閉じる


ミッション2 フロム井戸の底ウイズ ラブ 1


「これは私が友達から聞いた本当にあった話です・・・井戸って知ってるかな。古い家とか、田舎の家なんかにあるんだけど、昔の人は、庭とかにある井戸ってところから水をくんで、その水を生活に使ってたんだね。井戸っていうのは、いろいろな形があるんだけど、今回の話にでてくる井戸は、石で周りをかこってあって、井戸のところには簡単な屋根みたいなものが作ってあって、そこにつるべと、水汲み用の桶がある・・・そういう井戸です。その井戸はね・・・ある学校の旧校舎のはずれにぽつん、とあったんだよ。
「井戸の向こうには森が広がっていてね、昼間でもその井戸のまわりだけはなんだか薄暗くて、イヤーな雰囲気だったんだって・・・
「でね、あるとき、近くに住む小学生の男の子がね・・・男の子っていうのはちょうど今のみんなと同じくらいの年かな。その子が校庭でサッカーやってて、転がっていったボールを探して旧校舎のほうへ入っていったんだ・・・
「『ボール、ボール・・・どこかなあ・・・あ、あった』その子がボールを手にとってフッとみると、例の大きな井戸が見える。男の子、そのとき、なぜだか知らないけど『やだなあ』って思ったんだって。『なんかいやな雰囲気だなあ』って。
「季節はちょうど春から夏にかわるころ。空なんかだんだん暗くなってきます。
「で、その男の子が校庭に戻ろうと思って、走り出そうと思ったら・・・なぜだかわからないけど、足が動かないんだよ。金縛りみたいに、足が動かない。
「『ええーっ。やだなあ・・・』男の子は思ったんだけど、足が全然動いてくれない。そのとき・・・男の子の顔の横を・・・何か白ーいものが通ったんだって。
「『やだよやだよ・・・』男の子は思ってたんだけど、足がどうしても動かない。するとね・・・井戸のほうから・・・女の子の声が聞こえてきたんだよ。小さーい、声で。
『サッカーなんかやらないでさあ・・・私とかくれんぼしようよ・・・』
「『うわーっやだよおー』男の子は思った。『助けてくれよー』って。半分泣きそうになりながら。
「『最初は私が鬼だよ・・・もおいいかい・・・もおいいかい・・・』
男の子は必死になって逃げようとした。声なんて出ない。逃げよう、逃げようとするんだけど・・・身体が動かない・・・。
『もういいのかなあ・・・じゃあ・・・探しにいくよ・・・』
女の子の声はそう言った・・・やがて・・・井戸のほうから・・・音が聞こえてくる・・・
井戸の内側の壁をひっかくような・・・何かをひきずるような・・・ずるずる・・・ずるずる・・・っていう音が聞こえてくる・・・
「『もういいかい・・・もういいかい・・・』声がだんだん近くなってくるのがわかる・・・
『うわあーっ』
やっと声が出た。それと同時に身体が動くようになった。男の子は走って走って走って・・・一度もふりむかずに家まで走って帰ったんだって・・・
「男の子はその夜、高い熱を出したんだって。で、家に帰ってからずっと部屋で寝てたんだって・・・
「その夜のこと・・・熱で身体はだるいし、変にむしむしするし、なかなか寝つけない・・・するとね・・・廊下の遠くのほうから・・・女の子の声がする。
「最初のうちは、そら耳かなあ・・・って思ってたんだって。その男の子。でもね・・・その声がだんだん近づいてくるんだよ。
『もういいかい・・・もういいかい・・・ずるずる・・・ずるずる・・・ずるずる・・・』
あいつだ・・・井戸から出てきた、あいつが、僕を探しにきたんだ・・・
男の子は逃げようとしたんだけど・・・また身体が動かなくなってしまった。
声は廊下の一番向こうの部屋で止まった・・・
『ここじゃない・・・もういいかい・・・』
次の部屋の前・・・
『ずるずる・・・ここじゃない・・・もういいかい・・・』
その次の部屋の前・・・
『もういいかい・・・ここじゃない・・・もういいかい・・・ずるずる・・・』
男の子の隣の部屋・・・
『ここじゃない・・・もういいかい・・・もういいかい・・・』
声はとうとう男の子が寝ている部屋の前まできた・・・
『ずるずる・・・もういいかい・・・もういいかい・・・ずるずる・・・ぴたっ』
男の子の部屋の襖がゆっくりと開いて・・・
『ここだあー!』

 

 

ひえええええっという声をあげて、早紀ちゃんが泣きだした。
早紀は小学校五年生。スイミングの選手コースに通う女の子だ。
「コーチい、ひどいよ。早紀ちゃん泣いちゃったよお」
早紀と仲良しの伊藤尚子が口をとがらせて言う。
「だってみんなが怪談話してって言ったから・・・」
雅代はかなりうろたえていた。
選手コースの子供たちはこの体操の時間を楽しみにしている。
体操が始まるまでの短い時間だが、雅代は子供たちにいろいろな話、特に怪談話をしてあげることにしていた。選手コースの練習開始前に恐い話をするのは、雅代の前にこの時間を担当していた潮コーチの頃からの恒例らしい。
雅代の恐い話には定評がある。そりゃそうだ。雅代の頭の中には『稲田淳三・恐怖の怪談ライブ』ボリューム1から7までの全ての話が効果音入りでインプットされているんだから。
今日の話・・・そんなに恐い部類の話じゃなかったんだけどなあ・・・
よくあるパターンの話だったんだけど。
「じゃあ時間になったから、体操しようか。最初は腹筋からでーす」
早紀ちゃんはまだぐすぐす泣いている。悪いことしちゃったなあ・・・


*

 

「中野コーチ・・・井戸はまずいですよ、井戸は」
学生アルバイトの国奥コーチが言った。
雅代は十九歳、ということになっている。
国奥コーチは大学一年の十八歳。プールのコーチで唯一の年下で、ただ一人雅代に敬語を使ってくれる子である。
国奥コーチは指導人数集計表を持っていた手を止めて話を続けた。
選手コースの練習中のコーチ室はけっこうのほほんとした雰囲気である。
「あのね、プールのいちばん近くの小学校、東明石小学校ですけどね、そこの旧校舎の奥に、本当にあるんですよ、呪われた井戸が・・・」
いがくり頭をぐっと近づけて国奥コーチが言う。
「井戸からは毎夜毎夜、ながーい髪の女が這い出してきて、その姿を見た者は・・・」
「一週間後のその日に死んじゃうんやろ?ホラー映画であったやん、その話」
森コーチが話に入る。実は森コーチはこういった話が苦手である。
興味ないふりをしながら話題を別の方向にそらせようとしている。
ここのところ、プールはいたって平和である。六月末の人事異動で、ヘッドコーチの上沼所長が本部事業企画部へ転勤になってから、表立ったイジメはプールから姿を消した。
もう一人のイジメの元凶、北小路センセイも最近なんだか元気がなく、入水が終わるととっとと帰ってしまう。
事業所のヘッドコーチは駿河コーチが副主任から主任に昇格して、ヘッドコーチの業務を行っている。何でも史上最年少のヘッドコーチだそうだ。とはいいながら、ほとんど毎日、夜の成人クラスの時間になると上沼コーチが社長の愚痴を言いにやってくるので、プール内の景色はあまりかわりばえはしない。上沼コーチの分の欠員補充もされないままなので、みんなの入水時間のほとんど変わっていない。春に入職した三人の新人コーチが担当クラスを持つようになって、駿河コーチや潮コーチの指導時間だけは少し減ったようだけど。
六月末あたりから、スクールは夏休み水泳教室の準備に入っている。
インストラクター用のデスクの上には短期水泳教室のチラシの束とお手紙の束。
この時期、コーチたちに課せられた仕事は、住宅戸別配布用にこのチラシをひたすら折っていくこと。
それと、在籍本科生用の案内分の余白に担当生徒ひとりひとりにあてたお手紙を書き、それを授業の最後に配る。この二点である。
さらに社員コーチのお仕事としてはポスターや館内ポップなどの掲示物の作成がある。
スイミングにとってはこの七月という時期が夏休み水泳教室の集客の勝負どころなわけで、自然とこの時期の仕事はきついものになる。
夏の水泳教室が始まったら始まったで、七月の後半から八月末まで、単純に一日二時間から三時間の入水指導が増えるわけだから、それはそれできつい。
新人コーチなどはお盆ごろに体調を崩す。ベテランコーチは秋ごろに倒れる。そういう世界だ。
水泳コーチにとっての夏休みは『試練の時』なのである。
「ところでさあ、体操場で泣いたっていう早紀ちゃんのことなんやけど・・・」
生徒むけのお手紙を書く手をとめて、森コーチが言った。
「最近全然元気ないとおもわへん?タイムも最近伸びてないみたいに感じるんやけどなあ」
と言っておせんべいをかじる。
「そういうえばそうですね。体操しててもあまり喋らないですねえ、最近・・・」
 チラシを折りながら雅代は答える。
「そうやねえ・・・今度センセイに相談してみようかな・・・家でなにかあったのかな」
「早紀ちゃんって・・・あの、リトルオリンピックとかに出てる、早紀ちゃんでしょ?新聞とかスイミング雑誌とかによく出てる子ですよね・・・」
国奥くんが話に入ってくる。
「この前、AA級の試合の引率に行ったとき、いましたよ。スッゲエ可愛い子ですよね。今・・・確か小五でしたっけ」
「可愛い子には違いないけど、ちょっかい出したりしたらだめだよ。早紀ちゃんのお母さん、北小路センセイだよ。知らなかった?」
森コーチがやんわり釘をさす。
「ゲゲー!嘘でしょ。あんなに可愛いのに。親はあれですか?」
『あれ』呼ばわりはひどい。確かに北小路センセイと早紀ちゃんはあまり似ていない。コンパスで書いたような輪郭の母と、きれいな卵形の顔をしている娘の顔の両方を思い浮かべながら、雅代は思った。
「お父さんに似たんじゃないかなあ。早紀ちゃんのお兄ちゃんも昔スイミングに来てたけど、早紀ちゃんに似て、かわいい顔してたよ。今はどうか知らないけど・・・」
「そうなんだ。ここに通ってたんですか、早紀ちゃんのお兄ちゃんも・・・」
過去の会員データ検索。キイワード・北小路。検索開始。
ヒット三件。
北小路早紀・・・これは早紀ちゃん。三歳から水泳をやってるみたいだ。
北小路綾子・・・これはセンセイ。へえー。元会員だったんだ。父兄で、会員で、そのうちにコーチと親しくなってコーチになったってところかな。
もう一人。北小路 輝。
輝・・・
輝?
添付資料参照。入会当時の写真を再生。
どきん。小学生の頃の写真ではあるが・・・雅代は高校生くらいに成長したこの子に会ったことがある。目元の印象・・・全体の輪郭・・・間違いない。
輝。
心臓病で入院していたあのとき・・・外科病棟に入院してきた、『雅美』の初恋の人。
世間って狭い。本当に。


*

 

プールサイドのラジカセからハードロックが流れる。
夜八時からの成人クラス。この時間は相手が大人なので、BGMを流しながら指導することになっている。雅代の担当は上級コース。隣の初級コースは、先月から国奥コーチが担当している。
国奥・本田・佐々木。例の、『居酒屋藤兵衛たてこもり事件』をきっかけにプールに入った三人組。三人のなかでも高校時代水泳部に在籍していたという国奥は、未経験の新人と比べると、水泳知識ではかなりのものを持っている。難しいと言われる成人クラスをわずか二カ月の研修で任されていることからもそのことがうかがえる。
カケモチで空手部にも所属していたそうだ。部活で丸刈りを強制させられていたらしいが、大学生になった今でも坊主頭を崩さない、素朴なタイプの青年だ。
今風のセミロングヘアの本田コーチはお調子者で口数が多い。学年は国奥コーチよりひとつ上。佐々木コーチと同じ学年だそうだ。
高校時代、体操部に所属していたという彼は、大学にどうしてもプロレスサークルを作りたくて、必死でメンバーを集めている。例の事件の日は佐々木と国奥を口説き落とそうとしていて事件に巻き込まれたらしい。口がうまいせいか、どんなクラスでも無難にこなす、優等生タイプである。
スイミングコーチとしては一番不器用な佐々木は、今、オフの日にもプールに来て、授業が終わった後に潮コーチから平泳ぎとバタフライを教えてもらっている。どうやらコーチなのにクロールと背泳ぎしか泳げないことがコンプレックスになっているらしい。そんな佐々木クンは『気はやさしくて力持ち』タイプ。子供のクラスでは主に背泳クラスを担当している。
今日、木曜初級コースの会員さんは五人。上級コースは三人。
「はい、それじゃあウオーミングアップです。ゆっくり歩いて一往復しましょうか」
初級コースの会員さんがゆっくりと歩きはじめる。プールウオーキングというやつだ。ここ数年、スクール形式のプールのみならず、市営プールのような指導者がいない場所でもプールウオークをする人が増えてきた。プールでの歩行は水の浮力で膝や足首にかかる負担が少なく、逆に水の抵抗で筋肉にかかる負荷が大きい。十年くらい前から流行しはじめたウオーターフィットネス・ウオーターエクササイズの理論である。水の中では腰痛や膝痛などの関節疾患を抱えたひとでも手軽に運動ができる。
ただ、プールは体脂肪を燃焼させる効率は陸上より悪い。だから、シェイプアップには明らかに不向きである。
人体には保温機能というしくみがある。陸上では我々は気体であるところの空気に囲まれて生活している。気体と液体の熱伝導率を比較すると、液体のほうが高い。つまり陸上よりも水中にいるほうが体温は低下しやすいのである。温水プールの水温は通常、二十度台の後半から三十一、二度に設定されている。この温度は明らかに体温よりも低い。であるからして、人体は体温を逃がさないようにする。このことから、熱伝導率の悪い陸上よりも熱伝導率のよい水中のほうがカロリーの燃焼が抑えられてしまうという結果になるのである。
しかしながら、多くのスイミングコーチは、聞きかじりの流体力学や自分たちに都合のいい運動生理学ばかりを展開しながら授業を進めるので、会員さんたちは走ったりエアロビクスしたりするよりも水泳のほうがシェイプアップには効果的だと信じさせられてしまうのである。何せ、『水泳は全身運動』らしいから。
ついでに言うと、水泳、つまり泳ぐという行為そのものでシェイプアップするのはかなり難しい。プールを歩いたり走ったりするのならまだしも、泳ぐことで体脂肪を燃焼させるのは、実は至難の技なのである。
スポーツジムのトレーナーなどにとっては、こういう知識は常識なのだが、体脂肪が燃焼するにはいくつも条件があるのだ。
体脂肪というものは、運動を開始してもすぐには燃焼しないようになっている。運動を開始して二十分までくらいは、体内の炭水化物がエネルギーとして消費される。朝食のパンだとかごはんだとかの成分が消費されると考えればいい。二十分をすぎたあたりからぼちぼち体脂肪の燃焼が始まる。(ただ、体内での体脂肪の燃焼システムに関しては、毎年のように新しい説が唱えられ、それと同時に一つの仮説が消える。今、この瞬間に雅代の知識や理解が過去のものとなりつつあるのかもしれない。だから雅代が知っている理論は『彼女にインストールされている知識によれば』という注釈がつく。これはジムのトレーナーにしてもスイミングのインストラクターにしても『そのトレーナーの勉強した範囲の知識によれば』ということがいえるのだが・・・)
体脂肪は運動開始後二十分くらいを経過しないと燃焼を開始しない。ということはつまり、二十分以上継続できる運動でなければ体脂肪燃焼効果はあまり期待できないということになる。三十分運動すれば二十分を超えた部分、つまり十分間運動した量だけ脂肪が燃焼する。
ただし、である。ややこしいことに脂肪燃焼は心拍数とも密接に関係している。心拍数が低すぎれば体脂肪の燃焼は起こらず、逆に高すぎれば脂肪の燃焼が抑えられてその代わりに糖分の消費がはじまるというしくみになっている。つまり、運動負荷が軽すぎれば脂肪は燃焼しないし、重すぎても糖分が消費されて無性に甘いものが欲しくなって、ケーキを食べて終わり、という結果になってしまうのである。
さてそこで水泳。体脂肪燃焼のために適正なところまで心拍数をあげて、その心拍数を維持しながら三十分以上のトレーニングを続ける・・・こんなことできる人、ひとつのプールに何人いるだろうか。
三十分以上泳ぎ続ける、というところでまず半分以上の成人会員が脱落する。休まずに三十分以上泳ぐとなると、少なくとも中級以上の泳力がないとできるものではない。
そこからさらに心拍数のコントロールという話になると、元水泳選手とか、マスターズ水泳大会に毎年出ているような強者でないとできないレベルの話になる。体脂肪燃焼に適した心拍数というものは、びっくりするくらい低い。早足のウオーキングや軽いジョギング、エアロビクスや自転車型マシン(『エ○ロバイク』というのは特定のメーカーの商品名だからここでは使わない)などの軽い運動で体脂肪が燃焼するわけだから、これらの運動と同程度の心拍数になるようにコントロールしながら泳ぐことが体脂肪燃焼のための必修条件となるのである。
『水泳でシェイプアップを・・・』とお考えの方がいれば夢をブチ壊すようで大変申し訳ないが、現実には初級レベルの人が水泳でシェイプアップするためには、まず水泳そのものを二、三年集中的に練習して、中級から上級レベルになってからシェイプアップ目的の水泳をしなさい、ということになる。
しかしプールのコーチはこんなこと、口が裂けても言ってくれない。
だってお客さんが減るんだもん。
それ以前に、こういう知識、ないかもしれない。
ふわりふわりとプールを歩いていく初級コースの会員さんたちの背中を見ながら、雅代はスイミング教則本には絶対に書いていないこんなことをぼんやりと考えていた。
「コーチ、アップは?」
上級コースの蓬莱という会員さんがボソッと聞いてきた。
「すいません。ボーッとしてましたよね、私。じゃあ四コースの蓬莱さんは二百。三コースのかたは百メートルアップお願いしまーす」
上級の蓬莱さんはグボッと潜って、滑るように泳ぎだした。
三コースのメンバーさんも少し遅れて泳ぎ始める。
四コースを一人で泳ぐ蓬莱という人、結構謎の男である。
この人、上級というより超上級レベルで、どうやら昔、水泳コーチをしていたらしい。知識では潮コーチも駿河コーチもかなわない。上沼コーチよりもある意味で水泳のことをよくわかっている。そんなに知識があるんだったらわざわざ会費を払ってまでスクールに入らなくてもいいのに、と雅代などは思うのだが。新人コーチの雅代のメニューにも文句ひとつ言わずに黙って泳ぐ。
プールではほとんどしゃべらない。
指定の距離を指定の泳法で泳ぎ終えると、これまた黙って待っている。
黙々と泳ぎ、一時間で二千から三千のメニューをこなして、『おつかれさまでした』と一言だけ残して帰っていく。
すごく泳げるし、すごく速いのに、地域の水泳大会とかには一切出場しない。
楽しんでるんだか楽しんでないんだかよくわからない。
本当に謎の会員さんだ。
その蓬莱さんが二百を泳ぎ終わる。
「じゃあ、キックいきましょう。五十メートルを十本。持ち時間一分で。つぎの六十スタートです」
プールサイドに大きな秒針と分針しかない時計~ペースクロックが置かれている。
選手コースの子供や成人クラスの中級レベルくらいから、この時計を見ながら泳ぐようになる。
一分持ちというのは、例えば三十秒のところからスタートしたスイマーは、一分以内に帰ってきて次の三十秒のところで二本目スタート。また一分以内に帰ってきてその次の三十秒のところで三本目スタート、というペースで練習を行う方法である。早く戻ってくれば休憩時間長くなり、時間ぎりぎりまで戻ることができなければ当然、ほとんど休まずに泳ぐことになる。
「五十メートル五本を五十秒持ちで二セット・セット間一分」
と言われると、五十メートルを持ち時間五十秒で泳いで、五本泳いだら一分の休憩をとり、その後もう一度五十秒持ちで五本を泳ぎなさい、という意味。
「五十メートル十本。持ち時間一分・四十秒制限」
というのは持ち時間は一分だけれども、四十秒以内に帰ってきなさい、という練習方法。
「百メートル四本二セット。十秒レスト。セット間一分。一から四ディセンド」
と指示されると、百メートルを四本泳ぐんだけれど、一本目より二本目、二本目より三本目と徐々にペースをあげていき、それを二回繰り返しなさい、百メートル終わるごとに十秒の休憩をとりなさい、四本終わったら一分の休憩をとりなさい、という意味になる。
ただ、こういう練習の指示のしかたを知っているからといって、偉いわけでも尊敬してもらえるわけでもない。
蓬莱さんが黙々と泳いでいるうちに、雅美は三コースの二人に練習メニューを説明する。
「じゃあキックいきましょう。ゆっくりでいいですから、時間をかけていきましょうね。そうだなあ・・・じゃあ今日は川下りをイメージしましょうか。周りの風景をゆっくり楽しむような、ゆっくりしたペースで百メートル。のんびりいきましょう。しんどかったら休憩いれてもらってもいいですからね。さあ、どうぞ」
三コースの二人のうち、一人は五十代後半のおばさんである。初級コースからプールをはじめて、五年かけてこのコースまであがってきた。この人は最近、体重が増えたことをかなり気にしている。もう一人は三十代の男性。体型がすこし崩れてきたから、ということでこの春からスイミングに通い始めた。
奇しくも、二人ともプールでは難しいシェイプアップ希望である。
三十を過ぎると、人間の身体にはそこここに故障がでてくる。膝や腰、肩などの痛みが多い。
人間の身体というものは、成長が止まった瞬間から老化が始まる。
二十代の人は認めたがらないが、これは現実である。
この老化という現象を早めるか、遅らせるかは、生活習慣に深く関わっている。
食事構成、運動履歴、生活の中での活動状況、仕事の内容・・・
これらが複雑にからみあい、筋肉の老化や内臓の老化の速度がきまる。筋肉年齢や体力年齢などは社会体育の現場でよく聞く言葉だし、最近では肌年齢、頭皮年齢、血管年齢や内臓年齢などという言葉も出現している。
肉体の老化を遅らせるためには食習慣に気を配り、日頃から運動を心がけるようにする。
スポーツトレーナーがよく口にする日常生活の心がまえではあるが、この理屈にも落とし穴がある。運動を心がけるようにすればするほど、運動傷害のリスクが増大するのである。
例えば、中学・高校時代に運動部に所属していて、全国大会レベルの運動能力を持っていた者が、クラブを引退して数年後、同じ種目のスポーツを再開したとしよう。
この人は全国大会にも出場したくらいだから、かなりの運動能力を持っていると考えていい。しかし、『数年』というブランクが問題なのである。人間の体内の細胞は、約三カ月で完全に入れ替わる。ということはつまり、この人の体内には全国大会で活躍した頃の細胞は残っていない。であるから、この人は小学校・中学校の頃のように一からそのスポーツに適した身体をつくり直さなければならない。少なくとも、理屈の上ではそうなる。
しかし十人中、九人までそうはしない。現役時代よりもはるかに軽いウオーミングアップを行ってから、徐々に運動負荷をあげていく。筋肉、特に筋持久力と筋柔軟性が現役当時から著しく失われているにもかかわらずに、である。筋肉は現役当時より弱っているのだが、脳はその運動を覚えているから、現役当時に近い運動を再現しようとする。
結果、腕などの細い筋肉から順に過度の運動をあきらめていく。筋肉に乳酸などの疲労物質がたまって動きにくい状態になる。それでも運動を続けると、身体の中心部に近い肩や腰などの筋肉が細い筋肉の運動を補おうとするため、本人が気づかないうちに肩や腰に負担がかかり、スポーツ傷害が発生するのである。
恐い恐い。
運動歴のほとんどない人が社会人になって運動をはじめるのは安全か、というとこれはこれで危険なのである。
運動経験のあまりない人は『運動によって筋肉痛が起こる』という状況をあまり経験していない人、である。
そもそも筋肉痛とは、運動によって壊された筋繊維が修復するときに生じる。筋肉は壊されることと修復することを繰り返しながら大きく、強くなっていく。修復した筋肉は一時的に以前のものよりも強い状態となり、そこから徐々に元のレベルの筋力へと戻っていく。一時的に強い状態になっている時期に次のトレーニングを行うと、そこでさらに筋繊維の破壊と修復が繰り返されることになり、さらに強い筋肉が作られることになる。ボディビルのマッチョマンなどはこういう方法で身体をつくっていくわけである。
こういうことから、筋肉痛はトレーニングにおいてはむしろ身体が作られていく過程での歓迎すべきプロセスであるととらえられがちなのである。
だが、しかーし。
『運動による筋肉痛』という現象をあまり経験していない人には、その痛みが『筋肉痛』なのか『関節痛』なのか『不自然な違和感』なのかの判断がつかない場合が多い。『筋肉痛』は問題ない。筋肉の修復が終われば痛みは消える。しかしトレーニングによる『不自然な違和感』や『関節痛』は深刻である。運動の負荷のかけかたを間違ってしまうと、鍛えることのできない(つまり故障を起こしても修復しない)腱や関節に負担がかかってしまい、健康になるためにトレーニングを行っているはずなのに逆にスポーツ傷害を負ってしまうという笑えない結果に陥ることになる。
恐い恐い。
ならばどうすればいいのか。
『スポーツ医学に精通したトレーナーの常駐するスポーツクラブに通って、自分の身体のコンディションをみながら、無理のないトレーニングを行ってください。異常を感じたらすぐにトレーニングを中止して、安静にして様子をみましょう。異常が長引くようなら医師に相談しましょう』という、どこぞのスポーツクラブの入会案内に出ているような対応をするしかないのである。
だってしょうがないじゃない。みんな老化してるんだもん。
と言ってしまってはマスターズコース(ゴルフのマスターズではない。水泳の成人コースのことをこう呼ぶ)もフィットネスクラブも成立しなくなってしまう。
そこでスイミングスクールなどでクラスとして成人コースを成立させるために、いろいろと知恵をしぼらなければいけないことになるわけである。本当は。
会員さんひとりひとりの故障の状況とその日のコンディションを把握し、なおかつその人が目的とする運動(体脂肪燃焼に重点を置くとか、短距離のタイム向上を目指すとか、長距離を泳ぐ体力をつけるとか、泳法別の技術練習とか・・・)に沿った個別メニューを作成し、さらにさらに会員さん同士でもめないように個人個人の泳ぐペースにあわせてコースの割り振りをして、必要ならば泳ぐ順番まで決めてあげる。これくらいのことをしなければならない。本当は。
それだけではなく、練習中もメンバー一人ひとりの顔色や表情などから体調を読み取り、必要ならば即座にトレーニング内容を組み換えるなどの柔軟性がなければならない。本当は。
でも実際、そんなこと、やってられない。
経験の浅いコーチだと、そこまで気がまわらないというのが実際のところだ。
かといってそういう細かい配慮ができるベテランコーチを配置していると、特定のコーチにばかり負担がかかる。
コーチの耳元で悪魔のささやく声がする。
『ええやんか。適当で。子供を教えるみたいに一時間まわしたらええねん』
恐ろしいことに、適当にやってもそれなりに格好がつくのである。成人コースというやつは。コーチに知識がなくても、会員さんが勝手にコーチの知識不足を補足して泳ぎはじめる。コーチよりも会員さんのほうが長いキャリアをもっているなんてケースはよくある話なのだ。
『いけてるいけてる。これでええわ』
と適当にやっていると、いつのまにか会員さんが減っていく。
つまらない水泳のレッスンほど苦痛なものはない。寒いし、冷えるし。
子供のクラスと違って、大人はシビアである。不都合なことがあったとき、子供の習い事ならガーガー文句を言うような人でも、自分のことだと黙って辞める人が多い。
最近はスイミングスクールにこだわらなくても、いいフィットネスクラブがいくらでもあるし。そういうところのトレーナーのほうが勉強してそうだし。
そういうところのほうがお風呂とかシャワーとかもあるし。
スイミングやめて、フィットネスに行っちゃおっと。
てなことになって、適当な指導をしているコーチのクラス、ひいては適当な人事を組んでいるスクールからはみるみるうちに会員さんが離れていく。
蛇足ながら説明すると、フィットネスクラブの水泳指導者のほうが『成人のトレーニング理論やスポーツ傷害の知識』に限って言えば知識は豊富である。ジムのインストラクターが水泳指導者を兼任しているような場合、その人はそれなりにトレーニング理論やスポーツ医学を勉強していると考えていい。ただし、より早くよりきれいに泳ぐための方法論はもっていないことがある。スイミングスクールとフィットネスクラブでは要求されるものが違うからだ。
それと、クラブのなかにはトレーニングジムの指導とスイミングの指導を分業制で行っているところがある。スイミングスクールの指導会社がクラブ運営をしているところなどではよく見られる形態だが、こういうところの水泳コーチは水泳だけしか勉強していない人が多い。ということはせっかくレベルの高い指導をしてもらおうと思ってクラブを移っても、スイミングしかわからないコーチにあたってしまう可能性もあるということなのである。
そもそも日本のフィットネスクラブで大手といわれるところのほとんどはスイミングスクール運営会社を母体としている。で、この不況だから、どこのクラブでも新卒の社員の採用とかを控えて、スイミングスクールしかやってきてない社員をフィットネスの現場にまわしたりする。スイミングのコーチはアスレの人を筋肉バカとか思ってる人が多いし、アスレの人は逆にスイミングの人を水泳バカだとか思う傾向にあるから、知識の交流とかあまりしない。スイミングの人はどちらかというと水泳は技術と根性だと思っている。アスレの人はというと、スポーツは筋肉を効果的に動かす科学だと思っている。
クロールに例えると、水泳のコーチはストロークの動きばかり重視する。水をキャッチするときは身体から遠く外にむけて水を押す、水をかきこむときは身体の中心に向かって手をかきこむ、最後に水を押し出すときは足の外側に向けて力強くかく・・・タイムが遅いのは根性や気合が足りない・・・集中せんかい・・・タイムが伸びないのは水をしっかり押してないからや。気合いれて泳げ、アホ。と言って泳ぎ続け、結果、その選手は速くなる。
ジムのトレーナーはこう考える。水をキャッチするときには肩の三角筋と腕の上腕三頭筋を使う、かきこむときは大胸筋・背広筋と上腕二等筋を使う、水を押し出すときは大胸筋と上腕三頭筋を使う・・・ということは肩・胸・腕を効率的に鍛えれば水泳に適した筋肉ができるはずやな。しかし待てよ、腕の筋肉は大胸筋や広背筋とくらべるとばてやすいし、力も弱いから、胸と背中を重点的に鍛えて、腕の負担を減らすように泳ぎのフォームを変えないといけないんじゃないだろうか・・・と考えて肉体改造と泳ぎのフォームを改良して、その選手は速くなる。
二つの方法論は本来、両立すべきものなのに、水泳側もジム側もそれぞれにプライドみたいなものがあってなかなか歩みよることができない。だから分業制の現場では指導者のレベルが上がっていかない。もったいない話である。
ただ、こういう話は雅代のデータベースには入っていない。業界の裏話とか傾向とかは公式の文書やデータには現れないから。
雅代はまたまたぼーっとしながらぽかんと口を開けて、国奥コーチの指導をながめていた。初級コースはウオーキングのウオーミングアップを終えて、定石通りビート板キックを始めた。成人の初級で最初に板キックを入れるのはよくないんだけどな。雅代は思った。
このあたりが子供の練習と大人の練習の違いである。
子供の場合は下半身が先に発達して、上半身の筋力は後からついてくる。子供の泳ぎはキックで進むと言ってもいい。だからビート板キックなどの下半身の強化練習をウオーミングアップとして先に済ませ、手の動きや呼吸練習は後のメイン練習として行うのが一般的な授業の組み立てとなる。
しかし大人の泳ぎの場合は少し事情が異なる。
大人の場合、上半身の筋力のほうが強い。泳ぎに使う上半身の筋肉は肩の三角筋、胸全体を覆う大胸筋、背中から腰にかけての広背筋。下半身の筋肉はお尻の筋肉と太股の筋肉。一部のふくらはぎの筋肉も使う。上半身と下半身では使う筋肉の絶対量が違う。そしてその分、体重が思い。大人の泳ぎはそもそも上半身のストロークで進む。だから推進力としてのキック練習は最小限にとどめて、呼吸練習やストローク練習に重点をおくべきなのである。現実にはビート板を使った『速く進むためのキック』の練習は、中級以上で、成人の試合や水泳大会などに出場するレベルになるまで必要ない。必要なのは姿勢保持のためのゆるやかで力のはいっていないキックなのである。
初級の生徒さんにとってこのキックという項目はとにかく辛い。
泳げないからスイミングに通っている人がほとんどだから、『ゆるやかに』『力をぬいて』キックするなどとてもできない。とにかくキックに力がはいりがちである。となると心拍数がガーッと上がる。肉体的疲労度も高い。
こういう項目をウオーミングアップの直後にもってくるのはどう考えてもよくない。
どうしても避けて通れない項目であるなら、後半のメイン練習のところにもってくるべきなんだけどな・・・
国奥君に注意してあげようかな・・・
でもまだまだ新人の雅代が元水泳選手の彼に向かって、心拍数だとか筋肉だとか説明するのも変な話である。帰ったら潮コーチに相談してみよっと。
とか何とか考えているうちに中級の会員さんが百メートルのビート板キックを終えて戻ってきた。二人とも頬がほんのりピンク色。推定心拍数は高すぎもせず、低すぎもせずといったところだろうか。
「はーい、お疲れさまでしたあ。キックってしんどい練習ですからね、今日はこれくらいにしときましょうね。じゃあ五十メートル歩いて呼吸を整えましょう。歩きながら肩のストレッチしといてくださいね。この後スイムいきますから」
四コースではキック練習を終えた蓬莱さんが口を水につけてブクブクやっている。
「蓬莱さん、イージー百お願いしまーす」
ぐぼっと潜ってから蓬莱さんが泳ぎだす。
イージーというのは練習と練習の間に入れる。楽にゆっくり泳いで呼吸を整えることである。
中級の二人のほうがやはり先に戻ってきた。
男性のほうの法華さんが右肩のあたりをさすっている。
「あれ、法華さん、肩の調子、良くないんですか?」
「ああ、昨日、草野球で頑張りすぎてなあ。肩、だるいねん」
「もう若くないんやから、あんまり無理したらあかんよ」
女性会員の有末さんがおばちゃんまるだしで指摘する。法華さんはでへへと笑っている。
赤外線サーモ。法華さんの肩部分の体温サーチ。うーん。微妙に熱を持っている。肩が炎症を起こしている可能性がある。
「法華さん、あまり無理せんほうがええよ。今日は軽めの練習にしとき。な、そうやろ、コーチ」
百メートルをあっという間に泳ぎ終えた蓬莱さんがいきなり会話に入ってきた。そう、その通り。よく言ってくれた。
こういうケースでは女子コーチは不利なのである。
『無理しないでゆっくりいきましょう・・・』などと言っても、男性会員のほとんどは『大丈夫や』とか言って普通のメニューを泳ぎたがる。これを男性コーチに言われると軽い練習で満足するのだから、男という生物は理解に苦しむ。
とりあえず中級コースにクロールの二百メートルを一本。
法華さんと有末さんはゆったりと泳ぎはじめた。
蓬莱さんはあいかわらずブクブクやっている。
雅代と目があうと、子供みたいに笑ってから言った。
「ごめんな、コーチ。余計なこと言ったかな」
「いえ、助かりました。男の会員さんって、言うこと聞いてくれない人多いんですよ」
「コーチ、若いわりにけっこう水泳わかってるみたいやね」
ん?なにか気づかれたか?
「そんなことないですよお。私、水泳とかあまりやったことない、普通の女の子ですもん」
「そうかなあ・・・メニューの組みかたが理詰めっぽいとこあるんやけどな。気のせいかな・・・」
「気のせいですよお」
「・・・でもね、理屈じゃ割り切れないことっていろいろあるもんだからね。思うようにいかなくてもあまり考えすぎたらあかんで・・・世の中って答えが一つじゃないこと、多いから・・・」
妙に遠い目をしながら蓬莱さんは言った。こういう発言や態度も謎に満ちている。
変わった人だ。蓬莱さんって。
「ありがとうございます・・・でも良い話してくれたからってメニューは変わらないですよ。百メートル八本、持ち時間一分四十秒でいきましょうか」
あくまでも明るく、雅代は言った。
ブラックスモークのゴーグルの下で、蓬莱さんの目尻が少し緩んだように見えた。


ミッション2 フロム井戸の底ウイズ ラブ 2


「あふーっ」
森コーチが大口をあけてあくびをした。
「いつまでたっても仕事終わらへんねえ、もう帰ろうか・・・」
雅代はコーチ室にかけられた時計を見た。午後十時をまわっている。
成人コースはけっこうきつい。肉体的にではない。夕方以降はみんな一日の入水指導を終えて、事務仕事に集中する時間帯である。その事務の時間帯を一時間以上とられるわけだ。普通のコーチにはきつい。雅代にとってはあまり苦にはならないのだが。
「そうですねえ、そろそろ帰りましょうか・・・」
コーチ室には国奥コーチが残っている。
『女性コーチだけで残業なんてダメですよ』とか言いながらいつも残って社員の仕事を手伝っている。
本来ならプールの鍵閉めはヘッドコーチの仕事なのだが、やはり今日も駿河コーチは上沼事業企画部長に呼び出されて帰っていった。
雅代と国奥コーチは成人クラスの授業が終わった後、私服に着替えている。
森コーチはジャージ姿のままである。着替えそびれたのだろう。
「じゃあ私、着替えてくるね。ちょっと待ってて」
ペタペタとサンダルを鳴らして森コーチが更衣室へ走っていった。
コーチ室には国奥コーチと雅代だけが残った。
「あの・・・中野コーチ・・・今晩、食事とかどうですか?」
ん?
今日はバッテリーパック持ってきてないなあ・・・
「うん・・・今日はやめとく。また今度誘ってよ」
国奥コーチのイガグリ頭が少しうなだれたように見えた。
「あの・・・中野コーチ・・・」
「ん?」
「あの・・・今度・・・時間つくって欲しいんですけど・・・」
「え?なに?」
「あの・・・話があるんです」
「え?どうしたの?」
「あ、いや・・・そのとき話しますから・・・」
なんだかわからないけど・・・あら、国奥君、耳まっ赤。
「うん、わかった」
雅代は明るく言った。
聡明な読者諸氏なら国奥君の気持ちがお分かりだろう。国奥君の『話』がどんな話なのかも。男性に対する免疫がないぶん、雅代は鈍感である。
国奥コーチがあとひと押ししようとしていたところに、着替えを終えた森コーチが戻ってきた。
「お待たせ。じゃあ、帰ろうか」

夏の匂いがする夜の道を、三人はキャハキャハとはしゃぎながら歩いた。
くっきりとした月が今日は遠い。
明日もきっと晴れるだろう。
明るい大通りから一本裏道に入ると、街灯もめっきり減り、薄暗くなる。
遠くにぼうと何かが見える。
夕方コーチ室で話題になった、東明石小学校の裏門である。
「じゃあね、中野コーチ、国奥コーチ。お疲れさま」
森コーチが言って、路地に入っていった。
「お疲れさまでしたあ・・・」
「お疲れっす」
そのまま二人は小学校の裏門に向かって歩いていく。
国奥コーチと雅代は小学校の前で左右に別れる。
いつもは森コーチと別れた後、それまで以上に話しはじめる国奥コーチだったが、今日はほとんどしゃべらない。どうしたんだろう。調子でも悪いのかな・・・
雅代は国奥コーチの体調が心配になりはじめた。気づかれないようにサーモスキャンや心拍数チェックをしている。とことん鈍い女である。
心拍は・・・やや高い。体温分布・・・顔と耳のあたりがいつもより少し体温高め。
どうしたのかな・・・夏風邪かな・・・
雅代がかわいそうな国奥コーチに声をかけようとしたそのとき、国奥コーチがすっとんきょうな声をあげた。
「あれえ、早紀ちゃんじゃないですか?」
ん?
見ると、小学校の裏門の近くに女の子らしい影が動いている。
拡大。光量調整。輪郭のデジタル補正・・・
間違いない。北小路早紀である。肉眼では確認できないだろうけど、なんだか泣いているみたい。
『行ってみよう・・・』と雅代が言う前に、国奥コーチは学校の裏門にむけてダッシュしていた。言葉よりも感情と行動が先行するタイプの典型だ。
自分の持つ能力を早紀ちゃんや国奥コーチに気づかれないように、雅代は彼よりはるか遅れて走る。雅代は校門のところに着いてからも、早紀ちゃんは泣いていた。
怖くて、心細かったようだ。そんなところに自分に向かってダッシュしてくるイガグリ頭がきたもんだから、早紀ちゃん、そうとう怯えている。
「とりあえず、家まで送っていこうよ。早紀ちゃん、センセイ帰ってるんでしょ」
早紀ちゃんはコクリとうなずいた。

早紀ちゃんは歩きながらポツリポツリと話してくれた。
早紀ちゃんのお父さんは海外へ単身赴任している。だから家にはセンセイと早紀ちゃんとお兄ちゃんの『輝』君の三人。その輝君が、最近家に帰っていないんだという。
中学のころの輝君は、将来を期待されていた水泳選手だった。スポーツ推薦で高校へ進学。ところが・・・部活の帰りに交通事故にあったことが彼の人生を変えてしまった。
日常生活には支障はない程度に回復したものの、水泳選手としての未来は絶望・・・そういう残酷な事実が彼につきつけられた。ちょうどその頃から、早紀ちゃんのタイムがどんどん伸びはじめ、スイマーとしての周囲の期待は兄から妹へとシフトしていった。輝君は高校を中退し、やがて悪い友達と遊びはじめるようになった。父親は不在。センセイは厳しいうえに一言多い人だから、息子と毎晩のように口論を繰り返し、家の中はかなりぎすぎすした雰囲気らしい。
その輝君が、家を出たまま帰らない・・・
早紀ちゃんのタイムが伸び悩んでいることにはこんなシビアな理由があったようだ。
ついでにセンセイが元気ない理由も。
そして。早紀ちゃんは友人から妙な噂を耳にした。夜、東明石小学校の裏門近くで、輝の姿をみかけた人がいるらしい。早紀ちゃんはじっとしていられずに毎晩、小学校の校門あたりで、兄が姿を見せるのを待っていたのだという。
「コーチの話ね、ぜんぜん怖くなかってんけど・・・お兄ちゃんがひどい目にあってるみたいな気がして・・・泣いてしもうてん」
ああそうですか。悪うございました。ぜんぜん怖くない話で。
「早紀ちゃん・・・北小路コーチは家でどないしてはんの?」
国奥コーチが早紀にたずねた。
「ママは・・・お兄ちゃんが家出してから、ほとんど眠れてないみたい・・・食事もちゃんととってないようだし・・・でもプールのみんなに心配かけちゃいけないって、仕事だけはちゃんと行ってたみたいだけど・・・」
ふむふむ・・・うーん。放っておけない話だ。
「ねえ、国奥コーチ・・・早紀ちゃんをここから家まで送っていってあげてくれない?私、早紀ちゃんの代わりに学校のところで待っててあげようと思うんだ・・・」
「え?今からですか」
「うん」
「コーチ、だめだよ。プール、夏休み前って大変なんでしょ?」
「大丈夫だよ。コーチ、新人さんだから、あまりたいした仕事してないし・・・」
「ホント大丈夫ですか?中野コーチ・・・」
「うん。ちょっと家に寄って、懐中電灯とか取ってくるから。国奥コーチには早紀ちゃんのことお願いしたいんだけど」
「・・・はあ、分かりました・・・」
もちろん雅代は家にとりに行くのは懐中電灯などではない。非常用バッテリーパックである。バッテリーパックさえあれば、今晩徹夜したって大丈夫。朝になればソーラー充電だって始まるし。
早紀ちゃんと国奥コーチがラーメン屋のかどを曲がって見えなくなったのを確認してから、雅代は自宅まで走った。
風のような速さで。


*


「事情はだいたい把握している。はい、バッテリーパック。あんまり無理するんじゃないよ」
意外にも、バッテリーパックを用意して待っていたのは宮崎さんだった。
「あれ?潮さんは?」
そういえば潮コーチは選手コースの指導を終えて、すぐ帰っていった。どうしたんだろう。調子でも悪いのかな・・・
雅代は何かといえば体調が悪いのではないかと考える。世の中というものはそれだけではないのだが。
「うん・・・潮君はね、本部に行ってる。まあ・・・黙っていてもいずれ分かるだろうから先に言っておくけどね、彼、辞表を出したんだよ・・・」
は?
「えっとだね・・・どう説明したらいいんだろうなあ・・・彼には君のバックアップスタッフとして無理な仕事をずっとお願いしてきたんだけどねえ。なんだか急に辞めたいって言い出して・・・」
そんな・・・
「あの・・・それは・・・決定事項なんですか?」
「慰留はしてみたんだけど、決意は固いみたい。どうしてもやりたい仕事が見つかったんだってさ」
「あの・・・その仕事って・・・ひょっとして・・・」
「うん・・・スイミングスクールのコーチだって・・・」
がちょーん。


*


デイパックを背負った少女が夜の町をとぼとぼと歩いている。
あまりに突然のことだった。
潮コーチはきっと本気だ。
本気で水泳と向き合おうとしている。それにひきかえ・・・私はこのプールで何ができているのだろう。これまで、子供たちや会員さんたちに、何をしてあげたのだろう。いくら考えても答えはない。そりゃそうだ。スイミングって、学校や幼稚園みたいにはっきりした形の卒業とかがあるわけじゃない。やったこと、できたこと、やりとげたこと。そういうことに一つひとつが見えない、いや、見えにくいものなのだ。
私はこの三カ月で、そして残された性能テストの期間で・・・何がやれるのだろう。何が残せるのだろう。彼女が持つ膨大なデータベースのどこにも、その答えは書いてはいない。
気がつくと、東明石小学校の校門の前に立っていた。
学校の中はひたすら暗い。そりゃそうだよね。夜の学校に用事がある人なんていないだろうし。雅代は右目を暗視モードに切り換えた。このモードだと暗闇のなかでも人間の動きが感知される。左目は温度感知サーモ。熱源の移動を察知できる。
そうだなあ・・・せっかくここまで来たんだから、呪いの井戸ってやつも見ておこうかな。来週、選手コースの怖い話のネタにしよっと。
雅代は二メートルほどの有刺鉄線つきのフェンスをひょいと飛び越え、学校の敷地内に入った。
静かだ。遠くで蛙が鳴いている。
闇の中にひときわ不気味にそびえているのが、旧校舎である。
旧校舎の入り口は、鉄のフェンスで閉ざされている。いたずら盛りの小学生が忍び込んだりしないようにだろうか。フェンスとフェンスの間には鎖が巻かれ、さらに大きな南京錠がかけられている。この様子だと雅代でも忍び込めそうにない。鎖を切ったり、南京錠を壊していいのなら話は別だが・・・
旧校舎の奥って言ってたっけ、呪われた井戸・・・
旧校舎をぐるりと取り囲んでいるフェンスがとぎれた。 
暗視モードの雅代の視界に、不気味にそこに在る古井戸が入ってきた。
ん?
井戸のそばに誰かいる。
一人ではない。何人かの男が、井戸をとりかこむように立っている。
反射的に雅代は身を隠した。
まさか幽霊だったりして。
それはなさそうだな。
誰だろう・・・ズーム。
見るからにガラの悪そうな『若いの』が三人。こういう人たちのこと、チーマーっていうんだろうか。それと、はっきり『その世界のあんちゃん』が一人。
井戸の淵には縄梯子がかけられている。
しかしどう見ても井戸の美術的価値や学術的価値を調査しているわけではなさそうだ。もちろん超常現象調査隊でもないだろう。
『どうみてもその筋のあんちゃん』と『ガラの悪い若いの』のうち二人が縄梯子で井戸の中に降りていく。
この時点で、梯子で降りていった『若いの』のうち一人が、早紀の兄、輝であることを雅代は確認していた。
深夜。無人の学校。古井戸。チーマーの若い衆。やくざっぽい兄ちゃん。一人の見張りを残してあとの三人が降りてく手口・・・
犯罪の匂いがぷんぷんする。
雅代はその場でお祈りのポーズを作った。
『・・・どう思う?MASAMI・・・』
雅代はダイレクト通信でMASAMIに問いかける。
雅代とMASAMIの通信方法は二つ。前線基地の宮崎を経由してMASAMIからの指示を待つ方法と、ダイレクト通信による方法。基地を経由する方法はモニターされた雅代の思考をMASAMIが読み取って、最良の解決方法をアドバイスしてくれるものだ。行動に制約がないが、解答までに時間がかかることがある。ダイレクト通信の場合、解答は早いが、通信終了までお祈りの姿勢のまま行動することができない。CPUが通信を優先してメモリーを配分するためである。
『犯罪の可能性、高いわね、雅代・・・』
『突入するべきかな・・・』
『ん・・・井戸の中はやっぱ通信とか途切れそうだよね。ちょっと危険かもしれない。前のこともあるし・・・組織からの応援を待ったほうがいいかもしれない』
『応援って・・・今度はどのくらいの規模なの?』
『とりあえず県警の機動部隊一個小隊を確保してるけど・・・武装して、出動の指示待ちの状態だよ』
『いつもやることがすごいねえ、MASAMIちゃん・・・』
『敵の戦力がわからないときは、最大級の武力を投入すべし。孫子の兵法よ・・・でも・・・雅代ちゃん、輝君のことが気になるんでしょ?』
『うん・・・輝君がつかまったりしたら・・・早紀ちゃん、悲しむだろうな・・・』
『・・・じゃあこうしよう。二十分あげる。雅美ちゃんがすることは、状況の視察だけ。二十分後に、雅代ちゃんからの連絡がなければ機動部隊を投入します。これでいい?』
『うん・・・』
『機動部隊が動きはじめてから現場到着までは十分ってとこだと思う。だから何があっても三十分以内に井戸から脱出してね。後始末がややこしくなるから。いい?』
『ありがとう、MASAMIちゃん。感謝だよ』
『じゃあ時計を合わせるよ。三・二・一、スタート。ミッション開始』
『ラジャー』
雅代は走った。
(残り時間三十分)


ミッション2 フロム井戸の底ウイズ ラブ 3


どうしよう。話しあえばお互い理解しあえるとは思うんだけど。
でもなんかこの人、凶悪そうな顔してるし。ま、いいか。しばらく気絶しておいてもらおう。
誰か知らないけど、ごめんね。


*


見るからにガラの悪そうな若いチンピラ、八甲田 昇は少々イラついていた。
ヒカルのやつ・・・うまくリキさんに取り入りやがって。
そもそもこの『仕事』をもってきたのはこの俺だ。どうして俺が見張りなんだよ。
昇はくわえていたラークマイルドをいまいましげに地面にたたきつけた。
だいたいこんな場所に見張りもないじゃねえか。イカレた奴が近づかないようにあんな馬鹿馬鹿しい幽霊話を広めておいたんだ。誰もこんな場所に来るはずが・・・
その瞬間、昇は信じられない光景を目の当たりにした。
乳のでかい、ちょっと太めの少女が・・・走ってくる。
は?と思った瞬間、少女は重力を無視したかのような跳躍をみせた。
次の瞬間、右頸動脈あたりに鈍い衝撃。続けて延髄に思い痛み。後方で着地音がした。
昇は音の方向に向き直ることさえできずに、ゆっくりと倒れはじめた。薄れてゆく意識の中で、昇は思った。
くやしいけど、こいつ、かっこいい・・・ジェットリーみたい・・・


*

 

そのまま倒れたら井戸の淵で頭をぶつけそうだったので、雅代はあわててチンピラ兄ちゃんを抱きとめた。見事、気絶してる。よく見るとこの兄ちゃん、まだかわいい顔してる。話し合う時間あげたほうがよかったかな。ま、いいか。念のため、身体検査。まさか武器なんか持っていないと思うけど・・・ん?拳銃、ナイフ、特殊警棒・・・いろいろ持ってる。とりあえず、没収ね。悪いけど、早紀ちゃんのお兄ちゃんの安全がかかってるから。
ベルトで縛って、一丁あがり。じゃあまたあとでね。
古井戸をのぞき込む。中はひたすら暗い。
さてどうするか。一体、三人の男たちはこの井戸の中で何をしているんだろう。
声とかも聞こえない。サーチしてみよう。赤外線照射。体温検知システム作動。ありゃ?
誰もいない。井戸の中からは人間の反応はない。どういうことだろう。井戸の深さを調べよう。超音波照射。音波反射時間から井戸の深さを測定・・・深さ十メートル。これって、枯れ井戸みたいだ。水の反応がない。湿気はかなりあるけど、水は残ってないみたいだ。ということは・・・男三人はどこへ消えたんだろう。ひょっとしてこれは井戸じゃないかも。井戸の形をした何か?
・・・行ってみよう。
『MASAMIちゃん、しばらく雅代の行動、モニターできなくなると思うけど、心配しないでよね』
『わかってる。それより残り時間二十八分だよ』
『了解』
雅代は井戸の淵を持って、ひょいと飛び込んだ。
五メートル地点でMASAMIとの通信が途絶えるのがわかった。
ここからは私一人・・・
(残り時間二十八分)


*

 

井戸の底はほとんど明かりが届いていなかった。
肉眼では何も見えない。しかたないよね。赤外線スコープを使用する。あと、ついでに超音波レーダーも作動させる。男三人の姿は、やはりない。
井戸の中は仄かに暗く、とても異様な雰囲気。髪のながーいおねえさんが後ろに立っていても不思議じゃない。
おや?周囲の壁のうち、一カ所だけ音波が帰ってこない場所がある。横穴かなにかだ。
音をたてないよう、そこにゆっくりと近づいていくと・・・トンネル。人工的なものだ。
雅代は地磁気を参照して方角の見当をつけた。この方向は・・・旧校舎の方向だ。ということは・・・これって秘密の抜け穴か何かだろうか?人工的なものとはいえ、造りは粗末なものだ。ただ、最近つくられたものではない。恐らくは防空壕か何かの跡だろう。
雅代は横穴に近づいた。人影は・・・ない。雅代はさらに奥へと進んだ。
はるか向こうに、灯が見える。何だろう。位置から考えると、旧校舎の地下あたり。ということはこの横穴は、旧校舎と井戸を結ぶ秘密の抜け穴ということになる。
雅代は音をたてないように光りがもれているエリアまで走った。
と、そこは・・・
だだっ広い空間。で、そこにあるのはフラスコだとか試験管だとかの実験器具が、いっぱい。用途はわからないけれど、大きな機械もいくつか見える。白衣を着た人もいっぱい。十人以上はいるんじゃないだろうか。どうやら何かの工場のようだ。でも・・・どっかおかしい。こんな真夜中に、小学校の旧校舎の地下で、何やってるのよ、この人たちは。
雅代は白衣を着た連中に気づかれないように工場の中に潜入した。
(残り時間二十二分)
工場といっても、機械がのべつまくなしガーガーいっているわけではない。なんか、広ーい空間で、例えていうと・・・そうだなあ、アメリカ映画でときどき出てくる、麻薬精製工場みたいな感じかな。
向こうのほうに、やくざの兄ちゃんの姿が見えた。助さん角さんのように左右に若い衆をひきつれている。角さんのほうは・・・やっぱり輝くんみたいだ。三人衆はもっともっとえらく見えるやくざのおじさんと話をしている。
近づきたいけど・・・あそこまで行こうと思ったら、工場の真ん中を突っ切らないといけない。
読唇術を使うしかないかな。会話をしている四人の唇の動作パターンを登録。解析開始。
『・あ、・・おうの・あにま・くおうよおお・うるおはあえおかんあえん・・やろ』
『おんない・ろいお・な・ろいばおあ・うほで・るあ・てね』
『さ・が・にき』
何のことやらわからない。唇の動作パターンを再解析。日本語の頻出子音と照合、会話の内容を推測せよ。・・・あと・・・会話の流れからも語句を推測。やくざさんの隠語辞書を開く。辞書も参照。これでどうだ・・・
『まさか小学校の地下に真代君の工場があるとは誰もおもわ変野郎』
『こんなに広い場所が確保できるなんてね』
『さすが兄貴』
・・・二人目と三人目の発言の内容はわかったけど・・・真代君の工場?おもわ変野郎?
わかった。関西弁辞書も開かんとあかんわ。思わへんやろって言ったみたいだね。
真代君の工場・・・ひょっとして・・・麻薬の工場?
じゃあ、ここって・・・麻薬工場?ウソみたい・・・
『この工場が本格的に稼働をはじめたら、ウチの組はここらでは敵なしの組織になる。この工場はワシらの新しい資金源や。人身売買はもうあかん。この前の特捜の手入れが入って組織はガタガタや。期待してるで、樋口』
『ありがとうございやす。組織の重要な工場を任せていただいて、感謝しとります。命に変えてもこの仕事、やりとげてみせます』
『おう』
人身売買?組織がガタガタ?えっと・・・念のため・・・この前雅代がやっつけたリンさんの一件の資料・・・残ってたかな・・・えっと・・・逮捕できなかった組織の幹部・・・
いた。塩田和夫。顔は白竜と宇崎竜童を足して二で割ったようなロッカー顔。これがあのえらい人だ。樋口って人は・・・これもいた。樋口力哉。この人は若い頃の清水健太郎みたいな顔してる。
ってことは、雅代が壊滅させた人身売買組織の日本支部の残党じゃないの。この人たち、まだこんな悪いことしてたんだ。
幸いまだ工場は本稼働していないような雰囲気だ。やっぱ・・・潰さないといけないよね、こんな工場。
でも・・・輝くんがいる。彼にとって一番いい解決方法を考えてあげないと・・・
『おい、輝・・・』
ニセ清水健太郎が言った。
『はい・・・』
『お前・・・俺らのこと、裏切ろうとしてるんと違うか?』
思いもしない展開だった。
(残り時間二十分)


*


しまった。見抜かれていた・・・輝は思った。
輝は子供の頃から正直者で、きっちり山のキチエモンとあだ名で呼ばれていた。そんな彼は、持ち前のきっちりした性格を生かし、きっちり、きっちり結果を残し、いつか周囲から期待される水泳選手となっていた。彼の視界の中に水泳界の最高峰・・・日本選手権がおぼろげに見えてきたとき・・・事故は起こった。人災とよぶにふさわしい事故で彼はその選手生命を断たれた。加害者は覚醒剤常習者。事故のときも薬の影響で朦朧としていたらしい。一歩間違えば命も危なかった。
彼は自分の不遇な運命を呪った・・・そして・・・彼はこれまで自分が水泳に向けていた全てのエネルギーは行き場を失った。
だが、きっちり山のキチエモンがそれだけで終わるはずはない。きっちりオトシマエつけたろやないかい。覚醒剤撲滅。それが彼の新しい目標となった。しかし。彼はまだまだ若かった。輝のような若造にそんな大それたことができるはずはない。
彼のとった行動は破天荒なものだった。毒をもって毒を制す。彼は髪を金色に染め、よからぬ友人とつきあい・・・自分の人生を狂わせた『覚醒剤』を自分のもとに呼び寄せようとした。内部から『薬』を供給する組織を壊滅させるために。『潜入捜査』。彼はようやく組織の本丸にまでたどりついた。あと一歩・・・あと一歩だったのに。
『胴元』、塩田が低い声で言った。
「最近なあ・・・麻薬取締官の動きが妙なんや・・・こっちの動きが読まれとるみたいな気がしてなあ・・・悪いが、お前を試させてもらった。昨日、お前だけに教えた取引の場所と時間なあ、あれ、ガセネタや。ところがその時間その場所に、スーツ着たおっさんがようさんおったらしいで。おかしいなあ・・・お前にしか知らせてない取引の情報、なんでスーツのおっさんが知っとるんやろなあ・・・」
「悪いが、死んでもらわなあかんな」
さっきまで『アニキ』と呼んでいた樋口がポケットから拳銃を出した。
こいつらは裏切り者には『道具』を使わない。仲間へのみせしめのため、残酷な方法で私刑するのだ。銃は逃げようとした相手の動きを止めるときだけに使う。
輝は『仲間たち』のやりかたを熟知していた。そして、自分がもう逃げられないことも。
輝は大きく息をすった。父さん、母さん、早紀・・・ごめん・・・ここまでみたいだ・・・
突然、みぞおちのあたりに激痛が走った。横に立っていた『カズ』に樋口が目配せをした次の瞬間のことだ。輝はその場に崩れおちた。呼吸ができない。胃の奥から酸っぱい何かが逆流してきた。
「おう、カズよお、死んだ奴いたぶってもおもろないやろ。生きたまま、地獄見せたれ・・・」
樋口の声が遠くで聞こえた。


*

 

そのとき、何かが宙を飛んだ。
樋口の持つトカレフがそれにはじかれてはるか向こうへ飛び去った。
また何かが飛んできた。『それ』はカズの両腕と左太股に命中し、哀れなカズはその場に倒れこんだ。白竜と宇崎竜童を足して二で割ったような顔をした塩田は、飛んできたものが何か確認して、あまりのことに呆然とした。
樋口の拳銃をはじきとばし、カズを倒したもの・・・それは固く小さく丸められた明石海峡スイミング・夏休み水泳教室のチラシだった。
「誰や?」
塩田は叫んだ。そして、次の瞬間、工場内の異変に気づいた。
誰もいない。
いや、そんなはずはない。この工場には組織の者が十人以上いるはずだ。みんなどこに行ったというのだ。
このとき塩田が冷静だったなら、気づいていただろう。凶器ともいえる夏休み水泳教室のチラシが、自分たちだけに向けられたわけではないことを。
事実、工場で麻薬精製の機器を動かしていた組員たちは全員・・・雅代によって気絶させられていた。
「そこまでですね。塩田さん。まもなくあなたは逮捕されます」
澄んだ女性の声が響いた。
「誰や?」
「政府特命捜査官。香坂雅美」
「・・・またお前かい・・・」
そういえば前の人身売買組織壊滅のときも雅代はこう名乗ったような気がする。雅代がサイボーグになる前の名前だ。今の名前をうかつに名乗ってプールに迷惑かけてはいけない。
塩田のリアクションを聞いて、雅代は『こいつ、やっぱりあのときにもいた奴だ』と確信した。こらしめてやらなければ。しかし・・・ここで雅代は考える。
こういう組織の人間の執念深さは尋常ではないと聞く。
このまま彼らをお仕置きすれば、輝は一生彼らから追われることにもなりかねない。
多少は賭けなきゃいけないかな・・・輝くんと・・・早紀ちゃんのために。
(残り時間十分・MASAMIの指示により機動部隊活動開始)


「動かないで。動くと実力行使します」
雅代は物理の法則を無視した登場のしかたを試みた。カマシである。
ひょーんと飛んで、軽く二回宙返りを決めて銃を飛ばされておろおろしている樋口氏の目の前に立った。
悪党どもはぽかんとしている。とりあえずは成功。そして、あんぐりと口を開いたままの男に向かって言った。
「ご苦労さまです。助かりました。これからも情報、よろしくお願いします。もうお帰りいただいて結構ですよ・・・樋口さん」
言われた樋口本人はおろおろしている。
そりゃそうだろう。顔もみたことのない女がスーパー戦隊みたいな登場のしかたをしたかと思うと、いきなり旧知の間柄のような顔をして自分の名前を呼ぶのだ。
「それにしても・・・感心しませんよ。いくら自分にかけられた嫌疑をそらすためとはいえ、身内の若い者をスケープゴートにするとは・・・こちらとしても、大事に育てあげたスパイに殺人犯になられては困るもので・・・手荒な真似をさせていただきました。お許しください」
ニセ白竜プラス宇崎竜童の顔がみるみる歪む。
「あ、そうそう、今回の仕事の謝礼、いつもの口座に振り込んでおきました。ご確認ください・・・ほらほら、元上司が怒った顔してますよ。早く行かないと。あと五分もすれば特捜本隊が到着します。それまでに早く逃げてください・・・」
そう言うと、雅代はまっすぐに輝のもとへ歩み寄った。
「北小路 輝。観念しなさい。麻薬取締法違反は別件です。三年前の強盗殺人と五年前の少女暴行及び監禁致死の罪で逮捕状が出ています。犯行当時少年だったあなたにたどりつくまでにかなり時間がかかったわ。あなたには黙秘権と弁護士を呼ぶ権利があります。弁護士を雇うお金がないのなら国選弁護人がつくわ。じゃあ北小路容疑者・・・法廷で会いましょう・・・」
もちろんこれは芝居である。輝本人は相変わらずおえおえやっている。聞いちゃいない。輝に気をとられているふりをしながら、雅代はただ一瞬のタイミングを待っていた。
ニセ白竜プラス宇崎竜堂こと塩田は、ものすごい眼差しでニセ清水健太郎こと樋口をにらんでいる。塩田の手が、ゆっくりと右ポケットにむけて移動した・・・塩田のスーツの不自然な型の歪みとポケットのふくらみから、そこには銃が隠されているに違いない。
チャンスは一瞬。
必要なのは、塩田が樋口にむけた怒り。
樋口の塩田へ対する恐怖。
塩田の手がす、とポケットに入った。と、同時に樋口は旧校舎の方向へ走りだした。
「うらあ、樋口い!」
塩田が銃を出しながら叫んだそのとき、二つの紙弾~丸められた水泳教室のチラシ~が二人の男めがけて発射された。
二人の男はこめかみへの一撃でほぼ同時にその場に昏倒した・・・


*


雅代が狙ったポイントは正確にはこめかみから後頭部に向けて二ミリほど後方。彼女はこのポイントに、微弱に帯電させた紙弾を命中させた。
頭のこの位置に下斜めからある一定の強さの電気刺激を加えたとき、短期記憶をつかさどる脳だけが脳震盪に似た症状を起こす。雅代の一撃によって、二人の男の記憶はごく最近に起こった事柄を中心に大混乱をはじめる。こりゃいかんと判断した脳は、記憶の交通整理をはじめる。その交通整理のよりどころは、脳の別の場所に記憶されている『長期記憶』や『感情の起伏の記憶』である。
紙弾の一撃で混乱した塩田の短期記憶。その記憶は樋口に対する怒りをもとにして記憶の再構成を行う。怒りの原因は何か・・・組織の中の裏切り者。怒りの対象は樋口。イコール組織の裏切り者は樋口。
同様に樋口は、塩田への恐怖をもとに記憶を構成する。恐怖の原因はスパイ疑惑。とにかく自分は塩田から強烈な怒りを買っているようだ。そして混乱する記憶に残る香坂と名乗る女性エージェント。ひょっとすると俺はスパイやったんかもしれん。いや、きっとそうに違いない・・・自分がスパイではないと確信できる記憶は自分にはない・・・
人間の記憶とは脆く、危ういものである。
そして人々はそれのみをよりどころにしている。
そのよりどころを人為的に操作するわけだ。
多少、罪の意識を感じるが・・・でも、人身売買や麻薬密売はやっぱりよくない。
ここで働いている一人でも多くの人に真人間になってもらうためにも・・・ごめんなさい。幹部のあなたたちは、憎みあってください。
あとは踏み込んできた警察の機動部隊が樋口を潜入スパイとして扱ってくれさえすれば完璧である。
輝君を奪還して、彼が更生すれば、全ては雅代の思い通りとなる。
・・・思い通り。

『思いどおりにいかないことがあっても・・・』
雅代はふいに蓬莱さんの意味深な言葉を思い出した。
変なときに変な言葉思い出しちゃった。
急ごう。時間がない。
(残り時間五分。機動部隊到着まであと五分)


*


「輝くん・・・大丈夫?立てる?」
「君は・・・誰?」
「んとね・・・正義の味方かな。早紀ちゃんとお母さんの知り合い。二人とも、心配してるよ。家へ帰ろう・・・」
「俺が家に帰ると、あいつらに迷惑がかかる。帰るわけにはいかない」
輝の言葉には、『雅美』が恋した頃の活発な印象はなかった。
アウトローを気取った、でも根は善良そうな言葉。
この影のある雰囲気に純粋な『雅美』はころっときちゃったんだね。
でも今の雅代にはわかる。
彼は自分が本来戻るべき場所に帰りたがっている。彼は自分以上の姿に自分を映し続けることに疲れている。
今の彼は等身大の彼じゃない。
彼自身が善良な分、今の彼には中身がない。だから強さもない。
雅代自身はどうなのだろう・・・
仲間に囲まれてはいるものの、本当は自分の帰るべき場所を持たない・・・
輝とは逆に、等身大の自分にふさわしくない力を持っている・・・
『雅代』だからこそ輝の気持ちがわかる。
「・・・違うよ・・・輝くん」
雅代は言った。
「帰るわけにはいかないんじゃないよ。逆だよ。帰らなくちゃいけないんだよ。ここはあなたのいる場所じゃない。あなたのいるべき場所と、あなたのするべきことを間違えないで。輝くん、もし私がこなかったら死んでたかもしれないじゃん。あなたがそんな目にあって、悲しむ人、たくさんいると思うよ。輝くんがやってたみたいな正義の味方のマネは、どっかの誰かにまかせておけばいいんだよ・・・少なくとも、あなたは、帰らなくちゃいけない」
輝は黙っていた。
「私ね・・・ある場所で特殊な訓練受けたんだよ。だからいろんな武器とか使えるし、戦うためのいろんなこと知ってる。普通の女の子みたいな顔してるけど、ほんとはそうじゃなくて・・・なんか・・・バケモノみたいに強いもうひとりの自分がいる。だから私は何したって、どんな状況だって平気なんだよ。でも・・・あなたは・・・普通の人なんだし、だからこそこれから先も普通に生きていかなきゃいけないと思うんだ。帰る場所があるんなら、なおさらだよ。あなたの過去に何があったか知らないし、興味もないけど、映画の登場人物みたいな危ない真似は・・・帰るべき場所がある人がやることじゃないと・・・思う・・・」
伝わったのだろうか。
輝は雅代の言葉を拒絶はしていない。彼女の言葉の一つひとつを、自分に言い聞かせているように見える。じっとうつむいていた輝が、小さく頷いた。
ミッション完了。ぎりぎりのところで間に合った。残り時間は三分少々。今から出口である井戸まで走って脱出すれば、それと入れ替わりに機動部隊が到着するはずだ。
「行こう・・・そろそろ警察本隊がやってくるわ。巻き込まれるとちょっとだけ面倒だから・・・」
輝は黙って立ち上がった。
雅代も顔をあげた。
その瞬間、雅代の視界の隅でエマージェンシーが表示された。
『何?何なの?これ・・・』
何がどう危険なの? どうしてエマージェンシーコールが鳴るの? え?どうしたの?何なの?これ・・・
エマージェンシー詳細表示。銃・・・おそらくロックオンされている・・・
銃って・・・銃は・・・塩田の銃と・・・樋口の・・・樋口の・・・
ない。樋口の銃が、ない。
紙弾ではじき飛ばしたはずの樋口の銃が・・・そこにない。
え?
カリッと銃の撃鉄があげられる音が響いた。
うかつだった。
『カズ』の存在。
こいつさっきまでヒーヒーうめきながら、のたうちまわってたくせに。紙弾の威力を低く設定しすぎたのかもしれない・・・っていまさら遅いけど・・・
『カズ』の構えた銃は、まっすぐに雅代を狙っている。
『バケモノ・・・』
少年と呼んでいいようなヒットマンの口がそう動いた。
驚くほど時間がゆっくりと動いていく。交通事故にあうときってこんな感じなんだろうか。どうなんだろう。今度輝くんにきいてみようっと。
『カズ』の指がゆっくりと引き金をしぼる。
雅代は銃口の位置から着弾位置を推測した。着弾予想位置は雅代の右肩あたり。まずいなあ・・・メンテナンス、面倒なんだよね。スイミング休まなくちゃいけないかな・・・
そのとき、何かが雅代の目の前に飛び出してきた。
雅代と同じくらいの大きさの、かなり小柄な影。
同時に銃声が響き、広い工場の中に反響した。
なに?どうしたの?何があったの?
影の肩口あたりから血しぶきがあがる。
また銃声。
弾丸は影の太股あたりに命中した。
影が身体を反転させながらその場に崩れた。
銃声とほぼ同時に、雅代はポケットの紙弾を五発同時に発射した。
米海軍の戦闘機が散開するような軌道で、弾は『カズ』の眉間・みぞおち・脇腹・のどぼとけ・金的に命中した。
ぐうっという声だけをあげて、彼は銃を構えたままの姿勢で失神した。雅代はそこまでを意識の半分で確認しながら、残る半分のもう半分の意識で輝の安全を確認し・・・残った意識で『影』が誰であるか確認しようとした・・・
どうして?
雅代の全ての意識は、その血まみれの影に集中した。
どうして・・・どうしてあなたがここにいるの・・・
国奥コーチ・・・
(残り時間一分)

 


ミッション2 フロム井戸の底ウイズ ラブ 4


え?
あの・・・
どうしたらいいのよ。
国奥コーチ国奥コーチ国奥コーチ。
困ったよ。
こんなに血がでてる。
止まらないよ。
ほら、国奥コーチのハーフパンツ、血でびしょびしょ。
どうしたらいいの?
MASAMI、教えてよ。
MASAMIちゃん、ねえ。
あ・・・ここじゃあ通信できない。
どうしてそんな当たり前のこと忘れるんだろ。
・・・何かおかしい。
論理回路の一部がフリーズしてる。
あ、国奥コーチ、目をあけた。
・・・笑った?
『よかった・・・雅代ちゃんが無事で』って、何言ってるのよ。
国奥コーチ、重傷じゃん。
『俺、じっとしていられなかったんだ、雅代ちゃんのことが心配で』
いいよ、しゃべらないで。だって、しゃべるたびに、血がどくどく。
『雅代ちゃん、強いんだね・・・ずっと見てた・・・』
そりゃ強いよ、強いから、私は。わかってるから、そんなことは。
だからお願い・・・もうしゃべらないで・・・
『そんな強い雅代ちゃん・・・好きだなあ』
お願い・・・
『俺、雅代ちゃんのこと・・・ずっと・・・好きだった・・・』
しゃべらないで・・・お願い・・・
『初めて会ったときから・・・ずっと・・・好きだった・・・』
国奥くん国奥くん国奥くん・・・
『・・・よかった・・・やっと言えたよ・・・』
そんなこと・・・こんなときに言わないで。
やだよ、血が止まらないよ。
もうしゃべらないで・・・
お願いだから・・・
国奥くん・・・
あれ・・・感情回路も動きが変・・・フリーズしそう・・・
『思うようにいかなくても・・・考えすぎたらあかんで・・・』
あれ、どうしてこんな言葉が浮かぶんだろう。
『答えは一つじゃないことって・・・多いから』
そうなんだろうけど・・・
でも・・・どうしよう・・・
国奥くん・・・
(タイムアップ・機動部隊活動開始)


*


香坂雅美と名乗ったエージェントは、飛び出して撃たれた青年の前に座り込んで呆然としている。
輝は彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。
きっとこの女の子は、この青年のことが好きなんだ。
そして青年も彼女を愛している。
自分の軽率な『潜入捜査』の代償がこれなのだろうか。
この二人の恋は・・・成就しないのだろうか。
いや、まだだ。まだ何も終わってなんかいない。
輝は二人のところへ駆け寄った。輝は自分が着ていたアロハシャツを脱いで破り、青年の出血部位を縛る。
危険だが、ここでの止血となるとこの方法しかない。
遠く、井戸の方向から複数の靴音が聞こえてくる。
どうすればいいのか、判断がつかない。
あの足音は、本当に雅美が言っていた『警察本隊』なのだろうか。
ここでこのまま待って、本隊に事情を説明し、この青年をしかるべき医療機関に委ねたほうがいいのだろうか・・・
ただ、そうなると・・・雅美も、この青年も・・・この麻薬工場事件に巻き込まれることになる。
果たしてそれが雅美とこの青年のためになるのだろうか。
わからない。
いや、そもそもあの音は警察のものに間違いないのだろうか。敵の応援などではないだろうか・・・
・・・彼女のシナリオ通りに動いてみよう。
彼女はここから脱出すると言っていた。
あまり時間がないとも言っていた。
近づいてくる『足音』とはちあわせせずにここを出る方法・・・
ある。輝は知っている。そのルートを。
「行こう。彼は俺がおぶっていくから・・・」
輝は雅美と名乗った少女に声をかけた。
少女はこくりとうなずき、無言のまま青年をお姫様だっこして立ち上がった。
彼女は・・・強い・・・
「ついてこい・・・旧校舎を抜けて、外にでる抜け道がある。急ごう」
刻々と迫ってくる足音を聞きながら、輝と雅美は井戸とは逆の方向へ走った。
走りはじめたとき・・・輝はエンジンオイルが気化するときの、甘い匂いをかいだような気がした。その匂いは、走る自分を追いかけるようにどこまでもついてきた。
まるで輝を励ますかのように。
まだ何も終わっていない。輝は自分に言い聞かせた。


*


何故だかわからないけど、私、走ってる。
どくどく流れる出血の量は、すこし減ったみたい。
国奥くん国奥くん国奥くん。
でもどんどん顔色が悪くなっていく。
いやだよ、死んだりしたら。
いっぱい話、したい。
国奥くんの気持ち知った今だから。
たくさんたくさん、話したい。
私、バカだよね。鈍感だよね。
国奥くん。
がんばって。がんばって。がんばって・・・


*


輝は走った。全力疾走に近い速さだ。
こんなに走ったのは・・・高校のとき以来かもしれない。
あのころは酒も煙草もやらなかった・・・
これくらいで弱音をはく身体ではなかった。
今は肺がぜえぜえと音をたて、心臓がばくばくいっている。
灯りさえもない旧校舎の階段をかけあがる彼のふとももは、次第に彼の思うとおりに動かなくなってきている。
二階まで・・・二階の踊り場まで・・・
太股以上に、事故の後遺症で柔軟性を失ったアキレス腱が心配だ。
二階の踊り場まで行けば、この旧校舎から出られる。
踊り場の窓の下には、本校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下の屋根がある。
屋根の斜め下には給食搬入口の大きなひさし。
窓から出て廊下の屋根とひさしを飛び渡れば、旧校舎から出ることができる。
旧校舎を覆うフェンスは一階部分こそ全て覆っているが、二階部分の窓まで完全に遮断しているわけではないのだ。
彼のすぐ後ろには・・・雅美と名乗ったエージェントが、青年を抱いたままぴたりとついてきている。彼女・・・半端な運動能力ではない。
高校までの彼も並みのアスリートではなかったが・・・彼女は、全盛期の輝の体力を軽く超えたポテンシャルを持っている。
『こんな女の子がオリンピックとか行くんだろうな・・・』
走り続けて朦朧としはじめた頭で、輝は思った。
『こんな女の子とオリンピックに行きたかったな・・・この足だからもう無理だけど・・・なら・・・せめて・・・こんな女の子とオリンピックを目指したいな・・・』
雅美。香坂雅美。
輝は同じ名前の少女をひとり知っていた。

しかしその少女は今、自分の後ろを走っている女性とは似ても似つかない女の子だ。
輝の知っている雅美は、輝が『あの事故』で入院した病院の心疾患病棟に入院していた。
雅美は、いつも病室や直射日光を避けた病院の中庭の木陰から自分を見つめていた。
ある日、少女のほうから声をかけてきた。
哀しそうに笑う、おとなしい女の子だった。
その頃、輝はリハビリが進めば歩いたり走ったりできる身体に戻る、と説明を受けていた。
若い輝はその言葉を真に受けて、自分が退院したらどんな大会に出場して、どんな世界を目指しているのかをその少女に熱く語った。
自分はすばらしいスポーツマンで、すばらしい記録を持っていて、すばらしい未来が約束されている・・・口には出さなくても、自分自身の態度がそう語っていたに違いない。
しかし輝は陽のあたる場所へは戻ることができなかった。
そうなってはじめて、輝は雅美という女の子や・・・もう一人・・・名前さえ覚えていない中学生の女の子・・・確か・・・マミ・・・そんな少女たちの、走ることも、思うように自分の身体を動かすこともできない『つらさ』を理解した。
そして・・・いや、だからこそ・・・
自分はそんな少女たちに再び会うことも、積極的に手紙を書くこともできなかった。
少女たちの心の痛みを理解しようともせず、一人よがりの狭い世界しか見えていなかったそのときの自分が許せなかった。
・・・あの子なら、どう言っただろう。
水泳の世界をあきらめて・・・高校も辞めて・・・覚醒剤犯罪撲滅みたいなバカらしいことをやっている俺を見て・・・
とりとめのない考えが頭をまわる。
やっとゴールが見えた。
あそこに見えるのが・・・踊り場の窓・・・
しかし窓の外からは外の光は入ってはこない。
輝は自分の目を疑った。
目的の窓は、工事用コンクリートでふさがれていた。
輝は走るのをやめた。
はるか下から、複数の男の足音が聞こえてくる。
ダメだ・・・脱出できない。
絶望的な気持ちで、輝は隣に立つ少女に話しかけた。
「ごめん・・・ここまでみたいだ・・・」
と、そのとき・・・輝は見た。
少女の身体が、淡く光っている。
「まだ・・・終わってない・・・そうでしょ。輝くん」
これがさっきまで呆然としていた少女と同じ人物なのだろうか。
彼女はここの地下工場で輝がみた、自信あふれる女性エージェントの顔に戻っていた。
「もう一階上に上がろう。そこがだめならその上。そこもだめなら屋上。・・・あきらめなければ、奇跡は起こる」
少女は力強く言い、そして走り出した。
二人の走る順序が入れ替わった。
ケガをした青年を抱いた女性が前。
軽く足をひきずるように走る輝が後ろ。
少女はまるで重量を持たないかのような速さで疾走する。
早い。
輝は必死で走り、必死で追いかけた。


*

 

青い世界。
音のない世界。
輝の前左斜めに無数の泡が見える。
ダメだ。やっぱり追いつけない。
輝はまだ中学二年生。
隣のコースの選手は中学三年生だ。
視界の下端を赤いラインが通りすぎる。
ここまで・・・何メートル泳いだんだろう。
あと何メートル泳がないといけないんだろう。
四百の折り返しまでは数えてたんだけど・・・
コーチが言ったとおり、前半からしっかり隣のコースにくらいついていった。
絶対に離されるな・・・必死でついていけ・・・
勝負はラストの百メートル・・・
でも・・・おいつけない。おいつけない。おいつけない。
俺、やっぱり勝てないよ。
今日は家族みんなで応援にきてくれているのに。
ごめん・・・父さん、母さん、早紀・・・
俺・・・周りのみんなが思っているほど、強い奴じゃないよ。
そのとき、頭の上で、ラスト百メートルを知らせる鐘の音が響いた。
あと百メートルだけ・・・がんばってみよう。
まだ終わってない。


*


ものすごい音で輝は我に返った。
二階の踊り場も三階の踊り場も、窓はコンクリートでふさがれていた。
このまま進んでも、屋上に上がるしかないというのに。
それでも少女は走り続けた。
気がつくと彼女は自分よりまるまる一階さき・・・屋上へ出る鉄扉あたりまで到達しているようだった。輝は悲鳴をあげそうなふとももをむりやり動かし、階段をあがった。
すさまじい音は屋上の扉が蹴り破られた音だった。
月あかりがさしこんでいる。
冷たい夜の空気がふきこんできた。
鉄扉とはいえ、取り壊される寸前の旧校舎のものだ。かなり老朽化していたようだ。そうでもなければ女の子が蹴ったくらいで壊れるものではないだろう。輝はにぶい痛みのする足を軽くひきずるようにしながら最後の階段を昇りきり、外へ出た。
少女は・・・雅美は落下防止用のフェンスを越え、屋上の端に立っている。ここだけ見れば自殺志願者のようにも見える。いや、『彼』を抱いているから心中志願者かな。
「行こう。輝くん・・・」
「行こうって・・・どこへ?」
「あなたが本来いるべき場所へ・・・」
輝は彼女の言葉に導かれるようにフェンスを乗り越えた。
見下ろせば・・・目もくらむような高さである。
こんな高さから飛び下りても・・・まず無事ということは考えられない。
そうか・・・そういうことか。
つまりは・・・ここまできてしまったら・・・一度死んで、きれいになって・・・そして生まれかわって人生やり直す。やり直す場所が俺の新しい居場所。そういうことか・・・それもいいかもしれない。彼女の選択がそうであるなら。こういう終わりかたもいいのかもしれない・・・
「・・・そういうことか・・・じゃあ・・・俺、先に行くわ・・・俺、男だし」
半歩身をのりだした輝の腕を雅代がつかんだ。さっきまで雅代が抱いていた青年は、今では脇にかかえられている。
「何ぐちゃぐちゃいってるの。早く。つかまって」
おや、と思う間もなく輝は雅美と名乗る少女に抱きかかえられた。
「奇跡をみせてあげる」
彼女は右腕にはケガをした青年を、そして左腕に輝をかかえた。そして闇に向かって・・・
彼女は飛んだ。


*


階段を使って地下から地上に駆け上がった時点で、雅代とMASAMIの通信は回復した。MASAMIは市役所の土木建築局のコンピューターと国立図書館のコンピューターに瞬時にアクセス。旧校舎の設計図を入手し、同時に旧校舎改修ならびに新築工事関連の全ての資料を入手。旧校舎工事関連の詳細をほぼ正確に把握していた。
MASAMIはこれら資料の検討と同時に、フリーズしていた雅代の論理回路の自己修復プログラムを転送。これによって彼女は中二階の踊り場に到着した時点で通常の論理的思考が可能な状態に戻っていた。
『雅代ちゃん、聞こえる?その場所から考えられる一番安全で確実な脱出経路は屋上からのダイブしかない。それ以外の場所からだと、工事関係の資材による負傷の可能性があるし、それに警察本隊とはちあわせすることも考えられる・・・ただ、屋上からのダイブともなると、あなたは大丈夫だろうけど、国奥君や輝君が多少なりとも危険な目にあうことは間違いない。賭けになるかもしれないけど・・・自信あるよね』
「大丈夫。ダイブするポイントの指示よろしく」
この通信が終了した時点で、雅代は屋上に到着していた。
外への鉄扉は、老朽化しているとはいえ、かなりの強度が残されている。しかし、これくらいの扉はサイボーグコーチの前では障害にもならない。雅代の一撃で南京錠がはじけ飛び、扉は歪み、鉄製の蝶番は台座のコンクリートからはずれて壁から落ちた。
『あなた一人ならそのまま飛び下りればいいんだろうけど・・・けが人もいることだしね。旧校舎の壁面の突起物を足掛かりにして落下速度をコントロールしましょう』
「了解」
『足をつくポイントは四カ所。大時計のかかっていた突起、三階窓のひさし部分、二階窓枠、渡り廊下の屋根。渡り廊下の屋根は部分によっては強度に問題があるから、鉄骨の桟の部分に足をついてね。この四カ所で速度のコントロールは充分だと思うけど・・・どう?』
「楽勝、かな」 
雅代は輝に向き直った。ぜえぜえと息をきらし、かなりぼーっとしている。
「行こう。輝くん・・・」
雅代は言った。
「行こうって・・・どこへ?」
「あなたが本来いるべき場所へ・・・」
雅代は輝の手をとって近くに引き寄せた。
輝が何だかわからないことをごちゃごちゃ言っているが・・・
「奇跡を見せてあげる」
雅代・国奥・輝の三人は、夜の闇に飛んだ。
最初のポイントは大時計がかかっていた突起。雅代の右足がその突起にかかる。ぐいっと体重をかける。落下速度が急激に減少する。次のポイント。三階のひさし。左足かかとを真上からひさしにぶつける。ばりん、と音がしてコンクリートのひさしが崩れた。落下速度、さらに減少。次は二階の窓枠。右足つまさき窓枠に当てる。落下速度減少。最後は渡り廊下の屋根。
雅代は屋根をポーンと蹴って、校庭に着地した。
輝は雅代に抱かれながら『ひえっひえっ』と情けない声をだしている。
ややこしい。あと少しだからこのまま連れていこう。
雅代はそのままの形で夜の校庭を疾走した。
警察機動部隊が押さえている場所は、井戸に一番近い裏門である。雅代はMASAMIとの打ち合わせ通り、正門の方向へと走った。


*


二メートルほどの塀を、二人の男を抱えた少女がひょいと飛び越えると、そこにはハザードランプをつけた黒いワゴン車が停車していた。
「こっちだ、雅美」
潮コーチの声。
なんだかずいぶん彼と会っていないような気がする。今日の夕方までは同じ職場にいたというのに。
「お願いします」
雅代はワゴン車の後部トランクを開けた。そこには救急車のようにストレッチャーが搭載されている。いや、内装もほとんど救急車だから、一般のワゴン車に見せかけた救急車、という表現が正確だろう。
雅代は国奥コーチをストレッチャーに横たえ、ベルトで固定した。
「宮崎さん、彼のことお願いしますね」
雅代は運転席でのほほんとしている宮崎に声をかけた。
「大丈夫だろう。日本で最高の治療が受けられるようにMASAMIが手配してくれているはずだ。ついでに言うと、その医療機関までの信号はすべて青。MASAMIが県警の交通管制システムに侵入して、この車の進行にあわせて全信号機を操作するらしい。救急車並みの早さで到着の予定だ」
「そっちは心配してません。宮崎さんの運転がちょっとだけ心配なんです」
あははと宮崎は笑った。
潮と雅代が後部ドアを閉めると同時に、轟音を響かせてワゴン車が走り去った。
夜の町に、雅代と潮と・・・そして輝が残った。
「北小路輝君・・・我々は政府直属の特務エージェントだ。今はわけあってこの近くのスイミングスクールで働いているが・・・我々の存在は、一般の人々には絶対に秘密なのだ。今日あなたが見たこと、聞いたことは他言されては困る内容のものだ・・・」
潮の言葉に輝はうなずいた。
「君が絶対に秘密を守ると約束してくれたら、君を開放しよう。約束できないようなら、君の自由を拘束せねばならなくなる・・・我々のことを秘密にすると約束できるね」
輝は黙ってうなずいた。
「あの・・・潮コーチ・・・」
二人の話が切れるのを待って雅代が口を開いた。
「政府のエージェントやめちゃうって、本当ですか?宮崎さんから聞きましたけど・・・」
話題が自分のほうに向いて、潮は一瞬困ったような顔をした。
「あ・・・まあ・・・そうだ。サイボーグコーチプロジェクトは問題なく進行しているし・・・僕はバックアップ要員の職務を辞めて、このまま水泳の指導をさせてもらおうと思うんだよ・・・」
「あの・・・もうバックアップ、してもらえないんですか?」
長い時間、潮は考えていた。そして言った。
「政府職員としてのバックアップは八月末をもって終了だ。そこからは・・・一人の先輩コーチとして、びしびし指導させてもらう。これでどうかな?」
潮はそう言ってにやりと笑った。
雅代がこのタイミングでこの話を切り出したのは・・・潮の退職の気持ちを確かめたかったことと・・・あと一つ・・・
「そうですよね・・・でも・・・国奥コーチが抜けちゃって、また人手不足になっちゃいますね・・・プール・・・」
ボールは投げたよ・・・輝くん・・・あなたはそのボールを受け止めて、投げ返すだけ。
「あの・・・あなたがた・・・明石大橋スイミングの人たちだったんですか・・・」
少し考えてから、輝は口をひらいた。
「あの・・・こんな場所で・・・こんなタイミングで・・・失礼かなとは思うんですけど・・・あの・・・お願いがあるんです・・・」
輝がこの後、何を言おうとしているか・・・暗闇の旧校舎の階段を輝といっしょに駆けあがった雅代にはわかっていた。
そう、それでいい。がんばって、輝君。未来は自分の力で開かなきゃいけない。
あなたの人生はまだ終わっていない。


ミッション2 フロム井戸の底ウイズ ラブ 5

『チューリップの歌』が聞こえる。
どこまでも調子っぱずれで。
北小路センセイの歌は、その日以来、果てしなくパワーを増幅し続けている。
長唄のような、またはネイティブアフリカンの『戦いの踊り』の歌のような、それでいて子守唄のような、シュールな『チューリップの歌』がプールの天井にぶちあたり、反響し、不協和音を奏でている。
それでも子供たちは手をつなぎ、歌いながら、ぐるぐると北小路コーチといっしょに回っている。
・・・多少迷惑そうな表情の子供もいるのだが。
スクールでは夏休み水泳教室の受付が始まった。
もうすぐ夏休みがはじまる。
「こんにちは・・・あの・・・」
コーチ室入り口の扉がゆっくりと開き、スポーツ刈りの青年が顔を見せた。
「おう、久しぶりやな。入ってこい。今日からよろしく頼むぞ。ヒカル・・・」
かつての教え子に声をかけたのは駿河コーチだ。
「ヒカルはないですよお、駿河コーチ。今日から北小路コーチですよ」
午前の授業の指導人数集計表を書く手を止めて、雅代はすかさず言った。
「でも・・・北小路コーチって呼ぶのもおかしいよね、センセイも子供たちの前では『北小路コーチ』だもん」
と言ったのは森コーチ。
「そうやなあ・・・ここはやっぱり『ヒカルコーチ』って呼ぶことにしよか」
「そっかあ・・・そうですよね。よろしくね、ヒカルコーチ」
雅代は言った。
(きゅん)
まただ。またきゅんきゅん言ってる。この胸。
ダメ。ぜったいに、ダメ。
ヒカルくんを好きになったのは『香坂雅美』。
中野雅代じゃない。
中野雅代はヒカルくんのことを好きになったりしちゃいけない。
私には国奥コーチがいる。彼の気持ち、知っちゃったから・・・もう他の誰かを好きになったりしちゃいけない。
少なくとも、彼が帰ってきて・・・しばらくして・・・サイボーグである自分のことをどうにかしてあきらめてもらうまでは。
「よろしくお願いしまーす」
政府のエージェント。『雅代の秘密の一部』を知っているヒカルは、彼女にむかって微笑み、そして彼女にだけわかるようにウインクした。
「よーし、びしびししごいたげる」
森コーチがすまして言った。
みんなが笑った。
和やかに。暖かく。
雅代はこんな平和な毎日が、当たり前のようにずっと続いていくものだと信じていた。
この瞬間まで。


*


「駿河コーチ・・・大変です」
血相を変えて潮コーチが飛び込んできた。
「本部からのメールです・・・夏休み水泳教室にむけて・・・人事異動があるそうです・・・」
「で、何て書いてある?ここは異動あるのんか?まあ上沼コーチが転勤して、補充もまだない状態やねんから、あっても増員やろうな、うちは・・・」
雪見だいふくのようなぽわんとした表情だった駿河コーチは、ここまで言って、潮のあまりに深刻な表情に言葉を呑み込んだ。
潮の書類を持つ手が小刻みに震えている。
駿河コーチはひったくるようにその書類を取り、食い入るように書類を読みはじめた。
 

明石海峡大橋スイミングスクール。
そこに籍を置くコーチたちにとって最悪の夏休みが今、始まろうとしていた。


この本の内容は以上です。


読者登録

磐田 匠さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について