目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
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第28話 自分の手紙

 みんなの心配をよそに、その翌日も、そのさらに翌日も、3日目も、そして一週間後もノーキョさんのボートとヨットは重なることはなかった。窓から見えるボートとヨットはまるで景色に取り込まれてしまったように、位置も変えずに同じところに止まり続けた。
 
 5日めをすぎたころからは何も手に着かなくなって、ぼんやりと窓の外を見ていることが多くなった。今朝も一度はリブロールに行ったものの、どうしてもヨットのことが頭からはなれず、ミリルさんに頼んで、すぐ灯台に戻って来てしまった。
 いくらながめても海に映る雲が流れるばかりで、広い海に消える物も現れる物も何もなかった。船長が来るのもまだしばらく日にちがある。
 
 流れる雲をぼんやりと見ているとき、赤い鳥が北の方から飛んで来て青空を横切った。それは赤い服を着せられたハトポステルの鳩だった。到着を知らせるように灯台の周囲を何回か旋回したあと中央広場のほうに向かって方向を変えた。誰かから手紙が届いたのだ。
 
 ほどなくコピが手紙が来たと言いながらいつものように駆け込んで来た。
 
「ハトの手紙来た!」よほど急いだのか、いつになく息を切らしている。
 
「コピよくわかったね」
 
「ハトが呼んでくれた」
 
「そうか、コピには聞こえるんだね」と言うと、うれしそうにうんうんと首を振っている。
 
 この前、島モグラの声が聞こえたように、きっとコピの耳にはいろんな動物の声が聞こえているのだろう。いつの頃からかコピが島に詳しいのはそのせいではないかと思うようになっていた。
 
「どれどれ」眼鏡をかけて、丸まっているレターロールを広げてみた。
 
 そこにはノートの主がノートを買った店を見つけたと書かれていた。予想していた通りだった。それは間違いなく自分で書いた手紙だった。
 
 しばらくしてミリルさんも灯台にやってきた。
 
「オルターさん、見られました? スロウさん大発見ですね」
 
「ええ、驚きました」一応こちらの世界に話をあわせた。というより手紙が来たことで、また自分の拠り所がどこなのかわからなくなっていたから、ほかに言えることを思いつかなかった。
 
「急にまたノートが気になって」
 
 ミリルさんはスロウさんが書いたと思い込んでいる。そのほうがまだ救われる。事の次第をわかっている自分には、今頃この手紙が届くことの不思議さを感じずにはいられないし、時間と空間のねじれにただただ唖然とするばかりだ。現実と意識世界の境界を超えて来る手紙が今手元にあることに目眩すら覚える。
 
 ミリルさんが早速引き出しからノート氏の書いたノートの写しを出した。底板の下にあるもうひとつのノートに気がつかないかちょっと冷や冷やした。あれは、この世界の人がまだ見てはいけないものだ。現実世界の人でないとまたこちらの精神を疑われることになりかねない。
 
「これがそんな昔のノートだったんですね」ミリルさんもいつになく熱心にノートを見ている。
 
「でも、全部写しだから、現物ではないですよ。ぼろぼろの表紙だけは当時のもののようですが」
 
「どうして写しだってわかるんですか?」
 
「あ、自分で書き直したのも多いし、譲ってくれた人も書き直したと言ったと聞きました」
 
「そうなんですか。インクの色は似ているのに、ちょっと残念」そう言いながらも一枚、一枚確かめるようにめくっている。
 
「昔のものには透かしが入っていたそうですね」ハロウさんに教えてもらったことを思い出して説明した。この意識世界に思いがけず来てしまったおかげで、透かしのこともすっかりわすれてしまっていた。前に現物のノートではないと一度諦めていたこともあったけれど、そもそもこの意識世界にあるノートが現実世界のノートと同じかどうかすら疑わしいという気持だったかもしれない。
 
「透かしってなあに」コピが不思議そうに聞いた。
 
「紙を日にかざすと模様が隠れててね。ちょっとしたあぶり出しのように見えるんだよ」
 
「ノーキョさんの紙には入ってないですね」ミリルさんが言った。
 
「手間がかかる作業になるんだろうね」
 
 そう言いながら、二人は透かしの入った紙がないか時間にまかせてさがしはじめた。
 
「一枚でもあればいいけどね」正直、調べても無駄になるだろうと思った。
 
 そのあとは熱心にノートを見続けるコピを横に、話はノーキョさんのことに戻った。
 
「もう1週間になりますよね」ミリルさんが心配そうな顔をした。
 
 今更この3人でノーキョさんを助けに行くこともできない。
 
「食料が足りなくなってなければいいけど」
 
「コピがユリノキの実をたくさんあげた」ノートから目を離さないまま話だけは聞いていたようだ。
 
 それを聞いて少し安心した。ユリノキの実であれば、ノート氏も冬場の貴重な食料にしていたものだから日持ちもいいし非常食としては打ってつけだろう。あれを持っているならひとまず安心だ。飲み水のほうもスロウさんがアミメハスの濾過器を持つと言っていたから心配はない。あとは、天候が崩れないことを祈るだけだ。
 ヨットにたどりつきさえすれば、帰りはなんとでもなるだろう。手漕ぎのボートよりもヨットのほうがはるかにましなはずだ。たどりつきさえすればどうにかなると思いたい。それにネモネさんの言うスクリュウのようなものがあるならきっとだいじょうぶだ。
 
 一ヶ月がたつのは早い。もう少しするとまた赤い月の日がやってくる。次に赤い月が出た夜にこの島になにが起きるのだろうか。なにも起きない方がいいのか、起きたほうがいいのか自分でもよくわからなくなってしまう。ヨットのこともおいしい水のこともミドリ鮫も光る魚も虹も島モグラもなにもかもがわからない。複数の時空が重なれば重なるほどに時間の整合性が崩れ、結果として自分の居場所がなくなっていくように思えなくもない。
 
 少ししたときに、コピが小さく「あった」と声をあげて1枚の紙を上に差し上げた。それは植物の絵が書いてある1枚だった。
 
「透かしがあったの?」と言いながらミリルさんが覗き込んだ。
 
「オルターさん、コピちゃん見つけましたよ」驚いた顔をしてこちらを見た。コピのほうは特別のことをしたという風でもなく、もう次をさがしはじめている。
 
 そこには間違いなくハロウさんの言ったとおりの紋章の透かしが入っていた。それも鮫と魚が円のかたちに絡み合うような文様だったのだ。

第29話 夜の散歩

 その夜は、紋章のことが忘れられず、絵柄そのままにドットトラウトとミドリ鮫が頭の中をぐるぐると回り続けた。たまに消えたかと思うと、今度はノーキョさんのことが気にかかる。闇に紛れ込んでいるボートを探そうとすると、月の明かりに意識がとらわれる。ノーキョさんもあの月をみているかもしれないと思うと、まだつながっているという気持ちでいられる。向こうから灯台の明かりは見えているのだろうか。
 月を見ていると今まで気にもしなかった、月が右側から満ち欠けすることにも今更ながら気がついた。もう少しすると欠けた半月が膨らんで満月となる。せめて月が明るいうちに戻って来られることを祈るばかりだ。
 灯台から広大な海と無数の星々を眺めると、いつも宇宙のことを考えてしまう。地球の自転と公転が月の満ち欠けや季節をつくり、それらがいつからか暦となって人の生活のサイクルとなってきたと思うと、宇宙の偉大な規則と人間一人との関係はいったいどこまでつながっているのだろうかと余計なことまで考えてしまう。月齢がノーキョさんたちの生還と関係したりすることもあったりするのだろうか。
 宇宙が回っていなければ、時間という概念そのものもなかったのかもしれないから何かは関係しているはずだ。しばらく月を眺めていると陰になっている部分ががほんの少しずつ少なくなっているように感じる。時間が動いているというのはこういうことなのかもしれない。
 そうこうしているうちにまたミドリ鮫とドットトラウトが円を書くように回る紋章に意識が戻る。どうしても知りたいのは、なぜあの紋章の透かしになったのかということだ。当時、ミドリ鮫とドットトラウトは住民にとって何か特別の意味があったのだろうか。円を描いている図柄に宇宙の縮図を見ているような気がしないでもない。円の図柄は無限の周回や完全な均衡などを表しているようにも見える。
 
 夜になると一人でこんなことばかり考えているから、いつまでたっても眠れるはずもない。それこそユイローをたっぷり入れた湯舟にでも浸かって、夢の世界で朝まで心を鎮めていたい気分にもなる。ただ、それがこの世界との関係を一変させてしまうかもしれないことを知ってしまった今は、前の様に気楽に楽しむこともためらわれるようになってしまった。
 考え事をしているうちに、月は夜空に半円を描く時計の針のように回り、気がつくと半島の真上の一番高いところに見えるようになっていた。灯台から半島を見ると、入り江がちょうどその間になり、月の姿がそのまま海に映し出される。それはあたかも鏡に映ったもうひとつの世界のように見えなくもない。入り江に面したところにリブロールもあり、それは別の世界への入口のようでもある。
 
 ベッドに横になってぼんやりと時間を過ごしていると、またあの漆黒の闇の中に引き込まれてしまいそうな気分になってしまう。なにか気分を変えられる本がないかと思ってい書棚を眺めていたとき、ネモネさんの言っていたおいしい水の話を思い出した。ちょうどいい機会だと思い、おいしい水がわき出しているかもしれないという半島の南のほうまで真夜中の散歩をしてみることにした。誰も知らない深夜になにかが起きているのかもしれないという漠然とした予感もあった。
 
 
 ランタンを持って、足下を照らして周りの小さな変化に注意を払いながらゆっくりと歩いた。この島で真夜中に明かりを灯しているのはエバンヌぐらいだから新月の夜などは歩くのもままならないほどの暗闇になるのだけれど、幸い今日は満月も近いこともあって、ランタンすら必要ないほどに明るい。
 リブロールも月明かりが椅子やテーブルの陰をつくっていて、どこか幻想的なたたずまいを見せている。本棚の本も息をひそめて眠っているふりを装っているように見える。ただ、あれだけの活字と物語を飲込んだ本がほんとうに黙っていられるのだろうかと思ってみたりもする。一見そう見えるだけで、1冊1冊の本は人知れず言葉を紡いでいるのかもしれない。こうして月明かりに照らされるリブロールを見ると、それぞれの本に書かれた物語が夜の数だけ熟成を重ねているように感じられてくるからおもしろい。
 
 真っ暗だとばかり思っていたノーキョさんの店に近づいたときに、窓が淡い緑色に光っているのに気づいた。火の気はないだろうけど、ちょっと心配になったので用心のために中を確かめてみることにした。
 緑色の光は納屋の奥からのようだった。開けようとしたけど頑丈に鍵がかけられていて開かない。あのおおらかで開放的なノーキョさんにしてはめずらしいことだ。
 納屋から漏れ出ているほんの少しの光のお陰でお店全体が蛍を集めたように明るく浮かび上がっている。ローソクをつくりに来たときは気がつかなかったことを考えると、明るいときにはわからないほどのかすかな光なのかもしれない。扉の隙間から覗き込んでみたけれど、明るさのせいでそこになにがあるのかがわからない。火なら心配だけど、煙も出ていないようなので、火事の心配をするようなものではないのだろう。ノイヤール湖で見た光は黄金色だったからそれとも違うし、ドットトラウトの輝きとも違う。見たことのない何かがそこにあるのかもしれない。
 
 いつまでも人の家のことを詮索をしていても仕方がないので、また誰かに聞いてみることにして納屋を後にした。
 食堂も過ぎて半島を見下ろせる場所まで来た時、一瞬あのそら虫が見えたような気がした。火事の前の夜にもこんなことがあった。幻覚も度々あると、目がおかしいのではないかと、また余計なことを考えてしまう。こすってみても、青い光の乱舞は消えない。蜃気楼のようなものかと想像してみたりもするけど、彼らが何を答えてくれるはずもない。
 この心霊現象でも見ているのような曖昧な光は、記憶が勝手に映像を作って見せているだけなのだろうか。赤い灯台が白い灯台に重なるのと同じように過去のどこかの時間が透けて見えているのかもしれない。
 
 しばらく見ているうちに暗闇に目がなれてきて半島の先にボートが浮かんでいるのに気がついた。よくよく見ると船の横には海から頭を出している人の姿まで見える。こんな真夜中にだれがボートを出したのだろう。
 
「あ!」
 
 突然にあの日の記憶が蘇って、気がつくと半島の焼け跡を駆け下りていた。放火犯だ。踏みつけている新芽の心配をしている場合ではなかった。また目の前で放火をされたのではたまったものではない。それもみすみす取り逃がしたとなっては悔やんでも悔やみきれない。
 駆け下りる音に気がついたのか、ゴーグルに黒シャツ姿の男は慌ててボートに飛び乗り逃げ出そうとしている。
 
「おい、待ちなさい! 逃げても無駄だ」大きい声を上げると一瞬こちらを見て、また急いでボートを出そうとした。ボートは火事の翌日に見たようなスピードの出るものではなく、ウォーターランドのボートだった。
 目の前まで近づくと、男は観念したように、ボートの上に立つと網のようなものを持ったまま両手をあげて、「みつかったか」と言うと、ゴーグルを外しはじめた。どこかで聞いた覚えのある声だった。

第30話 密漁

「いい漁ができていたのに」
 
「え?」
 
「現行犯逮捕とはね。これが秘密の牡蠣」
 
「ノルシーさん? こんなところで獲ってたの? それもこんな時間に」
 
「密漁ってそんなもんじゃない?」
 
「密漁って……こっちは放火犯かと思ったから」安心したとたんに気が抜けてその場に座り込んでしまった。踏みつけてしまった新芽のことを思ってコピに申し訳なく思った。
 
「密漁は密漁でも、秘密の漁だからね。犯罪ではないからね」とノルシーさんはこちらを見下ろして笑った。
 
 秘密の漁を密漁というのだろうと思うけど、ノルシーさんが言うようにこの島で獲っていけないものはない。コークの卵のようにみんなが意識して守っているものはあるけど、それでも禁止されているわけではない。
 
「大人になっても秘密のひとつぐらいないと楽しくないでしょ」と独り言のように言うと、こちらに牡蠣の入った魚籠を預けてかじかんだ手に息を吹きかけた。
 
 こんな寒い朝に内緒で海に潜っていたとは知らなかった。いつまでも子供のようなところのある人だ。それがわかるとまたノルシーさんに今までとは違った親しみを感じてしまう。
 
「それ、ミリルさんに渡してあげて。この前のスープ、一人で食べちゃったからね」
 
「真夜中の寒中水泳で獲ってたって伝えるよ。これが特上の牡蠣なんだね」袋に入った牡蠣が濃い緑色に輝いて見えた。
 
「あの獲り方の話はいいから。まったく、秘密もなにもあったもんじゃないな」と言うと、ノルシーさんはタオルで身体を拭いて、服を着替えはじめた。
 
「これが、その先の海で捕れるってこと?」
 
「秘密の場所だったのに……まいったな。誰にも言わない?」よっぽど残念なのだろう。なかなか教えてくれそうにない。
 
「あのね、秘密基地じゃあないんだから」
 
「あ、それそれ秘密基地よ。これぞ男のロマン、じゃない?」
 
「牡蠣がロマンって……」
 
「だってね、その絶品牡蠣はここでしか捕れないんだからね、このヒカリモのある海底だけなんだから、これはもう男のロマンでしょ?」
 
「ロマンなのかな。ちょっとロマンにしてはサイズが小さい気がしないでもないけど……それで、ヒカリモってなんのこと」
 
「おっと、またロマンを漏らしてしまった。これはいかん」わざとらしく舌を出してみせた。
 
「で、なんなの?」
 
「今日はいつになく食いついてくるね。新聞には書かないでよ? ほんとに約束だからね」
 
「約束する」
 
「ほら、あのあたりの海をよく見て、なにか見えない? 緑に光ってるでしょ?」
 
「あ、ほんとだ。なんだろう……」
 
「あそこね、大きな穴が口を開けててね、そのあたりにヒカリモが群生してるのね。これ秘密だから絶対言わないでね」目の前まで顔を近づけてきて、念を押すように言った。
 
「昆布でも密集しているのかな」
 
「昆布じゃないけど。岩場にヒカリモが集まってて、そこの岩場でこの極上の牡蠣が獲れるわけですよ。このお牡蠣様がね」
 
「ヒカリモって、もしかして光る藻のこと?」
 
「うーん、藻と言っていいのかどうかはよくわからないけど。海藻の一種であることは間違いないと思うよ。食べたけど味はそこそこ。それが夜になると光を出して、それに誘われるようにして牡蠣が穴から出てくるってこと」
 
「牡蠣ってそんなに移動するもの?」
 
「うーん、それは彼らに聞いてみてもらわないと。すぐそばにばかでかい穴が口をあけてるから、そこから出てくるんじゃないのかな? なんだかね、にゅるっとした水もわき出しているような感じもするから」
 
「穴から牡蠣がね」
 
「そう、穴から牡蠣ね。棚からぼた餅みたいだな。でも、穴牡蠣って名前もいいかもね」
 
「穴牡蠣……」そう言いながら穴の中からぞろぞろとはい出してくる牡蠣を想像してみた。ちょっとありえない光景に思わず笑ってしまった。
 
「ふたりだけの秘密にしておく?」ノルシーさんがうれしそうに言った。
 
「あー、二人のね。じゃあ、海底基地でもつくります?」
 
「あ、それいいアイデアだね。そうなるとがんばってもう少し素潜りの練習しないとだめかもね」
 
 ノルシーさんも、いったいどこまで本気で言ってるのかわからない。ヒカリモを見ながら穴牡蠣をみつけたいきさつを聞いているうちに、どこかで見たことのある色だと思った。
 
「あれ……もしかして、あのヒカリモってノーキョさんのところにあったのと同じものなのかな。緑の色が似ているような気が……しないでもないな」
 
「なに、ノーキョさんまで知っていると? 秘密の賞味期限とはかくも短く儚いものか。こりゃもうだめかな」
 
「これってほんとうに秘密なの?」
 
「そう言われるとあれだな、秘密基地も必ずしも秘密でない場合もあるしね。でも、穴牡蠣のほうはまだ知らないかもしれないな」ノルシーさんはちょっと負け惜しみのように言った。
 
「ロマンも秘密もなかなか大変だね」
 
 そのあと、穴があるというところを教えてもらっているとき、行く筋かの光る線が海底を走ったのが見えた。
 
「あ、牡蠣が泳いでいる!」
 
「オルターさん、さすがの穴牡蠣さんもそんなにすばしっこいとまずいでしょ。あれは魚だよ」
 
「でも、光ってなかった?」
 
「ヒカリモの光でそう見えるんじゃないの。たまに見るけど」
 
 ノルシーさんにはそう思えるかもしれないけど、こちらはここがドットトラウトの住処に違いないという期待を強く抱きはじめていた。
 
「ここ、二人の秘密基地でいいね。今度ここで夜釣りをしてみることにしよう」心はすでにドットトラウトを釣り上げているイメージでいっぱいになっていた。
 
 話しているうちに、なんだかほんとうに二人だけの秘密ができたような楽しい気分になってしまった。空を見上げると月が西の空に輝き、西側の水平線が明るくなりはじめていた。満月の日まであと幾日だろうか。

第31話 海の穴

 ノルシーさんは戻ってシャワーを浴びると言うと、そのままボートで帰って行った。
 
 その後もひとりで、ヒカリモの光と波間にきらめく月明かりの織り成す幻想的な世界に目を奪われたまま時間の経つのも忘れて過ごした。気がつくと東の空が少し明るくなりはじめていた。教えてもらったあたりをよくよく見ていると少し黒くなっているのがわかった。朝焼けの光の加減で見えてくるのかもしれない。あそこが、ノルシーさんの言うところの大きな穴ということなのだろう。大きな穴なのか海溝のようなものなのかはよくわからないけど、見れば見るほどいかにもドットトラウトが潜んでいそうに思える。それどころかこれほどの大きさならばミドリ鮫も隠れているのではないかという期待までしてしまう。彼らがいっしょにいる光景を思い浮かべただけでも、浮き立つ心が抑えられなくなる。深海は彼らにとっては最適の住処になるはずだ。もしかしたら、あのノートの透かし紋章を考えた人もその光景をどこかで目の当たりにしたのではないだろうか。
 コノンさんのお祖父さんと釣りに出たときのことを考えると、夜明け近くが彼らの活動時間のはずだ。あのときは曇り空で星ひとつ見えなかった。昨晩のような月明かりのある日はどうなのだろう。お祖父さんはミドリ鮫漁のことについてはあまりはっきりは言わなかったけれど、もしかしたらノイヤール湖で狙っているのは、今でもミドリ鮫なのかもしれないとさえ思えてくる。
 期待はどんどん膨らんで、とてもその場を立ち去る気にはなれなかった。魚影のようなものが走る線もときどき見えた。ただ、ノイヤール湖のような大量の群れが現れることは夜明けの時間になってもなかった。
 ヒカリモの神秘的な発光は朝方まで続いた。珊瑚の産卵が満月の日にあると聞いたことがあるけど、ヒカリモも月の周期と関係しているのかもしれない。お祖父さんと投網漁に出たのも満月のころだったのだろうかと考えてみたけど、月齢についてははっきりとした記憶がなかった。
 
 ノルシーさんが大きな穴からにゅるっとした水が湧き出ていると言っていたのを思い出して、海水を少し手ですくってみた。ネモネさんの言うおいしい水はこれのことだったのではないかと期待した。にゅるっというほどのぬめりは感じなかったけれど、たしかにさらさらではなくダシのたっぷり溶け出したスープのような感触があった。たくさんの栄養素が含まれているのかもしれないと思い口に含んでみた。もともと汽水なので塩分は少ないとは思っていたけれど、ほんとうに下ごしらえなしでこのまま料理に使えそうなほどの旨味を感じた。カバのミームがいたらどんな色になるだろう。すくった水をよくみると、小さな光の粒が金箔のように舞っているのがわかった。やっぱりノイヤール湖と同じだ。極上の牡蠣の採れるところには極上の水があるということか。水の本に書いてあったようにその昔ここにドットトラウトがいたということもいよいよ真実味を帯びてくる。それどころか今現在もここに生息している可能性すら否定できなくなっているのだ。
 なんだか、探し求めているなにかに近づいているような気がしてくる。ジギ婆さんの話を思い出していると、ノート氏の話と今この時間が重なりはじめているようにさえ感じる。満月のときに早朝の釣りをすれば、すべての答えがわかるのではないだろうか。それが必ずしもいいことだけでないとしても、謎を解くための扉が大きく開かれそうな予感がする。
 
 水辺で朝を迎える、ふしぎなほどに元気が出てきた。ベッドで鬱屈した気分でいたときとは別人になったような晴れやかな気分だ。とても夜通し起きていたとは思えない。まわりを見渡すと、焼け跡の草木がすくすくと育ってきている。ネモネさんもこの成長ぶりを見て驚いたのだろう。自分の気持ちが晴れるのと同じように、草木も元気になる水をたっぷりもらって、健やかに成長しはじめている。
 
 大切な穴牡蠣も預かったので、少し早いと思ったけれどそのままリブロールに立ち寄ることにした。途中見たノーキョさんのところの緑の光は、朝日に紛れて光っているのかどうかさえもわからなくなっていた。ノーキョさんのことだから、きっとあの藻の光をつかってまた何かをつくろうとしているのだろう。
 
 リブロールに着くと、鍋に水を入れ牡蠣をあけた。普通の水にいれるとどうなるのかと見ていると、濃い緑色がはがれ落ちるように薄くなって行った。それと合わせて味も落ちてしまうのではないかと心配になるほどだった。ノルシーさんはヒカリモはおいしいというほどものではなかったと言っていたけど、穴牡蠣にとってはヒカリモとの関係こそが大切なのではないかと思えなくもない。彼らも食べられるだけのために生まれて来たわけでもないだろう。命の交換を大切にしているはず。この世界に無駄な命などひとつとしてないのだから。
 しばらく穴牡蠣の様子を見ているとミリルさんが来て、生ものだから早く料理したほうがいいという話になった。肝心のないないさんはいまだに現れる気配もない。ノルシーさんががんばって獲ってくれたけど、ないないさんの英気を養うことにはならないかもしれない。それなら獲ったところに戻してやった方がいいのかもしれないと思いもしたけど、ノルシーさんの苦労を考えるとそれもできないと思った。
 
 もしかすると、今日の収穫は穴牡蠣ではなくてあの穴そのものだったのかもしれない。そんなことを考えているとないないさんが大きな穴に吸い込まれている映像が突然頭に浮かんだ。ないないさんはいったいどこに行ってしまったのだろう。
 夕方近くになったら、エバンヌに行くことにしよう。お店を開く前にしたほうがいい。もう少し秘密基地の話をしなければいけない。
 
 西の海上には季節外れの積乱雲が見えていた。あの雲が雨を降らす前にノーキョさんは戻ってくるのだろうか。

第32話 ぬめる水 **

「お客さん来たらこの話はなしだからね」
 
 ノルシーさんは相変わらず秘密にこだわっている。それはもうこちらも十分承知している。もちろん穴牡蠣の話ではないけど。
 
「だいじょうぶ、二人だけのときにしか話さないから」
 
「男は秘密基地、女は秘密の花園なんだからね。スイカは切ってみてはじめて当たったかどうかわかるからこそいいわけ。そこにスイカの価値がある。それがわからないんじゃあちょっと困るんだな」
 
「たしかになんでも丸裸じゃあ、面白みはないからね」
 
「わかってくれた? 上質な秘密こそが人生を豊かにし、生きる喜びを与えてくれるのであるってね」

 何を言っているのかよくわからないところもあるけど、秘密がない人間はつまらないということをしきりに力説しているようだ。わからないことがあってこその人生じゃないかということでもあるらしい。とにかく話を合わせないと先に進みそうになかった。
 
「よくわかりました、ノルシー先生」
 
「よろしい。それで話とはなにかね、オルター君」と言うと、こほんと小さく咳払いをした。
 
「実は、大穴のことなんですが……」
 
「結局、君の話というのは例の秘密の話なのだね……」といかにも残念そうな顔をして言うと、ポットのコーヒーを自分のカップに注いだ。
 
「あそこの水なんだけど、穴から湧き出してるようだって言ってたよね」
 
「と、思うけど、それが何か?」ノルシーさんはもったいぶるようにコーヒーをゆっくりと飲んでみせた。
 
「なんでわかるの?」顔を近づけて核心に迫るようにすると、「だって穴に近づこうとすると押し戻されるし、流れに逆らって泳ぐようだからね。でも急流じゃないよ。ゼリーのようなというか、寒天がゆっくり押し出されるような」と言いながら身体をくねらせるようにした。
 
「寒天……」
 
「とにかく、にゅるっと、ぐにゅっと」
 
 寒天の中をのたうつように泳ぐドットトラウトとミドリ鮫をイメージするけど、どうもしっくりこない。
 
「普通の気水じゃないのかな」
 
「神のみぞ知るというやつかな。母なる大地のことは創造主の神に聞けというではないですか」
 
 そんな話は聞いたこともない。だれが言ったのかと聞くと、「ノルシー先生曰く」と言って笑った。
 
「あそこには夜明けまでいたことはないの?」
 
「オルターさん、密猟者に夜明けはまずいでしょ」
 
「それはそうだね」
 
「ヒカリモって持って来られるもの?」
 
「来られるけど、あれ食べてもまずいよ」
 
「食べるんじゃなくて、どんなものか見たくて。夜だけならランプ代わりにならないかとか」
 
「また突飛なことをおっしゃいますね。それはできればおもしろいかもしれないけど。よくそんなこと思いつくもんだね」
 
「じゃあ、明日よろしく」
 
「ちょ、ちょ、また行けと? オルターさん、ちょっと人使い荒くない?」
 
「でも、いっぱい光るのは満月のころだけでしょ?」
 
「おっと、いつのまにそんなことまで。これは侮れないな」
 
「まあ、だてに年をとっているわけではないですからね。年を重ねた人間の神通力とでも言えばいいでしょうか」すべてはお見通しだというような顔で見ると、「高齢術にはかなわないな」と諦めたように言って、しぶしぶ出かけることを承諾してくれた。
 
 そのあともいろいろ聞いては見たものの、結局、ノルシーさんから決定的な情報を得ることはできなかった。特に隠し事をしているようでもないので、ほんとうに穴牡蠣だけが目的で通っていたのだろう。自分のような体験をしてなければ、それ以上のことを考えることもないだろう。
 
 灯台に戻って、今日のことをノートを書き残しておくことにした。
 
***** ノート *****
 
この島の豊かさは水にあることは間違いない。そしてその水は地の底からわき出して、世界に慈愛と滋養を注ぎ込むのだ。ゆるく、ぬめる水が命の営みを支える光りを創造し生きる力を与える。光る鮫と光る魚がその使者として現れるときにその道は現れる。それがどこに続いているのかは誰にもわからない。満月の曇り空の日に光る園に足を運ぶとき、すべての答えが明かされて行く。
 
***** ノート *****
 
 ノートにはあまりはっきりしたことは書かないほうがいいと思っている。日付も書かないことにした。いつだれがどんな目的でこのノートを見るのかわからない。すべてを明かすことが、必ずしもよい方向につながるとは言えない。とくにボルトンのような輩がいることを考えると、どうしても慎重にならざるを得ない。ノート氏のノートの一部の行方がわからないのも、そういうなにかが関係しているのだと思う。
 
 
「こんばんは」
 
 書き終わって机にノートをしまったときにネモネさんが入ってきた。ノートを書いているところを見られたかもしれないと思ったけれど、そのことについては何も聞かれなかった。
 
「お休みされていましたか?」
 
「いや、ちょっと考え事を」
 
 結局、昨日は一睡もしていなかったから眠そうな顔をしていたのかもしれない。
 
「今日、半島に行ったら緑が見違えるよう増えていて」と目を輝かせて言った。
 
「私もね、実は今日見て驚きました」
 
「オルターさん、私思うんですけど、あそこの水のおかげじゃないかと」
 
「あそこの水?」
 
「半島の先の水がとてもいい水っていうあの話なんですけど」
 
「ああ、おいしい水ですね」
 
「それがほんとうに特別の特別なんですよ。もう少し調べてみますけど」
 
「ミーム君の色もですか?」
 
「半島だとそうでもないんですけど、この前船で島を巡っていたら、興奮して海に飛び込んでしまって」
 
「もしかして真っ赤に?」
 
「そうなんです。見たこともない赤色に」
 
「それはヒカリモのあるあたりですか?」
 
「ヒカリモノ?」
 
「あっ、知らなければそれはいいです」

 ノルシーさんと二人の秘密の約束だったことを思い出した。やはりあの半島の先になにかがあるのは間違いない。
 
「ノーキョさんはまだヨットにたどり着いてないですか」ネモネさんは窓から海を眺めながら言った。ノーキョさんのことを心配して来たようだ。
 
「もうそろそろ、向こうに着いてくれないとさすがに心配になりますよね。ヨットの人の状態も心配だし」
 
「なんだかミリルさんも元気ないですし、早く戻って来てくれるといいですね」
 
「そうだ、これノーキョさんが作ったてくれたロウソクなんですよ」引き出しから出して赤い方に火を灯した。
 
「きれいな灯り」
 
「灯りに品質もなにもないかもしれないけど、この光はとてもやさしくて上質ですよね。自分たちでつくったからそう思うだけかな。どう思い……ますか」
 
 ネモネさんに目を向けると、両手を合わせて静かに目を閉じていた。彼女の祈りはきっと伝わるだろう。その願いが聞こえているのか、潮騒が灯台を何度も何度も重ねるようにやさしく包んでは消えていった。
 横になって目を閉じているミームを見ていると、どこからか鐘の響くような音が聞こえてきた。
 
「ああ、インクか」
 
 インクか、という言い方がよくなかったのか、一瞬こちらをみたかと思ったらぷいと横を向いていつもの居場所にごろりと横になった。ミームがいるのに気がついているのかいないのか、気にとめる様子もない。
 
「あら、インクちゃん。元気だった?」
 
 ネモネさんが手を伸ばすとごろごろと喉をならしている。ご機嫌が戻ったようでよかった。この前とちがって今日は首に鐘の形をした鈴をつけている。大きさこそ違うものの、鈴というよりは鐘と言ったほうがいいような形をしている。
 
「きれいな音がしますね」ネモネさんが感心して言った。
 
 それを聞いたインクが「祝宴用の特別の鐘だからね」と言った。自分の耳をちょっと疑いながらもインクの声も聞こえるようになったのだろうかとふつうに思った。そう思うこと自体がふつうではないのだろうけど。
 
「特別の鐘なんだ」とネモネさんがインクに話しかけた。
 
 同じ声が聞こえたのだろうか、それとも同じように感じたということか。不思議に思ってインクの顔に見入っていると、今度は「今夜助かるよ」と言った。
 
「ヨットの人が助かる?」と思わず問い返すと、ネモネさんがこちらを向いて「え? 助かったんですか?」と聞いて来た。
 
「あ、いや、インクがそう言ったかと思って」
 
「そうですか。満月の夜ですしね。今夜はなにか起きてもおかしくないですよね。お祈りが届くかな」
 
 その後インクが何かを話すことはなかった。


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