目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
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第33話 重なる影

「ないないさんに食べてもらわないとですよね」ミリルさんが言うと、コピが恨めしそうな顔をして穴牡蠣を覗き込んで指でつついた。
 
「穴牡蠣を獲るのって大変なんですね」
 
「牡蠣は冬場のものだから、潜るとなると楽じゃないですね」
 
「ノルシーさんにお礼言わないと」
 
 ノルシーさんが一人でほとんど食たからこういうことになったのだからと言うと、ミリルさんはそれもそうですねと言いながら笑った。
 
「それで今夜は、幻の光魚の釣りに出かけることになりました」
 
「釣れそうなんですか?」ミリルさんは気の乗らない顔をしている。女性は釣り自体にあまり興味もないのだろう。
 
「まあ、当てにならないと思うかもしれませんけど、居場所の目星はおおよそついているので少なくとも坊主ということはないでしょう」
 
「ボウズってなあに」コピが面白いことを聞いたというような顔をした。
 
「コピちゃん、一匹も釣れないことを坊主って言うのよ」とミリルさんが言うと、なにかはぐらかされたとでも思ったのか、つまんなさそうな顔をしてまた牡蠣の入った入れ物を覗き込んだ。
 
 机の上には読みかけのロビンソンクルーソーの本がおいてある。この前読みかけにしたまま、持ち帰るのを忘れてしまったのだった。本棚に戻されずにそのままになっているのもリブロールらしい。ちょっとしたミリルさんの気遣いだ。これもここの居心地の良さを醸し出す理由になっている気がする。
 読みかけていたところには栞が挟んである。リブロールにはお客さんそれぞれの色や形の栞が決まっていて、挟み忘れるとミリルさんが入れておいてくれる。それを見ると誰が何を読んでいるかわかって、うたた寝とは別のリブロールに来る楽しみのひとつになっている。植物の本にはノーキョさんとスロウさんのふたつの栞が仲良く挟まっている。こういうのもお互いに気兼ねすることのないこの島ならではのことだろう。
 ロビンソンクルーソーのページをめくりながら、結末はどうなるのだろうかとぼんやり思った。無事に助かりましたというハッピーエンドなのだろうか。もしかしてそれがノート氏その人の体験だったということはないだろうかと想像してみたりした。そうであれば、とんでもなく楽しい1冊になるのだけれど。
 意識世界と思っているこの場所に来て数週間になるけれど、前にいたウォーターランドと何ら変わることのない交流と時間の流れにかえって違和感を感じるときがある。突然違う時空に流れ着いたのに、こんなにのんびりした生活を過ごすのも変な話ではある。どうせならロビンソンクルーソーのように無人島であってくれた方が納得がいくというものだ。現代のロビンソンクルーはなかなか面倒なところに流されてしまったようだ。
 
「オルターさんまで釣りに出かけたまま帰って来ないなんてことにならないでくださいね」ミリルさんが思い出したように言った。
 
「それでもまだ牡蠣獲り名人のノルシーさんもいるから」と言うと、「そんな冗談を言ってる場合じゃないですよ」と真剣な顔になって怒った。ミリルさんが怒るのはめずらしい。次々に人がいなくなるから本当に心配で仕方がないのだろう。ちょっと気遣いのなさを恥ずかしく思った。
 
「コピもいくの?」
 
「だめだめ、コピちゃんは行かないの」と、ミリルさんが語気を強くして言った。
 
 コピがまたつまらなそうな顔をしてこちらの様子をうかがっている。こちらの様子をうかがいながら、何か言ってくれというような顔をした。コピはミリルさんとリブロールで留守番しててと言うと、「実験班長もする」と言って水を撒く格好をして見せた。実験をしていた先生のノーキョさんがいないのだからコピの張り合いもなくなっているのかもしれない。水撒きの動作もあまり気持ちが入っていないように見えてしまう。
 
 秋も深まってくると、何気無い会話をしていてもどこか心寂しい気分になってしまう。これが新緑の季節であれば、もっといろいろ楽しいことも考えられるのだろうけど、秋のかさかさした風と虫の音はそうさせてくれない。それでもロマンだと言ってはしゃいでいる男たちもいるし、ミリルさんには心配ばかりかけているのだろう。
 
 昨日から気になっている空模様のほうはというと徐々に雲が広がりはじめている。今日の天気はどうなるのだろうか。このまま雲が多くなっていくと赤い月も見られないかもしれない。空の天気も気になるところだけど、それ以上に時空の予報でもあるならば知りたいものだと思う。これだけいろいろなことが月齢と合わせるように起きると、もっと細かな事象と関連した何かがあるのではないかと思わずにはいられない。それと人がいなくなることとにもなにかつながりがあるような気がする。
 
「人恋しい季節だね。やっぱり秋は別れの季節なのかな」と思わず言わなくていいことが口をついて出てしまった。
 
 それが聞こえたのかどうか、ミリルさんは机の上に置いてあった常連さんたちが使うカップを並べ直して頬杖をついたかと思うと大きくため息をついた。
 
「みんなどこに行ったの」と独り言のように言うと、机に伏せるようにして頭を乗せた。
 
 コピがそれを見て、何も言わずに船着場のデッキのほうに出て行った。
 
行き先を見ているとヨットのほうを向いて何度も首をかしげている。
 
「どうかした?」ミドリ鮫でもみつけたかと思って尋ねると、「いっしょ」という答が返ってきた。
 
 何がいっしょになったのかと思いコピの横に立ってみた。
 
「いっしょ、いっしょ!」と言いながらぴょんぴょん跳ねだした。コピがうれしいときのいつものサインだ。
 
「どれどれ、なにが見えたかな……」
 
 隣ではコピが海の方に向かって手を振っている。
 
 もしやと思いヨットのほうに単眼鏡を向けるとノーキョさんのボートがヨットと重なって、ヨットの上に見える人がこちらに向かって手を振っている。
 
「ミリルさん、ノーキョさんやりましたよ! ヨットにたどり着いたようです!」思わず大きな声をあげてしまった。
 
 伏せっていたミリルさんが、飛び起きるようにして駆け寄って来ると、単眼鏡を覗いてノーキョさんすごいとひとこと言ったまま次の言葉が詰まって出なくなってしまった。その後はずっとヨットの方を見たまま目を拭っていた。単眼鏡を覗いていても涙ではっきりは見えないだろう。少し落ち着くと、助かってよかったとうわ言のように繰り返した。単眼鏡を持ってないほうの手はコピの肩をしっかり抱きしめていた。
 
「やりましたね、ノルシーさん」と声をかけるとミリルさんは何も言わずにこくりと頷いた。昨日インクが言った通りになった。あれはなにか予兆のようなものを感じたのかもしれない。
 
「こうなれば、あとはこちらに戻ってくるだけだから、もうだいじょうぶですよ」
 
 そう言いながらも、どうやって戻ってくるのだろうかという心配は消えない。それでも、天気が崩れるまでには時間もあるし、もし崩れてもヨットなら安心と自分にいい聞かせた。それよりもヨットに乗っているタークさんの方は大丈夫だろうか。ノーキョさんの持って行った水や食べものを摂って早く元気になってくれればいいのだけれど。
 
 水平線の先に見えるヨットでは、ノーキョさんが何か作業を始めているように見える。ネモネさんの言っていたスクリューを使おうとしているのだろうか。帆をあげる気配はない。
 
 ミリルさんはコピと牡蠣の料理の話を楽しそうにしている。今度の穴牡蠣はノルシーさんとタークさんが食べることになりそうだ。

第34話 同じ手帳

「オルターさん、夕食はどうします?」
 
「牡蠣のスープ?」
 
「残念ですが、これは今いない人たちのために」と言うとにっこり微笑んでコピに同意を求めた。コピもさすがにわがままは言えないと思ったのかだまって聞いている。
 
「コピちゃんが集めてくれたキノコのソテーはどうですか」
 
「それもいいですね。キノコこそ秋の味覚だ」
 
 さっきまでの沈んだ気分が嘘のように明るい空気に満たされていく。ことの成り行きなんていくら心配してもわかるわけでもないし、人の気分なんてちょっとしたことでどうにでもなるものだ。これでないないさんでも現れた日には、キノコのソテーが穴牡蠣のスープになって、匂いを嗅ぎつけたノルシーさんが呼びもしないのにやってきて、ノーキョさんの成功を祝して前祝いということになってしまうかもしれない。
 
「そうだ、ノルシーさんにもヨットが助かったことを伝えないと」
 
「そうですね。みんなに伝えないと。私、ネモネさんを探してきます」
 
 久しぶりに楽しい夜になりそうだ。ノーキョさんが今夜戻ってくれば言うことなしだけど、ヨットはこちらから見えるほど近くはないはずだから、どんなに早くても明日以降の話だろう。
 
「じゃあミリルさん、ネモネさん頼みますね」と言い残してエバンヌに向かった。
 
 店に入ると、ノルシーさんはソファーに横になって寝ていた。穴牡蠣獲りに力を使い果たしましたという顔をしているのがおかしかった。寝ていても起きていても楽しい気分にしてくれるのはノルシーさんならではの才能だと思う。こんな寝顔を見せられると起こすのは忍びない。今夜の夜釣りもあるからゆっくり寝かせてあげよう。その時に話せばいい。
 カウンターの後ろを見ると、ビクと網が用意してあった。長靴やカンテラまで準備万端のようだ。メジャーがあるのは大物がかかったら測ろうということなのだろう。なんだか、こちらよりはるかに気合が入っているようだ。
 
 夕食まで行くところもないから、ないないさんの家の様子を見に行くことにした。
 
 
 家に近づくとドアが開いているのがわかった。よくよく見てみると中に人の気配もある。もしかして、また戻ってきたのかという期待が膨らんだ。今夜はきっと特別の日なのだ。みんなが戻って来る日になるのかもしれない。
 
 戸口まできてみると、中にいたのはミリルさんとネモネさんだった。
 
「ふたり揃ってどうしたんですか?」
 
「もしかして、戻っているかもと思って」ミリルさんが言った。
 
「あはは、みんな同じことを考えたわけだ」と言うと、ネモネさんが「今夜は赤い満月ですから」と言った。そうなのだ、今夜は特別なのだ。
 
「あの、オルターさん、あのあとここに来ました?」
 
「いや、来てないですよ」
 
「そうですよね。おかしいね」とネモネさんと目を合わせて二人で不思議そうな顔をしている。
 
「どうかしましたか?」
 
「食事のあとが……」と言いながらミリルさんがサイドテーブルを見た。そこには確かに誰かが食事をしたあとがあった。
 
「この手帳もなかったですよね」と言いながら小さな手帳を差し出した。
 
 裏表紙にはシナモンと書かれていた。また、知らない人が来たのだろうか。手帳はまだ新しいようで、少しのメモ書きがしてあるだけで、特別気になることも書かれてなかった。
 
「新しい人ですか」ネモネさんが言った。
 
「シナモンというのが名前ならばですね」
 
「ないないさんが戻ったのかもしれないですものね」
 
「うーん、どうなんだろう」
 
「でも、誰かが来たのは間違いないですね。どこかを散歩しているのかもしれませんよ」ネモネさんが言った。
 
 手にした手帳がどこかで見たことがあるような気がしてならない。
 
「気になります?」とミリルさんが聞いてきた。
 
「どこかで見たような」
 
「それも透かし入りの紙なんでしょうか」ミリルさんが言うので見てみると、浮かび上がったのはHAROW'Sという文字だった。思考が一瞬停止して頭が真っ白になった。
 
「オルターさん、どうしました。大丈夫ですか?」
 
「あ、いや、大丈夫。えっと、透かしはあります。ありますね……」
 
 透かしがあることを言ってはいけない気もして、口がうまくまわらなかった。
 
「いい手帳なんですね」
 
「これ皮装ですね。いいものなのかも」ネモネさんが興味深そうに見ている。
 
「あ、そうか、マリーさんのくれた……」
 
「マリーさん? ってどなたですか?」
 
「えっと、あの、あ、そうだ。この前船長の船で来た、あの人ですよ。ほら、髪の長い……」
 
「あの人の忘れ物ですか?」
 
「いや、そうではなくて、同じものというか」
 
「同じものを持ってたということですね」ネモネさんが助け舟を出してくれた。
 
 間違いなくハロウズの手帳だった。マリーさんがくれた緑の手帳と同じだった。同じ製品であることは間違いない。
 
「でも、それをないないさんが?」
 
「いや、同じ製品という意味ですけど、ここにあるというのが……」
 
「有名な手帳なんでしょうね」
 
「ああ、そうなのかな。いや、そうなんだな」
 
 自分でも歯切れ悪いのがわかる。二人もなにかあると思っただろうけど、あえてそこには触れないようにしてくれたようだ。
 
 しばらく3人で話してはみたものの、結局誰が来たのかはわからなかった。知らない誰かがふらりと来て、いつの間にかいなくなるというのがこの島では当たり前と思っていたけど、いろいろなことを知れば知るほどの当たり前ではないという思いのほうが強くなっていくばかりだ。
 
「でも、もしかするとないないさんかもしれないから、牡蠣のスープの出番かも」ネモネさんがミリルさんの顔を見ながら言った。
 
 ミリルさんはすっかり期待疲れでもしてしまったのか、そうだといいですねとあまり気持ちの入ってない返事をした。

第35話 キノコステーキの薬味

 結局、その夜は、だれも戻ってくることはなく、いつもの顔ぶれでの夕食になった。テーブルにはミリルさん特製のキノコ料理が並んだ。
 
「このキノコは肉厚でステーキを食べてるようですね。どうして秋のものってこんなにおいしいんだろうね」
 
「オルターさんは、ステーキを食べたことあるんですか」とネモネさんに聞かれた。
 
「いや、ステーキってこんなものかなと思ってね。昔写真で見たのに似てたので」
 
「お肉だけではなくて、魚にもステーキもあるし、キノコのステーキだってありですよね」ミリルさんが言うと、コピが「ステーキおいしい」とうれしそうに言った。コピは穴牡蠣よりもキノコのほうが好きなのかもしれない。
 
 実際、しっとりして歯ごたえのある肉厚な食感がなかなかめずらしく、肉とは言わないまでも植物とは思えないボリューム感を感じる。みんなでステーキキノコという名前にしようという話でもりあがった。
 
「えっと、このコショウのようなつぶつぶのものはなにかな?」
 
「ユロミ!」コピがステーキを教えてもらったお返しとでもいうように答えてくれた。
 
「ちょっと痺れるような味ですよね。それ、ユイローの実なんですよ」ミリルさんが説明をしてくれた。
 
「あ、これユイローの実なんですか。それでユロミなんだ。コピちゃんは、いろいろ知っててすごいね」ネモネさんが感心したように言った。
 
「これもコピが採ってきたのかい?」と聞くと、コピの顔と同じぐらいのキノコを前に慣れないフォークとナイフで格闘しながら頷いた。
 
「ミリルさん、ユロミって子供が食べて大丈夫なのかな」と聞くと「コピちゃんは甘いトウカの実にしてあるのでだいじょうぶですよ」という答えだった。
 
「あ、そういうこと……でも、大人も食べ過ぎない方がいいかもしれないね」
 
「キノコ中毒とかですか?」ネモネさんが聞いてきた。
 
「このキノコは前からみんな食べてるからだいじょうぶですよ」とミリルさんが説明した。
 
「ああ、キノコじゃなくてユロミのほう。なんというか、ユイローって覚醒作用があるようだから。実も同じかなって、ちょっと思っただけなんですけどね」
 
「島の香辛料でユロミも使う人は多いですけどね」ミリルさんが、不思議そうな顔をしてこちらを見た。
 
「ないないさんも好きでしたか?」気になって聞くと、「ないないさんも大好きでしたよ」と言いながら、ユロミの入っている缶を戸棚から出して見せてくれた。缶にはコピのユロミとミリルさんの手書きで書かれていた。ユロミもコピが集めてくるのだろう。缶の蓋を開けるとさらさらとした小さな黒い粒がいっぱい入っていた。ツヤのある均質な実が野生のものとは思えない。ほんの爪先ほどの大きさなのに完全な球形と確信できるほどに美しい。粒の大きさも寸分の違いもないようだ。
 
「オルターさんはあまり好きじゃないですか?」
 
「いえ、そういうわけではないですよ。おいしくいただいてますから」
 
 そう答えてはみたものの満月の夜にユイローに実を頂くというのは、まったく気にならないわけではなかった。すでにキノコステーキはほとんど食べてしまったあとだし、今更何を考えてみても始まらないのだけど。
 
 窓の外を眺めると雲が垂れ込めていて、夕焼けは見られなかった。結局ノーキョさんはこちらには着かなかったけど、目で見てもわかるほどの早さでどんどん近づいて来ている。帆をあげている様子もないから、もともとついていた発動機でモーターを動かしたのか、持って行ったプロペラがうまくいったのか。いずれにしても順調に帰途につけて良かった。
 
「帰りは早そうですね」ヨットのほうを見ているのに気がついたミリルさんが言った。
 
「行きと大違いだね。これでタークさんも大丈夫だ」
 
「タークさん?」ネモネさんが怪訝な顔をしてこちらを見ると、すぐに「じっじ、ぼけぼけ」と言いながらコピがころころ笑った。笑い茸でも食べたように笑いが止まらない。
 
「だいじょうぶですか? 今夜釣りなんかして、溺れたりしないでくださいね」またミリルさんの心配性が始まってしまった。ただ、溺れるということばは耳が痛い。
 
「私もなんだかお酒を飲んだような気分になってきましたよ」ネモネさんがぽーとした顔をしながら言った。
 
 子供だけじゃなく、おいしい水をこよなく愛するネモネさんのような人にも、ユロミの刺激は強すぎるのかもしれない。ミリルさんが水をすすめたが、ちょっと横になりますと言うとあっという間に眠ってしまった。
 
「キノコのせいじゃないですよねえ。ユロミは刺激が強すぎるのかしら」ミリルさんが気にしている。
 
「やっぱり、ユロミは、あまり使わないほうがいい気がしますねえ」
 
「せっかく、コピちゃんが集めてくれたのに」とミリルさんが残念そうに言うと、コピはまるで聞こえてないように、またステーキを食べはじめた。
 
「ユロミというのはいつごろなるものなんですかね。あまり見たことないですが」
 
「あ、これは、土のなかになるらしいですよ。一年中なっているんだとか」コピから聞いたという話を教えてくれた。コピは聞こえてないような顔をしている。
 
「1年中……」
 
「変ですか」ミリルさんが首を傾げてこちらを見ている。
 
「一年中じゃなくて、月に一度ということでは……」
 
「どうして月に一度なんですか?」
 
 ミリルさんにはなんとなくそう思っただけと答えたけれど、そうだとしたら、ユイローと赤い月の関係はますます強くなるような気がした。
 そのときネモネさんが寝返りをうってこちらを向いた。
 
「ミーム、ここの水……ウォーターランドと……みんなに……伝えないと……」
 
 寝言だった。
 ミリルさんが「ネモネさんは寝ても水のことで頭がいっぱいみたいですね」と言って笑った。

第36話 かくされたもの **

***** ノート *****
 
黒く輝くユロミが未知の旅路の扉を叩くとき夕日のように熟した満月がぬるりと剥がれて崩れ落ちると息を潜めていたその時間の織りなす世界の膜が身をよじりゆるりと移ろいはじめ間もなく 見る人もない漆黒の闇の静寂が世界に降り注ぎ無限をつなぐ永遠の流れに身を委ね弔ういまそのとき 新しく生まれた光の子に照らし出されたすべての生き物と草木に片時の命を授け給うあらゆる形を 創造し喜びと悲しみを司る魂を吹き込みそして消える世界と生まれる世界が寸分の差もなく重なりながら表が内包され裏が表出する記憶と軌跡が仮想の混濁から解き放たれる
 
***** ノート *****
 
 ノートを書いていたのは覚えているけど、書き終えたことさえもはっきり記憶にない。ユロミを食べたせいか頭の中がすっかりぼやけている。読み返してみてもこれでは何を言いたいのかまるでわからない。ほんとうに自分で書いたというのなら、潜在意識の何かが勝手に書かせたのだろうか。書いた本人にもわからないのだからどうにもならない。仮にこれと同じようなことをノート氏が書いていたとしても誰にもその意味がわかるはずもない。ただひとつ、今はユロミに中毒性がないことを祈りたいだけだ。
 
 灯台に戻ったこともよく覚えていないから、少し寝てしまったのだろう。おとといの寝不足が今になってこたえているのかもしれない。
 物音がしたような気がして インクの名前を闇に向かって呼んでみた。インク、インクという声だけが夜のしじまに共鳴しながら静かに消えて行く。この声はどこまで届いているのだろう。
 
 東の空を見上げると、夕方までの曇り空はどこに行ったのか、昨日とは別のもののように大きく膨らんだ月が浮かんでいた。背景の夜空とまったく別の世界にあるとでもいうようにその存在を誇示しているように見える。たとえ後ろ向きに立っていたとしてもその存在感を感じずにはいられないほどの圧倒的なエネルギーを湛えている。赤い闇が世界を開く、赤い灯台、赤いろうそく、赤い月。緑のサメ……緑の……。
 
 赤い月が真夜中に少しずつ濃く熟れていくのを見ていると食事の前に見た緑の手帳のことを思い出した。自分がマリーさんにもらったものはどこに置いてきてしまっただろう。公書館で棚配置を書いたところまでは覚えている。二度目に一人で行った時も棚の配置を手帳で確認したから、あの時もまだ持っていた。ないないさんのところにあった手帳は、自分の持っていたものとまったく同じ種類のものだ。もしかすると、マリーさんにもらったあの手帳をどこかに忘れてしまってそれをだれかが持ってきただけということはないだろうか。まだ、釣りに行くまでには時間があるので、もう一度手帳を見に行ってみることにした。
 
 赤い月の日にユロミをたっぷり食べて、意識がはっきりしないままに一人でないないさんのところを訪ねるのもそれなりの覚悟がいる。そこになにがあるわけでもないかもしれないけど、わからないという不安がつきまとう。それでも赤い月明かりが誘うように足元を照らし出す。赤い地面に抜けるように黒い影が映る。エバンヌは珍しく明かりがついていない。ノーキョさんも釣りに備えて仮眠をとっているのだろう。
 小屋に入ってみると手帳はこの前と同じ場所にあった。裏表紙にはシナモンと書かれている。もう一度赤い月にページを透かしてみると、記憶していた紋章も浮き出た。それが自分のもらった手帳とまったく同じ紋章だったかどうかはわからない。最初のほうのページには数字と記号でメモがしてあるけどその意味はよくわからない。落書きの用にも見えなくはない。ただ、どこかで見たことのある文字のような気もする。思い出そうとするとその記憶が逃げるように遠ざかる。
 ページをめくっているうちに、最初の方が破り取られていることに気がついた。もしかしてと思って、家の中に破り捨てられたページはないか探したものの、自分が書き残した公書館のメモは見つからなかった。もし、みつかったとして何がわかるだろう。それに対する答えはなにも持ち合わせていなかった。
 
 結局あらたに得られるものもないままに、灯台に戻ってまた出かけるまでの時間つぶしをすることになった。期待するようなことが見つけられないとそれはそれで何かを見落としているのではないかと不安になったりするから始末が悪い。ふと思い出してコピが見つけた紋章の入ったページを改めて手にして見た。よくよく見るとその植物はユイローの群生を描いたもののようだった。いろいろな絵を書いた中でどうしてユイローの絵だけがここに残っているのか、無理にこじつけるつもりはなくても偶然ではないような気がしてしまう。このページだけが意図を持って残されたとしたら。
 薄くかすれている絵にユロミが書かれていないか目を皿のようにして見た。ユロミの覚醒作用のせいか文字が霞んではっきり見えない。ときどき揺れるように視界が歪む。粒のように見えるものも経年によるくすみやシミとの違いをはっきり識別できない。絵の中に隠し文字でも隠されていないかともう一度じっくり見直して見た。ユロミのお陰で二重に重なる絵と格闘しながらなんとか見つけたのは草の間に紛れ込んでいた一対の目のようなものだった。その二つの線はユイローの葉にも見えるけれど、草の間に身を潜めている細く縦に割れた目に見えなくもない。ユイローの草に隠れるほどの動物であればそれほど大きくはない。
 
 きまぐれ……ノートの主がこの島で出会った唯一の友。この目が気まぐれだったのか。ユイローの後ろに姿を隠すきまぐれの目がじっとこちらを見ている。

第37話 摘み取り

 夜明け前まではまだ3、4時間ある。寝るほどの時間はないし、起きていてもいよいよすることもなくなってきた。赤い月を眺めているにしても限度というものがある。たとえずっと見ていられたとして、それが目によいこととも思えない。眩しい夕日を見続けるのとさほどの違いがないだろう。違うのは熟したようなぬめりがあることだけだ。あまりに手持ち無沙汰なので、時間つぶしにユイローの実を掘り起こして見ることにした。
 ユイローは灯台の周りにはいくらでも生えているので気に留めて見たこともない。それぐらいなら葡萄草の実でも集めていたほうがましだし、少しがんばればピーチプルだって見つけられなくはない。ユイローに意味があるのは葉を風呂に入れると身体の疲れが取れるという言い伝えがあるぐらいだ。酒は百薬の長というのにちょっと似たようなあの酔い心地がそいういう話を生んだのだと思う。
 
 そもそも、この島にいて野草を抜き取ろうと思ったこともないし、雑草というような考えもない。それぞれの種が自然に繁殖するのを楽しむことこそがこの島で生活する喜びなのだから、草取りなんて家を建てるとき以外に考えたこともない。枯草や枯葉は土に還り腐葉土として次の命を生み育てる肥やしとなるだけのことだ。そう考えるとコピがどうして地中にあるユロミを見つけたのかもよくわからない。たとえみつけたとしても、普通なら地面の下に小さく生っている粒を口にしようなんて思わないだろう。あの子の感覚はいつもみんなと違う。それが自然と共生する正しい生き方なのかもしれないけどなかなか真似はできない。
 
 適当に掴んで引き抜こうとすると、これがなかなか思うようにはいかなかった。思いのほか根がしっかりと張っているようだ。これを抜いて実を集めるのにはなかなか根気がいる。あんまり抜けないので、灯台においてあったスコップで根元から根こそぎ掘りおこしすことにした。知らない人が見たら墓堀盗賊にでも見えたのではないだろうか。
 やっとの思いで抜いてみると、さぞやたわわに実がなっているのかと思いきや、実際には一株に10粒程度のことで、たわわにと言うには程遠かった。あの缶にいっぱい入っていたユロミを集めるのにコピはいったいどれぐらいのユイローを掘り返したのだろう。考えただけでも気が遠くなってしまう。缶にコピのユロミと書いたミリルさんの気持ちが少しわかったような気がした。
 
 1時間ほどの収穫作業を終えると、土をかぶった実をこぼさないように大切に持ち帰って早速水洗いをしてみた。すると夕食で食べたのと同じように黒く輝く真球の実が現れた。興味本位で擦り潰してみると、中は純白だった。匂いも嗅いでみたけれど、無臭に近く香料のようなものでもなかった。ただ、鼻の嗅覚に届いた時、軽くめまいがした。ひと粒つまんで歯先で砕いてみると、舌先が小さく震えた。味覚というよりは、しびれという方が的を得ている。人間おいしいものばかり食べていると、最後は珍味のような味を求めるようになる。大人の味覚は自然を食べ尽くした飽食の成れの果てかもしれない。そうするとこういう変わったものを口にしたくなるのだろう。数粒食べてみると鮮度がいいせいか、純度の高いアルコールを飲んだように意識が夜の闇の中を移ろいはじめた。
 
 ちょうどそのとき、頭の上に低く響く機械音が聞こえた。あの、ブオーン、ブオーンという飛行船の音だ。窓から見ると赤い月に照らされた巨体がさらに大きく、薄気味悪く灯台の真上にのしかかっていた。飛行船も灯台を目指してくるのだろうか。灯台が何もかも集めてくる。それにしてもこんな日にやって来るとは、あまりにもタイミングが悪すぎる。また、あの飛行士が乗っているのだろうか。そうだとしたら、誰かに依頼されて来たわけだから、またボルトンの黒服が乗っている可能性が高い。考えれば考えるほど、めんどうな時に来てくれたものだ。それもなんでこんな深夜なのか。雲が多いので、飛行船がどこにいるのかもよくわからない。音は頭の上を通り過ぎると半島の方に息を殺すようにゆっくりと移動して行ってしまった。
 もし、夜明け前にあのドットトラウトの群れがあらわれたら、ボルトンもそれを目撃してしまうかもしれない。それではあまりに情けない話ではないか。彼らの先進的な科学技術を持ってすれば、島の秘密のすべてを握られてしまうのではないかという不安が頭をかすめた。
 
 音が通り過ぎたのを確認すると、急いで荷物をまとめてノルシーさんを起こしに行った。ところが、エバンヌの店内を見渡してもノルシーさんの姿はなく、屋根裏の寝室ももぬけの殻だった。準備していたはずの道具もなかったので、半島の方で待ち合わせるつもりでいるのかも知れないと思った。一応、エバンヌのすぐ東側にあるボート乗り場に向かうとまだ別のボートが残っていたので、そのまま乗り込んで半島に向けて漕ぎ出した。


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