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[更新履歴]

 2012年02月15日  第1版完成。発刊。
 2012年02月16日  3章に一節を追加した。 「解脱と懺悔」
 2012年02月17日  3章に一節を追加した。 「解脱の因縁」
 2012年02月19日  付録-「実例 涼風尊者(身解脱:阿羅漢果)」を拡充した。
 2012年02月22日  「衆生はなぜ容易に解脱しないのか」を試し読み可とした。 
 2012年04月12日  全体的に文章を拡充した。 

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はじめに

 仏教を多少なりとも知っている人であれば、解脱という言葉を耳にしたことがあるであろう。そのような人は、解脱は、ほぼ覚りと同義に用いられていることも理解しているかも知れない。しかしながら、覚りが境地を示す言葉であるのに対して、解脱は心的現象を表す言葉であり、それぞれの意味合いには少なからぬ違いがある。

 ところで、私は覚りに興味がある人々と話す中で、あるいは仏教の書籍を読んだ中において、この人は解脱して覚りを得たいと願っているに違いないと思える人が、実は解脱の真相をほとんど知らないことに気づいた。このような人たちは、解脱の真相を知らないのに、それでも解脱して覚りを得たいと願っているのである。そして、そのことそれ自体は決しておかしなことではない。解脱は、本当に素晴らしいできごとだからである。

 さて、解脱の真相を知ろうにも、仏典には解脱そのものについての記述が少ないこともあって、その本質を理解することは極めて難しいであろう。解脱のありさまを想像するにしても、覚りが何となくイメージしやすいものであるのに対して──もちろん、覚りと解脱は同じことの違う側面なのであるから、解脱が分からないということは覚りが分からないこととほとんど同義なのであるが──、解脱は何が何からどう解脱するのかというようにそもそも分かりにくいのは確かである。

 現実に解脱を生じた人でない限り、その具体的なイメージを描くことはとてもできまい。そして、そのような曖昧な理解しか無いのでは、仮に解脱したいと思ったとしても何をどうしてよいかさっぱり分からないに違いない。

 また、解脱は一種恐ろしい一面があると、誤って流布されているきらいもある。これは解脱の真相が明らかでないことに由来するものだと推定されるが、解脱がもし何らかの恐怖を伴う現象であるとすれば、そもそも解脱しようとする気持ち自体がくじけてしまうのは確かだろう。そして、このように解脱についての知識が余りにも貧弱な状況では、人々が解脱を目指すことに二の足を踏むのも無理もない話である。

 さて、事実を言えば、解脱は決して恐ろしいものではない。解脱は、何の恐怖もなく、何の痛みもなく、何の危険もなく、もちろん苦悩もなく訪れるものだからである。覚ったあとで振り返っても、解脱の瞬間は、この世の最上の瞬間であると断言できるものだからである。

 しかし、そうは言っても、解脱の真相が詳らかでなければ、やはりそのことを人々(衆生)が信じるのは難しいであろう。もちろん、信仰篤き人は、解脱の真相など知らなくても、道を歩む揺るぎなき決心を為し、まっすぐに歩んで、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に到達するに違いないのであるが、通常の修行者には難しいかも知れない。一般の人ならば、なおさらである。

 これらのことを鑑み、ここに解脱の真相とその真実を明らかにしようと思ったのが、著作の動機となった。こころある人は、本書を読んで、解脱の真実とその真相を理解してほしい。その正しい理解が、解脱にまつわる根拠のない恐怖心を取り除き、修行に正しく奮励することを後押しするだろう。そうであってこそ、闇雲に覚りを求めることがなくなり、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に向かってまっすぐに道を歩むことができるにちがいないからである。


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解脱とは何か

 解脱とは、本能にもとづく心の動揺という苦(煩悩苦と言う)から脱れることを指す言葉である。分かり易く言えば、解脱とはいろいろな形でこの身に現れる種々さまざまな煩いからこころが永遠に解放されることである。そして、解脱はこの世において起こることの中で最上のことがらであると知られる。

 ところで、そもそも煩いとは何であろうか。人々(衆生)は、種々さまざまな煩いに苛まれているが、その正体を知らずにいる。その一方で、すでに解脱した覚者は、煩いには大きく二つの要因があることを知っている。それを言葉にすれば、一つは名称(nama)作用にもとづく煩いであり、もう一つは形態(rupa)作用にもとづく煩いであると言うことができる。

 ここで、名称作用にもとづく煩いとは、個人的要因(個人的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その原因を理性的に認識するなどして知的に克服できるかあるいは軽減することができる性質のものである。この名称作用にもとづく煩いは、先ず対象の認知があってその後に恐れや嫌悪などの煩わしい感情が生起する性質を持っている。

 他方、形態作用にもとづく煩いは、集合的要因(集合的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その煩いの本当の原因を理性的に特定し、あるいは察知することができず、これを知的に(意識的に,意思によって)克服することはできない性質のものである。つまり、形態(rupa)作用による煩いは名称作用にもとづく煩いに比べて根が深いものであると知られる。

 なお、この形態作用にもとづく煩いは、対象を認知すると同時に恐れや嫌悪などの煩わしい情動が待ったなしに認識される性質のものである。すなわち、形態作用にもとづく煩いとは、やや強引に例えるならばいわば「錯覚」のようなものであり、それはあらゆる経験要素を排し、後天的に得た知識や見識とは関係なく、先天的に、無条件に、否応なく認識される根本的錯誤である。このため、形態作用にもとづく煩いを、意思や哲学的見解などの方法によって克服することは不可能である。

 さて、解脱によってこれら二つの煩いからそれぞれ脱れることができる。これが解脱の本質であり、現象として起こることがらの主要部分である。

 なお、実際には、名称(nama)だけ解脱する場合と、形態(rupa)だけ解脱する場合、そしてその両方が解脱する場合の三つの解脱がある。これらの違いについては後述したい。

 ところで、解脱するとなぜ煩いから脱れることができるのかというその理由を知りたい向きもあるだろう。残念なことに、そのメカニズムそのものは説明できない。その手段が無いし、説明するための適当な言葉も無いからである。ただ、構成概念として、解脱によって「苦の体たる何か」が滅するためにそれぞれの煩いから脱れることができるようになるとしか言いようがない。その何かを敢えて言葉にすれば、それぞれ、名称(nama)と形態(rupa)と呼ぶべきものであり、上述ではこれらの用語を先んじて用いて説明したのである。

 もちろん、本書では解脱にまつわるすべてを述べようと思う。今述べた構成概念を含め、他に知り得たことがらについても以下の章・節で詳述したい。


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解脱の位置づけ

 解脱は、覚りを説明する言葉の一つである。現実には、解脱=覚りである。したがって、覚りという言葉で覚りそのものは言い尽くすことができるだろう。しかしながら、覚ったときに実際に知見されるのは、覚りではなく解脱の方である。すなわち、覚ったと思うのではなく、解脱したことを知るのである。それで、解脱という言葉が修行者達の間ではよく語られることになった。この意味において、すなわち体感されることがらという意味で、解脱と覚りには違いがある。

 また、覚りと言えば目覚めるという一つの意味を指す言葉であるが、解脱には三つの階梯がある。ある修行者が覚ったとき、どの解脱を果たしたのかという論議をすることになるだろう。このとき、やはりどうしても解脱という言葉を用いることになる。それで、覚りという言葉だけでなく、解脱という言葉が覚りという言葉とともに今日まで残ったのであると推察される。

 たとえば、食事をする目的はもちろん栄養素を摂取することである。しかしながら、実感されることは料理が美味しかったとか、お腹一杯になったとか言うことだろう。同様に、目的は覚りだが、実感されることは解脱、と言うことになる。

 ところで、解脱という表現を用いるときには、一切の苦悩からの解脱とか、輪廻からの解脱とかの言い方がなされる。これはたとえば、「見る」という同じ言葉であっても、物理的に見るという最も正統な表現で用いる場合と、~であると見るというように心に見るという場合があるようなものである。すなわち、解脱という言葉で表現したい心中の現象が、煩いの本体からの解脱という正統なことがらの場合も、一切の苦悩であるとか、輪廻であるとかからの離脱による場合も、心中に生じる現象の印象が同一であり、少なくともごく近い印象を持っているので、解脱という一つの言葉を広義に言葉を用いているのである。

 したがって、本書ではそれぞれを区別するために、単に解脱という場合には煩いの本体からの解脱を指し、苦悩や輪廻からの解脱の場合には「一切の苦悩からの解脱」とか、「輪廻からの解脱」というように、修飾語をつけて表記することにしたい。

 さて、本題に戻ろう。解脱の位置づけであるが、まとめれば次のように言えるだろう。

  『解脱は、覚りを生じた心的現象そのものであり、それは煩いの本体からのそれぞれの解脱を指す。そして、覚りとしての位置づけは、解脱の階梯によってその詳細が決まる。』


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現象論としての解脱の理解

 解脱は、基本的には心的現象である。したがって、すでに解脱を果たした覚者といえども、それを客観的に明らかにすることはできない。しかしながら、普遍妥当な客観性を以て、現象論としての解脱論を語ることはできる。

 さて、解脱を現象論として扱うためには、先ず現象としての対象を指定しなければならない。この場合、解脱の本体とでも称すべき対象が必要となるであろう。ここでは、それを「解脱の体」と仮設することにする。こうすれば、解脱を次のように規定することができよう。

  『解脱とは、解脱の体が裂け落ちることである。』

 さて、ここにおいて、すでに解脱を果たした覚者達からの話を綜合することによって、解脱の体が何であるか、その正体に迫ることができる。

 それは、次のようなものであると説かれる。

  名称(nama)と形態(rupa)が、解脱の体である。

 これらが解脱することによって、それぞれの体の作用が消滅し、安らぎが得られることになるのである。ここで、

 名称(nama)作用が滅びた場合、世間の煩いが終滅する。これを心解脱と呼ぶ。

 形態(rupa)作用が滅びた場合、識別作用が終滅する。これを身解脱と呼ぶ。

 名称と形態(nama-rupa)の両方の作用が滅びた場合、一切の苦悩が終滅し、また一切智を得る。これを慧解脱と呼ぶ。

 それぞれの解脱の詳細については、次節以降に譲るとして、ここで大事なことは次のことである。

  『解脱は、何かを付け加える手段ではなく、余計なものを裂け落とす手段である。したがって、誰もがそれを達成できる筈のものであると言える。素質も才能も要らない。それぞれの人の出発点がどこであろうとも、苦の体として心に何を纏っていようとも、それをいわばゼロに帰すことが解脱に他ならないからである。』

 少なくとも解脱を現象論として語るときには、このことが周知されていれば充分であり、他の論議を要しない。修行者は、このことを忘れずにいて、混迷に陥らないようにしなければならない。


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衆生はなぜ容易に解脱しないのか

 解脱の根拠や要因を語るのは、いわば解脱を生じつつある人に向けた言葉である。現実には、衆生は容易には解脱を生じない。その理由について述べたい。ここで、こんなことを述べるのは、人々(衆生)に解脱を目指そうとする心を起こしてほしいからである。自分のことを省みて、思い当たることがある人は、きっと解脱を目指す心を起こすであろう。そう信じて、以下に、衆生が容易には解脱を生じない理由を列挙する。

 
 一番の理由は、衆生は、まさか自分が解脱することができるとは思っていないことである。たとえ解脱という言葉を聞き知っていたとしても、それは自分には縁のない、遠いところの話であり、それがそのまま自分に当て嵌まることだとは夢にも思わない。つまり、その気がない。それで、衆生は容易には解脱を生じないのである。
 
 二番目の理由は、衆生は、解脱が何か恐ろしいことを伴う現象だと決め込んでいることである。たとえ、解脱は何も恐ろしいことはないものであり、何の苦悩も、何の痛みも、何の心配もいらないものだと説明したとしても、それでも衆生にとって解脱はまったく未知のことがらであり、知らないというだけでそれを怖れるに充分な理由になるだろう。
 
 三番目の理由は、衆生は、今の生活を何一つ変えたくないと頑迷に思っていることである。苦があっても、それは多少のことであり、我慢の利くものであり、やり過ごせばよいものであり、苦があって楽があると信じられるものであり、多くの人々が生活の変化を好まないものであり、それが常識的で、現実的であると考えている。現状を打破すべきだと感じていても、それと解脱とは結びつかない。お茶を濁すようなことで対処できればよいと考え、それが結局は自分にできる最善の方法なのだと信じているのである。
 
 四番目の理由は、衆生が、解脱の真実とその真相を知らないということである。知らなければ、興味を抱くこともない。それで、衆生は容易には解脱しないのである。
 
 さて、どうであろう。思い当たる節があるだろうか。思い当たることがある人は、解脱を目指す心を起こしてほしい。
 
 私は、菩薩に向けてではなく、衆生に向けて本書を著そうと思った。人々(衆生)を、直接解脱に導く方法は存在しないが、解脱の真実とその真相を読み物として示すことはできると考えたからである。
 
 解脱の真実とその真相を知った人は、解脱を、つまり覚りを目指すであろう。円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至る道は平らかであり、その進むべき方角には何の危険もない。栄えと楽しみとともに目的地に到着する道である。しかも、目的地に至ればそこには苦悩がない。そこには憂いがない。そして、苦悩の世に逆戻りすることもない。人々がこの安らけく境地を目指さない筈がない。この世の享楽にとらわれ、苦に安住している衆生といえども、真実を知れば、ニルヴァーナを目指すであろう。そうであることを、私は確信している。


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