目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
奥付
奥付

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第36話 夢想

 小屋に戻ると、ジノ婆さんは出る前と同じようにこんこんと眠ったままだった。ジノ婆さんは冬眠すると言われても、はいはいと信じられるような話ではない。それがコノンさんの言葉であったとしてもだ。目の前で寝たきりのジノ婆さんを見ると心配な気持ちはさらに増すことになった。

 

「コノンさん、だいじょうぶなのですか?」

 

 コノンさんはジノ婆さんに目を向けたまま小さくうなづいた。これまでと同じように目覚めの時を待っているのか。

 

「熱もないですし」

 

 人は死ぬときには熱を出さないのではないかとも思うけれど、この場合は熱のないのがほんとうに良いことなのだろうか。いざという時、この村には医者はいるのかも心配になってくる。いないのは健康で長寿である証だなど言ってられない。

 

「ジノ婆さんは、いつまで眠ているのでしょうか?」

 

「1日のときもあれば、一週間のことも」

 

 そうか、冬眠と言っても数ヶ月も寝るわけではないのだ、冬眠自体が自分の勝手な思い込みだとわかって少し気が楽になった。人は7時間しか寝られないというのも決めつけかもしれないし、ひどく疲れると24時間ぐらいなら寝てしまうこともある。ジノ婆さんがよく寝るのは特殊な代謝のせいで、そのおかげで寿命が伸びているとしたらわからない話でもない。余分なエネルギーを使わなければ、通常の数倍も寿命が延びるということだ。考えてみるとコノンさんのお祖父さんやお祖母さんも時間さえあれば寝ている。寿命を細く長くすることは村の生き方そのものかもしれない。余分な力を使わず、ゆったりした時間にあわせれば、身体に余計な負担もかからず、消耗を最小限にできるのだろう。

 

 閉じられた小さな小屋の中でそんなことをつらつら考えていると、それまでまったく動かなかったジノ婆さんが不意に寝返りを打った。

 

「ううう、どこに……いる……の、か」

 

「どこにいるのかと言いましたよ、ジノ婆さん」コノンさんの顔色を伺った。

 

「いつもなんです」

 

 ただ、何を探しているかはわからない。誰を待っているのかもわからないと。

 

「ジノ婆さんが帰りを待っているという人でしょうか」

 

「私はそう思うのですけど……」

 

 旧宅に置かれていた花を思い出した。ジノ婆さんは村を出て生き別れになったままの誰かをずっと待っているのだろう。きっとそれは冬眠の間も忘れることができないほどに大切な記憶なのだ。

 

「オルターさんは意識のなかったときはどうでした?」

 

 一瞬なんのことを言われているのかわからなかった。

 

「あの時も数日間お目覚めにならなかったですよ」

 

 そうか、この状態は自分が湖畔で意識を失ったときと同じということを言っているのだ。コノンさんに言われてはじめて、ジノ婆さんも意識世界に行っているのかもしれないと疑い始めた。もしかすると、向こうの世界にいる誰かを探しているのだろうか。それがノート氏だとしたら、いやナーシュさんかもしれない。それとも若い時に生き別れた人だろうか。

 

「あの、私もあの時何かうわ言を言ってましたか」

 

 コノンさんは微笑みながら何も聞いてないと言った。

 

 意識世界は夢の世界と何が違うのだろうか。ジノ婆さんが夢占いでお告げと伝える巫女だとしたら、寝るのが商売ということだ。夢を見るように意識世界を行き来する術を知っているのだろうか。いずれにしても、ジノ婆さんが起きないことにはすべては推測の話だし、無事に起きてはじめて、何日も寝る話の信ぴょう性を得られるというものだ。

 

 しばらくジノ婆さんの様子を見守っていたが、うわ言のあとはまた死んだように身じろぎもせず、眠りの淵に沈み込んで行った。

 

「コノンさんも、長く寝たことはありますか」

 

「昨日は久しぶりに」

 

 それは、そうだ。家族の家の手伝いを考えればゆっくり寝てなどいられないのはわかりきったことだった。疲れて寝ていれば夢を見ることもないだろう。

 

「想像することはあります」

 

「寝ていることをですか」

 

「あ、そうではなく、起きている時に夢をみるというか。子供たちとどこか幸せな土地へ移り住むような」

 

 コノンさんが言っているのは、寝ているときの夢ではなく、目覚めている時に夢をいろいろ考えるという話しだった。寝ているときの夢と起きているときの夢想がつかず離れず形になっていくようななんとも言えない気分になった。ジノ婆さんの見た夢は明日起こることを予見することになるのだろうか。


第37話 二匹の猫 

 ジノ婆さんの様態を見ながら1、2時間が過ぎただろうか。

 

「コノンか?」

 

 ジノ婆さんは何事もなかったように静かに目覚めた。

 

「雪たいへんだったね。寒くなかった?」コノンさんが聞いた。

 

「ふほほ、なんのことはない。これもノイヤールの思し召しだ」

 

 こちらの心配を知る由もなく、まるで課されたものか、天の恵みでもあるかのような口ぶりだ。過去の洪水を経験してきた身からすれば恐るに足らずというところなのだろうか。コノンさんの言うとおり心配は取り越し苦労だったようだ。

 

 コノンさんがいるとジノ婆さんが饒舌なのにちょっと驚いた。知らない人間が来た時と大違いだ。

 

「うぬは?」

 

 ベッドから身体を起こしながら、不吉なものを避けるような目で見られた。前回来たことを覚えていないのか、話をしてないのであらためて確認されているのかはわからない。

 

「オルターと申します。今日は、コノンさんとユイローを……」

 

「ユイロー……か」

 

 そう言うと、事情がわかったとでもいうように首を左右に振りながら頭を下げた。寝覚めた直後でまだ意識が不安定なのかもしれない。それでも、コノンさんのおかげで警戒心が少しずつ解かれていくのがわかる。

 

 お茶を入れると言いながらコノンさんが立ち上がった。そちらに目を向けると窓の外にノイヤール湖の水面のきらめきが見えた。まだ、氷の張っているところも多いだろうけど、あの下にドットトラウトが息を潜めているかと思うとどうにも気持ちが落ち着かなくなる。意識を失いそうな予兆を感じるわけではないけれど、ジノ婆さんの目覚めを見たことで、その入口が大きく口を開けているように思えなくもない。

 

 そんなことをつらつら考えていると唐突に「なにも、心配はない」と独り言のようにジノ婆さんが言った。雪のことを言っているようにも、意識世界へ落ち込む恐れのことを言っているようにも聞こえた。表情を読まれたのだろうかとも思ったけれど、すぐに目が不自由なことを思い出した。

 

  ジノ婆さんはベッドから起き上がると、手探りで椅子を探しゆっくりと腰掛けた。

 

「どこからか」

 

 多少なりともこちらを気にしてくれているようだ。悪いことではない。

 

「ウォーターランドという南の島から来ました。灯台がある小さな島です。うたた寝のできる本屋をやっています」

 

 ジノ婆さんは天を仰ぎ、しばらく考え事をするように押し黙ってしまった。なにか気に障ることでも言ったのではないかと、自分の言ったことを反芻してみたが、嫌な気分になるようなことは言っていない。気持ちを落ちつかせて次の言葉を待ったが、二人向かい合って座っているうちに間が持たなくなってしまった。場つなぎと思い横にいた猫の話をしてみた。

 

「猫がいるんですね」

 

「気まぐれな居候よ」ジノ婆さんが足元にいた猫を撫でながら言った。

 

 気まぐれ……猫はいつでもそうだ。ジノ婆さんにも飼っているという意識はなさそうだ。勝手に居着いただけなのだろう。それにしても見れば見るほどにインクと瓜二つだ。名前を聞いてみたけれどないという。猫のほうはそれを知ってか知らずか、飼い主でもないジノ婆さんに身体を押し付けている。もしやと思いインクと呼んでみると、ゆっくりと歩み寄って来た。近くまで来たところでくるりと背を向けて座った。その瞬間ウォーターランドの灯台に戻ったような錯覚にとらわれた。ウォーターランドとオールドリアヌは遠い、そのふたつの点を結ぶように同じ色の猫が居ついている。青い色の艶っぽくなめらかな毛並みだけが真実を物語っているかのように目を捕らえて離さない。

 

 それを見ていたコノンさんが、オルターさんはともだちみたいですねと言った。インクであれば、間違いなく友達なのだけれど、この離れた土地にいる猫なのだからそうとも言えない。

 

 ジノ婆さんは無表情のまま、猫のほうを見ている。ジノ婆さんにつかず離れず寄り添い生活する猫は妙に存在感を感じさせるけれど、それを感じているのは自分だけなのだろうか。

 

「ふほほほ、近いな」

 

 ジノ婆さんが猫に話しかけるかのように言った。あえて聞き手に判断をまかせるような言い回しをしているのか、何かの確信をもって言っているのか判然としない。洪水が近いと言っているのだろうか、あるいは意識世界が近いと言っているのか。それとも単に猫との距離か。それを質問しようとしても、心を見透かされているような気がして言葉が出てこない。近いという言葉が時間と距離の両方を言い表しているのだとしたら、時空を超えているなにかともとれる。いや、たぶんジノ婆さんはそのことを言っているに違いない。きっと、それをわかるかどうかを試されているのだ。気がつくとジノ婆さんの世界に取り込まれているような気がしてきた。これが村を守ってきたジノ婆さんの力ということか。

 

 

 ジノ婆さんに心を読まれているような感覚を感じているうちに、リアヌシティのライブラインもこういうコミュニュケーションになっているのかもしれないと思いだした。しゃべらずともわかり、感情さえもコントロールされる世界はあるのかもしれない。

 

 ジノ婆さんの膝の上ではインクに似た猫が喉を鳴らしている。二匹の青い猫は遠くて近い一匹の猫ではないかと考えると、背筋を冷たいものが走るのを感じた。インクは赤い灯台にもいたはずだ。世界が二重、三重に重なって見え始めた。

 


第38話 水の声

 コノンさんが淹れたてのお茶を進めてくれた。ジノ婆さんの話しに気を取られて寒さすら忘れていた。おいしいですねというと、カルミーナティだと教えてくれた。このお茶を飲むときはいつもノートのことを思い出す。あのノートが何を教えてくれようとしたのか未だにはっきりしない。それでも、何かが少しずつではあるけど解きほぐされていくのは感じられる。はたしてジノ婆さんはその答えを持っているのだろうか。鍵を握っているのはナーシュさんではないのだろうか。ゆるりと動く時間を追ったノートさんはいったい何を見たのだろうか。モザイクのように散り散りになった世界の記憶が一枚の絵になるときは来るのだろうか。

 

 コノンさんも戻り、お茶の飲んで落ち着いたところで、洪水の話を切り出してみた。

 

「洪水はまた来ますか?」

 

 ジノ婆さんは答える気がないように見えた。

 

「聞こえないか」

 

 そう言うと、耳を澄ませるような仕草をした。こちらにもそれを促した。

 

「水の声が聞こえただろう」

 

 ジノ婆さんの表情がにやりと緩んだように見えたが、こちらにはなにも聞こえない。聞こえるのは湖畔に寄せる水音ぐらいだ。それを水の声と言っているのであれば、だれもが耳にしている水音と変わりない。

 

「ジノ婆には聞こえるらしいです」とコノンさんが言った。

 

「地の底の水が、呻き、ドットのざわめきを受け止めておるだろう」

 

 ドットという言葉に驚いた。コピに以前どこから来たのか聞いたときにドットがいる場所と言ったはずだ。これは偶然の一致だろうか。

 

「ドットというのは?」

 

「ノイヤールに自分で感じるものじゃ」

 

 そういうと目を閉じて、また静寂が訪れた。瞑想をしているような静かな時間が過ぎていく。心を湖に集中すると水の声が聞こえるのだろうか。その先にあるドットというのは水の神のようなものを言っているのかもしれない。自分の知らない世界が開けていくような気がした。そのとき、ポケットの中にユロミが入っているのを思い出した。指先でいくつかのユロミを潰すとユイローの香りが微かに漂った。しばらくすると、意識の中にドットトラウトの群れが押し寄せてくるのを感じた。もしここで意識世界に行ってしまったとしても、目の前にはジノ婆さんがいる。そう思うとなぜかしら不安な気持ちは払拭される。必ず戻ってこられるはずだ。自分の意思で意識世界に行くことができるのだろうか。すべての条件は整っているように思う。

 

 閉じたまぶたを通してノイヤール湖が輝きを増してきているのがわかる、それに合わせるように座っているはずの椅子の感触がなくなっていく。すべての音が意識世界に吸い取られていくようだ。輝きが立ち上がり天を目指し始めているのがわかる。目を開こうとしても力が抜けてしまって思うようにならない。前に座っているのがジノ婆さんかどうかもわからなくなってきた。その身体が陽炎のように揺れている。顔が笑っているように見える。ジノ婆さんからはどう見えているのだろう。コノンさんの気配はすでに消えてしまった。時間が徐々にスピードを落とし始めた。水の音の繰り返しが緩慢になっていく。しばらくするとどこからか漆黒の闇が迫ってきているのがわかった。その先にはミドリ鮫が待っているはずだ。

 

「会いたいか……ぶくぶく……そこに……」

 

 闇の中からまたあの声が聞こえた。間違いなく意識世界に入ろうとしている。それも自分の意思でだ。ノイヤール湖、ユロミ、それと……ドットトラウト……。もしかすると、そこがフォントリアではないのかと思った瞬間に、六角錐が弾け飛び、無数のミドリ鮫がその隙間を縫うように乱舞するのが見えた。自分の六角錐はまだない。それでも現実世界に戻ってきている。オルターではない自分がつくった六角錐があるはず。私は誰なのだろうか。

 


第39話 時間の重さ

 散りばめられた六角錐が浮遊する境界域を潜り抜け、ミドリ鮫が先を争うように泳ぎ去ってしまうと闇に閉ざされた世界が徐々に明けていく。身体の自由は効かないから、何者かの意思か法則にまかせて導かれていくだけだ。行先になんらかの理由があるのかどうかさえもわからない。しばらくすると微かな水音が聞こえてきた。ノイヤール湖の水音とは違う波長だ。目を開けた世界が自分の知っている場所であることを祈りたい気持ちになる。

 

 耳元で水音が聞こえていても、身体の自由はすぐには戻ってこない。呼吸を整えてまぶたを開くことに神経を集中させる。かろうじて視界に捉えることができたのは少し離れたところに佇む灯台だった。ただ、それは赤い灯台のほうで、自分が暮らすウォーターランドにある白い灯台ではなかった。ノルシーさんもミリルさんも信じてくれない赤い灯台が目の前にある。ここはいったいどこなのだろうかとあらためて思う。ここでの唯一の構造物と言える灯台を凝視して見るものの、前に来た時と同じようであり、違うようでもあり記憶ははっきりしない。海のほうに目を向けても大海原が広がるだけで、そこにミドリ鮫が見えるわけでもなかった。

 

 現実と意識世界の行き来には身体に相応の負荷がかかる。力を込めてやっとの思いで立ち上がった。冬眠からジノ婆さんが目覚めたときを追体験しているような気分だ。もしジノ婆さんの冬眠の時の行き先もここであったならどれほどすばらしいかと思う。同じ世界を共有できる人がいればこれほど心強いことはない。もちろん前に来た時に気配を感じたノート氏がどこかにいるのではないかという期待もなくはないけれど、現実世界で会ったこともない人がいるのを想像するのはなかなかむずかしい。

 

 しばらくするうちに、防寒の服を着ているのに暑くも寒くもないことに気がついた。見た目の気候は春のように見えなくないけれど、気温や気候をまったく感じられない。以前来た時もそうだったのだろうか。夢には色はないという話があるけれど、この世界には色はあるけど温度というものがない。暑くも寒くもないし、暖かくも冷たくもない。まるで環境を受け止めるための感覚がなくなってしまったように感じられる。自分の身体に触れてもまるで死者のように体温を感じられない。色のない夢の世界と気温のない意識世界という違いは考えられるのだろうか。うまくするとそれが夢と意識世界の違いを見極める手立てになるのかもしれないと思った。

 

 灯台を起点にした地形をみると、どう見てもウォーターランドにそっくりだ。平坦で今にも海に水没しそうなほど低い地形で、島中が緑に覆われている。少し歩いていると、そこかしこにユイローがあることに気がついた。というより、島中にユイローがあるというほうが正しいかも知れない。そう思うと島全体がユロミの匂いに包まれているような気さえしてくる。人の気配か動物の気配はないか、その痕跡を探してみるものの手がかりになるようなものを見つけることはできなかった。記憶と同じように立ち去る時にすべて消し去ったかのようだ。なにも持ち込めず、なにも持ち出せない、そんな気配すら感じた。誰もいないし、何もないことに焦燥感を感じていたとき、灯台にノートがあったことを思い出し、そこでインクに会った記憶が蘇ってきた。あのとき感じた人の気配は、やはりノート氏ではなかったのかという期待が募る。

 

 その後、急いで灯台のほうに向かった。そうしないと、ノートも消えてしまうのではないかと思えたのだ。悪くすると灯台さえもがなくなるのではないかという予感もしてきた。走っていると、灯台がかすかに振動しはじめた。それと同時にその後ろに隠れるようにして白い灯台があるのが見え始めた。灯台が二重写しになっているかのような不安定な視界に足が空回りしてくる。地面を蹴っているはずが、思うように前に進まない。何かが灯台を遠ざけているように感じる。足を緩めると、後ろに引き戻されていくような強迫観念を感じた。ウォーターランドにはない力を感じるのは気のせいか。時間そのものに重力がかかっているような妙な重さを感じる。まるで時間が膨大なエネルギーを溜め込んでうねっているようだ。前回ここに来たときにはこれほどの違和感は感じなかった。時間に手で触れられる物ののような存在感を感じたのは初めてかも知れない。

 

 疲れてその場にへたり込み、乾いた喉を潤そうと川から水をすくおうとしたときに、また自分ではない顔が水面に写った。それもそこにいるのは前とも違う人間だった。予想はしていたものの、この世界には自分さえもなく、自分であることの理由を見失ってしまいそうだ。形あるものはすべて変わるとでも言われているような不安定な感覚に襲われる。意識の世界だからそういうものだと思いながらも、自分であることのよりどころがなくなっていくことの恐怖感は想像を超える。自分の意識が揺らいでいることの結果としてこの世界の自分の姿が移ろっている気さえしてくる。

 

 悲観的な気持ちが頭をもたげると、そもそもこの世界に来ることの意味や目的すらもよくわからなくなってくる。もしジノ婆さんもここに来ているとしたら、ここで何をするというのだろう。コピのいうドットのいる場所がここだとしたら、ますますこの場所の意味がとらえどころのないものになってくる。眠っているときに見る夢には結論がないままに延々と続く徒労感があるのと同じように、この世界もどこにもたどり着かないのではないかという思いもぬぐえない。なにも起こらず、何もはじまらない、ただあるだけの世界だとしたら、意味も目的も無用となってしまうのだろうか。


第40話 増えたページ *

 深い呼吸を繰り返し、少し気持ちを落ち着かせたところで、ゆっくりと一歩一歩を確かめるようにして灯台に向けて歩いた。ゆっくりであれば、引き戻されそうな力は感じなかった。30分ほどかけて灯台までなんとかたどり着き、文字はかなり見えにくくはなっているものの前と同じSODA YEAHAVEと書かれた六角錐があるのも確かめられた。前と同じ場所の証と思ってまちがいない。これさえあればノイヤール湖にも帰れるという安心を得られる。たとえそれが自分の名前でなくてもと自分に言い聞かせる。ドアを開くと、机の上にノートがあるのが見えた。その瞬間に全身の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。唯一のよりどころは消えてなかった。

 

 ノートを開き、しばらくめくっていくとこれまで目にしたことのない記述があることに気がついた。驚くことにそのひとつがこの島でも洪水が起きたというものだった。

 

***** ノート *****

 

この数日は海から溢れるように湧き出した水ですっかり島は水没してしまいました。大海原に灯台だけがかろうじて海面に姿を残すという恐ろしい体験でした。満月の時期ではあったのですが、満潮になるよりもさらに水面が上がるということが私の知識の範囲を超えて起きたことにただただ驚くばかりでした。その水が引いたあとには前となにも変わらない島が戻ってきて、水没した跡形さえもなくなってしまいました。それはまるですべての増水した水が一瞬にして蒸発してしまったようです。水の中に見えていたたくさんの魚影も幻だったかのように、一匹の魚も打ち上げられることなく消え去っていました。

 

***** ノート *****

 

 現実世界と同じようなタイミングで洪水の記述が現れたことが不可思議に思えた。このノートがいつ書かれたものかはわからない。この場所では今がいつなのかということは重要ではないのだろうか。なによりも書いたその人が今どこにいるのかがわからない。

 

 そして、もうひとつの新しい記述は、気まぐれと話をしたという内容だった。詳しいことは書かれていないけれど、何かの会話を交わしたのは間違いなさそうだ。これを読んだときに、インクのことが頭をよぎった。ジノ婆さんのように猫を気まぐれなやつと呼んでいたのではないだろうか。それにしても猫が口を聞いたとなるといよいよ何が起きたのかわからなくなる。詳しく書かれていないのは、それがあまありにも常識をはずれていることのため、ノート氏も常軌を逸したと思われる危険を感じたのかもしれない。実際、孤島に一人でいることの精神的なストレスの影響がなかったとは言えない。彼が楽園と思った島が徐々に心の負担になっていったということはなかっただろうか。

 

 現実世界と関係するような出来事がこの世界でもノートに書かれている。まるで現実の記憶を組み直した夢でも見ているような気持ちになる。前回は恐怖に襲われ時間をかけてじっくり見られなかったので見落とした可能性はあるけれど、誰かによって加筆されたのではないかという疑念は拭えない。ノートが書き終えられてないのか、あるいは消えていたページが現れたのか。いずれにしても完全なノートではないことは間違いなさそうだ。ウォーターランドのノートもその一部を大水の際に失ったと聞いている。そしてこの地では今新しいページを目にしている。完全なノートというのは存在しないのかもしれない。そのとき、前回自分が書き残したページがここにはないことに気がついた。少なくともこの世界では常に存在するということ自体が常態ではないと考えたほうがよさそうだ。それにしても自分自身の顔も含めて絶対なものがないということはどういうことか。この世界では自分探しどころか、今の自分すら誰だがわからなくなってしまいそうだ。自分を自分と言えるのはなぜかさえわからない。

 

 ノートを読み終わり外に出ると景色が霞んでいて、淡くぼんやりとウォーターランドの建物が見えていた。ユイローの中を走っているコピの姿が見える。少し向こうにはダルビー船長の舟も停泊している。その景色は風に吹かれるようにゆらゆらと揺れて霧散していく。その後はもとのなにもない島に戻ってしまった。 

 



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