目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
奥付
奥付

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第2話 残されたノート 

「これが、橋のたもとに浮かんでいた瓶から見つけられたノートの書き出しだよ。実際には最後に書き足したのかもしれないけどね。ノートはこの島を目指してきた若者が後世に何かを伝えるために書き残したものだね。当時のことだから、一人ではさぞやたいへんな旅だったろう。ノートは68年前にここを訪れた人がみつけたものと伝えられているけど、書かれている内容からするとそのさらに50年から100年以上前のことだと思うよ。今から200年近く前かもしれないね」

 
「ひみつがいっぱい? じっじぜんぶ見た?」
 
「少なくともここにあるものは隅々まで全部読んだよ。ただね、これは現物ではなくその一部を複写したものだから読み取れないところも多い。書き写すことさえできないところもたくさんあったらしいよ。ページの抜けもあるようだしね。それを、書いた本人が持っていってしまったのか、島のどこかに残っているのかもわからない。なにしろ200年近く前の話しだし、そのころは島の住人なんて海鳥とミドリ鮫ぐらいなものだろうから。5年前に引越していった住人が島に残しておいたほうがいいだろうということでこの写しを店に置いていってくれたのだけれど、それでなければだれの目にも触れないまま忘れられたかもしれない」
 
「ノートさん、たすかってよかった」
 
「なんでも、嵐と大潮が重なって広場にまで水が入り、水かさがひざの高さほどになったときに橋のあたりに流れ着いたそうだよ。おそらくは島のどこかに隠してあったものが、増水のせいで土といっしょに流れ出してしまったのだろうね。そのノートを借りた人が写しとったのがこれだね。ノートそのものは、いつのときか行き先がわからなくなって、今はこの写しだけが島に残ってるというわけだね」
 
「じっじのたからもの


「そうならいいがね。ときどき読み直してみてはいるけど秘密を匂わせるようなものさえ見つけられなくてね。実際のところ単なる生活の記録として書いただけなのかもしれない。コピの言うように宝物でもみつかると楽しいけどね」

 

 コピはノートの話が大好きだ。同じ話を何度も飽きずに聞いている。

 

「ノートの話はこれぐらいにして。今夜はお月様もきれいに見えそうだし、早めに店仕じまいして東浜のほうまで散歩でもしてみるかい? ミリルさんも今日はどこかに出かけるような話をしていたな。月のきれいな日ぐらい早く帰ったらどうかと話したからね」


「おなかがすいたからコピかえる。じっじもおふろでシワのおのばし」


「こら、よけいなことはいわなくていい


「あしたもくる」と言うと椅子を飛び降りた。


 コピがこの島に来たのはいつごろだったか。ある日突然店先に現れて、いきなり何してるのと聞いてきた。あまりに唐突だったので、思わず本屋に見えないかと答えると、本があんまりない本屋さんだと物怖じもしないで言ったのを今でもよく覚えている。もっとも当時は景気も悪くて本の収集も思うようにできていなかった。新しく越してきた人から読み終えた本を集めていたのが現実で、そう言われるのも仕方ないことだった。コピは見たままを言っただけだ。


 結局その日は、本が船で運ばれてくる話や、島民が読んだ本を店において、またほかの人がもっていくというような話をしただけだったと思う。おかげで、コピがどういういきさつでこの島に来たのかは聞かず仕舞いになってしまった。なにかこの島への思いがあって来たようだが詳しい事情はいまでもわからない。ここではそんなことを知ることさえあまり意味がなく、誰もそれぞれの過去について気にとめもしない。見知らぬ人がふらりと立ち寄って、顔見知りの人が突然いなくなる。いつものことだ。メーンランドに住む人からするとちょっと奇妙な近所づきあいがここでの日常なのだ。でも、その気兼ねのないつきあいが町にはない良さだと思っている。戻りたいときにいつでも帰れる場所があるのは、それがどんなところであろうといいものだろう。

 今日は湯船に入れると温まるユイローの葉をたくさん摘んできたから、灯台でゆっくり月見風呂でも楽しむことにしよう。
東の空には大きな赤い月が昇り始めていた。この島の月はユイローの花粉を含んだ大気のせいかとても赤く見える。この季節ならではの景色として昔から楽しみにする人も多い。
 今夜はその赤い月を酒の肴にじっくりとノートを読み返してみるのもいい。これを書いた先人もきっと月明かりを頼りにノートを書き綴ったのだろう。

 


第3話 旅立ちの日 *

***** ノート *****

 

 誰一人として立ち入ることのなかった、現実とも幻とも判断できない島への一人旅は、アパートを出てすぐの角地にある、食料雑貨品店ハロウズで購入した数冊のノートとともに始まりました。このお店は数ヶ月前にできたばかりで、手製のものをはじめ、地元では日ごろ目にすることのない他所の生活道具も取り揃えられていたので、以前から気になっていたところです。ノートもみたこともない皮の表紙で手漉きの紙を綴じ込んだ、ちょっとめずらしい装幀がされたものでした。もし私が消えてしまうことがあったら 、その手がかりを残すものになるかもしれないという思いもあって、旅費の多くを購入費用に当ててしまいましたが、それは正しい判断だったと思います。なぜなら、あなたが今その記録を手にし、私が存在したことを証明するものとなったのですから。

 

 近くにあるコーヒーハウスでいつものシナモンティーとパンをオーダーすると、店の常連客の一人がどちらへ?と話しかけてきました。 

 

「いや、時間を探しにですね。この前話した例のあの島です」  

 

「いよいよ出発ですか。見たこともないような時間がみつかるといいですな」

 

「どうでしょうか。あてのない旅なので」

 

「いや、きっとみつかるに違いない。こんないい日和の旅立ちなのですから心配には及びません。ましてや、東の空には透き通るような月まで浮かんでます。これは吉兆にちがいない。お土産話を楽しみに待ってますよ。そうだ、もし荷物にならなければこの携帯日時計を持っていってやってください。磁石もついているので何かの役に立つかもしれない」

 

「ありがとう。ありがとう」

 

 そして、シナモンティーを少し残して、私のあてのない時間探しの旅ははじまりました。たった1枚の地図を頼りに、南部共同鉄道と旧式の蒸気バスを乗り継いでまる2日。車中に一泊する長旅です。まだ、町が目覚める前だったので駅は人影もまばらで、眠そうな目をした駅員が改札の掃除していました。時刻表と列車を確認して寝台の車両へ乗り込みました。私のほかには数人の乗客がいただけでした。早朝から寝台夜行列車に乗るのですから、みんなかなり遠くまで出かけるのでしょう。私と同じところを目指す人もいるかしれないと思うと長旅も少し楽しみになりました。運転手が乗り込んでしばらくすると長い汽笛とともに列車はリアヌシティを後にしました。

 

 視界から遠ざかる町並みを見ていると、なぜかしら会社の同僚や友達の顔が次々に浮かんできました。新聞社に入社以来、一ヶ月もの休みを取ったことはなかったですから、なにか心に大きな空白ができるような気持ちだったのかもしれません。町が見えなくなってしまいそうなころにジギばあさんの顔も浮かんできました。じっと押し黙ったままこちらを見ていました。

 

 婆ちゃん、行ってくるからね。しっかり見守ってておくれよ。きっとたくさんのお土産をもって帰ってくるから。

 

 最初のうち車窓から見えていた家並みも徐々に少なくなり、一夜明けたころには森の間に転々と羊の放牧場が見えるだけで人影もまばらになっていました。心配していた天気のほうは崩れることもなく、いい旅のはじまりになりました。気がつくと乗り合わせた乗客の姿もなく、眠り込んでいるうちにそれぞれの目的地で降りてしまったようです。一人になってからの時間は思った以上に長く、最後の駅までの一駅だけで半日ほどもかかり、はたしてたどり着くのだろうかと心配になったほどです。到着を告げる汽笛が鳴ったときには、正直ほっとして胸をなでおろしました。

 

***** ノート *****


第4話 おくれて話す老人 *

 終点は老木の生い茂る無人駅で、赤く錆びついた小さなバスだけが私を待っていました。周辺には人の気配もなかったので、すぐに開いていたドアからバスに乗り込み、運転手に行き先を伝えました。

 

「終点のアター・リーフまでお願いします」

 

「……」

 

 

「あの、このバスは共同鉄道の運営するものですよね?」

 

 

……

 

 

「えっと、これは岩礁のほうに行くバスでいいですね?」

 

 

……

 

 

 耳が遠くて聞こえないのか、運転手からの返事は返ってきませんでした。ただ、しきりに発車時間を気にしているようでした。バスの中ほどの席に座って、これから向かう先に見えていたきれいな雲を車窓から眺めながら出発時間を待ちました。

運転手に話しかけたことも忘れ、鞄から地図を出して方角を確認していたとき、

 

「わしが個人でやってるバスでさあ……

 

「行くところはいつも同じだ……

 

 まるで今そこに戻って来たかのように、老齢の運転手は突然私に向かって話しだしました。田舎暮らしのせいでのんびりしてるのか、よく耳が聞こえなかったのか。変なずれを感じるお爺さんでした。

 

「そうさ、岩礁の方面へ行くだ」

 

 その後、運転手からの言葉もなく、バスは発車予定時刻ぴったりに駅を出ました。次の列車が来るわけでもなかったので、時間になるまで待っている必要があったのかどうか私には知る由もありませんでした。蒸気で走るバスはリアヌシティでは目にしなくなっていたこともあって、なつかしい乗り心地を楽しんでいるうちに、子供のころ母と買い物によく出かけたことを思い出しました。少し遠方まで出かけるときにはいつも名前を縫い付けたかばんを持たされたものです。実際、道に迷ってその名前だけを頼りに見知らぬ人に自宅まで送り届けてもらったことも何度かありました。母はその都度、私を叱ることなくよく帰ってきたとほめてくれました。内心は好きなところに勝手にいってしまう子供のことが心配で仕方なかったのではないかと思います。遠出をするときにはいつも母のいたころのことを思い出します。

 

 終点にはバス停とわかるものはなにもなく、うっそうとした木々に囲まれた小さな広場があるだけでした。バスが折り返すのも苦労するところだと思ったのですが、振り返るとそこにすでにバスの姿はなく、帰りの時刻も聞くこともないままに原っぱの真ん中に一人ぽつんと取り残されてしまいました。その先は交通手段もなかったので、自分の足と地図だけを頼りに歩くことになりました。

 

 バスを降りてからは人に会うこともなく、雑草に見え隠れしながら細く続く道だけが私の行く先を案内してくれました。途中、『迷い道注意』と書かれた小さな看板が道端にぽつんと立っていました。それはずいぶん昔に置かれたものらしく、鳥の休憩所にでもなっているのか上のほうは白く汚れ、行き先名のアターリーフ(ater leaf)という文字は、薄く擦れて読み取るのもやっとという状態でした。その場所は、地図にも書かれてなく、小さなサンゴ礁は染みか汚れのあとのようにも見えました。もちろん陸地の存在は確認できませんでした。上空には艶やかなエンジ色をした鳥が私を品定めするかのように円を描きながら飛んでいました。日差しも途切れがちな深い山あいを半日ほど歩いて、対岸に島があるだろうと思われる小さな入り江になんとかたどり着きました。リアヌシティーから流れているエルダ川の河口と近いのかどうかもわかりませんでした。

 

 羽のある鳥であれば島に渡るのも容易であろうに……

 何か知ることがあったら私に教えてほしい。

 

 バスを降りたのは正午を少しまわったころでしたが、この海辺にたどり着いたときにはあたりはすっかり夕闇に包まれていました。目を凝らして波音の聞こえるほうを見ると岩場の目立つ小さな入江でした。南から渡ってくる甘い潮風。海に少し突き出すようにつくられた板張りのボート乗り場。赤い塗装がすっかりはがれ落ちた埃まみれの半ば朽ちた手漕ぎボート2艘が波に揺れていました。霞の先にかすかに見える影が島だとしても、とてもそこまでも渡れるような代物とも思えず、逆に島のほうが意志を持って人の出入りを拒んでいるようにさえ感じられました。低く垂れ込めた雲のせいで、遠くを走る列車の音が幻聴のようにかすかに聞こえましたが、それ以外には草が風にさわさわと揺れるだけで、星も見えない漆黒の闇と静寂が私を包み込んでいました。

 

 缶切り、髭剃り、インク瓶、蝋燭、スプーン、ナイフ、火おこし...思いつく限りの生活用品を詰め込んだザックは今にもひとつ残らず吐き出してしまいそうなほどに膨らんでいました。長い道のりでへとへとになっていた私は、荷物を下ろすとすぐに崩れかけた屋根の漁師小屋跡に近くにあった草を敷き詰めて寝床をつくりました。そして、横になるとすぐに疲れのせいか意識が朦朧としはじめ、周囲の様子もなにもわからないままに泥のように寝込んでしまいました。真夜中を過ぎたころに空腹感でうとうとしましたが、やさしく頬をなでる心地よい風に誘われ、深くいつまでも続く夢の世界にすぐに戻ってしまいました。夢の中ではあの緑鮫が現れて私を向かい入れてくれました。どこまでも永遠に続く無限の闇の先に落ちてしまうような、後にも先にもない一夜でした。 


第5話 青い猫 *

 時間が止まるときに人は眠り、目覚めに新しい世界がはじまる。
 
 朝の日差しに目を覚ますとあたりは深い霧におおわれ、遠くで長く響く海鳥の声がかすかに聞こえるだけでした。昨日漁師小屋に見えたところも、木々が折り重なっているだけで、人が手を入れて作られたものではありませんでした。岩礁も浜の一部でしかなく、多くは砂地が広がっている小さな浜でした。想像していた風景とのあまりの変わりように違うところに来てしまったような錯覚さえ覚えるほどでした。
 早速コッヘルに携帯食として持参した飛び豆を入れ火を通し、少し塩味を付けて朝食を済ませました。昨夜みつけたボートのほうを見ると、残っていたのは1艘だけで残りの1艘は消えていました。深夜に乗る人もないでしょうから、波に流されてしまったのかもしれません。途中で見つけたらいっしょに島へ運んだほうがいいかもしれないと思いながらも、こちら側から島に渡る手立てがなくなるのが心配でもありました。みつけたらやはり一度戻ることにしようと考えながら船に荷物を積み込みました。ボートは職人がつくったようなものではなく、筏よりはましという程度のものでしたから、まっすぐ座ることさえもむずかしく、座る横木も半分は折れ曲がっていました。床の隙間からは水草のようなものが見え隠れしていましたから、はたしてこれで島まで無事に渡れるのか心もとなく思いましたが、ほかに方法もないようなのでボートを沖に押し出し心を決めて乗り込みました。
 
 透き通った水は少し冷たかったもののそれほど深くなく、場所によっては海の底に足が届くようなところも多くあったので、島までたどり着けないかもしれないという不安はすぐに消えました。1本の舵と破れかけた帆の小さな船はゆっくりと沖に向けてすべり出して行きました。中世の宗教画のような色合いの水底を眺めながら30分も進むと、昨日かすかに確認できた島影が見えてきました。よくよく見ると、思った以上に大きな島でしたが、高台と思っていたのは、木々の影が作ったもので、実際にはほとんど起伏のないところのようでした。島というよりも岩礁に近いといったほうがいいのかもしれません。島のまわりの水が飛び跳ねているように見えたのは、光る小さな魚が羽虫を捕食しているためでした。この魚を追いかけてミドリ鮫が集まるのかもしれないと考えると、ゆるりと動く世界にいよいよ足を踏み入れるという気持ちの高ぶりは抑えられなくなっていました。
 
 光りの粒が水面をはねるとき、新しい時間が静かに幕を開く
 
 
***** ノート *****
 
ゆるりと動く時間……ゆるりと動く…… ゆるり……    ノートの写しを読み返しているうちにちょっとうとうとしてしまった。満月が東の浜に登っている。ノートを書いた主がこの島に来た数百年前にも同じ月が見えただろうか。ユイローの葉をバスタブに浮かべ、岬に打ち寄せる波音を聞いているうちに睡魔が忍び寄ってくる。どうもユイローには催眠効果のある何かが含まれているようだ。多用しすぎるのもよくないかもしれない。コピのような子供にはあまりすすめられない薬草だ。ノーキョさんに話しておいたほうがいいかもしれない。
 
 入口あたりでことんという音がしたので目を凝らしてみると、黒猫のインクが忍足で近づいてきた。気まぐれで姿を見せないことも多い子だけど、長く暮らす住人からは愛されている。インクのほうも自分に気に掛けてくれる人をわかっているようで、そういう人が来たときにはどこからともなく現れるようだ。消えた灯台守の生まれ変わりだと言う人までいるけど、たまたまここに住みついただけのことだろう。ここなら海がしけたあとには打ち上げられた海の幸がたらふく食べられる。猫の一人暮らしにはちょうどいい住み心地なのだと思う。
 
 名前のない猫ではかわいそうだと思い、青みがかった黒の毛がめずらしかったのでインクという名前をつけてやった。もちろん私の愛用するペル社のブルーブラックのインクをイメージしてつけた名前だ。今では島のみんなにもインクの愛称で可愛がられている。住人の仲間入りができてうれしいだろう。身体を摺り寄せてくるので、今夜は朝までつきあってくれるのかなと聞いてみると、なにも聞こえないそぶりで燈火台のほうへ上って行ってしまった。まるで燈台守気取りのようだ。
 
 その昔、この灯台を守る一人の男がいたという。今の住人の中にその男と実際にあったことのある人はいない。灯台の横にある石柱は彼のために立てられたとも言われるが、その真偽も定かではない。この島はあちらこちらに昔のできごとと結びつけたと思われる逸話が残っている。語り継がれるにはそれなりの理由もあったのだろう。この灯台は新しく建て直されて今は電気の灯火になっているけど、それ以前はオイルに火を灯す方式の赤いレンガの小さい灯台だった。そこに燈台守がいたとしても不思議な話ではない。彼が去ったと言われる東の方角には今夜も赤い月が上っている。
 
 コピと話していたら遅くなってしまった。今日は月見の散歩はあきらめてこのままここで休むことにしよう。だれのものでもない灯台は、私が実質的に管理しているようなものなのでとがめられることもない。

第6話 お店番

 灯台の朝は早い。朝日が上る早朝から南西のやわらかい潮風が吹いてくるので、おだやかな目覚めが迎えられる。窓から外に目を向けると水平線に薄い雲がかかっている。今日も透き通った空気でいっぱいの1日になりそうだ。

 昨日読みかけのままにしていたノートを引き出しに片付ける。大切なものをなくしては大変だ。島の歴史ともいえるこの写しは、島の中で一番見晴らしのいい場所にあるこの灯台に置いておくのがふさわしい。実際、ノートの主も、少し高台になっていて増水時の心配もないこの場所を好んだようだ。南方から流れ込む暖かな海流もあって、灯台に続く道には季節ごとにさまざまな草花が咲き乱れる。住人の散歩道としても親しまれているこの場所に保管しておくのがいい。


 島はメーンランドからは南方に位置しているので冬の一時期を除けば、年間を通じて過ごしやすい。この地のスピードの遅さに馴染んでしまい、観光のつもりがそのまま居つくことになってしまったという人も多くいる。メーンランドから遠くさえなければ、もっとたくさんの人が住んでいてもなんら不思議ではないところだ。ただ、列車もなく、月に数度の船便しかないから今でも少数の住人が住むだけで、手つかずの自然があちらこちらに残っている。海で閉ざされていることも手伝って内陸とは異なった特異な自然環境がそのまま残されている。そして、乗り物
を使うこともなくほとんど歩いて回れてしまうほどに島は小さい。


 気がつくとインクが近づいてきた。ふらりと現れて、いたと思うといつのまにか消えてしまう。この子がいると寂しくなることもないし、かといってじゃまをするわけでもないので、灯台は私が一人の時間をすごすのにちょうどいい書斎代わりになっている。そして、ここにいると不思議と気持ちが穏やかになる。できることなら住み着いてしまいたいけれど、みんなが楽しみに訪れるところと思うとそうもいかない。


「こん、こん。おはようございます。あら、インクもいたのね。おはよう。さては、二人でまた、ここで寝ちゃいましたね。いい夢が見られましたか」

「おはよう、ミリルさん。今日はいつになく早いですね」

「昨日少し早く帰らせてもらったので、今朝は早起きしてエモカさんのお店でパンを買ってきました。このパンは一ヶ月も発酵させてから焼いたものだからとてもおいしいそうですよ。最近この島でみつけた酵母で、発酵にとても時間がかかるんだとか。でも、その分とてもおいしいパンになるんだそうです。よかったら少しいかがですか」

「それはいい。いままでのパンとどう違うのか試してみたいですね」

「では、このロールパンをおひとつどうぞ。きっとお気に召すと思いますよ。私もエモカさんのお店でいただいてきたんですけど、あまりのおいしさにびっくりですよ」

 島にある食料品店というとエモカさんのお店だけで、もともと自家用に作って友達に配っていたのがあまりに評判がいいので、島の住民にもおすそ分けしているということらしい。エモカさんはお返しはいらないと言ってだれからも何も受け取らないから、お店とは言えないのかもしれない。そんなエモカさんのやさしさがうれしい。

「ほんとだ、これはおいしい。普通のパンよりずっとやわらかくて雲を食べているようだね。みんなが喜ぶのもわかりますね」

「そうなんです。ほんとうにふわふわしていて、食べるだけで幸せな気持ちになれます。
よければもうひとついかがですか? 遠慮なくどうぞ」袋の中には、2つ3つ入っているようだった。

「そんなにいただいてしまうと、ミリルさんの朝食がなくなってしまうから、また次の機会に私の分もお願いしていいですか。この発酵に時間のかかったというパンをお願いします」

「わかりました。じゃあ、一度家に戻りますね。10時にはお店に出られると思うので」

「そうだ、そろそろ今日あたりには船長の定期船も着きそうですね。お昼過ぎには私も行きます。新しい本が来る前でお客さんも少ないでしょうからミリルさんも午後からでいいですよ」

「あら、私が本屋さんにいるのが好きなのを知ってるのに。お気遣いは無用ですよ。では、また後ほど」

 パンの包みを両手に持って、灯台を出て行くミリルさんの後ろ姿をインクがじっと見ている。そうか、インクも食べたかったのか。気がつかないでかわいそうなことをしたな。次にいただいたときにはお前にも残しておくよ。

 今日は一ヶ月に一度の楽しい入荷日。天候さえよければ定期の船便で本が届く日になっている。このところ景気がいいせいかメーンランドの市場がにぎわっているらしく、新しいもの、古いもの、さまざまな時代のものが入荷しやすくなっている。今回もめずらしい本ががたくさんあるといいのだが、それも船商人のダルビー船長の目利きにかかっている。船長の選書はいつもおもしろいので店をはじめて以来ずっと頼りっきりだ。これまで期待を裏切られたことが一度もなくて感心するばかりだ。

 店主の私のほうはというと、お店、お店と言いながら、実際には留守にすることが多く、どこか日当たりのいい場所をさがして本を読んでいることがほとんど。いつが定休日なのかもわからないとよく言われる。もちろん私が島にいる限り定休日はなくて、問題は本をいったいいつなら買えるのかということなのだろう。私のほうも、狭いこの島で本を勝手に持ち出すような住人もいないと思うからはっきりした返事もしないままにする。お客さんは仕方なしに、それぞれに店内の本を適当にみつくろっては椅子に腰掛けてページをめくっているということになる。店で本の話をするのもいいし、中には本を顔にのせたまま昼寝をしている人もいるぐらいだから、私設図書館といったほうが言い得ているのかもしれない。仮に販売収入を得たところで、この島では使い道もない。

 そんな本屋に、草花が好きだと言ってよく島に通っていた女性が訪ねて来てお店の留守番をさせてもらえないかと言ってきた。もともと売る気もないような店なので、お客さんも少ないということを伝えてはみたけど、それでもいいからということで聞いてくれない。私のほうもいいかげんなもので、お給料もなしでよいのであればどうぞご自由にということでお店番が決まってしまった。それ以来ミリルさんのお店と思う人が多くいる。はじめてのお客さんが来るたびに、店に出てこない爺さんが店主だと説明するのもさぞやめんどうだろうと思うけど、それでも本屋にいるのは楽しいらしい。
 
 待ち遠しい仕入の日は、私にとって月で唯一の本屋らしい仕事をする日になる。


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