閉じる


6月17日のおはなし「セルフ・コントロール」

 右手の薬指がかゆい。気になる。小さなことなんだけど、いったん気になり始めると止まらない。薬指の指先に羽虫でもとまっているんだろうか。でも見ることができないので確認できない。たぶん何でもない。虫がいる訳じゃない。せいぜい埃か何かがちょっとかすめて刺激しただけ。じきにおさまる。さっき尿意を押さえ込んだように。気になるから気になる。いつものことだ。

 そう頭では分かってもかゆいことに変わりはない。いますぐかきたい。右手の薬指のすぐそばには右手の親指が向かい合ってあるわけだから、ちょっとこすり合わせればよさそうなものだ。が、それはできない。そういう、明らかに動いたと見なされる動きをしたらアウトなのだ。明らかに視線を動かすことすらアウトなのだ。指と指をこすり合わせるなんて論外だ。論外の外のそのまた外の場外乱闘だ。

 ばかばかばか! 何なの? 場外乱闘って! そういうバカバカしい言葉を考えると噴き出しそうになっちゃうじゃない。笑っちゃいけないから余計おかしくなっちゃうじゃない。落ち着いて落ち着いて。いまのは全然面白くない。論外という言葉から始まって、外という言葉をどんどんつないだ理屈っぽいダジャレで、しかもデキは良くない。笑うところじゃない。セーフ。大丈夫。そんなことでわたしは笑わない。

 そう。わたしはプロだ。プロのヌードモデルだ。一度ポーズを決めたら微動だにしないことに誇りを持っている。始めたばかりの頃はいざ知らず、今のわたしはちょっとやそっとのことでは動揺しない。知らない人たちに裸を見られるのが恥ずかしかった時期もある。もちろん今だって、仕事以外の場所で裸を見られたらいやだ。でもモデルをしている時間は大丈夫。今回は連続静止時間の世界記録にヌードで挑戦するということで大勢のギャラリーがいるけれど、別に気にならない。コントロールする方法があるから。

 恥ずかしさだけじゃない、わたしがコントロールできるのは。ヌードモデルの仕事で一番大変なのは何かわかるだろうか? 人には姿勢を保つ筋力だと思われがちだ。服などでごまかすことができないから、姿勢を保持するのが大変だろうと実際によく言われる。確かにある程度の筋力は必要だ。でも、これはポーズ次第で何とでもなる。問題は体温と水分が奪われることだ。今となってはヌードであることの最大の問題は恥ずかしさではなく、こっちだ。これはどうすることもできない。

 暑い季節、汗をかかないようにある程度コントロールすることはできる。けれど、寒い乾燥した季節に水分が皮膚から蒸発するのを止める方法はない。問題は更にある。寒い季節、身体が冷えることより水分が奪われる方が先ならいいのだが、残念ながらたいていは身体が冷える方が先だ。すると尿意という問題が付随して出て来る。一般に女性は男性に比べて尿意を我慢できないと言われているけれど、わたしはかなりのところまでコントロールできる自信がある。限界はあるけれど。

 恥ずかしさをコントロールし、姿勢をコントロールし、脱水症状に耐え、寒さを克服し、尿意もかなりのところまで我慢できる。わざわざ無理はしないがやろうと思えば長時間瞬きもせずにいられる。ある医大の美術部で学生に指摘されて気がついたが、モデルをやっている時のわたしは呼吸がすごくゆっくりになっている。面白いので測ってもらったら心拍数も低下していた。要するに基礎代謝を下げているらしいのだ。大抵のことには動じない。たとえ震度5強の地震が来ても、わたし自身はぴくりともしない自信がある。

 ばかばかばか! 何なのその、地震と自身と自信って連続技は? 磁針とか時針とか付け加えたくなっちゃうじゃないの! 何考えてるの、今日に限って! 笑わせたいの? 自分を笑わせてギネスレコード達成を阻みたいの? どうどう、どうどう。さっき係の人が記録更新まであと2時間って言ったじゃない。世界記録はもう目前まで来ているんだから。さあ、余計なことは考えないで。神経を集中して。ええと。何だっけ。何でこんなこと考えていたんだっけ。そうだ。右手の薬指がかゆいんだった。

 あーっ! 忘れてたのに! いま一瞬忘れてたのに! なんで思い出しちゃったんだろう。他のことを考えよう。他のことに意識を集中するんだ。左手の薬指のことを考えたらどうだろう? ダメだダメだダメだ! 何を馬鹿なことを考えているんだ、わたしは! 左手の薬指の先もかゆくなったら大変じゃないか。すぐ忘れよう。そんなことはすぐに忘れよう。馬鹿なことを考えるから右手の薬指がますますかゆくなってきてしまったじゃないか。

 そうだ。震度5強と言ったのには理由がある。これもどこかの大学のデッサン会で、地震の研究者みたいな人が話してくれた。建物が壊れるのは震度6弱からなんだって。もちろん今起こっている地震が震度5強か震度6弱かわかるわけじゃない。だからわたしの基準は建物が壊れる地震かそうでないかを見極めるってこと。建物が壊れそうな地震なら静止の姿勢を解いて動いて逃げる。壊れなさそうならポーズを保つ。ま、台から転げ落ちたらしょうがないけどね。

 ああそうか。地震か。それでかゆいんだ。思い出した。どうして右手の薬指の先がかゆいのか。怪我をしたからだ。かれこれ15年以上も前。まだ小さかった頃。わたしの故郷は大きな地震に襲われた。知り合いの家がたくさんつぶれた。古い家屋はぺしゃんこになったし、友達も何人か犠牲になった。ビルがそのまま横倒しになったり、建物の1フロアがそっくり潰れてなくなったりした。わたしの家も傾いてそのまま中にいてはいけないと言われた。ほんの何駅か先では大きな火事で町がまるごと焼け落ちてしまった。

 避難所でラジオのニュースを聞いて、地震のせいでたくさんの人が死んだと知ってわたしは震え上がった。そしてたくさんの人が家に埋もれていると知って気が遠くなった。死にませんように。助かりますように。わたしも、家族も、他の人たちも死にませんように。埋もれている人も助かりますように。自分が怪我をしていることには、母が大きな声を上げて初めて気がついた。右手の薬指の先からびっくりするくらいたくさんの血が流れ出していた。家から逃げ出す時、たぶんガラスの破片で指先を切ったんだろう。

 母に連れられて、救急隊の人に包帯を巻いてもらいながらも、わたしは心の中で祈り続けていた。死にませんように、助かりますように。指先の痛みのことはすっかり忘れていた。そうだった。馬鹿なことを考えている暇があったら、心を澄ましてお祈りをしよう。亡くなってしまったたくさんの人たちに。まだ見つからないたくさんの人たちに。生き延びてつらい思いをしているたくさんの人たちに。生き延びたことに罪の意識を感じているたくさんの人たちに。残りの2時間、心を静かにして、安らかでありますようにと祈りを捧げよう。

 ギャラリーがざわめいている。
 どうしたんだろう? ああそうか。
 太腿に熱いしずくが落ちてやっと気がつく。
 涙か。涙が溢れてしまったんだ。しょうがないよね。
 落涙もギネスの不動の記録ではアウトなのかな?
 構うことない。記録挑戦を止められるまで、もう少しの間お祈りを続けよう。

(「右手の薬指がかゆい」ordered by @ymaseminowa-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

新作スタート。お題募集中。

2011年10月1日。
Sudden Fiction Projectの新作発表が始まりました。

1日1篇ペースをめざしていますが、これはどうなるかわかりません。
毎日、その日のお題を見て、いきなり書き始めていきなり書き終わる。
即興的に書くSudden Fictionをこれからお楽しみください。

お題募集中です。
急募!お題」のコメント欄で受け付けています。
どなたでも気軽にご注文ください。初めての人、大歓迎です。

(お題の管理上、TwitterやFacebookでは見逃しがちなので、
 どうか上記コメント欄をご利用ください)

それではこれからしばらく新作のシーズンをお楽しみください。

※発表済みの作品をご覧になりたい方は
 をご活用ください。

奥付



セルフ・コントロール[SFP0351]


http://p.booklog.jp/book/43026


著者 : hirotakashina
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/hirotakashina/profile


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/43026

ブクログのパブー本棚へ入れる
http://booklog.jp/puboo/book/43026



公開中のSudden Fiction Project作品一覧

http://p.booklog.jp/users/hirotakashina



電子書籍プラットフォーム : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社paperboy&co.



この本の内容は以上です。


読者登録

hirotakashinaさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について