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01


 終業のチャイムが聞こえてきて、サリーはほっと息をついた。
 旅行会社の事務の仕事について、今日で二週間。
 仕事にはようやく少し慣れたのだが、一日中、デスクに向かって座り、パソコンのモニターを見ているということに慣れない。
 肩こりと眼精疲労はピークとなっている感じで、背中とこめかみがズキズキうずく。

「お疲れさま、サリー」

 隣のデスクで事務をしているエミリーが、にっこりと微笑みかけてくれた。
 癖のある赤毛に、緑の瞳。鼻の上に散るそばかすが、とてもキュート。
 明るくて世話焼きな彼女は、サリーに手取り足取り仕事を教えてくれた。

「今日はどう? そろそろいいんじゃない?」

 顔をのぞき込まれ、片目を意味ありげに閉じられて、サリーは苦笑をもらす。
 入社してからずっと、エミリーから、二人だけの歓迎会をしたいと言われていた。
 だが、サリーはそのありがたいお誘いを、ずっと断ってきたのだ。

 エミリーとは、二人しかいない事務員の仲間だし、仕事を教えてもらったという恩がある。
 それに、エミリーはとても楽しい人で、一緒にいることが苦になることなどない。

「それじゃ、行きましょうか?」
「そうこなくっちゃ!」



 職場を出て、そのまま地下鉄に乗って、繁華街に出た。
 二人の職場である旅行会社は、地下鉄の地下通路にある小さな店だ。
 便利がよいせいか、利用客は多く、二人の仕事も多い。
 長いデスクワークで凝り固まった体を伸ばし、おしゃべりを楽しみながら、二人は女性向けのおしゃれな店に入った。

 たくさん料理を頼んで、カラフルなカクテルで乾杯して。
 仕事の愚痴、上司の悪口、たわいない世間話を楽しむ。
 ごく普通の、会社帰りの光景。

(こういうの、憧れていたんだよね……)

 警察時代、周囲は男性ばかりだった。
 しかも、定時に帰れることなんて滅多になくて。
 飲みに行くことがあったとしても、それは事件の終わった後、誰かの不幸を見て聞いて、どうしたって落ち込んでしまうのを持てあまして、刑事同士で慰めあうような、そんな飲み方がほとんどだった。

 エミリーと話しているのは、今日、風変わりな格好をした客が来たとか、書類の不備を上司にネチネチ叱られたとか、ツアコンの誰それは格好いいとか、そんな平和なこと。
 前の就職先である、イベント会社に勤めていたときも、何度かこういう機会があって、とても嬉しかった。
 こういった『普通』なことに、ごく普通の『日常』に、憧れてしまう気持ちは止められない。

 でも、これを心から楽しんでいるのかと聞かれれば、サリーは口ごもる。
 楽しいことには間違いないのだが、かなり気を遣っている。
 言葉には気を付けるし、刑事であったことは話したくないから、過去の話題は極力避ける。
 違和感を与えたくないから、二十七歳の事務員が知っているわけがない事など、うっかり口にしないようにしている。

 本当の自分を受け入れてもらっているわけではないのだという意識は、常に心の奥底に残っていて。
 それで、心から楽しめるわけがない。

「ねえ、サリーは、髪をおろさないの?」
「え?」

 聞かれて、サリーはドキリとした。
 瞬間、思い出したのは、あの美貌の魔法使いのことで。

(髪、おろしているほうが似合うね)

「綺麗な髪なのに、もったいな~い。長いんでしょ?」
「背中の真ん中ぐらい。手入れしてないから、綺麗じゃないのよ」

 エドウィンは、いつもサリーの髪を綺麗だとほめてくれた。
 さりげなく、髪に触れたり。指に絡めたり。
 あの魔法使いは、さりげなく触れてくることがとても上手で、警戒心を持つ間もなく、腕の中に抱きしめられキスされたことだってある。

(やだ。思い出さないでよっ)

 自分の無駄に優秀な記憶能力に、思わず腹が立ってしまうほど、エドウィンの記憶が鮮明に戻る。
 ピカピカの金髪に、深い緑の瞳は、いつも笑みを浮かべていたような気がする。
 魔法使いとしての営業用笑顔は、それはもう魅力的だったけれど、ステージを下りた素の彼の笑顔も、負けないくらいに魅力的で。
 乱暴な話し方も、妙に子供っぽいところも、さりげなく乱暴者なところも、凄く素敵で。
 どんなエドウィンにも共通していたのが、お日様みたいに明るくて暖かかったこと。

(忘れる忘れる忘れる)

 エドウィンの部屋から出た夜から、ずっと心の中でとなえている呪文。
 でも、ほとんど効果がない。悔しいぐらいに。

 半月前、ロッシュの部屋にまで押しかけてきたエドウィンを思い出し、サリーはきゅっと唇を引き結んだ。
 諦めないと言い、実際、ロッシュの部屋にまで来てくれたエドウィン。
 嬉しくなかったなんて、とても言えない。

「サリー?」

 不意にエミリーに顔をのぞき込まれ、サリーはびくりと震えた。
 そんなサリーを、エミリーは笑ってみている。

「サリーったら、何考えてたの? なんだかすっごく嬉しそうだったけど」
「そ、そう?」
「わかった。彼氏のことでしょ~。やっぱり、いるんだ」
「やだ。いないってば」
「あやし~~」
「ちがいますっ」

 思わず、強い口調で否定してしまったサリーに、エミリーは目を瞬いた。
 エミリーはちょっとからかっただけなのだから、もっと軽く冗談でかわせばよかったのだ。
 失敗だとわかっても、サリーはうまい言い訳や誤魔化しが思いつけなくて、グラスを見るふりをして俯いた。

「そっか。片思い?」

 ぎょっとして顔をあげてしまったサリーに、エミリーは微笑する。
 さっきまでの、からかうような笑みではなく、どこかちょっと真剣な。

「私もさぁ、片思い中だから、気持ちわかるなぁ。その人のこと考えてるだけで、幸せになれちゃうよね」
「……そうね」

 厳密に言えば、片思いではない。
 エドウィンは、きっぱりしっかり、愛していると言ってくれているのだから。
 でも、彼の側にいけないと、恋人同士にはなれないというのは、片思いと一緒かもしれない。

 自分の中に、彼への何か特別な思いがあることは、サリーも自覚していた。
 だがそれが、恋なのか、愛なのか、もっと違うものなのか、それはよくわからない。
 ただ、彼の側にもっと居たかったと思う。
 そしてそうできていれば、自分の中のこの思いの正体も、はっきりしたのではないかと思えた。

(でも、これでよかったのよ)

 エドウィンの側にいるわけにはいかない。
 魔法使いに、血なまぐさい世界は似合わないし。
 彼の周囲には、彼をとても大切にする人が大勢いるのだから、自分の存在など受け入れてもらえないだろう。

 未来のない関係なら、最初から特別なものにする必要なんてない。
 彼と自分とでは、住む世界が違いすぎるのだ。なんとも陳腐な言いぐさだけど。

 あとは、このままエドウィンが忘れてくれるか、諦めてくれればいい。
 だが、それがどうやら無理そうだと思うのは、サリーの希望的観測というわけではないだろう。
 優秀な情報屋のロッシュは、いつか必ず居所は知れるぜと、断言してくれた。

 ロッシュの名前だけで、たった三日で自宅まで突き止めたエドウィンなら、それも可能だろうとサリーも思う。
 今回、アパートは偽名で借りたのだが、就職は本名でした。以前勤めていた会社が、推薦状を書いてくれたからだ。
 就職難のこのご時世、きちんとした会社に就職するには、推薦状は欠かせない。
 以前のように外に出るような仕事ではないから、そう簡単にエドウィンに知られるとは思えないが。

(時間の問題よね)

 だが、それまでの猶予期間はある。
 今度、エドウィンに会ったときまでに、きっぱりお断り出来るようになっていればいい。
 嫌がる相手に強引に迫るほど、エドウィンは暇では無いはずだし、きっともてるんだろうし。

「告白とかしたりしないの?」
「え」

 ぎくりと、サリーは体を震わせてしまった。

「じっと待っていても幸せはこないじゃない? 幸せは自分でつかむものだって、母によく言われたわ」
「………」

(幸せ……)

 サリーは、自分から自分の幸せのために、何かしたことがあるだろうかと考えた。
 そして、少なくとも、ここ十数年、そんなことはなかったのではないかと思えた。

02


 そんな贅沢なことは、許されなかった。
 幸福になることよりも、不幸にならないようにするだけで精一杯。
 周囲の人々に不幸を振りまかないようにするだけで精一杯だった。
 それさえも上手く出来たとは言えないのに、自分の幸せなど考えたこともなかった。

「ねえ、サリー?」

 サリーは、自分が考えに没頭してしまっていたことに気が付いた。
 きっと凄く真剣な顔で、黙り込んでいたのだろう。
 ちょっとした恋の悩みで、ここまで考え込んでしまったのをどう思われているだろうか。
 変に思われて、問いつめられたりするような展開にだけにはなってほしくない。

 サリーはそっと、エミリーの表情を伺った。
 すると、エミリーもぼうっとして、テーブルに頬杖を付き、明後日の方を向いていた。

「好きな人から告白してもらったら、嬉しくてすぐに返事をするものよね?」
「ど、どうかな……。状況っていうのもあるわよね」
「返事が出来ない状況って、そんなのあるの?」
「え、えっと……」

 エドウィンに愛を告げられたというのに、何の返事もしていないサリーは、口ごもってしまう。

「す、好きだけど、好きって言えない状況よ」
「だから、どんな?」
「それはえーっと、あーそのー」
「サリー」
「自分にはもったいないって思ったりとか」
「もったいない?」
「そうそう。そういうの、思ったりするでしょ? この人なら、もっと綺麗で素敵な人の方が似合うのにとか、自分とじゃ釣り合わないとか、もっといい人を見つけて……」

 幸せになってほしいとか。

「でも! でもそんなこと! 変よ。だって、私だって好きなのに」

 急に、がばっとエミリーがこちらに振り向き、上半身を乗り出して大きな声を出したのに、サリーは驚いた。

「彼がOKしてくれれば、私、すっごく幸せになれるのよ。それ以上の幸せなんて、ないのに!」

 どうやら、エミリーは誰かに告白をして、その返事をもらえてないようだった。
 サリーをけしかけているようで、自分の悩みを話していたらしい。
 だから、サリーが挙動不審だったのに気が付かず、会話に一々サリーが動揺していたのにも気が付かず、会話が成立していたらしい。

(問いつめられなくてよかったけど)

 なにやら疲労を感じて、サリーは肩を落とした。

「カスパーに告白したのね」

 ぼぼっと、火が吹き出そうなほど激しく、エミリーは赤面した。

「ど、どうしてわかったの!」

(いや。わからないほうがどうかと思いますけど)

 ついさっきまで、カスパーがどれほど格好いいか、エミリーは力説していたのだ。
 サリーもまあ、彼のことはいい男だと思う。
 金髪に緑の瞳で、さわやかな笑顔の好青年。
 サリーも時々、これはエミリーには絶対に言えないが、彼の笑顔にドキッとすることがあった。……少しだけ、誰かに似ていたので。

「でも、彼、ずっとツアーで出かけているじゃない。その前に告白したの?」
「ええ、そうなの。それで、返事は帰ってくるまで待ってほしって言われて」

 どうやら、エミリーは話したかったらしい。
 サリーが聞かなくても、どんどん話し始めた。
 どうやって、カスパーに告白したのか、その状況と苦労を長々。
 そして、彼がツアーに出ている間、どれほど気をもんでいたのか。

「あ、もしかして、今日、帰ってきているんじゃないの?」
「そうなの!」

 それなら、明日、カスパーは店に顔を出すだろう。
 エミリーは待ちに待った返事を聞けるということだ。

「いよいよなの。すっごい緊張してるのよ」

 エミリーはとても嬉しそうだった。
 彼女は人目をひく美人というわけではないが、十分に可愛いし明るい性格で、一緒にいてとても楽しい女性だ。
 カスパーとなら、きっとお似合いだし、エミリーにはいつも幸せそうに笑っていてほしいから、サリーもとても嬉しかった。

「頑張ってね」
「ありがとう、サリー!」

 二人は乾杯をして、にこにこと笑いあった。

03


 そのまま二人きりの歓迎会は盛り上がって、深夜近くになって、ようやく店を出た。
 だが、明日への期待と緊張もあるのか、エミリーのテンションは全く下がらず、もう一軒行こう! と主張して譲らない。

「でも、エミリー。もうかなり遅いわよ」

 ここらへんは、遅くなるとあまり安全とはいえない所なのだ。
 歓楽街なので、それも当然なのだが。

「あと一軒だけ! ね、サリー」
「エミリーったら。明日、ボロボロの顔で、カスパーに会いたくはないでしょ?」
「大丈夫! あと一軒だけなら、いいでしょ」

 どうやら、エミリーはかなりハイテンションのようだった。
 きっと、ずっとカスパーのことを誰にも話せず、話した友人もいるのかもしれないが、カスパーを知っているサリーと話を出来たことは、やはり嬉しかったのだろう。

(しょうがないなぁ)

 それに、サリーも楽しかった。
 こんな風に羽目を外すのだって、凄く久しぶりだし。

「私ね、とってもいいお店知っているから。そこに行こうよ」

 と、サリーが返事をするのを待たずに、エミリーは走り出していた。
 裏通りにある店らしく、細い路地をどんどん入っていく。
 酔っぱらいのくせに、あんなに走って大丈夫かしらと、サリーは苦笑をもらす。

「あ、道、一本、間違えちゃった!」

 酔っぱらいのお約束な行動に、サリーは足を止める。

「戻ってらっしゃいよ。やっぱりもう帰れって、神様が言ってるんじゃない?」
「なに言ってるの。確か、ここの横道から抜けれると思うから」

 エミリーは路地と路地をつなぐ更に細い横道に、一人で入っていった。
 まだ店の開いている時間だといっても、女性の一人歩きはあまりおすすめできない場所だ。
 サリーは慌てて、エミリーを追って走り出した。

「きゃっ!」

 道の向こうから聞こえてきた、エミリーの短い悲鳴に、サリーはぎくりとした。
 さっと緊張が走り、走る速度は酔っぱらった女性のそれから、刑事のそれに変化する。
 ショルダーバックを抱え、その中にある銃をいつでも出せるように、手を入れる。全て、無意識の行動だった。

「エミリー!」

 路地に入ると、道の真ん中に座り込んでいるエミリーの姿が見えた。

「大丈夫?」

 サリーが呼びかけても、エミリーはサリーを振り返らない。
 エミリーは路地の曲がり角に座り込んでいて、曲がり角の向こうを、呆然とした顔でまっすぐに見つめていた。

(あの向こうに何かある)

 サリーはエミリーの前に彼女をかばうように、曲がり角の向こうに銃を構えながら、仁王立ちになった。

「!」

 曲がり角の向こう、細い路地には、女性が一人、倒れ伏してた。
 長い黒髪がひどく乱れ、彼女の顔を隠している。
 そして、女性の体を中心に、ゆっくりと赤い色の水たまりが広がり始めていた。

04


 サリーは躊躇無く、その女性に駆け寄った。
 髪をかきあげ、顔を確認する。目は恐怖にだろうか、見開かれていたが、サリーを見ようとはしなかった。
 そっと、指一本で、心臓の鼓動をさぐる。どこに触れても、手首にも、首筋にも、脈は感じられなかった。

(多分、即死に近いわね)

 女性の心臓のすぐ下に、大きな刺し傷があった。
 周囲に凶器は見当たらないが、多分、大型のナイフだろう。

 サリーはこれ以上現場を荒らさないように、そっと後ずさった。
 銃をバックにしまい、エミリーの前に膝をつく。

「エミリー、大丈夫?」

 サリーの体が現場を隠すからか、エミリーの目に少し光が戻った。

「エミリー。サリーよ。聞こえる?」
「………サリー?」
「ええ、そうよ。エミリー、私がわかる?」
「ええ、わかるわ」

 ぼろりと、エミリーの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 すぐに抱きしめて慰めて、こんな現場など忘れさせてあげたかったが、サリーはどうしても聞いておかなければならないことを先に済ませたかった。

「犯人を見た?」
「………え?」
「とても大切なことよ。あなたがここに来たとき、他に誰かいなかった?」

 死体はまだ暖かく、出血だって止まっていない。
 きっと、今、殺されたばかりなのだ。

「あの女性を殺した犯人よ。捕まえなくちゃ。わかる?」
「え、ええ」
「誰か見た?」
「は、走り去る、後ろ姿だけ」

 サリーは振り返る。
 路地の先は闇に閉ざされていた。
 そして、ここらへんは迷路のように細い路地が広がっていることを、サリーはよく知っていた。

 今、一人で追うのは無理だ。
 それに、エミリーを残していくわけにもいかない。

 サリーはバックから携帯を出すと、警察に電話を始めた。

「警察ですか? 女性が死んでいます。殺されたばかりのようです。すぐに来てください」

 通報を終えると、しっかりとエミリーの体を抱きしめる。
 彼女は小さく震えていた。
 それがとても、サリーには切なかった。

05


 翌日。
 サリーはいつも通りに出勤したが、流石にエミリーは欠勤だった。

 昨夜、駆けつけた警察に同行を求められ、警察署で明け方近くまで話をさせられた。
 エミリーは第一発見者として、かなりしつこく話を聞かれていた。
 第一発見者を疑うのは捜査のセオリーなのだし、逃走した犯人の後ろ姿を見たのだから、仕方がないのだろう。
 だが、生まれて初めて警察署の受付よりも奥に入ったエミリーにとって、それはとんでもないストレスだったに違いない。
 それを言うなら、他殺死体などを目の前で見るのも、初めてだっただろう。

(早く元気になってくれるといいいんだけど)

 本当なら、仕事を休んでエミリーの側についていてあげたいのだが、二人しかいない事務が二人とも休むわけにはいかない。
 それに、やけに冷静に対処していたサリーに、エミリーは奇異の目を向けていた。
 あんな事態に冷静であるばかりではなく、きっと慣れているようにも見えたのだろうから、仕方がない。
 だが、あんな風に見られるのは、やはり辛くて。

 それにしても。
 サリーは、そっとため息をついて、肩をおとす。
 刑事を辞めて、前のイベント会社では十ヶ月無事件で働けたのに。
 今回はわずか二週間で、事件に遭遇してしまった。しかも、殺人事件。

(ロッシュが知ったら、それみたことかって言われるんだろうな)

 耳の早いロッシュは、きっともう知っているんだろうが。

(でも、今回、被害者とは無関係だったし)

 亡くなった女性には申し訳ないのだが、エミリーになにもなくて、サリーは心の底からほっとしている。

「えっと、サリーだっけ?」

 サリーのデスクに腕をつき、若い男が声をかけてきた。
 知っている顔。エミリーが告白した相手、カスパーだった。

「エミリーは? もしかして、欠勤?」

 そういえば。あの騒ぎですっかり忘れていたが、今日はエミリーにとって、とても大切な日だったのだ。

「そうなの。ちょっと事情があって」
「そうか……」

 残念だなと、カスパーが口の中でつぶやくのを、サリーは聞いた。
 これはもしかして、もしかするのではないだろうか。
 そうならば、ここはエミリーのためにも、フォローしなければと、サリーは思った。

「彼女、昨日、ひどいめにあったのよ」

 上司が銀行に行っているのを幸いと、サリーはカスパーに昨夜の出来事を細かく説明した。
 カスパーはとんでもない事情に、当然ながら、とても驚いていた。

「そ、それで、彼女は大丈夫なのかい?」

 まず、エミリーのことを心配するなんて、これはかなりいい傾向なのでは。

「今はとてもショックを受けていて。怯えているみたいなの」
「そうか……。それで、彼女には危険はないのかい?」
「危険?」
「だって、犯人を見たんだろう? それは、犯人もエミリーを見たってことになるじゃないか。犯人がエミリーの口を塞ごうとか」
「ああ、その危険ね」

 勿論、カスパーに言われるまでもなく、サリーはその危険について考えた。

「大丈夫よ。エミリーは走り去る犯人の後ろ姿を見ただけなの。しかも、かなり距離があって、服の色さえ証言出来ないほどよ。エミリーを振り返ることもなかったから」

 犯人がエミリーを見なかったイコール、エミリーも犯人の顔を見なかったということで、刑事達は残念に思っただろうが、サリーにとっては一安心だった。
 もし見ていたとしたら、エミリーは事件にもっと深く関わることになるし、それこそ犯人に命を狙われる危険だってでてくるのだから。

「そうか。よかった」

 カスパーもほっとしている。
 エミリーを本気で心配している様子の彼を見ていて、サリーはこれはもしや二人にとっていいきっかけになるのではと思えた。
 今、エミリーは誰かの手をとても必要としているわけだし、その手をカスパーが差し出してくれるのなら、きっと二人の絆は深まるのではないだろうか。

「側にいてあげたいんだけど、私まで仕事を休むわけにはいかないの」
「俺が行くよ」
「助かるわ」

 即答してくれたカスパーに、サリーはにっこりと微笑んだ。
 どうやら、今回の事件は、それほど周囲を不幸にすることなく終わりそうで。
 サリーはとても嬉しかった。


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