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[更新履歴]

 2012年02月09日  第1版完成。
 2012年02月10日  1章に二節を追加した。 「帰依」 「親近(しんごん)」
 2012年02月11日  細かい修正。 付録に一項目追加。 「三つの解脱」
 2012年02月13日  3章に一節を追加した。 「呪(マントラ)」
 2012年02月21日  1章-「帰依」を拡充した。

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はじめに

 信仰は、最上の富であると説かれる。人は、信仰によって激流(妄執)を超え、不滅の安らぎ(ニルヴァーナ)に到達するからである。そして、それはいかなる世俗の財によってもできないことである。信仰だけが、それを為し遂げるものである。

 しかしながら、この世には、正しい信仰を持ち、保っている人は極めて少ない。多くの人々は、信じるに値しないもの、教えならざるものを信じ、奉じているからである。しかも、それによって苦の輪廻を繰り返している。それが、人々(衆生)のありさまである。

 本書は、信仰の真実について余すところなく書いたものである。聡明な人は、本書を読んで信仰のあるべきすがたを知り、体得するであろう。

 そこにおいてこそ修行が為され、覚りの機縁が現れ、因縁を生じ、ついに一切の苦悩からの解脱を果たす。これが道の歩みの真実であり、正しい信仰の帰結である。

 安らぎに至る道について、何が何だか分からなくなって、信仰そのものについてどうあるべきか混乱している人はぜひ本書を読んで欲しい。聡明な人は、確かな灯りを手に入れるであろう。その灯りが道を照らし、転倒したこの世の真実を明らめてくれるだろう。その行く手に、不滅の安らぎ(ニルヴァーナ)が存在している。

 覚りの道の最後の最後に必要なものこそ、信仰である。人は、信仰によって激流(妄執)を超え、しあわせの彼岸に渡るのであるからである。


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信仰とは

 世人は、苦の岸たる一切世間に安住している。その一方で、もろもろの仏たちは、一切の苦を滅した彼岸に住している。もちろん、仏たちは最初から彼岸に居たのではない。静けさを目指し、安らぎを求め、真実を知ろうと熱望して、その結果、人と世の真実を見極めることを得、苦悩の此岸を離れようと思い立ち、因縁を生じ、その最後の一瞬にも揺るぎなき信仰を確立していたことによって、ついにしあわせの彼岸に到達したのである。

 ところで、彼岸は無上の楽しみであるが、此岸に遊ぶ世人たちにはそうは見えない。むしろ、此岸こそ楽しみであり、彼岸はかえって苦悩の岸辺に見えるのである。と言うのは、世人は心が顛倒しているからである。このため、人々(衆生)は苦しみの此岸にしがみつき、楽しみの彼岸へと渡ろうとは思い立たない。

 それでも、いとも聡明な人は、此方の岸を離れて彼岸を目指す心を起こす。彼は、彼岸がしあわせの岸であることを微かに覚知しているからである。彼は、信仰を起こして彼岸へ渡ろうとする。そうして、横たわる激流(妄執)を超え、ついに彼岸へと到達するのである。

 このように、すべての人々が信仰を起こすのではない。彼方の岸を望み、その岸がしあわせの岸に見える人だけが、仏の言葉を聞いて信仰を起こす。彼は、心の顛倒を正そうとする気概を持って、まっすぐに彼岸へと向かう。彼は、未だ覚らぬ身でありながら、人は覚ることができるのだと知っている。彼は、その覚りの境地が虚妄ならざるものであることを微かにだが覚知している。それゆえに、信仰を起こして彼岸を目指すのである。この根底の求めを、「聖求」と呼ぶ。この根底の求めが、修行の動機となり、明知のもといとなり、解脱の因となる。すなわち、人は聖求ゆえに信仰を起こし、妄執を超えて、ついにしあわせの彼岸へと渡るのである。

 聖求があれば、信仰を起こしてしあわせの彼岸へと到達することができる。そこで、聖求の有無が問われることになる。また、聖求の可否が尋ねられることになる。修行者にとって、誰もが聖求を持っているとは限らないと思えるからである。

 しかしながら、こころある修行者は、心配はいらない。この本を読んで、仏教に興味を抱く人は、すでに聖求あることを証している。如来の言説に興味を抱く人は、もうそれだけで聖求あることを表明していることになるからである。そうでなければ、仏教など世に無いも等しい。そうでなければ、この世はつまらない。そうでなければ、そもそも如来が世に出現したりしない。如来がこの世に出現するのは、それ自体が、正しい信仰を保つ人々が世に存することの証明なのである。


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正しい信仰

 せっかく信仰を起こすのであるから、正しい信仰を起こさなければつまらない。では、何が正しい信仰なのであろうか。それを説明したい。

 正しい信仰と言うのは、理法に則った信仰であるというのが最も基本的なことである。そして、理法に則っていると言うのは、次のことを意味している。

  『次第次第にしあわせに近づき、決して逆戻りすることがないこと。』

 ここで、しあわせと言うのは次のことを指す。

  『かれは、過去のことを後悔して思い煩うことが無く、現在について一切の悲苦憂悩を滅し、未来についても不吉なことが無い。それゆえに、しあわせだと知られる。』

 なお、次第次第にということについては、付録を参照されたい。

 以上が、しあわせの特質である。

 さらに、どうすれば正しい信仰を持つことができるのか? を問う人があるだろう。それに答えたい。

 その答えは、こうである。

  『聖求ある人が、正しい信仰を起こして、保ち、護り、励む。』

 この聖求についても、付録を参照されたい。

 まとめておこう。

  『聖求ある人は、正しい信仰を起こす。そうして、次第次第にしあわせに近づき、ついにしあわせに達する。達する過程においても、達した後においても、しあわせから逆戻りすることがない。まさしくそのようになったとき、その信仰は正しい信仰だったのである。』


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修行と信仰

 苦しみの此岸からしあわせの彼岸へと渡る道。それが仏道であり、修行によって達成されると説かれる。そして、その修行は楽しみとともに行われなければならないとも説かれる。修行に楽しみを与えるもの。それが信仰である。

 苦とは、思い通りにならないことを言う。一方、楽しみとは信じたものがその通りになることによって実感されることである。正しい修行も信仰があるから楽しく行うことができ、修行を楽しく行うために必要なものが正しい信仰である。

 この場合の正しい信仰とは、次のことを言う。

 ・ 人は、楽しみとともにしあわせの彼岸に渡ることができる。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、人はしあわせの彼岸に到達するからである。逆に言えば、いかなる苦行によっても激流(妄執)を超えることはできない。これが正しい信仰である。

 ・ 人は、誰もがしあわせの彼岸に渡ることができる。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、誰もがしあわせの彼岸に到達できるからである。逆に言えば、望んだのにしあわせの彼岸に渡れなかった人など一人としていない。この事実を正しく知って、修行に勤しむ心を起こすのが正しい信仰である。

 ・ 修行は、決して無駄とはならない。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、人はしあわせの彼岸に到達するからである。逆に言えば、修行が空しく感じられるならば、すでにそれは正しい修行とは言えず、同時に、あるべき信仰が揺らいでいるのである。

 ・ 修行は、決してけしかけられるものではない。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、人はしあわせの彼岸に到達するからである。逆に言えば、何かに追い立てられるように感じたり、あるいは自分自身をけしかけるような思いがあるならば、すでにそれは正しい修行とは言えず、同時に、あるべき信仰が揺らいでいるのである。

 ・ 修行は、決して凝り固まったように行なうものではない。修行者は、正しい遍歴を為せと説かれるからである。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、人はしあわせの彼岸に到達するからである。逆に言えば、何かに固執し、こだわって修行しているという思いがあるならば、すでにそれは正しい修行とは言えず、同時に、あるべき信仰が揺らいでいるのである。仏道は、カルトではない。

 ・ 修行は、真実のやさしさを追求することに他ならない。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、それこそが修行に他ならないからである。逆に言えば、荒々しいこと、ぞっとすること、人を悲しませる行為、その他のやさしさを損なう振る舞いは決して修行とはならない。この事実を正しく知って、修行に勤しむ強い心を起こすのが正しい信仰である。



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