目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
奥付
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第38話 水の声

 コノンさんが淹れたてのお茶を進めてくれた。ジノ婆さんの話しに気を取られて寒さすら忘れていた。おいしいですねというと、カルミーナティだと教えてくれた。このお茶を飲むときはいつもノートのことを思い出す。あのノートが何を教えてくれようとしたのか未だにはっきりしない。それでも、何かが少しずつではあるけど解きほぐされていくのは感じられる。はたしてジノ婆さんはその答えを持っているのだろうか。鍵を握っているのはナーシュさんではないのだろうか。ゆるりと動く時間を追ったノートさんはいったい何を見たのだろうか。モザイクのように散り散りになった世界の記憶が一枚の絵になるときは来るのだろうか。

 

 コノンさんも戻り、お茶の飲んで落ち着いたところで、洪水の話を切り出してみた。

 

「洪水はまた来ますか?」

 

 ジノ婆さんは答える気がないように見えた。

 

「聞こえないか」

 

 そう言うと、耳を澄ませるような仕草をした。こちらにもそれを促した。

 

「水の声が聞こえただろう」

 

 ジノ婆さんの表情がにやりと緩んだように見えたが、こちらにはなにも聞こえない。聞こえるのは湖畔に寄せる水音ぐらいだ。それを水の声と言っているのであれば、だれもが耳にしている水音と変わりない。

 

「ジノ婆には聞こえるらしいです」とコノンさんが言った。

 

「地の底の水が、呻き、ドットのざわめきを受け止めておるだろう」

 

 ドットという言葉に驚いた。コピに以前どこから来たのか聞いたときにドットがいる場所と言ったはずだ。これは偶然の一致だろうか。

 

「ドットというのは?」

 

「ノイヤールに自分で感じるものじゃ」

 

 そういうと目を閉じて、また静寂が訪れた。瞑想をしているような静かな時間が過ぎていく。心を湖に集中すると水の声が聞こえるのだろうか。その先にあるドットというのは水の神のようなものを言っているのかもしれない。自分の知らない世界が開けていくような気がした。そのとき、ポケットの中にユロミが入っているのを思い出した。指先でいくつかのユロミを潰すとユイローの香りが微かに漂った。しばらくすると、意識の中にドットトラウトの群れが押し寄せてくるのを感じた。もしここで意識世界に行ってしまったとしても、目の前にはジノ婆さんがいる。そう思うとなぜかしら不安な気持ちは払拭される。必ず戻ってこられるはずだ。自分の意思で意識世界に行くことができるのだろうか。すべての条件は整っているように思う。

 

 閉じたまぶたを通してノイヤール湖が輝きを増してきているのがわかる、それに合わせるように座っているはずの椅子の感触がなくなっていく。すべての音が意識世界に吸い取られていくようだ。輝きが立ち上がり天を目指し始めているのがわかる。目を開こうとしても力が抜けてしまって思うようにならない。前に座っているのがジノ婆さんかどうかもわからなくなってきた。その身体が陽炎のように揺れている。顔が笑っているように見える。ジノ婆さんからはどう見えているのだろう。コノンさんの気配はすでに消えてしまった。時間が徐々にスピードを落とし始めた。水の音の繰り返しが緩慢になっていく。しばらくするとどこからか漆黒の闇が迫ってきているのがわかった。その先にはミドリ鮫が待っているはずだ。

 

「会いたいか……ぶくぶく……そこに……」

 

 闇の中からまたあの声が聞こえた。間違いなく意識世界に入ろうとしている。それも自分の意思でだ。ノイヤール湖、ユロミ、それと……ドットトラウト……。もしかすると、そこがフォントリアではないのかと思った瞬間に、六角錐が弾け飛び、無数のミドリ鮫がその隙間を縫うように乱舞するのが見えた。自分の六角錐はまだない。それでも現実世界に戻ってきている。オルターではない自分がつくった六角錐があるはず。私は誰なのだろうか。

 


第39話 時間の重さ

 散りばめられた六角錐が浮遊する境界域を潜り抜け、ミドリ鮫が先を争うように泳ぎ去ってしまうと闇に閉ざされた世界が徐々に明けていく。身体の自由は効かないから、何者かの意思か法則にまかせて導かれていくだけだ。行先になんらかの理由があるのかどうかさえもわからない。しばらくすると微かな水音が聞こえてきた。ノイヤール湖の水音とは違う波長だ。目を開けた世界が自分の知っている場所であることを祈りたい気持ちになる。

 

 耳元で水音が聞こえていても、身体の自由はすぐには戻ってこない。呼吸を整えてまぶたを開くことに神経を集中させる。かろうじて視界に捉えることができたのは少し離れたところに佇む灯台だった。ただ、それは赤い灯台のほうで、自分が暮らすウォーターランドにある白い灯台ではなかった。ノルシーさんもミリルさんも信じてくれない赤い灯台が目の前にある。ここはいったいどこなのだろうかとあらためて思う。ここでの唯一の構造物と言える灯台を凝視して見るものの、前に来た時と同じようであり、違うようでもあり記憶ははっきりしない。海のほうに目を向けても大海原が広がるだけで、そこにミドリ鮫が見えるわけでもなかった。

 

 現実と意識世界の行き来には身体に相応の負荷がかかる。力を込めてやっとの思いで立ち上がった。冬眠からジノ婆さんが目覚めたときを追体験しているような気分だ。もしジノ婆さんの冬眠の時の行き先もここであったならどれほどすばらしいかと思う。同じ世界を共有できる人がいればこれほど心強いことはない。もちろん前に来た時に気配を感じたノート氏がどこかにいるのではないかという期待もなくはないけれど、現実世界で会ったこともない人がいるのを想像するのはなかなかむずかしい。

 

 しばらくするうちに、防寒の服を着ているのに暑くも寒くもないことに気がついた。見た目の気候は春のように見えなくないけれど、気温や気候をまったく感じられない。以前来た時もそうだったのだろうか。夢には色はないという話があるけれど、この世界には色はあるけど温度というものがない。暑くも寒くもないし、暖かくも冷たくもない。まるで環境を受け止めるための感覚がなくなってしまったように感じられる。自分の身体に触れてもまるで死者のように体温を感じられない。色のない夢の世界と気温のない意識世界という違いは考えられるのだろうか。うまくするとそれが夢と意識世界の違いを見極める手立てになるのかもしれないと思った。

 

 灯台を起点にした地形をみると、どう見てもウォーターランドにそっくりだ。平坦で今にも海に水没しそうなほど低い地形で、島中が緑に覆われている。少し歩いていると、そこかしこにユイローがあることに気がついた。というより、島中にユイローがあるというほうが正しいかも知れない。そう思うと島全体がユロミの匂いに包まれているような気さえしてくる。人の気配か動物の気配はないか、その痕跡を探してみるものの手がかりになるようなものを見つけることはできなかった。記憶と同じように立ち去る時にすべて消し去ったかのようだ。なにも持ち込めず、なにも持ち出せない、そんな気配すら感じた。誰もいないし、何もないことに焦燥感を感じていたとき、灯台にノートがあったことを思い出し、そこでインクに会った記憶が蘇ってきた。あのとき感じた人の気配は、やはりノート氏ではなかったのかという期待が募る。

 

 その後、急いで灯台のほうに向かった。そうしないと、ノートも消えてしまうのではないかと思えたのだ。悪くすると灯台さえもがなくなるのではないかという予感もしてきた。走っていると、灯台がかすかに振動しはじめた。それと同時にその後ろに隠れるようにして白い灯台があるのが見え始めた。灯台が二重写しになっているかのような不安定な視界に足が空回りしてくる。地面を蹴っているはずが、思うように前に進まない。何かが灯台を遠ざけているように感じる。足を緩めると、後ろに引き戻されていくような強迫観念を感じた。ウォーターランドにはない力を感じるのは気のせいか。時間そのものに重力がかかっているような妙な重さを感じる。まるで時間が膨大なエネルギーを溜め込んでうねっているようだ。前回ここに来たときにはこれほどの違和感は感じなかった。時間に手で触れられる物ののような存在感を感じたのは初めてかも知れない。

 

 疲れてその場にへたり込み、乾いた喉を潤そうと川から水をすくおうとしたときに、また自分ではない顔が水面に写った。それもそこにいるのは前とも違う人間だった。予想はしていたものの、この世界には自分さえもなく、自分であることの理由を見失ってしまいそうだ。形あるものはすべて変わるとでも言われているような不安定な感覚に襲われる。意識の世界だからそういうものだと思いながらも、自分であることのよりどころがなくなっていくことの恐怖感は想像を超える。自分の意識が揺らいでいることの結果としてこの世界の自分の姿が移ろっている気さえしてくる。

 

 悲観的な気持ちが頭をもたげると、そもそもこの世界に来ることの意味や目的すらもよくわからなくなってくる。もしジノ婆さんもここに来ているとしたら、ここで何をするというのだろう。コピのいうドットのいる場所がここだとしたら、ますますこの場所の意味がとらえどころのないものになってくる。眠っているときに見る夢には結論がないままに延々と続く徒労感があるのと同じように、この世界もどこにもたどり着かないのではないかという思いもぬぐえない。なにも起こらず、何もはじまらない、ただあるだけの世界だとしたら、意味も目的も無用となってしまうのだろうか。


第40話 増えたページ *

 深い呼吸を繰り返し、少し気持ちを落ち着かせたところで、ゆっくりと一歩一歩を確かめるようにして灯台に向けて歩いた。ゆっくりであれば、引き戻されそうな力は感じなかった。30分ほどかけて灯台までなんとかたどり着き、文字はかなり見えにくくはなっているものの前と同じSODA YEAHAVEと書かれた六角錐があるのも確かめられた。前と同じ場所の証と思ってまちがいない。これさえあればノイヤール湖にも帰れるという安心を得られる。たとえそれが自分の名前でなくてもと自分に言い聞かせる。ドアを開くと、机の上にノートがあるのが見えた。その瞬間に全身の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。唯一のよりどころは消えてなかった。

 

 ノートを開き、しばらくめくっていくとこれまで目にしたことのない記述があることに気がついた。驚くことにそのひとつがこの島でも洪水が起きたというものだった。

 

***** ノート *****

 

この数日は海から溢れるように湧き出した水ですっかり島は水没してしまいました。大海原に灯台だけがかろうじて海面に姿を残すという恐ろしい体験でした。満月の時期ではあったのですが、満潮になるよりもさらに水面が上がるということが私の知識の範囲を超えて起きたことにただただ驚くばかりでした。その水が引いたあとには前となにも変わらない島が戻ってきて、水没した跡形さえもなくなってしまいました。それはまるですべての増水した水が一瞬にして蒸発してしまったようです。水の中に見えていたたくさんの魚影も幻だったかのように、一匹の魚も打ち上げられることなく消え去っていました。

 

***** ノート *****

 

 現実世界と同じようなタイミングで洪水の記述が現れたことが不可思議に思えた。このノートがいつ書かれたものかはわからない。この場所では今がいつなのかということは重要ではないのだろうか。なによりも書いたその人が今どこにいるのかがわからない。

 

 そして、もうひとつの新しい記述は、気まぐれと話をしたという内容だった。詳しいことは書かれていないけれど、何かの会話を交わしたのは間違いなさそうだ。これを読んだときに、インクのことが頭をよぎった。ジノ婆さんのように猫を気まぐれなやつと呼んでいたのではないだろうか。それにしても猫が口を聞いたとなるといよいよ何が起きたのかわからなくなる。詳しく書かれていないのは、それがあまありにも常識をはずれていることのため、ノート氏も常軌を逸したと思われる危険を感じたのかもしれない。実際、孤島に一人でいることの精神的なストレスの影響がなかったとは言えない。彼が楽園と思った島が徐々に心の負担になっていったということはなかっただろうか。

 

 現実世界と関係するような出来事がこの世界でもノートに書かれている。まるで現実の記憶を組み直した夢でも見ているような気持ちになる。前回は恐怖に襲われ時間をかけてじっくり見られなかったので見落とした可能性はあるけれど、誰かによって加筆されたのではないかという疑念は拭えない。ノートが書き終えられてないのか、あるいは消えていたページが現れたのか。いずれにしても完全なノートではないことは間違いなさそうだ。ウォーターランドのノートもその一部を大水の際に失ったと聞いている。そしてこの地では今新しいページを目にしている。完全なノートというのは存在しないのかもしれない。そのとき、前回自分が書き残したページがここにはないことに気がついた。少なくともこの世界では常に存在するということ自体が常態ではないと考えたほうがよさそうだ。それにしても自分自身の顔も含めて絶対なものがないということはどういうことか。この世界では自分探しどころか、今の自分すら誰だがわからなくなってしまいそうだ。自分を自分と言えるのはなぜかさえわからない。

 

 ノートを読み終わり外に出ると景色が霞んでいて、淡くぼんやりとウォーターランドの建物が見えていた。ユイローの中を走っているコピの姿が見える。少し向こうにはダルビー船長の舟も停泊している。その景色は風に吹かれるようにゆらゆらと揺れて霧散していく。その後はもとのなにもない島に戻ってしまった。 

 


第41話 内なること

 ノートを読んでしまうと。この先ここで何かが起こるとも思えなくなってきた。唯一考えられるのは誰かが現れるのを待つということだけれど、今のところその気配はまったくない。もしや時間がゆるりと動くことに遭遇しないか考えてみるものの、それがどうなることかもわからないので、その予兆を感じることもできない。何をすればいいのかわからず途方に暮れたまま時間が過ぎていく。

 

 することがなくなると、この世界はどこにあるのかという疑問が頭をもたげてくる。夢と同じで内側にあるのであれば自分の頭の中というのがひとつの答えになりうるのだけど、ジノ婆あるいはノート氏が同じ場所を知っているなら身体を離れたところということになるだろう。そもそもノートを書く人がいるし、そのノートが現実世界にもあるのだから話が面倒になる。内と外が混ざり合っているような奇妙な世界だ。

 

 いずれにしても、現実世界に戻る手立てを考えないといけない。あわよくばジノ婆さんが気づいてくれて、呼び戻してもらえないかと考えもするけれど、それも勝手な願いでしかなく、何の根拠もない妄想でしかない。なんとかしてこちらからも自分の意思で戻れる方法を探さないといけない。最初に思いついたのはやはりユロミだった。ポケットの中を探るとまだノイヤールで採ったユロミが残っていた。何も考えずに指で潰してみた。神経を集中してなにかが起きるのを待った。

 

 ことは簡単ではないらしく、待てども待てども何も起こりそうにない。前回戻れたときはどうしたかを考えてみると、ボートで海に出てミドリ鮫と遭遇したことしか思い出さない。海に出ればミドリ鮫のほうから迎えに来てくれるという話なのだろうか。前回見た赤いボートは今のところ見当たらない。どこかにあるのだろうか。考えられることはすべて試したほうがよいと思い、もう一度赤いボートを探してみることにした。

 

 ところが、海に飲み込まれてしまったままなのか、努力の甲斐もなく赤いボートはどこにもみつからなかった。こうなると後はミドリ鮫を探すしかないけど、彼らはきっと海の中にいるのかと思ったときに、こちらに来るときには湖で鮫に会ったわけではなかったことに気づいた。ジノ婆さんが目覚めたときに入口が開いているのを感じて、ミドリ鮫を無意識のうちに呼んでいたような気がする。鮫は頭の中に現れたのではなかったか。

 

 「入口」で、ウォーターランドの南にある海底の大きな穴を思い出した。地形が同じならこの赤い灯台のほうにも同じ穴が口を開いているのではないかと思えた。新しく見たノートの大水の話も少なからず関係しているかもしれない。ミドリ鮫がもぐりこんだのはあの穴ではなかったかとも思いはじめた。念のためユロミを少し掘り出してポケットに入れておいた。

 

 ウォーターランドなら南の端にある海底の穴のある場所を目指した。あいかわらず時間の重さに歩みを妨げられ、思うように前に進めない。やっとのことで着いてみると、想像したとおり海の下に大きな穴が開いているのが見えた。ノートに書かれていた大水もこの穴から流れ出た水が原因に違いない。みつけたのはそれだけでなかった。穴の横には海底に沈む赤いボートの残骸が見えた。最後の望みに賭けて、近くに腰を下ろし変化が起きるのを待つことにした。

 

 太陽は西から東へと周り時間が流れていく。ところが待てど暮らせどミドリ鮫も現れず、夕暮れ近くになっても何もおきそうになかった。自分の意思でこの世界に来るという無謀を戒められている気分になる。絶望感に打ちひしがれるのも時間の問題かと思われた。

 

 そのときだ、突然どこからともなくインクが現れた。もはやなぜここにいるのかということはどうでもよくなっていた。相棒がいるだけで気が楽になるのを感じた。

 

「おまえが気まぐれなのかい? そうなんだね?」

 

 顔を覗き込むと、ユロミカンデ、ミドリザメヲイノルという声が聞こえた気がした。インクが話したようにも、頭の中から聞こえてきたような気もする。それさえもどちらでもよいほどになんとかしたかった。急いでポケットからあるだけのユロミをつかみ口に含んだ。力をこめて噛むと砂利を噛むようなザラザラした感じとともに痺れが口いっぱいに広がり、その後は古い本の匂いに似た香りが鼻を突いた。一心にミドリ鮫に心を集中して会いたいと繰り返した。気持ちが鼻腔の上のあたりに集中しているのがわかる。ユロミの覚醒作用が急速に効き始めたようだ。するとどうだろう、穴から光輝く水が湧き出してくるのがまぶたの後ろに見えてきた。交錯している光はドットトラウトに違いない。お爺さんのいう大漁の時間が突然訪れたかのようだ。そうしているうちに待ちに待ったミドリ鮫の明滅する大きな身体が寝返るようにして目の前に現れた。穴から来たのか、自分の頭の中から来たのかわからない現れ方に驚いた。感情を感じさせない大きな黒い目が見えたと思ったら、その漆黒の目がどんどん広がり、世界が暗闇に取り込まれてしまった。まるでミドリ鮫に飲み込まれていくような感覚だ。

 

身体から力が抜けて、大きな闇の境界域に身を任せる。時間を戻すようにミドリ鮫が後ろ向きに泳ぎ、六角錐が一点に修練していく。そこを過ぎるとかすかな光が見えてきた。抜け出せた。帰りも自分の意思で切り抜けられた。意識世界を現実世界に寄せることに成功した満足感が全身を包んでいるのがわかる。

 

「ブクブク……キコエナイカ……」

 

聞こえる。ノイヤールの水の音だ。


第42話 戻り道

 時間の回転が現実世界に会わせ早まっているのがわかる。時間も希薄したような軽さを感じる。そうしているうちに明かりで満たされた世界が開けていった。前と同じ場所のようだ。意識の中から戻ったのであれば、自分の身体のあるところに戻るのは当たり前ということなのだろう。それでも、なんとか戻ることができたことに胸を撫で下ろした。

 

 目の前の人の影が少しずつ輪郭を表して、しばらくするとそれがジノ婆さんだということがわかった。その間に時間はさらに回転を上げていった。ジノ婆さんが戻してくれたのであれば感謝しないといけない。ポケットを探ってみたけれどユロミは一粒も残っていなかった。

 

 ジノ婆さんが何かを聞くような仕草をしていた。

 

「水の声が聞こえただろう」

 

 ジノ婆さんの表情がにやりと緩んだように見えた。今、戻ってきたことをわかっているとでもいうような表情だ。向こうで聞こえた水の音はこちらとは違ったが、それがなにかを知らせているとは思えなかった。もしかするとノートに書いてあった大水のことが水の声とでも言っているのだろうか。

 

「ジノ婆には聞こえるらしいです」とコノンさんが言った。

 

「地の底の水が、呻き、ドットのざわめきを受け止めておるだろう」

 

「ドットというのは?」

 

  あらためてドットが何かを聞いてみた。聞かないですますわけにはいかない気がした。

 

「ノイヤールに自分で感じるものじゃ」

 

 答えは前と変わらなかった。ノイヤールの先にある意識世界で感じたのは……気温のないことが最初に頭に浮かんだ。そのあと思い出すのは、時間の重さだろうか。それがドットだというのだろうか。そうだとしたら空気をドットというようなものではないのかと思う。コピが言った、”いる”という対象にはなりえない。どちらも、いるとかいないとか言えるようなものではない。ドットが仮に水の神であったとしてもその姿や気配を感じることはなかった。

 

 意識世界が自分の頭の中で創造されている世界だとしたなら、ジノ婆さんの言っていることは、自分で想像して考えなさいと言っているとも考えられる。目を閉じているジノ婆さんはこちらが意識世界にいたことをわかっていて、自分で答えを出すのを待っているのだろうか。これではまるで精神修養でもしているのと同じだ。

 

 答えも出ないうちに、コノンさんがリアヌシティに戻らないといけないので、そろそろ戻りますと言った。こちらも時間があればもう一度公書館に立ち寄りたいと考えていたので、いっしょにお暇することにした。ジノ婆さんが元気なのを確認できて、ユイローも集められたからできることはやった。なによりジノ婆さんと面識が持てたことは大きな収穫だった。そして自分の意思で意識世界に行けたのは何ものにも変えがたい体験になった。ジノ婆さんともきっといつかお互いの本音で話せる日が来るだろうと思いながら家を出た。

 

「コノンさん、ジノ婆さんはどういう巫女なんでしょうか」

 

「どういう?」

 

「何ができるとか、どんなことを言うとか……」

 

「なにかおかしかったですか」

 

「いや、その、なんというか、こちらの心を読まれているというか……」

 

「オルターさんも感じましたか。みなさんそう言われますよ」

 

 嘘はつけないですねというとうれしそうに微笑みながらこちらを見た。

 

「前世かなにかが見えるとか、予言のようなことを言うこともあるという話も聞いたことがありますけど」

 

「聞けば私も教えてもらえますか」

 

「ジノ婆ははっきり言わない巫女ですね。言わないのが幸せだと思っているのか。言っても何も変わらないと思っているのか」

 

 そう聞くと、お祖父さんの言っていた、なるようになるという話に近い感じもしてくる。村にとっては何でも知っているジノ婆がいること自体に意味を感じているのかもしれない。答えを求めているわけではないのだろう。

 

「ユイロー採りを手伝いに来たと言ったら、納得していましたよ」

 

「私にはよく気をつけるようにといいますけど」

 

 コノンさんの話を聞くと、ユイローの功罪についての話をしているようだ。簡単に言うと使いすぎに注意しろとのことらしい。やはり幻覚症状が出ることがあるのだろう。

 

「今度はオルターさん一人でも大丈夫そうですね」

 

「ユイローに気をつけながらですね」と言うと、くれぐれもという言葉が返ってきた。

 

 荷車に山積みになったユイローの葉を見ていると赤い灯台のユイローを思い出す。あと何度あの場所に行くことになるのだろう。行く目的もわからず、終わりのない旅を続けているような徒労感を感じていた。

 

 公書館への分岐点でコノンさんと分かれることにした。

 

「オルターさん、また遊びにきてください」

 

 手を振って、荷車を押すコノンさんを見送り、こちらは公書館への小道に入った。木々に囲まれたこの場所に戻ると心の底から落ち着きを取り戻せる。

 



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