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星の戀 前編

星の戀

 

うち曇る空のいづこに星の恋 久女

 

******

 

●01

 

七夕のことを、星の戀という。

 

ヒカル・クロスの両親も、そんな風にして惹き合ったのであろうか。

ふたりが最初に出会った頃から再会するまでは長い年月が経過していたのに。

・・・それでも吸い寄せられるように、引き込まれてしまう恋のことをそう言うのだろうか。

 

今日は、七夕だ。

 

ヒカルは空を見上げたが、まだ、星の河は眺めることのできない陽光眩しい時間であった。

 

学生時代、転校の多かった母のクラスメイトであったという父と、運命の出会いを経て・・・そして、彼らは結ばれた。

そういう、運命の出会いというものが存在することを、今一度、知ることになる。運命と出会ったのか、運命に定められたのか、それは今は聞くことはできない。ヒカルが思い返せる彼らの姿はもう、かなり朧気なものになってしまっている。

 

運命とは、何だろう。

シャルル・ドゥ・アルディも、ヒカルの母を運命の人と・・ファム・ファタルと呼んだ。

運命の人とは、どんな人のことなのだろう。

彼女は、そっと溜息を漏らす。

 

成長して、恋というものの存在を知った。

恋を経験したと言い切ることはできないが、恋をしている人や愛をしている人を、知っている。

その筆頭がシャルル・ドゥ・アルディであった。

彼は、ヒカルの母親を愛し続けている。

今でも、ずっと。

ルイという息子がいて、彼の母と名乗ることが出来る人と短い結婚生活を過ごしたと言うのに。

だから、彼は・・・恋をし続け、愛をし続けている。

たったひとりの人を、想い続けることは素晴らしいと思う。

しかし、シャルルには幸せになって欲しかった。

 

それに・・・シャルルが幸せになれなければ、彼の息子であるルイも倖せになれないと思った。

彼らの間にある亀裂は、ヒカルでは修復できない。彼らが、そうしようと願わない限りどうにもならない問題であった。

肉親の不和というものは、どうにももの悲しいものがある。

まったく関与していない他人事とは言い切れなかった。

ヒカルの父方の親族とは、ヒカルは上手に接することができない。

いつも緊張し、自分の存在が誰かを哀しませているのだということを思い知る。

そして、逃げ帰るようにパリに戻ってくる。僅かな期間であるのに、日本での滞在はヒカルにとっては複雑な心境になるものであった。

皆に会うのが楽しみであるのに、自分の存在を考えさせられるからだ。

幼い時に暮らしていたあの国は、既にヒカルにとっては異国になってしまっていた。

 

そしてまた、アルディ家に戻れば、ルイの不興を買う。

ルイ・ドゥ・アルディは・・・星辰の子と呼ばれている。

彼は夏になると。

この時期にさしかかると、とても不機嫌になることをヒカルは知っていた。

そしてヒカルが戻ってくる時には、たいてい、彼は不在にしている。

 

星の動きに誰もが敏感になるこの時期。

 

・・・星辰の子と呼ばれながら、ルイはその称号を否定し続けるのだ。

彼に与えられた尊称を、彼が決して受け入れているわけではないことを彼は主張し続ける。

 

そして、この時期に彼に近付くと、手酷く言い返される。

そしてもう二度と立ち上がることができないほどの冷酷な言葉を投げかけられるのだ。

 

・・・それが、彼なりの防御であるとわかるまでに大変な時間を要してしまったが。

 

 

 

●02

 

挑発的な外観が、彼は好みなのだろうか。

ライカン・ハイパースポーツに乗ったヒカル・クロスはシートベルトで巻いた自分の躰の揺れを感じて、膝の上で拳を握る。

ルイが気紛れでこの時期にヒカルを自分の車に乗せるようになった。

季節の行事とまではいかないし、決まった日ということでもなかった。

しかし、その頃合いがヒカルにはわかるようになっていた。

彼が夏に車を買い換えるのは、習慣ではない。

しかし、何を思うのか、彼は時々まったく未練を残さずに乗り換えてしまう。まったく執着しない様は、ミシェルから教えられたものかもしれないが、ヒカルはそれでもルイの決断のきっかけを知りたいと思ってしまう。

 

ルイは戻ってこない。

かなり長い時間戻って来ないと思ったら車庫に籠もってしまう。

アルディ家の本邸に寄りつかない彼にしては珍しい行動であった。

本邸の車庫であったとしても、彼が本邸に留まるとは。

 

そして、彼はヒカルを連れて夜の空を追いかけるために出る。

待ち合わせをしたり、約束をしたりするわけではない。

けれども、ルイが待っているような気がして・・・ヒカルは、根拠もないのに外出申請をして外に出る。

シャルルがいない時を見はからっているようなルイの行動に、ただ、胸が痛くなる。

 

日にちが定まっていないのは天候が大きな理由であったが、この家の当主が不在にしているときが多かった。条件が合致する日というのはほとんどないに等しい。

実際、昨年は実現しなかった。

 

今夏も見送られる出来事だと思っていた。

彼は特に予定していた風でもなかった。いつもはミシェルの所有する部屋にいることが多いようだが、アルディ邸の設備を使ったり論文の執筆をする時などには彼のために用意された別棟に籠もってしまっている。

そのために、滅多に顔を合わせることもない。

 

ヒカルは、今夜も一人きりの食事を済ませていた。

シャルルはできるだけ戻ってくると言っていたが、今日は戻らないだろう。

彼がヒカルを養うために当主としての権利を維持し続ける配慮を怠っていないことをヒカルは承知していた。

シャルルはルイに冷淡であり、ルイはシャルルに何ら期待していないという態度であった。

生きている親子同士であるのなら、もっと共有できるものもあるのではないのか、と思う。けれども、ヒカルにはそれを言うことはできない。

そこに割り込んで生きているからだ。

そうではなく、シャルルが引き取ったのだと言う者もいるけれども。

それでも、ヒカルはルイと心を通わせたいと思っていた。

 

ヒカルは、無言で運転するルイの横顔をそっと見上げる。

彼女のために用意された口当たりのよい発泡性のアルコールで全身が暖かい。

 

今宵外出するとは思わなかった。

 

一人きりの食事は何とも味気ないものである。

本当なら、食事を摂らないで済ませることもできたが、それではシャルルが哀しそうな顔を浮かべるだろうとわかっていたので、彼女は沈黙に耐えて時間を過ごす。

シャルルは彼女が寂しくないようにと配慮したのか、それとも本当に今夜は外出の予定が突然入ってしまったのか、ヒカルのために彼女の生年に作られた、ごく弱いアルコールを用意してあった。

 

ルイはこういう時はいつも違う場所で食事をすることにしている。

シャルルが同席するようにと言わなければ、彼は決して本邸に姿を現さない。

 

食事の後に、彼女は部屋からルイの別棟を眺めるために窓辺に寄って驚いた。

彼が滞在しているはずの別棟は照明が消えており、ルイは車庫に入ったと聞いて慌てて部屋を飛び出したのだ。

そういえば、外出すると申請して来なかった。

彼がこのまま別棟には戻らず、またしばらく会えないのかと思うと、ヒカルはどうにも落ち着かなくなってアルディ邸のヒカルの部屋から出てきてしまった。

 

 

 

 

 

●03

 

ヒカルがルイの姿を発見した時には、ルイが車に乗り込む時であった。

ヒカルは慌てて走り込み、助手席の扉を開けた。

新車の匂いが漂う。

 

近付いた時に、すでにヒカルの存在には気がついていたのだろう。

ルイは驚いた風でもなかったが、乗り込んで来たヒカルに嫌そうな顔をしていた。

しかし、降りろと命令することはなかった。

彼がひとりで夜の疾走を味わっているのは、何か考えがあるからだ。乗馬ではなく、最新の車に乗り込んで彼がひとり考えていることは何なのだろう。

それに、少しばかりかもしれないが近付くことができたのなら。

ヒカルは躊躇わずに、そこに向かって乗り込んだ。

年若い彼女には相応しいとは言えない行動であることも十分承知している。

 

「私も、行く」

ヒカルはそれだけを言うと、シートベルトに手をかけた。

それを待っていたのかどうかは判別できないが、ルイは勢いよく車を走らせた。

 

ヒカルはルイを見つめる。

端整な顔立ちは、シャルルの若い頃に酷似している。

通った鼻梁、薄い唇、そして青灰色の深く窪んだ切れ長の瞳。

フェンシングと乗馬で鍛えた体は金属を思わせる。

長い手足であるのに整えられた指先は神経質なルイそのものであるかのように細かった。

 

ヒカルは日本人である母親の顔立ちに似ていたので、人種の異なるルイの美貌があまりにも自分と違うのだと溜息を漏らしてしまう。

しかし、そのような星辰の子と呼ばれるルイでも、彼の父であるフランスの華と違っているところがある。

それは彼が黄金の髪を持っていることだ。

彼は、アルディ家の粋を集めて作られた。

遺伝子操作されて生まれて来たが、金髪を持っていた。

彼は若い頬を引き締めたまま、不機嫌そうに運転者席のレザーシートに沈んでいる。

 

ヒカルを待っていたわけではない。

そう思えた。

詰るでもなく、咎めるでもなく、ヒカルを完全に無視した状態で革巻きのハンドルを握るルイに話しかけてはいけないような気がする。

それなら、乗り込むような暴挙は控えた方が良かったのに、と後悔するが、それでも、このままルイを見送っていたのなら後悔したと思う。

理屈で説明できないが、ヒカルはそう感じた。

ヒカルは茶色のくせの強い髪を肩に散らせて、下を向いたままだった。

ルイと一緒にいると、彼女は俯きがちになってしまう。

後ろめたいことなどは何もないのに。

それでも、ルイの直視が、彼女にはひときわ眩しく感じられる。

彼が、彼女に微笑むことはない。

それでも、ルイが輝き続けるのは、アルディ家の頂点に立つことを目標に生きているからだ。

何かを心に秘めて、目的をもって生きている者は、どこかが違う。

無為に生きているつもりはない。

父と母の消えた海に近い場所で生きている。

情報に最も近いシャルルの傍で生活する。

今は、それ以上に・・・この家が自分の戻ってくる場所だと思うのに、それでも、自分の居場所を探し続けている。

消息のしれない両親の探索に関する情報は、年を経る事に少なくなってきていた。

ここに居ても良いのだと許可されて空けられる場所と、最初から彼女があるべき場所に居るのとでは違うのだろうと思う。

しかし、彼女にはその違いがわからない。

 

 

 

 

●04

 

おそらく、ルイにはヒカルはとても無神経な人物に見えているのだろう。確かに、その通りであった。

ヒカルはルイにとって拒否し、攻撃するに値しない人間だから。

だから、彼は何も言わないのだ。

決して、許可しているわけではない。

彼の傍に常に居られるような人物は、彼の教育係のミシェルぐらいだ。

ヒカルは大きく息を吸って、できるだけ朗らかに彼に話しかける。

無邪気であるとか無神経であるとか、罵倒されても構わないと思っていた。なぜなら、彼の行動に割り込んだのはヒカルであり、彼女の判断であったからだ。

ルイに尋ねれば良かった。一緒に付いて行っても良いのか、と。

しかし、尋ねれば色よい返事は受けられないという確信があった。だから、行動に出た。それは言い訳にならないと感じながらも、それでも、彼をひとりにできなかった。

・・・そうだろうか。

彼をひとりにできないと思いながらも、その実はヒカルがひとりになりたくないだけではなかったのか。そう思ってしまう。

「あのね、ルイ」

そう言った瞬間にアクセルを踏まれてヒカルは目を閉じた。

今度の車は彼の好むマニュアルシステムではなく、オートマチック仕様での納車であったらしい。それが彼を不機嫌にさせている。

そうだとわかった瞬間に返品しても良さそうであったのに、彼はエンジンの音が気になるのか、そのまま受領することにしたようであった。

そこまでは、ヒカルには理解できた。

「それ以上喋ったら、放り出す」

彼は低くそう言った。エンジン音と風を切る音が混じり、ルイの声が届きにくい。しかし、ヒカルに配慮するような彼であったのならこんな瞬間に忠告するようなことはなかった。

彼がこれほど冷淡である理由も、怒っている理由も、すべてヒカルが持ち込んだものであった。

彼の乗る機体に対して、ヒカルは何かを期待しているのかもしれない。

そのまま、他には体験できない速度であの星々に行き着くかもしれないという昂揚感と同時に・・・帰ってこなかった両親と同じ速度を体験できるかもしれないと思っている自分のことを、ルイが見抜いていることも承知していた。

病んだ感情であることも承知している。

しかし、ヒカルは降下する飛行機に遭遇することで両親の恐怖を共有したいとは思っていないし、ルイの運転する車が恐怖を感じさせるほど危ないものだとも思っていない。

それなのに、なぜなのだろう。星が凪がれるこの時期には、光速でその空の下を走りたくなってしまう。

それは、年齢と条件について今の年齢に応対せざるを得ないヒカル・クロスでは無理な話であった。

まるで、ヒカルの物思いをそのまま行動に移したかのようなルイの走行にヒカルはついて行きたいと思ってしまう。

 

なぜなのだろう。彼の車の助手席に乗るのは、ヒカルではないという確定が彼女を衝き動かす。

 

ルイが誰と恋愛をしていたとしても、誰を特別だと思っていたとしても。

ヒカルには関係ないことなのだと言われそうでそれが怖かった。

確かに、ヒカルには関係の無いことなのかもしれない。

しかし、彼女はそれでも彼がひとりで出歩くことについて少しばかりの安堵と不安を同時に抱えている。

自分が、誰かに必要とされることを確かめたいのかもしれない。

シャルルからは、ヒカルは名前の通り、光を浴びるかのように愛を注がれていた。本当なら、それはルイが享受するものであった。だから感じるのかもしれない。ルイはどうして月光の下でしか行動しないのかということに対してヒカルは何も言えなくなってしまうことを、説明できないでいた。

「それで、特別になったつもり?」

ルイの声が聞こえてきた。

直走が続いた頃のことである。空にかかる灯りが徐々に剥がされていった頃のことであった。これからますます、星闇に向かっていく。

その時に、覚悟を尋ねられたようで、ヒカルは答えに窮してしまった。

 

 

●05

 

彼の運転は少し荒々しかった。いつも静寂を心がけている専属の運転手のそれとはまったく違う。シャルル・ドゥ・アルディと一緒に過ごす時間より、圧倒的に少ない時間をルイと共有する。それが嬉しいのか困ったことなのか、ヒカルには区別することができなかった。

無責任な応えかもしれないが、それでもヒカルはルイの問いかけに応じたいと思った。彼は誰かに質問することは殆ど無い。いや、彼が誰かから質問されることを許可することは殆どなかった。

彼の憤りを表出させているのかもしれない、と思った。

いつも冷静で、何にも動じない彼が苛立っている。その原因が隣に座っているのであれば、尚更のことであった。

 

嫌われているとわかっているのに、行動してしまう自分の情けなさにはどこか甘えがあるのだろう。

それはわかっていることであった。ルイは、最後の瞬間には彼女を拒まない。それが彼に課せられたものであるからで、彼の誇りを問われる問題になるからだ。

 

だから、彼は自分の怒りをヒカルに向けることなくこうして運転している。

「ルイの特別は、誰か別の人であって欲しいと思う」

ヒカルがそう言った瞬間、ぐっと速度が上がったので、ヒカルは背凭れに強く背中を押し当てることになり、小さな悲鳴をあげた。

「あの・・・ルイ」

そっと声を出したが、エンジン音にかき消されて、ヒカルの声にルイは反応することはなかった。無視しているのか、聞こえていないのか。ヒカルにはわからなかったが、彼の美しい横顔を見て、ただ溜息を洩らすばかりであった。

 

ヒカルから話しかけることをしなければ、ルイはずっと黙ったままでいるのだろう。彼は元々、話し好きな気質ではない。必要があれば社交家になることもできるが、今は必要ではないという判断があるのだろう。ヒカルに対して何かを語り、ヒカルから何かを得るというような益となることはルイにとっては少しも存在しないのだから。

 

「ルイ、ありがとう」

謝罪は彼を苛立たせるだけであった。だから、ヒカルは礼を口にする。

常に、彼には感謝していたい。彼女がアルディ家に住まうことができるのは、ルイの承諾があってのことであったから。彼は納得していないのだろうけれども。

もし、本当にヒカルの存在を疎ましく思っているのだとしたら、彼は本当に車外に放り出してしまうこともやりかねない。

膝の上で両手を組み、所在無く組み合わせを変えてその場の気まずさを紛らわそうとしているヒカルにルイは顔を向けることはなかった。

存在そのものを否定したいのだと思った。

しかし、沈黙を破るためにつまらないことを口にすれば彼はまた不機嫌になってしまう。

黙っているしかなかった。

彼は車内では音楽を流すこともなかったし、ナビゲーション・システムさえ電源をオフにしてしまっている。

エンジン音と運転しているという感覚に集中しているのだ。

 

滑るように走る車の性能は素晴らしいもので、ルイがこのことによって機嫌を直してくれれば良いのにと思っていたがそれは願いでしかなかった。いつも、期待してばかりのヒカルは自分の都合の良いように解釈しがちだ、とルイに指摘されたばかりのことであったから、ヒカルはこの状況でどのようにルイと会話を交わせば良いのかを懸命に考えて、ようやく出せた言葉にも、彼は無言だったのでヒカルはまた萎れた花のように自分の膝上に視線を向けた。

ルイと星を見るようになってから、ヒカルは彼と少しだけ近付くことができたのだと思っていたがそうではなかった。彼は、単に「その場所にいたから」という理由でヒカルを選んだだけであった。それを確認するような行動を選んだのはヒカルであったのに、なぜ、こうも失望してしまうのか。

こたえはわかっている。

期待していたからだ。

ルイが彼女と心を通わせてくれるのかもしれない、と大きな期待を持ってしまったのだ。実現することを待ち望むことを期待というが、彼女は待っていたのだ。だから確認するような行動によってそれが期待外れであることを確認したことになった。

 

涙を見せれば自分の誇りを捨てることになる。ヒカルが持っている、唯一の戒めであった。

人前で泣かないこと。それだけを守ってきた。そうすれば、いつか、両親がヒカルを迎えに来てくれると願うかのように、頑なにそれを守った。

 

しかし、どうもルイの関与によってヒカルは容易く戒めを解いてしまいそうになってしまうと気がついた。

なぜなのか。ルイは何かを手厳しく指摘することもあるが、彼が言っていることはいつも矛盾がなく正しく、そして時にはヒカルの心を大きく揺らす力を持っているからなのだ。

 

 

 

●06

 

ルイ・ドゥ・アルディとの会話を期待できないと悟ったヒカルは、ただ黙って彼の集中力を削がないように気配を押し殺した。

吐息すら、車内の空気を震わせる。

騒がしいことが好きではない彼には相当の苦痛だろう。

そう思った。それだけはわかった。彼は決してヒカルに打ち解けたわけではないのだ。

 

期待できないから沈黙する。

 

そういう行為は虚しいばかりか愚かしいと思った。

 

これまでの生きてきた時間は短いものであるかもしれないが、彼女のなりに学んできたことがあった。

手を伸ばさなければわからないこともある、ということだ。

それがたとえ、自分を傷つける行為だとわかっていたとしても。

その先にあるものの存在を信じて、飛び込む勇気も必要なのだということを、ヒカルは間違っているのだと思いたくなかった。

 

自分がアルディ家にやって来たのは、幼いながらにも、そのような飛び込む勇気を持ったからなのだと思っている。それは正しいことなのかどうなのかはわからない。そこに正誤を求めることそのものに意義があるとは考えていなかった。

これはすべて、シャルルから受けた影響であると言えたけれども。

ルイにも同じ思考を感じる時があるから、彼女は彼に近付こうとする。

すべての星々を遵える彼は、ヒカルにとっては無視できない存在であった。

だからこそ、彼女はここにいるのかもしれない。

ルイの方を見る事すら許可されていないような気がした。

自分は異端者で、彼にとっては目障りこの上ない存在なのだとわかっているのに、近付いてしまう。ひょっとしたら、優しくしてもらえるかもしれないという邪な期待が自分を惨めにさせていく。

どうして良いのかわからない、という回答はルイには通用しない。

彼は黙ったままで彼女の存在をまったく無視していた。

だから、ヒカルは窓の外を眺める。光の速度、とまではいかないが自分で走るよりずっと急な景色の変化を目で追いかけるだけで精一杯であった。

何度だって話しかけたいと思うし、それは今でも諦めていなかった。

ルイの前では、シャルルにできないことをしでかしてしまう自分が、いる。

それはなぜなのか。

どうあってもわかり合えないと思うから気になるのだろうか。

わからない。

 

星の間を駆け抜ける、というのはこういうことを言うのだろうか。

すでに周囲は陽もすっかり落ちて、灯りが彼女の前を通過していく。まるで、星のように。でもそれは灯りが移動しているのではなく、ヒカルとルイを乗せた車が高速で移動しているからだ。

惨めな気持ちになるのは、自分がルイにタイして求めてばかりなのだ、と言い聞かせる。

どんなに心穏やかに暮らそうと思っていても、彼女にはそうできない事情があった。

滞在しているアルディ家からも、日本にいる彼女の親族達にも、彼女の存在は心配と困惑の種であり、それは決して結実することもなく種子のままで終わってしまう因子であるからだ。

自分という存在が懸念されるということを承知していながらも、

ヒカルが両親と一緒に暮らす日がやって来ることを夢見るだけで、周囲は落胆する。

彼女は願い事を掲げてはいけないのだと悟った時には、もう、両親と暮らした日々よりも、両親が戻らない日々の方が圧倒的に長くなってしまっていた。

 

ヒカルが望むことを実現させようとしているシャルルに対し、ルイは非情なまでに事実だけしか信じない。

 

窓際に頭を寄せる。彼から遠く逃れたいのではなく、外の景色に意識を集中させることで、自分の気配を少しでも消そうとしたからだ。

今までそうしてきたのだから、少しも難しいことはない。それでも、どうにも苦痛であった。自分の声が届かない、自分の存在を薄くする、そういう自分の優先順位が怖かった。どうして生まれて来たのか、どうしてここにいるのか、そういうものを問い質し始めたらきっとヒカルは自分のことを否定してしまいそうになる回答しか導き出せないという予感があったから。

 

車内は薄暗く、それでいてとても静かであった。

フロントパネルの淡い光がルイの顔を白く照らし出している。

仄暗い空間の中でも際だって目立つ、ルイの金髪に目を奪われそうになる。

 

けれども、その誘惑を乗り越えて彼女は視線を外に向ける。

先ほどから徐々に、星空が見えるようになってきた。

灯りの間隔が間遠になり、彼が向かおうとしている先はアルディ家から離れた場所なのだということがわかった。

ルイはいつもこんな風にしてひとり遠出をしているのだろうか。出掛けているのは、人と会うためではなくひとりになるためだったのか。

彼が車を好み、始終乗り換えをしている様についてヒカルはその理由を少しも把握していなかったことに気がついた。

 

 

 

●07

 

どうして、自分は自分のままで生きられないのか。そもそも、自分のままというのはどんなことなのだろうか。

ヒカルはそんなことをぼんやりと考えていた。

 

永遠の晄という名前として昶と名付けられた。

自分がそのように自署する時は、本当に数えるだけになってしまった。黒須昶ではなくヒカル・クロスとして生きている時間の長さは圧倒的だ。

逢いたくても逢えない人と、逢うことが出来るという瞬間を期待して、ヒカルは生きている。

 

宙に阻まれてしまった者達のように。

・・・父と母は、一緒に居るだろうか。

彼女の心配事はそこであった。父と母は、逢いたいのに逢えないという状況ではないのだろうか。

恋い焦がれた相手と結ばれて、そしてヒカルが生まれた。それほど先ではない未来に、ヒカルは父と母が恋を確かめ合った年齢に到達する。

その時に、父も母も居ない自分には、何かが欠けてしまっているのではないのだろうかとさえ思ってしまう。

これほど皆に心をもらっているというのに。シャルルからは、有り余るほどの多くを受け取っているというのに。ヒカルの心にある愁いは、星空を見る度に癒えるどころか深まっていくばかりであった。

 

ああ、空が流れて行く

 

そう思った。

目に映らないものさえ、そこにあるという存在を感じる。

ルイの運転する箱船に乗って、ヒカルはこのまま星まで行き着けば・・・父と母を遙か上空から探し出すことができるのではないのだろうかと思った。

無体なことであるけれども。

でも、自分ができることはとても少なくて、そしてヒカルの存在は星空の下ではとても小さすぎて、両親からは見つけてもらえないのではないのだろうかと思う。

 

時々、怖くなってしまうのだ。

 

自分が、この生活に慣れてしまっていることが怖い。

 

仮の住まいであることは十分に承知していることであったし、ルイが生きている世界と自分はどれほど違うのかをよく知っている。

それでも、ヒカルは日本に戻って黒須昶として生活することに対して臆病になっていた。

親族と交流する機会が億劫だというのではない。

ただ、皆が思っている「黒須昶」であるのかどうかわからない。

 

彼女はヒカル・クロスとして生きている時間が長い。それは自分で選んだことだから、後悔はしていない。でも、そのことによって哀しませている者がいるのだという認識はあった。

 

星の戀に生きた、空の天人達もそう思ったのだろうか。

そう考えながら、空を見る。

たくさんの星の晄の中で、たったひとりを見失うこともなく見つけて逢瀬を喜び、そして別れる時には歎き、それでも次に逢うことを待つ恋人達のことを思う。

自分のことを、見つけてくれる者は居るのだろうか。

両親は、ヒカルを探し出してくれるだろうか。自分は、探し出せるのだろうか。

そして・・・年を経るごとに、ヒカルは昶を失っていく。

永遠の晄という名前に恥じない生き方をしているのかどうか、わからなくなってしまうのだ。

 

星の河が横断する様がよく見える季節になると、こんなことを思ってしまう。

この日は七夕といって、願い事を短冊に書いて笹の葉に結び、そして祈願する。

でも。

ヒカルは、願い事を書き出して捧げるという言霊の願いを書く事ができない。

 

●08

 

どれくらい、沈黙が続いたのだろうか。

ヒカル・クロスがそれを数えることはなかった。

 

「あ・・・」

彼女は声を洩らして、そして慌てて口元を手で抑えた。その時に、自分がシートベルトによって拘束されていたことと、ルイの車の助手席に座ったままで眠り込んでしまっていたことに気がついた。

同じ姿勢で首を傾げていたせいだろうか。背筋が強ばっていた。緊張したままであったのに、意識を失うなんて自分は相当に疲弊していたのだろうか、と思った。

違う。

あの沈黙と静寂が、ヒカルを安心させたのだ。狭い空間で、新車の匂いの中で、無言でルイが運転していたから。

そこで蒙昧としていた状態から、意識がはっきりとしてきて、自分の状況を確認できる程度にまで回復すると、ヒカルは身を僅かに起こした。

 

・・・停車している。

そして周囲は真っ暗であった。空調を効かせるためにエンジンは切られていない。しかし、ヘッドライトは切断されており、本来居るべき場所にはこの車の主は座っていなかった。

ここがどこなのかも、わからない。

微弱な振動が彼女を深い眠りに誘っていたのは間違いなかった。

パリの郊外であることだけはわかったが、それがどこなのか、わからなかった。ヒカルはずっと暮らしている場所なのに、知らない場所が多すぎた。それが自分が求めて出歩くことがなかったからだ。

シャルルは様々な季節と景色をヒカルに見せてくれる。でも、ルイは何を見聞きしているのだろうとずっと思っていた。彼が得るべき愛を、ヒカルは横取りしているような気がするから、ルイには一歩引いた状態でしか接することができない。

 

それが彼の誇りを傷つけている。

それはわかっている。

でも、こういう星の夜をヒカルは知らなかった。

ルイしか知らない星の夜をヒカルも垣間見るようになって、彼に近付きたいと思ってしまう。

・・・星の夜は勿論知っているけれども。

自分の心の内を見つめるような星合いの闇を、ヒカルはルイによって教えられた。

 

「ルイ」

彼女の声は乾いて掠れていた。自分がどれほど意識を失っていたのか、まったくわからなかった。運転席から見えるボードパネルには時間が表示されているのだろうと思ったが、身を乗り出して確認したいと思うよりも前に、ルイの姿を探すことに意識は移ってしまっていた。

視線が彷徨う。

確かに、自分は睡臥を貪っていたようであった。指先に力が入らないから。彼が聞いているのは、無機質なエンジン音なのか、それとも星の音なのか・・・どちらなのかはヒカルにはわからなかった。

 

「・・・ルイ」

彼女は心細くなってもう一度、彼の名前を呼ぶ。

先ほどまでここに存在していたのだと思われる名残の空気はあった。

でも、彼女は恐怖した。

ふと気がついた時に、それまで当然だと思っていた存在が消滅してしまったという経験はこれがはじめてではないからだ。

ヒカルが物心ついた時には、ヒカルの両親はすでに不在という扱いであった。

 

いい子にしていてね、という母親の抱擁も。

父の声も記憶していたというのに。

 

それが揺るがない事実であるかどうかを今、証明することはできない。彼女の脳内にある記憶がゆらぎのない事実であると発言するのは、シャルル・ドゥ・アルディだけであったから。

 

 

 

 

●09

 

ヒカル・クロスは周囲を見渡した。

ルイの姿が見当たらないことに不安を覚える。

それを何とか払拭しようとして、彼女は体を捻り、暗闇の広がる静かな場所がどこなのかを把握しようとした。

放り出すと言っていたけれども、結局、彼女を放置することにして自分の方が出て行ってしまったのではないのだろうか。

そう思わざるを得ない。確信ではなかったが、ヒカルの配慮のない行動が彼を激高させてしまったのだとしたのなら。ヒカルは、声にならない吐息を漏らす。

長く一緒にいる間柄であったけれども、シャルルの言う通りに「あにいもうと」のような関係になっているとは思えなかった。

彼との距離は縮まらない。少しも。

それでも、ヒカルは諦めたり挫けたりすることはしなかった。自分が何かできるという慢心は持たないようにしていたのだが、それでも自分が何かやれるのではないのだろうかという気持ちを無視することはしたくなかった。

やってしまった後悔は、やらなかった後悔より勝ると思っていたからだ。

それでも、いつも、失敗ばかりしている。今日もそうであった。

ルイはひとりになりたいから出かけるのだ。夜の門限時間をまったく無視した彼の行動に便乗しても、シャルルはヒカルを叱ったりしない。しかし、シャルルはきっと、失望するだろうと思った。

ヒカルを育ててくれている人に落胆を与えたくないと考えているのに、ルイのことは無視できない。

自分で理屈を説明できなから彼を失望させてしまうのだ。

シャルルを失望させてしまうことを怖れてヒカルはいつも「いい子」でいるように努めているところがあると彼に再三指摘されているところであった。

ルイは決して繰り返さない。

アルディ家の俊英達は繰り返さない。

しかし。彼はヒカルのことになると、その時だけは常に幾度も同じことを言うのだ。

 

愚かなヒカル。

浅慮なヒカル。

そして彼は彼女のことを贖罪の娘、と言う。

彼女は街灯で溢れる街並みではないことに不安を感じ、外に出ようとした。乗り捨てて行くには、ルイの交通手段がなさそうだと判断したからだ。

それなら、自分が歩いて行けば良い。彼が出て行くことはない。

 

白い革張りの内装の中で、3Dホログラム・スクリーンが淡く浮かび上がっている。しかし、扉の開け方がわからない。車内灯の場所も定かではないヒカルは、手探りに自分の身体の外側に手を這わせたが、どれがどう作動するのかまったく判断できなかった。真新しい内装の感触があるばかりで、何をどう操作していいのかまったくわからない。

 

・・・その時だった。

 

かちり、と外側で音がして、扉が開いたのだ。

後ろヒンジの跳ね上げ式である。

その扉がゆっくりと開き、外の空気を取り入れていく。

快適な空気ではなく、少し湿った外気が流れてきて、ヒカルは強ばっていた顔を僅かに緩めた。

閉じ込められたとは思わないが、理性的でいられなかった自分の乱れた顔を見せるべきではない相手が目の前で面白くなさそうな様子で、無表情のまま立っていたから。

少し背が伸びたのだろうか。腰は細いのに全身が細い鋼のように締まっているルイの姿は「星辰の子」と呼ばれるに相応しい姿であった。見事な金の髪、理知的で静けさが漂う青灰色の瞳、すらりと長い手足に落ち着き払った所作。何をとっても彼は完璧であった。

そして、ヒカルの前に、彼女が求めた時にやって来る彼はまさしく星辰の子であった。

ヒカルと同年代の者達だけではなく、周囲の者に夢と希望を持たせる、完璧な条件を備えて生まれて来たルイは、金の髪を揺らしてヒカルの顔を見下ろしていた。

開いた扉は上方に跳ね上がり、彼はそこに軽く片手を乗せてヒカルを無遠慮に眺め回している。彼女はつまらない求めに彼が応じてくれたのだと知り、顔を赤らめた。

 

●10

 

「閉じ込められたと思った?

彼は冷笑した。その冷たい微笑みでさえ、ヒカルには染み入るほど嬉しい合図であった。

「私、眠ってしまっていたのね」

「寝ている女は、金輪際、助手席には乗せないことにする」

ルイは素っ気なく言った。

シャルルとよく似た声であったけれども、ルイの声は誰とも違っていた。そう・・・どちらかと言えば、ミシェルに似ている。それはミシェルがルイの叔父であり、彼の教育係であるから自然に口調が似てしまっているのだろうと思った。

 

彼は完璧だ。

ヒカルはそう思った。

過不足のない人のことを完璧というのではなく、過不足を承知している人のことを完璧なのだと思うのだ。ルイを目の前にするとそう感じる。

 

なぜ、そんなにまでして、実息であるルイをシャルルが退けようとしているのか理解できなかった。しかしそれはルイも同じだろうと思う。シャルルの真意を模索しながら、ルイは生きている。そしてシャルルは愛が欠けていることを承知しているように思えてならない。

 

別の場所で過ごすことが多くても、あの家に戻ってくるのは彼が帰るべき場所があの場所なのだからと考える。

ルイがいうところの「帰るところがそこしか存在しない」のではなく、ルイが帰る処と決めている場所であり続けて欲しいとヒカルは切に願っていることをルイは知っていた。

・・・ヒカルは、何とかして彼とヒカルの共通点を見つけようと思うのだが、それはいつも失敗に終わる。

唇の端を少しだけ歪めて、彼は綺麗な顔をこちらに向ける。

「ヒカルを閉じ込めて、オレに何か利益があるとでも?」

「ルイはそんなことはしない」

ヒカルは答えた。先ほどまで、彼が自分を置き去りにしてしまったのではないのだろうかと思っていたのに、咄嗟に口にした言葉は逆のものであった。

そして、疑っていた自分を恥ずかしく思った。

彼は無意味に行動することはない。

だから、彼の利害得失という問題だけではなく、ヒカルをそれほどまでに重要だと認識していないのだということを認めるのが怖かったのだ。彼に見捨てられたということではなく、そもそも、彼の世界の中にヒカルは存在しないのだという確認をするようなことに怯えていた。

「『そんなこと』?」

彼は冷笑した。

闇の中に彼の金の髪が淡く光っているように見えて、ヒカルは自分がその少し前まで大変に慌てていたことを忘れてしまう。

ルイが前屈みになり、彼女の顔を覗き込む。ヒカルははっとして体を引いたが、それは虚しい動作になった。

シートベルトで体を固定されていたヒカルは、それ以上の自由を許されなかったからだ。

「ルイは、怒っているの?」

「なぜ?」

「私が、ついてきてしまったから」

ルイはその答えに、面白そうに目を見開いた。切れ長の瞳は青灰色で、ヒカルのそれとは異なっている。通った鼻筋も、綺麗な顎の曲線も、俯くと年齢よりずっと若く見える輪郭も、すっと筆を払ったような首筋も、彼の仕草には無駄なものはひとつもない。

彼の容姿に心を奪われる者は、すぐに、彼の頭脳はもっと素晴らしいと気がつく。

彼の中では無駄は存在しない。だから、こうしてヒカルを連れてくるということは気紛れではないということはヒカルにはわかっていた。でも、それ以上のことはわからない。

彼の心の内を知りたいと思うのに、彼は追いかけても、追いかけても、決して追いつかない星のような存在だから。

「永遠の晄が星を追いかける」

彼は詩を暗唱するような口調で言った。耳に残る声である。ヒカルは困ったように俯いた。気の利いた切り返しを思い付かなかった。

晄を放つ星が、永遠の晄を追い求めることはないのだ、と暗に言われているような気がしてしまう。

 

●11

 

「ヒカルはヒカルの想像の中だけで生きている」

ルイは薄い唇を動かす。その様子だけでも魅入ってしまい、自分が次に何をしようとしていたのかさえ忘れてしまう。

しかし、ただ陶酔するだけではない。ヒカルは同時に思ってしまう。

どうして、これほどまでに完璧な人が苦しむのだろう。

何もかもに恵まれているから幸せなのだという定義は成立しないのだと改めて思った。

 

「ヒカルの問いかけは、オレを満足させることはない」

そう聞いて、ヒカルは哀しくなって顔を曇らせた。彼に対して満足な情報を伴った質問をすることができないのだ、と言われているからであった。

つまり、ルイが質問をし直さなければ彼女の問いかけにはこたえはやって来ないのだと言われていることに、ヒカルは猛省する。自分が至らないだけではなく、ルイに対していらぬ労苦をかけてしまっているのに、それを当然のような顔をしている自分の厚かましさについてルイは非難しているのだ。

ヒカルは羞恥で頬を染めた。ルイに見つめられ、彼がヒカルのためだけに言葉を発することを喜びながら、それでいて問い詰められていることに心を落ち着かせることができない。

シャルルから得られる視線と、ルイのそれはまったく違っていた。なぜ、彼はこんなに自分を真っ直ぐに見つめるのだろう。シャルルの愛に満ちた視線とは違い、ヒカルを落ち着かなくさせる。

青灰色の瞳に見え隠れする、彼の激しさを感じるからだろうか。彼は、彼の特別な人にはそんな熱情を隠すこともなくぶつけているのか。

自分が、ルイの最も近い異性であるのだということがヒカルの中で少しばかりの誇りになっていたことを恥じた。だからどうなのだ。

シャルルからは「妹として遇するように」と言われたから、ルイは最大限の尊重をヒカルに向けているだけなのだ。彼はもっとヒカルに冷たくしても、それは誰も咎めるような理由にならないというのに。

ルイは、ヒカルが乗り込んだ車ごと、連れてきた。星の空に。

 

ああ、星の海が見える。

 

彼女は顔を上げた。ルイの肩越しに見える暗闇とちかりちかりと瞬く星の河が見え、それがヒカルを落ち着かせた。

河や海はヒカルの根源であった。恐ろしいと思う一方で、彼女はどうにも懐かしいと思う気持ちを抑えることができなかった。

星の行き交う夜を見ていると、涙が込み上げてくる。決して泣かないと決めていた彼女の眦に、星の水が浮かぶ。

父と母は、どうして帰ってこないのか。責めるのではなく、どうして自分が父と母の傍にいけないのかと思ってしまう。

 

本当は、戻って来られないのではなく、ヒカルが行き着けないのかもしれないと思ったのだ。

そして、アルディ家で自分は育っていくのに、少しも両親のことについて理解を深めることができない。ルイは、彼の母の記憶についてどう思っているのかということを聞いたことはなかった。過去を失ってしまった者は、未来に生きてはいけないのか。そうではないと思いながらも、ヒカルは明確な答を出すことができない。

「ルイ」

彼女は車から出ようとして、体を屈めたがシートベルトのロックに手を遣り、そして一瞬、ルイから視線をそらす。彼がどこかに行ってしまいそうな不安がヒカルの手を震わせた。早くしなければならないという焦燥が彼女の手元を狂わせる。

彼が満たされるために、ヒカルが消えれば良いのか。それとも・・・もっと何かできることがあるのではないのだろうか。ヒカルはそれを確かめようとして忙しなく手元を動かしたが、この車はいつもよく知っている車の造りと異なっていて、どこに触れれば解除となるのか、その位置すらわからないことがヒカルを余計に慌てさせた。乗り込む時にはそれほど難しくはなく、何も意識せずにいたものが急に彼女を縛める。

先ほど垣間見えた星の河は、ヒカルに静寧をもたらしたのに。

ヒカルを乗せた筺が、ヒカルが俯いたためにそれを咎めるために彼女から彼女がそれまで持っていたものすら躊躇なく掠って行ってしまっていくと思った。

「上手くいかなくて・・・」

ヒカルは口籠もった。

すると、彼は深く溜息を洩らした。それすら、ルイの仕草は美しく失望させてしまった原因が自分にあることすら束の間忘れてしまいそうになる。

夜の空の下で、ルイは星々を遵える者らしく、遠い眼差しでヒカルを見つめていた。

しかしヒカルが身を竦ませていると、彼はふっと体を屈めて腕を伸ばし、ヒカルのシートベルトを外した。まったく探す風でもなく、迷いもなかった。すでに内部の構造すらルイの頭の中に記憶されているかのように、彼は何事もないという様子で彼女の腰元から彼女には大きすぎる装置を取り外していく。

「位置くらい自分で調整しろ」

ありがとう、と言おうとするとルイが手厳しく彼女を遣り込めた。

慌てて乗り込んだために、ヒカルは自分の体格に合うように調整することを失念していたことを咎められていると悟った。普段は彼女のために準備された車を使用しているから、まったく気に留めることもなかった。ヒカルは己を恥じる。誰かに準備されているということを忘れてしまい、軽んじている行動を取ってしまったと反省した。

「気を付けます」

ヒカルはくぐもった声で言う。ルイが彼女の近くに体を寄せているので、彼女はつい、小さな声で答えてしまう。

ルイの神経質そうな細くて長い指先がベルトの収縮を乗せて、ヒカルから離れた。

金の髪がヒカルの目の前で、輝いていた。

・・・彼は、優雅にヒカルを解き放つ。決して、困らせようとしているわけではない。

それを知ってヒカルは微笑んだ。良かったと思った。何がどう良かったのか、うまく説明できないが、とにかく良かったと、そればかりを心の中で繰り返す。

 

 

●12

 

ルイ・ドゥ・アルディが非の打ち所のない仕草でもって彼女の降車を補助すると、ヒカルはようやく大きく呼吸した。

箱船に乗って星の河に近付いた、と思うほどに空が近かった。

「ここは?」

「隣で無遠慮に眠っていた者に教えてやる必要はない」

素っ気なくルイが言ったので、ヒカルは辺りを見回した。木立が幾つかあるだけで、見晴らしが良く、夜気に混じって強い緑の香りと河の匂いがする。それで気がついた。ここはパリから少し離れた場所で、人口の少ない街でありながらシャトーが点在する。近代化を好まないゆっくりとした時間が流れるところとしてヒカルも知っていた。

この車の走行には不向きな石畳の多い場所であったが、高層の建物がないので、星を観察する場所にはうってつけであった。

それに。

ヒカルは思う。

排気音とエンジン音が漏れ聞こえてしまう故に、ルイは夜の人気の無い場所を選んだのだろうと思った。彼は皆に囲まれることによって輝くのではない。彼そのものが輝いている。

星々を遵えるのに。

だから、ルイは皆に囲まれて姦しく過ごすより、ひとり、気の向くままに空を見つめる時間を好むことはヒカルも知っている。

 

その時だけは、ルイの手の平の温度を知る。

降車するときにヒカルの手を取り、優雅に彼女を外へ連れ出すルイの顔を見ながら、ヒカルは地面に降り立った。

これに懲りたら追いかけ回さないことだ、と厳しく注意されると思っていた。

彼はヒカルから手を離すと、すぐに彼女に興味を失ったように空を見上げ始めた。

ヒカルは彼に、ここはどこなのかと尋ねる機会を失ってしまう。でも、どこにやって来たのかは問題にならなかった。

あまりにも、星空が美しすぎて、眩しすぎて、彼女も空に広がる河を眺める。星の海であり、星の河であり、そして決して届かないところ。

ヒカルは星空を眺める。時間が経過するごとに、はっきりと見えてくる星空の瞬きに、彼女は目を細めた。空の中に何かがあるのかもしれないと思った幼い時のことを思い出す。

流れ星に願いをかけていたことも、星の空に哀しみをぶつけたこともあった。

しかし、その時にはいつもルイが傍らにいた。

 

彼はボンネットに寄りかかり、空を見ていた。

ルイは、何を願っているのだろう。

ヒカルは思った。彼の心の内を知ることはできない。常に、アルディ家の頂点に立つことを目標として努力してきた人はとても寡黙でヒカルと距離を置こうとしている。

あたりは静かで、まるで人気がなかった。一体、彼はこんな場所を何箇所知っているのだろう。彼が出掛けている時には、いつもこのようなひとりきりになりたいと思う場所を求めているのだろうか。

それを考えると、やはり自分はついて来るべきではなかったのかもしれないと思った。

それを読み取ったかのように、ルイは呟く。

「後悔するくらいなら、最初からそうするな」

「いいえ、後悔はしていない」

ヒカルは慌ててそう言ったが、ルイが彼女に視線を向けて、どきりとした。

その口元に微笑みが浮かんでいたからだ。

「ヒカルは、嘘つきだ」

彼女は息を止める。呼吸することすら難しくなってしまうほどの指摘に、彼女は何も答える事が出来ない。

「・・・嘘つきだ」

「そうだね」

目頭が熱くなり、そしてヒカルは頷いた。涙を堪える。彼女は確かに、偽りの日々を送っているのかもしれない。こんなに素晴らしい星空も目が醒めればすべて夢の中のことなのかもしれない。

それでも、この風景を記憶している限り、これはヒカルの想い出になる。そうしてひとつずつ、重ねて行く。彼女はそうやって生きてきた。両親との記憶の蓄積は別れてしまった時から増えて行くことはなかったけれども、それを哀しむのではなく、それを抱えて生きていくことを知った。

自分の心を誤魔化しているという点では。泣かないと頑なに決めている点では。確かに、彼女は嘘つきだと思った。

彼がひとりで見ようと思っていた星の下で、誤魔化すことに夢中になっているヒカルのことをルイが責めても、何も言い返せない。

 

彼女はそれでも彼の隣に向かった。

彼が何を眺めているのか、知りたかったから。

身長差があったものの、少しでも知りたいと思った。

大きく息を吸って、空を見つめる。夜気がヒカルの髪や服に纏わり付いて、彼女を少しだけ慎重にさせる。

互いの腕が触れるほどに近いのに、彼は少しも動かなかった。

見えるくらいの距離にいるのではなく、互いの気配しかわからないほどに近い方が落ち着いた。

 

 

●13

 

過ごした時間の累積はそれほど多くはない。

ルイの教育係であるミシェルの方がルイのことを熟知しているし、彼の気に入らないことも事も無げに回避するのだろうと思われた。

しかし、ヒカルはヒカル・クロスであり、ミシェルではない。

ヒカルはルイの隣に並んで、一緒に空を見上げるしかできないことを恥じたら、それは自分ではなくなってしまうと思った。

彼の隣にいることそのものが、ヒカルを落ち着かせる。

彼は星の奔りを眺めながら・・・何を思っているのだろうか。

乳白色に広がる星の河を見て、ヒカルはまたひとつ、大きく息を吸った。

車体に僅かに寄りかかり、ルイに今にも触れそうな距離にいるというのに。

彼には、届かない。

ヒカルは落ち着かない気持ちを誤魔化すかのように深呼吸を繰り返す。気配を抑えて、彼が空を仰ぐ時間を邪魔しないように、身を縮める。

そして、彼が無言で見上げている空を、そっと見てみることにする。

彼がひとりで眺めたかったのだとしたら、ヒカルはそれを横取りするような真似をしているのだと思って己を恥じた。けれども、あまりにも儚く美しく広がる星々の漂いを見ていると、そんな気持ちさえとても小さなもののように思えてしまう。

多くの星々を遵える者、という意味が込められている星辰の子からは、周囲の者はこんな風に見えているのかもしれない。

多く者達に囲まれているルイからは、ルイだけを見つめる者達はこんな風に・・・星の渦のように見えるのだろう。煌めいているかどうかという差はあるが、ルイにとっては同じなのだろうと思うと、ヒカルは胸の奥が突き刺されたように痛んだ。

彼は目的をもって生きている。だから、ヒカルが求めるようなものは決して求めない。家族とか愛とか安らぎとか、そういうものはまったく不明瞭極まりないもの、という括りで処理されてしまう。

でも、ヒカルは皆がいたからここに居られる存在なのだ。いきなりひとりにされてしまったあの時から、常に誰かの支えがあって生きていられるヒカルをルイが厭わしいと思うのも無理のないことだと改めて思う。それなのに、近付かない、という方法は選択したくなかった。そもそも、選択するかどうかという問題ではなかった。ヒカルは見つけて欲しいと輝くだけで済まされなかったのだ、と感じた。永遠の晄という名前を持っているのに、少しも光り輝けない。それどころか、皆の晄を眺めて欲しがってばかりいる。だからルイは彼女のことを嘘つきだ、と言う。

それを認めるだけの根拠と、それを確認するだけの年月によって彼はそう言ったのだろう。どうにもならないほど、ヒカルは孤独を感じていた。

遣り切れない思いが、星を瞬かせているのだろうか。それとも、ヒカルの瞬きが彼が随える星々と共鳴し、連結された運動となっているのだろうか。

 

「ああ・・・」

彼女は声を抑える事が出来なかった。

目が慣れてくると、無数の流星が頭上を横切って行く様が見えるようになったからだ。右から左へ白い閃光が孤を描いたかと思うと、その逆の流れが現れる。まったく予測できない場所からふっと晄が浮かび上がって、すべての星々が空に登るのではなく空から下って消える。

すべての星が、空からやって来て、そして消えて行く様を見て、ヒカルはただ呼吸も瞬きも忘れて見入ってしまった。

母の血、と言われればそれまでであったが、こうして美しいと思うものを見ていると、どうにもならないほど懐かしい気持ちになってしまう。

それは幼い時に見た景色を思い出すのか、シャルルがヒカルに惜しげも無く見せてくれた景色を重ねているのか、それすら判別することができなくなり、彼女は混乱してしまう。

「星が・・・」

彼女は声を失った。声を出せば、晄が消えてしまうと思ったからだ。

ここにあるのは、静かな星の夜だけである。人気はまったくない。杜の生命達も、空のざわめきに息を潜めて眠りを優先させているかのようにひっそりとしている。

「星は、いつかは墜ちるものだ」

ルイの声は心なしか、切ない声音であった。

「それでも、輝くのは生きているからなのね」

彼女は思わず口にしてしまう。生きている者のような表現をするのはまったくつまらないとルイは酷評するのかもしれない。でも、そう思ってしまう。

祈るように、願うように見守る。

消えて行く星達が、命そのものに見えてしまう。それを回避するために、祈りに変換する。

 

 

●14

 

彼は溜息混じりに言った。

「星は生きる為に堕ちるのではなく、生きていられなくなったから堕ちる」

彼にしてはとても感傷的な表現であった。ヒカルはさらに空を覗き込むように顎を上げて、いつもの自分の声よりもくぐもった囁きを漏らす。

「それでも・・・星の恋は綺麗だと思う」

「星の恋?」

ルイが呆れた声で言った。それが流星を意味しているのだとすぐに気がついたらしい。

ヒカルに夜空を見せ続ける相手は、空から堕ちるという表現を好まなかった。

なぜシャルルはそういうことを避けているのかという理由は明白だ。

ヒカルの両親の行方がまだわからないということによるところが大きかった。

「恋は美しいものばかりとは限らない」

ルイの言葉に、ヒカルははっとして彼を仰ぎ見た。

星の中で金の髪をそよがせているルイの横顔は、彼女が声がかけられないほどに透明でそして何もかもを拒絶しているような風情が漂っている。

「流星を星の恋と呼んで、それが燃え尽きる瞬間を美しいというのであれば・・・ヒカルは恋を知らない」

「ルイは知っているの?」

ヒカルは驚いた声を出した。自分の声があまりにも大きくて、慌てて手の平で口元を抑える。

父と母が少年と少女だった頃の恋を実らせてヒカルが生まれた。シャルルが今でもヒカルの母のことを特別な人と位置づけていることも知っているし、父のことを親友だと定めている気持ちも理解できた。星に願いをかけるという祈りの代わりに、ずっと探し続けてくれている。

星の恋は、夜の間だけしか見えない。でも、見えていなくても星というものはずっと晄を放っていて、恋しい相手の元に身を焼かせて近付いて行く。そんな激しい恋はヒカルは知らなかったけれども、ルイは知っているのか。

それが、彼の「特別」な存在であるのだとしたら、ヒカルはそれを祝って応援したいと思った。

 

「何を?

「その・・・星の恋を・・」

「星の恋、ね・・・」

彼は薄く笑った。その綻びは絶望が混じっているような笑いであったので、ヒカルは慌ててルイに視線を戻す。この素晴らしい星空をひとり眺める程に、苦しい思いに身を焼いているのだろうか。

それとも、彼が本当に認めて欲しいと思っている相手に、声にならない願いを星に乗せているのだろうか。

どちらにしても、ルイが心の奥深くで何かに憂えていることだけは間違いなさそうだ、と思ったヒカルは、並んでいた彼に身体を向けて、心を込めて言った。

「ルイがそう望めば、きっと叶う」

「オレには実現できないことはないよ、ヒカル」

ルイ・ドゥ・アルディは嘲ら笑った。アルディ家の後継者となるべくして生まれた彼には、確かに不可能はなかった。いずれは、彼はすべてを掌握するのだろう。この国の未来さえも、彼にとっては本当に些末なことのひとつのように見受けられた。

「確かに、求めるものが存在する状態であることには違いないが、それはヒカルに言われることではない。オレだけのものであり、ヒカルはそこに踏み込むことは許可していない」

「そう・・・浅はかだった」

ヒカルは声を細らせて謝罪した。ルイにはいつも叱られてばかりである。年齢はそれほど変わらないはずなのに、彼からはいつも指摘されるばかりで、ヒカルが彼の助けになることは何一つ無かった。

「いらぬお節介であったね」

「お節介どころか、不愉快だよ。ヒカル」

はっきりと不快感を露わにされて、ヒカルは身を縮ませた。ルイは辛辣なことを言いはするけれど、このようにヒカルに対して自分が思っていることを口に出すことは珍しいことであったからだ。ただ事実を突きつけて、ヒカルにそれを認めさせるという程度の会話しかしていなかったヒカルには、ルイがなぜ怒っているのかが理解できていなかった。彼は言った。

「君は本当に、愚かだよ、ヒカル」

 

●15

 

彼が彼女の自覚を確認するかのように断言したので、ヒカルは強く目を閉じた。そうしなければ、自分が保てないと思ったからだ。星の恋、と言ったのは彼を不愉快にさせるためではなかったのだと弁明することすらできないほどであった。

ルイを安らがせるような言動をすることは自分には到底無理な話なのだと思うと、彼の大切な時間と空間に勝手に立ち入ったことへの罪悪感で全身が痛くなった。

「ルイの時間を邪魔してしまった・・・もう何も話さないから」

彼女はそう言って、ルイを見ないで視線を地面に落とす。乾いた土が見えて、ヒカルは爪先を内側に向けた。

これは自分を恥じて、そして自分を否定している者の行動だと聞いてはいた。

しかし、自分が実際にそのように行動すると、言われたことは真実であったのだ、とどこか遠い場所で眺めている別の視線のように自分を見てしまう。わかっている。それを認めるのが、辛いからだ。

だから。

知らない風景のように、それらを眺めてしまう。

両親が知ったのなら、歎くのだろう。でも、両親が傍に居たのならヒカルはヒカル・クロスではなかった。ずっと、黒須昶のままであっただろうから。

 

どうして、ルイの前ではこんなに脆くなってしまうのだろう。泣かないと決めたのに、その誓いを破ってしまいそうになってしまう。

どうにもならない気持ちを持て余してしまっていた。

ヒカルは自分の心を覗き込むことを拒んでいた。ルイに言われて、それで気がつく愚かさに彼女は困惑してばかりであった。

ルイに拒絶されることは慣れていたけれども、彼が内心はそう思っていないと慢心していた。だから、自分はこれほど彼の言葉に深く耳を傾けて、そして傷ついている。

 

真新しい車に身体を預けたルイは、ヒカルのすぐ隣にあった。けれども、心は遠く別の場所に存在する。彼の特別な存在が、彼に祝福の晄を注ぐのは一体、いつのことなのだろう。彼女はそう思った。少なくとも、自分ではない。彼が、自分の幸せを願うことができるほど誰かのことに執着するとしたのなら。それをヒカルは祝ってやらなければならないと思うのに、素直に声が出てこなかった。

ルイが何を望んでいるのか、それが明らかになっていないから。

 

 

●16

 

「星の戀は、結実しない」

ルイが静かに言ったので、ヒカルは悲しさのあまり胸を自分の手で押さえた。結実することばかりが全てではないとシャルルは教えるけれども、ルイは実らない思いのことを「星の戀」と言うのだと思った。

「片方だけ堕ちる」

彼はひとり呟いた。ヒカルに意見を求めているわけではなかった。彼の中にある物思いを、たまたま傍に居たヒカルが聴いてしまった。本当なら、彼はひとりで考えたかったことなのかもしれない。

彼に断りもなく踏み込んでしまった、と改めて自らの愚行を思い返し、ヒカルは俯いた。

「ヒカル。俯くな」

ルイが、「不愉快だ」と言った相手に厳しく声を投げたので、当の本人であるヒカルは慌てて顔を上げる。アルディ家の者は俯いてはならない。彼はいつもそう教えられている。だからヒカルの行動が自由気ままというよりはむしろ、彼の家の教えに反抗しているように見えるのかもしれない。確かに、ヒカルはアルディ家の中で育ちながらも規定されたものごとに従えと強制されることはなかった。

 

星の終わりを見ているというのに、それを戀を言うヒカルのことをルイは嘲笑う。しかし、今日はいつもより更に加えて言葉が少なかった。

「墜ちるのではなく、向かっているのだと思いたい」

ヒカルは呟いた。

どうしようもなく惹き合って、そしてついに自分を焼き尽しても構わないから晄輝いて己を見て欲しいと思う願いそのものなのだと思った。

流れる星に願いをかけると成就すると言われているけれども。

本当は、星そのものが成就を願って晄を放つのかもしれないとさえ思ってしまうほどのたくさんの星の戀が空から降って来ていた。

星々を遵えると言われているルイは、どんな風に感じているのだろう。

彼の整った美貌からは窺い知ることは出来ない。それでも、ヒカルは彼の気配を隣に感じながらも、空を見つめていた。

ひとつ見えた、と思うとまたもうひとつ現れる。絶え間なく出現する星の溜息にも似た晄の線は幾筋も見える。

流星群が観測できることを知っていたが、この時期に再び見られるとは考えていなかったヒカルは、動くことも忘れて空を見上げていた。

それは、隣にルイが居るからだ。

星の様子を眺めると、ルイのことが気になってしまう。ルイの気配に耳を傾けようとすると彼は俯くなと言う。

相反する事象にヒカルは戸惑いながら、それでもルイにそっと囁いた。彼にはもう語りかけないと言ったばかりなのに。自分は、なぜこんなにもルイの静けさを壊してばかりいるのだろう。そう思いながら。

「星は、行きたいところに向かっていくから、ああやって急いでいるのかもしれない」

「行きたいところ、ね」

ルイは浅く笑う。ヒカルの発言は彼には稚拙極まりないのだろう。ヒカルは頬を赤くして、熱を感じながらそうだ、と軽く顎を引いた。

「そう。行きたいところに行けるようになって、星は嬉しいのかもしれないと思う」

行きたい場所を目指して、星は自らを輝かせる。その命が儚いものであることも承知の上で。感情を持っているわけではないとルイは流星の心情というものを否定するかもしれないが、ヒカルはそう思っていたいという気持ちを伝えておきたかった。彼女の願いのひとつには、ルイが幸せに微笑むことがあるのだと言いたかった。どれほど距離があったとしても、いつか、ルイに向かって来るものだけではなく・・・星辰の子その人が向かっていく様を期待したかった。

「ヒカルはきっと走って行くのだろうな」

「待つより動いてしまうかもしれないわね」

「浮躁者の持論というわけか」

ルイの辛辣な切り返しに、彼女は苦笑いを浮かべる。自分のことを卑下した言い方をしないかわりに、ルイがそれを指摘する。そういうことを繰り返すが、ルイに対してヒカルが罵倒したことはない。なぜなら、彼には何一つ欠点らしきものが見当たらないからだ。それは生まれながらに備わったものも多くあるためであったが、ルイが隙を見せないからだということは傍にいるヒカルはよく承知しているところであった。

 

 

●17

 

「車内で眠っていた女が言う台詞にはそぐわないな」

そう言われて、ヒカルは目を見開いた。そうであった。自分はルイの運転する車の中で深く眠り、どうやってここに辿り着いたのかさえ記憶にない。彼女は恐る恐る、彼に尋ねる。茶色の癖の強い髪が揺れて彼女の背中で暴れ出した。髪をまとめることにも気を使わず、彼女はシートに凭れたままで乱れた後ろ髪のままで彼と話をしていたことに気がついた。

「あ、あれは・・・」

そこでルイがくすりと笑ったので、ヒカルは驚いて言葉を詰まらせた。彼の微笑みがそこにあったから。

あまりにも近い場所にあったので、彼がヒカルのことを揶揄っているのだと気がつき、更に首筋や耳まで赤くしてヒカルは肩を上げた。

「オレに星の戀を語るのであれば、居眠りしないことだ」

彼にそう言われて、ヒカルは目を瞬かせた。彼はこんな風にヒカルに冗談を言うような人物ではなかったのだが、と訝しんだ。しかし、すぐにそれは嬉しいからなのだと気がついた。どうやって切り返すのか考えるより、身体の奧から、嬉しいという気持ちが勢いをつけて溢れて出てくる。

彼は見事な金髪の下にある青と灰の混じった双眸をヒカルに向けて、唇の端を持ち上げた。

「今度は、起きているから」

「どうかな」

ヒカルはルイが年齢相応の者に対して語るような口調でヒカルに応じてくれたことが、彼女の願い事なのだということに気がついていた。

それでも、良かった。それでも、嬉しかった。

彼の気紛れかもしれないけれども、それはヒカルにとっては星の戀がこちらに向かってやって来たと感じるほどに嬉しいことであったのだから。

「行くぞ。・・・このまま残りたいのであればそのままで構わないが」

ヒカルは慌てて身体を起こした。この車は静音設計であるのは車内だけの話である。外側は空にまで届くようなエンジン音が鳴り響くことであろう。

そしてここはヒカルの知っているようで知らない場所であったし、周囲は星がよく見えるほど暗くて、足元が覚束無い。

この車体の色であるから薄光って見えた足元を見て、ヒカルは慌てて助手席に戻ろうとした。

舗装されていない場所を長く通ってきたのだろう。タイヤが泥で汚れていた。

ルイはこういう汚損を避ける傾向にあるのに、星を見る時だけは考慮に入れない。そのために、彼の足元も汚れていた。

 

・・・そうではない。

 

ヒカルは大きく息を吸った。

自分がいるからだ。ヒカルは、思った。ヒカルが眠ってしまっていたから、起き出すまで静かに時間を過ごせる場所を選んだのだと思った。そしてここは幾度めかの、ルイと眺める新しい場所で、そして切なくなって涙が出てしまいそうになるほど美しい星の空であった。

彼が先に車の外に出ていたのはヒカルの存在を無視していたからではなく、彼は周囲を確認していたのだろうと思われた。それを確信した。

なぜなら、ルイの靴も同じ様に歩き回ったことを示すように汚れていたからだ。彼は決してそんなことはしない。見知った場所であるのなら、彼は自分の着衣を汚してまで移動することもないし、歩き回ることはしない。ここはルイが知っている場所よりも先に進んだ場所であり、ヒカルはルイと眺める星空はいつも違う場所であることをルイも承知していたからなのだ、と思った。

「予定を変更させてしまった?」

ヒカルは慌てて声をかけた。ルイは助手席の前に立ち、そしてヒカルの声に応える。彼は誰も見ていないのに、彼女のために立っている。

「車内を汚すなよ」

ヒカルは足元を見つめる。確かに、自分の足元も泥で汚れていた。これでは室内を汚してしまう。

それから、彼は付け加えた。ヒカルの問いに、ルイは無表情に答える。

「オレの予定を変えることができるのは、オレだけだ」

 

 


星の戀 後編

●18   どれほど憤っていたとしても、どれほど相手にしたくないと思っている相手であったとしても、ルイはそれでも儀礼を欠かさない。 それが、ヒカルだけを目の前にしていたとしても。 彼に迎えられることに喜びを感じる者はどれほど多いことだろう。それなのに、今はヒカルがルイを専有していると思うとどこか落ち着かなくなってくる。 そして彼は早くしろ、とは急かさない。ヒカルのことをただ、じっと待っているばかりだ。 たくさんの星が降る夜の中で、彼の金の髪だけは鮮やかに輝いていた。 やはり、彼は星辰の子なのだ、と思った。 星が彼に向かって降り注ぐように感じる。空の星がルイにだけ見て欲しいと焦がれるように。  こぼれ落ちる星が、ルイを祝福しているように思えた。 ヒカルは目を細める。時々、シャルルはヒカルをそのようにして見る。その気持ちがわかった。 祈りを捧げている時には、そういう視線を向けてしまうのだ。 自分も他も者達と同じ様に彼に願っている。祈りを捧げている。それが、ルイの望んでいることなのかどうか確認することなしに、自分のひとりよがりな思いを彼に降らせている。 そう思うと、彼女はまたひとつ大きく息を吸った。 溜息はいけない。周囲の星の空気を吸い込んで、彼女は勇気をもって、言った。 「私、ルイとまたこうして・・・たくさんの場所で、たくさん星を見たい」 いつも見ていた。彼はいつも孤独で、ひとりで星を抱えている。 彼女はぐっと力をこめて、言った。自分の声が震えているのがわかった。 彼が星を眺める時というのは、彼が孤独を募らせている時だ。それがわかったから。   彼は。 何も祈らず、何も求めない。   ・・・そんなルイのひとりの時間をヒカルは少しでもいいから分かち合いたいと思っていた。 「星を?」 彼は嗤った。そうだ、とヒカルは頷く。 「星の戀は哀しいけれども・・・きっと嬉しいと思っている」 命を燃やしながら光を放つものは、戀であるかもしれないけれども、同時に希望であるから。それを見た者は自分の願いをかける。何かの命の終わりを見て、何かの始まりを祈る。 それが繰り返される星の戀は、ヒカルにとってだけではなくルイにとってもきっと・・・そこまで考えていると、ルイは静かに、それでもヒカルの思考を中断させるように言った。 「なぜ?終わるのに」 「終わる際になっても、終わらないから」 ヒカルは泣きそうな顔を笑顔にかえて、震える声で言う。僅かに首を傾げて、それでもルイの注視から逃れるようなことはしなかった。 こういう話を、ルイと交わすことはなかったので緊張しているということもあった。 それなのに、彼の運転に安堵して眠ってしまう自分の幼さも認めている。それでも・・・それでも。ルイはひとりで大急ぎで行ってしまうような気がしてならなかった。 やり場のない切なさを感じる。ヒカルは、ルイの心の洞のようなものを垣間見た。だから、彼は星辰の子なのだ。晄を吸い込み、星々を自由に動かすことができる。 「・・・乗れ」 彼は溜息混じりに言った。ヒカルの言葉は伝わったのかそうではないのか、それすら答えなかったので彼女はまた唇を噛んで彼の指示に従った。 それでも、彼女は教えられた仕草が彼女に無意識の行動に移らせる。彼女はアルディ家で育てられた。それ故に、些細な仕草はすべてルイの求めるものに応じられる程度には素養として身についていた。 しかし、それでも自分はルイに遠く及ばないと感じる。彼の流麗な仕草や溜息がでる程の完璧な視線の運び、絶妙なタイミングを逃さない補助の力加減については、彼女はルイしか知らない。 彼ほどの人物に匹敵するほどの人物をシャルルとミシェルの他には知らない。    ●19

 

「あの、少し待って」

彼女は慌てて自分の足を持ち上げた。シートに座り、革の質感に包まれたと思うと同時に、ルイが彼女のシートベルトを手に取ったからだ。

こういう風に、誰かと近く寄り添うことに慣れていないヒカルは慌てて声を出した。僅かに、ルイの香りがヒカルの鼻腔を刺激する。どうして良いのかわからない空気に、声をくぐもらせて彼女は言った。

「靴を、脱ぐから」

彼女はそう言って自分の踵に手を伸ばし、踵の低い靴を脱ごうとした。

「何かの余興?」

彼は身体を屈めながら手を止めた。ルイの苛立つ声を聞きたくなくて、ヒカルは慌てて説明を加える。

「そうではなくて」

彼女はそう言いながら、彼の腕に触れる。いらぬ作業を強いる結果になってしまったことを申し訳なく思いながら。

ルイの神経質そうな指先が目の前をよぎる。

彼女は目を瞑った。彼が彼女に危害を加えることはなかったが、それでも彼の憤りが空気を伝わってくる。

「汚れてしまっているから」

彼女はそう言った。彼の新しい車の中は自分という異分子で汚されてしまうようで後悔した。乗り込まなければ良かった、と思った。それは、星の戀達を後にしてこの場を去らなければならないという逡巡と相反するものであり、同質のものであるような気がした。

自分の中にある、どうにもならない物事をルイは一蹴してしまう。最初は彼の言葉に酷く哀しんだりするけれども、それがヒカルの心を軽くする。ルイは顔を上げた。

その時に彼と目が合った。

余りにも近い場所で余りにも綺麗な青灰色の瞳があって、ヒカルは思わず身体を引いた。彼の顔が近くにあって、それがヒカルの動作を止めてしまう。

「そういう意味で言ったのではない」

「え?」

ヒカルは声を出した。ルイはそっと彼女の腕を取った。摘まむように、撫でるように。そんな風に優しく彼に触れられたことのないヒカルは驚いて言った。

「ルイ・・・」

星の夜がそうさせたのだろうか。

それとも、ヒカルがルイに優しくされたいと願ったから実現したのだろうか。

ひょっとしたら・・・これは幻なのか。

「ヒカルに靴を脱がせるために言ったわけではない」

それでも自分はそうするべきだ、と言おうとしたヒカルの言葉をルイは押しとどめた。何もできない彼女はただルイの誘導に従う。

シートベルトひとつ着脱できない自分の情けない格好を曝け出すことになり、ヒカルはただ顔を赤くするばかりで何も言い返す事が出来ない。

誰よりも美しい人はヒカルの目の前で眉を潜めて冷たく言い放つ。

それから、そっと彼は言った。

「星は恋をしない。ただ、墜ちるだけだ」

そして、彼はそれを眺めるだけなのだと思うと、ヒカルはルイがなぜ星を見るためにこんなに遠く離れた場所にやって来るのかを知ったような気持ちになり、また言葉がでないもどかしさを味わう。

彼を慰めたり安らがせたりする言葉を、ヒカルは知らない。

 

ヒカルは彼の何になれるのだろう。永遠の晄という名前をつけられた自分は、ルイと星を眺めるだけしかできないのだろうか。彼の望む将来を祈ることもできず、左袒することもできず、ただひたすら見守るだけしかできない。それが苦しかったし、それ以上のことは踏み込んではいけないことなのだと思っていた。

「それでも、星は墜ちるだけではなくて、輝きながら墜ちるから」

ヒカルはそれを言うだけがやっとであった。

星辰の子に気がついて欲しいと思う者は多い。彼女は、自分の立ち位置がとても恵まれたものであることも承知していたものの、ルイから見た景色が流星の空のようであるのかもしれないと思うと、居たたまれなくなってしまう。

ルイに向かってくる晄達は、みな、途中で消えてしまうのだとしたら。

彼に寄り添いながら輝き続ける存在は、やはり彼のことを理解している人でなければいけないのだ、と思った。

ヒカルよりもずっと彼のことを熟知している人物達によって彼が心安らかになれる時間が少しでも多くなれば良いのにと思う。そして願わずには居られない。

自分が彼から奪ってしまったものが、確かに存在する。

 

 

●20

 

ヒカルはルイの顔を見つめる。彼はとても近くに居るのに、遠く感じるのはヒカルがそう思っているからなのだ、とわかっていても。彼はとても遠かった。誰よりも近い場所にいるのに、苦しいほど近いところにいるのに。

 

彼女はそっと手を伸ばす。ルイに触れようとした。

「触るな」

彼はぴしりと言って彼女を拒絶した。

ヒカルは身体を強張らせて、声を忍ばせる。

「ごめんなさい・・・」

彼女の声が更にルイを苛立たせた。彼は目付きが険しくなった。

そこでヒカルは自分を恥じた。彼に哀れみは不要であったことを忘れてしまっていた。

憐愍と愛憐・・・それについて彼は問うているような気がしていた。

 

何故、ヒカルはひとりでいられないのか

 

ルイは、そう問いかけているのだと思った。

 

星の夜に輝く金の髪が眩しかった。

消えて無くなる星の戀とは違い、彼の輝きは失われることはない。

閉ざされた彼の心が垣間見える気がした。彼は、孤独であることを怖れていない。

それがヒカルと違うところであった。

 

彼と、ヒカルの視線が合った。

 

彼は孤独に苦痛を感じているとは言わない。

人から拒絶されることを気にしすぎるヒカルとはまったく違う思考の持ち主に、ヒカルは戸惑いながらも声を震わせて言う。

「私は、確かに配慮が足りない」

「自己分析の申告は必要ない」

ルイに言われて、ヒカルははい、と言って頷いた。

しかし、そこで思い当たることがあり、彼女は顔を上げる。

彼は誰かを励ますような言葉は使わない。他者に興味がないからだ。そういう言葉を使う時は誰かを動かしたい時だけである。

それなのに。彼がヒカルに告げた言葉達が、星々のようにヒカルの心に次々と墜ちてきて、そして消えゆく前に彼女に事実を知らせていく。

目の前がちかちかと点滅する晄で平衡感覚を失いそうになる。それは先ほどまで見ていた星の戀たちよりずっと明るいものであった。

 

ひょっとしたら、彼は彼女を励ましているのだろうか。

少なくとも、ヒカルはルイの言葉によって深く考えさせられることばかりであったし、自分ひとりだけであったのならきっと涙を零してしまったと思うようなことも、ルイの前であったから泣かないと己に言い聞かせることができていた。

ヒカルは、ルイを見つめた。

彼はそんな彼女を無視して、シートベルトの着脱留具が完全に固定されている状態であることを確認するとふっと身体を浮かせた。

彼が黙っているのは、ひとりになりたいからではなく、ヒカルに合わせているからなのかもしれない。

そんな疑問が湧き上がる。

「あの・・・ルイ」

彼女は言った。彼は彼女から離れて、車体に手をかけると勢いよく扉を閉める。それでも、設計上配慮されていることなのか、僅かな音しか響かなかった。会話を遮断されて彼女は黙り込んだ。

ルイと会話が続かないと思うことはあっても、彼にいきなり会話を拒否されるということは殆ど経験していないことであった。

甘やかされて育ったと思う瞬間だ。こういう場面に他者の好意を期待してしまう自分に嫌悪する。

彼が反対側の運転席に乗り込んで来たので、車体が僅かに傾いだ。それでもヒカルはじっと前を向いて、自分の気配を消してみるように努力するが、ルイの様子が気になって仕方が無かった。

星の香り、というものがあったのなら。ルイが今、外から持ち込んできた杜の香りと相俟っているのかもしれない、と思った。

星が彼に向かって星を降らせる。戀を、降らせる。それはヒカルが欲しかったものと少し違うかもしれない。彼は孤独である以上に孤独であると思った。どれほど皆が彼に注目したとしても、彼そのものに到達する頃には消えてしまうのだから。でも、そうなったとしても近付いてしまうのはやはり、彼がルイ・ドゥ・アルディであるからなのだ、と思う。

 

 

●21

 

しかし、彼はしばらくの間、ハンドルに手を添えたままで出発することはなかった。

「ヒカルが指示することではない」

それで、彼が怒っているのだと知った。いいや、憤慨しているのではなくて哀しいのだ、と思う。ヒカルがヒカルの価値観で、星の戀の話をしたから。

 

彼にも手に入っていない、実現できていないことがあった。

それは、ヒカルではなくルイが手を伸ばして掴み取らないと得られないものであることは、ヒカルも承知しているところである。

 

そんな彼に、堕ちて来るばかりの星々の話をしてしまったことがとても迂闊であったのだと感じる。自分は、彼を励まし勇気づけることもできない。非力どころか、無力そのものであった。

何も言い返すこともできないが、黙っていれば無視と同じになってしまう。かける言葉がなかったとしても・・・永らくシャルルの息子として認知されていなかった彼の日々のことを考えると、沈黙はいけないことなのだ、と思った。

「ルイ。私は、消えたりしない」

それは彼女の願望そのものであった。

けれども、ヒカルはそれを口にした。

本当は・・・消えて欲しくない人々に対して捧げる言葉であったが、彼女はそれを声にして、自分の誓いに変えた。

彼は溜息を洩らす。

「ヒカル。それはオレの願いではない」

「私の願い事だから」

ヒカルは微笑んだ。

そして星の空を見上げる。フロント越しに見える星の瞬きの中には、落ち行く星が幾つも筋を作って消えて行く。

「ルイ、私はどこにも行かない」

それが良いことなのかどうなのかはわからない。

けれども、不意に消えることはしない。

彼に願いをかけながらも消えてしまうような星にはならない。なぜなら、彼女は永遠の晄という名前を持っているから。異質の存在だから。たったひとり、ルイにとっては、彼に向かって願いをかける恋にも似た想いと思惑を持ち得ない存在だから。

彼にとって、ヒカルというものは星の燦めきにすらならない。

ルイが目を止めることもない存在なのだから。

 

「私は、きっと消えない。だから、ルイの特別な誰かと一緒に星を見るようになる時が来るまで、一緒にいても・・・良い?」

その瞬間。

彼が大きくハンドルに手の平を叩きつけたので、勢いよくクラクションが鳴り響いて、彼女は小さく悲鳴を上げた。

「ヒカル、オレを哀れむな」

普段、荒々しい態度を見せることのないルイ・ドゥ・アルディの驚くべき態度に、ヒカルは唖然として目を見開いた。

 

「ルイ」

ああ、傷つけてしまった、と思った。

彼の青灰色の瞳は険しく光り、彼は全身で彼女を拒絶していた。既に、こちらさえ見ていない。真っ直ぐ見据えた眼差しが強く吹き出す感情を押し殺しているものの、それを抑制できないルイはただ深く呼吸をしている。僅かに赤らんだ頬が彼の憤りの度合いを表していた。

秘められたものを見てしまった、と彼女は思った。

彼は細く長い指先を強く握り、それからふっと全身の力を抜いた。

その様があまりにも悲壮で切なく、激しい感情を消し去るようにと自分に言い聞かせているルイの横顔にヒカルは慌てて声をかけた。

何か言わなければ、彼はこのまま消えてしまうのではないのだろうかと思ったからだ。

どんなに罵られても良い。だからせめて、彼の中にある流星のような・・・燃え尽くすような思いは彼の責任によるものではないことだと伝えたかった。

「だから、ルイもどこかに行かないで」

彼女は懇願した。

「それがヒカルの願い?・・・一度に多くを願うのは、やはりヒカルだな」

彼は冷笑した。

 

 

●22

 

彼は背凭れに深く沈んだ。しかしそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間には背筋を伸ばして起き上がり、彼は発車の準備を手順どおりに進めた。

大きなエンジンを積んでいることもあり車体は一瞬だけ静寂の中で震動音を溢す。

その中で、彼は絞り出すように言った。エンジン音でかき消されそうになるほど小さな声で、静かに。そして絶望的に。

「オレがどこかに行くのではない。・・・どこかに行くのはヒカルの方だ」

それを聞いて、ヒカルは身体の向きを変えた。シートベルトで縛められているものの、それに逆らって彼の方に向き直る。肩や胸にベルトが食い込んだが気にしていられるはずはなかった。

ルイの声が、あまりにも・・あまりにも悲壮であったから。

「そんな」

そんなことはないのだ、と言おうとしてヒカルは声を詰まらせた。なぜなら、彼の言っていることは誤りではなかったから。

 

「ルイ」

彼女はまた、彼の名前を呼んだ。孤独を募らせてもなお、彼は自分の信じた道を行こうとしている。皆が寄って来て消えて行くのではなく、皆が行ってしまうからなのだというルイの声に、ヒカルはただ身を切られるような痛みを感じていた。

「私は・・・」

「ヒカル。オレを侮辱したな」

彼は冷たくそう言った。見ると、いつものルイ・ドゥ・アルディの表情であった。星の夜は、人の心を透けさせるのかもしれない。月の夜は人を狂わせるものだと言われるけれども。星の夜は、ルイ・ドゥ・アルディの孤独でさえ透かしてしまうのかもしれない。

「そうではない」

ヒカルの弁明は弱々しかった。自分が意図していなくても、結果的には彼を酷く傷つけてしまったことには代わりが無いからだ。言い訳のために自分の言葉を尽くすより、彼の心を酷く穢してしまったことを謝罪しなければならないと思った。

「そうではないけれども・・・ごめんなさい・・・」

彼女は呟いた。金の髪の青年は、横顔を厳しくして、それから少し俯いて言った。

「流星の夜に誓ったことだ。ヒカル、忘れるな。アルディ家の者は倍以上の返報返しをすることになっているのだから」

ヒカルは思い出した。

彼らの家訓というものは、その解釈によるところが大きいが、受けた仕打ちについては忘れたり赦したりすることはなく、必ず報復するということを教え込まれていた。それが決して幸福を生まない結果になったとしても、誇りを捨てて苦しみから逃れることを選ぶことを赦されていない家系であった。

 

「苛立つ女だな」

彼は吐き捨てるように言った。ヒカルはそれでも、彼に答える。

「私はいつでも罰を受ける」

「『贖罪の娘』だから?」

彼の質問に、彼女は黙った。それを肯定することはなかったが、それでも彼は彼女のことを贖罪の娘、と呼ぶ。彼から取り上げることになってしまったものがどれほど多いのか、その言葉を聞く度にヒカルは思い知ることになる。

わかっている。本当はもっと距離を置いた方が良いのだということも。それはシャルルからもミシェルからも忠告されていることであった。誰からも、決して推奨されることはない。それは承知していることであったが、目の前ではっきりと言われてしまうと、どうにも切なくなってしまう。自分が飛び込まなければ、ヒカルもルイも傷つくことはなかったのに。それでも、静穏を望まなかった。星々がそうしているように。たとえ、消えてしまったとしても願いを残したかった。

「叱られても仕方が無いことを私はしてしまった。だから、ルイは私に怒る理由がある」

彼女はもう、自分で何を言っているのかさえ判らなくなってきてしまう。彼を怒らせたいわけではない。煽っているわけでもない。ただ、ルイのひとり孤独な星見の時間が孤独ではなくなれば良いのに、と思うばかりである。

「私は・・・いつでも、ルイの目の前から消えたりしない。ルイが迷惑だと言っても、私は・・・」

 

 

●23

 

その時のことだった。

ルイ・ドゥ・アルディがふっと身体を浮かせた。

彼はヒカルのように、まだシートベルトを締めていなかった。

最初は、彼が帰りの支度を始めるのかと思ったヒカルは、この気まずい雰囲気をどうしたら好転させることができるのかということで頭がいっぱいであったので、彼の行動にまったく別の選択があることに気がついていなかった。

「ヒカル」

ルイは彼の名前を呼んで、彼女の腕を掴んだ。えっと思って顔を上げると、彼が彼女の顔に近付いていた。

ヒカルは何が起ころうとしているのかまったく理解できずに、ただ瞳を見開いて彼の美貌が近付いて来るのを見守っているだけであった。まるで、齣送りしている動画のように、彼が目を伏せて近付いて来る様を見ているばかりであった。

何が起ころうとしているのかわからないから、身構える術も思い付かない。ただ、動転してしまい、驚愕している瞬間と同じ速度で彼は近付いて来た。

星の戀、という言葉を思い出していた。

あっという間の出来事のようで、それは永遠に光っているような感覚があった。

「あの・・・ルイ」

彼女が困惑して彼の名前を呼んだ時。

彼はすでに、彼女の腕を引いて、今にも頬に彼の唇が触れそうなほどの距離にいた。あっと思った時にはすでに遅く、彼が彼女のこめかみの上にいる。

触れるか、触れないか。それほどのぎりぎりの場所で、彼の薄い整った唇が動く。

彼の喉がヒカルの頬に寄って、僅かな声でも彼女に響き渡っていた。

 

ヒカルは、家族のキスしか知らなかった。シャルルが、「オレの天使」と言って彼女のこめかみにキスをする度に、幸せな気持ちになった。家族の思い出が希薄であるのはヒカルもシャルルも同じであったけれども、それでも寄り添って生きてきた。

互いに尊重し、そして決して哀れむばかりではないのだという決意のような、願いのようなキスがヒカルにとっては何よりの宝物であった。

いつか、ルイとも・・・同じ様に、家族のキスを交わすようになったのならどれほど素晴らしいことだろうと思っていた。勿論、それ以上にシャルルとルイが抱擁して互いを父と息子と呼び合う瞬間に立ち会うという願いの方がずっと大きかったが。

何が起こっているのか、まったく理解できなかった。彼は、そっと彼女の髪の上で囁く。

「オレは絶対に許さない。・・・間を置かずに返してやる」

そして、彼は彼女の腕に力を入れた。ヒカルが痛みで顔を歪める。ああ、自分はこのままルイに壊されるのだろか。そんなことはあり得ないと思っていたのに。彼は、ぐっとさらに力を入れて、ヒカルの硬直した肩を自分の方に寄せた。

 

彼が、自分に危害を加えるとは決して思っていなかったものだから。

ヒカルは、無防備に彼の側に身体を傾けてしまう。抗う術を知らないから。

 

・・・・何が起こったのか、わからなかった。

 

始終、そういう言葉でしか説明できなかった。

ルイの内にあるものを、ヒカルは共有することはできない。

それでも。だからこそ、彼の心を知りたいと思うのだ。

 

軽く空気が躍った、と思った。

ヒカルのこめかみに、空気が・・・星の風が降った。

星々を遵える者の溜息にも似た、微風。

それが、ヒカルのこめかみを撫でて、頬を滑って髪を揺らした。

声を上げるまでもなかった。

 

これが、ルイ・ドゥ・アルディの・・・星辰の子の返答なのだと思うと、何も言えなくなってしまった。

ただ、風のように。星のように。彼は、彼女の肌を滑る吐息だけを残して、彼の思いを彼女に刻む。

夢なのか、幻なのか。

それすら、わからないほどの束の間の出来事であった。

 

 

●24

 

しばらくの間、彼女は何も言えないで、ただ、全身を朱に染めて俯いていた。逃げるところも隠れるところもない空間で、ルイは静かに星を見上げていた。ハンドルに身体を凭せ掛けて、彼は空を見上げている。

その姿がいつものルイよりもずっと幼い様子に見えて、ヒカルはちらちらと隣を見るがじっと見つめる勇気も持てず、すぐに俯いてしまっていた。

彼はまだ出発するつもりはないらしい。・・・まるで、何かを待っているかのように身動きすらしない彼は、瞬きすらすることも控えているような様子であった。

ヒカルはそっと空を見上げた。先ほどは眠ってしまっていたために、この角度から見ることはなかった景色が広がっている。座って見上げる空は強化ガラス越しに見ても、なお美しい。

そんな中で、ヒカルは身を縮ませてか細い声で言う。

「ルイ、今日はありがとう」

謝罪するのではなく、感謝した。惑うのではなく、振り切った。

きっと、今この瞬間と同じ時間は二度と巡ってこないだろう。だからどの瞬間にでも後悔しない生き方をしたいと考えているが、それはルイも同じであると思ったから。

彼は、このまま振り返ることもなく、思い出すこともなく今日のことを記憶の引き出しにしまい込んでしまうのかもしれない。

でも、それは悪いことではない。

ヒカルが思う重さと同じであることをルイに求めてはいけない。

 

「私は、今日はとても嬉しかった・・・」

ヒカルはそれだけを言った。

まだ、彼の息吹が残るこめかみが熱い。家族のキスを交わすような間柄ではなかった。シャルルから受けるキスよりずっと淡く軽く、そもそも触れてさえいないのに。なぜ、これほど胸が大きく鼓動するのか。

 

また、「ヒカルはわかっていない」と叱られるのかな、と思った。

ルイは理不尽に感情をぶつけたりしない。彼が「星辰の子」と呼ばれるのはこういった気質からによるところも大きいし、ヒカルもその通りだと思う。

 

静かに・・・海の底の激しい流れを悟らせることのない水面のような感情を見せる時があった。

罵られることに慣れてしまっているわけではない。しかし、ヒカルが何か言うほど、彼はひとつずつ絶望していく。

彼がヒカルにもたらしてくれる希望とは反比例している。それがわかるからこそ、ヒカルは傍に居てはいけないのだと思う。でも、それでも、ルイがひとりで星見をすることが良いことなのだとは思えなかった。何が良くて、何が悪いのか。それすら判断する基準のないヒカルの踠きの上を、星々が通り過ぎていく。

思いを伏せた声が震える。

濃い墨色の空に散らばっている瞬き達が、ヒカルに向かって堕ちて来るようであった。あれらの瞬きたちは過去のものだとわかっていても。未来を願うのは、なぜなのだろう。

しかし、ルイの流れ星のような返答を受けて、ヒカルは考えなければいけないのだ、と思った。何をどうすれば良いのか、まったくわからない。

しかし、自分は・・・両親が戻って来なくなってしまった日から時間が経過していないのだと思った。それを押し出すように、ルイは彼女を星の海に連れて行く。

断ることもできたはずだ。シャルルの感情を気にするような人ではない。

きっと、ルイは世界中を敵に回しても自分の成すべきことを為し遂げる。

「あの・・・ルイ」

彼の返答を待たずして、ヒカルは顔を赤くしながら、やっとのことで言った。

こんな時に、どう振る舞えば良いのか、彼女は教わっていなかった。

無言の空間の中で、ただ星を見上げる。急いで到着することを最優先として、星々が僅かな時間で現れては消えて行く。音も無く、ただ、光だけを燃やし尽くす。

「星の恋、という言い方はとても気に入っているの」

普段、自分のことを述べることの少ない少女は、そっと言った。

「ヒカルは自分の話しかしないのだな。それから、シャルルの話。それだけだ」

ルイの返答は素っ気なかった。彼女は込み上げる悲哀を呑み込んだ。自分の哀しみに酔っていては、星の戀の素晴らしさを伝えることができなかった。

確かに、そうであった。それ以外に、彼に告げることはなかったから。そして、ルイの知らないシャルルを話すことをルイが楽しんでいるわけでもなかったし、ましてやヒカルの話は彼にはどうでも良いことなのだと改めて思う。

 

 

 

 

●25

 

「ルイは、星は好きではないの?」

「ヒカルには関係ない」

素っ気なく言ったルイは、また短い返事で話を終えてしまった。

しかし、ヒカルはそれを聞いて、ぱっと顔を明るくした。

「ルイ。私は、とても・・・星の夜をルイと一緒に見るのが、好きなのよ」

「ヒカル」

溜息混じりに彼が一瞬、ヒカルに顔を向けた。彼はすぐに横を向いてシートベルトを装着する。

「そういう言い方は物欲しそうに聞こえる」

すると、ヒカルは自分の口元を自分の手の平で押さえた。しまった、という顔になり、またすぐに眉根を寄せて後悔を全身で受け止めてしまった。

確かに、ルイの譲歩によってこの場は成立している。それに昂揚したあまり、ヒカルは不用意に口にしてしまった自分の発言を恥じた。

彼の言う通り、彼女はとても野卑な心持ちでいたと思った。

 

そこで、エンジンがヒカルの身体を底から揺らした。

ルイが出発の準備を本格的に始めたからだ。

こういう沈黙には慣れているはずであった。特に、ヒカルは往路では彼の運転であるのに眠ってしまったという失態を見せてしまった。それに加えて彼にこめかみを擦る吐息を吹きかけられるという反撃を受けている。

ヒカルの知らない動作や仕草は、彼女にとっては戸惑いそのものであった。なぜなら、彼女はすべてシャルルから教わっていたから。いいや、彼に庇護のもとに育ってきたから。

令嬢としての最低限の躾は身についていたが、このように一対一で向き合う瞬間のことまでは知識で補えるものではないと思い知った。

それが、ヒカルを不安にさせる。ひょっとしたら・・・シャルルが教えていることは全部ではないのかもしれないと思ってしまうからだ。彼は彼女を慈しんでくれている。それを疑うことはしたくなかった。

でも。

ルイは、どうなのだろう。ヒカルが思うような胸の痛みを、彼も感じているのだろうか。

教育係として、近しい存在の者がいつも追随する生活だ。

息苦しいと思うような認識さえ存在しない。それはヒカルもルイも同じだ。それなのに、ルイはいつもヒカルを見ると苛立たしそうにしていると感じる。

 

しかし、ヒカルは思うのだ。愛していると告げることのできる幸せや、愛しているよと告げられる幸せの他に・・・ヒカルは、星の戀を語る相手としてルイと時間を過ごしている。

今はもう、違う空を見ているのかもしれないけれども。

この瞬間は、同じ空を見つめている。流れ行く空の恋を見て、意見を交わす。

それがとてもかけがえのない時間なのだと感じて、ヒカル・クロスは皆が享受できるというわけではない時間を過ごしている。

 

 

 

●26

 

少しは反論したらどうだ?

彼はそう言いたそうであった。言わなくてもヒカルには伝わっていると思っているのだろう。

そしてそれは間違っていない。

 

誰に対しても、拒絶されたくないと思う気持ちがある。

そして、自分のことを受け入れられたと思うと燥いでしまい踏み込み過ぎる。それを身に染みて感じた。ルイのような誇り高い人間には、数多の星々が同じ様に見えるのだろう。星辰の子、と言われるのはそういう彼の冷淡なところも指し示している。

どれほど近付いても、決して触れることのできない相手。

まるで、星の河の対岸に佇む恋人達のように。

実を焼き尽しても、手を伸ばしたいと思う相手がルイには存在するのだろうか。

彼はまたひとつ、溜息をついた。

彼を落胆させてしまうことが、何より辛かった。

 

「でも、私は・・」

彼女は言い淀んだ。言って良いことなのかどうか迷う。先ほどのように、不用意に発してしまうことは、今度こそ本当に、ルイと歩み寄れない距離を作ってしまうと思われた。

「私は、ルイが欲しい」

ヒカルがそう言ったので、彼は途端に笑い出した。

「オレは、そういうヒカルはいらない」

なぜ彼が「そういうヒカル」と限定したのか彼女は気がつかなかった。しかし、彼はふと前を向きながら怖い程険しい顔になって、言った。

「ヒカル。オレは、星が欲しいわけではない」

自分の言葉が足りず、ルイとの時間が欲しいのだと言い直そうとしたヒカルは、ルイの発言に胸を打たれて、また俯いてしまった。

彼は、星が欲しいわけではないのだ。数多ある星々達を従えながら、それは決して彼が望んで居るわけではないことなのだと気がつかされて、ヒカルはいたたまれなくなってしまった。

 

皆が、彼が自分の方に向かってきてくれないだろうかと願う。そして自分達は彼に向かいながらも光になって燃えてしまう。消えてしまう。

それを彼は当然のことだとは思っていないのだと感じて、言葉が詰まってしまった。

彼の、歎きにも似た囁きが耳に入ってくるが、それをどうしたら和らげることができるのかわからない。

 

「欲しいものは、星じゃないんだ」

普段は大人びた物言いをする彼が、その時は年相応の話し方だった。

僅かに、声が震えている気がするのは、ヒカルの気の所為なのだろうか。

「それは何・・・?」

すると、彼はふっと微笑んだ。ヒカルの前で見せる笑みというのは実に珍しいことであったので、そのもの悲しくも透明な微笑みに見入ってしまう。

思ったことや疑問をすぐに口にしてしまうわけではない。普段は、ヒカルは周囲のことがきになってかなり慎重に発言をする方だ。そんなところは彼女の父に似ている、と言われるけれども。ルイの前に出ると、それらの「普段」は馴染んだ習慣とならない。

「ヒカルには言わない」

ルイは素っ気なく言った。そして、青灰色の瞳を少しだけ細めて、すっと笑みを消していく。ヒカルはそれを見つめながら、ああ、星のようだと思った。一瞬だけ見せる本当の燦めきが、闇の中に消えていく。

 

彼の欲しいもの。彼が、ヒカルには言いたくないもの。

それは、何なのだろう。

最初に思ったように、彼の大事な人のことに関するものなのだろうか。

ヒカルは首を傾げながら、あれこれ考えを廻らせる。けれども、それすら過干渉かと思い直して、彼女は神妙に頷いた。

「わかった。ルイが言いたくなったら、聞かせて」

「いやな女だ」

ルイがまた不機嫌な顔になった。言いたくないと言いながらも、それで良いと言うと立腹する。ヒカルにはその理由が本当に、理解できていなかった。

 

けれども。ルイと話をたくさん交わすことができた。そして、星の戀のような彼の笑顔を見ることができた。その後、すぐに彼は無表情に戻ってしまったけれども。

 

「帰る。・・・煩い人が待ち構えているだろうから」

彼は憂鬱そうに言った。ヒカルは少し笑った。確かに、シャルルは心配性である。ヒカルのことをいつも過保護すぎるほどに甘やかしている。今日は、ルイが一緒なら。夜の外出もきっと何も言わないでいてくれるだろう。

ルイが気鬱そうにしているのは、彼が己の行動を管理できずヒカルを連れ出したと言われるからだ。でも、今夜は違う。彼女が彼に随行したのだ。それをどう説明するかによるところでシャルルの心証は変わるのだろうが、ヒカルは心を尽くして説明するつもりであった。

 

「今日は、ありがとう。・・・私の願い事は叶った」

「オレは違う」

彼は言った。ヒカルはそれでも礼を口にした。

「ルイと星の戀が見たかった。ルイはそれを叶えてくれた」

「願いは自分で叶えるもので、誰かに叶えてもらうことを期待するなよ」

いつもの冷たい返事であったが、今日は少し違って聞こえる。彼はきっと自分の願いを達成するのだろう。

 

そこで、突然、先ほどルイに返された報復を思い出して彼女は顔を赤くした。彼が、家訓にのっとって彼女に反撃してきた内容を、シャルルには言えないと思った。家族のキスでありながらも、決してそうではない、星の恋人達の見ている中での・・・ヒカルとルイの秘密だった。ルイには秘密にならないかもしれないが。それでも、ヒカルは誰にも明かさない密やかな宝物になった、と思った。ルイが、ヒカルに近付いたから。星辰の子であるのに、彼はヒカルに向かってきた。それが仕返しであったとしても。無視されるよりずっと進歩のあることだと思う。

 

また、次も星を見上げる時間が作れるのだろうか。そこで、思った。これは偶然でもなく、ヒカルが自分で作ったきっかけであった。ルイはだから、優しいのだろう。いつもと違っていると思うのは、彼は能動的である限り、対等に向き合ってくれるのだということをヒカルが学んだからなのだろう、と思った。

 

「また次は違う星空が見たい」

彼女は嬉しくなって、そう言った。ルイは車をゆっくりと走らせながら、彼女に返事をした。

「今度はオレ以外の誰かを行けよ」

「いいえ、ルイと一緒が良いの。・・・星の戀の話をしたいから」

ヒカルがそう言うと、彼はまた大袈裟に溜息を漏らした。

静かな星の河の流れに乃理ながら、ふたりを乗せた車はゆっくりと帰路を進み出す。

 

彼の金の髪が近くにあって、青灰色の瞳が近くに見えて・・・でも昏い夜の中であったから、近すぎて表情がよくわからなかった。しかし、彼は決して怒っているわけではない。それが、ヒカルを笑顔にさせる。ルイは、ヒカルを泣かせるだけではなくて笑顔にさせてくれるのだ。大事な、大事な家族である。彼もいつか、そう思ってくれるのだろうか。

 

「あ」

ヒカルは声を上げた。前方の空で、またひとつ、星の戀が煌めいたからだ。

彼女が今、願い事を考えていた瞬間の燦めきに、ヒカルは今一度願いをかけた。

次はないかもしれない。今度から、彼は彼の特別な人とだけ一緒に星夜を過ごすのかもしれない。少し寂しいけれども、きっと祝福できる。ヒカルはそう思った。強く、心に刻んだ。少なくとも、今夜の出来事だけはヒカルとルイだけの思い出であったから。

 

「帰りは、寝るなよ」

彼がそう言ったので、ヒカルは慌てて、はい、と元気よく答えた。

そして空を見つめる。彼と気まずい時間であった往路とはまったく違った心持ちで座っていた。ルイは相変わらず黙ったままであったが、それはヒカルが黙っているからなのか・・・それとも、今度は車内から観測できる流星も素晴らしいので見ておくように、という提案なのか・・・彼女にはわからなかった。

それでも帰り道は違った景色が見えそうだと思った。

 

星への願いを乗せた車は、星の瞬く夜道を、ふたりが同じ場所に帰るために静かに走り出した。

 

FIN

 

 


apophenia

■01

 

彼はいつも音もなくヒカルに近寄る。

 

 

「・・・ルイ」

 

彼の名前を呼ぶのに。

それは静止を求める呼び掛けではなかった。

彼はその声を頼りにするかのように、彼女の抗議をまったく聞き入れないかのように、更に加速してヒカルの茶色の瞳に近づく。

 

・・・見事な金髪を持つ星辰の子は、ヒカルに言葉をかけずに、流れるように距離を詰める。

 

 

「なにか抗議でも?」

 

ルイは静かに・・・囁いた。

彼女の頬と彼の額は・・触れるか否かの近接した場所にあった。

 

ヒカルが顔を赤らめている。

茶色の瞳が潤んで充血していた。

 

・・・なぜ、平静でいられないのか、と問えば彼女はきっと、答えられないだろう。

 

ルイ・ドゥ・アルディでさえ導き出せない問いなのだから。

 

彼女がいつものヒカルで居られないように・・・

ルイも同じように、静逸を保つことが出来なかった。

 

それではいけないと言われて育った。

 

・・・それでも、彼は、こうしなければ、その先に存在することができなかった。

 

そうだ。

 

自分が・・・存在するために、彼女の息吹を取り入れようとしている。

 

希なる・・・希なる人の気配と関心と・・・愛を手に入れようとして、ルイは足搔いた。

 

「ヒカル・・・」

 

彼は彼女の名前を呼んだ。

永遠の晄という名前の人の名前を呼んだ。

それが・・・彼の狂気を沈める巫女姫の浄名であるかのように。

 

 

・・・彼は彼女の頬に溜息を落とした。

 

どんなに凍った空気であっても。

彼の溜息はすべてを溶かす。

彼女の体温は彼のすべてを溶かす。

 

 

 

・・ルイは彼女の両頬の輪郭を奪った。

 

噛みつくような攻撃的なキスなのに・・・

彼はとても悲しそうな顔をした。

 

ヒカルが眉根を寄せて・・その口吻を甘美な、恋人からの贈り物と定めていないことがわかったから。

 

・・彼女は自分で決めた婚約者だからという理由でルイのキスを受け止めている。

 

鳩尾のあたりが、ぐっと痛んだ。

彼は乗馬とフェンシングで鍛えた見事な体軀を持っていたのに。

軋むような痛みが胸の内側から湧き起こる。

 

・・・それでも、ヒカルの憂貌が・・・・・

彼のその後の予定や、すべてを変更させることを、ヒカルは知らない。

 

 

「キスを・・・ヒカルはオレに常に服従するように」

 

ルイはそう言って、彼女に覆い被さった。

 

ここは・・・薔薇の香りの溢れる、アルディ家の当主が唯一趣味としている薔薇園の一角だった。

 

そこで・・ヒカルとルイは口吻を交わす。

 

一方的であっても。

攻撃的であっても。

 

・・・ルイは様々な出来事を通してなお、この薔薇園でヒカルの屈伏を求める。

 

彼女は言ったから。

家族になろう、と。

 

ルイと婚約する、と。

 

彼女の口から聞いた。

 

彼女は嘘をつかない。

彼女は誤魔化さない。



■02

 

かつて彼女が身を捩って彼を拒否した薔薇の苑で、彼らは淡く発光していた。

ルイの金の髪が、薄明かりの下で煌めいている。

彼女の膝の上には、剪定したばかりの薔薇が数本乗っていた。

シャルルのために、食卓に飾るつもりで摘み取っていたところを、ルイに遭遇したのだ。

誰の為の薔薇なのかは、すぐにわかった。

ルイは最初、今宵は戻らない、と言っていたからだ。

どんなに遅くなっても良いので、戻って来て欲しい、とヒカルがメッセージを入れた。

 

だから戻って来た。

シャルルが居ると悟ったからだ。

・・・・ヒカルは、ルイとシャルルがヒカルを仲立ちにして、温和な関係を築くようになると信じて疑わない。

 

彼の別棟からは、薔薇園の様子はよく見える。

ヒカルが時間をかけて、月明かりの下で、食事の時間に合わせてその日の食卓に最も相応しい薔薇を選んでいる様子を見て、彼は身体を動かしたのだ。

シャルルのために。

彼のためだけに。

ヒカルは薔薇を摘み続ける。

当主は、ヒカルの母をこよなく愛した。そして、例の事故によって戻らなくなってしまった運命の人のために、ファム・ファタルという品種を創り続ける。

すべて違う種なのに、名前はいつも「ファム・ファタル」だった。

 

・・・そしてその人の娘であるヒカルが、まるで何か・・・購うためだと主張するかのように、毎日薔薇を摘み取る。

 

ヒカルは戻って来いと言った。

彼女が契約を履行する限り、ルイは彼女の申し出を交換条件として受け入れる。

シャルルに歩み寄るのではない。

・・・・この家の主となるために、戻って来ただけだ。

 

そのヒカル本人が、ルイの早い帰邸に狼狽していた。

そしてその狼狽した貌を見て、ルイは苛立った。

 

おかえり、と微笑む貌を穢して乱してやりたくなった。

 

彼女は薔薇を摘み取る瞬間の恍惚とした表情を、誰にも見せることなく薔薇だけに注いでいる。

ルイではない男のためだけに用意される最高の状態の薔薇。

静かな微笑みで、唇の端を少し持ち上げ、どれが今日のシャルルの食卓に相応しいのかを考える。そして、朝に咲きそうな薔薇の様子を確認し、その薔薇に目印の紐をくくりつける。

それが彼女の日々の習慣だった。

 

いずれは・・・それすら禁じるつもりだった。

彼女がシャルルのことを考える権利も自由も剥奪するつもりだ。

・・・いや、シャルルのことを考えながら、ルイのために日々を過ごす方が効果的なのだろうか。

・・・効果的。

一体、何に対して効果的なのか。

帰結だけを優先してしまっている思考に、ルイは泳ぎ始めようとしていた。

彼はそれを押しとどめ、自分の意識を目の前の茶色の瞳の茶色の髪の娘に注ぐことにした。

 

彼女を顎で呼んだ。

こちらに来るように、と。

 

そして、次に近くのベンチに座らせて・・・彼女の隣に座り・・・そしてルイは帰邸の挨拶の交換を省略して、いきなり彼女の接吻を求めたのだ。

 

ルイは細く長い指先で、彼女の顎を捕らえて、彼女が貌を背けることを許可しなかった。

「ルイ・・・・ルイ」

性急とも言えるようなそんな愛の烈風に、ヒカルは戸惑ったように言った。

彼女は膝上の薔薇を傷ませないようにすることで頭がいっぱいで、ルイの口吻を避けることができない。

・・・元々、彼はそんなことは承認するつもりはなかったが。

貌を引くが、ルイは更に身体を伸ばし、彼女の唇に深く自分の重みを落としていく。

・・・長く深い激しい口付けだった。

 

いつもの・・・一度きりの、契印のようなキスではなかった。

彼は本当はとても激しやすい性質なのかもしれないとさえ思うほどに。

激しくそして荒々しいキスを何度も繰り返す。

唇が離れたかと思うと彼はまたヒカルに近づく。

 

なぜこうも・・・ヒカルは愚かなのだろうか。

呼吸を乱し体温を上げて彼女がルイのことだけしか考えられなくなるほどに溺れるような娘であったのなら。

・・・・それなら、彼女に憤慨することもなかっただろうか。

物慣れていないヒカルの戸惑った小さな呻きや吐息さえ、彼は奪っていく。

 



■03

 

端整な頬が傾けられて、ヒカルの滑らかな頬に押しつけられる。

・・・ルイは邪欲に迷うことは決してないのに。

我を忘れることなどは決してないというのに。

ヒカルの躊躇いがちな口吻が・・・彼の奥底にある何かを呼び覚ます。

拙くて幼いヒカルの身動ぎが、ルイを更に深みに誘う。

 

「・・・ルイ・・・私、もう、行かないと」

「どこに?」

彼は彼女の顎を片手で掴んだ。

彼が強く掴んだので、ヒカルの面輪は少し赤らんだ。

青灰色の冷たい瞳が、ヒカルの戸惑った茶色の瞳を覗き込んだ。

凍て付くような瞳なのに・・・彼の接吻はとても激しくヒカルを炙る。

「ヒカルが行くところは何処もない」

「・・・・ルイ」

「ヒカル」

低い艶のある声で、ルイはヒカルに言った。

金色の前髪が、彼女の頬に降りかかるほどに近い距離に居た。

しかしヒカルは目を反らすことなく、ルイの青灰色の冴えた双眸を見つめ返していた。

 

本当に苛つく女だ。

 

ルイはそう思った。

「ヒカルは・・・オレが居ろと言ったらどこにも行けない。

君が望むものを提供してやるかわりに・・オレはオレの権利を主張する。

ヒカル。随え。ヒカルは・・・オレの所有物だ。愛翫してやるよ」

その言葉に、ヒカルが眉を曇らせた。

ルイはその様子を見て、どこまでも従順であろうとしない強気なヒカルの魂を、いっそのこと抜いてしまおうかとさえ考える。

今の世で、ルイがやろうと思えばできないことはほとんどない。

ヒカルの意志を奪う外科的治療だって同意のない投薬だって、必要があればやってのけるつもりだった。

 

キスひとつ、満足にできない娘を前に、ルイは小さく舌打ちした。

そして乱暴に指先を離して、ヒカルの貌から離れた。

蹂躙してなお穢されない乙女は、どうしたら最も傷付くのだろうか。

 

彼はそのまま指を伸ばして・・・ヒカルの膝上の薔薇を振り払った。

この瞬間に最高の状態であった花瓣が、ぱっと香気を撒き散らして地面に散って、土に混じった。

あっと声を漏らして、ヒカルが腰を浮かせたが、ルイは彼女の腕を掴んで、自分の胸の中に引き摺り込む。

薔薇が・・・とヒカルがルイから視線を外して薔薇を見つめて手を伸ばすので、ルイは伸ばされた腕の手首を、もう片方の手でねじり上げた。

 

・・・彼女が考えなければならないのは、ルイ・ドゥ・アルディのことだけだ。

彼の帰邸を希う言づてを寄越したのに、彼女はまったく連動していない行動をとり続ける。

 

「そんなにシャルルのために摘んだ薔薇が気になる?・・・婚約者のオレが目の前に居るのに。

他の男のために何かをする人を、妻にするつもりはない。慎みを持て。」

彼は意地悪く言った。

ヒカルがその言葉に、伸ばした腕を硬直させた。

「ルイ・・・・・そんなつもりではない。薔薇には罪はない」

彼女は肩を震わせた。しかしルイ・ドゥ・アルディは容赦しなかった。

 

「いいや、あるね。ヒカルは自分の言葉を遵守しろ。・・・・そんなところから教育しないといけないのか。それとも・・・・器だけでも、先にオレの妻になったら、そうは考えなくなるのか」

普段は言葉少ないルイがこうして彼女に何かを述べることは珍しかった。

いつも・・・会話が成立しないと冷笑しているというのに。

彼の知能指数にはヒカルはとうてい及ばない。それなのに、ルイがこのように言葉を差し向けることについて、ヒカルは耳を傾けようとした。

けれども、彼の胸の中に引き込まれて、そして両の腕の自由を阻まれて・・・そして彼はヒカルの心がここにはないと言って責め立てることが辛かった。

しかし、彼に話を持ち込んだのは、ヒカルの方だった。

ルイの主張は正当なものだ。

彼は矛盾することは言わない。彼は・・・そう。意味のないことはしない。

 

「ルイ。・・・・誰もいないから・・・必要ないよ」

 

彼女の言葉に、ルイが唇を噛んだ。そして、彼女の手首に繋ぎ合わせていた彼の手を両方とも一気に離した。

反動で、ヒカルは後ろに斃れそうになったが、慌てて体勢を立て直した。

ルイ、と小さく言った。

目の前の、星辰の子と讃辞されている金の髪の青灰色の瞳の青年は・・・・彼はヒカルを侮蔑した表情で見つめる。

彼女が何を言わんとしたのか、瞬時に理解したからだ。

 

・・・・・・彼はやがて金の髪を掻き上げた。

 



■04

 

ルイ・ドゥ・アルディは意味のないことはしない。

・・・・・・決して。

だから、彼女に落とすキスひとつでさえ、計算されている。

彼にはそれがもたらす結果と効果についてまで考えた上で行動する。

だから。

だから、ヒカルは言ったのだ。

誰も見ていない、と。

 

誰かに見て欲しいという願望ではない。

 

彼は理由がない行動は起こさない。

 

それなのにヒカルは。

それなのに、誰にも目撃されていない空間で、こんなことをしても無駄だ、と言っているのだ。

それはルイ・ドゥ・アルディ誇りを激しく傷つけた。

 

薔薇を振り落としても、ディナーに別の生花が用意されるだけだ。

いつも薔薇が最高の状態で咲くとは限らないから、アルディ家には季節折々の花を時に用意することを想定して、温室で別の種を育てている。

それを知らないルイではないのに。

彼は・・・・シャルルのために薔薇を剪定するヒカルの所業を詰った。

 

その行為は、誰も見ていないのに。なんら効果はないのに。

・・・・何を言っても、何をしても、ヒカルの魂は誰にも変化させることができないと言うことか。

 

ヒカル・クロスの傲慢な宣言に、彼は嘲笑した。

 

「ヒカルも随分な勘違いをしているようだが・・・君はアルディ家の者ではない。

それなのにそんな尊大な態度で施しをしているつもりなのか。それはシャルルの教育なのかな」

「そうではない」

ヒカルは困り果てて、顔を曇らせた。

 

そして彼女はゆっくりと立ち上がって、躰を屈ませ、地面にしゃがみ込んだ。

そして目の前に散らされた薔薇を一本ずつ静かに拾い上げていく。

痛んだ花瓣すら愛おしいと言うように、シャルルの愛でた薔薇をすくい上げる。

 

ヒカルは彼に背中を向けながら、ぽつりと言った。

「ルイは・・・意味のない行動はしない」

ルイ・ドゥ・アルディはその言葉に、黙ったままだった。

彼女の声は少しくぐもっていた。

茶色の髪が背中に散って・・・そして肩が僅かに震えていた。

 

「ルイは・・・・これが意味があることだと思っているのね?

でも、私にはわからない。

誰も居ないのに、ルイはそんなことをしない」

「オレを定義するな」

 

ルイは言った。

そうじゃないよ、とヒカルは背中を向けたまま首を振った。

 

「ルイは怒ってる。それはわかる。でも、どうして怒っているのかが・・・わからない」

「オレは憤らない。ヒカルは・・・ヒカル自身が、オレを制御できなくさせるほどに自分が価値があると思っているのか」

 

彼女は最後の1本に手を伸ばした。

薔薇の棘かまだ鋭くて、彼女はそっと手の平に握ったが、それでもいくつか棘が手に食い込んだ。

今日の品種は、薔薇の棘が針のように鋭いものだったことを知っていたが・・・それでも素手で茎を握りしめた。

涙が出そうになるが、それを押さえ込む術がそれしかないと言うかのように。

彼女は、鋭い棘を手の平で受け止めた。

それはまさしく、ルイの棘と同じだと思ったから。

 

彼は・・・攻撃することで何かを訴えている。

でもヒカルにはそれがわからない。

わからないことを尋ねても、彼は何も言わない。

気がついてない愚かな娘だね、と言うだけだ。

そして・・青灰色の物憂げな瞳を、いつもとは違った激しい焔を宿らせて、その時に・・・ヒカルを傷つけようとする。

 

「・・・・これが意味のないことだと、ヒカルは思うのか」

ルイが今度は尋ねた。

彼はほとんど質問をしない。いつも彼が回答するだけだから。

もしくは、一方通行か数往復の会話で終了するように計算しているからだ。

 

「わからない。何か法則があるのかもしれない」

「法則・・・ね」ルイが冷笑した。

彼女に意味もなく触れてはいけない、と宣言されたからだ。

 

これは契約関係だから。

 

だからか。

 

だから、何ももたらさない、効果のないと思われるキスや抱擁は意味がない、と。

ヒカルが定めるのか。

ヒカルは決してルイに溺れない。

誰もが彼とそうなることを夢見るというのに、ヒカルはただ、悲しそうに受け止めるだけだった。

 

ルイを激しく求めることもしない。

ルイを拒否することもしない。

 

しかし結果としてそれがルイを拒絶し、そして否定していることに他ならないとさえ考えない。

 

ヒカル・クロスは自分の中に誰も入れない。

・・・・・・あの人の娘だからだろうか。

だから、シャルルはこよなく愛でるのか。

 

そして、ヒカルが自分に溺れることは、ないのだ。

 

ルイは大きく脈打つ自らの痛憤を鎮めるために・・・上を向いて、大きく息を吸った。

 

 



■05

 

「ヒカル。・・・こちらを向け」

彼女は薔薇の花瓣についた泥を丁寧に払い落としているところだった。

・・・それを食卓に飾ることはしないだろうが、命あるものを摘み取る行為は畏れをもって敬うように、とシャルルに教えられた彼女は、汚れたから捨てるという選択肢を用意していない。

ましてや、ルイにすべてを注ぐことを背中で拒絶しているような仕草に、ルイが冷たく言い放った。

 

「ヒカル。オレは繰り返さない。これが最後だ。・・・・オレを見ろ」

ルイが低くそう呟いた。

 

意固地に自分に随うことを拒絶している贖罪の娘を、ルイはどこまで貶めてやろうかと考え始めていた。

死ぬより苦しいことがある。

生きていることが苦しいと思うような生がある。

 

彼女は・・・なぜこうもルイを苛立たせるのだろうか。

そして彼に逆らう唯一の娘は、ルイに向かって、そっと言った。

何かの神託を告げるかのように、静かに哀しみと憂いに満ちた声で。

 

「ルイ・・・・・私に怒っているのはわかった。でも、薔薇にあたってはいけない」

「オレに説教?」

彼はせせら笑った。そして敢えて傲慢に彼は言った。

「こちらへ来い。・・・・・オレを鎮めろ。その肌と唇で。貴女は・・・オレが所有することになっている」

「なぜ、そう物言いをするの。何か・・・私に伝えたいの?でも私にはわからない」

「わからないふりをしているから、わからないだけだ」

彼はそう言って横を向いた。

いつも通りに別邸に籠もり、食事も生活もまったく別にして過ごせば良いだけの話だった。

そもそも、彼女の言葉のとおりに、この館に戻ってくることも護らなくても良い一方的なメッセージだったのだから、耳に入っていないふりをすれば良かったのに。

・・・・ルイはそうしなかった。

そのことについて、理由を明示しなければいけないのか。

 

彼はそこでまた薔薇に視線を移すヒカルに、向かって言った。

彼女がルイから視線を外すその一瞬に、彼がどんな表情をしているのか、ヒカルは知らない。

いつも淡々と無表情で・・・冷酷な微笑みしか浮かべないルイ・ドゥ・アルディの・・・・眉を潜めて青灰色の瞳を切なげに曇らせ・・・そして薄い唇を僅かに歪ませる、苦悶したルイの貌を、ヒカルは知らない。

 

「ヒカルはオレに遵うと言った。己の権利ばかり主張し、義務を果たさない」

「義務・・・・・」

ヒカルはそこでルイを見上げた。

目の前に立っている、星辰の子と呼ばれている・・・・この家の当主に良く似た面立ちのルイは、彼女を冷たく見下ろしていた。

 

「そう。義務だ。・・・・オレは義務を守っている。ヒカルとともに過ごすために、ここにやってきた。いいか、戻るのではない。帰邸でもない。ただ、虚無という名の館に足を運んでいるだけだ。・・・それに意味を持たせようとしているヒカルは、己の義務を守らずに、自分の我だけを押し通そうとする」

「私の義務・・・・・権利・・・・・」

彼女は首を振った。

この婚約という名の契約関係が、ルイのその言葉で更に違った無機質なものになると感じているらしかった。

彼は単に、契約内容について、今一度確認しただけだ。復唱しただけだ。

・・・・彼は決して繰り返さないのに。

 

ヒカルに言い聞かせるように、言った。

 

「傲慢な姫君。・・・・オレを悦ばせろとは言わないが、せめて・・・求めたら応じろ」

求めたら。

彼は何かに執着することはないのに。

・・・・・ルイはそう言って横を向いた。

彼の言葉の意味について、ヒカルは考え及ばないようだった。

ただただ・・・目の前の薔薇に憂いの吐息を吹きかける。

 

「・・・・オレは忠告したぞ、ヒカル」

彼はそう言うと、腕を伸ばして・・・ヒカルの胸の中に納められた薔薇を再び・・・・取り上げた。

「ルイ・・・・・!」

悲鳴が上がる。

ヒカルの悲痛な呼び声が・・・彼を更に激昂させる。

鋭い棘がいくつか、彼の手の平を刺したが、ルイは痛覚すら無視した。

 

生きるとは何だろう。

ヒカルが愛でる命とはシャルルに関係するものだけなのか。

・・・・ルイの命は・・・彼の声は、ヒカルにとっては、薔薇より低き場所にあるのか。

 

彼は薔薇を投げ捨てた。

「オレの話を聞け。・・・・ヒカル。オレを見ろ。オレのことだけを考えろ。オレの声しか聞くな。オレの・・・・・オレの温度だけ感じて足掻け」

彼はそう言って、再び屈んで薔薇に手を伸ばすヒカルの肩を強く掴んだ。

その表紙に、彼の手の皮膚が裂けて、薔薇の棘が深く彼に突き刺さり、あっという間にいくつかの赤い斑点が・・・・手の平に広がっていった。

しかし彼は痛みすら捨てた。

ルイ・ドゥ・アルディは痛みや疼きは抑制出来る。

 

・・・・けれども。

 

この慍色を伴った憤激は、平らかにすることができなかった。



■06

 

ルイ・ドゥ・アルディが再び払い落とした薔薇を見て、ヒカルは涙を瞳一杯にためた。

しかし彼女は涙を落とさなかった。

自分の手の平から花片を散らしながらこぼれ落ちていく薔薇の茎が、重力に随って土に還って行く。

・・・この家の者達のように。

 

アルディ家の者は、死んだら薔薇に還ると言われている。

しかし。

肉体が還るのだろうか。

魂が還るのだろうか。

・・・そのどちらも、この薔薇の家の者たちによって創られたルイは、やがて命を終えたときに、やはり薔薇に還るのだろうか。・・・還ることが出来るのだろうか。

 

「ルイ。生あるものを粗末にしてはいけない」

ヒカルが小さく言った。その言葉が、シャルルの言葉そのものであることを承知していた彼は、ヒカルに咎めるように言った。

「ヒカルにオレを糾す権利はない」

素っ気なくルイはそう言って彼女に背を向けた。

何をしても、彼女は泣きそうで泣かない。

それが彼女の中の唯一の誇りだから。

涙を流すだけが泣くとは言わないと信じているから。

しかし、背中を向けていても・・・彼女の乱れた呼吸や緊迫した空気から、彼女が今にも泣き出しそうな顔をして、こちらをじっと見つめていることはわかっていた。

茶色の瞳で。

彼女は・・・ルイを見つめる。

ヒカルはいつも決してルイを見つめないのに、彼女を傷つけた時だけ・・・ヒカルは自分自身を疵付けた相手を見つめる。

・・・・シャルルは彼女を泣かせたりしない。

だから、この時だけは・・・・ルイは星辰の子、とか、当主の実息である、という役割を持った言葉で呼ばれる人間ではなく・・・ルイ・ドゥ・アルディになる。

唯のひとりの男になる。

ヒカル・クロスを泣かせる、唯一の男に。

誰からも愛される晄の娘。

しかし・・その煌めきが強いほど、それを眩しく思う者も居るということに気がつかないヒカル。

その彼女が・・・小さく声を漏らして、ルイのことを気遣う。

 

「・・・怪我をしている」

ヒカルが彼の手に視線を移しているのがわかった。

そして、涙声を抑えて、彼女はささめくように言った。

ルイに向かって、痛まないのか、すぐ手当しないといけない、と言った。

しかしルイは首を横に振った。

 

些事だ。

些末なことには耐えられるように訓練されている。

律することが出来る。

 

痛まない。

疼かない。

けれども・・・どうにも憤りを鎮めることが出来ない。

その唇でもって彼を鎮めろ、とヒカルに命じたのに。

辱めても彼女は屈しない。遵わせても彼女は撓めない。

思い通りに蹂躙してなお、彼女は思い通りにならない。

 

「薔薇はいくらでもある。・・・今宵は諦めろ」

「そうじゃない」

ヒカルは言った。薔薇を払い落としたことを咎めていると思ったのに、彼女はそうではない、と言った。

「・・・ルイは自分の身体や命を・・・もっと・・もっと愛おしんでも良いと思う。

ルイは生あるものなのだから・・」

彼の命が創られたものであり、ルイはシャルルが望んで生まれた者ではないことということを知りながら、ヒカルはそう言ったので、ルイは一瞬だけ怒りを露わにした。

 

「ヒカル。オレを憐れむな。・・・おまえは・・・・オレを哀れむことはできない・・・!」

 



■07

 

ルイ・ドゥ・アルディが静かに溜息をついた。

創られた命を、どうして自分自身が愛でる必要があるのだろうか。

彼女の言っている意味を理解したら彼は堕ちていくと思った。

理解できない懸河に呑まれると思った。

 

また・・・ヒカルが怖々とした声音で、ルイに声をかけた。

「ルイ」

しかし彼は振り向かなかった。

ルイはヒカルの呼び掛けに返答しなかった。

 

彼女から彼に言ったのに。

彼女から・・・彼に寄り添うと誓ったのに。

それなのに、屈辱を感じる。彼の誇りを侮辱されたと感じる。

誰もが彼が自分に振り向くことを願うのに、ヒカルだけは彼の脇を走り抜いていく。

 

「ルイ、行こう。手当をした方が良い」

「貴女に指図される必要はないよ」

「でも・・・」

ヒカルはルイの手を取った。あたたかい手だったが、彼はそれを振り払おうとした。

しかし、彼女はそれを押さえて、ルイの血が滲んだ手の平を、両手で包んだ。

彼がぴくり、と肩を震わせた。

華奢な彼女の腕を振り払うことは簡単だった。

それなのに、ルイは彼女の腕を・・・あの薔薇のように簡単に躊躇いもなく振り払うことができなかった。

 

 

「放っておけ」

「放っておけない」

「ヒカルに干渉されるのは遠慮するよ」

彼は溜息をついた。

彼女は自分の言葉の効力について、まったく考慮していなかった。

ヒカルは懸命に彼に語りかけた。

彼女によって包まれた手の平から・・・彼は痺れるような感覚は昇るのを味わった。

ヒカルの呼吸を感じる。ヒカルの髪が彼の腕に触れる。・・・ヒカルの手の平が彼を包む。

それをなぜ、拒否できないのだろうか。

 

ルイに否定されることを承知で、ヒカルはまた言った。

「・・・干渉するよ。ルイ。・・・・容喙(人の行動に口出しすること)させてよ」

家族になろうと言った。

相手を案じ、相手を憂え、そして帰りを待つ間柄になろうと、ヒカルが言ったのだ。

だから・・・それを義務だと言ってのけるルイの言葉に酷く傷ついていた。

しかし、彼は自ら傷つけて・・・何かに憤っている。

 

違う。

 

ヒカルはそう言った。

 

「ルイは憤っているのではない。・・・・哀しんでいるだけだ」

 

彼は素っ気なく言葉を出した。

「それでオレが何かを思うとでも?憐れむなと言っただろう。

オレに近づいたつもりなのか?

オレを理解したつもりか?

・・・・それで得られる効果もないし・・・意味がないことはするな、ヒカル」

彼は冷笑した。

金の髪が・・・僅かな風に揺れる。

あたりは夜風が舞う時間になりつつあった。

青灰色の瞳を細めた。

彼の戻る場所はどこにもない。

 

たとえこの肉体が朽ちても。

彼はきっと自分は薔薇に還らないと思った。

アルディ家の者は、死んだら薔薇に還ると言われている。

しかし、ルイはこの散った薔薇のように・・・・・やがて朽ち果てて、朽ちてなお・・・土にも薔薇にもなれないのだろうと思った。

自分は創られた者だから。

還るべき母床がない。

 

「ヒカル。・・・・誰も見ていないぞ」

 

彼はヒカルに忠告した。

彼女と同じ言葉を使って、彼女に棘を刺した。

 

ヒカルが、ルイは意味がないことをしない、と言ったから。

ルイは、ヒカルに意味がないことはするな、と言ったのだ。

 

「違う・・・そうじゃない」

「オレは間違わない。違うこたえは存在しない」

「ルイ・・・・ルイ・・・・・」

ヒカルが涙声になった。

どうしてこの少女は、ルイの前では良く泣くのだろう。

決して泣かないと自分に言い聞かせているはずなのに。

なぜ・・・ルイの前ではこうして感情を表現するのか。

 

何かに執着したり、感情を激しく変化させたりすることは決してしてはいけないと教えられた。

だからヒカルがどうしてこれほどまでに激しく心を揺さぶられているのか、それが理解できない。

 

「・・・義務じゃない。権利じゃない。私は・・・・私は意味がなくても、誰も見ていなくても、ルイのことを考えている」

ヒカルは懸命に涙を堪えながら言った。

彼に涙を見せても彼は聞き入れない。ルイは言葉しか聞かない。涙を見せても嘲笑するだけだ。

言葉にならないもので訴えても、それは意味のないことだ、と。彼は言う。

 

「へぇ・・・」

彼は意地悪く嗤った。

彼女の遣る瀬無い顔を見ると、どうにも苛つく。

 

言葉にならない表情で彼を圧迫する傲慢な娘の態度がどうにも気に入らない。

彼は薄い唇を歪めて・・・・契約をしようと持ちかけた張本人であるヒカルに・・・契約履行を命じた。

 

「オレのことを考えている?自分自身しか愛せない可哀想な姫君が、誰かのために涙を流すのは、本当は自分自身を憐れんで涙していることにいい加減気がついたらどうだ」

「私は・・・・私はルイのことだけを考えている」

彼女は悲鳴のように・・切れ切れに言った。

「ルイが戻るのを待っていた。ルイが帰邸するのを待った。ルイの事だけを考えて・・・」

「ヒカル」

残酷なほどに美しい星辰の子は、彼女の言葉を遮った。

彼女がルイのことを考えるというのは、彼を通して別の者を見ているからだ。

その者が心安らぐように・・・ルイを選んだだけだ。

彼は胸苦しくなって、彼女を突き放すような言い方をした。

それでも繋がれた手はそのままにしていたのに。

彼は・・・ヒカルに向き直って、彼女に無表情に命じた。

 

「・・・・それなら、オレの前で涙を見せてみろ。・・・無駄に、意味もなく、涙を流せ。

薔薇を墜とされても泣きはしない。

心のないキスをオレに捧げる。

・・・・権利ばかり主張する愚かな娘のヒカル。

魂も躰も貰い受けると言っただろう。

地獄の業火に灼かれる覚悟はできたのか?

それなら。

・・・命令なら何でも随えるはずだろう。

オレのことを考えて、泣けよ、ヒカル」

 

彼女が小さく息を呑んだ。



■08

 

ヒカルが困った顔をして、少し斜め下を向いたので、ルイは予想した展開に憫笑を浮かべた。

彼女の偽善者意識を辱めようとするが、彼女自身がそうであると認めていないから、それは徒労であるということも彼は知っていた。

ヒカルは彼の辱めに屈しない。

そして因循怯懦であることも受け入れない。

彼女の生き抜くための力強さは、アルディ家の者の誰とも違っていた。

彼女の母のように。

それが欲しくて、現在のアルディ家の当主は・・・彼が決めたファム・ファタルに手を伸ばそうとして為損じた。

その当時の親族会の長は、強い当主であれば良いと言った。

強い当主とは一体どんな当主のことなのだろう。

強靱な精神で一族を率いるだけでは駄目なのだ、とルイは理解していた。

 

それなのに。

・・・それなのに。

 

彼は、ヒカル・クロスの前を通り過ぎる数多あるひとりになるつもりはなかった。

そして、ルイ・ドゥ・アルディは、ヒカル・クロスに地獄の業火に灼かれろと言った。

彼女はもっともっと苦しめばよいのに、と思う一方で・・・・彼女の苦しそうな顔を見ていると、彼は次の予測を止めてしまう。

 

この家には、彼の思い通りにならない者が多く居る。

アルディ家の当主も然り、彼の教育係も然り。

そして。ヒカル・クロスはもっとも・・・彼の思惑から逸脱する人間だった。

 

やがてヒカルは静かに言った。

これほど長い時間を一緒に過ごしてなお、彼のことがすべて把握できるというには遠く及ばなかった。

それでも・・・誰よりもともに呼吸した時間が長い彼女だからこそ言うことが出来るのだと思った。

思い上がっているわけではない。彼は誇り高く・・・彼女と違う目的を持って生きている。

年若いルイが彼の生命をかけて、なにを目的としているのか知っているからこそ・・・言うことが出来ることもあり、言うことが出来ないこともある。

それを良く知っていたから。

 

だから、ヒカルは彼の身を切るような切ない行為を避けることが出来なかった。

 

「・・・ルイを待っていた。この花は、ルイのために摘んで飾ろうと思っている」

彼女は乱れて汚れた薔薇に手を伸ばした。

「やめろ。オレを辱めるな。・・・地に落ちた薔薇などオレに捧げるな」

彼は素っ気なくそう言うと、金の髪を散らせて、勢いよく横を向いた。

彼女が地面に跪く。

そして彼の足元に平伏す。

その姿を見たくて・・・彼に服従する姿を確認したくて、ルイはヒカルに冷たい言葉を投げるというのに。

 

彼女はそれでも、屈しない。

 

これは彼女の持つ遺伝子がそうさせるのだろうか。

それとも・・・ヒカルを育てたアルディ家当主の願いがそうさせているのだろうか。

 

どちらにしても・・・ルイには決して従順に従わないと身体中で訴えているヒカルの行為に、彼はいつも不満足であると認識せざるを得ない。

誰もが彼に屈伏するのに。特に、ヒカルと同世代の乙女たちは、ルイとの淡い恋から永遠の恋まで様々に彼に叶わない願いをかける。

己から何をするわけでもないのに、ルイとある日突然恋に堕ち、アルディ家の当主夫人に労をかけずに登っていくことを夢想する。

まったく愚かしい幻想でもってルイという個人ではなく、彼が掴み取ったものに恋をしている者ばかりに囲まれて・・・それでもヒカルは決してそういったものは欲しない。

無欲であるというよりかはむしろ、彼女はそういったものに囲まれた生活をしていたから。

 

シャルルもルイもたくさんの功績をアルディ家にもたらしている。

その中で暮らすと・・そういったものへの感覚が鈍くなるのだ。

自分が手に入れたものではないのに。

そして、彼女はそういったものにまったく価値がないとさえ思っている。

僅かな時間しか最高の状態を保てない薔薇を愛でている。

彼女の命は永遠ではない。

両親を失ってなお、彼女は有限について考えを改めるつもりはないようだった。

 

やがて彼女が押し殺した声で、小さく言った。

「ルイのための薔薇だから」

ルイ・ドゥ・アルディは深い溜息を漏らした。

金の髪が揺れる。

彼の整った顔からはなんら感情は読み取れなかった。

「残念だね。オレは折損した薔薇には興味ない」

 

少しも名残惜しいとは思わない。幾つも同じ種の薔薇は咲いていた。

明日になればもっと違う種の薔薇が咲くだろう。

そして彼女は相変わらず、それらを懸命に摘み取る日々に戻るだろう。

 

涙を流せ、と言ったのに。

彼女はそれでも、足元に散る薔薇に心を残す。

ルイ・ドゥ・アルディは決して受け取らないと言ったばかりなのに、それが耳に入っていないのだろうか。

 



■09

 

その時。

ヒカル・クロスがそっと・・・彼に寄った。

それは彼女だけが赦された、許可のない近接だった。

ルイ・ドゥ・アルディは誰が近寄ることも赦さない。

それなのに、ヒカルはルイに近寄り・・・そして、彼の背後から、傷ついたルイの手の平をそっと包んだ。

ぴくりと彼が僅かに手の甲の神経を動かす気配がしたが、ヒカルはそれに臆さずに彼の冷たい手を握った。それでも彼女はその行為を停止しなかった。

・・・・ルイが黙っていたから。

自分自身も棘が手に深く入り込み、刺すような痛みを感じているはずなのに。

ヒカルは、まるで壊れ物を扱うかのように、ルイに触れる。

彼が自分を厭うのは、彼自身が壊されてしまうからだと感じているのかも知れないと思った。

彼女が幼い時に『小さなもうひとりの天使』と呼んだ人物は、今はこれほど成長して・・・星辰の子と呼ばれているのに、誰も寄せ付けない。彼は星々を遵えるという称号を持っているのに。誰もが惹きつけられるのに誰も近づくことを許さない。

その姿が、かつてのフランスの華と良く似ていると言われることさえ彼は認めなかった。

彼の軌跡を越えるためにルイは生まれて来たのに。

シャルル・ドゥ・アルディと同一になることは受け入れなかった。

孤独を司る彼は・・・いったいどこに行くのだろう。

ヒカルを連れて行くと言いながら、ヒカルが地獄の業火に灼かれれば良いのにと言いながら。

彼は・・・ヒカルと唇を重ねてなお、ますます孤独を募らせているように感じる。

天使は、神の使いであるはずなのに。

それなのに。

彼は神の使徒のように厳としているが、それでいて、いつも孤であった。

 

・・・やがて彼女は彼の手の甲の上に自分の指先をそっと走らせた。

静かに、僅かに。

彼が振り払ってしまうという選択もあったのに、それでもルイは彼女の仕草をそのまま黙って観察しているように思えた。

ルイはなぜ、いつもヒカルに憤っているのだろう。

ヒカルはそう思った。

感じてはいる。

そこまで鈍感になりきれない。

彼女は知ってしまっていたから。

彼のいつも何かを・・・何かを訴えていることを。

 

しかし、言葉にすることができない。

それでも・・・ヒカルの存在そのものが厭わしいと思っているのかもしれないルイに対して、彼女ができることはとても少ないのだと思った。

まだ理由はわからない。

 

奪う、と彼は言う。

しかし彼はヒカルから何かを奪うことはしない。

彼女の環境も、彼女の未来も、そして何もかも、強引に持ち去ってしまう事が出来る権利があるのに。

それなのに・・・・ルイはいつも彼女からは何も奪わずに乱していくだけだった。

彼はそれを知っているのだろうか。

何もないから、何も生み出すことが出来ないから、だから奪うしかないと考えて居るルイ・ドゥ・アルディは・・・何も持ち去ることもしない。

 

ヒカルは眉根を寄せた。

手を離す。

触れた時より、彼の手の甲が大きく揺れるのを感じた。

離れて行くことを待っていたかのように・・・・離れて行くことが耐えられないと言うかのように。

 

茶色の髪の茶色の瞳の娘は、金の髪の青灰色の瞳の青年の正面に回り込んで・・・そして・・・・・彼の胸の中に深く自分の額を埋めた。

「ルイ・・・・・・ルイ」

彼女は彼の名前を二度、呼んだ。

小動物が愛撫を求めてするような仕草に近かった。彼女は・・・顔を彼の胸に埋める。ゆっくりと顔を左右に振り、そしてふと、顔を上げた。

 

東洋人にしては白い顔があった。茶色の瞳の・・・茶色の髪が乱れて、そして彼の胸で絡まった。

彼は僅かに唇を横に引いて、ヒカルの顔が近くにあることに対して、何も感じていないかのように装った。

このまま・・・彼の別棟に引いて行き、彼女の肌を・・・・今し方、彼の足元に墜ちた薔薇のように泥で穢すこともできるのに。

それでも、彼は身体を動かすことはしなかった。

・・・違う。

動かさないのではない。動けないのだ。

ヒカルから寄ったから。

彼が引き寄せたのではないから。

先ほどまでの彼女の泣きそうな顔を愉しみながら、唇を貪ったばかりであるというのに。

 



■10

 

ルイ・ドゥ・アルディは黙ったままだった。彼の手に入れたいものを彼女は持っている。

同じ屋敷に住み、長い時間を過ごしたのに。

・・・彼女はルイをすべて理解することはない。決して。

 

このまま・・・ヒカルの申し出を利用して、彼女と婚姻関係を結ぶことが最も近い路だった。

ヒカルを溺愛するシャルルを打ちのめし、彼が長い間君臨している獣王の座を簒奪するには、ヒカルという要素は必要不可欠だった。

 

彼女は彼にとって、慰み者である以上の存在になるはずはなかったのに。

なぜなのか・・・・。

どういうわけか・・・・・。

ヒカルからルイに触れるという行為に、彼は陶酔して身動きが取れない。

甘い痺れが彼を包み、そして次には激しい動悸をもたらし・・・ヒカルの温度を奪いたいという劣情に駆られる。

呼吸が苦しくなり、それを悟られないように表情を動かさないように自分の肉体に命じることに労力を傾ける。

やがてヒカルは静かに言った。押し黙っているままのルイに、囁くように。

「・・・私ができるのはここまで」

そう言って、彼女は・・・・踵を持ち上げた。

彼の胸に傾けていた体重を移動させヒカルは顔を持ち上げた。

近くで見るにはあまりにも美しすぎる星辰の子の顔を怯まずに見つめた。

 

「・・・よせ」

彼がそう囁いたが、それは単なる驚愕の言葉でしかなかった。

ヒカルの・・・・ヒカルの手の平が、ルイの頬を挟んだその温度を感じた瞬間に、それは始まった。

声が掠れて拒否にならなかった。

ルイは黙ってそれを受け入れるしか術がない。

ヒカルが・・・・彼女が首を持ち上げ、踵を上げて、彼に近づき、そして・・・・接吻した。

彼女の香りが近づいて、そして癖の強い茶色の髪がルイに近寄ったと認識した瞬間にはもう、ヒカルの唇は彼から離れていた。

ルイの冷酷そうな薄い唇ではなく、唇の端に。

彼女は温点を刺激し、そしてすぐに身を起こした。

 

恋人同士の甘い口付けは与えないとルイが言ったから。

体温を奪うような行為でしかないとルイが言ったから。

 

・・・だからヒカルは彼にそっと・・・・唇でも頬でもこめかみでもない場所にヒカルの唇を落とした。

 

彼女ができる精一杯のキスというものはいつも稚拙だった。

けれども、彼女から捧げるキスというものは・・・意味があるものでしか捧げなかった。

 

触れそうで触れない。

 

そんな場所に彼女は祝福の印を付した。

・・・・それまでにルイが激しく彼が乱したヒカルの唇は、すでに静寂の波で満たされていた。

 

彼女は眼の縁が赤らんでいた。

哀しんでいるようで憤っているようで・・・それでいて、自分の行動に説明がつかない、といったような様子だった。

 

「私はルイが良いと思った。家族になるなら・・・ルイが良いと思った。だから・・・だからこうする」

ヒカルはそれだけ言うと、ルイの胸の中に顔を埋めた。慙死に値するでも言うかのように。彼女は呼吸を顰めて彼の胸の中に収まる。

 

もう、茶色の髪しか、見えなかった。

ルイは溜息を漏らす。

彼女の表情は見えない。

彼の胸の中に、ヒカルが彼女の笑顔を埋めてしまったから。

 

ヒカルからはキスすることができない。彼女からはいつもキスをしない。

屈伏の証として捧げる以外には・・・彼女はルイに唇を寄せない。

彼女の愛する家族であるとルイを定めているから。彼女の運命の人はまだ、定まっていないから。ルイにしないと宣言しているかのようで・・・彼は苛立つ。漣立つ。

 

・・・・彼のように、激しい嵐をもたらす感情を、ルイに対して持つことができないと彼女が戸惑っているから。

 

・・・・年齢も近く、望んだ組み合わせであることには代わりがないのに。

 

彼女の細胞がもたらす希なる奇蹟と、彼女の実家が落とす福音について、医療業界で注目せず捨て置くような者はいないだろう。

 

それでも、ヒカルはルイに抗う。

それが・・・・激しく彼を憤らせるのに・・・意味もなくヒカルに唇を落とす衝動に変わる。

 



■11

 

それは他愛のない稚拙な口付けであったのに、ルイの身体に何か・・・・表現しがたい何かが駆けていくのを感じ、彼は青灰色の瞳を瞬かせた。

これが初めてということではないのに。

彼女の屈伏の口付けは誰よりも・・・甘い痺れを彼に注ぐ。

 

「意味のないキスはやめろ。不快だ」

今度は彼が言った。意味があるかどうかは問わない、と言ったのに。

しかしヒカルは彼の青灰色の瞳を見上げることはせずに、ルイの胸の中で首を横に振った。

彼女の肩は震えていた。

 

・・・・彼女の心音が伝わってくる。それに共鳴して彼の心音が少し加速していることを・・・ヒカルにわからないはずはなかった。だから彼は言葉を発してその音を消し去ろうとした。

彼女にわからないように。

 

彼は溜息を漏らした。このままで居れば、自分が次にどう出るのかは予測がついた。

・・・・己のことであるのに、彼は自分の行動を予測するしかできない。

・・・・自在に操ることが出来ない。ヒカル・クロスに関する行為だけは。

だから・・・・唇を奪い、彼女を傷つけることをやめたりしない。

 

「ヒカル。せいぜい、後悔するがいい。

そして苦悶にまみれて、生きていることが辛いと思うくらいに・・・己を歎くがいい」

 

彼のこの言葉で、彼女は涙を落とすだろうと思った。

彼女に、はやくこの場所から立ち去って欲しかった。

煩わしい思いを浮かべる彼を、ヒカルが憐れむことが何より彼を苛立たせるから。

 

「ルイ。私は後悔しない」

彼女はそう言った。茶色のくせの強い髪から漏れる小さな耳は、深紅に染まっていた。

彼女が自ら唇を寄せるという行為をする相手はただ一人しか居ない。

まだ、彼女はルイの唇しか知らない。

今のところは。

 

「後悔しろよ」

ルイがそう囁く。

ふたりは遠目で見れば、愛を誓い合って寄り添う、互いに愛し合う者たちのように思えるのに。

彼女はまた、首を横に振った。

ルイは金の髪を屈めて・・・ヒカルの耳元で囁く。甘い囁きではなく、残酷な宣言だった。

「オレはお前を愛さない」

「それでも・・・良い」

ヒカルがそう言ったのでルイはぐっと唇を噛んだ。

どうしても屈伏しない永遠の晄は・・・どうしたらその晄の勢いを弱めるのだろうか。

誰からも愛されたくて、愛が欲しいと叫ぶのに。彼女はルイの愛は必要ではないと言う。

「私がルイのことを愛しているから。ルイの分まで」

そこで彼が身体を離した。

 

彼女は残酷だ。

 

・・・ヒカルに告げずに、音にしないで彼は彼女に言った。

心の中で。

唇を動かすことすらしなかった。

 

ヒカルが言うところの「愛している」という言葉は、彼が捧げることを彼女に求める種類の愛ではなかった。家族のように。兄のように。妹のように。・・・彼女はルイを愛すると言うのだ。

本当の愛を知らない彼女の唇から漏れるささめきは、ルイにとっては彼の機嫌を損ねないようにするためだけにヒカルが考え出した単なる・・・まじない文句でしかない。

 

彼女はアルディ邸で待つ。彼のように彼女を迎えに出向いたりしない。

ルイが来てくれれば良いのに、という消極的な行動しか彼女は考えつかない。

いや・・・・ルイに愛を求める他の者たちのように、彼女はルイに向かって寄り添わない。

身体はこうして体温を感じるほどに重ねているというのに。それなのに、彼女の心は遠くにある。

 

「後悔しないよ。・・ルイ」

彼が繰り返すことを嫌うことを知っているのに。彼女は繰り返した。

・・・足元に散った薔薇の花瓣が乱れて・・・彼と彼女の足に乗ったが、彼らはそれを意識していなかった。

ただ・・・互いの声様に注意を傾けていたから。

 

ヒカルがルイの胸の中で、軽く拳を握って顔を埋める。その温かさも柔らかさも彼のものにするとルイは言い、そしてヒカルは自分の願いを手に入れるためにそれを承諾したというのに。

彼女は、彼の腕の中からすり抜けて行く。

いつも、いつも、いつも・・・・

 

「・・・・ルイ!」

 

ヒカルの顎を掴んだ。

強引に上を向かせ、彼は・・・彼女に唇を落とす。

胸の中で彼女の拳がぎゅっと強く握られたが、その手首を彼は強く掴んだ。

 

「・・・・・・っ!」

 

彼女が驚愕したのは、それが・・・・いつもの奪うような強引なキスではなく、それが・・・とても静かで彼の唇の震えがわかるほどに軽く、それでいて脆いという以外に言葉で表現できないほどに短い口吻であったから。

薄い唇が彼女に触れる。

そして溜息が出るほどに艶めかしくそれでいて切ない・・・吐息の混じったキスを彼女に落とした。

 

一度だけ。

決してそれは巡らなかった。

繰り返されなかった。

 

彼女の額に、ルイの金の髪がかかった。彼は強く瞳を閉じていたので、表情がわからなかったが、眉根を寄せて・・・そして精悍な頬を傾けて彼女の頬に強く押しつけていた。それなのに、その口吻だけは、泡のように雪のように・・・・星の瞬く瞬間ほどに短く優しく、それでいて・・・もの悲しかった。

 

金の波が彼女の額から引いて・・・絡められていた腕の力が抜け、ヒカルは一瞬、何が行われていたのかさえ理解できないように、呆然としていた。

ただ、唇に残された感触だけが・・・彼女を硬直させて、身体を引いたルイ・ドゥ・アルディの姿を凝視するだけしかヒカルに許可しなかった。



■12

 

ヒカル・クロスは須臾の口付けというものを知らなかった。

彼女は数多あるこの世の接吻をすべて知っているわけではない。

信愛の情を表現することはできたが、愛を・・・表現することができなかった。

彼女は本当の愛を知らない。愛をしていない。

皆に愛されることばかり願って・・ただ独り過ごす嘆きの夜や悶えに嫌悪する瞬間を知らない。

たったひとりの人だけに愛されたいという強い願望を持っていないから。

 

だから、その口付けの意味が理解できなかった。

酷く驚いた顔をして、ただ立ち尽くしているだけの彼女に向かって、ルイは冷笑した。

艶やかな、溜め息が出るほど美しい表情であったが、誰も近寄らせないと決めていた表情だった。彼の青灰色の瞳の奥をのぞき込めることができる人物はいない。

目の前のたったひとりを除いては。

しかしその唯一の人は、それに気がつかない。

意味がわかっていないからだ。

 

「ルイ?」

「余興は終わりだ、ヒカル」

ルイは短くそう言って、彼女と距離を置いた。

 

そして・・・腕を持ち上げて、大きな手の平に滲む血を、その酷薄そうな唇にあてた。

同じ薔薇の棘で疵を共有した。

同じ痛みを共有した。

これには、意味がないと彼女は言う。

彼の口付けには意味がないと彼女は言う。

 

そして斜めに彼女を見つめると、彼女は少し口ごもって顔を朱くした。

しかし、なぜ自分が赤面したのか理解できていないようだった。

彼女は・・・・ルイの仕草に戸惑ったというのに。

彼の妖艶と言うには足りないほどの、彼女を捉えるほどに甘い誘惑の視線をヒカルは受け止めたというのに、それを意識していなかった。

 

彼女は愛を知らないから。

誰かを独り占めしたいという気持ちを持たないから。

だから、彼の視線の意味が理解できない。

 

しかし・・・・

 

彼は、ゆっくりと、目の前の茶色の髪の茶色の瞳の娘を眺める。

意味のない行為を咎めるのに。

意味のある行為の意味がわからない。

そんな愚かな娘に・・・彼は言葉を用いずに、囁いたのに。

どうしたら、届くのだろうか。

何をしたら、何を言ったら、彼女はそれに意味を持たせるのだろうか。

 

長い時間を待った。

長い時間を眺めた。

 

そしてまだそれは続くのかと思うと・・・彼は胸が苦しくなり、眩暈がした。

 

「ヒカル、apopheniaだ」

 

彼はそう言うと、彼女を見下ろした。

少し声が掠れていたが、なぜそうなのか、彼女は察知できなかった。

すでに、その時のルイは無表情で、冷たい翳りだけが、彼の頬に存在していた。

 

「apophenia」

ヒカルが復唱して発音した。しかし意味がわからないらしかった。

僅かに首を傾げて・・・彼の発した言葉が命令なのか、彼女を侮蔑する言葉のかさえわかっていなかった。

「ルイ、意味がわからない」

ヒカルが素直にそう言うと、彼はあからさまに嫌悪の溜め息を漏らしたので、ヒカルの顔が曇った。ルイの能力には誰も及ぶことができない。彼は普段それを誇ることはなかったが、このように会話が継続できないとき、その理由が知能の差であることを知ると、とたんに不機嫌になった。

 

同じ空を見ても、同じ薔薇を見ても・・・・彼はきっと、ヒカルの感じるものや見ている色と違うものを感じているのだろうということだけはわかった。

 

「無作為或いは無意味な情報の中より規則性や関連性を見出す知覚作用」

ルイがそう言ったが、彼女の感想は求めなかった。

彼は踵を返して、ヒカルに背中を向けた。

「ルイ」

話がまだ終わっていなかった。ヒカルは慌てて彼の名前を呼ぶ。

どうして、彼はいつも彼女に謎かけばかりするのだろう。

ヒカルになぜ、apopheniaと言うのだろう。

彼女は困惑した面持ちで、もう一度、眩しいほどに輝く金の髪の人に声をかけた。

「私に、その意味を探せということなの?」

「どうかな」

ルイが曖昧な回答をしたので、滅多にないことにヒカルが驚愕して目を見開いた。

彼は変化を嫌う。特に自分の周りのことには。

発言であったり、生活様式であったりそれは様々な場面で表出していたが、特に、彼は曖昧な会話を好まなかった。

会話や意思伝達に関しては、曖昧な揺らぎというものは無駄であると思っているところがあった。

 

甘い香りで彼を誘う彼女の唇が、濡れていた。

茶色の瞳はまっすぐにルイに注がれている。

それほど懸命に見つめられて・・・何も感じない者ばかりだと彼女は信じて疑わない。

そんな視線を、他の見知らぬ者に向けようものなら、即座に彼女の視力を奪ってしまおうと思うくらいに、彼女は少女から大人に休息せずに変化していこうとしている最中だった。

 

・・・惑わせる目交ぜを配っているのは、彼女の方であるのに。

まったく・・・何もわかっていない。

彼は溜め息を漏らした。

 

「意味をよく考えると良いよ、ヒカル」

彼はそれだけを言うと、別棟に戻る、と言った。



■13

 

「待って」

彼女は言った。

背中を向けたルイ・ドゥ・アルディに向かって、ヒカルは言葉をかける。

彼女はいつも・・・去ってしまう者を追うことはしなかった。

しかし、なぜだか、どういうわけか・・・・ルイの背中を見たときに、その感覚をどこかで味わったような気がした。

自分ではない誰かが・・・かつて、ルイに良く似た人の背中を見送ったような・・・

そんな既視感と言い表すには曖昧であるがはっきりとした感覚が、彼女を襲った。

 

思わず腕を伸ばし・・・虚空しか掴まない彼女の指の先に、ルイはいた。

すでに二人の距離は開いていた。

「ルイ・・・!」

彼の金の髪に叫ぶ。

悲鳴にも似た声で。

しかしその声は押し殺した最低限の音量だった。

彼の背中をいつも見てきた。

そして・・・いつも彼は振り向かない。

振り向かないのに、彼は立ち止まった。

・・・彼はゆっくりと空を仰いでいた。

大きく溜め息をついていたのがわかる。

両方の肩が大きく隆起したからだ。

 

彼女は彼の背に向かって再び彼の名前を呼んだ。何度呼んでも、彼は決してヒカルにこたえを教えない。

apopheniaという言葉に対するヒカルの回答を待っているのだとわかった。

そしてそれを間違えれば・・・彼は彼女を許さないのだろうと思った。

ヒカルのことをルイは贖罪の娘だと言う。

何に対して贖罪するのか、彼女はまだわからなかった。

ルイの実父が彼を顧みないことについて指しているのだろうと思ったが、彼女はルイがもっと違うことを指し示しているような気がしていた。

だが、それを尋ねても、彼は決して応えない。

 

声をかけても、彼は振り向かない。

それなら・・・それなら。

ヒカルの躰が動いた。

先ほどの、引き寄せられた時には戸惑ったのに。今度は・・・自分から、彼の背中に向かって行った。

彼は完璧だ。

彼女がその先にどうするのかも気配で察知することも困難ではないはずだった。

 

日本のパーティーで、彼女が躓いて躰を傾斜させたとき。

彼は黙って立ち止まり、彼女を支えた。

だから、まったく無視しているわけではない。

しかし計算高くなれなかった。ただ、躰が動く。彼の背中を見送ってはいけないのだと誰かがヒカルに告げるのだ。そして、彼女の背中を誰かが・・・押すような感覚を味わって、ヒカルは一歩を踏み出した。

 

彼の背中にヒカルは寄り添った。

薔薇の棘が彼女の手の平を傷つけたままだったが、それでも彼女はルイがそこから逃れて行かないように、両手を回してぎゅっと彼の衣を握った。

棘により痛みは感じない。

それより・・・胸が痛かった。

彼が訴えようとしていることが何であるのか、ヒカルはわからないのだ。

それは何?と彼に尋ねることが、彼の誇りを傷つけることだということだけはわかっていた。

 

「まだ話は終わっていない」

「・・・ヒカル、オレはもう何も話すことはない」

彼は立ち止まったまま、静かに冷たくそう言った。

素っ気ない口調で、まったく興味がないという口ぶりだった。

それなのに・・・・ルイは大きく深呼吸をしている。

その波に、彼女は乗った。彼の背中の動きに合わせて、ヒカルの躰も隆起する。

温度を感じ、溜め息が聞こえ、そして何より・・・ルイは彼女を振り払わない。

それなのに・・・

なぜ、なぜ、通じ合うことが出来ないのだろう。

 

これほど、一緒に居るのに。

これほど、長い時間を一緒に居るのに。

 

ヒカルは茶色の瞳を閉じた。

「待って・・・意味を考えているのだから」

「それは自分の部屋で考えろ」

彼がまたそう言い放ったので、ヒカルはルイの広い背中の上で、首を横に振った。

顔を擦りつけると、ルイの香りがした。・・・ここにはない薔薇の香りがした。

「私はルイと考えたいよ。・・・・意味がないと言うルイの問いに、私は意味があるのだと答えたいから」

彼女がルイに、誰も見ていないのにキスをすることは意味がない、と言った言葉を指していた。それに意味がないとヒカルは言ったが、彼は意味のある・・・意味を含んだキスをヒカルに落とした。

なぜなのだろう。

なぜ・・・彼はあんなに優しい壊れそうなほどに儚いキスを、自分に振らせたのだろう。

奪ったり攫ったりすることしかしない、と彼はいつも言うのに。

 

「意味のないことに意味を付す・・・か。くだらないな」

ルイが冷笑した。

 



■14

 

「私には意味があることだよ、ルイ」

彼女の声が彼の背に伝わってきた。

ルイ・ドゥ・アルディは溜め息を漏らした。

このままこうしていれば・・・ルイは彼女を自分の別棟に連れて行き、そしてそのまま彼女を部屋から出さないための手順を踏むつもりであった。

彼女を出られなくすることは簡単だった。

しかし、それでは意味がない。

あの男はそれでは苦しまない。

たとえヒカルを傷つけても、自分なら癒すことができると傲慢に言い放つだけだろう。

 

「私は・・・ルイと一緒に居ると言ったから。

私が選んだことだから。

・・・だから私には私の理由がある」

ヒカルはルイに囁く。

「オレにもオレの・・・理由がある」

ルイは彼女から離れようとしたが、彼女は腕の力を抜かなかった。

ふりほどいてしまえば簡単だったのに。

ルイは・・・彼女の白い腕から逃れることはしなかった。

どういうわけか・・・足が動かなかった。

動いてはいけない、と彼の筋肉への緊張を命じる何かが彼の中で蠢いていた。

 

「ルイ。ひとりで理由を探さないで」

 

彼女は囁いた。低く、小さく。そして祈るように静かに。

ルイの背中が動いた。

彼女の声量が乏しいので、言葉の意味がわからかったわけではなかった。

 

届いていた。

その言葉は、ルイに届いており、彼の背中越しに、ルイの中に浸透していく。

 

なぜ、互いの孤独を受け入れることが出来ないのだろう。

なぜ、彼女は自分に寄り添うことを躊躇わないのだろう。

 

これほど傷つけているのに。

これほど寄ってはいけないと言っているのに。

 

・・・この人は、なぜ、自分の思い通りにいかないのだろうか。

 

己には自分だけの理由があると言った。

そしてヒカルにも理由があった。

だから、利害関係が一致した婚約であるし、それはヒカルが持ち出したことであるというのに。

ルイはこうしていつも確認しないと満たされない。

いや、今この瞬間でさえ、彼は渇望し、冀求し、そしてそれらが決して結願しない。

どこまで堕ちれば・・・彼女の言葉に吸い込まれそうになる自分を排除することができるのだろうか。

 

手に入ったと思ったのに、彼女は手に入らない。

思い通りに動かせると思ったのに、彼女は彼の思い通りに行動しない。

彼一人だけを見つめることはしない。その先に、誰を見ているのかは明白だった。

自分と良く似た顔立ちの、あの男を見ているのだと思うと、彼は彼女を無性に傷つけたくなる。

茶色の羽をもいで、そしてそこから流れる血を大地に捧げれば、彼女は新しく自分だけを見つめるようになるのだろうか。

贖罪の娘の流す涙や血は・・・決して彼を満たすことはなく、何かを滾らせる。

 

彼はルイ・ドゥ・アルディなのに。

それが何であるのか、はっきりと定めることができなかった。

彼の中では、定めることができないものは意味がないものと同義だ。

それなのに・・・その定まらない何かが自分の中で失われていくことを止めようとしている自分が居た。

これは彼の中の不要な遺伝子なのかもしれなかった。何もかも精査されて生まれて来たはずなのに。

彼の中では・・・ルイ・ドゥ・アルディとして認めることができない炎のように熱い何かが確実に存在していた。

 

見極めには、もう少し時間が必要だった。

 

「自惚れるな」

ルイは短く吐き捨てた。

大きな溜め息をつく。それはルイが彼女に失望した溜め息だとヒカルは受け取ったらしい。

彼の期待通りのこたえは出せなかった。

彼女はそう思ったようだった。

回された腕からゆっくりと力が抜けて・・・やがて、彼から彼女は離れて少し距離を置いた。

ルイの背中に、温度の低い風が流れる。いや、違う。

彼女の体温が離れたからそう感じるだけなのだ。

 

それが一瞬・・・彼の背中を刺すように、刺激した。

そこにあったものが急に消えてなくなってしまうことに、ルイはいつも関心がなかった。

 

しかし今は、温もりが去ったことに身体が反応した。

なぜなのか。

理由を考えても無駄だと思った。

・・・そこには理由がないという理由しかなかったから。

 

「ごめんなさい。踏み込み過ぎた」

彼女がルイの背中で小さくそう言った。そして謝罪した。

彼は振り返らなかった。

「ルイにはルイの理由がある。それを無視した」

ヒカルの声は少し湿った声だった。彼女は他者のことでは容易に涙を流す。

自分の事でもないのに。ヒカルは自己のためには涙を流さない。それが彼女の誇りなのだ。

だからどんなに傷つけても決して涙を流さない。

それなのに、彼女はルイに踏み込み過ぎたと言って、哀しい声を漏らす。

それが彼をどれほど狂わせるのか、知っているかのように。

 

もっと、ずっと、深いところまで堕ちて行けば良いのに。

 

それは彼女のことなのだろうか。

それは自分のことなのだろうか。

 

彼は深く思考の淵を自ら望んで、深く入り込み、耽っていた。

背中に彼女の溜め涙(※涙を浮かべること)を感じながら。



■15

 

「・・・ヒカルが決めることではない」

ルイはヒカルに背中を向けながらそう言った。

素っ気なくとても無愛想に言った。

振り返って、ヒカルの涙を浮かべた顔を見てしまえば、彼はまた彼女を傷つけるだろう。

それでは繰り返すだけだ。

彼は反復を好まなかった。

 

「オレの何にヒカルが踏み込んだのか?踏み込めるほど、同等だと思っているのか?

それ自体が愚かしい妄想だと、いつになったら気がつくのか・・・」

ルイは首を振った。

ヒカルが、息を呑んで、声を引き入れるようにした嘆きの呼気の音を彼は聞いた。

けれども、それでも振り返らない。

 

「いい加減に、自分と対等だと思うことはやめろ。オレとヒカルは違う。違うからこそ求める理由が違う。意味も違う。そして婚約することは、利害が一致しているからだ」

彼はそう言って、唇を噛んだ。

自分の言葉にそのように反応した。

どんな理由であれ、意味であれ、ヒカルはルイと共にしかこの先・・生きられない。

もう一つの選択もあった。

彼女がシャルルかミシェルか・・アルディ家の誰かの元に嫁ぐことも可能性としてあった。

しかしそれは赦さない。

彼自身が。ルイ・ドゥ・アルディが全力をもって阻止するべき事項だと思っていた。

彼女が希なる宝を持ち合わせていることは、少数の者しか知らない。

そこからもたらされる巨万の富についてのみ、得ようとすれば彼女はその恩恵を与える行為を拒否するだろう。

だから提供せざるを得ない状況にするしかない。しかしそれを遂行するのはルイ・ドゥ・アルディであり、その他の誰にも譲るつもりはなかった。

この世の理を覆すような軌跡を持って生まれて来た乙女は、彼と同じ作られた生命で、そしてそれでいて、自分の生命について意味を持たせようと足掻いている。

 

愚かな娘だ、と思った。

それなのに。

 

ルイは、物憂げな青灰色の瞳を彼女に向けることなく、自分の手の平に落とした。

 

同じ疵ができて、ルイはどこか安堵していた。

同じ痛みを味わって、彼は安らいだ。

 

しかし彼と彼女は同じではない。

同じ過程で生まれたのに、同じではない。

 

それを何度も繰り返し、彼は繰り返さないのに、重複して教え諭しても彼女はその半分も耳に入れていない。

愚かしい贖罪の娘を自分の妻としなければならない。

 

そう。

そうしなければならない。

 

ルイはそこでふと、唇を歪めて嗤った。

彼女を配偶者として迎えることは、一体、誰が決めたことなのだろうか。

彼の教育係のミシェルか・・・?それとも、実父とされているシャルルか・・・それとも親族会か。

 

どれも違っていた。

彼は忘れない。

自分の記憶の鎖を途切れさせたことはなかった。

ヒカル・クロスを自分の妻にし、シャルルの後継となりて彼を地獄の業火で焼き尽くすと言い出したのは、他でもないルイ・ドゥ・アルディ自身であったのに。

 

ヒカルも業火で焼かれれば良いのに、と想いながら彼女と口付けを交わす。

 

・・・一体、自分の導き出したこたえは、ヒカルを苦しめるためにあるのか、それとも・・・自分を貶めるためにあるのか・・・どちらなのだろうか、と思った。

彼はわからないことはないし、調べれば大抵のことは身についた。

それなのに、ヒカル・クロスのことになると、反復し、そして彼女を酷く蔑みたくなる。

まったく意味のない感情であり、それはルイ・ドゥ・アルディが長らく厭ってきた不要な感情であるというのに。

ヒカルは、ルイに不要なものばかりを与える。

彼は何も生み出すことができないから、何かを奪うことしかできないと宣言したのに。

なぜ・・・彼女はルイに与えるのだろうか。

彼には意味のないそれらを惜しみなく。



■16

 

「話は終わりだ」

彼は宣言した。

 

これ以上話しても結論は出ない。

他に・・・もっと考えるべき事が彼には山積している。

それを無視して彼女と、つまらない問答を繰り返すつもりはなかった。

戯れの恋なら、それに興じれば良いのに。

愚かではあるが、不真面目ではない娘は、ルイの言葉について深く考えようとしているが、ルイと同じ速度と解釈でその意味を考えることができない。

それはヒカルだけではなく、たいていの人間がそうであった。

彼の思考を読み取り、そして先回りすることができる人間は限られている。

彼の実父と教育係である叔父だけだった。

 

だからヒカルがルイを理解できないのは、苛立つ理由にならない。

 

もう、何度も経験したことだった。

 

それなのに・・・ルイは、ヒカルが彼を理解しないことについて、苛立つ。

そして、彼女が『踏み込み過ぎた』と言って一歩引こうとすると、それを嘲る。

まるで彼が彼女を引き留めようとするかのように。

 

何を想い、何を伝えようとしているのか、ヒカルにはわからない。

それなのに、彼女は根拠も論拠も越えて、ルイの中核に迫ってくる。

予告もなく、突然に。

 

彼と同じように薔薇で傷ついた手の平を、彼の身体に巻き付ける。

そして、彼と共に在りたいと言う。

何を意味しているのか、理解していないのに。

 

「ルイ・・・」

掠れた声で、ヒカルの声が響いた。

彼女はまだ若いので、その声は少女特有の高い音程をもって、ルイの耳に届く。

彼が聞いていることを前提で。

いや、聞いていなくてもヒカルは彼に囁いた。

 

彼女の意味について。

彼女の持つ意味について。

 

「もう何も言わない。もう踏み込まない。でも・・・・。でも、これだけ伝わって欲しいと思う」

ヒカルはそう言って、ルイの背中に向かって言った。

また触れれば、拒絶されるのかもしれないと思いながら。

 

他者から拒否され否定されることほど、ヒカル・クロスにとって辛いことはないはずだった。

それなのに、それを前提で彼女はルイに囁く。

ヒカルは言った。

躊躇いながら、間を置いて。

 

「・・・・・私は家族が欲しい。ルイ。だから家族になって欲しい」

 

彼は大きな溜め息をついた。

そこでゆっくりと、ヒカルに向き直る。

彼女が少し驚いた顔をしていた。

 

茶色の瞳の、茶色の髪の娘は、金の髪の青灰色のルイを見つめていた。

どこにも目線を逸らすことはなかった。

背に感じていたヒカルの声も視線も、ルイだけに注がれていた。

 

どうして・・・それを確認することによって、ルイはまた吐息を漏らすのだろうか。

 

これは安堵からくるものなのか。

それとも・・・

 

彼は振り返ったが、決して彼女に近寄らなかった。

この距離を、ヒカルが惜しいと思い、彼女から寄り添わなければ意味がない。

 

・・・初めて、彼女が何かを欲しいと言った。

 

彼女は、アルディ家に滞在するようになってから、ねだり事はほとんどしなかった。

この家の財力や環境から言っても、それは特段特別な事でもないし、何かに影響するわけでもなかった。

こどもの願いなどは微々たるものだ。

それに、ルイの実父は、ヒカルをこよなく愛していたので、そのくらいの失費に関して何か口を差し挟むことはないとわかっていたはずなのに。

この家のこどもではない、という気兼ねが彼女の願いを絶やしていた。

ルイがその若さで、様々に・・己への投資を重ねているのに、ヒカルはつましく生きるということを邁進することで、自分の存在を主張しているかのようだった。



■17

 

ヒカルの顔は、ルイ・ドゥ・アルディが今まで観たことのない顔つきだった。

その時の彼女の容貌を一言で表現するには適切な言葉がなかった。

少女のようでそうでなかった。

老成しているようでまったく無防備だった。

 

唇を軽く噛み、ルイをまっすぐに見据えていた。

それでいて、彼女は自分が今何を言っているのか理解しているようであり、そうではないと言っても良いようだった。

ヒカルは、自分の言葉が、自分の内から発せられたものであるということについて少しばかり驚愕していた。

 

彼はそんなヒカルの戸惑う姿を見て、冷ら笑いを浮かべた。

 

「ヒカル。本当のことを言うときの君は・・・悪くないよ」

そしてルイは話は終わりだ、と切り上げたのに、興味深そうに彼女に言った。

しかし身体を僅かに向けただけで、やや斜め上から青灰色の物憂げな瞳でヒカルを見下ろすルイはあくまでも冷たかった。

しかし、それまでの無関心や苛立ちを交えた視線とは少し様子が違っていた。

 

そしてしばらくの間、ヒカルを黙って見つめたままであった。

ヒカルもルイを見つめていた。

 

・・・・同じ薔薇で傷を負った者同士が見つめ合っていた。

同じ薔薇の苑で育ち、そして一緒に生きていこうと約束したのに幸せになろうという希望や喜びを語り逢うことは決してなかった彼と彼女は、そのまましばらく沈黙していたが、ヒカルの掠れた声によって、その静寂は破られた。

 

「私は・・・私は・・・」

 

ヒカルが言葉を続けることができなかった。

ルイはその言葉の先を待っているというのに。

彼が誰かの言葉を待つことはほとんどないことだった。

次の言葉を考えるような時間を相手に求めたことはない。

短い会話の往来で用事が済んでしまうルイ・ドゥ・アルディには、誰かの言葉を待ってやるという時間を持つ必要がなかった。

相手がその言葉を発するために要する時間の間に、彼は何往復も先の会話を想定することができ、そして相手が相応しいと自分で思う言葉を発する時には、すでに彼は相手との対話は終了したと見なしている。

「言えよ、ヒカル。何度も言えよ。欲しいものがある・・・・と」

彼は言った。

躊躇っているヒカルの言葉を続けた。

 

「家族が欲しいからオレを利用したい、と。

自分の存在を確立したいから、アルディ家の者と婚姻したいと。

・・・飾った言葉で隠しても、無駄だ」

彼は辛辣に続けた。

ルイがこれほど長く言葉を続けることはとても珍しいことだった。

 

しかしその声の奥に秘められた彼の願いは、彼自身にも気付かれることはなかった。

 

・・・・彼女が欲しいのは家族ではなく、ヒカルのためだけの安らぎではなく、ルイが欲しい・・・と。

 

彼女に、ルイ・ドゥ・アルディが欲しいと言わせたいがために、彼は普段待つことはしないのに、彼女の言葉を待っているのだ、とルイ・ドゥ・アルディは決して告げることはなかった。

それを発してしまえば、彼はヒカルと同じように、何かが欲しいとねだる卑しい者に堕ちてしまうからだ。

少なくとも、今のルイ・ドゥ・アルディはそのように認識していた。



■18

 

ルイ・ドゥ・アルディが彼女を見たとき。

ヒカル・クロスは戸惑った顔を隠そうとしていなかった。

 

隠す方法を知らないらしい。

 

いつも自分の本心を隠すことばかりに執着していた彼女は、自分の思わぬ内からの声についてどう対処して良いのかわからないといった様子であった。

ルイ・ドゥ・アルディはすでにこの場を離れることを発言していたので、そのまままた彼女に背中を向けた。彼女の言葉を吐き出させてやろうとはしなかった。

言えとルイが間を持った瞬間に行動に移すことができない人間は、いつまで待ったとしても、彼が用意してやった路に乗ることはできないと知っていたからだ。

 

愛はやらないが、ヒカルの望むものをやろう、と彼は契約したのに。

だからヒカルは望むものを口にすることができる。

ルイはそれを叶えてやることができる。

そう契約したからだ。

それなのに。

なぜ、その契約に対してヒカルが疑いや躊躇いを持つのか、ルイには理解できなかった。

理解する努力はしなかった。

理解したら終わりだ、と思っていたからだ。

 

まったく、くだらない問答に時間を費やしてしまった。

そう思った。

彼は少し不機嫌になった。

意味はなかったが。

 

「ルイ・・・ルイ」

彼女はただ、困惑気味に彼の名前を呼んだが、彼はそのままゆっくりと歩き出した。

これをあと何回繰り返せば、彼女は彼の胸の中から飛び立とうとすることを諦めるのだろうか。

困ったように彼のキスを受けとめる仕草から、自ら進んで彼の激しい嵐を得たいとルイに希うようになるのだろうか。

彼は星辰の子と呼ばれて、皆が彼に引き寄せられるというのに。

ヒカルだけは彼に屈しない。

こうして辱められても、彼女はそれでも生き抜くことを選ぶ。

あのフランスの華は、彼女を彼の運命の人と同じような気質を伸ばし育てて、その先に何があると考えて居るのだろうか。

 

「ヒカル。考えがまとまったら、いつでも聞いてやる。ヒカルのさもしい願いを、ね。

しかし、それはひとりで導き出さなければならない」

彼は素っ気ない口調でそう言うと、軽く首を振った。

これ以上この薔薇園にいれば、苑全部の薔薇を滅してしまいそうになる。

ヒカルという名前の薔薇も含めて、すべてを。

 

彼には創造したいという欲求はほとんど芽生えない。

必要に迫られて、何かを発案したり提案したりすることもあるし、場合によっては創り出すこともあるが、シャルルのように、意味もなく薔薇の品種改良をし続けることはしない。

どちらかと言えば、破壊したい、決して覆すことのない何かを大きく変更したいという衝動だけは強く表出することがあった。

それは決まって、ヒカルと意味のない問答をした後に訪れた。

 

ヒカルのように・・・・誰かと何かを為し遂げたいと思うことのない彼に、ヒカルが無駄にいつもいつも依存するような言葉を発することに苛立つからであった。

それなのに、その言葉を聞いてやらなければならない。

これもまた大変な苦痛であったが、彼はそれを顔に出すことはしなかった。

彼女はルイがそれを改めろ、と言っても。

それでも、態度を改めることはしないからだ。

成果の出ない接触はしない主義だ。

 

彼にはやるべきことが山積していた。

別棟に戻って彼のサーバにアクセスすれば、また、彼の判断を求めるたくさんの案件について転送されてきたメールが届いていることだろう。

最近では要件のみを書き記せと指示しているのにも関わらず、前置きや結句の言葉が、彼の決めた文字数を超えるものについては最初から読まないことにしていた。

それほどまでに、そぎ落とした彼の生活や時間の中で、唯一、ヒカル・クロスだけが変化しなかった。

 

「ルイに何かをして欲しいわけじゃない」

ヒカルはぽつりと言った。

彼は返事をしなかった。

この空の下で、地面に落ちた薔薇の香りが風に乗って立ち上ってきた。

たいていの薔薇は香りが強くなった時が最高の時で、それ移行はただ萎れるだけだった。

だからこの花瓣たちもそろそろ役目を終えて、土に還ろうとする。

それなのに、ヒカルはそれを無視して、拾い上げ、そしてまたルイのためだと言って、生命の理を無視して生き存えさせようとする。

まるで、彼女の母親のように残酷な少女は、自分の行動の意味を考えず、ただただ徒に命を弄ぶ。

最高の状態の薔薇を摘み取るとは、そう言うことなのだ。



■19

 

次に彼の背後から、地面を蹴る音がした。ヒカルが彼の前に回り込んだのだ。

茶色の瞳と茶色の髪の少女が、ルイの目の前に立ち、そして彼の典麗な顔を見上げた。

臆さずに、恋人同士よりも少し離れているがきょうだいよりももっと近い距離で、彼と彼女は対峙した。

なぜ、踏み込み過ぎたと言いながら、彼女はこうしてまた傍近く寄るのだろうか。

そして腕を伸ばし、彼の両腕の上に、そっと手の平を添えた。

無表情のルイからは何ら感情が読み取れなかった。

けれども、ヒカルはそんな彼の顔を覗き込みながら、言葉を選ぶこともせず、懸命に言った。

「ルイと一緒に考えたいの。どうしたら、一緒に薔薇を摘めるようになるのか・・・」

それは彼とヒカルとのことを言っているのではなく、あのフランスの華を交えた、集団生活を行えということなのだとルイは知っていた。

彼の望むものと、彼女の望むものは違う。

 

「だから、意味がないことでも意味があることでも、ルイと一緒に考えたいの。そのために、私はルイが必要なの。ルイが・・・ルイが・・・・」

彼女はそこで言葉を切った。

滑らかな頬が緊張のために赤くなっていた。

彼女の母親の面影が色濃く出てきた。

こんな思い詰めた表情をフランスの華にヒカルが向ければ・・・彼は夏であるかどうかは関係なく、また狂うのだろうな、とルイは思った。

 

そこで彼女は一度だけ下を向き、それから大きく息を吸って何かを決心したように、また顔を上げた。

見事な金の前髪の下で、青灰色の瞳が瞬きもせずに彼女を見つめて音声を聞き入れる時間はほんのわずかな瞬間であることは、ヒカルも承知していた。

ヒカルの瞳は濡れていた。

それは情欲の誘いの浸潤ではなく、悲壮な決断をした後の静寂さがあった。

 

彼女は囁くように言った。しかしはっきりと言った。

 

「私はルイが欲しい」

 

だが、彼女の声は次の瞬間に悲鳴に変わった。

もの凄い勢いで、ルイが、彼に触れていたヒカルの手をふりほどき、逆に彼女の腕を強く掴んで、広い胸の中に引き寄せたからだ。

足元の均衡を失って、ヒカルは踵を上げてルイ・ドゥ・アルディの胸の中に倒れ込んだ。

壊れそうだと思うくらい強く、激しい抱合にヒカルが声を漏らして抗おうとしたが、ルイ・ドゥ・アルディはそれを赦さなかった。

身動ぎすればするほど、彼は益々彼女を逃すまいとして力を入れる。

締め上げられたまま窒息するかと思い、眉根を寄せて唇を軽く開いた。呼吸が乱れて彼女はルイに助けを求めるが、ルイは彼女の首筋に顔を埋めて・・・まったく声を無視していた。

 

彼の怒りを誘ってしまったらしい、とヒカルは顔を歪めながらそう考えた。

「ルイ。ごめんなさい。もう・・・もう言わないから」

彼は彼自身をもの扱いされると大変に不機嫌になった。彼の生まれて来た経緯を知っているにも関わらず、ヒカルが思慮浅くそのような禁句を唱えてしまったことで、ルイ・ドゥ・アルディが激昂したのだと思った。

 

「ゆるして・・・・」

彼はそれでも、彼女をきつく抱き締め続けた。

それまでまったく冷静沈着であった彼が、これほど激しく憤りを表すのであれば、相当に激昂しているのだと思ったヒカルは何度も呻きを漏らしながら、ごめんなさいと謝罪した。

 

「ルイ・・・」

「黙れ」

しかしヒカルの謝罪は繰り返されることはなかった。

彼が怒気を含んだ声で黙止を命じると、いきなり・・・そう、いきなり彼は彼女の唇を塞いだのだ。

ルイとは幾度も口付けを交わした。

しかしそれはいつも奪うように強引で、滅ぼすように危険な口吻だった。

反対に、彼女からは触れるような擦るようなキスしかできなかった。

それなのに。

一体、このキスにはどんな意味があるのだろうか。先ほどの軽い柔らかいキスとも違っていた。

・・・彼の内なる激しさが迸るようで、それでいて・・・何かを伝えようとするように、ヒカルの胸が痛むほど深いくちづけだった。

呼吸が苦しくなっていることすら忘れてしまうような、忘我の極致に陥る程に甘く激しく切ないそれに、彼と彼女は包まれていた。

それでも彼女は気がつかなかった。

彼が怒って彼女の唇を貪っているのではなく・・・・彼女のごめんなさいという言葉によって・・・ヒカルが言った、ルイが欲しいという言葉が否定されることを遮ったことに気がついていなかった。

 

これは罰だと思ったヒカルは黙ってそのまま彼の咎を受け止めていた。

それがまたルイの激しさを増すことになっていくことにも、気がつかずに、ただ黙って、抗うことをやめ、少し哀しそうに彼の愛撫を受けていた。

このまま、呼気が停止してもルイがそれで怒りが収まるのであればそれも仕方のないことだ、とちらりと考えたが、それすら考えられなくなるほどに熱くて激しい彼からの懲を受け止めていた。



■20

 

謝罪は彼に惨烈を極める。

哀憐は彼を激昂させる。

よく知っているはずなのに、ヒカル・クロスは彼に対していつも・・いつもそういった情しか向けなかった。

だからこそ。

彼女の心の内の、仄暗い想いを吐露することは、彼が勝利したことを示す。

彼女を屈伏させることこそが、あのフランスの華を貶める唯一の手段であり過程であると知っていたルイは、彼女が清らかな聖女の仮面を剥がす時をじっと待っていた。

 

今。

その時が来た。

 

それなのに、彼は少しも歓喜で打ち震えることができない。

ますます・・・怒気が彼の端正な顔を曇らせた。

その瞬間のルイの表情は、彼の実父の若い頃の顔立ちに良く似ていた。

 

奪われる。奪うことしか知らないルイから、ヒカルは奪う。

 

冷静さも。

狡猾さも。

酷薄さも。

秩序さえも。

彼が持っているものを何もかもを奪う。

 

なぜなのか。

 

それは、彼女の中に眠る、フランスの華の定めたファム・ファタルの持つ因子が、ヒカル・クロスという依り代を使い、アルディ家の胤を惑わせるからなのか。

 

彼はいつも何かに対して問い続けている。

ヒカルに対して問うている。

それなのに、彼女はそれに気がつかない。

 

やがて、ルイが唇を話すと、彼女はそこで大きく息を吸った。

気管支から音が漏れる。

彼女の生命をここで奪うわけにはいかない。

彼女の躰は誰もが欲しがる希なる可能性を秘めている。

それはルイは持っていないものだ。

 

これは、アルディ家の悲願だった。

再生したい。

医師でありながら、今でも救えなかった命のことばかりを考え続け、そして誰も救おうとしなくなってしまったアルディ家当主は、その昔、そうではなかった。

医師を志したのも、病に陥った彼自身の母を救いたいがためだった。

しかし救えなかった。

もし、ヒカルがその時に誕生していれば、世界はもっと違っていただろう。

彼が執心するあの国への援助の方式も違っていただろうし、何より・・・これほどまでに寂莫としたアルディ家にはならなかったはずだった。

しかし、それではルイ・ドゥ・アルディは誕生していなかった。

 

それはアルディ家の願いでもあり、だからこそ、ヒカル・クロスはこの家に留まることを許可されていた。

彼女は、この世に奇蹟をもたらす希なる体質を持っている。

 

だから、当主は彼女を手放すことができない。

 

ルイは、それだけが理由ではないということもわかっていた。

ヒカルを通して、決して手に入れることができなかった幻の運命の人のその後を見守ろうとしている。

いつか・・・シャルルはヒカルを彼だけの永遠の晄にしてしまうだろう。

娘のような年齢の少女を彼はもう一度、運命の人と定めて、やり直そうとするのだろう。

 

それがシャルルの再生だからだ。

 

どうしてルイではなく、ヒカルを、シャルルはこよなく愛するのか。

その理由をヒカルはわかっているのに。

自分自身の魂は・・・この家の誰にも愛されることはないとわかっているのに、彼女はシャルルの傍らで微笑む。

ヒカルは自己を滅してシャルルの愛したあの人の代わりに傍に居る。

それを理由にしている。

 

それがルイを苛立たせる。

ヒカルとあの男との目に見えない絆がルイを阻害するからだ。

 



■21

 

眉根を寄せて、苦しそうに交わすこの契約の証が、どれほど彼を傷つけているのか彼女は理解できていなかった。

 

・・・・やがてゆっくりと唇を離すと、彼はヒカルから身体を離した。

ヒカルが彼の腕の中で、乱れた息を整えていた。

そして腕の力を抜くと、彼女の肩を押した。

ヒカルはその反動で、後ろに下がり、そしてまた困ったような泣きそうな顔をして、胸の前に腕を組んで、欠乏していた酸素を取り入れることに必死だった。

 

このままでは本当に理性を失いそうになると判断したからだ。

しかし、どうにかなりそうだ、と思ったとしても、彼はそれに耽るつもりはなかった。

彼はルイ・ドゥ・アルディだから。

 

彼は願ったものを手に入れる。

それが手に入るまで、時期を狙って待機することを知っている。

だからヒカルを手に入れる。

必ず。

何があっても。

ヒカルが誰を愛していても関係ない。

ヒカルがルイとの婚姻を望んでいなくても、彼には影響しない。

ただ、彼女をシャルルから取り上げて、深い絶望をもう一度味わわせ、そしてしがみついている当主の座から落とすことだけを思い描いて行動しているに過ぎない。

これもその計画の一環だ。

 

彼は首を振った。

数秒前まで考えていたことと、これまで彼がひとり抱えてきた考えが相反するのにルイの中で混在するからだ。

誰も見ていなければ意味がないと傲然と言い放ちながら、何度もヒカルに顔を傾ける。

決して愛してやらないと彼女に言いながら、彼女を腕に抱く。

他の男のために摘んだ薔薇はいらないと彼女の腕からそれをたたき落とす。

本当はルイのために摘んだのだ、と聞けば、彼は意味のないことはするなと言って彼女の行動を否定するのに、墜ちた薔薇を拾い上げようとしたヒカルが彼と同じ傷を持つことを悦ぶ。

 

息ができないほど苦しいのはヒカルだけではない。

ルイも・・・・苦しい。

 

彼女は乱れた呼吸のまま、ルイに言った。

「ルイ・・・行かないで」

しかし彼は首を振った。

「断る」

そう言って、手の甲で整った唇を拭うと、冷たい青灰色の瞳でヒカルを見た。

「ヒカル。ヒカルが消えないのなら、オレが行くしかないだろう」

彼女は哀しそうに言った。

「ルイ。私、今日はルイと食事ができると楽しみにしているの。本当よ」

「本当にそう思う時にはそういう言い方はしないものだよ、ヒカル」

彼は傲然と言うと、彼女の脇をすり抜けて、今度こそ本当に別棟に入っていってしまった。

 

それ以上は声をかけられなかった。

 

ヒカルは黙って、ルイの背中を見詰め続けていた。

このまま、触れたらいけない、と思った。

踏み込み過ぎた時には、どうやって修復したら良いのか、彼女はわらかなかった。

そこまで近い場所に触れる相手が、彼女にはほとんど居ないからだ。

触れれば、皆、彼女のことを哀れむばかりであることを知るからだ。

無償の愛でもって包んでくれる人々は遠い国にいて、この館の中では唯一、シャルルだけがヒカルのことを慈しむ。

それ以上何も望まない。それ以上、何かを望んではいけない。

それなのに、ルイが欲しい、家族が欲しい・・・と彼女はルイを傷つけた。

一番それを言ってはいけない相手に、言ってしまった。

 

家族とは何だろう。

寝食を共にすれば家族になれるのだろうか。

それは違う、とルイが否定した。

どれほど長い時間一緒に居ても、食事を一緒に共有しても、彼は決してヒカルを家族と認めない。

 

ヒカルは溜め息をついた。

唇を噛んだ。

彼が残した意味のないことの中から、何かを拾い上げることが出来る野だろうか。

ぎゅっと握った拳の中で、薔薇の棘でついた擦過傷が僅かに痛み始めた。

今、彼も同じ痛みを味わっているのだろうか。

違う。ヒカルの痛みより・・・もっと、もっと痛むはずだった。

 

彼女は溜め息をついた。そして空を見上げる。そうしなければ涙がこぼれ落ちそうだったからだ。

自分を憐れんでいるわけではない。

彼を可哀想だと思っているわけではない。

泣いても、解決しない。これは彼が良く言う言葉だった。

 

この家の人達は優しい。

誰もが彼女に近付かないから。

シャルルでさえ、距離を持ってヒカルに接する。

それなのに、唯一、ルイだけが彼女に残酷であるが真実を言い続けているような気がする。その言葉に隠れた意味がヒカルにはまだ、わからないけれども。

『忘れてもいい。でも、魂に刻め』

まだとても小さい時に、シャルル・ドゥ・アルディにいわれた言葉を思い出していた。

辛いことは覚えていたくないと思う。

でも辛いから覚えていられるのだ。

魂に刻め、といわれた。

それがいつか、きっと・・・何かの指標になるからだ、とヒカルは想った。

 

ルイの温度をまだ感じていた。

彼の白い頬が強く押し当てられた感覚や、大きな手の平で掴まれた腕の痛みもまだ残っている。

ヒカルができることはなんだろう。

 

婚姻することだけでは家族になれない。

 

それでも、これまで数多あった打診程度から正式な申し込みにいたるまでの婚約話をすべて断り、ルイは彼女と婚姻すると宣言した。

 

彼には彼の理由があり、ヒカルにはヒカルの理由があった。

ルイと婚姻することで、シャルルと一緒に居られると思った。

この家の本当のこどもになれると思った。

ルイとシャルルが和睦することを夢見た。

何もかもが、うまくいくはずだったのに。

それなのに、ルイは不機嫌そうにヒカルにまだ何かが足りないという。

 

 

彼女は吐息をまたひとつ、漏らした。

次に、大きく息を吸った。

 

悩んでいても始まらない。

悩んでいても終わらない。

 

始まらないものは、終わらない。

 

これは、自分で解決しなければならないことだ。

 

 

「ごめんなさい」

彼女は謝罪した。

足元の散った薔薇たちに謝った。

アルディ家の者に捧げるために生まれて来た薔薇たちなのに、彼らの疲れた孤独な魂を癒すこともなく、その役割を終えようとしていた。

だから、申し訳ないと思った。

しかしヒカルは踵を返して、本邸に戻るために足を踏み出していた。

 

ルイはapopheniaだと言った。

 

意味のないことに意味を見い出すことだ。

ヒカルにしか価値のないものがあるように、ルイにも内包している価値あるものがあるはずだった。それをヒカルが意味のないことだと言ったので、彼は激昂したのだ。

同じではないから。

ヒカルとルイは同じではないから。

だからこそ同じがわかるのではないのだろうか。

彼女の足はどんどん歩みを早めていった。

 

仲直りはその日のうちに。

 

これはヒカルがこれまでに学んできた処世術だった。

他者に嫌われたくないと思っていたから、誰かの機嫌を損ねることを畏れていたから。

 

でも今は違った。

ルイがヒカルという存在を快く思わなかったとしても。

ルイは彼女の願いを叶えてやろうと言った。

それなのに、ルイはヒカルに何も求めない。ただ婚約しろとだけ言った。

このことについて・・・ヒカルはルイに答えなければならないと思った。

 

彼のapopheniaとヒカルのapopheniaはどこかで交わるはずだ。きっと。

 

彼女は最後には、走って、本邸に入っていった。

 

 

後には、堕ちた薔薇の花瓣の中心から立ち上る甘い芳香だけが残った。



■22

 

ルイがシャワールームから出てきた時には、ヒカルが指定していた夕食の時間をとうに過ぎてしまっていた。

しかし本邸に赴いて飯事遊びに付き合うつもりはなかったので、たとえヒカルがシャルルを使って本邸に彼を引っ張り出そうとしても、応じるつもりはなかった。

内線電話も、アルディ家から支給される緊急端末もすべて電源を切ってしまってあった。

彼は広く逞しい肩に大判のタオルを無造作にかけて、まだ水気の残る金の髪から滴を落としながら居間に向かった。

彼には自室というものはない。この別棟全部が彼の自室のようなものである。

完全な睡眠を得るために、断光された部屋は備えてあるが、それも寝室と呼ぶには何もない場所だった。

この家の中で、何かを揃えたり、何かを愛でたりすることはしない。

あるのは、仕事に使うマシンと、開発用のサーバと・・・用途別に置かれた機器だけである。

それすら時折一度に廃棄してしまう。思いついたように。

新しい機種を手に入れた時には、彼はしばらくここに籠もって作業に耽る。

アルディ家の電圧管理がパリの中では最も優れているので、しばらくアルディ邸に滞在するが、ここは所詮、その程度の場所でしかなかった。

彼には執着するような記憶もない。

それなのに、ここに戻ってくることにした。

それがヒカル・クロスとの交換条件だからだ。

 

家族になろう、と彼女は言った。

家族がありながら機能していない空間に居るルイに向かって、彼女は高慢に言った。

 

・・・ヒカルのことを考えるだけで気鬱になった。

 

彼女をこれからどう活用していこうかと考えるのに、次には彼女の泣き出しそうな顔が浮かんでは消える。

心地好い勝利を味わおうとしているときに、彼女の声がルイの内から聞こえてくる。

 

彼は物憂げな上品な青灰色の瞳を瞑った。

肩にかけたタオルをぎゅっと握ると、手の平から血が滲み、それが生地に渡って赤い華を散らしていた。

先ほど棘を流し落とした際に、切開しないと取れない部位があったためだ。

・・・・加えてシャワーを浴びたので、彼の手の平の傷はまだ血を滲ませていた。

 

彼女も、本邸で手当を受けていることだろう。

それほど深い傷ではないはずだ。

・・・・ルイは血の滲んだ手の平をゆっくりと眺めた。

 

彼の血は赤かった。

自分が人間であることを確認する瞬間だ。

痛みがあるから、まだ、あちらの世界には行っていないことがわかった。

シャルルのように、行きつ戻りつして戻れない路に入り込むくらいなら、すぐさまこの命を絶つ覚悟も用意もできている。しかし、目的を果たさなければ、彼の生命の意味はなくなってしまう。

 

創られた命だった。

選ばれた命だった。

 

けれども、どう生きるのかは誰にも指図されない。決して。

奪うことはするが、与えられる施しは受けない。

ルイの誇りを激しく傷つけるヒカル・クロスを赦しはしない。

 

彼は居間に入った。

次に、足を止めて、厳しい声を出した。

 

「・・・・何をしている」

 

そこには、ヒカル・クロスが居た。

以前、ここにはもう入ってはいけない、と厳しく言い渡したのに、彼女はまたそこに居た。

居間の中央の、クリスタルのテーブルの前に備えられたソファに座っていた。

そもそも、ここのセキュリティはそれほど甘くはない。

ヒカル・クロスはどうやって入り込んだというのだろうか。

ルイは人の気配も、ドアの開閉による邸内の圧の変化も感じなかった。

彼はその理由を悟った。・・・まだ癒えていないということなのだ。

 

黙ったままのルイに、ヒカルは少し首を傾げてはにかんだ。

「ルイが本邸で食事をしないだろうな、と思ったので、こちらに来ました」

ヒカルは微笑んだ。

ルイは彼女のそんな様子に冷笑した。

見れば、テーブルの上には、日本式に重箱に詰めた日本食が並んでいた。

漆の漆器に、蔓をあしらった最高級の箸置きが乗っている。

ここは食事をする場所ではないのに、彼女は持ち運んだ薔薇の紋の美しい絹布を広げてその上に宝石箱のような曇り一つない箱を開いているところだった。

そのような文化で育ったわけではないのに、彼女はこうしてあの国の習慣を持ち込もうとしていた。

シャルルが親日家であるということもあったが、それ以上に日本にいつ戻っても良いようにという配慮から、シャルルはヒカルに異国の文化について忘れることのないようにという教育を惜しみなく与えてきた。

・・・それもあって、ヒカルは時折こうして外で食事することを好んだ。

彼は、テラスでティータイムを楽しむヒカルの姿を見かけたことがあった。

 

「ここにはどうやって入った」

ルイは不機嫌そうにそう言った。

ヒカルは臆さずに、座ったままで、彼を見上げた。

茶色の瞳は先ほどの迷った瞳ではなかった。

輝くような眩しい晄のような笑顔をルイに向ける。

あれほど傷つけたのに。あれほど貶めたのに。

彼女は、それでも微笑んでいた。

 

「・・・この別棟のセキュリティを解除してもらっただけ」

「ヒカルにそんな権限はない」

彼女はこの家の滞在者でしかない。だから、そういった指示をすることができないことは彼女もよく承知しているはずであった。

ヒカルは少し目を細めた。

・・・ルイはそれで察した。

「特例解除か」

「そう」

彼は小さく舌打ちをした。



■23

 

アルディ家の者は、結婚が決まると、一ヶ月花嫁の家で暮らす習慣があった。

これを無視したのは、シャルル・ドゥ・アルディだけだったが、彼も若い頃には婚約中に破談になった相手の家にしばらく滞在していたことがあった。それは先方の継承問題で破談になったのだが。

 

ヒカルには家がない。

だからこの家がヒカルの家と見なされ、彼女はルイを花婿として遇さなければならないという責を負うかわりに、この家の正当なる住人と同じ権利を持つことになる。

 

花婿は花嫁の家で過ごす。その項には「猶・・・」と追記がある。

 

猶、花嫁は花婿を遇するためにすべての労を注がなければならず、当該行為を遂行するための権利を妨げない。

 

ルイと婚約したことによって、ヒカルはアルディ家の者と同等の差配をすることができるようになったのだ。

つまり、婚約したことによって、彼女はセキュリティレベルが変更されて、ルイの別棟にルイの許可なく入ることができるようになった。

 

ルイがいつ居間に入ってくるかわからなかったので、ヒカルは冷めても食すことができる品を揃えてやってきたのだろう。

これほどの量をひとりで用意し、運び込んだとしたら、彼女は大変に手際よく人を動かしたことになる。

 

おそらく、彼女はこれっきりその権利を行使しないだろう。

 

一ヶ月経過すればその翌日が結婚式になる。

その準備も周知も整っていないし、実際に万端の準備を整えるまでは、ルイはヒカルと寝室を共にすることもない。

それに、彼女を日本に戻そうとシャルルが動いている気配があったので、時期尚早だった。

それなのに、先ほどは、彼は彼女をこの部屋に引きずり込んで、彼女が想定していないことをして、シャルルの狂気を再び呼び覚まそうと考えていた。

 

まったく、それは意味のないことなのに。

 

用意された料理を変更し、人数分の器を揃え、そして自らの手で運び込んだのだ。

見れば、彼女の手の平は赤く腫れ上がっていた。

先ほどの疵に構わず水仕事をしてきたからだろう。

酷く痛むだろうと容易に予想できるほどに、痛々しく変色していた。

 

「・・・・食事はいらない、と言ったはずだが」

彼はしばらく押し黙った後、そう言った。

「ひとりより、ふたりの方が美味しいよ」

「そこに置いておけ。・・・はやく出て行け」

「いやだ」

「ヒカル」

 

彼は溜め息をついた。

そしてまだ濡れている金の髪をかき上げて、決してソファから立ち上がろうとしないヒカルを見下ろした。

 

「鬱陶しいと表現する以外の言葉がない。この邸からたたき出されたくなかったら自分から出て行け」

「いやだ」

 

ヒカルは強くそう言って、ルイを見つめ返した。

まっすぐな、強い意志を感じた。

どうしてあの人の娘は、同じように、臆せずルイを見つめるのだろうか。

先ほどまではあれほど弱々しく儚げであったのに、今は剛気さを表出させている。

 

「私、ルイの婚約者だよ・・・」

「それならオレの邪魔をするな」

「迷惑にならないようにする」

 

押し問答だった。

まったく理解できなかった。

 

ルイは呆れ果ててヒカルの顔をじっと眺めた。

シャルルの定めた運命の人の血を濃く受け継いだヒカルは、容易に人の禁域に踏み込む。

しかし踏み込みすぎた時の対処を知らない。

だから、ルイにはじき出された時にどうして良いのかわからずに途方に暮れる。

シャルルは自分の領域に彼女が踏み込みそうになると自分が引いて距離を保った。

ヒカルはその間の取り方を知らない。

ルイは、シャルルがヒカルにそうすることで彼女は・・・痛みを知らない者になっていると感じていた。

 

彼女はルイに言った。祈るような口調だった。

茶色の瞳が濡れたように光って、彼を射貫いた。何かを決断した者の視線は鋭くなる。

「私は・・・後悔しない」

彼女は言った。

「誰とも結婚しないと・・・いつまでもここに居たいと思っていた。

いつまでもいつまでもここで・・・あの海を見ていたいと思っていた。

私は私と同じ気持ちを味わわせたくないから、そう思っている限り、誰とも家族になれないと思った。でも」

そこで彼女は言葉を句切った。

声が詰まっていた。

感極まったヒカルは、少しだけ瞳を潤ませて、星辰の子に言った。

永遠の晄という名前を持つ人は、星辰の子に言った。

眼を反らさなかった。

ルイは視線を反らすことはしない。

彼女の話が終わるまで、彼は話を遮らない。そんな安堵感が彼女を自由にさせる。

 

これが、家族なのだ。

 

作るものではない。

できあがるものでもない。

 

けれども、臆せず、どんなに傷ついても彼の前でなら話をすることができた。

彼女の中の仄暗い欲望も、薄汚い願いも、何もかも。

ルイになら、言うことができた。

 

家族になろう、と彼女は言った。

 

でも、すでに・・・そんな言葉の定義に当てはまらない存在がここに居た。

 



■24

 

彼女は泣き笑いを浮かべた。

ヒカルは泣きそうな顔をしていたが、それでも微笑みを絶やさなかった。

 

彼女は自分のためには涙を流さない。

 

彼女は他者のために憐れみの涙を落とすことで自分を癒している。

ここには何もないから、誰が入っても何かに影響することはなかった。

けれども、ヒカルが入り込む事は赦さなかった。

 

彼がこの居間から何を見ているのか知ることができる唯一の人間だから。

彼がこの居間から薔薇園や本邸の灯りを見ていることを知ることができる人間だから。

 

だから、赦さない。

彼の内面に容易く入り込むヒカル・クロスにこれ以上近くに寄ることを許可することはできなかった。

 

「でも。・・・でも、ルイなら良いなと思った」

彼女がそう言ったので、ルイは黙ってそれを聞いた。

「ルイなら、良いなと思った」

彼女は繰り返した。

 

彼は言った。

「・・・シャルルは?」

ルイは誰かと比べることは決してしなかった。

ヒカルをあの人と重ねて見ることはしなかった。

ヒカルはどうだろうか。

ルイとシャルルのどちらでも良かったのではないのか。

彼女の存在を認める環境が整えば、彼女はどちらでも良いのではないのだろうか。

 

ヒカルは困ったように唇を歪めた。

「シャルルは、私を選ばない。私では駄目なの。・・・私だから駄目なの」

 

・・・そういうことか

 

彼は苦笑した。

シャルルからは得られないから。

だからルイにした、と。

彼女はそう言っているのだ。

 

どこまでも残酷な人だ。

 

彼は思った。

このまま、彼女を名実ともに、彼の妻にしてしまえば、彼女は救われるのだろうか。

ルイは安らぐのだろうか。

まだ少女と言っても足りる、あどけない表情を捨てきれないヒカルを、このまま・・・どこかに連れ去って・・・そしてヒカルがシャルルの名前を呼ばなくなるように、彼女を抱き続けたまま滅してしまえば、彼の痛みと疼きは消えるのだろうか。

 

「ルイ」

ヒカルが彼の名前を呼んだ。

「これが私のこたえで意味になるものよ。・・・・私は家族が欲しい。だから、ルイが欲しい」

「素直だね、ヒカル」

彼がそう言いながら、彼女の正面にゆっくりと腰を落とした。

「今日の君に免じて、同席を赦してやろう」

「ありがとう」

困ったように戸惑ったように、ヒカルがそう言ったので、彼は声を漏らして嗤った。

 

そして・・・目の前に座ったルイに、ヒカルは悲鳴を上げた。

「ルイ、血が出ている・・・」

「大したことはない」

彼はそう言って次に、血が滲んだ手の平を上に向けて、ヒカルに差し出した。

そして溜め息混じりに忠告する。

 

「ヒカル。・・・アルディ夫人となる者は、手に疵をつけるな。

人が最初に見るところは、身体の末端だ。

指先と、爪先と、髪の先を見る。

それで人の品性を推し量るという世界をヒカルは知っているのに、なぜそれに配慮しないのか理解できない」

「私には関係ないよ」

差し出した手に、彼女は腫れた方の手の平を乗せた。

テーブル越しに繋がれた手と手は・・・同じ疵を持っていた。

ごく自然に。ルイがそう言ったわけでも、命じられたわけでもないのに、ヒカルはルイの手の平に、自分の手の平を重ねた。

 

まだ瘡蓋さえできていない。

それなのに。重ねた手の平から、どんどん疵が癒されていくような感覚を覚えた。

これは彼女がもたらす奇蹟なのか。

いや、違う。

単にヒカルの体温が冷たいルイの手の平から伝わっているだけだった。

それだけなのに彼の痛みは引いていく。

 

「・・・ルイ」

彼女は彼の名前をそっと呼んだ。

何度も呼んだ名前であったが、それでもヒカルは彼の名前を大事にひとつひとつを発音した。

「ルイと私の理由は違う。でも、ルイなら良いなと思っていたから。だから私はルイとなら家族になれると思った。・・・家族になるならルイが良いと思っていた」

彼女はルイに残酷な言葉を囁き続けた。

それなのに、彼は彼女の手の平を振り解くことはしなかった。

ヒカル自身が彼の手に自らの掌を重ねたからだ。

奪うことしか彼は知らない。

けれども、彼女は彼にすべてを捧げるようなふりをして、彼から何もかも奪っていく。

 

ヒカルの言葉も体温も彼女のすべてがルイを限局する。

 

言葉を奪い彼女を遠ざけることを赦さない。

彼女の寄り添いを拒否することすら赦さない。

 

ヒカルはそっと腰を浮かべて、もう片方の手で彼の掌を包んだ。

大きなルイの掌を包みきれないヒカルの手は、ルイの白い滑らかな手の平の温度を吸い上げていく。代わりに、彼女は自分の温度を彼に与える。

重ねた掌に流れる、できたばかりの疵から互いの血が混じり合い、そして互いの掌から伝わって身体の中を巡れば良いのに。

彼は僅かに顔を曇らせた。

表情を厳しくし、唇を横に引いた。

端整な顔立ちに緊張が走った。

 



■25

 

彼が表情を厳しくしたのは・・・ヒカルが彼の隣に移動してきたからだ。

それは一瞬のことだった。

彼女はルイの掌を離そうとしなかった。

 

やがて彼の隣に座った彼女は、ルイの掌を包んだ。

 

「意味のないことはやめろ」

彼の口調は冷たかった。

けれども、ヒカルの手を振り払うことはしなかった。

 

ヒカルは彼の顔を再び見ると、静かに、けれども躊躇いや戸惑いのない口調で言った。

茶色の瞳を青灰色の瞳が絡み合った。

 

「私のapopheniaとルイのapopheniaは違う。

それはわかった。

でも、私とルイのapopheniaには意味があることにすることができると思うの」

「オレとヒカルの?」

彼は尋ねた。

ルイにわからないことはない。

それなのに、ヒカルに尋ね返した。

彼女は小さく頷いた。

 

「そう。私だけの理由。ルイだけの意味。

それは相手には意味のないことかもしれない。

自分だけに意味があることなのかもしれない。

でも。

・・・各々理由があるから、一緒に居る。婚約しようと承諾した。

・・・でも、私とルイがこうして自分の意志で一緒に居ることに対して意味がないとは思わない」

「だからそれに理由と動機付けするというのか?」

「そうだね」

ヒカルは肩を竦めた。

「私がわかるのはそこまで。そこから先はまだ、わからない。だから探すの。意味のないことから、意味ある規則を見つけるの」

 

「根拠のない楽観的すぎる希望はそれで終わりか?」

「そう。・・・次にルイの疵の手当をしないといけないから」

彼女はそう言って、微笑んだ。

「ほら、この行動にも、意味があることになった」

彼女はそう言ってそこでようやく片腕を彼から離すと、テーブルの傍に置いてあった籐でできたバスケットから応急処置のための清潔なガーゼを取り出した。

彼女が持ち込んだものだった。

そして彼の肩に乗るタオルが血で汚れている様を見るとヒカルは眉を顰めて、押し黙ったままのルイを窘めた。

「ルイ。・・・ルイはひとりしかいない。ルイの代わりは誰にもできない。だからもっと労って欲しい。少なくともルイは自分に優しくして」

「・・・いらぬ世話というものだよ。オレに構うな」

「構うよ」

彼女は笑った。

 

彼は溜め息をまたひとつ落とすと、自分の肩に乗るタオルを空いた方の掌で掴み、それをルイの掌にガーゼを押し当てならが拙い止血処置を施そうとしているヒカルの掌に無造作に置いた。

「シャルルもオレも医師資格を持っているというのに、ヒカルは少しも知識を習得しようとしない」

そして彼はヒカルの手から自分の掌を持ち上げると、今度は彼がガーゼを取り出して、細く長い指先で器用にヒカルの掌の傷を包んだ。

そしてそのタオルでヒカルの腫れた掌をそっと包んだ。

ほどよく湿り気があり、冷やされた感覚がする。

本来ならもっと清潔な生地で行うべきだが、彼女の腫れを取り除く方が先立った。

「ありがとう」

「ヒカルが怪我をしたら、責められるのはオレだ」

この家の当主は、ヒカルを溺愛するあまり、少しの怪我でも大変に神経質になった。

血を流すような怪我をすれば、当主はその疵が癒えるまで決してヒカルを外に出そうとしない。

それには別の意味も理由もあったが、それはまだ、ヒカルは知らない。

「治療室に行けば処置を受けられるだろう」

彼はそう言うと、ちらりと、目の前の晩餉に眼を遣った。

 

「呆れるね。手を怪我しているというのに、日本食に、加えて箸か」

「これならルイも手を伸ばしてくれると思ったから」

彼は普段から、気に入らない食事には手をつけなかった。

味覚が発達している彼は、少しでも自分の好まない味に気がつく。

それを理由として、その日に食事を摂らなくても彼は平然としていた。

それを知っているヒカルは、彼がどれに口をつけても口をつけなくても良いように様々な種類の品を詰めて、大急ぎでここに渡って来たようだ。

「ピクニックみたい」

彼女は嬉しそうに微笑んだ。

時折、シャルルはヒカルと一緒に私有地に出掛けて野外で食事を楽しんだりしているようだったが、ルイにはそういった愚趣に興じる趣味は持ち合わせていなかった。

 

「それじゃ駄目かな」

彼女はぽつりとそう言った。

 

「・・・食事をして、一緒に同じ景色を見て・・・同じ時間を過ごす。・・・家族の一番素敵なところは、すぐに仲直りができるところよ」

彼は嘲りの入った笑いを見せた。

青灰色の瞳を少し細めて、濡れた金の髪の下から、ヒカルを見つめた。

 



■26

 

「ルイ、ありがとう」

「礼を言われるようなことはしていないよ、ヒカル」

彼は素っ気なくそう言った。

無駄な時間だと思っていた。

しかしヒカルの手を包む彼の掌は、彼女から離れることはなかった。

 

理由がないのに。

意味がないのに。

 

それなのに、彼は彼女から離れることはしない。

 

自らに優しくなれと言うのに。

ヒカルはそれを実践しない。

自分でそうできない者に何を言われても、同じ事はできなかった。

彼女の父の気質が色濃く出ていた。

 

自己を滅して他者を優先する。

誰かのために涙を流し、心を痛ませる。

 

シャルルがこよなくヒカルを愛する意味が、そこにあった。

もし、ヒカルの父がカズヤ・クロスでなかったとしたら彼はヒカルを引き取っただろうか。

彼の親友であった男と、彼が運命の人と定めた女の娘であったから。

彼女は贖罪の娘と呼ばれることはなかったのかもしれない。

しかし成立しない憶測はしないことにしていた。

過去に遡って「もし」と考えることほど徒爾に終わる行為はない。

シャルルはヒカルを呼び寄せた。

これは事実だ。

そして覆すことはない。

始まりは、そこからではなかったはずなのだから。

そしてルイはシャルルの永遠の晄をこれから奪おうとしている。

 

同じ過程で生まれたのに、なぜこうも違うのだろうか。

 

彼の中では幾つもの疑問が湧き上がるが、同時に考えても意味のない事柄は排除されていく。

 

「ルイ、怒っているのなら、許して欲しい」

「ヒカルにオレが憤りを感じるほど価値があると思っているの?」

彼がそう言うと、ヒカルは少し哀しそうな顔をした。

「黙ってここにまた入ってしまったから」

「ヒカルにとって意味のあるものも、価値のあるものも何もないよ。ここには」

彼は溜め息をついた。禁じられた行為ほど魅惑的に移るものだ。

誰がここを訪れても、ルイ・ドゥ・アルディの痕跡はほとんどない。

彼がアルディ家に存在しないかのような気配というものが非常に希薄な空間は、彼が生きているという証を刻むものは、何もなかった。

 

しかし彼女はその言葉を否定した。

「ある」

「それならそれをくれてやるから、ヒカルはもうここに来るな」

その言葉を聞いて、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。

欲しいものがあってもなかなか口にすることはしない娘だった。

それが他人の所有物であるなら、なおさらだった。

口にしないのに、彼女は欲しいと言わずして何もかも手に入れている。

シャルルの寵愛も、アルディ家の欲しいと望む体質も。

 

最初からそれを持っている者と、自己の力でそれをもぎ取った者と、どちらが優れているのか問われているかのようだった。

誰にだろうか。

誰に、問われているのだろうか。

 

彼女は少しの間、ルイを見つめていた。

美麗な顔立ちをしているものの冷たい視線しか返さない彼から視線を反らさない者は数少ない。

「・・・ここにはルイがいる」

彼は息を止めた。彼女に気付かれない程に僅かな呼吸の乱れだった。

 

「ここには、私の疵の手当をしてくれる人がいる。私が手当をしたいと思う人がいる。・・・だから何度も禁を破ってでも、ここに来る」

 

ルイの前髪から、ひとしずく、まだ彼の髪に宿ったままの余瀝が堕ちた。

 

ヒカルとルイの重なった掌に堕ちて、それはやがて消えた。

ヒカルはそれを見て、ルイの涙のようだと思った。

これほど美しい余滴を見たことがない。

彼は俯いていた。

濡れた前髪が彼の顔を隠していたので、視線の温度を推し量ることができない。

彼が怒っているのか歎いているのか、ヒカルにはわからなかった。

ただ、重ねた掌が僅かに細かく震えていた。細く長い指先が動いていた。

「ルイ・・・痛む?」

「少し黙って居てくれないか」

彼は短くそう言って溜め息をついた。

何かに深く思考を泳がせているようだった。

しかしそれはヒカルには理解できない。

 

彼女がまた近く、ルイに寄ったが彼は距離を開けようとはしなかった。

ルイの温度を近くに感じ、ヒカルは少し躊躇ったあとに、腰を少し上げて、彼の髪の上から、そっと・・・・そっと軽く、ルイのこめかみにキスをした。

どうしようもない衝動がヒカルを動かしていた。

 

彼の肩がぴくり、と動いたが彼は何も言わなかった。

 

そして次に、ヒカルは怪我をしていない方の手で、彼の引き締まった腕を軽く擦った。

こどもをあやす母のように。

年の近い者同士が交わす慰めの仕草のように。

ルイはそうされることを厭うことを知っていながら、ヒカルはそうして彼の温度を感じ、安堵する。

 

ルイは血も流れるし体温もある。

決して人形ではない。

だから、彼は何かを感じ何かに憤り、何かに哀しんでいる。

それを分かち合おうとすることは愚かしいが、その傍に居ることこそ・・・

 

何も意味がないけれど、そうして一緒に過ごすことこそ、大事なのだとヒカルは思った。

これはルイを慰撫しているのではなく、自分が・・・ヒカルが安心したための行為でしかないけれども。

ルイには意味がないけれど、ヒカルにはそれは意味があった。

人に触れられることを嫌うルイが、こうしてヒカルが傍に居ることを拒絶しない。

これに対して彼女はこたえを出した。

 

自分の選択によってルイを哀しませてはいけない。ルイを傷つけてはいけない。

 

彼女もまた、俯いて無言の時間を過ごした。

互いに重ねた両の手の平を見つめていた。

 

「・・・オレにも欲しいものがある」

やがて、ルイが掠れた声でそう言ったので、ヒカルは顔を上げた。



■27

 

顔を上げればそこにはルイの冴えた冷ややかな瞳があった。

ヒカルを通してもっと遠くを見ているようだった。

彼ははっきりとした強い口調で言った。低く、けれども厳かに。

 

「誇りをかけてオレはそれを手に入れる。

どんなことがあってもだ。

・・・すべてを犠牲にしても、すべてを失ってもそれを必ず達成させる。

そのために・・・誰も残らなくても」

「ルイ・・・!」

ヒカルが叫び声を上げた。そして、彼の胸に飛び込んだ。

 

何を言っても彼には届かない。

彼はもう、決めてしまっていたから。

ルイの言葉がいつも少ないのは、一度口にすれば、それを必ず実行するからだ。

何年かかっても、生涯をかけても、彼は必ずそれを遂行する。

だからヒカルはその言葉を否定することもできなかったし、それを称賛することもできなかった。

 

そうして彼をつかまえておかないと、彼はどこかに消えてしまいそうな予感がしたからだ。

彼は、決してヒカルに優しくしない。誰にもだ。

ルイには、シャルルのような温かさはない。

けれども、ルイは優しい。

彼女を徹底的に拒絶するが、無視はしない。

彼がヒカルと婚約することによって、シャルルが苦しめば良いとルイは言ったが、彼の本当の目的はそれではないのかもしれない、と思っていた。

けれども彼はそれを明かさない。

 

「そうやってオレを束縛するの?」

彼が冷ややかにそう言ったので、ヒカルは彼の背中に手を回して、首を振った。

「違う。・・・・なんだか、こうしていないとルイが消えてしまいそうだった」

「抽象的過ぎる」

ルイが嘲笑した。彼女の言わんとすることは理解できたが、それに賛同するつもりはない。

彼はゆっくりと彼女から離れると、彼女と少し距離を置いた。

掌の出血はすでに止まっていた。

彼はガーゼをゆっくりと剥がすと、今度は腕を伸ばして彼女の手の平のガーゼを取り除き、そして手早く応急処置をした。

彼女の掌はルイによって白い包帯が巻かれた。彼自身は、止血された傷口の上から、無色透明のナノテープを貼っただけだった。

血で汚れたタオルとガーゼをひとまとめにすると、彼は狙いを定めて、部屋の隅の小さなテーブルの上に放り投げた。

湿気を吸って重くなったことも計算に入れた遠投は、見事に計算通りに弧を描いてその場所に辿り着いた。

 

彼女の持ち込んだ医療道具だけではその程度しかできなかった。

彼女の手に跡が残るような瑕をつければ、シャルルが激昂するのは目に見えて想定できた。

「ヒカル。オレはヒカルの余興に付き合うつもりはない。さっさと医療室に行き、手当を受けて来い」

「でも・・・・」

彼は首を横に振った。

「食事はそれからだ」

その言葉を聞いて、彼女は破顔した。

ルイが戻ってきて良い、と言ったのだ。

すぐ戻るから、と彼女はそれだけ言うと、あっという間に部屋を出て行ってしまった。

居間を出る時、彼女は足を止めて、立ったままのルイに振り返った。

「ルイ。ありがとう」

「行けよ」

彼女は嬉しそうに笑って、はい、と頷き、そして彼の別棟を後にした。

静かな別棟は防音処置が随所に施されている。それでも、ヒカルの遠退く足音が聞こえて来そうだった。

 

彼は眉を寄せて、大きく吐息をついた。

腕を組み、そして窓際に移動すると、渡り廊下を走るヒカルの影が見えなくなるまで見つめていた。

 

彼女は贖罪の娘だ。

何について購うのか、彼女はまだ知らない。

 

そして、ヒカルが強く望んだことではないが、この婚約が双方にとって無意味ではないということを、これで知ったはずだった。

 

当分・・・婚約を解消したいとは言わないはずだ。少なくとも、今だけは。

 

彼は背中や腕に残るヒカルの温度を感じていた。

 

彼女の意味のないことに、彼が意味を添える。

彼女には意味があることを、彼が奪い去る。

apophenia、とはそういうことなのだ。

ヒカルの言うような、ふたりで意味のあることを探すという意味ではない。

意味がない不規則な情報から規則性を見いだすことであるが、本当の意味を彼女は知らない。

心理的な錯覚なのか、それとも無知による考えが及ばないだけなのか・・・

どちらでも良かった。

ルイはヒカルを手放すつもりはない。

決して。

彼の誇りにかけて。

 

まだ、始まったばかりだ。

 

彼は顔を引き締めて厳しい表情になった。

極めて険しい顔になり、別棟から見える本邸の灯りを強く睨み据えた。

 

長い時間を待った。

長い時間を過ごした。

しかしそれらは無駄ではない。

 

・・・これからそれを証明する。

 

彼は部屋着のポケットから薄い携帯電話を取り出した。

電源を入れて、暗証番号を入力する。

銀の薄い端末には何も情報は入っていないが、これからする会話は盗聴されると面倒な件だった。

パスコードを更に加えると、暗号通信用の電波に切り替わる旨のメッセージが出て、それから彼は記憶している番号を入力した。

 

8度目のコールでようやく相手は出た。受話器の向こうで、低いバリトンが響く。

互いに名乗らなくても誰と通話しているのか判っているので、彼はいきなり要件のみを切り出した。そして投げ出されたタオルと使用済みのガーゼにちらりと眼を遣った。

彼の血液も細胞サンプルも登録済みなので、それを除外したものがヒカルのものだった。

 

「・・・・ヒカル・クロスの細胞と血液が手に入った。急ぎ処理してくれ」

通話相手は思わぬ収穫だとルイに言ったが彼は冷笑した。

「オレに偶然というものは存在しない」

それなら必然か?と相手は嗤った。

「それも不適切。・・・apopheniaだよ、ミシェル」

彼は嗤った。

受話器の向こう側で、ルイと良く似た人物も同じように冷たい微笑みを浮かべていることだろう。

意味がないことを意味があることにする。

これが、オレのapopheniaだよ、ヒカル。

 

彼は受話器の電源を落とし、そしてクリスタルのテーブルの上に投げた。

硬質の音がして、滑らかなテーブルの上を滑っていくと、それは途中でその動きを止めた。

かちんと固い音がして、ヒカルの持ち込んだ食器に当たった。

 

アルディ家から至急される端末とほぼ同じ形状で、電源を切る度にパスワードを変更するので、誰が使ってもわからない設計になっていた。

 

彼は美しく飾られた食器を眺めながら、冷笑した。

食事を共にし、長い時間を過ごしてなお・・・家族になれない者は、どうしたら家族を創ることが出来るのだろうね。

彼には教育係が居ることをヒカルは失念している。

どれほど長い時間接していたとしても、今し方の通話相手のように家族と呼ぶには遠い存在の者と過ごしてきたルイには、ヒカルの望む家族の役割を果たすことはないだろう。

 

地獄の業火に灼かれれば良いのに、と思うのに。

彼女を手に入れるために何を犠牲にしても良いと誓う。

それらは矛盾しない。

少なくとも彼の中では。

 

彼は深く思考の波にまた沈もうとしていた。

 

遠くで、また姦しい足音が響いて来た。それはどんどんこちらに近づいて来る。

彼は星辰の子と呼ばれている。

それなのに、永遠の晄は離れたり近付いたりして彼の法則に従わない。

 

かつて、ヒカルの母のことをシャルルは「ファム・ファタル」と呼んだ。

ルイ・ドゥ・アルディは、ヒカルこそが彼のapopheniaだと考えている。

矛盾したり意味のないことを重ねていく。しかしそれは予定されていたことなのだ。

この出会いも、こうなることすら、彼の中では完成された事象であり、決して偶然などではない。

 

彼と彼女は違っていた。

 

生まれた意味が違う。

生きていく意味が違う。

 

同じ過程で生まれたのに。

同じ過程で生まれたから。

 

だから、一度別れた星と晄は・・・・また、交わる。それだけだ。

 

彼女が別棟を出て行った時に、今一度ここに入れないように施錠することもできたのに。

ルイ・ドゥ・アルディは敢えて、そうしなかった。

ここでヒカルを締め出せば彼女は不審に思う。

彼女の遺した大きな研究材料を引き渡すために誰かがやって来るまで、ルイ・ドゥ・アルディはヒカルの飯事遊びに付き合わなければならない。

 

しかしこうして窓辺で彼女の姿が見えるまで待つ必要はないのに。

彼は彼女の姿を探し、視線を彷徨わせる。

なぜなのだろうか。

なぜ、彼女の姿を探すのだろうか。

 

手ひどく彼女を痛めつけたのに、それでもヒカルはルイにいつも通りに接する。

あの無神経さは母親譲りなのだろうな、と思い、ひとり微笑んだ。

ひとりで微笑むことには意味がないのに。

 

それでも・・・彼は彼女の姿を待っていた。

 

しかし同時に、彼はアルディ家当主を滅さなければ、自分を滅ぼすことはしないと思った。

 

ヒカル・クロスが渡り廊下をこちらに向かって走って戻ってくる足音が近くなるにつれて、ルイはまたひとり、顔を綻ばせた。

 

彼女が寄り添う場所はフランスの華の傍らではない。

オレに・・・ルイ・ドゥ・アルディに寄れ、ヒカル。

 

彼女の落としたこめかみへのキスが思い起こされた。

彼女が自ら落とす口吻は非常に稚拙だった。

しかし彼が欲しいのはそんなキスではない。

 

彼女はまた両手一杯に何かを抱えてやって来ていた。

彼は玄関の間まで足を運ぶことにする。

あれでは認証コードを入れることも、IDチップシールをセンサーにかざすこともできないだろう。

どこまでも手がかかる人だ。

彼はまた、溜め息を漏らし、渇きかけた見事な金の髪をかき上げた。

 

シャワーを浴びた男の居棟に足を運ぶという意味を彼女は理解していない。

しかしルイ・ドゥ・アルディはすでに彼の中で幾手も先を考え始めていた。

 

彼は居間から出ながら、次の手はどうやって始めようかと考えたが、その思考はヒカル・クロスの開扉を求めるノック音で中断させられたので、途端に不機嫌になった。

 

それはいつもヒカル・クロスに見せる、ルイ・ドゥ・アルディの表情だった。

 

 

 

(FIN)




mimosa 前編

Champagne à l'orange

#mimosa 前編

 

太陽の光を受けて、円い光は無数の環を地面に散らせている。そして風に乗った僅かに甘いミモザの香りが木漏れ日を揺らせていた。

 

朝方の風は日中に比べて少し冷えていたが、日差しは心地好く、遠くで鳥が誇らしげに唄っていた。綺麗に掃き清められた真白の石畳ではあったが、微風に誘われたかのように小さくて可憐な花が散っている。

 

空は、一面の黄金色であった。

 

重みを受けて枝が微風で揺れるほど咲き誇っている色彩に、ヒカルは目を細めた。

謂はぬ色、という言葉はこんな色に使うのかもしれない、と思った。黄が強いが確かに声が出ない程に美しい。

故郷である日本には、多くの色の名前があるのだということはヒカルの細やかな心の拠り所であった。彼女の母は絵を描く人で、彼女は幼い頃のことすら忘れてしまっているが美しいものに対して大変に敏感な人であったのだと教えられていた。そのことに納得するのは覚えていなくても実際に自分も教えられた、母からの贈り物数少ないのひとつだと肯定できるからだ。

 

彼女は額に少し汗を浮かべながら、光の中を歩くルイ・ドゥ・アルディの背中を見つけた時、ほっと息を漏らした。そして次に内に湧き上がる羞恥に気付き、首筋に熱を感じた。彼を見失って、探して随分と時間が経過する。その時には気が付かなかった周囲の様子に、彼の背中を見た途端に素晴らしいと感嘆する安易さとさもしさを認識したからだ。

 

緑と金の景色の中を、ルイ・ドゥ・アルディが歩いている。見間違うはずはなかった。彼の背筋は伸びていて腰は小さく全身は引き締まっている。これからまだ伸びるであろう勢いが彼を華奢に見せているが、ルイは乗馬とフェンシングだけではなく多くの武芸に秀でていた。それが気品だけではなく静寂が彼を包んでいる理由だ。ルイはアルディ家の嫡男で、あらゆる教育を吸収し星辰の子と呼ばれている人はたったひとりで歩いていた。

人が通らない時間であった。朝が到着したばかりの時間帯で、祭りのために設けられた路は先ほど清掃を終えて人が引き揚げており、通行可能となる直前のことだった。そうでもしなければ彼の容姿は酷く目立ってひとりで歩くのは困難であったに違いない。

 

ミモザの祭りはもう少し先であったが、暖冬のためにひと足はやく盛りを迎えていた。ふたりはアルディ家の当主であるルイの父に連れられてミモザの杜の近くに宿泊していた。この地方にあるアルディ家が所有する動産・不動産の確認だとか医学業界の知人への挨拶だとか理由を告げられたが、ヒカルはルイとともに出かけることができるという嬉しさですべてを聞き流してしまっていた。ルイが同行することは数えるくらいしか経験していない。浮かれているな、と自分でも思うがルイはまったくといって良いほどに無表情で無反応だった。

 

ヒカルはルイへの呼び掛けを躊躇う。彼女の茶色の瞳はミモザの葉と同じ様に揺れていた。だが、地面に注がれている光の輪や石畳の白さ、撓わに揺れる黄金の花に垣間見える葉を通り越して受ける陽が、眩しかった。たったひとりで歩いて行くルイはとても静かで、そして星々だけではなく太陽さえも彼を祝福していると思った。

 

だが、彼女はその機会を逃してしまう。

彼は立ち止まったかと思うと、木々を見上げるように金髪を揺らした。

美しい彼を正面から見たのなら、きっと全神経を注いでしまうだろう。ルイはすべてが完璧だった。彼と長い時間を過ごしたり、親しく会話することがあまりないから故に感じる想いかもしれない。

 

「いい加減、下手な尾行は放棄しろ」

彼の声が響いて、ヒカルは我に返る。足元にあった視線で引き戻された。少し離れた場所でも、ルイの視線はすぐにわかる。青と灰の混じった瞳がヒカルを見ていた。

「探していたの」

ヒカルは歩きながら、平静を装う。胸が高鳴り、どうしてこれほど緊張するのかわからなかった。

毎朝、最高の状態の薔薇をシャルルとルイに届けるための早起きが習慣となっていた。それは出先でも変わらずに存在して、遅くに戻って休んでいるシャルルやルイに花を届けようとミモザの杜へ行こうとした時に遠くを歩くルイを見かけたのだ。追いつこうとしてルイを見失い、そして再び彼を見つけたヒカルの気配について彼はどの時点で気が付いていたのだろう。

「邪魔をして、ごめんなさい」

彼女は謝罪する。

「日本人は好きだな、そういうの」

ルイは彼女に背中を向けたまま、そう言う。だが、彼女は嬉しさで唇を噛みしめる。彼は彼女を、フランス人と認めていない。父はフランス人と日本人のハーフであるから、ヒカルはクォーターだ。長くフランスで過ごしてきて、それでも、彼女が忘れていない父母の国の心をルイが認めてくれているような気持ちに満たされる。日本人にもなれない。フランス人にもなりきれない。そんな鬱屈とした思いは、誰にも離すことができなかった。彼女は余りにも恵まれている。そう思うからだ。

思うままに本を読むことができて、どんな習い事も希望すれば拒否されない。こうして旅行に連れて行ってもらえるし、日本に住む縁者と面会することも容易に実現する。だから、ルイに媚びていると思われても。彼女は、距離の保ち方がわからないままにルイを追いかけている。迷惑と思われても、彼はもうひとりの自分だと思うのだ。

 

なぜなら。

彼にも、彼女にも、母親は存在しないから。

ルイの母親とされている人は確かに存命だ。けれども、

彼が親しく行き来しているかと言えば、そうではなかった。

 

母に包まれた温かさを知らないままに、ふたりは年月を重ねていた。

それはそれぞれに違っているのかもしれない。確認したことがないから、ヒカルにはわからない。けれども、分かち合いたいのだ。彼の孤独を。

 

「ルイを、見かけたから」

ヒカルはそれだけ言うと、小走りに彼に向かって歩みを進める。偶然を装うには彼は聡すぎたし、ヒカルは正直すぎた。彼女はすぐさま言い直す。

「本当は、ルイを探していた」

彼はその時に、ようやく横顔を見せた。高い鼻梁、彫刻の天使のような完璧な曲線を持つ顎から頬の線に、影を引き入れる長い睫。美しい黄金の髪の下にある造作はすべてにおいて藝術の域にある存在だった。彼は、何もかもを遵える。そう、この孤独さえも。

 

だが、彼は言った。

「薔薇はここにはない」

それでヒカルの心は大きく揺さぶられた。だが、逃げ出すことはしない。彼は、自分を起きかける理由はないのではないのか、とヒカルを解放しようとしていると知ったから。最高の状態の薔薇は、アルディ家ではないから存在しない。ルイを気遣う理由もない。ヒカルはそうではない、と言いたかった。だが、言葉にすれば消えてしまいそうだと思ったのだ。

何もかもに浮き立つ時期であったが、それでもルイの憂いは消散することはない。彼はだから朝に向かって外に出たのだ。彼に捧げられる薔薇はここに存在しない。それでも、彼は漫ろ歩く。朝に誰も花を持ってやって来ない瞬間という可能性を知っているから。

ヒカルが随行しても、ルイはいつものままだった。星が消える時間に、星辰の子は太陽に向かい歩く。

 

「ここでは薔薇ではなく、ミモザの花が、騒いでいるから」

ヒカルはそれだけ言うと、踵に力を入れてルイの元に近付く。彼は彼女を横目で見ると、何もなかったかのように歩き出した。

陽の光が強くなっていくと感じる。朝は終わり、やがて人の往来を許可する場面に切り替わる。その隙間をルイは味わっているのだと思うと、彼女がその瞬間に立ち会って良いのかと思ってしまうが、だが、それでも彼を追いかけた。

彼女はルイの少し後ろに立つ。彼が迷惑がっているのは明白だ。全身で拒絶している。パリでは彼は常に人に囲まれているから、この場所で息抜きしたいと思っていたのならヒカルは大変に迷惑な存在であった。だが、ミモザ達が金の光で彼を包んでいる様を見て、胸が苦しくなってしまった。

立ち並ぶとさらにはっきりと自覚する。彼はヒカルと何もかもが違っていた。さらさらと風に流れる金の髪がとても眩しい。白皙の横顔は天使のように静謐と荘厳を遵え、長い睫が彼の美しい頬に影を落としている。何より人目を引くのは彼の青灰色の知性溢れる瞳だった。シャルルや教育係のミシェルと同じ色で、アルディ家の者であるための証になった。朝焼けの果てにやってくる、晴天の兆しの空色だ。

 

彼は嗤った。

「確かに殷賑だな」

 

それは、ヒカルそのものだと言っているのだとルイに断言されているようで、彼女は俯く。誰も見ていないと思って雑に整えた鬢が頬に降りかかっていた。ルイは朝早くでも隙のない様子であったというのに。久方ぶりのルイとシャルルとの遠出であったけれども、彼女はそれが怖かった。自分は、家族として寄生しているだけではないのか、という懸念が消えて無くなることはない。

 

アルディ家は薔薇の精霊の末裔と言われているが、すべての花を遵えているように思える。ルイはその中で生まれた奇跡のような存在だ。遺伝子操作されていたとしても、彼は望まれて生まれた命なのだ。だが、それを彼は認めていない。

「ルイのような、綺麗な金色ね」

ヒカルは努めて明るくそう告げた。虚言ではない。本当にそう思う。

だが、美しいのに、悲哀を秘めていて孤独な色であった。ルイは光の中を歩いているのに、彼に纏うものは彼そのものであった。

 

 


mimosa 中編

Champagne à l'orange

#mimosa 中編

彼女が何を言っても彼には世辞にしか聞こえないのか、賛美は聞き飽きているのか。彼は何も言わなかった。それでも、ヒカルは心底思うのだ。アルディ家の者は皆、薔薇の精霊なのだと否定する理由などは存在しなかった。造作が美しいだけではない。誇り高く、美に対して理解があり、駆け引きが上手く人の上に立つには充分すぎる資質を備えている。教育や環境によるものも大きいが、ルイが人知れず努力しているからこそなのではないのか、とヒカルは思うのだ。そのような姿を彼女に見せたことはなかった彼ではあるが。

何もかもが自分の思い通りにならから嫉んでいるとルイに思われるのが哀しかった。ただ、彼女は強くなりたいと思っていたいのだ。傲慢で浅ましい願いを持っている自分は、ルイ・ドゥ・アルディとは何と違う生き物なのだろう、と考える。だが、ヒカルはアルディ家に仮住まいする者であっても、家族そのものではないのだ。最近、特に感じている瞬間が積もってきている。

「言いたいことが終わったのなら、帰れ」

彼はふと横を向いた。ヒカルの気配が消えるのを待っているかのようだ。だが、彼女はルイに近付いて彼を見失わないように存在を確認する。

相手の存在を消してしまいたいと思っているルイと、相手の存在を失いたくないと思っているヒカルは、まったく逆の存在だ。

それでも、彼女はミモザ色の日差しを迷いもなく歩くルイを置いていくことはできなかった。

「路に迷ったの。だから独りでは帰れない」

ヒカルが言う。すると、ルイは一瞬歩みを止めて、ヒカルを振り返った。

彼の背中に光が射し込み、逆光となって表情はわからなかった。輝く金の髪が煌めいていて、それはヒカルが決して持ち得ない憬れの彩であった。どれほどアルディ家のしきたりや歴史を学んでも、彼女はアルディ家のこどもにはなれない。

「ここの通りはひとつしかない」

一本道で、彼女は遙か向こうに見える路の向こう側からやって来た。どこにも迷うような分岐はない。ルイはヒカルの咄嗟の話に呆れていた。彼は最初からわかっていた。星辰の子は、彼に寄せられる美しい虚声を知っている。だが、それらを彼はまったく信じていない。

 

ここに咲く花をルイが朝早くから眺めるために出歩くのはなぜなのか。彼女はそれが知りたくて、声をかける前にしばし躊躇ってしまったのは事実だった。

「ひとりでは、帰れない」

ヒカルは再び呟く。

それほど年齢が離れているわけではないのに、なぜ、彼はこれほどまでに老成して達観してしまったのだろう。それが悪いことではない。ヒカルは自分がとても幼くて言葉が足りなくて、何もかもが遠く及ばないと思うばかりだ。だが、同じにはなれない。ルイとヒカルは違う生命だから。それを承知しているのに、彼について行きたくなる。

 

彼は、星辰の子だ。

 

皆に傅かれて、すべてを引き寄せる。青と灰の混じった瞳でヒカルを見据える彼は、やがて彼女から目を逸らした。

「勝手にしろ」

ルイはヒカルは強情だと知っている。だから無駄な諍いはしない。何とも生真面目な彼の考え方だった。しかし、彼の内には激しい感情が備わっている。

同時に、ヒカルはそれを聞いて苦しくなる。

彼が決めるのではなく、彼女が決めろと言われたから。

彼は彼女の判断に介在しないと宣言されたから。

ただ、ひたすらに苦しくなる。

「綺麗ね。本当に、綺麗」

彼女は無邪気を装う。彼の発言は、ヒカルの行動はヒカルが決めることなのだと告げられたから。

言葉が足りないとわかっていた。最初から、彼を満たす言葉などは存在しないと理解していた。だが彼女はそれでも彼に語りかける。

いつもの彼なら、彼女の話にはまったく無視するところであるが、今は違った。ルイは彼女の顔をじっと見つめていることに気が付いたヒカルは、目が合って驚く。柔らかな金の光の中で彼の気配が近くに在って、ヒカルは声を失う。彼は、特別だ。そう思ってしまう。誰もがまだ活動を始めたばかりの時間にあって、彼はすでに覚醒していた。寝ていないのだろうか。退廃的な雰囲気があり、ルイは孤独という光に向かって歩いているのかと思うとヒカルは自分の至らなさを痛切に感じる。何もできない。何も伝わらない。何もかもが、彼に寄り添うことができない。だが、彼女は諦めなかった。彼が本当に考えていることが知りたい。

夜明けと夜更けの瞳と、昼中の髪を持ったルイはヒカルの感嘆を無視した。

「黙って歩くこともできないのか」

彼女は僅かに俯く。彼の言葉は反論できない強さがあった。ヒカルは茶色の瞳を瞬かせる。彼女の見ている景色と、ルイのそれは違っているのだろう。だが、それを比べることはできない。

そして、彼女はルイがこれほど早い時間に陽光の中を歩く理由を考える。ここは外出先であるから、ヒカルは朝一番で採れた薔薇を届けることができなかった。だから、ミモザを花束にできないかと思って起き出してきた路でルイに出会ったのだ。目が醒めて、視界に入る最初の色がルイと同じ金の彩りが似付かわしいと思ったのだ。それよりも前に彼が目覚めているとは予想していなかった。

だから、疑問に思った。

「ルイはいつもこれほど早起きなの?」

朝の風は爽やかであるが、僅かに冷気を持っている。まるでルイのようだ。捉えどころがなく、それでも存在を隠すことはない。

永く一緒に暮らしているのに、彼の活動時間を知らないとヒカルは自分で認めることになり、顔を赤らめた。彼の生活を乱すつもりはなかった。だから、ヒカルは静かに後ろを歩いて行こうと思ったのだ。でも、ルイは気が付いた。気付いていてくれた。

すると、彼は彼女を一瞥して、短く呼吸する。ヒカルが薔薇を届ける時間よりも早い時間に彼が目覚めていたのだとしたら。そんな疑問が湧き上がる。ミモザの晄がヒカル・クロスに大胆な仮説を思い起こさせている。

彼は、待っているのではないのだろうか。朝一番に、花を届ける人のことを。それはヒカルではなく、アルディ家の奥深くに住まうあの人を待っているのではないのだろうか。

「待っているの?」

「誰も」

無視しているはずの彼が、彼女に答えた。

「ルイが待っている人は誰?」

彼はただ冷笑する。柔らかく白い朝の空気がルイを囲んで美しく輝いていた。

「オレは誰も待たない」

「それなら、私が待ちたい」

ヒカルの懇願に、ルイは呆れたように一瞬沈黙する。わかっているのだ。

彼が待っているのはヒカルではない。父と母による溺れるほどに深い愛、というものを知らないルイは誰も待たないと言う。

それでも、彼がこの時間に起きて漫ろ歩く理由を理解したいとヒカルは思うのだ。空に勢いよく伸びて泣きたくなるほど鮮やかな、迫り来る黄金色の息吹が目の前にあった。その景色の中にルイが溶け込んで、消え入ってしまいそうでヒカルはとても不安になるのだ。

「傲慢なヒカル」

ルイは酷薄さを剝き出しにして嗤う。彼女に関して、彼は感心したり願いを聞き入れたりすることはない。アルディ家の継嗣として必要な時だけ、皆が見ている時に限り彼女に声をかける。

「待ち人などは必要ない」

心なしか、その声は掠れていた。ヒカルのことを疎ましいと思っているのはわかっていたが、やはり面と向かって拒絶されることにはいつまでも慣れない。だが、落ち込んでいたり畏縮してしまっては声をかけられないと思っていた。吸い込むだけは駄目だ。駄目なのだ。彼女は己を


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