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解脱とは

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解脱とは何か

 解脱とは、本能にもとづく心の動揺という苦(煩悩苦と言う)から脱れることを指す言葉である。分かり易く言えば、解脱とはいろいろな形でこの身に現れる種々さまざまな煩いからこころが永遠に解放されることである。そして、解脱はこの世において起こることの中で最上のことがらであると知られる。

 ところで、そもそも煩いとは何であろうか。人々(衆生)は、種々さまざまな煩いに苛まれているが、その正体を知らずにいる。その一方で、すでに解脱した覚者は、煩いには大きく二つの要因があることを知っている。それを言葉にすれば、一つは名称(nama)作用にもとづく煩いであり、もう一つは形態(rupa)作用にもとづく煩いであると言うことができる。

 ここで、名称作用にもとづく煩いとは、個人的要因(個人的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その原因を理性的に認識するなどして知的に克服できるかあるいは軽減することができる性質のものである。この名称作用にもとづく煩いは、先ず対象の認知があってその後に恐れや嫌悪などの煩わしい感情が生起する性質を持っている。

 他方、形態作用にもとづく煩いは、集合的要因(集合的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その煩いの本当の原因を理性的に特定し、あるいは察知することができず、これを知的に(意識的に,意思によって)克服することはできない性質のものである。つまり、形態(rupa)作用による煩いは名称作用にもとづく煩いに比べて根が深いものであると知られる。

 なお、この形態作用にもとづく煩いは、対象を認知すると同時に恐れや嫌悪などの煩わしい情動が待ったなしに認識される性質のものである。すなわち、形態作用にもとづく煩いとは、やや強引に例えるならばいわば「錯覚」のようなものであり、それはあらゆる経験要素を排し、後天的に得た知識や見識とは関係なく、先天的に、無条件に、否応なく認識される根本的錯誤である。このため、形態作用にもとづく煩いを、意思や哲学的見解などの方法によって克服することは不可能である。

 さて、解脱によってこれら二つの煩いからそれぞれ脱れることができる。これが解脱の本質であり、現象として起こることがらの主要部分である。

 なお、実際には、名称(nama)だけ解脱する場合と、形態(rupa)だけ解脱する場合、そしてその両方が解脱する場合の三つの解脱がある。これらの違いについては後述したい。

 ところで、解脱するとなぜ煩いから脱れることができるのかというその理由を知りたい向きもあるだろう。残念なことに、そのメカニズムそのものは説明できない。その手段が無いし、説明するための適当な言葉も無いからである。ただ、構成概念として、解脱によって「苦の体たる何か」が滅するためにそれぞれの煩いから脱れることができるようになるとしか言いようがない。その何かを敢えて言葉にすれば、それぞれ、名称(nama)と形態(rupa)と呼ぶべきものであり、上述ではこれらの用語を先んじて用いて説明したのである。

 もちろん、本書では解脱にまつわるすべてを述べようと思う。今述べた構成概念を含め、他に知り得たことがらについても以下の章・節で詳述したい。


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解脱の位置づけ

 解脱は、覚りを説明する言葉の一つである。現実には、解脱=覚りである。したがって、覚りという言葉で覚りそのものは言い尽くすことができるだろう。しかしながら、覚ったときに実際に知見されるのは、覚りではなく解脱の方である。すなわち、覚ったと思うのではなく、解脱したことを知るのである。それで、解脱という言葉が修行者達の間ではよく語られることになった。この意味において、すなわち体感されることがらという意味で、解脱と覚りには違いがある。

 また、覚りと言えば目覚めるという一つの意味を指す言葉であるが、解脱には三つの階梯がある。ある修行者が覚ったとき、どの解脱を果たしたのかという論議をすることになるだろう。このとき、やはりどうしても解脱という言葉を用いることになる。それで、覚りという言葉だけでなく、解脱という言葉が覚りという言葉とともに今日まで残ったのであると推察される。

 たとえば、食事をする目的はもちろん栄養素を摂取することである。しかしながら、実感されることは料理が美味しかったとか、お腹一杯になったとか言うことだろう。同様に、目的は覚りだが、実感されることは解脱、と言うことになる。

 ところで、解脱という表現を用いるときには、一切の苦悩からの解脱とか、輪廻からの解脱とかの言い方がなされる。これはたとえば、「見る」という同じ言葉であっても、物理的に見るという最も正統な表現で用いる場合と、~であると見るというように心に見るという場合があるようなものである。すなわち、解脱という言葉で表現したい心中の現象が、煩いの本体からの解脱という正統なことがらの場合も、一切の苦悩であるとか、輪廻であるとかからの離脱による場合も、心中に生じる現象の印象が同一であり、少なくともごく近い印象を持っているので、解脱という一つの言葉を広義に言葉を用いているのである。

 したがって、本書ではそれぞれを区別するために、単に解脱という場合には煩いの本体からの解脱を指し、苦悩や輪廻からの解脱の場合には「一切の苦悩からの解脱」とか、「輪廻からの解脱」というように、修飾語をつけて表記することにしたい。

 さて、本題に戻ろう。解脱の位置づけであるが、まとめれば次のように言えるだろう。

  『解脱は、覚りを生じた心的現象そのものであり、それは煩いの本体からのそれぞれの解脱を指す。そして、覚りとしての位置づけは、解脱の階梯によってその詳細が決まる。』