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隣同士

 隣の彼女はとても小柄だ。まるで小学生のようだが、僕の知っている高校の制服を着ているのでどうやら歳は近いらしい。先程からずっと本を読んでいるのだが、そのタイトルは桜色のブックカバーが邪魔をして見えない。しかし、中身を盗み見すれば、それが小説や評論の類ではなく詩集であることがわかった。
 僕が彼女を初めて見たときの印象は『小さくて可愛い子』。ちなみに、そのイメージは今でも一緒だ。
 ここは朝の満員電車の中。僕と彼女は、有り得ないほどに密着していた。
 それなのに彼女ときたらまったく平気のようだ。知らない男とこんなにくっついて何とも思わないのだろうか。僕の場合、ドキドキしっぱなしなんだけどな。変に思われていないか、それを考えるだけで頭はパニック状態だ。彼女は、僕のこと、どう思っているのだろう?
 ……何で僕がこんなことを思っているのか、わからない人も居るだろうね。だって、ただ、現在隣に居るだけということで、こんなに悩むなんて。でもね、実はそれとちょっと違うから僕は困っているんだ。
 それは僕と彼女が毎朝同じ電車に乗り、今日のように満員であっても、また満員でなくても、僕と彼女がいつも隣同士になっていることだ。
 信じられる? 僕としては、これはもう偶然なんかじゃないと思う。多分、彼女が僕に合わせて乗っているのだろう。それって、少し期待してしまうな。彼女は僕のことが好きなのかなぁ……とと、こんなオイシイこと考えてちゃ駄目だ。もし、違ったら、哀しいからね。あくまで冷静に状況を分析しようじゃあないか。
 もしかしたら……彼女は僕に復讐をしようとしているのかもしれないし。僕は過去に、何かを盗んだり、人に危害を加えたことはないが、もし、もしもだ。もし人を、そんなにまで追い込んだならば……されて当然なのだ。いや、僕自身誰かに酷いことを言った覚えはないが、それでも、僕が気付いていないだけで、相手はそれをずっと引き摺っていたりするのならば……僕はどうすればいいのだろう。
 僕は、彼女の小さな頭を見た。この頭の中に、僕への憎悪……あるいは殺意があるのか。それを考えると恐ろしくなった。こんな小さくて可愛らしい少女の頭の中に、そんな濁った感情があるとは信じられなかった。   
 僕は首をぶんぶんと振る。すると、彼女がこちらをちら、と横目で見た。その瞳には憎しみなどの暗いものは見られなかった。どちらかといえば澄んでいる綺麗な目だ。僕はその瞳を見て、先程までの考えていたことを撤回した。そんなの、僕の思い込みであり、彼女には全く関係がないのだけれど。
 僕は何て馬鹿のことを思っていたのだろう。勝手に怖がってちゃ世話ないじゃないか。ああ、どうしてあんなことを考えてしまったのだろう。こんな綺麗な目をした女の子が、そんなおぞましいことを考えているがないじゃないか。僕は罪深い人間だ。
 でも、だとしたら、一体彼女は何を考えているのだろう。何を思い、僕の隣に居るのだろう。全くわからない。もしかしたら、本当の本当に偶然で、別になんとも思われていないのかもしれない。僕の考えすぎかもしれない。だとしたら、一人で舞い上がるなんて何と寂しい男なんだ!
 いいや、そんなことはない。きっと、彼女には何かあるのだ。だから、僕の隣に居るのだ。僕は偶然などと言う弱い言葉に屈しはしないぞ。彼女の心理をよくよく考えてみよう。そうすれば、この胸のもやもやも少しは取れるはずだ。よし、最初のように、僕に気があるという設定で考えてみよう。
 見たところ、彼女はあのお嬢様が多いS校の生徒のようだ。その制服からは高貴なオーラが漂っている。中でも彼女の制服はその紺色に埃すらついていない。こんな満員電車の中でも彼女のオーラはひとつも変わらず、そこにいるだけで一つの芸術のような気もする。いわゆる正統派の美少女と言うヤツだ。こんな子から好意を抱いてもらえていたのなら幸せだろうな、と僕は思う。
 次に顔立ち。これまた綺麗に整っている。眉は気が強そうに、上向き。目はぱっちり、というよりはどことなく伏し目がち。長いまつげが見えて、彼女の清楚なイメージを一層強めている。頬は化粧をしてもいないのに、ほんのり桜色だ。唇も、おんなじ桜色。真っ赤よりも僕にはコチラの方が好ましく思える。と、これら全てのパーツがバランスよく整っているのが、彼女の顔。そして表情。
 今はずっと本を読んでいるので無表情だけど、一度だけ彼女が友人と話しているのを見たことがあるんだ。
 そのとき、僕は初めて彼女の笑った顔を見た。
 感想は、『とても可愛かったです』。もう一度見たいなぁ、と思ってはいるものの、何かできるわけでなし、そのような機会は未だない。ああ、どうすればあの輝かんばかりの笑みをもう一度見ることができるだろうか。
 もう一度、見たい。そして、できることなら毎日でも見たい……。
 って、あれ? 僕は今何を考えた? 彼女の笑顔が見たい。そう考えていた。どうしたことだろう。僕は何を思っていたんだ。これじゃあ、まるで僕が……。
 そんなことは有り得ない! だって僕は彼女のことを全く知らない。学校だって、たまたま知っている制服だったからわかっただけだ。名前も知らないし、正確な年齢だって知らないし、ましてや何を好きで何が嫌いなのかも知らない。それなのに好きになるなんて絶対にない。そりゃ、外見は可愛いけど、人を好きになるのって、それだけじゃないだろう。中身の方が重要だろう? 僕はそう思っている。思っているからこそ、今まで僕はこうして、……十何年間も彼女なしでいたんだ。友人から、『お前、女に興味がないの?』と冷やかしのように言われた、その僕がだ。
 こんなに、頭の中を彼女でいっぱいにしているなんて。
 有り得ない。これは夢だ。僕は眠気のせいで物事を判別できなくなっているだけだ。
 そう思って、右の頬を思いっきりつねってみた。「ひぃ」と奇声をあげた……痛かった。だが、そのおかげで意識がはっきりする。その状態で再度彼女を見た。そして、僕はその場で固まったのだ。
 彼女が笑っていた。あの輝くような笑顔で。しかも、僕を見ながら。
 僕は恥ずかしくなって、縮こまった。うう、失敗してしまった。が、呆気なく念願の彼女の笑みを見ることができた。僕は痛いはずなのに、恥ずかしいはずなのに、とても心が充実感に満たされた。彼女が微笑んでくれた。それだけで気持ちが浮上する。僕は自分が本当に彼女に対して好意を持っていたことに気付く。
 しかし、気付いたところでどうするのか。彼女は僕のことなんか興味がない。また本の方に視線を戻している。僕はふいに悲しくなった。こんな惨めな気持ちになるなら、気付かない方がよかった。そんなことまで考えた。ああ、どうして僕はこうなんだろう。どうしようもないことに、ここまで悩むんだろう。
 と、そこで、アナウンスが入った。もうそろそろ降りる駅だな。ここで降りなければ、学校に遅れちゃう。早くしなきゃ、と思い、僕は人をかきわけながら、外に出ようとふんばった。しかし、中には強情な人も居て、退けてくれないときもある。そんなときは、『すみません、通してください』と、声を張り上げる他ない。もっとも、それをすれば自分が目立ってしまうため、あまりやりたくないのだけれど。しかし、厚化粧の酷い、太ったおばさんが退いてくれなかったので、僕は声をあげ、『通してください』と言った。すると、おばさんは気が付いて「あら、ごめんなさいねぇ!」
 と言った。その声が自分は悪いことをしていない、と主張しているように聴こえたので、僕は腹を立てる。でも単なる誤解だったらどうしよう? いざこざを起こしたくないからそのまま降りてしまった。
 冷たいホームの床に足をつくと、まだ彼女が見えるかと思って振り向く。すると信じられない光景が僕の目に飛び込んできた。
 窓越しにまっすぐ僕を見据える彼女。顔には優しそうな笑みをつくり、優雅な動作で手を振ってくれていた。
 他にも降りた人はいるけれど……不安だから手を小さく振ると、さらに手を強く降り返してくれる。やっぱり僕に対してなのだ。でも、どうして…………。
 そのとき、電車の発車ベルが鳴った。
 ぷしゅう、と電車が進み、彼女はみるみるうちに遠ざかってしまう。それでもなお、手を振ってくれた。人も去り、しんと静まったホームに聞いたこともない彼女の声が柔く響いている気がする。気のせいに決まっているけれど、寂しくなる。
 また会えるかな。いいや、昨日今日と一緒だったんだ。明日もきっと会えるさ。
 期待を胸に、僕は学校へと急いだ。

 

 


しゅうり屋

 しゅうり屋は、名前のとおり、しゅうりをすることがしごとです。しゅうりというのは、こわれたものを直すことです。しかし、こわれたものは、どこにでもあるので、しゅうり屋も、どこにでも行かなければなりません。それなので、しゅうり屋は、毎日、いろいろなところへ歩いていくのでした。 
 ある日、しゅうり屋は森を歩いていました。森の中にも、こわれたものがあると思ったからです。そんなとき、しゅうり屋は、ひとりのとけいと出会いました。
 そのとけいというのが、とても古めかしいのです。塗ってあっただろう、黒のニスも、すっかりはがれてしまっていますし、じこくを知るための数字も、なんだかぼやけてしまっています。それに、なにより、かんじんのじこくが合っていないのです。
 とけいは泣いてばかりで、そのまわりにはなみだで泉ができています。しゅうり屋はかれのことをかわいそうだと思いました。
「どうして君は泣いているの」
 しゅうり屋はとけいにたずねました。とけいは、しゃくりあげながら答えました。
「すてられたからさ」
 しゅうり屋は、またたずねました。
「どうしてすてられたの」
「こわれたからだよ。僕はね、しゅじんのために、毎日休まずはたらいたのに、すこぉしじかんがずれただけで、ここにすてられたのさ」
 しゅうり屋は、それはひどい、と言いました。どうして、そんなことができるのでしょうか。しゅうり屋はほおを赤くして、おこりました。
「きみはひどいしゅじんをもったもんだね! 」
 とけいは、そのことばをきくと、また、わっと泣き出してしまいました。そして、しゅうり屋に、こううったえるのです。
「でもね、ぼくがちゃんとじこくを知らせていたときは、ごしゅじんさまはぼくを毎日そうじしてくれていたんだよ……ぼくが、いつまでも、そうであったなら、きっと今でもごしゅじんさまはぼくをあの家においていてくれただろうねぇ……」
 とけいはなつかしむように言いました。しゅうり屋は、これを聞いて、
「じゃあ、ぼくが直してあげるよ。なぁに、君はまだ動いているし、他のところを、きちんとすれば、きっと元どおりさ!」
 と言いました。しゅうり屋はさっそくとけいのしゅうりを始めます。その間中、とけいは不安そうにその手を見つめていました。
 少しばかりすると、空がくもってきました。そのとき、とけいのしゅうりが終わりました。しゅうり屋はまんぞくそうに笑いました。
「さぁ、君のしゅじんに会いに行こう」
 とけいは自分のからだを見ました。黒いニスがちゃんと塗られており、数字もはっきりと見えます。それに、じこくも合っていました。ですが、とけいは不安で胸がいっぱいでした。
「本当にぼく、だいじょうぶだろうか」
「だいじょうぶに決まってるさ」
 しゅうり屋は、にっこりと笑って、とけいを運び出そうとしました。しかし、そこへ森のりすたちがやって来ました。どうやら、たいへんおこっているようです。
「君たちはどうしたんだい」
 しゅうり屋は、びっくりして、りすたちにたずねました。
「君はよけいなことをしてくれたね」
 いちばん大きなりすが言いました。しゅうり屋には、なんのことだかさっぱりわかりません。
「そのとけいのなみだはね、ぼくらの遊び場の泉をつくってたんだよ。それなのに、君はとけいを直してしまったんだ! これはかんたんにゆるしてやらないぞ。今からでもいい、さっさとそいつをおいて、森から出て行け!」
 りすたちはそうだそうだ、とわめき始めました。しかし、しゅうり屋はきっぱりと言いました。
「それはできない。君たちははくじょうだね。だれかが泣いているのをそのままにしておくなんて!」
 りすたちは、さらにおこって、しゅうり屋に石を投げつけました。それでもしゅうり屋は、とけいをかかえて、りすたちにかまわず、そこから走り去りました。とけいにも石があたりましたが、しゅうり屋はしかたないと走りつづけました。せっかくぬったニスもまたはがれてしまいます。とけいは小さな声で、また泣いていました。
 森に雨がふりはじめました。雨の音は、とけいの泣き声にとても似ていました。

 おしまい


雪子

 空から白い雪が落ちてくる。水をたっぷり含んだそれは、地面に落ちてしまえば、じわっと滲み、消えてしまう。そんな幻のような存在が、今年も降ってきた。もう、そんな季節なのか、と美伊子は思った。
 こんな曇った、しかしどこか澄んでいる空を見ると、あの時のことを思い出す。少女時代に、出会った不思議な少女のことを。それはいつまでも、心にのこる、大切な思い出だった。
 「先生、おえかきしたの、見てくれる?」れいちゃんが、明るい声で言った。「ゆき、かいたの」
 はいはい、と返事をし、美伊子はれいちゃんの傍による。れいちゃんは、幼稚園の中でも、特に自分になついている。余り園児に馴染めない美伊子にとって、彼女は特別な存在だった。
 「まぁ、可愛い」美伊子は感嘆の声をあげた。「よく描けているわねぇ、これは、雪を女の子として描いているの?」
 れいちゃんの描いた絵は、雪そのものではなく、雪を踊る少女に例えたものだった。何人もの少女が、楽しそうに、微笑みながら、ダンスをしている。中には既に地上に落ち、その場でバレエのようなポーズをとっている子も居る。その自由で、素敵な発想に、美伊子は驚かされた。
 「うん、えっとね、この子は『ゆきこ』ちゃんていうの!」れいちゃんが、元気良く言った。その小さな指の先には、一人の少女が描かれていた。その子だけ、踊っているのではなく、その場にぽつんと立っていた。他の少女たちが、ダンス用のドレスを着ているのに対し、雪子だけは白い着物を白い帯で締めている。その異質さに、美伊子は身じろぎした。そして、その名に対しても。雪子。それは、美伊子にとって忘れられない人物の名であった。
 「れいちゃんは、雪子ちゃんと会ったことがあるの?」
  思わず、聞いてしまった。その声は震えている。まさか、そんなことがあるはずがない。美伊子はそう思っていたが、れいちゃんは、あっけらかんとして言った。「うん」
 その言葉に、美伊子は驚嘆の声をあげる。本当に、こんなことがあるのだろうか。美伊子はれいちゃんの肩を掴む。それに、れいちゃんが小さな悲鳴をあげた。「ああ、ごめんね」
 美伊子は詫びた。しかし、心の中の靄はまだ振り払えていない。美伊子は、れいちゃんに努めて優しい声で尋ねた。
 「雪子……ちゃんとはどこで会ったの?」
 「えっとねぇ、おばちゃんのとこ。一緒にあそんだんだよっ」
 美伊子は、思い切って、れいちゃんの言うそのおばあちゃんの家の場所も問うた。それは美伊子の思い出と同じ場所だった。それで、美伊子は確信した。これは、このれいちゃんの会った雪子は、あの雪子なのだと。自分の知っている少女なのだと。彼女は、息を呑んだ。
 それもそのはずだ。雪子のことは、夢だと思っていたのだから。夢で出会った少女、そのように思い込むようにしていたのだ。しかし、これで雪子は実在したことを知った。本当に存在していなかったなら、こんな風に、れいちゃんが遊んだなどと言うわけがないのだ。しかも、その背格好は、美伊子の覚えているあの少女そっくりなのだから。
 美伊子は震えた。恐怖ではなく、歓喜からのものだった。
 そのとき、既に彼女の意識は遠い、あの雪降る場所へと飛んでいってしまっていた。

 今から十五年ほど前のことである。美伊子は、両親に連れられ、田舎のおばあちゃんの家にやって来ていた。生憎、その日は雪で、その山奥にある家へ行くのに三時間もかかってしまった。美伊子たちが来た頃には、朝早くに出たはずなのに、既にお昼になっていた。それを、おばあちゃんは出迎えて、
 「ごめんねぇ、この雪で、大変だったろうにねぇ」そう言って、美伊子のすっかり冷えた手を、自分の暖かな両手で包み込んでくれた。その暖かさは、美伊子を安心させた。
 「お義母さん、お久しぶりです」母親が言った。それに、おばあちゃんは愛想のいい笑顔を見せ、
「節子さんも大変だったでしょう、ささ、すぐに上がってください。暖かいお茶でもお入れします」
 すぐ、おばあちゃんは奥へひっこんでしまった。コポコポ、とお茶を入れる。その間、美伊子は、意味もなく、おばあちゃんの家を探検した。どこを探しても、遊び道具など一つもない。SFCもないなんて、美伊子はここで何をすればいいのだろうか。父親の方をちらり、と盗み見したが、呑気にところどころノイズの出ているテレビ画面に見入っている。美伊子は、あーあ、と漏らした。付いてこなければ良かった、とも思った。しかし、付いてこなければ家で一人ということになってしまう。それよりは、いいや、と鷹をくくり、こたつへ戻っていった。
 少し経ってから、おばあちゃんが居間へ来た。お茶と、餡団子をお盆に乗せていた。美伊子はそれにはしゃいだ。母が駆け寄って、お盆を取る。こたつの上に乗せられた団子に、美伊子は一気にかぶりついた。お腹は別に空いていなかったが、何もないので食べることくらいしか楽しめそうなことがなかったのである。「おいし~い」
 甘い餡の味が、口の中にいっぱい染み渡る。そのほかほかに暖かい甘さが、美伊子を微笑ませた。美伊子は、お茶を少しすすり、もう一本食べた。これもまた美味しくて、微笑んだ。またお茶をすする。その時、父親達のほうを見た。何か話をしているようだ。「母さん、家へ来てくれないか」
 父親は、真面目な顔で話している。その横の母親も、決意したように、口をしめている。それに、おばあちゃんは困ったような顔を見せた。「と、いってもねぇ。この家に思い出がたくさんあるからねぇ」
 美伊子には、何の話かはわかっていた。前々から言っていた、家におばあちゃんを呼ぼうという話。だが、美伊子はそのことが、どこまで重要なことかまではわかっていなかった。おばあちゃんと毎日一緒に生活するのだったら、楽しいだろうな。それくらいだった。だから、おばあちゃんがいつまでも、こんなボロい家に固執する理由が分からなかった。
 「お父さんのお墓もここにあるし……離れたくないの。お父さんとね、約束したのよ。ずっとここに居るって。離れないって」
 おばあちゃんは、いつまでも家へ来たがらない。この間、お父さんは、それについて愚痴を言っていたことがある。
『どうして母さんは来てくれないんだろう。そろそろ、自分の年を考えてくれないかなぁ…』
 美伊子は、意味もわからず、それに賛同した。おばあちゃんが意固地になっているから、家のお父さんがこんなに悩まなければならないのだ。自分だって、明るく迎えてあげようと思うのに、どうしてこんなに意地になっているのだろう。美伊子は、苛立ちの視線をおばあちゃんに送る。しかし、それは全く届かなかった。
 その後、美伊子は話に入れず、ただぼんやりしているだけだった。時に、父が怒鳴ったりする。
 「そんなこと言っても仕方がないじゃないか! 親父はもう死んだんだから、いつまでもここに居たって、何にもならないだろう」
 それにおばあちゃんは答える。「そんなことじゃないのよ。私が、おじいさんとの約束を守りたいだけなの。だから、わかってちょうだいな」
 美伊子は、面白くなかった。その場で膝小僧を、こつんとこずいたり、髪をいじったりするだけだった。そこで、母親が言った。「みいちゃん、外に出て雪で遊んでおいで」
 美伊子は、こんなに寒いのに出たくない、と思ったが、このまま家にいるよりは暇つぶしになる、と思い、早速準備をし始めた。まず、マフラーをし、コートを着る。帽子を被り、手袋をはめる。最期に、玄関でおばあちゃんの使っている長靴を借りた。ぶかぶかだったが、自分のはいてきた靴よりは丈夫そうなので気にしないでおいた。そして、外へ出た。
 外は一面の銀世界だった。美伊子は、わぁ、と感嘆の声をあげる。空からひらひらと雪がダンスをしているかのように落ちてくる。その美しさに、美伊子は瞳を輝かせた。少し歩けば、その白さに美伊子の足跡が付く。しかし、降ってくる雪によってすぐにそれは埋められた。しばらくは、それだけで楽しめた。
 しばらくして、美伊子は雪だるまを作り始めた。小さな丸い球に、少しずつ雪をつけていく。よいしょ、よいしょ、と呻りながらその作業にのめり込んだ。もう、雪球は美伊子の背の三分の一くらいになっている。そこで、美伊子はふと後ろを見た。誰からか、見られているような気がしたのだ。それは的中していた。そこに、一人女の子が立っていた。
 美伊子は、目を疑った。その子は浴衣一枚でそこに居たのだ。しかも、その姿といったら、上から下まで真っ白。髪も、肌も、白い。その上に真っ白な浴衣を着て、それを白い帯で締めている。おかしな格好だった。そして、美伊子に恐怖を植えつけるような姿だった。だって、こんな寒いのに浴衣一枚で居るなんて。まるで、以前、学校で聞いた雪女の姿そっくりではないか。美伊子は小さな悲鳴を噛み殺した。
 「ど、どうしたの」美伊子はそれでも、勇気を振り絞って聞いた。「何か用?」
 すると、少女は微笑んで言った。「私も混ぜて」
 その微笑に、美伊子は気が楽になった。寒そうな格好とは裏腹に、柔らかな暖かな笑み。それが、美伊子の心をほんわかと暖かくさせた。美伊子も笑って、「いいよ」
 と答えた。少女が、また微笑んだ。
 少女はすぐに美伊子の横へ来た。そして、雪球に手をかける。もちろん、その手に何もつけていなかった。真っ白な手が、自分の隣に置かれ、美伊子はまた心臓を跳ね上がらせた。
 そんなことにも気付かず、少女は言った。「私ね、雪子って言うの。あなたは?」
 「美伊子」
 「ふぅん」
 雪子は、それ以上何も言わず、雪球を押し始めた。それに置いていかれないよう、美伊子も必至でそれを押す。隣の雪子を見ると、平然とした顔だった。彼女は、初めて会った美伊子に、何も怖れがないようだ。美伊子は自分だけが、このようにドキドキしているのだと思うと、何だか悔しくなった。そして、自分の思っていることが顔に出ないよう、必至で無表情を保とうとしていた。
 雪球はどんどん大きくなる。二人で押して、やっとのことで前へ進む。ううん、とどちらかが呻ると、もう一方がそちらを見る。すると、二人は笑った。いつの間にか、美伊子は雪子を怖がらなくなっていた。
 やがて、雪だるまが出来上がった。その辺の雪を掘り起こして、石で目を作り、口は指で描いた。それなりに可愛くできたことに、美伊子は誇らしげに胸を張った。雪子は、別段、何も言わなかった。しかし、彼女も喜んでいるのだと、美伊子には感じられた。何故なら、表情が先程よりも明るかったからだ。美伊子は雪子に手を差し出した。それに、雪子も手を出す。
 それから、彼女達は話をしはじめた。「雪子はどこに住んでいるの?」
 美伊子は尋ねた。しかし、雪子はその質問に戸惑いを見せる。一瞬考え込んで、こう答えた。
 「この近くよ」その答えに、美伊子は不信を抱いたが、それ以上問い詰めても同じ回答が帰ってきそうだったので、再度聞くのは止めておいた。そして、次にこう尋ねた。「雪子は、雪、好き?」
 「好きよ」雪子は短く答えた。「どうして?」
 美伊子は、雪子に理由を求めた。雪子は、美伊子を見やる。そこで、ふっ、と笑った。もっとも、馬鹿にしたようなものではなく、親が子を見るかのような、慈愛に満ちた笑みだった。
 「私の想い出の人が、雪が好きだったからよ」
 美伊子は、この話に乗り出した。学校のみんなと話すような、恋話のようなノリだった。「へぇ~、それ、何? 初恋?」
 だが、そのような美伊子の期待とは無縁に、雪子は軽く言った。「そうよ」
 美伊子は、呆気にとられ、雪子の冷たい横顔を見る。雪子は続けた。
 「私の初めて好きになった人が、雪を好きだと言ったの。その人は雪を女の人と例えたわ。そして、私にこう言った。
 『君も雪のように消えてしまうのかな。いずれは、この地から離れてしまうのだろうか』
 私は言った。『いいえ、絶対に離れないわ』と。彼を安心させるために」
 雪子は一気にまくし立てた。その瞳にはうっすらと光るものが滲んでいる。美伊子は、慌てて言った。
 「で、でもでも、そんなことを覚えていて、ここに残る雪子は偉いと思うよっ、あたしだったら忘れちゃうかもしれないもん」
 雪子は、美伊子の顔を見た。その目には、もう涙は見られなかった。代わりに、驚きの色が目に光っている。美伊子は何故、雪子がそのような目をするのか、わからなかった。
 「そう? そう思ってくれるの?
 だったら、私、ずっとここにいるわ。ここから離れない。あの人との、約束を守るわ」
 雪子の表情は明るかった。美伊子は、その明るさに、とてつもなく違和感を覚えた。何故かはわからないが、間違ったことを言ってしまった気がしてならないのだ。雪子はくるり、と美伊子に背を向けた。「さようなら」
 そう言って、歩き始める。それを止めなければ、と美伊子は思った。しかし、それができない。何故だか、雪子の何らかの決意を踏みにじってしまいそうで。だから、美伊子はそこに立ち尽くしたままだった。そして、次の瞬間、父親の叫び声が聞こえてきた。「おおーい! 美伊子ぉー!」
 何事か、と思い、後ろを見る。だが、何となくそこから勘付いていたかもしれない。美伊子は、きっと、雪子のことをよく知っていた…。
お父さんが、美伊子に駆け寄ってきた。そして、こう行ったのだ。
「おばあちゃんが、倒れた」それに対して、美伊子は驚かなかった。先程の会話で、美伊子は雪子の正体をわかっていたからだ。きっと、おばあちゃんも、雪子も、ここに居たかったのだろう。だから、ここで倒れなければならなかった。美伊子と離れなければならなかった。
その時、お父さんの声が、全く聞こえなかったのを覚えている。美伊子は、雪子の向かった方向を見た。そこには、びゅうびゅうと吹き抜ける吹雪しか見えなかった。
 きっと、その中に、雪子は居るのだ。あの、初恋の人との思い出の場所に。夢のような出来事だが、美伊子は信じていた。
 だから、美伊子は泣かなかった。目の中に、冷たい空気が容赦なく入ってきていた。

 (それからまもなくして……おばあちゃんが亡くなったんだっけ)
 美伊子は、過去の記憶を振り返り、懐かしく感じていた。あの雪子は、今もあの場所で、初恋の人との約束を守っているのだ。そう思うと、目に暖かなものがこみ上げてきた。
 「先生、どうしたの?」れいちゃんが聞いてきた。美伊子ははっとなり、かぶりを振る。
 「ううん、なんでもないの。ただね、その雪子ちゃんが、良い子なんだろうなぁ、って」
 美伊子がそう言うと、れいちゃんは笑って答えた。「うん、いい子だよっ。一緒に雪だるまをつくったの」
 れいちゃんがあまりにっこり笑うので、美伊子はやりきれない気持ちになった。そうか、また、この子と、雪だるまを作ったのか……それは、一体何回目の出来事なんだろう。あの時、自分がああ言わなければ、雪子はいつまでもあの場所に留まることをしなかったのだろうか。それを思うと、いつも悔やむのだ。あの時、もっと違うことを言えればよかった、と。そうすれば、おばあちゃんはもしかしたら今でも生きていたかもしれない、と。

 美伊子は、空を見つめた。
 雪が降ってくる。その先に、雪子が居るあの懐かしい場所を思い描いた。
 
 

虹の橋

 僕の言葉 研ぎ澄まされたナイフ

 君の胸に 深く深く突き刺さり

 傷跡から 流れる涙深く

 海となって 二人遠く引き離す

 

 どうして こんなに わかりあえずに

 どうして こんなに 離れてしまうの

 

 あの空に 虹を架けるよ

 僕の気持 七色の光に込めて

 君へと つづく 道しるべ

 きっと きっと 辿り着く

 そう 信じてる

 

 

 君の言葉 優しく照らす光

 僕の胸の 氷とかす唯一の

 呪文のよう 一瞬だけだとしても

 朝日より きっと眩しく輝く

 

 どうして こんなに 優しい日々が

 どうして こんなに 離れてしまうの

 

 あの空に 虹が架かるよ

 君の笑顔 七色に輝かせてね

 僕へと 伝う 優しさは

 きっと きっと 届くはず

 そう 未来(あした)へと

 

 

 ゴメンね 信じきれなくて

 今なら 言えるのに

 もう一度 会いたいよ 君に

 今度こそ わかりあえる…

 

 

 あの空に 虹は架かるよ

 僕と君の 七色の気持 繋いで

 探し物は 明日に まわそうよ

 きっと きっと いつの日か

 そう 見つかるよ


4
最終更新日 : 2011-11-21 00:32:02

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著者 : むらさきあおい
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