目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
奥付
奥付

閉じる


<<最初から読む

13 / 186ページ

第11話 なくしもの

ごとん、ごとん。ぎーぎー。

 

ごとん、ごとん。ぎーーぎー。

 

 思った以上にきれいに刷れている。数百年前の印刷機とは思えない仕上がりだ。とくにインキの瑞々しさがすばらしい。島で採った夕暮草の顔料がこの印刷機にあっているのだろうか。

 

「ないないさん、なくしものの記事はこんな感じでいいでしょうか?」

 

 ミリルさんに呼ばれて来ていたロスファさんに尋ねてみる。

 

「ええ、ええ、もうこんな風にしてもらって何とお礼していいやら。ほんとにほんとに」

 

 最近島に来たばかりのロスファさんは、とにかく遠慮深い人だ。先に住んでいる人に迷惑をかけないようになんでも自分でやろうと一生懸命にがんばっている。それなのにこの島はないないさんにやさしくないようだ。

 

「ないないさん、島はいい人ばかりですから、心配しないで大丈夫ですよ」

 

 面倒見のいいミリルさんがやさしく声をかける。

 

「ええ、ええ、とてもとても助かってます。もう、わからないことだらけな上になくしものばかりで。ご迷惑ばかりおかけして」

 

「とりあえず、枕だけでだいじょうぶですか? もし他にもあれば……」

 

 なくしものがたくさんあると聞いていたので一応確認してみた。

 

「いえいえ、もう枕さえみつかれば、あとは自分でなんとか探し出しますので。心配しないでください。きっと風でどこかに飛ばされているに違いありませんから」

 

 刷り上ったものを見ながら、ないないさんは何度も何度も頷いている。

 

「島便りという名前好きです。これをメーンランドの人が見れば、きっとすぐに旅支度をはじめるでしょうね。ほんとに、ほんとに。ここに書かれている水玉模様の鳥がいることすら知らない人も多い」

 

 ないないさんも新聞を気に入ってくれたようだ。

 

「じゃあ、さがしものがあるので、このあたりで失礼させていただきます。ほんとに、ほんとに、ありがとうございます。枕はみつからなければ、それはそれでなんとでもしますので。お気持ちだけでありがたいことです」

 

 ほんの10分ほどいただけで、またなくしもの探しに出かけてしまった。あんなに一日中さがしものをしていたんじゃあこの島のゆったりした時間なんて楽しめないのではないかと心配になってしまう。

 

「ミリルさん、これなかなかいい出来ですね。とても年代ものの印刷機で刷ったものとは思えない仕上がりですよ」

 

「私は言われたとおりにやっただけなので、印刷機のおかげですね。この印刷機は島になくてはならないものになりそうですよ。コピちゃん、どう思う?」

 

「なくてはならないもの? なくてもなるもの? コピにはよくわからない」

 

「あはは、ないと困るものだから、ないといけないものだな」

 

 椅子の上にハンカチが置いてあるのに気づいた。ないないさんが汗を拭いていたハンカチだ。ないないさんはものわすれをよくする人かもしれないと思った。無意識のうちに枕をどこかにおいてきてしまったのかもしれない。

 

「ないないさん、今度はハンカチがないないって探してるかもしれないな」

 

「え?」

 

 ミリルさんが不思議そうにこちらを見るので、椅子の上を指差すと、すぐに気づいて笑いをこらえていた。

 

「コピはもうくばるの?」

 

「もう少しまってね。インクが乾いたらお願いするわね。それより、乾くまで発行記念のお茶パーティーはいかが? 草屋さんでおいしいハーブティーをいただいてきましたよ」

 

「それはいいね。ひと仕事した後のお茶は格別です」

 

「コピにもおちゃちょうだい」

 

「はいはい、配達さん。たくさん飲んでいってくださいな。みんなに幸せを届けてあげてね」

 

 新聞発行をした数日後の赤い満月の日に、ないないさんその人の行方を尋ねる島便りを出すことになるとは、このときは思いもしなかった。枕がみつかったという連絡を最後にその姿を見かけなくなってしまった。島を突然出て行く人はたくさんいるけど、食べかけのパイをテーブルに置いたままで消えてしまった人はいない。地面が少し揺れたときだったので、大潮に流されてしまったのではという人もいたけれど、それにしては食事途中の台所は不自然だ。みんなで探したけれど、その消息を知るものはなにもみつからなかった。メーンランドのほうに戻ったのであればいいのだけど。


第12話 別々の名前 * +

 今日は印刷の後片付けですっかり遅くなってしまった。夕ご飯を薪ストーブでつくりはじめると、いつものように青猫のインクが臭いをかぎつけて擦り寄ってきた。
 
「インク、コピが戻ってくるまでもう少しつきあってくれるかな。今日はいい仕事をしてきたよ。ほら、この新聞だ」
 
 インクはいつものようにこちらを見ないで、ストーブの横で丸くなっている。そこにはインク用のアルミの餌入れがおいてある。お腹がすいているのかと思いミルクを入れてやるとすぐに飛び起きた。今日は好物の魚がみつけられなかったのかもしれない。
 
「くばってきた!」元気のいい声がしたと思ったら、コピが勢いよく駆け込んできた。
 
「お疲れ様、コピ。みんな喜んでくれたかい?」
 
「うん。もう、ナツヨビがきたのって。コピはもうみた。いえをつくてた」
 
「ほお、巣の場所もみつけたのかい?」
 
「はんとうのさきのほう。きょねんとおなじナツヨビ」
 
「同じナツヨビ?」
 
「うん、なまえある」
 
 鳥を一羽一羽見わけて、全部に名前をつけるなんて特異な才能を持った子だ。まるでこの島の申し子のようだ。
 
「きょうはインクもちがうよ」
 
「え? インクはいつも同じだが。どこか違うのかな?」
 
「いろんなインクがいるよ。きょうは赤インク。赤インクはおばあさん」
 
 なんともおもしろい子だ。その日によってインクに別の名前をつけているようだ。7色のインクがいるという。今日もいつもと同じ青い猫インクだけど、名前は赤インクらしい。毛の色と名前は一致しない。
 
「コピ、スープでも飲んでいくかい? お客さんがね、採れたての野菜でつくったものだからとお裾分けしてくれた。野菜に詳しい人だからきっとおいしいよ。よかったらいっしょに晩御飯にしよう」
 
「はいたつさんのごほうび!」
 
 今夜はコピとインクでにぎやかな夕食になった。食後はコピにせがまれてまたノートの続きを読んで聞かせることになった。
 

*** ノート ***

 
 3日目もとてもさわやかな朝を迎えることができました。澄み渡った空には水平線から無数の入道雲が天に向かって伸びています。どこまでも続く海を見ていると、この世界を独り占めしているような気にさえなります。季節が違うせいか文献にあったミドリ鮫の姿もなく、時折カモメに似た水色の鳥が海の上を横切っていくだけです。彼らが渡り鳥なのかどうかさえもわかりませんが、今のところこの鳥だけがこの島の住人ということのようです。天敵のいそうにないこの島は繁殖にちょうどいい場所なのでしょう。
 
 出発のときにいただいた携帯用の日時計を出して、地面に置いてみました。着いて3日目の今日からこの島の記録がはじまることになります。ゆるりと動く時間をみつけるために役立つ記録になるかどうかはわかりませんが、季節か気温、そんなものと関係しているのではないかと思います。日時、気温、天候などを記録していくうちに時間がゆるりと動く予見をできるのではないでしょうか。
 
 今日は、6月20日。天候は晴れ。風は南西で、湿度は低め。空はどこまでも青く。
 
 鳥は無理にしても、魚は捕食することも可能かもしれない。魚がいるのだから餌もどこかにあるだろう……
 
*****
 
「コピ?」
 
……
 
「おや、寝たのかな? 今日は配達さんで疲れたからね。たくさんの人に喜んでもらえてよかったね」
 
 毛布を一枚掛けてやると、寝返りを打って寝息を立て始めた。そばでインクは毛づくろいをしている。今夜も夕焼けできれいに空が染まっている。
 

第13話 時間のはじまり *

*** ノート ***
 
日時計を置いて5日目。
 
 今日も南からの風が続く。夏に向かっているせいか空の色が日に日に深くなっている。
 
 日時計で毎日記録をしはじめてから、少しずつこの島の生活になじんできたように思います。なにもないこの島では町にいたときとは比べ物にならないほど1日の時間が長く感じられます。リアヌシティで仕事をしていた先週のことさえも何年も前のことだったように思えるほどです。朝日が上るのを見ること、鳥が餌をついばむ様子を眺めること、風に揺れる草花の音に耳を傾けること、太陽の日を浴びながらたっぷりと昼寝をすること、夜空の星を数えること、どれもがこの島での大切な生活です。それらが、日時計のゆっくり進む影ともに島の記録として刻まれていきます。この穏やかで、誰にも動かせそうにない時間の流れがほんとうに大きく揺れるような日がくるとはとても想像できません。うっかりすると、このままこの島に来た目的さえ忘れてしまいそうです。
 
 日時計の針の先で小さな虫が休んでいます。彼にとっては時間が流れようが流れまいがどうでもよい話。日が昇り、日が落ちること以外にとりたたて考えることもないようです。まわりに気を配ることもなくずっと前足で顔をぬぐっています。ここの動物は天敵が少ないせいか人の姿にまったく驚くこともなく自分の時間と生活を楽しんでいるようです。もし仮に時間が反転して、太陽が上るのと落ちるのが逆になっても大きな問題がないようにさえ思えます。ふと、今まで何のために休みも取らないで働き続けてきたのだろうという考えが頭をよぎります。もしかすると時の音に耳を寄せることを忘れてしまっていたのかもしれません。この島には時計もなければ、時報もありません。それなのに、風に乗って流れる時間の音が聞こえるような気がするのです。街にはないほんとうの時間が今始まったように思います。
 
 日時計は、手ごろな石の上において、磁石が壊れてもわかるように正午が真南になる方向に固定しました。そしてその先に小さな木の苗を植えました。石とこの木が時の刻みをいつまでも教えてくれることでしょう。いつまでも、この島がある限り。
 
*** ノート ***
 
 彼の生きた時代にはまだ時計は一般家庭まで行き届いていなかったのだろうか。今では当たり前になっている時計がなければ、生活は日の出、日の入りに合わせていかざるを得なかっただろう。もっともそういう生活が一番健康的とも言える。自然に逆らって生活することはそれなりの負担を強いられているに違いない。この島にはほとんど電燈もないから、夜になれば月明かりと少しのランプだけが頼りの生活になる。ノートの時代とそれほど違わないのかもしれない。そして、夜明けとともに1日がはじまる。夜が明けても起きる以外にとりたててやらなければならないこともない。当時も今も人々はなにかをすることを探そうとする。探さなくても何かに追い立てられるように家を出て行くに違いない。そして日が落ちた後までも、それに意味があるようになにかをやり続ける。彼らは何に向かっているのだろうか。
 窓からリブロールのほうを眺めると、たくさんの星を散りばめた夜空が広がる。星は夜になったから輝く、それだけのことだ。
 
 そのとき、草の間を何かが動いたような気がした。気になって近づいてみた。
 
「あ、インク、いつの間にお出かけしていたんだ? もう遅いから中に入っていなさい」
 
 ミャアとひと声鳴いたと思うと、また灯台を離れて行ってしまった。一瞬星が流れたように感じて空に目を向けたときにインクを見失ってしまった。こんな夜に出歩くこともないだろうに。
 
 彼女には彼女の生活もあるのかもしれない。こちらは、明日もあるし、そろそろベッドに入ることにしよう。
 
「じっじ、ノートが見つかってよかった……」
 
「コピ? 起きてたのかい?」
 
「……」
 
寝言だった。コピもノートのことが気になっているようだ。また、続きを読んであげよう。島のことに詳しいコピなら何か思い当たることもあるかもしれない。

第14話 跳魚釣り

「おはようございます。慣れた手つきですね」

 

「いやいや、まだほんとにはじめたばかりで。知り合いの船乗りの人に竿をゆずってもらったので暇つぶしにでもなればと思いましてね」

 

「時間つぶしという割には、1、2、3、4……もう7匹もいる。これなんという魚ですか?」

 

「跳魚です。いつもだとこうはいかないから。ほんとにたまたまです。羽虫を捕食するときに跳ねるので島の人はみんな跳魚と呼んでます」

 

「餌は羽虫を?」

 

「あ、これは羽虫に似せてるだけですよ。虫を鳥の羽でつくって、水面の少し上をふわふわさせておくだけ」

 

「そうなんですね、鳥の羽さえあれば釣れるということなんだ」

 

「まあ、少しそれらしく見えるように細工はしますけど。たいした手間はかからないですよ」

 

 今朝は朝から天気がよくて、以前船長からもらった竿を持ってチャルド川に来ていた。 チャルド川は湧き水の出る池から海に流れ込んでいる小さな小川で、川といっても小さい島なので塩分を少し含んだ汽水になっている。

今日は羽虫が多いせいか、跳魚の食いつきが思いのほかいい。さっきからナツヨビがおこぼれを狙って上のほうを旋回しながらこちらの様子を伺っている。  

 

 跳魚は身がやわらかく、少し干して酢漬にするととてもおいしいので、知り合いに届けてあげると喜ばれる。マリネのようにして食べる人もいるらしい。島の周辺には大きな魚もいるようだけど、私にはここで跳魚に相手をしてもらうのがちょうどいいようだ。老人と海ならぬ老人と川というところか。今日は、草屋の先生においしいスープをいただいたお返しになればと思い朝早くから釣りに精を出している。

 

「今朝は、お散歩ですか?」  トラピさんはまだ30代だろうから、早起きするというような年でもない。

 

「僕は、もともと大道芸をやっていたので、家の中にずっといると身体がなまってしまって」  

 

「大道芸はパントマイムのようなことを?」

 

「いやいや、手品ですね。なんでも隠してしまう。よくある手品です。」ないないさんはもしかするとトラピさんが隠したのかもしれないとありもしない考えが頭をよぎった。いやいや、そんなわけはない。

 

「見ててくださいね。このハンカチを」 

そう言うと真っ白なハンカチをポケットから出して、私の手の上に乗せた。  

 

 「いいですか、ハンカチを丸めて」  

と言うと、トラピさんは自分の手で私の手を覆った。 

 

「はい、これでハンカチは消えてしまいました。手をゆっくり開いてみてください」 

 

「ほー、まったくわからなかった。これは見事だ。どこに行ってしまったんだろう」  

 

「これはほんとうに簡単な手品ですよ。種も仕掛けもありますから」

 

「人を隠してしまうこともできるんですか?」思わず口をついて出た。

 

「場合によってはやりますけど、それなりの仕掛けは必要ですね」

 

「そうですよね。そんなに簡単にできるわけでもないですよね。うんうん、それはそうだな」   

 

「また、みんなの集まったときにいろいろ見せてください。この島にはたいした娯楽もないですからね」

 

「もちろん機会がありましたら喜んでやらせていただきます。それより……」

と竿の先を指差すのでそちらをみると、竿の先がぴくぴく動いて羽が見えなくなった。

 

「あー残念、逃げられてしまいましたね」

タイミングが少し遅れてうまくあわせられなかった。 

 

「釣りの邪魔をしちゃってますね」トラピさんは頭をかきながら申し訳なさそうに言った。

 

「それより、少し持っていかれませんか。遠慮はなしですよ。島の名物も知らないとなると隣人としてほっておくわけにはいきませんからね」川に入れてあった魚籠を引き上げすすめてみる。 

 

「ほんとにいいんですか? やっぱり早起きするといいことがあるなあ」と魚籠を覗き込んでいる。

 

 うれしそうな顔を見ていると、こちらも思わず笑ってしまう。2、3匹を手にしたと思うとあっという間に手品のようにどこかに消えてしまった。

 

 トラピさんはしばらく料理の話などをしたところで、もう少し散歩してくると言ってリブロールのほうに姿を消した。 気がつくとナツヨビもいつのまにかいなくなっていた。着の身着のままでこの島に来たというトラピさん。荷物らしいものもほとんどないのだそうだ。ものがなくなる人もいるし、何も持ってこない人もいる。どこまでもモノと縁のない島だと思う。でも、モノに縛られない幸せはやってみた人にしかわからない。それが本当の自由というものだろう。

 

 さて、お土産の跳魚も釣れたから、草屋さんに行って印刷用のインキのことを相談しよう。あそこなら、きっとこの島ならではのインキがあるはずだ。


第15話 海の見えるインキ

 北島と南島の間にあって北島がよく見える場所に草屋はある。ほんとうはアグリズという名前らしいのだけれど、みんなは草屋とか葉っぱ屋とかいう名で呼んでいる、だれも本屋をリブロールと呼ばないのと同じだ。そもそも、島に店の看板らしいものはほとんどない。だれも商売しようなんて思わないのだから当たり前といえば当たり前。売り買いのない支え合いの生活としてつながっているだけの話だ。
 
 もともと理科の先生をしていたというアグリさんの趣味が高じて島のめずらしい草花を集めたというお店だ。草花の種子はもちろん、植物を材料にした何でも屋さんといったところで、アグリさんは島の自然についても詳しい。島一番の物知りとしても知られている。そんなこともあってみんなからは先生と呼ばれている。
 
「こんにちは。ノーキョさんはいますか?」
 
「はーい、ちょっと手を洗いますのでお待ちください」奥のほうからから声が聞こえた。なにか作業をしていたのかもしれない。
 
「これは、これは、オルターさん。なにかありましたか?」手をタオルで拭きながらノーキョさんが奥から顔を出した。
 
「お仕事中のところすみません。昨日いただいたおいしい野菜スープのお礼にと思って、獲れたての跳魚を持って伺いました。大漁だったものものですから」
 
「それはわざわざすみません。今日は釣りをお楽しみでしたか。いい天気になりましたからね」
 
「いつもいただいてばかりなので、たまにはお返しもしないと。お口にあうかどうかわかりませんが、今釣ったばかりです」
 
「おお、これは新鮮ですね。まだ、黄色い筋がくっきり見える」さすがに、生物の先生だっただけあって魚にも詳しい。跳魚は横腹にある黄色い線が鮮度を見る目安になることをご存知だ。
 
「また、いろんな種が増えているみたいですが。これはみんな野菜の種ですか?」
 
「野菜ですね。今撒けばおいしい野菜がたくさん収穫できますよ」
 
「それはいいですね、ノーキョさんの選んだ野菜ならおいしいに違いない。リブロールの横に植えてみます」
 
「ああ、オルターさんはそれには及びませんよ。うちの畑にたくさん植えてありますから、いくらでもお分けしますよ」
 
「いやいや、それでは申し訳ない。そんなことしてたら商売にならない」
 
「その代わりにというわけではないですが、本屋さんをいつも書斎代わりに使わせていただきますから気になさらないでください」
 
 結局また物々交換のような話になってしまう。この島ではお金の価値さえもあいまいで、自分がほしいものがあれば誰かのほしいものをあげるというというのが生活のルールになっている。金銭のともなわない助け合いというところだろうか。
 
「ぜひぜひ、そうしてください。と言っても店主の私はほとんど留守でミリルさんにまかせっきりですが」
 
「ああ、ミリルさんにはいつもおいしいお茶いただいてます。あそこでお茶を飲みながら資料整理するととてもはかどって。海からの風がとても心地いいですからね」
 
「昼下がりのうたた寝の場所と決め込んでいる人もいるみたいですよ。もう、本屋かどうかも疑わしいですね」ミリルさんからいつも言われていることをそのまま話した。
 
「それそれ、ほんとうにうたた寝には最高で、私もよくうとうとてしています。でもそういう時間がまたいいんですよ。そんな本屋がひとつぐらいあってもいいじゃないですか」
 
「ありがとうございます。じゃあ、これからもうたた寝のできる本屋ということでいくことにしましょう。うたた寝屋ですね」
 
「うたた寝屋いいですね。本に困まれてうたた寝なんて、もうほかになにもいりません」
 
「今日は、そんなうたた寝屋からお尋ねしたいことがありまして」
 
「あらたまって、なんですか? 私にわかることでしたら。ただ、女性のことはからっきしだめですよ」
 
「ははは、私も若い頃から女性にはまったく縁がないですからご心配なく。実は先日古い印刷機が手に入ったので、島の新聞とか例のノートを印刷しようという話をしていましてね。それにちょうどいい印刷用のインキがないかものかと」
 
「あ、昨日コピちゃんが届けてくれた島便り、ありがとうございました。とってもいい話なので私もなにかお手伝いできないかと思っていたところなんですよ」
 
そう言うと、奥の棚からまだ何も書かれてないラベルの張られた壜を持ってきた。
 
「えっとこれこれ、実はちょうどいいインキがあるんです。海辺でよく見るナミギワ草から作ったものなのですが、とても深みのあるブルーで、乾いてもまるで印刷したばかりのようにみずみずしい発色なんですよ。ぜひ、これを使ってください。メーンランドの人もきっと驚くと思いますよ。こんなきれいなインキはなかなか見たことないでしょうから。この壜に入ったのがそうなんですけど見てみてください。このインキで本でも作れば世界にふたつとないものができますよ」
 
「ほぉ、これはいい。この島の海の色そのものですね。ナミギワ草からこういう青い顔料が採れるんですね。今日、持ち帰ることはできますか?」
 
「もちろんです。昨日コピちゃんが来たときに預けようと思っていたぐらいですから。どうぞ遠慮なくお持ちください。あの新聞をたくさんの人に読んでもらうお手伝いができれば私もインキをつくった甲斐があるというものですよ」ノーキョさんは楽しそうに話してくれる。ほんとうに誰かに使ってもらうことがうれしいのだろう。
 
「ありがたい。では、早速帰って試してみることにします。あれ、これ海の香りがする。してますよね?」
 
「あ、わかりましたか? それもこのインキのおもしろいところなんです。海の香りのするインキなんてなかなかないですよね。もう、一度読んだら忘れられないですよ。女性の香水みたいに。あはは」
 
「うーん、これはすばらしい。ほんとうに相談しにきてよかった。みんな喜んでくれそうだ。ありがとうございます。紙もノーキョさんにいただいたものだし、何から何まで。ほんとうに助かってます」
 
「紙漉きこそ一番の趣味ですから、捨てるほどありますよ。また印刷機を見に伺いますね。新聞はほんとうに楽しみにしてますからがんばってください」
 
 思いがけないお土産をもらった。気がつくと、リブロールへ戻るまでずっとインキの香りをかいでいた。きっとこのインキを使った新聞を読むときは目の前にこの青い海が広がることだろう。海の見える新聞……これはいいかもしれない。
 
お店に戻るとミリルさんが、いつものように留守番をしてくれていた。
 
「おはようございます。大漁でしたか?」ミリルさんにはなんでも見透かされている。
 
「あれ、トラピさんも」
 
「トラピさんはミステリー小説が好きなんだそうですよ。密室ものなんですよね」
 
「オルターさん、おじゃましてます。」すっかりくつろいだ様子だ。ミリルさんの人見知りしない性格がいつもたくさんの人を集めてくる。
 
「おやおや、早速のご来店ありがとうございます。いい本ありましたか?」
 
「ミリルさんに島の話をいろいろ聞いてました。なんだか島そのものがミステリーみたいで」
 
「歴史伝承みたいなものかもしれないですけど、この島にもいろいろあったみたいですね」
 
「なんだか、はじめて住んでみたいと思うところに出会ったような気がしてます」
 
「あるのは青い空と海だけ。それだけなんですけど、それで十分なところですよ。なにも持たないトラピさんには向いてるかもしれない。小説ほどにはおもしろくないかもしれないですけど、古いことを調べる楽しみもありますし」
 
「そうなんですよね。何もないところに惹かれているのかも」
 
しばらくすると、インキの入った壜からナミギワ草の香りがリブロールに広がっていった。
 
「今日もいいお天気」ミリルさんが海のほうを見ながらつぶやいた。
 
「ほんとに」トラビさんが遠い空を見ながら答えた。


読者登録

noelさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について