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夢寐にて春夢



夢寐:むび。夢を見ている間。もしくは儚い瞬間の例え。

春夢:極めて儚く消える事の例え。短い春の夜に見る夢の意から。


ヒカル・クロスが、アルディ邸から姿を消した。

ルイ・ドゥ・アルディが外出から戻って、別棟に戻ろうとしていたときのことだった。

館の使用人達が、表情を厳しくして歩き回っている姿を見て、ルイは柳眉を僅かに顰めた。

この家の使用人達は皆、静かに行動することを義務づけられている。

この館の主が、騒がしいことを好まないからだ。

元々が気むずかしい性質であったのに加えて、最近迎えた「騒がしい存在」の気配が消えてしまうので、その存在以外は静かに気配を圧殺して過ごせと言われている。

ヒカルよりずっと近い存在であるはずのルイでさえも例外ではなかった。


だから彼はますます別邸に籠もるようになり、今日も、外出先からそのまま本邸に顔も出さずに戻ろうとしている矢先に、この場面に遭遇したのだ。


今日は、教育係のジルも、当主のシャルルも不在にしている日だった。

ルイはまだ許可されていないので出席できないのだが、彼らは親族会に出席している。

彼の教育係であるミシェルからは逐一報告を受けてはいたが、それでも・・・自分はまだ、シャルルの後継として遠く及ばないと宣言されているようで、気鬱になった。

出席して発言をするに経験が足りないとされているが、彼の生活年齢は影響していない。


ルイは彼の父と同じように、年齢を越えてこの国の教育システムを凌駕した。

方々に短期で留学することはあったが、在学期間中にすべてやるべき論文は提出してしまい、さっさと帰国してしまう。

出席日数や単位取得といった、平々凡々な学生が頭を悩ませる問題は、彼には影響しなかった。

どこか・・・生き急ぐというか時間を進めたがる様子を、彼の教育係であり叔父であるミシェルが冷笑したことがあった。

「時間に急ぐ者は時間に取り残される」

その笑みは美しく、ルイに非常に良く似ていたが、どこか、ミシェル自身への嘲りにも似ていた。


いつもなら優雅に・・決して複数人が廊下をすれ違わないように使用人のシフトが細かく組まれたアルディ邸が、騒がしかった。

別棟への渡り廊下を歩く年配の使用人に、彼は声をかけた。

そして、ヒカル・クロスが寝室から姿を消したという事態を知った。


どこまでも苛つく存在だ。


彼は舌打ちをした。


ルイに監督責任があるわけではないが、彼と彼女だけしかこの館にいなければ、必然的にルイの指導不足を疑われるのは必至だった。

シャルルはそういったところは厳しい。

ルイがこの家のことで把握している事実に対して、何も対処しなかったと聞いたら、また・・・親族会への出席許可が延期されてしまう。


おそらく、今日の親族会は深夜にまで及ぶことだろう。

ヒカル・クロスの処遇と・・・これからのアルディ家の運営指針について議事が挙がっていたのは知っていた。

その間、ルイが知らぬ存ぜぬで、シャルルが唯一愛でる永遠の晄を、誘拐や事故などで損なうことをしたら、彼は・・・ルイの存在を一瞬で滅するだろう。


まだ、その時期ではなかった。

ルイが反撃をする時期ではなかった。


やれやれ。


彼は大袈裟に溜め息をついた。


「わかった。僕も探そう」

彼がそう言ったので、年配の使用人はあからさまに安堵の表情を浮かべた。


行け、と言って、彼はひとりになった。


そうは言っても、この家には監視カメラや赤外線スコープが網羅されているから、監視棟にでも行って、過去1時間以内の記録ビデオを眺めれば、彼女の居所はたちどころにわかってしまうだろう。


青灰色の瞳を、物憂げに薔薇園の向こう側の庭園に遣った。

外は春の陽気で・・・風に乗って、桜の花弁が渡り廊下にいくつか落ちていた。


彼は桜があまり好きではない。


桜を国花とする国の人を、運命の人と定めて、未だに愛し続ける彼の父を理解したくないから。

桜の国からやってきた、愛玩人形としか言い様のない、無邪気で無垢な存在であることだけしか取り柄のない・・・永遠の晄という名前の幼女の存在を認めたくないから。


親日家で有名なこの一族の一員であるから、日本文化への知識は習得したが・・・しかしその知識はそれ以上でもそれ以下でもなかった。

単なる事実確認だった。


彼にとっては。


第二のふるさとだと言って桜の国を懐かしむシャルルは単に・・・廃れゆく薔薇の種が、同じばら科の植物を恋しがっているだけだとしか思えなかった。


桜になれるわけでもないのに。


彼はひとり、冷笑した。


ルイは夜になり、とうにヒカルが就寝する時間であるのに戻ってこないという事実を把握すると、行き先を変更した。

渡り廊下からはずれて、薔薇園に通じる中庭に出た。

外に出るときに硝子扉を通ったが、その時に夜風が彼にあたり、見事な金髪が後ろに凪いだ。


彼は星辰の子と呼ばれている。

今、アルディ邸から見える夜空のように、彼の周りに星々が集うという称賛が込められている。

誰も集わないのに。

彼を中心としては昊(そら)は回らないのに。


・・・まだ、その時ではない。


彼は自分に言い聞かせた。


募る孤独はいつか快美な慨嘆になるだろう。


それで、良い。


自分は新たな種になるのだから。


ヒカル・クロスの居る場所は想像がついた。

今は桜の季節で、昨日の晩餐の際に、桜の満開時期はまだか、としきりにシャルルに言っていたのを記憶していたから。

それにルイが面倒くさそうに、明日には満開になり、そして夜には風が強く吹く気圧配置だから、散ってしまうだろう、と無情に告げたことを思い返した。


これほどまでに使用人が探索しているのに、誰も気がつかない場所といったら限られていた。

「それ」は、彼の住まう別棟からほど近い、小さな小高い丘に植わっている桜の傍に居ると推測した。


アルディ邸で咲き乱れる、桜の古木に彼は辿り着いた。

彼女がそこに居るのはすぐにわかった。

小高い丘を登り切る前から・・・僅かではあるけれど、風に乗って、こどもがすすり泣く声が聞こえたのである。

木の幹の、ちょうどくぼんだ場所に彼女は居た。

監視カメラが届かない死角だったので、誰も気がつかなかったらしい。

今度からは集音マイクも設置しなければならない、とルイは内心考えていた。



幼女がすすり泣くというのは非常に興味深い、とルイは思った。

ヒカルは幼いが、なかなか涙を流さないこどもだと聞いていた。

彼もヒカルを幼いこどもと言うには憚られる年齢であり、彼女と年齢が近いのに。

ルイは、ヒカルの涙声が、とても・・・とても異質なものに思えた。

まるで実験動物の仔猫のような、そんな啼き声だった。


「ヒカル・クロス」

彼は無表情に静かに声をかけた。

啼き声が止んだ。


外出後に着替えも湯浴みもしていない。

非常に・・ルイ・ドゥ・アルディは不機嫌だった。


どうしてこんなに大きな啼き声が、彼らには届かないのだろう。

ここに居ると、ルイはすぐさまわかったのに。

ヒカルを彼より長い時間見つめ続けて居る、ルイよりヒカルをよく知っているはずの、使用人達に少しだけ苛ついた。


「・・・・シャルルが居ないときに、こうしてオレを困らせる貴女を、ここで蹴り殺しても良いのであれば、そのままそこで泣いていると良いよ」

彼はそう言った。

ゆっくり、丁寧に言ったから、彼女には理解できただろう。

息を大きく吸って、しゃくり上げる呼吸音が聞こえてくる。


「シャルルには言っちゃだめ」

幼い、舌足らずな声が戻って来た。


ルイは彼の細い腰に手を当てた。

桜の木の幹の下で、密かに泣き濡れるこどもに言ってやった。


「オレは暇じゃない。この丘まで昇ってきたヒカルの気力は褒めて遣っても良いが、このまま、ここで親を焦がれて泣くヒカルが、凍死しても、オレは責められる。

ヒカルが何をしても、その失態はオレに責がかかるのだから・・・大人しく本邸に戻れ」

彼は強い口調でそう言った。


彼女の姿はこちら側からは見えない。でも、きっと、ひどく・・涙で頬を濡らしていることだろう。

桜の花弁が狂ったように落ちては積もるそんな櫻の陵で。

ひとり、ヒカルは涙を流していた。


彼女の両親が航空機事故で行方がわからなくなったのは、春が終わって夏の時期だった。

彼女が思い起こすことができる、両親との最後の記憶は、春の桜の季節だったのかもしれない。

夏の記憶はまだ辛すぎるのかもしれない。

「天使さんが迎えに来た」

彼女は言った。


ルイは苦笑した。

彼は天使などではない。

ヒカルと・・ヒカルを愛でるシャルルがどこまでも堕ちて地獄の業火に灼かれれば良いと思う、死の天使であるのに。


桜の花弁が、彼の肩にも落ちた。

半透明の・・・薄い色あいの花が散っては落ちる。

落ちては・・・命を捧げるかのように風に舞ってまた落ちる。


ざわめきが・・・葉のざわめきが、彼とヒカルを包んだ。

見上げれば、辺りは紅色の天井だった。


「おとうさん・・おかあさん・・・はやく・・・はやくあいたい」

彼女は言った。

彼女は繰り返しそう言った。

声だけの存在は、酷く頼りなさそうだった。


彼を天使と言ったのに。

彼の姿をまだ見ていないのに。


声音だけで、ヒカルはルイを天使だと言った。


彼は少し息を顰めて、意識して気配を殺した。

ルイの所作は普段非常に静かであるので、気配がほとんど感じられないはずなのに。

彼は、あえて、自分の気配を押さえて、ヒカルを探し当てた。


そうしないと、小さな生きものの息吹が感じられないほど・・・桜が狂い落ちしているから。


そこで、ルイはようやく木の幹を回り込んで、シャルルがこよなく愛でる小さな晄に行き会った。

彼女は・・・小さく蹲って、震えていた。


夜露にあたって、小さな躰を鳴動させていた。

薔薇色の頬は青白くなって冷え切っていた。

そして・・・涙が浮かんでは消えて、彼女の頬から顎を伝って・・・座り込んでいる地面に墜ちて、土の色を濃くさせていた。

そんなヒカルの上に・・・浄化の花弁が次から次へと落ちて、彼女の躰は桜の花弁に包まれていた。


動きたくても、寒さで動けなくなったらしい。

そして、薄暗くなって・・・彼女は小さいので、桜の発光だけしか見えないから。

誰に教えられたのだろうか。

「わからなくなったら動くな」という教え通りに、彼女はその場に立ち竦んでいたのだと知った。


「こんな場所で隠れていて、誰かが見つけてくれると思い上がっていたのかな」

ルイは意地悪く言った。

彼女にわかるように、一句一句短くゆっくり言ってやった。


ヒカルが、また、涙を落とした。


「天使さん。ヒカルを・・・連れていってください」

「どこへ?」

天使と呼ばれた星辰の子は、彼女の前に立って、青灰色の瞳で冷たく見下ろし、意地悪く言った。

木の幹で小さく蹲っていたヒカルは、彼を見上げた。天使さんだ、ともう一度言った。


「しゃ・・・シャルルや、みんなの困らないところ」

「そこはどこ?」

ルイは見下ろしたまま、小さな生きものに尋ね返した。


柔らかな茶色のくせの強い髪に、茶色の瞳をした小さな人は、彼を見上げて、一生懸命という言葉に相応しい願い事を言った。

「ピンクの花が咲くと。おかあさんは願いごとが かなうって言ったから。・・・ヒカルはぴんくの花が咲いたら。おねがいしようとおもっていた」

「だから、なにを?」

彼女は青ざめた顔で言った。

「黄色の髪の天使さんが、笑ってくれますように」

ヒカルはそこで、黄色の髪の天使に微笑んだ。

「いつも泣いているから。だからおかあさんとおとうさんに御願いしたの」

「泣いていたのに、都合の良いことを言うね」

彼は嘲笑した。

でも、腰を下ろして・・・今度は、見下ろさずに、彼女に顔を近くして言った。


なぜなのだろう。

彼女を見下ろすことには問題がなかったはずだ。

それなのに・・・膝を落として、ヒカルと距離を詰めてしまった。

ルイは自分の意図しない行動に驚愕していた。


ヒカル・クロスがそうさせたとは思って居ない。

ルイの行動を支配するのはルイ・ドゥ・アルディだけである。

それなのに。


自分が・・・そう動いてしまったことに驚愕していた。

ヒカルの言葉や態度の何に・・・彼が反応したのか、分析仕切れていなかった。


「黄色の天使さんは・・・いつも泣いているから。れもん色の天使さんより泣いているから。だから・・・だから、お祈りしていたの」

そうしたら、きいろの天使が来た、と彼女は言った。


自分のことを言われているとわかった。


白金の髪のシャルルをレモン色の天使と呼び、ヒカルは・・・・

黄色の天使と言って、黄金髪のルイ・ドゥ・アルディを天使と呼んだ。


彼はぎゅっと唇を結んだ。

拳を握って・・・・目の前の小さな天使に囁いた。


「ヒカルの天使が怒るから。帰ろう」

帰る・・・


ヒカルに帰るところはない。

彼女はシャルルが引き取ることにより、祖国を捨てる結果になり・・・・そしてシャルルは彼女を望んで・・・自分は今、こうしてヒカル・クロスの存在を疎んじている。


ルイにも帰る場所がない。

ルイには帰る路がない。


それなのに。

彼は、ヒカルに手を伸ばした。



そうしなければ、このままここで泣き崩れるヒカルが失調するのは、明らかだった。

それを知っていながら、ルイが放置したことをシャルルは赦さない。

ルイは虚偽の申告はできなかった。


偽りの空間で生まれたからこそ。

自分は偽ることはできないと思っていた。


だからこそ。


この・・・目の前の小さな異邦人が、彼のこれからを左右する重要な人物であることも理解していたし、そして彼自身が・・・冷淡に扱うことができないことも、わかっていた。

シャルル・ドゥ・アルディが、どうして、愛でる存在をひとりと定めるのかも、理由は知っていた。

彼の愛は、狂っているから。


ひとりの人と定めて、それを定めてしまったら、どんな理由でも、そのひとりだけを見つめ続けるから。

ルイの「たったひとり」は、まだ存在しない。


彼の教育係である叔父も、彼の遺伝学上の父である一族の当主も・・彼を滅ぼすことができない。


彼は。


彼を滅することができる、たったひとりを求めている。



「ヒカル。花見は終わりだ。帰る」

帰ろう、とは言わなかった。

帰ると言って・・・・ルイは、まだ少年の華奢な腕を伸ばして、ヒカルを抱え上げた。

フェンシングと乗馬で鍛えているはずなのに、ヒカルの重みを感じて、青灰色の瞳を少しだけ細めた。



「ヒカル。・・・貴女はもう少し思慮深くあってくれよ」

「てんしさんがむかえにきた」

ヒカルはそう言って微笑んだ。

ルイの言葉は理解できていなかった。

彼女は・・まだ幼すぎた。


この、桜の夜の記憶は忘れてしまうのだろう。

シャルルと一緒に過ごす記憶の波に埋もれてしまうのだろう。



それでも。


ルイは、彼女を抱き上げながら、言った。


「記憶に刻め、ヒカル。僕は・・・オレは貴女を・・・・・貴女を業火に灼くであろうから。オレは天使ではない。ヒカルを楽園から連れ出すから、そのつもりで」


天使さん、と言って、ヒカルは微笑んだ。

この幼い来訪者は、ルイとシャルルを判別出来ているのだろうか。


そして・・・シャルルが決して、ヒカルを愛さないであろうと苦悶することも・・

ルイが彼女に拘ることも、小さな晄はわかっているようだった。



春の夜桜の・・・・散り落ちるアルディ邸の中で。

ヒカルは、体温を求めるかのように、ルイに抱きついた。

「あったかい・・・てんしさんはあたたかい」

そう言った。

ルイは唇の端を持ち上げて、笑った。

彼女の小さな躰を抱き上げた。

「シャルル・・・オレはシャルルからすべてを奪う。

この晄も貰い受けよう」


ルイはそう言って・・・桜の花の降りしきる古木の下で、永遠の晄を抱き受けながら、そう誓った。

上を見上げて、落ちる花弁に抗いながら、そう言った。


「シャルルの苦悶が欲しい。この・・・桜の様な命の煌めきを持つ人の魂が欲しい。

その時こそ・・・薔薇の一族であるのに桜に惑う貴方を打ち倒すことができる」


ルイはそう言って、冷たく微笑んだ。



何か・・彼の中で、大きく蠢く気配を感じた。


(FIN)




白雨 Louis

■01


彼が部屋に入ると、突然の俄雨が、大きく張り出したルイ・ドゥ・アルディのセーフハウスの上の屋根を激しく打つ音が彼の鼓膜を刺激した。

ルイ・ドゥ・アルディは部屋に入るなり、開け放されたバルコニーの窓から漏れる湿った風に、妖麗な顔を僅かに曇らせた。

彼は以前に、不幸な事故に遭遇し、鼓膜損傷や肋骨骨折や・・・多くの損傷箇所について数え上げればきりがないほどの箇所に致命的とも言えるような損傷を受け、そして完治したとされる今でも・・・気圧や気温の僅かな変化に対して敏感に反応するほどに創痍を十二分に身に受けた過去がある。

それらについて解決したのは、彼のファム・ファタルとでも言うべき、ある希なる人からの細胞提供によるものだったのだが、彼はそれに関してはコメントすることは差し控えていた。

もともと寡黙な人物であったが、あの事故以来、ますます無口になった。

それは彼が話す必要がなくなったからだ。


・・・彼の高い知能では、同じ速度で思考する人物は限られている。


しかしそれを凌駕してなお、誰かと言葉を越えて・・・彼ではない誰かと共に過ごすことについて意味と理由を見いだした彼は、その時から・・・これまでの籬(まがき)から解放された。


あの墜落事故があった場所からそれほど遠くない、あの海の見える高台の上に、彼のセーフハウスはそびえ立つ。

広大な敷地を持つ。

彼の生家でもあるパリ16区のアルディ邸に匹敵する広さだ。

それでいて、どこか・・・日本の邸宅を思わせるような瀟灑な造りであった。

親日家で有名なアルディ家当主の息子として長らく生きてきたルイが自ら設計した。

大変にあの国の影響を受けている設計だった。

それでいて、幾重にも張り巡らされたセキュリティを越えていかなければ、中央には到達できない。

そして彼の永遠の恋人を彼が招き入れるために、恋人の生国の雰囲気に近いものにした、というのがもっぱらの噂だった。


ルイは部屋に入ると、オートロックであり完全に遮音される扉がかちりと小さな音を立てて施錠されることを知ると、腕に嵌めていた時計を無造作に外して近くのテーブルに放り投げた。


今はもう、アルディ邸にはほとんど戻っていない。


暗く陰惨たつあの家で、唯一光り輝く・・・たいまつにも似た人を連れ出してしまったのは、他ならないルイ・ドゥ・アルディだった。


彼は見事な金髪を持つので、星辰の子と呼ばれている。

そして、彼のファム・ファタルは永遠の晄という名前を持つ。


星と光が邂逅するとき・・・そこには一体、何が生まれて何が滅するのだろうか。


彼はざわめく音を伴って、激しく降り落ちる滴雨に眉を顰めた。

湿気を伴う風が、彼の居室に吹き込んでくる。

居室、と言っても、ほとんど使用しなかった。

彼はいつもめまぐるしく様々な場所を移動している。

だから、この広い敷地で過ごす人物は限られている。

ルイ・ドゥ・アルディと・・・彼が連れ添う彼の恋人だけであった。

しかし彼らは長い時間を共に過ごしていた。

生活様式も、ルイの気難しい習慣も何もかも心得た異国情緒溢れる人は、いつも自然にそこがこれまで過ごした住居のように振る舞う。


ルイは開け放たれたバルコニーの先を見つめた。

僅かに、人の気配がしたからだ。

雨の匂いや音に混じって、そこにはひとりの人物が立っていた。

大きくせり出したバルコニーの屋根の下で。

激しい雨雫から逃れることのできる、その屋根の恩恵を得るぎりぎりの端のところで。


彼女は、居た。

一足先に、彼女は居た。

驟雨の隔てに、彼女は居た。


うねりの強い茶色い髪は、湿気を吸っていつもより更に強い巻き渦を纏っていた。

勢いのある風に拭かれて、その茶色の髪の裾が棚引いている。

バルコニーの先は、ただひたすらに続く海景色だった。

俄に降る雨のせいで、汐の匂いが消えてしまっている。

彼は今の入り口に設置されているメインコントロールパネルで外気を遮断することもできたのに、敢えてそうしなかった。


・・・彼女がそれを望んでいないと思ったからだ。

■02


ルイ・ドゥ・アルディは彼女の背中を眩しそうに見つめた。

外は俄雨が降っている。

空は明るいが、白い閃光にも似た激しさで空から雨矢が降り注いでいた。

遠くに見える海も、さざめいている様子がはっきりと視認できた。


あの海はまだ本来の姿に戻っていない。


あの海の先では大きな墜落事故があり、それ以来生物が住まわない時期が長く続いていた。

それを雨越しに見つめるヒカル・クロスに声をかけずに、しばらくの間、黙ってその姿を眺めていた。

彼女は見つめる先の雨の激しさや、考え事に夢中になっているようで、ルイ・ドゥ・アルディの入室の気配にも、腕時計を投げ落とした時の音にすら気が付いていないようだった。

彼は、敢えて声をかけずに気配で彼女に到来を告げたというのに、彼女は振り向かなかった。

茶色の癖の強い髪は豊かで、肘までの裾から見える白い腕は、持ち上がって雨を受け止めていた。

雨に打たれるぎりぎりの縁で、彼女は雨に見入っていた。

跳ね上がる雨飛沫で彼女の沓も服の裾も濡れているというのに、それでもヒカルは臆することなくただただ白雨を見つめているばかりだった。


ルイは溜め息を漏らす。

こうして見つめるだけの日々を、あとどれくらい過ごしたら彼女は同じようにルイを見つめるようになるのだろうか。しかし彼はルイ・ドゥ・アルディだった。

彼は彼女の視線に気が付かずに過ごすことはあり得なかった。

その一方で、彼女に彼と同じように苦しみや疼きを知れば良いのにと思うのだが、それは、彼が彼女に気が付かないで居ると同じくらいに、あり得ないことだった。


時々、こうして彼女は遠い海に意識を飛ばすことがある。


いつか、こういった時に何を考えて居るのか話すだろうと考えて居たが、それは生涯叶わないことなのかもしれないと思った。


雨足がひときわ強くなった。これを過ぎれば、ほどなくして雨は止むだろう。

そして、今日は夕陽が一段を映えるのだろうと思った。


彼は車のキーを近くのテーブルに置いた。

ヒカルは彼よりずっとはやくこちらに到着していたようだったが、どこにも行かずにただここでぼんやりと時間を過ごしていたらしい。

テーブルの上には、給仕が終わって、とうに冷めてしまったティーカップが一客だけ置いてあった。彼女はそれには口をつけなかったらしい。


室内に腕時計を放り投げた時よりも大きな音が響いて、そこでようやくヒカルは彼に気が付いて振り向いた。

そして茶色の瞳を少し見開いて、ゆっくりと微笑む。

「ルイ」

太陽のような男性と、太陽のような女性から生まれた晄の子は、ルイに輝くような微笑みを向けた。

「人の気配に気が付かないなんて、迂闊もいいところだ」

彼は顔を顰めた。

ここは使用人も最小限に留めており、静寂を何よりも優先させている場所だった。

張り出したバルコニーに近付くと、良く磨かれたタイルとルイの沓の踵から規則的な音がした。

「雨に濡れなかった?」

「車だから」

彼は放り投げた車のキーにちらりと視線を向けた。

青灰色の物憂げな瞳が一瞬ヒカルから反れて、端整な横顔が見えた。


彼女は腕を下ろして滴る水を軽く両手で振り払った。

細い華奢な指先から水滴が流れて、彼女の躰から離れていく。

雨を受けて雨がもたらす神託に耳を傾ける神女のように、彼女は厳かにそれを執り行った。

「雨に敢えて濡れようとしている人が心配することではないと思うが」

彼は辛辣に言った。ヒカルの行動を咎めているのだ。ここからの景色はこの邸の中で最も見晴らしが良いが、それでも、彼女のために用意した部屋もあるし、ここに彼が来るとは限らないのだ。

真っ先に彼女が居るべき部屋をいくつか渡り歩いたことがどうにも苛立った。

なぜ、この邸の主であるルイが、ヒカルの姿を求めて彷徨い歩かなければならないのだろうか。

それでも、彼は彼女の姿を見つけるまで、あらゆる部屋と空間と場所を歩いただろう。

人を使って呼びに遣れば良かったのに。彼はそうしなかった。

だから少しばかり彼女に逢うのが遅れた。

これはヒカルの責なのだから、彼女はもっと・・・ルイの到来についてもっと嬉しそうに微笑んで近寄り、彼女からキスを乞わなければならない。

彼女はいつもルイの満足の範囲を満たすことはない。


もっと、彼を見れば良いのに。

もっと、彼を求めれば良いのに。


そう思うのに。

彼女はいつも嫋やかに微笑むだけで、激しさを見せることはほとんどない。

本当は・・彼女の内に眠る、彼女の母親から譲られた気性の激しさを滾らせることができるはずなのに。


だからその一端が、こうして水と戯れたり、海を遠くから眺めて考えに耽ったりする行為なのだろうとルイは考えている。

■03


ヒカル・クロスは少し微笑んだ。

ここは彼の邸であり、車のキーを持ち歩く理由がなかったのに、彼がそれを持ち込んで、彼女の意識をそちらに向けようとしたことに対しての綻びだった。

邸の入り口では専門の者が待機しており、彼の帰邸に合わせて彼から車を引き継いで車庫に運び込む役割が与えられていることを、彼女はよく承知していた。

だから、彼女はルイが故意にキーを持ち歩いていたことを知った。

彼女を伴って、彼が再び出庫させることを予定していたからだ。

だから綻びた。


「ありがとう、ルイ」

彼女はルイと同じ知能指数ということではないのに、彼女は時々彼の思考を読み取った。

「でも雨が上がってからにしよう」

彼女がそう言ったので、ルイは金の髪をかき上げて、肩を竦めた。

「特に急いでは居ない」

彼女はありがとう、ともう一度言った。


ヒカルはまだ、あの海にひとりで行くことができなかった。

だからそんなときは、ルイは黙って彼女を車に乗せ、誰も供をつけずにヒカルとふたりだけで海に行き、そしてただぼんやりと海を眺める時間を過ごす。

その間、ルイは何も語ることはなかった。ヒカルもその間はただ黙っていた。

ふたりは、ただただ海を見つめ続けているだけであった。

ルイ・ドゥ・アルディは多忙を極めているのに、それでもその時間だけはいつも確保し続け、最優先事項とした。

それは不定期で不規則な時間であるのに。


ルイ・ドゥ・アルディはヒカル・クロスのために・・・いつも彼の何かを捧げ続ける。

それは時間であることもあったが、彼が捧げるものはもっと別のものもあった。

常日頃、彼女には奪うことしかできないと公言していたのに、本当はルイは絶え間なく何かを与え続けていたことに、彼女がようやく気がついた時。


そこから、ルイとヒカルは何かを始めることにしたのだ。


彼女は贖罪の娘と呼ばれていた。けれども、それはルイが得るべきものを彼女が当然のように享受していたことに対する咎めではなく、彼が奪うのではなくヒカルに与え続けることに気が付かなかったことに対しての・・・ルイの嘆きを伴った無音の叫びであることに、ヒカル・クロスはようやく気が付いた。

以来、彼と彼女の間の会話はとても短く少なく、それでいてこれまで交わしていたどんな言葉よりもずっと充実していた。


彼は相変わらず素っ気なく冷たいが、ヒカルはそれに哀しんだり傷ついたりすることはもうなくなっていた。


パリ市内に住居を構えれば良いのに、彼がこうして海の近くに居を設けるのは、誰のためなのかヒカルは良く知っていた。

海の見えるこの邸からいつでも・・・彼女はあの海に想いを馳せることができる。


環境や時間が許す限り、彼はいつも彼女と一緒に居た。これまでの時間を埋めるかのように。

そして、彼女がかつて、彼にそうして常に微笑み続けたことに対しての返礼のように。


彼女はまたもう一度顔を上げて、激しく降り注ぐ雨空を見上げた。

「・・・雨が止むまで、どれくらいかかるのかしら」

「程なく止む。・・・しばらく待て」

「それではルイの時間が無駄になってしまう」

彼が多忙を極め、休まる時間がほとんどなにことについてヒカルが憂慮していることを察して、彼は薄い唇を歪めた。

そしてゆっくりと窓際の彼女に近付いた。

外気の雨を乗せた風に、僅かではあるが汐の香りが漂ってくる。

間もなく、雨があがる前兆だった。風向きが変わりつつあった。

彼女のために、ルイがこの場所にやってくるまでの過程を、彼女は知らない。

しかし、彼はそれをヒカルに伝えることはしなかった。


「何か飲む?」

当たり障りのない会話であった。しかしありきたりの会話でもなかった。

「いや・・・必要ない」

よく通る声で、彼はそう言った。そして彼女の濡れた手を、青灰色の瞳でじっと見つめる。

すぐさま彼女に触れたいのに。

それなのに、ルイはヒカルと少し距離を置いた。

茶色の髪に、茶色の瞳の人は、同じように、ルイを見上げた。


雨が激しくバルコニーの床を打ち付けて、大きな音を立てていた。

水しぶきが彼と彼女の脇をすり抜けて行き、階下に堕ちていく。


彼はただ黙ったまま・・・彼女を見つめていた。

動いたのは、彼女の方からだった。静寂を破ったのは、ヒカルだった。

一歩前に出ると、彼女はそのまま勢いをつけて、ルイの広い胸に飛び込む。

まるで、何かに引き寄せられるようだった。

彼女の細胞から再生された皮膚組織を使い、彼は再生治療の施術を受けている。

それに引き寄せされるように、彼女は彼の背中に腕を回した。

濡れた腕を彼の背中に重ねたが、彼はそれを厭う仕草は見せなかった。

ただ、肩を一度だけ僅かに動かした。

彼女が触れた場所から、彼の中に電流が走るかのように。


彼には長い治療期間が必要だった。

あと幾度かそれを受けなければ完治しないほどに、酷い状態であったが、それも間もなく癒える予定であった。

彼女の尽力によって。

だから、彼女がいなければ彼は癒えることがない。しかし、彼の精神は彼女の魂でしか癒えることはない。

しかしまだその中途である段階のルイには、この湿度と温度変化に敏感に反応しているはずだった。


彼がヒカルから寄ることを待っていたことを知っていたのに、彼女はそれに不満を漏らすでもなく、ごく自然に彼の胸に頬を寄せた。

■04


彼は長い時間をかけて、ひたすらに待った。

彼女から彼に寄り添う瞬間をずっと、待っていた。

だから、時折、この瞬間に時が止まり、そのまま滅してしまいたいという欲求を抑えることができなくなる。


「ルイ。雨は障る。だから、ルイはここにいてはいけない」

「ヒカルが命じることではない」


彼は素っ気ない返事をした。

そして身体を屈めて、彼女の髪の香りを確かめる。

いつまでも・・・この時間が断続することなく続けば良いのに、と思う。


ヒカルは知らない。

彼は彼女が居る場所であれば、治療痕が癒着しなくても海に飛び込む激しさがあることを。

彼は彼女が居る場所であれば・・・・どこにでも彼女を探してこうして邸内を歩き回ることを厭わないことを。


彼女だけに向いている意嚮というものを、彼女は軽視しすぎていた。

しかしルイはそれを責めるつもりはない。


こうして彼女と抱き合うことによって感じる温度を彼が求めていたことを、彼女に悟られるくらい彼は己を律することができないのであれば、いつでも・・悟られた瞬間に彼女ごと消えてしまう覚悟が彼にはあった。


彼は呼気の度に感じる。

彼女の命は輝いていることを感じる。

僅かに、雨の香りがした。


物憂げな青灰色の瞳を閉じて、彼は眉を寄せた。

気が付けばいつでも彼女の姿を探している。

彼はルイ・ドゥ・アルディなのに。


・・・雨がこのまま止まなければよいのに、と思った。

彼の鼓動や溜め息が、彼女に聞こえないように。


「・・・どうして自分の部屋で待てない」

彼が彼女にそう言った。

いるべき場所に居ない彼女を求めるのは、あの頃を彷彿とさせる。

長い時間、彼女を求めて彷徨ったから。


そして両手は拳をつくり、彼女の背中を、ルイの両腕は縛めた。

大きな掌で彼女の後頭部を押さえ、そしてもう片方の腕で彼女の腰を絡め取った。

「ルイ、苦しい」

傍らでは、雨が激しく降り、それでいて空は明るく彼らを照らしていた。

にわか雨のような愛をするつもりはなかった。

ヒカル・クロスは彼の唯一の人だ。

誰もが彼を通り過ぎて行くようなそんな存在ではない。


僅かに身動ぎする彼女を決して離さなかった。

苦しい、と言った彼女はそれでも彼の胸に額を押しつけている。

「答えろ、ヒカル」

彼は金の前髪を下ろして、彼女に囁いた。

彼の用意した室が気に入らないのであればそう言えば良いのに。

何が気に入らなくて、この居間に滞在しているのか、彼女の理由が明白ではなかった。

ルイはまた腕に力を込めた。


彼女は困ったように言い淀んだ。

ルイの強い視線を感じた。彼の精悍な頬が、彼女の髪に埋められて、そして彼はこたえを待っている。

静かな時間であるのに、外の雨のように・・・篠突く雨(激しく降る雨のこと)が彼と彼女の鼓動を乱していく。


「・・・ルイを待つのが怖かったから」

「なぜ怖い?」

彼は尋ねた。

ここで落ち合うことにしたのはいつものことだった。

よく知った場所でもあるのに、それでもヒカルは怖いと言う。

海が怖いと言うのではない。ルイが怖いと言うのでもない。

・・・彼を待つのが怖い、と彼女は言った。


「戻って来ないかと考えると怖くなって苦しくなるから」

彼女はそう答えた。

そして彼の胸の中で大きく吐息をひとつ、吐き出した。

彼の腕の力が更に強くなった。


彼女は両親を事故で失っている。

そして戻ってくるからという気持ちで待ち続けた日々をまだ、記憶していた。


雨を抱く海を見ながら、彼女は愁いに満ちて手を伸ばしたのだろう。

まだ、あの海の波に手を差し伸べることができないから。まだ、あの海の水に身体を浸すことができないから。

それならせめて、同じ雨に濡れていたいと思う彼女の願いが彼の背中を濡らしていた。


しかし彼に彼女は触れる。

濡れた腕で彼女は触れる。


濡れると彼の瑕に障るという心遣いより、彼に触れていたいという彼女の想いの方が勝った瞬間だった。

■05


「オレを待っていたのか」

ルイは言った。

先ほどから彼はヒカルに尋ねてばかりいた。

彼の質問は質問ではない。

こたえを知っているから。

しかしそれを彼女がルイに告げることに意味があるのだと考えていた。

わかっているのに・・・彼女からその言葉を聞きたいのだという祈ぎ事(ねぎごと)を唱え続ける。

けれども、それを彼女の口から聞きたいとねだることはしない。


ヒカルは彼の言葉に応じた。

雨の中で・・・彼の腕に抱かれながらヒカルは大きく溜め息をついた。

「そう。・・・ひとりで待つのは苦しい」

「だが誰かと待つことは許さない」

彼はそう言って、彼女の形の良い額に唇を押しつけた。

次に、滑らかな頬に唇を落とす。

くぐもった声で答えるヒカルに、彼は囁く。

「ヒカルは・・・もう誰かを待ってはいけない。オレだけを待てばそれでいい」

彼はゆっくりと熱っぽく彼女の耳元に唇を寄せて、ささめいた。

恋の折衝ではなかった。試し図る会話ではなかった。

ただ、それしか言うべき科白がなかったのだ。


彼女は海を見ながら、彼女の両親を待っている。

いつか、戻ってくるという期待が彼女を失望させる。

だから。

だから、ルイは待ってはいけないと言う。

ヒカルの両親を待つことをやめて、ルイを待て、と言う。それは彼が必ず彼女の元に現れると約束していることに等しかった。

それは誓いにも似ていた。

激しい雨の降りしきる中で、彼と彼女は抱き合いながら、直接的な会話を交わすことなく、それでいて相手の意図を理解しながら話を進めていく。

とても短い会話なのに。それまでは彼女にとっては彼女を傷つける言葉でしかなかった彼の声が「恋え」になって響く。

恋しいよと、囁かれるようだった。

その度に彼女は溜め息を漏らす。


苦しくなるから。

切なくなるから。


なぜ、彼のこの囁きに気が付くことができなかったのだろうか。

それについて贖罪しなければならないと言うのであれば、彼女は生涯かけて彼の言葉に耳を傾けようと思っていた。


でも・・・ルイの言葉は彼女だけのものであれば良いのにと願うことを、彼は許してくれるのだろうか。

これほどまでに何もかもを気が付くことなしに長い時間を過ごしたヒカルの罪を、ルイは

不問にしたのに。


ヒカルは自分自身を許すことができないでいた。


抱擁と共に発する音声というものは、単語数や音色だけではない何かを含んで相手に共鳴するのだということを、互いに知っていた。


「雨が上がるまで、こうしていても良い?」

ヒカルがそう言ったので、彼は薄い唇を歪めて嗤った。

これは白雨だ。通り雨であるのに、彼女はその短い降雨に願いをかける。

・・・彼はもっと長い時間これが続けば良いのにと思うのに。

彼女はどうして、永遠を望まないのだろうか。

■06

ルイはヒカルの申し出に黙ったままだった。

雨が上がってしまえばこの人は彼から離れてしまうのだろうか。

それなら、いっそのこと、止まない雨を降らせるためにはどうしたら可能になるのか考え始めなければならないと思った。

「待つのが嫌なら・・・待たなければ良いのに」

ルイが溜め息混じりにそう言うと、ヒカルはまた首を振った。

ひときわ激しい雨になった。

空は明るく今にも晴れ間が出そうなほどに眩しいのに、こうして彼らに雨が降り注ぐ。

誰にも渡すつもりもなかった。彼女が愛して良いのはルイ・ドゥ・アルディだけだ。

それ以外は許さないし、決してそうさせない。


もし、他の誰かを見つめるようなことがあれば、彼女と滅してしまっても良いとさえ思っていた。

薔薇に還らなくても良い。海に還らなくても良い。

一緒に生きたいと思うのではなく、一緒に滅したいと思う願いは邪なのだろうか。


生きていればそれで良いと思わない。

誰を愛しても幸せなら良いと思わない。


彼女は彼の傍でしか生きられないと思えば良いと願う。

彼女は彼の傍でしか涙を流さないから。

そんな激しい感情を抱くがそれをヒカルに広げて見せるつもりはない。彼は誇り高い星辰の子だから。


彼女を感じていると、潮が満ちていくようなそれでいて引いていくような汐が自分の中に流れて蠢く感覚を覚える。

強い勢いで路面に水が打音を響かせている。・・・勢いの盛りは過ぎた。これからどんどん寂雨になり、そしてまた何もなかったかのように鎮まるのだろう。空も、海も。

「・・・雨が上がるまではこうしていさせて」

ヒカルがそう言ったが、ルイはくすりと声を漏らして嗤った。

「断る」

あといくつ季節を数えられるだろうか。あと幾度海を共に見に行くことが出来るだろうか。

あとどれくらい・・・こうしていられるのだろうか。

彼の命は創られた。けれどもどんなに優れていても、それは永遠ではない。

彼は永遠を約束しない。生涯かけて愛し抜くと誓ったが、彼の肉体はやがて朽ちる。

そしてそれは彼女の命も同じだ。

だからこそ美しくだからこそ儚く、だからこそ哀しい。

けれども・・・・だからこそ命は輝くのだ、とヒカルは笑う。

止まない雨はないとわかっているからこそ、ヒカルはこうして居たいと言う。

彼は彼女の肩を抱いた。そしてゆっくりと自分の掌の中に彼女の肩を納めて、親指の腹で静かに彼女の鎖骨の縁を撫でた。

左右対称に、同じ速度で両の指を持ち上げてまた戻していく。

彼女が少し驚いたように眼を上げてそしてすぐに伏せた。

そこに青灰色の瞳があったからだ。

眼を逸らすことはしないヒカルであったのに、彼の仕草に僅かに身動いだ。

「・・・・いつまでと刻限を定めるな」

彼はそう言って彼女の肩を捉えると、そのまま・・・・勢いよくバルコニーの中央に足を踏み出した。

「ルイ」

ヒカルが小さな悲鳴を上げた。

激しい仄白く光る銀の矢に打たれて、彼はそのまま命を絶とうと決めたかのように、躊躇いもなく庇から抜け出して雨の下に出た。

勢いよく想定していなかった場所に出て、ヒカルは足を止めて逆らうことすらできずにルイに肩を掴まれたまま、俄雨に身を晒した。

あっという間にふたりの衣服も髪も顔も雨を受けて色濃く変化していく。

髪が濡れて、彼の見事な金髪がやや鈍い光を放つ。

彼女の頬に激しく打ち付ける雨矢にヒカルは眼を閉じた。

「ルイ・・・濡れる・・」

「構わない」

彼女は呆然としていたが、それでも次々に彼女に注がれる彼の激情のような雨が流れて彼女の薄い衣と彼女の白い肌が番っていく様をルイの目の前で露わにしていくので、彼女は頬を赤くして胸元を隠そうとしたが、ルイはそれを許さなかった。彼女の肩から腕を下ろし今度は彼女の両手首を強い力で縛めた。

どうして彼女は思い通りにいかないのだろう。

■07


彼女が「雨が上がるまで」と言ったことに、彼が少なからず憤慨していることに気が付いた時には、ヒカルもルイもかなり濡れて水が髪や顎から滴り落ちてきた程に濡れてしまった時だった。

しかし彼は無言で無表情で彼女を見つめていた。

前髪から滴が堕ちて、彼の美しい美貌をさらに儚げにしていた。

彼女はここで暮らしていないので、着替えもない。

部屋は用意されているがそれはルイを待つヒカルが倦怠しないようにということで備えられた居室でしかない。


・・・だからこのままの状態は彼女には困惑する事態であった。


困れば良いのに、とルイが余憤を漏らしている様を見て、彼女はますます困って喉を詰まらせた。


「・・・オレはヒカルの・・・俄雨のような・・・通り過ぎるだけの存在にならない。決して」

「わかっている」

「いや、君はオレを理解していない」

彼が強く否定したので、ヒカルは慌てて彼に言った。

うまく伝えようと考える余裕さえなかった。彼の前ではいつも余裕がなくなる。

「それを理由にしなければ触れられないから。苦しいから。・・・・ルイが濡れないようにはやく止みますようにと願う雨に、もっと降り続ければこのままでいられるのにと、都合の良いことばかりを祈るのよ」

「傲慢だな」

「わかっている」

彼女は顔を曇らせた。

ルイは、激務と治療の合間を見つけてこうして彼女と一緒にいる時間を作りそして静かな海を見たいというヒカルのために邸を用意する。自分を犠牲にしてでもヒカルを優先させる。それを理解できていないと言われて彼女はこのまま雨に打たれて潰れてしまいそうだと感じた。・・・肌に刺す強い雨と、彼女と彼の身体を冷やしていく雨声がヒカルに訴えていた。ひとりよがりの愛なのだろうか、と彼に愛を乞うことはしたくなかった。

それはなかったから。

これほど激しい人であると知らなかった時代が長かった。

彼が長い時間・・・何を見つめていたのか知ってから、この痛みを感じるようになった。

彼女は彼を見つめることにしたというのに。

彼はまだすべてを見ていないと全身で叫んでいる。


「短い時間でも一緒に居たい。永遠でなくて良い。触れたら苦しいのに触れないともっと苦しい。・・・苦しいを通り越して・・何も考えられなくなる」

恋人の拙い言葉に、彼は美しい顔を僅かに曇らせた。


「少しの間で良いと思うのに、次にはもっと長く居たいと思う。どんどん欲張りになって傲慢になる。一緒に居たいと思うのに、傍に居ると苦しくて辛い・・・・」

両腕を上げて彼に手首を掴まれたままヒカルは哀しそうに彼の胸に両手を当てた。

決して逃げはしないのに、こうして捉えておかないと彼女は雨に溶けて晄の粒子になってしまいそうだった。

彼女の頬は雨で濡れていたが、雨ではない何かが流れ落ちているのがわかった。

戸惑いに満ちた瞳が少し赤らんでいたからだ。

肩が細かく震えていた。

「ルイと居るのに、苦しいって、贅沢だよね・・・」

ヒカルが自嘲気味にそう言ったので、ルイは彼女の躰を静かに抱いた。

大きく息を吸って、彼女に彼の心音を聞かせてやる。

彼女は海を見るときはいつも不安定だ。

目の前にある幸せが突然消えてなくなることを経験しているからだ。

手放しで喜べない愁いがあった。

彼と彼女は若かったが同じように悲しみを共有していた。


顔を胸に埋めてヒカルは何度も小さく溜め息を漏らした。

しかしルイはこの思いを外に出したくなかったので、息を吸ってそれを身体の内に落とした。

彼は薄く嗤った。

「では、そんなことを考えられないようにしてやろう」

ルイはそう言って身を屈めると、彼女の顔に自分の頬を傾けた。

・・・・雨の中のキスは静かに始まった。

湿りを含む彼女の唇を彼は軽く咬み、そして深く沈み込むと彼女の中に滑り堕ちていく。

何もかもを奪うような・・・彼女の悲しみさえも奪うような接吻だった。


唇を合わせる。

何度も、何度も。

茶と金の髪が吻合しては削剥し、そしてまた睦ぶ。

その間、ヒカルは眉を寄せて唇に自由が戻る度に彼の名前を呼び、そしてまた奪われて声を失っていく。

■08


雨に濡れているとか、服が汚れてしまったとか・・・そんなことも考えられないくらい激しく燃え立つ心焔に押し流されそうになり、踏みとどまるだけで精一杯だったヒカルは、やがて雨が降り止んだことにも気が付かなかった。

瞳を閉じて、彼の嵐を受け止めることだけに懸命になっていたからだ。


身体が火照り、浴びた雨雫が彼女の体温を奪っていくというのに、それが心地好かった。


ルイがヒカルの頬や耳朶や首筋に唇を這わせると、身を竦めたヒカルが本能的に逃れようとしたことに眉を顰めた。


「ルイ。・・・雨があがった」

「またそれを理由にするのか?」

彼が彼女を咎め立てしたので、ヒカルは首を横に振った。

「服を乾かさないと・・・」

彼女は顔を赤くした。


バルコニーの下の庭に雨上がりを待っていた者たちが外に出る気配がしたからだ。

下から見上げれば、ルイとヒカルが全身濡れそぼって激しく抱擁する姿は丸見えだろうと思ったのだ。

「余裕だな」

ルイが冷ややかにそう言ったので、彼女は唇を噛んだ。彼が面白がっていることがわかったからだ。

それは悔しくはない。

が、彼女だけが・・・稚拙な愛の表現しかできないことには悔しいと思っていた。


「余裕で居られない。ルイのことだけしか考えられない」

「それなら、望んだとおりの結果になっただろう」

ヒカルは口を噤んだ。

余計なことは考えられないようにしてやる、と言ったルイの言葉通りになったから。


「・・・とにかく服を着替えないと。ルイもよ。身体を冷やしてはいけないと言われているはずなのに」

彼女がそう言って、彼から離れようとしたとき、ルイは待てよ、と言って彼女の腰を掴んだ。

再び彼女はルイの縛めに捕らえられてしまう。


「ルイ・・・」

困るからと言って、彼女はルイの名前を呼んだ。

「何が困るの?」

「・・・・恥ずかしい格好をしているから」

くすり、と声を漏らして彼が苦笑した。


彼は雨で張り付いて扇情的になったヒカルの姿を見て、妖艶に笑った。

強い晄が雨が上がったことにより更に強い晄を放ち、彼女の肢体を浮き上がらせていた。

何も纏っていない時より彼をよりいっそう誘惑する姿に、ヒカルは気が付いているのか居ないのか、ただ恥じらいだけを浮かべてこの場から立ち去ろうとしていた。

彼を誘うわけでもなく、ただ一緒に居るだけで苦しいが傍に居たいとだけ言い続けるぎこちない愛の仕種が彼を煽ることを知らない。


彼はルイ・ドゥ・アルディであるのに。

ヒカルと同じように全身が濡れており、すぐさま熱いシャワーに入らなければ決して人前には出ないほど傲慢で誇り高い人物なのに。


「・・・身体を冷やしてしまった。ヒカル、温めろ。今すぐに」

それが何を意味しているのか、彼女は次の瞬間に理解した。

彼がヒカルの濡れた胸元に唇を寄せて、頬を強く押しつけたのだ。

彼女の腰を強く抱き締めた。

快美の波に攫われたヒカルが少し身体を反らせたので、彼女の踵が僅かに浮いた。


「海に行くのではなかったの?」

「それは明朝にする」

ルイは滅多なことでは予定を変更しない。

ヒカルはますます当惑した声を漏らした。

朝に海に行こう、ということは彼女に泊まっていけと彼は言っているのだ。

彼は朝が弱く、決して日の出の時刻には起き出してこない。

「今日は泊まれない。・・・・服がない」

「服が濡れたから泊まらない?・・・それは間違いだな。着替えがないから泊まる、という結論にしかならない」

彼はぬかりなく周到に彼女の身の回りのものも揃えてあるというのに、彼女はそれでもやはりそれはできないと言って、いつもこの邸には宿泊することはなかった。


水を含んで少し色が濃くなった茶色の髪の下から、ヒカルが茶色の瞳を見開いた。

彼が何を計算して、激しい白雨の中に彼女を押し出したのか、理由を知った。


そしてふと、腕の力を緩めると、ルイは整った顔をヒカルに向けて、彼女の顔をじっと見つめた。


・・・苦しいとか痛いとか辛いとか、そんな言葉では表現しきれない。


いつも一緒に居たいと思うのは彼女だけだとヒカルは信じて疑わないが、ルイはどうしたら彼女がルイしか考えられなくなるのか、それを考えて居るというのに。

・・・それだけを考えて生きているというのに。

目眩がするほど愛していると言えば伝わるのか。

どうにかなりそうなほど余裕がないと言えば彼女は心穏やかになれるのか。


「何も考えられなくしてやる。・・・・だから」

彼はそこまで言うと言葉を句切った。


今日は泊まっていけ、とありふれた言葉を言うつもりはない。

短い時間の間だけで良いからというヒカルに、これから未来永劫を望めと言うつもりはない。

自分が、たったひとりだけを追い求める気質であることは承知していた。


陳腐な言葉は好まなかった。あらゆる称号を受けてなお彼は輝く星辰の子だ。

けれども、ルイがヒカルに・・・絞り出すような掠れた声を伴って言った。


彼の嫌う拙劣な言葉を、彼は口にした。



「オレと暮らそう」



ヒカルの涼やかな瞳が大きく見開かれた。

唇が震えており、身の恥じらいを一瞬忘れているようだった。


白雨の合間に抱き合うだけでは足りない。

雨に濡れていやしないかと待つ時間の満たされない思いは無駄だ。


彼女は震える声で、ルイに尋ねた。

彼が何を言っているのか理解できていないわけではない。

けれども、今の言葉の重みに驚愕していた。


「今日も明日も明後日も・・・・?」

「そう」


彼女の顔が強ばった。

彼が何を言っているのか・・・本当にわかったようだった。


「その次の日も、次の月も、次の季節も、次の年も、だ」

彼は不確実なことは決して言わないのに。

そして曖昧な未来は口にしないのに。

それなのに・・・・薄く笑って彼はそう言った。


返事は必要でなかった。

これは決定だったから。


彼は一度言ったことは覆さない。

何があっても。どんなことがあっても。

苦しくても疼いても血が噴き出しそうなほどの痛みを感じても、永遠の晄を遠ざけることはしない。

そう決めたから。

彼女は泣きそうな顔をしていた。

しかし微笑んでいた。

彼も微笑んだ。

美しい微笑みだった。

二人はしばらく見つめ合い黙っていた。

言葉は必要なかった。


「ヒカル。来い。身体が濡れて不快極まりない」

彼はそう言うと彼女の腰を引いて自分の身体に押し当てた。

これから彼女は彼が用意した居室で眠ることはない。

彼の腕の中で眠ることしか許されることはない。

この家の主は傲慢であり、そして長らく孤独であった。

満たせ、と言われてヒカルは小さく頷いた。

ほんの一瞬だけで良いから傍に居たいと願った彼女に、彼が応えた。

これからずっと傍にいて良いのだと彼が言った。

壊れそうなほど強く引き寄せるのに、彼は壊れ物を扱うように彼女を触れる。

ルイは奪うと言いながら彼女に与え続ける。愛の苦しみも喜びも悲しみも。


「・・・ルイを愛しているの」


彼女はそう言った。

けれども最後まで言うことができなかった。

ルイが彼女を抱き締めて、息が止まるほど強く彼女の躰を力強く包んだからだ。


・・・・彼は彼女から体温を奪い始めていたが、彼の恋慾に反応して熱を帯び始めた彼女の躰から、すべての熱を奪い去るのは時間がかかりそうだった。


雨は上がっていた。

白雨の中で静かな口吻を経て、彼と彼女は今度は、白雨の後に、激しい吻合を始めた。


バルコニーの庇の下から、茶色の髪と金の髪が乱反射して、すぐに消えた。


彼らはこれからもふたりで・・・雨が通り過ぎてなお静かに凪ぎている海を観に行く。

しかしその前に、彼は彼女を連れて行く。

ヒカルが何も考えられなくなるほど激しく彼女を求めることにする。

彼女の望み通りに。


先ほどのルイの申し出にノンという言葉は用意されていない。

深閨の海波に乗り、彼女は常にウイと言わなければならない。


彼の耳元で彼の名前だけを呼び、彼を永遠に愛すると囁く彼女の声だけが、白雨のように激しい彼を鎮めることができる。


彼は美しい青灰色の瞳を細めた。


儀式のように肌を合わせ、そして深い眠りに落ちたかった。

彼女と共に。



次の白雨で彼女が願うことはただ一つだ。


ルイに魂を奪われて言葉にできないほど身が焦がれそうだと歎く彼女の姿を想像し、彼は恋情の焔を滾らせていく。


空は明るく、白雨は過ぎ去ったという気配だけを残して・・・そしてやがて消えた。


その時にはもう、ルイ・ドゥ・アルディとヒカル・クロスはそこに居なかった。


開け放たれた窓だけが、大きく外気を取り込んで対流していただけだった。


彼と彼女と白雨の香りだけが残っていた。




(FIN)



星原 2011七夕


星霧、という表現が相応しかった。


乳白色の帯が、紺闇の空に大きく伸びている。

その両端は地平線や建物に隠れて・・・どこまで続いているのかさえ判別できなかった。

時折ちかりちかりと輝く星の輝きが、星河に装飾を施す。

遠くで虫の音が響き、そして僅かな風の音以外には何も聞こえない。

自然音しか聞こえない。

パリのアルディ邸に居る時よりずっと静かであった。


ヒカルは背を逸らし、茶色の瞳を大きく見開いたまま、ただひたすらに感嘆している。

いつものことだ。

彼女と星の林を見た年のことを思い出した。

あれから・・・どれだけ時間が経過したのだろうか。


あの時にもこんな風にして、彼女は初めて見たかのような驚きを演出する。

ルイ・ドゥ・アルディは軽い溜息を漏らした。

彼女の前で見せる彼の仕種と言えば、無表情で居るか、溜息を漏らすかのどちらかであった。

ヒカルの様子をじっと見つめていた。

彼女は彼の目の前で、背中を見せて空を見上げている。

癖の強い茶色の髪が彼女の背中を覆い、扇形に広がって、宙の河と違う流れを作る。


彼女は何度も声にならない声を漏らす。櫻色の滑らかな唇から。

彼女は踵を上げて、宙に手を伸ばした。

「星が堕ちてきそう」

そう言っている間に、いくつも流れ星が星の原から勢いをつけて河を横切っては消えていく。

流れ星は不吉と言われることもあったが、彼女の価値観はそうではなかった。

「凄い・・・・星がこちらにやって来る」

「そういう詩的表現を褒めて欲しいのなら、オレに言うのは間違いだ」

彼は素っ気なくそう言った。


今夜彼女をここに連れてきたのはまったくの気まぐれだった。

ルイ・ドゥ・アルディには気まぐれなどは存在しないが。

ヒカルは腕を後ろに回して、今度は大きく息を吸った。近くの杜から凪がれてくる芳醇な香りが彼女を癒すと言うかのように。


彼女は星を見て涙を流す。帰ってこない者たちが戻ってくるようにと言って願いをかける。流れ星に。天の原に。何度も、何度も。しかしそれが結願となる日は訪れなかった。だからこそ彼女は日々愚かな願いを星に捧げるのであるが。


決して人前では涙を流さない贖罪の娘は、他者の為になら涙を流す。


それなら。

彼女が微笑む時は、いつなのだろうか。

彼女がルイに背中を向けなくなる日は、いつなのだろうか。


彼はそこまで考えて、そして思考を中断した。

執着してはいけないと教えられているから。

彼女を手に入れるのは簡単なことであるはずなのに、彼の思い通りにいかない。


ヒカルは金の髪の青灰色の青年に見向きもせずに、ただ、星に感嘆している。

彼は星辰の子と呼ばれており、数多の天体を従えるという美称を持っている。

けれども、彼女はそんな彼と会話しながらも、別のことに注意を向けている。

星の原に連れてくることは、彼女が・・・・ルイではない誰かを気にかけていると確認するためだ。

だから、彼女は彼の誇りを傷つける。決して彼を見ない。

あのフランスの華の言葉だけを聞き、フランスの華の愛が注がれていることを当然としている愚かな娘を目の前にして、ルイは相反する欲求が混じり合うのを感じていた。


遠ざけて、無視すれば良いのに。

遠ざけずに、彼女を自分一人だけのものにすることもできるのに。

そのどちらもできなかった。


距離を保つしかない。


「ルイはこんなにたくさんの星と仲好しなのね」

「それはどうかな」

彼は苦い笑いを浮かべた。彼に星辰の子という尊称があるように、彼女にも贖罪の娘という蔑称があった。そのことについてヒカルは決して喜んでいるわけではないということも知っていた。その証拠に、彼女はルイの星辰の子という名前について多くを語らないし、彼の前でそのような話をすることもなかった。


アルディ家のこどもになりたいと願うのに。

彼女は・・・・

この家から離れる結果になるのに、両親が戻ってくれば良いのにと願う。

相反する願いを持ちながら、彼女はそれでも今夜も星合いの空を見詰め続ける。


強く強く・・・・そして星辰の子であるルイに願いを捧げることはしない。


そう。今夜も、本当に気まぐれだった。

遅くに戻り、車庫に車を入れて出てくるところにヒカルと出くわさなければ・・・そのまま別棟に入って、いつもどおりのほとんど眠らない夜を明かすだけであった。

彼女は車庫からそれほど遠くない場所で・・・・立ち止まって放心していた。

明るいアルディ邸の照明に目を細めながら夜空を眺めている彼女の脇を無言で通り過ぎれば良かっただけの話であるのに。

彼は再び、車のエンジンを作動させることになった。

ヒカルが、地表が明るくない場所で星河を見たいと言ったからだ。彼女の願いを叶えてやることは義務の中には入っていない。

それに、彼女はアルディ家の当主と頻繁に夜景を眺めに外出している。

だから、今夜、ルイと外出する必要はなかったのだ。

シャルルが居ないからだろうか。

彼女は最初ルイに断られたのに、それでも諦めなかった。

逆らってシャルルに責め立てられるのと、ヒカルを乗せてもう一度気乗りしないが車を走らせるのと、どちらが得策か考えてルイは後者を選択しただけだった。


「ルイは星に連れて行ってくれると言った。

だからね、どの星に連れて行ってくれるのか、どの星に行きたいのか、私はいつも愉しみにして宙を見るの」


少し浮かれているなと思えるほどに、彼女の声音は明るいもので弾んでいた。

「・・・・シャルルにでも連れて行ってくれと頼んだ方が、実現可能ではないのか?」

彼はヒカルの母親に、かつてプロポーズしたことがあった。世界を回って月まで行こうと行ったらしい。それを聞いて、ルイは嘲笑した。それは叶わぬ願いとなって星屑となったからだ。


彼女がそう話しているうちにも、いくつも・・・いくつも銀とも白ともいえるような筋が明るく輝き、闇夜に曲線を描く。星月夜はこれほどにも、明るいのだ。


彼女は昊を見上げる。

・・・視線は、星の原の果てを探して・・・どこまでも追いかけていく。


「ヒカル。・・・足元を確認しろ」

彼女は上を向いたまま、留意が散漫になりながら、小さく歩み出したので、彼は忠告をしたが・・・・それは彼女の耳に届かなかった。

「オレの指示に従えないのなら、ここに放りだしていくぞ」

何度か彼女にそのような事を言ったが、結局彼はそれを実行することはなかった。

「ヒカル。あと一歩出せば転倒するぞ・・・」

そう言いながら、彼は躰を動かしていた。

彼女が蹌踉めいたからだ。怪我をすれば面倒だ。彼女の躰には秘密があり・・・なによりヒカルの存在を、ファム・ファタルの再来であるかのように盲愛しているシャルルに知られれば・・・彼女が怪我などをすればシャルルが激高するのはわかっていた。


そして、彼の忠告どおりになった。

彼女は躓いて・・・・また、繰り返した。彼女はいつも、ルイの中に飛び込んで来る。いつも突然だ。そして彼女は自分で望んで彼に向かってこない。

あっと小さな声をあげたヒカルが後ろに倒れて・・・そのままルイの胸に背中を押し当てる。

とん、と軽い音がして彼の広い胸にヒカルの茶色の髪が飛び込んできた。

彼はその瞬間、彼女の両肩を掌で押さえた。

一緒に倒れ込むほどの筋力しかないわけではない。

彼は乗馬とフェンシングで鍛えた体を持っており、着やせして見えるが無駄な肉は一切持っていない。


・・・・そこでひとつ、星が流れた。


どちらの願いであったのだろうか。

こんな風に相手が自分に寄り添うように、と願いをかけたのは、どちらの方であったのだろうか。


・・・・しばし、無言になる。


一瞬の静寂が・・・・先ほどの静寂とは比べものにならないほどに静かな風が流れて・・・そして星も河を泳いで消えていく。



どんなことにも傷つかない。

彼女は傷つかない。だから、彼女を縛る。

彼女に約束をひとつするたびに・・・彼は、それがいつ実現可能であるか期限を決めていなかった。他人と交わすのは約束ではなく契約でしかない。けれども、ヒカルをここに縛り付けるために、彼は彼女と約束を交わす。

剝き出しの言葉で縛りつければ良いのだろうか。


年に一度、会おうと約束をするあの星昊の乙女と青年のように。

星の原で永遠に彷徨い続けることになっても、また会おうと約束するのだ。


このまま彼女を占有することは簡単だ。星乙女を星に還さない方法はいくつもある。

けれども・・・そこには彼女の笑顔はない。

おそらく、そうしたところで・・・彼が強引に自分のものにしたとしても、彼女はそれでも自分自身を哀れんで泣くことはしない。おそらく、ルイを思って泣くのだろうと思った。それは彼の誇りが許さないのだ。だから実行しない。


・・・彼は彼女を抱きながら、昊を見上げた。顎を上に向けて、そしてヒカルの顔を見ないようにする。いや、違った。彼の青灰色の瞳が、彼女にいつも向ける視線と違うことを、ヒカルに知られるのが屈辱だったのだ。


彼は何にも屈しない。


ルイは星辰の子と呼ばれている。

それなのに、ヒカルという永遠の晄は彼に遵うどころか、彼を引き寄せて遵わせようとする。これほどの汚辱はない。そう感じていた。


せめて、彼女の中にルイの痛みを植え込んだとしたら。

彼は彼女の唯一の人になり得るのだろうか。

彼女はルイを運命の人と呼ぶのだろうか。


「・・・ルイ。上を見ているとね・・・星の昊があまりにも綺麗で・・・昊が・・・。星が・・・・どちらが天かわからなくなりそう」

「それは平衡感覚が狂ったせいだ。上に視線を乗せ続けるとやがてそうなる。器官の現象だ」

「いいえ・・・・」

彼女が僅かに首を振ったので彼の掌の上に茶色の髪が乗った。

彼女の肩が僅かに震えているのを感じる。

「ルイ。こちらを向いて」

彼女はそう言うと、ルイは細く長い指先に僅かに力を込めて吐息を漏らす。

ゆっくりと・・・見事な金の髪を下ろし、彼は青灰色の瞳を彼女に向けた。

静かな夜景だった。彼らの他には誰も居ない。


フランスの要人の子息であるルイが、単身でこんな場所に来ていると知れば、問題視する者も現れるだろう。親族会で彼をシャルルの後継者と認めさせる道のりと手数に修正を加えなくてはならなくなる。

それは避けるべき事項であった。


・・・そろそろ、戻らなければならないと判断する。


だから。


彼女に、戻る旨と余興の終わりを告げるために、彼は彼の胸に背中を合わせている贖罪の娘に顔を向けた。


目が合う。


彼女の茶色の瞳がすぐ近くにあって、彼は次の台詞に少し間を置かせた。


これほど近くに居るのに、彼女は近くに居ない。

これほど近くに居るのに、彼女は近くに来ない。


だがしかし、ヒカルはそんなルイの貌を見つめて・・・笑った。

「ああ、ここにお星様が・・・私の行き着きたい星はここにある」

彼女はそう言って、ルイの瞳を覗き込んだ。

「いつまでも堕ちないから。いつまでも輝き続けるから。だから・・・だからルイの星に行きたい」

そして微笑んだ。

淡い柔らかな微笑みで・・・彼を照らす。ルイはその言葉を聞き終わると、僅かに・・・本当に僅かに目を細めた。


「・・・ルイは太陽も星も持っている。お日様とお星様でできている」

「そこに月は無い」

「それなら、今度は月を呼び寄せよう」

彼女がそう言ったので、彼は大きく溜息を漏らし、次に、勢いに任せて彼女の額に自分の額を押し当てた。

彼女の睫が彼の秀でた額にあたる。

ヒカルの瞼は激しく瞬いている。

驚愕するヒカルの動きを塞き止めるように、彼は、強く・・・彼の額を押しつけた。

無言で彼の温度を乗せるルイの真意が読み取れず、ヒカルは続けようとした言葉をそのまま発するしかなかった。

「ルイならできる。だって、星辰の子だもの」

白金の髪の男達は、月の色のようだと例えられている。つまり・・・月を従えるということは、あのフランスの華を従えるということを・・・彼女は理解しているのだろうか。


もし・・・シャルルがヒカルの言葉を聞けば、少なからず平穏ではいられないだろう。

彼女は当主の寵愛だけではない何かを求めて、自我を芽生えさせようとしている。

・・・それは、シャルルの定めた運命の人とは違う人生になるかもしれないという予兆であった。

それは至極当然のことだ。

間違いなく、ヒカルはあの人の娘でありながら、あの人ではないのだから。


やがて、彼は額を離した。そろそろ刻限がやって来たからだ。

年端もいかないヒカルを外に連れ出したことが、アルディ家当主の耳に入る頃だった。

本当は彼女が願い出たとしても、結局は、ルイの責になる。あの男の盲愛はいつもそうだった。

愛した者を否定しない。

一見否定して拒絶することもあるが、一度内に入れてしまうと、彼はなかなか・・・覆さなかった。

思考を切り替えて、論点を変更し、そして違った視点で物事を幾通りも考えることができるはずなのに。シャルルはそうしない。けれども、ルイはそうすることにしていた。


不安そうな声が聞こえてくる。ヒカルの声は少女期特有の声で、ルイの耳に障った。特に、こんな静かな星闇の中では。

「ルイ?」

「今日はこれで満足することにする」

彼はそれだけ言うと、ヒカルから躰を引き離した。僅かに微笑んでいるので、ヒカルが不思議そうな顔をしていた。・・・彼女には理解できないだろう。

おそらく、いつもの彼と少し違うようだということには気がついたかもしれない。

けれども、その先にまで考えが及ばない。それは、彼が星辰の子であって、彼女がそうではないということに起因する。


何を満足したのかわからないものの、それ以上、ヒカルは質問しなかった。ルイは決して応えないだろうと思ったようだ。それは正解だった。

「戻るぞ。・・・・オレは忙しい。これからやることがある」

「こんなに遅い時間なのに?」

彼から突き放されたように躰を押されたヒカルはルイから少し離れて彼に向き直った。

怪訝な顔をして、首を傾け、彼女がそう言ったので、ルイは冷笑した。

「オレの星に連れて行けと言ったのはヒカルだ。その言葉、忘れるなよ。撤回は認めない」

彼はそこまで言うと、いつもの高慢な物言いに戻っていた。

軽く彼女を見下ろして、そして金の髪を掻き上げる。

シャルルとよく似た顔であったが、それでも、彼はこんなふうにヒカルを冷たく見返ることはなかった。


そして彼は自信たっぷりに宣言した。

薄い唇の端が持ち上がった。

周囲は街灯もない薄暗い場所であるのに・・・彼の眩い金の髪と青灰色の物憂げな瞳は、日の光の下に居るよりも明るく鮮明に輝いていた。


星がひとつ、また流れていく。


彼はヒカルの頭上でそれを見ながら、ゆっくりと言った。


・・・彼は彼女に約束した。

誰とも約束を交わさないのに。いつとは知れない期限のない未来は確約しないのに。

それでも・・・ルイ・ドゥ・アルディはヒカルに向かって、はっきりと言った。



彼はやがて少し掠れた声で言った。

普段から大きな声は出さない彼であったが、ますます密やかな声で、彼女に囁くように言う。

しかしその声量だけでも十分に伝わるほどに、周囲は静かであった。

抑揚のある声を彼女に届けるのは、周囲にはルイしかいない。

その他の音は・・・みな、星空に吸い込まれて行く。

そしてその音や温度や風を吸い込んで乾(※そら)は一層・・・輝くようであった。


「ヒカルを・・・星の原の果てに連れて行く。嫌だと言っても認めない」


ヒカルはルイ・ドゥ・アルディの顔をしばらく見つめていた。

彼の言っている意味を理解していたら、そんな風にルイを見つめることなどできはしないはずなのに。

まだ彼女にはこの言葉は届かない。

彼は黙ったままでヒカルを見つめた。

二人の視線はいつもよりずっと近い場所にあった。


そして・・・しばしの沈黙が訪れる。


見上げたら、星の雨が降っていた。

すべての音を吸い込んで、それらは音もなく静かに堕ちる。

それは涙のようであった。ヒカルが流さない涙の代わりに、多くの星が堕涙する。彼に向かって。正確には、彼と彼女に向かって。


乳白色の天の戸河が、彼らの頭上を覆う。

しかし彼女と彼は空を見上げなかった。

各々の瞳に映っているのは、空の晄ではなかった。

ヒカルが眺めているのは青灰色の星だった。

星辰の子と呼ばれるその人は、星を随えている。

それを実感したと言うような、神妙な面持ちでヒカルはルイをしばらく観ていた。

彼女の目の前には、星の河を見たいという、彼女の願いを叶える・・・星原の中でひときわ強く輝くアルディ家の星辰が佇んでいた。


やがて・・・その言葉を以前に聞いた時には涙を浮かべていた彼女は、今度は微笑んだ。

明るく、輝くように。それでいて僅かに哀しそうに。

彼女は無邪気に微笑むように見えてその根底にはいつも罪悪感がある。

残された自分だけ倖せで良いのか、とか。

残された自分だけ先の路を進んで良いのだろうか、とか。

いつも、そんな風にして彼女の記憶の中で永遠に劣化することのない若い夫婦のままの両親を思い出すからだ。

彼女の顔を自分で見る度に。

シャルルが彼女を通して、彼の唯一のファム・ファタルを思い出す度に。

・・・しかし、彼女は微笑んだ。笑った。

彼に泣き顔ではなく、泣きそうな顔でもなく、微笑んだ。

そこに悲哀が混じっていても。

彼だけに向けた笑顔であった。

彼だけが知っているヒカルの笑顔だった。


「嬉しい。・・・願い事が叶う」

ルイ・ドゥ・アルディは整った顔をそのままにして横を向いた。

彼女のこの返答に、彼は行動を伴うことができなかったのだ。

そうしないと決めたわけではない。

そうできなかったのだ。

・・・・彼はルイ・ドゥ・アルディであるのに。

彼は・・・数多の天体を従える人物であるのに。ヒカルのこの反応に予測できなかった自分を認識し、そしてそれを否定する材料がないことに辟易した。だから、素っ気なく彼女に回答する。


「だがヒカルの希望は聞いてやるだけにする。

オレがそれを採用するかどうかは保留にしよう」

「どういうこと?」

彼は嗤った。彼女の思考過程と速度は彼のそれは違う。教育された環境も。

だから、質問は受け付けないというルイの思考に今でも彼女は・・・・ついて行けない。

それが苛立たしいのではない。

だから微笑んだ。ルイは滅多にそんな微笑みを浮かべることはない。特に、ヒカルに対しては。

星のあかりだけでは彼の微妙な美綻はヒカルに届かなかった。

それでも良い。

いつか・・・彼女は・・・闇の下であっても晄の中であっても、彼のことだけを考えるようになるのだから。


「ヒカルとは期限付きの約束をしないということ」


彼はそれだけ言うと、帰る、とだけ言った。

そして彼女に声をかけた後は、今度は彼が彼女に背中を向けた。

少し先に停車してある車に乗り込むためだ。

しかし、彼のいつもの態度や表情を保持できる率が格段に低下していた為であるという理由についてはヒカルに明かすつもりはなかった。

彼は誇り高いアルディ家の者であったから。


彼女は天を観ながら、肉親が消えた海の暗さを思い出す。

そして、そこに希望と願いを込める。

いつも、いつも。

ヒカルは自分のためには願わない。

それなのに、彼女はルイの星に行き着きたいと願った。

これが彼を震撼とさせたことに、彼女は気がつかない。

なぜ・・・・ヒカルの言葉はいつも無防備で無邪気で、それでいて残酷でありながらも彼を満たすのだろうか。

ルイは彼女の唯一になれないのに。彼女はルイにそれを望まないのに。

その彼に願いを吐露するヒカルは・・・実現が難しいことばかりを強いる試練の使徒のようだった。


・・・・ひときわ、星の輝きが明るさを増したように見えて、ヒカルはルイ・ドゥ・アルディの背中を見つめた。


彼は星辰の子だ。

あらゆる天体を従える。

まさに、その名の通りだった。

太陽のような見事な金の髪と、星のような青灰色の双眸に・・・どこからどこまでもが美しい容姿を持つ。

彼に見惚れて星さえ彼に向かって堕ちてくるようだった。


「置いて行くぞ」

彼はそれだけ言うと、立ち止まったままの彼女を待たずに歩き出した。

ヒカルは慌てて、彼の背中に向かって小走りになって近寄ったが、彼はもう、彼女を見なかった。

そっと・・・額に自分の指先をあてた。


・・・先ほどルイに押し当てられた額が熱かった。

同じくらい、自分の頬は熱かった。


なぜなのだろう。


けれども・・・彼女の日々感じている願いが今夜、叶った。

この短い時間で、何ヶ月分もの話をしたように感じる。

自分自身のために願う彼女の希望はいつも小さいものだった。

だから、いつも・・・静かなアルディ邸の別棟に晄が入るときに、そこに願っていた。

ルイがそこに居るからだ。今夜は星空が美しいと教えられて、よく見える場所で流れ星を見つめようと思っていたら、星辰の子がやって来た。たとえ気まぐれでも・・・・ヒカルは驚喜した。

彼は彼女を星の原に連れてきた。

そして、彼女の小さな願いを叶えた。


もっとルイと話していたい。

もっとルイを知りたい。


彼は寡黙だから、いつも多くを口にしない。

また、確約もしない。

それなのに、約束した。

ヒカルを星に・・・彼の星に連れて行く、と。

彼は実現しないことを述べることはしない。


「ルイ・ドゥ・アルディの星というのはどれほど素敵なのかしら」

ヒカルは、ルイの歩幅に合わせるために、更に歩調を速めて彼に話しかけたが、彼は斜め上の昊を見上げて彼女を見下ろすことはしなかった。

「教えてやらない」

「知りたい」

「不必要だから言わない」

いつもならヒカルは、彼にこんな風にして繰り返し言葉を求めることはしないのに。

今日はどういうわけか、・・・彼を知りたくなった。

素っ気ない彼の言葉は、いつになく単語数が多いように思えて、ヒカルは微笑んだ。

「それなら・・・必要が生じたら、言ってくれる?私にも教えてくれる?」

「考慮する」

彼の言葉に、ヒカルは飛び上がりたいほどの喜色を隠すことができずに、微笑んだ。

彼は自分の内をさらけ出すことはしない。

けれども・・・彼は、彼女を連れて行ってくれるのだろう。彼女が望んだ世界に。もう、ひとりにならない世界に。

それはどんな場所なのだろうか。


「ヒカルを喜ばせることはしない。期待は勝手にすれば良いが、失望を擦りつけるなよ」

彼がそう冷たく言ったので、ヒカルは言葉に詰まる。

少し、上を見上げると、斜め前上に彼の整った横顔があった。溜息が出るほど美しい横顔だった。


「私の考えていることがわかるの?」

「顔に書いてある」

ルイはそれだけ言うと、ふい、とまた正面を向いた。


「帰るぞ」

その時。ヒカルの唇が横にきゅっと強く引かれた。

・・・彼の一言が、彼女を揺さぶったから。


帰る。


ヒカルとルイの帰る場所は同じなのだ。

先ほどは「行く」としか言わなかった。いつもそうだった。

アルディ邸に戻る。彼はそこを自分の住処とは思っていない。単なる滞在場所でしかない、といつもそう言っている。けれども。けれども・・・


「ひとりで笑うのは構わないが。・・・品性がさらに欠けて見えるから、並んで歩くなよ」

ルイがそう言ったので、ヒカルは目を見開き、慌てて綻びを落とした。

「はい・・・・」

それでも笑みがこぼれる。嬉しくて・・・涙が出そうになる。

ルイ・ドゥ・アルディはそれを見て、肩を竦めただけだった。今度は何も言わなかった。そして、ヒカルに気がつかれないように、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩く。ヒカルはその隣を歩いた。先ほどは彼の迷惑そうな顔を見るのが哀しくて、星の原に夢中になっているふりをした。けれども・・・

彼と並んで歩き、その目の前に広がる星の帯は、先ほど眺めた星景より、更に美しいと思った。


家路に帰る。ふたりで、帰る。


ふたりの間は、先ほどと比べてずっと距離が近かった。


星辰の子という称号を持つルイ・ドゥ・アルディと、永遠の晄という名前を持つヒカルは並んで歩いた。



星がまたひとつ流れた。

ふたりに向かって墜ちていった。





(FIN)



星の林 2010七夕

01


たくさんの流星群が煌めき晄の穂を棚引かせながら落ち行く様に、ヒカル・クロスは歓声を上げた。

星空を見上げて密集し白濁する星の林に、ヒカルが感歎の声を漏らす都度、ルイ・ドゥ・アルディの物憂い青灰色の瞳はつまらなさそうにため息を落とす。

彼の興味の対象は、目の前の・・・女性と言うにはまだ成熟しきっていない、幼い仕草の目立つヒカルではなく、彼の最近購入した車にあった。

McLarenMP4-12Cのボディをさらに軽量化させるのに苦心した。

マットブラックではなく、敢えて手入れを入念にする必要のあるパールブラックのボディが、塵一つ落とすことなく、艶やかに煌めいている。

ヒカルにはこの理想的な流線型の角度や、空気抵抗を考慮してなお美しいフォルムを保ち続ける素晴らしい文明の力学の応用について、まったく理解できていないようだった。

茶色の瞳を輝かせて、彼女が意識を集中しているのは・・・

この暗闇の中に浮かぶ大空の星辰だった。

目の前の、星辰の子には・・彼女はこれほどまでに目を輝かせないのに。

夜風に晒されて、彼女の茶色の髪が少しだけ揺れた。

気持ちの良い風だね、とヒカルは言う。

ルイがこの風を煩わしいと思っていたとしても、彼女はいつも・・気持ちがよいね、と言う。まるで、共有できることそのものが心地良いと言うかのようだった。


「・・・ルイ!今日は天の河が・・・ああ、なんて素晴らしいの!」

「ヒカル、単語の羅列ではなく、もう少し文章にして話をしてくれないか」

見事な金髪の下で、彼の切れ込んだ双眸が少し動いた。

星辰の子、と呼ばれて久しいルイ・ドゥ・アルディは、彼が従えるべき星の原には、興味がないと言いたげだった。

上を見上げてしきりに歓声を上げるヒカルに呆れて言葉が出ない。

恐ろしく整った顔は、無表情で、時折、ぴくりと眉を僅かに動かして、ヒカルの叫声にも似た声音に不快感を表す。


パリの16区にあるアルディ邸では、どんなに照明を落としても、周囲の光源によって、星空を観測するというまでに見ることができない。

昨今の、セキュリティ保守に関する16区内での申し送り協定によって、完全消灯することは控えるように言われているからだ。

彼ら要人が多く住む地区であるからこそ・・・不審人物の排除に関しては、共通の駆除方法を適用することがあっけなく承認されたばかりだった。

これとは別に、アルディ家では、更に強固な警護防犯システムが導入されたのであったが。


彼女が敢えて歓呼の声を上げるのは、自分自身を偽っているからだということに、ヒカル自身、気がついているのだとルイは推し量っていた。

ヒカル・クロスは良く言えば素直であり、悪く言えば自己がない人間だ。

それでもなお、彼の一族の頂点に立つシャルル・ドゥ・アルディは、ヒカルを妄愛する。

それが彼女をさらに固い自己の殻に押し入れてしまうということを承知していながら、シャルルは、愛して欲することをやめることのできないファム・ファタルの忘れ形見として、ヒカルをこよなく愛する。

それが、疑似家族を作り、ヒカルの未来への選択を狭め・・そして様々に影響する要素となり得ることを知ってなお、ルイの父は娘ほどに年齢の違うヒカルに愛を注ぐ。

娘でもない。恋愛対象でもない。

それなら・・・彼女への愛は、一体何を示しているのだろうか。

ルイに対しては冷淡を通り越して残酷と言っても過言ではないほどに、感情の波を寄せるとのないシャルルに対して・・ルイは何かを期待することをやめて久しい。

その代わりに、彼が愛してやまないヒカル・クロスを手に入れて・・・いつかシャルル・ドゥ・アルディに成り代わり、アルディ家の頂点に君臨する日を、静かに見えるが水面下では激しく躍動して待ち侘びている。

02


ヒカルの無邪気な声が障ると言いたげに、ルイは軽く首を振った。

彼と彼女は・・車両の運転手席側と、助手席側の対岸に居た。

今日は大空の湿度の具合が良く、少し走らせて、パリの郊外からほんの僅かに離れた場所でさえ、空模様が星の宿りを明るく位置示していた。

GPS機能が搭載されたこの車の追跡調査で、後ほど、アルディ家の護衛の車が追いついて到着するだろう。

そうなれば、ここは複数のエンジン音で・・・静寂が破られるだろう。

誰も追いかけてはいけないと言ったものの昨今のセキュリティ対策や・・・シャルルが過保護と言っても過言でないほど、ヒカルの行動について細かく監督している以上は、これから先は、このまま、少し広がった空閑地で留まる他には、行き先はなさそうだった。


行き先がない。


それはルイ・ドゥ・アルディの未来を示唆しているようだった。

行きつく先がない。行き着く先が見えない。

彼が目指す岐路のように見える四つ辻というのは、実際にはひとつの辻しか進むことが出来ない。

たくさんの選択肢があるようでない。

03


このまま、ヒカルをシャルルから遠く引き離したら、あの男はどう出るだろうか。

失って初めて知る喪失感というものを、あの男にもう一度与えたら、今度こそ・・死にたいと思うだろうか。

あの時のように。

ヒカルの母を亡くした時のように、夢現を彷徨うのか。

・・・・生きていたくないと思うほどの打撃を与えられるだろうか。


エンジンが空気を焦がすちりっという音が僅かに聞こえるばかりの静かな空間だった。

これほどまでに星空が澄んで、見渡せる空間というのは珍しい。

落ちてくるような星の渦の中で、ルイは上を見上げているばかりのヒカルの様子をじっと観察しているばかりだった。


ルイはシャルル・ドゥ・アルディと良く似た青灰色の瞳で静かに・・・彼女の様子をひとつひとつ映像にして記憶に留めていた。

シャルルの知らないヒカルを服膺する。

いつか彼の悋気をかき立てる材料になるかも知れないと思いながら。

彼女は大変に、彼女の母に似ていると言う。それでいて、彼女の父にも似ていると言う。

シャルルの愛でた人と、彼の唯一無二の親友の特質を受け継ぐ晄の娘を・・・

それなら、自分は・・・自分は一体、誰に「似て」いるのだろうか。


シャルルは彼らと同じように、娘のようにヒカルを愛するのだろうか。

そんな風に穏やかに誰かを愛することが出来ることをあの男は証明することができるのだろうか。

この薔薇の一族は・・・業が深い。果てのない欲念が彼らを支配している。

・・・自分も含めて。


「ルイ?」

彼は声をかけられて、我に返った。

薄暗がりの中で・・・ヒカルが車体の反対側からこちら側に移動して来ていたことに気がつかなかった。一体、どれくらいの時間が経過したのだろうか。

視線を近くまで戻すと、意外なほどヒカルが接近して、ルイの顔を心配そうにのぞき込んでいた。

茶色の瞳が・・・濡れたように光り、ルイを見つめている。

彼は吐息を漏らした。

ヒカルの頭上に広がる空で輝く数多の星が落ちてきそうなほどに近く感じる。

あまりにも大量の星が煌めくので、空は・・少し白っぽくなっていた。

天の河と言われている星々の群の下で、ルイとヒカルは少し無言で互いを見つめ合っていた。

やがて、沈黙を破ったのは、ヒカルの方だった。

視線を激しく動かして、落ち着かないと言いたそうだった。


「空が・・星が・・綺麗だよ」

大気の状態でこのように鮮明に星明かりを観測することができるのだが・・・

ルイは黙ったまま、空を見上げることもなく、無表情にヒカルを見つめていた。


それでも、ヒカル・クロスの考えのなさに、少しばかり、ルイは苛立っていた。

彼に空を眺めようと言うヒカルの申し出に従う気はなかった。

彼女をここに連れてきたのは失敗だった。


「ヒカルは愚鈍だ」

ルイは突然呟いた。

ルイの思考の速度は、ヒカルのそれとは違う。

彼女には遠く及ばない、彼の様々な物憂い参勘に、ヒカルは時折口をつぐんでしまう。

この家の者たちは皆、ヒカルと違う速度で生きている。だから時折・・・ヒカルは話について行けない。

シャルルだけが彼女のために歩みを止めるが、それ以外の者たちは皆、ヒカルと違う速さの波に乗り、そして彼女を追い越して行ってしまう。


「うん、そうだね」

ヒカルはそれをいとも簡単に認めた。

「そう思うのなら、オレがなぜ、ここに貴女を連れ出したのか・・理由や意味を考えようとは思わないのか」

ルイが呆れて言ったが、ヒカルはそれほど時間を置くこともなく、返答した。

少しはにかんだように笑った。

彼女は嬉しいときにはこのように少し恥ずかしそうに笑う。

「私はルイやシャルルのように、深く物事を考えることが出来ないから・・・。

だから、ルイが・・・自分のお気に入りの場所に、私を連れてきてくれたことを、単純に歓んでいる」

04


「『連れてきてくれた』?」

ルイは普段、滅多に言葉を繰り返さないのに、今回は彼女の言葉の最後を繰り返した。

彼は一生の間に使う時間も、言語や単語の数も、そして自分の鼓動数さえも決めてしまっているようだった。

もちろん、ヒカルとの会話の数さえも。

この星々は無数に見えるが、実は有数である。

ルイ・ドゥ・アルディは星辰の子、と言われている。

彼が従えている星は・・・彼が背負っている星々は、彼を煌めかせるだけではなく、彼の足下の陰を更に濃くしていく。


「随分と傲慢な発言だね、ヒカル。今の言葉は記録から削除しておいてやろう」

ルイはそう言うと、酷薄そうな薄い唇を歪めて嗤笑した。

夜目でも彼の金の髪の輝きがよく見える。

ヒカルはそんな彼の姿が神々しくて美しくて、目を少し目を細めた。

ルイは完璧だ。

フェンシングと乗馬で鍛えられたその体躯は細い鋼を思わせる。

長身で筋肉質であるのに、服を着ると華奢に見えるのは、彼の父から譲られた特質だった。

それだけではない。

上品な、物憂げな青灰色の瞳も・・・恐ろしい程までに整った顔立ちも、細く長い指も、知性溢れる会話の運びを選ぶことなく披露して、誰も彼も魅了するアルディ家の唯一の当主の実子。

彼は何もかもを兼ね備えている。

しかし、彼が彼だけの称号として星辰の子と言われるのは・・・彼を中心として、星々が巡るからだ。

ルイの称号だけがそう言わせているのではない。

生まれながらにして、アルディ家の当主となるべく、シャルルの庇護とミシェルの教育と己の才幹によって彼はここまでやってきた。

その彼が、自分にどうして冷たいのかも・・・ヒカルはよく承知していた。

冷たいのに、こうして時々、彼は意図の不明な行動に出る。

星を観測したいと呟いたヒカルの言葉を実行するために、予告もなく彼女をアルディ家から連れ出した。


「愚鈍で、高慢で・・・そしてどこまでも恬澹としているようで欲深なヒカル。

どうしてそんな矮小な人間を、シャルルは愛でるのかな」

誰に問うわけでもなく、ルイは歌うように囀るようにそう言った。

こうして彼女を貶める言葉も・・彼の中では理由と順序と過程がある。

この問いに、彼女はいつも答えられない。

いや、彼女は知っているのだ。

アルディ家の娘ではない彼女がこれほど殊遇を受けているのは、彼女の母がシャルルの運命の人であり、彼女の父がシャルルの親友だったからだ。

シャルルは命にかえても、ヒカルを護ると公言している。

彼女を単なる客人としてもてなしているわけではないことも、それでいて公の場に彼女を引き出して、静かな生活を壊すつもりもないことも、昔から変更していない。

当主の予定は絶対であり、それは確実な未来になる。

ヒカルだからシャルルは愛でるのではなく、シャルルの大事な人達の娘だから、ヒカルは大事にされているのだと彼女はよく承知しているのだ。


それを知っているからこそ、ルイはこの質問を繰り返す。


彼は繰り返すことはしないのに。

この問いだけは・・・繰り返すのだ。

夜の星空の下で、泣きそうな顔をして困った表情をするヒカルを冷たく見つめる。

沈黙が訪れて・・・彼は唇を閉ざした。

ヒカルが涙ぐんでいることを知ったからだ。


星が落ちてきそうなほど近くに感じる。この圧迫感が、彼女を不安にさせていることもよく知っていた。

彼女の両親が墜ちた場所は・・・こんな風に、星が墜ちそうなほど澄んだ空の下の海だった。

彼女は幼いときからパリの16区に住んでいるから、こういう星々を見ることは滅多にない。

あえてシャルルは様々な場所にこっそりお忍びでヒカルを連れ歩いたが、結局は、あの悲惨な墜落現場に似た景色だけは見せることはなかった。

最初に、沈黙を破ったのはルイだった。


「どうしてつまらない者ほど、都合が悪くなるほど黙るのか、一度、論文を書いてみたいくらいだよ」

彼はそう呟いた。


シャルルは見せない景色を、ルイはヒカルに見せる。

彼女が不安に思っていても、シャルルが心を痛めて見せまいとしていることも・・・それでもルイは目をそらすな、と言って見せる。

彼とシャルルは違うのだ、と主張するかのように。


「気に入りの場所なんかではない、ヒカル。こんな場所はいくらでもある。探せばね」

「・・・探したのね」

彼が低い車高のボディに目を遣った。

今度は、彼の言葉をヒカルが繰り返したからだ。

ここは気に入りの場所などではなく・・単に「星が見える場所」として設定されただけにすぎない。彼がつまらなさそうに言ったが、ルイの執着する場所、ということを否定する代わりに、その言葉は、彼がヒカルのために場所を探して、連れてきたのだということを証明してしまった。

彼は完璧なのに。


どういうわけか、ヒカル・クロスの前では完璧になることができない。

05


「その質問に答える義理はないよ、ヒカル」

「質問じゃないわ、私の・・・そう、私の独り言」

「随分と大きな独り言だね」

そうね、と彼女は笑った。

少し気をつけないといけないわね、と言った。

声が少し鼻声でくぐもっていた。

もっと明るいところで見れば、彼女の茶色の瞳は、涙で潤んでいるのがはっきりと見て取れるだろう。

しかし、彼女は人前では決して泣かない。

それが彼女の唯一の誇りであるかのようだった。

「でも、ここなら誰にも聞こえないから」

ヒカルはそう言って、空を見上げた。どこまでも深く吸い込まれていきそうな程高い空に、光沢のある玉水が煌めいて、ヒカルの落とし損ねた涙のように見えた。

泣かせたいわけではないのに。

いや、泣かせたいのだ。

誰もが彼女に涙させることはできない。

誰もが彼女を変えることができない。

そうしないことが、彼女の唯一の抵抗であるかのように思った。

パリにやってきて・・・彼女は生国での記憶を失いつつある。

幼い時に得た残像記憶が薄れないように、シャルルはいつも・・・ヒカルに鮮やかな景色を見せ続けるが、それは彼女が本当に望んだことなのかどうか・・・


「せっかく、黒い車体の車を選んでくれたのに、ね」

ヒカルがそう言ったので、ルイは苦笑した。

「ヒカルの為ではない」

「そう?」

彼女はくすりと笑った。泣いたかと思えば、笑い出す。

ヒカル・クロスという生命体は、本当に、よくわからない生き物だった。

「こんな夜空に、・・・星見の夜に似つかわしいように・・ルイがまだ手入れの行き届かない新しい車を用意した。これって、私は感謝しないといけないのだと思うわ」

「勝手に感謝でも感激でもしてくれ。オレには関係がないし。この車がヒカルのために用意されたものでもない。・・・傲慢な女だな。まったく、呆れる」

ヒカルがこの夜空を肉眼で見るには、この空は・・・明るすぎた。

星が堕ちてきそうな、星の林の中で、確かに明るいボディの車では、観測が難しい。

東洋人の体質が出ているヒカルの肉眼では・・この星空の煌めきは、反射するものがあまりない状態でなければ、最良の状況で視認することが出来なかった。

06


「流れ星が・・・数え切れないくらいだわ」

ヒカルがそう言って、空を見上げた。

茶色の髪が、背中を覆っていたが、真上を見上げていたので、白い横顔が見えた。

今日は新月で、月明かりによって遮られていた星々が最もよく見えた。

「ルイがお天気にしてくれたのかな」

彼が星辰の子と呼ばれていることに対する、ヒカルの讃辞だった。

ルイはまだ黙ったままだった。

彼がなぜ、そう言われていて、未だにシャルルの後継として認められないのかについて触れなかったヒカルを狡猾な女だと思った。


彼は、もう、とっくに「星辰の子」と尊称される時期ではなかった。

彼はそう強く願えば、妻を娶ることもできるし・・・「子」と呼ばれることはもうなくても良い時期にさしかかっていた。

実際に、ルイの年齢とあまり変わらない時期に、シャルルを父としてルイは誕生していた。

親族会が望めば、同じ歴史が繰り返されるだろう。

しかし、そうはならない。

確率は低かった。

とても、とても。


彼はいまだに、シャルルの息子と言われ続ける。

彼を「ルイの父」と呼ばせることができない。

ひとえに、彼が継承を拒否しているからだ。

ヒカル・クロスの身を保護するために、彼は長い時間、当主の席に君臨し続ける。

生きながらに地獄の業火に灼かれるのは・・・誰なのだろうか。


「星を見るとね・・・お父さんとお母さんを思い出すの」

ヒカルがぽつりと低くそう言った。

「小さいとき・・まだパリに来る前には、お父さんとお母さんは星になったと聞いた。

フランスでも・・こんな星空の綺麗な夜だったそうよ。日本でもそうだった。

視界が良くて、それなのにどうして墜ちたのか、わからないくらい・・・見渡しの良い空で、そこで空港まで見送ると言って私は・・・流感だったのに、愚図ったことだけ覚えている。お母さんとお父さんが私を置いて出掛けてしまうことがいやだったのではなく・・星空が見えないと聞いてとても残念だったことを覚えている」

他のことはあまりよく覚えていないのに、不思議だよね、と言ってヒカルは自嘲した。

彼女は上を見上げて、黙って聞いていたルイに言い聞かせるでもなく、ゆっくりと語り始めた。

星の晄に魅せられて、これまで沈めていた胸の記憶を言葉にすることで蘇らせているようだった。


「次に、海に還ったと聞いた。ある人は、天使が迎えに来たんだ、と言った。

シャルルは彼らが見つかるまでは希望を捨てるな、と言ってくれた。

でも、どれが本当かわからなくなっていた。

どこに行ったんだろう。星でも海でも良い。

どこを見れば、私のお父さんとお母さんに逢えるのだろう。

どこに話しかければ声が伝わるのだろう。

そんなことばかり考えてた。


・・・だから星空を見る度に、何を信じて何を考えれば良いのか、それを考えることに一生懸命になりすぎて・・・」

そこで彼女は言葉を切った。

ルイは少しばかり興味深そうに青灰色の双眸をヒカルに向けていた。

彼女はあまり口数が多い方ではない。

自分のこともあまり話をしない。ましてや、アルディ邸に居る時には、彼女から実の両親の話をすることは決してなかった。


「ルイ、今日はありがとう。・・・星を見て、思い出した。

本当はこんなに満天の星空と天の川を見るのは怖かったの」

ヒカルは素直に礼を述べたが、ルイは黙ったままだった。


「吸い込まれていきそうだけれど、私だけ取り残されている・・・輝いていない星の紛れ(おぼろげな晄しか発しない星のこと 大気の状態に影響する)だと思っていた。

誰もが言うことが違うのは、各々に住まうお父さんとお母さんが居るから。

星を見て思い出す人も居れば海を見て帰りを祈願する人も居る

それは私のお父さんとお母さんだけれど、それは私から見ただけで、他の人から見たカズヤ・クロスとマリナ・クロスはちゃんと・・みんなの中に生きている。帰りを待っている。

だから。

・・・・私のお父さんとお母さんは、私が見ているところに居る。

星でも海でも風でも・・・あの人達は、自由だから。

ただ、それだけなのだと」

彼女は空を見上げた。両手を伸ばして・・・・無邪気にルイに囁く。嬌声ではなかった。歓声でもなかった。涙を含んだ祈声だった。


「ルイ・・・星の林が広がっている。

ルイは、こんなに・・・こんなに零れそうなほどの星を従えているのね」

07


「流れ星が・・・数え切れないね」

流星群が近接しているというわけでもないのに、流れ星が多々墜ちていく様がよく見えた。

ヒカルは声を上げる。

「何か、こういう時には祈り事をしないといけないのかしら」

ヒカルはそういって嬉しそうに流れ星が次に堕ちて来るタイミングを伺って瞬きの速度を遅くした。瞼を閉じている間に、彼女の願いが消えてしまわないように。

しかしルイはその様子を窃笑しながら見つめていた。


願い事は叶えてもらう者ではない。

・・・実現させるものなのだ。


どんなに多くの星々を従えていても。

星の林を支配したとしても。


それは、ルイの欲しいものではない。

それは、ルイが必要としているものではない。


・・・ヒカルは・・・まだ、わからないのだろうか。


「お喋りはそろそろ聞き飽きた」

彼は素っ気なく言ったが、ヒカルがひとしきり嗚咽を堪えて落ち着くのを待ってから・・・時間のないルイには珍しく相当の空白を置いていた後の言葉だった。

「言いたいことは終わったか」

「うん」

ヒカルの返答は幼かった。

まるで・・・初めてアルディ邸を訪れたときの頃に戻ったような返事だった。


「今日は来て良かった。ルイのことが少しわかったから」

「オレの何がわかったと言うんだ」

ルイが少し苛立たしげに言った。

それまで寡黙だったルイがいつもの口調より少し速めで彼女に糺問した。


「自分のことばかり話したかと思えば、オレのことがわかった?

ヒカル、君は随分と・・・空想の住人と話をするようなことを夢見たりするくらい、妄想するのが得意なようだけれども、人に聞かれると精神状況を疑われるから、そのつもりで言動には配慮してくれ」

闇夜で何も見えないのに、彼の苛立った妍麗な顔立ちが浮かんでくるようだった。


「星見を希望する脳天気なヒカルのために、こうしてやってきたことから、オレが慈善事業をしているっていうことを理解してくれたのかな?」

「ルイ、そういう風に自分のことを言わないで」

「言わせているヒカルに責任があるだろうね」

ルイは他人事のようにそう言ったので、ヒカルは黙り込んでしまった。

彼女は都合が悪くなるとすぐに黙り込む。本当に厭な女だ。

08


彼はとんとん、と寄りかかっていた車体を指先で叩いた。

肘を車体に軽く当てていたが、彼の整った顔がヒカルをにらみ据えていた。

パールブラックのボディに・・・ぼんやりと星明かりが照らし出されている。

「オレがここに来るのは、このボディが気に入っているからだ。

どれだけ塗装されても、ボンネットの曲線に湾曲が混じっていれば存在価値がない。

周囲が無点灯の悪路を、どれだけ走行できるのか、足回りの状態を知りたかったから。

ただ、それだけだ」

ルイは、ヒカルを乗せるために用意したものでもなく、ヒカルをここに連れてくるために場所を探したとは言わなかった。


気が向いたから・・・・

そう、ただそれだけだった。

シャルルが不在で、彼女は夜のフライトに搭乗すると言ったシャルルのことを酷く案じていた。

また・・また、いつかの惨劇が繰り返されるのだろうかという杞憂だった。

アルディ家のプライベートジェットを使用するから問題ないとあれほどシャルルが説明を加えたのに。

そして、そんな外出はいつものことであるのに。

彼女は・・・ここ最近、シャルルのフライトには酷く神経質だった。今頃になって。


ふさぎがちになり、一度部屋に入れば、出て来ない。

ルイの別棟からは、本邸の電灯がよく観察できるのだが、彼女の部屋だけは、明け方になっても明るいままだった。

・・・いつだったか、バルコニーに出て空を眺めている姿を見かけたことがある。

アルディ邸は常夜灯が設置されているので、空を見上げても郊外の別館のように鮮明に天体を観測することは出来ない。

そんなことはわかっているはずなのに。


星が見えないと言ったような、がっかりした表情を創っていることは、遠目にもわかった。


・・・いや。違う。

シャルルのことを考えて、彼女は・・・空を見上げているのだ。


幼い時には、感じていなかった情動がヒカルを突き動かしている。

そんな変化が彼女に訪れている、と彼女は気がついているのだろうか。

少女から・・・もっと違うものに変化し始めていることを認識しているのだろうか。

きっかけや理由はないのだ。

ただ・・・・シャルルが丹精込めて育てたアルディ邸の最上の華が・・・今。

莟をつけて咲こうとしているのだ。

それが苦しくてシャルルはああして業務を理由に彼女の傍を頻繁に離れている。

それなのに、すぐに戻ってくる。だから、夜間の移動を好むのだ。

極力不在日数を減らすために。

彼女が目覚めて彼の為に最高の薔薇を部屋に飾る前に。彼は戻って来る。

夜の帷の中を、晄る娘のために彼は夜空を駆け抜けてくるのだ。

・・・夏の時期はまだ先なのに。どうしようもないほどに。シャルルがヒカルに対して何かを感じていることを、彼女は感じ取って・・そして彼に向かって花片を開かせようとしている。

彼は、当主は・・・彼の愛でているファム・ファタルの花の香りが強くて・・・狂いそうになるほどの熱情をひた隠しにしている。


彼女は、ルイの遠い記憶の中にあるあの人に、ますます似てきた。

もっと・・もっと若い頃から知っているシャルルから見れば、ヒカルの成長を見守ることは、彼にとって喜びをもたらすのではなく、ただ久遠の苦悶を運んでくるだけだ。


何をしても、あの運命の人に結びつけてしまう愚かしい男のために・・・ルイはこうして生きている。

そんなことは許されなかった。

自分の子として認知しているルイより年若い彼女を、シャルルが迎え入れるには相当な障害と問題が山積することになる。

・・・しかし、あの男なら、遣りかねない。

苦難があればそれに屈しない誇り高さは、アルディ家には必須の素養だった。

不屈の精神と才覚とチャンスのすべてに恵まれた男は、一度、一族から追われている。

そのときのことを彼は忘れていない。

自分の後継になるものは自分の卑属でなくても才覚があればよしと公言している。

つまり、ルイは息子だからという理由で一切を相続できるということはない。

アルディ家の家訓の解釈について、アルディ家の条解を改めてしまったのだ。

家訓を書き換えることなく、彼は非合理的な部分について、現代の状況に即したものと言い通して改変してしまった。

だからこそもう一度上り詰めて、彼はああして長い間あの地位に君臨する。


09


「帰る」

彼は言った。

「星に願いをかけようとしている愚かしい姫君のために・・オレはここに来たわけではないから」

苛立ちが収まらない。いつもの時よりも、ずっと。

ヒカルがいつものヒカルでないから、いけないのだ。

ヒカルが滅多に明かさない自分のことを話し、ルイに微笑むから。

・・・それなのに、シャルルのことを案じて、流星にはシャルルの無事を願って祈りを捧げるのだろう。

観測できる奔星はすべて・・・シャルルのために祈りを捧げるのだろう。

アルディ邸で彼女がひとり・・バルコニーで佇む姿を見て。

ルイは、蠢く何かを内に感じた。

別棟に戻るときには、決して本邸には近づかない。

ヒカルが居るから。シャルルが眉を顰めるから。

それなのに・・・別棟から彼女の白い姿を見ると・・・心が軋むのだ。


自分はこうして、闇夜に吸い込まれていくのだろうか。・・・狂気の男を父に持ち、狂人となった人を祖母に持った。それだけではない。

科学の粋を集めて彼は創られた。

より、アルディ家の特質を受け継ぐように。

それには・・・悩乱の輻輳をも混じっているかもしれない。

ルイは時々・・そう、時々。

ヒカルとシャルルのことを考えると、こうして苛立ちを鎮めることができなくなる。

ヒカルに必要以上に言葉をかけるのに、必要以上に・・・彼女に冷たくあたる。

この欲求が何であるかを解明するつもりはない。

しかし自分はシャルルと同じ路を歩むつもりはなかった。


シャルルは長い間・・・

気の遠くなるような年月を、あの人だけを求めている。

未だにその人だけを定めてしまっている。

「運命の女」というものをルイは求めない。決して。

ああして自己を失うほどの感情は必要ない。


ボンネットの脇で、心配そうにルイを見つめているヒカルに、彼は素っ気なく言った。

「エンジンをかける。帰るから早く乗れ」

彼は顎をあげて、反対側の運転席に座るようにヒカルに指示をしたが、彼女は動かなかった。運転席のドアを開けなければ、移動しないということか。

・・・まったく、作法だけは高慢なくらいにシャルルの教えをよく記憶している女だ。

ルイは軽く舌打ちした。

そして運転席のドアを乱暴に開けて、そのままシートに座らずにエンジンキーをかけた。

キーレスシステムを採用しないのは、このシリンダの微細な振動が気に入っているからである。特別に仕様に関して、そのまま旧式のシステムで、と念押しをした部分だった。


一度だけ、大きな音が鳴って・・・・星の林の静寂は一瞬で消えた。

この路は一方通行だから、入り口ではGPSの追跡機能によってアルディ家の警備担当者が到着する頃だろう。見つからなければ・・・ヘリが飛んで、夜間に行方不明になったアルディ邸の若者2名を保護する名目で、大捜索が開始されるに違いない。

そしてすぐさま、シャルルの耳に入り・・その後のことは容易に想像できた。


これが悋気とか修羅の念であるとかいう言葉を使って表現できるものであることは、そのときのルイには気がつかなかった。

ただただ・・・ヒカル・クロスという自分を乱す人間が、はやくどこかに消えてしまえば良いのに、と思っていた。

しかし、それはできないから。

彼女がもたらす福音は・・・ルイの一存でどうこう定められるものではなかった。

彼は教育係のミシェルに指示されたように・・・淡々と、ヒカルの記録をつけていくだけだ。いつか・・彼女の行動記録が必要になる時がある。彼女の希なる福音を求めて・・世界中の者たちが群がる。そのときのために。


彼女の願いはわかっていた。

しかし・・・しかし、ルイはこれほどの星々が墜ちていく天を頭上に頂き、一体何を・・・希えば良いと言うのだろうか。


「ヒカル。早くしてくれないか。・・・それとも、別の迎えの車に乗って帰りたいのなら、そう言え」

ヒカルが運転席側のボンネットの脇で、俯いて立ったままでいるので、ルイはそのまま運転席に乗り込もうとしたが、言葉を切って、大袈裟に溜息をついた。


10


「それとも・・月を越して星まで行きたいか。それなら・・・いつでも還してやるよ。いつでも・・連れて行ってやろう。オレは・・星々を遵える星辰の子だからね」

少し自嘲的に言った。

彼女が天空に固執するのは、事故死したとされているヒカルの両親が出立したのがこんな星の夜だったからだ。

間もなく・・・その時期がやって来る。

ヒカルが魂を弔うために帰国し、その間シャルルが姿を消し、そして残ったルイがひとり・・・考えに耽る季節が近かった。もうすぐそこだった。

だからだろうか。彼女の固執がルイの癇に障った。


「ヒカル。オレは・・・繰り返さない。あと1分だけ待つ。乗り込むには十分な時間だ。

・・・それ以上は待たない」

彼はそう言うと、もう一度運転席を開いた。エンジンがかかり、静音設計のヒーターが作動したらしい。

僅かだが温度差のある空気が外に流れ出ていく。動かずに居るヒカルに向かって、急かすように彼はヘッドライトの点灯パネルに手をかざした。スイッチボタン式ではなく、フラットな温感式のそれに彼が細く長い神経質そうな指先をあてると、ライトが点灯された。


「ヒカル」

ルイは目の前の少女に苛立っていた。


自分の父を案じる、誰よりも絆の深いシャルルとヒカルを見ていると・・・不確かなものに縋り合っている惨めなものだとしか思えない。そんな者から、彼は生まれてきたのだろうか。そんな者の気質を色濃く受け継ぐように定められていたのだろうか。

そして・・・シャルルがヒカルを依り代にして、彼が思い切れないでいる運命の人について、違う感情を持ち始めていたとしたら・・・

ルイの予定はすべて変更を加えなければならなくなる。

目の前の少女は気がついていない。自分がどれだけの価値を持っているのか。

そして・・アルディ家が、どうしてシャルルが彼女を監護することを黙認しているのかについて深く考えていない。教育係で彼女にフランスで生きる術を教えたジルが彼女の目の前から姿を消した理由を彼女は知ろうとしない。

そんな・・・そんなちっぽけな存在に、どうしてこうもこの家の者たちは振り回されるのだろう。


ルイはまた、溜息を漏らした。

そして斜めにして運転席から視線を外した彼は、ヒカルに目を向けた。

冷たい・・・青灰色の瞳で、刺すように蔑むように彼女を見た。

「加減が大事だぞ。オレは遣ると言ったら本当に置いていくから・・・」

そう言ったとき。

ルイの言葉が途中で止まった。

エンジン音のせいで・・・聞こえなかっただけだった。

彼女は、泣いていた。嗚咽を抑えて、大きな両方の瞳から、紅の涙(※痛切な思いで流す涙のこと)を落としている。


「ヒカル」

滅多に彼女は人前では泣かない。

涙ぐむことがあっても、決して涙を流して訴えることはしない。

ルイは金の髪を掻き上げた。ライトに乱反射したその髪が眩しく更にヒカルの瞳を刺激したようだった。また・・・ぱたぱたと涙を落とす。


ヒカルは強い光線を発する光源の傍に立っていたので、彼女は逆光に立っている状態と同じだった。

ルイの金の髪が良く・・見えていなかった。

彼女のよく知る、彼女だけの天使が迎えに来たのかと錯覚するくらいに彼は・・・ルイはシャルルに良く似ている。

初めて会った時から、ルイはどんどん変化していく。

少女のような中性的な顔立ちだったのに、今では・・初めてヒカルとシャルルが出会った頃の若い頃のシャルルに良く似ていた。

画像データでしか残されていない、僅かな資料でしか残っていないシャルルの・・・少年時代を彷彿とさせる。

虚無と・・混沌と・・そして強く何かを思い秘めた顔だった。


行ってくるよ・・・


そう言った彼女の父の声が響いた。

確か・・ヒカルは「またね」と言って彼らを送り出した。

星が綺麗だから・・・星に近づいていくね、と嬉しそうに懐かしそうにそう言った母の言葉を突如として思い出した。

懐かしそうに・・・そう。

懐かしそうに『かつて私を月に連れて行ってくれると言った人がいた』と言っていた。

なぜ・・・なぜ、今、思い出すのだろう。

彼女の母を月に連れて行ってくれると言った人の傍で・・・今は暮らしている。


そして、良く似てはいるが、まったく違った魂を持つルイが、同じように。

同じように、ヒカルに言った。「星に連れて行こう」と。

まったくそのときとは違う意味であるけれども。


今夜はどうして、これほどたくさんの人の事を思い出すのであろう。

閉じられた記憶がどうしてこれほどまでに蘇るのだろう。


それは・・・星の林がヒカルに見せる幻惑なのだろうか。


ルイの頭上を越えた向こうの空で・・・星がひとつ墜ちた。

まるでルイに向かって惹き寄せられるかのように。


あの家には天使がいる・・・・


口が悪いが、星が見たいと言うヒカルの願いを叶えてくれた、星辰の天使が、今夜は・・・

今夜は誰よりも・・・違った人に見えた。いつもと違う・・男の人に見える。

ヒカルは少し顔を赤らめた。

懐かしいと思うのに。

これほど懐かしいと思うのに。


知らない男の人が居る。

少年から青年に変化しつつある、ルイ・ドゥ・アルディがヒカルだけを見つめている。

空から彼を慕ってこれほど星が堕ちてきているのに。彼はそれには興味がなさそうだった。

11


「泣くのは勝手だが、シートを汚さないように」

ルイが近づきながら、そう言ったので、ヒカルはちょっと笑った。

彼なりの表現であることを知っていたから。

本当にシートが汚損することを憂えているのでれば、彼はヒカルを置いてでもさっさとひとりで戻ってしまうだろうし・・そもそもここにはヒカルを連れてこない。


彼は泣くな、とは言わない。

ルイなりの言葉に、微笑みが浮かぶ。最近・・・話をしていなかった。

同じ邸に住んでいるのに、彼の在不在が判別できないでいる。

朝、ルイにも薔薇を持って行くが、彼が在邸していて自らそれを受け取ったためしがない。


そんな不思議な関係なのに。

ルイは、ヒカルが一番欲しい言葉を言った。

早く・・早く両親に逢いたい。

星を見ると思い出して切なくなった。

美しい景色をシャルルはヒカルに見せ続けるが、その時にはいつも胸が痛い。

涙が出るほど美しくて・・・懐かしく感じる。

初めて見るのに。

そして・・両親は幸せだったのだろうか、と思うかわりに、だんだん・・シャルルはこんな景色をたったひとりで見続けて孤独ではなかったのだろうか、と思うようになった。


ヒカルは微笑んだ。

ルイに泣かされているわけではないから。自分の涙の意味がわからないから。

説明できないから、これは反射だと思うことにした。

ライトの光が突然煌めいて、眩しいから。

漆黒の車体から突然・・・目の前に星が堕ちてきたかのように閃光が放たれたから。

彼が星明かりしか出ない夜を見計らって、観測に影響しないように目立たない低い車高のボディを持つこの車を選んでヒカルを乗せてきたことを知っていた。

まだ、調整が終わっていないと担当の使用人が言っていた言葉を聞いていたからだった。

自分で確認するから必要ない、とルイは言っていたが、彼がそのような作業を行うことは滅多にない。


ルイは遠回しすぎる。もっと・・もっと直接的に言わなければ、伝わらない。

そう・・・シャルルにもルイの声が伝わらない。ルイが求めない限り、シャルルは振り向かないと決めてしまっている。その理由がわからないから、ヒカルは未だにふたりの間を取りなすことができない。


ルイを心配させないように、笑った。

しかし、笑いながらも、ヒカルの瞳から次々と涙が溢れてくる。

悲しい涙なのか・・もっと違うものなのかがわからない。

シャルルがヒカルに美しい風色を記憶させていく度に感じる感情ととても良く似ていた。

涙が・・そのときだけは、涙が出そうになると、シャルルはふっと席を外す。

ひとりで居ないとヒカルが涙を見せないと知っているからだ。


自分の涙は誰にも見せないと決めていたのに。

どうして・・ルイの前ではこうして簡単に涙を流すのだろうか。

だからこそ、ルイは・・・ヒカルをとても遠回しに慰めているのだと思った。

彼はシャルルのようにヒカルの涙から目を反らすことをしない。

青灰色の双眸で彼女を見つめる。無表情で観察している。


星に連れて行こう。


ルイが、そう言った。

月でも星でも同じことだ。もう少し待てば、簡単に実現するだろう。

いや、アルディ家の唸るほどの財力と権力があれば今すぐ実現可能かもしれない。


しかし・・ルイは紛れもなく、アルディ家の子息なのだと思い知る。

彼の言動や立ち振る舞いや・・・思考の過程など、どれをとっても、何もかもが・・・シャルルに良く似ていた。


流れ星に願いをかけるとしたら。

星の林でひとつだけ、祈ることができるとしたら。


それは・・・・


「ヒカル。早くその生理作用を調節してくれ。時間が来た」

一分なんてとうに過ぎていたのに。

彼は・・・ようやく唇を開いた。気が付けば、彼はヒカルの近くに居た。

そしてヒカルの肩を軽く押した。

ヒカルは、涙を拭って、両の手の平で顔を撫でた。

瞼を閉じて、強く目頭を押さえた。

「はい・・・・・・それにしても惜しいわ。記憶に留めておくだけでは・・・とても綺麗過ぎる」

涙を落としながら、ヒカルは言った。

「本当に美しいものには・・・涙が出るのね。心が動かされるときに、人は泣くのね・・」

ヒカルが感想を漏らした。


こんな場所を見つけてくるルイは・・・やはり完璧だ。


ルイは黙ったままだった。

「ルイ、ありがとう」

彼女の背中に添えられた手がぴくりと動いたが、大きなエンジン音の振動で彼の鼓動や指の震えはヒカルに伝わらなかった。



12


「涙を止めろ」

ルイは囁いた。

暗い場所から明るい場所に移ったので、ヒカルの顔がよく見えなかった。

しかし彼女の涙声や、時折顎を伝って滴り落ちる水分が、どういう状態であるのかを明らかにしているので、ルイは低く呻いた。


この星の晄が彼女に遠い記憶を呼び戻させている。

この車の晄が彼女に遠い記憶を呼び戻させている。


「いきなり暗闇から明るい晄を見つめたので、目が眩み、寝不足が続いていたせいもあって何か・・・朦朧状態に陥っているのだろう」

ルイは、彼女の茫洋とした視線からそう判断した。些細なことで動揺する。

・・・アルディ家の者にはあってはならない。それなのに、シャルルは彼女には。

ヒカルには、そうであれ、と言って慈しみ育てている。

至情溢れる大人に・・あの人のように育て、とシャルルはヒカルに愛を注ぐ。

温室の品種改良の薔薇にどんなに与えても決して言葉は返ってこない。

けれども・・ヒカルの中で、何かが芽生え始めているのは確かなのに。

それに戸惑い、ルイの父は・・シャルルはこうして実娘ではないヒカルの処遇に思い惑っている。


「ヒカル・・・ヒカル」

彼は、彼女の名前を呼んで、軽く両手を添えて肩を掴み、自分の方に向き直らせた。


遠い記憶と、自分の中の願いが何であるかという疑念と・・・星の囁きや蠢きが、彼女を激しく動かしている。


「だいじょうぶよ、ルイ。私は・・・私は泣かないって決めているから」

「それなら・・・それは泣き顔と言わないで、どういう種類で分類すれば良いのかな」

ルイがヒカルの顎を軽くつかんで上に向けた。

青灰色の瞳が・・・ヒカルの顔をのぞき込んでいる。


青灰色の瞳にヒカルが映っている。


・・・・彼の言葉に、ヒカルが笑った。

「わからない」

「泣くか・・笑うかどちらかにしろ」

ルイが呆れてそう言った。若いヒカルの激しい心の移ろいに、戸惑っているような困惑しているような声だった。

「泣いたら、車に乗せてくれないでしょう?」

ヒカルがくぐもった声でそう言った。

いつになく言葉の多いルイに嬉しくなって破顔した。


本当は・・・・ルイは冷たいのではない。愛し方を知らないだけなのだ。

ヒカルはそう思った。


・・・この世には、誰も教えることのできないものが幾つかある。


シャルルの言葉を思い出した。


・・・愛を覚えることと、愛を忘れることだ。


彼らは決して忘れることはないのに。

彼らは決して繰り返さないのに。


それなのに・・・シャルルはいつも美しい風景を見せる度にそう繰り返す。

繰り返す季節を、繰り返しヒカルに見せて教える。


「・・・愚かな娘だ」

ルイがそう言ってシャルルと良く似た面持ちで、ヒカルの額に・・・自分の額を押し当てた。

ヒカルが驚いて、目を見開くが、彼の双眸が近すぎて・・・慌てて目を閉じた。

男性なのに・・ルイからは甘い薔薇の香りがする。


エンジン音が回転数を一定にして音を高鳴らせている脇で・・・・彼は彼の青灰色の星をヒカルに近づけた。

星が・・堕ちてきた。

ヒカルは目を瞑る瞬間、そう思った。


ルイは囁いた。消え入りそうなほどの小さな声で。

「星に還りたいのなら・・・いつでも連れて行ってやる。お前の魂は、あの星々と同じだ・・名前もない定められない星達に紛れていつの間にか消えてしまう。

ただのつまらない小娘でしかない。

自分ひとりだけが不幸だと自分を憐れんで消えて儚くなりたいのであれば、いつでも来い。

オレは星の子だ・・・・薔薇の子ではない」

彼はそう言って、言葉を句切った。

額から彼の温度と、声振が伝わってくる。

ヒカルは呼吸を顰めた。

大きなエンジン音さえ聞こえなくなってくる。ただ・・・ルイの静かな声だけが響く。


「だから・・・星辰とはそういう意味だ。

星を遵えるのではない。星図を記録していくだけで・・・そのひとつひとつがオレに近づいては通り過ぎて墜ちて消えゆく様を、ただ何をするでもなく眺めるだけに甘んじていなければならないという意味を込めた名前をオレに与えた者たちと・・・・同じ事をヒカルがしたいのであれば、いつでも星に連れて行ってやろう」


ルイはそこまで言うと、押し黙った。

ヒカルは目を瞑って・・ルイを拒否している。

これほど近い距離に顔を寄せることはなかった。

これが・・・何を意味しているのか、わからないヒカルではない。

予定を少し早めて・・・彼女を娶るための策を講じる準備に入っても悪くはない。


シャルルには渡さない。

ルイは定めていた。

ヒカル・クロスはシャルルの唯一の安らぎだ。その彼女との間に微妙な波風が立ち始めている事に対して、あのシャルル・ドゥ・アルディは、躊躇している。

フランスの華と呼ばれた傑物なのに。

娘ほどの年齢の遺児に心を奪われている。そしてすべてを変更しようしている。

彼はルイの遵える、決して変更することのできない星図さえ書き換えようとしているのだ。

星の玉座をルイに与えないために。


彼の高い鼻梁がヒカルの濡れた頬を擦った。

金色の柔らかい髪が、ヒカルの頬に吸い込まれてそしてまた離れていく。

髪が触れるくらいに・・・彼の星が光に近づいてきた。

天の星は彼に近づきたくて、彼に向かって堕ちて来るのに。

ルイは・・それを拒んでいる。誰もが近づいてきても彼は決して心を許さない。


彼が、愛を知ろうとしていないから・・・彼は愛を求めることすら知らない。

ヒカルは切なくなり、遣る瀬無い気持ちで溢れて、ルイに慌てて言った。

彼女は目を瞑っており、爆籟が耳を振動に共鳴していたので、気配を察知することができなかったが・・・彼の整った唇が彼女の唇に触れるか触れないかのそんな近い距離にあった。

13


ヒカルは見ていなかった。

ルイが眉を潜めて・・・

どんな表情をしているのか。

どんな顔をして、彼女を見つめていたのか。

普段あまり表情を豊かに変えることのないルイが切なく悲しそうに・・だがしかし、とても大切な何かが突如としてこぼれ落ちる瞬間を黙って見つめるしかない子どものように頼りなげな顔をしていたことを彼女は知らなかった。


ルイには手に入らないものが多すぎる。

星々が墜ちる都度、願い事をしていてもきりがないくらいに。

・・・でも欲しいものはたったひとつしかない。


願い事は流星を視認する都度、違うものにしなければならないのか。

同じ願い事を繰り返し願ってはいけないのか。


繰り返したり、何かに執着してはいけないよ・・・・


彼の教育係の低いバリトンが聞こえてきた。

何かに強く恋着すれば、ルイの目的は達成できない。

ルイの生まれた意味が消失してしまう。


「ルイ・・・私。私、今、願い事をしたの」

ヒカルが、そう言った。

ふっと・・・目の前の気配が軽くなったので、ヒカルは目を開いた。

彼女がルイに話しかけたのはそのときだった。

ルイの青灰色の瞳があったが、もうそれはいつもの距離にあった。

彼は誰かを・・体温近くまで傍に寄せることはしない。彼の心はいつももっと遠いところにある。それが、今、一瞬だけ・・・近くに来た。


それは、直前の流れ星にヒカルが「ルイともっと近くになれますように」と祈ったからだろうか。


今日、出掛けるからと言われた時に、天の状態が良く、大気が澄んでいるので、流星をたくさん眺めることができるかもしれない、と思ったとき。

ヒカルは、決めていたことがあった。


祈ってみようと。

・・・神を信奉しているわけではなかった。

アルディ家にはそのような習慣があったが、シャルルはヒカルに強要しなかった。

そのかわりに・・彼女は2つの国の考え方のどちらかだけを選択することができずにいた。

神に祈るのではなく、月でもなく太陽でもなく・・・星に祈ってみようと思ったのだ。

流星が墜ちるときは、人の命が消える時だと教えられた。

厳かな瞬間に・・・・自分の満願成就の祈願を捧げるのは滑稽だと思うが、だからこそ。

彼女の両親の星は、まだ落ちていないと思いたかった。

たとえ・・墜ちていたとしても、ヒカルに向かってまっすぐに墜ちてきてくれると思っていたのに。


それなのに・・・彼女に星の迎えは来なかった。

その代わりに・・・その星々を遵える人が、迎えに来た。

ヒカルを星に連れて行ってやろうと言った。


だから・・・彼女は直前で祈る内容を変更した。

いや、思いもかけず・・・自分の願いが違うものであることに気がついたのだ。


流れ星に祈りを捧げる内容を、ヒカルはあらかじめ決めていた。

2つ、流星が観測できれば良いのにと思っていた。優劣がつけられなかったから。

ひとつは・・・いつか両親に逢えますように、と願うこと。

もうひとつは、シャルルが無事に帰邸するように、と祈ること。


それなのに・・ヒカルはその瞬間に、祈ったのだ。いざというそのときに。

彼女は願いを口にすれば叶わないと言い伝えられる日本の風習を破ることにした。


「私・・・こうして時々、ルイと星を眺めたい。ルイとずっとこうして・・・星の林で空を眺めたい。ルイと・・・家族になりたい」

「願い事が多すぎる」


ルイは即答した。

「願望とは多いほど・・・叶う確率も低くなる。統計学の論文でも読んでおけ」

彼はそう言ってから、彼女の頬を大きな手の平で・・乱暴にひと撫でした。

ヒカルの濡れた頬が、ほんの一瞬だけ・・・彼の手の平の中に包まれた。

彼の手の平は温かかった。それは、ヒカルの頬が濡れていたからであったが。

冷たいと思っていた人の手が・・温かかった。

手が冷たい人は心が温かいと言った人が居た。でも、ヒカルは・・ルイはあたたかい、と思った。アルディ家の親族は、ほとんどが彼女に必要以上に声をかけない。

礼儀正しいが、ヒカルはあくまでも異邦人であり、人種も国籍も違い、シャルルの養育を受ける理由に相当するものを兼ね備えていなかった。

日本贔屓のアルディ家であるのに・・・あの国を信用しているのかそうでないのか、わからなかった。

それくらい、考えを理解しようとして近づこうとしても拒絶され続けた。

これが文化の違いなのだろうか。環境の違いなのだろうか。

シャルルがそうだと気付かせないように配慮しても・・所詮、彼女はヒカル・アルディにはなれないのだ。ドゥという称号が欲しいのではない。

彼女は家族が欲しかった。

数多の星を眺め上げる安らぎの星の林が欲しかった。

シャルルが現実を感じさせないように・・ヒカルに最大の配慮を捧げるけれども、それは完璧ではない。どうしてもヒカルの憂いをすべて払拭するほどまでに隠し通せるものではない。彼の当主の権利をもってしても、ヒカルへの冷遇はおさまるところがなかった。

あの国の者と関わり合いになって被った様々な被害だけが禍根として残った。

だから・・・ヒカルは凶つ神の使徒であるとさえ囁く者が居る。


しかしルイは違った。

冷たいけれども・・・とても酷薄だけれども・・・けれども、あたたかかった。

彼は、ヒカルの言葉に耳を傾けた。

彼女に星に行こうと言った。

星の林に彼女を引き出した。

決してシャルルが見せなかった景色を・・・彼はヒカルに見せる。

白金の髪の人と違う景色を、金の髪の人はヒカルに突きつける。

これが・・これから先に訪れるルイとヒカルの関係を暗示するものだとは、互いに、気がつかなかった。


彼らは・・若かった。

彼らは未来を知らなかった。

14


「ヒカル。・・・その言葉を撤回する日が来ても、オレはその言葉を忘れない」

ルイが静かに・・・彼女に宣言した。

唇の端を少し持ち上げて、青灰色の瞳でヒカルを射貫いた。

いつものルイの表情だった。


「ルイ。私はアルディ家のように、名前に誓えない。けれども・・・星に願いをかけたら・・それを覆さない」

彼の忠告とも宣言とも言えない言葉に、ヒカルは苦笑して言った。

血の繋がりを厭うルイと、血の繋がりがあれば良いのにと希うヒカルが、星空の下で向き合った。


本当の・・本当の絆とは何だろう。

ヒカルは思った。

愛を忘れることも・・・覚えることも誰かに教えてもらうわけではない。

でも、愛されることがどんなことなのかということは誰かに伝えることができる。

ヒカルはシャルルから慈愛を受けている。

哀れみでも蔑みでも良い。

それでも・・・

誰かを思うことについて、ヒカルは学んだ。


「取り消すこともできないし、なかったことにもできない」

「良いよ。・・・私の願いは変わらない」

「いつか・・その願い事がヒカルを滅ぼすことになるだろうから、そのつもりで」

ルイは静かに言った。

怒りも苛立ちも感じさせない、静かな口調だった。

ヒカルはまだ濡れていた頬を拭いながら微笑んで、目の前の星辰の子に僅かに微笑んだ。


そして、言った。

「私はルイ・ドゥ・アルディという星に願いをかけた。だから・・・・ルイがそうしたいと思うのなら、それでも良いよ。私の願いが叶えてくれるのなら」


ルイは無言だった。しばらくの間、焦点が合わなくなって、いつものように薔薇園のベンチに腰掛けて、深く物思いに沈んでいる時と同じ状態になった。瞳が虚ろになり、薄い唇が少し持ち上がった。

しかし、それはほんの一瞬の間のことで、やがてルイは首を振った。

「馬鹿馬鹿しい話だね、ヒカル」


けれども、そのときにヒカルを見つめなかった。

視線を反らして整った横顔を見せたルイは、下唇を噛んだ。

ぎゅっと・・・拳を握ると、何かを思い切るように一度だけ大きく息を吸った。

彼が何かを諦めるときは、溜息を漏らすのではなく、息を吸うのだと、ヒカルはそのときになって初めて知った。

そしてそんな彼の佇まいは、溜息が出るほど・・・ヒカルは溜息を漏らしてしまったほどに美しい。

星辰の美神がこの世に降り立った時に、この世が決して廉潔なことばかりではないことを知って歎く絵画のようだった。

一番・・・星に還りたいと思っているのは、本当はルイなのではないのだろうか。

ルイの一族は、薔薇の一族と呼ばれて、彼は薔薇の香りの中で育った。

しかし・・・彼は星の晄を浴びて最も美しく輝く薔薇なのだと思った。

・・・・大地に根を張ることを躊躇っているかのように思える。

本当は星に還りたくて仕方がないから・・・星を見上げることを諦めてしまった薔薇に見えた。恋しいから星を見ない。還りたいから・・・星を見ない。

15


「私の願いを聞いたから、ルイは決して忘れないと言ったから、ルイはきっと願いを叶えてくれる。・・・・ルイ・ドゥ・アルディというお星様は、約束を破ったり嘘をついたり、間違えたりしない」

ルイはその言葉を聞き終えることなく、彼女の肩を掴むと、車の助手席に向けて力を込めた。

彼女から顔を反らし、ヒカルが大人しく従うように彼の躰にヒカルの躰を押しつけて強い力で、彼女を助手席に押し込むために、扉を開けた。

着やせするので、普段はわからないが、彼は乗馬とフェンシングで鍛えており、完全に調整されたルイの躰が押し当てられてしまえば、ヒカルは身動きどころか、彼の顔を覗くことすらできなかった。片手でヒカルの肩を抱き、反対側の腕を伸ばして助手席のドアを開けた。

「姫君。エスコートが必要だというから、付き添ってやった。だからさっさと乗れ」

ヒカルが軽い悲鳴を上げたが、無視して助手席に放り込んで、乱暴にドアを閉めた。

大股で、反対側の運転席に乗り込むが、その所作も酷く荒々しかった。

優雅で静かで流れるような物腰のルイが、音を立てて、荒く、粗雑だった。

押し黙ったまま、ルイがヒカルを完全に無視していたにも関わらず、車を出発させなかったので、ヒカルは躰の向きを変えて、助手席からルイに顔を近づけた。

自分に対して憤っているのはわかった。

しかし、自分のこれまでの何が・・・何が彼を怒らせてしまったのか、ヒカルにはまったく理解できなかった。

どこで静かなルイからこのような激昂した彼に変わったのか、その起点が知りたかったので、ヒカルはおずおずと、小さな声で彼の名前を呼んだ。


「・・・ルイ?」

「ああ、くそっ!」

ルイが突然、声を荒げて、どん、と革巻きのハンドルに手の平を叩きつけたので、クラクションが大きな音を立てる。

「ルイ!」

ヒカルが驚いて声を出し、それが余りにも大きな反応であったことに自身が驚いて、慌ててヒカルは自分の両手を口元にあてた。

彼が怒鳴るところを初めて見たからである。


・・・このまま触れて居れば、ルイは予定を早めることに計算を始めてしまう。

ヒカルをこのままアルディ家に帰さずに、

それは時期尚早に他ならないので避けることにした。

思い通りにならない女。計算通りに導けないヒカルの言動。


ヒカル・クロスはいつもそうだ。

ルイが幾通りも場合を考えているのに、そのどれにも当てはまらない。

類似しているようで派生しているようでまったく異なる結果を彼女はもたらす。

だから落ち着かなくなる。だから苛立つ。


「オレがヒカルの日月星辰だと言うのか?・・・精神錯乱を起こしているとしか思えない」「だって・・ルイは私のお星様で・・私はルイが星からやってきた天使だと思うくらいに・・・綺麗で完璧で何でも出来て・・・」

「それでオレに願いを叶えてもらおうと思っているのか。図々しいな。・・・おこぼれを期待しているのか」

ルイがそう言ったので、ヒカルは困り果てて口をつぐんだ。

彼がこれほど怒り出すとは思っていなかった。

ヒカルが・・家族になろうと言ったことがそれほど気に障ったのだろうか。

ヒカルが・・ルイはヒカルの星だと言ったことが、それほど迷惑だったのだろうか。


「ごめんなさい」

ヒカルは俯いた。

彼が先ほどから激怒しているのにも関わらず、ヒカルの方を見ないことが悲しかった。

白い頬が紅潮しているのが見て取れるくらい、彼は憤っている。


・・・シャルルとの不仲はますます酷くなるばかりだった。

ヒカルへの妄愛が原因だと言う者も居たが、そうではなく・・シャルルは意図的にルイを無視し続けている。

自分は高慢だったのだろう。

施しを受けるくらいなら、その相手を滅する、と常々言い切るほどに誇り高いルイ・ドゥ・アルディであることを忘れていた。


この星の林で、少しだけ・・・ヒカルはルイと近くなったと思った。だから・・・慢心したのだ。ルイが自分に寄ってくれると思った。ルイに近付けると思った。


「詫びるくらいなら、最初からそんなことを言うな」

ルイが言っている「そんなこと」とは、ヒカルが「家族になろう」と言ったことだろうか。

しかし彼女は撤回しなかった。

「それなら、謝らない。・・・ありがとう、と言うことにする」

ヒカルがぽつりと言った。

正面を向いたままのルイが、大きく瞬きをした。

彼女の言葉に耳を傾けている証拠だった。

・・・エンジンの音と、効き始めた空調の微風が車内を包んでいる。

彼はヘッドライトを消灯して・・・そして無表情に、シートに寄りかかった。

新しい革のシートが軋む。


「なかったことにもできない。覆すこともできない。・・・だから願い事は慎重に言えとルイが言ってくれたから。私は私の願いをようやく・・今まで言えなかった言葉を口に出すことが出来た」

16


「自分にだけ都合の良い考え方をするのだね」

ルイはそう言って片頬笑んだ。

「言えなかったのではない。ヒカルは言わなかった。自分で自分を憐れんでいる者は、常に、誰かが自分を変えてくれると思っている。何かを享受することばかりに熱心だ」

ルイはそこまで言って押し黙った。

声を出せば出すほど、ヒカルを追い詰めていく。

彼女が返答できないような言葉で責める。

しかし・・・彼女が決して怒ったり歎いたりしないで、ただただ・・・ほんの僅かに泣きそうな顔をして、唇を噛み、そして黙ってルイを見つめる茶色の瞳が・・・ルイを余憤冷めやらぬ状態にさせている。

わかっている。

自分で自分の震怒を呼び起こしているのだと言うことは、ルイはよく理解していた。

ヒカルを泣かせたくて言っている言葉なのに・・・思い通りに彼女を傷つけていることに落ち着かないのだ。


「星に願いをかけるというのは、非科学的極まりない発言で、とてもアルディ家のゆかりの者とは思えない」

ヒカルがぐっと息を止めた。・・・・彼女は、アルディ家のゆかりの者ではない。

そうありたいとヒカル自身は切望しているが、決してそうはなれない。

「惨めな玩具だな。・・・愛翫物として素直に生きていれば良いのに。・・・オレと家族になりたいなどと、叶わぬ思いを口にする、可哀想な生き物だ」

「・・・・それでも、ルイは私の願いを叶えてくれる」

ヒカルがはっきりとそう言ったので、ルイは物憂げな青灰色の瞳を、その時になって、ようやくヒカルの方に向けた。


「私を星に還してくれる。・・・私が・・お父さんとお母さんに逢いに行ったら。

私は・・・・晄になりたい。

風でもなく、水にも土にもならないで良いから・・・晄になりたい。

星の晄だったら、シャルルもルイも見上げてくれる。

空を見て・・・シャルルはあの日の事を思い出して悲しくなるかもしれないけれど、でもきっと見てくれる。

ルイは、たくさんの星々を遵えているから・・・。

私はその中に埋もれてしまうかもしれないけれど・・・私は星辰の子に向かって、晄を出し続けるから」


昔々、風に還りたいと言った人が居た。母の親友だ。

肉体がなくなったら、風になりたいと言った人が居た。風のような愛が好きだと。

その人も、別の人からそう教えられた。

その話を聞いていたのに。


ヒカルは晄になりたいと言った。

そしてそれを叶えてくれるルイと家族になりたいと言った。

「・・・家族の定義が曖昧だよ、ヒカル」

ルイが小さく言うと、ヒカルは茶色の髪を揺らして、首を少し傾けた。

その仕種は誰にも教えられていないのに、彼女の母の仕草に良く似ていた。


・・・・数多ある星々から、ヒカルを見つけられないということはあり得ない。

彼女の希なる晄は・・これからアルディ家に大きな恵みを授けることになる。

まだ、彼女が知らないだけだ。


ヒカルはルイの言葉を聞いて微笑んだ。簡単なことだ、と言わんばかりに即答した。

「・・・星を一緒に見上げる人のことよ」


だから、早くシャルルやルイと・・星空を眺めるようになりたい。


ぽつり、とヒカルが言い加えた。

シャルルはあの日のことを思い出すから、星空を見上げることができない。

星を見上げて、流れ星よりゆっくり進む晄が近づいてこないかと・・・待ち焦がれた彼らを乗せた機体の点電ではないかと何度も遠くまで見つめたことを思い出すから。

ルイは、星々には興味がないから、星空を見上げない。

彼はそれらを統べる者、という美称を与えられているのに、その星の晄ひとつひとつに込められた意味に関心がない。


しばらくの間・・・

ヒカルとルイは、互いの瞳を注視していた。ただ・・・無言で。

パールブラックのボディに、星明かりが移り込んで、仄かに白く輝いていた。

彼らが座っている車内からでもよくわかるほどの、星の林からこぼれ落ちるほどの眩い星晄だった。

室内灯を点けていないので、彼らの双眸だけが・・光って動かずにそこにあった。


まるで、このまま、この車体ごと星の籠となって・・・・本当に星に行けるかのような、そんな幻想的な仄淡の晄に包まれていた。


「星だけではない。家族とは・・・夕焼けも・・朝焼けも・・・海も空も月も・・・何もかもを一緒に見上げる人のこと」

「ヒカルの家族とは、随分と手軽だな」

ルイがそう言いながら、不意に身を起こし、タッチパネルに指を伸ばして、ヘッドライトを全灯にした。

ハンドルを握った。


・・・一瞬、エンジンの音が聞こえなくなり、震動を感じなくなった。

ヒカルの茶色の瞳は闇間では判別しにくい。

それなのに・・それなのに、彼女の双眸から漏れる晄が・・・数多あるどんな星よりも、眩しくなってルイは視線を反らしたのだ。

彼は星辰の子なのに。・・・それなのに、これほど小さな晄に・・・身動きが取れなくなったのだ。

星々を遵える者なのに、彼は・・抗えない何かを感じて、急速に現実に引き戻さざるを得なくなったのだ。そのまま茶色の瞳に吸い込まれそうになったから。

その時には・・・彼女が泣いて叫ぼうがこのまま、彼女を・・・・


そこで彼は冷静を保つために、故意に車を走らせることにしたのだ。

ルイは短く言った。

もう、いつもの彼の口調だった。

今度こそ彼の様子は変化することはなかった。


「車を出すぞ・・・注意は促したから。悪路で舌を噛んでもオレの責任ではない」

「前を向けってことね」

ヒカルが慌てて正面に向き直り、シートベルトを装着する。

そして、改めて、ヘッドライトで晄の路ができた進路を遠く見つめた。


オレは忠告したよ、ヒカル。


彼女は家族になりたいと言った。その言葉が、彼女を滅することになるかもしれないとルイは宣言した。それなのに、その願いは撤回しないとヒカルは言った。

・・・だから。


本当は、その願いそのものが・・・ルイを滅する言霊になったのかもしれない。


しかし・・彼はヒカルの言葉を聞いて、胸が締め付けられるほどに苦しくなったので、それを面に出さないように、運転に専念することにしたのだ。


なぜ苦しくなるのか理由を考えるのはやめた。

なぜ疼くような痛みを感じるのか原因を探るのは後回しにした。


ルイは、革巻きのハンドルを握り締めた。

いつもは軽く指を添える程度にしか触れないというのに。


「・・・このまま星まで行けるかな」

「さあね」

彼が暗闇の中で加速したので、ヒカルは大きな震動に悲鳴を上げた。

「・・・ルイ!運転が乱暴だよ」

ルイは冷たく言い返した。

金の髪の下の表情は、横を向くことができないほど荒い運転だったので、ヒカルは眺めることが出来なかった。

「車の調整だから。・・・ヒカルの乗り心地を優先しているわけではない」


今まで、星々は・・自分を通り過ぎてそしてその星図や運星を書き換えることは赦されなかった。

だがしかし・・・・シャルルの座っているあの地位でなら、それも可能だった。

アルディ家の行方を大きく動かすこともできる。

シャルルを・・・生きながらに死にたいと思わせる状態にすることもできる。

シャルルが彼女を保護するために。運命の人との繋がりを断ち切れないために。

ヒカルの実家との関係を深めていくのであれば。


・・・・それを使わせてもらおう。

ルイは心の中で呟いた。


ヒカルは星になりたいと言った。

そうではない。星に還してやるつもりはない。

彼の手中の珠晄としていつまでも・・・彼の傍にあり続ける永遠の晄であることが、ルイには必要不可欠な材料だ。


初めて。

ルイ・ドゥ・アルディは、初めて・・・・

星を動かしてみようか、という気になった。


今までは興味が無かった。

単なる天体の動きでしかなかった蠢きを、自分がどうにかすることができるのであれば。

ヒカル・クロスという名前の永遠の晄を・・・墜ちる前に、彼の手元に惹き寄せることが出来るのかもしれない。

あのフランスの華ができないことをルイ・ドゥ・アルディがやり遂げるとしたら。


「ヒカルがもう一度、その言葉を言う時が来る。・・・すぐに。そう、それほど遠くない未来に」

ルイは言った。予言めいた言葉を口に出したので、ヒカルは一瞬耳を疑って、隣のルイを見たが、彼はヒカルを見ることはなかった。

ただじっと・・遠くに輝く、アルディ家の迎えの車が対向車線から近づいて来るのを見つめているだけだった。


・・・晄が近づいて来る。


ルイが呼んだから。ルイは・・・初めてそのときに知った。

「星辰の子、というのも悪くはないね」

彼はそう言って微笑んだ。


ヒカル。

ヒカルが、もう一度そう言ってオレに願いを乞う時。

その時にはもう・・戻れないから、そのつもりで。

彼は忠告したが音声にはしなかった。


「またこんな星空が見られると良いね。ルイ・・今度はシャルルも連れて来よう」

ヒカルがそう言うと、ルイは冷笑した。

あり得ない希望を述べているヒカルのその願いは、叶えてやるつもりはまったくなかった。


ルイは言った。この上なく・・・甘く魅惑的に青灰色の瞳を煌めかせた。

そして、金の髪の下の、シャルルに良く似てはいるがまったく違う微笑みで、彼は憫笑した。

それでいて、ルイ・ドゥ・アルディは少し楽しそうだった。


「ヒカル。・・・永遠の晄という名前のとおり・・・オレに遵え。星をやろう。星に還してやろう。・・・星に連れて行ってやろう」


そこでいきなり速度を上げたので、ヒカルは彼の言葉を聞くことが出来なかった。


後には、白濁するほどに光り輝く星の林とだけが残り・・・黒い車体は、星々の晄を受けながら淡く発光して・・・その場を走り去った。

どこまでも。

どこまでもそのまま進んでいきそうな程に躊躇いのない運転だった。


星辰の子の気の向くままに。

・・・永遠の晄を伴って。


FIN




櫻夢櫻栞 前編

櫻夢櫻栞01:ルイ・ドゥ・アルディが見事な金髪を、櫻風に揺らして靡かせている姿は、フランスの華と呼ばれているアルディ家の当主の横顔ととても良く似ていた。しかし、彼と違うところはその髪の色であり、櫻の花びらの咲き乱れる様に無感動であるように表情を変えない徹底された冷たさにあった。


櫻夢櫻栞02:彼は整った顔立ちに虚無しか浮かべていなかった。青灰色の瞳に沈む孤独と誇り以外には、彼はまったく何も感じていないような冷たい冴えた視線しか持たなかった。なぜなら、彼はそうやって生きるようにと予定された命だったから。誰も彼に何も教えなかった。それ以外の生き方は知らない。


櫻夢櫻栞03:アルディ家の当主は、極めて熱心な親日家だった。それは、彼の若い頃の・・「青春の輝きの時代」と言われている頃よりずっと前の代の当主からの習性であった。なぜ、あの東の国のことをこれほどまでに愛でるのかということについて、決して誰も理由を明かさない。


櫻夢櫻栞04:暖かい風は、彼にとってはただ障るだけだった。ルイ・ドゥ・アルディはアルディ邸の広大な敷地の中に設置された櫻木の下で、大きな吐息をついた。憂いの溜息と言うには複雑に、様々な物思いが詰まった嘆きの無音であった。櫻の木の下で。彼は、彼だけしか知らない呼吸を繰り返す。


櫻夢櫻栞05:親日家として知られるアルディ家の現当主より以前の主から植えられた櫻の木は、今では巨木になり、使者として毎年この家に春を告げにやって来る。しかし、それは彼の気鬱を呼び起こす春光でしかない。あの国を思い出す度に、この家の主は深く憂え、アルディ家は闇に包まれるから。春なのに。


櫻夢櫻栞06:この櫻の木の下で、かつて、幼いヒカル・クロスを探し当てたことがあった。それほど苦もなく。しかし、彼が今、どこかの古典のように、櫻の木の下に埋まっていたとしても、誰も気が付かないのだろうと思った。それは僻みなどではなく、真実であった。彼の思考を読み取る者は居ない。


櫻夢櫻栞07:家族がいない彼女と、家族がいないに等しい彼と、どちらがより強く生き残ることができるのだろうか。澱みにより彼は自由を奪われている。この家の頂点に立つべくして生まれて来た。が、彼の生命の意味を剥奪しようとするこの家の主のことを憎むことができれば幸せであったのだろうか。


櫻夢櫻栞08:彼は、独りになりたいときにはいつもこうして薔薇園をそぞろ歩く。一つの場所に固執することはない。それは禁じられて生きてきたので、彼はそれ以外の術を知らない。知っても採用しないのだろうが。何かに拘ることによって本当に手に入れたいものを逃すようなルイではない。


櫻夢櫻栞09:けれども、この季節のこの場所にひとりでやって来る。もう何度こうしたことだろう。何年・・・こうして過ごしているのだろうか。誰も知らない、彼だけの秘めたる物思いを櫻の花瓣と一緒に散らしているだけだった。そう。ルイは彼の最も近しい教育係にでさえ言わないことが多々在った。


櫻夢櫻栞10:櫻の色は濃い色ではないのに鮮やかに彼の網膜に記録を残していく。記憶ではない。記録になって、彼の脳に蓄積されていく。そのどれもが彼を満たすことはない。それなのに。固執してはいけないのだと言われているのに、彼はこうして密やかに魂の秘密を誰とも共有しないという秘密を持つ。櫻夢櫻栞10:櫻の色は濃い色ではないのに鮮やかに彼の網膜に記録を残していく。記憶ではない。記録になって、彼の脳に蓄積されていく。そのどれもが彼を満たすことはない。それなのに。固執してはいけないのだと言われているのに、彼はこうして密やかに魂の秘密を誰とも共有しないという秘密を持つ。


櫻夢櫻栞11:彼を包む香りは薔薇のそれではない。慣れた大気と異なる異質の花瓣からの花気がルイの美しい顔を顰めさせていた。この邸には薔薇が溢れている。それは彼らの象徴だから。しかしルイはフランスの華と呼ばれている彼と違い、星辰の子という称号を持っている。それは薔薇ではない。


櫻夢櫻栞12:ルイは散り降る櫻の花瓣の雨に打たれながら、沈む想いに耽った。彼が彼だけの時間に溺れることができるのは、僅かな瞬間だけであった。思考の漣が彼の意識を遠く連れ去る。ルイは物憂げな青灰色の瞳を移動させて、庭の向こう側に広がる主の住まう本邸を見つめた。


櫻夢櫻栞13:彼がその場所で頂点に立った勝利感を味わう日は来るのだろうか。ルイは元々・・達成感や勝利を味わって声高に言う類の人間ではなかった。そこに上りつめた先を幾通りも考える。しかし、そこにはいつも・・・彼ではない者が寄り添う彼の姿しか想定できない。彼女がいつも傍に居る未来・・


櫻夢櫻栞14:彼は櫻の大木の下で、淡い吐息を漏らす。親日家として名高いアルディ家には、あの国を象徴するべき・・・主が欲して止まない・・ファム・ファタルへの想い出がそこかしこに溢れている。だからこの邸はルイの趣に障る。彼が当主になったのなら、即座に抹消するべき対象の一つであった。


櫻夢櫻栞15:簒奪するつもりはない。しかるべき手順を踏んで荊座に座らなければ、当主は今ひとたび、ルイをあの時と同じように・・・追いつめて追い落とすために全身全霊をかけるのであろうということは明白であった。だから、彼が自らの意思でルイに座を明け渡さなければならない。


櫻夢櫻栞16:彼は大きく息を吸って、空を見上げた。

空を見たはずなのに、彼の切れ長の青灰色の双眸の前には、桜色の絨毯のような色が広がる。

均一でありそれでいて不均一な空間が広がるばかりだった。ルイはベンチの背もたれに両腕を伸ばし、長い脚を組んで、軽く目を瞑った。


櫻夢櫻栞17:自分はここでひとり静寂に包まれて、このまま・・・消えてなくなりたいという欲求に疼くことはない。花瓣に囲まれて孤独な時間を過ごすことで自分自身を癒していたシャルル・ドゥ・アルディと同じ行為に耽って自らを慰めることはしない。彼らの誇り高さは同じであった。


櫻夢櫻栞18:しかし時折・・・こうして独りになりたいときがある。孤独を嫌って孤独を癒すシャルルとは逆に、孤独であることを確認するためだ。そんなときに決まって彼の邪魔をする者がおり、彼は現実に引き戻される。

そう。決まって、必ず。今もまた、彼に静かに忍び寄ろうとしている人物がいる。


櫻夢櫻栞19:「オレの邪魔をしたいのであれば、もっと創意工夫を披露してくれないか」ルイが冷たくそう言ったので、足音は止んだ。静かに近寄ったつもりでも、彼には通用しない。僅かな風の流れや呼吸音や気配から、ルイは彼の背後にヒカル・クロスが回り込んできたことを知っていた。最初から。


櫻夢櫻栞20:彼の冷たい拒否を受けながらも、ヒカルはいつも彼と話をしようとする。こちらには、彼女と共有したいという話題は全くないというのに。「ルイが戻って来ていると聞いたから」彼女は唐突に話し出した。「それがオレの思考を止める理由になるとは思えないがね」「考え事をしていたの?」


櫻夢櫻栞21:「どうかな」彼は曖昧な返事をした。ルイが不明瞭な答えを出すことはない。それはヒカルの言葉の続きを拒絶するための言葉であったことに彼女は気が付いたらしい。すぐに顔を曇らせた。東洋人の父母から生まれた娘であるが、祖母は仏人である。何とも言いがたい雰囲気を持った娘だった。


櫻夢櫻栞22:首を傾け、大きな茶の瞳を彼に注ぐ。振り返ると、思い描いたとおりの姿があったから・・・彼は黙ったままだった。青灰色の瞳は透き通るように冴えた物憂い感じを兆していた。櫻の樹の蔭で、彼は日の当たる場所に立ち尽くすヒカルを軽く睨み据えた。贖罪の娘は、どこに行き着きたいのか。


櫻夢櫻栞23:「邪魔はしないけれど・・・もう少しここにいても良い?」彼女はそう言って、感嘆の吐息と一緒に、顎をあげて、空を見た。空を見たのではない。櫻色の薦(こも)を見たのだ。彼を覆い尽くすような巨木が撓わせる櫻色の花瓣に、彼女は驚嘆していた。毎年見る光景なのに。理解できない。


櫻夢櫻栞24:「貴女が居るだけで邪魔なのだとはっきり言わないとわからないのかな」ルイ・ドゥ・アルディは素っ気ない口調でそう言った。貴婦人への礼として、彼女に席を譲り、花を愛でる彼女に対して、美の讃辞を述べなければならない責務を放棄した。苛立たしい娘だ。そんな感想しか持てなかった。


櫻夢櫻栞25:彼には感情は非合理的で非生産的なものであるという認識しかない。長い時間を過ごしても、ヒカルという人物については不可解だという結論しか持てない。だから感情を持たないことにした。執着してはいけないと言われている。が、彼はそう言われているのに。・・桜の季節にひとりで過ごす。


櫻夢櫻栞26:それと同じように、ヒカルに対しては彼は無感情であり続けようとする。他のすべてのことには、無感動で居られるのに、彼女に対してだけは、無感情であろうと努める。これが一体何を意味しているのか。彼は適切な解答と対処法を知っているのにそれを実行しない。そうする必要がないから。


櫻夢櫻栞27:「それでも、ここに居たいと言ったら、それはルイにとって迷惑そのものなのかな」ヒカルが囁いた。囁くような小さな呟きであったが、ルイの耳には届いていた。彼は、まったく無関心を装っていながら、全神経を彼女に注いでいるのに。それを彼女は気が付かない。崩壊の鐘の音が聞こえる。


櫻夢櫻栞28:彼女が足を進めて彼に一歩近付く度に、彼は何かが崩れていくように感じる。ルイはベンチの背もたれに重みを預けて、そして櫻色の空を見上げた。彼の脳裏に焼き付くどんな色よりも淡く儚くそれでいて鮮やかだった。桜の国からやって来た、贖罪の娘は言った。「ルイ、御願い」と。


櫻夢櫻栞29:「桜の樹が恋しいのなら、あの国に帰れ。それでなければオレに遵いたいと言えまったく、面倒な娘だ」それほど年齢に開きがあるわけでもないのに、気怠げに、彼はそう言ってヒカルをまた誹った。彼女はいつも自分を低く位置し決して高慢な態度は取らない。が、それは卑屈な高慢だと思う。


櫻夢櫻栞30:「それならオレは遠慮しよう」彼女の思惑どおりに済ませるわけにはいかない。だから、ルイは意地悪く、彼女にそう言って腰を浮かせた。ヒカルが跼蹐する溜息が聞こえた。なぜ、彼女は誇りを捨てたのか。誇り高い彼の一族から見ると理解できない行為であり、理解できない感情であった。


櫻夢櫻栞31:彼女は強情にルイに懇願した。媚びを一切含まない願いというものは、時に、淫する願いよりも傲慢になるものなのだと知る。「もうしばらくだけ、ここに居させて」「強情な人なのだね・・・知らなかったよ。我を通すだけではなく、このオレに去ねと言う。君はどういうつもりでいるのか?」


櫻夢櫻栞32:「貴女の願いは叶えてやる義理はないけれどもね」彼がそう言って、腰を浮かせた。この場所を譲ってやるつもりはなかったが、彼女はそれでも立ち去らないのであれば、彼が去るしかなかった。言い合いは好まない。そして、それほどまでに執着するような景色でもなかった。彼女は微笑んだ。


櫻夢櫻栞33:「ありがとう」彼女がそう言った次に、彼は彼女が座るための空間を作って遣ったのではなく、立ち去ろうとしていることを知って、慌てて手を振って彼の動作を止めた。「違う。ルイと一緒に花が見たかったの」「それはこの場を譲る以上に、無理な願い事だな」辛辣な答えだった。


櫻夢櫻栞34:櫻の花瓣が舞い落ちた。そして彼と彼女に降り注いだ。もし、ランスの教会でこれほどの花片を浴びることがあるとしたら、櫻の花ではなく、この家を象徴する薔薇のみで作られることだろう。その時、彼女は少しばかり哀しそうな顔をするのだろうか。祖国を焦がれるのなら、帰ればよいのに。


櫻夢櫻栞35:彼が無表情のままで、腰を浮かせて立ち上がり、そのまま丘を下りて別棟に渡ろうとすると、ヒカルは声音を緊張させて、彼に提案した。「ルイ。少し・・・花を見ていかない?」「十分すぎるほど記憶したから。必要ない」彼は冷笑した。花を愛でて遊び愉しむために、彼は居るわけではない。


櫻夢櫻栞36:ヒカルの申し出ているのは、彼が腰掛けている場所を空けろということではなく、彼女と櫻花を見上げろということであった。嘲笑した。同じ記憶を共有することで、何か、連帯感でも生まれると思っているのだろうか。烏滸がましいにも程がある、と。どの段階でそれを言えば効果的だろう。

櫻夢櫻栞37:櫻の風、という表現がある。櫻を散らすものの、心地好いさわやかな穏やかな光風のことである。しかしそれは彼を縛る宣告の風のように感じた。風が目に見えないのに。櫻の花瓣が乗った風は、動きを捉えることができる。それはルイのようであり、ヒカルのようでもあった。彼女は狡い。


櫻夢櫻栞38:彼女が一言発すれば、この家の主であり絶対的な権力を持つあの男は、ルイを服従させるに足りる命を下ろすことができる。しかし彼女はそれを発動させない。ルイの誇り高さを推し量っているかのような狡猾な行為に、彼は試されているのだろうかとさえ思う時がある。何に試されるのだろう。


櫻夢櫻栞39:「できるだけ、貴女と共有した時間を持ちたくないと思っているオレの心情も察してくれないかな」辛辣な表現であった。彼女は哀しそうな顔をしたが、涙はこぼさなかった。誰の前でも涙を流さないヒカルは、彼の理解に苦しむ程に何かを思い決めていた。泣かないことが、彼女の誇りなのだ。


櫻夢櫻栞40:櫻風がまた、吹いた。月は人を狂わせると言うが、櫻も人を狂わせる。・・・儚いから。夢のような願いを叶えるだろうかと錯覚するほどに、伸びた櫻の枝花がルイとヒカルの見上げる空を覆い尽くしていた。これほどまでに巨木になった櫻の樹は、パリでは珍しかった。幼い頃の記憶が蘇る。


櫻夢櫻栞41:夢の欠片のような花瓣が降り注ぐ。もう、この花たちの季節は終わる。絢爛を愛でるより、命の終わりについて彼が考える瞬間、青灰色の瞳は遠くを見つめる。この木は品種改良されているが、元々は・・・同じ源を持つ樹である。この家の主という巨木に結実するものだけしか受容されない。


櫻夢櫻栞42:己という存在は、シャルルというフランスの華の再現でしかないと思い知らされる瞬間だ。だから、この花樹の下にやってくる。彼の心が穏やかになり安らかになるからではない。櫻の夢に浸りたいがためにこの場所に固執しているということでなかった。自分の決意を確認するためだ。


櫻夢櫻栞43:この華を見る度に確信する。自分は彼の踏襲でしかなく、それでいてシャルルを越えていかなければ認められない存在なのだということを。櫻の樹は、日本ではすべて同じ種であるとされていた。亜種は「異」とされた。まるで、ルイのようでもあると思った。同じ形態であるのに認められない。


櫻夢櫻栞44:天秤を動かそうとしている。均衡を破ろうとしている自分は・・・挑戦しているのだろうか。それとも、そのように仕組まれているのだろうか。時々、どちらが目的なのか誤認しそうになるが、ルイには誤らない。撃滅する。必要であれば。この家が亡んでも、彼は無道であるのかもしれない。


櫻夢櫻栞45:破裂する瞬間を待って嵩むことだけに邁進する風船のように。彼はこの櫻の空を見ながら、櫻の夢幻に沈む。耽ることはしない。彼を厄種と蔑む主を覆すために、ルイはここに居る。そして生きる。何があっても。何を失っても。その彼に、彼女は言った。一緒に櫻を見上げよう、と。


櫻夢櫻栞46:「・・・この櫻の樹は散ると、枝を落とすことになっている」彼女は困惑を浮かべながら、そう言った。哀しい声波だった。大風になりすぎた花枝は、長い年月を経て、切り離される。そうしなければ、この木は生きていけないから。花を咲かせることはできないから。古い種を残す為の方策だ。


櫻夢櫻栞47:「だから?」彼は言った。だから、最後の華を見ようとして彼女はここにやって来た。そしてそこにルイがいた。だから、彼女はここから出て行けとルイに言った。それだけのことなのに、ヒカルは彼に理解できない表情を浮かべる。理解したら終わりだ。彼女を理解したら・・・崩壊する。


櫻夢櫻栞48:「ルイ。この華を見るのは、最後だから。だから。ここに。最後の景色に、ルイが居れば良いな・・・と思った」「貴女の思惑通りに従うつもりはないよ。少しもね」ルイは辛辣に否定の表現をした。それなのに・・・彼は再びベンチに腰を下ろし、そして大きく溜息をついた。彼女は絶対だ。


櫻夢櫻栞49:ひっそりと鎮まる邸の片隅で生きているつもりであるのだろうが、彼女はこの邸の「最高の状態の薔薇」であった。いつでも。いつも。どんな時でも彼女の言葉は絶対であり、誰も拒否できない。この邸の主でさえも。清かな声は神の言葉と同義とされ、服従を伴う。それを彼女は知らない。


櫻夢櫻栞50:「この樹を永らえさせるための伐採であれば、それも必要だろう。・・・長い時間が経過しているから、必要不可欠だ。倦んだ部分は捨てなければいけないという自然の理を遵守していることに、何を異議申し立てするのかな」ルイは冷ややかにそう言った。ヒカルの息を呑む音が聞こえる。


櫻夢櫻栞51:彼はまた完全に彼の視界から彼女を消した。それでも滅去したことにはならない。彼女の溜息は、桜の散り音より大きかった。彼女の僅声は小さかったが、どんな音より・・・彼の耳に大きく響く。唇の震えさえわかる。「それでも、この樹は昔からあった。私やルイが生まれる前から、ずっと」


櫻夢櫻栞52:「完全に伐採するわけではないのだろう」櫻の空の下で、彼は少し顎をあげた。見上げる表情もまた、あのフランスの華に良く似ていた。厭世的で非常な知性を湛えた瞳が、少しだけ細くなる。「・・・それほど多くは切らない。そして、落枝するということは、まだこれを残すということだ」


櫻夢櫻栞53:「説明は受けた。でも、あの枝から咲く櫻は、これが最後だから」彼女が哀しそうにそう言うと、ルイは嘲笑した。根拠のない感情の流れによって発する言葉には、興味がなかった。それなのに、会話を続ける。「見ろよ。ここから見上げた花片を。指摘される枝たちが弱っているのがわかる」


櫻夢櫻栞54:ヒカルがぱっと顔を輝かせる気配がした。腰を浮かせたルイが再びそこに座り直すのではなく、僅かに位置をずらして、彼女の空間を作って遣ったことを少しばかり後悔した。彼は悔やんだりしない。すべて計算された行動だからだ。しかし、この時ばかりは失敗した、と思った。顔を顰める。


櫻夢櫻栞55:空天色ではなく、櫻の敷布が広がったような空を見上げながら、木漏れ日がヒカルに降りかかった。彼女はいつもこの家の子供でないことを憂えていた。しかし、彼女は気が付いていない。こうして、太陽光を浴びるときの彼女の髪は、金色に近い透き通った茶になることを。眩しいなと思った。


櫻夢櫻栞56:ふわりと風が動いた。桜の色がついているかのようだった。これまで彼が纏っていた空気のそれとは明らかに違っていた。そしてその小さな風が止むと、ルイのすぐ隣には、ヒカル・クロスが座っていた。彼が瞬きをした次には、もう、先ほどの彼と同じ様に顎をあげて昊を見上げていた。


櫻夢櫻栞57:「それでも、まだ花が咲いている」彼女は少し寂しそうに言った。弱って病を患っている枝を落とすことに抵抗があると言いたそうだった。薬剤を塗布すれば、また勢力を戻すかもしれない。そういう自分に都合の良い幻想を抱いているものの、シャルルに言い含められて、渋々納得したようだ。


櫻夢櫻栞58:「そんなに名残を愉しみたいのであれば、シャルルに頼め」ルイは素っ気なく言った。ヒカルは、下から見上げる桜の昊に感嘆するのに夢中で、彼の冷たい言葉の裏側に気が付かなかった。降り注ぐような、覆い被さってくるかのような、そんな桜の帳の下で、彼と彼女はしばし無言でいた。


櫻夢櫻栞59:だからだろうか。いつもより、ヒカルは配慮に欠けていた。思った通りのことを口の端に乗せた。「シャルルとはもう、見た」なるほど、とルイが事情を察する。彼女は昊に耽っており、彼は彼女の横顔に溺れている。この違いについて、思い知っただけだった。それだけだ。ただ、それだけだ。


櫻夢櫻栞60:博愛なる贖罪の娘は、この家の住人全員と哀しみを味わいたいらしい。ルイの整った唇が歪んだ。誰も共有できないことを、あの男は知っている。けれども、それでもなおヒカルに付き合って共有しているふりをしている。ルイとは何一つ共有しないのに。それでも、彼女となら桜を悼むらしい。


櫻夢櫻栞61:彼の実父は彼に愛を注がない。しかし、晄の娘には永遠の愛を注ぐ。彼女を「自分の天使」と呼んで、ただひたすらに無償の愛を注ぐ。待っていたかのように。そしてその愛の雨を、ヒカルは受け止め、目の前の桜のように大樹の枝葉を伸ばす。が、それはルイとヒカルの間には成立しない。


櫻夢櫻栞62:「ルイはこの桜をどう見るのか知りたかった」彼女は傾注した様子で言った。淡い色合いを好んでいるというより・・・もう、来春には見ることの出来ないという憐愍に満たされていた。失うとわかっているから、美しいのか。それとも、失われるとわかっているから、美しいと思うのか。


櫻夢櫻栞63:まったく無価値なはずの、彼女との会話を、それでもルイは続けた。「オレが何かを感じると思っているのか?」「何も感じないとは思ってはいない」彼女は返答した。「随分とオレを理解しているようだね」彼は嘲笑した。息苦しくなるような桜の嵩の下で、彼は金の髪を光らせて言った。


櫻夢櫻栞64:「やむを得ないと聞いている。だから伐枝は仕方がない。・・・でも、仕方がないという言葉では言い表せないほど、私はこの桜が好きだ」かつて、彼女はこの桜の木の下で迷っていた。それをルイが助けたことがあった。それ以来彼女が特別にこの桜の樹を気に掛けていたことは知っていた。


櫻夢櫻栞65:「だからオレと一緒に見たいと言う帰結にならないと思うが」ルイが抑揚なく言った。「どうして?」ヒカルが茶色の髪を傾けた。・・・そこに、桜の花弁が降り注ぐ。まるで、花の雨のように。彼女には、祝福の花雨が降る。けれども、彼にはそれはない。その違いは何なのだろうか。


櫻夢櫻栞66:彼女の香りが彼の鼻腔を擽る。隣に居るだけで、桜の香りに噎せ返る。この家の薔薇の香りのそれを上回るものではないと知っているのに。何度もこの風景を見ているのに。それなのに。色と晄と香が彼を苛んだ。なぜヒカルが傍にいるだけで苦しいのだろう。しかし、それ以上の思考を放棄した。


櫻夢櫻栞67:「二度と同じ桜に逢うことはない」ヒカルがささめいた。同じ椅子に座った彼と彼女は、同じ過程から生まれて生きている。けれども、それでも、何もかもが違う。生まれた国籍や環境や性別に左右されるだけではない決定的な何かが、二人の間に静かにけれども深い溝となって流れて居る。


櫻夢櫻栞68:「いつも同じ鼻はない。けれども、ルイと観る今年の桜はいつも特別で・・・そして同じにはならない」ヒカルがそう言ったので、ルイ・ドゥ・アルディは冷笑した。「同一であることに価値があるとは思えないけれどもね」彼は常にフランスの華と同一であることを求められていたから。


櫻夢櫻栞69:冷たい感想だった。彼は何か感じた事を言葉しない。いつも。故に、機械的に儀礼的に発したような、低い流れるような言葉にヒカルは少しばかり哀しそうに頬を緩めた。泣き笑いのような表情だった。彼は彼女に沈黙させたいのか否か、目的を見失いそうになった。が、黙ったままにしておいた。


櫻夢櫻栞70:「この桜を残したいと思うの」白く儚い淡雪のような色に包まれながら、彼女はそう言った。いつの間にか隣に座り込んでしまった彼女の狡猾さを責める前に。彼女はそう言って、空を仰いだ。仰いでは、ルイの横顔を見つめる。凰花を愛でるためにやってきたと彼女は言うのに。理解できない。


櫻夢櫻栞71:「ヒカルはこの桜を留めて置きたいと思っているが、何か方策は?」ルイ・ドゥ・アルディが尋ねる。ヒカルは即答した。困ったように。けれども彼の問いに隠れる真意を逃さないとするかのように。「塩漬けやドライフラワーを考えている。もちろん、今後のこの種が残されるための保存も」


櫻夢櫻栞72:彼は冷笑した。「種を保存・・・何度再生しても、結果は同じだと理解しているのに、保存することに何か、意味か意義があるのか?」彼女は押し黙ったままだった。ルイが彼自身のことを言っているとわかったからだ。彼はフランスの華の代替であるが、それでも彼は金の髪を持っている。


櫻夢櫻栞73:白金の髪でないかぎり、彼はフランスの華の完全なる模型でも模倣でもなかった。それがルイの誇りを継続させている。わかっているのに。それなのに、ヒカル・クロスは彼を貶める。ルイが、あの男の模倣そのものであると宣言するかのような発言に、正直、辟易していた。心の底から。


櫻夢櫻栞74:ヒカルは空を見上げた。昊なのか桜の枝先なのか、判別できなくても良い、という風情だった。彼女は、この家で・・・この桜の下で、ルイを求めているのか、それともこの家の主を求めているのか時折判別できない行動を遂行することに夢中になる。それは決してルイは心酔しない。


櫻夢櫻栞75:「保存することに夢中になる愚かな人と過ごす時間は、虚無であると言う以外に、何か言葉があるのか、教えてくれよ」彼はそう言って冷笑した。ルイは確信しているのに。彼女が彼に教えることはないと考えているのに。彼が教えを受けるのは、彼の父と同じ遺伝子を持つあの人だけだった。


櫻夢櫻栞76:「消えて行くのが怖いの」ヒカルは低い声で言った。かなりの躊躇いが含まれていた。怖い、と彼女は言った。何に畏れるのだろうか。闇を知らない晄の子が、言った。「記憶が薄れていくの。懐かしいと思う記憶が、どんどん消えていく。両親のことは・・・もうほとんど覚えていない」


櫻夢櫻栞77:ヒカルはそこで溜息をついた。どうして、そんな風に・・・ルイには怖れを吐露してしまうのだろうか。シャルルにでさえ言えないことを、彼の前では述べるのだろうか。彼女には理由がわかっていないようだった。ヒカルはルイの隣で、顔を上げた。そこまで言ってしまったら、勢いがついた。


櫻夢櫻栞78:「なるほど」ルイは嘲りを含めて言った。「君は、記憶を共有することより、共有したという事実を得たいだけということか」ヒカルは眼を瞑った。昊の晄は、蒼くはない。櫻色の光を浴びながら、ヒカルは眼を細めて、光芒が彼女に浴びせる祝福の晄を、一身に浴びる。眼を瞑ったまま言った。


櫻夢櫻栞79:侮蔑の言葉に無感動でいたわけではなかった。彼女は、眼を瞑ったまま、眉を少しだけ動かした。彼の視線には気が付いているはずなのに。「贅沢で傲慢で愚かな願いだとわかっていて、それでもルイに御願いするの。だから叱られても仕方がない」「叱るほど貴女に価値があるとは思えない」


櫻夢櫻栞80:「そうだね」ヒカルが少し哀しそうに言った。ルイは正しいよ、と言った。「それでもね、この桜をルイと見たかったの」次に静かに補足した。「桜の昊を、見たかった。ルイと」彼女は苦しそうだった。「私の仄暗い希望なの。どんどん、忘れていく。両親のことも。あの国のことも。怖い」


櫻夢櫻栞81:「それであれこれ保存することにしたっていうのか」呆れた、と彼は言った。彼女の記憶処理能力は、ルイには及ばない。それは彼女がアルディ家の血筋のものでないからだ。一般よりかは知能はあるようであったが、彼女の幼い時の桜の記憶は、そのまま両親の記憶に繋がっているらしい。


櫻夢櫻栞82:すべて忘れてしまえるのなら、それは問題でなかっただろう。覚えていないことさえ意識しないのだから。しかし「思い出そうとしているのに思い出せない」という状況が、彼女を苦しめている。「夢から醒めると覚えていない時と同じように、覚えていなければいけないと思うのに、忘れるの」


櫻夢櫻栞83:「私のかわりに、ルイに覚えていて欲しいの」彼女は眼を開き、ルイに茶色の視線を注ぐ。花晄の下で座り込む彼女は、少女と娘の狭間を行きつ戻りつしている時期だった。幼い顔立ちであるが、それは彼女が東洋人で、ルイと骨格が異なるからであった。彼も、彼女も変化している。


櫻夢櫻栞84:桜を見る年を経ていくうちに、彼と彼女はもうすぐ、フランスの華と彼のファム・ファタルが出会った年齢に到達する。そしてそこから・・・何が始まるというのだろうか。何かが、終わる可能性もある。この花枝のように。倦んで忌むべきものとして、切り捨てられるのかもしれない。


櫻夢櫻栞85:過去を懐かしがるばかりの愚かな娘に、ルイは溜め息を漏らした。「オレはヒカルの外部記憶装置になるつもりはないけれどもね」辛辣に言った。けれども、ヒカルはちょっと笑っただけだった。「それなら、私は未来を空想し続ける。ルイが記憶してくれているのなら。私の記憶はルイに託す」


櫻夢櫻栞86:「この桜で栞を作ろうと思うの。・・・シャルルと、私とルイの揃いで」「受け取りは拒否する」彼女は笑った。「良いの。私が勝手に作りたいだけなの」この桜を残そうとするのであれば、もっと違った方策があったはずなのに。彼女が思いつくのはこれくらいだから、と言ってヒカルは笑った。


櫻夢櫻栞87:「随分な保険だな」彼はそう言って声を漏らして笑った。彼にこの景色を記憶しろと言い、そして自分では桜を保存すると言う。彼女が何かを残したいという欲求に駆られている理由は何だろうか。思索に耽る題材ではなかった。しかし彼はじっと彼女の横顔を見つめた。物憂げな青灰色の瞳で。


櫻夢櫻栞88:「それほど固執する理由がわからない」ルイがそう言ったので、ヒカルは微笑んだ。恥ずかしそうに笑った。「忘れたくないから」俯く彼女は、膝の上で手の平をぎゅっと握った。緊張している証拠だった。「良い状態で摘み取りたいと思っているのだけれどこれが最後だと思うとそうできない」


櫻夢櫻栞89:馬鹿馬鹿しい幻想に付き合っている暇はない、と彼は辛辣に言った。ヒカルはいつもそうだった。感傷に溺れて、物事の本質を見失っている。切除しなければ生き存えない古木を存続させるためのやむを得ない処置であるのに、彼女はそれを惜しむ。そしてあろうことか、病んだ花瓣を残すという。


櫻夢櫻栞90:いつになったら、この愚かな娘は彼の前から去るのだろうか。早くどこかに行ってしまえば良いのに。桜の雨滴が彼の頬を撫でては落ちていく。風が出てきたのだ。「・・・さっさと好きなだけ花を摘んで邸に戻れ。花が散るまで待っているつもりか?」一度地面に落ちたものは彼は触れない。


櫻夢櫻栞91:「待って。もう少しだけ待って。・・・桜の・・・烟景(春の景色のこと)をもう少しだけ、見ておきたい」大きく息を吸って、彼女は大きな瞳を昊に向けた。春の景と言った彼女の茶色の髪が目立つほどに、淡く白く、褪紅(あらぞめ)の桜は、確かに、彼女に相応しいのかもしれない。



櫻夢櫻栞92:身分の低い者が身につける色を彼女は夢中になって眺めている。どうにも滑稽だと思った。記録する方法は他にいくらでもあるのに。彼女はあろうことか、自分の心の内に収めると言う。何より曖昧な方法でもって。ルイだけはそれを映像として記録しておくことができるが、彼女には不可能だ。


櫻夢櫻栞93:「人間の記憶媒体は極めて曖昧で主観的でそれでいて呼び起こすのは難しい回路であると学ばなかったか」彼はそう言いそうになって、口を噤んだ。言葉を多く出す者は、言葉に酔って失敗する傾向にある。だから言葉は少なくて良い。多くを尽くして伝えたいと思う相手が居れば別の話であるが.


櫻夢櫻栞94:「どれかひとつを選ぶことができない」ヒカルはそう言った。「どれも素晴らしい命を持っているから」「それならここに居る必要はないだろう」ルイの言葉に彼女は首を横に振った。「ルイ。どれにも命があり、どれにも選ばれる質がある。私は、それを選んではいけない」彼女はそう言った。


櫻夢櫻栞95:彼女は花瓣を採取しに来たと言っていた。それなら、最高の状態の薔薇を摘むのと同じように、最高の状態の桜の花弁を摘み取れば良いだけだ。背が届かなければ、誰か人を遣らせて目的を遂行することも可能なはずだった。彼女は長らくこの家の住人であったから。だからそれも当然にできた。


櫻夢櫻栞96:しかしこほれほどまでに開花が進んでいる花片はすでに最高の状態を越えてしまっている。元々、彼女が朝、薔薇を摘むのは正確には「最高の状態になる直前の薔薇」なのだ。シャルルの目覚めの時間にあわせて開花するものを選んでいるだけに過ぎない。散ると言うことは盛りを越えることなのだ。


櫻夢櫻栞97:「どれも選べないということは、どれも選ばないとういことだ。それなら諦めて戻るのが賢明だな。いや、当然の帰趨(行き着くところのこと)だ」冷淡なルイに、彼女は彼に首を傾げた。「ルイ。選べない野ではなく選ばないという考え方をしてみる可能性について、考えたことはある?」


櫻夢櫻栞98:「どれもが素晴らしい。だから、どれもに命があるから。命があるから、それだけで素晴らしいと思う」「それなら、オレは一体何だろうね」彼は自嘲気味に嗤った。彼はもともと代理母による出産であるが、遺伝子操作されたリッチ・ジーンである。より素晴らしい種になるように改良された。


櫻夢櫻栞99:だからそういう生死感については、ヒカルは極力彼の前では口にしないようにしていた。望まれた命とそうでない命があってはならないと考えている彼女とは、もう、共通した価値観を持つことはできないのだとルイはとうに気が付いていた。だからこそ、苛立つのだ。彼女が何も知らないから。


櫻夢櫻栞100:「ルイは素晴らしいわ。生まれて来た意味ではなく、生きている意味というか・・・自分の願いを叶えてみようと思わない?」「思わない」即答だった。冷たく彼女を切り捨てた。「オレの願いは最初からひとつだけだ」桜の花びらが落ちてきた。淡い華達が、彼女に賛同するように降る。


櫻夢櫻101:まるで彼女を待ってから落花することを始めたようだった。それまで枝が撓るほどに撓わに果実のように花を咲かせていた櫻の花片が、彼と彼女の天から舞い降りてきた。それまでは、ちらちらと時折僅かに降り落ちていただけであったのに。彼女がやって来たら、それを合図にしたかのように。


櫻夢櫻栞102:「ああ、どれも素晴らしいわ」彼女は感嘆してそう言った。心動かされることが素晴らしいと信じて居る彼女は、決してルイのように執着を捨てることができない。だから、どれか特定の花を摘み取ることに躊躇いを感じているようだった。それなら、最初からここに来なければ良いのに。


櫻夢櫻栞103:「根本的に」彼は低い声で静かに言った。「選べないものを最初から選ぼうとするから問題なのではないのか」「どれをとっても素晴らしいから、選択することはできない。どれも生きているから、どんな形状であっても素晴らしい。例え、枯れていても。・・・どんなに萎れていても」


櫻夢櫻栞104:ルイは、ヒカルの言葉に反論しなかった。人の命は・・・特に、ルイの命は、選別されて生まれて来たというのに。なぜ、それを知りながら、彼女は無神経なことを言い出すのか、観察しようとした。決して理解しあうことのできない人物との会話ほど苦痛なものはない。彼は肩を竦めた。


櫻夢櫻栞105:それでもヒカルは続ける。大きく息を吸って・・・そして自分の両親の鎮魂にあてているかのように祈りを捧げるような神妙な面持ちでもって、ヒカルは目を閉じて少しの間無言でいた。しかし隣に居るルイに今一度眼を向けると、彼女は言った。「命は素晴らしい」区切るように言った。


櫻夢櫻栞106:「くだらないな」彼はそう言うと、背もたれに凭れた。桜が堕ちる。彼は整った顔を少しだけ歪めた。しかし金の前髪によって、視線が何処を向いているのか、ヒカルからはよく見えなかった。「命が素晴らしい?それなら、オレの命は・・・ヒカルの命は、何にも代えがたいなら」


櫻夢櫻栞107:彼はそこでゆっくりとヒカルに向き直った。「どうして、シャルルは生きているのだろうね」彼が何を言おうとしているのか、彼女にはわかった。静かな、桜の堕ちる音だけしかしない空気の中で、喘ぐように呼吸する。苦しかった。彼はシャルルが堕ちていくことを望んでいるから。


櫻夢櫻栞108:「どの命も得がたいものだとしたら、それこそ、オレの生まれて来た意味がないってことになるな。・・・それにヒカルも」ヒカルは黙っていた。「どれも平等で・・・そしてどれも失われないのであればこの世の生態系は・・・そう、かなり現実と違っていなければならないはずだが」


櫻夢櫻栞109:彼は続けた。「死さえも平等ではないこの世で、そんな理想論を振り回す傲慢な贖罪の娘に、命を摘み取られるとは気の毒だな」彼は桜を見上げてそう言った。まったく気の毒そうではなかった。「・・・だからこそ、どれも美しいし、どれも大事だしどれも・・・」「どれも救ってやれない」


櫻夢櫻栞110:ルイがヒカルの言葉を繋いだ。「ヒカル。君がどんなに正論を振りかざそうとしても、それは君にとっての正論でしかない」そして空を見上げた。桜の昊が彼の視界に入る。ああ、本当に煩わしいな、と彼は呟いた。「ルイ」ヒカルがそっと彼の名前を呼ぶ。混沌とした思考に入りそうになる。


櫻夢櫻栞111:彼女にわからない彼の路があることが、ヒカルはとても哀しいと言うかのように、彼を見つめる。見事な黄金の髪を持つ、華の精と見紛うような、瑰麗に覆われた人の横顔をそっと見上げた。溜息が出る。どうして彼はこれほどまでに哀しむのだろうか。どうして酷く傷ついているのだろうか。


櫻夢櫻栞112:「櫻だけではない。命はみな、美しい。限りがあるから美しいのかもしれない。そして時折苦しくなる」彼女の両親は戻ってこない。彼女がいくら待っても戻って来ない。そのことを言っているようだ。有限の生を肯定しているのに、彼女は両親の死や不在については受け入れていない。


櫻夢櫻栞113:「ヒカル。オレとヒカルの景色は違う」彼はそれだけ言った。「ルイ、それでも、その景色を一緒に見たいと思うから、私は貴方に・・・櫻を捧げたいのよ」「この枝はやがて落とされる。それを眺めて、貴女は何を共有したいの?喪失感?」彼はそう言って微笑んだ。冷笑より冷たい微笑だ。


櫻夢櫻栞114:ヒカルは黙った。もうそれ以上、彼には近付けなかった。強烈な拒絶を感じて、ヒカルは唇を噛んだ。彼女はどうしてこれほどまでに鈍感なのだろう。・・・ルイは幾度目かの溜息を漏らす。なぜ、彼女はこれほどまでに・・・彼を饒舌にさせるのだろう。普段の彼は至って無口であるのに。


櫻夢櫻栞115:「譲ってやるよ」彼はそれだけ言うと立ち上がった。ふわり、と風が生まれた。「結論の出ない議論ほど、無駄なものはないからね」彼はそれだけを言った。ヒカルと彼は違う。同じ過程で生まれて来たのに。それなのに、彼女は凡庸で、彼の信念を覆すような理論を打ち立てることはない。


櫻夢櫻栞116:「ルイ。それなら・・・ここからひとつ、花を選んでくれる?」ヒカルが慌てて、一緒になって立ち上がった。「ルイのために、何かを作ろうと思う」「貴女の創作意欲は評価するけれどもね」彼は冷笑した。「それに協力する義務も義理もない」彼女は更にルイに御願いだ、と言った。


櫻夢櫻栞117:ルイは手を翳せば本当に届きそうなほどに近い櫻の昊を見上げた。ここに長居しては面倒なことになりそうだとわかっていたのに、それでも退去する時間を僅かに延長したばかりに、彼女がつまらない負荷をかけてきたことに、憤慨していた。彼は誰かの願いを叶えるために居るわけではない。


櫻夢櫻栞118:「選ぶという行為は・・・・大変に傲慢だと、ヒカルが言ったばかりだと記憶しているが」彼は揶揄した。「オレの幻か、夢なのかな」彼は決して夢を見ないのに、そう言ったので、ヒカルは慌ててごめんなさいと謝罪した。「謝る理由がない。それは少しも美徳ではないし、とても愚かだ」


櫻夢櫻栞119:「再生するための処置であることは理解しているけれど、それでも、やはり、この素晴らしい枝が落とされるのは、とても哀しいことだから」「なぜ哀しい?記録だけで十分充足されている。余計な感情は捨てろ。それでも残そうとするヒカルの方が、愚かしいことをしているとは思うが」

櫻夢櫻栞120:「それもわかっているけれども、何かしたいの。この家の人達のために」「それなら消えてくれ」彼は素っ気なく言った。そうすることはできないと分かっているのに、それでも言った。手放すわけはない。彼女はこの家の当主が今でも愛している女性の娘であり、忘れ形見でもあるのだから。


櫻夢櫻栞121:ヒカルはほっと息を吐いた。同時に、風が吹いて、櫻の花弁がまたひと波、散った。彼女の茶の髪が揺れる。癖の強い、うねりのある髪だった。その茶色の波に乗って、櫻の花弁が彼の前で不均一にそれでも乱れて、重力に従って堕ちていく。けれどもそれらは僅かに風に吹かれて舞い上がる。


櫻夢櫻栞122:自然の理である法則に逆らって、風に舞い上がった櫻の花びらは、静かに地面に落ちていく。彼はそれをただ眺めているだけだった。ヒカルのように、命を惜しんで感傷に浸ることはない。生命は死の前でも生の前でも平等であると考えている彼女を嘲笑いながら。ただ、そこに居た。


櫻夢櫻栞123:「ヒカル。自分の命と花弁の命との比較は傲慢だと思わないか」ルイの言葉にヒカルは黙ったままだった。彼と彼女の距離はいつまで経っても縮まらなかった。生命だけではない。全てにおいて価値観が違う。それでいながら、同じ時間を過ごさなければならないルイの苦痛がそこにあった。


櫻夢櫻栞124:彼は一度だけ櫻の空を見上げた。本来ならそこには蒼い空が広がるはずであった。しかし、彼らが立っている場所には、大きな枝を伸ばし、絶対的存在として君臨するこの家の当主のような櫻の樹があるばかりだった。ヒカルにとっては憩いであるがルイにとってはそれは魂の試練でしかない。


櫻夢櫻栞125:木々が犇めく。華が落ち着かない。二人に共鳴するかのように。何かを語りかけるかのように。「命は選べない。だから素晴らしい。生きているから素晴らしい」「オレは選ばれて生まれた。それはどう説明する?」彼は自嘲気味にそう言った。彼は生まれる前から、彼であることを望まれた。


櫻夢櫻栞126:「だからもっとルイは自分のことを大事にするべきだ」「大事だよ」彼は即答する。「この躰も命もすべて・・・あの男から受け継がれたものなのだから」「姿形は同じかもしれないけれど、ルイはルイ・ドゥ・アルディであり、何者でもない」「・・・オレは唯一が絶対だとは考えない」


櫻夢櫻栞127:彼は冷笑した。櫻の空を見上げる。もう・・・幾度会話を交わしても無駄だ。彼女は唯一と絶対を同義だと思っている。彼がただひとりのルイとしての価値があることが絶対だと言う。それなら、これほどまでに似通った者たちが誕生するこの家の呪わしい血脈をどう説明するのだろうか。


櫻夢櫻栞128:どこか懐かしい、とヒカルは言った。「いつか、また、ルイとこうして櫻を見上げたいから。だから、想い出を残すために、私は櫻栞を作ろうと思う」彼女は言った。永遠は存在しない。永遠にあの人だけを愛すると言ったシャルルは、短い期間であるが結婚し、ルイに彼の遺伝子を残した。


櫻夢櫻栞129:愛がなければできないものとされているものの大半は、それがなくても完遂できる。永遠はない。ヒカルの両親は海に消えた。死んだのか生きているのか、それすらわかない。希望はほとんど残されていなかった。生を受けてから死を受けるまでの年月は、誰にでも均等に訪れるわけではない。


櫻夢櫻栞130:ヒカルがとうとう涙声になった。彼女はいつも人前では泣かない。それが彼女の唯一の自尊心だからだ。たったひとつのものにしがみついて生きる者を哀れんでやるつもりはなかった。ルイは櫻の樹の下に寄る。花に酔いそうなほど、花瓣が開いて彼らの上から地に向かって降り注がれている。


櫻夢櫻栞131:遠近感を喪失しそうなほどに、近すぎる花々の色の合間に栗皮色の幹や枝が見える。しかし、彼女のもう、この櫻の花々を、両親と眺めることはないのだろうということも、薄々承知していたのだ。シャルルと同じように。彼らはまだ生きていると信じている。根拠のない考思はとても脆弱だ。


櫻夢櫻栞132:ルイは溜め息をついて、斜め後ろで立ち竦み、声を抑えて哀しみに溺れそうになっているヒカルを振り返らなかった。・・・数歩前を更に行くと、彼はしばらく上を向いていた。茶色の眸に溢れんばかりに浮かばせている彼女が・・・誰の前でも見せない姿であることを知っているから。


櫻夢櫻栞133:誇りに対して、彼は敬意を払っていた。それは彼が誇り高い人物であるから故の事なのかもしれない。ヒカルの自尊心はささやかでとてもつまらないものだ。けれども、彼は・・・それが彼女を支える唯一であり甘美な魂の殻であるということを知り抜いていた。けれども、彼は無表情であった。


櫻夢櫻栞134:彼女の声にならない声が漏れてくるのを感じながら、ルイはやがて腕を伸ばした。長い腕が宙に・・・伸びていく。細く長い神経質そうな指が櫻の大気を掻き分けて、やがて櫻の枝に到達した。彼の細い指に絡め捉えられたそれは・・・次の瞬間には、音を立てる。・・・彼が枝を折ったのだ。


櫻夢櫻栞135:「・・・ルイ!」彼女が驚いた声を上げた。蒼灰色の瞳が少しだけ歪んだ。予想範囲内の反応だった。彼は左手に力を込めると、枝を勢い良く手折った。勢いで、花弁が・・・理から外れた作用によって散らされた。それらが淡い光を放ちながら、彼の髪や肩に降りかかる。彼が命を摘んだ。


櫻夢櫻栞136:ヒカルは声を失って、呆然としていたようだった。背中を向けているが、はっきりと気配がわかる。櫻に酔いそうになる空気の中で、彼女が空気と擦れる音さえ、彼には聞き取れた。彼女はそうではないけれども。彼がそういう風に・・・何かを無造作に摘み取る場面を見るのは初めてだから。


櫻夢櫻栞137:散る命なら、彼女は喜んで手にするのに、なぜ、最高の状態の枝葉に腕を伸ばすと、彼女は哀しそうにするのだろうか。彼女の理屈と申し出は、承引できなかった。彼女は、薔薇なら摘み取るのに。それなのに、櫻や・・・その他の命は同格でないと自分自身が証明しているのに。理解できない。


櫻夢櫻栞138:「後悔したり批判したりするのであれば、最初から、気を引くために何かを創ってやろうなどと尊大な態度は取らないことだ」ルイはそう言って冷笑した。片手には、もぎ取った枝が握られていた。枝が裂けて、茶褐色と練色が縞を作っている。生木の匂いが風に乗って立ち上ってきた。


櫻夢櫻栞140:反力の作用で、彼女は進んで方向と逆に躰を逸らして均衡を失った。彼は腕を掴んだまま・・・彼の傍にヒカルを寄せる。「ルイ」困った声調で彼女がシャルル・ドゥ・アルディの名前を呼んだが、彼は無視した。謝罪もしなかった。ただ・・・そこに行こうとする彼女を押し止めた。無言で。


櫻夢櫻栞141:ヒカルが見上げると、斜め右上の方向に、ルイの端正な顔があった。彼の顔はこういう明るい陽光の下でも、月の光の下にいるようだった。眩い生命の煌めきである櫻色の輝きの下にいるのに。それは彼の金の髪がそう見せるのだろうか。それとも・・星辰の子と呼ばれているから故なのか。


櫻夢櫻栞142:この世のすべての穢れから切り離された、桜の華そのもののようなヒカルが戸惑った顔をした。ルイは刺すようなそれでいて冷たい表情のまま、彼女の腕を放さずにいた。彼の躰はヒカルの重みをうけてなお、まったく影響されなかった。彼女はいつも・・無防備に彼の脇をすり抜けていく。


櫻夢櫻栞143:彼の顔からはまった感情が窺えなかった。そして真摯というには危険で厳粛すぎる表情で、彼は遠くを見つめていた。ヒカルの方には、その青灰色の瞳は向けなかった。切れの長い眸が僅かに細くなった。「私はルイの深い考えを読み取ることができない」彼女は腕を離せとは言わなかった。


櫻夢櫻栞144:「誰かと自分を共有するつもりもないし、歩み寄るつもりもないが」ルイは抑揚なくそう言ったので、ヒカルは腕を掴まれたまま、困り果てて肩を落とした。彼女の二の腕は強く掴まれたままで・・・薄い袖の下から彼女の体温が伝わってくる。反対に、彼女にはルイの手の平の体温が伝わる。


櫻夢櫻栞145:太陽のぬくもりだった。太陽のようなぬくもりだった。彼女の温度は、あたたかいというよりもむしろ、熱かった。けれども、彼女が打ち捨てられた枝に茶色の眸を向け続ける限り、彼には決して届かないのだろうと思った。何もかもが。「・・・生きているということは素晴らしいのよ」


櫻夢櫻栞146:ヒカルの言葉は掠れていた。生きていることが素晴らしいと声高に言うことで、彼女は自分自身を肯定しているようであった。そうでなければ、ここで生きている意味がないのだから。「ヒカルがそのように言う限り、誰もヒカルを理解できない」ルイは素っ気ない声でそう言い放った。


櫻夢櫻栞147:濡れたように輝く黒眼がちの大きな瞳は、彼女の母親に良く似ていた。同時に彼女の父にも似ていた。彼を理解できない、ではない。彼女を理解できないだろうという予言にも似た言葉をヒカルに伝えると、彼は彼女の腕に巻いていた細く長い指に込められた力を解放し、ヒカルの温度を捨てた。


櫻夢櫻栞148:とうとう、彼女の激情が吹き出しそうになった。茶色の瞳に大きな淡水を浮かべて、ぎゅっと唇を横に引いた。「ルイ。私には・・・わからない」首を横に振って、彼女は遂に彼に屈した。きめ細かく白い頬が朱に染まった。彼に言葉は届かない。彼にヒカルの物思いは理解しないと宣言される。


櫻夢櫻栞149:「ゆるやかに死んでいく命を愛でるのは、素晴らしい趣味だと褒めてやった方が良いのかな」彼がそう言ったので、どうにもならない苦悩を溢れさせた貌をルイに向けたヒカルに、再び彼が冷笑した。「浅ましいな。憐れを希うとは・・この家の者が最も厭うことだ」彼女は息を止めた。


櫻夢櫻栞150:ヒカルはこの家の子供になりたがっている。そうすれば、彼女が欲している家族が手に入ると思っている。だから、それが厭わしい。同化して得られるものであるならば・・・とっくに・・・そう、とっくに、ルイはこの家に君臨しているのだというのに。それなのに、彼女はそれを否定する。





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