目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
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第6話 白い朝

「おや、お目覚めかね。こんな寒い日に炊事場で寝るようじゃ相当にお疲れだね」
 
「まさか、雪が降るとは思いませんでした」
 
「まあ、この程度の雪なら、お天道様がちょこっと顔を出せば消えるがね」
 
 もう、お祖父さんとコノンさんはうさぎの餌取りに出かけたのだろう。ピークの入っていた籠がなくなっていた。瓶のあったところを見ると、何もなかったかのように昨日とまったく同じように置かれていた。天井を見上げると、また、幻覚を見たかという声が聞こえたような気がした。もう、どこから声がしても驚かないけれど、見えたものが消えてもおかしいと感じなくなっていることのほうがやっかいかもしれない。
 
「ソダーさん、ソダーさん……」また、あの声が聞こえた。いつもよりはっきりしているのは気温と関係あるのだろうか。内耳の何かが寒さで敏感になっているのかもしれない。
 
「オルターさん、ぼおっとしてどうかしたかね。霧が晴れたら少し歩いてみるといいよ。こういう日は雪の結晶で村がキラキラしてきれいだからね」
 
「ああ、それもいいですね。幻想的な景色が楽しめそうだ」
 
「もっと寒くなると、雪じゃなくてね結晶そのままが降ることがあるんだよ。私らはスノウブリンクって呼ぶんだけども。なかなか他のところじゃ見られないものらしいよ」
 
「雪の結晶が大きいってことなんですか」
 
「大きいというか結晶がきらきらと降るんだよ。理屈はわたしにはわからないから、詳しい話はお爺さんに聞いとくれ」と言うとお祖母さんはいつもの朝と同じように炊事の準備に取り掛かった。100年前から毎朝同じことを繰り返していると考えるとそれはそれでとても意味深いことのように思える。この村にいると変わらないことこそ大切なのだと言われているようだ。生きるというのは詰まる所そういうことなのだろう。
 
 どこかに空虫がいないかと思ってまわりを見回すと、机の横に読みかけのノートとべっ甲の眼鏡が置いてあった。お祖母さんはさっそく読んでくれているようだ。
 
「ノートは楽しめましたか」
 
「ああ、コノンと半分ずつにしたよ。あの子は全部読んだって言ってたよ」
 
 二人とも本を読むのは好きなのかもしれない。冬が長いところではわからなくもない話だ。
 
「公書館を利用されることもあるんですか」
 
「コショウかい? 使わなくはないけども、薬味は使わない方が作物本来の味を楽しめるからねえ」
 
「あはは、公書館じゃなくて、えっと、村に文庫がありますよね」
 
「え、歴史文庫のことかい?」
 
「ええ、もしかしてお祖母さんは読み物がお好きなのかなと思ったので」
 
「あそこは村の記録ばかりなもんだから、この年になっても勉強させられているような気分だね。ホーラーが出入りや本の扱いをうるさく言うから、あの子が番をするようになって余計に足が遠のいてしまったかもしれないね」
 
 ホーラーはよそ者にだけではなく、村の住民にも気を許してないというのは意外だった。
 
「ちょっと知恵が足りないもんだから、言いつけをきちんと守ってはいるんだけども、やることが極端なものだからね。とにかく保存が第一で、なかなか融通はきかないよ」
 
「ホーラーの家系が代々文庫の館長なんですか?」
 
「家系というか、村の見識者に引き継がれてきたわけだけども、ホーラーはどういうわけかナーシュさんと仲良くてね、あの人がいなくなってからというもの勝手に使命感を感じてしまったようだね」
 
「ナーシュさんはよくあそこに?」
 
「いりびたりさ。あの人が実質的な館長みたいなもんだったよ。なもんだから、いつのまにかこの村のことに一番詳しくなっちまったね。行方がわからなくなったけども、あの文庫を知らなければあんなことにもならなかったかもしれないよ。知らないでいいことまで知ってしまったのじゃないかね」
 
 お祖母さんの話を聞いていると、村人にとっては公書館はかならずしも喜んで出かける場所でもないのかもしれないと思えてきた。公書館の話をしているうちに外の様子も見てみたくなってきた。
 ドアは寒さのせいかきしむような音がして、いつもより重く感じる。少し力を入れると隙間から冷たい冷気が部屋の中に入り込んできた。
 
「オルターさん、そこの上着を着て行くといいよ。ほら青いのがあるだろ」
 
 お祖母さんの好意をありがたく受けて手編みの上着を羽織って出た。吐く息は白く、すぐに濃い霧と混じり合ってしまう。付近の民家も窓の明かりでかろうじてわかる程度で、想像以上に深い霧だった。ノイヤール湖や水路の暖かい水がこの真っ白な景色をつくりだすのだ。湖が自分の存在を誇示しているようにさえ思える。
 雪のほうは思ったほどでもなく、石畳に薄くかかる程度だった。雪の朝というより霧の朝という方が的を得ている。お祖母さんの言う結晶の輝きを楽しむのにはもう少し日が登るのを待たないといけないようだ。それまでこの淡いベールのような雪が溶けないでいてくれるか心もとない。それほどに薄く可憐な初雪だった。
 
 水路の方に少し歩きかけたところで、前方からこちらに向かってくる人影があるのに気づいた。考える間もなく、コノンさんとお祖父さんだということがわかった。
 
「おや、オルターさんこんなところで何をしているのかね」
 
「初雪だというので見物に」
 
「初雪はいいんだが、わしらは霧のおかげで船も出せなくて、このとおり出戻りだ」
 
「お祖父ちゃんが危ないって言うから」コノンさんは納得していないようだ。冬は待ってくれないから餌の確保のほうが心配なのだろう。
 
「まだ、日にちはあるさ。白い日の湖はやめたほうがいい」
 
 確かにこれだけ深い霧に覆われると、道を歩いていても方向感覚を失いそうになる。闇夜の夜中に歩くのとそれほど変わらない気さえする。
 
「じゃあ、三人で仲良くご帰宅とするか。祖母さんもお待ちかねだろう」
 
 きっとこんな日に出かけることもないだろうとお祖母さんに止められたのだろう。お祖母さんのご満悦そうな顔が目に浮かぶ。

第7話 ノートの家

 家に帰ると、3人分のカップが用意してあった。お祖母さんはみんなが戻ってくるのをわかっていたようだ。何も言わずにお茶をいれてくれた。生姜のスライスが入っていた。冷えたからだがじんわりと温まっていくのがわかる。
 
「オルターさん、村の雪景色もいいもんだろ」お祖母さんがこちらの反応を伺うように言った。
 
「雪景色じゃなくて霧景色だな」お祖父さんが小さな声で言った。コノンさんが笑っている。
 
「本格的な冬になってスノウブリンクが舞い降りてくるころには夢の世界でしょうね」
 
「ほんとにそうなんだよ。ねえ、あんた、スノウブリンクは特別なんだろ」
 
「あれは、水と関係してるんだろうな。水の成分が結晶をでかくしてると言うがな。本当のところは誰にもわからない」
 
「それこそ歴史文庫に行けばいくらでも資料があるだろうがね」
 
 お祖父さんと水の違いについて話をしているときに後ろにあった水集めの瓶が目に入った。
 
「お祖母さんは空虫を見たことがありますか」
 
「ああ、最近はめっきり見かけなくなったねえ。あんなもんどこにでもいたのにおかしなものだね。ドームになってから虫も住みにくくなったかもしれないね」
 
「ノートにもその虫の話し出てきましたね」コノンさんが言った。
 
「あ、読んでみました?」
 
「この村の昔のこともいろいろ書かれていたので楽しく読ませていただきました」
 
「コノンはあまり寝てないらしいよ。雪でちょうどよかったよ」
 
「それで、あの書いた人がいたところなんですけど、おそらくこのあたりですよね」
 
「そうなんですよ。めがね橋の近くだし、かなり似た景色なんですよね」
 
「ハロウズでノートを買ったっていうんだろ? それだけでも間違いないよ、オルターさん」お祖母さんは最初のほうから読んだのだろう。
 
「じゃあ、もしかして……」コノンさんが言いにくそうな顔をしてこちらを見た。
 
「もしかしてなんだい?」お祖母さんが先を急かすように言った。
 
「ここなんじゃないかと」
 
「ここ? ここって何がですか」
 
「ノートさんが住んでいたのが……」コノンさんはそれだけ言うとだまってこちらを見ている。
 
「なんだって。これを書いた人がここに住んでいたってことかい?」
 
「それもありえる話だな」お祖父さんが驚く様子もなく言った。
 
 コノンさんが、心当たりのあったところを開いて説明してくれた。
 
「お祖母ちゃんが、階段の駆け上がりが欠けてるから気をつけなさいってよく言ってたのを思い出して」
 
「わたしも嫁に来た頃によく言われたからね。何度転んだことだか」お祖母さんが懐かしそうに言った。
 
「ここは部屋を貸していたことがあるんですか」
 
「あるもないも、今でもそうだからな」お祖父さんが部屋の鍵がぶら下がっている棚を顎で指して言った。
 
「ああ、オルターさんは、私の招待だからね。気にすることはないよ」お祖母さんはお金も代わりになるものも持ち合わせもないことをわかっていて気遣ってくれた。
 
「書かれている内容からしてここだってわけだな」お祖父さんがノートをめくりながら言った。
 
「あの、宿帳のようなものはないんですか」
 
「そりゃあるさ。それこそこの家の歴史みたいなもんだ。古いのはそれこそ歴史文庫に入っているよ。最近のものなら見てきてやってもいいが、このノート書いた人の名前は?」お祖父さんが椅子を立ちながら言った。
 
「名前……」
 
 ノートのどこにも名前なんて書かれてなかった。お祖母さんもコノンさんもあきらめたほうがいいというように首を横に振っている。二人はそこまで知りたいとも思わないのだろう。
 
 そのとき、またあの声が聞こえた。
 
「そうだ、ソダーという名前がないか見てもらっていいですか」
 
「その名前に心当たりでもあるのかい?」
 
「ええ、ちょっと気になっている人がいて」
 
 お祖父さんが宿帳を見てくると言って部屋を離れると、お祖母さんとコノンさんでノートに書かれていることと村に共通するところを順に読み上げ始めた。トラピさんたちの言っていたところも同じように出てきた。曖昧な記述も多いけど、ここじゃないと言えるものは何もなかった。少なくとも住人が同じ場所だと感じるのだからノートさんの住んでいたのがここである可能性はかなり高いと言える。
 
 お祖母さんが「このノートも歴史文庫に置いた方がいいのかもしれないね」と言うと、コノンさんに「これは写しなんですよね」と聞いてきたので、ノートの一部を島にいた人から手に入れたら経緯を説明した。本物を探して歴史文庫に入れるというよりも、ノート氏本人が島から帰って来て自分で歴史文庫に納めたのではないかという気がしないでもない。彼があの島で人生を終えたとはどうしても思えないのだ。いくら豊かな島だと言っても、生まれ育った土地を捨て一人で生きていくだけの価値があっただろうか。
 
「この人は島に何を探しに行ったのでしょう。それともなにも探さなくて済むところに行ったとか」コノンさんが言った。
 
「ここも探さない人の村だから、欲しがる人間が出て行ったということじゃないのかね」
 
「とすると大航海時代の例に漏れず一攫千金狙いだったと? ノートの記述からはそういう風には見えないですけど、行ってみて考えが変わったのでしょうか」
 
「それとも他の男と同じ鮫探しかい? そうでもなけりゃここにいて不都合なことでもあったのかね」
 
「私にはそうは思えなかったけど」コノンさんがノート氏の気持ちを察するように言った。何もほしいものはないのに同じように島に行きたいという彼女にはわかることがあるのだろう。
 
 そのあとは、ウォーターランドにだけある不思議な草花や生き物の話になった。これには二人とも興味津々のようで、見たこともない自然の話が尽きることはなかった。とくにお祖母さんは植物にとても興味を持ったようだ。昔の古い話しよりも今の島のことのほうが知りたいようだった。いつかお世話になったお祖母さんにも島の案内をしてあげたいものだ。
 
「そうだ、あそこの瓶はネモネさんの水集めの……」そこまで言うとお祖母さんが言葉をさえぎるように「そうだよ。次に来たときに片付けたなんて言ったらあの子も悲しむだろ? また探してくるのも大変だしねえ」気がついてくれたのがうれしかったとでもいうような口ぶりだった。
 
 水を持ち帰れないのがわかった今となっては、この先使われることもないかもしれないけれど、それはうれしそうに話すお祖母さんには言えなかった。
 
「昨日、あの瓶の中に空虫が一匹いたんです」
 
「空虫だって? おかしなことをいうねえ。空虫が出たのは夏の少し前だから、何かの見間違えじゃないのかい」
 
「空虫っていまでもいるのかな」コノンさんが独り言のようにつぶやいた。
 
「コノンの生まれる前は湖が瑠璃色に光って見えたもんだよ。このノートの中にも出てきたね」
 
「え、ということは今はいないんですか」
 
「どうだろうねえ。わたしも子供の頃に見たきりだからね。でも、どこかにいたとしてもこの時期じゃないよ」
 
 お祖母さんは、それは真冬に蝶が見えたというような話だと言って本気では取り合ってくれなかった。空虫を見たことがないというコノンさんもあまり現実味を感じないのか話半分で聞いているようだった。
 
 雪の日は凛とした空気が村中に張り詰める。青い空虫の光はこんな季節にこそあうような気がする。瑠璃色の光を細く長く引きながら舞う現実にはありえない情景が窓の外に見えた気がした。

第8話 宿帳の名前

 ノートの話をしているとお祖父さんが古い宿帳を持って戻ってきた。全部で10冊ぐらいで古いものは分厚い皮の外箱がついていた。1780年ぐらいからは手元にあるのだという。250年分にしては少ないと思った。
 
「まあ、泊まるところがない巡礼者を休ませるために部屋を貸したようなものだったからな。人伝えにうわさが広まって宿屋の真似事をしたってわけだ」お祖父さんが言った。
 
「巡礼というのはどこに?」
 
「なんでも南の方で聖水が湧くという話が出てからのことらしいね」お祖母さんが言った。
 
「ここの水だって十分大したものなのに、不治の病まで直す水がみつかったという噂が出て、はるばる大陸の北部から来る人までいたって話だけどな。いつだって噂話には尾ひれがつくから本当のところはわからないさ」
 
「ミドリ鮫の話が出てきたのはそれより後のことなのかね」お祖母さんが自分からミドリ鮫の話をするのはめずらしい。ノートを読んで興味を持ったのかもしれない。
 
「関係あったらどうする?」
 
「ミドリ鮫も尾ひれのひとつってことなのかねえ」お祖母さんがなんとか聞き取れるぐらいの声でぼそりと言った。
 
 お祖父さんが苦笑いをしながらこちらを見た。加勢してくれというようにも見えたけれど、ミドリ鮫を信じていないお祖母さんに何を言っても無駄なことは二人ともよくわかっている。
 
「以前見た本に聖水のことを書いてありましたよ。なんとなくスレイトンケープのあたりの話ではないかと思ったのですが」
 
 そう言いながら、それが現実世界の話しだったかどうかがよくわからない。
 
「あんたも案外詳しいな。鮫を探すときに最初に目指したのはあのあたりだった」
 
「最初というと、ミドリ鮫の居場所はもっと先ということですか?」
 
「巡礼者はあそこを目指したが、わしらはもっと先だな。ミドリ鮫のいるのはあそこじゃない」
 
「ここの湖で見たという話でもなかったのですか?」
 
「鮫は淡水魚じゃないからな」お祖父さんはあきれたような顔でこちらを見た。
 
「ああ、やはり海ですかね。川との境目の汽水にも棲めないのでしょうか」
 
「たまに見たというものもいないではなかったけれど、鮫にも道に迷うやつがいたってことだろうな」
 
「そんなもんだから男衆はみんな川を下って大航海ってわけだわね。でも鮫を見つけられなかったんだからしようがないよ」お祖母さんが言うと、お祖父さんが小声で「鮫の話はご法度だからな」と言って笑った。
 
「それよりお祖父ちゃん宿帳のほうは?」黙って聞いていたコノンさんが気を利かせて話を変えてくれた。
 
「そうだ、そうだ。そんなことより台帳だったな」
 
「いましたかソダーという人」
 
「ああ、いたよ。泊まった人も住んでた人もいたようだな」持ってきた宿帳を開いてこちらに向けて見せてくれた。
 
 めくってみると確かに六界錐に刻まれていた名前と同じ綴りのソダーという名前がある。この家に来た人だけで何人もいるようだ。ジギのような屋号だったのだろうか。
 
「それで、そのソダーというのは誰なんだい?」お祖母さんが言った。
 
「いや、実は時々呼び声が聞こえて」
 
「ソダーってかい?」
 
「ええ」
 
「心当たりは?」宿帳を見ていたお祖父さんがくすんだメガネを下げてこちらを見た。
 
「すいません。特になにもないんですが、ここに来てからも聞こえたもので。何か関係あるかと思って」
 
「なんだか妙な話だね。この家にソダーって人の霊が取り付いているんじゃいやだよ。あんた聞こえたことあるかい」お祖母さんがお祖父さんに聞くとお祖父さんは聞こえるのは虫の声ぐらいだなと言った。
 
「男の人の声なんですか」コノンさんが心配そうな顔をしている。
 
「あ、若い女の人の声かもしれません」と答えながらも幻聴のような感じなので性別もあまり考えたこともなかった。
 
「コノンも聞こえたことがあるのかい」
 
「聞こえたんじゃなくて、ジノ婆からもソダーという名前を聞いたことが……」
 
 コノンさんの口からソダーという名前が出るとは思ってもみなかった。
 
「ジノ婆はなんだって?」
 
「詳しくは話してくれないけど、若い頃の何か思い出のある人らしいよ」
 
「それだけか?」お祖父さんもさすがに気になるようだ。
 
「オルターさん、ノートにその名前が出ていたわけじゃないんだろ?」
 
「残念ながら」
 
 そう言うしかなかった。自分でもソダーがノートの主だという確信はない。ただ、赤い灯台の横にあった六界錐には間違いなくソダーと刻んであった。あの場所が夢か幻でなければ。
 
「ジノ婆が知っている人がいるとしても、宿帳にも何人もいるし。だからどうしたということでもないしな」そう言うとお祖父さんは宿帳を閉じてしまった。
 
 お祖父さんもお祖母さんもわけのわからない話しにつきあわされていると感じたかもしれないけれど、こちらにしてみればノート氏がここに宿泊していた可能性があるということがわかっただけでも大変な収穫だった。
  ノートを書いたのがここにいたソダーさんかもしれないですものねというコノンさんの言葉にちょっとだけ救われた。
 
 もしソダーという人がノートの主だとしたら、誰が彼を呼んでいるのだろうか。その声がただの幻聴でなく向こうの世界から届く声だとしたら。誰かが自分に何かを伝えようとしているように思えてならない。

第9話 使者

ドン、ドン、ドン。
 
ドアを叩く人がいる。
 
「こんな静かな日に騒々しいやつがいるものだな」お祖父さんが怪訝な顔をしている。
 
「雪で立ち往生でもしたのかね」そう言うと、ノックの鳴り止まないドアのほうにお祖母さんが急ぎ足で行った。
 
「どうかされたかね」と言いながらドアを開けると、吹き込む雪に混じって「コノンさんの家はこちらですか」という声が聞こえた。
 
「はい、私ですが」横にいたコノンさんが答えた。
 
「ミオがクラウドタワーを登っているのを伝言してほし……」というところまで来訪者が言ったところで、コノンさんは急に立ち上がった。眠りこけていたうさぎのピークが入っていたカゴをつかむようにして持ったかと思うとそのまま背負った。ピークは何が起こったのかわからないで目をまん丸にしている。
 
「うさぎの餌はどうするんだ」お祖父さんが出ていくコノンさんを呼び止めるようにして聞いた。コノンさんは振り返ることもなく「すぐ戻るから」と一言だけ言うと、戸口にいた使者を押しのけるようにしてそのままバス停に向かって駆け出した。
 
 残ったお祖父さんとお祖母さんは何が起きたのかわからない。呆気に取られたまま顔を見合わせた。訪ねてきた人に事情を聞いても、タワーに登っているのを急いで伝えてくれと頼まれたと繰り返すばかりで一向に埒が明かない。
 
「ミオがタワーに登ったって何のことなんだい? こんな寒い日に」とお祖母さんが言うと、お祖父さんも「そのミオっていうのはなんなんだ?」と言ったまま釈然としない顔で来訪者を問い詰めている。頼まれてきた来訪者のほうもなんで詰め寄られているのか訳がわからないと言いながら、逃げるようにして立ち去ってしまった。
 
 お祖母さんはこちらを向くと、何でもいいから知ってることがあれば教えてくれという目で見ているし、お祖父さんもこんな日に飛び出して行った理由がわかるわけもなくただただ困惑している。
 
「えっと、たぶんコノンさんの知り合いの子の名前ではないかと」
 
 それだけの説明ではあまりに言葉が足りなくて、二人とも首をかしげるばかりだった。聞かれたことに対してまともに答えられていないのは自分でもよくわかっている。だからと言って家族の家のことはしゃべってはいけないだろうから、何を言っても歯切れが悪くなってしまう。しばらく問答をしているうちにお祖父さんはこれ以上聞いても何もわからないだろうとあきらめたようで、気を紛らわすように雪で汚れた靴の手入れを始めた。
 
「でもその子がなんでコノンと関係あるんだい? あんなにあわてることもないだろうに」お祖母さんはどうにも納得いかないらしく一人でぶつぶつ独り言を言っている。
 
「何か言い忘れたこととか渡し忘れたものがあるとか、でしょうか」そう言いながら、意味のないつくり話を心苦しく思う。お祖父さんは「こんな日にハイキングでもないだろうがな」と言うと雪を落とした靴をストーブの横に並べた。
 
「それにしても、あの子にうさぎの餌よりも大切なものがあったのに驚いたよ」
 
「今日スレイトンケープに戻る前に寄ってみますよ。あまりご心配なさらないように」
 
「なにもなければいいんだがね。あの子も人を疑うことを知らないから、変なことに巻き込まれていないか心配だよ」
 
 しばらく話しているうちに二人の動揺は落ち着いてきたものの、平静を装っているこちらもリアヌシティで何が起きたのかまったくわからない。一刻も早く後を追いたいのだけれど慌てて出ていくと、お祖父さんとお祖母さんがまた心配しそうなので、はやる気持ちを抑えて午後のバスで出発することにした。
 
 ときどきクラウドタワーに登る人がいるという話は聞いていたけれど、それをあのミオ君がやるとは思いもしなかった。短い付き合いとは言え唯一のリアヌシティの友達だからこちらも気が気ではない。オールドリアヌの霧は一寸先も見えないほどだけれど、リアヌシティはどうなのだろう。霧の深い日をあえて選んだのだろうか。そうであれば人に知られずに登ろうとしたということかもしれない。そんなことよりも、彼はなぜクラウドタワーに登らなければならなかったのかがわからない。あんな気の遠くなるほど高い塔の先に何があるというのだろう。ナーシュさんもあのタワーに同じように登って行ってそのまま帰って来なかったのだとしたら、なおさらのこと人ごととして済ませるわけにいかなくなる。
 
「オルターさん、これを持っていくといいよ。長い道中お腹も空くだろうし、列車の中で食べられるだろ?」と言いながら手焼きのパンで野菜などを巻き込んだブレドールの入った手提げの袋を渡された。
 
「あ、すいません。遠慮なくいただきます」
 
「ひとつはコノンに渡しておくれね。あの子の好きな自家製のチーズとピクルスを巻いてあるから」
 
 お祖母さんはそう言うと少し潤んだ目でこちらを見た。こんなことでも恩返しになるのであれば喜んでいる引き受けさせてもらおう
 
「帰るなら、いい燻製も持って行かないとな」お祖父さんもお土産の用意をしてくれている。どこまでもいい人たちだ。こんな土地から出て行ったノート氏にどんな事情があったのだろうかと思わずにはいられない。
 
 椅子の上にはコノンさんの読んでいたノートがそのまま残っていた。ところどことに紙片が挟まれている。見るとこの村と一致すると言っていたところだった。花が好きな女性のことが書いてあるページにはメモ書きでジノと書かれていた。ジノという言葉に何か心当たりがあったのかもしれない。もつれた糸が少しずつほぐれていくような気がした。
 
 窓の外を見ると、石畳の雪は溶けるどころかまた降り積もり始めた。出かける頃には一面が雪で覆われてしまいそうなほどに雪の勢いは増している。こんな天気でバスは動くのかと思っていると、お祖父さんがこちらの気持ちを察したのか、「バスは止まらないよ。人口的につくられたものは、どこまで行っても自然の摂理とは無関係だからな」と言った。

第10話 悲しい空想

 雪はまったく止む気配がない。外を歩いている人もいないから、足跡のひとつもみつけられない。まるで雪に閉ざされた世界に迷い込んでしまったような不安を感じる。
 
 それでも予定の時間になるとバスは何事もなかったかのように眼鏡橋のバス停にやって来た。運転手もいないし、乗客もいないからこのままどこかに連れていかれてもだれも気づきはしないだろう。機械の誤動作で湖にでも落ちたらどうなるだろうかと、ありもしないことを考えてみたりもする。こういう時に無音で移動する乗り物は意味もなく不安を掻き立てる。一面真っ白な景色の中で振動も音も全くなければ移動しているという実感すら得られない。降り続く雪を受けても水滴のひとつもつかない透明なガラスの乗り物は外の景色を実態のない映像のようにも思わせる。
 
 バスは湖のところまで行くと、くるりと方向を変えてリアヌシティに向かって戻り始めた。このバスは何に従って移動しているのだろうかと周りを見回して見ても、それらしいものは見当たらず、外にもバスを誘導していると思われるレールや無線施設のようなものも見つけられない。まったく温もりを感じない無表情な機械を信じろと言われてもなかなかそういう気持ちにはなれないものだ。
 
 降り続く雪はオールドリアヌの外れに近づいたところで小降りになり始め、気がつくとあれほど濃く垂れ込めていた霧も嘘のように消えていた。気候の変わったあたりがリアヌシティとの境目ということなのだろうか。気候が変わったというより、気候を人工的に変えているというほうが正しいのだろうけれど。道に覆いかぶさる木々は秋をイメージする黄色い色からさらに褐色へと変わっていた。この紅葉の色も建物の色と同様に人口的に変えられているのだろう。木々が色ずくだけで季節感を感じてしまうのだから人間の感覚というのも当てにはならない。
 
 駅につくと、乗り込む人がいたので、オールドリアヌのほうは雪がすごいですよと親切に教えてあげたけれど何の返事もなかった。この街がそういうところだということをあらためて思い出させられた。視線は違うところを見ている。目の前には暖かな交流などないところなのだ。
 
 降りるとすぐに家族の家を目指した。トラピさんや、ナミナさんはもうリアヌシティを離れているはずだ。それぐらいの日は経っている。ミオ君がどんなに急いだとしてもまだ彼の姿は見えるはずだ。半径が何キロもある塔を登っているのだから、うまくするとまだ裸眼でも見えるかもしれない。どうしても彼の姿を見ておかないと、いつかまた来る再会の機会さえも絶たれてしまうような気がする。
 
 家族の家にたどり着く前に、物見高い人たちが集まっていた。その先では、ボルトンの黒服が通行を規制している。その様子はまるで警察官のようにも見える。彼らの持つ権限は思った以上に大きいのかもしれない。単に水を扱うだけの会社の職員というレベルとは考えにくい。
 人垣を掻き分けながら前に進んで行くとコノンさんの後姿をみつけた
 
「コノンさん!」
 
 じっとタワーを見上げていて気がつかない。もう一度声をかけるとこちらに放心したような顔を向けた。
 
「オルターさん、ミオが……」そう言った瞬間に目から大粒の涙がこぼれ落ちた。涙と嗚咽がしばらく止まらなかった。
 
「私がそばにいてあげられなかったから……」と言いながらまた塔を見上げた。そこには小さな人影が見えた。それがミオ君だかどうかもわからない。
 
「オルターさん」
 
 声をかけてきたのはヨシュアさんだった。いつものように表情を変えることもなくことの成り行きを見守っているように見える。なぜ彼はこれほどまでに冷静でいられるのだろうか。
 ヨシュアさんは塔を目指す子供はミオ君が始めてではないのだと言った。前に登った子供たちも帰って来ないのでその後を追っているのかもしれないけれど、真実は本人たちにしかわからないとの説明だった。それはまるで通りすがりの人のように感じられるほど淡々とした口調だった。
 行方のわからなくなった友達を探しに行っているのかと思っていると、ヨシュアさんはさらに「家族の関係で満たされていないということを考えると、その代償を塔に求めているのかもしれない」とも言った。
 
「塔に代償を?」
 
「もともと彼らの親は子供との交流さえも忘れてしまっていますから、子供たちはあの塔に親の感情を奪われたと思ってしまうのです。この街では塔がすべての象徴とも言えますから、向ける先のない悲しみは塔に向かうわけです」
 
「感情もコントロールするというエゴラインのせいですか」
 
「そうとも言えますが、どうでしょうか」含みを持たせるような曖昧な答えだった。
 
「塔に奪われたと言っても、そこに何があるというのですか?」
 
「本来は、塔というよりドームシティの環境を選んだそのことに原因があるわけですが、子供達にはそれはわからない」
 
「安全で快適な環境の代償と?」
 
「そうですね」
 
 ヨシュアさんの話は、家族の家を主催している人の言葉とはどうしても思えなかった。彼が親の愛情さえも得られなくなった子供達のすがる場所を作っていることは間違いないのだけれど、それは優しさや思いやりとはほど遠いもののようだった。これもエゴラインで生活した結果としての感情の表し方なのだろうか。
 
 ヨシュアさんの言っていることが子供たちの望んでいるものであればいいのだけれど、それは誰にもわからない。塔を一人登っているミオ君の姿を見る限り何かが間違っているように思えなくもない。
 それは、子供達のために尽くしているコノンさんにとっても同じようで、尽くしても尽くしても子供は離れていくのだという。家族の家の子供達は本当の家族との関係を失って、家族の家に集まり、そして一人タワーへと登って行く。まるでミドリ鮫を追うような話だ。彼らにもミドリ鮫が見えたのだろうか……。
 
 ヨシュアさんが「ミドリ鮫がどうしましたか」と聞いてきた。それは聞きなおしというより言葉の意味を確認したいというような言い方だった。
 
「あ、失礼、独り言です」
 
 今説明するようなことでもないと思ったし、説明する相手がヨシュアさんではない気がした。
 
 コノンさんは祈るような目でミオ君の姿を見ている。もしかするとコノンさんもこの家の子供の一人だったのかもしれないと思った。


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