに、どうしもこうも・・・・彼だけが満たされていないのだろうか。



時間を置いて・・・

ルイ・ドゥ・アルディはゆっくりと会場に足を向けて、来た道を戻った。

密談するには相応しい場所、というわけではなかった。

この場所には死角がない。隠れたと思えば次の景色が開ける。日本庭園の計算された広がりに・・・ルイ・ドゥ・アルディはアルディ邸の薔薇園を思い出していた。

何処にいても、何をしていても、誰かが居ればすぐわかるような構図のあの場所に。

・・・・アルディ邸の当主は、どうしてあれほど日本に傾倒するのだろうか。

確かに優れた技術がある。

しかし、彼が日本を好んでいるというだけではない思い入れを誇示しているような薔薇園をルイは厭わしいと思っていた。

ひとり静かに物思いに耽る場所であるのに、彼は同時にその場所は酷く居心地が悪かった。

シャルルがヒカルの為だけに、夏の朝に眠りを放棄して、朝早く咲く薔薇の莟を見つめる場所だから。

ヒカル・クロスが、シャルルのために、毎朝最高の状態の薔薇を探し続ける場所だから。

・・・ルイに赦された空間は僅かしかない。


ヒカルの後ろ姿が消えたのを見たのを最後に、それっきり、彼女の朱華の衣装を見ることはなかった。

彼女がアルディ家に入ったときから常に言い含められていた「アルディ家の事業に関して意見しないこと」という暗黙の決まり事について、ヒカルは遵守したらしい。

しかし・・・ヒカルの発言が、アルディ家の当主に多分に影響することが、クロス・グループに知れてしまった。

あの国では・・・ヒカルの祖父が退き、新しい総帥が君臨している。

あの時とは状況が変わってしまっていた。

そしてヒカルは帰る場所がない。

だから、日本には、夏の短い滞在しかしないのだ。

滞在していても、親族の元には身を寄せない。ホテル住まいをして過ごしている。

・・・ヒカルの両親が生きていたら、そうはならなかったのかもしれない。

しかし、それは「もしも」の話で、実現されることはないのだ。決して。

信頼関係だけではどうにも解決できないほどに、お互いの立場や状況は変化し硬化してしまっている。


ルイは溜息をついた。

目的を達成すれば、最後までここに残る必要はない。

本当の主催元が充足するであろう十分な成果は得られた。

ハロウィンのチャリティパーティーであるという表向きの行事も終わった。

シャルルが満足するだけの援助をあの国にもたらすことができる。

失うものはなく、得たものだけが残った「業務」だった。

ルイの腕にしなだれかかった理解の出来ない生き物は、同じ貌に見える。

終始ルイに熱っぽい眼差しを送っていた人物であるが・・・ヒカルの幼さを比べものにならないくらい妖艶に微笑んだ。だが、彼は微笑みを返しはしなかった。

決して彼に寄り添わない人物の温度は痺れるほどに感じたのに。

・・・・そうでない人物の温もりが、これほど自分の温度を奪っていくのかと思うと、彼は別の意味を持つ微笑みを浮かべて自分自身を嘲り笑う。


■Trick OR・・・ L-side 07


ルイ・ドゥ・アルディが何かに執着したり没頭したりしている姿を見た者はほとんど居ない。

ただ、何かを考えて居る時だけは、彼はいつもの表情に増して更に無表情になり、瞬きは鈍速となり、そして口元は引き締められて、全神経を再思三考のために費やした。その姿は、アルディ家の当主の若い頃に酷似していると、若かりし頃の彼を知っている人の口からのぼる都度、ルイ・ドゥ・アルディは淡い儚げな微笑みを浮かべる。

その微笑みが嗤笑であることを知らない者は、更にその表情も似ていると言って褒めそやす。

彼は思考の波に沈む時には、場所を選ぶ。


このような遊戯としか判定できないような会合に、彼の時間を費やしていることの価値を知らない者の前では決して、彼はそんな冷たい表情を見せなかった。

シャルルの再来、と言う者は滅びれば良いのに、と思った。

当主はこんな風に・・・気の進まない集まりに自分の考えや予定を曲げて出席することもしなかったし、何より、ヒカルに全幅の信頼を置くようなことは、ルイにはあり得なかった。


ヒカルが誰を伴っているのか、当主は知っている。

そしてヒカルが長じるにつれて・・・アルディ家の奥深くでひっそりと匿うことは難しくなってきていることすら気がついているのに・・・矛盾した行動を取る。

こうして、ヒカルをごくたまにではあるが、公式および非公式の別なく連れて行く。

シャルルが同伴していない席はとても珍しいことではあったが、ヒカルは当主の遣いであることに喜びを感じているようだった。

単に、着飾って、誰かの話に微笑んでいれば良いだけの存在だとしても。

滅多に姿を現さないヒカル・クロスの存在を気にしているものの、接触する手立てを持たない者たちから見れば、今日は好機会の何ものでもなかった。


そしてヒカルは・・・髪を束ねずに、現れた。

もし。

彼女の毛髪が誰かの手に渡ったら。

そして、毛根などの生細胞などから、事実を知ったら。

・・・・今、世界のあちこちで血眼になって探している「タイプH」の存在を世に知らしめてしまうことになる。


ルイが返事をしなかったのはこれが初回ではなかった。

宴の最中、彼は隣に居るのに、少しも自分を見ようとしない、と言うと、ルイは微笑んだ。

「貴女を見ることが出来ないのですよ。あまりに・・・眩しすぎて」

星辰の子と言われて眩い存在とされているルイにそう言われて、相手は気をよくしたが、無返答がいくつか続くと、さすがに彼が不調なのではないのだろうかと言い出した。

その者自身も、ルイに釣り合うだけの容姿と家柄と理由を持っていた。

彼女は、ルイをずっと独り占めしたいと囁いたが、彼はそれを聞くと頸を横に振った。

「いつでも・・・・・貴女が僕を利用したいと思って、僕が貴女を利用したいなと思ったら、いつでも貴女に声をかけますよ。でもそれは貴女自身の持っているものではなくて、貴女に付随する様々な権益のことを指していることを、お忘れなく。・・・単に星の巡りで一瞬重なっただけでしょう」

人との接触を極端に嫌うルイが、普段は滅多にこのようなことを言わない。

相手とは寸陰を共有しただけで、自分は・・・決してともに星となって巡らさないと言ったのだ。

面倒なことになるとわかっていながら・・・彼はそれでも相手に囁いた。


車に人を待たせていると言って、帰りのエスコートを辞退したことから、始まった会話だった。

誰を待たせているのだ、とか。

自分と今日は朝まで居てくれないのか、とか。

どうして人は皆、ルイがどう思っているのかではなくて自分がどう思っているかを最初に伝えようとするのだろうか。

そしてそれが自分の思い描いた答えではないことを知ると、それが不可抗力による結果であって、ルイの意図している回答ではないと信じ込もうとする。

だから、ルイが失調しているのではないのか、と疑う。

そして彼を案じるような言葉を出すが、それは単に、自分のことを見てくれない正当な理由なのか、と確認しているだけに過ぎない。


どうしてこの世はこれほどまでに・・・煩わしいのだろう。

シャルルのことを理解したくはなかったが、彼が厭世的である理由に少しは賛同できた。


ルイは車に向かった。

アルディ家の紋が入った自家用車は、ルイがエントランスに到着すると、すでに出発するばかりになっていた。

散会には少し早い時間であったが、退出する者がちらほら視界に入ってきた。

・・・最近はこういった夜会の事情も変化してきている。

時間を有効に使いたい者たちが分刻みで行動している世で、刻限まで在場し、そして別れを惜しんでそれから数刻経過しないと車に乗り込めないような時代は終焉を迎えていた。


・・・ルイは入場するときには、ひとりではなかったのに。退場する時には、ひとりで会場を出た。

それが後ほど遠回しな非難になって抗議されることも承知していた。

だが、煩わしかったのだ。

自分が寄って欲しいと思っていないのに、勝手に距離を縮めようとする者は、ルイには必要ではなかった。


そして、車に近寄ると、運転手が近寄ってきて、ルイのために扉を開けた。

車で待っていると言ったのに、彼女はそこには居なかった。

誰か来たか、とルイは普段声をかけないのに、運転手に声をかけたので・・運転手は困惑した顔をした。

ヒカルは、あのまま退室したのだろうか。■Trick OR・・・ L-side 08


彼は周囲を一度だけ見回した。皆、会場の熱気に酔ったように頬を赤く染め、興奮気味の話し声を漏らしながら車に乗り込んでいる。

・・・紳士淑女であるならば、それは決して美しい所作ではないと知っているはずなのに。

それを心得て、静かに流れるように移動を始める者が余りにも少ないので、ルイは溜息を漏らした。

彼らは若いのだ。

そしてそんな世代を集めた群に、ルイを投じる周囲の者の気が知れなかった。

ルイの肉体は確かに若いが・・・彼の精神はすでに老いてしまっている。


先ほどエントランスに出る前に、彼の同伴者の行方をIDによって調査依頼していた。

ルイと別れてすぐ後に、別の者と行動を共にしているらしい。

・・・彼に執着する者はふた通りだ。

いつまでも執拗に彼を追い回すか、最初は妄念を抱いていてもすぐに諦めて、次の標的に向かって神経を注ぐか、だ。

どうやら今日の同伴者は後者のようだ。

この世界は、そういうものだ。

特定の者同士が集まり、同じような環境の者が集う。

今日の宴でも、若い世代の集いということであったが、本人達も何となく自分と違う空気の者というのはわかるようだった。しかしルイはどこにも識別されなかった。

自然に分極していく様をルイはひとり遠目でじっと静かに見つめ、誰がどの分類に入るのかを記憶というツールを使って記録していった。


彼の美しさに惚けて立ち止まったまま同伴者への関心や憧憬を捨て去ってしまった者もいた。

少しでも自分に自信のある者は彼の視界に入ろうとしていろいろと話しかけようとする者もいた。

しかし、ルイはそれら一切を無視して、ただ会場の中を見渡していただけだった。無謀かつ礼儀知らずにも、彼の腕に触れて、自分と話をしようと言った者に関しては、彼は冷たい、凍結するような視線でもって「僕の邪魔をするな」と低く言っただけだ。


そんなルイ・ドゥ・アルディが、周囲を旋回して、自分ではない他者の存在を確認しようとしている。

・・・・彼が来るまで待つ、と言った者が指定した場所に居なかった。

彼は怜悧な美貌を少しだけ歪ませた。

・・・・・シャルルの言い付けを護らない人ではないから、きっともう、アルディ家に戻ったのであろう。これほど遅くなるとは思わなかった、と後で詫びに彼の別棟に訪れるのかもしれない。

その弁明を決して聞き入れてやるつもりはなかったけれども。


「戻る。・・・・今日はセーフハウスへ」

彼はそう言って車に乗り込もうとしたとき。

「・・・・ルイ!」

背後から声をかけられて、ルイは本当は・・・その声の持ち主を待ち侘びていたことを知った。

IDチップで追跡調査をすれば簡単に居所がわかるのにそうしなかった。

彼女が・・・ルイより長い時間誰かの傍らに居るという記録を見たいと思わなかったから。

彼女が・・・ルイではない誰かの傍で微笑んでいる記録を確認したいと思わなかったから。


その声がどこからか聞こえて来ないかと耳をそばだてていた。

その声の持ち主の、今宵の宴のために用意された朱華の衣色が視界に入らないかと一望できる場所でずっと見つめていた。

何時間も。・・・いや、もっと長い時間を彼は全神経を尖らせて、気配を感じることに集中していた。

それなのに、少しも存在を見せようとしなかった晄の娘は、彼の前に予告なく現れたのだ。


踵が低いが、それでも最速で近づこうとしているために蹴り走るヒカル・クロスの足音がする。

彼女が走ってくる音が地面から・・・伝わってくる音だった。

ルイには様子が手に取るようにわかる。

彼女の荒い乱れた息遣いや、裾を擦りながら走行に邪魔だと裾を持ち上げて臑を露わにしている様や・・・・ルイにまっすぐに向けられた視線が彼の背中に注がれている気配が。

「ルイ・・・ルイ!」

聞き覚えのある声域が彼を動けなくする。

声が喉を堕ちて・・・そして沈んでいく。


待っていたと言えばよいのか。

どうして戻っていないと言えばよいのか。


ひたすらに・・・その声に・・・・彼女の音に耳を傾けていたなどとは、彼は誇りと誓いにかけて言うことが出来なかった。


・・・・・ヒカル


彼はまた、甘い痛みを胸に落とし込んだ。

あと幾つ・・・彼の胎にそれを潜めたら彼は彼女を追うことを止められるのだろう。

この場に居る数多の若者が持っている感情とは違う。

彼はそう思っていた。

相手だけしか見えていないと思いきや、彼らは常に同伴者の傍らで目移りしている。

誰か更により良く自分に相応しい相手が居ないかどうか探している。

しかしルイ・ドゥ・アルディが捜している者はもっと違っていた。

そこに居ないとわかっているのに、その人を捜す。

そこに居るかもしれないと、その人を捜す。


ルイとヒカルの距離が限りなく縮まった時。

彼は僅かに腕を開き、脇を開けた。

そこに彼女の白い腕が入り込んで・・・・そして背中越しにヒカルがルイに向かって腕を伸ばしたのだ。

「ルイ・・・・」

次に、衝撃が走った。

彼が乗馬とフェンシングで鍛えていなければ、そのまま二人とも転倒してしまうくらいの勢いだった。

勢い余って、彼女の躰がルイに当たった時に、震動ではない震えが彼を一瞬刺激した。

薄い整った唇をきゅっと引き締める。


彼はいつも表情を崩さないのに。

無表情か、心のない微笑みしか浮かべないのに。

それなのに・・・・彼の表情は苦悶に満ちていた。


どうして、彼女だけは彼を乱すのだろうか。

どうして、彼女は彼の言いつけを護らないのだろうか。


ルイは彼の躰の前に伸ばされた両手首を掴んで、彼女の有効線分をその場で停止させた。

彼女の手の平からこぼれ落ちた朱華の衣の裾が、ルイの足元で揺らめいている。


・・・・幻聴ではなく現実なのだと知った。

整えられた爪は華美に飾り立てられることもないが滑らかに磨かれて光っていた。

そして飾り気のない腕は・・・・その場に居た夜会の者たちがどんなに装っても決して彼の視線に入ることはできなかったのに、ルイの視界に入り込んでいく。


待っていたよ、という言葉のかわりに、彼は平坦な抑揚のない声で言った。

青灰色の瞳を遠くに見遣って。

そうでなければ・・・・彼は背中越しの少女への言葉を選択することを誤りそうだったからだ。

彼は間違えないのに。決して間違えないのに。


路を誤りそうになるから。


「ヒカル。・・・・人が見ている」

そんな言葉は最も不適切だと思っていた。

誰がどう見るかは関係しない。

ルイが・・・ルイがどう思うかを述べたくなかったのだ。


待っていたのだよ、と言葉にしたくなかった。

それは彼が認めることになる服従の誓言だとわかっていたから。

彼は星々を遵えて煌めく星辰の子であるのに。

唯一、永遠の晄と名付けられたヒカルには、星の巡りを引き合いに出すことが出来ない。

・・・・彼は・・・永遠の晄と重なることができない星の子ではない。

重ならないなら、その軌道に重ねれば良いのだ。すべてを曲げて。すべてを捧げて。


・・・何かに固執すれば、その倍のものを失う。

彼の教育係の、低いバリトンが耳に響く。

しかしその声はヒカルの声によってかき消された。


「・・・ルイ、待っていた」

その瞬間、彼は掴んでいた彼女の白い手首を強く握った。

そして振り払った。

・・・・・それ以上、肌を絡めたら・・・・本当に彼は彼女に魂を捧げてしまいそうになるからだ。


ヒカルを得るために、何を失ったら良いのだろう。

何かを手放したら永遠の晄を・・・・彼女のもたらす福音と共に得ることが出来るのだろうか。



彼には失うものはないというのに。



■Trick OR・・・ L-side 09


彼は溜息をひとつ漏らすと、開かれたドアに向かった。

外の空気は冷たかった。

そして同じように、ヒカルの腕も冷たかった。

「オレは行く」

「私も一緒に・・・車を帰してしまったから」

ヒカルはそう言って、彼女を無視して車に乗り込んだルイに続いて乗り込んだので、中央に座って居たルイは嫌な顔をした。

冷たい風が流れ込み、ヒカルの衣装が冷気を含んで車内に持ち込まれたので、自動調節の風が、温度の下がった車内の室温を設定の温度に戻すために、一気に勢いよく稼働して強い乾燥した空気を流し始める。

「図々しい女だな」

彼はそう言うと、彼女を軽く睨んだ。

頬を染めて、すっかり冷たくなってしまった身体の上に、彼女は男物の上着を羽織っていただけだった。

・・・誰かから借り受けたのだろうか。

ルイが、ヒカルの羽織った上着に目をやったことを気にしてか、彼女は説明を加えた。

「・・・貸してくれたの。もう帰るから、と言って。・・・外でルイを待っていたら、それでは寒いでしょう、と言って」

誰が、とは言わなかった。

それだけで、彼女の今夜の同伴者のことを言っているのだと思った。

ルイの知らない関係が、そこにある。

それだけで・・・ただただ息苦しくなる。

成長するにつれて、ヒカルのことについて知りえない事が増えていく。

関心を持っているわけではないはずなのに。

それなのに・・・ヒカルが上着を痛めないように気遣いながら、そっと自分の白い方にかけて暖を取る様を見て・・・ルイはいつものように、冷たい言葉で彼女の関心をこちらに向けることができなくなってしまった。

彼にできないことはないと言うのに。


「・・・車はなぜ、返したんだ」

彼は、車が走り出すのを待ってから、そう言った。

彼女と距離を保つように、彼は腰を浮かせて反対側に移動した。

ルイは滅多にそんなことをしない。いや、皆無だった。

誰かのために場所を空ける。

誰かに彼との距離を空けた場所を指定するのではなく・・・ルイはヒカルと自然な距離を保った。


ヒカルは彼が話しかけてきてくれたことが嬉しいと言わんばかりに頬を緩めて答えた。

「ルイが必ず来てくれると思ったから」

「車で待っていれば良かったのに」

「そうなったら、運転手さんに迷惑をかける」

ヒカルの言葉に、ルイはまた眉根を寄せた。

彼女は使用人に近すぎる。

それがアルディ家の使用人達に絶大なる人気と信頼を寄せているヒカルの特質なのかもしれないのだが、それはアルディ家には必要のない気配りだった。

一体、あの家には何人が業務として従事しているのか、彼女は知っているのだろうか。

彼らは労働力の対価を得ているわけだし、決してボランティアで彼らの生活を捧げているわけではないと言うのに。

彼女はそうして・・・自分には代わりがいないことについて、まったく考えようとしない。


「・・・それで、上着一枚のままで、この寒空の下で、ひとりで待っていたのか?・・・アルディ家の厄介者が、危険性を考えなかったのか」

「・・・私を拐かそうとする人なんて、居ないわよ。・・・それより、ルイが無事であったことを確認できて良かった」

ヒカルはそこで、少しだけ悲しそうな顔をした。


ルイはシャルル・ドゥ・アルディの息子としてすでに名をとどろかせており、知らない者は居ないだろう。しかし、この警備の厳しい会場内で、何かを目論む者の方が、それこそ気が知れないのに。

それでも、ルイの安否を気遣う。

・・・先般、ちょっとした諍い事に巻き込まれて、ルイが襲撃されそうになったことがあったからだ。

それよりもっと前には、ルイの教育係であり、シャルルの実弟であるミシェルが車に乗り込むところを襲撃されそうになったことがあった。

ヒカルはそれを思い出して、彼が戻ってくるまで待っていようという気になったらしい。

だから、一緒に帰ろうと言ったのか。

ルイが心配なのではなく、シャルルが憂えるから。そしてアルディ家の唯一の継承者を失うわけにはいかない、と教え込まれているから。

だから・・・それなら、継承権を持っている者であれば、ルイでなくても良いというわけだ。

ヒカルが案じているのは、「当主の継承者」であるルイであって、彼そのものではない。

そう思うと・・・彼はこの広い空間の中で、ヒカルが外気に体温を奪われて、身を震わせて上着を胸元に引き寄せた様に、一瞬・・・そう、ほんの一瞬、かっとなった。


車はまだ出発したばかりだと言うのに。

彼は、腕を伸ばして、彼女を包んでいる上着に手をかけた。

「・・・ルイ!」

ヒカルが小さな悲鳴を上げるが、ルイはそれを無視した。

黄金の前髪がふらりと揺れたかと思うと、何も映し出そうとはしないと決めた青灰色の瞳を遠くに向けたまま、彼はヒカルの衣をはぎ取った。

「・・・ヒカルの衣装に合わせた衣装を用意しない輩の上着を、後生大事にして・・・・ヒカルは随分と理想が低いんだな」

彼は意地悪く言った。

彼女の朱華の衣に合わない濃い色に濃い香りの残る男物の上着は・・・若い傲慢さに溢れていた。

彼女が彼の衣装に合わせてやってくるのだろうという倨傲さを感じる衣だった。

ヒカルは言ったのに。今日は手伝いだ・と言ったから、淡い色合いのドレスを身につけ、チャリティに相応しいように、豪奢な装飾を極力避けて、耳飾りだけをシャルルに借り受けてやってきたと言うのに。

判っている。

判っている。

・・・これは言いがかりであり、ヒカルは何ら手落ちがないのに、ルイは彼女を責めたくて仕方がない。

彼女がルイではない別の者を傍らに置いて腕を絡ませたかと思うと・・・・

ルイは理解の出来ない渦に身を灼かれそうになった。


だから、彼女から彼の抜け殻を取り上げた。

温を求めるだけのものなら・・・・それはいらないだろう。

もう、温度調節の整った車内にいるのに。

ヒカル・クロスの、困惑した顔を見たかったのか。それとも、見たくなかったのか。

どちらも不正解で、どちらも正解だ゙った。

■Trick OR・・・ L-side 10


普段のルイ・ドゥ・アルディであれば、きっと、自らが身体を動かして、彼女から上着を取り上げることはしない。

しかし、彼女から取り上げたその上着の内ポケットに小さく縫い付けられている文字を読み取ると、それだけで興味がなくなってしまったとでも言うかのように、彼は上着を放りだした。

やはり、あの男か。

自分は、ヒカル・クロスが今回の夜会に断れない事情で出席した理由を確認しただけだ。

ルイ・ドゥ・アルディは薄い唇を歪めて笑った。

こういう時は・・・きっと、ルイの教育係は煙草を燻らせるのだろう。

そして無表情に彼女にその衣を投げ渡した。

これほど近い距離に居るのに、まるではるか遠くにいるかのように、勢いを付けて。

自分の手元に置けばその上着そのものの存在を滅してしまいそうになる。

それくらい障る存在だった。


「返す」

「ルイ・・・」

「勘違いするな。・・・確認しただけだ」

縫い取りには、ルイもよく知っている家の紋が入っていた。

・・・あの国の者たちがやりそうな意匠だった。

家柄を誇示するような文字ではなく紋にするところがかえって、あの家の傲慢さと卑屈さを伺わせる。

ルイが投げた上着は、車内の空間を渡って、ヒカルの膝上に落ちた。僅かな衣擦れの音がして、彼女の中に戻った衣にヒカルが再び触れるのを見て・・ルイは眉を潜める。

「それほど恋うなら、なぜ、別れてきた」

移り香が消えゆく様を惜しんでいるように見える。そんなヒカル・クロスの心を独占しているのは、アルディ家のあの男ではなく、ただ一夜の席の・・・苟且の夢の方が大事であると彼女は主張するのか。

しかしヒカルはルイの非難がましい言葉に頸を振った。

「ルイと約束したから。一緒に帰ろうと約束したから」

「錯乱しているのか?約束というのは当事者間の間で取り決めることで、承諾なしには成立しない。オレは承諾していない。つまり、一方的な通知の類は約束とは言わない」

「・・・ルイの言葉に従うと、自分で決めたから自分への約束なの」

「ヒカル。最初の言葉の回答ではない。オレはあの男が恋しいのか、と聞いた」

「ルイはどうして別れてきたんだ、と言った」

ヒカルの言葉に今度はルイが押し黙った。


何かを期待していたのだろうか。

言葉の遣り取りを楽しむ状況ではなかった。

ルイの周囲には彼と同程度の会話ができる者がほとんど居ない。

ヒカルにはそれを期待していない。

それなのに・・・たった一言、短い言の葉が返ってくることしか、ルイは未来を想定していなかったのだ。

いや、たった一つのことをルイに伝えるために、ヒカルが四苦八苦して言葉を羅列することを予想していたから。


あの男が恋しいわけではない、と。

そんなことは決してない、と。

ルイを選んだからここに居るのだ、と。


だから、そうではなかった展開に、ルイは少しばかり驚愕していた。

思惑の深淵を彷徨っても、答えが導き出せていない。

・・・・どうして彼女だけはいつも・・自分の思い通りにいかないのか。


ルイは数手先が読めるのに。相手によっては、そのもっと先まで把握できるのに。

ヒカル・クロスだけは、いつもルイを苛立たせるほどに、思惑通りに行動しない。


ヒカルが断り切れなかったことに憤慨していた。

彼女は決して否定しない。同調もしない。理解は示すが、決して同意しない。

すべてを否定しないこと。

それはすべてを否定していることと同義なのに。

その上着の主を思った。

ヒカルをよく知らないが故に傲慢なのか、彼女をよく知っていると誇示したいからの無自覚なのか。

どちらにしても・・・アルディ家の当主は、ヒカルを引き渡すつもりはないらしい。

彼女が「アルディ邸に戻ろう」と発言したことからそれは明らかだった。


「また逢えるし。すぐに帰国すると言っていた」

上着をヒカルに預けたまま帰国すると言うのは、彼女が借り物はそのままにしておけない性分であることを承知してのことなのだろう。

次に繋げるために・・・ヒカルを解放したのだと思った。

そういうやり方でなければ、ヒカルは自分からはあの国の者たちと連絡を取らない。

今夜のルイのように、相手を送り届けることを放棄して、その人物はヒカルの関心を手に入れたとしたら、相手はなかなかに狡猾な人物であると認識を改める必要があった。

いや、元々、彼らは食えない面を持っているから・・・情報を改めるのではなく、付加することにした。


そこで彼はふと笑みを漏らした。話題を変更する。

「ヒカル・・・この車は、アルディ邸に寄らずに、セーフハウスに行くように指示を変更したのだが。ヒカルはそれでも乗っていくと言うのだね」

ヒカルがえっと小さく声を漏らした。そして窓の外を見るために彼から視線を反らして・・・そして「そんな」と低く呻いた。

ルイは失笑した。

そこで長い足を組み直して、僅かに、凭れている背の角度を調節する。


「ここで降りるならどうぞ。・・・オレはアルディ邸には行かない。・・・ヒカルの門限はとうに過ぎているではないのかな」

刻限を過ぎてなお、ルイを待っていたヒカルの顔色はあまり良くなかった。

寒空の下で、上着一枚を便りに、館の入り口を出入りしていたのだろうと思うと、アルディ邸の住人が一般庶民のような振る舞いをして人目を引いてしまったことに、また悵然として歎息を漏らす。


Trick OR・・・ L-side 後編

■Trick OR・・・ L-side 11


彼女は誰にも渡さない。


彼女の持つ利権は、今後の世界を覆していくに必要不可欠な要素だ。

ルイが当主の座に納まるための手土産になる材料を、彼は見逃さない。


取り逃がしはしない。


だから・・・・

そう。

今夜は彼女をいっそのこと・・・名実ともに、自分の傍らにしか居られないようにしてしまうことだって容易なのだと思った。


「ヒカルが今夜は帰らないと知ったら・・・シャルルのあの冷淡な顔が歪むだろうね」

ルイはそう言って、嗤った。シャルルに良く似た顔で。

「ルイの家は、そこではない」

ヒカルが下を向いて、唇を噛んで言った。


顔を下に向けたので、茶色の癖の強い髪が、彼女の胸に落ちた。

癖の強い彼女の髪は、結い上げればその弾力に負けて、たちどころに乱れてこぼれ落ちてしまう。


「オレに遵うということは、そういうことだよ、ヒカル。

・・・・定住することは意味がない。

家、というまったく無駄なものに縛られている眷属や血続きはオレには必要ではない」

「シャルルはルイのお父さんだよ」

哀しそうに、少し声を潜めてヒカルは言った。

それを言えば、ルイは機嫌良く会話を弾ませるかと言ったら、まったくの逆効果であることは、彼女は熟知しているのに。

「遺伝学上はね」

ルイは淡々と無表情に言った。


見事な金の髪が、淡い車内灯の下で煌めいていた。

ヒカルがシャルルを引き合いに出すことが癇に障った。


彼女は自分がどう思っているのか語らない。

いつもシャルルが哀しむ、と言うだけだった。


この世の者たちは皆・・・なぜ、あの白金の髪のルイ・ドゥ・アルディの祖である人物にだけ心血を注ぐのか。

彼の不完全さを埋めるために、ルイは生を受けてこの世に渡ってきた。

それなのに、どうして・・・ルイが完璧であればあるほど、シャルルが敬仰されるのか。

その意味が理解できなかった。


ヒカル・クロスもその他大勢と同じだと思った。

シャルルが厭うから。

ただそれだけを唯一の理由にして、彼女は身を挺してルイを引き留め・・・そしてアルディ邸に戻そうとする。


やがてヒカルは軽く吐息をついて、いつものようにうつむき加減に言った。

彼女はその時だけは大変に大人びて見える。

いつもいつも、誰かのために憂えて、誰かのために自分を滅している少女が、何か意見を述べるときだけは・・・遠い記憶のあの茶色の髪の茶色の瞳の女性を思わせる容貌で発言する。


「ルイはきっと・・・一番良い方法をとると思っているから」

「誰にとって最良なのかという支点について考えていないね、ヒカル」

「ルイはそれさえ見越していると思うけれど」


彼は冷たく微笑んだ。

そして嘲笑に切り替える。


確かに何手も先を考える習慣が身についている。

しかし、それを簡単に破壊する彼女の行為を考慮に入れてなお・・・最良の方法を選択するであろうと予言する、薔薇の精霊を陵辱する崩壊の女神の言葉に呆れていた。


「それは・・・オレがこのまま、ヒカルを伴って、アルディ邸に引き返すことを言っているのか?」

「そう」

ヒカルは頷いた。そして微笑んだ。彼が口にしたことは決して覆らないことを知っているから。

そういう選択肢を考慮していたことを、ルイはヒカルに表明したから。

だから・・・彼女は微笑んだ。

狡猾な少女だな、と言いかけてルイは口を噤んだ。


彼女はシャルル・ドゥ・アルディの最愛の薔薇だ。

品種改良を趣味として・・・数多の「ファム・ファタル」を創り続けるシャルル・ドゥ・アルディの薔薇の中で最も・・・予測不可能な存在であるのが、ヒカル・クロスであった。


ヒカルの目に映るものは、ルイと違った景色なのだろう。

愛に包まれた色の溢れる世で育った永遠の晄という名前の娘に対して・・・決して交差することはないのだろうと思う。

彼女は、どんなに泣いてもルイが彼女を返さないという路を否定する。


この虚しい現実に、ヒカルは満足したように微笑む度に。

彼の誇りは少しずつ切り裂かれている。

勝負にならない恋の


いたずらな真実を・・・

狡猾な優しさを・・・・・

彼女は知らしめるだけなのに。


唇や肌の温度だけが・・・熱く濡れて・・・溶けるように滴り落ちる。

指を伸ばしたら触れる距離にいるのに。

この腕で抱き締めて消してしまうこともできそうなほどに近接しているのに。


どんな言葉を言っても、彼女は傷つかない。

どんな言葉を言っても、彼女は哀しまない。


一瞬だけ、傷ついて哀しんだ顔をするだけだ。


ルイの言葉は彼女に響かない。


彼ではない誰かによって傷つくことはあっても、彼によっては、傷つかない。


それが、苛立たしい。


残り火のように疼く。

清火のように燻る。


「良いよ・・・このままアルディ邸に戻っても良い。ただし、条件と引き替えだ」

ルイは良く通る声で、車内に響き渡るように、言った。

引き替え、と言ったのに。

それは命令だった。

彼女にウイと言わせる自信があった。

・・・・ルイ・ドゥ・アルディの声は、有無を言わさない声音だった。

■Trick OR・・・ L-side 12


「そのイヤリングをオレに譲ってくれ」

え・・・という声がヒカルの口から漏れた。ルイは冷たく微笑む。

耳飾りにヒカルの指が伸びて、彼女の指先によってそれは僅かに揺れた。

「それはヒカルが使用許諾を得たものだろう?だからオレにそれを譲渡してくれないか」

「これはシャルルが用意してくれたものだよ」

困ったように彼女はそう言った。


・・・・ルイは一度言ったことは絶対に遂行する。

完遂するまで諦めない。

彼のそんな性質を知っていたヒカルはしばらく黙っていた。

「黙っていてもオレの気は変わらない」

彼は素っ気なくそう言った。

ヒカルは彼の申し出を受け入れなければ、きっと・・・きっと彼はアルディ邸には戻らないだろう。

それは確実だった。


ルイは美術品収集に関しても造詣が深く、しばしばアルディ家の美術品を鑑定し、蒐集事業にも携わっていた。

確かにこの美術的価値は高いだろう。

だからなくさないように気をつけて身につけた。

・・・それ故に、ルイと一緒にまっすぐアルディ邸に戻れそうだと思った時にヒカルはほっと安堵の吐息を漏らしたのに。


「それほどまでに興味があるの?」

「それは宝飾品の価値だけではないものが備わっている」

彼はゆっくりと彼女に向かって手の平を差し出した。

彼女が身を固くしたので、知りたくなければ良いよ、と彼が手を引いた時に。


「待って」


ヒカルは彼に・・・・その見事な細工の耳飾りをひとつ、差し出した。

彼は一度言った言葉は必ず遂行する。

だからヒカルの知らない何かを教えてやろうという姿勢のルイの言葉は信用に足りると思った。


ぱちんと小さな音がして、彼女の耳から外されたそれは宙を渡って彼の元に落ちてきた。

・・・桜色の指爪から鮮やかな果実のような宝玉がひとつ、ルイの手の平にこぼれ落ちた。

細く長い指でルイはそれをつまみ上げると・・・青灰色の瞳で黙ったまま、その飾り全体を見渡し、次に器用にいくつかの留め具を弄り始めた。


ヒカルはその様子をルイと同じように無言で眺めていた。

壊してしまえばシャルルが落胆する。

それを貸してやろうと彼が言ったときに。

・・・どこかとても切なさそうにそれを見つめていたから、シャルルの思い入れ深い品なのだろうと思っていた。


やがてしばらくして・・・僅かであるが電子音が鳴った。

「ヒカル。着けてみろ」

彼はそう言って、ヒカルに今一度その飾りを投げて寄越した。

ルイ・ドゥ・アルディがあまりにも無造作に差し出したので、ヒカルは慌ててそれを受け取り、どこも壊れていないことを確認する。


大変な価値があると言った。

それなのに、彼は、もう、興味がなさそうにしている。

これは一体どういうことなのだろうか。


そしてルイに言われるままに、彼女は再び空いた片耳にそれを装着した。

その間、彼は足を組み、気怠げに見事な金の髪を掻き上げた。


・・・耳から、何か異音がした。

「骨伝導を改良したタイプだからよく聞こえるだろう」

彼はそう言ったが、その言葉が2重に聞こえたので・・・ヒカルは声を漏らした。

車内のどこにスピーカーがあるのだろうか。

彼は同じ台詞を繰り返した。彼は決して繰り返さないのに。

驚いたのは彼が繰り返し同じ言葉を述べたからではない。


まったく同じように聞こえてくる言語は、僅かなずれを生じただけで、ルイの発声と同じ抑揚とタイミングでそれは聞こえて、やがて聞こえなくなった。

・・・ルイの口からは美しいフランス語とイタリア語とドイツ語と・・・ヒカルの知らない言語が漏れていたはずなのに。

彼女の耳からは、滑らかな日本語が漏れていた。そして彼女に囁くように聞こえてくる音声は、みなすべて同じ言葉だった。


しばらくすると、待機を示す電子音がまた聞こえて来た。

骨伝導だ、と彼が言ったとおりで、本当に大きく鮮明に聞こえるが、他者には漏れない程度にも小さな動作音であった。

そこで察知した。


ルイが言語を変えて、同じ言葉を繰り返した理由がわかった。

そして大変な価値がある、と言った理由も。

この小ぶりのイヤリングは自動翻訳が内蔵されている。

しかも非常に性能が良いもので・・・世に出回ったら大変な価値になるであろう。

小型化されていてしかも完璧な性能を持っている。

まったく見た目にはわからない。

身につけていたヒカルでさえ、気がつかなかった。

呆気のあまりに目を見開いたままのヒカルに、彼は冷笑した。

「知性が足りない顔をするな。どこで誰が見ているか判らないから」

「ルイ・・・・これはどういうことなの?」

彼女は酷く驚いていた。

くすり、とルイが声を漏らして笑う。まったく気がつかなかったと顔に書いてあるヒカル・クロスの表情がとても幼く、無防備だったからだ。


・・・迂闊なヒカル。少し考えればわかるものを。

しかし彼はそれは言わずにおいた。

気が進まないが、種明かしをしてやることを約束したので、彼はゆっくりと説明を始めた。


「・・・シャルルは薔薇の品種改良の他に、もうひとつ趣味があってね。

・・・小型化された通弁受信機を開発していた。アルディ家の文書保存サーバには、開発時のものから最近のものまで・・・随分と設計書が残っているよ。最近はまったく手を着けていないがね」

「翻訳機・・・・・・・」

ヒカルは少し眉を寄せた。

「思い当たるだろう?・・・忘れてしまったか?

ヒカルがフランスでの生活に早く馴染めるように・・・もっと改良されたものを身につけさせていたはずだから」

彼女はあっと声を上げた。

アルディ家では日本語使用が徹底されていたが、それでもフランス語の習得は必要だった。

彼女の教育係であった、シャルルの従妹は丁寧にヒカルの言語習得に尽力してくれたので、それほど苦労しなかったが・・・最初はどうだったのだろうか、と思い返すと、確かに思い当たる節があった。


耳にイヤリングをつけて・・・お姫様ごっこだと言われていたが、そこからは流麗な日本語とフランス語が同時に聞こえていた。

徐々にフランス語の割合を増やし、翻訳率を下げて、耳に慣れ親しむようにしていったことを思い出す。

・・・そして彼女は言語をついに自在に操ることが出来るようになった経緯を思い出していた。


彼は気怠げに車内の天井を見上げた。

「いつか・・・いつか、日本語しか話せない女性が自分と一緒にパリで暮らしてくれるだろうと愚かな願いを持ち続けて・・・彼はイヤリング型のそれを開発し続けた。何種類も。

・・・・世界を巡って最後は月まで行こう、と。

彼は彼女に約束したそうだ。

世界を巡った時に。

アルディ夫人となった時に。

言語取得が間に合わないだろうと予測していたんだろうね。

・・・・だから何カ国語も翻訳できる最高のICを開発した。それはそのうちの一つだ。

・・・・最近、日本語を忘れがちな娘のために、それを渡した、というわけだ」


どうしてシャルルが彼女に哀しそうな顔をしてこれを渡したのかを思い返していた。

シャルル、とヒカルは小さく呟いた。

彼は様々な思いを秘めて、彼女にこれを託したのだ。

いつかそれを身につけてくれるであろうという人物の娘に渡したとき。

彼は一体、何を思っていたのだろうか。


「愚かなヒカルが途中で退場するとは思わなかったのだろう。

これは訳する言語をいくつか選ぶことが出来るようだ。

・・・無音時間が長かったり、翻訳する対象言語を受信しないと待機状態が長く続くと勝手に電源がオフになる。

だから、フランス語と英語しか使用しなかった今日の会合では必要のない代物だ」


それなのに。シャルルは随伴しなかったのに。

彼女のために・・・長らく睡っていた耳飾りの使用許諾を出した。

あらゆることに予測ができるシャルルであったが、傍に居てやれない時には予測することができない。彼はいつもそうこぼしていた。


「わかっただろう?・・・ヒカルには無用の長物だ。

だから、それをオレに渡せ。それなら・・・共にアルディ邸に行ってやる」


彼はお喋りが過ぎたと言って眉根を寄せた。

一日に使用する言語量を決めてしまっているようだった。

黙って・・・シャルルのために今にも泣きそうな顔をしているヒカル・クロスを見ていると・・・彼はどうしても・・・平穏で居られなくなる。

「ヒカル。俯くな」

彼は苛立ちを含んだ声で目の前の茶色の瞳の少女に声を出した。


目の前で繰り広げられている彼女の葛藤はわかりやすかった。

シャルルの大事な品を渡すことが出来ない。

しかしそうでなければルイは戻らない。

どちらを優先させるのか・・・・彼女次第だった。

ヒカルの返答によって次の手を変更する。

彼は黙ってその時が来るのを待っていた。しかしそれほど長い時間は用意していない。

・・・・ヒカルの行動だけは、彼は待つことが出来ない。

小型化されているとは言えども、それは大変に重量のある品だった。だから両側に負担をかけないようにというシャルル・ドゥ・アルディの配慮であった、「軽い方」の飾りを、ヒカルは差し出したのだ。

彼が渡せ、と言った反対側の耳飾りを、手の平に乗せてヒカルはルイの目の前に広げた。

「左右の区別も忘れたか」

彼が呆れて言うと、ヒカルは茶色の髪を揺らして首を振った。

■Trick OR・・・ L-side 13


彼はふいと横を向いた。

恐ろしく整った、シャルルと良く似た顔を運転席に向ける。

「予定通りに。アルディ邸には寄らない」

変更が加えられなかったので、あえて言う必要もなかった。

が、ヒカルの決断を促すために、ルイは意図的に運転手に指示を出した。


「ルイ・・・・ルイ」

困り果てたヒカルが彼の名前を呼ぶ。

「オレはヒカルに予定を合わせるつもりはないよ」

ルイが素っ気なく言う。

人混みの多い場所から戻るときには、彼はいつも少しばかり不機嫌だった。

彼の容姿や功績を称えて、皆が彼に取り巻いているのに、どういうわけか、これが心地好いと感じない。

賞賛される度に・・・気持ちが高揚するどころか虚脱を感じる。

特に・・・彼は本日の予定を大幅に修正してしまった。目の前にいる愚かしい娘のために。


変更ではない。修正だ。


彼の未来はすべて予定されたものであり、彼の人生はそれが尽きるまですべてが想定済みの軌条の上に在る。


「ルイ・・・」

「ヒカル。オレが・・・滅多なことがない限り、言葉や予定を覆さないことを知らないようだね」

彼女は口ごもった。彼女が知らないわけはない。アルディ家に長く住む者が、薔薇の一族の修正を知らないとは言わせるつもりはなかった。

・・・ヒカルは人前では泣かない。

ましてや、泣き顔でアルディ邸に戻れば、当主が激昂することを知っている。

それなのに・・・ルイのことは知らない。彼が何を考えているのか想像すらしない。

ルイは溜め息を漏らした。失望の溜め息ではない。嘲弄のそれだった。


必然も偶然もいらない。

彼に必要なのは、確然だけだった。


・・・・・やがてヒカルがゆっくりと白い腕を上げた。

そして、彼女は耳元に指作を伸ばす。


・・・しかし、彼女が外して彼に差し出したのは、先ほど渡した耳飾りと逆の耳に乗った飾りだった。

「ヒカル」

自分の為だけに何かをする、というのはシャルル・ドゥ・アルディをはじめとして、あの家の一族には、あり得ないことだった。

滅私の精神なのだろうか。それも少し違う。

ルイの祖父や曾祖父はそうでなかった面も多く現れていたようだったが、それはルイがこの家のものを「澱んだ病んだ血族」と定めるには十分な事実だった。

多情で、多くの不特定多数の者と関わりを持とうとする。

そういった因子をすべて排除されてルイはこの世に生まれて来た。

それでは、彼の中に残ったものは何だろうか。

・・・シャルルのように。彼らの祖先のように。

精神も肉体もすべて瞞してでも、たったひとりだけを激しく求める心なのだろうか。


「オレの話が耳に入らなかったのか?」

ルイは苛立つ口調をそのままにヒカルを青灰色の瞳で睨んだ。

玲瓏極まりない彼の美貌がきつい空気を孕む。

その視線を見れば、誰もが「凍り付くような視線」と言うのだろうが、彼女はそれに動じることも臆することも凍り付くこともなく・・・茶色のあたたかい瞳で、彼を見つめていた。

桜色の塗れたような唇が・・・ゆっくりと動く。

このまま・・・どこまでも。空までも。月までも。そして海底までも連れて行き、彼女の苦悶の表情さえ奪い去りたかった。

彼は誰かに何かを与えることが出来ない。奪うことしかできない。


そんなルイに、ヒカルは言った。顔を上げて・・・そしてルイにそれを差し出した。

彼はそれをつまんで、つまらなさそうに眺めた。先ほど観察したものとほとんど変化はないものであるが、その価値は、彼にとってはないものに等しかった。

これが唯一絶対であるという付加を備えているかというと、そうではなかった。

対になってこそ、それは効力を発揮する。もうひとつの・・・希なる高い価値をもった、まったく同じものと一緒にあって、それは始めて値打ちを増す。

それは・・・彼の教育係のようであり、ルイ・ドゥ・アルディのような飾りであった。

・・・もうひとつと一緒にいなければ、それは存在価値がないと言われ続ける存在だった。


それでもヒカルは、ルイ・ドゥ・アルディの無言を破って、彼に語りかけた。


「これを託す」

「それは内蔵装置がない側のものだ」

わかりきっていることなのに、ルイは言った。そしてヒカルがそれを承知しながら差し出したことも。


「わかっている。

・・・・でも、これは受信はできても、送信はできていない。

だから不完全だ。

・・・ルイがこのもう片方に、装置を付ければ。これは送受信が可能になる。

・・・聞くだけではなく、今度は翻訳するための音声を発することができる。それを聞いて復唱すれば聞いた同じ言語でもって会話することができる。

・・・一方的ではなく、誰かと何かを伝え聞くことができる。

それを実現するのは、ルイだのだと思う」


「ヒカルはシャルルが不完全だったと言っていることに気がついているのか?」


「彼は不完全であるから完璧であろうとする。それが彼を完璧にしている」


ヒカルは短くそれでもはっきりと返答した。

いつもは小さく・・か細い声でしか反論しない娘は、彼女自身ではない他者のことになると、とたんに気強さを見せる。特に、シャルル・ドゥ・アルディに関しては・・彼女は揺るぎない絶対の信頼を持っていた。


・・・愚かなヒカル。彼が、それほど多くはヒカルに見せていないことを知らない。・・・憐れんでやるよ


彼はそう思いながら苦笑した。ヒカルに今、それを伝えても彼女は信じない。

謇諤というものは、疑念という言葉を知っている者だけに対してでしか有効でないことをルイ・ドゥ・アルディは承知していたから。

ルイ・ドゥ・アルディが告げる言葉に虚偽はないと思っていても、彼女は最終的にはシャルルのことだけを念頭にいれて判断する。そういう愚かな少女だった。

自分の意志で動いているようで・・・結局の所は、ファム・ファタルの面影を求めて彷徨うアルディ家当主の意のままであることを、自覚していなかった。



彼は細く長い指先で、ヒカルが差し出した飾りを手に取った。

ずしりと重たかった。それは先ほどの耳飾りより少し軽かったが、それでも十分に重い。

・・・ヒカルのような年若い少女が身につける品ではなかった。そして彼女はそれを十分によく理解して承知していた。

だから・・・首飾りもグローブも身につけなかった。それではもう肌が粟立つ季節だというのに。

・・・彼女は耳飾りに注意がそれて、紛失してしまうことを畏れていた。

集中できないものはすべて身につけなかった。

それが・・華奢な瑞々しい美しさを引き出していたことは経産に入れていなかったようではあったが。


彼は薄く嗤った。だから、ヒカルの申し出が少しばかり意外で、想定外ではなかったが、決して彼女が思いつかないだろうと思っていた可能性が、今目の前で実現されていることに、苦い笑いを浮かべていた。

「良いだろう。・・・しかしヒカルの持っているそれと対にならなければ送受信できない装置になる。それを・・・ヒカルは代案として提案するということなのか」

「代案ではない。それしかないと思うから。

・・・シャルルを補い、ルイ・ドゥ・アルディはそこにあるものを更に発展させる能力があるから。

それなら・・・シャルルもルイにしか備わっていないものがあると思ってくれるでしょう」


「哀れみは必要でないよ。・・そしてオレのことをヒカルが考えることも必要ではないし、オレの未来やシャルルとの間柄をヒカルが決めることは出来ない」


ルイはそう言って、深い溜め息をついた。

彼女は秀抜している能力を備えていない。アルディ家に求められるのは・・・個々人が持つ希なる才か、肉体に備わる特質のどちらかしか必要としていなかった。

彼女はそのどちらが・・・自分がアルディ家の薔薇園で生きていくために必要であるかさえ、まだ、知らなかった。


間もなく、ヒカル・クロスの特異な性質について、明らかになるときが来るだろう。

それは近い必ず訪れる将来であり、遠い未来や実現しないことではないはずだった。


しかし・・・彼と彼女が対になる時期は、まだ、訪れない。

■Trick OR・・・ L-side 14


ヒカルの思いあがった感覚を戒めることはやめた。

彼はそこまで誰かと深く関わり合いになることを望んでいない。

・・・誰かを理解する必要もなかったし、誰かを理解する努力も必要ではなかった。

もちろん、誰かに理解されるということも同じだ。


「彼は受信装置しかできなかった。・・いつも自分が傍らに居ると思っていたから。

でもそうしていられない時もある、と彼は言っていた。

だから、それが本当は片方だけの機能では人と人の関わり合いには不足している要素があるということを知ったと思う」


ヒカルがここで言う「彼」という言い方に、ルイはきゅっと唇を噛んだ。

シャルルを否定するような言い方をしたヒカルには、シャルルの思い人に対する感情が込められていた。

・・・彼女の母にあたる人なのに。シャルルと一緒に生きていくことを、その人物が選択したのであれば、今、ここにヒカル・クロスという人物は存在しない。

それなのに、彼女はシャルルとその人との関係について・・・少なからず何か思うものを感じている。


「ヒカルにしては、随分と棘のある物言いだね」

ルイは静かに言った。彼女の温度の残る耳飾りを・・・彼は手の平で弄んだ。

ルイの命はこの耳飾りと同じだ。

元々あるアンティークに手を加えて・・・一見すると何も変化のないものであるが、内には大変な機密が睡っていることに誰も気がつかない。創られたものであることには変わりがない。それを覆っているものは古から存在する宝玉であるというのに。

どんなに美しいと誉めそやしても。どんなに素晴らしいと言っても。それは所詮外貌でしかない。


彼女がここで陶酔感に満ちているわけではないことはわかっている。

シャルルと彼のファム・ファタルの話を聞いて、それで穏やかでいられないほど・・・彼女の何かが変わり始めていることに、ヒカルがまだ気がつかないうちに。

ルイは次の行動に出ることにした。


「ヒカル。オレにこれを託して・・・後悔するなよ」

彼女は淡く微笑んだ。そんなことはない、と言った。

「シャルルとルイでそれを対にして完成させる。これほど・・・素晴らしいことはない」

「しかしヒカルはそれで転貸することになる結果を曲げることはできない」

「きっと話せば理解してくれると思う。紛失したり、壊したりしたわけではない。同じアルディ家に住まう人がそれをより良いものにしてくれるのであれば、それはシャルルは何も言わない」

「随分な自信だね」

「だって」

そこまで言うと、ヒカルは先ほどの淡い仄かな微笑みから、満面の笑顔になった。

寒さの中でルイを待っていた時に頬を赤くして待ち続けたときと、同じ頬の赤さだった。

「シャルルの事を信じているから」

それから、慌てて彼女は付け加えた。

「もちろん、ルイの事も。・・・・・ふたりは、父子だから」

ルイは冷笑した。耳飾りをポケットに入れて薄く嗤う。


「・・・・根拠が成立していないよ、ヒカル」

確かに、ルイのセーフハウスではそれを改良するための設備が整っていなかった。

どこかの施設を借りれば事が足りるかもしれないが、機密重視について厳しい姿勢を崩したことがないルイにとっては、この車内での話が漏洩することは不本意他ならなかった。


ルイは外を眺めた。

暗い車外の流れる景色のあちらこちらで、今宵の宴の名残である飾りがまだそのままにされていた。

ヒカルの申し出や言い分を聞き入れる必要はない。

けれども、それを譲れ、と言ったルイの言葉に遵った結果になった。

・・・気に入らないな。

ルイは心の中で呟いた。

彼女を動かすものは、いつもシャルル・ドゥ・アルディだからだ。


「Trick or Treat 」


ヒカルが同じように外の景色を眺めながら、ぽつり呟いた。

無邪気に叫ぶことは出来なかった。

・・・・・そういえばパーティーの帰りだということに気がついた。


そして・・・彼女は空調の効いた車内でぶるっと体を震わせた。

ルイの目の前でまたその上着を身につけることはもうできなかった。


彼は・・・・ヒカルの先ほどの言葉に分析を加えることなく聞き流した。

ほんの少しばかり憤りを含んだヒカルの言葉の意味を知っていたはずなのに。

シャルルの愛を受け入れなかった人が居る。

それは選択のひとつであるけれども。

彼が哀しそうに・・・耳飾りを身につけたヒカルを送り出してくれたことを考えると胸が痛かった。

彼はわかっていたのだろう。

翻訳するだけでは・・・駄目なのだと。

そしてシャルルや日本語を解するものがいつも傍にいるとは限らないということも。

わかっていたのに。

そしてそれを作っても、もう身につける人は居ないのに。

薔薇の改良と同じように、誰に見てもらうでもなくシャルルはそれを開発改良し続けたのだ。


長い年月が経過した。

そして今夜は・・・・ヒカルはシャルルでもルイでもない人物とともに夜会に出掛けた。


ルイは一度胸に納めた耳飾りを取り出し、ドレスシャツの身頃の内側の隠し筒にそれを入れた。

そして上着を脱いで、ヒカルの膝に投げ落とす。

ふわりと・・・ルイの香りが漂った。それから誰か女性の香りもした。

・・・・今夜一緒だった人が彼に傍近く居たことを示していた。

しかしヒカルが顔を曇らせたのは、そのことではない。

彼が本当に愛する人と一緒に居るのであればそれは喜ぶべき事なのだと思う。しかし。

家族の残香というものは、普段はまったく意識しない。

シャルルは薔薇の芳香の成分を調べることもあったので、そう言った改良研究に携わるときには強い香りを身につけなかった。

それなのに・・・ルイの香気を感じる。これは、いつも一緒に居ないからだ。

いつも彼がアルディ邸の本邸に居ないからだ。



彼の衣装はヒカルのドレスに良く似合った色だった。

彼女が丁寧に畳んだ上着とは違った色味だった。

ヒカルは彼の上着を受け取ると、ありがとうと言った。


「今夜はハロウィンだ。着ろ。許可してやる。・・・・だから、これは施しでしかない」

彼女に与える菓子はない。しかし・・・・彼女は自分の大事なものを差し出した。

結局、何かが解決したわけではないのに、彼は彼女の願いを叶えてしまう。けれども。

ルイは当初の目的を果たした。これを改良して世に広めることはしないが、シャルルよりルイが優れているということを示す材料にはなるだろう。

・・・・シャルルは今でも親族会では日本語しか話さない姿勢を貫いたままだった。

大変な親日家として名の通ったアルディ家の者は大抵の言語を操ることが出来るが、日本語で話せ、と言われると難色を示した。

当主が日本語しか話さないことは解決できる。

この耳飾りに内蔵されている装置ががあれば、日本語習得について拒否する齢の者も納得させることができる。

しかし、日本語で話せと言われると、彼らは生国をこよなく愛しているが故に、それを拒否することもしばしば見受けられた。

アルディ邸の中では快適に過ごしているヒカル・クロスもそろそろ現実と向き合っても良い年頃なのに・・・・シャルルは彼女を秘匿することばかりに執心する。


「・・・・アルディ邸へ」

彼は口重く言った。


「ルイ・・・・・ありがとう」

「ヒカルの為ではない」

ルイは苦笑した。彼女はどうしてこうも自己中心的なのだろうか。

それでも・・・・彼女はルイの上着を羽織り、嬉しそうに彼に微笑む顔を見ると、彼の肌寒さは徐々に薄れていくように感じる。


「・・・・ずっと日本語で話していたから気がつかなかった」

彼女はそう言った。耳飾りのことを言っているのだ。


「ヒカルの従兄はそれほどよく、彼の叔父と似ているとは思えないけれど」

彼女は曖昧に笑った。

このほど要請があって、随伴したのはクロス家の跡取り息子だった。・・・・カズヤ・クロスと良く似た風貌だということで、彼の祖父にあたるクロス・グループの総帥に大変に気に入られているという。

「叔父と甥だしね。・・・・似ているところもあるでしょう」

ルイは失笑した。

彼の叔父は遺伝学的には父と同じ遺伝子を持っているので、親子に近い。

けれども・・・どんなに良く似ていても、魂は似通わない。


「それほどまでに酷似しているのであれば、アルディ家当主が会いに行かないということもないし・・・・今般の問題は解決に乗り出すまでに至らなかったはずなのに」


だからヒカル・クロスが呼び出され、ルイ・ドゥ・アルディが赴いた会合は、世の中の催事と片付けるには大変に重責のある宴となった。


「彼を見て、最期の父の顔を思い出したか?・・・・そうでなかったから、ヒカルはアルディ邸に戻ると言い張っているのだろう」

ルイがそう言うと、ヒカルは眉根を寄せて、深く溜め息をついた。喜怒哀楽に乏しいわけではないが、彼女は滅多なことでは哀の表情を見せることはしない。

ルイの前では良く見せる表情であったが、こうして苦悶する貌は滅多にないことだった。

・・・・彼女は本当の苦しみをまだ知らないから。


ルイの言っていることは正解だった。

彼の貌を見ても、父への記憶を蘇らせることはなかった。気立ても良く、普段疎遠であったヒカルとパリでこうして会えることを純粋に喜んでいた。しかし・・・・家族であるという強烈な引力を感じなかったのだ。だから、ヒカルは早々に退室して、彼の元を離れてきた。

それより気になったのはルイ・ドゥ・アルディが邸に戻らないことだったから。


「血が通っているだけでは、家族にならないということがわかっただけだった」

ヒカルはぽつりと言った。

「いろんなことを否定するつもりはない。けれども、彼は遠かった。父を思い出すこともなかった。シャルルの言うとおりだった。・・・・でも逢って良かったと思う。それを知ることが出来たから」


傷つくことがわかっているのに、行かせたのか。

・・・シャルル・ドゥ・アルディらしくないな。

ルイは金の髪の下から、青灰色の晄で、彼女を見つめていた。


つかまえたと思うとすり抜けていく。追い出すと戻ってくる。・・・行かないと言うと来いと言う。

彼女はまったく矛盾している人物だった。片意地を張るヒカルはとても稚拙に感じる。


しかし・・・・

■Trick OR・・・ L-side 15


しばらくの間、二人は無言だった。

ルイの上着を抱き締めるように肩に合わせるヒカルの様子を、ルイはじっと見つめていた。

実父を彷彿とさせる温もりの衣より、ヒカルはルイの上着に温度を乗せる。

家族の温もり、というものにヒカル・クロスが蓄念を捨てられないのは、明らかすぎることであった。


今般の件は、シャルルが彼女に何かを伝えたいがために、随行しなかったのだと思うと、欣快であった。

そしてこれを機に彼女はパリに居続けるべきか、日本に帰るかという選択を未だ行っていないことについて問題意識を持つだろう。

シャルルはそこを狙ったわけではなかったが。

彼によって与えられた機会が、ルイによってすり替えられた。シャルルはクロス・グループとヒカルが昵懇であることを世に知らしめるために彼女を送りだしたと言うのに。

越えられない溝があって、それは、すぐにはそれを埋めることができないのだということがあからさまになっただけだった。


当初の目的から進路を変更して、車は静かにアルディ邸のエントランスに入っていくために門をくぐった。

白い砂利を踏む音がした。

ヒカルは淡く灯された晄の色に見覚えがあるものであることを確認すると・・・・それほど長い時間留守にしていたわけではないのに、とても長い旅路から戻ってきたような気がする。


「・・・・私はここに、居たい」

丁字路にさしかかったここから先は・・・ヒカルの赴く本邸と、ルイが進む別棟ででは入り口が違った。それを知っていた彼女は、慌てるように・・・時間を惜しむようにそう言った。

堰を切ったように、彼女は早口で黙ったままのルイに告げる。

しばらくぶりに会うルイ・ドゥ・アルディはヒカル・クロスの申し出によって・・・彼が同伴した相手より優先して彼女の申し出に応じた。


それが、ルイ・ドゥ・アルディの意中の人に対してヒカルが彼らの仲に水を差すような行為をしたのではないのかと、彼女は気が気ではなかった。


「私はここが良い。ここに居たい。ルイの香りを意識しないほどにいつも一緒にいたい。

・・・・・ハロウィンの宴に行くのではなく、ここで催しに頭を悩ませたい。

言語の違いに困る夜を過ごしたくない。どんなに・・・どんなに自分と血が繋がっていても、それが一緒に居たいという理由にならないことを知った・・・・・」


そして彼女は腕を伸ばした。ルイの手の平に向かって。

空調によって暖まりきらなかった冷たい指先が・・・彼の冷たい指に触れる。

許可もなく彼に触れることが出来るものは誰も居ない。

それなのに・・・・ヒカルはルイに触れる。

指先から・・・冷たいはずの指先から温度が伝わってくる。

震動がもたらす熱がルイの血温度を上げていく。


「・・・・ルイと同じエントランスから、出入りしたいよ」

ルイ・ドゥ・アルディはヒカルに気がつかれないほどの僅かな晄の点滅を見せた。

彼の瞬きは流星のようだと言われている。

星辰の子は・・・星の瞬きさえも支配すると言われた。

しかし、この永遠の晄という名前の少女の前では、彼の瞬きさえ・・・・星の煌めきのひとつにしか過ぎなくなる。


「Trick OR・・・」

ヒカルが掠れた声で、ルイに低い声でそう言った。

「菓子はいらない。でも・・でも、何かをちょうだい。それなら誰も文句は言わない」


彼女はシャルルのことを言っているのだと思った。


・・・ヒカルが余興で得た約束なら、シャルルはノンとは言わない。

・・・それがルイを別邸を定宿とさせることを許諾する約束だとしても。


「今宵はハロウィンだから。

・・・・・いついつまでも色褪せない・・・・その耳飾りの宝玉のような何かをちょうだい」


彼女はものをねだることはなかった。

何かを希望することもいけないことだと信じていた。


それなのに。

それなのに・・・・ルイには囁く。


彼女に何かをもたらせ、と。


「ヒカルは空回りしていることに気がつかない」

ルイが静かに言った。

その時に、車は震動を伝えずにゆっくりと停車した。


「・・・オレにはファム・ファタルはひとりだけだ」


彼は静かに言った。


ヒカルが茶色の睫を上げた。

兄にもなれない。

家族にもほど遠い。

そんな彼女に向かって、述べる言葉でないことはわかっていた。


けれども。

けれども・・・・・


ルイは下を向いたまま、金の睫を伏せて、溜め息混じりに言った。


「それは今、与える必要がない」

彼は言った。

彼がもたらしたものについて、シャルルは断ることが出来ないのだろう。

・・・・ハロウィンの宴にヒカルが出ることを認めたから。

彼女が持ち帰ったものを彼は否定できない。


「しかし、近日開催される親族会から・・・送受信機能を充実させた、通訳という人的要素を必要としない会合を実現させよう。・・・・そしてそれは、ルイ・ドゥ・アルディの功績だと。おまえが証言することになる。ヒカル・クロス」

彼は短いけれども低いけれども、はっきりとそう言った。


・・・・彼女との繋がりは、こういう利害関係でしか明らかにすることができない。

シャルルとヒカルの間とは違う関係でありながら・・・希薄にしてそのまま断ち切ることが出来ない。

なぜなのか。

彼はずっと、考え続けている。

・・・・最初に彼女に逢った時から。それについて考えている。


理由を作らないとヒカルに逢えない。

理由を作らないとヒカルに触れられない。


・・・それなのに、そういう関係になることはやめようと、彼女は言う。


それなら。

それなら・・・・ルイ・ドゥ・アルディはどう動いたら、ヒカルの唯一の晄になるのだろうか。


そこれで彼は冷笑した。


彼女は黎明の晄であり、ルイ・ドゥ・アルディは星辰の子だ。

星の晄は・・・永遠の晄とは異なる。

それなのに、一緒に寄り添えというヒカルの申し出が・・・この上なく愚かしいことだとわかっているのに。

それなのに、彼はそれに完全否定することができない。


「・・・・行け、ヒカル。まだ、オレはここから本邸に入ることはない。

IDチップがオレの入邸を拒むからだ。・・・それをシャルルが解除しない限り、オレは正面玄関から家人として入ることはない。・・・・・それを実現するために、この耳飾りでもってオレはオレであることを知らしめよう」


行け、と彼は嗤った。

そして、エントランスに到着して、静かにヒカルの側の扉が開くと・・・彼は乗車したまま、顎を持ち上げた。

出て行け、という合図だった。

ヒカルに上着を渡したのに。

彼女が彼女の血族より薔薇の一族を選んだことを確認しただけだった。

・・・・・星辰の子は永遠の晄を遠ざけた。


「行け、ヒカル。そして沙汰を待て。

・・・・しかし忘れるな。

オレは誰にも心を動かされない。

誰も愛さない。

だから、ヒカルを愛してやらない。

けれども・・・おまえが誰かを愛することは許可しない」


春夏過ぎて、秋冬過ぎても・・・彼は彼女を許さない。

アルディ家の者ではない・・・自らの血族を、一度は選ぼうとした彼女のことを。

上着はあとで返却します、と小さく言ったヒカルを・・・ルイ・ドゥ・アルディはもう視界に入れていなかった。


しかし・・・彼女が車外に出たときに、香りがした。・・・ヒカルの匂いだった。


・・・ルイにヒカルが感じたように。ヒカルの気配を・・・ルイは感じた。

これほどまでに遠い存在だと認識しているのに、彼女は近しいと言った。

互いに互いの香気を感じないほどに近くに居るということではないのに。

それなのに・・・・ヒカルはこの家が良い、と言った。


明ける夜の気配を知らせる空気を運んで、車内に冷気を含んだ外気が入り込んだ。

ヒカルは・・・迎えの者に従って、背を向けていた。

茶色の髪が背中で揺れる、瀟灑なドレスの裾が目に入る。

・・・・彼の同伴した者の衣装すら記憶することをやめてしまったのに。

彼女の衣は・・・ルイの記憶にいつまでも残ることとなった。


無性に煙草が吸いたくなった。

彼は教育係に・・・そろそろ公的な喫煙の許可を得ないといけない、と思った。


ヒカルの華奢な背中を抱く男が居る。

ルイと同じ容貌を持った・・・白金の髪の年上の男性に、彼女は導かれて・・・そして、どこに行こうとしているのだろうか。

アルディ邸に住まう者たちと家族になることか。

シャルルの・・・もうひとりのファム・ファタルになることか。

それとも・・・・それとも。


金の髪の星辰の子の傍らで・・・通弁機器など必要としない、館の夫人として君臨するのだろうか。


それはまだ、幾通りもある可能性のうちのひとつに過ぎなかった。


・・・・扉が閉まり、彼は少し離れた別棟の専用駐車場に向かうための移動に身を任せる。


・・・・誰も彼を満たすことは出来ない。彼は数多の星を随えるから。

無数の星が・・彼に集ってもそれは彼を充足させない。

しかし、果てまであまねく照らす永遠に輝き続ける晄は・・・彼を含めて、闇夜を照らす。


強烈な晄でもって。


・・・・そして、アルディ家に降臨した晄は、いったい、どこに行き着くのか・・・・・・・・


彼はそこで青灰色の瞳を綴じた。


・・・どうしてもその先を予想しなければならないという必要性を感じなかったので、思考を停止した・


・・・・今宵の余韻を味わう要素はなかった。眠れない夜明けに対し、挑戦するかのように・・・彼は隠しポケットから取り出した耳飾りの開発に尽力することだろう。


しばし、退屈な時間はなくなりそうだった。


彼女がもたらした・・・彼への捧げ物は、彼を憂かせることはしないのだろう。

その意味で言えば、適切な献上物だった。


彼女も、シャルルへの説明で・・・片方しかない飾りを目の前にして、苦悶する夜を過ごすことだろう。


ヒカルが・・・・ルイを思って、眠れない夜から朝焼けを見つめるまでひとり孤独に過ごせば良いのに、と意地悪く思った。

■Trick OR・・・ L-side 16


彼は精密機械を扱っているのに、煙草を無造作に口に銜えて、火をつけた。


かたん、とライターを硝子テーブルの上に置く。

じゅっと煙草に火が灯る音がして・・・やがて室内は白煙で満たされ始めた。


そして彼は物憂げな青灰色の瞳で、作業が終わったばかりの・・・鮮やかな果実を思わせる耳飾りの形をした送信機を眺めていた。


・・・塵埃防護のマイクロナノフィルタに囲まれた作業フィールドから遮断されているので、喫煙も構わないだろうという判断だった。


何が楽しいのかわからないが、こうして彼の叔父であり教育係であるミシェルは煙草を吸いながら思案に耽る。

・・・いつか、この答えがわかるのだろうか、と思いながら彼は紫煙の海でその香煙を弄ぶ。

これを習慣化するのはまだ先の話になりそうだった。


肺機能に甚大な影響を与えるとして、ひところ禁煙活動が活発であったが、その有毒成分を除去して・・・心肺機能を助勢するツールとして最近では医療分野での紹介論文が出回り始めた。


それも、医療機器の取り扱いで世界的なシェアを誇るクロス・グループが全面協力し、メディア部門では、ヒカル・クロスの伯母であるジャーナリストがあちこちの講演会で紹介しているからだった。

この開発も、アルディ家のメディカル部門で開発したものだった。


・・・・ルイはそれを口にし、目の前の完成したばかりの・・・翻訳送信機に電源を入れた。


晄と温度と振動で充電されるノン・チャージのそれは・・・・受信機なしに単体で使用できるが、受信機と対になることで「異国言語を受信し、それに対する変換を発声することができる」という画期的なシステムが登載されていた。


両耳に装着することで、送受信が可能だった。

ただし、自分が発した音声を翻訳することはできない。

それに相応しい発音が繰り返し、骨伝導音声として伝わるだけだ。

だから自分で何かを伝えたければ、その言語の発声を模声しなければならない。


しかし、それ以上の開発は進めなかった。

シャルルの残した最期の設計図を書き足して・・・それでサーバのファイル開示ウインドウにさらにパスを入れて閉じた。

これで・・・この機器についてアクセスする者が居ない限り情報は開示されない。


ルイの組んだファイル開示パスコードを破ることのできる人間は現在5本の指にも満たない。

彼の開発する研究内容に興味を示す人間ということで限定されるとなればもっと少なかった。

彼は目の前の・・・・宝飾品としての価値だけでも十分に備えた飾りを眺めたままだった。

何かを考えているわけではない。


ただ・・・見つめていれば、あの時の温度が蘇ってくるような気がした。

そんなことはあり得ない、と彼が一番よくわかっているのに。


・・・翻訳することが目的ではなくて、言語の取得が目的とされる機器であるから、これはこのままで良いという結論に至った。


・・・・あの後。


シャルルにヒカル・クロスがどういう説明をしたのかは不明だった。

しかし、その時のことは不問であり、翌日には、貸与先リストの名前がヒカル・クロスからルイ・ドゥ・アルディに変更されていた。


ただ、それだけだった。


彼女は相変わらず、クロス・グループとアルディ家の橋渡しを気取って、あちこちに・・・存在を知られないように気を配りながら外出している。

パリに滞在している邦人子女という名目で、時にはシャルルに随伴して夜な夜な出掛けている。

・・・そして日中は普通の学生生活を営んでいるので、相当に体調に影響しているはずだった。


それほど日にちは経過していないのに。

それなのに、ヒカルは・・・あの晩の事について、少しばかり思うところがあったようだった。


彼女が何かをしようとしても、結局は何ももたらさない。

しかし・・・ヒカル・クロスという人物が存在し、アルディ家に養われ、そして・・・いつか医療関係で大きな摩擦を生じさせるだろうクロス・グループとの間で良薬にも劇薬にもなるであろうという存在であることは、両者の間で意識統一ができたはずだった。


・・・今後、彼女の処遇を巡って、様々に、水面下で動き回る活発な動きについて、目を配らなければならなくなった。


ヒカルが、クロス家との繋がりを希薄だと思っていたとしても、それはヒカルの感想でしかない。

・・・あちらはそうは思わないだろう。

ヒカルの父と良く似た風貌の後継者と。ヒカルの母と良く似た風貌であり、アルディ家の後援を受けているヒカルの結びつきを望む者も出てくるはずだ。

・・・そして、彼女の秘密が、もっとはっきりとした形で世に明らかになれば。


覇権を巡って、バイオ・ライフサイエンスという分野で。

そしてもっと違う様々な分野で、彼女の存在を手中にしたいという影がちらつくはずだった。


・・・シャルル、時期尚早だと後悔するが良いよ


しかしこれ以上先延ばしでは遅く、これより早ければそれこそ尚早でしかなかった。

シャルル・ドゥ・アルディの判断は適切ではあったが、これにより、当の本人であるヒカルの心中は大きく・・・変化転換したはずだった。


ヒカルは。

シャルルに対し、彼が絶対と思わなくなった。

クロス家に対して彼女の位置がはっきりした。


・・・・次はルイ・ドゥ・アルディの番だ。


あの愚鈍で稚拙な少女を手に入れる為に、これから様々な準備手配を始めなければならない。


これもその一つでしかない。


・・・ルイ・ドゥ・アルディは目の前の・・・微妙な色に輝く宝玉を見た。


彼は動作確認を始めた。

尖った針穴ほどより小さい起動スイッチを入れると、小さな電子音を確認する。

起動ランプも取り付けなかった。

・・・まったく違和感のないようにというのが条件のひとつだったから。いくら特許の価値があるとはいえども、宝飾としての価値は下げられなかった。


そして彼は最初にエスペラント語で言った。

煙草を口に銜えていても、発音に支障ないことを確認するために・・彼は煙草を吸いながら、防塵フィルムの向こうで輝く送信装置に向かって、言語を発した。


・・・骨伝導は、耳骨に近い部分に装着して効果を発揮する。


そのとおりに震動するように音声を発すれば、その言語を取得していなくても、望んだ言葉を発することができる。


・・・・シャルルの受信機をあわせて使用すれば、会話を自由に行うことができた。

かつ、受信した言語にあわせて、発信した言語は自動選択される。

・・・今は、受信機は手元にないので、このテストはもっと後のことになるのだが。


しかし、今はテストモードだった。

大容量を消費するとわかっているが、彼が耳骨に装着して使用しても意味がない代物だったので、発声モードに切り替えてあった。

スピーカーに接続してあるので、細かい昆虫の複眼のようなスピーカーから音声が漏れてくる。


・・・最初はエスペラント語だった。

次に、アラビア語、ラテン語・・・様々な言語でテストした。

感度は良好だった。


どれも・・同じ結果を発生する。

流麗な翻訳後の言語はスピーカーから流れてくる。

僅かに・・・ラバーマットの上に置いた耳飾りが、震動した。

これによって、装着した人物に、正しい発声に関する震音が伝わる。

それを模倣して、発声すれば、良いというわけだ。

・・・そのまま耳飾りから放音したのであれば、それは会話として成立しない。


・・・・どの国を巡っても良いように。どの国で過ごしても良いように。


その願いは、実現されないから。

その願いは、実現されなかったから。


だから、取得目的のために・・・シャルルがかつて開発したように、同じ言語を記録するたびに、複数回同じ単語を記録すると、送信機は発声の翻訳割合を一定率で落としていくように設計されていた。


・・・・いつか。


いつか、星まで行こうと言ったから。


彼女を伴ってどこに行っても・・・彼女はいつも俯いて誰かの影に居ることは赦さなかった。


シャルル・ドゥ・アルディの傍らではなく、ルイ・ドゥ・アルディの足元に平伏す事を予定された、永遠の晄が・・・少しでもルイだけを見つめているように仕向けるために。


そして、ルイがシャルルを越えて・・・すでに当主たる資格を持ち得ていることを証明するために、次回のWEBシステム会議ではこの装置を起動さえたカメラマイクに変更することにしていた。


これで日本語に拘る当主の方針を覆すことが出来る。


・・・・彼は唇に銜えていた煙草を灰皿に投げ入れた。

どうも、紫煙を楽しめそうもなかった。


・・・この静かなアルディ邸に、戻れと言ったのはヒカルだ。しかし当主は別棟に渡って来ることも本邸にルイを招くこともしなかった。

そうであっても、ルイは研究開発を優先しているからという理由を口実にして面会を断るつもりだったのだが。


・・・・・ヒカルからは相変わらず・・・朝一番の最高の状態の薔薇が到着する。しかし彼はそれを受け取らなかった。

それは彼だけに捧げられたものではないから。・・・彼だけに・・・そう。あの時の耳飾りのように、彼女が何かを差し出すのであれば、その時はまた状況によって受け取りを考えるかもしれない。

しかし、朝に届けられる薔薇は・・・ルイにだけ寄せられるものではなく、シャルルという白金の髪の、この家の古主に捧げられるものでしかなかったから。

だから、受け取らないことにした。


ルイは・・・・完全遮音の、作業棟の一室で・・・完成したばかりのそれを見つめた。


「Trick(仕掛け)か、それとも・・・・」

その言葉を受信してスピーカーから予測変換を伴った音声が漏れた。

「Trick OR・・・ Treat」

それはヒカルが言った言葉だった。

ハロウィンの常句であるが、彼がヒカル・クロスを最初に見かけた時に感じた、耳飾りの仕掛けに対する興味は失われてしまっていた。

「Trick」彼はまた呟いた。仕掛け。

そうだ。いたずらという意味のTrickではなく・・・これは装置であり仕掛けなのだ。

彼がこれから先・・・・アルディ家に君臨するためのツールのひとつでしかない。



彼は言った。

「Trick OR・・」

それはテストのための言葉ではなかったので、それ以上言うことはやめた。



ルイは繰り返さないが、繰り返し同じ言葉を述べて、それが変換されるかどうかを確認しなければならなかった。

だから、ひとりでここに籠もった。彼は繰り返さないから。

人の目にそんな姿をさらすくらいなら・・・彼の誇りは彼の呼吸を止めてしまうから。



・・・・・・最後のテストだった。


あらゆる言語を翻訳できたが。

それは積極的動作確認という。

そうなることを予定されて確認を行うものだ。

しかし、そうならないことを予定された動作確認も必要だった。

翻訳してはいけないと設定した言語について、動作しないという消極的動作確認を行う。


・・・・彼はシャルル・ドゥ・アルディが、唯一、変換する必要がないとした言語を使用した。



対になることで価値を増す。

しかし、片方でなければ・・・それは意味を成さなかった。


日本語で。

彼女の母国語で。

彼は、言った。


誰も見ていなかったから。その時の彼の表情は・・・誰も知らない。

金の髪の青灰色の瞳を持つ、美貌の薔薇の精霊は・・・・この上なく美しい微笑みを浮かべていた。

彼は意識していなかったかもしれないが。

その言葉を繰り返すことが・・・彼に微笑みをもたらしていたことを誰も教える者は居なかった。

誰も、いなかったから。


ルイは静かに・・・・最後のテストワードを述べた。

先ほど繰り返し確認した単語だったが、それが翻訳されなければ。

・・・彼の中だけの言語で終わるのであれば、これは成功だった。


ルイの良く響く声は・・・静かな室内に響き渡った。



「オレのファム・ファタル・・・・・・・・・あいしているよ」



しかし、それに反応する蠕動は生じなかった。


彼は大きく一度だけ溜め息を漏らして青灰色の瞳を細め・・・・検収は終わった、と・・・・ひとり、呟いて、また煙草に手を伸ばした。


(FIN)



水月 前編

■01

 

水音がしたので、ルイ・ドゥ・アルディは脱ぎ捨てようとしていたローブにかけていた細く長い指先の動きを止めた。

縛めを解いた胸元を今一度合わせる。

彼はアルディ邸の半地下にある温水プールで筋力トレーニングの仕上げを行うところであった。

パリ16区にありながら、広大な敷地を有するアルディ家に揃っていない施設はないと言われている。それは階下の施設にも及び、これはそのひとつであった。彼のためにというよりかはむしろ、外出もままならないアルディ家の者たちや滞在者への配慮から設置されたものであった。

半地下と言っても、湿気の多い室内が無粋に見えないよう窓硝子は二重に張り巡らされて曇り止めが施されていたし、そこから射し込む陽光や月光の絶妙さは訪れる者すべてが感嘆するところであった。

 

彼がここを使用するのは、フェンシングと乗馬では鍛えられない部位を整えるためだ。

彼の締まった躰は均整が取れていたがそれは長年の努力によるもので、無駄な肉はひとつとして存在しない。

生まれつき恵まれた体軀であることは間違いなかったが、それは意図されて組み込まれたプログラムのひとつでしかなかった。

彼は選ばれた種として、ジーン・リッチ(注 リッチジーン、デザイナーズ・ベビー 等複数の呼称がある)として生まれて来た。

滑らかな肌に、小さい腰、長いが筋力の機能を最大限に活かす大腿や両腕、太くなりすぎない首の上には、恐ろしく整った顔が乗っていた。高い鼻梁に左右対称の耳、精悍な頬から顎にかけては、あのフランスの華の若い頃に酷似していた。

青灰色の双眸は高い知性を備えており、金の髪は入水前のシャワーによって湿っていたが、それでも輝くばかりの晄を放っている。

彼は星辰の子と呼ばれている。数多ある星々や天体を遵える者という意味であった。

まさしく・・・彼はそのとおりの人物だった。古の歴史が彼を生み出した。オリヴィエ・ドゥ・アルディの再来とも言われているルイ・ドゥ・アルディは、この家の為に生まれて来た。

彼の望みはただひとつだ。

・・・シャルル・ドゥ・アルディを失脚させて、頂点に上りつめること。

彼には戸籍上の母も父も居るが、それは彼に何ももたらさなかった。

彼は彼の叔父を教育係として、世間一般の者たちの過程を経ないで今日に至る。

 

だから、このアルディ邸は彼の生家であるが、彼には別棟があてがわれて、滅多に実父と顔を合わせることはない。

彼は・・・父は、ひとりの少女の養育に夢中であった。

彼の親友を父に、彼の運命の女を母に持つ永遠の晄という名前の少女を・・・慈しみ愛し溺れている。

それは慈愛という名前の傲慢な強制でしかなかった。強引に生国から彼女を呼び寄せて、そして現在も決して解放しようとしない。

何もかもが澱んだこの家で、彼女は表面ばかりの疑似家族愛に浸っていた。

その芝居じみた空気が彼を汚染するのを厭って、ルイは常に別棟に籠もり、そしてこの家の者たちと関わりあいにならないようにして暮らしている。できるだけ外泊し、先頃にはようやく個人の動産と不動産を取得することができるような年齢になったので、そこに入り浸ることがほとんどであった。

憐れな愛翫人形のヒカル・クロスには、シャルル・ドゥ・アルディはなんと言っているのか想像がついた。

彼は・・・・・彼は孤独は労苦と思わない。けれども、あの愚かな少女に憐れみを持たれることが最も大きな貶みだと思っていた。

 

茶色の髪の、茶色の瞳の少女は、いつもルイに接近しようと画策している。それは透けて見えるほどに容易にわかった。

だから、彼はできるだけ接触しないようにしていた。

彼はちらりと・・・青灰色の瞳で、周囲を注意深く見渡した。入水している時が一番無防備だからだ。

だから彼は身辺警護が万全であったとしても、人の居る場所では滅多なことがない限り、肌を晒さない。

先頃、教育係のミシェル・ドゥ・アルディが狙われた事件があった。

報道機関には開示を制限するように手配されたが、それでもアルディ家の当主の実弟でもあり、その業界では彼の功績を知らない者はいないほどに大きな影響を与えているミシェルへの襲撃事件は、一族を震撼とさせた。

ミシェルはフランスの華と同じ遺伝子を持つ。一卵性双生児だからだ。

そのミシェルは、シャルルの代理という役割だけではないと認識せざるを得ないからだ。

彼がなぜ、そのような屈辱的な立場に甘んじているのかは、本人しか知らないことであった。ルイには興味がないことだ。

彼を「実験だ」と言って様々な教育を施し、アルディ家が選んだ種が本当にシャルルを越えて、世の奔流に耐えうるほどに優れているかどうか・・・常に試験し続ける叔父の所行について、ルイは非難する立場にはない。

 

誰も入ってはいけないという場所に入り込むことのできる許可権限を持っているのは、この家の当主ともうひとりだけだった。

今は、アルディ家には滞在者はいない。かつてのように、自由に邸内を行き交わせることもなくなってしまった。

それは、ルイ・ドゥ・アルディという存在と、もうひとり・・・シャルルの掌中の宝玉だけであった。


 

■02

 

もう、深夜に近かった。月は高く昇り、下っていく機会を窺っている時間帯である。

彼は吐息をついて、歩き出した。

この施設に電源が行き渡っているということは使用者が存在することだ。

会いたくない人物に会う。

これは苦痛でしかない。

しかし、彼以外に誰も使用しないと判断したルイの責にあると思った。

彼は無言のまま・・・素足を前に出した。水音がする、水面を浮かべる池というのは大きな水槽に向かって。

彼はそこで魚になる。何も考えずただ、揺らめく。

この家では、水にまつわる会話はしてはいけないという暗黙の約束がある。

当主の愛した運命の人と、親友であった運命の人の伴侶は、フランスの海に沈んで戻って来ないからだ。

そして彼らを両親とした遺児がここに存在する。

・・・ヒカル・クロスだ。

彼女は様々な手続きを経た上で、今、この場所にいる。

誰よりも。

誰よりも・・・シャルルに愛される娘は、決して水に近寄ろうとしない。

そう思っていたルイの確認不足であった。彼は滅多に間違いや誤りや自分の怠惰について認めることはなかったが、決してそれらは存在しないと思っているわけではなかった。

ルイにも失敗はある。けれどもそれをどう迅速に取り繕うかによって失敗は失敗でなくなるのか、彼は学んできた。

彼のようになれないと誰もが言うが、彼のように努力しないからだという言葉について反論できる者が居れば、彼は喜んで挑戦に受けて立つつもりであったのに。

今でも彼と面と向かって勝負しようという強い信念の持ち主は居ない。

 

ただひとりをのぞいて。

 

その人物は・・・ヒカル・クロスは、満身創痍になってもルイに向き合う。いつも彼は彼女を完膚なきまでたたきのめすのに、彼女はそれでもルイの正面に立つことを畏れない。

まったく愚かしいという以上に、愚かな娘の存在について、ルイは抹消することにしたのに。

こうして、時折彼の前に予告なく現れる彼女の存在をどう滅してやろうかと考えを巡らせる。

 

また水音がした。

静かな水庭には、ただ気配だけが響く。彼女の気配だ。

照明は極限まで絞られていた。彼が薄暗闇の中で静かに潜ることを好むからだった。

それに今日は満月の夜で・・・半地下の硝子窓から射し込む月明かりで十分なほどの明るさを室内において確保することが出来た。

 

彼は少し考えたが、そのまま室内に歩み進むことにした。なぜならば、彼が遠慮することはないと思ったからである。ここは誰かをもてなすための場所ではない。自由に外を出歩くことの出来ない者として生まれたアルディ家の者たちのために創られた場所で・・・特に現当主は若い頃は頻繁に連絡が途絶えることが多かったので、こういう施設によって外に出る必要はないという後付けの理由のためにも必要な存在であった。

足の爪先までも整えられたしなやかな足先が速乾性タイルの上を渡っていく。冷えを防ぐために、タイルの下は常に温められていた。彼だけのために。今は、この家では、ここを使用する者は極限られた者だけであった。

 

あの不幸な墜落事故から随分経過したが、それらを連想させるものについて、当主はまったくと言って良いほど存在を否定することから始めてしまっていた。もちろん、ルイのように筋力維持のために水に入ることはあったが、それでも・・・・遊戯のために水に触れることはなかったし、海に入ることもしなかった。ただ、ぼんやりとそれらを眺めることは多くあったようだったが。

そんな彼に養われているヒカル・クロスも、幼少時代から好んで水に入ることはしなかった。日本人学校での授業の一環で行われる教育については従っていたようだったが、それ以上のことは積極的に関わろうとはしなかったようだった。

運動神経は悪くないと聞いている。ルイはあらゆる教育課程を悉く短縮して過ごしていたので、彼女と同じカリキュラムを体験したことはなかったので真実は定かではない。知ろうとも思わなかった。

現場を目撃したわけではないが、周囲の嘆きを感じ取り、彼女は海や水に近付くことを極端避けている。それはシャルルがそれを哀しむからだ。

まったく愚かしい情愛という名前のまやかしに酔いしれている彼らの茶番を見て、ルイは苦笑することも無駄だと思うことにしていた。なぜ、彼らはああして想い出や過去にしがみついているのだろうか。もうこれほどまでの年月が経過して、戻ってくる確率は皆無に等しいというのに、それでも・・・まだ彼らは生きていると信じて居るのだ。根拠がないのに。確信だけで、それらが真実であるかどうかの検証を放棄して真実であると信じ込んでいる。本当にそれは事実なのかどうかという疑問を持っているのに、それを封印して過ごしている。なぜ、そのような幻惑に自ら飛び込むのか。彼は理解できなかった。ありえない事柄にしがみつくことによってもたらされるものは、何一つ建設的でない。

 

彼女に、この場所を明け渡せと言う前に、彼は少しだけ息を潜めた。

彼女が・・・水に潜りに来たわけではないと知ったからだ。

ヒカル・クロスは月明かりの中にいた。

照明を落とした暗い室内では、暗転時の転倒防止のために等間隔に床に巡らされた蛍光塗料が派手派手しくない程度に仄明るく光っていた。飛行機の滑走路のようだった。


 

■03

 

湿気を逃がすための換気音は他の施設と比べものにならないほど静かであった。

静寂の中で揺蕩う栄耀栄華について享受することに罪悪感は感じていない。

彼がこの世の恵みと言われているものをその身に受けていことを、ルイ自身が感謝しているかと言えば、決してあり得ないことであった。

彼の生は彼によって完璧になる。

だから、誰かに環境や境遇や・・・他者が自分自身に成り代わることが出来ないことについて何かを思うことは驕慢極まりないことであり、まったく論理的でない思考として受け止めていた。

恵まれた体軀、恵まれた容姿、そして高い知性に、アルディ家という古の家柄・・・・

けれども。

何もかもが彼の飾りにしかならない。

彼は星辰の子と呼ばれているが、フランスの華と呼ばれる実父と違った呼称であることについて、感想を持つことはなかった。

ルイはシャルルではないから。だから比較される根拠も論拠もなかった。顔立ちは恐ろしくよく似ていたが、彼は金の髪を持ち合わせていたし、シャルルは白金の髪であった。それに・・・・ルイにはシャルルのような生き別れになった双子の弟も存在しないし、ルイには・・・彼に情愛を寄せる親族はひとりも存在しない。

 

彼は素足で自分ではない気配を無視することにした。

相手は、ルイの帰邸を待ち侘びていたわけではない。

その人物の日々の習慣のひとつに、この水の音を聞くという行為があっただけに過ぎない。

そう・・・毎朝、最高の状態の薔薇を、この家の当主に届ける役割と同じ程度にしか考えていないのだろう。

 

仄明るい晄の射し込む夜半に、彼女は水に惹かれてやって来る。

恐ろしいという記憶しかないはずであるのに。彼女はなぜ、ここにやって来たのか。

「シャルルに知られたらという予測はなかったのか」

話しかけたのは、ルイからであった。

彼女はそこ居て・・・月を見上げることのできる場所にいて、月光を浴びていた。

プールサイドに腰掛けて、膝から下は水に浸されていた。

水音がしたのは、彼女が足を動かしていたからだ。

遊びに興じているのではなく、水と会話しているかのように静かに水紋を広がらせていった。

泳ぐことのできなくなった人魚の姫のように水を懐かしむような表情を浮かべていた。

彼は入り口の近くに備えられたスチール製の長椅子の上にタオルを放り投げた。

彼女がルイの問い掛けに応えないのは、何かに没頭しているからなのだろうかと思ったが、それは違った。水音が鎮まったからだ。

月明かりを受けて、プールの水は蒼く輝いていた。

この空間は、寛ぎや遊戯を目的としたものではなかった。彼はゴーグルを持ったまま、もう片方の手で金の髪を持ち上げた。水庭独特の匂いが充満している。

しかし彼女はルイの出現はまったく意に介さないといった風情で、ただひたすら昊を見上げていた。

デニムのショートパンツの下からは、白い象牙色の足が覗き、肌理の細かい肌が水をはじいているのが見えた。そして、この季節には少し早い色合いのフードのついた上着を着ており、その下は丸襟のシャツを身につけている彼女は、茶色の髪を背中に下ろして、ただぼんやりとそこに座って考え事をしているばかりであった。

月の晄は水面を照らし、そこに水月が浮かんでいた。

彼女は水上で揺れる月の姿に魅入ることもなく、ただひたすら・・・上を見上げている。

尖った顎が上がって唇は少し開いていた。瞳は大きく見開かれて、茶色の視線はひたすら・・・月を見つめていた。

 

「・・・・1分だけ待つ。だから、すぐに立ち去れ」

彼は不機嫌そうに言った。

なぜ、彼女はルイの行動を阻むようなことばかりするのだろうか。

構って欲しいというわけではない。

彼女はこの家の当主の愛を受けて・・・・本来ではあり得ないような境遇の中で生きている。

温室のあの薔薇たちのように大事に管理されて生きている。

 

「ルイを待っていたの」

「月見なら、余所でやれ」

彼はそういうと、心中で秒数を規則正しく数え始めた。

言ったことは取り消さないのがルイであったから、ヒカルはそこで初めて彼に向き直った。

「オレはヒカルに用はない」

「ルイに会いに来たの」

「オレは会いたくない」

素っ気なく彼は言ってそして横を向いた。

彼が努力している様を他者に見られて、喜ぶほど彼は粋狂ではない。維持管理するだけの淡々とした調整作業でしかない。

「ルイはお魚のように泳ぐから」

ヒカルの言葉に、彼は嫌悪感をあらわにして顔を顰めた。その顔は、フランスの華によく似ている容貌であったが、フランスの華は、ヒカルにそんな表情は向けない。この家の当主は、彼女を彼の永遠の晄と言い、ヒカル・クロスをこよなく愛しているというまやかしに溺れているからだ。

■04

水が恋しいのに、決して水と戯れない。

アルディ家当主の深い憂いを呼び起こすような行動は慎んできたはずなのに。

ヒカルは、それでもここにやって来た。夜も更けているのに。

「それを言うためにここに来たわけではないだろう?」

ルイはヒカルとは久しぶりに会話を交わす。シャルルとはもっと長い間言葉を交わしていない。

少し髪が伸びていた。そして顔立ちもやや大人びてきている。

彼女の両親は東洋人で、祖母がフランス人であるから、幼く見えるのは骨格からして当然のことではあった。けれども、彼女の頼りなさそうな幼い表情が、シャルルの愛をますます深く沈めていくのだ。彼女が傍にいることで、彼は・・・フランスの華は、自我を保つことを放棄してますます狂っていく。私利に奔った瞬間に、もう、それはアルディ家の公利から逸脱してしまっているというのに。

それを知っていながら、彼はルイに座を明け渡すことをしない。ヒカルが居るからだ。

 

ルイは薄い唇を横に引いた。間もなく、彼のカウントは宣言したとおりの時間経過を迎えることになる。

彼女は体の向きはそのままに、顔だけをルイの方に向けた。水面の蒼晄が反射して、彼女の顔を照らしている。

・・・・こういう時の表情は、確かに彼女の母親によく似ていた。間もなく、彼女はシャルルと彼女の母が出会った年齢に近くなる。シャルルは、そこからやり直すつもりなのだろうか。

アルディ家の人間は決して繰り返さないというのに。アルディ家の頂点に立つフランスの華は、何度も繰り返そうとしている。いや、実際に、繰り返しているのだ。

そしてその度に失望し絶望し、また反復する。その螺旋の渦に巻き込まれるつもりはなかった。

愚かな贖罪の娘に何を言っても無駄だ。

けれども。

彼女は何も知らない。

彼女は知ろうとしない。

彼女の主の本当の姿も見ようとしない。

ルイの姿も見ようとしない。

 

「少し見ていてはいけない?」

「断わる」

ルイはヒカルの申し出をあっさりと却下した。意地の悪い問いをしていることに彼女は気がつかない。彼女に逆らう者はいないのだと思っているに違いない。ノンと言われないことを期待して、彼女はそのように言うのだ。愛されることに慣れたものが陥りやすいねだり方であった。

彼女は言葉に詰まった。彼はヒカルと機転の利いた穏やかな溌溂な話をするつもりはない。

彼にとっては、予定された時間を遂行する方がよほど大事なことのように思える。

ヒカル・クロスとの会話は予定されていない。この娘の持つ稀なる力と彼女の父方の実家の影響力を考えると、いずれ・・・ルイは彼女を娶ることになるだろうと思ったが、それでもどうにも苦痛で堪らなかった。他の者に対するように、無感情でいられない。

彼は溜息を漏らした。

「ルイ、溜息を漏らすと倖せが逃げてしまうわよ」

「あいにくとオレは倖せを逃したくないと思うほどに惨めではないからね」

彼はヒカルをやり込めた。彼女のまったく主観的で非生産的案発言のひとつひとつを否定する作業は途方もなく無駄であると言いたそうであった。

「・・・用事があるならメールで。それも目を通すかどうか保証しないが」

彼はそのように言ったのに、ヒカルは首を横に振った。

従わないというヒカルの意思表示に、少しばかりむっとした表情を創ったルイに、ヒカルは憶せずに言った。

「ルイは戻ってきてもいつも顔を合わせることがない。いつもどこかに行ってしまう。

・・・・でも、ルイが泳ぐ姿はとても綺麗だから、ここで泳ぐルイは本当に綺麗だから。

せめて姿を見ていたい」

「ヒカルを喜ばせるためにしているわけではないが」

彼はますますぶっきらぼうにそう言うだけだった。

彼女は何気ない口調でこのように、誰かの関心を引くことに長けていた。

しかしそれはルイ・ドゥ・アルディには通用しない。なぜなら、愛を乞う人間の愚かしさをよく知っているからだ。彼の実父とされるシャルル・ドゥ・アルディとヒカルはよく似ていた。

誰かの愛を乞うのに、自分の愛は捧げないのだ。

愛という言葉を使うこと自体、まったく意味の無いことだと考えているルイ・ドゥ・アルディにとっては、それを強要される苦痛について、彼らとはわかり合えるとは思っていなかったし、期待もしていなかった。あり得ないことについては、信じないことにしている。

彼は賭け事は嫌いだった。

統計と事実と証拠から導き出される論理的な結論だけが,彼を動かしている。

「それなら、ルイとはいつ、話をすることができるの?」

「オレの気が向いたとき」

彼は冷淡に言った。彼の気が変わるということは滅多にない。それを知っている者がこの言葉を聞けば、彼は決してそうしないのだと言っているのだとすぐに気がつくはずだった。

彼女は水から出る気配を見せなかった。何とも強情で勝手な娘なのだろうかと思いながら、ルイはそれでも淡々と話をした。

「ヒカルと話をする理由もないし、その必要もない。それは最大の理由で唯一のものだ」

ヒカルは少し俯いた。

「こんなに綺麗な月夜なのに。ルイはそれを見ないの?」

「それは今日の予定にはない」

彼は即答した。

「ヒカルの話に付き合う予定も入っていない。これからもそうだ」

彼女と幼い頃から長い時間を一緒に過ごしてきたのに、彼はそれでもあからさまに敵意を剝き出しにしてヒカルを切り捨てたので、ヒカルは大きく息を一度だけ吸った。

溜息を吐けば幸福が逃げてしまうという価値観を持っている少女の夢見がちな動作のひとつとして認識するが、理解や共感は感じない。

それほど年齢があるわけではないが、彼の青灰色の瞳はすでに老成した晄をたたえており、そしてヒカルはいつまでも大人になることを拒んでいるかのように幼い仕種を繰り返す。

・・・・まるで、シャルルと運命の人が出会った頃の年齢に達することを畏れているかのようであった。

 

ヒカルにもそのような誇りとまではいかないものの自我があったのかと思い、ルイは少しだけ目を見開いた。

この少女は愚かではあるが決して鈍感ではないのだと思った。

羊水を思い出して水を恋しがるのか・・・それとも、哀しむシャルルを見るのが辛いから水を畏れているヒカルを演じているのか・・・贖罪の娘は一体何をどうしたいのだろか。

知りたいという欲求ではなかったが、彼はそこで数を数えることをやめた。

 

既にもう、彼が制限した1分という時間は経過してしまっていた。

月の光が僅かに動いて・・・水面に月の姿が照らし出された。

彼女の伸ばした爪先の傍に、月があった。水面に揺れる輪郭の歪んだ月を見つめる。

彼女は星辰の子と呼ばれるルイ・ドゥ・アルディに従わない。それどころか・・・・月さえ足元に平伏させて、それでもまだルイ・ドゥ・アルディの関心が欲しいと言う。

傲慢で愚かで・・・・それでいて不思議なほどに、彼女の言葉の先を待ってしまう自分の行動の方こそまったく無駄であると彼は考えているのに。

それなのに、彼は予定を遂行することを少し先延ばしにした。

その理由を探すために、彼はヒカルの座って居る側に向かって・・・歩みを進めた。

水に入り、彼女の存在を無視して反対側のコースを泳げばまったく影響しないほどの距離を置くことができるのにもかかわらず、彼はそうしなかった。

 

ヒカルの茶色の髪にも、月の光が入り込んで・・・・彼女の髪の色は、僅かに薄く見えた。

常にそうありたいと思っていた、金や白金の髪のこどもに、彼女は擬態する。

月の光を盗んで。星辰の子に抗って。・・・彼女は永遠の晄であるために他の晄を滅するのだ。

そして自分の装飾にしてしまう。まったく愚かしい娘だ、と彼は思った。


 

■05

 

ルイ・ドゥ・アルディは彼女を無視することにした。

彼女の爪先で揺らぐ月を眺める。

静かにさざめく波の上に、月の輪郭は形を変えていた。

波が起こるのは、循環装置によって・・・本当に僅かだが、水底に対流が起こっているからだ。

ここの水質維持装置及び濾過装置は画期的で、人体に影響を与えることのないバイオテクノロジーが採用されている。

古めかしい様式の中に最新の技術が盛り込まれており、この方針はアルディ家の当主をそのまま反映しているかのようだった。

 

水の音は、風のそれと比べて妨げになる音量の許容に幅があるのかもしれない。

これは人体の水分がそう思わせるのか、母の胎内に居たという幻想が惑わせるのか・・・彼も人間であるという証拠であるのかもしれないと思うと、このような記憶を残すことを彼へ配合した者へ苦笑いを浮かべる。

彼は遺伝子操作されて生まれて来たのに。

何を操作されたのか、そうでないのか、理解してしまう瞬間がある。

こんな風にしてふとした折に、彼にすり込まれたプログラムを思い返す。

・・・それが一体誰によるものなのかは推測がついていた。

必要な障害は排除しろと言われて育てられた。

決して執着してはいけない、と。

それはアルディ家の全員に該当する事項かと認識していたが、アルディ家の当主は・・・いつになっても、彼のファム・ファタルに固執する。

彼だけの唯ひとりの人は、彼をただひとりの人と定めなかったのに。それでも、シャルルは・・・もう決して二度と触れることのできない人の温もりや面影を求めて、傍にヒカルを置く。

彼女はそれを知っているのに、傍に居る。

彼は・・・まったく愚かしい寸劇だとしか言いようのない日々を一緒に過ごすつもりはなかった。

 

「・・・・ルイは帰国していたのに。ルイを見たのは昨日のことだった」

彼女は呼吸を整えて、顔を上げた。

「・・・最初に会わなければならないのはヒカルでなければならないという規定はここにはない」

「そうだね」

彼女は哀しそうにそっと彼を肯定した。彼女はここでは滞在人でしかない。単なる客人で・・・彼の父であるアルディ家当主の庇護を受けてようやく生きていける存在だった。

この家の本当のこどもに・・・ルイに話しかけてはいけないと。触れてはいけないと。近付いてはいけないと、教えられて育ったのに、彼女はそれでも彼にこうして接触する機会を窺っている。それがルイには腹立たしいと感じていることすら、彼女は無視する。

 

・・・彼と彼女の目があった。

 

ぱしゃりと音がした。

 

弾ける水音がした。

屋内の空気や水流やなどの循環動作が起動する時間になったからだ。

何も言わずに・・・遣りきれない日々について何も言わずに・・・互いは黙ったままになった。

 

「ルイには、大事な人が出来たのね」

彼女はぽつりとそう言った。

昨日見かけたというのには心当たりがあった。

おそらく、同伴者が空港まで迎えに来て、そのあとパリ市内のレストランで食事をしている間のどこかで、ヒカルが目撃していたのだろうと思った。

アルディ家が有することの出来るプライベート・ジェットから市内に入るまでの道程は限られている。安全性の面から致し方ないのであるが、それでも、安全性を主張するのであれば決まった通り道は避けた方が良いのではないかという彼の主張は、まだ採用されるに至らない。

・・ルイが親族会での発言権を得るのは、まだ少し先の話だからだ。

彼はしばらくの間、アルディ家の嫡子としての正式な籍に入っていなかった。これを理由として、アルディ家当主は、ルイの継承権をしばらくの間凍結してしまったのだ。

その容姿や資質や出生の証明から、彼は間違いなく、この家から望まれて輩出した薔薇であることには変わりがないのに。

 


 

■06

 

彼女が気にしていることが一体何なのか、彼にはわかっていた。

けれどもそれをルイから口にすることはない。彼女からの問いかけにしか応じない。

応じるかどうかは状況によって判断することになるのだが。しかしルイはそれほど待つことなく予想した結果を得ることになった。やがて彼女から話を切り出したからだ。

「ルイが誰かと居るところを初めて見た」

「大袈裟だな」

彼は腕組みをした。彼女はどうあってもここを立ち去るつもりはないらしい。

彼女のために、今日の予定を変更するのは彼にとっては非常に不本意なことであった。

変更するべきはヒカル・クロスの方であるのだから。

 

「・・・ヒカルには関係の無いことだ」

「そうだね」

ヒカルはそれだけ言うと、また脚を投げ出して、水に肌を浸した。

 

彼女が何を言いたいのかはわかっていた。

彼が誰かと・・・・苟且の近接を許諾していることに対して、ルイ・ドゥ・アルディがそれを内密にしていたことに対して傷ついているのだと訴えに来たのだ。

まったく勝手だな、と思った。

彼女は自分のことを例外だと常に考えている。

ルイがどこで何をしようとも、ヒカルにはまったく関連しないことであったし、逐一彼女に何かを伝えるというのは意味の無いことでしかなかった。

 

「何を思い違いをしているのか理解するつもりはないが」

彼はそこまで言うと、よく通る声で、冷たくはっきりと宣告した。

「ヒカルが把握していないことをオレが行動したから、咎められるという図式は成立しない」

単なる遊びだ。遊びにもならない。

相手が自分に陥落するまでの・・・チェスの試合よりもっと簡単な遊戯を暇つぶしに試しているだけだ。

それなのに、なぜ、ヒカルがそれほど平静さを乱しているのか理解しようがなかった。

「オレがパリの市内で何をどうしようとヒカルと何か関連するようなことがあったか?オレは自分の予定のとおりに動くだけで・・・こういう予定外の時間はまったく無駄で非効率だと考えている」

ヒカルは唇を噛んだ。ここまではっきりと言っても、彼女はそれでも動こうとしない。専用の着衣を身につけているわけではなかったので、本当に・・・ただルイに会いに来ただけなのだと知って彼は苛立った。

「オレの予定の邪魔をするのなら、先にそう言え。・・・アルディ家の家訓だ。売られた喧嘩は買う」

「私はルイと喧嘩をしに来たわけではない」

「オレはヒカルの質問に答えたと思うよ。十分にね」

言葉短く彼はそれだけ言うと、ローブの紐を解いて、傍にあったチェアに向かって遠投した。

ヒカルの顔が少し驚いたように一瞬ルイの方を向き・・・そして、慌てて彼女は顔を反らした。

逞しい上半身は引き締まってまったく無駄な肉は存在していない。

長いが均衡のとれた手足に、彼の美しい首から肩の曲線が露わになった。

彼は乗馬とフェンシングでかなり体を鍛え込んでいる。

ヒカルは無垢なまま育っているわけではなかった。ルイという異性に接近して羞恥の感情を持ち、そして自分がなぜルイに詰問するような真似をするのか自分自身でもわかっていないようで本当は理解しているようだった。

しかしその感情はシャルルが教えなかったら、だから彼女は判断がつきかねているのだった。

シャルルが持ち合わせていて、彼女に教えたくない感情であり、それについてヒカルは知ろうとしてここにやって来た。

 

ぱしゃり、と音がした。今度は、ヒカルからではなく、ルイからその音が湧き上がった。

彼が水に入ったからだ。飛び込むことはしない。彼は静かに水に入り、そして・・・体を浸した。彼女が視線を逸らした肉体を使役するために。そして彼女の視線から隠すために。

水の色は深い闇色に近く・・・月明かりがそれらを更に深く闇色に沈めていく。そしてぽっかりと水に浮かぶ月の周囲だけが、明るくて・・・輪郭を失っていく。彼が躍動するたびに、その月は波打って原型を留めないほどに歪んでいく。

 

・・・水月が揺れた。

・・・水に映る月の影が揺らめいた。

 

それをヒカル・クロスはただ静かにじっと見つめていた。

彼が泳ぐ姿をただひたすらに見つめていたのだ。

彼女の願いは叶ったはずなのに。

彼の泳ぐ姿が見たいと言っていたはずなのに。

ヒカルは満足という表情とはほど遠い複雑な面持ちを浮かべていた。

 

ルイの大事な人のことを聞こうと思った、と彼女は言うのだろう。

しかし彼にとってはただ傍らに居たという相手を大事という言葉で丁寧に扱ってやるつもりはなかった。ヒカルがどこで見ていたのか、その可能性について検証を始めていた。彼女は・・・きっと、ルイに声をかけられずにいたのだろう。

愚かなヒカル。

誰にも愛されていると思いながら、誰にも愛されていない依り代でしかない存在の気配がはやく消えてくれれば良いのに、と思いながら彼は水底に体を沈めていく。

 

・・・シャルルが教えなかった感情はひとつしかない。

あらゆる景色と色や温度さえ見せてきたのに。

フランスの華は彼女に何も教えなかった。

・・・・誰かを妬むとか、嫉むとか・・・・秘めたる想いについてシャルルはまだヒカルに教えていなかったのだと確認したルイは、更に深く・・・・今度はその見事な肢体ごと水底に沈めていく。

 

水面に月が反射していた。

彼はそれをちらりと見ながら・・・・

揺れ動く形の定まらない水月は、水の底から見るのか、水の上から見下ろすのか、どちらを見つめれば本当の月の姿が映るのだろうか、と考えていた。

論拠も根拠もない非生産的な思考は持たないと公言していたルイ・ドゥ・アルディは・・・・

ヒカル・クロスが見つめる傍らで、清めの水に自分を沈めていく。

 


 

■07

 

水底に沈んでいると、彼の思考は停止する。いや、呼吸を忘れて思考する。そこで生命の維持がこれ以上不可能だ、というぎりぎりを彼は漂うことによって・・・生きていることを実感する。

充足たる悦楽というものは、彼には存在しない。

ルイ・ドゥ・アルディから見て、彼女の方が・・・・まったく享楽的に生きていると思えた。

自我を隠し、人との争いを避け、傷つくことを極端に厭う。

 

・・・無垢な存在だとして嬖愛されるヒカルの方が、彼には水月に見える。

いつも水面を揺れており、常に輪郭を持たない存在であった。

彼女は庇護の下で生きていると自覚している。

それが一番楽な生き方だからだ。

そんな彼女のことを享楽的とか稚拙だとか彼が批判しても大して誤差はないし、非難される言われもないと考えていた。

彼女の気配を感じない水底で、彼はようやく何もかもから解放される。・・・彼の中にある執着を捨てれば、いつもこのような水底の静けさを手に入れることが出来る野かもしれない。

表面的ではあるが、彼の叔父であり教育係でもあるミシェルも似たような・・・水のような静寂を感じることがある。

しかし、ミシェルはその平穏さの下に激しい焔と闘志を燃やしていることもルイは気がついていた。

叔父の前では、ルイも同じように映っているのだろうか。

 

水月は水面だけにしか現れない。光が届く底に映るのは月光だけだった。

少なくとも、瑞浪が揺れる場所では・・・・月と同じ姿にはならない。

それは月そのものが照らす姿であるのに。

彼がどんな相手と寝ようと、束の間の恋愛騒動に苦笑しようと、ヒカルには関係の無いことだ。

それなのに、なぜ、ルイに恋人が居るのだという宣言を聞くことを避けるのに、そのことを聞きたがるのか。・・・・他の者たちと同じだった。皆、一度近付くことを許可すれば、その先を求める。そして自分だけが唯一の・・・・そう、ルイの運命の人であるかのように振る舞う。強要する。

彼にファム・ファタルは存在しない。シャルルのように定めることはしないと決めているからだ。

フランスの華は・・・・あれほど愚かしい結末を迎え、狂気の道を選びながらそれでも、切除することの出来ない感情をルイは必要としていなかったからだ。

なりふり構わぬ様子に追随する誇りや潔癖さというものはしょせんまやかしでしかない。

アルディ家の当主は幻惑の路を蹌踉めきながら歩いている危険な道化であるに過ぎなかった。

だから、ルイが生まれてきた。

彼はフランスの華を越えてその先を行く新しい種として生まれた。

どんなに見かけがシャルルと似通っていても。ルイはその先を行く。彼をいつか追い抜いて、追いつけないほどに引き離す。それまではどんな苦痛も苦難にも屈しない。たとえ・・・何がなくなっても。何を失っても。手に入れるものがひとつしかなくても。彼はそれでもやり遂げる。そのために生きているから。生まれた理由は彼には関係が無い。けれども、生きる意味は自分で創る。

だから・・・・どんな誘惑も快楽もルイを満たしはしないし、夢中にさせることもなかった。

 

彼は瞳を閉じた。一瞬・・・・彼女の気配を失ったことを感じたからだ。

見上げれば水上は仄暗い月光だけが淡く光を広げており、そこは水音と心音だけ感じる静寂の世界なのに。ヒカルの気配を感じた。

ゴーグルもつけずに飛び込んだので、視界がやや不鮮明であったが、周囲に気を配るという彼の神経は麻痺することはない。

それなのに。

それなのに・・・・彼は、次の出来事に対処できずに抗力を感じ、背中を丸めた。

彼の腹部に衝撃を感じたからだった。一瞬・・・・底まで沈む。背中に水の底が・・・水の果てが擦れたので、彼は青灰色の瞳を一度だけ瞬かせて、薄い唇から小さな気泡を浮かべて空に還していく。溜められていた肺の空気が一気に水に放出されていく様を彼は景色のように眺めていた。

 

「・・・・ルイ!」

次に、ヒカルの声が聞こえ、彼の背中に彼ではない者の腕が回された。

彼は反射的に・・・・彼に重ねられた躰を振り払おうとして、動きを止めた。

息苦しくなったからだ。彼の躰に酸素が行き渡らず、そちらの環境改善の方を優先させなければならないと計算が働いたから。苦しみは彼を生きていると思わせる。けれどもこの苦しみは早く中断しなければならないと判断した。なぜなら・・・・彼の躰の上に重ねられたのは、ヒカル・クロスの躰であったからだ。

彼女が飛び込んで・・・・着衣したまま水の中に飛び込み、何を考えたのか、ルイの身体にしがみついたからだ。

おそらく、彼がなかなか潜水状態から戻らない彼女は、ルイが溺れたと勘違いして、助けに入ったのだと推測された。そこまで脳は働いているのに。・・・躰が動かない。

 

振り払えば良いのに。

 

彼は、そうしなかった。

彼女は彼女の母親と違い、水泳は得意なはずだ。

水に配慮するのは、シャルルの前でだけだった。だからひとり水中に彼女を置いて立ち上がったとしても,何ら問題はなかった。

それなのに・・・・それなのに、ルイは彼女の背中に腕を当てて力を込めると、ヒカルの躰を引き寄せながら一気に水の上に顔を出した。それよりもっと強い力を用いて、彼女の躰を引き揚げる。

人ひとりを・・・・しかも浮力があるとはいえ、濡衣の者を引き揚げるのは相当の筋力がなければ実現不可能であった。

 

お互いに・・・激しい息遣いが響く。

先に鎮まったのはルイの方であった。肩で大きく呼吸をし、薄い整った唇は半分開いたままで・・・濡れたヒカルの顎に彼の指を伸ばして、思い切り彼の顔の前に向けた。

「おい」

しかしそれは恋人達の近接ではなかった。

濡れて雫が滴り落ちる金の睫の下の青灰色の瞳は・・・激しく強く彼女を睨み据えていた。

まだ呼吸が荒かった。このような姿を彼女の前に晒したことだけでも、彼には堪え難い屈辱であるのに。更に加えて、何を血迷ったのか、ヒカル・クロスは救助の慈愛を披露しようとして失敗し、そしてルイの不興を買った。

 

「・・・・これは何かのトレーニングの提案か、余興のつもりか?」

彼は少し喘ぎながらそう言った。

目の前で激しく呼吸を繰り返す茶色の髪の茶色の瞳の娘に、忿怒の視線を向けた。

彼は憤慨し、そして理由のわからない事態に・・・・激昂していた。

何にも満たされず、何にも動かされず、何にも屈しないはずのルイ・ドゥ・アルディは・・・・

 

静かな激昂に身を任せていた。

彼は直前まで、水月を見つめていた。水の下から。

そしてそこから・・・・水月が割れて、彼女が飛び込んできた。輪郭のない、自己のない水に映った月の影のような彼女は、月から出てきたのだ。彼を救うために。水の上から月を眺めていたのに、そこに飛び込んできた。

 

「ルイが溺れていると思ったから」

彼女は切れ切れの声でそう言った。そして顔が沈む。

 

・・・・身長がプールの水深に足りないからだ。

 

彼と彼女はすでに骨格が違っていた。

身長だけではない。

アルディ家の星辰の子と、贖罪の娘は、同じようにこの建物の下で時間を過ごしたのに・・・・・

彼女は無垢な魂を持ち続けることを願い、彼は自らの血を流しながらも困難を越えてすべてを従えるために犠牲を払うことを厭わない。

見事な金髪と青灰色の瞳の美貌の少年は、フランスの華によく似た青年になっていく。

あどけない幼女であった娘は茶色の髪の茶色の瞳の輝きはそのままに、フランスの華が愛でたファム・ファタルと同じ容姿の娘になっていく。

 

同一ではないからわかり合えなくて当然なのに、ヒカルはルイを理解しようとしてここにやって来た。

見つかれば、シャルルに窘められることはわかっているのに。

敷地の中とはいえども、もう、夜更けに出歩く年齢ではなかった。

 

・・・・ルイは、その姿を見て昂揚したのだ。

 

彼女が、誰かを愛でるルイを見て、嫉妬したのだとしたら。

それは、ルイにとってどんな恵みをもたらすのだろうか。

 

彼女が、シャルルよりもルイを選ぶとしたら。

 

あの男は嘆き悲しむのだろうか。

誰も自分を選ばないと言って、あの男は・・・ついに戻れない狂乱の世界に完全に潜没するのだろうか。

彼は乱れた呼吸を整えながら、目の前の娘の服の端を握り、腕を曲げて強い力で彼女の立位を補助するためにもう片方の手で・・・ヒカルの腰を引き寄せて腕を回し、そして抱き上げた。

成熟していない華奢な躰を感じる。ヒカルは彼女が触れたルイの裸身の胸の質感に、身を竦めた。男の肌に触れたことのない乙女が・・・・月の夜に堕ちてきた。水に、堕ちてきた。月を割って。

 

彼は濡れて張り付いた金の髪を払い落とすことをやめた。ヒカルが身悶えしたからだ。

「だいじょうぶ。私・・・・だいじょうぶよ」

彼女の顔は、月光に照らされて青白く光っていた。

 

東洋人の血を濃く受け継いだ彼女の肌は、先ほどまで象牙色であったのに。

今は真珠のように白かった。そして、濡れた肌や髪や唇は・・・・彼の知るどんな者よりも妖艶で、彼を誘った。

何かに執着してはいけないのに。彼の中で、情炎にも似た烈しさが湧き起こる。

誰も彼を満たすことも乱すこともしないと思っている。

けれども・・・・なぜ、ヒカルだけは、こうして・・・予定だけではなく、彼の何もかもを乱すのだろうか。

彼は溜息を漏らしたが、それは呼吸を整えるためなのか、忿怒を落ち着かせるためなのか・・・それとももっと違う嘆きのために漏らしたものなのか、水に混じって判別不能であった。


 


水月 後編

■08

 

「オレの邪魔をしたいのなら、最初にそう言え。喜んで・・・・水に浮かぶ月を水面下から永遠に眺めるのを手伝ってやろう」

彼はそう言うと、彼女の華奢な首を掴み、そして力を入れた。このまま力を加え続ければ、一体どの段階で彼女はその濡れた唇を閉ざすのだろうか。

ヒカルの顔に、揺らいだ波飛沫が散った。

彼女は茶色の瞳を何度も瞬かせながら、ルイの腕に捕まる。それは人の反射のようなものだ。頼りなく浮遊する時には人は・・・固定されることを求めて手足を伸ばす。

それだけの現象なのに、ルイはもう片方の腕で・・・彼女を包む。

相反する仕種が同時に存在した。壊れ物を扱うように、荒々しく拭き清めてしまう神嵐のように。

「ルイ」

「ヒカルの都合で振り回されるのはごめんだ」

ルイはそれだけ言うと、彼女の首から掌を離した。

濡れた髪の感触と・・・水の質感が彼から離れていく。同時に、ヒカルからはルイの温度が去って行く。

そこまで言って、ルイは次の言葉を探した。

彼女に振り回されていることを認めるような発言を自分が発したことに対する説明だ。ヒカルは少し驚愕していた。

 

・・・・・重ねた痛みをヒカルは知らない。

訴えるつもりもなかった。

それなのに。

 

ヒカルが驚いて、唇を動かした。

何を言うのかはわかっていた。

自分がルイを振り回しているのか、と復唱するつもりなのだ。

彼は目を見開いた。

そんなことはさせない。

彼を辱める言葉は他者から発してはいけない。

ルイは誇り高かった。

誰かから貶められることは決して認めない。

 

ぱしゃり。

 

ルイが、彼女の顔に水を向けたのだ。臭気のほとんどない水は、彼女の顔の上で躍り、そしてヒカルは唇を閉じた。彼がそうであれば良いのに、と力を込めても彼女は遵わなかったのに。

・・・・ルイの忿怒を感じて、彼女は黙ったのだ。

謝罪も弁解も必要ではない。ただ、静かに彼を漂わせておけば良かったのに、ヒカルがそうしないからいけないのだ。彼は憤りを含んだ棘のある言い方で、彼女に言った。

ヒカルの背に回した腕に力を込め、勢いよく彼女を引き寄せた。

彼に最も近く。・・・そしてヒカルの望む家族ではあり得ない距離に、彼女を引き付けた。

彼女は躰を浮かせながら僅かに身動いだ。着衣が水を吸い込んで、重みを増したことによって、躰を浮かせていることが難しくなってきたのだ。彼女の躰を支えているのは、ルイの身体であった。

「・・・海に消えたヒカルの両親も・・・こんな風に、水を吸った衣服を脱ぐ余裕もなく海そこに沈んだのだろうな」

「・・・ルイ、やめて!」

彼女が悲哀の声を漏らす。ヒカルは・・・まだ、彼らが戻ってくると信じて居る。だから、こんな風に自分が溺れることはないと強い意識で状態を保とうとしている。その浅はかさにルイはせせら笑った。

 

「訓練も受けていない者が・・・特にヒカルの母親はあまり泳げなかったと聞くが・・・あの状態で助かると思うのか?助かっていると思っているのか?それなら、どうして何年も沙汰がないことには何か感想は?」

 

彼の顔が近くなり、ヒカルは顔を背けたが、彼の空いた掌は彼女の顎を掴んだ。

 

「こちらを向けよ、ヒカル」

 

ヒカルが喘いだ。それがどれほど彼を滾らせるのか、彼女は知らない。

茶色の瞳が潤んでいた。

ヒカルにとって、両親の生存について否定的な話をするのは禁忌の領域だ。それを前提に話を進めることは、彼女の中で定義されていない。

「いつまでもここにいれば・・・彼らが戻ってくると思っているのか?アルディ家にいれば、最新の情報は伝わるだろう。しかし、それと引き替えに愛翫人形になることを交換にするほどのことか?」

「そういう言い方はしないで。・・・私は・・・」

「それなら、どういう表現なら満足するのか?」

彼は噛み付くように言った。彼女の躰を彼の胸に押し当てる。このまま・・・本当に沈めてしまおうかとさえ思う。彼女の命は彼の腕の中にある。それが堪らなく・・・・彼を激昂させる。

ヒカル・クロスはなぜいつもこうして彼の思いの通りにならないのだろうか。


 

■09

 

ヒカル・クロスの頬は濡れていて、涙のようであった。幾筋も、幾筋も流れ落ちるそれが月光を浴びて煌然としていた。

大きな茶色の瞳が、ルイをじっと覗き込んでいる。彼女は瞳を逸らしてはいけないと言う時に限って彼から逸れる。それなのに、彼の深淵に潜ろうと・・・こうして時々彼の顔を覗き込む。

ルイ・ドゥ・アルディはフランスの華の若い頃の顔立ちに良く似ていると言われている。まさしく再来だ、とも。しかし、少女のような嫋やかさの時期は短く、彼はあっという間に少年から青年になった。それはこうして・・・・完全に整えられた肉体を持つために、日々、立案した計画を実行しているからだ。それはほとんどの場合、変更されることなかった。ルイ・ドゥ・アルディはこれから幾年も先のことについて予定を立てている。それは未定の希望などではなく、必ず実現される将来であった。

ヒカル・クロスが彼の顔を覗き込んでいた。どうしてそのような言葉をルイが言うのか・・・理解できないといった様子であった。

ヒカルにとって、両親の死を認めることは自分を否定することと同じだと考えている。なぜ、先に進まないのだろう。彼女はヒカルであって、彼女の母親ではない。ヒカルがいつまでも・・・そうやって水に浮かぶ月のように、揺れたままでいることによって鮮明にならない行く先というものについて、彼女は考えが及ばない。

 

「ルイ・・・」

「ヒカル。オレは気が長い方だがヒカルの話を聞いてやるほど暇ではない。だから、選択しろ」

ルイはそう言って、彼女の腰を寄せた。青灰色の瞳がヒカルの茶色の瞳を覗き込む。吸い込まれそうなほど透明で薄い色のそれに、ヒカルは唇を噤んだ。

しばらくぶりに会うルイ・ドゥ・アルディは、また・・・少し違う感じを持って帰ってきた。大きな胸に僅かに伸びた髪が黄金色であるのは変わらないが、彼女の知る少年から青年に変貌していく。そして少年の面影がどんどん消えていく。見る度に、彼は美しくなっていき、あのフランスの華の若い頃に酷似していると言われる。けれども、少しも彼は鎮まらない。皆の前では静かにただ淡々としているように見せているが、彼は冷たい炎を絶やさず、胸の中で燃やし続けている。

 

だから。彼が、艶やかな女性と一緒に歩いている姿を見たとき。彼にも安らぎができたと思った。

だからそれがとても嬉しかったのに。それなのに、ルイは何かに酷く憤っていた。

ヒカルは眉を寄せて、困惑しながら囁いた。声が自然に小さくなる。ふたりの距離が近いからだ。そして周囲は驚くほど静かであったから。

 

「このままここに居るのなら、濡れた体を晒してオレを誘ったと言え。

オレはシャルルにそう言う。ヒカルは身持ちを崩した・・・誰にでも心惹かれるままに鬻ぐ者であるから、と証言してやる。

けれども、このまま出て行くのであれば、そこのローブを貸してやる。成人してもう少しましな体型になってから改めて出直して来い」

彼はそれだけ言うと、彼女の抱えたままプールの縁にまで移動を始める。彼女を抱きかかえていても全く彼は問題にしていなかった。

力強い筋肉が動き、彼女は抗えない腕の中で、ただ絶句しているだけだった。

「私、そんなつもりでは・・・」

この場に居るのなら、その他大勢の者と同じ様に扱う。

この場を去るなら、その他大勢の者と同じ様に無視する。

彼女にとっては、どちらも望んでいないことであった。ただ、彼におかえりと言いたかっただけなのに。

どちらにしても、彼女はルイの機嫌を損ねてしまったことには変わりが無かった。

「ヒカルが選べよ。・・・オレに抱かれたいのならそう言え。いつでも・・・気が進まないが望みのとおりにしてやるから」

「そうじゃないよ・・」

ヒカルが悲鳴のような声を上げたがそれは掠れていた。水を吸ったからだ。

ルイは彼女の身動ぎを無視して、あっという間にプールサイドに彼女を抱え上げて座らせた。そして彼は金の髪を掻き上げて・・・彼女の座って居る脇に寄り、彼自身は着水したままでプールサイドに背中をあてて顔に落ちる雫をゆっくりと優雅に両の掌で落としていった。

ヒカルの髪からも水が滴り落ち、プールの浪に消えていく。彼女は全身濡れていたが、それはルイを誘う姿とはほど遠かった。

「惨めな躰を晒すくらいなら、さっさと邸に戻れよ。・・・・オレはヒカルと家族ごっこをして喜ぶ悪趣味は持っていない」

「久しぶりに会ったから」

彼女がぽつんとそう言った。

まだ座ったままで・・・全身が濡れて着衣が肌に張り付き、彼が指摘するように年頃の娘の格好とはほど遠い状況にありながらも、彼女はそう言ってぼんやりと・・・また水面に浮かび始めた月を見つめていた。

ルイとヒカルが立てた浪によってそれは一瞬消えていたが、今はまた・・静かにぼんやりと淡い輪郭を光らせようとしていた。

 

「久しぶりに会ったから。ルイを見かけて・・・声をかけようと思ったけれども、ルイが知らない人と一緒に居るのを見て、声をかけられなかった」

ヒカル・クロスは抑揚のない声でそう話し始める。ここを去ることも残ることもできないから。彼女は伝えたい事を伝えて去ろうと思っていた。

ひとつ、溜息をついた。

 

ルイがちらりと彼女に視線を送った。

鋭い視線であったが、僅かな驚愕が含まれていた。

ヒカル・クロスは溜息を漏らして歎くことを知らない者であると思っていたからだ。

「久しぶりに・・ルイに会ったのに、声がかけられなかった。私はルイの会話についていけないのに、その人とルイはずっと話をしていて、ルイは紳士で・・・その人を車に優しく乗せていた。戻って来たばかりで疲れているはずなのに、それでも会いたいと思う人がルイに居るって知らなかったから。だから・・・・」

「ヒカル」

ルイが彼女の言葉を遮った。「言っていることが理解できない。順番に理論的に話してくれ」

「ああ、だから、私はルイを失望させてばかりだから・・・」

「オレの全てをヒカルが知っていると勝手に妄想するのは構わないが。事実と反することをオレに強請しないでくれないか」

彼は辛辣に彼女にそう言った。そうだね、とヒカルは言って小さく嗤った。しかしヒカルの返答は、ルイの言葉へのそれではない。

彼は、彼と一緒に居た人物は単なる泡沫の恋の相手であり、彼にとっては恋にさえならない相手であると訴えているのに。

ヒカル・クロスにはそれは通じていなかった。

「今日は、私はこの水月を見に来ただけ。・・・シャルルにとても美しいと教わっていたのだけれど、私はなかなかここに立ち寄ることができなかった。何となく・・・ひとりで水に近寄るのは気後れていた。・・・でも、ルイが居たから。ルイが来ると知ったから、少しだけいつもと違うことをしてみたいと思ったのかもしれない」

うまく説明できない、と彼女はそう言った。

 

彼女が訪ねたのは、ルイが誰を愛しているのか確認するためではなく、水月を見にやって来たと言った。

残酷なのはどちらだよ、と彼は心の中でそう呟いたが、それは決して口にしなかった。

彼の全てを知りもしないで、彼の全てを知ったような口を利く。それでいて、彼女はこうして彼を乱して去って行こうとする。

今・・・このまま彼の腕の中に今ひとたび堕ちて来るのであれば。

またあの水月を壊すほどの勢いで彼は彼女を・・・その先はあり得ないことであるので、ルイは思考を停止した。


■10

 

「簡単な話だ。・・・行くか、行かないか。ヒカルに選択権をやる。だから早く決めろ」

「ルイ」

ヒカルが少し哀しそうに言った。

彼が完全にヒカルを拒否していると知ったからだ。

どうしても彼とわかり合うことが出来ない寂しさを感じ、ヒカルは泣きそうな顔をした。

けれども彼女は人前では泣かない。

それが彼女の誇りだからだ。

彼女の唇が細かく震えていた。

躰が濡れてそのままでいるので、体温が奪われていくのだ。

涙を堪えているのか、寒気を堪えているのか・・・それすらわからないほどに彼女は萎れていた。

永遠の光という名前を持つ贖罪の娘は、誇りというものを持ち合わせていない。

唯一、人前で泣かないという事以外には彼女は自分を主張することはない。

なぜ、この家で育ちながらそういった魂を育てることが出来ないのだろうか。

声を殺して自分を殺す。それで生きているという実感を味わっているとしたらなんと愚かな愛翫人形をシャルルは育てたのだろうかと思わざるを得ない。

 

「オレを軽視するならそれなりの返礼をしよう。・・・けれども、聖女気取りであれこれオレを愚弄するならおまえを滅してやることもできると言っている」

彼は溜息をついた。

どうしても彼女がここを退くつもりがないのであれば・・・彼が去るしかなかった。

予定を変更するのは不本意であったが、これ以上彼女とここに居るのは彼にとっても良い状況ではなかった。ヒカル・クロスが夜に出歩いてルイと話をした後、ずぶ濡れで部屋に戻ったという状況報告は明日の朝には当主の耳に入るだろう。

当主とルイの不仲についてヒカルはよく承知しているはずであるのに、彼女はそれでも・・・溝を埋めるどころか深める行為ばかりを繰り返す。

もっとも、ヒカルが関与していなくてもそうであっても、彼らの関係は変わりが無かったが。

 

・・・水月は実体のない幻を指し示す。

実体がないのは、どちらなのだろうか。

それを見たいとヒカルは言ったが、幻なのはどちらなのだろうか。

シャルルか、自分か・・・

 

その時だった。

「ルイ。水月は、月があるから映る」

ヒカルが彼の思考を読み取ったかのような発言をしたので、彼は青灰色の物憂げな瞳を持ち上げた。

彼女は濡れた上着を脱ぎながら、立ち上がった。

滴り落ちる衣が重すぎるからだ。

加えて、邸内を汚してはいけないと思ったらしい。雨のように落ちる水を含む衣を脱いだ彼女の躰の線が・・・月光によって僅かに浮かび上がる。

ルイは横を向いた。

彼女の肌理の細かい象牙色の肌が月光を反射して淡く輝いている。

「だから?」

彼は顔を背けたままそう言った。縁に伸ばした両腕に力が込められて、細く長い指先が拳の中に収められた。

ヒカルの声がルイの見事な金髪に降ってくる。

「だからね、水に浮かぶ月は・・・とても綺麗だと思うの。儚いからじゃない。幻などではないから。空を見上げられない時に水月を見ることがある。余りに綺麗な月で、まっすぐ見られない時に、水月を見ると・・・穏やかな気持ちになる。なぜだろう」

「さあね」

彼は素っ気なく答える。しかし、ヒカルがルイの内なる問いかけに正しく回答したことについて、反論せずにその言葉をただ黙って聞いているだけであった。

月も水月も虚実の区別なく、どちらも本物であるということか・・・

 

彼は嗤った。

彼女は理解していないだろう。

 

単に・・・本当に水月を観に来ただけであろうし、夜にひとり出歩くことを禁じられているからルイの在室時にここに来れば良いと単純に思っただけだろう。そして、彼が彼女の知らない者を連れ歩いてきたことを「ついでに」尋ねるつもりでいたのかもしれない。

そこには「ルイに会いたかったから」という願望は含まれていない。

 

周囲の者達は皆、彼に再び会うことを願う。特に、恋に恋する者は、ルイと面識があるなしに関わらず、彼と恋に堕ちることを夢見ており、彼本来の自我を無視する。

フランスの華の再来と言われている星辰の子が・・・自分だけをファム・ファタルと言ってくれやしないかという浅ましい欲念に囚われてしまっている者をどうして愛することが出来るのだろうか。

彼は、何かに執着してはいけないと言われて育てられた。だから、誰か特定の者に執念を注ぐ行為はしない。

単なる興味半分でしかないし、人の性や業が理解できた段階で、観察対象から外れてしまう。

彼に愛されていると誤認する者も居るが、皆、その段階で切り捨ててきた。

そもそも、愛など知らないし、率先して知るつもりもなかった。

 

「・・・ローブを借りるわね」

ヒカルはそう言って立ち上がり、彼から少し離れて衣類の水気を軽く取り除く作業を始めた。滴り落ちる水音が幾度か聞こえて・・・ルイはただ、黙って水面に晄輝く月を見つめていた。

結局は、彼女はシャルル・ドゥ・アルディの言葉に左右される。

いつも、そうだった。彼は溜息を漏らす。

彼女と居ると、苦しくなる。居心地が悪くなり、集中して自分の作業に没頭できない。・・・はやくどこかに行けば良いのに。

 

彼の中に堕ちて来る勇気も情動も持ち合わせていないのに、彼女はそれでもルイに関わろうとする。

そして彼から遠ざかり、距離を保って接することもしない。

一体、何を考えているのか少しも理解できない。いや、理解できたら終わりだと思った。彼女を理解したいと願うことは彼に禁じられている執着そのものであるのだから。

ヒカルの裸足が水を打ってプールサイドから離れて行く音が聞こえた。

振り返りそうになり・・・ルイはまた横を向いた。

彼女の露わな格好を眺め回すような無粋な真似はしたくない。

また、それほどヒカルの存在を意識しているわけでもない。

 

・・・久しぶりに会ったヒカルはまた少し身長が伸び、髪が伸びていた。

水中での再会でなければわからなかったこともあるし、こんな薄暗い水面に浮かぶだけでは判別つかなかったこともあった。

しかし彼女は確実に・・・フランスの華のファム・ファタルに似てきている。

確実にシャルルを狂気の路に追い込んでいる位にとても良く似ている。

大きな瞳に茶色の髪、形の良い額に櫻色の唇。象牙色の肌に良く映えていた。

・・水気を得て大きくうねる髪は父親からの遺伝だろう。

彼女はどんどん少女から娘に変化していく。

彼が少年から青年に変化していくように。

それなのに。

なぜ、これほど無防備なのだろう。

彼女は、なぜ、ルイにこれほど大きな苛立ちをもたらすのだろう。

呼吸も出来ないくらいに。

長い時間会わないでいたのに、彼らには再会を喜ぶ抱擁も接吻も存在しない。

 

ヒカルとルイは・・・。

・・・家族ではないからだ。

恋人たちと定義もしない。ましてや、兄妹でもない。

 

・・・ヒカルとルイの関係を定義しろという方が誤りなのだ。

 

彼が彼女を万が一、愛することになったら。

それはアルディ家の遺伝子が持つ、無いものへの渇望という因子のためであるとシャルルは説明するだろう。だから、彼が・・・いつまでも、ファム・ファタルを忘れられないのは当然のことなのだと傲然と言うだろう。

そして同じ様に・・・・ヒカルはルイを愛さない。遺伝子による引力が存在するとしたら、彼女はルイを愛さない。

彼女の母が、シャルルではなく、シャルルの親友であるあの男を選んだように。

 

 

 

 

 

 

 

■11

 

「早く行け。ヒカルの目的は達成されたはずだ」

ルイはそれだけを言った。

これ以上ここに居れば彼が次に何をするのか、彼女は想像できないらしい。

 

抗えない昂揚について、ルイは知っている。

彼に制御できないものはない。

だからそれは肉体の欲求でしかない。

彼は律することができることを証明し続けている。

 

・・・俗情は彼には煩わしい些事でしかない。

・・・劣情は彼の誇りを傷つける因子でしかない。

 

だから彼女と離れているというのに。

ヒカル・クロスは、傷つけられたいのか、そうでないのかよくわからない行動をルイに披露する。

それが彼を憤慨に導く。

彼にわからないことはないはずなのに。

理由もなく苛つく。

 

水に濡れた足が床を歩く音がする。

しかしルイは振り向かなかった。

彼女が去る姿を眺めるだけでも時間の無駄だ。

彼女の遠退く衣擦れの音を聴くだけでも気に障る。

彼の胸元で僅かに漣が蠢く。彼の内なる浪のように。

物憂く水月を眺める。彼には為し遂げなければならない目的があり・・・それはあの月を・・・この家の主を墜とすことである。

しかし。

月が消えたら、水月も消える。

しかし、彼の憂いは鎮まらない。

 

「ルイ」

彼女が彼に声をかけた。

ルイはその声を無視することにしたが、それでも彼女は彼の名前を呼んだ。

「ルイ」

星辰の子は眉を顰めて、嫌悪感を露わにした。

彼は誰かに指図されることは好まない。

いったい、いつになったら、彼女はそれを学ぶのだろうか。誇り高き薔薇の後裔がここには幾人も集うのに。彼女はその者達を観ているというのに、未だその一員になりきれずに居る。

フランスの華はそれが愛おしいと言うが。ヒカルはこの家の者として生きることが出来ない。

 

「・・・何だよ」

彼が面倒そうにそう言って、気怠げな瞳を声のする方に向けた時。

・・・・彼は薄い唇を閉じて、押し黙った。

ヒカル・クロスは、まだこの場から去ろうとしない。咎められることはわかっていたはずなのに。彼女はルイの名前を呼んで、彼を振り向かせる。

 

彼女が、ルイのローブを濡れた体の上に羽織り、そして腕を上げて自分の身体には大きすぎることを確かめるように、袖口から僅かに見える自分の指先を眺めていた。首を竦めて、彼の温もりを探すように彼女はローブに躰を埋めるように身を縮ませていた。

ヒカルは、ルイが呆れて言葉を発さずにいることにすら無頓着であった。ヒカルに月光が差し込み、彼女の茶の髪が僅かに金色のように輝いた。髪が濡れて濃く見えるはずなのに。彼女は、一瞬、確かに輝いていた。

彼女は眼を細めて嬉しそうに言った。

「ルイは、こんなに背が伸びたのね。・・・プールではわからなかった。遠目で見た時にもわからなかった」

その時ルイ・ドゥ・アルディは、ヒカル・クロスが何を確認しにやって来たのか、本当の目的を知った。

「少しの間に、ルイがとても身長が伸びて・・・後ろ姿がシャルルにとてもよく似てきたから・・・驚いた」

ヒカルはそう言って、濡れた髪をローブに散らせたまま、柔らかい感触に陶然としていた。

水槽の中で・・・彼女の足が着かない場所に彼は立つことが出来る。

そして彼女の躰を包んでしまうほどに広い背中と長い腕を持っている。

それほど長い時間を隔てていないのに、少年から青年になっていくルイの変化に、ヒカルが心を動かされているのだと知り、星辰の子はただ黙って彼女の喜悦の様子を眺めた。

 

「ルイがあまりにも・・・そう、あまりにも素敵になっていくので、私は少し驚いてしまった。・・・それだけ」

「それをわざわざ伝えに来たのだとしたら、粋狂極まりないと言う以外に表現がないな」

彼はヒカルの様子を眺めながら、素っ気なくそう言った。

彼女は髪が少し伸びた。

背も伸びた。

けれどもまだ少女特有の特徴のままだった。

不均衡な華奢な手足に、顔や躰の線は固い。

「知っている?月の光は、人を狂わせるのですって」

「シャルルの受け売りだな」

彼は鼻で笑った。

彼が父のことを尊称で呼ばなくなって久しい。

「狂っていると認識しているのか?それなら、つまらない戯言めいたことを言うのも、ヒカルが狂っているからなのだろうな」

「月の光は人を狂わせるかもしれないけれども、同時に、いつもならできないことができそうな気がするの」

彼女はそう言って笑った。

「だからね、ルイ。私はこうしてルイがどんどん・・・もっともっと素敵になっていくのを観て、その度に驚くのが私の役割だと思っているの」

このまま居れば彼女を抱くと言った。このまま去れば距離を置いたまま無視すると宣言した。それなのに、ヒカルはそうではないとルイに言う。

・・・彼の思惑のとおりに進まない贖罪の娘の言葉を彼は聞く。

彼がちょうど、彼の生命の意味について、水月を眺めながら幽愁たる波底に沈もうとしたのを引き留めるかのように。

「勝手に決めるなよ。オレはヒカルと関わりになりたいと願ったことはない」

彼女が顔を曇らせる。ルイは額にかかった見事な金の髪を掻き上げた。

大きな掌で・・・ヒカルを軽々と抱き上げた彼の腕が見えた。

ルイは青灰色の瞳で、彼女を見上げた。白い脚を覗かせて・・・彼女はルイの前に立っていた。

 

「ひとつ、訂正しておく」

彼は静かに言った。

「ヒカルが見た相手は、オレの恋人ではない」「え?」

ヒカルが息を呑んでルイの言葉を聞き返した。彼女の動きが止まり、腕を下ろす。首を傾げて声を詰まらせていた。

彼は溜息をついた。

「随分と遠目で見たんだな」

「・・・どういうこと?」

彼は青灰色の瞳を持ち上げて、彼女を見上げる。そして、両腕に力を入れてプールの縁に力を込めると、そのまま彼は跳躍を必要とすることなく自分の身体を持ち上げた。ざっと音がして、彼が水から離れる音がしてすぐ次の瞬間にはぱしゃん、という水を打つ足音がした。ルイが立ち上がったのだ。

・・・そして、ヒカルの目の前に立った。

最後に会った時より、身長差が開いていた。ヒカルは唇を横に引いて、顎を動かし視線を上げた。・・・ルイを見上げる。

濡れた体が光り、神々しいまでに完璧な躰がそこにあった。

ルイが無表情で彼女を見た。金の髪から雫が落ちて、細く長い指先からも水が滴り落ちていく。

ルイの声が近くなる。先ほど囁かれた時と同じくらいの声の近さだった。

「・・・あれはオレの名義上の母にあたる」

「ルイのお母さん?」

彼は唇を歪めた。

「年齢差は考慮する事項にはならないが。それなりに遇さなければならない時にそうしただけにしか過ぎない」

「ルイのお母さんなの?」

彼女が絶句した。これほど長い時間をこの邸で過ごしていながら、彼女はその存在について少しも情報を持っていなかった。アルディ家と関わりを持たない、ルイの親権を主張しない、という以上に様々な約束事や取り決めがあるとは聞いていたが。

彼は自分のことではないかのように、淡々と言った。

「・・・両家の取り決めで、オレとの面会はしないことになっているが。やむを得ない事情があったからオレからコンタクトした」

「やむを得ない事情・・・」

彼はそれ以上のことは言わなかった。ただ、肩を竦めて大きく溜息をつくだけであった。

「オレを観察する役割を持っている割には、何も知らない」

「そう・・・そうだったの・・・」

ルイのお母さん、と彼女は呟いた。彼女は驚愕していた。あまりにも若々しかったからだ。彼の少し年上の恋人だろうと思っていた。それに・・・ルイの遺伝上の母親であるはずなのに・・・

「並ぶと少しも似ているところがないからな」

彼が素っ気なくそう言った。

彼はデザイナーズ・ベビーであるので、遺伝情報を操作されて生まれて来た。彼女の因子はまったく引き継がないように操作されたかのように、少しも・・・類似を感じなかった。それは遠目であったからなのだろうか。しかし、それ以上彼女が考えることをルイは赦さなかった。

「オレは最適の時期に最適な相手を選ぶ。だからヒカルがそれを気にかけたりオレに意見する必要もないし、義務もない。権利すらない」

そこで彼は彼女から一歩離れた。

そして、ちらりとまた水面を見遣る。

彼が離水した際に湧き上がった波によって水月は消えていたが、また再び浮かび上がっていた。

■12

 

「ルイ・・・」

彼の名前をもう一度ヒカルが口にした時。

ぱしゃり、とヒカルの顔に水が飛んできた。

声を上げる余裕もなく、彼女は首を竦ませて、声を途切らせる。

ルイが彼女に向かって、滴る飛沫を飛ばしたからだった。

「オレの予定を狂わせた罰だ」

彼は金の髪を掻き上げて、そう言った。青灰色の瞳は冴え冴えとしており、彼女を見る目付きは冷ややかであった。

彼は予定を変更したり直前で再調整させることを厭う。

彼の手順は完璧だからだ。

だから、そうせざるを得ないというのは、他者が彼に大きく鑑賞してきているから故のことであるから。ルイは不機嫌な声で静かに言った。

「貧相な体を晒すのが趣味なら、そう言え。でもオレはそういったものを愛でる好みは持ち合わせていないので、ヒカルに付き合って自分の予定を変更するつもりもないし・・・そうなった時には、次の策を実行することにしている」

そこで彼は横を向いた。ヒカルの濡れた肌が光り、たとえ使用人であったとしても彼女の裸体に近いその姿を見せてなお平然としていられるほど、アルディ家の人間としての振る舞いについて失念するような動揺は彼には訪れない。

これほど近くに居るのに、彼女の魂はとても遠くにあった。

・・・・目の前にいる、娘というにもほど遠い少女は、あどけない顔でルイを見上げる。どんどん・・・彼と彼女は近付く。フランスの華と、彼がこよなく愛した・・・今でも愛し続ける彼のファム・ファタルの姿に近付いて行く。

そしてルイはそこに追いつき、彼女が追いつくのを待ち受けている。

かつての自分たちに酷似するルイとヒカルがシャルルを追いつめる。

これほど滑稽な笑劇はないだろう。

しかしその茶番に付き合うことにした。彼はそうすると決めたからだ。

彼が・・・ルイが生きている意味は、そこにしかないから。

退屈で無機質で、何も残らない色のない世界であったが、ここが彼の生きる空間であり・・・・彼は生涯、水月のまま、月にならないで終わったとしても、月そのものを滅することに邁進する。

 

「水月はね・・・月があるから、水月なのよ」

「だからなんだ」

ルイはきつい口調で彼女の言葉を否定した。

なぜ、時折、彼女はルイ・ドゥ・アルディの考えていることを読み取るような発言をするのだろうか。

彼の表情には何も浮かんでいないはずなのに。

まるで・・月は動かないが揺らめく水月によって心の内を見透かされているかのような・・・そんな根拠のない推測が彼の脳裏をよぎるがすぐにそれは否定される。

「オレがあの苟且の揺らいでばかりいる水月だと?本物になれない・・・天上の月を焦がれて揺らぐ形の定まらない疑似映像だと言いたいのか」

「違うよ」

ヒカルは哀しそうに言った。うまく言えない、と言って、それから短い言葉を繋げながら、彼に訴えた。

「最初から違うものだよ。水に浮かぶ月の影は月じゃない。でも、月があるから月の形になれる。水月は・・・何にでも形を変えて、どんな大きさにもなれる。月よりもっと水面で輝くことも出来る」

ヒカルは切れ切れにそう言って・・彼の香りの残るバスローブの中で縮こまった。怯えた顔をしているか、彼女はそれでも・・・ルイに懸命に言った。

「私はルイがそんな風にして輝くのが、とても素晴らしいことだと思う。だから、月に代わるのではなくて・・・」

そこまででヒカルの言葉が途切れた。

ルイ・ドゥ・アルディが再び・・・彼女に、肩先から指先に滴る水を浴びせたからだ。すでにほとんど全てが床に落ちてしまって、僅かな雨滴でしかなかったが、彼は勢いよく彼女に差し向けたので、ヒカルはぎゅっと眼を瞑り、それ以上言葉を続けることができなかった。

次に、彼がヒカルの注意力が逸れるのを待って・・・・彼女を掩っていたバスローブの胸元を力強く握り、彼女の踵が浮く程、思い切り持ち上げたからだった。

彼は少年ではなかった。線が細く、美少女のような風貌であった彼の時代は、次に移行していた。筋肉質の逞しいが決して不均衡ではない計算された肉体で、彼は彼女に何もかもが違うことを見せつけたのだ。

言葉で理解できないヒカルに対して・・・無言で今度は違う方法で憤りを向けたのだ。

 

ヒカルの唇が半開きになり、驚愕のあまり小さな唇を、声を出すこともなくただ震わせている様が近くになって、彼はそこで絞り出すように言った。

「オレを見縊るな」

ルイ・ドゥ・アルディは感情を露わにしないのに、この時ばかりは激情を垣間見せた。彼女にだけ。この瞬間だけ。

彼の素顔がちらりと覗いたので、ヒカルは目を見開いて近い距離にある彼の切れそうなほど鋭い視線に絶句した。

 

 

 


13

 

彼は冷罵されたと感じたらしい。唇を噛むと、そのまま、ふいと体を離し、青灰色の瞳を横にして、彼女の存在を消し去ろうとした。

「・・・忘れるなよ。アルディ家の家訓通りに、いつか返礼することになるだろうから」

彼はそれだけ言うと、濡れた髪をそのままにしてヒカルに背を向けた。整った左右対称の背筋が月光の下で燐光を発する。

「ルイ、待って」

ヒカルが慌てて、彼の背中に声をかけた。

「何だよ、ヒカルの用事は終わったはずだろう?」

彼が歩きながらそう言うと、ヒカルはそうだけれども、と言って口ごもったので、ルイは溜め息を漏らす。

彼女には失望の吐息しか出てこない彼に対して、遠慮を知らなさすぎる。

疎まれていることに対して無頓着すぎる。

なぜこれほどまでにルイに傷つけられてもヒカルはそれほどまで彼に近付こうとするのだろうか。

何度も拒絶されてなお、彼女はまだ、ルイと理解し合えると錯覚している。

それがシャルルとルイの架け橋になるきっかけだとでも固く信じているのだろうか。

月と水月は違う。

どちらが偽物で、どちらが本物かということではない。本質が違うのだ。

水月は月がなければ発生しないが、月は・・・水月がなくても月であることができる。

この違いがあるだけだ。

ヒカル・クロスはルイに更に声をかける。

彼女の体格では大きすぎるバスローブが擦れる音がする。ぱしゃり、と床に広がる水が彼女の足の下で大きな音をたてた。

何もかもに無粋な喧々囂々たる動作音しか持つことの出来ない彼女に、ルイは顔を曇らせた。

ヒカルが少し早口に喋りだす。彼の許可を待たずに。

「私、私ね。・・・ルイが誰かと一緒に居て良かったな、と思ったの。でも、次に、寂しいと思った。どうしてなのだろう。その次に、ルイに確かめたくなって、尋ねれば簡単なことなのに、それはいけないと思ったの。なぜなのかはわからない。

そしてルイが微笑んで居る顔があんまりにも綺麗で・・・良かったねと思わなくてはいけないのに、少し・・・・少し苦しかった。ルイのお母さまだと聞いてどこか重かった胸のつかえのようなものが・・・軽くなって、でも、またすぐ次には、ルイがこの家で見せたことのない笑顔を向けることが・・・苦しい」

「自分のやりたいことばかり実現できなかったからと言って、オレにそれを共有することを求めるなよ。・・・厚かましいというのは、ヒカルのようなことを言うのだろうな」

辛辣な彼の言葉に、ヒカルは震える声で更に言う。

「ルイ、私、どうしてこんなに苦しいのか・・・わからない」

その声は湿っていて、語尾は消え入りそうなほどに小さかった。

ルイは足を止める。彼女に静かに向き直り・・・そして彼女の温度を含んだ彼の衣類を纏っているヒカルを見る。

青灰色の切れ長の瞳が・・・濡れて焦げ茶色になった髪を乱れるままにしているヒカルの姿を捉える。

 

彼はしばし無言であった。

不均衡な体に、大きな瞳。まだ、少女というにさえ、足りていないほどにあどけなく稚拙な言葉でしか自分の状態を表すことが出来ない。

 

静かな・・・湖のような水面の上に、水月が輝いていたが、それは先ほどの場所から僅かに移動し、ただ清閑にだけを伴ってそこに在るだけであった。

 

彼は彼女を見た。何を言っているのかさえわからず、戸惑う彼女を眺める。

ヒカルは幼すぎたから。

彼女は、それを説明できないくらい、幼いから。

まだ・・・時期が訪れていないのだと思わざるを得なかった。

誰にも等しく愛を注ぐことに配慮している彼女が、何かに・・・ルイに対して彼女の何かを動かされていることを、彼女は的確に表現することができないのだ。

 

「オレがそれを教えてやるとでも?」

彼は小さな声でそう言った。

ルイはそのまま彼女から離れて・・・ヒカルから少しだけ遠ざかった。

 

今日、向き合うのはこれで最後だと決める。

 

そうしなければ、ヒカルをそのまま・・・・本邸に戻さずに情動に任せて朝まで拘束することになるからだ。

いずれ、彼女は彼の婚約者の候補に昇るだろう。

列挙された候補に挙がる名前たちの中で、高い順位でその名を見ることになるだろう。

その時。彼女は同じ事を言うだろうか。

苦しい、と。

ルイが誰かと共に居る姿を見て、苦しくなり、それが彼女の言うところの対象外と知って安堵し、そしてまた、彼が微笑む相手に苦しむ。

それが何なのか・・・何で在るのか、ヒカルは言い表すことが出来ないのだ。

彼女の父のような存在であるシャルル・ドゥ・アルディに対して彼がいつも感じていることと同質のものであるのに、それは水月のように・・・・同じ形をしながら、それでも違うのだ。

「教えてくれる?」

「断る」

彼が即座にそう言ったので、ヒカルは哀しそうな顔をした。

「自分でこたえを出せ。・・・それが正解かどうかは教えてやる」

ルイが溜息混じりにそう言った。彼女は譲らないだろう。

そしてそのことについて、考え続け、ルイに尋ねたが教えてもらえなかったと言ってシャルルに零すのだろう。彼女は同時にいくつものことを考えることができない。そして一度湧き上がった疑問をそのまま忘れ去ることもできない。

・・・シャルルが教えることはなさそうだ。それが、どういうことなのか。そしてシャルルも同じ様に感じるのだ。苦しい、と。ヒカルが誰かのことを考えることに苦悶を感じ、それを罪深く思うのだろう。贖罪についていつも考え続けているように。贖罪の娘の持つ罪にもにた後ろめたい気持ちについて同調し、そしてそれを感じないルイは欠落者であると言い募るのかもしれない。

『おまえは人でなくなっていく』と言うが、獣王のように自分の願いだけを叶えるために当主に居続けるシャルルの方が余程・・・有らざる行為と我欲で濡れていると思わざるを得ない。

 

大きく息を吸って、彼女に背を向ける。

「これで終わりだ。オレは戻る。・・・そのまま遊泳していたければ、勝手にするがいい」

ルイはそれだけ言い捨てて、足早に立ち去ろうとした。

「ルイ!・・・・私、一生懸命考えるから・・・」

「ヒカル。・・・オレを水月と呼んだこと、忘れるなよ」

彼はそれだけ言うとヒカルの言葉に返答せずにそのままその場を出て行ってしまった。

 

考えてわかることではない。きっと、今宵の出来事は・・・彼女の中で、「答えを出せなかった想い出」として残るだけであった。しかしルイ・ドゥ・アルディは忘却を知らない。だから、忘れることが出来ない。

彼女が、ルイ・ドゥ・アルディに対して悋気を持ったことを。彼は溜息を漏らした。あのまま、あの場に残して置いたが、そうしなければ・・・ルイはこれからの予定をすべて変更しなければならない事態に陥る。

それはまだ早い。

彼は・・・この家に君臨するために生まれて来た。

まだやらなければならないことがあり、他者のために何かを犠牲にするつもりはなかった。その予定もなかった。

ヒカル・クロスは切り札だ。

だから切り捨てられないが、彼女の価値を最大限に利用する時期は間もなく訪れる。

シャルルを陥れるために必要な駒であり・・・彼女をアルディ家の外に出すことはしない。

彼女の持つ大きな秘密の解明が完全ではないから。

 

彼は足早にそこから抜け出した。

水月とは、双方が接近して見つめ合う状態のことを言う。

鏡に相対するように。相手が動けば自分も動く。

相手が静観していれば自分も静かに見詰め続ける。

 

・・・・今回、会ってはいけないとされている人物と接触したことには理由があった。

彼の遺伝情報を分析するためだ。

どう見ても、彼女が遺伝学上の母であるとは思えなかった。

彼の推測する人物からの交配であったとすると、ルイの持つ権利義務関係は大きく覆ることになる。それが彼の利害得失に影響するのであれば、早急に手を打たなければならない。

彼がまだその年齢に達していないことを理由にして自分の遺伝情報を開示してもらえない以上は、まずは母方からの情報を得なければならない。

その開示を求める代わりに、代償として微笑みのひとつやふたつ浮かべたところで彼はまったく平然としていられた。

それをヒカル・クロスが目撃したとしても・・・それで何かが変化するわけではない。

 

だがしかし、ヒカルの中で何かが変わった。

彼に対して、もどかしい独占欲を感じ、それを言い表すことが出来ないで苦しんでいる。

もっと、苦しめば良いのに、と思った。

ルイ・ドゥ・アルディは渡り廊下を歩きながら、シャワー室に向かう途中で、濡れた髪の下で吐息を漏らす。

 

彼のために水に飛び込むヒカル。

彼の背が伸びたことを喜ぶヒカル。

彼に水月は月と違うと言い切るヒカル。

 

何もかもが腹立たしいが、それでも・・・彼女はシャルルの言い付けを破ってここに来た。

それが何故なのか、理由は教えてやらない。それが淡い儚い水月のような感情でやがて消えてしまったとしても。

ルイ・ドゥ・アルディにこたえを持ってきた時。

それが、その時だ。

ずっと待っていたその時が訪れる。

 

金の髪の下で・・・彼は薄く笑った。

目を細めて、彼は微笑む。

演技の笑みではなく、誰もが見ていないことを確認した上で・・・・彼はそっと綻んだ。

今は・・・今は待つ。気が遠くなるほど長い年月だ。これからもまだ待つことになるだろう。

けれどもそれは決して・・・・徒労に終わらない。終わらせない。

彼はすぐに表情を消して移動を始める。

肩や体を冷やしてはいけないからだ。バスローブをヒカルにやってしまったので、彼は濡れて温度を急速に失っていく肌をそのままに歩きだした。

 

完全に調整された体が・・・ヒカル・クロスに対してだけは、彼の命を無視する。

 

彼女の躯を引き寄せる。

彼女に彼のバスローブを貸与する。

彼女に・・・顔を近付け体を寄せようとする。

水に沈む彼女を抱き上げて胸に抱く。

 

これが何なのか、どういうことなのか、ルイ・ドゥ・アルディは知っていた。

でも、彼女には教えてやらない。

 

「・・・教えてやらないよ」

彼はそれだけ言うと、その場を立ち去った。

もう、その時には彼の表情はいつものルイ・ドゥ・アルディであった。

 

静かなアルディ邸の上空には、月が輝いていた。

 

 

FIN

 

 

 

 


炎熱 L-side 前編

■01


ルイ・ドゥ・アルディが外出先から戻ってきたとき、ヒカル・クロスが居室から出てこないという報告を受けた。


彼は上着を無造作に脱ぎ捨てると、大広間に備えられた長椅子の上に放り投げた。

すぐに彼女の居室に向かうことにするか、それを誰かに伝えることはしない。

彼が、誰かのために即座に行動することはあり得ないことだとされていたし、これからもこれまでも同じ評価を保つことに配慮していたからだ。


誰かに、何かに執着してはいけない。


そう言われて育った彼は、今でもその教えが浸透している。

しかし、すべてのものにそうであってはいけない、という教えではなかったと、最近になってようやく悟ったルイ・ドゥ・アルディは、彼の唯一の執着の相手にだけは・・・彼の意識を注ぐことを赦していた。


上着を脱いだときに俯いたので、その時に、彼の見事な金髪の下の、青灰色の瞳が何度か瞬いた。

しかし彼は表情を変えることなく、ただ苛立たしそうに唇を噛んだ。


確かに、彼女は今朝は起き出さなかった。

彼の居室にはヒカル・クロスの用意した薔薇がなかった。

ヒカルの用意する最高の状態の薔薇に、そこで、彼はいつもの様子と違うことに気が付いていたのに、そのまま彼女を置いて邸を出発していた。


ヒカルは、彼のために、毎朝、最高の状態の薔薇を捧げるようになっていた。

茶色の瞳の茶色の髪の娘は、彼と長い時間を一緒に過ごしてきた。


何もかもを知っている。

彼女の苦悩も。

彼女の涙も。

そしてヒカルは、彼の囁く言葉を歌にして、いつも眠りに落ちることを無上の喜びと感じているのだと知っている。

それは彼も同じだったから。

ひとりで居る時しか眠れなかったのに。

今は、彼女が傍にいない夜は眠れない。


しかし、彼はそれを伝えない。これからも同じだろう。

ルイはそういう生き方しか知らない。


瀕死の重傷を負ったけれども、そこで彼は生まれ変わったように人格を入れ替えることは・・・遂に、できなかった。

いや、そうしなかった。

彼ではない人物になって、彼女の愛を得ようとしたが、それはルイ・ドゥ・アルディではない、と、ヒカルによって否定され、そして彼は彼女の導きによって、彼女と一緒に、戻れない路から戻ってきたから。

それが貴方なのだ、と彼女は言ったから。


だから、今、ここで彼は生きている。

彼女とともに。


しかし、彼が待ち望んだ、彼だけのファム・ファタルは、いつもルイ・ドゥ・アルディの思い通りにならない。

今朝もそうだった。

朝の弱いルイ・ドゥ・アルディを起こす役割の彼女が起きてこなかった。

そして、ひとりでは眠れないと囁く彼と同じ屋根の下で過ごしていながら、彼女は自分の居室で休むと言った。

彼は美しい眉を顰めた。

その時のことを思い出したからだ。

ヒカルは彼の思い通りにならない。

彼が幾手も先を考えて行動するというのに、彼女は結果の通りの路の上では走らない。

ルイ・ドゥ・アルディの胸の中で眠ることを拒絶した。


気まぐれを満たすだけであれば、ここで彼女を解放することも考慮しようとすることもできた。

しかし、誇り高い彼が、自分自身を律せなくなるのは、ヒカル・クロスだけだった。

この理由を彼は生涯かけて解明しようとしていたが、糸口さえ掴めていない。長い年月が経過していると言うのに。


彼が軽くノックをして扉を開けても、ヒカルはそれに応じて更に奥にある寝室の扉を開く気配を伝えてこなかったので、ルイ・ドゥ・アルディは入るぞ、と短く低く言って彼女の居室に入室した。

■02

彼女の寝室には鍵はかけられていなかった。

しかし、そんなものがあっても、ルイには通用しない。

彼が望めば、彼女が入ってきてはいけないという場所にさえ・・・行き着くことができた。


だが、そうしないのは、彼がルイ・ドゥ・アルディだからである。

誇り高いアルディ家から望まれた種である彼は、幼い時からすべてを教えられて育ってきた。

アルディ家の家訓、これまでのしきたり、理想とされる所作、そして気高い魂が何より勝るということ。


だから、ルイはヒカルを尊重して彼女との距離を保つ。

決して彼からは近寄らない。

彼はそこに入り込むことを無粋だとして、滅多なことがなければ足を踏み入れることはなかった。


それ以上に、ルイの誇り彼女の元に通うのではなく、彼女が彼に通わなければ・・・彼はヒカルを赦さなかった。


彼女は贖罪の娘だ。

彼に購うために生まれて来た。


贖罪されるために。

贖罪するために。


ヒカルの生は意味は、多岐にわたる。

彼女は、その意味を探し続けて今日に至る。


同じように、創られた命であるのに。


同じように、誰かの意図でやって来た命であるのに。


それなのに、なぜ、ルイとヒカルの生の意味はこれほどかけ離れてしまったのだろう。

これ以上、彼女の傍で生活していれば、おそらく、やがて・・・それほど遠くない未来に、彼女を壊してしまうかもしれないという予想は立てていた。


部屋に入ると、僅かに空気が流れる気配がした。

彼女の香りが残っている。

と、いうことは、寝室で臥せったままでいるわけではなかった。

彼女が確実に、そこに居たという痕跡を感じ、ルイは厳しい表情を僅かに緩めた。


ルイにとって、ヒカルはまったく理解できない生命体だった。

彼女の心情が手に取るようにわかるときもあれば、まったく理解出来ない時もあった。

完全に理解し難いのであれば、そちらの方が、まだ御しやすかった。

わかり合えないと最初から承知していれば、それ以上先の未来は存在しないからだ。

だがしかし、ルイは・・・唯一。ヒカルだけに許可してしまった。

彼の傍に居ることを、ヒカルに誓わせた。

彼は傍に居ることを、ヒカルに誓った。

彼の名前にかけて。


決して彼は約束を違えたり忘れたりしない。





■03


「ヒカル」

声を上げるつもりはなかった。ルイは低い声で、彼女の名前を呼ぶ。

永遠の晄という名前の贖罪の娘のことを、もう、幾度、呼んだことだろう。

室内はとても静かであるが、人の気配を感じたから。


この部屋に、誰の先触れもなく入ることのできる人間は数限られている。

この部屋の住人は、誰が入ってきたのかを知っているから。

だから自分の名を名乗るつもりはなかった。


しかし返事がないので、彼は少し苛立たしそうに、見事な金の髪を掻き上げた。

彼の青灰色の瞳も、顔立ちも、フランスの華と呼ばれている彼の養父にとても良く似ていた。

険を含んだ視線で周囲を見回すが、彼女の足音がしない。

つまり、彼女は部屋の奥に居て、ルイの入室の気配に気が付いているのに、やって来ようとしないのだ。

ルイは溜め息をついた。なぜ、ルイを迎えないのか。

彼女が、まだ、あの人に心を残しているとしたら。

それなら、それでも良かった。

ヒカルを手放すつもりはない。彼のものだ。彼だけのヒカルだ。

彼女のもたらす様々な福音を理由にしなくても良かった。

それらがなくても、きっと、ルイは彼女を捜し出しただろう。

永遠の晄の名前を持つ人を探し出すために、この家を捨てることさえ厭わないと思ったのかもしれない。

しかし、あり得ないことを考えることはしなかった。彼はルイ・ドゥ・アルディであることを変更することはできないからだ。

少なくとも、もう、二度と惑うことはしない。

彼女が光となって導くのではない。

彼は星辰の子だから。

光さえ引き寄せる。

彼女を引き寄せ続けることで、ヒカルをルイの永遠の人と定めたからだ。


彼女を傍に置くことで、彼はどんどん・・・・自分でなくなっていく。

かつて、人でなくなってく、と養父に言わしめたルイは、星辰の子と呼ばれて、今ではアルディ家で絶大な発言権を保持している。

フランスの華の再来と言われており、彼ができなかったことを、ルイなら為し遂げるかもしれないという大きな期待が彼を包んでいた。

そして、彼は、それが目的で生まれて来たのだから。

人でなくなっても良い。

それでヒカルが彼の傍に居るのであれば、獣にでも星辰そのものになることさえ受け入れようと考えていた。

ルイは、ルイ・ドゥ・アルディであり、誰でもないし誰にもなれないと承知していながら。

彼女の望む不可能を、彼はすべて叶える用意があった。

しかしヒカルは何も望まない。

今の暮らしがそのまま続けば良いと言うだけだった。


ルイ・ドゥ・アルディは吐息をついた。

今日の帰邸が遅くなったのは、ヒカル・クロスとの結婚を、まだ少し先に延ばすと宣言してきたからだ。

親族会は難色を示してきた。

先方のクロス・グループが、ヒカルの処遇を巡って異議申し立てをしていることが発端であったが、彼女はただ静かに暮らしたいという曖昧な希望しか言わなかった。


部屋は薄暗かった。

バルコニーの向こう側は、暗墨色が広がっている。

もう、夜も更けている時間ではあるが、ルイは帰邸が遅くなることを予め告げてあった。


それなのに、ヒカルはルイを出迎えない。

満面の喜色を浮かべて、彼に微笑む姿を見せない。

誰もが彼を欲する。誰もが彼の眠る姿に寄り添いたいと言う。けれども。ルイ・ドゥ・アルディは冷笑するだけで、そう言って近付く者たちを排除する。

彼には必要ではないからだ。

それなのに・・・・ヒカルはルイが欲しいと言わない。希って縋ってみせることもしない強情な娘だけが、ルイを凍て付いた精神を安らがせる。

彼女は凍ったルイの心に直接触れる。その光でもって包む。


何もかもが思い通りに行かないのに、それでも、彼女の微笑みを見ると、彼は苦笑いを浮かべてしまう。


「ヒカル」

ルイはもう一度、彼女の名前を呼んだ。寝室に許可なく足を踏み入れるのは、アルディ家の者としてはまったく無粋とされていることであったが、今回はやむを得ないと思った。

・・・・咎められても反論できるように、十分な時間を見はからって、ルイはゆっくりと彼女の寝室に足を運ぶ。■04


何もかもが、望まれた縁組みではなかった。

ルイの家は古くからの柵があり、東洋人の血筋を入れることに難色を示す者は皆無であったと言うとそれは虚偽になる。

ヒカル・クロスは幼年齢から過ごした間柄であり、彼の扱う分野の後援となるべき家柄の娘であった。

古の血脈を守る以上に、彼女がもたらすものは大きかった。


しかも、ルイの養父とヒカルの実父は幼少期からの知り合いであった。

・・・彼らは同じ女性を愛し、フランスの華と呼ばれるアルディ家の当主は、その人物・・・つまり、ヒカルの母親を焦がれて、長い間、愛の彷徨に漂っていたという実情があった。


彼女を引き取るということに大きな意味があるからこそ、アルディ家はシャルルの無謀な申し出を引き受けた。


いつか、あの、星辰の子が世界を支配するときが来るだろう、という願いがあった。この国の頂点に立つことを願った彼の親族達は、いつの間にか、ルイなら世界を支配できると渇望するようになった。

それが煩わしいわけではない。

彼はそのために生まれて来たから。

だから、この状況を最大限に活用することが、禁忌に踏み入ることだとは考えていない。


簡単に手に入れられる状況であった。けれども、実際はそうではなかった。

ヒカルを娶るには、様々な困難があり、フランスの華は、ヒカルの母を自分の妻として娶った時にはどういう課題が残されているのか想定していたのだろうと知る度に。

彼女の持つ遺伝子を、この家に入れることは、これまでのすべてを覆すことになる程に大きな波と熱をもたらすのだと実感する。


しがみつくつもりはない。

彼女のこたえは求めていない。

・・・ルイの炎熱だけを受け止めることしか赦さない。

他の誰かを愛し、他の誰かの熱を受け止め、他の誰かのものなるヒカルであるならば、彼は最初から欲しなかった。


「・・・・ルイ」

嫋々たる声は、寝室の奥から聞こえて来た。


・・・ルイは足を速める。


彼はそうすると意図していないのに。


彼女の声は独特だ。

非常に・・・彼女の母に似ている。

顔立ちも良く似ていたが、父親の体格を受け継いだ彼女は、あの人そのものではなかった。

彼女の母の面影を色濃く残している程度の体軀であった。

しかし、彼女の顔立ちや声の調子はとても・・・あの人に良く似ていた。

ファム・ファタルと言わしめた、あの・・・小柄な東洋から来た眩しい人と良く似ていた。


苛立たしい。彼の予定も標準も無視して、彼女は彼を呼ぶ。

そして従わざるを得ないような強い引力で、彼を寄せる。


・・・・彼は星辰の子であるのに。


だから、優しくできない。

だから、優しくしない。


もっと、と焦がれるから。

できることなら、彼女を離さずに一日のうちのほとんどすべてを、彼女を侍らせて自分の理解できない自分について、分析したいと思う程に。


・・・はじめて逢った時から。

あの時の衝撃を忘れることはできない。


そうだ。

彼は・・・・認めることはしない。

彼女に夢中だと。心身のすべてで、彼女を愛していると認めることはしない。

認識しているかどうかは問題ではない。


すでに、ルイはその声を求めていると。彼女の声を聞くと思い知らされるから。

■05


どれほどささやかな声であったとしても、彼は彼女の声を聞き漏らさない。

それを知っているから密やかな声音しか出さないのか、それとも、彼を試しているのか、それすら責め立てる気にはならない。


少なくとも、今は。


しかし、彼はルイ・ドゥ・アルディであり、薔薇の一族の頂点に立つべくして望まれた命だった。

その彼が、たったひとりの・・・茶色の髪の茶色の瞳の娘に、これほどまでに翻弄されることを、ルイ自身が赦さなかった。

なぜ、彼女は彼を揺さぶるのだろう。


そして。


なぜ、彼女は、いつも・・・

なぜ、人と一緒には眠れないルイの隣で安らかに眠ることができるのだろう。

なぜ、彼の気が付かないうちに起き出して、最高の状態の薔薇を彼のために捧げる行為を繰り返すのだろう。


果てることのない尽きることない疑義を破砕することができない。

おそらく、ヒカルと共に居る限り、生涯考え続けるのだろう。


「ヒカル。返事をしろ」

彼女は、彼の名前を一度だけか細い声で呼んだだけで姿を見せようとしない。

決して動じていないと宣言するかのように、ルイは高慢に彼女に命じた。

彼女に支配されるつもりはない。彼はルイ・ドゥ・アルディだ。

それなのに・・・なぜ、すぐに温もりが欲しくなるのだろう。


それらのどれにも、ヒカルはルイに答えていない。


彼は薄い唇を噛んだ。

整った顔立ちは、誰もが魅入る程に美しく、それでいて孤独に満ちてなお冷然としていた。

彼は少しばかり疲れていた。

彼女との未来設計に、修正を加えなければならなかったことに起因するものだった。

加えて、ヒカルとルイの繋がりは愛ではなく、利益によるものであるから、その先の手を考えておけと言われて、彼は冷笑したのだ。

彼はいつも人の数手先を行く。何十歩先の次を考えている。

それなのに・・・・ヒカル・クロスとの将来には、先々を想定しているのかと詰問されて、激昂する感情を露わにしない努力に注力したことが、彼の機嫌を激しく損ねていた。


彼と彼女の関係が終わるとは考えていない。

死してなお、これは消えない刻印となって残り続ける。


誰が認めなくても。

誰が否定しても。


ルイ・ドゥ・アルディの生涯をかけて遂行しようと決めたことは・・・・彼が決めたことは覆されることはない。


人の気配は察知している。

彼の闇目が慣れるまでの間に、すでにその気配はヒカルのものであることは認識していた。

しかし、明るいところから入り込んだルイが、手探りで彼女を求めることは、決してしないと決めていた。

手繰り寄せられるべきはヒカルの方である。

今すぐ、彼に駆け寄って、彼の名前を何度も繰り返し呼び、彼の愛を乞わなければ・・・この激憤は鎮まりそうもなかった。


「ルイ」

次に、はっきりと声が聞こえて・・・・

寝室の中央から衣擦れの音が彼に耳に渡る。

独り眠るには広すぎる寝台の上で、彼女は横たわっていた。

身を起こして・・・薄くて軽い毛布を身に纏い、暗闇の中でルイの方をじっと見つめていた。

茶色の髪に茶色の瞳は、闇に解けるほどの色濃さがあったが、彼女の肌の白さは、闇の中でぼんやりと仄明るく燐光を放っていた。

それはいつも間近で見る白さより妖艶な光をもって、彼を誘引していた。

「起きているなら面倒をかけるな」

彼は抑揚なく冷たく言った。

彼女は意識があり、彼の声を認識できる程度であることは確認できたから。

■06


そこで考えるよりもまず先に、彼女の声源に向かえば。


・・・・その瞬間に、彼は彼でなくなると思った。


彼はルイ・ドゥ・アルディであり、それ以外に決してなり得ない。


だから彼女の姿を求めない。

彼女の姿を探さない。


深い闇に溶けていく。

光から遠ざかる。

それでいてなお、遠い光を求める。

遠ざかる光を求める。


彼は、近付く光を求めることはしない。

光から寄ってくるのを待つ。それは慣れていた。

それは、星辰の子と呼ばれるルイに傍寄る性質を持つから。

遠ざかっていく光ほど、彼は手に入らないと知る。


もし彼女がそれを計算しているのだとしたら。

そうだとしたら、ヒカルという人物は、ルイの脅威となる存在でしかない。


・・・しばらく黙っていたが、このまま立ち尽くして時間を浪費することによって失うものを考えると、ルイから動く方が損失は少なかった。


何を損失するのかは、ルイにはすでにわかっていた。

彼女の愛は決して減ることはない。

けれども、彼女の哀しみは減ることがある。


彼女の香りのする居室で、彼は横を向いた。

彼女の部屋に滅多に足を踏み入れることのないルイは、慣れない空気に眉を顰める。

ヒカルの髪の香りも、肌の湿りも、すべて知っているというのに。

それでも、彼女の居室に、ルイの居場所はない。

彼は寝室に足を運ぶ。そして同時に息苦しくなる。

・・・彼女が失調していることは明らかだった。湿った空気に、静かな掠れたヒカルの声、ルイの帰邸にも応じない理由・・・どれをとっても、彼女が発熱していることは明らかだった。

それなのに、彼女はひとり部屋に引きこもった。

ルイの部屋ではなく、ヒカルの自室に。


それが、気に入らない。

ルイの平常を妨げる。ルイの静寂を妨げる。


「ヒカル」

闇目に慣れてきたルイは、僅かに頬を引き締めた。

どうして彼女はいつも彼の思い通りにならないのだろうか。

彼は最後の言葉をかけた。

彼女が応じないのであれば・・・彼はそのまま部屋を出て行くつもりだった。


ヒカルの存在は他に代替がない。

けれども、それを理由に彼女がルイの何かを・・試すのであれば、その時は終焉という名前の新しい事態が訪れるだけだった。

しかし、ルイは、その未来は予想していない。

ヒカル・クロスがここからいなくなることについて、ルイは想定していなかった。

誰が誰を必要であるか、彼はよく承知していたからである。


衣擦れの音がして、掠れた声が聞こえた。長らく水分を摂取していない声の嗄れであった。

「こちらに来てはいけない」

「理由を言わなければ命令でしかない。・・・オレが誰かの命令に従うと思っているのか?」

「私・・・・」

ヒカルの言葉は唐突に始まったのに、ルイはそれに驚愕することもなく、会話を続ける。


声が聞こえるだけで安堵する。

ルイ・ドゥ・アルディが。

・・・彼女の声を求めている。それは何故なのか。

理由を知っているが、それを彼女に教えてやるつもりはない。

■07


彼は部屋の半ばまで進んだ。

彼女の居室には、禁域が設定されているかのようだった。

彼が進んではいけない場所がある。

それが、ヒカルの居室だった。

幾度かここには入ったことはあった。

けれども、彼女の許可を得て入ったことは数度しかない。


・・・ヒカルはしばしば、彼の別棟に入ったが、彼女は自分の部屋には滅多なことがない限り、招いたことはなかった。

もちろん、夜の逢瀬の閨としてその場を使うことはなかった。


彼は冷笑した。

「オレに禁じる命令をすることができると思い上がる人の顔を眺めてから・・・この室を出ることにしよう」

そして彼は端整な顔を背けた。

彼は腕を伸ばした。

その先に、白い肌を湿らせた、永遠の晄という名前の人が居ることを確信して。


もう、ずっと、長い間待った。


彼女が、彼に占有されることを待った。

身も、心も。

何もかもを支配することによって、勝利できると思った。


しかし、何に勝つのだろう。


何に、勝利するのだろう。


何を・・・支配できるのだろうか。


「ヒカル」

声を落として、最後の呼び掛けと決めて、彼女の名前を呼んだ。

暗闇で、腕を伸ばす。

それは彼の最後の賭だった。

いや、違う。


・・・いつも、ルイ・ドゥ・アルディは最後の駆け引きを行ってばかりいた。いつも、いつも。

この声が届かなかったら、彼は生きている意味を変えよう、と。

この指の先に、ヒカルの温度が感じられなかったら、彼女を永遠の光と呼ぶのはやめよう、と。

いつもそんな、些末な駆け引きに興じているルイ・ドゥ・アルディについて、誰も知らない。


いや、知られてはいけない。



なぜなら、彼は、ルイ・ドゥ・アルディであり、星辰の子であり・・・そしてまぎれもなく、誰かに依存して生きていくことを赦されていない一族の末裔であることに、間違いはなかったから。


だからヒカルは従わねばならない。ルイ・ドゥ・アルディに指図できる者は皆無であるはずだった。


・・・はずだ、というまったく主観的な物言いそのものが、彼のすべてを否定していると感じながらも、ヒカルに関してだけは、彼は、そう言わなければ説明がつかなかった。


「ルイ・ドゥ・アルディ。私は・・・具合が悪いから。ルイに傍に寄って欲しくないの」

闇の中で、彼女はそう言った。彼が伸ばした腕の温度を知らないままに。

どうして、ヒカルはこうして、ルイの行動や意図に反する行為ばかりを繰り返すのだろう。

■08


「拗ねたこどものような発言はするな」

ルイは短い言葉で低く、そう言った。威圧しても従わないだろう。

賺しても思い通りにはならないだろう。

なぜ、そんな風に・・・心は渡さないと意固地になって彼を拒絶するのか。

まったく理解できない存在であるのに。

彼の傍で眠るのは、ヒカル・クロスだけであると定めてしまったから。


彼は、一度決めたことは覆さない。


決して。


だから、彼女をファム・ファタルと呼ぶのは、彼だけであると決めたからには、彼女は誰の運命の人になっても赦しはしない。

誰が許しても、彼だけは認めないと誓ったから。


「来るなと言っているのに、オレが訪ねることを予想して人払いをしているくらいなら・・・最初から、誰かを呼べ。この邸には、常勤の医療資格取得者がいることは知っているはずだ。たとえあてにできなくても、医務室に待機している者であれば、ひととおりのメディカル・チェックはできたはずだが」

辛辣な表現であったが、それは的確だった。彼は憤っていた。

明らかに、ヒカルは失調している。

けれども、それを誰にも明かさずにひとり部屋に引き籠もっている状態は、明らかに思慮を欠いた行動としか判断できなかった。

この家に従事する者は多い。

その誰にも何も告げずに、ただひとり居室に居続けて、普段通りの行動をすべて拒否すれば、誰もが不審に思うだろう。

それくらい、考えられないのだろうか。

幼い頃からアルディ家で過ごして来た彼女が、これほどまでに周囲を配慮しない行動を取るほどに取り乱している理由を彼女は明かそうとしない。

彼には想像がついていたが。


腕を戻す。彼の最後の通告に、彼女は従わなかったから。虚空を舞った彼の鍛え上げられた鋼のような締まった腕は、静かに闇間に沈んでいく。


数歩先で、彼女は居るのに。

それなのに、彼女はルイを拒む。

彼なしでは居られないはずなのに。それなのに・・彼を拒絶するヒカルを征服したいと思う気持ちが、彼を動かす。何かを希望することなど、ほとんどないルイが、彼女だけは手に入れたいと思う。

このことを理解していないヒカル・クロスの健やかなる魂が彼をまた・・・ひとつ下の暗闇を伴う階段に誘う。登り詰めたいと思う彼の階段に。彼女は小石を置くのだ。


彼女を支配するために必要な手続きがあるのであれば、それはすぐさま遂行しようと考えていた。


征服したいのか。

支配したいのか。


それとも・・・心を通わせたいのか。

それとも。

心を狂わせたいのだろうか。

彼の心なのか。ヒカルの心なのか。

それすら、彼女は曖昧にして、彼に抗拒の扉を閉ざしたままで・・・・それでいてなお、彼に言葉をかける。

これほどまでに残酷な仕打ちを、彼女があえて考えて居るようであれば、彼は彼の人生を再考しなければいけなかった。


ルイ・ドゥ・アルディには予定の変更はあり得ない。


けれども。


彼女に関することだけは、自分の決定で進まない。


それが苛立つし、時にそれが甘美な痺れに変わることがある。

■09


ヒカル・クロスとは、まったくの他人でありながら、一緒に生きてきた時間が長い。誰よりも。

同じ空間で、同じ敷地で、同じ空の下で彼と彼女は成長した。

単に居所を定めた筺でしかないと彼は冷笑するが、それでも、ここには永遠の晄という名前の少女が居る。

大人になって・・・彼らは指を絡めることを覚えた。

しかしこういう駆け引きは好まない。

少なくとも、彼女との間では必要がないからだ。

愛を確認して愛を試してそれでその先は愛が残るということはないと、彼は知っているから。

もう、誰とも恋や愛を囁くことはないと決めていた。


ヒカル・クロス以外とは。


それは彼女が良く知っていることであると、理解していたというのに。


「言いたいことがあるなら、さっさと言え。

言いたくないのなら、貴女の希望のとおり、オレは消えることにする。

そして、この部屋には二度と入らない」

彼は低い声でそう言った。彼の決定は絶対だ。そして、それを遂行するために、ルイは犠牲も努力も厭わないことを、彼女は良く知っている。

最後通牒だと言ったのに。それでも、彼女からはこたえがない。ルイは、溜息をついた。


すぐ近くで、衣擦れの音がする。

彼女がルイの言葉で身体を起こした音だった。

寝台の上で困った顔をしながらもルイの金髪の焔を求めて、ヒカルが視線を彷徨わせる音さえ、聞こえてくるようだった。


彼女は言いたくないのではない。言えないのだ。

うまく言葉にすることができずに、戸惑っている。


ルイは星辰の子と呼ばれており、その才は幼い内から顕著であった。

日本語にも精通しており、この邸内では日本語とフランス語が混在している。


それは、シャルル・ドゥ・アルディが望んだ空間であった。

いつか、彼のファム・ファタルがこの屋敷で過ごすことがあるのかもしれないと、儚い夢を見続けて、それは夢のままに終わってしまっていた。

彼は決して夢を見ないのに。

ルイも同じであった。夢を見ないのに、この部屋を訪れると、彼は夢を見ているかのような錯覚を感じる。

甘い薫りに誘われて、ヒカルという存在が、夢なのかどうなのか判別しがたくなる。彼はルイ・ドゥ・アルディであるのに。

星辰の子であるのに。

自分は、光そのものになれずに、光に誘われて、吸い寄せられる羽虫のようだと思った。


「ヒカル」

彼はこれが最後だと言ったのに。また、最後の言葉をかけた。

「ルイ」

彼女の声が聞こえた。それから次に、小さな声がした。

彼女は幼い時から、何かをねだったりしない。

だから他者に依頼する術を知らない。

それなのに、ルイは躊躇いがちであるけれども、彼女は願いを口にした。


「今日、少し熱があって・・・・だからルイと離れていた方が良いと思ったの」


彼女は知らない。たったこれだけの状況報告をさせるのに、彼がどれだけ忍耐強く待ったのかということを。

焦りも呆れも怒りも感じない。

ただ、その先にある、彼が推測している仮説を、彼女に言わせたかっただけだった。

「それなら医師を呼べ。解熱剤を打てば良いだけの話だ」

彼らの体調は完全に管理されている。

それは、彼女の稀なる体質の変化を見届ける意味もあったが、彼と彼女は同じ場所から生まれて来た。

つまり、多くの命を搾取して生まれた、科学の粋が類聚した結実だから。

だから微熱でもその状態が細かく分析される。

普段の生活ではそれほど意識していないのだろうが、彼女をアルディ家に長く留めて置いた理由のひとつがそこにあった。

彼女は幼いときからそういった生活に馴染んでいたので、それを苦痛と思わないはずだった。

それなのに。

初めての拒否であった。何事にも従順である傾向が強い彼女の拒む理由はひとつしかない。

「オレは貴女の体調管理の状況には興味がないが」

彼はそう言って。暗闇であることが幸いした。そうでなければ、彼の表情が、はっきりとわかってしまうから。苦しそうな顔を見られるくらいなら命を絶つ。

■10


彼は落胆の吐息をついた。元来、彼女が強情な気質であることは承知していたことだったが、それを肯定しているつもりはなかった。

ルイ・ドゥ・アルディに従順であることを望んではいなかったが、このように単なる拗りに近い行動を取られると、彼は途端に凋落する葉のように、何かが失われていくのを感じる。

自分とヒカルは違うのだと思い知らされる。

それを理解したふりをしようとしても、ルイ・ドゥ・アルディにはできない。なぜなら、彼は星辰の子だからだ。

やがて彼はゆっくりと身体を移動させると、部屋の中央に置かれた、彼女の寝台に近付いた。

膝があたるほどに近くなった直前で、彼は歩みを止めた。


踵が鳴る。

そして、彼女に近付く。

見えてなくてもわかる。

彼女の熱が、彼女の香りが。彼女の声が・・・彼女のすべてが、彼を呼ぶからだ。

辿り着いたことを察知すると、彼はやがてゆっくりと、その場に腰を落とした。


計算は狂っていない。

ぎしりとスプリングが軋む音がして、彼の腰際の寝具が少し沈む。

ルイ・ドゥ・アルディは締まった腰を浅くしたままで、彼女から距離を置いて座った。


・・・・ヒカルが寝台の上で、考えに耽りながら、葛藤を続けているうちに時間を経過してしまったのだということは既にわかっていたことだった。


彼は細く長い指をシーツの上に置いた。軽い湿り気が伝わってくる。

「熱があるのなら、そう言え。それから、適切な処置を受けろ」

そして溜息をつく。金の髪を掻き上げたが、下を向いているので、すぐにそれはこぼれ落ちて彼の額や頬に降り注がれた。

「ルイ」

ルイではない腕が、彼の肩に触れた。


この香りが彼を狂わせていく。

この温もりが彼を貶めていく。


ヒカルの居室は、すべて彼女で構成されている。

まるでヒカルの胎に居るようだ。彼女の好みで構成されたそれらすべてが、彼が与えてやったものであるというわけではない。

すべて、ヒカルの思考趣味が繁栄されている場所にやって来ると、彼女が決して没個性的であるわけではなく、単に・・・ルイの前では本当のことを言わないように画策しているだけなのだと知る。

それが腹立たしい。

装っただけの、人形のようなヒカルを傍に置いておいて、満たされる彼ではないということは、彼女はとうの昔に悟っていたことではなかったのだろうか。

だから、滅多にここに足を踏み入れることはないのに、それでも、招くかのようにヒカルはこの場所に籠もることに消沈しているのだと、彼女は確認したいのだろうか。


しかし、彼女の温度を感じて、ルイが溜息を漏らす。彼女は起き上がれないほどに失調しているわけではない。それを見定める。それだけで良かった。


「心配かけてごめんなさい」

暗闇の中で、彼女が声をかけた。少しくぐもった声だった。重篤な状態ではない。会話ができ、身体を動かすことが出来るのだから。

「・・・オレは言ったことは覆さない。こういう道理のない方法で、オレを縛るな」

彼は闇に眼を見据えたまま、そう言った。彼女の方には振り向いたり、手を伸ばしたりすることはしなかった。彼女の方から、彼に傍寄らなければならない。

暗闇でなかったのなら。

薄い唇を横に引いて、苦しそうに眉を顰めているルイ・ドゥ・アルディの姿が見えたかもしれない。

彼は彼女に顔を背けており、ルイの表情は分からない。

けれども、彼女の視線は彼に注がれているのがわかった。


それだけで。

ただ、それだけで、彼の受けた、彼女の不遜な態度は不問にしてやろうと思うくらいに。

溜息に混じって呼吸しないと息継ぎができないくらいに。

ヒカルが少し躊躇いながら、もう一度、ごめんなさい、と謝った。


「謝罪するくらいなら、最初から処置を受けておけば良い。次からはそうしてくれ。時間の無駄だ」


彼は短くそう言った。

彼女に縛られている。


自分でそう認めてしまったからだ。

だから抑揚なく呟きに近い声量で言った。


それでも、彼女にはわかっていただろう。

彼女は愚かではあるが、頭は悪くない。

何手も先を読んだ彼の言葉に対していつも戸惑いながらも言葉を返す。



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