目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
奥付
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第35話 キノコステーキの薬味

 結局、その夜は、だれも戻ってくることはなく、いつもの顔ぶれでの夕食になった。テーブルにはミリルさん特製のキノコ料理が並んだ。
 
「このキノコは肉厚でステーキを食べてるようですね。どうして秋のものってこんなにおいしいんだろうね」
 
「オルターさんは、ステーキを食べたことあるんですか」とネモネさんに聞かれた。
 
「いや、ステーキってこんなものかなと思ってね。昔写真で見たのに似てたので」
 
「お肉だけではなくて、魚にもステーキもあるし、キノコのステーキだってありですよね」ミリルさんが言うと、コピが「ステーキおいしい」とうれしそうに言った。コピは穴牡蠣よりもキノコのほうが好きなのかもしれない。
 
 実際、しっとりして歯ごたえのある肉厚な食感がなかなかめずらしく、肉とは言わないまでも植物とは思えないボリューム感を感じる。みんなでステーキキノコという名前にしようという話でもりあがった。
 
「えっと、このコショウのようなつぶつぶのものはなにかな?」
 
「ユロミ!」コピがステーキを教えてもらったお返しとでもいうように答えてくれた。
 
「ちょっと痺れるような味ですよね。それ、ユイローの実なんですよ」ミリルさんが説明をしてくれた。
 
「あ、これユイローの実なんですか。それでユロミなんだ。コピちゃんは、いろいろ知っててすごいね」ネモネさんが感心したように言った。
 
「これもコピが採ってきたのかい?」と聞くと、コピの顔と同じぐらいのキノコを前に慣れないフォークとナイフで格闘しながら頷いた。
 
「ミリルさん、ユロミって子供が食べて大丈夫なのかな」と聞くと「コピちゃんは甘いトウカの実にしてあるのでだいじょうぶですよ」という答えだった。
 
「あ、そういうこと……でも、大人も食べ過ぎない方がいいかもしれないね」
 
「キノコ中毒とかですか?」ネモネさんが聞いてきた。
 
「このキノコは前からみんな食べてるからだいじょうぶですよ」とミリルさんが説明した。
 
「ああ、キノコじゃなくてユロミのほう。なんというか、ユイローって覚醒作用があるようだから。実も同じかなって、ちょっと思っただけなんですけどね」
 
「島の香辛料でユロミも使う人は多いですけどね」ミリルさんが、不思議そうな顔をしてこちらを見た。
 
「ないないさんも好きでしたか?」気になって聞くと、「ないないさんも大好きでしたよ」と言いながら、ユロミの入っている缶を戸棚から出して見せてくれた。缶にはコピのユロミとミリルさんの手書きで書かれていた。ユロミもコピが集めてくるのだろう。缶の蓋を開けるとさらさらとした小さな黒い粒がいっぱい入っていた。ツヤのある均質な実が野生のものとは思えない。ほんの爪先ほどの大きさなのに完全な球形と確信できるほどに美しい。粒の大きさも寸分の違いもないようだ。
 
「オルターさんはあまり好きじゃないですか?」
 
「いえ、そういうわけではないですよ。おいしくいただいてますから」
 
 そう答えてはみたものの満月の夜にユイローに実を頂くというのは、まったく気にならないわけではなかった。すでにキノコステーキはほとんど食べてしまったあとだし、今更何を考えてみても始まらないのだけど。
 
 窓の外を眺めると雲が垂れ込めていて、夕焼けは見られなかった。結局ノーキョさんはこちらには着かなかったけど、目で見てもわかるほどの早さでどんどん近づいて来ている。帆をあげている様子もないから、もともとついていた発動機でモーターを動かしたのか、持って行ったプロペラがうまくいったのか。いずれにしても順調に帰途につけて良かった。
 
「帰りは早そうですね」ヨットのほうを見ているのに気がついたミリルさんが言った。
 
「行きと大違いだね。これでタークさんも大丈夫だ」
 
「タークさん?」ネモネさんが怪訝な顔をしてこちらを見ると、すぐに「じっじ、ぼけぼけ」と言いながらコピがころころ笑った。笑い茸でも食べたように笑いが止まらない。
 
「だいじょうぶですか? 今夜釣りなんかして、溺れたりしないでくださいね」またミリルさんの心配性が始まってしまった。ただ、溺れるということばは耳が痛い。
 
「私もなんだかお酒を飲んだような気分になってきましたよ」ネモネさんがぽーとした顔をしながら言った。
 
 子供だけじゃなく、おいしい水をこよなく愛するネモネさんのような人にも、ユロミの刺激は強すぎるのかもしれない。ミリルさんが水をすすめたが、ちょっと横になりますと言うとあっという間に眠ってしまった。
 
「キノコのせいじゃないですよねえ。ユロミは刺激が強すぎるのかしら」ミリルさんが気にしている。
 
「やっぱり、ユロミは、あまり使わないほうがいい気がしますねえ」
 
「せっかく、コピちゃんが集めてくれたのに」とミリルさんが残念そうに言うと、コピはまるで聞こえてないように、またステーキを食べはじめた。
 
「ユロミというのはいつごろなるものなんですかね。あまり見たことないですが」
 
「あ、これは、土のなかになるらしいですよ。一年中なっているんだとか」コピから聞いたという話を教えてくれた。コピは聞こえてないような顔をしている。
 
「1年中……」
 
「変ですか」ミリルさんが首を傾げてこちらを見ている。
 
「一年中じゃなくて、月に一度ということでは……」
 
「どうして月に一度なんですか?」
 
 ミリルさんにはなんとなくそう思っただけと答えたけれど、そうだとしたら、ユイローと赤い月の関係はますます強くなるような気がした。
 そのときネモネさんが寝返りをうってこちらを向いた。
 
「ミーム、ここの水……ウォーターランドと……みんなに……伝えないと……」
 
 寝言だった。
 ミリルさんが「ネモネさんは寝ても水のことで頭がいっぱいみたいですね」と言って笑った。

第36話 かくされたもの **

***** ノート *****
 
黒く輝くユロミが未知の旅路の扉を叩くとき夕日のように熟した満月がぬるりと剥がれて崩れ落ちると息を潜めていたその時間の織りなす世界の膜が身をよじりゆるりと移ろいはじめ間もなく 見る人もない漆黒の闇の静寂が世界に降り注ぎ無限をつなぐ永遠の流れに身を委ね弔ういまそのとき 新しく生まれた光の子に照らし出されたすべての生き物と草木に片時の命を授け給うあらゆる形を 創造し喜びと悲しみを司る魂を吹き込みそして消える世界と生まれる世界が寸分の差もなく重なりながら表が内包され裏が表出する記憶と軌跡が仮想の混濁から解き放たれる
 
***** ノート *****
 
 ノートを書いていたのは覚えているけど、書き終えたことさえもはっきり記憶にない。ユロミを食べたせいか頭の中がすっかりぼやけている。読み返してみてもこれでは何を言いたいのかまるでわからない。ほんとうに自分で書いたというのなら、潜在意識の何かが勝手に書かせたのだろうか。書いた本人にもわからないのだからどうにもならない。仮にこれと同じようなことをノート氏が書いていたとしても誰にもその意味がわかるはずもない。ただひとつ、今はユロミに中毒性がないことを祈りたいだけだ。
 
 灯台に戻ったこともよく覚えていないから、少し寝てしまったのだろう。おとといの寝不足が今になってこたえているのかもしれない。
 物音がしたような気がして インクの名前を闇に向かって呼んでみた。インク、インクという声だけが夜のしじまに共鳴しながら静かに消えて行く。この声はどこまで届いているのだろう。
 
 東の空を見上げると、夕方までの曇り空はどこに行ったのか、昨日とは別のもののように大きく膨らんだ月が浮かんでいた。背景の夜空とまったく別の世界にあるとでもいうようにその存在を誇示しているように見える。たとえ後ろ向きに立っていたとしてもその存在感を感じずにはいられないほどの圧倒的なエネルギーを湛えている。赤い闇が世界を開く、赤い灯台、赤いろうそく、赤い月。緑のサメ……緑の……。
 
 赤い月が真夜中に少しずつ濃く熟れていくのを見ていると食事の前に見た緑の手帳のことを思い出した。自分がマリーさんにもらったものはどこに置いてきてしまっただろう。公書館で棚配置を書いたところまでは覚えている。二度目に一人で行った時も棚の配置を手帳で確認したから、あの時もまだ持っていた。ないないさんのところにあった手帳は、自分の持っていたものとまったく同じ種類のものだ。もしかすると、マリーさんにもらったあの手帳をどこかに忘れてしまってそれをだれかが持ってきただけということはないだろうか。まだ、釣りに行くまでには時間があるので、もう一度手帳を見に行ってみることにした。
 
 赤い月の日にユロミをたっぷり食べて、意識がはっきりしないままに一人でないないさんのところを訪ねるのもそれなりの覚悟がいる。そこになにがあるわけでもないかもしれないけど、わからないという不安がつきまとう。それでも赤い月明かりが誘うように足元を照らし出す。赤い地面に抜けるように黒い影が映る。エバンヌは珍しく明かりがついていない。ノーキョさんも釣りに備えて仮眠をとっているのだろう。
 小屋に入ってみると手帳はこの前と同じ場所にあった。裏表紙にはシナモンと書かれている。もう一度赤い月にページを透かしてみると、記憶していた紋章も浮き出た。それが自分のもらった手帳とまったく同じ紋章だったかどうかはわからない。最初のほうのページには数字と記号でメモがしてあるけどその意味はよくわからない。落書きの用にも見えなくはない。ただ、どこかで見たことのある文字のような気もする。思い出そうとするとその記憶が逃げるように遠ざかる。
 ページをめくっているうちに、最初の方が破り取られていることに気がついた。もしかしてと思って、家の中に破り捨てられたページはないか探したものの、自分が書き残した公書館のメモは見つからなかった。もし、みつかったとして何がわかるだろう。それに対する答えはなにも持ち合わせていなかった。
 
 結局あらたに得られるものもないままに、灯台に戻ってまた出かけるまでの時間つぶしをすることになった。期待するようなことが見つけられないとそれはそれで何かを見落としているのではないかと不安になったりするから始末が悪い。ふと思い出してコピが見つけた紋章の入ったページを改めて手にして見た。よくよく見るとその植物はユイローの群生を描いたもののようだった。いろいろな絵を書いた中でどうしてユイローの絵だけがここに残っているのか、無理にこじつけるつもりはなくても偶然ではないような気がしてしまう。このページだけが意図を持って残されたとしたら。
 薄くかすれている絵にユロミが書かれていないか目を皿のようにして見た。ユロミの覚醒作用のせいか文字が霞んではっきり見えない。ときどき揺れるように視界が歪む。粒のように見えるものも経年によるくすみやシミとの違いをはっきり識別できない。絵の中に隠し文字でも隠されていないかともう一度じっくり見直して見た。ユロミのお陰で二重に重なる絵と格闘しながらなんとか見つけたのは草の間に紛れ込んでいた一対の目のようなものだった。その二つの線はユイローの葉にも見えるけれど、草の間に身を潜めている細く縦に割れた目に見えなくもない。ユイローの草に隠れるほどの動物であればそれほど大きくはない。
 
 きまぐれ……ノートの主がこの島で出会った唯一の友。この目が気まぐれだったのか。ユイローの後ろに姿を隠すきまぐれの目がじっとこちらを見ている。

第37話 摘み取り

 夜明け前まではまだ3、4時間ある。寝るほどの時間はないし、起きていてもいよいよすることもなくなってきた。赤い月を眺めているにしても限度というものがある。たとえずっと見ていられたとして、それが目によいこととも思えない。眩しい夕日を見続けるのとさほどの違いがないだろう。違うのは熟したようなぬめりがあることだけだ。あまりに手持ち無沙汰なので、時間つぶしにユイローの実を掘り起こして見ることにした。
 ユイローは灯台の周りにはいくらでも生えているので気に留めて見たこともない。それぐらいなら葡萄草の実でも集めていたほうがましだし、少しがんばればピーチプルだって見つけられなくはない。ユイローに意味があるのは葉を風呂に入れると身体の疲れが取れるという言い伝えがあるぐらいだ。酒は百薬の長というのにちょっと似たようなあの酔い心地がそいういう話を生んだのだと思う。
 
 そもそも、この島にいて野草を抜き取ろうと思ったこともないし、雑草というような考えもない。それぞれの種が自然に繁殖するのを楽しむことこそがこの島で生活する喜びなのだから、草取りなんて家を建てるとき以外に考えたこともない。枯草や枯葉は土に還り腐葉土として次の命を生み育てる肥やしとなるだけのことだ。そう考えるとコピがどうして地中にあるユロミを見つけたのかもよくわからない。たとえみつけたとしても、普通なら地面の下に小さく生っている粒を口にしようなんて思わないだろう。あの子の感覚はいつもみんなと違う。それが自然と共生する正しい生き方なのかもしれないけどなかなか真似はできない。
 
 適当に掴んで引き抜こうとすると、これがなかなか思うようにはいかなかった。思いのほか根がしっかりと張っているようだ。これを抜いて実を集めるのにはなかなか根気がいる。あんまり抜けないので、灯台においてあったスコップで根元から根こそぎ掘りおこしすことにした。知らない人が見たら墓堀盗賊にでも見えたのではないだろうか。
 やっとの思いで抜いてみると、さぞやたわわに実がなっているのかと思いきや、実際には一株に10粒程度のことで、たわわにと言うには程遠かった。あの缶にいっぱい入っていたユロミを集めるのにコピはいったいどれぐらいのユイローを掘り返したのだろう。考えただけでも気が遠くなってしまう。缶にコピのユロミと書いたミリルさんの気持ちが少しわかったような気がした。
 
 1時間ほどの収穫作業を終えると、土をかぶった実をこぼさないように大切に持ち帰って早速水洗いをしてみた。すると夕食で食べたのと同じように黒く輝く真球の実が現れた。興味本位で擦り潰してみると、中は純白だった。匂いも嗅いでみたけれど、無臭に近く香料のようなものでもなかった。ただ、鼻の嗅覚に届いた時、軽くめまいがした。ひと粒つまんで歯先で砕いてみると、舌先が小さく震えた。味覚というよりは、しびれという方が的を得ている。人間おいしいものばかり食べていると、最後は珍味のような味を求めるようになる。大人の味覚は自然を食べ尽くした飽食の成れの果てかもしれない。そうするとこういう変わったものを口にしたくなるのだろう。数粒食べてみると鮮度がいいせいか、純度の高いアルコールを飲んだように意識が夜の闇の中を移ろいはじめた。
 
 ちょうどそのとき、頭の上に低く響く機械音が聞こえた。あの、ブオーン、ブオーンという飛行船の音だ。窓から見ると赤い月に照らされた巨体がさらに大きく、薄気味悪く灯台の真上にのしかかっていた。飛行船も灯台を目指してくるのだろうか。灯台が何もかも集めてくる。それにしてもこんな日にやって来るとは、あまりにもタイミングが悪すぎる。また、あの飛行士が乗っているのだろうか。そうだとしたら、誰かに依頼されて来たわけだから、またボルトンの黒服が乗っている可能性が高い。考えれば考えるほど、めんどうな時に来てくれたものだ。それもなんでこんな深夜なのか。雲が多いので、飛行船がどこにいるのかもよくわからない。音は頭の上を通り過ぎると半島の方に息を殺すようにゆっくりと移動して行ってしまった。
 もし、夜明け前にあのドットトラウトの群れがあらわれたら、ボルトンもそれを目撃してしまうかもしれない。それではあまりに情けない話ではないか。彼らの先進的な科学技術を持ってすれば、島の秘密のすべてを握られてしまうのではないかという不安が頭をかすめた。
 
 音が通り過ぎたのを確認すると、急いで荷物をまとめてノルシーさんを起こしに行った。ところが、エバンヌの店内を見渡してもノルシーさんの姿はなく、屋根裏の寝室ももぬけの殻だった。準備していたはずの道具もなかったので、半島の方で待ち合わせるつもりでいるのかも知れないと思った。一応、エバンヌのすぐ東側にあるボート乗り場に向かうとまだ別のボートが残っていたので、そのまま乗り込んで半島に向けて漕ぎ出した。

第38話 走る光

 それにしても、夜中に来て挨拶もしないで半島の焼け跡の方に行くというのはどういうことだろう。何もなければ、いつもの発着場に着陸するのが当たり前ではないか。向こう方に行ってもあの飛行船が降りられるほどの場所はない。空から海に開いた大きな穴を見つけられてしまうかも知れないと思うと気が気でなくなる。オールを持つ手にもいつになく力が入り、ボートもぐいぐいと前に進んでいく。
 
 海に出て少ししたときだった。クォオオーンというガラスの器に共鳴しているような透明な音が島一帯に響き渡った。地面が軋んでいるようにも思える奇妙な音だ。赤い灯台に行ったときに夜空が崩れ落ちた時にもこんな音がした。その音とも響きとも言えない地鳴りのようなものに気を取られていると、ドシンという音とともに、全身を大きな衝撃が走った。
 ついに来た。後ろを見ると巨大なヒレが下から押し上げるようにボートにぶつかっている。よろけて思わずボートの手すりにしがみついた。
 
 しばらく、潮の打ち寄せる音だけの静寂が当たりを包んだ。そのとき、どこからか聞いたような声がした。
 
「どうする……戻してやれるか……ぶく、ぶく、ぶく」
 
 その声はまるで頭の中で誰かが勝手に話しているように聞こえた。外から聞こえているのではない。声が聞こえているのは頭の中からだ。何を戻せと言っているのか。いや、戻してやるとも聞こえる。これはミドリ鮫の声なのだろうか。それ以外にこの海原には何も見えない。
 
「向こうはこちらの形……こちらの影……」
 
 意味がわからない。向こうと言うのは現実世界のことか、本当の島の生活に戻れるのだろうか。それともまったく違うところのことか。形がどうしたというのだ。何を言いたいのだろう。こちらが何かを考えるとそれに合わせるようにミドリ鮫の内側の緑の光が一斉に点滅している。
 
「会いたい、会いたいか、会えるか……こぽ、こぽ、こぽ」と一方的に話していたかと思ったら、こちらの気持ちがわかったとでもいうように、一呼吸置いてミドリ鮫はボートを大きく前に押し出した。
 
 陸の方を見るとエバンヌにはまだ明かりがついていない。ノルシーさんはどこに行ってしまったのだろう。エバンヌのほうに向かって大声で呼んでみても何の反応もなかった。誰かこの状況を見ている人はいないだろうか。だれでもいいから見てくれていれば。いや、ボルトンにだけは見られたくない。 
 頭が混乱しはじめている。心の準備はできていたのではないのか。それでも突然すぎたのか。今何を考えればいいのかさえもわからなくなってきた。
 
 ミドリ鮫は灯台の先まで来ると半島を目指すかのように方向を急に変えた。こちらが振り落とされそうになっていることなどお構いなしだ。それどころかボートがいつ壊れてしまってもおかしくないほどの衝撃が続き、そのスピードもモーターボート以上の早さになっている。ときどき背中に乗ったまま空中に押し上げられ、ミドリ鮫の背中から落ちそうにさえなる。落ちて鮫の尾びれにでも叩かれでもしたら、確実に命を落とすだろう。
 
 半島の先まで来ると、ミドリ鮫は海底の方に向けて頭を大きく下げた。ボートだけ海面に残されるかもしれないと思ったけれど、ミドリ鮫の巨大な身体がねじれていくのにあわせて大きな渦ができ、乗っていたボートもろとも無数の泡といっしょに一瞬にして飲込まれてしまった。
 
 同じだ、また闇の中に飲み込まれて行く。穴牡蠣がはい出してくるあの穴に向かっているのだろうか。ドットトラウトはどこにいるのか。彼らがこの闇を照らしてくれはしないのか。もう少しですべての謎が解き明かされるはずではなかったのか。今、それが明かされようとしているのかどうか、それさえもわからない。
 
 周辺を埋め尽くしていた泡が身体からどんどん離れて行く。そのあとには赤い月の明かりも届かない暗闇だけの世界が待っていた。身体が方向感覚を失い、呼吸もすでに止まっているように感じる。水の冷たい感覚は徐々に消えて行き、浮遊感のみが残された。乗っていたボートが紅葉した木の葉のように闇の先に吸い込まれて行くのが見える。先を行く鮫の姿だけがかろうじて移動していることを感じさせてくれる。鮫の姿がなければ自分がどうなっているのかさえもわからないだろう。今、この世界にあるのは、自分とミドリ鮫とボートだけだ。これでまた、溺れたという話になるのか……考えたくない。
 
 しばらくしたところで、光の筋が反対方向に向かって走って行くのが見えた。すぐにそれは幾百、幾千、幾万の数となり……まるで光の柱のようになっていった。ノイヤール湖で天に向かって立ち上がったものと同じだ。それはあまりに美しく、あらゆる命の根元のようにさえ見えた。目にも止まらない早さと、焦点も合わせられない輝きに、それがドットトラウトかどうか確認することもできなかった。
 気がつくと前を泳いでいたはずのミドリ鮫の姿は見えなくなり、光の流れは跡形もなく消え失せてしまった。そしてまた、時間も方向もなにもない闇だけの世界に取り残された。急に思い出して、ポケットの中に虹の石があるかどうかを確認した。それ以外に自分を守ってくれる物はないような気がした。目に見えない世界はどういうわけかいくつもの渦が大きくゆっくりと巻いているように感じられる。どちらにも流れず、淀んでるかのようにゆるく溜まっている。流れることを忘れた時間の中に取り残されてしまうと、何かを考えることも意味をなさなくなるように思えてくる。きっと生きていることさえ価値を持たなくなるのだ。すべてが止まった時に時間はなくなり、命さえも消え失せてしまう。そして光さえも……。
 

第39話 時の流れ

 意識世界が夢と同じなのであれば、今まさに目醒めの時を迎えようとしているということなのだろう。夢が終わる時に何もない真っ暗な闇が訪れるように。
 これが深い眠りだったのか、浅い眠りだったのか、起きたその時にすべての真実がわかるのかもしれない。目覚めたあとにこちらであったことを忘れないで、現実のウォーターランドにいる仲間に伝えていかないといけない。きっとそれがメーンランドに来て、オールドリアヌを訪ねた意味になるはずだ。
 
 光が失われ闇だけになると、目を開いている意味もなくなってしまう。どうせ何も見えないし、何かが見えても自分の思うようにはならないと割り切ると気持ちが少し楽になる。2度も3度も同じ経験をすればそのあたりは心得たものだ。
 無理して何かを見ようとしないで目を閉じてみると、想像していたのとは逆に頭の中にたくさんのイメージが現れてきた。過去の記憶にあるものもないものも入り混じって、時間の流れと無関係に現れては消え、消えては現れる。つないでいくとどこかで見た場面になりそうではあるけど、どこかに無理があり、それを強引につないでしまうと自分の経験だけでは計れないものになってしまう。これは夢を見ている感覚に近いような気もする。
 
 記憶と関係ないイメージ映像が表出しているということなら、自分とは無関係となるのだけれど、時折現れるミリルさんが新聞を印刷するところやノーキョさんと雨宿りをしたときのことなど、記憶にそのまま当てはまるものもあるのでまったく無関係とは言い切れなくなってしまう。
 仮に知っているものの場合でも、それは自分が見ている目線ではなく、誰かから見られている第三者の視点になっている。知らない誰かの目で切り取られたイメージは居心地が悪く不安を掻き立てる。このイメージはいったいどこから出て来るものなのだろう。
 意識世界の島にいたときに白い灯台と赤い灯台が重なって見えた時のことを思い出した。あれは今見えているのと同じように、イメージが時間を超えて重なっていたのかもしれない。ノイヤール湖で見たコピの映像も同じように思える。あれも意識世界の映像で、それが現実世界にこぼれ出していたのだろうか。もしそうであれば、このイメージ自体が時間の記録そのものなのかもしれない。時間を見るという考えは神をも恐れない驕りのような気がして身震いした。
 
 幾重にも重なって行く映像は集合と離散を繰り返し、入れ替わりが激しくなるとまるで万華鏡のように見えはじめた。船長と船で島を出た時と同じだ。無数の光の反転に頭が覆い尽くされてしまう。大量の光に包まれたようではあるけども、それが闇の実態のようにも思えなくもない。絵の具ですべての色を混ぜつづけると黒になるという話を聞いたことがある。おそらく光もすべてが集まるとそこに闇が生まれるのだ。もし、そうだとすると今見えていたものは光であって光ではなかったのかもしれない。
 
 しばらくすると、光の痕跡のひとつも残らない吸い込まれるような暗黒だけの世界に戻った。そしてそこから無数の六界錐が形を見せはじめた。何も見えないはずなのに六界錐だけが網膜に映像を結ぶのだ。上も下もなく、方向の定まらない力に翻弄されながら浮遊している。同じ六界錐でも大きさや長さはそれぞれで、長いものは先を見定めることもできず闇の先を突き抜けているようにも見える。距離感もつかめないので大きさははっきりわからないものの、長いものは何キロもありそうだ。大きなものほど浮遊する動きが遅く、静止しているようにも見える。
 
 閉じていた目を開いてみると、そこに見えたのは閉じていた時と同様に六界錐の浮かぶ闇の荒野だった。目を閉じても開いても同じものが見えていたのだ。この世界は自分の外にあるのか、中にあるのか。それさえもわからなくなってしまった。
 暗闇が続くうちに睡魔が襲ってきた。目に見えるものと頭でイメージするもの、それに夢が加わったときに自分の存在はいったいどこにあることになるのだろう。インワールド、アウトワールド……それとも……。


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