目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
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第18話 魚拓のドット

 食事が終わったところで、ミリルさんといっしょにノーキョさんのお店を訪ねた。
 
「いらっしゃい。ようこそ蝋燭研究所へ」ノーキョさんの明るい声が出迎えてくれた。
 
「あら、今度は蝋燭研究所なんですね」
 
「ノーキョさんは多芸だから、休む間もないね」
 
「多芸というか生物関係の知識の範囲でしかないですよ」謙遜して照れ笑いをしている。
 
 ノーキョさんのお店は雑貨屋のようでもあり、実験室のようでもあり、はじめてきた人は誰もがその店構えを見て戸惑う。実際、値札のついた商品が並べてあるわけでもないのでお店ということ自体が無理なのだ。お店には見えないのだけどおもしろそうなものがいろいろ並んでいるから、かえってみんな気になって仕方ない。
 
「この島にいると、なにからなにまで珍しいことばかりで、やることがなくなるなんてないですよ。僕にとってはウォーターランドはワンダーランドですから」
 
 室内はその言葉を裏付けるように、植物の種や苔の壜詰、使い道のわからない粉や液体、作りかけの道具などが所狭しと置かれている。機械類はスロウさんが作っているものも多いのかもしれない。ここは二人の遊び場でもあるのだろう。
 
「あ、これがローソクの元ですか?」床に置いてあった白い固まりを見ていたミリルさんが言った。
 
 そうですよと言うと、ノーキョさんは大きな鍋に蝋の固まりを入れて火にかけた。部屋の角にはかごに入ったシロノキの実も置いてあった。
 
 たくさん集めたものだと感心して覗き込んでいると、島に詳しいコピが集めてきてくれたものだと教えてくれた。コピもすっかりノーキョさんの遊び友達だ。
 
「ノーキョさん、こちらの葡萄草の実も材料になるんですか?」
 
「ああ、それは赤いほうの色をつけるのに使おうかと」そう言うと一粒指先でつぶして見せてくれた。思ったよりは黒に近い赤だった。葡萄草の実は食べるものだとばかりと思っていたけれど、知恵さえあれば使い道はいろいろあるものだ。

「これがミリルさんと相談してつくった灯台の木型です」ノーキョさんがテーブルの下から取り出しながら言った。
 
「ほんとだ。うまくいくといいな」思っていたとおりの出来上がりだったのかミリルさんもうれしそうだ。
 
 話しているうちに鍋のぐつぐつ煮える音が聞こえてきた。蝋がとろとろになったところで木型に流し込むのだという。
 準備ができるまで手持ちぶたさだったので、ゆっくり見たことのないノーキョさんのお店を眺めていると、額装された魚の魚拓が壁にかけてあるのに気がついた。理科の先生は何をやらせても器用なものだ。
 
「ノーキョさん、よかったら今度跳魚釣りでもご一緒しませんか」釣り友達になれるかと思って誘ってみた。
 
「僕はもっぱら研究のほうなので。足手まといになるといけないですから。それは少し前にスロウが海で釣り上げた魚なんです。見かけない魚でしょ」
 
 言われてみるとこの辺りで見たことのない魚だった。きれいに取れている魚拓を手に取って見ていると、ミリルさんが首を傾げている。
 
「どうかしました?」
 
「なんだかあの魚に似ているような」
 
「え、あの魚って」
 
 改めて魚拓を見て、一瞬自分の目を疑った。黒一色だったのでわからなかったけど、あごが少し大きくなっているところを除けば紛れもなくあのドットトラウトそのものだった。魚拓では出せなかったのか、ドットの柄を手で書き足してある。ノイヤール湖にしかいないと思っていたのに、まさかここで同じ魚を見ることになるとは。ノートの主がここまで魚を運んで来たとは思えないし、鮭の仲間なら降海してもおかしくないということだろうか。そうだとしてもここはノイヤール湖から下って来られるような距離なのだろうか。鱒といよりもウナギの生態に近いような魚をイメージしてしまう。何がどうなっているのかまたわからなくなってきた。
 
「これはノーキョさんが魚拓に?」
 
「スロウから頼まれたので。素人仕事なんですけどね。形だけでも残しておきたいと言われて」
 
「きれいな魚だったらしいですよ」ミリルさんは前から魚拓のことを知っていたようだ。
 
「スロウは発光するような模様を見て、深海魚の一種なのかもしれないって言ってましたね。勝手に光魚って名前をつけてましたよ」
 
「もしかすると、スロウさん、水の本を見てこの魚と同じだと思ったのかもしれない。それでメーンランドに行くことにしたのかも」
 
「なるほど、スロウだとやりかねないな」ノーキョさんが顎に手をあてて言った。
 
 スロウさんが夢で見た湖の名前に興味を示したのもこれが理由だったのかもしれないと思うと、あのときの会話も納得がいく。
 
「実はこの魚、夢の中にも出てきたんですよ」みんなとの距離を縮めるためにもいいタイミングかもしれないと思って言ってみた。
 
「この魚も夢に? あのなんとか湖にですか?」ミリルさんがまた困惑したような顔をした。
 
「あれも正夢だったということかな」
 
「オルターさん、ほかにも夢で見たことありますか?」ノーキョさんも、さすがにおかしいと思い始めたようだ。
 
「船長とかもね出てきましたよ」と言うと、ノーキョさんとミリルさんが顔を見合わせて、やっぱり普通の夢なんだと納得したように笑った。
 
「夢の話はそれとして、スロウはこれをどこでつかまえたんだろう」ノーキョさんはそこだけでも聞いておけばよかったとちょっと後悔しているようだ。
 
「もしかしたら、海の底にたくさんいるのかも」ミリルさんが好奇心でいっぱいの目をした。
 
「それならもっと見つかってもいいはずですよね」と言うと、ノーキョさんが「みんな跳魚と思い込んでいただけかもしれないな」と言った。
 
 言われてみるとどこか跳魚に似ている気もする。島の周辺にいると思っていたのは跳魚ではなくてドットトラウトだったのだろうか。もしかすると船長が釣竿をくれたのはそれを知りたかったからかもしれない。ミドリ鮫ばかりに気を取られていたけれど、実はドットトラウトこそが秘密の鍵を握っているとしたら……ノートにはドットトラウトとわかる記述はないけれど、それこそが行方のわからない残りのページに書かれていたことと考えられなくもない。
 
「魚の話はこれぐらいにして、コピちゃんも待っているのでローソクのほうをそろそろ」いつも冷静なのはノーキョさんだ。蝋の具合を確認するようにかき混ぜながら言った。
 
 こちらは頭の中がドットトラウトでいっぱいで、ローソクを作っていたこともすっかり忘れていた。
 
「コピちゃん、手伝って。私は芯を入れていけばいいですね」
 
 ミリルさんの手際のいい作業もあってローソクが次々にできていく。シロノキの実もたくさんあるので材料にも困ることはないようだ。
 
「そちらのほうまでできたら、オルターさんご希望の赤い色をつけてみましょうか」ノーキョさんはローソクがテーブルの端まで並んだのを見て、葡萄草の実から採ったという染料を蝋に混ぜた。
 
「ほんとにきれいな赤になりますね」ミリルさんが感心したように言った。
 
 赤い灯台も夢に出てきたことを言ってみようかと思ったけど、これ以上みんなを混乱させるのもどうかと思いやめにした。今日はみんなでつくるローソクを心ゆくまで楽しむことにしよう。
 
 3人が赤いローソクを作っているのを見ながら、こちらのほうはドットトラウトに出会うことを期待して、海釣りをする場所はどこがいいかを考えていた。

第19話 幻の釣り

 翌日は、少し雲が多いぐらいで、釣りをするのに悪くない日和になった。潮も高くなっているので、ふだんより大きな魚がいそうな気がする。ちょっと様子を見に来たというアグリさんがとなりで仕掛けの準備をおもしろそうに見ている。
 
「オルターさんのその竿はどこで手に入れられたんですか?」
 
「船長からのプレゼントなんです」
 
「そうなんですか。船長、プレゼントなんかしそうにないけどな」と言って笑った。
 
「ほんとは釣りでもしてゆっくりしたいのは船長自身なんでしょうけど」
 
「ああ、それならわかる気もします。自分ができないから島のだれかにというわけですね」
 
 竿の話をしているうちにノーキョさんも釣果が気になってきたらしく、そのまましばらく付き合ってくれることになった。
 
「まさに幻の魚探しというところですね」と言うと、またひとつ島にいる楽しみがふえましたと言いたげに何度か頷いた。
 
 ドットトラウトがこの島にいると思うだけでなんだか楽しくなる。コピ以外に見た人のいないミドリ鮫に比べれば、魚拓のあるドットトラウトのほうがはるかに現実性のあるロマンだし、シーラカンスのような話もあるから、夢のままでは終わらない。この手つかずの自然環境があれば絶滅という心配もないだろう。
 とはいうものの、夏も終わりになると羽虫も少なくなるから、跳魚もそろそろ釣れなくなってくる。釣りのできる日もあとわずかと思うと、次の春まで待ってはいられないという気にもなる。
 
「それで、餌のほうは何を?」
 
「餌……」
 
 言われてみてはじめて気がついた。跳魚と同じ羽虫の疑似餌ではだめかもしれない。コノンさんのお祖父さんは投網を使っていたから餌は何がいいのか聞かなかった。
 
「問題はそこからでしたね」と言うと、二人で大笑いになってしまった。
 
 スロウさんが釣りをしているという話を聞いたことはないから、やはり偶然何かに引っかかったとか、別の仕掛けに入っていたとか、そういうことだったのかもしれない。
 
「オルターさん、どうします?」さすがのノーキョさんもこればかりは手の打ちようがないという顔をしてこちらを見た。
 
「考えてもしかたないから、とりあえず疑似餌のままでやってみることにしましょう」そういうより他になかった。だめなら別のものを順番に試していけばいいと思った。跳魚のときも最初はそうだった。
 
 岸からの釣りといっても、さすがにいつものチャルド川とは違う。はるか彼方まで広がる海を前にしてみると、岸の近くにドットトラウトがいるとは考えにくい。投げ釣りでないと、魚の方も餌を見つけられないかもしれない
 
「釣れますかね」ノーキョさんも期待していいものかどうかさすがにはかりかねているようだ。
 
 とろんとした海に疑似餌が頼りなげにゆらりゆらりと漂っている。選んだ場所が内海のようになっているところだったので波もほとんどなかった。小魚の魚影が見え隠れしていたけど光り輝くドットトラウトの気配は感じられなかった。
 しばらくつきあってくれていたノーキョさんも、さすがに期待薄とみたのか用を思い出したと言ってお店に戻ってしまった。
 
 ふわりふわりと白い羽毛が波間を漂うのを見ていると、世界の広さと、自分の小ささをあらためて感じる。小刻みに震えている羽毛の動きが自然とひとつになっていることの証のようにも見える。風に吹かれるままに右へ左へと動く様は自然に身を任せて、翻弄されているようでいて、これが無限に広がる自由そのものということなのかもしれないとも思う。
 目を閉じると羽毛と同じように、はてしない世界に放り出されているような気分にもなる。何かに翻弄されているのかいないのかさえもわからない。ただ、言えるのはそこにいるということだけ。いるだけで自然の一部となり、自由であることを許される。
 
 ぼんやりと羽毛を見ていると、白い綿毛が逆光の中で霞んで見える。魚に相手もされない姿はなんとも言えない気持ちになる。
 
「ソダーさん……」
 
 ソダーさん……また、あの声がだれかを呼んでいる。どこかで。
 
「オルターさん……」
 
 女の人の声だ。ジギ婆さんだろうか。コノンさんかもしれない。
 
「だいじょうぶ……ですか?」
 
 また、ちがう世界に呼ばれて行くのだろうか。
 
「こんなところで寝てると風邪をひきますよ」
 
「あ、ネモネさん…… 」
 
 打ち寄せる波を見ているうちにうとうとしてしまったようだ。羽毛を探すと岸のすぐ近くまで打ち寄せられていた。
 久しぶりに見たカバ君はピンクで元気そうだ。オールドリアヌで見た熟したような真っ赤よりこのぐらいのほうがかわいくていい。
 
「今日は海釣りなんですね」
 
「幻の魚を求めてとでも言いますか」
 
「幻の?」
 
「そう、幻の、ノーキョさんのところで魚拓になってる魚」
 
「そうなんですか、楽しそうですね」
 
「水の本にも出てますよ」と言うと、ちょうどミリルさんのところに行くところだったらしく、見てきますというとカバくんととことこと行ってしまった。どうやら女性は釣りにもロマンにもあまり興味がないらしい。

第20話 夕立

「オルターさん、これどうですか」 
 
 しばらくして戻って来たノーキョさんは手製の竿を持っていた。あり合わせの材料で竿をつくってきたという。
 
「さすがノーキョさん。ご自分で?」
 
「自分でと言っても、枝と細工用の糸を結んだだけです。餌になりそうなものも適当に見繕ってきましたよ」
 
 竿もないのに釣りに付き合ってくれていたんだと思うとちょっと申し訳なく思った。船長にもらった竿を使ってみませんかと勧めてみたけど、初心者には手製の竿で十分と言って聞いてくれない。こういうところがノーキョさんの好かれるところなのだろう。
 
 ノーキョさんの手製の竿はとても長く、かなり沖の方まで餌を飛ばすことができた。ちょっと目を離すと餌を見失ってしまいそうなほどだ。日が傾きはじめていたので、水面のきらめきがよけい餌を見にくくする。ノーキョさんは若いから目もいいのかもしれない。そう思って一層目を凝らして見ていると、竿の先がほんの少ししなったように見えた。
 
「あれ、何かがかかりましたよ
 
 糸の先の疑似餌が見えなくなっている。
 
「いきなり、幻の魚ときましたか?」
 
「そうならほんとうにビギナーズラックだ」うれしそうに竿の先を上げた。
 
「ノーキョさん、ゆっくり、ゆっくり、あわてないで」
 
 竿を引きながら後すざりしていくにつれて魚影がぼんやりと見えてきた。岸の近くまで来たところで網を使ってすばやくすくい上げた。
 
「どうすでか? 幻の光魚でしたか?」ノーキョさんが駆け寄って来た。
 
「おお、これは! なんと!」
 
「なんと、どうでしたか?」
 
「まさにあのおいしい跳魚です!」
 
「え、跳魚?」
 
「でした」
 
「なんだ、オルターさんも人が悪いな。光魚が釣れたかと思いましたよ」と言うとノーキョさんは気が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
 
 さすがにいきなりドットトラウトと言う訳にはいかなかった。釣りなんて釣れないのを楽しむようなものですよと慰めると、ノーキョさんはやっぱり僕は魚拓を取っているのがあっているのかなと言って笑った。
 
 そのあとも、ノーキョさんが用意して来てくれた餌をいろいろ試してみたものの雑魚さえもかからないままに時間だけが過ぎていった。
 
「こういう風になにも釣れないままに、自然と戯れるのもよくてね」
 
「そういうものなんですかね。まあ、間違いなく自然あってこその遊びですよね。この島にはぴったりかもしれない」
 
 しばらくするうちに光魚のことはどこへやら、ミリルさんのことで話が盛り上がってしまった。ノーキョさんもミリルさんには頭が上がらないのだという。頭が上がらないもの同士で、ミリルさんは長女に違いないとか、世話焼きな性格なんだとか、都会育ちだとか勝手なことを言いあっていた。釣れない時はたわいもない話で時間をつぶすのも一興なのだ。
 
「お待ちかねの手紙が来ましたよ」
 
 後ろからミリルさんの声がした。ノーキョさんと思わず顔を見合わせた。ミリルさんは二人で仲良く何の話をしているのかしらと言うと、丸まったロールレターをこちらに差し出した。もしかして聞かれていたならますます頭が上がらなくなる。ノーキョさんもまずかったですねという顔をしている。
 
「ちなみに私は一人っ子ですけど」ミリルさんが言った。
 
「あ、そうでしたか。そうですよね。そう思ったんだよな」ノーキョさんが珍しくしどろもどろになっているのがおかしい。人ごとではないのだけど、こちらは慣れたものだ。
 
「もしかしてこの前来た黒服のボルトンからですか?」と聞くと、「お待ちかねのスロウさんからですよ」と普段と同じミリルさんの笑顔で返事が返ってた。目でノーキョさんに大丈夫というサインを送った。
 
「やっときたな。スロウは元気でしたか」地面に寝転がっていたノーキョさんが腰を起こした。
 
 キレイナ ミズウミ アリマシタ
 
 これは自分が向こうで書いた手紙ではないだろうか。湖のことを書いたのは覚えているけどはっきりと文章までは覚えていない。
 
「元気そうですね。この手紙、ネモネさんはもう見ましたか?」
 
「さっき会ったので、向こうにもきれいな湖があったようですよって伝えましたけど、何かありました?」
 
「ネモネさんは何も?」
 
「すごく行ってみたいって言ってましたよ」
 
「こちらよりもきれいな水なんですかね?」ノーキョさんが言った。
 
「そりゃあもう、とびきりきれいな湖ですよ……あ、夢ではね」
 
「オルターさんの話はみんな夢の話なんだから」
 
「まあまあ、ミリルさん。楽しい夢はたくさん見れた方がいいということで。それでスロウは元気そうですか」今度はノーキョさんに助けられた。
 
「自分のことは何も書いてないから、きっと大丈夫でしょう」
 
「空の雲行きがあやしくなってきたから私は戻りますね。お二人も雨に降られないように」そう言うとミリルさんは早足でリブロールのほうに戻って行った。
 
 二人でなんとかやり過ごせましたねと言って笑っていると今度はこちらの竿の疑似餌が波間に引き込まれた。あわててリールで糸を巻き取ると小さい跳魚が糸の先でジャンプしたかと思うと、するりと針をはずして海の中に逃げ帰って行った。
 
「あれも跳魚でした?」
 
「光魚ならもっと光っているでしょうから」
 
「満月の日はだめなんですかね」
 
「とりあえず、日の落ちる夕暮れぐらいまで頑張ってみますか」
 
 そのあと二人で1時間ほどいろいろ試してみたものの、結局目指す獲物に出会うことはなかった。川では愛想のいい跳魚も、海ではなかなかつれない態度で二人の釣り人はなかなか楽しませてもらえなかった。
 
 釣果のないまま帰り支度をしていると、真っ黒な雲が急に空を覆い突然土砂降りになった。この次期にはよくある夕立だ。仕方がないので近くにあった行方のわからなくなっているないないさんの家の軒下で少し雨宿りをさせてもらうことにした。
 石造りのこの家はおそらく島でももっとも古い構造物のひとつで、漁師が漁具の置き場としてつくったものではないかと言われている。人が住むにはちょっと小さすぎる。
 
「まいりましたね。でも、夕立ですぐに止むでしょう」
 
「急ぐわけでもないからゆっくり雨音でも楽しみましょうか」と言うと、ノーキョさんは小さく頷いて空を見上げた。
 
 雨音を聞いていると、吹く風に合わせて草花の歌声が聞こえてくる。ノート氏が書いていたように天に向かって喜びの歌を輪唱しているようだ。揺れる葉のこすれあう音があたかも歌っているかのように聞こえるのかもしれないけど 、それでも自然の奏でる愛しきセレナーデであることには違いない。
 
「あ! 」と突然ノーキョさんが声をあげたと思ったら「枕とシーツを干したままだ。オルターさんまたです」と言うなり、上着を頭にかぶって雨の中を駆け出して行った。
 
 せっかくの天日干しが台無しだ。今日は運に見放されている日なのかもしれない。
 
 ノーキョさんが行ったあと一人で地面にできた水たまりに落ちる雨の波紋をながめている真っ黒だった空に少し明りが射しはじめた。それに合わせるようにして雑木林にミルク色の霧が立ちこめて来た。ノーキョさんが家に着いたころには雨はほとんど上がってしまうだろう。
 少し寒くなってきたので、失礼して家の中に入らせてもらった。閉じた薄暗い家の中で雨の音を聞いていると、時間が流れているのか止まっているのかわからなくなる。時間の経過を忘れさせてしまう空間だった。何百年も前、ここに誰かが同じようにいたかもしれないと思うと壁に積み上げられた石の一つ一つに存在感を感じる。オールドリアヌにハロウさんが残した石の家を訪ねたときのことを思い出した。形を変えない石には時間を消し去る力があるのかもしれない。
 雨はしばらくやみそうになかったので、ベッドで少し横にならせてもらうことにした。目を閉じると、止みかけの雨の滴がまた時を数え始めた。
 
 
 雨音に耳をすませていると、どこからか聞いたことのある声がした。
 
「いやはや、こんな天気見たこともない」
 
 同じように雨に降られてしまったのだろうか。
 
「何かの罰でも当たったのかな……ぶつぶつ」
 
 窓から外を見ると雑木林のほうからこちらに向かって来る人影があった。どうやら独り言を言っているようだ。道にでも迷ったのだろうか。傘も刺さずにずぶ濡れになって歩いている。
 
 足音が家の前で止まると無造作にドアが開けられ、挨拶もなくいきなり一人の男が入って来た。
 
「あれ、オルターさん。会えてよかった。ほんとにほんとに」
 
 目の前に現れたのは行方の知れなくなっていたあのないないさんその人だった。

第21話 再会

「ないないさんじゃないですか! どこにいらっしゃったんですか? そんなずぶ濡れになって」
 
「オルターさんこそ、私の家で何をされているのですか?」
 
「あ、ああ……これは失礼しました。ちょっと雨宿りさせてもらいに」
 
「なるほどなるほど。急な雨でしたからね。釣りの帰りですね」竿を持っているのに気づいたようだ。
 
「あの、ないないさんは?」
 
「とにかくとにかく、オルターさんにここで会えて良かった。それにしてもこの冷たい雨には参りました」
 
 どうも状況が飲み込めない。どこかに行っていたというのだろうか? ボートで帰ってきたということでもなさそうだ。
 
「食べかけていたパイも台無しです」形もないほどに崩れていたパイを残念そうに見た。
 
「あの、食べかけのと言うか、もう何ヶ月もたっていますけど……」
 
「え、さっきまでパイを食べてましたが、あまり変なこと言わないでください」と困惑した顔で言った。
 
「ないないさん、どこかに出かけられてました?」
 
「ちょっと思い出したことがところがあって、なくした枕を探しに行っていただけですけど。どうも道がよくわからなくて……なにかありましたか?」
 
 ないないさんの中ではまるでこの数ヶ月の時間がなかったかのようだ。
 
「もし良かったらいっしょにお茶でもいかがですか」
 
「あ、ごめんなさい、勝手にベッドまでお借りして」あわててベッドを立った。
 
 あまりのさりげなさにこちらの方が戸惑いを感じてしまったけれど、せっかくのお誘いだったので遠慮もしないでそのままごちそうになることにした。ないないさんの家は以前違う人が住んでいたところで、一人暮らしの調度品がぎりぎり入る程度の広さだった。二人も入るとベッドの場所を除いてほとんど隙間がなくなってしまう。
 
 ないないさんは濡れた洋服を脱ぐと、寒い寒いと言いながら袖のない夏服を着ようとしている。
 
「もしかして……夏服しかお持ちにならなかったですか」心配になって聞くと、「夏にしては今日の寒さは変ですよね」という答えが返ってきた。
 
 その時、もしかしてないないさんも違う世界に迷い込んでいたのかもしれないと思った。
 
「今、お茶を入れますから」と言うと、薪のコンロに使い込まれたポットをかけた。
 
 あまりの寒さに手が震えて、何度やってもマッチを上手く擦れないようだ。マッチが湿っているのかもしれない。
 
「上着を着た方がいいですよ。風邪をひきます」
 
「ほんとにほんとに、ここは夏でもこんなに寒くなるとは思いませんでした」まだ、夏だと思い込んでいる。
 
 マッチを受け取って火をつけた。ないないさんは部屋の角にまとめてあった大きな荷物をひっくり返して秋物の服を探している。
 
「この島の雨は本当に一瞬で天気を変えてしまうんですね。スコールよりもずっとすごいです。とにかくとにかく驚きました」
 
「外で何かをされていたんですか?」
 
「枕を探しに林のほうをみていたら無性に眠くなって。木陰でちょっとうとうとしたらこんなことに。眠り茸でもあったのでしょうか」
 
 仮にそういうキノコがあったにしても、いくらなんでも何ヶ月も眠れる人なんていない。間違いなく違うどこかに行っていたと確信した。きっと、本人も何が起きたかまだわかっていないはずだ。変な夢を見たと思っているのだろう。まちがっても違う世界に行ったなんて言うはずがない。
 こちらは、早く別の世界に赤い灯台がなかったかと聞きたいところだけど、まずは落ち着いて疲れを取ることが先決だろうと思った。
 
 ないないさんが、いつも使っていたコップもなくなったのでと言いながらコーヒーをお椀のようなものに入れてくれた。少しこぼしてしまったのは寒さではなく、まだ目の焦点が定まっていないからだろう。コップを持つ手も頼りない。
 
「ほんとにほんとに、こんな狭いところで」こんなときでも気遣いを忘れないところがないないさんらしい。
 
「横になって寝た方がいいですよ。お疲れのようだ」
 
「いえいえ、ご心配なく。それよりもそれよりも、今はオルターさんがいてくれたほうが……ありがたいです」
 
 何かに怯えているようにも見える。向こうで怖い思いでもしたのだろうか。まだ少し震えている手を両手で包んであげると、にっこり微笑んで、ほんとにほんとにすいませんと手の暖かさを噛みしめているように頭を何度も下げた。
 
 窓の外を見ると雨が少しおさまってきた。秋の雨音は心に染み入る。夏の終わりとともに過ぎ去ったものたちからの惜別の歌のようだ。
 
 気がつくと、ないないさんが目を閉じて首をうなだれていた。そのまま横にして、毛布をかけてあげた。きっと今夜はこのまま目を覚ますことはないだろう。明日あらためてここに来て、体調が良さそうならゆっくりと夢の話を聞かせてもらおう。
 
 夢のことを想像していると、ないないさんが寝返りを打って、ここはどこなんでしょうと言った。はっきりした寝言だった。何か答えてあげたい気がしたけど、言葉にならなかった。実際答えようもなかった。
 ここがどこであれ、わかっているのは、いなくなっていたないないさんがここに戻って来たということだ。みんなどこかに行って、みんなここに戻ってくる。それがウォーターランドというところなのだ。
 
 耳を澄ますと、水滴が水たまりをはじく音が聞こえる。林のほうから鳥の鳴き声も聞こえた。夕立も去ったのだろう。
 
 ドアを開けてみると、赤い満月が雲の切れ間から顔を出していた。振り返るとないないさんが穏やかな寝顔で小さな寝息を立てていた。

第22話 赤色の宴 *

***** ノート *****
 
島もすっかり秋の空気に変わった。自然の移ろいには誰も抗えない。その一部となれたものだけがこの土地に生きることを許される。今日は大きな発見をした。この島にも光る魚がいたのだ。どこから来たのかわからないけど間違いなくここにいる。ミドリ鮫との関係についてははっきりはしない。彼らは同じ世界に生きるもののようにも思える。その世界はこの島のどこかにあるのか、別のどこかなのかもわからない。長い間行方の知れなかった人にも再会できた。その人は自分の記憶が途切れてしまっていることにまだ気づいていない。記憶も時間も幾重にも重なり断裂しながら繰り返す。
 
***** ノート *****
 
 リブロールに戻ったけれど誰もいなかったので、灯台に来て引き出しの底板の下に隠しておいた新しい方のノートに今日のことを書き残しておいた。
 
 ないないさんのところからの帰り道は赤い満月が暗い夜道を照らした。景色がまるで赤いフィルターをかけた写真のようになる。世界が動くときには必ず赤色満月が出ている。これは偶然ではないだろう。雨が降った前後の赤い満月の夜には何かが起る。ジギ婆さんのころからずっと同じなのだ。
 
 もしかしてと思って窓から外を見ると、灯台の明かりが照らす海に大きな鮫が見えた。じっとこちらを見ている。あの目は何を語っているのか。帰りの時を知らせているのだろうか。わからない……もしかするとないないさんはあの鮫といっしょに帰ってきたのかもしれない。
 何かが足にぶつかったと思ったら、インクがくるぶしのあたりに身体を擦り寄せていた。彼らはいつも手が届きそうでいて、手を伸ばすとするりといなくなってしまう。
 灯台の下にボートがあるかもしれないと思い、急いで岩場を下りてみたけれど、そこには波が打ち寄せているだけだった。見送りのときにスロウさんがボートを使ったことを思い出した。ボート乗り場に戻したのかもしれない。すぐに鮫のいた場所に目を戻したけれど、そこにはピンク色に浮き上がる大きな波が打ち寄せるだけだった。
 振り返ると赤い月がとろけて落ちてしまいそうなほどに艶かしく輝いていた。まるで飴玉のように幻想的な色だった。まわりを取り巻く星たちも月の美しさを褒めそやすかのように、ひとつひとつがいつもの倍ぐらいの光を放ち赤色の祝宴を祝っている。赤の世界に極上の宝石が燦然と輝く時間は短かい。突然そのときはやってきて、まるでガラス細工が砕け落ちるように赤の世界は終焉を迎える。
 
 しばらく諦めきれずに海を見ていたけれど、二度と鮫をみつけることはなかった。鮫の現れる日に誰かが戻って、誰かが消える。今日はないないさんが現れた。別の誰かが消えたのかもしれないと思った。
 
 インクが大きなあくびをした。ドットトラウトがいようがいまいが、ミドリ鮫が現れようが消えようが、なんの問題もないと言っているようだ。何色の灯台だろうが気にする様子もない。それが彼の住む世界なのだから。
 
「インク、おまえはどこから来たのかな」
 
 首のあたりをさすってやると、いつもはつけてない赤いリボンが結ばれているのに気がついた。
 
「これはかわいいリボンをつけてもらったね」
 
 きれいに結び直してやると、野良猫とは思えない赤色の宴にふさわしい装いをした紳士に見えてきた。
 
「今夜はおめかしして月の宴にお出かけかな」
 
 上目遣いでこちらを見る目が、今日は特別の日だから盛装でいないとだめだよと言っているような気がした。
 
 
 次の満月の前には雨が降るだろうか。雨が降ればそのときこそ出迎えのミドリ鮫が現れるかもしれない。


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