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修行と信仰

 苦しみの此岸からしあわせの彼岸へと渡る道。それが仏道であり、修行によって達成されると説かれる。そして、その修行は楽しみとともに行われなければならないとも説かれる。修行に楽しみを与えるもの。それが信仰である。

 苦とは、思い通りにならないことを言う。一方、楽しみとは信じたものがその通りになることによって実感されることである。正しい修行も信仰があるから楽しく行うことができ、修行を楽しく行うために必要なものが正しい信仰である。

 この場合の正しい信仰とは、次のことを言う。

 ・ 人は、楽しみとともにしあわせの彼岸に渡ることができる。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、人はしあわせの彼岸に到達するからである。逆に言えば、いかなる苦行によっても激流(妄執)を超えることはできない。これが正しい信仰である。

 ・ 人は、誰もがしあわせの彼岸に渡ることができる。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、誰もがしあわせの彼岸に到達できるからである。逆に言えば、望んだのにしあわせの彼岸に渡れなかった人など一人としていない。この事実を正しく知って、修行に勤しむ心を起こすのが正しい信仰である。

 ・ 修行は、決して無駄とはならない。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、人はしあわせの彼岸に到達するからである。逆に言えば、修行が空しく感じられるならば、すでにそれは正しい修行とは言えず、同時に、あるべき信仰が揺らいでいるのである。

 ・ 修行は、決してけしかけられるものではない。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、人はしあわせの彼岸に到達するからである。逆に言えば、何かに追い立てられるように感じたり、あるいは自分自身をけしかけるような思いがあるならば、すでにそれは正しい修行とは言えず、同時に、あるべき信仰が揺らいでいるのである。

 ・ 修行は、決して凝り固まったように行なうものではない。修行者は、正しい遍歴を為せと説かれるからである。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、その通りに、人はしあわせの彼岸に到達するからである。逆に言えば、何かに固執し、こだわって修行しているという思いがあるならば、すでにそれは正しい修行とは言えず、同時に、あるべき信仰が揺らいでいるのである。仏道は、カルトではない。

 ・ 修行は、真実のやさしさを追求することに他ならない。このことについて、揺るぎなき信仰を持つことが正しい信仰である。実際、それこそが修行に他ならないからである。逆に言えば、荒々しいこと、ぞっとすること、人を悲しませる行為、その他のやさしさを損なう振る舞いは決して修行とはならない。この事実を正しく知って、修行に勤しむ強い心を起こすのが正しい信仰である。


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あとがきに代えて

 信仰あればこそ、苦しみの此岸からしあわせの彼岸に渡ることができる。

 本書は、ただこの真実について語ったものである。人は、いろいろなものを信じるが、正しい教えを信じることは決して容易ではない。心が間違った考えに何重にも覆われていて、それらを脱ぎ捨てることは難しいからである。

 しかしながら、信仰ある人はその難しいことを為し遂げる。ひとえに、信仰あればこそである。仏縁ある人は、正しい信仰によって円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に到達せよ。最後の最後は、誰も助けてはくれない。信仰によって激流(妄執)を超えよ。そこには、憂いなき境地が確かに存在しているからである。

 例によって、この本は必要があれば適宜拡充して行くつもりである。コメントやメールなどで読者の感想や意見があれば歓迎したい。

     2012年2月9日 著者記す  

                       

 


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普遍妥当なる道

 もし、私(如来)が知ったこの道以外の方法によって人が覚りの境地に至り、不滅のニルヴァーナに達し得るとするならば、それでは人が真実の道以外の方法によっても覚りの境地に至ることができるということになってしまうであろう。しかしながら、それはあり得ないことである。それが絶対にあり得ないということが普遍妥当なことであり、しかもその一方で如来が知ったその道こそが人が覚りの境地に間違いなく至る道であるのだと断言する普遍妥当性の根拠は、如来がその道によって至った覚りの境地を常に体現し、またそれを世に示現しているということに尽きる。

 ところで、世間において真理ならざる道を説き、覚りの境地を自らの身に体現することが無く、それを世間に示現することも無い諸々の宗教家や哲学者、法学者、神学者達は、それぞれの経緯で自ら抱くに至った(虚妄なる)見解を普遍妥当なものであると想像し、見なしているに過ぎない。そして、それらが普遍妥当性を欠いていることは、それらのいずれもが実は普遍妥当性を持たないことを他ならぬ本人が、そしてまた世間一般の人がついには気づき理解するいう事実によって、後づけで、否定的に証明されることになるのである。

 一方、如来が知り極め、つねに体現し、世にあまねく示現するところのニルヴァーナは、一切と争わない境地であり、如来が知ったその道をひとしく歩むことによって誰もがこのニルヴァーナに至るという普遍的事実によって、その普遍妥当性は(個々に)証明され、最終的にはその(如来が知った)道こそが仏道と名づけられる普遍妥当性を完備した教えのすべてに他ならないのであると世間においても諒解されることになるのである。そしてこのことは、釈尊以来の歴史の事実が裏付けていることであると認められよう。

 もろもろの如来が知った、覚りの境地に至るその道とは何であるか。それはすなわち、

  『人は一切の争いを捨て去ることによってのみ一切の争いを終滅させた安穏に達し得る』

という真実である。これこそが、人が苦悩を滅し、不滅の安穏(=ニルヴァーナ)に至る普遍妥当なる道そのものである。

 それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、普遍妥当性について先験的に抱いている虚妄なる見解(=偏見)を捨て去って、覚りの境地に至る一なる道を歩み行きて、自らの身に虚妄ならざる不滅の安穏(=ニルヴァーナ)を体現し、またそれを世にあまねく示現して、その普遍妥当性を自他に証すべきなのである。

 まさしくそのようにして覚りの境地に至る普遍妥当なる道を歩んだ人は、ついに覚りの境地に至って、次のように言うのである。

  「法(ダルマ)が顕わになった」 と。

 これが、いつの世も、誰にとってもひとしく起こることが、普遍妥当なる道の実在を証しており、もろもろの如来は、その事実を知り得たままに説くだけである。


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奥付



『信仰』


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著者 : SRKWブッダ
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/buddha1219/profile


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販売価格1,200円(税込)
『覚りの境地』 』 『 『感興句』 』 『 『観』 』 『 『功徳』 』 『 『一円の公案』 』 『 『解脱(げだつ)』 』 『 『仏道の真実』 』 『 覚りの境地(2019改訂版) 』 を購入した方は 800円(税込)

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