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2月6日収穫 『本質は違うところにある』

 似非インテリなら、「きっと幼少時に母親の愛情が足りなかったせいだよ」などと言いそうだが、仮にそれが正解だとして、今、母親に「いい子ねーよしよし」と甘やかされたからと言って、あなたの欲求は満たされないだろう。

 

 問題は別なのだ。ランキング、閲覧数、ブクマ、お気に入り、DL数、etc…すべてにこだわって、それらが増加しないと怒り狂い、泣き叫び、嫉妬に溺れ、人生(あるいは一日から数週間)が破たんしてしまうところにあるのだ。「皆に見てほしい、人に好かれたい、評価されたい」それが本質である。

 

 これは、多かれ少なかれ、誰にでも本来備わっているものだが、ネットが普及して、本来一般人にはほとんど関係なかった(※学校などの諸行事のランキングを除く)何千人~というレビュー&ランキングが浸透し、無意味な競争激化の波にユーザーが巻き込まれたのが、(過度な欲求)発生のメカニズムである。

 

 このコンプレックスが発生すると、やっかいである。Amazonに自分が投稿したレビューが「役立っていない」ことさえ、「私はダメな人間なんだ」「なんで見てくれないのよ!」といった極端な思想に走らせ、自分を追いつめてしまうからだ。

 

 もっとひどい状況もある。解決策も、なくはない。が、今日はこれくらいにしておこう。

 僕もあなたも、もっと楽に生きられる。あきらめちゃだめだ!


2月6日収穫 『あなたは本当にランキングの上位に上がりたいだけなのだろうか?』

 まず、自分の胸に問うてほしい。「私はランキング上位じゃなきゃいけないと思い込んでいない?』と。

 

 答えが「はい」とも「いいえ」だとも言い切れる人は少ないと思うが、「はい」と「わからない」の人に、もう一つ質問。

 

 あなたは、ランキングをなんだと思っているだろうか?

 

 自分がどれだけ注目されているかの証?

 

 自分がどれだけ好かれているかの証?

 

 自分がどれだけ優秀な人間かを知る指針?

 

 いやいや、違うだろう。ランキングとは、統計である。スプーンのひと匙である。

 

 ある特定のグループに、何かを選択させた結果である。

 

 「そうよ、だから私は選ばれないのよ。誰にも選ばれない。だから何よ」

 

 まあ、そう拗ねずに聞いてほしい。

 最初に特に説明しなかったが、これはブクログのパブーや、FC2、SNSでの読者や友人の数など(以降、ブクログのパブーとランキングのあるブログに限定する)無料のネット上のサービス(課金サービスは自由選択なので影響しない)での話である。商売や、リアルでの数字は含めていない。

 

 「私はリアルでも(略)」

 

 まあ、そうカリカリせずに。

 

 はっきり言おう。ランキングが人生に影響を与えることはあるが、ランキングとは人が普通に、幸福に生きていく上では、はっきり言って不要なものなのだ。無関係ともいえる。

 

 「嘘よ!(略)」

 

 今まで頑張ってきた分、信じたくない気持ちは分かるが、事実である。真実である。真理である。理由はすでに述べている。まとめてみようか。

 

1 ランキングは無作為でも特定のグループでも、結局は「とある一部のグループ」が自由意思のもとで選択した結果である。

 

2 ランキングは、幸福や人間の価値とは、無関係である。人生に与える影響が必ずあるとは言えない。ゆえに必要ない。

 

 確かに、僕も(経験したことはないが(苦笑))自分の書いた本がランキング上位にいたら飛び上がって喜ぶ。

 

 しかし、喜び=幸福ではない。アランが言った。「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」と。

 

 もし、ランキングが、全人類が、意味を100%知って、知恵を使い、誠実に、粛々と選んだ結果なのだとしたら。

 その時は何か反省したり、喜んだりしてもいいかもしれないが、そんなことはありえない。

 

 しょせん、ランキングに過度にこだわっている人は、企業の、ユーザーのモチベーションや競争を駆り立てようとする、ビジネスの仕掛けにハマったにすぎないのだ。きにすることはない。堂々とランク外を受け入れ、それよりも次の食事の献立や、趣味や週末の予定でも考えていた方がいい。

 

「ランキング最下位、ランキング外の人が、人として劣っているわけではない。なぜなら、すでにあなたは“生きる”という幸福に必須の条件を選んだ、素晴らしい人間なのだから」


2月7日収穫 『本当に好きならば、“書くこと”と“食うこと”は一緒にしない方がいい』

 ブクログのパブーに限定した話をしよう。

 

 書くことが好きだという人は、一度や二度、プロ作家になって稼ぎたいと思うだろう。

 しかし、やめておいたほうがいい。今は昔と違うのだ。

 今は分類はアマチュアでも、内容はプロ以上という人が、大勢ネット上で作品を公開している。それが可能な時代なのだ。あなたも今ここにいることで、それがよくわかるだろう。

 

 「著作権はどうなるの?」と心配する方がおられるかもしれないが、出版社で著作を出版する場合、自費出版であっても、その会社の主義や規則にそぐわない場合、編集段階で内容の改定を求められる場合が多々ある。さらに、販売などの一部の著作権は会社側に帰属することになるので、自分で同人誌あるいはこのようなサイトで発表するよりもずっと不利なケースもある。一番わかりやすいのが、コピーや帯、表紙を自分では選択はできても自作できないことだろうか。「自分で、あるいはこの絵師さんに描いてほしい!」と思っても、商業的な理由で取り下げられる可能性は大である。

 

 ネットから紙の書籍が生まれることが当たり前になり、さらに、スマートフォンやタブレット端末の普及により、電子書籍というものがだいぶ定着し来た今、自炊や違法コピー等諸問題はさておき、個人でこのように発表する方が、より自由で、さまざまな可能性があるのだ。

 

 “書くこと”と、“食うこと”を一緒にしたい気持ちはよくわかる。しかし、それで人生を台無しにしてしまうのはあまりに残念である。新人賞に応募し、出版社に送信し、つれない返事をもらい、励みにはしても「いつまでこんなことが続くんだろう」と、見えない未来に絶望する。絶望している間に一体どれだけのことができるだろうか?もったいないではないか!

 

 確かに、自宅警備員である頃や、書くことを仕事にしている人と比べれば、原稿に取り組める時間はだいぶ少なくなる。だが、その分執筆時間が濃縮され、いとおしくなることは間違いない。

 

 本当に書くことが好きならば、新人賞への応募は自由だが、“書くこと"と“食うこと"を分けなさい。資格を取ったり、アルバイトなどで様々な経験を積み、自分の執筆に生きるだろう、これだという仕事を見つけなさい。起業するのもいいだろう(簡単かどうかは別として)。

 

 そう、すべては執筆の栄養なのだ。体を動かすことで頭の働きもよくなる。

 

 せっかくこのようなサイトがあるのだから、この際プロへの未練は捨て去り、執筆をライフワークにして、そして、これだという作品ができた時は、資金を投じて、ISBNのついた書籍にして、流通させる。売れなくてもいい。それでいいではないか。

 

 あなたと同じ悩みで10年以上を苦しんだ僕は今、このサイトで作品を発表できて、幸福である。


2月8日収穫 『閲覧数と悦覧数(閲覧数について・1)』

 ※ここから先は、ブクログのパブーで無料書籍を作った経験のある人、あるいはpixivでイラストなどを投稿した人に限定して話をする。あてはまらない方は参考程度に。もしくは、自分のブログのアクセス数やFBページのイイネなどに置き換えてみるのもよいだろう。

 

 それまで人気のない人だけでの仲間の世界に、突然アルファブロガーや、プロ作家と繋がりがあったり、自身・閲覧数、DL数が桁違いという人が入ってくることはよくあることだ。あなたは嫉妬に駆られる人か?それともその出会いを嬉しがる人だろうか?

 

 ※嫉妬に駆られなかったという方は、ここから先を読み進める必要はない。

 

 嫉妬に駆られるのはなぜか。自分がそうなりたいと願って努力しているのに、いつまでたっても、そうならないからだ。または、「じゃあ、私のこれまでやってきたことって無駄なの?」と怒り狂う。

 

 閲覧数とは、見られることによる快感を得る、「悦覧数」である。高ければ高いほど、自分は注目されているのだと自己の欲求を満たされる仕組みになっている。

 

 だがちょっと考えてみてほしい。本当に、すべての人は見られることによって快感や幸福を得るのだろうか?

 

 たとえば、精神疾患にかかったMさんは、人が大勢いる場所に行くのが死ぬほど怖い。皆が自分を見ているんじゃないかと思うと、動悸がして吐き気を催し、気絶しそうになる。ひとりきりの部屋に帰ると、ほっとするそうだ。

 

 また、孤独と独り遊びを好むAさんは、ネットでSNSページを作ったが、本当に自分の作品を理解してくれる、少数の人が集まることに、大変な満足感を得ている。片手指で足りる程度のフォロワーしかいないページに、「相互フォローお願いします!」とか、新規参入でフォローをする人(つまり知らない人)がやってくると、ことごとく解除しているらしい。

 

 このようなケースもあると頭に入れておいてほしい。閲覧数は全てを量るためのものでもなく、また絶対ではないと。(閲覧数について・2に続く)


2月15日収穫『満ち足りた瞬間など永遠に訪れない(閲覧数について・2)』

 誰にも関心を持ってもらえない人生など、さびしいものだ。

 

 だが、それでも、終わりまでその人が満足していたら、立派な人生である。

 

 そもそも、「人を注視する」とは、どういうことだろうか?

 

 「この人、どんな人なんだろう?」と関心を持つ。

 

 「どういういきさつで、どういう肩書で、普段、何考えてるんだろう?」というのと同時に、「私と一緒かなあ?」と比べてみる。

 そう、人は比較するために自分を見、相手を見るのである。それが「関心のある注視」である。

 

 何のために比較するのだろうか。

 

 主には、仲間を求めているからである。(稀に、差別したいから、という理由の人間もいる)

 

 本当に無関心な人は、これをしない。

 

 さて、この「注視」だが、閲覧数に関係している。

 

 何も深く考える必要などなく、チラ見でも、深読みでも、+1である。リピートでもう一つ+1。DLして閲覧する場所を変えたら(自分のデスクトップ等)それ以上は増えないので、ここで終わる。

 

「気にはなるんだけど、全部読む気はしないんだよねー(主には長いから)」

「なかなか時間がなくて」

「アカウント作るのに個人情報晒すの嫌だ」

etc…

 

 一見開拓できそうな畑だが、実はこういう人たちこそ、+1をしない人たちである。

 

 いわゆる積読とは違い、書店で言えば、チラ見した表紙と帯でスルーである。

 

 こういう人は結構多くて、スルーについては深い理由など本当はなく、良書だろうが名著だろうが関係ないのだ。

 

 だから、あなたの閲覧数が増えなくても、即・あなたの作品の出来がすこぶる悪い、という意味ではない。

 

 まだまだ、電子書籍の歴史は始まったばかりなのである。

 

 

 ところで、ご存知の通り、「売れたクソ本」と「売れなかった名著」があるように、本というものは普通の商品とは異なる性質を持っている。大体の作者は売れることを望んでいるわけだが、本とは本来、芸術・文化の領域にあるものである。金銭でその価値を量ることは難しいのだ。

 

 それなのに、閲覧数「0」ならお気の毒と申し上げようもあるが、「私は1万ビューも行ってない!」とか、「上には上がいるのよ。ランキング一位になって絶対花咲かせてみせるわ」などと躍起になるお方が大変多い。(残念ながらそういう人たちはなぜか中くらいのランクにいるのがセオリーだが)

 

 そういう人は、周りから「素晴らしい作品でした!」と2,3人にコメントされると、それがすべての代弁のように思えてしまうのである。自分にはもっと上の待遇がふさわしいと勘違いをするのである。

 

 ばかばかしい。

 

 そういう人は、常に「ありもしない素晴らしい上位の破格の待遇」というのを夢見ているので、執筆する喜びや、発表する楽しさという本来の閲覧数の持つ意味を見失ってしまう…というより知らないのである。

 

「今日は閲覧数が100しか増えなかったわ。この間は300だったのに。なにがいけないのかしら?」

 

大丈夫。誰だって、何にだって、大体は、飽きるものなのだ。そして人間は、ある程度記憶すると原本をおろそかにする生き物でもあるのだから。

 

 その人が著者の仲間でもない限り、「閲覧数を上げてやろう」などと注視して読むものでもないのである。



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