目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
奥付
奥付

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第5話 青い猫 *

 時間が止まるときに人は眠り、目覚めに新しい世界がはじまる。
 
 朝の日差しに目を覚ますとあたりは深い霧におおわれ、遠くで長く響く海鳥の声がかすかに聞こえるだけでした。昨日漁師小屋に見えたところも、木々が折り重なっているだけで、人が手を入れて作られたものではありませんでした。岩礁も浜の一部でしかなく、多くは砂地が広がっている小さな浜でした。想像していた風景とのあまりの変わりように違うところに来てしまったような錯覚さえ覚えるほどでした。
 早速コッヘルに携帯食として持参した飛び豆を入れ火を通し、少し塩味を付けて朝食を済ませました。昨夜みつけたボートのほうを見ると、残っていたのは1艘だけで残りの1艘は消えていました。深夜に乗る人もないでしょうから、波に流されてしまったのかもしれません。途中で見つけたらいっしょに島へ運んだほうがいいかもしれないと思いながらも、こちら側から島に渡る手立てがなくなるのが心配でもありました。みつけたらやはり一度戻ることにしようと考えながら船に荷物を積み込みました。ボートは職人がつくったようなものではなく、筏よりはましという程度のものでしたから、まっすぐ座ることさえもむずかしく、座る横木も半分は折れ曲がっていました。床の隙間からは水草のようなものが見え隠れしていましたから、はたしてこれで島まで無事に渡れるのか心もとなく思いましたが、ほかに方法もないようなのでボートを沖に押し出し心を決めて乗り込みました。
 
 透き通った水は少し冷たかったもののそれほど深くなく、場所によっては海の底に足が届くようなところも多くあったので、島までたどり着けないかもしれないという不安はすぐに消えました。1本の舵と破れかけた帆の小さな船はゆっくりと沖に向けてすべり出して行きました。中世の宗教画のような色合いの水底を眺めながら30分も進むと、昨日かすかに確認できた島影が見えてきました。よくよく見ると、思った以上に大きな島でしたが、高台と思っていたのは、木々の影が作ったもので、実際にはほとんど起伏のないところのようでした。島というよりも岩礁に近いといったほうがいいのかもしれません。島のまわりの水が飛び跳ねているように見えたのは、光る小さな魚が羽虫を捕食しているためでした。この魚を追いかけてミドリ鮫が集まるのかもしれないと考えると、ゆるりと動く世界にいよいよ足を踏み入れるという気持ちの高ぶりは抑えられなくなっていました。
 
 光りの粒が水面をはねるとき、新しい時間が静かに幕を開く
 
 
***** ノート *****
 
ゆるりと動く時間……ゆるりと動く…… ゆるり……    ノートの写しを読み返しているうちにちょっとうとうとしてしまった。満月が東の浜に登っている。ノートを書いた主がこの島に来た数百年前にも同じ月が見えただろうか。ユイローの葉をバスタブに浮かべ、岬に打ち寄せる波音を聞いているうちに睡魔が忍び寄ってくる。どうもユイローには催眠効果のある何かが含まれているようだ。多用しすぎるのもよくないかもしれない。コピのような子供にはあまりすすめられない薬草だ。ノーキョさんに話しておいたほうがいいかもしれない。
 
 入口あたりでことんという音がしたので目を凝らしてみると、黒猫のインクが忍足で近づいてきた。気まぐれで姿を見せないことも多い子だけど、長く暮らす住人からは愛されている。インクのほうも自分に気に掛けてくれる人をわかっているようで、そういう人が来たときにはどこからともなく現れるようだ。消えた灯台守の生まれ変わりだと言う人までいるけど、たまたまここに住みついただけのことだろう。ここなら海がしけたあとには打ち上げられた海の幸がたらふく食べられる。猫の一人暮らしにはちょうどいい住み心地なのだと思う。
 
 名前のない猫ではかわいそうだと思い、青みがかった黒の毛がめずらしかったのでインクという名前をつけてやった。もちろん私の愛用するペル社のブルーブラックのインクをイメージしてつけた名前だ。今では島のみんなにもインクの愛称で可愛がられている。住人の仲間入りができてうれしいだろう。身体を摺り寄せてくるので、今夜は朝までつきあってくれるのかなと聞いてみると、なにも聞こえないそぶりで燈火台のほうへ上って行ってしまった。まるで燈台守気取りのようだ。
 
 その昔、この灯台を守る一人の男がいたという。今の住人の中にその男と実際にあったことのある人はいない。灯台の横にある石柱は彼のために立てられたとも言われるが、その真偽も定かではない。この島はあちらこちらに昔のできごとと結びつけたと思われる逸話が残っている。語り継がれるにはそれなりの理由もあったのだろう。この灯台は新しく建て直されて今は電気の灯火になっているけど、それ以前はオイルに火を灯す方式の赤いレンガの小さい灯台だった。そこに燈台守がいたとしても不思議な話ではない。彼が去ったと言われる東の方角には今夜も赤い月が上っている。
 
 コピと話していたら遅くなってしまった。今日は月見の散歩はあきらめてこのままここで休むことにしよう。だれのものでもない灯台は、私が実質的に管理しているようなものなのでとがめられることもない。

第6話 お店番

 灯台の朝は早い。朝日が上る早朝から南西のやわらかい潮風が吹いてくるので、おだやかな目覚めが迎えられる。窓から外に目を向けると水平線に薄い雲がかかっている。今日も透き通った空気でいっぱいの1日になりそうだ。

 昨日読みかけのままにしていたノートを引き出しに片付ける。大切なものをなくしては大変だ。島の歴史ともいえるこの写しは、島の中で一番見晴らしのいい場所にあるこの灯台に置いておくのがふさわしい。実際、ノートの主も、少し高台になっていて増水時の心配もないこの場所を好んだようだ。南方から流れ込む暖かな海流もあって、灯台に続く道には季節ごとにさまざまな草花が咲き乱れる。住人の散歩道としても親しまれているこの場所に保管しておくのがいい。


 島はメーンランドからは南方に位置しているので冬の一時期を除けば、年間を通じて過ごしやすい。この地のスピードの遅さに馴染んでしまい、観光のつもりがそのまま居つくことになってしまったという人も多くいる。メーンランドから遠くさえなければ、もっとたくさんの人が住んでいてもなんら不思議ではないところだ。ただ、列車もなく、月に数度の船便しかないから今でも少数の住人が住むだけで、手つかずの自然があちらこちらに残っている。海で閉ざされていることも手伝って内陸とは異なった特異な自然環境がそのまま残されている。そして、乗り物
を使うこともなくほとんど歩いて回れてしまうほどに島は小さい。


 気がつくとインクが近づいてきた。ふらりと現れて、いたと思うといつのまにか消えてしまう。この子がいると寂しくなることもないし、かといってじゃまをするわけでもないので、灯台は私が一人の時間をすごすのにちょうどいい書斎代わりになっている。そして、ここにいると不思議と気持ちが穏やかになる。できることなら住み着いてしまいたいけれど、みんなが楽しみに訪れるところと思うとそうもいかない。


「こん、こん。おはようございます。あら、インクもいたのね。おはよう。さては、二人でまた、ここで寝ちゃいましたね。いい夢が見られましたか」

「おはよう、ミリルさん。今日はいつになく早いですね」

「昨日少し早く帰らせてもらったので、今朝は早起きしてエモカさんのお店でパンを買ってきました。このパンは一ヶ月も発酵させてから焼いたものだからとてもおいしいそうですよ。最近この島でみつけた酵母で、発酵にとても時間がかかるんだとか。でも、その分とてもおいしいパンになるんだそうです。よかったら少しいかがですか」

「それはいい。いままでのパンとどう違うのか試してみたいですね」

「では、このロールパンをおひとつどうぞ。きっとお気に召すと思いますよ。私もエモカさんのお店でいただいてきたんですけど、あまりのおいしさにびっくりですよ」

 島にある食料品店というとエモカさんのお店だけで、もともと自家用に作って友達に配っていたのがあまりに評判がいいので、島の住民にもおすそ分けしているということらしい。エモカさんはお返しはいらないと言ってだれからも何も受け取らないから、お店とは言えないのかもしれない。そんなエモカさんのやさしさがうれしい。

「ほんとだ、これはおいしい。普通のパンよりずっとやわらかくて雲を食べているようだね。みんなが喜ぶのもわかりますね」

「そうなんです。ほんとうにふわふわしていて、食べるだけで幸せな気持ちになれます。
よければもうひとついかがですか? 遠慮なくどうぞ」袋の中には、2つ3つ入っているようだった。

「そんなにいただいてしまうと、ミリルさんの朝食がなくなってしまうから、また次の機会に私の分もお願いしていいですか。この発酵に時間のかかったというパンをお願いします」

「わかりました。じゃあ、一度家に戻りますね。10時にはお店に出られると思うので」

「そうだ、そろそろ今日あたりには船長の定期船も着きそうですね。お昼過ぎには私も行きます。新しい本が来る前でお客さんも少ないでしょうからミリルさんも午後からでいいですよ」

「あら、私が本屋さんにいるのが好きなのを知ってるのに。お気遣いは無用ですよ。では、また後ほど」

 パンの包みを両手に持って、灯台を出て行くミリルさんの後ろ姿をインクがじっと見ている。そうか、インクも食べたかったのか。気がつかないでかわいそうなことをしたな。次にいただいたときにはお前にも残しておくよ。

 今日は一ヶ月に一度の楽しい入荷日。天候さえよければ定期の船便で本が届く日になっている。このところ景気がいいせいかメーンランドの市場がにぎわっているらしく、新しいもの、古いもの、さまざまな時代のものが入荷しやすくなっている。今回もめずらしい本ががたくさんあるといいのだが、それも船商人のダルビー船長の目利きにかかっている。船長の選書はいつもおもしろいので店をはじめて以来ずっと頼りっきりだ。これまで期待を裏切られたことが一度もなくて感心するばかりだ。

 店主の私のほうはというと、お店、お店と言いながら、実際には留守にすることが多く、どこか日当たりのいい場所をさがして本を読んでいることがほとんど。いつが定休日なのかもわからないとよく言われる。もちろん私が島にいる限り定休日はなくて、問題は本をいったいいつなら買えるのかということなのだろう。私のほうも、狭いこの島で本を勝手に持ち出すような住人もいないと思うからはっきりした返事もしないままにする。お客さんは仕方なしに、それぞれに店内の本を適当にみつくろっては椅子に腰掛けてページをめくっているということになる。店で本の話をするのもいいし、中には本を顔にのせたまま昼寝をしている人もいるぐらいだから、私設図書館といったほうが言い得ているのかもしれない。仮に販売収入を得たところで、この島では使い道もない。

 そんな本屋に、草花が好きだと言ってよく島に通っていた女性が訪ねて来てお店の留守番をさせてもらえないかと言ってきた。もともと売る気もないような店なので、お客さんも少ないということを伝えてはみたけど、それでもいいからということで聞いてくれない。私のほうもいいかげんなもので、お給料もなしでよいのであればどうぞご自由にということでお店番が決まってしまった。それ以来ミリルさんのお店と思う人が多くいる。はじめてのお客さんが来るたびに、店に出てこない爺さんが店主だと説明するのもさぞやめんどうだろうと思うけど、それでも本屋にいるのは楽しいらしい。
 
 待ち遠しい仕入の日は、私にとって月で唯一の本屋らしい仕事をする日になる。

第7話 リブロールの朝 *

***** ノート *****

 
 干潟のような土地の端に立つとすぐに、そこに似つかわしくない7メートルほどの小さな灯台があることに気付きました。だれもいないこの島にぽつりと佇む姿は、まるで孤高であることを楽しんでいるかのようにさえ見えました。ただ、この手積みレンガの灯台をつくるためにかつて人が足を踏み入れていたということは間違いありません。浅瀬の多い島の周辺でミドリ鮫漁が行われていたことを考えれば、灯台も安全な漁のために必要なものだったでしょう。本に書かれていたミドリ鮫のことが事実であったのだと考えると、人の気配も感じられるような気がして少し楽になりました。
 
 灯台の建つあたりは海から2m程度の高さがありましたが、島の大部分は海抜のほとんどない土地で、人の住むことを許さないきびしい環境であることはすぐにわかりました。もし今日が潮の引く時期であるのなら、潮が満ちたときには間違いなく海に水没して島の姿は見えなくなってしまうでしょう。島と言うにはあまりにも低いその土地は、水平線との境もあいまいで、澄み渡った青空の中に溶け込んでしまいそうでした。
 
 少し先のほうになにか動くものがあったので目を凝らして見ると、それは昨日寝る前に見たもう一艘のボートでした。誰かが自分より先にこの島に渡っていたのか、それとも引き潮に流されてこの島に流れ着いたのか。メーンランドの街から2日もの時間をかけてこんなところ来る人がいるとも思えませんが、あの入り江からこの島に渡る手だてはなくなったということを考えると、ここで誰かに会うことを祈らずにはいられませんでした。
 
 おーい、おーい...
 
 広い空に浮かぶ雲はなにも答えることもなく先を急ぐように大きい空を横切って行きます。しばらく空を眺めていると、自分の立っているこの島のほうが流されているような錯覚を覚えました。そして、地面の多くは草とも海草とも判別のつかないような植物で覆われていたため、一歩進むたびにずぼりずぼりと足先が地面に沈みました。不安定な足元を確かめながらゆっくりと灯台の見える内陸に向かって歩きました。とりあえず、この島の少しでも高いところに居場所を確保することを急ぎました。天候が崩れでもしたら小さな島は波に逆らうこともできず見渡す限りの海原に押し流されてしまうことでしょう。
 
 
 世界の果てまで続く紺碧の空と海 その隙間にとぷとぷと漂うこの島
 
  
***** ノート *****
  
 灯台に来たときには、いつもこのページに書かれている情景を思い出す。彼もきっとこの場所に立って海を見渡したことだろう。今と変わらないこの360度見渡せる水平線を眺めながら、だれも知らない島の神秘に畏敬の念を感じたかもしれない。潮の心配が無用だったことだけは救いだったことだろう。干潮で土地は広がって海に沈むことはなかったはずだ。灯台を出たところの道端にある石碑に書かれている文字は長年の風雨にさらされて読むことはできないが、きっとこの灯台にゆかりのあるなにかを後世に伝えようとしたに違いない。それはノートを書いた主を弔うために誰かの手によって書かれたものなのかもしれない。そう思うとこの場所が時間を超えて遠い昔へ一本の線でつながっていくような不思議な心持ちになる。
  
 灯台を出てすぐ東に向かうと左の海辺にメーンランドで流行するジャズを聞かせてくれる喫茶店がある。私がこの島に来たばかりのころ、同じようにあてもなく一人で歩いていた人にばったり出会った。1日中本を読んで暮らしたいという私と、ジャズを聴いて過ごしたいというノルシーさんはすぐに意気投合した。いつかみんなが好きなものを持ち寄って楽しく過ごせるような島にしたいとよく話したものだ。そんな二人も今では島でもっとも古参の住人になってしまった。店先で窓を磨いているのはノルシーさんだろう。朝までお店にいることも多いからもしかすると昨夜も寝てないのかもしれない。話好きで好奇心旺盛なノルシーさんのお店には客人が絶えない。週末はいつも朝方まで明かりがついている。カウンターに座った常連客と何かを話すわけでもなくジャズに耳を傾ける時間だけが静かに流れている。時折楽器を手にして弦をはじいてみる人もいるようだけど、演奏をするわけでもない。そして、鳥たちのさえずりが聞こえる時間になるとだれに声をかけるでもなくぽつりぽつりと席を立ちそれぞれの家路につく。
 
「ノルシーさーん、おはよー!」
少し遠いとは思ったけど声をかけてみた。
 
「オルターさーん! 昨日は灯台に遅くまでランプがついてたねー! あまり根を詰めないほうがいいんじゃない!」
 ノルシーさんもこちらに気づいていたみたいだな。灯台とノルシーさんのお店の間をさえぎるものもないから、お互いの窓からよく見える。
 
 ノルシーさんの店を左に見ながら、草花の咲く小道を海沿いに数分歩くと私の店「リブロール」に着く。古来から使われているグレン語で、「ゆっくりしたとか穏やかな生活」という意味だそうだ。島に最初に届いた本の中からもらった名前だ。しかし、本屋の店名なんてあってないようなものなので、今でも名前も知らない人も多いかもしれない。
 
 店の近くまで行くとミリルさんがお店でだれかと話していた。こんな時間にだれかと思ったらコピだった。あの二人がこんな朝早くからお店で話しているのを見るのもめずらしい。とにかくコピは朝にめっぽう弱くて、午前中に姿を見かけることはまずない。
 
「おはよう、コピ。今日は早いね」
 
「トリさんのめざまし! きれいな本をどうぞ」
 
「きれいな本?」と言いながら本棚に目をやった。
 
「あ、この前入った、あの『青い扉』って本のことですよ。表紙と裏表紙しかなかった本。ページのない本なんてめずらしいねってお話をしたあの本です」
と机の上の開いて置いてある本をミリルさんが目で示す。
 
「ああ、あの絵本ね。おもしろい本だから見てごらん。ページがまったくなくてね。本と言っていいものなのかどうか。文字がないから絵本なのかな。船長の選んでくる本はいつもおもしろい。あの時も表と裏表紙しかない究極の本だって聞かないから、本ならせめて1ページはほしいと言うと、中身なんて読む側が考えるものだから、表紙だけあれば十分物語になるって聞かなかった。おもしろいことを言う人だよね」
 
「おそらにあるおまど。おひめさまとおじさまのおうち!」
 
「あら、コピちゃんすごい。そんなこと考えてたの? 私なんて『赤い扉』はあるのかなーって思っただけよ。だめだわねー」
 
「じっじはおまど?」
 
「そうだな...。ある大潮の日にこの本が海の水を全部飲み込んで、島民を救うっていうのはどうかな?」
 
「あら、それも面白いですね。本当に、そういう役に立つ本だといいわ。本棚の一番上に飾っておこうかしら。島の守り神として毎日安全祈願をしないと。お店に来た人に話すのも楽しいかもしれないですね」
 
「おひめさまもたすかるの」
くりくりした目を輝かせる。
 
「あはは、こんなふうにそれぞれの話ができてしまうのがこの本の面白いところかもしれないね。さて、今日は船が入ってくるまでここでゆっくり待たせてもらおうかな。ミリルさん、ちょっとおじゃましますよ。今日こそは船が桟橋に入ってくるのを期待しましょう。あのままじゃあ、まるで蜃気楼だからね」
 
「あら、おじゃまするなんて、ここはオルターさんのお店ですよ。どうぞ遠慮なく。ちょっと朝のお茶を入れてきますね。コピちゃんもよかったらどうぞ」
ミリルさんはティーポットにお湯を入れながら楽しそうに夏の唄を口ずさんだ。

第8話 定期船 *

***** ノート *****
 
 足を取られながらなんとかたどり着いた灯台は人ひとりがどうにか入れるほどの小さな建物でした。もともと泊り込むためにつくられたわけでもないでしょうから、一人寝られるスペースがあったことに感謝しなければいけないのかもしれません。気候もいい時期なので野天で寝起きしてもなにも困ることはありませんでした。水のなくなるような乾季がありはしないかということのほうが心配だったかもしれません。
 2つの丸い小さな窓からはいつも変わらない潮騒のきらめきが見えます。時折、水平線の端に船の陰が見えることもありましたが、一向に近づいて来る気配もなく、それは絵に描かれた船でも見ているようでした。いつまでも同じ場所に見えていたかと思うと、ある日気がつくと消えていたということもたびたびありました。どこから来る船かはわかりませんでしたが、長い航海の休憩場所にでもなっていたのでしょうか。いつも同じように通って行くものの、それらの船がこの島に立ち寄ることは一度たりともありませんでした。まるでこちらが見えていないようにさえ感じられました。
 
 島での生活は食料探しからはじまりました。最初に試したのは小さな赤い実をつける草でした。雑草のような草に食べられる実がつくものかとも思いましたが、鳥たちがついばんでいるのを何度か確かめてから口にしてみると、それはイチゴのようなちょっと甘酸っぱい味がしました。生まれて初めて味わったものでした。この実は天日干しにしておくと干葡萄のような形になり、保存食としても食べらそうでした。名前もわからないので草葡萄という名前をつけ鳥たちとの食事を楽しむ生活が始まりました。
 
***** ノート *****
 
 赤く錆びた船長の船が接岸したのはお昼を2時間ほどすぎたころだった。
 
 「やっほーい。やっとついたぜ! 爺さん元気だったか? おやおや、今日はたくさんのお客さんだ。お待たせしちまったようだな。とにかく島が見えてから長いこと長いこと。いつものことだけど、この島の周辺は特殊海域でいつまでたっても着きやしない。霧のせいもあって島影も見えたりみえなかったり、その上浅瀬だらけときちゃあ、進むものも進まないってもんだぜ。まったく、やっかいな島だな。きれいなお嬢さん元気だったかい。またちょっと休ませてもらうからな。まずはおいしいお茶でもいただくとするか」
 
 どれだけ苦労してこの島に来ているかという話を恒例の挨拶のように船長は一気にまくし立てる。船の航路からこの島に入ったことはないけれど、とにかくとてもやっかいな島だという話をいつも聞かされる。それは島から見ても同じで、見えてる距離と時間のずれは考えられないぐらい大きい。空気がきれいで遠くまで見えるせいではとか、蜃気楼のようなものではないかということで、最後はいつもあいまいなままに話は終ってしまう。
 
「船長、今日のお茶はおいしいですよ。島でとれたばかりのお茶なんですよ」
ミリルさんが赤いホーローのポットでお茶を運んできた。
 
「おー、ありがたいねー。このお茶を飲むのを楽しみに来ているようなものだからな。長旅の疲れも取れるってもんだな。おれはお世辞は言わないからな
 
「今日の荷物はちょっと大物だから。少し休んでから荷降ろしだ」
 
「あら、それは楽しみ。今度は世界一大きい本ですか?」
 
「まあ、見てのお楽しみだ」
 
「コピもてつだう」
 
「おお、コピにもお願いしないとな。とても一人じゃ無理ってもんだ」
 
 船長はみんなを驚かせたいのかどんな本かをなかなか言わなない。それだけ自信のある仕入をしてきたということか。最近メーンランドで流行っているお店のことや気候がすぐれないことなどで船長の話はつきない。
 
「そういえば船長、この前の本はおもしろかった。船長の言ったページのいらないという意味が少しわかってきたよ」
 
「おうよ。あれは無限の物語をつむぐ本だ。読む人によってどんな話でもできてしまうんだからな。俺の言ったことに嘘はなかっただろ」
 
「オルターさんが海の水をぜんぶ飲み込んでくれる本じゃないかって言われるので、島の守り神にしようかと」
 
「おいおい、海がなくなったらこちとらの仕事があがったりじゃないか。そりゃ困った本だ」
 
「うふふ、そうならないようにお祈りしましょうね」
 
「船長はあの本で何が読めたのかな?」
 
「俺はな、あの本が俺たちをどこかに案内してくれそうな気がしたんだ。そう思ったときに、この島のことを思い出したってことだな。この島ってよ、終わりじゃない気がするんだよな。なんていうか、どこかへの入り口なんじゃないかって」
 
「ほほう。そう思うかね?」
 
「俺はそう思ってる。でなけりゃ、こんな面倒な商売にもならないところに来ると思うか?」
 
 みんな、船長がいつも本を届けてくれる理由が少しわかったような気がした。あのノートを書いた青年も同じようなことを感じていたのだろうか。『青い扉』の本はコピも言うようにどこかへの窓になっているというのがいいかもしれない。ただ、それは想像世界の話ではあるのだけれど。
 
「さてと、そろそろ荷降ろしとするか。悪いがみんなも手伝ってくれ」
 
「はーい、コピちゃんもいっしょに行きましょ。オルターさんは待っててくださいね」
 
「また、爺さん扱いだな」
 
「ええ、ええ、腰でも痛めて寝込まれると大変ですから。無理をされないように」
 
 いつもながら入荷の日ほど楽しい日はない。今回の大きい荷物には何が入っているのか。船長が話すうんちくにも否応なく期待が高まる。
 
「あらー、これ本じゃないですね。コピちゃん気をつけてね」
 
船のほうからミリルさんの驚くような声が聞こえた。

第9話 印刷機

 ミリルさんが驚いたのも当然だった。船長が持ってきた荷物はとんでもなく大きいものだったのだ。
 
「コピちゃん、荷物に足をはさまれないように気をつけてね」
 
「だいじょうぶ。せんちょおといっしょ」
 
「もう少しだ、ほらこのコロの上にゆっくり下ろせ。気をつけてな
 
 荷物の下にコロを置いてやっと店内に運び込まれた荷物は大きいだけでなくて、重さも人2、3人分もありそうに見える。船長は何を持ってきたのだろう。
 
「よし、ここらでいいだろう。梱包を解くから爺さんも手伝ってくれ」
 
「また、しっかり梱包してきたものだね」
 
「そりゃあ、そうだろ。なかなか手に入らないからな」
 
 最初、本棚かと思ったものは、開梱しはじめてみると機織り機のようにも見えた。
 
「これ、机じゃないですか?」ミリルさんが言った。
 
「ほら、これを取り付けてみろ。その大きなねじの下に。そうだ、それでいい。それがつけばわかる人にはわかる」
 
「なーに、これ?」コピもさっぱりわからないみたいだ。
 
「ああ、歴史ものの印刷機だね、これは。それもかなりの骨董品だ」
 
「さすがお目が高い。爺さんの言うとおりだ。かなり昔の印刷機だな。というか、おそらく活版印刷がはじまったころに作られたものだろう」
 
「えー、そんなに古いものなんですか?」
 
「そうともよ、こいつはなかなか手に入らないものだ。市場で知り合ったの骨董屋の納屋で偶然みつけたんだ。その場で買い取った。誰かに買われる前にな。もちろん使うには古すぎると言いくるめて破格の値段でいただきよ」
 
「それを何でここの本屋に?」
 
「こんなでかいもの置くとことなんて俺のちっぽけな住処にあると思うか? すぐに思いついたね。ここに置けばいいって」
 
「あら、今回は本の販売じゃないんですか?」
 
「そうとも言えるし、印刷機は本の素と考えれば本を売っているとも言えなくもない」
 
「すごいこじつけ...…ミリルさんが笑いながらこちらを見ている。
 
「それは冗談としてな、爺さんがいつも読みふけっている例のノート、あれを印刷しておいたほうがいんじゃないかと思ったわけよ。あれには、こういう歴史ある印刷機が似合うだろ?」
 
 船長の発想にはいつも驚かされる。あれを本にしようなんて思いもしなかった。
 
「それを、あの『青い扉に』綴じ込むんだ。そうすりゃ、世界最高の一冊ができるってわけだ。どうだ、おもしろくねぇか?」
 
「それじゃあ、物語がひとつだけになっちゃいますよ?」
ミリルさんが怪訝な顔をした。
 
「それがひとつの話になるのかどうかなんて誰にもわからないだろ? あのノートも全部がそろっているわけじゃないしな
 
 そう言われてしまうと納得せざるを得ない。ノートのすべてなんてだれにもわからない。残りのページが見つからない限りは未完の本とも言える。
 
 外で赤く錆びた運搬船が船長の話にうなづくように波に揺られてぎっしぎっしときしむ音を立てている。船長と話していると潮の流れに乗ってノートの作者の書いた物語に流れ込んで行くような気がしてきた。
 
「ノートを本にするだけじゃなくて、印刷機を使って島の新聞でも作ったらどうかとも思ったわけよ。この島の魅力をメーンランドの人にも知ってもらいたいと思ってな。こんないいところはどこの国に行ったってみつかりゃしないぜ。俺の知る限り最高の島だ。空気はいいし、見たこともない自然がたくさんあるし、時間も止まってしまうんじゃねぇかと思うほどゆっくりだ。その上、住人がみんなとびっきりのお人好しばっかりときちゃあ言うことないだろう」
 
「島の新聞をつくれということかな?」
 
「チラシか手紙のようなものでもいいな。このところのメーンランドは忙しすぎる。実際に来られなくったっていいじゃねぇか。そんなところからもらう新聞でも手紙でも読んでりゃあいっときでも忙しい時間から離れられるだろ?」
 
 そんなことは考えたこともなかった。自分たちで楽しむことだけを当たり前のように思っていたけど、神から与えられたこの島を独り占めにしてしまう理由なんてなにもない。ノートの主も仕事に忙殺された生活から離れるというのが旅の理由のひとつだったというようなことを書いていた。これもなにかの縁かもしれない。心はすぐに決まった。
 
「もちろん、そういうものをつくっていれば、ノートの残りに関連した情報が入ってくる可能性もある。どうだ、いい考えだと思わないか? 爺さんがくたばるまでにノートの謎も明らかになるってわけだ」
 
「おいおい、まだくたばるつもりはないよ」
 
「まぁ、その後は俺が引退してここに来るから心配しないでいい」
 
「まあまあ、二人でなんの話をしているんですか。それで、これはどうやって使いましょうか? よかったら私が印刷係を買って出てもいいですよ」
 
「おお、そりゃ心強いな。爺さん、話は決まった。次からは戻りの積荷もできるってことだな。売り上げの半分は店に落とすから心配しないでいい」
船長がにやりとしてこちらを見る。
 
「みんなの負担のことを考えただけで、商売なんて考えないよ。船長の話にはいつもうまく乗せられてしまうけれど、冥土の土産にちょうどいいかもしれないし」
 
「あら、オルターさんもご冗談を。そんな話ばかりしてないで早く印刷機の話を聞きましょうよ。コピちゃんがもう興味深々ですよ」
 
 今回も船長の思いもかけない掘り出し物で話がはずんだ。なんだかまた面白いことが始まりそうな気がしてきた。明日からは島を見る目も変わりそうだ。そして、持ち主だった人がメーンランドに持っていったかもしれない残りのノートのページもほんとうにみつかるかもしれない。
 
 船長の説明と試し刷りは夕方まで続いた。黒い印刷インキが夜の帳と重なって仕入のあわただしい1日が暮れていった。


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