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解脱の位置づけ

 解脱は、覚りを説明する言葉の一つである。現実には、解脱=覚りである。したがって、覚りという言葉で覚りそのものは言い尽くすことができるだろう。しかしながら、覚ったときに実際に知見されるのは、覚りではなく解脱の方である。すなわち、覚ったと思うのではなく、解脱したことを知るのである。それで、解脱という言葉が修行者達の間ではよく語られることになった。この意味において、すなわち体感されることがらという意味で、解脱と覚りには違いがある。

 また、覚りと言えば目覚めるという一つの意味を指す言葉であるが、解脱には三つの階梯がある。ある修行者が覚ったとき、どの解脱を果たしたのかという論議をすることになるだろう。このとき、やはりどうしても解脱という言葉を用いることになる。それで、覚りという言葉だけでなく、解脱という言葉が覚りという言葉とともに今日まで残ったのであると推察される。

 たとえば、食事をする目的はもちろん栄養素を摂取することである。しかしながら、実感されることは料理が美味しかったとか、お腹一杯になったとか言うことだろう。同様に、目的は覚りだが、実感されることは解脱、と言うことになる。

 ところで、解脱という表現を用いるときには、一切の苦悩からの解脱とか、輪廻からの解脱とかの言い方がなされる。これはたとえば、「見る」という同じ言葉であっても、物理的に見るという最も正統な表現で用いる場合と、~であると見るというように心に見るという場合があるようなものである。すなわち、解脱という言葉で表現したい心中の現象が、煩いの本体からの解脱という正統なことがらの場合も、一切の苦悩であるとか、輪廻であるとかからの離脱による場合も、心中に生じる現象の印象が同一であり、少なくともごく近い印象を持っているので、解脱という一つの言葉を広義に言葉を用いているのである。

 したがって、本書ではそれぞれを区別するために、単に解脱という場合には煩いの本体からの解脱を指し、苦悩や輪廻からの解脱の場合には「一切の苦悩からの解脱」とか、「輪廻からの解脱」というように、修飾語をつけて表記することにしたい。

 さて、本題に戻ろう。解脱の位置づけであるが、まとめれば次のように言えるだろう。

  『解脱は、覚りを生じた心的現象そのものであり、それは煩いの本体からのそれぞれの解脱を指す。そして、覚りとしての位置づけは、解脱の階梯によってその詳細が決まる。』


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現象論としての解脱の理解

 解脱は、基本的には心的現象である。したがって、すでに解脱を果たした覚者といえども、それを客観的に明らかにすることはできない。しかしながら、普遍妥当な客観性を以て、現象論としての解脱論を語ることはできる。

 さて、解脱を現象論として扱うためには、先ず現象としての対象を指定しなければならない。この場合、解脱の本体とでも称すべき対象が必要となるであろう。ここでは、それを「解脱の体」と仮設することにする。こうすれば、解脱を次のように規定することができよう。

  『解脱とは、解脱の体が裂け落ちることである。』

 さて、ここにおいて、すでに解脱を果たした覚者達からの話を綜合することによって、解脱の体が何であるか、その正体に迫ることができる。

 それは、次のようなものであると説かれる。

  名称(nama)と形態(rupa)が、解脱の体である。

 これらが解脱することによって、それぞれの体の作用が消滅し、安らぎが得られることになるのである。ここで、

 名称(nama)作用が滅びた場合、世間の煩いが終滅する。これを心解脱と呼ぶ。

 形態(rupa)作用が滅びた場合、識別作用が終滅する。これを身解脱と呼ぶ。

 名称と形態(nama-rupa)の両方の作用が滅びた場合、一切の苦悩が終滅し、また一切智を得る。これを慧解脱と呼ぶ。

 それぞれの解脱の詳細については、次節以降に譲るとして、ここで大事なことは次のことである。

  『解脱は、何かを付け加える手段ではなく、余計なものを裂け落とす手段である。したがって、誰もがそれを達成できる筈のものであると言える。素質も才能も要らない。それぞれの人の出発点がどこであろうとも、苦の体として心に何を纏っていようとも、それをいわばゼロに帰すことが解脱に他ならないからである。』

 少なくとも解脱を現象論として語るときには、このことが周知されていれば充分であり、他の論議を要しない。修行者は、このことを忘れずにいて、混迷に陥らないようにしなければならない。


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衆生はなぜ容易に解脱しないのか

 解脱の根拠や要因を語るのは、いわば解脱を生じつつある人に向けた言葉である。現実には、衆生は容易には解脱を生じない。その理由について述べたい。ここで、こんなことを述べるのは、人々(衆生)に解脱を目指そうとする心を起こしてほしいからである。自分のことを省みて、思い当たることがある人は、きっと解脱を目指す心を起こすであろう。そう信じて、以下に、衆生が容易には解脱を生じない理由を列挙する。

 
 一番の理由は、衆生は、まさか自分が解脱することができるとは思っていないことである。たとえ解脱という言葉を聞き知っていたとしても、それは自分には縁のない、遠いところの話であり、それがそのまま自分に当て嵌まることだとは夢にも思わない。つまり、その気がない。それで、衆生は容易には解脱を生じないのである。
 
 二番目の理由は、衆生は、解脱が何か恐ろしいことを伴う現象だと決め込んでいることである。たとえ、解脱は何も恐ろしいことはないものであり、何の苦悩も、何の痛みも、何の心配もいらないものだと説明したとしても、それでも衆生にとって解脱はまったく未知のことがらであり、知らないというだけでそれを怖れるに充分な理由になるだろう。
 
 三番目の理由は、衆生は、今の生活を何一つ変えたくないと頑迷に思っていることである。苦があっても、それは多少のことであり、我慢の利くものであり、やり過ごせばよいものであり、苦があって楽があると信じられるものであり、多くの人々が生活の変化を好まないものであり、それが常識的で、現実的であると考えている。現状を打破すべきだと感じていても、それと解脱とは結びつかない。お茶を濁すようなことで対処できればよいと考え、それが結局は自分にできる最善の方法なのだと信じているのである。
 
 四番目の理由は、衆生が、解脱の真実とその真相を知らないということである。知らなければ、興味を抱くこともない。それで、衆生は容易には解脱しないのである。
 
 さて、どうであろう。思い当たる節があるだろうか。思い当たることがある人は、解脱を目指す心を起こしてほしい。
 
 私は、菩薩に向けてではなく、衆生に向けて本書を著そうと思った。人々(衆生)を、直接解脱に導く方法は存在しないが、解脱の真実とその真相を読み物として示すことはできると考えたからである。
 
 解脱の真実とその真相を知った人は、解脱を、つまり覚りを目指すであろう。円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至る道は平らかであり、その進むべき方角には何の危険もない。栄えと楽しみとともに目的地に到着する道である。しかも、目的地に至ればそこには苦悩がない。そこには憂いがない。そして、苦悩の世に逆戻りすることもない。人々がこの安らけく境地を目指さない筈がない。この世の享楽にとらわれ、苦に安住している衆生といえども、真実を知れば、ニルヴァーナを目指すであろう。そうであることを、私は確信している。

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あとがきに代えて

 解脱の瞬間に起こることは、解脱した人だけしか知らないことである。しかし、それゆえに解脱していないのに、解脱したと吹聴する者が現れても、それを一笑に付す手段が一般の人々には存在しないことになる。
 
 解脱についての誤った情報は、解脱することに対して恐怖心を植え付ける怖れがある。それは、愚かなことである。解脱は、何の恐ろしいこともないからである。
 
 本書は、解脱の真実についてそのすべてを記した。こころある人は、解脱の真実とその真相を知って、正しい理解にもとづく解脱を果たしてほしい。解脱によって、苦の輪廻を脱すると説かれるからである。
 
 例によって、この本は必要があれば適宜拡充して行くつもりである。コメントやメールなどで読者の感想や意見があれば歓迎したい。
 
    2012年2月15日 著者記す        

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三つの解脱

 解脱には、三つの階梯が認められる。心解脱、身解脱、そして慧解脱である。

 心解脱は、名称(nama)作用からの解脱を果たしたもので、通常、観(=止観)の完成によってもたらされる。心解脱を果たした人は、世間の束縛を断ち切っていて、輪廻を脱している。それで、不還と呼び、長老と称する。

 身解脱は、形態(rupa)作用からの解脱を果たしたもので、通常、三宝(仏法僧)への帰依によってもたらされる。身解脱を果たした人は、一切の束縛を断ち切っていて、識別作用を滅し、もちろん輪廻することがない。このような人を、阿羅漢(アルハット:応供)と呼び、尊者と称する。

 慧解脱は、名称と形態(nama-rupa)の両方からの解脱を果たしたもので、正法を知り、正法にしたがい、正法の通りに智慧を得て、智慧を領解し、智慧に入ったとき、それは起こる。慧解脱を果たした人は、一切智者であり、一切の束縛を離れ、識別作用を滅し尽くし、輪廻することがない。このような人を、目覚めた人、仏(ブッダ)と称する。

 聖求ある人が、徳行に篤く精励するならば、心解脱を果たす。さらに、一大事因縁を生じたならば慧解脱を生じ、仏となる。

 信仰篤き人は、ついには身解脱を果たす。さらに、真実を知ろうと精進するならば、一大事因縁をも生じ得るだろう。

 解脱の体が二つあるので、三つの解脱がある。しかし、修行者はどの解脱を得ても苦を滅し、輪廻を脱することができる。覚りの階梯にはこだわらず、修行に邁進すべきである。

 ところで、私自身の体験から言って、解脱の階梯は固定的なものではない。より高い階梯にさらに解脱することができるからである。そして、その逆は無いので心配はいらない。修行者は、辿り着いた解脱の階梯にこだわらず、さらに精進すればよいのである。すべての修行者は、仏になり得る。これが真実である。


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奥付



解脱


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著者 : SRKWブッダ
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『覚りの境地』 』 『 『感興句』 』 『 『観』 』 『 『功徳』 』 『 『一円の公案』 』 『 『信仰』 』 『 『仏道の真実』 』 『 覚りの境地(2019改訂版) 』 を購入した方は 1,000円(税込)

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