目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
奥付
奥付

閉じる


<<最初から読む

140 / 186ページ

第1話 男の性

「オルターさんが、いっしょだとおじいさんも張り切って大変だね」お婆さんが嬉しそうに言った。
 
 机の上には、燻製の下ごしらえをしているドットトラウトがきれいに頭を揃えて並んでいる。あれほど向こうで釣れるのを楽しみにしていたドットトラウトが当たり前のように目の前にある。ただ、どれも光を発しているわけではなく、どこにでもいそうな普通の鱒にしか見えない。
 
「ジノ婆さんのところに久しぶりに行ったが、相変わらずだな」
 
「ジノ婆の催眠療法みたいなのはほんとうに役に立つのものなのかね」
 
「まあ、あんなところに引きこもって目も見えないのに普通に暮らしていることがそもそも現実離れしてるから、なにかしら御利益はあるだろうよ」
 
 おじいさんの話を聞いていると、釣りをやめたあとにジノ婆さんのところに行って何かの話をしたということらしい。確かにドットトラウトが大漁だったから、こちらの要件のほうを先に済まそうということだった気がする。ただ、出島の記憶がまったくない。まるでそこの時間が消えてしまったようだ。ジノ婆さんと何の話をしたのだろう。
 
「それで何かが見えたのかい」お祖母さんが真剣な顔をしている。
 
「見えたんだか、なんだかな」お祖父さんが面倒そうに答えた。
 
「お祖父さんに聞いていてるんじゃないよ」と言いながら、はらわたを抜いたドットトラウトを渡した。渡されたお祖父さんは何も言うわけでもなく機械的に紐をエラから口に通して輪をつくっている。燻製窯にぶらさげるために必要なのだろう。
 
 それにしても、あんなに綺麗な魚がここでは人に食べられるだけになっているのがどうにも納得できない。輝きをなくしてテーブルに並ぶだけのこの魚になにかの力があるとはとても思えない。すべてはただの幻覚だったのだとでも言いたそうな目でこちらを見ている。
 
 意識が戻ったのはここに着く頃だったから、それまでは気を失っていたか寝ていたということなのだろう。もしかするとそれは一瞬の出来事で、戻って来た時間が少しずれただけなのかもしれない。そうでないとしたら、湖でおぼれた一件以来ちょっと意識がなくなる程度の話ではお祖父さんも驚かなくなって、お祖母さんに余計な心配をさせないようにと気遣っているのだろうか。
 
「また、話す機会なんていくらでもあるから」と言いながら気にすることはないというようにこちらを見た。
 
「まあ、慣れないところで朝早くから漁に付き合わされたんじゃたまったもんじゃないさ」
 
「ここまで来て漁もしないんじゃ、それこそ何しに来たんだかわからないからな」
 
「あんたにはそうでも、オルターさんには関係ないことだろうに」
 
 二人が話しているのは、自分が漁に行ったことがいいことだったのかどうかということなのだけれど、どちらもこちらの気持ちを察してくれてのことだからなんとも申し訳ない。それにも関わらず、目の前に並ぶドットトラウトが記憶をますます混乱させる。どこにいるのかもわからなかった神聖な魚が今夜の夕食に出てくるかもしれないという現実は簡単には受け入られない。
 
「ジノ婆の言うように、自分探しだったらそれはそれでいいだろ?」
 
「また、そういう話なんだね。鮫を探したり、自分を探したり、勝手なことを言われても困るだろうに」
 
「なんというか、その、この魚もいくら探してもみつけられなくて……」
 
「こんな魚ならお祖父さんに頼めばいくらでも。ねえ、あんたそうだろ?」
 
「そうはいかないのが男の性なんだな。自分で探さないとだめなものもあるわけだ」
 
「ジノ婆がそう言ったのかい?」
 
「ジノ婆は女だから言わない」
 
「なんだかわからない話だね。それで、この鱒の捕り方を聞きに行ったってことじゃないんだろ?」
 
「えっと、そうではないんですが……」
 
「まあ、今日は疲れてそれどこではなかったってことだな」と言うとお祖父さんは燻製釜の準備を始めた。新しい木のチップをならべている。
 
「まあ、夢の中まで追いかけられれば、この鱒も思い残すことはないだろうね」と言いながらお祖母さんは包丁をすっと腹に刺し、慣れた手つきではらわたを取った。こちらの話はあくまで夢のことであって、今夜の夕食の話になにも関係ないと言われているようだ。
 
「おや、この子はなにかをくわえているよ」
 
「ああ、そりゃ藻だ」振り返ったお祖父さんが目を細めて言った。
 
「そうなのかい」お祖母さんが指先で掴んで口から藻を引き出した。
 
「昔からこいつらは藻を餌にしてると言われているからな。網のわしらには関係ないがな」
 
「それでこの魚は昆布の出汁が効いてるってことだね。お祖父さんも次は昆布漁でもやってみたらどうなんだい」
 
「昆布じゃなくて藻だよ」お祖父さんが面倒そうに言うと納得いかないお祖母さんが「昆布と藻の違いって何なんだい?」と聞き返す。
 
「そんなことはいいから、燻製の仕込みを終わらせないと夕食もはじまらないだろ。客人もお困りだ」
 
「オルターさん、あの湖はね、私らが子供の頃にはもっともっときれいでね。深いところまで透けて見えてたものさ。湖底かどうかはわからないが、下の方が緑色になっていてね。そりゃあきれいだったよ」お祖母さんの話は尽きない。
 
「昔の話はもういいんじゃないか」お祖父さんは何度も同じ話を聞かされているのだろう。
 
「湖底を見ていると湖に吸い込まれちまうものだから、用もないのに湖に近づくなってよく言われたものさ」お祖母さんの話は終わらない。
 
「泳げもしない女子供が行くとこじゃないってことだな」
 
「私だって湖に行かせてもらっていれば、あんたよりいい漁師になってたさ」
 
「また、婆さんのもしもやっていたら話が始まったな」
 
「生まれ変わったらわたしがあんたの面倒を見てあげるよ。そのときにはミドリ鮫も大漁だよ」
 
 お祖父さんもお祖母さんの勢いにすっかり飲込まれて、最後のほうはだまって聞くだけになってしまった。
 
 お祖母さんの話がひとしきり終わると、お祖父さんが耳元で「それで、鮫はでかかったのか?」と小声で聞いてきた。「大きさもさることながら、この世のものとは思えない美しさで」と言うと、お祖父さんは表情も変えずに小さく頷いた。きっと、男同士の会話はこういう形で繰り返されてきたのだろう。みんなミドリ鮫を捕まえようとしたことがあるというのはこういうことだったのだ。
 
 お祖父さんは椅子から腰をあげると、「それじゃあ、こっちは夕食の準備ができるまで少し休ませてもらうかな」と言って部屋を出て行った。部屋を出るときに、「この世のものじゃないということだな」とひとこと言い残してドアを閉めた。

第2話 探さないこと

 戻って来た時からまた当たり前のように時間が流れて行く。向こうで考えていたことの答えが何も得られないままに周りはいつもと同じように過ぎて行く。
 わかったことと言えば、ドットトラウトがどちらの世界にも生息しているということ。それとユイローには実があって、強い覚醒作用か幻覚作用のようなものを持っている可能性があるということ。ここの出島の周りに茂るユイローにも同じような実がついているのだろうか。
 
「お祖母さん、ちょっと教えてもらっていいですか。あの、料理にユイローを使うことはありますか?」
 
「ユイローの湯に使うことはあるけども……」
 
「実も使わないですか?」
 
「どうなんだい、ユイローに食べられる実が生るのかね」

「そうですよねえ」

 お祖母さんはユロミのことは知らない。鍋のスープを少し味見して、思い通りの味がついたのを確認するように二三度頷いた。
 
「お祖母さんはずっとこの土地ですよね」
 
「ここで生まれて、ここで育って、お祖父さんと出会って……あれでも昔はいい男だったんだよ」
 
「そうでしょうね。いまでも十分に。それで、子供の頃からジノ婆さんも?」
 
「歳は聞いただろ? 子供のころどころか、わたしらの祖先がこの土地に入植したころからいるさ。生き字引もいいところだよ」
 
「ずっと一人なんですか?」
 
「どうなんだかね。親しくしていた人がいなくなったって話はしていたことがあるそうだが、その人がどういう人なんだかは知らないがね」
 
「いなくなってしまうというのはどういうことなのでしょう」
 
「ここいらには、外海に出て商売する者もたくさんいたから、土地にじっとしているようじゃそれこそ役立たずって烙印を押されたもんだよ。鮫なんか追いかけた日には帰ってきやしないよ。それでも、この土地が嫌になってほかの土地に移り住んだっていう話はあまり聞かないがね」
 
「お祖父さんは戻ってきて良かったですね」
 
「ははは、ほんとだ、ほんとだ」
 
「それにしても、みんなどこに……」
 
「オルターさんも探しものはほどほどにすることだよ。ここじゃ、なくなったものは探さないというのがうまい生き方と言われてるんだよ」
 
 それはウォーターランドも同じだ。景色の美しさだけではない何か共通するものを感じる。
 
「昔から、ないものばかり探していると、自分もなくなるって言うんだよ」
 
 ないないさんはどうなのだろうか。いつも何かを探している。探すのをやめれば幸せになれると言われればそう思えなくもない。探しすぎるあまり自分自身がなくなってしまったのでは仕方がない。それこそいったい何のための人生か。そう考えると、ノートをいつまでも追いかけている自分自身はどうなんだろうと気になってくる。探せば探すほど知らない世界に引き込まれていっているのではないだろうか。その結果自分を見失っていく。それがわかっていても、わからないことを知りたいという人間の欲望を消し去ることはむずかしい。
 
「探しているものが何かわからないというのはどうなんでしょう?」
 
「それは探しているっていうのかい?」
 
 確かに、何か物足りなさがあるだけだと言ってしまえば、ただの欲しがりにしか見えない。
 
「そう考えると、コノンさんが足りないことが好きだというのは上手な生き方なのでしょうね」
 
「ほんとだ、ほんとだ」お祖母さんは自分の言うことがわかってくれたのがうれしいようだった。それも大好きなコノンさんのことだからなおさらだ。
 
「欲に囚われた人間は他人のものでも自分のものにしようとしますから困りものです」
 
「まったくだね」
 
「なんでもかんでも自分のものにしようっていうのはどういう料簡なんでしょう」ボルトンの水に対する執着が頭を過った。
 
「コノンを騙すような輩がいた日には私が許さないからね」手に持った玉杓子をいまにも振り回しそうな勢いだ。
 
「ごめんなさい、料理の邪魔をしてますね」
 
「いや、いんだよ。コノンが下ごしらえしてくれているから、ただ煮込むだけでいいのさ」振り上げた玉杓子が鍋に戻った。
 
「今夜はコノンさんの料理ですか」
 
「あの子はどこで覚えたんだか私に似ないで料理がうまくてね」
 
「いやいや、お婆さんの料理もおいしいですよ」
 
「あたしのはただの田舎料理さ」
 
 お祖母さんはそう言うけど、この土地に合うのはお祖母さんの料理だ。
 
「そういやオルターさん、あれだね、あたしにもその秘密のノートとやらを見せてもらえないものかね」
 
「ああ、あれは秘密ではないのでいつでもどうぞ」
 
「村の楽しみなんて、綺麗な花を見るぐらいなもんだから、楽しみらしい楽しみもなくてね」
 
「でも、お祖母さんまで探し物に巻き込まれてしまいますよ」
 
「あはは、うまいこと言うね。でも、もしかするとオルターさんが探すのをやめられるかもしれないし」
 
「え?」
 
「探してるものが見つかればいいんだろ?」
 
 あらためてそう言われると、自分自身何を探しているのかさえもよくわからないのが歯がゆい。誰に頼まれたわけでもないし、自分のことでもない。ということは何も探してないということなのだろうか。
 
「そんな深刻に考えないでいいよ。この土地にいた人間が書いたものだという話を聞いたから。ちょっとした興味だよ」
 
「そうですね。後で部屋から持ってきます」
 
 部屋に印刷したノートを取りに行って、今日のことを書き残そうとして書くものがないことに気づいた。マリーさんからもらった手帳はどこに置いて来てしまったのだろう。

第3話 変わらないノート *

 オールドリアヌは鮮やかな彩りも影を潜め、草木も冬越しの装いになっている。この地方にクリスマスがあるのかどうかはわからないけど、収穫の時期になれば感謝祭のような催しは何かしら行われるだろう。お祭りごとということであればスレイトン・ケープのほうでも骨董市とは違うものが開かれるかもしれない。収穫を祝い、新しい年を迎えるのは万国に共通する祝い事としてどこの地方にもありそうだ。
 
***** ノート *****
 
夏が過ぎても気温が大きく下がることもなく、年間を通じて過ごしやすい島であったことを神に感謝したいと思います。色とりどりに実る果実を見ているだけでも、この島の豊かさを感じることができます。すべての食べ物は乾燥させて保存食にしていますが、小麦の焼ける匂いだけは島に来てからもずっと忘れられないでいます。夏の間に小麦に変わるものはないかと探していましたが、見当をつけていた草にはそれぞれにそれらしい実がつきました。順番に擦りつぶしてパンが焼けるのかどうかを試す毎日です。おいしいパンが焼けるものはやはりどこかしら小麦に似ているところがあって、こんな辺境にある孤島でも大陸との種の繋がりがあるものかと感心させられます。それはこの島の豊かさはあたかも自分が願ったものが命を得て形になっているのではないかと思えるほどで、何かに似ているというよりもすべての種の起原がここにあるのではないかと疑いたくなるほどです。リアヌシティほどの寒暖差はないものの、黄金色や茜色に変わった木々の様子は綴れ織りを見るような美しさで、赤い月の夜には島全体が燃え上がるような紅色に染まります。海の幸も山に劣らず豊潤で、見たこともない鮮やかな色をまとった魚が季節を問わず網にかかります。シミリーナ地方は地理的には温暖な気候の地域に属しますが、海流の関係もあり熱帯地方の魚も生息しているのかもしれません。海のことをもっと知りたくて、子供の頃に舟工房で見たのを思い出しながら見よう見まねで船作りも始めました。できることなら、島の収穫物をたくさん持ち帰れるような舟をつくりたいものです。この島の果実がリアヌシティの市場に並ぶことを想像するだけで心踊る気持ちになるのです。
 
***** ノート *****
 
 収穫のころには誰もが喜びと感謝の気持ちでいっぱいになる。ノート氏もこの時期を迎えてはじめて島の収穫物だけで生活をしていけるという確信を得られたのだろう。自然豊かな島の産物をリアヌシティへ届けることも本気で考えていたかもしれない。それは村の近代化に対するささやかな抵抗でもあっただろう。
 
 久しぶりにノートを読むと時間を経つのも忘れてしまう。こちらの世界に戻ってくると、やはりこのノートを読みたくなる。そうすることだけが自分の居場所を確認できるかのように心が落ち着きを取り戻す。ノートだけが自分の居場所というのも変な話だけれど、どこかに起点を置いておかないと自分を見失いそうになるのも事実だ。そのノートをオールドリアヌの人と共有できるというなら、それこそ願ったり叶ったりの話だと思う。
 
 気がつくと煮物のいい匂いがしている。食堂からお婆さんの話し声も聞こえる。耳を澄ますとコノンさんと話しているのがわかる。うさぎの餌集めが終わって帰ってきたのだろう。ちょうどいいので、ノートの話をコノンさんにも聞いてもらうことにした。彼女が自分の意志で放火したとはどうしても考えられない。ノートを見てもらうことでわかることもあるような気もする。
 
 
「コノンさん、おじゃましています」
 
「お久しぶりです」
 
「餌の方は大丈夫でしたか?」
 
「冬になるまでに集めておかないといけないので」
 
「そうか、冬はうさぎの食べ物もなくなるんですね」
 
「この辺りは雪が結構降るので。野生なら冬眠するんですけど、人の世話になってしまうとだめなようです」
 
「ウォーターランドならどうでしょう?」
 
「こちらよりは餌に困らないようにも思ったんですけど」
 
「餌というのは何かの草ですよね?」
 
「オルターさんはユイローはご存知ですか?」
 
「あ……ユイロー……ユイローが餌なんですか」
 
「ご存知ですよね」
 
「いや、その、刺激が強いのかなと思って」
 
「どうなんでしょう。あの子たちは好きなようですよ」
 
「なるほど。うさぎは平気なんだ」
 
「ユイローの湯はちょうどいい酔い心地だよ」お祖母さんが言った。
 
「身体が暖まるよね」コノンさんも好きなようだ。
 
 同じユイローがあるというのも偶然ではないかもしれない。そうだ、唯一残っていたオリジナルの透かし入りのページの絵もユイローだった。
 
 
「あの、この中にノートを印刷したものが入っているので、コノンさんもよかったらどうぞ」
 
「このノートで何かわかることでもあるんですか?」
 
「いや……何がわかるということでもないんですけど」
 
 言ったとおりだろという顔をしてお祖母さんが笑っている。
 
「えっと、誰が書いたのかわかるといいなあと思っていて……」
 
「書いた人を知りたいということですね」
 
「書いたのがこの村にいた人間らしいから、コノンも見せてもらいな」
 
「村にいた人があの島に行って書いたノート……」コノンさんは自分の気持ちと重ねあわせているように見えた。
 
「このノートが私らを引き合わせてくれたと思えばありがたいことだしねえ」
 
「そうだよね。このノートのおかげだね」
 
 ノートが何かを引き寄せているのか、誰かを引き合わせているのか。真実がどこにあるかわからない中でノートだけが変わらずにあり続けると思えてくる。

第4話 夕食の煮物

「ウサギの餌はどの辺りで?」
 
「湖の北の方で。以前、出島に行く途中でウサギがいるとお話したあたりです」
 
「え、あそこからユイローを運んで来たんですか?」
 
「ええ。でもほとんどは舟で運ぶので」コノンさんは当たり前のように言うけど、一人でやるとなるとなかなかの力仕事になるだろう。
 
「漁がなければお祖父さんも手伝ってくれるからね。明日は頼むといいよ」
 
 コノンさんが持ち帰ったユイローを見てみたが、刈り取られているので根にユロミがなっていたかどうかはわからない。女性が根っこから抜き取るのも結構大変な仕事になるだろうから、そんな実があることにも気づいていなくても不思議ではない。それよりもコピがユロミを知っていることの方がおかしいのかもしれない。それともあれは意識世界だけでの話なのだろうか。部屋の隅の揺り籠の中に入れられた足のないうさぎのピークはずっとユイローを食べ続けている。
 
 お祖母さんが竈から煮物の鍋を下ろしてテーブルの中央に乗せた。
 
「コノン、食事の用意ができたからお祖父さんを呼んできておくれ」
 
 それぞれの椅子の前には大ぶりのお皿と木のスプーンが順番に並べられていく。
 
「やっと夕飯にありつける」お祖父さんの声が聞こえた。
 
「今日はお祖父さんの好きなコノンの煮物だよ」
 
「そうかそうか。滋養たっぷりのあれだな」
 
「お祖父ちゃん、新しい薬草も入れておいたから」
 
 お祖父さんはコノンさんがよそってくれるのをうれしそうに見ている。
 
「これで、ますます元気になるな」と言いながら受け取ると、お祈りも忘れて皿の中の薬草を探し始めた。
 
 コノンさんとお祖母さんの作った煮物は想像通りのおいしさで、お祖父さんが楽しみにしているのもよくわかる。お祖父さんはドットトラウトの漁をしているときよりも幸せそうに見える。何気ない一日の終わりに家族いっしょに夕食をできることに勝るものはない。 
 
「そうだオルターさん、うさぎたちを島に連れて行くのはいつにしましょうか」
 
「もう少し待ってもらえますか」と言いながら、ユロミが湖畔のユイローにも生ってないか確認しないといけないと思った。
 
「まだ島には戻らないね」お母さんが念を押すように言った。
 
 そう言われてはじめて、もう二ヶ月近く帰ってないことに気づいた。意識世界の島に戻っていたこともあってあまり日にちの経過を感じないが、ずっと待っている身からするととても長く感じるだろう。留守番を頼んだミリルさんも寂しい思いをしているかもしれない。
 
「冬までには一度戻った方がいいだろうな」とお爺さんが言うと、お祖母さんがすぐに「ここは冬の景色が格別なんだよ」と返した。
 
「でも、ウォーターランドの海と星空は特別ですよね。夏でもあれだけきれいなのですから、冬はどれほどかと思います」コノンさんがこちらを見て言った。
 
「でもこちらのような雪景色を楽しむことはできないですね」
 
「そうだよコノン、ここの雪はみんなきれいだっていうだろ?」
 
 湖がきれいならそれが形を変えた雨も雪もきれいかもしれないと思う。水も雨も雪も霧もみんな同じだ。
 
「わしらみたいな年寄りには住み慣れたところがよくてな」
 
「あんたは鮫探しだからね」お祖母さんがうれしそうに言った。理由はなんであれお祖父さんがこの村にいてくれることが幸せなのだろう。
 
「羽を広げてどこにでも飛んで行けるのはコノンさんぐらいかもしれないですね」と言うとお祖母さんが、ちょっと寂しそうな顔をした。できればみんなここにいてほしいのだろう。コノンさんの両親がリアヌシティに住んでいるというのも何か事情があるのかもしれない。
 
「トラピさんたちは、もう島に着いたでしょうか」
 
「船次第だろうな」
 
「あの、大道芸というのはすごいもんだね。一晩で村の人気者になったようだよ」
 
「芸は身を救うとはよく言ったもんだな」
 
「ほんとだねえ。もうこの村に、あの二人を知らないものはいないだろうね。さすがのホーラーも気を許すんじゃないかね」
 
「ホーラーか、あいつまた特別だからな」
 
 トラピさんとナミナさんはきっと何か新しい情報を得ただろう。ホーラーだってあの楽しさをわからないはずがない。
 
「そうだ、あの、スロウという名前の人は村に来てませんか」
 
「お祖父さん、スロウだって、知ってるかい?」
 
 お祖父さんは煮物を食べることに気持ちがいっていて、だまって首を横に降るだけだった。スロウさんはまだここには来ていない。というより現実の世界ではスロウさんはウォーターランドにいるということなのだろう。それを聞いて少し安心した。港に戻ったらスロウさんに手紙を出して、ここに来てもらおう。湖に潜ってもらえればわかることがありそうな気がする。
 
「コノン、この薬草もジノ婆に教えてもらったのか?」
 
「そうだよ。腰痛に効くって」
 
「そうか、それはありがたいな」
 
 気がつかなかったけれど、お祖父さんは長年の漁で腰を痛めているのだろう。投網を引くにも相当の力がいるはずだ。大漁を喜んでばかりいられないのかもしれない。それをまったく顔に出さないのがお祖父さんらしい。
 
「お祖父さん、ノイヤール湖に潜った人っているんですか?」
 
「若い頃はしょっちゅうだな。ただ、深いぞ」
 
「オルターさん、きれいなものには気をつけたほうがいいって言うだろ」お祖母さんが忠告するように言った。
 
「湖に落ちて戻ってこなかった人も多いので」コノンさんもお祖母さんと同じ考えのようだ。
 
「女子供はだめだな」
 
「また、その話かい」お祖母さんは納得できないようだ。
 
「コノンさん、緑の石は湖底にあるって言ってましたよね」
 
「昔はそういう強者もいたってことだな」お祖父さんが答えた。
 
「あんたは行かなくていいからね」お祖母さんが釘を指すように言う。
 
 鍋いっぱいにあった煮物が半分ほどになってみんなのお腹がいっぱいになったところで、お祖母さんがお茶を入れに水場に立った。
 
「これがノートなんですね」コノンさんが袋を覗くようにして言った。
 
「それは印刷機で刷ったものなので本物ではないのですが、かなり忠実ですよ」
 
 コノンさんが紙をめくるのを、お祖父さんが興味深そうに見ている。
 
「こういう強者もいたというわけだな」
 
「ほんとうですね。知らない世界への一人旅ですからね」
 
「でも、どうしてそんな旅をしたのでしょう」
 
「どうしてなのかは誰にもわからないさ」
 
「ゆるりと動く時間を探しに行ったようなんですけど」
 
「ゆるりと動くってなんだい」お茶を持ってきたお祖母さんが聞いた。
 
「時間だってゆっくりしたいときがあるってことだ」
 
 お祖父さんが言ったのを聞いて、コノンさんがクスリと笑った。

第5話 光りもの

 部屋には小さな暖炉がある。この時期になるとさすがに暖房がなしでは過ごせない。部屋の隅には薪が重ねられていて、いつでも暖を取れる気遣いがうれしい。
 
 ノートを預けてしまうと本当に何もすることがなくなってしまい、夜がとても長く感じられる。それでなくても冬の夜は長いから、夏の頃に比べると倍ぐらいにもなったような気さえする。
 
 コノンさんは明日はお祖父さんとうさぎの餌のユイローを集めに行くということだったけれど、さすがにいっしょに行くという希望は聞き入れてもらえなかった。当然と言えば当然の話なのだけれど、お祖父さんからも休んだ方がいいだろうとたしなめられてしまった。仕方がないので、ユイローの根に実がなっているかどうかだけ見てきてもらいたいとお願いした。ユロミにこだわる理由についてはとくに聞かれなかった。実を持ち帰れば庭でユイローを栽培できるかもしれないと思ったのかもしれない。
 
 部屋にあるのはベッドと暖炉と作り付けの棚だけで、時間をつぶせるような気の利いたものもない。唯一の楽しみかもしれない窓も夜の間は防寒のために雨戸が閉められていて、外の景色を楽しむこともできない。ただ、部屋の壁は漆喰が塗られているので、石のような冷たさを感じることはない。
 
 することもなく向こうの世界にいた時のことを思い出している時に、ネモネさんがここで水を集めていた話はどうなっているだろうと思った。意識世界が夢のようなものであると考えるなら、こちらと矛盾があってもおかしくはない。ただ、あれだけ寸分も違わない世界を見せられると、逆にこちらの世界が以前とまったく同じであるかどうか確信を持てなくなってしまう。気になり出すとまたいつものように目が冴えて眠れないので、炊事場に下りてネモネさんの使い残した瓶があるか見てみることにした。
 ネモネさんはもうスレイトンケープのホテルに帰ってしまったから、水集め用の瓶がまだ炊事場に残っているかどうかはわからない。本人は船長の船で島に戻っているだろうということを考えると、置いていても使い道もないからお祖母さんも処分してしまったかもしれない。
 
 暗がりの中で卓上のランプを手探りで探していると食器棚の陰にぼんやりとした明かりが見えた。青緑色の光が暗がりの中で微かにうごめいている。さすがに気味が悪かったので、近づく前にランプに火を灯すと、そこには無造作に並べられた瓶があった。おそらくこれが、ネモネさんのために集められた瓶だろう。中に入れられているのがミドリモであることはすぐにわかった。水の入った瓶の底の方に沈殿したミドリモが限りある力を振り絞るようにして光を発している。紙のラベルにお祖母さんの字で「藻」と書かれている。ドットトラウトがくわえていたものをそのまま瓶にいれたのだろう。このままにしておくと苔のようにどんどん増えて行くのだろうか。増えれば、これを釣りの餌にすることもできるし、電気もない村では足元を照らす照明の代わりにもなりそうだ。
 ミドリモの後ろの瓶に別のものが入っていることにすぐ気づいた。そちらのほうの瓶の中には小さな虫が一匹入っていた。やや丸みを帯びた瓜のような形が可愛らしい。大きさはてんとう虫を一回り大きくしたぐらいだ。瓶をなんとかよじ登ろうとしているけど、何度やってすべって上には上がれない。かと言って瓶には羽を広げられるほどの空間もない。何度も繰り返される動きを見ているうちに小さな虫に情が移ってしまい、不憫に思えてきた。なんだか意識世界にいる自分を見ているようでもあった。この虫もあやまって瓶に落ちたのだと考えて、瓶から出してやることにした。
 逆さまにした瓶からぽとりと落ちた虫は、一瞬何が起きたのかわからなかったのか、じっとしたまま動かない。ちょっと心配になって指先で触ると意識を取り戻したのかあわてて動き始めた。その瞬間、お尻の方がぼおっと青い光を発した。
 
「あ、空虫……」
 
 あわてて瓶に戻そうとしたときには、その身体は自由を取り戻した喜びに力を得て、指先をするりとると、薄暗い部屋の中に青い光の線を引きながら何回となく旋回しながら高い天井の上の方まで一気に上がって行った。
 数百年も前にいたという空虫は、この村のどこかで小さな命を脈々とつないでいたのだ。ノートの記述がここでも現実に起こっていることに身震いするほどの感動を覚えた。ノートでしか知らない空虫が今目の前を舞っている。ジギ婆さんと見たという夕日の光景が自分の体験のように浮かび上がってきた。
 青い光を見た時に、すぐに捕まえて瓶に戻さないとと思ったものの、そうすることに何か価値があるのだろうかと考えてしまった。営々と命の営みを続けている彼らの自由を奪うことなどできるわけはないし、悪くするとそれによって世界の一部が崩れてしまうような気さえした。空虫がいたことでノート氏との時間が途切れず、今もつながっているといううれしさでいっぱいになった。この場所とこの時間が一本の線でつながっている。このこと以上に大切なことがあるだろうか。
 空虫の青い光を見ていると炊事場から離れることができなくなり、椅子に座ったまま天井をふわふわと舞う様子を眺めていた。ネモネさんが水を集めていた瓶の中で空虫を見つけたのは偶然ではないような気がした。何かに少しずつ引き寄せられている。時間は戻っていないけれど、すべての出来事が当時の時間に近づいているような気がする。
 もう一度会えるかどうかもわからない空虫の青い光は、記憶のページに青インキで文字を書くように天井高く舞い続けた。青い光と瑞々しい青いインキがひとつになっていく。
 
 気がつくとテーブルに伏せたまま朝の日差しを受けていた。ランプは片付けられ、肩には毛布がかけられていた。お祖母さんかネモネさんがかけてくれたのだろう。すぐに天井の方を見上げたけれど、空虫は見つけられなかった。朝になってどこかに隠れたのか、もっと広い世界に飛んで行ったのか。
 空虫の入っていた瓶だけがテーブルに残った。手作りと思われる少し歪みのある瓶は、なにの意味も持たなくなったかのように生気のないくすんだ色に見えた。
 
 カーテンを開けると気温が低いせいで、窓の外にはもやが立ち込め、まったく視界がきかなくなっている。動物の鳴き声も聞こえず、まるで黄泉の世界にでも来てしまったような静けさだ。
地面には薄く雪が積もっていた。今年はじめての雪なのだろうか。


読者登録

noelさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について