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GRAPHO

01


「なぜ、オレも立ち会わないといけないんだ」

最近になって、彼は自分のことを「オレ」と表現するようになった。

公式の場所では「私」と言っているのに、彼の変化の理由についていろいろ考えたけれども、結局、ヒカル・クロスには理解できなかった。

彼女は久方ぶりに逢うルイ・ドゥ・アルディの顔を見つめる。

あどけない笑顔だった。

しかし、彼は彼女の顔にしかめ面をして出迎えただけだった。

逢うたびに、彼は変化している。

呼称が変化しただけではなく、身長も伸びたし、声の感じも少し低くゆっくりと喋るようになったような気がする。

間の取り方、と言うか、彼の空気が、ヒカルのそれと異なっているのを感じて、彼女は少し哀しくなった。

同じが良いとは思わないが、彼女は、やはり、どんなに懸命になっても、どんなにシャルルに褒められても、決してアルディ家のこどもにはなれないと、思う瞬間があるからだ。

それはいつも決まって、ルイ・ドゥ・アルディに逢うときだった。


「今日はね、日本で『こどもの日』と言われていて・・・写真を撮ろうということになったの」

「それは誰が決めた習慣なの?」

「シャルル」

彼はその瞬間、大袈裟に溜息をついた。

すでにその年齢で受けるべき教育はすべて終えて、彼は各地を留学とか遊学とかいう名目で渡り歩いていた。

アルディ家の子息であり、フランスの華と呼ばれる人物の実息でもある彼は、世界中から注目される次世代の若きプリンスとして、世を賑わせている。

だからこそ、この国を離れて諸国を渡り歩いているのだが。

彼の出生はとても謎めいており、そして彼の両親の僅か一ヶ月の結婚生活の後の破綻やその後の噂話まで、彼は逐一記憶していたが、それがルイを形成している何かになることは決してなかった。

彼はミシェル・ドゥ・アルディという、彼の叔父であり、シャルル・ドゥ・アルディの双子の弟を教育係として、最高の教育を受けてきたからである。その叔父も、まったく外部には露出しない摩訶不思議な人物であったが、時折報道される映像では、アルディ家の当主と同じ容貌をしていることで有名だった。

その昔、兄弟で当主争いをしたスキャンダルを今ひとたび呼び起こすに相応しい美貌の持ち主だった。

その理由や本当の意味について、ヒカル・クロスは知らない。

幼すぎることもあるが彼女はあまりにも平凡で凡庸過ぎた。

そうなるように育てたシャルル・ドゥ・アルディの責は大きい、とルイは思った。

器というものは大きく影響するのだと思った。

大きな容積を受け入れることが出来るのか否かということは、その器の価値に影響する。

ヒカル・クロスは、この家に相応しくない狭量な人物出あることを知らしめるような行為をシャルルが続けていることに対して、諦観と憤慨を交えた視線でもって、ヒカルを侮蔑の対象として見るしか・・・ルイにはそうすることしかできなかった。

「なぜ、それにオレが遵わないといけないんだ」

「記録は大事だと言うから」彼女は拙い言葉でそう言った。

この家では、学んだ言語はすべて使えるようになっている。それなのに、ヒカル・クロスの使用する言語はフランス語か英語か日本語に集中しており、特に日本語で物事を進めないとこの邸では何もかもが滞るシステムになっていた。

ルイは軽く舌打ちをした。彼がつい最近まで滞在していたのはもっと別の言語の世界であり、彼は習得したばかりのそれらを駆使するために、フランスの大使館にしばらく出入りする予定を立ててていたからだ。居住を主にすることとしているこの邸が、こんな様であればせっかくの記憶も反復学習することができなくなる。

しかし、ルイには反復して展開させる必要はなかった。彼はいつも、数回聞いただけの物事についてすべて記憶することができたのだから。それを応用させる場所がないことが、彼の唯一の悩みであった。

それも教育がかりのミシェルが聞けば透く様解決しただろうが、彼は冷笑して、きっと、「自分で解決できる問題だろう?」と言ってルイの動向を観察するに決まっていた。


ルイは溜め息をついた。

ヒカルの前で出す落胆の溜息は、大小含め、これで272回目だ。

疑似完全数のこの数は、どこまで更新したら良いのだろうか。

大広間の一画に呼び出されて、ルイは不機嫌極まりない声を出した。

写真を撮ろう、と言ったヒカルに背を向けて、別棟に籠もってしまうことは感嘆であったが、その後の、アルディ家当主の叱責と懲罰の方に憂えて居た。なぜ、彼は、ヒカルのことになると夢中になって我を忘れて理知的であることを放棄してしまうのだろうか。

自分のこどもより年下の幼女の言葉に、どうして彼が耳を傾けるのか、その理由について、知りたいとも思わなかった。知りたくなくても耳に入ってきたから。

彼は、ヒカルの母であるマリナ・クロスを、運命の人と定めて、彼女が結婚した後も、己のファム・ファタルと言って憚らなかった。自分のものにならなくても、存在そのものが彼の魂の一部なのだと言い切ったシャルルは、あの不幸な飛行機事故の後・・・戻って来ない彼の運命の女と、彼の親友の遺した娘を引き取って育てている。ある意味強引なやり方でもって。

そして、洗脳とまでは言わないが、シャルルだけを見つめるように育てた、永遠の晄という名前の娘は、傲慢にも愚かにも、ルイに自分の常識を押しつける。

それが厭で、彼はこの邸にほとんど滞在しないのだということに、今でも気が付かない。


将来のアルディ家当主となるために、世界各地を歩いていると信じて疑わないヒカルの前で、どんな表情を浮かべれば良いと言うのだろうか。ルイは苦笑した。

02


彼女の敬愛するアルディ家当主を、最悪の方法で追い出したとしたら、彼女は一体どういう行動を取るのだろう。ルイ・ドゥ・アルディは見事な金の髪を掻き上げた。

彼の容貌は実父に酷似しているが、青灰色の瞳は同じ色をしているのに、髪の色だけは黄金色であった。

そこだけが彼と違うと言われるとルイ・ドゥ・アルディは静かに憤慨する。

ルイは選ばれて生まれて来たデザイナーズベビーであるから、シャルルよりもはるかに何もかもが勝っているはずなのだ。それを証明し続ける。彼の記録を次々に塗り替える。

代々のアルディ家当主の中で、系図原簿への書き込みが最も多いのは、ルイ・ドゥ・アルディなのだということを、シャルルの目の前に突き出してやるのだ。


「こどもの定義が曖昧だよ、ヒカル」

彼はそう言って彼女の笑顔を消去しようとした。

愛想を振りまくつもりでいるのかもしれないが、彼女の屈託のない笑顔をみると、無性に苛立った。

どう考えても、自分を安売りしているとしか思えない。

廉価であることにすべての価値が存在するとは思えないが。

「オレはもうこどもじゃない」

「こどもだよ」

ヒカルがそう言ってルイを見上げた。

茶色のくせの強い髪が揺れる。彼女の顔立ちは、シャルルの定めたファム・ファタルによく似ていた。大きな瞳も、茶色の髪も。そしてくるくると表情を変える目元も頬も、唇も。

あと少ししたら、シャルルは彼女を傍に置くことによってもっと狂っていくのかもしれない。

それも一興だ。

どんどん、自分の愛した女に近付いて行く娘を手放すことが出来ずに、自分を崩壊させていくシャルルは、どの段階で崩壊するのだろうか。どうして彼はそういう者しか愛せないのだろうか。

これをシャルルの眼のまで言った時、彼は激しく殴打された。それほどまでに激昂するのであれば、ルイとヒカルを同じアルディ邸に住まわせてはいけないのだ。

・・・・愚かな男だな。

彼は自分の父のことを心の中でそう言って嘲笑した。

「シャルルのこども。ルイはシャルルのこどもだもの。だから、一緒に記念撮影しよう」

「オレは写真は嫌いなんだよ」

彼がそう言って横を向いた。

成長の記録などは、専任の者が居るのだから。

自分で好んで被写体になることは滅多なことが内限りなかった。

彼の姿を捉えたいのであれば、それこそ、シャルルの幼少期の画像を使用すれば良いことなのだから。

もっと優雅に彼女の誘いを断る術もあったが、そんな気遣いをしても、将来役立ちそうにもなかったので、利益にならないことはしないようにした。

既に幾つもの国を訪れた。

彼はアルディ家当主の唯一の息子として認知されている。布石は打った。


「チェスの試合が近いから」

彼はそう言ってその場を離れようとした。

彼はフェンシングと乗馬でも非常に優れた才を発揮していたが、チェスの名手でもあった。

これもシャルルの再来だと言われている才能であるが、彼は一度もシャルルと対戦したことがない。

それが実現するのであれば負けない自信があった。

滅多に訪れない本邸の居間に近い、サンルームで、彼を探していたヒカルに遭遇してしまったことから始まった。

彼は今日は最悪の日だと何度も思った。

取り寄せていたチェスピースが届いたと知らせを受けて、それを受け取りに来たのだ。

発注から到着までだいぶ時間を要したので、彼はこの時、自ら受け取りに行くといって、本邸に足を向けたことを悔いた。彼は決して後悔しないのに。

「ルイ!」

ヒカルが彼の腕に触れようとしたので、彼は腕を反射的に持ち上げた。拒絶されて、はじめて、ヒカルはルイが相当に憤慨していることを知り、その激昂を目の当たりにする。

青灰色の冴えた瞳が一瞬だけ険しくなった。彼女は本当に愚鈍で、自分がいつも愛翫される対象であると思っている。無条件で愛する者のことを愛翫動物というのだ、と何度か教えてやったのに、彼女のその都度、恥ずかしそうに照れたように笑う。

そこは綻ぶところではないだろう、とルイは指摘してやりたくなるが、そんな会話を往復させることすら鬱屈する行為であった。


「居間で、撮影の準備をしてあるの。あとはルイが来るだけだから、大広間に来て欲しい」

彼女がルイを見上げた。大きな瞳が懸命にルイに訴えていたが、それでも彼は冷笑するだけだった。

「この家の当主は親日家だけれども、オレはあいにくと同じ悪趣味を持つ予定はない」

そう言って、また続ける。彼女が反論できないように徹底的に攻撃しなければ彼女は口を噤まない。

「この家には、幼体の生命体が2体あるということだけだ。

オレとヒカル。

それが、何?

だから、それを祝って何をしたいのか目的をはっきりさせてほしいものだ。

ただ祝うだけというのは、最も愚かしい人間の無駄な行為であり儀式であると思うけれどもね」


そこまで言って彼はヒカルを見つめる。

もう、言うべきことはすべて言った。

彼女は唇を震わせて、眉を僅かに顰め、表情を曇らせた。計算通りだった。

これで彼女はもう、ルイに近付かなければ良いのにと思った。


ルイは、この家にはほとんど寄りつかなかった。

彼には、本邸の敷地の中に別棟があてがわれており、本邸の施設を使用したり特別な行事があったりするとき以外にはここで時間を過ごすことはない。

時折、薔薇園で彼女の姿を見かけることもあるが、その時にはルイに決して話しかけてはいけないのだと、ヒカル・クロスはそれだけは理解しているらしく、彼に話しかけたりすることはなかった。

彼女は自分を愛さない者に敏感であった。

同時に自分を無条件に愛でるシャルルだけにしか耳を貸さない。いつか、それで身を滅ぼすことになった時に悔いれば良いのだと思った。

03


「せっかくルイが戻ってきたのだから。だから」

「ヒカル。話は終わりだ」

彼はそう言って会話を切断した。

ヒカルが、また、困ったように顔を曇らせた。

そこで察しがついた。

彼女はルイを必ず連れてくると安請け合いしたのだ。

約束は違ってはいけないと教えられている彼女はそれを遂行しようとしているらしかった。

頻繁にその誓いを放棄するアルディ家の当主は、ヒカルを自分の思い通りに育てようとしている。

彼女は愛翫動物だから仕方のないことなのかもしれないが、度を過ぎると、クロス・グループとまた一波乱ありそうな要因になりかねなかった。


ヒカル・クロスは会長の孫娘あり、亡き息子の忘れ形見でもある。

彼女の父のカズヤ・クロスは、シャルルの親友であった男であり、ファム・ファタルの配偶者であり、そして、あの墜落事故で戻って来ない亡者であった。

できるだけ日本に居たころの環境と同じようにして、それらの風習を忘れないようにという配慮をしたつもりなのだろうが、それはヒカルに両親の不在を思い知らせる残酷な儀式でしかないと、シャルルは気が付かないのだろうか。

彼は溜息を漏らす。またひとつ累積回数が増えた。

「ヒカル。オレがいない日の方が、ここに滞在している日より多いことは知っているだろう。

だから、配慮したいのであれば、オレに纏わり付くな」

「ルイ」

彼の名前を呼びながら、彼女は躊躇いがちに言った。これほどまでに強情な娘に育てたシャルルの意図が不明だった。彼女をとことん甘やかすと宣言したらしいが、それは確実に実行されているようだと思った。

ヒカルがルイの青灰色の瞳を見つめる。彼女は彼の天使のような美しさに少し息を呑んだが、すぐに真剣な口調で言った。

「あのね、単に・・・思い付きじゃないの。写真を撮ろうというのは、前から考えていたの」

「オレの帰邸を待って、疑似家族写真を撮ろうとでも?」

酷評する。

この家には、家族写真はなかった。

一度も、皆で揃って写真を撮ることはしなかった。

意味のない映像は一枚もなかった。

シャルルとヒカルの間にはたくさんの記憶がある。

当主は様々な場所にヒカルを連れ歩き、彼女の感性を育て、そして憧憬にも似た感情を受け付けている。


しかしルイにはそれはなかった。

彼は一度も・・・シャルルと並んで意味のない写真を撮らない。

必要があれば撮影に応じた。

それは意味があってのことであった。

彼が留学中に、アルディ家当主との不仲を払拭するために、必要があって諸外国で「愛されている息子」を演じるために提示する小道具のひとつでしかない。

シャルルもそれはよくわかっているようだった。

彼は必要以上にルイに近付かない。


「ルイの家族はルイだけのものだよ」

彼女はぽつりと言った。

「シャルルは今日は急用ができて、出掛けていった。

夜まで戻らない。だから、ルイと二人の写真が撮りたいの」

「必要がない」

彼がそう言ったが、ヒカルは諦めなかった。

瞳を大きく見開いて、躊躇いもなく茶色の輝きをルイに注ぐ。

星辰の子と呼ばれるルイの瞳を戸惑いもせず覗き込む不遜な行為をするのは、彼女だけだった。


彼は星辰の子と呼ばれるようになり、あらゆる者を惹きつける人物だという意味を持つその称号についていささか不満を持っていた。

フランスの華と呼ばれている父の偉大なる称号を覆す程度に至らないと考えていた。

彼はフランスに咲く唯一の薔薇であるが、星辰はどこにでも存在する。

そしてフランスの上だけに存在するわけではなかった。


「家族になって欲しい人の写真を持っていたいの」

彼は彼女がルイの気が変わるまで、諦めるつもりはなかったらしい。

彼の気が変わるというのはあり得ないことなのに。

「夏になると・・・日本行く。その時に、ルイとシャルルの写真を持っていきたいの」

彼女がそう言って微笑んだ。はにかんで微笑む。

ルイはそのしばらくじっと見つめていた。

が、やがて小さく舌打ちをして、横を向いてヒカルの視線殻はずれた。

そして、むっつりとした声で不機嫌そうに言う。

彼が自分の言葉を覆すことはほとんどない。

それなのに、ルイは、尖った顎を引いて、ヒカルの求めに応じた。

「良かろう」

「ルイ!」

彼女が飛び上がって手を叩いた。嬉しい、と言った。

「はやく!はやく居間に行こう!もう準備ができているの」

ヒカルが甲高い声でそう言ったので、ルイは顔をあからさまに厭そうに顰めた。

袖を引くヒカルの小さな手が煩わしかった。


しかし、今度は振り払わなかった。

どうしてだろう。

彼女の笑顔は見慣れていた。

でもそれはいつも泣き出しそうな顔を隠すための綻びでしかなかった。

こんな風に・・・満面の笑みを、ルイに向けることがなかったから。

それはシャルルだけに向けられた笑顔であった。彼は知っている。ふたりを遠くでいつも見つめていたから。そして薔薇園に独り座り、思考に耽る時には、それを思い出すこともあった。

ただ、そうなりたいとは思わなかったが、理由もなく、ふと、映像が蘇った。

恥ずかしそうに照れたように・・・決して涙を浮かべないかわりに微笑むヒカルを疎ましいと思っていた。

ヒカルはシャルルの愛を欲しいままに受け止めている。

全身に浴びて、フランスの華を独り占めしている。

ルイが愛されている息子という役割を、方々で演じている時に、彼女は演じたりねだったりしなくても、シャルルから愛でられている。

きっと、彼女に請われればシャルルはこの屋敷中に、肖像写真を飾り付けることだろう。

04


彼女の懸命な視線が痛かったわけではないし、心が動かされたわけではない。


・・・これは使えると思ったからだ。


彼女は、夏の休暇には日本で滞在する。

短い時間ではあるが、その間、親族とは言え、慣れない者たちに囲まれて過ごす不安を写真でもって払拭させるつもりなのだ。愚かしい稚拙なヒカルの考えそうなことだった。

特に、最近はクロス・グループの会長が病気により進退について考え始めているという情報を得ていた。

異国で暮らす孫娘を手元に置くべきだったのに、と言い出すはずだった。

そしてシャルルの行為を詰る様を、ヒカルが弁護するのだろう。


倖せに暮らしていると。

そう言うのだろう。


アルディ家とクロス家は大変に懇意にしていることもあったので、本人が強く希望していることもあり、これまではヒカルの処遇について曖昧にされてきていたが、祖父が逝去した後のヒカルの待遇については、いずれ問題になるのだろうと予想された。

これはやがて訪れる近い未来だ。


そんなとき。

彼女は・・・ヒカルは、ルイと二人で映っている写真を、クロス・グループの、ヒカルの親族に見せるのだろう。

日本と同じ環境で過ごしているし、アルディ家にはシャルルの息子が居る。

だから、心配はない、と言うのだろう。


それなら。いつか、使える。

彼はそう計算したのだ。


いつか・・・シャルルが死にたいと慟哭するほどの事態を発生させるために、ルイは準備を始めることにした。無償の愛などは存在しないのに、彼女は幻想を抱いている。

家族という名前の幻想だ。

シャルルでさえ自分の理由があるからヒカルを愛でる。

そしてヒカルも自分の理由があってここに集って居るだけでしかないと、思い知らせる。


クロス家との亀裂が、シャルルにとって命取りになるだろう。

また、そうでなくても、使える手駒であった。

彼は、チェスピースの筺を丸テーブルの上に置いた。

わざわざ本邸にまで脚を運んでまで取りに来た特注品であった。

形を覚え手に馴染ませて脳内で何度もシミュレーションするための時間を確保してあったのに。

彼はそれを後回しにした。


ヒカルをこの家に迎える時が来るのかもしれない。ルイ・ドゥ・アルディか、シャルルがヒカルを娶れば、アルディ家を中心として、この世を変える大きな流れがひとつできあがる。

シャルルはそれも予想しているのだろうか。

幼い時から自分の環境に合わせて、薔薇を温室で育てるようにヒカルを育てるシャルルは、その先については何かを予測しているのだろうと思ったが、彼が幾通りの未来を想定しているのか推し量るには情報が足りなかった。

その時には、ルイとヒカルは幼い時から一緒に育ち、互いに家族以上の存在だという台詞が用意される。

暗唱しながら演じ、そして・・・ヒカルでさえシャルルを選ばなかったとシャルルを打ちのめす瞬間のために、彼はほんの少しばかり今日の予定を変更することにしたのだ。


「ルイ!はやく、はやく」

何度も繰り返すヒカルの声に押し黙ったまま、ルイは彼女に引かれるままに居間に移動させられる。

辟易しながらも、子犬のように全身で喜びを表現しているヒカルが彼の袖を引く手を、振り解くことができなかった。

なぜなのだろう。

これも彼の意識しない計算なのだろうか。

チェスの手のように、何手も先を読むようにと教えられているのに。

彼女はまったく行動が読めない。だから苛つく。


ルイは気が進まない顔を隠そうともせず、居間の扉を潜った。

そこにはヒカルが毎朝選定する最高の状態の薔薇はなかった。当たり前か、と彼は嗤った。

彼女が主以外にはルイも入ることを禁じられている薔薇の温室の最奥から、最高の状態の薔薇を持ち運ぶのは、シャルル・ドゥ・アルディとルイ・ドゥ・アルディにだけなのだから。彼はそれを受け取ることはなかったが。それでも彼女は毎日彼の別棟にも薔薇を届け続ける。

それがなかったので、安堵にも似た感触を胸に味わった。彼女が捧げるべき場所がそれほど多くないことを確認したからだろうか。それでは説明にならない。


ああ、今日は本当に最悪の日だ、と思った。


居間には、端午の節句の準備が整えられていたからだ。

日本の儀式に則って、緑色をした菓子がテーブルの上に乗り、粽の香りが広い居間に充満していた。

小さな兜まで用意されていた。

それは先般、アルディ家がオークションで競り落とした人間国宝の作品であった。

彼は美術品蒐集にも携わっているから、直近の入手リストはすべて頭に入っていた。

・・・・たったこれだけの事のために。

彼は絶句した。

ヒカルを軽く睨む。彼女は蔑視に気が付かず、ひたすらにこにこと爛漫に微笑んで居た。

これはどうやって食べるのだろう、と卓上の食べ物を珍しそうに眺めては感嘆の声を上げている。

だが、彼女は、ひとつひとつについて、彼女は本来の意味と用途を知らないらしい。

シャルルらしいな、と苦笑した。

彼女に品物だけ与えて、手ずからひとつひとつ教え込もうとしたところに、急用で中途にしてしまったのだ。

アルディ邸をこどもの趣の漂う場所にするとは何て愚かなのだろう、とルイは内心呆れていた。


「これ、タペストリー?」

彼女は椅子の背に掛けられたままの魚の形をした流線の起伏の乏しい布に走り寄り、それをつまみ上げた。

怪訝な顔をしてしきりに首を傾げている。

そしてルイ・ドゥ・アルディの方に顔を向けると、両手に持った布をルイの目の前に差し出した。

豪奢で鮮やかな色合いに染められた鯉幟であった。

吹き流しのために、筒状になっている。

「調べておけよ、そんな事くらい」

「ルイなら何でも知っているから」

彼女は浮かれていた。

ルイが居間に入り、彼女の準備した趣向に従ってくれると思ったらしい。

まったく暢気な娘だなとルイは唇の端を歪めた。

彼女ひとりのために、この邸のすべてが動く。

まるで小さな当主然としたヒカルの様子を青灰色の瞳の少年はじっと見つめていた。


「それは中国の正史からの故事から立身出世の象徴だ。龍門という滝を昇る鯉が竜に変じたことから・・・・」

そこで彼は口を噤んだ。ヒカルが嬉しそうに微笑んだからである。

ぎゅっと唇を噛んだ。


彼女は知らなかったのではない。

知らないふりをして、ルイにそれを言わせようとしたのだ。


自分が決してアルディ家のこどもになれないことを知っているヒカルは、常々家族に対して強烈な上を感じている。

この幟は家族の人数分だけ飾る習慣もあるくらいで、家族の象徴であり願いを表したものであるとされていた。・・・ここには、3枚の布があった。

鯉が変じて竜になる。彼女は、この家のこどもになりたいという願いを込めているらしかった。

そして、家族の象徴であるこれらを、ルイのために用意したと言った。


ヒカルは笑った。得意気ではなかった。

ただ、ただ嬉しそうに微笑んだ。

茶色の瞳の茶色の髪の少女は、ルイの人形のように整った顔を見て、言った。

青灰色の瞳に憶することなく覗き込む者の名前は・・・・永遠の晄という名を持つ。


「こどもの日はね、端午の節句と言って、男の子の成長を願うのよ!」


・・・・これが言いたかったらしい。

この家に、男児はたったひとりしかいない。

05


不仲であると噂されるシャルルとルイの間を何とか取り持とうとして、ヒカルが懸命に考えた策であるらしかった。


「余計なことを」

彼はそう言って横を向いた。

しかし、写真を撮ろうというヒカルの申し出に承諾してしまった以上はそれを覆せなかった。

・・・先ほど、彼は自分の予定を変更したというのに。

二度の変更はあり得ない。

彼はルイ・ドゥ・アルディなのだから。

だから、このまま不愉快だということを宣言して、背を向けて別棟に籠もるか、ミシェルを呼んで彼のセーフハウスでしばし過ごすなどという考えを切除しなければならなかった。

彼は何手も先を読めるが、彼の優れているところは、変更した現状に即してさらにその先を読めることであった。


「ね、ルイ。これを持って、写真を撮ろう。記念撮影だよ」

はしゃぐヒカルがルイに二番目に大きな鯉幟を持ってきた。ルイを表すものだという認識らしい。家族の中で二番である。

一番ではない。

それがルイなのだと思わせる残酷な行為を、ヒカルは無邪気にルイに向ける。

それでも彼女の躰はまだ幼いので、すべてを抱えきれずにそのほとんどが床に垂れ落ちてしまっている。

彼は顔を顰めた。

「汚れたものを持つつもりはない」

彼女は足元に溜まりになった布を見て悲鳴をあげた。大急ぎで腕を動かしたくし上げるが、今度はルイに「皺になったものを持つつもりもない」と言われてしまい、また頬を朱くしてごめんなさいと言った。

「小さなものを持てば良いだろう。それなら、ヒカルが持てる大きさだ」

彼はまた幾度眼かの溜息をついて、ヒカルの脇に立ち、それらを手で掴むと、無造作に引き揚げた。

ヒカルは手を離さなかったので、そのまま腕ごとルイの方に引き寄せられたので、小さな彼女は慌てて床上に力を込めて身体を踏み支えた。ぐっとルイとヒカルは近くなった。

目の前に・・・茶色の瞳がすぐ近くにあって、ルイは沈黙した。

彼女は眼を輝かせて、憶することなくルイの金髪の下から覗く青灰色の瞳を見つめる。

「ルイはね、一番大きい鯉にも、一番小さい鯉にも・・・どちらにも近い場所なんだよ!」

彼女はそう言って、両手一杯に溢れた布をルイに向かって差し出した。

「だからこれが良いの」


彼女は微笑んだ。

「これを持って、写真を撮ろう。それで、飾るの。大きくなっても、一緒に見るの。寂しくなった時に、見ると元気になる写真を撮るの!」

それから彼女はそこで初めて微笑みを消して、小さくぽつりと言った。

「おとうさんとおかあさんは・・・・もう、写真の中だけでしか逢えないから」

彼女が写真を欲しがる理由がわかった。


「ヒカル」

ルイは静かに言った。素っ気なく、抑揚もなく。

彼女の茶色の瞳を覗き込む。

「画像は本来の人物を写さない。

それは転写だからそのものではない。

だから、記録しろ。忘れても良いから、記憶に刻め。媒体は劣化する」

「記憶は劣化しないの?」

「しない。少なくともオレは」

「・・・シャルルと同じようなことを言う。やっぱり、親子だね」

ヒカルはそう言って笑った。泣きそうな笑顔だった。

「忘れられないのはアルディ家の者の特徴だ」

ルイはそう言って横を向いた。


「それじゃ、写真。撮ろう」

ヒカルがルイの持っている鯉幟の反対側の裾を持った。

「これ、向きはあるの?」

彼女はそんなことを言ったものだから、彼は彼女を笑ったが、それは苦笑ではなかった。

声を出して笑ってしまったので、またヒカルを喜ばせる結果になってしまった。

シャルルが戻って来なくてこの場に居なくて良かった、と思った。

どういうわけか、そう思ったのに、いつになったら帰ってくるのだろうかと思った。

それにも理由がなかったが、ヒカルが彼を呼ぶ声に消されて、彼はその件については思考することを放棄した。今度も、彼女の手を振り払うことができなかった。


それが彼女と撮った、最初の写真になった。

次に撮るときは、婚約式でのマスコミ向けの写真であるはずだったのに。

また、ルイ・ドゥ・アルディは予定を変更せざるを得なくなった。

06


Louis

「こんなに色褪せるなんて、褪色加工ぐらいしておけよ」

ルイ・ドゥ・アルディは誰も居ない部屋でひとりそう呟いた。彼は独り言を言わない。

必要がないからだ。

それなのに、まだ戻って来ないこの部屋の住人に向かって、そう囁いた。

煙草を口に銜える。しかし、この家には灰皿がなかった。彼女は喫煙しないらしい。

そして喫煙するような可能性のある者を家に入れるということもしていないようだった。

ここは日本だ。

アルディ邸でのヒカルの衣装部屋よりもっと狭い面積しかないマンションに彼は居た。

身辺調査はかなりの頻度で行っていたので、ヒカルが日本で誰もこの部屋に上げていないことは知っていた。

けれども、掃除の行き届いた部屋を見たとき。

彼女はここで自分の空間を作っているのだと思うと、日本式の玄関で、土足で上がることにした。

そうして汚すことで忘れたようにパリでの暮らしを切り捨てて生活しているヒカルに思い知らせてやろうという気持ちが働いたからだ。

そんな作用はまったく意味のないことであるのに。


ルイは金の髪を持ち上げた。

物憂げな青灰色の瞳はそのままの色だったが、あの頃より眼光が鋭くなった。

それは彼が成長して、少年から青年になったからだった。

ヒカルの居住しているマンションの鍵はセキュリティが厳重であると言われていたが、ルイの前では玩具のようであるということを証明してみせた。

彼は冷笑した。

アルディ邸のセキュリティ保守や、IDチップシールでの管理や、彼女の知らないその他の様々なことを秘匿するに使われた装置などとは縁のない生活を、彼女は送っているらしかった。

彼は顔を上げて、上を見た。

低い天井に、狭い部屋。

簡素ではあるが、ヒカルだけが使用する什器。


・・・そして、ルイは小さな居間の壁際に設置されたローチェストの前に立つと、綺麗に飾られた、縁のないクリスタルのフォットフレームを見つめていた。

飾り気のないフレームであった。

僅かに、四隅には薔薇のエッチングは施されていたが、それも注視しないと気がつかない程度の大きさしか入っていない。

中には、ルイとヒカルの写真が入っていた。

経年と日射によって褪色してセピア色になった写真があった。

セピアの世界の中に・・・そこに、少し怒ったようにこちらを睨むルイと、笑顔のヒカルがそこに居た。

ふたりとも幼かった。

眼が大きく、手指の比率が大人のそれと違う。


・・・オレはこどもじゃない


ヒカルに傲然としてそう言い放った。

そして、ルイはシャルルのこどもだよ、だからこどもなんだよとヒカルに言われた時のことを思い出した。


・・・あの時の写真だった。


彼はそれを撮った日の事を思い出した。

こどもだな、完全に。

彼は自分の遠い日の姿に再会し、苦い笑いを浮かべる。


家族になろう

何度となく彼女が繰り返す言葉について、ルイは沈黙という思考の波を泳ぐ。

結論はまだ出ていない。


そしてそのフレームに映り込む、ひとりの男の姿を見つめる。

成人したルイ・ドゥ・アルディの姿だった。

彼が誕生した頃のシャルル・ドゥ・アルディの姿をしていた。

フランスの華と違うのは、彼が見事な金の髪をしていることであることだけだった。

それから彼に殴打された高い鼻梁は髪の毛一筋ほど少しばかり歪んでいる。

完璧主義のルイには堪え難い屈辱であったが、形成するつもりはなかった。

シャルルも同じように・・・身体に受けた傷をそのままに遺している。

これはアルディ家の者だからこその傾向なのだろうか。

過去を身体に刻む。

「忘れても良いから、刻め」

そんなことをヒカルに言ったが、彼女はそれがシャルルと似ていると言った。

それなら、彼女はそれを覚えているだろうか。魂に刻んでいるのだろうか。


彼は瞼を閉じた。

長かった。

長い時間を待った。

そして今日に至る。

彼女の姿は写真で確認していた。

遠距離で撮影したものであったので、彼女はこちらを向いている視線ではなかったが、それでも・・・あの人に良く似ていた。

シャルルが運命の人と呼んだ、あの人に。

それでも少し違っていた。

これも、写真が残っているから比較することができたのだ。

彼女はあの人が彼女を生み出した年齢にもうすぐ到達する。

そしてすぐに越えるだろう。

その時。

ルイの傍らで微笑むヒカルを見て、シャルルは一体どう思うのだろうか。

いや、当主の苦しみを想像することは幾度となく行ってきたことであったので、彼はそれについてはその先を考えることをやめていた。

何度考えても、同じ結論にしか至らないからだ。


ヒカル。

彼はもう一度呟いた。

彼の婚約者の名前を口に出した。


これは単に「GRAPHO」でしかない。図や絵柄を表す語だ。

単なる風景と同じだ。

だが、それらに・・・・ギリシャ語の「PHOS」から生じた「PHOTOS」が語源となってそれは写真(photographie)となる。

「PHOS」は光という意味だ。

永遠の晄が、これに注がれることで、刻まれた記憶になるのだ。


間もなく、彼女が戻ってくる時間だった。

成年令に到達した彼女は、戸惑うだろう。

彼の姿を見て・・・成人したルイ・ドゥ・アルディの姿を見て、シャルルのことを思い出すだろう。

次に金の髪を見て、シャルルが迎えに来たのではなく、ルイがやって来たことを知り、落胆するのかもしれない。それでも良かった。

彼女が誰を想っていても関係ない。

ヒカルの婚約者は、ルイ・ドゥ・アルディだけであり、それを容認したのはシャルルなのだから。


今度、ともに並んで撮影するときには・・・婚約式の写真だけだと決めていた。

家族としての写真ではない。彼と彼女は婚姻するのだ。

ああ、それも家族というカテゴリなのかな。ルイ・ドゥ・アルディは苦笑した。



「元気が出るように。そして寂しいときに眺めるように。だから、写真にして残そう」

彼女はそう言っていた。

もう、二度と、写真を飾らせはしない。


遠くで足音が聞こえた。彼はそれを聞き分けて・・・そして微笑んだ。

扉の前で立ち止まり、そして戸惑ったようにしばし沈黙が訪れた。

開錠されていることに対して酷く驚愕しているようだった。


息を詰めて、彼は待った。

写真でしか逢えなかったから。

けれども、彼はどこにも行かない。だから、ヒカルが遺したがる写真は持たせない。

かちり、とドアノブから音が漏れて、ふと、風が吹いた。


ルイは、あの日の・・・・あの時と同じ風の香りを感じた。

待ち侘びた永遠の晄のもたらす風が、星辰の子に注がれた。

天体を統べるという名前の星辰の子という称号が気に入らなかった。

しかし、それも悪くないと思っていた。

彼に光も・・・・そう、永遠の晄も寄せられるのであれば、それは悪くないと思った。07


Hikaru

ヒカル・クロスは、手を止めて、見覚えのあるそれをしばらくの間、眺めていた。

ここはルイ・ドゥ・アルディのセーフハウスのひとつだった。

しばらくの間、彼女はここに滞在することになり、そして部屋の清掃くらいはしておこうと思い立って、広すぎる室内のどこから手をつけようか途方に暮れていた時に、それが目にとまったので近寄ってみた。

ここは彼の部屋だった。

まさしく、彼の空間だった。

アルディ邸の別棟で感じる虚無に近い殺風景なほどに何もない空間と違い、本は整然と壁に並び、床にも本が積まれていた。

様々な分野のそれらを見て、彼が博識なのは、自然と身についたものではなく、弛まぬ努力のためなのだと知る。


それは、ルイ・ドゥ・アルディの目線の場所にあった。

数多並ぶ本棚の一画だけ、空間があったので、ヒカルはそこに近寄った。

それで初めて気が付いた。


・・・・そこには、ヒカルとルイが居た。


幼い時に撮影した、唯一の写真。

ふたりだけの写真。

それと同じものを、彼女は持っていた。しかし、彼女の持ち物ではない。

経年によって褪色し、セピア色になったヒカルの写真と違う。

それは完璧な、変化防止の加工が施されており、ラミネートまで付してあった。

ただ、フォトクリップに挟んであるだけの・・・素っ気ない飾り方だった。

それなのに、彼は、それを完全な形で留めていた。

あの時の色鮮やかな布の質感までが鮮明に残っている。


茶色の瞳が大きく見開かれた。


「刻め。記憶に刻め」

彼がそう言った言葉を思い出した。


あの時は、まだこどもだった。

だからその意味がわからなかった。

彼女はその写真に手を伸ばそうとして・・・そして幾度も躊躇って後に、腕を下ろした。

それに触れてはいけないような気になったからだ。

彼はあまり物事に執着しない。

彼はそうやって育ったからであるが、自分にそう言い聞かせている様子であった。

けれども。

こうして・・・・ここに・・・彼にも、ルイ・ドゥ・アルディだけの空間があった。

膨大な量の書籍や、最新型のパソコンやオーディオセット、車が好きだがエンジンが好きだということや・・・時折ティーではなくコーヒーを飲むことや・・・・嫌いだと言っていた写真を置いていること・・・彼は虚無の中で生きているわけではなかったのだ。



彼女は溜息を漏らした。

彼がよくそうしていたように。


大人になって、知った。


・・・人は、苦しいときに溜息を漏らすのだ。


どうして、長い間、逢わずにいられたのだろう。

懐かしい人に会いたいと思う時は写真を見れば良いと思っていた。

だから、シャルルとルイの写真は片付けることができなかった。


パリに居れば、日本に住まう、恋しいと思った人達の写真を飾った。

日本に居れば、パリの薔薇の屋敷に住む彼らは元気だろうかと写真を眺めて涙した。


けれども。

それは色褪せるから。だから、記憶しろ、とルイ・ドゥ・アルディは言った。

その意味を・・・理解した。

彼はすべてを映像として記録することができるが、それでもこうして写真を遺していたことについて、ヒカルは息が苦しくなるほど胸が痛くなった。


彼女が見つめた過去の想い出より、鮮明な映像を彼は保持し続けて・・・自分の目線に置いていた。

ヒカルは唇を噛んだ。自分が何も知らなかったことを知って、苦しくなる。でも、ここで溜息は呑み込んだ。自分のために吐息は出さない。

自分を憐れんではいけない。

考えろ・・・・ルイ・ドゥ・アルディの声が聞こえてくるようだった。


彼は、今、ここには居ない。



この家に居ないということではなく、この世には居ない。

ルイ・ドゥ・アルディという人格は深く深く・・・ルイ・ドゥ・アルディという器の中に沈んでしまっていた。

彼であって彼でなくなってしまった。


あの不幸な爆発事故によって、彼は生死を彷徨った後、魂だけを遺して戻って来た。


記憶に刻め、と言ったのに。

それなのに、彼は彼女の事を忘れてしまった。

消去してしまった。

ヒカルを認識しているが、それはルイとしてではなかった。

ルイは・・・ふたりだけの密やかな記憶も、何もかもを捨てた。


星辰の子と呼ばれているのに。類い希なる才能を持った人物であるのに。

・・・・ヒカルがなりたくてなれなかったアルディ家のこどもであり、そして、中央に位置するこどもなのに。


「・・・また、こどもの日には、いろいろ準備しないといけないわね」

彼女はそう言って小さく笑った。

涙が出そうになるから、だから、微笑んだ。

いつもそうやって笑うんだな、と彼は彼女に言ったが、それしか知らなかったからそうするしかなかったのだ。


今度は大きく息を吸う。

ヒカルのことを、彼は助けた。

幾度も。幾度も。

何も知らない暗闇の世界から、彼女の本当の姿を照らし出してくれた。

・・・彼は彼女の家族だ。

ルイがそう思っていなくても、かけがえなのない大事な人であることにはかわりがない。


彼女は彼の悲鳴も吐息もすべて聞き流してしまっていた。

だから自分は贖罪の娘だと言われるのだ。


眼を瞑る。こうして眼を瞑れば、あの時の声や自分の昂揚感が蘇る。

いつも冷たかったルイが、あの時は優しかった。

そうだろうか。

彼はいつも優しかった。

素っ気ないけれども、いつもヒカルの傍にいて、彼女を見ていた。


ルイ・・・・ルイ・ドゥ・アルディ。


ヒカルは唇を引いた。

今度は、彼女が彼を助ける番だ。

順番などではない。

そんなことは関係なく・・・彼女は彼に戻って来て欲しいと心から願っていた。



ルイ・ドゥ・アルディ。

貴方の・・・・刻んだ記憶と一緒に、ルイを呼び戻すから。必ず。


ヒカル・クロスはそう言い聞かせた。それから、写真の中で微笑む父と母を思い起こした。

写真はね・・・・・光がないと撮影できないよの・・・・

母は絵を描く職業にあった。そして・・・光の中で微笑むルイの幼い姿を描いた。

あの絵の意味するところも、この写真をルイが保存してあった理由も、きっと同じだろうと思った。


光がなければ、単なる絵や図でしかない。


ルイならそう言って皮肉っぽく笑うのだろう。彼の冷たくて素っ気ない横顔や、青灰色の瞳や・・・・溜息さえ、懐かしかった。


逢いたいと思う人に会いたいときには、写真を見れば良い。

自分はそう言ったけれども。

彼女の瞳から、ひとしずく、涙が落ちた。光を反射して、輝き、そして頬を伝わってそれは静かに落ちる。


「ルイ」

彼女はその写真を見て微笑んだ。ラミネート加工されたそれに、照明の光が反射して、彼女の姿が薄く淡く映っていた。

・・・大人になったヒカル・クロスがそこに居た。

彼女は母親に似ている。

自分を出産した頃の顔立ちと自分の顔は良く似ていると思った。

けれども写真を比べると僅かに違うことがわかった。

ヒカルはヒカル・クロスであり、マリナではない。

・・・ルイもそうだ。

シャルルと非常に良く似ているが、彼はルイであり、シャルルではない。


媒体を通して見るものは、所詮がその程度の確認情報でしかない。

彼ならきっとこう言うだろう。


その声が、聞きたかった。


彼女は結局、その写真に指を伸ばすことはできなかった。

それで良いと思う。

これから彼に逢いに行くのだから。


彼女はその場から離れて、薄手の上着を持った。

逢いたいに人に会えるときには・・・・直接逢いに行く。

写真に写るルイを見て、それだけで満足せず、ルイに逢いに行く。

それが、母の・・・マリナがヒカルに教えたことだったから。

彼女も若い頃はよくそうして友を尋ねて歩いたようだ。

今でも、日本ではその話を聞かされる。だから倣うわけではないが。

ヒカルはヒカルのできることをしようと思った。

いや、違う。

彼女が・・・ヒカルが逢いたいのだ。


星辰の子と呼ばれた、孤独で、繊細で、酷く臆病な、彼女の家族に逢いに行く。


忘れも良いから刻め



本来の画像の意味とは、そんな目的から始まったことなのだから。

だから、ヒカルは魂に。記憶に刻む。

彼と彼女の想い出は、消すことができないから。


ルイ。


もう一度、彼女は彼の名前を呼んだ。


そして、自分はこれからどうするべきなのかを考えながら、上着の袖に腕をとおし、そして・・・外にでる準備を始めた。


ルイに逢いに行くために。


またいつか写真を撮るときは・・・今度こそ本当に家族写真にしたいと強く願いながら。


FIN)



むつのはな 前編

■むつのはな01


その年の冬は記録的な大寒波の影響でとても寒かった。

そしてパリの16区では珍しく雪が積もった年だった。


乾燥した寒さではなく、湿りを含んだ纏わり付くような冷風が始終吹き荒れており、それはアルディ家の当主がこよなく愛するあの東の国の気候に良く似ていた。


ルイ・ドゥ・アルディは久しぶりに訪れたアルディ家の別棟に続く渡り廊下を抜けると、立ち止まって、表情を変えることもなくアルディ家の本邸を見上げた。


・・・最後にこうして見回した時より、少し見え方が違っていた。


彼は背が伸びた。

季節が変わった。


・・・だからだろうか。


冬なのに、この邸では薔薇が咲き乱れている。絶やすことが罪悪であると声高に主張しているかのように。

それが面倒で、彼はこの家にはほとんど戻らなかった。

とうに学業に身を委ねる時期は過ぎていた。

彼の父と同じように、10代の最初の頃にこの国で受けられるべき最高の教育課程を既に済ませてしまっていた。


・・・彼は星辰の子と呼ばれている。

それなのに、吐息は白かった。

・・・人の子なのに。彼は、星辰の子と呼ばれる。


上質の羽毛が詰まったダウンジャケットの下で


この家の薔薇の香りが彼を苛立たせる。

静かに幾年も持ち続けた決意に新たに炎を燻入れる。


彼は腕を少し持ち上げて、コートの袖下の手首に光るウブロのAERO BANG TUNGSTENにちらりと目を遣った。

ラバーブレスレットであるので、それは冷たさをあまり感じさせない。

・・・そもそも彼に体温があるのだろうかと疑問を抱かれることが多かったが。

それほどまでに、彼は怜悧で冷徹で・・・かつてのシャルル・ドゥ・アルディを彷彿とさせると誰からも言われ続けた。


ルイは物憂げな青灰色の瞳で、それを見つめたが単に時間を確認しただけであり、この時間であれば家人は誰もいないだろうという予測を確認する道具でしかなかった。


ルイは半期の短期留学を終えて、幾月かぶりにアルディ邸に戻って来たばかりだった。

相変わらず誰の出迎えもなかったし・・・シャルル・ドゥ・アルディは不在であると告げられながら家に入った。

家という表現さえ使うのが厭わしいこの建物が、彼の現住所であることを認めざるを得ないことが口惜しい。


誰も彼の凍て付いた心を溶かす者はいない。

ルイはそうして欲しいとさえ願わない。


・・・国外での生活は刺激にはなるが憩いにはならない。

だからと言って低きに流れていくつもりはない。

ルイ・ドゥ・アルディの生きる目的はただひとつだった。


この家の頂点に君臨すること。

今、この家に居座っている当主を追い落とすこと。

生きていたくないと思わせるほどの苦悶を味わわせること。

付随する些事はいくつもあったが、それでも根本的要求はひとつだけだった。


薔薇の一族の頂に立つ。


彼はそのためだけに生まれて来た。そのためだけに生きている。


いつまでも追いかけているつもりはなかった。

近いうちに、それは予定から現実になる。


フランスの華という尊称を長らく独り占めしているこの家の主に誰も逆らえない。

だがそれは、この一族で彼に打ち勝つことの出来る人間がいないだけなのだ。


ルイはそびえ立つアルディ邸を見上げると、そこで軽く首を振った。

見事な金の髪がこぼれ落ちて、彼の秀でた額に降りかかったが、湿った風によってそれはいつものように軽い摩擦のあとに元通りになるということはなかった。

・・・帰国した早々にこの天候で、彼は教育係の叔父に簡単に報告のメールを送っただけで挨拶を済ませてしまった。本来はどこにいるともわからない気まぐれなミシェル・ドゥ・アルディの居所を訪ねるべきなのだろう。


・・そして、おそらく、ルイが不在の間はミシェルは頻繁に訪れているであろう、金の髪の女性の元にも行くべきなのかもしれない。

しかし、いつも夏しか経験していない彼女に逢っても・・・彼女は彼をルイという名前では呼ばなかった。

■むつのはな02


彼が短期留学を繰り返しているのは、この国では煩わしいことが多すぎるからだ。

しかし多国に出ても煩わしさは出現する頻度が下がるだけで、少しも解消されるということはない。

いつどこにいても「アルディ氏が長らく事実を秘匿していた息子」という長い冠を捨て去ることは出来なかった。

もっとも、ルイ・ドゥ・アルディはそういったことに対して激憤することもなかったが。

それが星辰の子という言葉に変わっただけで、彼はそう呼ばれる度に、唯一の存在ではないと宣告されているのだと考えていた。

フランスを絶対とする一族から、唯一になれと望まれて生まれて来たというのに。

それなのに。

この薔薇の一族の孤独な王は、ルイを望まない。

彼が長じて、父に酷似していく都度、白金の髪の父は美しい眉を曇らせて、ますますルイではない別の者を愛翫する。

なぜ、彼は彼であることを受け入れたはずなのに、そうではない者に逃げ込むように愛翫することで自分を慰めているのだろうか。

憐れみはルイの誇りを激しく傷つけるだけで、決して癒しにはならない。それはシャルルも同じであると考えていたのに。

決定的に違う何かが、ルイとシャルルの間には、大きな河となって横たわっていた。


アルディ氏は息子の教育係であるミシェルに、ルイに関するもののうち、すべてと言って良いほどの権限を与えていた。

当主は滅多なことではルイの養育に口を差し挟まない。

普段は、まるでルイがそこに存在していないかのように振る舞うのに、ルイが国外に出ようとするときだけは彼は意見することがあった。


アルディ邸に過ごしている時だけは、当主命令で、邸内での日本語の使用を強制されるからだ。そして様々な物事や催事があの国のやり方で施行される。

その他、各種日本様式について、当主からたった一言だけあった。

「守れ」と。

命令されればそれは絶対だった。

滅多に強権を発動しない彼であったが、この件に関してだけは意固地だった。

アルディ家には興味がなくなってしまったのかと思うような素振りを見せるのに、決してそうではない。

この家が絶えてしまっても特に気にしない。

しかし、シャルルだけは滅さなければ彼の生命は意味を成さない。


彼は久しぶりに訪れる別棟に向かって行った。

ワークブーツの底で雪が軋む。

雪の風情を残せと言われているので、特段除雪作業はしていないということだった。

それまであたたかい地域にいたので、寒暖の差が激しく感じるが、やがてそれも慣れるだろう。

それよりももっと・・・・この敷地は漫ろ寒いから。

この家は凍えるという感覚を通り越して痺れるような寒さがあった。


ゆっくりと傾斜した丘に、青女(雪の異称)が静かに衣を広げていた。

この地区でもかなりの積雪があったらしい。

アルディ邸は温室を持っているので、温室の周辺だけは雪が積もっていなかった。

凍結防止の処理が施された石畳や砂利道から少し外れると、そこはもう白く光る冰(ひ)が音さえ奪って空に戻ることを諦めたかのように・・・根を下ろし、厚みを増して積もっていった。


これほど静かなアルディ邸は滅多にないことだった。


普段は姦しい生き物が徘徊し、あちらこちらに存在を残していく。

まるで縄張りを主張しているかのように。

そうしなければ自分という存在が忘れ去られてしまうのだと考えているらしい。


彼は淡く吐息を漏らす。

白い雪のような綿のような気息が彼の見事な金髪を越えて空に散って行く。

自分が当主になったあかつきには、静寂という薔薇の苑でこの邸を包み込んでしまおうと思っていた。

彼の整った顔立ちを見て久しぶりに接見する者たちは感歎の声を漏らす。

シャルル・ドゥ・アルディに似ている、と。

顔立ちだけではなく才能や功績までもが彼を追いかけ追い抜く勢いのルイのすべてが奇蹟のようだと言う。

・・・確かに、ルイが「奇蹟」などという根拠のないものを信じないのは、若き日のシャルル・ドゥ・アルディと同じであったが。


ひっそりと静まりかえった蕭寥とした邸内を見渡すことが出来る別邸の入り口のポーチで・・・ルイは本邸の内庭を眺めていた。

また雪が降りそうな気配だった。


留学が楽しかったわけではない。単に静かな場所に行きたかっただけだ。

その間にも日進月歩で進む彼の扱っている分野での調査も研究も怠らなかった。

彼よりずっと年上の研究者たちに囲まれた生活が豊かであったかといえばこたえはノンだ。まだ・・・ミシェルと一緒に僅かな会話だけを交わす時間の方が心安かった。

彼の将来のために、人脈を広げるためだけに、すでに終えてしまった学程を今一度繰り返さなければならない苦痛を味わいながら・・自分はどこに行き着くべきなのかだけを考え続けて生きている。

■むつのはな03


人払いをしているはずだった。

荷物は既に別邸に運ばれており、彼はここには滞在しているだけのホテル暮らしと大して変わらない状況で存在するはずだった。

誰も居ない時を見計らって戻ることを習慣化して随分経過する。


それなのに。


「・・・ルイ」


人の気配を感じて、彼は脚の動きをとめた。

少年から青年に変わりゆく狭間に位置する彼は・・・華奢な太腿を動かすことをやめた。

厚手の上着を着ているのに、料峭が染みいるような・・・

そんな底冷えの冷涼が彼を包んでいた。

記録していた声より少し低くなった声が・・彼の背後から立ち上ったので、彼は後ろを向いた。

彼を乞う呼び声はすぐにわかった。その声はすべての冷寒を突き刺して彼に向かって温波を発したから。


その声は・・・


「ヒカル」

長らく、声に出すことを禁じていた言葉を出した。

先ほど吐き出した溜め息よりもっと深く。

もし、誰も見て聞いていなければ、彼はその言葉を何度となく繰り返しただろう。

彼は繰り返すことは決してしない。

それなのに・・・彼女の名前を顕す音だけは、繰り返す。

何度も。・・・何度も。


そして、短い期間でありながら、なぜこれほどまでに離れて過ごしていられたのだろうという思考を始めてしまいかねない。

だから離れているというのに。

・・・それなのに、離れているということは・・・

彼女に対する説明できない意識の強さを増長させるだけだということと、彼が満たされない要因のであるとういことを認めることから距離を置くことだとルイは考えていた。

いずれ・・・彼女を娶ることになるだろう。


愛がなくても。

彼は愛されなくても。

それなのに、彼女を幼い時から見つめ続けなければならないという強制力が彼を憂慮に追い込んだ。


彼は吐息を壊しかねない勢いで、声にならない声を出した。

玄関扉の少し広くなった場所に、彼女は座っていた。

いや、座り込んでいた。

小さな・・・小さな生き物はそこに座り込んでいた。

人の気配がしなかったのではない。


気配を感じさせないように、ヒカルが配慮していたからだ。

雪も氷も溶かす温度を持ち合わせながら、彼女はそこに座り込んでいた。


ルイの別棟は施錠されているから誰も入ることは出来ない。

彼の識文とIDチップがなければ入れないようになっているが、日々の清掃での出入りは許可していたから。

だからだろうか。ヒカルはエントランスのチェックレイ(IDチップシールと非接触でありながら有効IDであるかどうかを確認する光線のこと)を通り越して・・・彼女はルイの目の前に存在していた。


誰かの足跡があれば一目瞭然の雪空の日だった。

それなのに・・・彼女はその跡が残る前からそこにいて・・・入れない我が家の前で途方に暮れるこどものように、ルイを待っていた。


「ヒカル」

ルイは掠れた声でそう言った。久しぶりの日本語だった。

しかし忘れたことはなかった。彼女を呼ぶ音はいつもその東の国の発声だったから。

永遠の晄という意味を持つ、彼女は目の前にいた。

なぜ離れていられたのだろうか。

なぜ忘れていられたのだろうか。


いや、忘れてなどいない。


彼女が自分を忘れてしまえば、もっと冷たくできるのに、と思っていた。

それなのに。

彼女が自分を消去したり忘却したりすることは決してないだろうと思った。


誰かの心の移ろいについて、確信を持ったことはなかった。

人の心は、欲得や状況や時間によって変化する。

ルイのように変化しない者は少ない。

だから、誰も近付けない。同じ気質を持っている者であっても信頼しきれない一族に産まれて・・・誰もの思惑というものが、この家を動かしているのだと早々に理解したつもりだった。


それなのに。

ヒカル・クロスの考えていることだけは・・・理解できない。

■むつのはな04


最初、互いの声が記憶していたものより少し違っていたことに驚いて、同時に目を見開いたが、それが成長による変声であることを理解したのはルイの方が先だった。


そしてヒカル・クロスの顔を見つめた。

冷たい地に座り込んでいた彼女は、防寒具を身につけていた。

頬が赤くなっていたが、象牙色の肌理の細かい肌は、色が抜けて頬と対照的に白く見える。

おそらくルイの帰邸を待つ、と言って邸内の者たちをだいぶ困らせたのだろう。

せめて体調を崩さないようにということで大変に着込んだ出で立ちだった。

足元のボアつきのブーツが機能性を重視して底の厚いものであり、それが幼さを残している。淡い露草色の羽毛の詰まったロングコートを着ていた。

それでもとても寒そうにしていた。彼の落とす溜め息よりずっと白い息吹が・・・雪を更に呼び込みかのようにルイより短い間隔で生まれては消えて行く。

体格の違いによる呼吸数の差異と感じてなお・・それがルイを招く凛冽の烽火のようだった。触れれば消えてしまう淡雪よりもっと壊れやすく持続しない白い吐息を見て、彼はヒカルと視線を合わせたが何も言葉をかけなかった。


茶色の瞳が彼の姿を捉えて・・

一瞬、彼女の唇がルイ・ドゥ・アルディではない者の名前を呼んだ。

それほど長く会っていないわけではないのに。

彼女は・・・呆然として彼を見つめていた。

それほどまでに、彼は良く似ているのだろうか。理解しがたいあの男の容姿に。


彼は背が高くなり、声が低くなり、顔つきがさらに精悍になった。

まだ成長の途中であったので線の細さは抜けきらないが、嫋やかな美少女のような中性的な印象を持っていたルイは・・・彼はそこから抜け出していた。

彼の父はもっと年齢が進んでからそこから逸したというのに。

はやく大人になりたいと思った故のことなのか、彼の父が特殊だったのか・・・そこだけは彼は、彼の父と呼ばれる人物より先んじていた。

この雪空の下であってなお、輝く金の髪の持ち主は、


・・・ルイは黙ったままで彼女を見下ろし、そして観察した。


彼女は茶色の髪が伸びていた。この湿度で癖の強い髪が少し広がっていた。

しかしそれは彼女が細面になった顔の輪郭を隠すどころか、際立たせている。

華奢な肢体が伸びて、それでもまだ脆弱と言った方が良さそうなくらいに不均衡だった。ヒカルが、ルイと同じように少女から娘へ移り変わる過程にあると知る。

それでも顔の線が柔らかくなった。あどけなさが残るものの・・・シャルルが今でも忘れることの出来ない、あの人に良く似ている。

そして、彼が心を許した友を父に持つヒカルは、彼の面差しも濃く引き継いでいた。

加えて、気質も。

彼女は何を勘違いしているのか、ルイを兄のようにきょうだいのように慕っている。

互いに兄弟姉妹は存在しないのに。

そして理由は明かされていないが、シャルルとルイの不仲は周知の事実で、彼女がそれに心を痛めているものの、何も口出すことが出来ない状態でいることについて、誰も咎めないことにルイは苛立っていた。

シャルルと不仲であることは辛くはない。

けれども。

矮小な人間に憐れみを施されることほど、苦痛なことはなかった。

そうされればされるほど、彼の誇りは激しく傷つけられるということに、あの愚かな贖罪の娘はいつになったら・・・気がつくのだろうか。


ヒカルの桜色の唇が、ゆっくりと動いた。今度は声を伴っていた。

そして満面の笑みで彼に言った。

長い時間黙ったままでそこに座り込んでいたのだろう。少し声が掠れていた。

茶色の瞳を細めて、はにかむ。

彼の美貌に臆さない数少ない人と、彼は久しぶりに対面した。


凍て付いた身体の奥底から・・熱く滾るものが湧き起こる。

そしてそれは・・否応なくその声に惹き寄せられるのだ。

何度も何度も繰り返し思い出していた声と違う波が彼に向かって投げられた。

違うのに同じだった。

彼は繰り返さないのに。

紛れもない彼女の・・・ヒカルの声だった。

厭わしくて遠ざかったのに。


繰り返さない彼が繰り返し記憶を再生した。

それは自分に思い出したいような過去がないから。

彼はどこにいても「シャルル・ドゥ・アルディの息子」と言われ続ける。

そして彼に酷く似ている、ということも加えられる。

それは最近になって顕著になった。

讃辞なのか軽侮の言葉なのか・・・彼はどちらでもどうでも良くなった。


なぜ・・・彼女がそこにいるような気がしたのだろうか。


だから彼は驚いた。

彼女がそこに居ることに驚いたのではない。


・・・・聞こえてくるはずの声が少し違っていたから。

根拠のないものは信じない彼なのに。

それなのに。

彼は・・・知った。


ヒカルに再会して知った。


・・・姿が変わっても。声が変わっても。


彼は間違えない。

彼は惑わない。


彼が決して見間違えることのない相手は・・・彼を別の誰かと混同するのに。


これが何を意味しているのか。

わからない彼ではなかった。


それなのに、彼の運命の娘はルイだけに愛を注がない。

これは彼女の気質の問題なのだろうか。

たったひとりだけを愛し抜くことができない。

いつか・・・そうではなくなるときが来るのだろうか。

あの、シャルル・ドゥ・アルディのように。

誰かを狂うほど愛して・・愛し抜く覚悟が、彼女の内に芽生えるのだろうか。

永遠の晄と名付けられた娘は・・・皆に気を配り最大多数の最大幸福を気にする。

ルイという太陽の名前を持つ者は、星の晄にしかなり得ない。


「ルイ・・・おかえりなさい」


いとも容易く彼女は言った。

立ち上がりながら、何時間も待ったと言わずに。彼女は、ゆっくりと立ち上がって、目線の変化したルイ・ドゥ・アルディに向かって茶色の晄を注いだ。


胸が苦しい


なぜなのだろう。


駆け寄って、彼女の肩を掴み・・・そしてどこまでも遠くこの薔薇の館から退いて・・誓った星に行き着きたいという衝動について考える。

どんなに泣いても。どんなに叫んでも。彼は彼女をどこまでも連れて行くつもりだった。

・・・もし、ヒカルが彼をルイ・ドゥ・アルディと認めたのなら。

■むつのはな05


あと幾度この感覚を味わえば・・・終わりが来るのだろうか。

ルイ・ドゥ・アルディは溜め息を漏らした。

生命の塊のような彼女を、この家の当主がどれほど大切に扱っているのかが一目瞭然だった。こうしてだいぶ長い間ルイを待っていたと思われるヒカル・クロスを見つめながら、彼は考えた。ヒカルは何も疑わない。ルイの戻るところはここしかないと思っている。本当はそうではないのに。本当はそうしないと決めていたのに。それなのに、ルイはここにやって来た。

そして幾度も考えては結論を出さずにいたある予想について再び思考を始める。

その珠玉の晄の薔薇を・・・踏みにじったら、当主はどのように思うのだろうか、と。


この雪のように。


静寂の中で・・・

足跡ひとつない雪の衣を、土足で穢したら。

本当の苦悶を味わったことのない娘をシャルルから取り上げたら。


彼は癒されるのだろうか。

彼は平らかになるのだろうか。


「・・・南極まで行ってきたような出で立ちだな」

ルイは顔をしかめてそう言った。

別棟の前で座り込んでルイを待ち続けるヒカルに向け少し距離を置いて話しかける。

「・・・戻ってくる時間を聞くのを忘れてしまったから」

それは違っていた。ルイの帰邸時間は決まっていたから。

彼は予定を余程の事がない限り変更することはない。

今日のこの雪で、到着時間が遅れた。

しかしそれをルイはあえて連絡をしなかっただけだ。

偽りは伝える必要はないが、事実を積極的に伝える必要もなかった。


ルイ、と呼ばれたので彼は頬を僅かに動かした。

彼は耳を澄ませる。ひとつひとつの単語を彼は記憶に刻んでいく。

目を瞑ればまるで面識のない娘が話をしているようだった。

しかし間の取り方や言葉の選び方などはまさしくヒカル・クロスそのものであるということを確認する。

「邸で待っていれば済む話だろう」

少し怒ったような口調だった。

ヒカルがゆっくりと立ち上がって、ルイの目線を上げていく。

やはり彼女も背が伸びた。

こうして彼女は改良された薔薇のように、シャルルに大切に育てられて生きていくのだろう。健やかに成長して。美しく整えられて、最高の状態を保たれ続けていく。


ヒカルは首を少し傾げた。

「最初に出迎えたかった」

彼が本邸に足を踏み入れないことを彼女は知っていた。

そして、彼の帰邸を待ち侘びる迎えの者が誰も居ないことも。


ルイは何でも持っているはずなのに。

ヒカルが欲しいものを持っているのに。

ルイには・・・決して手に入らないものがある。


「それならもっと効果的な場所で有効に使える場面を選ぶべきだ」

彼はそう言って、ゆっくりと自分の居るべき別邸に向かって歩き出した。

ブーツの踵が白い石畳の上に乗り、音を僅かに立てた。その場所だけが雪がなかった。そして先に彼女は座って彼を待っていた。

周囲は汚れのない銀雪が光っているが、ヒカルはその雪が積もりゆく様をずっと・・・座ったままで・・・ひとりで眺めていたのだろうか。

こどもに良くあるような、雪華を踏み荒らす行為をせずに、彼女はただひたすらにルイの帰りを待った。何を考えながら、ヒカルは時間を過ごしていたのだろうか。

エントランスから眺めることの出来る瀟灑な別棟の庭も積雪していた。

ヒカルの姿が近づくにつれて、自分の脚幅が少しだけ広くなって足調がやや乱れていることに気がついた。

これをルイの気が急いているからだと、ミシェルは嗤うだろう。


茶色の髪の、茶色の瞳の娘が、立ち尽くしていた。

シャルルは・・・運命の人の娘と自分自身と良く似たルイがこうして距離を近付けていく様を見て、何を思うのだろうか。

日本であの人を手放さなければ良かったのに。

ルイならそうはしない。

手に入れたものは離さない。

どこまでも連れて行く。


たとえ、瞞してでも。

たとえ、攫って拘束しても。


一度は運命の人に背中を向けたのに。

そして彼の友に、彼女を託したのに。

シャルル・ドゥ・アルディは未だにあの人を忘れられない。

だからヒカルを慈しむ。どこまでも深く。どこまでも限りなく。

■むつのはな06


愛という糧を貪って育った永遠の晄という名前の彼女は、ルイに微笑んだ。

「ルイ・・・今日は一緒に食事をしよう」

「断る」

彼は歩きながら冷たくそう言った。

彼女が別棟に入らないのには理由があった。

ルイが出入りを禁じしているからだ。

彼の何かがそこにあるわけではないが、庭に広がる雪のように彼は土足で荒らし回る輩には寛容である必要はないと考えていた。


「ルイ・・・待って」

「ヒカル、早く本邸に戻れ。目的は達しただろう。オレを待っていたというのであればオレはこうして到着した」

ルイはヒカルの脇をすり抜けて、そう言った。

仄かに・・・彼女から立ち上る香りが彼の頬を撫でた。

雪の香りに乗って、彼女の髪が躍った。ルイが起こした風だった。


「そもそも、待ってくれとは頼んでいないし指示も出していない」

ルイは素っ気なくそう言った。すると、ヒカルの顔が曇った。

そこはいつもと変わらなかった。彼女は泣きそうな顔をするが、決して涙を見せない。

傷ついた顔をするがいつも次には微笑んでいる。誇りというものがない娘だった。

そうでなければ生きていけないからとかたく信じ込んでいる。


どうやっても、どうしても行き交うことのない人間というものが居る。

それがヒカルとルイだ。

これほど近い場所に居るのに、彼女とルイは同じ過程で生まれて来たのに。

・・・それなのに、決定的に違う。何もかもが。


彼のウインターコートが舞った。ヒカルの髪と同じように。

彼は裾を翻して、別棟の中に入ろうとした。彼女の脇を通り抜ける。

誰も居ないかのようにまったく視線を遣らずに前を向いていた。


「今日は本邸から見える庭は雪景色で・・・明日には溶けてしまうから」

「だから?」

「だから一緒に見たいと思ったの。今夜は月も綺麗だし・・・」

「ヒカル」

ルイは呆れたように言った。その時には彼は立ち止まり、そしてそこでヒカルを見下ろした。彼女の頬は赤かったが、それ以外はすべて白かった。・・・身体が冷えているだろう。唇は薄い桜色であったが、本来はそれはもっと赤いのだろうと思った。

健康で、倖せと信じ、甘やかされて育った娘は・・・今持っているものに加えて、ルイも欲しいとねだる。彼にはそういう愚鈍な娘にしか映らなかった。


「オレは数ヶ月ぶりに邸に戻り、そして明日からはいつも通りの生活だ。雪が溶けようが凍ろうがまったく影響しない。時差の影響でこれから体調管理にも気を配る必要があり、たまっているだろう書類に目を通すことも済ませる必要がある。・・・ヒカルの雪見にはシャルルに付き添ってもらえ。・・・アルディ邸の庭をそぞろ歩くのであれば、ひとりでもできるだろう」


彼は尖った言い方をした。普段はこれほど長く喋らない。

しかし、ヒカルにはこう言わなければ伝わらない。一度で済まされない会話の往来を繰り返すつもりはない。彼女との会話はこれで終わるはずだった。

自分のことより他人のことを心配していると見せかけることに長けている彼女は、ルイが忙しいと知れば気を回してそれ以上近づいてこないからだ。

忙しそうだからといって本当に伝えなければならないことを言わずに居る。

・・そんな娘だった。それではアルディ家では生きていけない、とルイは教えられて育ったのに。ヒカルは相手を思い遣って生きろと教えられて育った。

それがどれほど見当違いの配慮であるのかということを考えたこともないのだろう。


まだひとり歩きを赦されていない彼女は、困った顔をして言葉にならない言葉を吐き出した。

白い吐息が再び現れて消えて行く。

門扉の前でいつまでも到着を待つヒカルをいじらしいと思うのは、シャルル・ドゥ・アルディだけだ。少なくともルイはそう思わない。


「どけ」

ルイは冷たくそう言った。話し相手にさえならないヒカルに何もしてやるつもりはなかった。それなのに・・・彼女をそのまま、冷たい雪華の中に置き去りにしておいてもまったく動じないはずなのに。

彼は・・・立ち止まって、ヒカルを見てしまった。


茶色の髪に茶色の大きな瞳を持った少女はルイを懸命に見つめていた。

彼の変化した姿を受け入れるのが難しいというように、戸惑っていた。

あと幾度こうして雪の季節を過ごせば、フランスの華と同じ容姿になるのだろう。

まだ、時間が必要だった。

それなのに、彼女はルイをシャルルと間違えそうになった。シャルルと長い時間を過ごしていれば、決してそんなことはないだろうに。それがルイを余計に苛立たせる。

しかし憤りを顔に出すことはしなかった。まったく無表情に・・・目の前の大人の香りのしない少女を見つめ返す。


■むつのはな07


雪は醜悪だ。

溶けると見苦しい。


居間に入ったルイは、すでに整えられた空調の中でそう思った。

玄関で上着を脱ぎ、冷気と僅かな雪を含んだそれから解放される。


上質の上着を脱いで、彼は彼の身体の線の美しさを損なわない程度に薄いが品の良いセーターを脱いだ。乗馬とフェンシングで鍛えた身体に、少年の頃にはなかなか発達しなかった筋肉が見え始めていた。・・・大人の身体に変化しているからだ。



なぜだろう。寒冷な外気から解放されたはずなのに・・・彼はその時にあまり感じていなかった寒さを感じた。

空調は完璧であったし、居間のクリスタルのテーブルに乗っているポットには飲み頃になっているティーが茶葉を開いてルイを待っていることだろう。

彼は脱いだセーターにもう一度手を通すことはしなかった。

シャツ1枚であった。細い腰に裾が触れている。・・・身長が伸びたのであちらで買いそろえたものだったが、それでも次の季節までには着られなくなっていることだろう。


・・・全裸でいるより極めて官能的な肉体だった。

ルイの整えられた身体が少し弛緩するのを感じる。長時間の移動の後だった。彼は酷く疲れていた。神経が休まらない。

この家では特に。

早々に、自分だけのセーフハウスを見つけようと思った。

誰も来ない、音のしない、静かな空間でなければ彼は深く睡臥することができない。


雪が音を吸って静かなアルディ邸がますます静寂という色に染まっているというのに。

彼はそれでも障ると眉を顰める。


このざわめきはなんだろうか。

ヒカルと話をしたからだろうか。

・・・彼女を置いて、そのまま別棟に入ってしまったからだろうか。

・・・ああ言っておけば、彼女は本邸に戻っていくことだろう。そしてしばらくはここに寄りつかないはずだった。


・・・熱い湯を浴びようと思った。


時差によって身体がだるかった。

しばらくは・・・この気怠さを相手にしなければならない。


彼がバスルームに足を運ぼうとした時。

ことり、と何か音がして、彼は居間の中央に目を遣った。

居間にはほとんど何も置いていない。

背の低いクリスタルのテーブルと、大理石でできた小さな丸テーブルがあるだけだった。

彼はいつもそこに小物を置く。時計も先ほどそこに置いた。そしてもう一つ・・・

この居間に居間までなかった小さな木製のテーブルが置いてあった。

そのテーブルには見覚えがあった。


幼い頃、ヒカルが持っていた、こども遊び用のテーブルだった。

彼女はそこで彼女の教育係とよくいろんなものを飾って遊んでいた。

オーナメントは特注で、大変に繊細で精巧なものだった。

単なる人形遊びではなかった。手触りや風合いまでがすべて本物と同じだった。

突然やって来たフランスでの暮らしや言葉に慣れるために、あらゆる方法で彼女は教育されていった。食事の作法やフォークやナイフの種類さえそれで覚えた。

そして彼女はそれらを与えられながら、ひとつひとつの・・・ものの名前を覚えていった。シャルルはそうして彼女を育てた。


それがここに運び込まれていた。なぜなのか。

あれはもうヒカルの身長に合わないので、片付けられたと聞いていたのに。


・・・そしてルイはそこにあったものに目を向けた。


小さな持ち運びに片腕があれば十分なテーブルの上には・・・アイスツリーが光っていた。

雪で出来たそれは、空調の暖風によってすでにだいぶ融解してしまっていた。

その水が受け皿から溢れそうになっている。

先ほどの物音は、頂点が崩れて、落ちる音だったのだ。そこには・・・彼女がかつて使った飾り玩具が吊ってあったに違いない。それらはすべて落ちて皿の上に浮かんでいた。


すぐに溶けてしまうのに。空調が効いていると知っているはずなのに。

戻ってくる時間が変更になったことを知らせなかったので、ヒカルがあれほど戸惑った顔をしていたのだ。そして本邸に行け、とあれほど言っていた理由を察した。

・・・ルイを呼びだしている間、こっそりこれを始末するつもりだったのかもしれない。


彼女がこっそりここに忍び込んだことを咎めるのは容易かった。しかし、彼女が・・・雪の積もりゆく様を見ながら、別棟の門前で本邸と庭の降雪を・・・何を考えて見つめていたのかと推測するだけで、なぜか・・胸が痛んだ。理由はわからない。わかったらお終いだと彼の中で何かが囁いていた。


そうだった。

彼がなぜ戻って来たのか。

短期留学を終えてそしてそのまま・・・クリスマス休暇に入ったからだ。

誰もが家族や恋人と過ごす時間に彼はひとり戻って来た。

ヒカルが何度もいつ戻ってくるのかと連絡を寄越していたのは、このためだったのか。


どんなに金額を積んだ品を贈ってもルイの心は解けないから。

雪の日に戻ってくると知って、彼女は彼女しかできない贈り物を捧げることにしたのだ。

・・・シャルルではなく、他でもないルイに。


そして彼の帰りを待った。いつ戻ってくるのかと思いながら。


そしてそれが意味を成さない形になる前に交換するか下げておけば良いのに。

苦笑いが浮かぶ。彼なら・・・あらかじめ2つ作っておく。こうなることを想定して。

それなのに、努力したことを見せびらかしたいとしか思えない彼女の行為に呆れながら・・・彼は微笑んだ。


寒いと思った室内が、急に暖かく感じた。

そして、絶対に入ってはいけないときつく言い渡してあったのに、彼の居住空間を・・・雪を踏み荒らし穢すような行為に等しいことをヒカルが実行したことが滑稽だった。

彼女は案外に豪胆な気質があるようだった。

・・・後先考えずに行動するようだ。

あの人の娘だからか。

それはアルディ家にはない性質だった。


ルイにはクリスマスも休暇も必要ない。シャルルもそうだろう。

神を信じる一族に生まれながら、それを心の底から信じているわけではない。


奇蹟は降ってくるのを待つのではなく、起こすものなのだ。


定刻通りに戻って来たルイがこれを見て感激し、ヒカルに祝福のキスをするという奇蹟は、彼女には起こらなかったけれども。

■むつのはな08


ルイはしばらく形を失ったツリーを見つめていた。

贈り物という程のものではない。彼女の思いつきなのだろう。


今日のディナーを一緒に過ごそうと言った彼女は、おそらくルイの帰邸のために・・・あれこれと、こども特有の思いつきとひらめきによって浮かびがちな発想という名前にすり替えられた特別な事をその他にもたくさん考えているに違いない。


やがて本邸と居間に灯りが点った。

完全に制御されているので、制御棟で今日は早めに夜間モードに切り替えたらしい。

曇天によって空が暗くなるのが通常より早かったからだ。


ルイはクリスタルのテーブルに乗ったコントロールのメインスイッチをオフにした。

そうしなければこのツリーの融解は速度をすすめて、あっという間にただの液体に戻ってしまい、やがて蒸発してしまうだろうから。

・・・・湯気のように、出て行く様を見つめることができたのなら。外気に晒された吐息のように、淡い輪郭を掴むことができたら。

ヒカルが手を冷やしてなお雪を押し固めてつくったそこから・・・彼女の温もりが見えるだろうか。

まだ少しだけ・・・形が残っていた。しかしルイはそこに近づかなかった。近付けなかった。寄れば彼の温度で溶けて消えてしまいそうだったから。闇の中で・・・外から漏れる照明と雪明かりで輝くそれを見つめていた。

濡れたツリーは最初の姿の時より、水を受けてより一層輝いていた。


奇蹟は起こらない。ヒカルはそれを知っているのに。

あの墜落事故を経験してなお、彼女はああして奇蹟を作ろうとしているのだろうか。

だとしたらそれは愚かしいと嗤ってやるところだろうか。それとも・・・


遮音に優れた硝子の窓であったので、しばらく気配に気がつかなかったが庭に街灯が灯ったので、少し考えに沈んでいたルイは、庭に動く影があることに気がついて、目を見開いた。庭師が除雪をすることはないだろう。邸に入るときに、明日以降でないと除雪は行わないから足元に気をつけるようにと言われていたから。


「・・・ヒカル」

ルイは呟いた。誰も聞いていないのに。

低くなった声で、彼は彼女の名前を呼んだ。


別棟の居間に面している庭で、彼女は腰を屈めて・・・雪をかき集めていた。

この寒空の下で。汗をかきながら、彼女はありったけの雪花を寄せていた。

「・・・グローブくらいつけたら?」

空はだいぶ暗くなり、夕焼けの茜色を見せることなく夜に入っていった。

居間の電灯が灯されたので、ルイが戻ってきたのだということを実感して安堵したヒカルは、また居間の照明が落とされたので、しばし不安に思っていた。

ルイの別棟の窓硝子は特殊加工で、中から外はよく見えるが、外から内側は透過性を調節することができ、完全に見えなくすることができる。

だから再び灯りが点されて、ルイが居間で寛いでいるのであれば、と思い、慌てて作業を進めることにした。


「・・・・怒らないの?」

彼女は玄関ポーチの壁に凭れながらこちらの様子を窺っているルイに、おずおずと尋ねた。

彼の邸に入ってはいけないと言われたことを破った。そして詰られるとわかっていながら彼の庭を汚した。・・・この銀面を見せたかったのだが。

「ここの雪が一番溶けてないからだろう。・・・この棟は人が居ないで電力供給をしてなかったから」

ルイがヒカルの考えていることを言い当てたので、変わらない彼の頭脳に驚嘆したヒカルは素直に頷いた。

ずっと無人だった別棟の周囲は冷えていた。アルディ邸の本邸では、薔薇の温室があるために、周囲は雪が溶けている。また、凍結防止の処置が施されているアルディ邸の庭の雪では、ヒカルの思ったとおりのオブジェは創ることが出来ないのだ。すぐに溶けてしまう。そして固まらない。


彼は上着を身につけずに、そのまま居間から出てきた、といった出で立ちだった。

シャツ1枚だけを身につけて、ワークブーツにコーデュロイの厚手で細身のボトムスだった。非常に若い・・・年相応の格好であったが、伸びた腕や広い肩が露わになっていてヒカルは少し目を細めた。ルイは星辰の子だ。誰もが彼を眩しいと言う。けれども・・・彼が本当に美しいのは、彼の魂が清らかだからだ。この雪のように。


「ルイこそ、はやく中に入らないと・・・身体を冷やしてしまう」

彼が間もなく開催されるフェンシングの大会に出場することを彼女は知っていた。だからそれを調整するために、クリスマス休暇前に留学を終えて戻って来たことも。


「ヒカルが何を作っているのか興味があってね。君の美的感覚は素晴らしいから・・・完成しても説明がなければわからないだろうけれども。・・・そう。居間に飾られた崩れかけたツリーも飾りがなければわからなかった」

ヒカルが顔を赤くして口ごもった。絵を描いていたという彼女の母親の血を濃く引いているのに、彼女は彫像や塑造といったものには才能を開花させなかった。

「シャルルに教えを乞えば良いのに。・・・彼に頼めばツリーのひとつやふたつ作るだろうし、アルディ邸の業務用冷凍庫を解放させてでも、それを保存してくれただろうに」

シャルルは彫刻家コンクールで若い頃に入賞したことがあった。・・・それも彼女の母親をモデルにして。

しかし、ヒカルは首を振った。

「それじゃ、駄目なの。・・・私は自分一人で作ったものをルイに贈りたかった」

「すぐに消えてしまうのに?」

「見えて残るだけが贈り物ではないでしょう」

彼女はそう言って微笑んだ。

その微笑みは、幼い童女のそれではなく、大人の女性の微笑みだった。

ルイは黙り込んだ。


なぜ・・・彼女の微笑みを見ると、寒さを感じなくなるのだろう。


見えているものだけが有益なのではない。

いつかすべて消えてなくなるから。

それならこの想いも・・・いつか消えてなくなるだろうか。


「・・ところで、またツリーを作るつもり?」

「そうなると一晩かかってもできそうもないくらいの大傑作にしないといけないから、bonhomme de neigeに変更しようとしたところ」

「スノーマンなら、ヒカルが雪にくるまれば良いだけだ。・・・身体の隆起がないのだからちょうど良いだろう」

ヒカルがますます顔を赤くして目を見開いた。ルイはくすり、と笑う。

少年の微笑みだった。

彼は青年に変わりつつあったのに、金の髪の下の青灰色の瞳はどこか・・・柔らかかった。それはあたりが夜になって、灯りがそう見せている幻なのだろうか。


「夜中までそれを続けるのであれば勝手にどうぞ。積雪について所有権や占有権を主張するつもりもない。オレがここにいるのは・・・ティーを煎れる使用人が来るまでにティーが冷えてしまうから、給仕の者を探しているだけだ」

■むつのはな09


それがルイ・ドゥ・アルディの独特の申し出であることに気がつくには少し時間を要した。彼はあからさまに嫌な顔をして、頭の神経も寒さで麻痺したのか、と言った。

そこでヒカルが自分の結論を確認するために、彼に尋ねた。

手を止めて・・庭の雪で全身を白く染めた晄の娘は、ルイに向かって言った。


「・・・入っても良いの?」

「オレは繰り返さないからもう言わない」

ルイはそう言って彼女に背中を向けたので、ヒカルは慌てて彼を追った。

彼がノブに手を遣り、彼女を別棟に入れた。

「そこで雪を払えよ。・・・水浸しにされるのはごめんだ」

彼はそう言ってヒカルの雪水を含んだ上着を脱ぐように指示した。

「かけておけば、吹き出す乾燥風で乾く」

ルイは玄関に備えられたウォークインクローゼットの中に上着を収納しろ、と言った。

直近で使用したものはそこに置くことにしている。

彼はシステムサーバを室内に置いているので、埃や水分を持ち込むことを極度にきらっていた。

ヒカルがルイに指示されたとおりにクローゼットに上着を吊った時に目を遣ると、彼の上着はそこにあった。それほど濡れていなかった。


・・・それなのに、ヒカルが置いた品については彼は文句を言わなかった。

「早くしろ、と急かされるのが好きなのか?」

ルイがあからさまに言ったので、ヒカルはごめんなさい、とまた謝った。

「・・・だからグローブをつけろと言っただろう」

ルイが溜め息を漏らした。彼女は上着を脱ぎたくなかったわけではない。

長時間冷気に触れていたので・・・麻痺しているのだ。

細かい飾りが施されている内釦を外すことが出来ないでいる。

しかも厚手の上着は・・・彼女の躯を防寒する役割は果たしていたが着脱を補助する役割はなかった。

「とんだ雪だるまだな」

日本語でルイはそう言って、大袈裟に溜め息をついて、彼女の前に立った。

「じっとしていろ」

「・・・ルイ!」

ヒカルが腕を振って、ルイの動きを阻んだが、腕を上げるのも辛いはずの彼女の妨害はまったく効果がなかった。

彼は眉を顰めてそのまま実行した。

ヒカルの前身頃を掴んで、そのまま器用にはずしていく。雪が彼の指先に乗りそして儚く水に還って行く。彼の体温をそんなところで感じる。ヒカルは恥辱で顔を赤くしたまま押し黙ったままだった。言葉にならない。

目の前に、ルイがいる。金の髪を少し前に落とし、青灰色の瞳を伏し目にして・・・彼が驚くくらい近くにいる。そしてヒカルの雪の鎧を剥がしていく。彼には何も隠せない。ルイには何もかもが見えているようだった。

「男に脱がされる練習でもしておけ。・・・色気がないな」

彼はそう言いながら最後の釦を外してやると、彼女の肩をとん、と押した。


ふわり、とルイの香りがする。

ヒカルは全身を朱に染めて、そのまま・・・ありがとうと礼を言うことも忘れて無言で上着を脱いだ。防寒を優先したので、雪の水分を含んで重みを増した上着を脱ぐと、身体が少し軽くなった。そして自分がだいぶ汗ばんでいることに気がついた。

・・・別棟内は完全に調節された空調であるはずなのに、ひやり、と冷えた感じがした。


上着をかけるのもやっとだった。

寒い外気で彼を待ち続けたことは苦痛ではなかった。約束はしていない。

彼が今日はミシェル・ドゥ・アルディの家で過ごすという選択もあったはずだった。

だからこれは奇蹟なのだと思った。

奇蹟は・・・それを目の前にしなければ奇蹟だとわからない。

奇蹟のような人を目の前にして、ルイそのものがアルディ家の贈り物であり、彼こそがシャルルの本当の孤独を分かち合う数少ない人物なのだと思った。そして、ルイの孤独も分かつ人物が必要で・・・それはヒカルには理解できないほどに冷たく深い孤独なのだろうと思った。

だから、彼女では駄目なのだ。

彼はますます影の色を濃くしていくばかりだから。

それでも、ルイのために何かしたかった。彼のために、帰邸を祝いたかった。

生まれて来たことを雪のように儚い命だから、と思って欲しくなかった。

雪は消えてしまう。

けれども、雪を見たという記憶は残る。特に、ルイは忘れることが出来ないから。

この年の、この雪の景色は二度と再現できない。だから、一緒に見たかった。


シャルルはいつかヒカルが日本に戻ることを考えている。だから、各々の季節が巡ってくる度に、この季節はもうやってこないと感じながら過ごしている。そう思うことが出来るのは、シャルルが鮮やかな季節を見せ続けたからだ。

だから・・・ルイにも同じように共有して欲しかった。この記憶も感情も。

いつかヒカルがここを去って・・・何もかもが儚い淡雪のように消えてしまったとしても。


「・・・・ルイ」

居間に入る前に・・・ルイは彼女にタオルを差し出した。

「使うことを許可してやる」

彼女の伸びた髪が雪を含んで濡れていることを指摘したルイは、彼女にそれを使えとタオルを差し出した。

ヒカルはありがとう、とそこで始めて微笑んで、タオルを受け取る。

上質の柔らかい質感のそれは・・・丁寧に畳まれていたが、それを広げようとして彼女は端を持つ手に力が入らずに取り落としそうになったので、ルイがヒカルの悴みに気がついた。


「おい。・・・凍傷になりたいのか」

ルイが呆れたように言って溜め息をついた。

「雪は明日には解ける。その前に何とかしたかったの」

ヒカルはタオルを持ったまま・・・下を向いて呟いた。自分の体調管理ができない人間をルイは軽蔑している。自分はまさしく何ひとつ完遂することができない愚鈍な人間としてルイの瞳に映っているのだろうと思うと、どうにも切なくなって胸が苦しくなる。

自分の茶色の髪が水分を含み、少し色を濃くして、胸の上に乗っていた。

このままだと彼の言うとおり、水を滴らせながら居間に入ることになる。


自分はなにひとつ彼にしてやることができない。

何も彼に贈ることが出来ない。

失敗ばかりだった。

ツリーも彼に見せてやることが出来なかった。

心を込めて作った。朝からそのことばかりを考えていた。

誰にも迎えられないと思っているルイにそうではないと伝えたかった。

そして・・・最後の雪になるかもしれないから。

いつも、いつもそう思いながらここで過ごす季節はあまりにも美しすぎた。


できることなら、この家のこどもとして生まれたかった。

しかし、そんな奇蹟は起きない。

朝起きたら彼女は金の髪の青灰色の瞳のこどもになるかと言ったらそれは決して実現しない夢にさえならない願いだった。


「・・・貸せ」

ルイが溜め息をついた。

そして彼女からタオルを取り上げると、まったく面倒な女だな、と文句を言いながら彼女の髪を拭いてやる。

「・・・手がかかる」

彼の手は大きかった。そしてヒカルの頭の上から大判のタオルをかけて、その上から彼は彼女の髪から水気を抜いていく。

彼女の髪に指を埋めるという行為がこれほどまでに彼を落ち着かなくさせるのはなぜなのだろうか。

身体が成長し・・・誰かの肌を求めるという焔がそうさせるのか。

そうではないと内なる声が彼に囁く。

それ以上考えてはいけない、と思った。

久しぶりに再会した娘が思いの外・・・成長していたので興味が沸いただけだ。

そう思うことにした。

上着を脱いだ彼女の肢体は、先ほど彼がからかったような童女のそれではなかった。

薄いカットソーを着て、身体の線が汗を含んで露わになっている。あと10年もすれば彼女は大変に素晴らしい肢体を持った淑女として社交界でもてはやされるだろう。

華奢ではあるが決して貧相ではなかった。

彼女の髪の香りと髪の質感に溺れそうになるが、細く長い指を動かすことに集中する。


その時、ルイの手が止まった。

ルイ、と声をかけられたからだ。

ヒカルがルイの手の平の上に自分の手を重ねたのだ。両手をそっと・・・彼の手のひらに一つずつ置いて広げる。彼のそれよりずっと小さい手の平だった。そして冷たかった。

「・・・そう。手がかかるの。とても・・・とても」

「面倒くさい女だ」

「・・・おかえりを言いたかっただけなの」

彼は溜め息をついた。


彼女は、視線を合わせたら言いたいことは言わない。

それなのに、こうしてタオル越しでしか自分の本心を言わない。

これほど冷え切るまで彼を待つのに。


しばし沈黙が訪れる。静かな別棟の玄関先での会話だけがホールに響いては消えて行く。

「・・・どうして中で待っていなかった?居間に上がり込んだのだからそこで待てば良いのに」

「・・・寒くても待てた。・・・・ルイに・・・たったひとりでただいまと言ってここに入るようなことはさせたくなかった」

「傲慢だな。もっと違う方法もあっただろう」

「あったかもしれないけれど思いつかなかった」

賢いやり方ではないな、と彼は呟いた。

彼なら・・・幾通りも考えることが出来るのに、ヒカルはそうできないと言った。


「寒いのなら」

やがて彼は静かに言った。

「・・・オレが温めてやっても良いよ」

彼は囁いた。

■むつのはな10


「・・・催事にはまったく興味がないが」

彼はそう言って彼女に告げる。

ヒカルの肩がぴくり、と動いた。彼が何を言っているのか、理解はできているらしかった。

「オレに贈り物を考えているのであれば・・・温もりが欲しい」

そうして彼は・・・タオル越しに彼女の額に唇を寄せた。

彼女の頬や顔の輪郭や・・戸惑った声が漏れる唇や・・・その他すべてのものをはっきりと感じる。

彼女が凍えで身動きが取れないことも計算の内だった。

どうしても・・・どうしてもそうしなければならないということではない。


しかし、彼の身体がヒカルに引き寄せられる。

身体が冷えても。

どんなに悴んでも。

彼女はあたたかい晄を持った太陽の娘なのだから。

溶けると分かっているのに飛んだ神話の愚者のように。

太陽に近すぎて身を灼いてしまってなお晄に焦がれる性はどこからやって来るのだろうか。

このまま彼女を寝室に引き込んでディナーのことなど考えられなくなるようなことをすることも可能だった。

間もなくシャルルが帰邸する。

それに合わせて効果的な打撃を与えてやることもできた。


彼は整った顔を少し歪めて・・苦しそうに唇を近付けた。

そして・・彼女の唇に自分の頬をあてる。

唇を重ねることがどうしてもできなかった。

見えない力に妨げられているかのように。

まだ、時期が早いと何かが告げているかのように。


「ルイ・・・ルイ」

戸惑った声が聞こえてくるが彼はそれを無視した。

ヒカルの何が欲しいのだろう。彼女の涙だろうか。彼女の困惑だろうか。

それとも・・・・ルイは彼女の肩を掴み、彼はその先に進もうとして・・・動きを止めた。

彼女の茶色の瞳を視線が合ったからだ。

目尻が赤く染まり、そして潤んだ瞳でルイを見つめるヒカルの瞳が、そこにあった。


・・・目が合うと何もできなくなるのはヒカルだけではなかった。


彼は腕の力を抜いて、彼女の肩から手を離した。そして肩を竦めて、何でもないよと言う風に言った。


息を深く吸う。

先ほどの溜め息とは違った。

なぜ心臓の鼓動が速くなるのだろう。

なぜ・・・彼女に唇を寄せる行為を止められないのだろう。


「余興は終わりだ。・・・これで暖まっただろう?」


彼は少年から青年になりつつあった。

そして・・・

彼女は少女から乙女になりつつあった。


ルイが少し力を入れただけで彼女は身動きすることが出来なくなる。

それなのに・・・彼女の瞳を見ただけで、彼の行動は停止する。


「・・・セントラルヒーティングでもここは冷える。・・・中に入れ」


ルイはそう言って、素っ気なく彼女を前を歩いてひとりで居間に入ってしまう。

ヒカルはお邪魔します、と日本式の挨拶をして、そして慌てて彼に付き従った。


・・・今のは何だったのだろう。


キスのようで・・・シャルルと交わす挨拶のキスと違う口付けだった。


彼はあえて・・・わざとそうしたのだろうと思った。

彼は・・・ヒカルの知らない時間を過ごして、大人になってしまった。


まだ幼い彼女にはわからないことがありすぎた。

今の所作について知識がなかった。


・・・・・温もりが欲しいとルイは言った。

彼は寒いのだろうか。

彼は・・・この家の暖かさを感じることが出来ないのだろうか。


黙って入り込むルイの別棟には長い時間滞在することができなかった。

彼女の中で芽生えて大きくなっていく罪悪感というものが、彼女の行為を助長することを許さなかったからだ。

彼の別棟に入り込んだ時。

ヒカルは胸が潰れそうになった。


・・・そこには寒々しいほどに、何もなかったから。


彼女がシャルルから贈られたものすべてを気に入りの保存物としている習慣とは正反対だった。


何も、何もなかった。


いつでも戻れるように片付けてあるのではない。


・・・いつ戻らなくなっても良いようにしてあるのだと思った。


だから願いを込めた。

大事にしているものを飾った。

金銭を積んで手に入れることのできない何かを伝えられれば良いなと思った。


・・・でもルイは知っているのだ。

何と交換することのできないものが、確かに・・この世には存在するのだと。

だから何も置かないし何にも執着しない。

彼が手に入れたいのは、そんなものではないから。

執着したり願ったりするだけでは手に入らないものを彼は渇望しているから。


・・・そのことを考えるとヒカルは涙が出そうになる。



■むつのはな11


ヒカルは初めて・・招かれてそこに入った。

いつもは、彼の不在を狙って、外庭から眺めたり・・今回のようにこっそり忍び込んだりする程度しかここに訪れることはしない。

それでもそういったときは、息を止めて・・本当に短い時間しか滞在できなかった。

呼吸を止める必要はない。

それはわかっている。

でも苦しいのだ。


・・・・理由はひとつだった。


・・・ルイが禁じているから。

彼が哀しむから。

誰にも見せたくない空間を垣間見ることがどれほど罪深いことか、彼女は知っていたから。


人には他者が見てはならない秘中の秘というものがある。


それはシャルルにもあった。それが何であるかはわからないが。


そして・・・いつも微笑んで穏やかな表情を作るヒカルの中にもそれは存在する。


同じようにルイにもそういったものがあるとしたら。

それを暴いたり毛羽立てたりする権利は、ヒカルは持ち合わせていなかった。


それでも。

それでも・・・・


彼がひっそりと過ごす別棟で・・・・

世の家族が祝うようなクリスマスではないかもしれないが、ヒカルは暖かい冬もあるのだと伝えたかった。


彼のいない間、庭の様子を窺った。

雪が積もって・・・彼の視界を潤せば良いのにと思った。

それなのに、その庭の雪を使わなければ自分の目的を達成できないことに少し憔悴しながら彼女は雪をかき集めた。

・・・今日の帰邸に、彼が寒かったら大変だろうと思い、暖房をきつめに入れるように依頼した。それが仇なして彼女の届け物を崩してしまった。


彼女はまだ幼かった。その先を何手も考えるルイよりはるかに幼かった。

・・・しかし、それゆえに彼女しかできないことを、ヒカルは遂行した。


きっとそうなるだろうから行動しないという選択は彼女の中には存在しない。


・・・やらなかった後悔よりやった後悔を選ぶ。


それは誰に教えられたものでもなかったけれど。


何もしなかったと悔いるより、しでかしてしまったと猛省する方がどれだけ楽なのだろうかということを知っていた。彼女の中で何かがささめくのだ。行け、と。

彼女の声ではない・・・もっと大人の女性の声が彼女の耳奥で囁く。


だから、ルイに躊躇わなかった。

彼に躊躇なく向かっていけるのは・・・ヒカル・クロスだけであると証明するかのように。


・・・・ルイ、とヒカルは声を詰まらせた。


逢いたかった、と伝えるより。


手を冷やして彼のために何かを創り出したかった。


だから、そうした。


ヒカルの持っている語彙では決して満たすことはできない。

けれども。

彼女が言葉も態度も越えて・・・何かを伝えることが出来るとしたら、こうして自分の身を切るしか術はないのだと思った。

いつか、大人になったときに。

自分はきっと・・・こうして、自らを傷つけないと何かを伝えられないと思った時。

迷わずそうするだろうと思った。

それは怖くなかった。

怖いのは・・・伝わりそうで届かなかった時に味わう喪失感だった。


両親を失った。


その時には幼すぎて感じなかった。

しかしヒカルのかわりに・・・喪失の沈淪をシャルルは味わっている。


親子の関係を伸長することはなかった。

そのかわりに与えられた愛を頼りにヒカルは生きている。


・・・しかしルイは違った。

ひとり闇の中で生きろと言われて・・彼は本当に少年らしい微笑みを知らないままに、青年になろうとしていることが苦しかった。潰れそうなほど胸が痛い。



むつのはな 後編

■むつのはな12


ヒカルは彼の背中に向かって小走りになって近づいた。

・・・ルイがそのまま消えてしまいそうになったから。居間に消えて行くだけなのに。

それなのに、彼が儚くなってしまいそうな不安感が彼女を襲う。

見えなくなることが怖い。

・・・さっき、幾月がぶりにようやく逢えたばかりなのに。

また離ればなれになる事への不安感が彼女の足元を掬って払って・・夕闇の中に放り込まれるような不安感を誘う。


彼は星辰の子と呼ばれている。

そして薔薇の一族の末裔だ。

それなのに・・・時折、儚い雪の精霊のようだと感じる。

そのまま輪郭を淡くして消え入りそうになる。

彼のような奇蹟の人はいないだろう。

そして、ルイのように完璧な人間が多いアルディ家の人間の中でも・・彼は特別だった。

生まれてからずっと・・・この家の当主になるために彼は沈黙しながら運命を受け入れてきた。

与えられる試練が運命を言うのであれば。

彼はそれに耐えた。耐え続けている。

けれども・・・もっと安らいで欲しいと願うのはヒカルだからなのだろうか。

持たざる者への憐れみという名前に変換した優越感だ、とルイはせせら笑う。

けれども、そう思い切ることが出来なかった。


エントランスから、彼の常駐する居間まで少し距離があった。

それなのに・・・彼は冷え切った廊下を渡って、そしてもっと凍える外気の中。彼女を迎えに来た。

ここに通すために。

彼はそうはっきりとは言わなかったが、きっとそうなのだろうと思った。

都合のよい想像でしかなかったが。

ヒカルがルイと違うのは・・・想像するところだった。

根拠がなくても想像の羽を広げる。そしてそれに浸る。


両親と仲良く暮らす自分を想像した。

シャルルとルイが睦まじく未来を語る場面を想像した。

・・・ルイと一緒にどこまでも手を取って・・・本当のきょうだいのように一緒に丸くなって眠る姿を想像した。

互いの温度と鼓動を感じて・・そして安らぐ様はどれほど素晴らしいことなのだろうか、と思った。それは決して実現しないことばかりなのに。


・・・ヒカルは夢を見続ける。


「ルイ」

彼女の湿った靴は乾いた音を立てなかった。

しかし彼はそれを無視して・・・居間に入り込む。

金の髪が彼の陰風のように・・・わずかに後ろに棚引いて彼女に彼の行く先を知らしめる。


ここは生活のにおいがしない。

独特の家というものがもつ香りがしない。


・・・それは彼があえてそうしているからだ。


だから息をすることができないのだと思った。

だから息苦しいのだと思った。


ルイはこれほどまでに冷たくて凍えそうな家の中で・・・何年も過ごしているのだろうかと想像すると、ヒカルは身体中が軋んだ。

どうして・・・そっと・・・彼を抱き締めてやることが出来ないのだろう。

自分の身長や腕の長さがまだ足りないから。

まだ、自分は幼いから。


それだけだろうか。


彼は・・・もっと違う何かを求めているような気がする。


「・・・ルイ」

廊下を通り抜けて、彼女は居間に入った。

長らくの不在のために、両扉のうち、片方は固定されていたが、ルイやヒカルが通るには十分なほどの間隔があった。

細かい彫刻が扉と硝子窓に施された一枚板の扉が半開きになっていた。

・・・アンティークのように見えるがそれは防音と防湿と・・・すべての危険性から耐久されることを確認された唯一の防扉だった。

もちろん寒さにも強い。長い間の無人状態によって・・湿気をほとんど吸わないでアキと冬を過ごしたそれは、乾燥した音をたてて、半開きの状態からすべてを解放するかのように大きく扉を開いた。

それはヒカルが彼を追って居間に入り込んだ時に・・・勢い余って扉に手をついたからだった。


この別棟の住人が決して好まないような大きな音を立ててt・・・ヒカルという名前の晄を纏った風が、そこに入り込んだ。


そして感歎の声を漏らす。

彼の記憶している童女の声よりもっと静かな低い落ち着いた声音で。


「・・・ルイ・・・・」

彼女はもう一度・・・星辰の子の名前を呼んだ。

■むつのはな13


ヒカル・クロスはあっと目を見張った。

居間に入ったのは、つい先ほどのことで・・それほど時間は経過していないはずだった。

それなのに。

ヒカルが居間に入った時と、すでに入室していたルイがパチンと主電源のスイッチを入れたのは同時だった。


・・・・・奇蹟が起こっていた。


外から内側の様子は窺いすることができない設定になっていた。

彼が居る時はいつも、透過性のないように・・・要するに見えないように設定されており、室内灯の切入だけしかわからない。そして彼はいつ睡眠を取っているのかわからないほどに夜遅くまで灯りを漏らしていた。

だから先ほども、内部がそのようになっていることには気がつかなかった。


目の前に広げられた星辰に目を見張った。


ルイ、と掠れた声を出した。あまりにも驚愕して。


そこには・・・星辰があった。


様々なクリスタルのツリーが並び、発光ダイオードの晄が淡く無作為に点滅したり点灯したりしている。一番大きいもので、ヒカルの腰程度しかない。

それがいくつも・・・それほど多くはないが、広い居間の中を点在して美しい晄を放っていた。時には蒼く。時には翡翠の色に。白く点滅しそしてまた淡く象牙色に戻っていく。華美が過ぎるという程度の前の段階で踏みとどまっている装飾光だった。

いくつもの・・・星のような煌めきがクリスタルのツリーに落ちては消えてまた灯る。


しかしそれらはどこから運び込まれたのだろうか。

ヒカルはこの別棟の庭先で雪を抱えていたのに。


彼女はしばし呆然としてその景色を眺めていた。

あまりの美しさに息を呑んだ。

発色したり発光したりするツリーは最近では珍しくない。

小型のオーナメントにでさえそのような仕掛けが施されていることも普通に目にするようになった。


しかし・・・この艶やかさと清らかさの混在した光の杜は・・・・なんと素晴らしいのだろう。

彼女は初めて見たものだった。

ただただ・・・空から降り注ぐ流星ではなく、地から立ち上る光源に目を細めて・・しばし絶句した。


「・・・昔、作った。・・・発光ダイオードを不均一に点滅させる省電力タイプの玩具を作った。それだけだ」

ルイが静かにそう言った。


彼は部屋の中央で、じっと・・整った横顔で、それらを見つめていた。

薄い青灰色の瞳で彼は何を考えているのかわからない。


なぜこれほどの試作品を作りながら、彼が商品化しなかったのか、わかったからだ。

だからどうして、と聞かなかった。聞けなかった。

それらは・・・ルイの願望を表しているかのように見えた。


ヒカルは胸から込み上げるものをどう扱えば良いのか戸惑っていた。

・・・ルイの考えていることが少しばかりわかったからだ。


彼は溶けてしまう雪の杜の代わりに、

彼は消えてしまう夢の代わりに。

それを作ったのだ。


クリスタルの雪の樹は決して消えない。

木の枝に僅かに乗った雪の膨らみも、真白に覆われながらも生き生きとした枝葉を伸ばす様も。

そのひとつひとつがとても繊細に精巧にできていた。


「・・・これらに名前をつけているのなら教えて欲しい」

ヒカルは詰まりそうになる声を隠しながら、そう低く言った。


ルイがなぜ薄着で外に出てきたのか。

彼は作業していたのだ。これをヒカルに見せるために。

消えて儚くなってしまう六花の塊ではなく、決して消えない星の晄を携えた雪の樹を彼女に与えた。


それらは・・・深く閉ざしたままのものだったのだろう。

ヒカルが初めて見るそれらは・・・一体いつ、ルイが作ったのかさえわからない。


整った顔は大変に・・・あのフランスの華に良く似ていた。

しかしシャルル・ドゥ・アルディより更に深い憂いをその年齢で知っていた彼の瞳はすでに若者から壮年の瞳だった。肉体だけが若く魂は遠く離れてしまっているかのように。

・・・それを作った時に。誰にも見せないと決めた時に。誰も来訪しない客間にそれらをしまい込んでしまった時に。


・・・彼は何もかもを捨ててしまったのだ。


ルイは静かに言った。

ぽつり、と一言だけ。


「むつのはな」


雪のように消えることのない願いの樹を創ってなお・・・彼は儚い願いであることを知っていたから。

だからそんな名前を付けたのだと思った。


ヒカルは唇を噛んだ。

声を押し殺した。熱い吐息を漏らすことを制限する。

そうでなければ・・・涙が出そうだったから。

しかしそれはルイは望んでいない。

彼は憐れみを最も嫌う。


・・・誇り高い彼を傷つけたくなかった。


そうなるかもしれないと思っているのに、ヒカルの目の前にむつのはなの杜を広げた彼の心は・・・やはり深く冷たい雪の底にあるとは思いたくなかった。

■むつのはな14


ヒカルが置いた雪のツリーはすでに跡形もなく在るべき姿に戻っていた。

そして彼女が昔使ったオーナメントは・・・クリスタルの杜に飾られていた。

ひとつひとつ願いを込めてそれらを選んだ。


豊穣を表す麦、来訪を知らせる聖鈴、智慧を表す林檎、聖なる光を表すキャンドル・・・ひとつひとつがヒカルにとってシャルルからの大事な贈り物だった。しかしそれ以上にそれらに込められた意味と願いと・・・誰かに伝えたいと思う気持ちがヒカルを動かしていた。


「むつのはな・・・」

彼女が復唱すると、ルイは視線の方向を変えることなく、抑揚なく言った。

「・・・雪のこと」

六花とか六華とかいう言葉があることは知っていた。それはシャルルが教えてくれた。

しかし、これは同義でありながらもっと違った意味があるように思った。


「それなら、これは決して消えない『むつのはな』なのね」

ヒカルがそう言って、近くに備えられたうちのひとつに腰を屈めた。

彼女の白い頬に、発光ダイオードの強烈な光を和らげた人口の柔光が反射した。

茶色の髪が青や緑や橙などの色に染まった。

それなのに彼女は染まらない。何ものにも染まる真白であるのに何にも染まらない。


彼女が創ったむつのはなとルイの創ったむつのはなは違った。

それでもそれらは根源は同じだった。


「素晴らしいわ、ルイ」

ヒカルは素直に驚嘆した。そして讃辞の言葉を述べた。

しかしそう言った言葉にルイは動かされない。ただ冷たく彼は答えた。

「そう」


しかしヒカルはこの想いを伝えたくなり、彼の傍に寄った。ゆっくりと立ち上がりそしてルイ・ドゥ・アルディとの距離を縮めるが、そこには・・いつもヒカルと一定距離を保っていたルイはいなかった。

背が高くなり、筋肉質の鋼のような身体に寄り添うが、薄暗い光の中で彼の横顔は、ヒカルの知っている・・・天使のような美少女と見紛うばかりの中性的な顔立ちのルイ・ドゥ・アルディではなかった。

すでに少年から青年に変化しつつある彼の顔を見つめながら、ヒカルは懸命に言葉を紡ぐ。気の利いた言葉は言えない。けれども、何かを言わなければ・・・ヒカルの創った雪の樹と同じように、そのまま消えてなくなってしまいそうだった。

存在しなかったわけではない。形を変えただけだ。雪が水になるのは自然の摂理だ。


その摂理に反した永遠に溶解することのないむつのはなを創りだしたルイに・・・そうしたら何が伝わるのだろうか。


「・・・むつのはなという名前が気に入った」

「ヒカルに気に入られるための名前ではない」

「うん。でも良いと思った」

彼女は笑った。


「消えてなくなる者だけが支給品と言わないとヒカルは言うが。何を贈ったのかわからないものを用意するのは浅はかだな」

ルイ・ドゥ・アルディが辛辣にそう言ったので、ヒカルは苦笑いを浮かべた。そして笑う。

「そうだね」

「どうしてそうやって先のことが見えないのか・・」

「そうだね」

「ヒカルは何か結果をもたらす生産的な行動について考えて実行するように」

「そうだね」


そこで同じ言葉を繰り返すヒカルに向かって、ルイ・ドゥ・アルディが少し苛立ったように顔をヒカルに向けた。


「・・・・・おい」

そこで初めて彼女が微笑みながら涙を流していることに気がついた。

彼は繰り返さない。

同じように、同じ言葉しか復唱しない者は会話を継続することを断絶させるようにしていた。・・・まったくの無駄な会話だったからだ。

彼には復唱も繰り返される返事も必要なかった。

それを知っているはずなのに、ヒカルが同じ言葉を繰り返したので、彼を侮辱しているか・・・考えが遠く及ばない域に彼と彼女が遠く離れていることが決定的になったのだと思った。

だから少し険しい顔つきになり、ヒカルを物憂げな青灰色の瞳で見つめ返した。


そして・・・また薄い唇を閉じる。ぎゅっと横に引いた。


彼は、今日、帰国したばかりなのに。

久しぶりに、彼女に逢ったのに。


それなのに・・・こうして彼女を・・・彼女の表情をいくつも何度も変化させる。


その姿が・・・仄かに薄暗い室内で、ただただ・・・聖女の預言のように厳かで少し悲しみを帯びていて・・・何とも言えない雰囲気を持っていたので、彼は口を噤んで黙った。

■むつのはな15


泣かない娘を泣かせることに優越感を感じているわけではない。

・・・そうしようと意図して何かを言っても、彼女は涙を見せない。

ヒカルが何に心を動かされるのか・・・彼はまったく理解できなかった。


それなのに。

理解できないのに、こうして一緒に居る。

必要でないのに、彼女に「むつのはな」を見せた。

疲れている身体であるのに、昔に創ったままにしてあったそれを・・また持ち出すことにした。

必要最小限しか保存しないことにしているのに、それを・・・いつまでも手元に置いてあった。


商品化してないから。

未発表だから。


理由はいくらでも創り出すことが出来た。


しかし、ルイが自ら動いて、ヒカルの目の前に出した、ということには説明がつかなかった。まったく利益がなかった。


消えない雪というものがあることを知らしめたかった。

彼女の才はルイと違って・・・ヒカル・クロスという人物が、実現することのできないものを夢見て有限の材料しか使うことの出来ないごく普通の人間であることを証明しただけだった。

ルイとの違いを見せつけたかったのだろうか。

それは単に・・・見せたかったのではなかろうか。


彼女に。

消えない願いを。

消えない・・・想いを。


幾月も離れていても。

容姿が変わっても。

彼は彼女を間違えずに認識した。


それなのに。

彼女は最初、シャルルとルイを混同しそうになり、名前を呼ぶことを躊躇した。


それなのに。

彼は彼女をすぐにヒカルだと認めたのに。

「ルイ・・・ありがとう」

「ヒカルのためじゃない。・・・気まぐれだ」

彼は素っ気なくそう言った。

「さ、行け。そろそろシャルルが戻るのだろう。・・・オレは少し休む。今日のディナーは出席しない」

そして横を向く。

次に・・・彼はヒカルが決してそう望んではないと知りながら次々と言葉を出していった。

「ここの品が欲しいなら、くれてやる。・・・しかし二度と・・ここに無断で入るな」

「ルイ・・・私は・・・」

「ヒカル」

ルイがヒカルの言葉を遮った。

その時、彼と彼女は向かいあって・・・張り詰めた空気が間を流れた。


イルミネーションが変化して・・一定の時間が経過すると、省電力モードに切り替わるようだった。

徐々に光量が落ちて・・・やがて消え入りそうになる程の小さな光に変化していく。

淡く・・ヒカルの肌の色のような淡い練色の光になった。

先ほどの様々な色合いの変化変転は、生じなかった。


「行事には興味がない、と言っただろう。特別だなんて思い上がるな。・・・オレはヒカルが早くいなくなれば良いのに、と思っている。それが今のところの願いだな。・・・・ヒカルが本邸に戻った後に静かな時間を過ごしたいだけだ」

ルイは肩を竦めた。


彼女の涙顔を見ないように、背中を向ける。

・・・このまま、薄暗がりの中で一緒に会話していれば、彼は予定を早めることも厭わなかった。ヒカルを娶ることを予定している。

シャルルが苦しむ絶妙の機会に実行するつもりであったが、それは今ではなかった。

まだ幼い彼女の魂を奪うのは効率的ではないと考えた。

シャルルがそれを聞いて哀しむどころか当主の権利を行使して、ルイを滅する準備を整えるだろうと思った。そしてそれは確実な未来になるだろう。


彼女が両手で頬の涙を拭う気配がした。

・・・その仕草は本当にまだ・・幼い。


彼は幾度もこうして・・・彼女の変わっていく姿を見つめながらどの場面で「その時」だと思うのだろうか。

■むつのはな16


記憶が白い吐息に変わる。

白い吐息が・・・むつのはなに変わる。


彼は目の前に広がる雪の杜の光に目を細めた。

自ら創りだしたものであるのに・・・それにはもう興味はない。


ただただ・・・それらに感歎するヒカルの溜め息を耳に残す。


ルイと呼ばれて、彼は震える。

凍えて震えるのではないのに・・・震え動く。


彼女に唇を重ねようとしたとき。彼女は大変に驚愕した。

タオル越しのキスでやめるつもりなかった。


・・・もう戻れなくなっても良いと思ったのに。


それなのに彼女の動作があまりにも稚拙で・・彼は溜め息とともにその焔を鎮めてしまった。

男女の睦みを知らないわけではなさそうだったが、ヒカルの抗いの動作があまりにも幼くて・・・彼は気が殺がれた。


毎日顔を合わせているわけではなかった。

だから今回の留学もいつもと同じだと思った。

ヒカルはこの家に囚われているということに気がつかない愚かな住人だ。

ここが自分の終の棲家だと信じて疑わない。


雪はとける。

雪消の水は手の平で掬うことは出来ても留めることは出来ない。

同じように自分が今見ているむつのはなの花瓣のような儚い願いを誰かが継続させてくれるであろうと思っている。


・・・奇蹟は降ってこない。待っていても都合良く目の前に現れない。


それなのに。

そんな彼女を消し去れない。

自分の中から滅することが出来ない。


記憶から消し去ることが出来ない。

それは彼が忘れられない性質の持ち主だからだろうか。


・・・・いや違う。


逢わなければ逢わない時間だけ・・・ヒカルの顔を見ると記憶が増すのだ。


逢わなかった時の間のヒカルの様子を想像し、彼は記憶を増やす。

逢った時のヒカルの表情を見て、彼は白い溜め息を増やす。


「願い事をしようと思うなよ。・・・これは単なるオブジェだ」

彼は素っ気なくそう言った。

早く出て行け、と言わんばかりに。

そして当初の目的だった熱いティーの給仕は必要がなくなってしまった。

・・・・とっくに冷めてしまっていた。


しかしヒカルは言った。

出て行け、と言われたのに。

気まぐれで入ってこい、と言われたのに。

彼女はそれでも目の前の荘厳な光の森にうっとりと茶色の瞳を輝かせて見入っていた。


「・・・・これほど素晴らしいツリーを見て、何も思わずにいることは難しい」

ヒカルはそう言った。

「考えるのは勝手だが」

ルイは短くそう答えた。

・・・なぜ、この少女は自分自身に対する悪意とか敵意を無視することが出来るのだろうか。

決して喜んで招いた相手ではないとルイが考えていることは、わかっているはずなのに。


「・・・ルイが私を好きじゃないのは知ってるよ」

ルイは整った眉を少しだけ動かした。

薄い唇がぴくりと動く。・・・彼は無表情でいたのに、彼女はルイの考えを読み取ったかのような発言をした。


「でも良いの。ルイが帰ってきてくれて嬉しいから」

彼女はさり気なく言った。

そして彼に幼い横顔を見せながら・・・彼女は言った。溜め息を漏らしながら。

嘆きの吐息か、陶酔の呼吸か・・・それははっきりとしていなかった。どちらも含んでいたのかもしれない。


「・・・この景色をあと何回見ることが出来るだろうかと数えていたこともあったけれど。・・・もう、数えないことにする。残りの季節を歎くより、次も見られるかも知れないと思うことにする」

「前向きな発言だと褒めてやりたいところだが、それは根拠のない夢想だな」

「そう。・・・・むつのはなは夢を見せてくれたから」

彼女は笑った。

茶色の髪が少し揺れた。・・・彼が雫を払って遣った癖の強い髪は、彼女の背中で躍る。


今。

・・・手を伸ばして彼女を抱き締めたら。

ヒカルはそんなことは二度と言わないだろうと思った。

帰ってきてくれて嬉しいとは・・・もう言わないだろうと思った。


「ルイと一緒の冬は好きだ。ルイに感謝しないとね。

・・・・こうして雪を愛でて・・・ルイの帰りを待った楽しい時間を私にくれた」


ルイは無言だった。

誰かに待たれることについて何かを考えたことがなかったから。


誰も彼もが彼を独り占めしたがる。

しかし彼は決して誰にも心を許さない。あの教育係の・・・彼の叔父にでさえ。


それなのにヒカルは彼の心に滑り込んでくる。

入ってきてはいけない領域に入ってくる。


・・・・あの人の娘らしい。


ルイは苦笑した。


なぜ・・・永遠の晄という名前の彼女は・・・彼のむつのはななのだろう。


雪消えとならない。

彼女は・・・消えない。


心を冷たくさせたり凍えさせたりするのに。

一瞬にして熱くさせる。


彼の創りだしたむつのはなの杜と同じように。


世の理とはずれた・・・人口光とヒカルは同じだった。

決して消えない。消し去ることが出来ない。

■むつのはな17


この想いも・・・雪と一緒にとけてしまったら良いのに。


ルイは大きく溜め息をひとつだけ、吐き出した。

戻って来た、という感傷はなかった。

けれども・・・ここにやって来る度に。

こうして白い吐息に混じった何かを彼は考え続けるのだろう、という確信めいた予感を持った。


ヒカルはそれを聞いて、戸惑った顔をした。

彼を酷く落胆させてしまったと思ったからだ。

「ルイ。・・・長居はしない。けれども・・・・」

「ヒカル。ここにはもう入るな」

彼はそう言って彼女の退室を促すように顎を僅かに持ち上げた。

身体が冷えてきた。おそらくヒカルもそうだろう。

淡い光に照らされて顔色が定かではなかったが、このままこうして互いに温度差のある内外を行き来していれば、体調管理に余念がないルイはともなく、ヒカルは間違いなく失調するだろう。


「時間に間に合わなくなる。・・・ここで時間を過ごしていたことを知られて叱責されるのはオレだ。それくらい判断できる年齢になったと思うが」


彼がそう言ったので・・・ヒカルは何かを言いかけてすぐに唇を閉じ、はい、と小さく頷いた。

萎れた薔薇のように彼女は見る間に萎縮していく。


彼女は居間で輝くむつのはなの木々を見て、しばらく名残惜しそうにしていたが、やがて諦めたようにそっと目を伏せて、本邸に戻ると言った。


「また・・来ても良い?」

ヒカルはぽつりとそう言った。同じ敷地に住んでいるのに。こういう約束の言葉を交わさなければ、彼とは滅多なことでは顔を合わせることが出来なかった。

シャルルに頼んでルイを食事に招いても、彼は決して嬉しそうな顔をしない。

彼の怜悧な顔つきも・・・冷たい視線も・・・ヒカルの仲立ちはすべて煩わしいと全身で訴えていた。


「諦めろ」

ルイは冷たく言った。


ヒカルは小さく呻いたが、やがて諦めたように項垂れて言った。

「・・・戻ります」

ルイが発言を覆すことは決してしないと知っていたからだ。

ここで粘っても彼は変更しないと一番よくわかっていたのはヒカルだったから。


「結構」

ルイはそう言って、別れの挨拶もしなかった。

社交界での決まり事のように彼女を見送ることもしなかった。

ただ黙って・・・居間に残り、腕を組んでじっと淡い光の点滅を眺めているだけだった。

オートロックだから、一度外に出れば彼女は中に戻ることが出来ない。


「ルイ・・・今日のディナー、ルイにケーキを焼いたの。だからできれば来て欲しい」

「返事はしたはずだ」

彼はまったく無関心であるという声音で返答した。ヒカルはそれでも、わかった、と言わなかった。

「ルイにこのむつのはなを見せてもらったから、是非お礼がしたいの」

「ヒカルの甘すぎるケーキを食べて胃がもたれるくらいなら、絶食したほうがましだ」

ルイはそう言った。そして出て行くように、と言う。

「次はない。・・・あと3分待つが、それ以上経過してもここにいるようなら、ヒカルをたたき出す」


ヒカルはそこまで言われてようやくルイに背中を向けた。僅かな溜め息を漏らしていたが、それは失望の吐息だった。

せっかく逢えたのに、と言いたそうだった。

しかしルイはそれを無視した。

・・・どうしても彼女をここに留め置くことは出来なかった。

それ以上ヒカルがいれば・・・本当に彼女の肌と体温を捧げろと言いそうになった。


もう・・・戻れないのに。


彼は少年から青年になった。力は勝る。しかしそれではシャルルは苦しまない。

彼女が自分から・・・ルイに寄ってこなければシャルルは何よりも大事にしている掌中の薔薇を人目につかない場所に隠してしまうだろうと思った。


幾度かヒカルは振り返ったが、それでもルイが振り返らず、予定を変更するつもりもないと知ると・・・もう一度だけ、待っているね、と言って別棟を後にした。

かたん、と音がして、彼女は扉を開けてひとり外に出た音がした。


・・・息を吐き出す。

もし、これが外気温と同じ程度に温度の低い室温であったのなら。

・・・彼の吐息はこれまでになく白く濃く・・・・むつのはなより鮮やかでそれでいて淡いことがはっきりと見えたことだろう。


しかし温度が低ければ低いほど。

白い吐息はすぐに外気に混じって消えていく。


彼は金の髪をかきあげて・・・天井を向いた。

ヒカルが完全に別棟を離れたという・・・気配がないことを確認した上でのことだった。


上を向かなければまた吐息が出る。

胸の重みに耐えられなくなりそうだった。


・・・・おかしくなりそうなほど。ヒカルをどうにかしてしまいそうなほど。


雪の静寂に音だけではなく、もっと別の何かも吸い込まれていきそうだった。


大きな手のらで顔を押さえる。

それは彼の父であるフランスの華が・・・・かつてそうした仕草ととても良く似ていた。


愛する人の目の前で。

愛する人の愛する者を演じてしまいそうになり、彼は歎いて天を仰いだ。


同じように。

彼も・・・・気まぐれと言ったあの行為を。

あの男ならやるだろうと思った。

ヒカルの心にこたえてやるために、彼なら・・・この家中に雪を降らせることも厭わないだろう。


それでは彼女が砂の城を作らせることと同じだった。

胡蝶の夢を見ろと言っていることと同じだった。


だから、彼はシャルルと同じでないことを示すために行動した。


・・・・結果は同じだとわかっていたのに。

シャルルがかつて歎いたように。

彼も・・・彼のやり方を示すために、彼らしくない振る舞いをした。


ヒカルに無償の優しさを与えてやる必要などなかったのに。

それが彼を激しき傷つけることも、十分分かっていたのに。


それでも・・・・彼女の微笑みはこのむつのはなの杜の光より・・・眩しく煌めく。

■むつのはな18


ヒカル・クロスは自室に入ると、扉を背中にして、吐息をひとつ漏らした。

紅潮した頬の火照りが引いていくのを感じる。


薄いカーテンの向こう側は、冷え切った闇夜が広がっている。

・・・シャルルと時間を過ごした。


一般的に家族と過ごすとされている行事には、彼は毎年趣向を凝らしてヒカルを楽しませる。

寄り集まる家族が少ないアルディ家で寂しくないように。

血族が数多存在するというのに、シャルルは誰とも親しく交流しようとしない。


けれどもヒカルは多忙を極めるシャルルが一緒にいてくれればそれで良かった。

時間を調整していることをまったく表情に出さずに、ヒカルのために穏やかな時間を与えてくれるシャルルの大きな心が嬉しかった。


・・・今夜、ルイは自室で休むからという伝言だけを寄越して現れなかった。

シャルルは少し眉を顰めて「そう」とだけ言った。

シャルルが何も感じていないかというとそうではないと思った。

小さい時から家族の情愛について、シャルルは考え続けていたはずだった。

大人になって・・・自分に家族が存在するとわかった以降も考えているのだろうと思う。

彼の心を照らす、融けることのないむつのはなは・・・現れるのだろうか。


だから自分も同じように、誰かのために何かをしたかった。

烏滸がましい考えであるとわかっていたけれども。


ルイにも同じように・・シャルルが愛を知っているように、ルイが愛を注ぐ人物が現れれば良いのに、と思っていた。

ルイは・・・自ら雪の杜を作りだした。そのような人物は必要ないと言うかのように。


・・・・毎年、ヒカルはこの夜に祈りを捧げる。


自分のことを祈るのではなく、シャルルとルイのことを祈る。

自分の身の回りの人が幸せになりますように、と祈る。

この冬の記憶が、ヒカルにとって哀しい思い出になることはないだろう、と強く念じながら。


同じ景色を見てきた。ルイと同じ雪を見た。そして彼の心の底に潜む、あのむつのはなを見た。

でもそれをシャルルに言うことは出来なかった。

ルイとシャルルの間に介入することは許されていない。


それでも・・・それでも。

逢うたびに、彼はシャルルに似てくる。シャルルが駆け抜けていった時代を彼は繰り返している一方で、シャルルと同じではない路を進もうとしている。

医学界に身を置いたシャルルと違い、彼はシステム関係や知的財産権に進もうとしていた。いずれ・・・教育係のミシェルとともに、ルイが先頭に立って、これまでアルディ家が手薄だった事業を拡充させていくことになるだろう。もうすでにそうなりつつあった。

ルイが滅多に家にいないのはそのせいもある。

彼は・・世の中の同年齢の者が経験するものを体験することは放棄してしまっていた。彼の精神はすでに大人になってしまっている。


そこでヒカルは溜め息をついた。


・・・少し遅くまで話し込んでしまった。

シャルルは幼いヒカルをこども扱いせず、話を聞き、自分の話を解釈しやすいように説明し、そして様々な贈り物をヒカルに捧げる。

余りにも多いので、彼女は明日また改めて受け取ると言って、それらを部屋に運ばせることは延期した。この部屋に溢れるほどの贈り物をシャルルは用意していた。


シャルルはルイにも彼は用意していたはずだったが、それはヒカルの前では触れなかった。


茶色の瞳を伏せて、ヒカルは首を振った。

長い時間不在にしていた部屋は、少し寒かった。

目を上げると・・・窓の外では、雪が・・・雪が降り始めていた。


ヒカルは窓辺に寄り、硝子ドアを開けてバルコニーに出た。

彼女の部屋の窓から出られるスペースから、アルディ家の庭が一望できる。

部屋の中は寒いと思ったが、それよりもっと冷たい、刺すような風が彼女の顔を吹き抜けた。

小さな声を漏らして、ヒカルは目を閉じる。

しかし、すぐに目を開くとその風はとうに彼女の通り抜けて、室内の暖風と混じり合ってしまっていた。


あたたかい風はシャルルで、この冷気はルイのようだと思った。

でも本質は一緒だ。

それらはこうして混じり合うことができる。

融合することが出来る。


・・・もとは同じ、この薔薇の家の者なのだから。


この家の者ではないから。

だから、ヒカルにはそれがわかる。

でもそれをどれほど言っても、彼らには伝わらない。


静かな空間が広がっていた。

あたりは白く色がついて・・雪が積もっていた。

それほど多くは積もらないだろう。

それでも静かに、音もなく、雪の衣はアルディ家の敷地も庭も覆い尽くして・・・広がっている。


彼女は真白の息を漏らしながら感歎していた。


寒さを忘れて・・・しばらくその厳然たる景色を眺めていた。

もう二度と同じ雪は降らない。この冬も同じ冬にならない。

わかっている。


なぜだろう。


・・・胸が苦しかった。


この静かな世界を見て、自分はそこに居て良いのだろうかと思った。


侵してはならない聖域が広がる。この家の薔薇を覆う白雪が・・・彼女を咎めているような。そんな気になってくる。それでも眺めずには居られない。


贖罪の娘、とルイはヒカルのことを言う時がある。

罪を償えという意味なのか、もっと違う意味なのか、ヒカルにはまだ理解できなかった。

それでも・・・贖罪という名を刻まれて、ヒカルは雪を素直な清らかな気持ちで見ることが出来ない。

自分の後ろ暗い・・・生きていくために身につけた狡猾さを、純白の雪の果て(雪の果て:※その年最後の雪のこと)に咎められているようだった。


ルイの青灰色の瞳はとても澄んでいるけれども、果てのない静けさに吸い込まれていきそうだった。この雪のように。冷たいとは思わない。ただ、音がない。

■むつのはな19


「・・・・あ」

ヒカルはそこで言葉を出した。


手摺りに薄く積もった雪の上に、彼女は手の平を置いた。じわり、と凍える痛みが彼女の手の平に広がり、それはすぐに雪消えして冷たい雫になった。

それも気にならないほど・・彼女は薄着のまま、ルイの別棟を凝視した。


・・・ここから彼の別棟がよく見えた。

冬で、木々が落葉し、降雪を避けるために今月かなり短く剪定されたので、彼女の部屋のこの位置と、ルイの別棟の居間とは互いによく見える。

・・・でもこれまで気がつかなかった。


これほど近く、彼の今が見えるなんて。


いや、違う。


ヒカルは手摺りの上の手の平をぐっと握った。

こぶしの間から、雪雫が漏れて彼女の手首を伝っていく。

それすら気にならない。


・・・身を乗り出した。もっと近くで見ようとして。


ルイの居間は決して外側から見ることが出来ない。

いつも透過性調節を完全にオフにしてしまっているから。

だから淡く光が灯っているかどうかしかわからない。

・・・いつもは。


しかし今日は違っていた。

ヒカルは濡れた手で、顔を擦った。自分の手の平ではないと思えるほどに冷えた指先が雪で濡れており、そして彼女の意識をより鋭敏にさせていく。


今夜の居間は・・雪の視界の中で、中がよく見えた。

・・・窓際にルイが座って居た。

床に腰掛けて・・・彼はじっと・・・外を眺めていた。


見事な金の髪の若者が・・窓辺で雪の沈んでいく庭を眺めている。


間違えようもない。あれはルイ・ドゥ・アルディだった。

長い脚を伸ばし、片膝を少し立てて、その上に同じように長い締まった腕を片方乗せていた。


そして・・・彼の部屋の灯りは、天井の照明の光ではなかった。

・・・彼が気まぐれだ、と言ったあのむつのはなの晄だった。

発光ダイオード特有の色味が・・・ルイ・ドゥ・アルディの別棟を、ゆっくりと不規則に色を変えていく。

蒼に、翡翠に、黄櫨染に・・・それらは淡く晄り、別棟のその一角をこの世のものとは思えない聖域にしていた。


それらに照らされて・・・眩い金の髪を光らせているルイの様子を見て、最近見た絵画を思い出していた。

彼は美しかった。

少年から青年になる渡河に居るルイは、神の子のようだった。


・・・その絵画の降臨の場面をヒカルは思い出していた。

実際は、絵画の中の人物とは、彼の髪の色も肌の色も、瞳の色もすべて違っているのに。

どういうわけか、その時の粛然とした空気を思い出したのだ。


昔。

てんしさん、と彼女は彼のことを言った。

金の髪に、青灰色の瞳に、そして整った美しい中性的な顔立ちが印象的だった。

しかし、彼女の目の前に座って晄を浴びている人物は・・・

生と死の間から生還したあの希なる人物を彷彿とさせる神々しさを持っていた。


ルイが怖いとは思ったことがない。

でも時々近寄れない、と思うのは、彼があまりにも美しすぎて、神々しいからなのだ、と思った。

彼女が穢れているから。

この家で生きていくために、様々なものを押し込めて生きている殻。


・・・だからこの雪のように、触れてはならない。


ヒカルはあわてて室内を消灯した。

・・・彼のことがこちらから見えるということは、彼の側からもこちらが見えるということだ。

彼の静かな時間を乱してはいけない、と思った。

本当だったら、今すぐ、この部屋を飛び出して彼の別棟に行き、祝いのキスを降らしたいところだった。

でも彼はひとりにしておいてくれと言った。だから彼には・・触れられない。


彼女の作ったケーキを届けてもらおうと思ったが、誰も棟内には入るなと言われたので、明日出直すと伝言を入れたばかりだった。


ルイはアルディ家の唯一の後継者候補であるから、彼にも贈り物や届け物はたくさん届いていた。それなのに、彼はそういったものにはまったく興味がなく、内容物を確認したり包みを開いたりすることもしないし、別棟に運び込ませることすらしない。


ただ何もない空間で・・・ルイは何を考えているのだろうか。


その時。

ルイがふと、顔を上げた。

表情は見えなかったが、こちらを見ている。ヒカルの部屋の灯りがついたのに、すぐに消えたので、その点滅に気がついたのだ。

ヒカルは声を漏らした。ここから相当距離があるはずなのに、ルイがこちらに気がつく。

庭に面した数多ある部屋の一画でしかないこの部屋の灯りに・・・彼は視線を向けたので、ヒカルは声を漏らした。

「ルイ」


ヒカルが囁いた。白い息が漏れて宙に浮き、そして昊に昇っていく。

この距離を超えていけたら良いのに。


・・・しばらく、ふたりは無言で見つめ合っていた。

表情はわからない。

でも視線を感じた。

遠い距離なのに、彼の白い吐息がヒカルの近くにあるような気がした。

ゆっくりと深呼吸する。冷たい空気が肺に入り、火照った頬から熱を奪う。


ひとりは青灰色の瞳で、もっと淡く光輝を背にしながら。

もうひとりは茶色の瞳で、降りしきる無音のむつのはなを浴びながら。


傍に居るだけで・・・繋がっているように思う。傍に居なければもっと近く感じる。


やがて彼は流れるような動作で優雅に立ち上がり、そして窓辺に立った。

背が高くなった。髪も・・・少し伸びた。ヒカルの知っているルイからヒカルの知らないルイになっていく。その様子を少しでも・・・少しでも目に焼き付けておこうと思った。

ヒカルの祈りも溜め息もすべて彼は知っている。



■むつのはな20


彼はしばらくヒカルを眺めていたが、やがてふいと横を向いて、背を向けてしまった。

片腕を上げて・・ヒカルに挨拶をしたように思える。

あっと思った瞬間には、彼は居間の奥深くに消えて・・そして次には、遮光スイッチを入れて、室内は全く見えなくなってしまった。

・・・淡い色も消えて、別棟は暗闇になった。

その代わりに、雪明かりによって周囲がぼんやりと明るくなっていることに気がつく。


・・・・ルイはヒカルを待っていた。


彼女はまた見に来ても良いか、と言った時。彼はもうあの場所には足を踏み入れてはいけないと言った。

それでも名残惜しそうにしていたヒカルを覚えていて・・・

そして彼女が何時に戻ってくるのか知らないはずなのに。

ヒカルが気がつかないで、そのまま休んでしまうこともあるかもしれないのに。


彼はむつのはなをそのままにして・・・待っていたというのだろうか。

永遠の楽土のような場所でひとりきりで・・・彼は何を考えながら夜を過ごしたのだろうか。


ヒカルの目に涙が浮かぶ。

憐れむな、と彼は憤る。だから彼のための涙は彼の前で流さない。

それでも、粛とした晄をヒカルに贈るルイが・・・冷たい人間だとはどうしても思えなかった。


彼女はもう点ることはないと知っていたが、しばし雪明かりの中に深く沈降していく別棟の仄闇を見つめているばかりだった。


どんなに哀しくても、眠ったら次の日は微笑むことが出来た。

でも。

今夜は眠りにつくことが難しそうだった。

外がとても静かだから。

外がとても明るいから。

そして・・・あの晄は贖罪の娘と呼ばれるヒカルには眩しすぎたから。

淡い晄なのに。それでも・・・彼女は手が届かない。

永遠の晄という名前なのに。晄になることができない。

ルイの晄は・・・いつになったら現れるのだろうか。


彼女はしばらくの間、そこに佇んだままだった。

ヒカルの白い吐息は・・・・幼い少女としてのヒカルの最後の溜息だった。

彼女は眠れない夜を知った。


***


ヒカルはベッドで寝返りを打ったが、関節痛に顔を顰めて、大きな枕に顔を埋めた。

さきほど薬を飲んだので、意識が朦朧としていた。うつらうつらとして眠り、短い時間だけ覚醒して水分を補給する。


雪空の下で一日の大半を過ごし、夜半過ぎまで薄着で過ごしたために、発熱したのだ。

しかもかなりの高熱で、原因を尋ねたシャルルが呆れながらも数え切れないくらいのたくさんの薬を処方した。

そして今日は早く帰邸する、と言って出掛けていった。

彼女の失調のために、シャルルは予定を変更して、出発時間を遅らせたのだ。そのぶんのしわよせが来てるはずなのに彼は何も言わなかった。

ただ、これ以上無理をするなら注射だ、と言ったので、彼女はそれはイヤだと言った。

まだこどもなのだから、とシャルルは困ったように言った。

彼女をこども扱いしないシャルルは時々・・・彼女のことをそうやってこども扱いする。


わざとそうしているとヒカルは知っていた。

だからわざと注射を怖がる幼いこどものふりをした。


彼が・・・ヒカルが年齢を重ねる毎に、あの人に似てきていることに対して何も思っていないはずはなかった。

いつか、彼とあの人が知り合った年齢に追いつき、そして追い越してしまうだろう。


「ヒカルはオレの・・・希望の塊だから」

彼はそう言って寂しそうに微笑む。

でも少し嬉しそうでもある。

またあの人に会えると心の奥底で思っているのかもしれない。

それでも良いのに、と思うこともあるが、ヒカルはあの人をほとんど知らなかった。


時間の経過が把握できていなかった。

学校が休みであったので、彼女は広い邸内でひとり体調を整えることを最優先することにした。シャルルはひとりで外出やヒカルが庭に出ることすら禁じてしまった。

もっとも、あまりに熱が高くて身動きすら取れなかったが。


・・・しかし夜更けに降った雪があまりにも美しくて、窓辺に寄っては白銀に光る雪景を眺める。

かなりの積雪だった。もう・・こんな降雪はないだろう、と言われるくらいの久々の大雪だったらしい。


また眠くなってくる。

鈍い眠気が彼女に気怠さを注いでいく。

瞼が重くなり・・・あと何回この目覚めと眠りを繰り返せば良いのだろうかと思う。


ゆっくりと枕から顔を持ち上げた。ひどく頭が重かった。

せめて窓から見える景色の一端だけは隠さないで欲しいと懇願したので、日中カーテンを開けておくことを許可された。

室内に居る時には、カーテンを引くようにと教育されていたけれども、今日ばかりは特別だった。


・・・夕焼けが見えた。そこでヒカルは頭を落として羽根枕に沈む。

高い天井に、夕焼けの光が映っていた。

・・・・雪に反射した夕焼けの光だった。

・・・・淡い金色の光がヒカルの居室いっぱいに満ちている。

今まで慣れた空間だとだけしか認識していなかった空間が・・・黄金に染まる。


雪がとけてしまう


そう思った。


今日は晴れだったのね、とこの壮麗な様子を喜ぶより、彼女は雪が気になっていた。

この家では温室があり、凍結防止のための様々な設備が整っているので、あっという間に雪は違う形になってしまう。

融雪の音が部屋に流れてきて、それを眠りの音楽にしていたヒカルは、怠そうに目を閉じたが、この瞬間がそう長く続かないと思い、瞼をゆっくりと瞬きさせて眠りに落ちないようにしながらも、そのまま動かずに・・・ただただ滅多に遭遇しない現象を眺めていた。

感歎の声を漏らしたり、出てはいけないと言われていた外に出ようとしたりする体力はなかった。

だから静かに・・・この色の移り変わりを眺めているだけだった。


いつだったか・・・そう、あれはここに来たばかりのことだった。

同じように熱を出して・・・シャルルと・・・ヒカルの教育係の女性が看病してくれた。だから寂しくなかった。

もう、両親を失った時からパリに来るまでそうしていたように・・・父母を恋しがって寂しくて、熱に浮かされて泣かなくても良いのだ、と思ったことを思い出した。

■むつのはな21


夢と現の境の中で・・・ヒカルはぼんやりと天井を眺めていた。

雪消の水音が遠く聞こえる。

・・間もなく夜が訪れて、冷え込めば、それは雪ではなく氷になるのだろう。


この金色の部屋で・・・ヒカルは眠ってそして目を開いたら、金の髪のこどもになることができるのだろうか。

陽光に髪を染めることが出来るのだろうか。


・・・そんなことを思いながら・・・目の縁から、涙を落とした。


涙で枕を濡らす。

いくつも、いくつもヒカルの大きな瞳から雫が落ちて・・それは消えて行く。

むつのはなにはならない。


・・決して変化することのない熱い滴だった。


消えゆく景色を眺めることができなかった。ヒカルは目を閉じた。

消えてしまう瞬間を見つめていることができそうもなかったから。


遠く聞こえる木立がさざめく音だけを聞いて・・・また眠りに落ちれば、シャルルが戻ってくる。だから、少し、眠ろう。


そう思った瞬間には、もう、深く果てのない音のない世界に落ち込んでしまっていた。


しばらくして、誰かが入ってきたことすらヒカルは気がつかないほどに深く眠り込んでいた。


ルイ・ドゥ・アルディが軽いノックをした後に、返事がないので部屋に入ってきたことに気がつかなかった。

彼は滅多なことがないかぎり、ヒカルの居室のある階層にはやって来ない。

彼女はアルディ家では家族同然として遇されていたが、ルイはいつまでもヒカルを客人扱いしていた。

最初に係の者が先触れを知らせるノックをし、室内に入って来る。

寝室でヒカルが眠っていることを確認すると、廊下で待っているルイにその旨を伝えた。

すぐに用事は済む、とだけルイは言うと、礼儀を守って居室の扉は開いたまま、寝室と彼女の居間を結ぶ次の間を通って、そこでも軽くノックをして寝室の扉を開いた。

未婚の男女がこうして片方の寝室に入るということはどういうことなのか知らないルイではなかった。しかし今回は止む方なかった。

この雪で、シャルルの到着が遅れると連絡があったのだ。

そして、まだヒカルの熱が下がらないようであれば、医師を呼べと指示された。

そんなことは誰か別の者に託せば良いのに、と反論したがそれは無視された。

シャルルは今日はこの大雪で通いの使用人が出勤できず、人が手薄であることと、医療従事者の資格を持つ者が今日に限って邸内にルイだけしかいないことを把握していた。


・・・そして射し込んでいる夕焼けに目を細める。室内の帷が垂れ込めていないので、ひとことふたこと独り言を言っていたが、ヒカルはそれすら気がつかなかった。

まったく起きる気配がなかった。

すでに日は没していて、淡い陽光になり、ヒカルが眺めていた鮮やかな黄金色は色褪せてしまっていた。


ルイは静かにヒカルに近寄った。

深く眠っているようで、まったく動く気配がない。人の気配にも気がつかない。

これほど眩しい室内で、何にも気付かず眠ることの出来るヒカルにルイは呆れていた。

彼は脳を酷使するので、一度深く眠るとなかなか目覚めない。しかしそれまでは不眠気味なので、静かで暗い空間でないと落ち着いて睡眠を取ることが出来なかった。


茶色の髪が放射状に広がり、ヒカルは目を閉じて眠っている。

額に汗が浮かんでおり、まだ発熱していることが伺えた。

・・・・彼女の白い顔は窓に向かっていた。

日没を見て・・・何を思ったのか、彼女は眼の端から涙を流していた。

ルイは溜息を漏らした。首を捻れば簡単に息を止めるような脆弱な人間を、シャルルはこよなく愛している。何も出来ない無力な人間を、シャルルは庇護している。


どうして、貴方はこういうものばかり愛でるのですか。


いつかそう言って、シャルルに激しく殴打されたことを思い出していた。


小さくて柔らかくて弱い。


アルディ家に必要としないものばかりでできあがっている小さな娘を、シャルルは・・一族の宝物よりも大事にしている。


ルイは黙って・・・彼女の額に手を遣り、そして指を滑らせて・・・細く長い指で彼女の涙を拭った。

他人のためにしか涙を流さない娘だ。その彼女がひとり、涙を流していた。

濡れた指先が熱くなっていく。

少し息苦しそうに呼吸しているが医師であるシャルルの処方は効果的だったらしい。

特段の心配はない。よくある発熱だ。それなのに・・・大事があってはいけないと憂慮するルイの父は、ルイのことには気をかける様子はなかった。


羨ましいとは思わない。

情愛は必要としないものだから。


けれども・・・けれども。

ヒカルの涙を拭いながら、そんなことをしてやる必要はないと思いながらも、彼は彼女の涙を指先に乗せる。

冷たく凍て付いた身体がそこから暖まっていくような感覚を覚える。


やがて彼は静かに・・・手の平をヒカルの頬にあてた。熱い頬だった。

薔薇色の唇と同じくらいに赤い頬だった。


くるくると表情を変えて、大きな瞳を輝かせて・・そしてルイの名前を呼んで、細かい創り込みができないからという理由だけで素手で雪を固める少女を・・・ルイはしばらく見つめていた。


・・・多くの言葉を学んだのに。

言葉が見つからない。


この胸苦しい想いが何であるのか・・・説明しきれない。


なぜ、彼は必要でもないのにあの作品を見せたのだろう。

なぜ、彼は必要でもないのに居室の透過調光を調節したのだろう。

なぜ・・・・なぜ、彼はこうしてヒカルの涙を拭っているのだろう。

■むつのはな22


冷たくて心地好い温度が彼女を目覚めに導いた。

熱くて喉が渇いていたはずなのに、穏やかな冷気が彼女の余剰温度を下げていく。


身体の細胞が悲鳴をあげていたのに、彼女はいつのまにかそれらが落ち着き始めていたことに気がついて・・そして覚醒するために意識を浮上させる。ゆっくりと。


瞼が痙攣し、薄く目を開けると、そこはいつもの白い天井だった。

記憶が戻って来ないが、しばらく深呼吸を繰り返していくうちに、自分がそれほど長い時間眠っていないことに気がついた。


・・・窓のカーテンが下りていた。


またひとつ、深呼吸をする。意識がはっきりしてくる。


しかし、彼女が先ほどまで感じていた心地好い冷たさは、どこにもなかった。

誰かが氷枕を差し入れたのかと思ったが、そうではなかった。

首下にあてがわれていた冷却ジェルパッドは彼女の体温でぬるんでしまっていた。


シャルルが戻って来たのだろうか。

確かに、誰かが寝室に入ってきた気配だけは覚えていた。

うっすらと記憶が蘇ってくる。

金の光の射し込んだ部屋で・・・同じように金の髪の人を見かけたような気がした。

遠い昔に白金の髪のシャルルに良く似た、金の髪の女性のような髪色に近かった。

それが陽光のせいなのか地毛の色なのかは判断する状況ではなかった。

すぐに意識を失ってしまったから。

けれども・・・

その人は、とても優しく、彼女の頬を撫でてくれた。涙を拭ってくれた。


ヒカルは身体を起こして、そこで自分の部屋にないものがあることに気がついた。


・・・ヒカルがルイの別棟に持ち運んだ、あの木製の丸テーブルだった。

それが部屋の隅に置いてあった。目立たないように、ひっそりと。

そしてその上には・・・・

「むつのはな」

ヒカルは掠れた声で呟いた。


そこには小さな・・・クリスタルの樅木をあしらったオブジェがあり、電源を入れれば変色しながら輝く仕掛けが施された祈りの樹が置いてあった。

しかも・・・ヒカルが雪の樅木にかけておいたオーナメントもそのまますべてその枝に掲げられている。

・・・・ルイが届けてくれたのだ。

ヒカルは彼がこの部屋にはやって来ないだろうと思っていた。

彼女の居るこのフロアには彼は決して足を踏み入れない。

用事があるときには、本邸の応接室に呼び出されるか、内線電話で会話する。


本来なら。

こうしてアルディ邸の庭を見渡せる、日当たりの良い場所に住んでいるのはルイ・ドゥ・アルディなのに。

彼は別に大きな棟を構えて・・そしてそこからこちらに渡って来ることは滅多なことがない限りやって来ない。


自分の涙を流した痕跡はあった。しかし誰かが拭ってくれた記憶がある。

手の平の感触も残っていた。

・・・そして彼女は自分の腕を起こして、そっと・・・唇に触れた。

頬も額も眦もすべて温度を下げていたというのに。


・・・そこだけは熱かった。


喉が渇いていたはずだったのに、潤っていた。

誰かが水を飲ませてくれたらしい。

彼女が眠る時には、満水だった枕元の水差しの水は減っていて、グラスに水が残っていた。


朦朧としながら、自分で飲水したのだろうか。


・・・あの雪晄と陽光がヒカルに見せた幻なのだろうか。

ヒカルは首を振った。

まだ少し目眩がする。


彼には結局何も届けることが出来なかった。

また少し落ち着いたら・・・話をしに行こう。そう思った。

あの夜。距離は離れていたけれど、ルイはヒカルが言った「雪見をしよう」という言葉を果たしてくれた。確かに・・・ヒカルとルイは離れていたがそれぞれの近くに居た。


・・・その夜のことは、ヒカルの秘めたる秘密になった。

シャルルには結局そのことは言えなかった。

雪が美しくて眺めていたら熱を出した、と言っただけだった。


ルイはヒカルより先に大人になった。

けれども中身は変わっていない。

変わらず・・・愛に不器用でそれでいて完璧で・・・

そしてヒカルの知らない何かにいつも憂えている。

彼女がそれを知るときはやって来るのだろうか。

そして・・ルイの心に積もる、決して消えないむつのはなを溶かしてくれる人は現れるのだろうか。


ぼんやりとそんなことを考えていると、ノックの音がして、シャルルが入ってきた。

着替えることもなく、彼は外出着のままヒカルの寝室に入るぞ、と断りを述べてから入ってきた。

白金の髪の、青灰色の瞳の持ち主であり、この邸の主でもある彼は、すべての手順を省略してヒカルの居室に入ってきた。

時計を見れば、彼が朝、戻ると言った時間よりかなり遅かった。


彼が上着に乗せて持ち運んだ冷気が彼女に流れ込んできた。

シャルルは心配そうな顔をして、彼女の横たわるベッドに大股で近づいて来る。

「具合はどうだ」

「だいじょうぶ」

彼女が失調するのは久しぶりのことだった。

健康体なのは母親に譲られた特質かなと言ってシャルルが微笑むから。

だからできるだけ具合が悪いとは言わないようにしていた。


低い魅惑的な良く通る声で、シャルルは彼女に問診を始める。いくつか質問をされて、ヒカルはすべての問いに問題ないと答えた。

空腹を感じて、彼女は笑った。シャルルに食事はまだか、と今度は尋ね返した。

「その調子なら問題ないだろう」

とシャルルは笑って、彼女の頬や顎に手をあてる。

リンパ腺の浮腫が鎮まったことを確認したのだ。

彼の手は、冷たくて・・そしてほっとする。


ヒカルが目を閉じて、その手の平の上から手を添えたので、シャルルがぴくりと手を動かした。

「・・・どうした」

「冷たくて心地好い」

「まだ熱があるからそう感じるだけだ」

「そうかしら。・・・・シャルルの手の平は・・・どこか懐かしい」

先ほど感じた冷たさを今一度皮膚が感じて安堵しているのだと思った。


シャルルはヒカルの小さな頬に手の平をあてたまま、親指の腹で彼女の頬を撫でた。

彼は息を詰めて、静かに言った。

彼女は決して人前では泣かない。けれども、失調したから心細くなって涙を流したのか

もっと別の理由なのか、情報が足りなかった。だから事実だけを確認する。

青灰色の双眸を細めて、彼は静かに言った。

彼女を泣かせる原因を探ろうとした。

■むつのはな23


「・・・泣いたな」

「覚えていない」

ヒカルはそう言って少し笑って誤魔化した。

なんでもない、とやんわりとシャルルの質問を回避した。


彼女の目を伏せた表情が、シャルルのよく知るあの人にとても似ていたので、彼はゆっくりと手を離した。


そして話題を切り替えることにする。

静寂をこのまま受け入れたのなら・・・シャルルは夏でないのに、彼の狂気を呼び覚ましてしまいそうになるから。


「今日はこの隣の部屋で食事をしよう。準備させる。しかしヒカルが起き上がれるようなら、ね」

「もちろんよ。シャルルを待っていたのだから」

ヒカルはそう言うと、シャルルに笑顔を向ける。


彼の手の平がとても心地好かった。


・・・先ほどの手の平は・・・シャルルの手の平ととても良く似ていた。


彼女はその感触を知っていた。

そう・・・それは・・・あの時。

ヒカルが別棟で彼女の髪の滴を払ってもらったあの手の感触にも似ている・・・


「私、シャルルの手の平が好きだわ」

「オレはヒカルのあかぎれだらけの手の平は好きじゃない」

シャルルがそう言って、彼女が素手で雪に触れて失調したことを軽く窘めた。


「シャルルは甘やかしすぎだ」

ヒカルが苦笑すると、シャルルが応酬した。

「君を甘やかす、と言った言葉を忘れて欲しくないな、ヒカル」

そして彼女が薄着であったので、備え付けのウォーク・イン・クローゼットからガウンを取り出そうとシャルルが歩み寄ったとき。

ふと、彼は足を止める。

そこには・・・ヒカルが決して持っていない品が置いてあったから。


それを持ち込んだ人物が誰であるか、シャルルは知った。

彼がこの部屋に入ることを許可し指示したのはシャルル自身であるのに。


そしてヒカルが彼の手の平を懐かしい、と言った理由も推測できた。

シャルルはヒカルに背を向けながら、美しい眉を歪めた。

ルイはヒカルに対して執着している。

執心してはいけないとミシェルに教えられているはずなのに。

それが何を意味しているのか、ルイはまだ分析しきれていないのだろうか。


「シャルル?」

ヒカルに声をかけられたので、シャルルは艶やかな微笑みを浮かべる。

そして、彼女のために厚手の羽織ものを用意してやった。


そこでシャルルはルイのことを持ち出さなかった。何も。

ヒカルが何かを言わない限り・・・何かがあったのだと思った。


シャルルは深い洞察力で周囲の様子から状況を把握していく。

起き上がることもままならいほどの娘が、枕元のグラスをこぼさずに飲み干すことが出来ないことも。

枕が少し濡れて、彼女が涙を流した痕跡があったが、彼女はそれを口に出さないことの理由も。

・・・ルイの帰邸を心待ちにしており、昨日までルイはなぜ本邸に来ないのだろうかとしきりに気にしていたヒカルが、今はルイのことについてまったくシャルルと話をしようとしないことも。


しかしヒカルが萎れた様子でなかったので、シャルルはそのまま黙認することにした。

傷つけられたわけではないのだろうと判断した。それ以上は確認しないことにする。


・・・ルイからは、ヒカルは特段に異常はなかったと短いメッセージが送られてきただけだった。


娘のような年齢の少女に・・・何があったのだろうかとシャルルが思考を飛ばす。

彼は苦笑した。彼はフランスの華と呼ばれて何にも屈しない人物と言われているのに。

これほどまでに小さな娘の体調や考え事に一喜一憂している。


あの人に似てくる。

彼女は時折あの人そのものではないのだろかと思う時があった。

すでに身長はあの人を越えていた。

間もなく年齢も越えていく。

一緒に何かを祝いって過ごすという年月を重ねることが出来なかった。

だからこれは彼の贖罪なのだ。

ヒカルの成長を見続けるという業とも罪とも言える十字架を背負うことにした。


時折あの人の名前を胸の内で呼ぶ。ヒカルの笑顔を見ながら。

それが許されないから・・・こうして昊は雪を降らし、ヒカルを失調させたのだと思うほどに。彼は罪深いことをし続けている。もっと自由にさせてやるべきだと思う。しかし、手放せないのだ。・・・どうしても。何があっても。永遠の晄と名付けられたあの人の忘れ形見を、まだ、誰にも委ねることが出来ない。


「雪を見ながら食事をしたい」

彼女は提案した。向き合って食事をするのではなく、並んで食事をしたいと言った。

「この雪は、二度と同じ雪にならないから」

ヒカルがそう言って微笑む。

「それなら今日は胃にやさしいものを、と思っていたが、和食にしよう」

「ありがとう」

「その代わりに、予定していなかったから、用意までに少し時間がかかる」

彼がそう言うと、それでも待つ、とヒカルが言ったのでシャルルは笑った。

「貴女の母上は、待ちきれないで、厨房に駆け込む神経の人だったよ」

「そうして良いのなら、そうするけれど」

ヒカルがそう言ったので、彼は淡く微笑んだ。


彼の近くを通り過ぎては去っていく者たちはみな、彼が運命の人の話をすることを厭った。自分だけを見て欲しいと言った。

しかし、彼の中で消えない雪のようにいつまでも咲き続ける想いを・・・彼は消し去ることが出来なかった。

そういう状態でも居られるのは、ヒカルがあの人の娘だからだ。

ヒカルと思い出を共有する。そして思い出が蓄積されていないうちに別れてしまった両親の記憶を・・彼女に与える。彼らがどれだけ素晴らしい人物で、シャルルがこよなく愛していたかということを。隠さなくて良かった。だからヒカルを失いたくない。


「・・・ルイも招いたらどうだ」

シャルルはベッドからヒカルが起き上がるのを介助しながら、そう言った。

ヒカルが驚いて顔を上げる。

茶色の大きな瞳がさらに一層大きくなってシャルルを見つめた。

「・・・いいの?」

「ヒカルがシャワーを浴びて着替えてこられるほどの元気があるのなら。・・・・それにこれから用意するのであれば、そのくらいの時間が必要になるだろう。時差で眠れないルイはそろそろ仮眠から起き出してくる時間だろうしね」


シャルルが言い終わらないうちに、ヒカルは内線電話に手を伸ばしていた。

ルイは眠っているところを起こされて、相当に機嫌を悪くしていることだろう。

ヒカルの唇が水に濡れていたことを考えると、ルイが意識のない彼女に何をしたのか、察しがついていた。しかし今はその時期ではない。

それでも・・・怒りに似た激しい何かが湧き上がるのを感じる。


ルイが自分の考えていることを実行するのはまだ先の話だ。

それまで・・・様子を見る。

選ぶのはヒカルだ。

しかし選択肢がない選択をヒカルにさせるわけにはいかない。


シャルルは受話器の向こうで不機嫌そうにしているであろうルイに誘いの言葉を選びながら語りかけているヒカルの背中を見ながら、そっと、壁際のむつのはなを見つめた。


ルイ・ドゥ・アルディがいくつか開発をしていることを知っていた。それは実用化には至らなかったが、彼はシャルルのように、いくつも何かを生み出しては、それで満足して廃棄しているものがあった。

だからそれも同じように彼の開発欲を充足させただけで役目を終えて、廃棄されていのだと思っていたが。

・・・捨てきれずに残しておいたのか。


いつか、ヒカルに見せるために。それとも、もっと別の誰かに見せるためだろうか。

何を思い、何を抱えているのか、ルイは表面に出さなかった。

彼とルイは酷似している。

姿形だけではない。

彼らは魂も似ていると思った。


・・・愛する者を奪う勇気がないところが。


ヒカルが幼い時に使っていた丸テーブルはもはや彼女の体格には小さすぎる玩具となった。そしてルイが作成したむつのはなは、その上にひっそりと佇んでいる。


「ルイが来てくれるって。シャルル、一日遅いけれど・・お祝いだね」

ヒカルが受話器を置きながら昂奮した大きな声でそう言ったので、シャルルはそうだね、と言って嗤った。

彼女の笑顔が何もかもをすべて清めていく。

永遠の晄と名付けられた娘は・・・寒い冷え込む夜の室内でさえ、陽光をもたらす。


皆で雪を眺める。むつのはなを眺める。

そしてその先は・・・わからない

彼はフランスの華でわからないことはないとされていたが、星辰の子と永遠の晄と彼が並び、そしてその先に何が見えるのかはわからないな、と思った。


ルイは嫌がるだろうが、今宵のテーブルにはそれを飾ってやろうと思った。


(FIIN)






2012 St. Valentine's day L-side 前編

●ルイ・ドゥ・アルディの場合 01 

世の中が不必要に浮かれる行事について、ルイ・ドゥ・アルディが興味を持つことはなかった。
その日が到来しなければ何もすることができない者たちの心理については興味があったが、それ以外には退屈な一日でしかなかった。
いや、彼に取っては煩わしいとさえ思える一日であった。

彼の美貌に魅せられて、様々な者が彼にショコラを届ける。
彼がチェスの名手であり、競技中に脳の疲弊を補うためにショコラを口にすることを知っているからだ。
しかし、相手をよく知らないのに口にするものを喜んで受け取る程、彼は不用心ではなかった。
アルディ家の子息ともなれば、様々なことに配慮しなければならない。これからも付き合いを続けた方が良さそうな者には返礼のカードを送り、名もない包みには充分注意して使用人達でわけるように言った。
・・・自分の名前も明かさずに、思いが通じると思っているのだろうか。
まったく、浅はかな思いを期待に変えて押し付けてくる傲慢な品々を処分するだけで一苦労であった。

アルディ邸の本邸を通り抜けた先に、ルイの別棟があった。
そこには何も置かないことにしている。
何かに拘る必要はないからだ。
アルディ邸の行事には、ショコラを贈り合うという項目は含まれていない。
しかし、外を出歩けば彼の外出を待ち構えている者たちに囲まれて、専用車すら出せなくなってしまうと承知していたので、今日は静かに別棟のサーバールームで新しいOSの試験運用を始めようと思っていた。

彼は金の髪を掻き上げる。物憂げで上品な・・頽廃的な青灰色の瞳がそこにはあった。彼の父と言われているシャルル・ドゥ・アルディの幼い頃によく似ていると言われたが、好んで中性的な状態を保っていたシャルルと違い、ルイは既に少年であった。
フェンシングや乗馬により、成長を妨げない程度に筋肉が付き、彼を完全に管理している教育係の叔父の支持で怪我をしない充分な体力作りを心がけていた。

彼は薔薇園を一瞥する。今は冬なのに、薔薇の香りが漂っていた。これはこの家の主が薔薇の品種改良を趣味としており、冬でも枯れない薔薇を何種類か地植えにしているからであった。まるで、ルイに対する挑戦のようであった。
彼は遺伝子を操作されて優性の遺伝子を多く持って生まれた者であった。
創られた命は、そうではない命と比べて優れているのか劣っているのか・・・試されているようでルイは不機嫌になるが、その都度、彼は憤りを彼の中に沈降させる。


きっと、今日のディナーの最後にはショコラが出てくることだろう。毎年のことだ。この家の住人であるヒカル・クロスが作る、甘すぎるそれらをほんの一口でも唇に乗せなければならないと考えるだけで、憂鬱な気分になった。

彼女は学校から戻るとそのまま厨房に入り、前日から用意してある材料を加工してショコラを作る。最近では、日持ちのする飾り細工のものは事前に時間をかけて作っているようであったが、ルイはまったく興味がなかったので、彼女が何をどうしているのかは詮索しないことにしていた。
材料費の方が高く付くようなものを、なぜ自分で作成することに喜びを感じるのか・・・ルイにはまったく理解出来なかった。
 
●ルイ・ドゥ・アルディの場合 02

想い合う恋人同士の特別な一日である、という行事になったのはいつの頃からなのだろうか。もっと遡れば・・・違う理由によるところのものであるということはわかるはずなのに、人々は享楽的に手軽で安易な伝達手段の一日として、今日のこの日を受け入れている。
まったく、くだらない禺盲であるとしか思えなかった。
所詮、揺るがない愛というものは存在しないのだ。

この家の当主も・・・決して手に入れる事の出来ない愛に悶え苦しみ、今に至っている。そして、愛した人の娘を育てることで自分の煩悶を紛らわそうとしている。
愚かなことこの上なかった。
だから、ルイ・ドゥ・アルディは信じなかった。愛の日が存在するということを楽しみに待つ人々に歩み寄る必要はないと考えていた。

形式上、受け取らなければ立場が悪くなるもの以外は、彼はまったく受け付けなかった。拒絶するという行為すら、無駄に思える。だから、無視することにした。存在しないものとして認識しないことにしたのだ。
排除された者たちの気持ちを考える余裕があるのであるならば、少しでも、ひとつでも多くの知識と経験を身につけたかった。彼は、急いで・・・アルディ家のすべてを掌握するために生まれて来たのだから、落ち着いて人々との牧歌的な日々を満喫するための時間は存在しなかったのだ。

彼は、アルディ邸の別棟に足を運ぶ途中で、伸びた長い足を止めた。・・・きっと、彼女は彼のために無遠慮に大量のショコラを用意しているのだろうと想像できたからだ。
今日、いつ帰邸するのか、その後の予定はどうなのかという照会が、ヒカル・クロスからルイ宛てに幾度もあったことを思い出して、彼は端麗な顔を顰めた。
シャルルによく似た、彼の髪はこの家の当主と違い、見事な金髪だった。
その下から覗く青灰色の瞳は、シャルルの視線より鋭かったがひどく孤独であった。それを彼が哀しんでいないということも彼の視線をより冷たいものにしていた。

途中の白い石畳を渡ると、彼は足を止めて・・・自分の別棟がまだそれほど近くになっていないのに、空を見上げて溜息を漏らした。
彼の薄い唇から漏れた孤独という名前の吐息は、高い鼻梁を過ぎ去り白い哀塊が空に消えていく。
寂しくて堪らないのではない。彼は・・・このまま誰も彼に構わないでいてくれれば良いのにと願っていたのだ。
彼はアルディ家当主の継子として育てられた。けれども、それは当主が望んだものではなかったし、親族会が彼を援助していたとしても、彼は決して当主から認められ愛される存在ではなかった。もし、彼がいなければ・・・・当主は結婚しなかっただろうし、アルディ家が滅んでも構わないという姿勢を崩さなかっただろう。

別棟に入る足が重くなってしまったのは、彼がそこに入り込んでしまえば、もう次の日になるまで、誰とも会わなくて良くなるからだ。籠もっている時間は彼ひとりで過ごすことにしていた。
新しいプログラム構築のための研究時間だと言って、誰も入棟できなくなる。
時には寝食を忘れて没頭する。・・・昔、彼の教育係のミシェルが同様であった。
ネットワークは彼の人種や人格や環境に左右されずに、ただ、情報だけを伝達する。
だから、誰であるかを選ばない機械通信の世界は、彼が時間を潰すに傾ける最大の時間の配分を受けることになったのだ。
また、バイオ・ライフサイエンスについては、すでにルイはその若さで論文をいくつか書いていた。この分野は親族に求められているものであった。面倒だとは思っていたが、自分の遺伝子構成を開示してもらえる条件のひとつであったので、やむを得ないと思っている部分もあった。
彼にはできないことはない。
そして決して間違えない。

あのフランスの華と同じ様に、彼には星辰の子という名前がある。
星々や天体を遵える者という意味であった。けれども、本当に足元に平伏すべき人物達は、彼の思い通りの星回りにならない。それが彼を苛立たせていた。

・・・他人と関わるのはまったく無駄であると思っていたのに。
彼は、足を止めて、薔薇園の方を向いた。

冷たい風が彼の滑らかな頬を横切り、吹き抜けていく。
それでも、この薔薇園にはいつも薔薇の香りが漂っている。
温室から流れる香気も含まれているが、この家の当主が薔薇の品種改良を趣味としており、冬でも香る薔薇を創り出したからだ。
その花々にはすべて・・・どんな種類でも「ファム・ファタル」と名付けられていたことに、ルイは冷蔑の眼差しを向けていた。
創られた種であるルイを冷遇するのに、自分は様々な品種の薔薇を作り続ける。その愚かな行為を嬉しそうに受け止める娘が居る限り・・・彼はこの愚行を続けるのだろうな、と思った。

彼の別棟に行けば、ディナーを一緒にどうかというメッセージが入っていることは明白であった。今日、帰邸した折にもその旨を口頭で聞いたルイは、返答しないという返答をしたのだ。
なぜ、彼のことを都合良く思いついた時にだけ、こんな風にして構うのだろうか。それなら、最初からまったく存在しない者として無視すれば良いのに、都合の良いときにだけ声をかけるヒカルという存在が気に入らなかった。彼女はアルディ家の部外者でありながら、シャルルより手強かった。彼にいつも語り駆ける彼女は本当に・・・彼を苛立たせる。

●ルイ・ドゥ・アルディの場合 03

ルイの足は無機質な、外部との単なる仕切りでしかない空間に向くことをやめて、冷え冷えとしている薔薇園に変更された。
考え事をしたい時や、それを中断されたくない時には、彼は決まって薔薇園に行く。
そうしようと決めたわけではなかった。
ただ・・・噎せ返るような薔薇の香りが、自分の神経を少しずつ狂わせていく様を観察することが、彼のこの家での唯一の退屈凌ぎであったからだ。
彼は何もかもに恵まれていると言われる。しかし、何もかもを手に入れることができない。
アルディ家に君臨することも阻まれているし、彼が望んでいるわけではないのに愛を教えようとする者たちは、単に自分の欲望や願望をルイに押し付けているだけであるとしか思えなかった。

暖気より冷気の方が好ましかった。脳神経が活性化されるような感覚がある。生きていると感じるからだ。寒さで身を震わせている自分の肉体が、生きていると彼に感じさせるような反射を行うから。だから、彼は薄着で薔薇の苑を彷徨うのだ。体が冷えても彼の脳細胞は活発に活動し、常に思考し続ける。

この時期には、菓子のような甘い芳香の持続する種が満開であった。
アルディ家当主が開発したものだ。
すべて、ヒカル・クロスのためであった。
彼女の部屋に飾られる花はいつもシャルルの寝室と同じもので、彼女はいつもシャルルのために、毎朝、最高の状態の薔薇を摘み取り届けるという習慣を続けている。
その花匂で目眩がするほど強い刺激を受けているというのに、彼女は更に彼に菓子を捧げようとしている。
わかっている。賛成はしないが彼女の心理は理解はしていた。
彼女の通っている日本人学校では、こういった習慣を楽しみにしている者が多く、彼女もその熱気に感染しているだけなのだということも承知している。
そんなヒカルに苦笑しながらも付き合い続けるシャルルの感覚については、賛成も理解もできなかった。
こういうぎりぎりの日々をあと幾日過ごしたら、彼は星辰の子という称号から解放されるのだろうか、と思う。
アルディ家の当主となるべくして生まれた唯一の後継者であるというのに、そのルイではなくヒカルという小さな愛翫人形のような者を愛でることに夢中になっているシャルルは当主に不向きであると糾弾されないことのほうが、彼は理解出来なかった。

しかし、この家の中で過ごした方が良さそうだった。外に出れば、彼に自分ひとりだけの熱情を押し付けようとする輩達の自分勝手な想いを見聞きしなければならない。誰も愛さず、誰からも愛されたいとは思わないルイにとってそういった好意は好奇と同義であった。彼は見世物ではないし、希少価値の動物で保護を必要としているわけではない。
この邸の薔薇のように、誰かに守られていなければ自己主張できないようなそんな生を送るつもりはなかった。
彼は、目的を持って生まれてきたのだから。

だから、僅かながら傾斜のある庭の小径を抜けて噴水の冷音を聴きながら、薔薇の咲き乱れる苑に足を踏み入れると、角を曲がったすぐ先で蠢く茶色の小さな動物に眉を顰めた。
彼の最も辟易する、生きている意味の無い生物が、そこに居た。
薔薇の方がまだましであった。厭わしい強い芳香であっても、その香気によって自分を主張する。
けれども、この癖の強い茶色の髪をもった小さな生き物は、彼の顔を見ると顔を輝かせて近寄ってきた。
愛でられることでしか、生きている実感を持たない、蔑むべき相手は満面の笑みでルイの名前を呼んだ。
「ルイ。・・・今日は、はやいのね」
彼女はそう言って微笑んだが、ルイは完全に彼女を無視して、帰邸の挨拶もせずに背中を向けようとしたので、ヒカルは慌てて彼の背中に声をかけた。
ヒカル・クロスという人物は没個性的であり、誰とも仲良くしようと振る舞う。誰からも愛されるということは誰からも愛されないことであると承知しているのに、それでも波風立つ人間関係を厭って、何も主張しない。そうすることそのものが、相手を侮辱していることになるとは気付かずに、ただ、自分を抑制することに懸命になっている。

彼が帰邸する時間も、彼女が知らないはずはない。学校が終わると彼女はほとんど外出することはなく、アルディ邸で過ごしてばかりいる。ルイは滅多に帰邸しないので、同年代の話し相手がいないヒカルは、ルイに何かと話しかけようとするがまったく会話にならないのでルイはいつも無視することにしていた。
これほど長い年月をかけて完全に存在を否定しているというのに、それでも彼女は何をどう妄信しているのか、ルイに纏わり付いてばかりいた。

隠れて待っていたのだろうとは指摘しなかった。時間の無駄だと思ったからだ。
はやくどこかに行ってくれれば良いのに。そう思うだけでルイの思考が遮断される。ヒカル・クロスは厄介な人物で、彼女を冷淡に扱えば、シャルルがルイを詰問するのだ。彼が悪かったのかどうなのか、ということは当主には関係が無い。
ただ、愛している人の娘が涙ぐんでルイの名前を口にするのが我慢ならないのだろうと思うと、ただただ苦い笑いしか浮かんでこなかった。
「ルイには隠せない。ルイを待っていたの」
「そういうのは面倒だし、必要がないことで労力を使う者に協力する気もない」
彼は素っ気なくそう言った。彼を待っていたと言うヒカルの頬は薔薇色で、冬のどの薔薇よりも色鮮やかであった。
彼は見事な金の髪の下から、青灰色の瞳をちかりと光らせた。憤りの光だった。
●ルイ・ドゥ・アルディの場合 04

「オレの予定にヒカルは関係しない」
彼はいつもの通りそう言った。ヒカルと最後に会話したのは、ニューイヤーの前のことであったが、彼女はルイ・ドゥ・アルディと会話しなかった間に髪を切ったようだ。前髪が切り揃えられ、軽く束ねている髪の毛先が短くなっていた。彼女の髪は癖の強い茶で、日本人にしては色素が薄かった。これは彼女の父が日仏の混血であることが影響しているが、彼女もまた、出生に彼女に知らされていない大きな秘密を持っていた。

ルイの前で、彼女はいつも何かに遠慮している様子で話しかけるので、それが彼の苛立ちを増幅させてしまうのだ。
彼女は幼い時からアルディ家の養女同然の扱いを受けており、父方の実家はクロス・グループという世界的規模にまで発展した医療関係会社で、祖父はその会長である。また、アルディ家で養育されていることもあり、当主が決定すれば社交界への顔出しもいつでも自由に開始することのできる立場にあった。
しかし、実子とされるルイとシャルルの不仲は決定的で、ルイは教育係でシャルルの双子の弟であるミシェルのところに入り浸りの状態であった。ミシェルに傾倒しているわけではなかったが、この家にいると窒息しそうであったから、ここではないどこかであればどこでも良かった。何より、口煩く彼の日常に踏み込んでこようとするヒカル・クロスの存在が、ルイには煩わしかった。
「あの・・・今日は、ショコラを用意したの」
「いつものことだろう」
この家で用意されていないものなどない。だから、彼女の言っているショコラというのは、特別なものであることは承知していた。けれども、それを受け取るつもりはなかった。
彼女がそういった特別なつながりを求めていることは明白であったが、それについてルイが同調しなければならない理由はなにひとつない。
彼女が居なければ、彼の予定は繰り上がることはあっても、決して遅くはならなかったはずなのに。
「ルイの口に合わないかも知れないけれど、受け取って欲しくて、ショコラを作ってみたの」
「いらない」
彼はヒカルの言葉に、嘲ら笑った。
彼の口に合わないものをわざわざ作るのだとしたら、ヒカルは相当な痴れ者であった。彼女の卑屈な態度や言葉は、この家の当主にはいじらしいと映るのかもしれないが、ルイには通用しない。
ルイの言葉を聞いた瞬間、ヒカルの顔が一気に落胆に凋んだ。受け取ってもらえるものだと確信しているところが更にルイの腹立ちを呼び込むことに、彼女は気がついていない。
ルイがことさら彼女に冷たくするのは、彼女が生国独特の行事に興じているわけではないと知っていたからだ。
義務感でそうしなければならないと思っているのであれば、それはルイにはまったく必要の無いことである。
彼女が生まれた国では、意中の男性に女性から胸中を打ち明ける日として、この日が設けられているらしい。
けれども、その発祥については、もっと意味の違うものであったし、フランスをはじめ欧米では男性も女性も性別の関係なく、贈りあう日となっていた。
もちろん、ヒカルにはシャルルから相当な量の彼女の年齢では到底受け取ることのできないような豪華な品が次々に贈られたことだろう。
彼女は高みからルイを見下ろしているように感じる時がある。
ルイは星辰の子と呼ばれ、彼の才能に国が興味を示している。アルディ家の悲願を達成するのは、まさしく彼なのだという確信にも似た傲慢さを誇示している親族会にも辟易していたが、何より彼を閉口させるのはヒカル・クロスの「ごく普通を装っている普通でないこと」であった。

ルイは彼女の背に回されてあった、ヒカルの手に乗るほどの小箱を見つめた。彼女はそれを渡そうと思ってずっと待っていたらしかった。
去年、彼女の用意したショコラの量が尋常でなかったので、量か質か考えろと言ったことをヒカルは覚えていたらしい。彼の口に入るためには、量ではなく質なのだと彼女は学んだ結果のことであったけれども、それでもこんな風にして押し付けることを前提とした待ち伏せは気に入らない、の一言でしか片付けることが出来なかった。

ルイが時折、別棟に籠もる他に薔薇園で時間を過ごしていることを知っているのは、ヒカルだけであった。シャルルに言わないことで優越感を感じているのだろうか。
この家の何もかもが気に入らなかったが、この薔薇たちだけは・・・蔑ろにしなかった。
創られた命であったからだ。憐れみの愛をかけるつもりはなかったが、遺伝子操作されたルイが、同じ様に品種改良を重ねた結果生み出された薔薇を見つめる姿をシャルルが見ることで、苦しみが倍増すれば良いのに、と思っていた。

「確かに、チェスの競技中は糖分を口にするが、それは必要だからで、必要な要素を取り入れること以外の目的はない」
ルイは良く通る声を響かせながら、ヒカルにそう言った。彼はだいぶ背が伸びて、ヒカルよりかなり背が高くなった。アルディ家当主とよく似ていると言われているが、彼が少女とも少年とも判別しがたい年齢であった頃と違い、彼の姿はまさしく青年前の少年の姿であった。誰も彼のことを少女と間違えることはない。それなのに、あのフランスの華の再来だと言われる。・・・ルイはシャルルの複製ではないのに、なぜそのような言葉でしか彼を形容してもらえないのか理解しようとは思わなかった。
けれども、ヒカルはいつも彼のことをシャルルに似ているとは言わなかった。彼女が親に似ると言われることについて何か思うところがあるようであったから。
ヒカルは、顔立ちは彼女の母に似ていると言われている。けれども、彼女の持っている母の記憶は非常に曖昧で薄いものであった。彼女の父母は不幸な事故により、彼女の前から消えて久しい年月が経過しているからだ。
●ルイ・ドゥ・アルディの場合 05 

ヒカル・クロスはそれでも引き下がらなかった。
彼の冷淡な扱いに傷ついたはずなのに、彼女は微笑みを絶やさない。
その様子を見て、ルイには彼女の微笑みは卑屈な笑みにしか見えなかった。
この家に、それほど固執する理由が理解できなかった。
彼女には血縁者がおり、そこで虐げられているわけではなかったはずなのに、より居心地の悪い場所にしがみつくヒカルが滑稽であった。
ルイ・ドゥ・アルディは少し苛立ちながら、言った。
「シャルルなら喜んで受け取るだろうな。そちらはもう、計算済みだから・・・今度はこちら、というわけか」
「ルイ・・・」
困惑した声で、彼女がルイ・ドゥ・アルディの名前を呼んだ。彼は冷笑する。ヒカルは滅多に憤らない。それは、シャルルの責任だった。彼女に怒りを教えないで、穏やかに過ごす時間ばかりを与えたからだ。温室の華より始末が悪かった。彼女は、怒りを投げることができないかわりに、受け止めることばかりが長けてしまったのだ。
「ああ、オレはそういう計算は嫌いではないが、せめて相手に悟られないように努力することも忘れないでくれ。ヒカルの願いなどは考えなくても良い程に明白で、少しも面白くない」
彼の冷たい言葉に、ただ、ヒカルは黙るだけであった。彼女が憤慨して何かを言い返したり主張したりするのであれば、ルイは最初からこんな話はしないで、無視を徹底しただろう。攻撃してくれば、受けて立つ。それが家訓であった。

彼女には恒例の行事が多すぎた。けれども、その何れにもヒカルの両親は同席することはなかった。
・・・彼女には両親がいない。
きっと戻ってくると信じているらしいが、どれほどの年月が経過しているのか、それすら考えることを放棄しているように見えた。
曖昧なことは思考の対象としないルイが、ヒカルのことに関してだけは断言しない時があった。それは彼女の思考があからさまであることもあったが、それ以上深入りしても、ルイが新しい情報を取得する機会にならないということを、彼はよく承知していたからである。

「感謝の気持ちを贈りたいなと思っているだけなの」
「贈るのは自由だが、受け取るのも自由だと思わないのか、ヒカル」
彼は少し苛立たしそうに言った。帰邸してきたばかりで、彼はまだ別棟にさえ入っていない。冷える庭先で話す内容でもなかった。
毎年のことであったが、これまでは彼は直接受け取らないことにしていた。ところが、今年に限っては、ヒカルが彼の帰邸を確認して、直接話をしようと行動したのだ。いつも受け身の彼女であり、何かをするときには、他者の思惑など考慮しない彼女にしては珍しいことであった。
彼女の一方的な押しつけがましい好意は、ルイにとっては煩わしい桎(あしかせ)でしかなかった。

そこで、ルイは彼女が去らないので、ヒカルを眺めることをやめて、薔薇園を眺めた。この家の象徴である薔薇の種類は夥しい数になり、今では混種を含めて様々であった。純種だけを好むのではなく、この家の当主は生き抜くことそのものを受け入れるべきだ、と常々語っていた。しかし、薔薇園の奧にある温室の薔薇たちは常に新しい種を生み続け、そしてそれらは決して交わることのないように完全に各々隔離されてしまっていた。
矛盾する薔薇を内外に持つ、この家の当主の狂気に育てられた贖罪の娘は、その牢獄の中しかしらないので、それが枷であることにすら気がつかない。ただ安穏として生きているだけの娘に対し、彼はいつも苛立ちを隠すことができなかった。

ヒカルが涙ぐんでいる様子が見えた。
しかし、彼は薔薇が広がる景色を眺めている様子を装った。
茶色の瞳に涙を浮かべているが、彼女は決して涙を溢さない。彼女は泣いても解決しないことを知っており、そして涙を見せないことが彼女の唯一の誇りであるからだ。
そんな彼女の性質をルイはよく知っていた。呆れるほど、長い時間を一緒に過ごしているからだ。

「・・・意味が無いことはするな」
伝わらないとわかっていても、ルイは溜息混じりにそう言った。凍えるほどに冷たい空気がヒカルとルイの頬や髪に入り込んでいく。肺にまで冷気が忍び込み、このまま・・永遠に凍て付く彫像となってしまえば良いのにとさえ思う瞬間であった。けれども、ヒカルは寒さで耳を赤らませてルイに言った。

「意味はある。私には意味がある」彼女の悲痛な呻きに、ルイは嘲笑を浮かべた。
金の髪が見事に輝き、彼は青灰色の瞳を細める。少年と言うには老獪な視線であった。何かを取引するかのように、ルイはヒカルに囁く。
彼の唇が動く。他の者とは、彼はあまり話をしない。彼の知能指数による思考速度の速さに、誰もついていけないからだ。彼は遺伝子操作されて生まれたこどもであり、何もかもに恵まれて生まれて来たものの、他者より大きく重いものを背負っている。その重荷の名前は孤独という。

黙ったままのルイの風上に、彼女は立ち竦んだままで暫く俯いていたが、思い切ったように口を開いた。地植えの薔薇の苑が続く土が湿っていたので、石畳の上に立っていたものの、彼らの温度は休息に冷えていった。
「暫く日本に戻ることになった。・・・学校が休みに入る前に発つ」
彼女の言葉を、ルイはただ無表情に黙って聞いていただけであった。
 
●ルイ・ドゥ・アルディの場合 06

「だから?」
彼は冷たくそう言ったが、その間が少しだけあったことに、ヒカルは気がついて居なかったが、当の本人であるルイは自分の一瞬の空気に閉口していた。
そこで、かなり不機嫌になる。もともと上機嫌という状態がない冷ややかな態度に終始するルイが、ヒカルの帰国に感想を持つことを期待してはいけなかった。
「オレに何か期待するなら、無償であることは期待するなよ」
彼の辛辣な表現に、ヒカルはただ項垂れるばかりであった。

彼女の祖父であるクロス・グループの会長が失調しているという話は聞いていた。彼女の夏の帰国を待たずに呼び寄せるということは重篤な状態であるらしい。
時折、そういったこともあった。彼女の血縁は日本に居る。本来なら両親が不在の彼女の養育はその者たちが行うべきであるのに、シャルルがそれを阻んだのだ。
最愛の人と親友の娘を手元に置くことで、彼は満たされている。愚かしい贖いでしかない、と思った。

ヒカルは、茶色の瞳を瞬かせた。ルイは青灰色の瞳で、彼女をじっと観察し続ける。
「今度は少し長い。その間・・・シャルルを御願い」
「ヒカルに言われるまでもないと思うが。君は、いつからこの家の者になったんだ?」
ルイの辛辣な言葉に、ヒカルはぐっと言葉に詰まった。彼女はこんな風にして誰かに何かを頼むことはない。しかし今回は違っていた。彼女は何か思うところがあるようであった。しかし、頼み事がシャルルのことなのか、と知るとルイは無表情になった。
・・・全身でヒカルの言葉を拒絶した。
「・・・それでも言っておきたかった」
「それはヒカルの都合だろう。まったく勝手な人だな」
彼は肩を少し持ち上げて、ヒカルを非難した。この家の者たちの中で、常在しているのはヒカルだけだ。シャルルは極力戻るようにしているが、それでも不在にすることもあり、ルイに至ってはほとんど寄りつかない場所である。もう少しすれば、完全に独立して、この家から出て行くつもりであった。

「ショコラは毎年、上手に作れないけれども・・それでも、ルイに受け取って欲しいの」
「なぜオレが受け取らなければならないのか理由を言ってくれよ」
彼は嘲笑した。
「そういう傲慢な願いはシャルルにだけ言え。彼なら、喜んで受け取るだろう」

薔薇の香りが、ルイを狂気に誘い込む。彼女を酷く傷つけたくなる。
ここから離れると言うヒカルが苛立たしかった。なぜ、わざわざそれを告げるためにルイを待つのか・・・まったく理解に苦しむ思考を持っていると評さざるを得なかった。

ルイは首を傾けて、金の前髪の下から冷たい眼差しを再びヒカルに向けた。
シャルルによく似た、滑らかな頬の上で髪が散った。

ヒカルは対照的に俯いていた。ルイは長い話は好まない。必要が無いから。
こうしてヒカルに付き合っている時間を彼が無駄だと思っていることも、シャルルに咎められるので、面倒を避けるためだけなのだとヒカルはわかっているのに、それでも繰り返す。
寒空の下で、彼女はぽつりと言った。

「・・・ルイの試合を見に行けないから」
「いつも来てないだろ」
「・・・・」
彼女の無言の反応に、ルイは一瞬で悟った。
勝手なことを、と小さい声を出した。

・・・・彼女は密かに来ていたのだ。

ルイに黙って、彼の様子を見に行っていたのだ。
おそらく、シャルルにも言っていないのだろう。だから、言葉を濁しているのだ。
それなら、そのまま黙ったままでいれば良いのに。
彼女は、帰国することでルイの試合が見られないと言って、歎いている。

ヒカルの用意するショコラは、いつも硬質のコーティングを施してある、小さなサイズのものばかりであった。試合で糖分を摂取する彼のために考案したものであったが、いつになってもそれは成功せず、ルイが口にすることはなかった。
「今年はね、うまく行ったの。上手にできたね、とシャルルに褒められるくらいに。だから、きっとルイは食べてくれると思って」
「オレがヒカルのショコラを口にするかどうか確認するために、試合を観察か?随分と時間を持て余しているんだな」
彼はそこまで言うと、彼女の目の前で、苛立たしそうに、溜息を漏らした。

「それで、添える薔薇を探しに来たの」
彼女はそう言って淡く笑った。彼が彼女を疎ましいと思っていることは、ヒカルは知っている。けれども、それでも彼に纏わり付く彼女を無視し続けて居るのに、彼女はそれでもルイに微笑む。
「私、ひとつで良いからルイの役に立ちたいの」
「それなら、オレの前から消えてくれ」
ルイの言葉に、彼女は唇を横に引いた。それでも、彼女は涙を見せない。なぜなのだろうか。これほど・・・彼は憤っているというのに。
 
■ルイ・ドゥ・アルディの場合 07

彼女にはすべてがある。
家族もあり、シャルルに愛され、彼女は人に求められれば遠い国にでも駆けつける。
それは、彼女が何も知らないからだ。
屈託無く微笑む彼女を、ルイはいつも鬱陶しいと思っている。それは確かだ。
本来なら、ルイが持っているべきものをすべて持っている。永遠の晄という名前の彼女は、永遠に・・・・誰かの光を取り込み続けて、自らを輝かせるのだ。
強烈な光は時に静寂を奪う。ルイは星々を遵える子という尊称があるが、それは太陽の光を例外としている。ヒカルは、太陽のような少女であった。いつもいつも、灼熱の焔でルイを焼き尽くそうとする。

「・・・わかった。もう、行くね」

彼女は、それだけ言うとルイの脇をすり抜けて、薔薇の垣根の向こうに消えてしまった。足音が遠退くのを確認した後、ルイは薔薇の香りを胸一杯に吸い込んだ。

俯いていたので、ヒカルの表情は見えなかった。けれども、決して朗らかな顔をではなかったはずだ。
これほどまでにルイに拒絶されてなお、彼女はしばらく経過すると忘れてしまったようにルイに笑顔を向けるから。
それがいっそう、彼を苛立たせるのだ。

きっと、ひとりで泣いているのだろう。彼女は人前では涙を見せることはしない。
涙を見せることで、訴えを有効にしようとする者にはルイは容赦がなかった。
泣くという行為で、結論が覆ることはないのだ。だからヒカルがこの場から立ち去ることは必要だった。
泣いても・・・彼女が泣いても、帰国するという予定は変更されないし、ルイがヒカルのことを近しく感じるように接してやることはないのだ。
彼女が家族の愛に飢えている。
どんなにシャルルが愛を注いでも、決して補填されることはない、洞のような部分がある。

だから、ルイがこれまでと違った接し方をして、彼女を妹のように遇したとしても、それで満足するのはシャルルだけだ。
もう、彼女の父母は戻ってこないという事実を彼女は受け入れなければならないのに。
そこから眼を瞑り、ルイに家族の役割を押し付けることで彼女は心の平穏を保っている。

・・・そこで、彼は思考を停止した。

考え事に耽るために薔薇園を訪れることがあるが、今考えているのは、彼の今後の方策ではなくヒカルのことであることに気がついたからだ。

この冷風で体を冷やし、失調したら帰国できないかもしれないという予測もつかないほど幼い彼女のこれまでやこれからを考えてやる必要はなかった。

・・・はやく、どこかに行ってしまえば良いのに。

しかし、彼女には戻る場所はなかった。それでも・・・ルイは、ここに居ることに固執するヒカルは、やがて自分の居るべき場所はここではないと言い出すのだろうと想定していた。

彼は薄い唇を歪める。これで、このまま彼女が戻らなかったらシャルルは嘆き悲しみ、またあちらの世界に引き籠もり・・・発症が早まるだろうか。
嫌なことがあれば逃げ出すという当主は、当主という職には相応しくないと考えていた。
逃げたり眼を逸らしたり、気がつかないふりをするのは簡単だ。でもそれでは解決しない。この家の問題を解き明かすことはできない。
だから、ヒカルはアルディ家の者にはなれない。
彼女は、知らないから。この家の秘密を、知らないから。
どんなに辛くて嫌なことがあっても、そこから逃げ出すことすらできない者は、どうしたら良いのだろうか。

ルイは、そこまで考えると、また思考が流れて行くのを感じ、やがて薔薇の苑をゆっくりと歩き始めた。
そして、薔薇の植垣をゆっくりと時間をかけて周回した彼は、風向きが変わり更に冷たい風が吹きつけて来るのを頬に感じてようやく別棟に戻る気になった。

・・・今夜は強風になりそうだ。

万が一、荒天によってヒカルのフライトが遅延しないために、シャルルがプライベートジェットを用意させるのだろう。それなら多少の強風でも影響しないはずであった。
この家のすべてが、彼女のために回っていた。ルイという、この家の後継者が居るというのに。それがルイの気に触った。彼は望まれて生まれて来たはずであるが、彼の誕生を望んでいなかった当主によって、ルイは否定され続けており、加えて当主はその座にルイが手を伸ばすことを阻み続けている。

・・・そこでルイは足を止めた。

植垣を巡り、角を曲がればルイの別棟に繋がる小径にさしかかるというところで、彼は行った。そこに、ヒカルが背中を向けていたからだ。そこは温室にほど近い場所で、放熱の影響を受けて他の場所より若干はやく花が咲く。そして今は、寒空の続くこの時期でさえ咲くように改良された薔薇の莟が溢れる場所であった。
 
●ルイ・ドゥ・アルディの場合 08

ヒカル・クロスが立ち去らずに、ルイに背を向けて佇んでいたので、彼は不機嫌そうな顔を改めて浮かべた。
彼女は、早咲きの薔薇の前で何かを観察しているようであったが、彼の気配に気がつかないわけはなかった。それほど聴力に異常があるとは考えられない。しかし、茶色のくせの強い髪が翻ってルイの方に向き直ることはなかった。

・・・彼女は、薔薇の葉と蕾に近接し、顔を近付けて丹念に・・・贈り物に添付する花を探しているらしかった。
通常は、温室の薔薇を使うのに。
彼女は、寒空の下で薔薇を探すと言ってやってきた。
しかしそれは口実で・・・彼女の目的は達成されないことは、ルイによって宣告されたばかりである。

薔薇の芳香が冷気と相まって独特の香りが風になってそよいでいた。

この邸では彼が必要とするものはほとんど無かった。退屈な日々を過ごす為に生きているわけではない。彼には、目的がある。そのために生きている。誇り高い星辰の子と言われながら、決して彼に遵おうとしないヒカル・クロスが、ここからいなくなれば・・・もっと彼は計画を実行しやすくなるだろうと考えていた。
けれども、彼女はアルディ家の当主を継ぐために必要であった。彼女の秘密を、彼女はまだ知らない。そして、誰もが自分のことを不必要だと感じている故に誰にも距離を置いておきながら、必要とされることを強烈に欲している愚かな娘のことを考えている自分に気がつき、彼は黄金の髪を振った。
物憂げですべてを見とおすような理知的な青灰色の瞳で、薔薇の苑を見回した。一度は枯れてしまった薔薇たちは、シャルルによって再生された。そして今は、当時よりも更に種類が増えたファム・ファタルの芳香が一年中漂っている。薔薇はこの家の象徴であった。未来永劫・・・この薔薇は増え続けるのだろう。
シャルル・ドゥ・アルディが当主である限り。過去に生き、未来に行くことのできない男の妄念によって生み出された、本来なら存在しない者たちがルイを取り囲んでいた。

待ち伏せは効果がないと、今知らしめたばかりであるのに。
それなのに、彼女は再び同じ事を繰り返そうとする。
ルイは彼女の背を通り越して、無視したまま・・・過ぎ去ろうとした。
が、彼女の背中の前で足を止める。
そして、彼女を見た。
・・・花を探しているのではない。蕾の観察をしているのではない。
彼女はまったく動く気配がなかったからだ。集中しているのではなく、息を潜めて彼が通り過ぎるのを待っているようであった。
だから、彼は足を止めた。
彼女の思惑通りにはいかないことを証明したかったのかも知れないが、彼の足が止まり・・そして彼女より高い目線が冷ややかに彼女に注がれる。

ヒカルの肩が動いた。彼が過ぎ去るのを、待っていたのに。それなのに、彼がそのまま・・・彼女の背後に立ったので、彼女は瞬きを繰り返しながら俯いた。

・・・・その瞬間に、彼女の茶の睫から、雫が落ちた。

泣いていたのだ。彼女は、声を押し殺して・・・誰にも気がつかれないようにひとり、ここで泣いていた。
ルイ・ドゥ・アルディが反対側の道を戻り、別棟に入ると思っていたから。
彼がここを周回してくるとは思っていなかったから。

彼女の浅はかな予測に・・・ルイは黙って無表情に彼女の髪が揺れている様子を観察していた。
下を向いたままの彼女の頬から、幾滴も涙が落ちて、薔薇の葉に吸い込まれて行く。地面に還らないその水は、彼女を枯らすこともなく、けれども止まる気配もなかった。

人前で泣かないことを自分の唯一の誇りにしている贖罪の娘は、堪えきれなくなって自分を憐れんで涙することを許可してしまったのだ。
それほど弱い意志なら、最初から・・・そうだと決めなければ良かったのに。

そのまま無視すれば良かった。
しかし、彼はただ・・黙ったまま、ヒカルの傍に立ったままだった。
これがシャルルなら、彼女の涙を止めさせるために様々な方策を講じることだろう。
けれども、ルイはそうしなかった。流れあふれ出る涙を抑制できないヒカルという少女の思考は、彼と違うからだ。
肯定はしない。けれども、彼はただ、彼女が何と言って言い訳を滑らせるのかを知りたかっただけだ。ただ、少しだけ興味が湧いた。
人前で泣かない彼女が、ルイの前で涙を見せるのか・・何か取り繕うのか。
それを打ち壊してから、別棟に戻っても良さそうだと判断したからだ。ただ・・・それだけだ。

彼女が涙を啜りながら、去る様子のないルイに溜息混じりに言った。
「・・・嫌だと思ってしまったの」
彼女の声は震えていた。自分の声に怯えていた。先般・・・彼女の声も、彼女の母に似ているとシャルルに指摘されたばかりであった。あと幾年もしないうちに彼女は、シャルルがファム・ファタルと出会った時の年齢に到達する。
 
●ルイ・ドゥ・アルディの場合 09

その間にも、彼女は涙をいくつもいくつも落としていた。しかし・・・彼女は決して振り返らない。頑なに、ルイを拒んでいた。

「おじい様の・・・お加減が良くないと聞いて、そういう時にはすぐにでも会いに行かないといけないのに。急を要する失調ではないと聞いて、安堵してしまったの。・・・私、おじい様の健康を案じることより、ここを離れる事の方が辛い、と思ってしまった」
ヒカルはそれだけ言うと、また、涙を落とした。今度は肩を大きく震わせて、咽び泣いた。
途切れ途切れに、彼女は喋り始めた。
「・・・いつも短い滞在なのに、私の部屋を用意してくれている。私にとても親切にしてくれる。でも、可哀想だと言う。親がいないから、ヒカルは可哀想だと私の代わりに泣く」
それなのに、彼女はその場所に行きたくないと言って顔を曇らせていた。
日持ちのする菓子を用意し、忘れて欲しくないと無言で訴える。

これはシャルルの罪であった。だから、ヒカルはそれを誰にも言う事が出来ない。
こうなることは最初からわかっていたことであったのに。本来なら、彼女の正当な後見の立場にある者たちは複数人いるわけだから、彼女はここにいるのではなく・・日本で養育された方が当然であったのに。
それなのに・・・ここにいたい、と彼女は願った。傍に居て欲しい、とシャルルも願った。シャルルが彼女を連れてきた時に、あれほど、ルイが否定したのに。
疑似家族は決して・・・本物にはならないのに。

「それでシャルルに引き止めて欲しいのか。・・・つまらない画策だな」
行きたくないのなら、行かなければそれで解決できる感情だろう。
それなのに、何をそれほど歎いているのか理解できないルイは、ヒカルの背に声をかけた。
そうだね、と言ってヒカルは頷いた。・・・手の甲で涙を拭っている。ルイに見えないように、彼女は俯き、茶色の髪で彼女の顔を隠した。

彼女が躊躇っている理由は、予想できた。どれほど親しく連絡を取り合っていたとしても、どれほど近い血縁であったとしても、情が湧かないのだ。加えて、彼女には両親がいない。保護者の不在により、彼女の感情に欠落しているものがあると、ヒカル自身が認識し始めたのだ。どれほど、シャルルが愛を注いでいても。どれほど、ヒカルが寂しくないと思っていても。・・・この世の多くの者たちが持っている「何か」について、ヒカルははっきりと見分けることもできないのだ。

「しばらく、戻れない。できるだけ傍についていてあげたい」
「そうか」
ルイは素っ気なく言った。ルイは引き留めはしない。

そうしなければならないと自分で承知しているのであるならば、どんなに辛くてもどんなに退屈でも・・・やり遂げ無ければならないからだ。義務と感じて「しなければならない」と感じているヒカルが、本来はそんな風に肉親を思ってはいけないのだと、自分を咎めているのだろう。

「でも・・・どうしても、シャルルとルイと一緒に居たい」
それでわかった。彼女はこれを機会に日本に戻れと言われているのだ。
ルイは僅かに頬を引き締めて、これまでの情報による仮説を組み立てていった。
確かに、今、彼女が帰国するのは得策ではなかった。監護権がまだ切れていないことと、密かにすすめているヒカル・クロスに関する研究がようやく実証される段階に入ったからだ。本人は、健康診断であると信じて疑わないが、定期的な血液や髄液検査はただの健康診断などではなかった。
「シャルルと、だろう?」
彼は言った。ここでルイの機嫌を損ねないように配慮するヒカルの狡さが気に入らなかった。何もかもを持っているのはルイではなく、ヒカルの方なのだ。彼女の存在があれば何もいらないと言う者が日本に居るのであれば、彼女はこの家に居続けることは難しくなる。

ヒカルがそこで激しく首を横に振った。また、雫が落ちて、彼女は溜息をついた。両手で頬を隠すと、眦に指先を強く押し当てる。
「違う。シャルルと、ルイ」
ヒカルが強く何かを否定することはあまりないことであった。人との諍いを怖れて、すぐに自分の意見を閉ざしてしまうので、ルイにはいつも手酷く遣り込められているばかりであった彼女は、今回ばかりは譲らなかった。
「毎年、ふたりのためにショコラを作りたい。同じであることはできないかもしれないけれど、私はここで毎日のように薔薇を眺めて暮らしたい。どんな新しい華ができるのか、楽しみに待っていたい」
「理解できないな。ヒカルが何を求めているのか、オレには知る必要がない」
「ルイとシャルルは可哀想だと言わないから」
ルイはそこで彼女を強く睨み見た。青灰色の瞳が一瞬だけ鋭くなった。
「憐れんで欲しいのなら、そう言え。本当に愛翫動物に成り下がったのなら、それ相応の待遇を用意しよう」
口調は厳しかったが、彼は決して憤りを露わにすることはなかった。

誰かに憐れまれるくらいなら、ルイなら死を選ぶ。
ヒカル・クロスはいつも自分を消し去る努力をしているのに、憐れまれることを厭っていることを露呈した。それは彼の持っている誇り高さとは違っている。
・・・・彼女は、一体何をしたいのだろう。
「対等であるというのは、とても希有なことで、とても大切で・・・そしてとても維持するのが難しいということをいつも心に強く持っていなければいけないのね」
彼女の望んでいることはひとつであった。だから、日本に行かないのだ。
彼女は、家族が欲しいと言う。
憐れんだり蔑んだりすることのない、本当の意味での等しさを持ちたいと願っているのだ。
 
●ルイ・ドゥ・アルディの場合 10

そのまま彼女の存在を無視して、通り過ぎてしまえば良かった。
彼はそんなことを考えていた。ヒカル・クロスがこれほど厄介な人間だったとは。それほど会話しないように努めていたからかもしれないが、彼女の吐露している煩悶は彼には肯定できかねるものであった。
ルイは後悔するような選択は一切しないはずであるのに、それなのに、立ち止まってしまった。
しかし、それも自分の選択であり・・それを選んだからには、最大の結果をもたらすような過程を導き出すことも必要であると考えていた。
つまり、失策だと思ったのなら、得策になるように変化させれば良いのだ。

ヒカルはそれを怠っている。季節の行事に拘るのも、自分の家族がどこにもいないことを認めずに求め続けながらも、決して誰も代わりになり得ないことを承知しているのに。
・・・なぜ、彼女はそれほどまでにして消沈することに耽るのだろうか。

「ルイ。・・・行って。私の顔を見ないで。・・・私はとても今・・・・情けない顔をしている」
彼女はまた涙をこぼしながらそう言った。今すぐにでも日本に戻らなければならないと思う気持ちと、このままここに居続ける日はそれほど長くは続かないという予感と・・・彼女は様々な思いに乱れて、そして涙を流す。彼女の涙の香りが風に乗ってくるようであった。頬を赤らめ、こちらを向かないヒカルの瞳は、明らかに涙で潤んでおり・・・そして声は詰まっている。
彼女は、涕涙に身を濡らしている。
彼は溜息を漏らした。
決して泣かないようにしている彼女は、涙さえ否定しようとしている。
抑制できない自分の感情に、彼女は戸惑っていた。

シャルル・ドゥ・アルディは、何を彼女に教えてきたのだろうか。
感情を抑え、自分の心の動きを他者に察知されないようにする術を教える時間は、いくらでもあったはずなのに。
彼は、ここまで考えて、ふと唇を引き締めた。
これまでの思考がすべて既定の逆接条件を指摘していることに気がついた。
これは、不服であることを示している。誰が不服なのか。・・・それは明白であった。

「ヒカル。オレに命令できる者はいない」
ルイはそう言おうとして・・次に自分の行為に、青灰色の瞳を開いた。
彼女の髪を掴み、憐れで惨めな顔をしたヒカルの顔を覗き込んで嘲笑ってやろうと思った。
そのために、腕を伸ばした。
しかし、彼は・・・しなやかな腕を伸ばし、そして・・・彼女の顔を己の手の平で覆ったのだ。
反対側の手が強く握られた。
そうしなければ、彼女の肩に腕を回して自分の胸に寄せてしまいそうになったから。
ヒカルが驚愕のために、彼の腕に両手をかけて小さな悲鳴をあげた。彼はそこで彼女が逃れないように更に強く・・・彼女の瞳や頬、鼻梁を覆う。
彼女の茶色の睫や瞳から零れる涙の湿気が彼の掌の中で悶えた。
「ルイ・・・」
彼女の背に流れる茶の毛先が、彼の胸にあたった。
ルイは黙ったままだった。
自分の行動を分析しようとしたが、そうしなかった。

彼は涙を流す者を信用しない。特に、人前で涙する者は情動的で目先の未来しか見えていない傾向が強いからだ。堪えることができてこそアルディ家の者であると言える。
しかし、彼女はそうではなかった。感情の向くままに、こうして涙を流す。それでも、誰かの前で泣くことはしないと決めているのは、彼女のささやかな美点であると認めていたルイは、彼女がルイの前でだけ・・・特に頻繁に涙とまではいかないが、乱り顔を見せるヒカルの真意について考察することにした、という課題を自分に与えた。
彼の目の前で泣くヒカルに、思わず手を伸ばし、涙を拭って遣ったとは思いたくなかった。
彼はルイ・ドゥ・アルディであり、星辰の子と呼ばれている。
誰もが彼に平伏すのに、彼が腕を伸ばす相手が、この贖罪の娘であるとは認容しがたい。

彼の掌が・・温かい雫で濡れていく。細く長い指先が湿った。
「決めたことは最後まで守り抜け。・・・それが誇りだ」
彼はそう言って、囁いた。彼女の髪に唇を寄せて、少し怒ったように言う。
彼の指先の冷たさを感じ、それまで紅潮していたヒカルはますます赤くなった。これほどまでに誰かの肌を近くに感じることはないからだ。
しかも、彼がこんな行動に出るとは思わなかったのだろう。彼女は驚きで涙を止めていた。
唇が半分開き、そこから、彼の名前だけが漏れる。

ルイ・ドゥ・アルディは知っている。彼女が、決して誰かの前では泣かないことを。
そして・・・それなのに涙している姿を見られて、せめて顔は隠しておきたいと思うヒカルを尊重し、彼は・・・彼なりの方法で、ヒカルの誇りを守ったのだ。
それを悟った瞬間に、ヒカルの瞳から涙が一気にあふれ出た。
誰の前でも泣かないと密かに決めていたのに、それがとても脆い誓いだと絶望していた彼女の涙を感じながらも・・・ルイは囁くのだ。
彼女の嗚咽が聞こえた。・・・彼の腕にしがみつくように両手を添えて、彼女は涙を流し続けた。
「きっと帰ってくる。きっと・・戻ってくる。だから、泣いたら、いけない。泣いたら・・・戻って来られなくなる。私は最後に、笑って見送れなかったから・・・・」
彼女が海に消えた両親のことを歎いている。それを聞いたルイ・ドゥ・アルディは、ただ黙っているばかりであった。
最初から居ない者を待つことと、戻らないとわかっている者を待つのでは・・・どちらが苦しいのだろうか。

 
●ルイ・ドゥ・アルディの場合 11

「・・・誰かに齎されるものは、決して己を満足させない」
彼の言葉に、ヒカル・クロスが僅かに身震いした。ルイ・ドゥ・アルディの言葉は、神託にも似ている。
彼は自分の信念を誰かに語ったりしない。

誰かのために言葉を投げるルイは存在しない。
それなのに、彼は彼女のために・・・言葉を落とす。
いつも、泣かないと決めている少女が、彼の前では涙をこぼす。そして歎く。
この場を立ち去ることもできず、ただ、薔薇にのみ悲観を見せる彼女の頬に、彼の親指や中指が触れる。細く長い、神経質そうな指で・・・ヒカルのよく知っているシャルルの指に似ていた。
彼女は肩で息をしながら、乱れた感情を落ち着けようとして、眉をきつく寄せ、赤らんだ顔から火照りを押しだそうとしていた。

やがて、彼女から温かい雫を感じなくなった。

どのくらい、ふたりはそうしていたのだろうか。

彼女を無視して、放置して、別棟に戻ることは簡単であった。嘲り詰り、そして彼女の意志の弱さと感情を抑制出来ない部分を突いて、非難することも簡単であった。
「ルイ・・・ありがとう」
ヒカルが静かにそう言った。もう声調も乱れていなかった。
彼女は時々・・・こうして自分の歎きを洗い流さなければ、彼女の中の靄を吹き飛ばすことができないのであろうか。人は皆・・・そういうものなのだろうか。
彼がそう考えていると、力が抜けた瞬間を見はからって、ヒカルが彼の手の平から抜け出して、顔を自分の服の袖で拭った。
まだ声は涙を含んでいたが、それでも彼女は・・・もう、だいじょうぶだ、と自分に言い聞かせるように呟いていた。
「ルイ・・・見苦しいところを見せてしまった。ごめんなさい」
「謝るくらいなら、最初から・・・泣くな」
謝罪と謝辞を同時に述べる少女に、ルイは冷たく言い放った。どういう訳か・・・彼女の涙に触れた皮膚から彼女の温度がルイに染み渡っていき・・・彼に痺れをもたらす。彼の言葉をより頑なにさせる。
「そうだね・・・そうだね・・・」
ヒカルが静かに、羽根のように軽くそう言った。軽んじた軽さではなかった。
その言葉の重さを知っているから。
重力を感じさせない儚さでもって、彼の言葉に応じたからだ。

「ルイには甘えてしまってばかりだね・・・」
ヒカルの溜息混じりの声に、ルイは何も言い返さなかった。
甘える、という行為が理解できない。
人に凭れなければいけない理由や動機が、ルイには存在しないからだ。
「ごめんなさい。・・・私はあなたの・・・ルイの妹になれない」
彼女がルイから離れようとした時・・・その時、彼女に回されたルイのしなやかな腕に緊張が走った。まるで、触れていることが必要不可欠であるかのように。

妹として遇するように、とシャルルに言われたことを、ルイは思い返していた。
だからなのか。彼女が、妹の役割を演じようとして、それをルイにも押し付けようとしているのは、これが理由なのだろうか。
妹などではない。
彼には、妹はいない。もし・・・本当に自分の妹であれば、こんな風に立ち止まらない。無視しても互いの存在を認識することができるのだろうから、こんな風に・・・彼女の涙を受けることはしない。                                                                          

本当なら、すぐにでも出発しなければいけないのに躊躇していると吐露するヒカルの、茶色の髪を見つめながらルイはただ・・・言葉を呑んだ。彼にはそのようなことはあり得ない。あり得ないのに・・・ヒカルの前では彼は・・・あり得ないことをする。
彼女が、誰の前でも決して涙を見せないと言っているのに、ルイの前ではひたすらに涙を流し続けるように。

「・・・誰かの前で泣くのであれば、誰の前でも泣け」
彼は彼女の細い首に手を回し、軽く引いた。
そしてヒカル・クロスの茶色の髪に・・・近付く。

彼には、いつも誰かが近寄る。
しかし、彼から近寄る人間は存在しない。そう思っていた。これからも、これまでも、そして今この瞬間でさえ、そうであると信じているし、それは事実であった。皆を従えさせるけれども、誰にも従わない。だからこそ、彼は星辰の子と呼ばれているのに。

彼の言葉に・・・ヒカルはただ、黙って頷いた。一度だけ首を引き、髪を地に向けて涙を大地に捧げた。大粒の涙が最後の一滴を落とした。
ルイ・ドゥ・アルディは遠回しに言った。
しかし、彼の最大限の近接した言葉であった。
誰かに近寄ることはしないルイ・ドゥ・アルディが、彼女に・・・・泣くな、と言った。

不器用な慰めの言葉を、ヒカルは感じてまた涙を落としたのだ。彼に触れないように・・・今度は、土に還した。彼女の歎きを、ルイに向かって吐き出さない。それでも、ヒカルは誰の前でも泣かないのに、彼の前ではこんな風に誰にも見せない姿を見せる。涙顔は確かに、見ていない。けれども・・・彼女は涙を知らない人形ではないのだと、ルイに訴えているようであった。
ただ微笑むだけの、ただ愛でられるだけの存在ではなく、哀しみも憂いも知りそして自分の中の醜さに苦悶しているひとりの人間であるのだ、と彼女は涙を流す。

孤独というものは、人それぞれでこれほど違うものなのかと、互いに知った瞬間であった。
ヒカルの孤独を、ルイは辿ることはできない。同じ様にルイがなぜ冷淡であるのかヒカルが彼の軌跡を巡ることができない。

だからこそ・・・だからこそ、こんな風に温度を感じていたいと思うのだと・・・誰も教えていないのに、彼と彼女の中の、遺伝子よりもっと細やかで細やかな何かが、彼らに働きかける作用について、彼らはじっと深く考え込むばかりであった。

ルイは、ヒカルを強く抱くこともしなかった。
ヒカルは、ルイの腕に強くしがみつかなかった。

なぜなら・・・なぜなのだろうか・・・
なぜ、と理由を考えているのに、それを考えられない何かが、思考を阻むからだ。
 
●ルイ・ドゥ・アルディの場合 12

温かい雨のような、ヒカルの涙を受けて・・・彼はそっと腕を離した。
落ち着きを取り戻し始めたヒカル・クロスと、それ以上近付くつもりはなかった。
きっと、ヒカルはこのことはシャルルには話をしないのだろう。
確信できた。
彼女は涙を流してしまったことについて、シャルルに報告はしない。
ひとりだけの秘密にしているからだ。
ルイは「誰か」にならない。ヒカルの中では、彼は空気と同じなのだ。だから、彼の前で
涙を見せても平気なのだ。
だから、彼は彼女の前では人でなくなる。彼の前では、彼女は涙を流すということは、ルイはヒカルにとって、「誰か」ではないのだ。「誰かにさえならない誰か」なのだから。
だから、彼の前で彼女は涙を見せる。泣き顔は見せないが、涙の雨を見せるのだ。これほど、自分を蔑ろにされてなお・・・ルイは、それでも、その場を立ち去らなかったことについてヒカルは考えようとしない。生きていくだけで精一杯で、自分の望みも希望も何もかもを・・・捨てている。そうしなければならないのだと信じている。

「・・・ショコラ、置いて行くので、受け取ってね」
ヒカルはそっとルイに願い事を述べた。それが実現するかどうかは、彼女は気にしない。・・・ただ、自分の希望が叶えられたかどうかではなく、自分の希望が言えたかどうかだけが彼女を左右するのだ。・・・彼女の願いは叶わないことが多い。
両親が戻ってきますように、という願いは、今でも実現していない。
彼は彼女の腰を引き・・・そして彼女の華奢な肩に腕を回した。まるで、恋人同士の逢瀬のように、彼は彼女を自分の胸に抱いた。
ヒカルが体を強ばらせて緊張する様子が伝わってくる。それでも良かった。・・・それでも、彼はそのまま彼女を抱き寄せた。

「・・・オレのことを無視するヒカルに、報復する。
ヒカル・・・贖罪の娘と蔑まれて、生涯を惨めに生きるが良い」
彼女の体が電流を流されたように、激しく動いた。彼の中で悶える彼女の躰を・・ルイはただ、無言で抱きしめる。
この行為に、意味があるとは思えない。でも、それでも腕や体が・・・彼女の体温を確認するために計測を始めるのだ。
次に会うヒカルと、どれだけ違うのか。
・・・そう。彼は、これきりの別れとは思っていないから。次に、またヒカルと出会った時に、彼女の違いを見つけるために・・・彼女を抱きしめる。
ヒカル・クロスは、ルイの言葉にただ俯くばかりであった。また、涙が落ちた。彼の腕に落ちて・・・そして肌に染み入り、彼の中に入っていく。彼女の泣き顔は、とうとう見ないままに終わった。けれども、彼女の涙は・・・彼の中に真実として残るのだ。
甘く、どんな菓子よりも甘く、そして塩辛い海の味のする粒を、彼は受け取った。
それが、ヒカルから贈られた、彼女だけしか生み出せない甘い・・甘い吐息という名前の魅惑の蕾であったから。
彼は、腕を差し伸べて、それを受け取った。
受け取ってしまった。
彼は、意図せずして何か行動することはないのに。それなのに・・・受けたのだ。
彼女の涙を。涙という名前の甘い歎きを。

ヒカルは、ルイ・ドゥ・アルディの温もりを抱きしめながら、また涙をこぼした。
「また・・・戻って来ても良いのね・・・」
贖罪の娘と呼ぶ者は日本には存在しない。彼女に罪を購えと述べる者は・・・このフランスに居るアルディに縁の深い者しか存在しない。
彼女は、ルイの言葉に応じた。惨めに生きたいわけではない。でも、彼の云うように、自分の生まれて来た意味を考えるのであれば、ここに戻ってくることしか選べない。
報復する、と云ったルイの言葉は、本当の報復ではない。わかっていた。わかっている。
彼はとても・・・冷たくて優しい。優しいのに、冷たい言い方しかしない。
蔑まれても辛くても、生きることを選んだのであれば・・・・帰ってこい、と彼は言っているのだ。

「・・・仕返しは倍にして返すことにしている。それがアルディ家の家訓だ」
ルイ・ドゥ・アルディはそれだけを言うと、おもむろにヒカルに籠めていた力を解放し、そして体を離した。
「そうだったわね」
ヒカルはそれを受けると、静かにそう言って、自分の涙を拭った。ルイは彼女の涙を上蹴ることはしない。そうしてしまえば、泣いてしまった事実を、彼が認めることになるからだ。ヒカルは誰の前でも泣かない。それを知っているから、突き放したのだ。
ヒカルは彼の意図を感じ、涙を拭う。

「私、ルイに借りを作ってしまった」
「そう思うのなら・・オレを退屈させないでくれよ。報復とは、一往復で終わるものではないから」
ああ、どうしてこんな風にして、難しい言葉でしか言えない人が、居るのだろうか。
ヒカルは呟いた。けれども、これは・・・この家の常なのだ。ルイだけではなく、この家の者は皆、こんな風にして、難しい謎かけをヒカルに与える。
けれども、それは決して難しいのではないのだ、と解いた後になって思うのだ。
それから、彼は小さな声で囁いた。
「・・・・妹にも家族にもしない」
ヒカルが、彼の言葉の先を待って、暫く俯いていたが、それでも彼がその先を続けなかったので・・・顔を上げる。ようやく、涙は彼女の頬から去っていこうとしていた。
そして、顔を上げたヒカルの目に映ったのは、背中を向けて、薔薇園を去ろうとしているルイの広い背中が遠のく姿であった。


2012 St. Valentine's day L-side 後編

●ルイ・ドゥ・アルディの場合 13 

彼女が、彼の背中を追わないのは承知していた。もし、そこで・・・ヒカル・クロスがルイ・ドゥ・アルディの背中に触れたのであれば、もっと違う未来も用意できたのかもしれない。けれども、そうしなかったので、彼は彼が予め計画していた予定をそのまま遂行することにした。どんなに彼女が厭っても、彼を拒否できないようにするため・・・彼は年月をかけて計画を実行することにしたのだ。

たったひとつを、証明するために。

・・・彼女の泪を見るのは、他の誰でもない。ルイ・ドゥ・アルディひとりだけである。

彼女は、そのまま出立してしまった。そして、彼に・・・一箱のショコラを残していった。
メッセージカードは、直前に差し替えられたようで、走り書きのような慌てた筆跡が残っているだけであった。そこには、「ありがとう、行ってきます」と書かれていた。

・・・感謝されるために彼が居るのではないのに。

彼女は、彼女が背を向けた時に、その向こう側で彼がどんな表情をしているのか、知らないし、知ろうともしない。
しかし、今はそれで良かった。いつか・・・彼女が振り向いた時が・・・そこで彼の勝利は確定するのだ。

勝利。
何に勝つのだろうか。

彼は、今日もまた・・・ひとり、薔薇園を彷徨う。まるで、あのフランスの華がそうしているかのように。けれども、彼が決して漫ろ歩かない時間を見はからって、ルイは薔薇の苑を彷徨うのだ。なぜなら、その時にヒカル・クロスが居る事が多かったから。

ファム・ファタルとの想い出に浸るために、ひとり薔薇園を歩くシャルルのために、ヒカルはいつも時間をずらして薔薇を探しに彷徨う。それがますます・・・フランスの華を刺激するのだということにも気がつかずに。求めても、探しても、決して行き会うことのできない薔薇の迷路を、追いかけて追われて・・・そして何度も繰り返すのだ。
けれども、ヒカルはそれに気がつかない。彼女を追いかける環には、シャルルだけではない者が関与していることに、気がつかない。

・・・ショコラは、競技用にコーティングされて、指で溶けずに腔内で溶解するように仕上がっていた。けれども、それでは咀嚼に気を取られて、集中力が途切れてしまう。口に運ぶ事を意識しないものが必要であるのに・・・ヒカルはそこまで考えに及ばなかった。
ルイは、金の髪を風に靡かせて、青灰色の瞳をまっすぐに本邸にあるヒカルの部屋に固定した。
この苑からは、ヒカルの部屋がよく見える。極力窓を開けるようにしているヒカルが不在なので、幾日も、窓はきっちりと閉められて厚いカーテンが垂れているので、まったく使用されていない他の部屋となんら代わりのない様相であった。

・・・決して行き会わない薔薇の苑で、ルイを待っていたヒカルが用意したショコラを、ルイが手にしたかどうかを確認する前に、ヒカルは旅立った。
シャルルはヒカルの不在を認めたくないかのように、外泊を伴う長距離の出張を繰り返している。
煩い輩がいないので、ルイはここに滞在する。ただ、それだけのことなのに。
・・・彼は、ひとりきりで居られることを喜んでいた。
誰の気兼ねもなく、この苑に出入りできるからだ。それは彼に埋め込まれた必須事項なのかもしれない。考えを深くするには、この薔薇の匂いが必要であったが、それは彼のこれまでに起因するものではなく、生まれながらにして持ち合わせている性質なのだと気がついた時。・・・彼は自分の命が、創られたものなのだと、実感した。
この家の何もかもを覆すために、生まれて来た。そして・・・何もかもを踏み越える強さと強かさを持つことを求められてきた。けれども、彼にはそれを身につけようとする努力は不要であった。なぜなら・・・元から、備わっていたからだ。
どうしてそういう創りになっているのかということは問いかける必要は無い。けれども・・・なぜ、誰も居ない薔薇の苑をこうして巡るのか、なぜ、居ないとわかっている部屋の方を何度も見るのか・・・それは彼に作り込まれたプログラムでないことはわかっていたが、それを深く探ることはしなかった。
理由が必要なのではなく、そのことによって未来が変わることが懸念されたからだ。
彼の予定は絶対であり、予定は未定で終わることはない。確実に、実現する近未来なのだから。

ヒカルが彼のためだけにショコラを創り、そしてそれを捧げる日は必ず訪れる。愛する者へ捧げるという行為がどれほど重いものなのか、ヒカルはまだ知らない。軽々しく行動する彼女にいつか後悔の泪を流させると決めたルイは、今はただ、待つことにした。
ここで行動しては、ヒカルはアルディ邸に戻って来ない。アルディ家の介入がクロス家の不興を呼び起こすことは承知している。
今頃は、彼女が日本に戻ることを説得しているのだろう。本来ならそうするべきであるのに、ヒカルは渋っているからこそ、まだ戻って来ないのだ。
それで良い・・・ルイは思った。彼女が自ら、フランスに居たいと意思表明をしなければクロス家は諦めない。前当主との付き合いや、現当主とヒカルの父母との関係から、両家はヒカルの処遇を本人の希望を尊重し、黙認し続けた。
・・・けれども、強引な手配で彼女をここに留めて置くことにしたアルディ家当主のことを快く思っていないし、彼女に冷遇や批判を加えようとしている、ヒカルの伯母とヒカルの関係が表面化してしまえば、その後が厄介であった。
そこまで、考えて行動しないシャルルにも苛立ったし、自分の立場を弁えていないヒカルの言動も理解したいと思わなかった。

彼女は、自分の秘密に気がついていない。気がつかないように、周囲が配慮しているからだ。もう少しして体格が安定し、成長が止まり、細胞の活動が安定した時。ヒカル・クロスはこの世を覆す聖女として表舞台に降臨する瞬間を迎える。
その時には・・・誰が後見しているかが重要になる。だから、シャルルは彼女を成人するまで手放さないと決めていた。それは建前であったが。

・・・ルイはまだ冷たい風が吹き付ける薔薇の苑をゆっくりと歩いた。
あれから、外気温はだいぶ上がり、ヒカルが去った同じ時間であるのに日の射し込む角度も、風の向きも、何もかもが変化していた。
咲いている薔薇の種類も違っている。・・・そして、シャルルはヒカルが残していったショコラに手をつけずに今でも彼女が戻ってきてから一緒に食すと言っている。
その一方で、ルイは先日の競技会でそれらを消耗してしまった。
ヒカルは承知していたはずだ。試合の最中は集中しているから、味わう時間は残されておらず、ただの吸収用のためだけのものを彼女がわざわざ残して置いたのは、普段はルイが決して口にしないとわかっていたからなのだ。

・・・それでも、彼の集中力は一瞬、途切れた。口にした瞬間、薔薇にも似た芳香が飛び、彼の鼻腔を刺激して目頭から揮発した空気が抜けていくような感触を得て、彼は小さく舌打ちしたのだ。・・・彼女が、どうして、薔薇を添えると言って薔薇園を彷徨ったのか、その時に知ったから。

■ルイ・ドゥ・アルディの場合 14

それは・・・薔薇の香りが強いので、咀嚼するまで気がつかないように施された仕掛けが埋まっていた。
・・・彼が沈黙し、思考に深く沈むことのないように、彼女が舌に刺激のある材料で、彼の感覚を呼び覚ますようにこしらえたショコラであった。
試合の時に口にするように、とヒカルは言い置いて行ったのに、彼が大事な試合でヒカルの用意したものを手にすることはないのだとわかっているかのような所業であった。

それを口にしたとき。
ルイは、青灰色の瞳を見開き、そして薄い唇を歪めて、声を漏らして不敵に笑った。
目の前の対戦相手が驚愕し恐怖するほど、凄艶な微笑みであった。

愚かな贖罪の娘が彼を窮地に陥れるかもしれない、と思った瞬間であった。
彼女は、ルイの人生の計画の手駒のひとつでしかない。
他の者たちと同じであると思っていた。
どんなに手強い攻撃をしてくる相手でも、彼には遠く及ばない。そして、誰もが彼に平伏す様を眺める度に、ルイは虚無を感じ、ますます自己の中に埋もれていく。
彼の思考を中断させることができる、ただひとつの瞬間を、あの贖罪の娘は知っている。
意識しないで唇に含むショコラが、彼の脳を活性化させるが、同時に彼を無防備にさせるのだ。
ルイの教育係であるミシェルに幾度か忠告されたことがあった。何かに集中しているとき、微動すらしないシャルル・ドゥ・アルディは、その瞬間に何を盛られることもないように、何も口にしない。だから、ルイも配慮が必要だ、と言われた。忠告されなくても、承知していることであるので、その都度ルイは冷笑して聞き流すことにしていた。何度も繰り返すことをしないアルディ家の男の理をミシェルは容易く覆す。それが余興であるというかのように。
ミシェルにとっては、全てが退屈凌ぎなのだ。・・・何もかもが、彼の生の中では退屈なのだ。
それなのに。
それでいて、死ぬことと同じくらいに生きることにも熱心である。
・・・生き抜けと、誰かの遺言を自身の心に刻んでいるらしいが、それも長い年月の中でルイがいくつもの情報を集めた結果の予測でしなかった。ミシェルはまったく自分のことを語ろうとしなかった。だからこそ、ルイの教育係なのだろうが。自身への執着を持たないからこそ、彼はアルディ家に留まっているのだから。邪気がないのか無慾であるのか・・・それは誰にもわからなかった。ミシェルのこれまでの経緯から見ると、彼はいつでもその命を奪われてもおかしくない立場であったのだから。
そういう儚い立場を愉しんでいるようにも思えた。

ヒカル・クロスがルイに何か訴える時には、いつも・・・静かに事が鎮まることはない。彼女は自分の非力を承知しているが、彼女が影響を与える人物のことを把握できていないわけではない。
こうして、物事が動いているのだと証明し続けているようなものであった。彼女は何もできないが、彼女は何かに影響を与えることができる。
ヒカル・クロスが泪を見せれば、アルディ家の頂点に立つフランスの華はすべてを動かすことを厭わない。
彼女は、哀しみの源を絶つことが出来ると思っている。
そうではないかもしれないのに・・・。

・・・ルイは春の空気が深まるのをひとり、感じながら定期的に薔薇の苑を歩く。

シャルルが常駐する温室には、四季は存在しない。いつでも、望んだ時に最良の時期を迎えるように調整することができる。・・・しかし、ヒカルが漫ろ歩くのは温室だけではなくアルディ邸の地植えの苑も含まれていた。それら全ての中で、最上とされる状態の薔薇をシャルルに捧げる為に彼女はこの邸を周回する。

 
■ルイ・ドゥ・アルディの場合 15

ヒカルの居ないアルディ邸は、静かであった。彼女が騒がしい人間であったからということではない。どちらかというと彼女は無口な方であるが、更に上回る寡黙な人間がこの邸には多かった。しかし、彼女が居ると、どうにも皆が浮れ立つのだ。率先して彼女に再考の状態の薔薇の報告をしたがり、彼女に季節の料理の作法や味わいを教えたがる。この屋敷にも、四季があるのだと煩く囀る者たちの口を閉じさせることはできなかったし、主はヒカルがそれらに顔を綻ばせて享受する様子を眺めて楽しんでいるようにさえ思えた。
だから、ルイは本邸にはあまり足を運ばない。騒がしく彼の思考を阻む者たちへの罪深さを説いて廻るほど、彼はお人好しではなかったし、人間が好きではなかった。
彼女は、澱んだこの家に風をもたらすのではなく根柢を深く揺るがす存在なのだから。
もう少し成長し、彼女の遺伝情報を解析するための提供意思確認が認められるようになれば、この世の理が大きく覆される。
医療業界だけではない。あらゆる方面から彼女はこの世界の聖母として注目されるのだ。
束の間の静穏であった。けれども、ヒカルを気遣ったものではない。
表面上は静かで穏やかな時間が流れているように見えるだけで、その底面では・・・彼女の知らないところでは、今も激しく情報が錯綜し、ある研究機関などでは密かにタイプHのゲノム解析結果についての追記レポートの提出がアルディ家の出資する研究所に何度も要請されている。この人物が誰なのかということは、誰も興味がなく、遺伝情報を開示しろと騒がしくなってきたので、シャルルはその対応に自ら乗り出すことにしたらしい。だから、いつもアルディ邸にいない。
ヒカルという存在や個に興味がないが、ヒカルだけ持っている、秘めたる大きな変異を皆が欲している。彼女の血族も密かに検査したが、ヒカルだけしか条件に合致しなかった。

間もなく、この世の中は明らむのだ。

永遠の晄という名前の贖罪の娘が放つ電光に誰もが平伏し、疼き、泪を流して奇蹟を望む。
彼女が甘味の強いショコラを創ることを季節の行事にする回数は、あと数回だと限られている。だからこそ、この家の主は彼女の好きなように振る舞わせているのだから。
永遠の晄という名前の娘は永遠にこの家で生き続けることはない。

意味も無いのに、彼は昊を見上げた。
今は、騒がしさはない。あるのは本来の静謐だけであった。

もう、戻らないかもしれない。
ヒカルが予定していた滞在を幾度も延ばしているので、アルディ家の当主はとうとう・・・彼女を呼び戻すように命じた。
周囲は驚いた。
フランスの華が誰かのことについて思うとおりに事が運ばないことについて苛立ち、次の命を投じるのは本当に久しいことであった。しかも、相手はアルディ家の者ではなく単なる滞在人の未成年者であるのだから。

そろそろだな、と思った時には、彼の計測どおりの時間配分で背後から・・・音がした。
走り寄る軽い足取りは、この苑の配置を知り尽くしている者のものであった。

静けさが破られる瞬間というものは、徐々にではなく突然にして訪れる。
彼は整った顔を昊に向けて、最後に一度だけ・・・静けさを含む空気を肺に入れた。
誰も彼に詮索しない、薔薇の香りだけしかしない大気は、あるとき突然に・・終わりを迎える。
それが、この瞬間であるだけだ。
だから、彼はそれに驚愕したり惜しんだりすることはしない。
額に風がかかり、彼の金の髪が絡まり零れて顳顬に戻っていく。

それでも、彼は、振り返らずにいたが、やがて彼の背中に誰かがしがみついて勢いを止めた。彼はまったく動じることもなく、その重みを黙って背で受け止めた。

静寂の時間が終わりを迎えた。
甘い薫りが、ルイの溜息を誘う。それは薔薇の匂いだけではなかった。甘く・・・苦しくなるほどの・・・ルイに苦い笑みを持たせたショコラと同じほどに甘すぎる風だった。
ルイの味蕾にあの時の記憶が甦ってくる。勝負で勝つことは最初から予定であったが、もっと短い時間で勝利することができたのに、彼の用意していた時間より少し延長してしまったあの争覇を今でも屈辱的であったと感じているルイの表情が無になった。

それなのに。彼はその次に、変化を見せる。
「・・・ルイ!」
彼を呼ぶ声に、青灰色の瞳を細めた。
本当に僅かだけ。彼本人ですら、気がつかないほどに。微かに、唇と頬が震えた。
彼の記憶が彼を無にさせるのに、彼女の声が彼を無から引き摺り出すのだ。
見事な金の髪の下で、彼は薄い唇を横に引いた。しかし無言であった。

「今、着いたばかりなの。急にフライトの日時が変更になって・・・」
ルイは冷笑した。「急に」ではない。誰かが、そうするように命じたのだ。その誰かというのはもちろん、忌々しいあの男であることは違えようもない事実なのだろうと確信している。
ルイは振り返り、茶色の髪を見る。走って来たのかそれともそれ以前の問題なのか、彼女の髪は乱れていた。額も汗ばんでいたし、まだ両肩を上下させて乱れた呼吸を整えているところであった。

「連絡できずにいた。ごめんなさい」
「ヒカルが謝る必要がどこにも存在しない」ルイは静かにそう言った。彼の唇が震えていることは、ヒカルには気がつかれないように俯いたままであった。
「特に要用がなければ、連絡は必要ない」
傲慢な娘の言葉をルイはあっさりと切り落とした。彼女に用事が無くても声だけでも、せめて聞きたいと願う人間ばかりで此の世は構成されていると思っているのだろうか。
 
■ルイ・ドゥ・アルディの場合 16

彼女の帰邸は知っていたことであった。ただ、その予定が繰り上がっただけのことである。今回のヒカルの不在は、長かった。当初の滞在期間を幾度か変更している。それも彼女本人が希望していることなのだと代理人を立てて連絡があるものだから、ヒカル・クロスを軟禁していると思ったのだろう。シャルル・ドゥ・アルディがとうとう、動いたから彼女は告知していた日時より前にパリに入った。それが事実であり、それ以上の情報は必要ではなかった。

・・・これから彼女が日本に戻る都度、滞在期間は延長されていくことだろう。
シャルル・ドゥ・アルディがヒカル・クロスを懐柔していると批判めいた発言が横行し、今進めている交渉事が頓挫するとなるといろいろと不都合が生じる。

「わかってる」
「いいや、正確に理解してくれ。・・・オレは君と疑似家族を楽しむ余興を披露するつもりもない」
戻って来たばかりの彼女に辛辣に言葉を戻していく。けれども、ヒカルは徐々に呼吸が落ち着くにつれて、彼の背に手をあて、軽く一度だけ撫でた。軽々しく誰かに触れるような娘は、ルイの清艶な顔の翳りにさえ気がつかないのに、それでも彼に向かって無邪気に微笑む。彼女が居るだけで、大気がざわつくのだ。そう感じるだけかもしれないが、彼は「かもしれない」という曖昧な感覚を事実にはしない。

「君は、いつも突然で計画性がない。そういうものを、ここに持ち込まないでくれ」
彼は冷たくそう言った。頼んだのではない。命令したのだ。そして彼の忠告というものはただの一度しかない。ルイは決して繰り返さないから。次に彼女が同じことをすれば、今度は彼女との関わりを断つ。それが、ルイであった。
ヒカルは暫く、そんな彼の様子を見つめていた。じっと・・・静かに。
それでも、彼女の全身から騒がしい気配が立ち上っている。それは、彼女が心から帰邸を喜んでいるからだ。黙って居ても隠しようのないほど、彼女が昂揚しているからだ。
茶色の双眸の茶色の髪の娘は、戻って来て早々にこの薔薇園にやって来た。シャルルが居ないことを知っているのに。・・・だから、この場所に誰かが居るとしたら、それは星辰の子しかあり得ないと承知しているのに、彼女はそれでも・・・彼のためにやってきた。
「あのね、おいしいショコラの作り方を教わってきたの。だから・・・今度はルイに気に入ってもらえると思う」
怖ず怖ずと、ヒカル・クロスがそう言ったので、ルイはまだむっつりと黙り込んだ。
彼がヒカルの差し出した菓子を、ルイが律儀に口にしたという前提で彼女は話を進めていた。感想も必要としていなかった。ただ、彼女はルイにルイの知らないヒカルの日本での出来事を幾つか報告した。
「いろんなお店を回って・・・いろんな作り方があって、ルイのように糖分摂取のための競技用のショコラの作り方とか・・・教えてもらえる機会があったの」
そこで彼女はふと、真剣な顔をして、ルイを見上げた。
彼はヒカルよりも背が高く、そして彼女と視線を合わせるために自ら体を屈めるようなことはしない。あれから寒さは去り、彼女は最後に見た時より鮮やかな色を纏わせた春の装いであった。それでもここ数日は寒の戻りにより冷え込んでいるので、苑の影に入り込んでしまうと肌寒く、日が暮れると吐息が白くなるほどである。
それでも、確実に、彼女には春が訪れていた。

彼女はルイにそっと囁いた。
「ルイ・・・ごめんね・・・私、不勉強でした」
彼女は、強い芳香の残るショコラをルイに競技用にと捧げたことを謝罪した。ルイは無言だったが、ヒカルは続けた。
「味とか匂いとか・・・集中力を欠くような、そういうものはいけないのだと知って・・・私が一番最初にすることはルイに謝ることと、ショコラを次は失敗しないように創ることだと思った」
そして両手を体の前で組み、恥ずかしそうに俯いた。
「知らないというのは言い訳にならない、とルイが言う本当の意味・・・全部はわからないかもしれないけれども、少しだけわかったような気がするの」
「だから、許して欲しいと?オレに赦しを求めるわけ?」
ルイがぶっきらぼうにそう言ったので、ヒカルはううん、と幼い返事をして首を横に振った。
久しぶりの再会に耽るほどの感慨はなかった。
こうして幾月も顔を合わせないことはよくあったが、彼女はいつもその日のうちに彼に連絡を取るように努めていた。
シャルルとヒカルは本邸で顔を合わせるが、ルイはヒカルが希望して行動しなければ、別棟に籠もったままで居るからだ。そしてルイからヒカルには会いに行くことは、ない。
当主が命じれば渋々従うが、それでも彼はヒカルを家族とは思っていなかったし、同居人とすら認識していなかった。

出発の直前には、日本に行きたくない、と泪を溢して苦悶していた彼女が、晴れやかな顔で戻って来たので・・・彼はそれが気に入らなかったのだ。
帰る場所が幾つも存在する、傲慢な少女に向かって、彼は何かを言っても無駄なのだろうと判断した。・・・彼女が理解できなくても、それでも何かを述べるルイは愚かしい自分自身の行動について分析しようとした。でも、すぐにそれはやめた。彼女が積み重ねた事と、ルイの累積記憶が不一致だったとしても、同じであるよりかはマシであった。自分と同じ人間は存在しない。彼は創られた種であるからだ。ヒカルも同じ過程で生まれたが、その後の成育過程はまるで違っていた。

彼には生きる目的があり、ヒカルは生きる目的を解放することに懸命であった。
「だからね、私にもう一度・・・ルイのためにショコラを創らせて欲しい」
彼女が薔薇園に真っ先にやって来た理由がわかった。ルイに会いに来たのではなく、ショコラに添える薔薇を摘み取りにやってきたのだ。ルイが、周回する時間を知っていたわけではなかった。
・・・彼は一度見た風景を忘れることはないのに、何度も苑を歩くのは、彼が思考に耽っているからではなく・・・もっと、違うものを待っているからなのだと、少しもヒカルは考えないのだ。静けさを求めているのに、静けさが壊れる瞬間を待って・・・彼は幾度も苑を巡り歩くことを、ヒカルは知らない。

 
■ルイ・ドゥ・アルディの場合 17

「二度とあんな品物は作らないように」
ルイはしばらくの間、ヒカルを見つめていた。青灰色の、冷たい色の眼で。
彼がこんなに近くに居るというだけで畏縮してしまう者が多いのに。
ヒカルは彼の顔を見上げる。懐かしそうに、嬉しそうに、恥ずかしそうに。それでいて少しの間の不在によって、彼がどこか変わってしまったのではないのだろうかと確認しているようであった。

彼は変化しない。生まれた時から、変わらない。
容姿は変わるが、魂はそのままであった。
誇り高く、冷淡で、口数が少ないが、生真面目で、曖昧を許さない潔癖さを持っている。

彼は彼女を詰らなかった。そうすれば、あの時の競技中に思考を中断してしまった自分の不満足を露呈してしまうからだ。何事にも用心深い彼が、まったく無防備に口に含んでしまったと認めてしまうから。多くは言わなかった。

そして彼は言葉が少なく会話を楽しむ方では無かった。だから人から誤解されることもあるし、理由はきちんと存在していて、彼の知能指数が高すぎるからだと理解があっても彼そのものの苦悩は誰にも理解することができなかったから、ルイは当主以上に人間が嫌いであった。誰かに凭れたり縋ったりすることがなければ生きていけない者ではない。少なくとも、自分自身は己のことをそう思っていた。
それなのに、目の前の娘は、どうなのだろう。
誰かに何かを捧げることで、感謝されることを求め、そして勝手に自分の都合で押し付けていく品に対して、今度は改良するからまた口にしてくれと言い出す。

何もできないのに、何かをしようとする。

この違いはどこから来るのか。彼女も、ある程度は操作されて生まれて来たはずなのに、どこもかしこも凡庸で、人より秀でたものと言えばこの邸で学んだ教養と言語という名前の習慣だけであった。集中力が散漫で、何か意見を言うこともない。微笑んで居るだけの愛翫されることに慣れきってしまった考えることを放棄した動物をどうして・・・家族と認める事が出来るのだろうか。そもそも、彼には家族は存在しない。戸籍上及び遺伝学上の父と母は存在するが。家族という曖昧な定義を彼の中で固定化することはなかった。

遺伝子配列が共通している者を、家族と呼ぶのか。
長い時間を共有している者を、家族と呼ぶのか。
居所を同じくしている者を、家族と呼ぶのか。

誰も・・・誰も、彼の問いには答えない。

彼の返答に、ヒカル・クロスはぱっと顔を輝かせた。僅かな時間であったのに、彼女はあれほど萎れた蕾であったのに・・・・今は、勢いよく咲く種の華のように、満面の笑みを浮かべていた。
「次は・・・もう少し、上手になりたい」
「よしてくれ。君のショコラは年に一度口にするきりで、回数を増やすつもりはない」
その言葉を聞いて、ヒカルが驚いたように眼を見開いた。彼女はいつも、驚いてばかりいる。そして、泣いてばかりいる。誰かの目の前では泣かないのに、ルイの前ではその痕跡を残していく。彼女はいつも・・・歎いてばかりいる。

ヒカルが驚いたのは、ルイが来年もヒカルからのショコラを受け取ると約束したからだ。
とても理解しにくいが、長年一緒に過ごしてきたヒカルには、それが譲歩の言葉だとわかった。年に一度しか口にしない、とは・・・年に一度は口にする、と言ったのだ。
それまで、ルイのことを考え、彼の行動を研究し、常に円熟への努力を怠るな、とルイがコメントしたので、ヒカルはそれに驚いたのだ。
「ルイ・・・」
「オレには競技用のトレーナーも栄養士も専属の者が居る。・・・彼らを黙らせることが出来るくらいのものでなければ受け取らない」

彼は素っ気なくそう言った。甘みの強すぎるものではなく、即効性のあるものでありながら体調に影響しないで、指先が汚れることのない品というものは相当に手の込んだものでなければならない。それに、美的感覚の敏感なルイには丸薬のような飾り気のないものは受け付けないと常々、彼は言っている。
だから、ヒカルが彼の基準に合致したものを揃えるとは、考えられなかった。

しかし、ヒカルは何度も深く頷いた。
「来年かもしれないし、再来年かもしれないけれども・・・でも、途中であきらめたりしないから、待っていてくれる?」
「それはオレの把握するべき部分ではない」
「そうだった。それなら、急ぐ」
ヒカルの言葉に、ルイは嘲ら笑う。
「急いだために未完成品になるくらいなら・・・最初から諦めろ」
彼女はルイの言葉に淡く笑った。彼の言葉の隅々までを彼女の中で咀嚼しても、なお、彼は冷たかった。でも、彼女に忠告する唯一の人であった。まだ・・幼すぎて、彼女はその先にある彼の激しさや渇望に気がつかなかったけれど。

「はい。・・・いつか、きっと・・・ルイの気に入るショコラを作ってみたいと思う」
それでも、彼女はルイが受け取ったのだと知り、そして批評を加えたので嬉しさのあまり破顔した。そして、彼女の周囲の空気はまた・・・間もなく訪れる春の息吹のように跳躍するのだ。

ルイは無表情にその様子を眺めていた。
彼女が無駄に昂揚しているからだ。

・・・おそらく、戻ることそのものにも、何か言われてきたのだろう。
彼女の本来の国籍は日本国であり、ここにいる理由は何一つないのだ。
高名な心理学者でもあり医師でもあるシャルル・ドゥ・アルディが、両親から隔絶された幼子の研究をするために引き取った、とでも思っていたのだろうか。
どちらにしても、クロス・グループにはその瞬間には不必要であった存在のヒカルを、今になって引き取りたいと言ってきている。

クロス・グループからの申し入れがそれだけではなく、更に渋いものであったというのは、ルイも把握している事実であった。取り扱う分野によっては、ルイの意見が求められることがあったが、彼はまだ成人前であったので教育係であり彼の代理人でもあるミシェルが間に立っていると言う。普段は、ミシェルはまったく表舞台に出てこない。シャルルと似た容姿と、一時世間を騒がせたことによる謹慎が解けていないからだ。謹慎の期間は永久であると彼も承知しているのに、それでもアルディ姓を捨てることはなかった。彼の能力を搾取しているだけであると、叔父である教育係は知っているのに、それでもここにとどまることにしている。
まるで、何かを待っているかのように・・・・

しかし、互いに互いの家の事情についての情報を交換することはなかった。彼には必要としていないからだ。
ヒカルが何を感じ、何を見聞きしてきたのかはルイには必要ではないと考えていた。
逆に、彼女の知らないところで繰り広げられている覇権争いについての動向を知る必要があるとは考えていたが。
 
■ルイ・ドゥ・アルディの場合 18

それでも・・こんな風にして、互いの愁いについて語りあうのではなく、彼女はごく普通の凡庸な少女の会話をルイに投げかける。
それが、彼女にできることであったから。そう信じているようであった。
ヒカルは、何もかもを詳しく話すことが、信頼の証ではないのだと考えている。
逆に言えば、聞きたくないことには耳を塞ぐ傾向にあるのだが、そんな彼女の気質をヒカルの父にとてもよく似ていると言ってシャルルはまたヒカルを更にいっそう深く愛するのだ。
ヒカルが何をしても、ヒカルの両親に行き着くことしかしない愚かな当主を打ち砕くために、彼は生まれて来たというのに。結局は自分の定めたファム・ファタルではないことを確認するのが怖くて・・・ヒカルを通り越して、彼女本来の姿を見ようとしない当主はヒカルととてもよく似ていると思った。
そうなると、遺伝子が人を弱くさせるのではなく、どんなに優性であっても劣化するということなのか。
ルイはそういう考え方しかしない。単なる観察対象でしかないヒカル・クロスの帰りを待ち望んだりしないのだ。

しかし、時折彼女はこうして誰も理解しない彼の冷淡な言葉について共感することがあった。言葉で聞くのではなく、もっと別の感覚でもって彼女は彼の傍に近寄っていく。

彼女は。
簡単に。
いつか、という言葉を口にする。
過去を断ち切れないから、未来に逃げようとする。現実を見ようとしない。

「ルイ、今日は・・・ルイの試合の様子を、聞かせて欲しいの。だから、ディナーを一緒に・・」
「断る」
ヒカルの言葉が終わらないうちに、彼は即答した。こうして時間を共有することで、馴れ合うつもりはない。それに、彼女が日本で何をどうして過ごしていたのか、アルディ家には定期的に報告が入ることになっている。だから、必要ないのだ。
ヒカルの表情に翳りが走った。
「君には、シャルルが居れば十分だろう。欲深になるということの代償をよく考えろよ」
ルイは彼女には必要ではない。ルイは彼女を必要としているのに。
・・・これから彼がこの家に君臨するためには、彼女は必要であった。同時に、精神面で脆い当主を追いつめる最上の道具でしかないヒカルは、彼をいらないと言って、こうして・・・置いて行く。
彼女の事を愛翫動物だと言ったが、本当はルイこそがこの家の観賞用動物ではないのかと思う時がある。しかし、それは誰にも感じさせないほど僅かな瞬間の物思いであった。

すると、彼女はまた、彼のパルス変調を受け取ったように、顔を上げて・・不思議そうに、茶色の瞳を丸くした。彼は何も言っていないのに、言葉の狭間を読み取ったように、そっと呟いた。

「・・・ルイは必要だよ・・・ルイは、私にはたったひとりだよ・・・」

その言葉に、彼は押し黙った。こうして近くで見つめ合っていても、ふたりの距離は遠かった。彼の容姿は、シャルルにとてもよく似ている。若い頃の彼にとても似ている。けれどもその魂はまったく別の者であり、彼が渇望しているものはシャルルとは違っている・・・・・
ヒカルの瞳がゆっくりと瞬いて、そしてルイを見上げている。
幼い言葉しか発することのできない少女は、まだ大人になっていなかった。彼はもう、年老いてしまったというのに。彼の肉体は若かったが、魂は何十年も生きているのと同じだけの疲れや苦悶を纏っていた。
しかし、ルイが通り過ぎてしまった時代を生きているからヒカルが輝いているのではなかった。ルイはその時代を、知らないのだ。
生きているということを殃禍と捉えているから。ヒカルは、生きていることによって、再び両親に逢えると固く信じている。生きているからこそ、来年があり次があり・・・いつか、ルイと彼女が理解し合って世間一般のきょうだいのような関係になることを祈っている。

「ルイ。私が必要だと思うルイ・ドゥ・アルディは・・・ひとりだけよ」
彼女が至極当然のことのように、そう言った。
「戻る。ヒカルは好きなだけここに居れば良い」
彼はそれ以上、彼女と話をしないことに決めた。
端整な貌を背けると、今度は・・・彼が彼女に背を向ける。最初に背を向けたのは、彼女であった。自分の表情を見てはいけない、と彼を拒絶したのは、ヒカルが最初なのだから。彼も同じ様に、彼女を拒んだとしてもヒカルにはそれを非難する権利はなかった。

周回する理由はなかったのに、彼は薔薇の苑を巡り歩いた。ヒカルが戻る日にちを知っていたのに、それでも彼女が日々気にしていた薔薇を眺め、枯れていく様を観察するだけであった。そうだ。自分は見ているだけである。何かを施してやるつもりはなかった。ヒカルがシャルルのために蕾を丹念に確認していることを知っていたから。
それらが全て朽ちていくのを見て、その都度ヒカルの溜息を想像しては心の中で嘲笑っていた。

それなのに。彼女は、薔薇を確認しにきただけであるのに、ルイ・ドゥ・アルディに向かって傲慢に言うのだ。
薔薇にも眼を向けずに、必要なのは・・・たったひとりはルイだけだ、と。
それがシャルルの定めたファム・ファタルとは違う意味であることも、ルイは理解していた。ヒカル・クロスの中では誰もがかけがえのないたったひとりなのだ。
命は、ひとつしかなくて、命は誰のものも尊いものだと信じているから。
それなら。
彼の命は、どうなのだろうか。
作られて・・・この薔薇の苑に咲き乱れる、薔薇とルイとは同じなのか。
この季節には華を咲かせないような種が改良されてこの時期に命を咲かせるよう強制されている。彼の生は彼が決めることができないのか。最初は、そうして生まれて来たかもしれないが、ルイは薔薇ではなかった。薔薇の主になることを望まれて生まれて来たが、彼はこんな風に、誰にも見てもらえないで枯れて朽ちていく数多の花々と自分を同一にするつもりはなかった。

「・・・それはオレに対する挑戦か?」
彼が嘲ら笑ったので、ヒカルは首を横に振った。
足元を見る。顔を俯ける。
そうではない、と言おうとしたが、顔を上げた時には・・・もう、その時にはルイは彼女から離れて、歩き始めようとしていた。
「ルイ」
彼女が、彼を呼ぶ声と、彼の腕にヒカルがしがみつくのは同時であった。彼の肘に彼女の腕が回り・・・あからさまに不愉快な顔をしたルイは、軽く腕を振ってヒカルを払おうとしたが、彼女はそれでもルイにしがみついたままであった。
「・・・何だよ。余興なら、余所でやれ」
彼女の真意が掴めずに、彼は金の髪の下から、冷たい視線を向けた。彼の美貌は冴え冴えとしているが、怒気を含むと目元が少しだけ赤らむ。
だから、滅多なことでは彼は感情を起伏させないようにしている。
・・・今、彼の目元は僅かに赤かった。
「今、ルイが消えてしまいそうに思えたの」
「随分な理由だな」
彼は軽く嘲笑した。つかまえていないと消えてしまうのは、ヒカルの方なのに。
彼女は自分の胸に、彼の腕を包んだ。真新しい春の服を通して、彼女の温度がルイに伝わる。羞恥というものを知らない少女は自分の身体を押し当てて、ヒカルという存在を誇張する。
しかし、ヒカルの顔は真剣であった。先ほどよりももっと近くにあるルイが、ルイ・ドゥ・アルディであることを確認するかのように・・・ぎゅっと強く腕に力をこめた。
苦しそうに、ヒカルは・・・ルイにしがみついた。
「ショコラをまた作る。今度は、試合を見に行っても良い?研究しないといけないから・・・」
「・・・添える薔薇とショコラが混ざらない香味を研究しろよ」
「はい」
彼の忠告は的確であった。ヒカルが選ぼうとして彷徨っていた薔薇は、香気が強くかつすぐに萎れてしまうので、シャルルの寝起きを促す薔薇としては適しているが、食する贈答品に添えるには相応しくない、とルイが教えたのだ。ヒカルはそれに頷いた。

彼女は少し震えながら、彼の腕から伝わる温度に眼を細めた。ルイだ、と何度も呟いていた。強引に振り払うこともできたが、ルイはヒカルを黙って添わせたままであった。

あの時。
・・・彼が思考を止めたのは、味付けの問題ではなく・・・ヒカルを一瞬思い出したからだ、とは教えてやるつもりはなかった。彼女が涙を流しながら、薔薇を探す素振りでルイに背中を向けたあの日の薔薇の芳香と相まって、彼女の香りがしたからだ。
彼の進行する思考より、記憶が彼を支配したからだ。たとえそれが刹那の瞬であったとしても。

星々を遵える彼が・・・永遠の晄の気配に気を向けたと認めるつもりはない。

「邪魔はするなよ」
彼がそう言ったので、ヒカルは顔を上げて、はい、と言った。
彼女の瞳は少し潤んでいた。

彼は、ヒカルによく戻って来たとは言わない。
ルイはヒカルの帰邸を歓迎しているわけではない。でも・・・彼女の捧げるショコラを口にし、来年はもっと上達するようにと言う。来年は、ないかもしれないのに。これから徐々に、アルディ邸に戻れない時間が長くなることはヒカルも承知していた。でも、彼は季節の行事でしかないこの出来事を忘れないでいてくれる、と言ったに等しいのだ。誰かと約束することはしない人物であるのに。
それが、彼の利害に影響するから述べている言葉だとしても、それでも良かった。彼女には、ルイの言葉が必要であった。この場所で生きていく理由が必要だった。来年のショコラを作るまで、彼女はもう少し・・・ここに居られるのだ。

「ヒカル。次のフェンシングの試合に障る」
彼女は彼の肘にかなり寄りかかっていることに気がつき、慌てて身体を起こした。・・・彼は成長はまだ止まっておらず、試合に向けて肘や手首などの関節の調整を気にしているのだということを思い出した。僅かな怠惰も許さない。ルイの配慮は完璧であった。
しかし、離れがたい気持ちがあった。なぜなのだろう。これほど嬉しいことはないはずなのに。ルイから、思いもかけない言葉を貰った。彼女の一方的な贈答品の返礼の品であるかのように、彼はかなり・・・ヒカルに譲歩しているようだ。
「もう少し・・・本邸に行くまで、このままでは駄目?」
彼がいつものように、貶みの溜息をついた。
けれども、歩き始めたルイの歩調が、ヒカルに合せたものであることを知り、彼女はぎゅっと眼を瞑った。

ルイはヒカルのそんな様子を見て・・・彼女が俯いたままでいるので好都合だ、と思った。
彼は怒りを孕むと目元を僅かに朱に染めるが、何かに集中し・・・たとえば勝利を確信し喜ばしい事を迎える瞬間にも、同じように体の変化を感じる時があった。

そう。彼は確かに・・・この状況に平静でいられない自分を感じていた。

彼女がいつまでも彼から離れようとしないので、ルイはゆっくりと歩きながら、離れようとしない彼女の茶色の髪に向かって囁いた。
離れろ、と言っても彼女は従わないだろう。

ルイはいつも贈られたものには手をつけない。それなのに・・・彼女が届けたショコラだけは、彼は口にした。これがどういうことなのか・・・彼女は思い知る必要があると思った。
仕掛けてきたのは、ヒカルの方からだ。
ゆっくりと、最も効果的になるように、彼女の耳元に唇を近付ける。

「・・・それとも、挑発?」

その視線は彼がこれまでヒカルに見せたことがないほどに艶やかなものであったが、彼女は俯いていたので、彼の表情を知らないままに、小さな悲鳴をあげて彼の体から自分の腕を離した。
彼は苦笑しながら、歩く速度を上げた。すぐ斜め後ろから、小走りに彼に遵う足音を聞きながら・・・気が向いたので、少し遠回りをして歩くことにした。

春の訪れは、すぐそこであった。薔薇の匂いがまた変化していた。
そして・・・アルディ邸には、束の間の静けさが去り、入れ違うようにして華やぎがやって来た。

・・・・生命の溢れる永遠の晄がやって来た。

ルイ、待って、というヒカルの困惑した声だけが、薔薇の苑に響き渡っていた。

(FIN)



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